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昭和56年12月10日 第142号 政 - s3-us-west-2 ... · 昭和56年12月10日 第142号 “ 連 帯 ク の ワ レ サ 委 員 長 、 ハ ー ド ス ケ ジ ュ ー ル の 今

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昭和56年12月10日 第142号

“連

帯ク

ワレ

サ委

ード

ケジ

ルの

今年も

ただ

一年

でし

た。

クラブ

の企画

の仕事

にたず

って

う四年

にな

ります

、年

に忙

しさが増

てゆ

うな

日本

とり

まく

いう

より

まん中

にと

こまれ

た形

の世

の揺れ

が大

って

いる、

ことな

ので

ょう。

五月

にや

って

ーラ

ソド

せいと

いう

より、背負

って

いる責任

と困難な役割

の疲れを全

ませながら

、精

いっぱ

いに質問

に答

えてくれた

のが

印象的でした。

アラ

ファトPLO議

長は、

サダ

・エジ

ト大統領

暗殺

の直後だけ

にガード

が大

へん

で、プ

レスセソタービ

ルの

内外

には千

人近

い警備陣が配置され

ていました。何

か落ち

つかな

い雰囲

を気にさ

れた方もあると思

います

が、今

のような情勢

のなかでは、時

にはこの種

の不便をガ

マンして頂く

こともあ

るかも

しれません。

今年は、

ニエレレ

・タソザ

ニア大

統領を皮切

マルグレーテ豆世

ンマー

ク女

王、

ワルト

ハイ

ム国連

企画委員長

ストを

立往

る質

問を

拡大続くクラブ行事

事務総

長など九人

の国

・公賓をはじ

め多く

の賓客をクラブ

にお迎えしま

した。

は、そ

のたび

にプ

レスセン

ター内

の通行を制限したり、

目付き

の鋭

い人

たちが多数入

ったりして、

ルの

一般

“居住者”

にご迷惑を

かけ

ています。そこで、八月二十

日に新

い試みとして

「オープ

ハウ

ス」を

て、そ

の方

々に

クラブを開放しました。

せめても

”罪

ほろぼ

し”のつもり

でしたが、

大変好評な

ので機会をと

らえ

てまた

行いた

いと思

います。

年来

の課題である、会員

にな

って

いな

い、若

ワーキング

・ブ

レスの

諸君…の

クラブ行事

への参加や

クラブ

施設

の利用

にも、

こうし

た試みを取

り入れ

て、進めてゆきた

いと考えて

います。

いいチエがあ

ったら教えて

下さ

い。

手前

ソで恐縮

ですが、今年

から

はじ

めた

「ネ

コにもわかる新技術」

は大好評

です。新しく企画委員

に加

纂142号

1981年

12月10日 発 行

京都千代田区内幸町

ニノニノ

レスセンタービル9F

⑰㎜

.社団法人

日本

記者クラブ

五〇

三-

二七一=

(代)

って下さ

った村野賢哉、本島

宏さ

んら

”科学

に強

い”人たちのアイデ

アと努力のたまも

のですが、流行

”な

めんなよネ

コ”

のおかげなどで

はなく、まさに新技術

への会員諸氏

のあくなき好奇心と

。好学”心

のあ

らわれというべき

でしょう。

さて最後

に1

質問

と、相変

わらず

です。オープ

γの記者

会見

ではホントのことは言

いっこな

い、

という日本型記者会見のあ

る種

の現実と偏見、それとわれわれ

日本

の例

“奥ゆ

かしさ”のせ

いでも

りましょうが、時

には手をあげ

いる

のは外入ばかり、と

いう

ことさ

えあります。

まり質問がな

いと失礼な

ので、

国賓

の場合など事前

に質問を集

めて

いて

「代表質問」

にしたらと

いう

さえ出ていますが、それは自ら手

をしば

ることです。

司会者をではなく、

ゲストを立往

させる質問を、

いう以外に、企

画委員

にも解決すべき

チエはあ

りま

せん。

(サソケイ新聞東京本社

取締役編集局

長)

(1)

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昭和56年12月10日 第142号

H新聞に政.治漫.画を描きはじ

めて三十

一年になる。

つて描い

た古

い政.治家はほとんど故人

にな

ってしま

った。

田、

片山、

田、鳩

山、石橋、池

田、佐藤、大

の各首相達であ

る。現

に健在な

のは岸、三木、隔

田の元首相、そ

ロッキード事件

の田中元首相

だ。吉

田さんと鳩山さん

は政治漫画

が好き

であ.った。二人

ともイギリ

宀洋

スの政治漫画家、デ

ヅド

・ロー

の絵

ほめていた。吉

田さんが講

和条約締結でアメリ

に出かける

日前、芝白金にあ

った外相公邸

で、

一時間近く私と

のイ

ンタビ

ーに応じてくれたが、

世界

の政治

漫画

にくわし

いのにおどろ

いた。

スのチャーチルが

ローの漫画が

好き

ったらし

いので、

チャーチ

の吉

田さんも

ローの漫画が好き

にな

った

のだろう。

二次大戦中、

ローは

ヒトラー

を小気味よく風刺

した。

ローの漫

の人気がすご

いので、当時

ローの

には

ヒトラーが賞金

をかけている

いう墫まで聞

いたくら

いである。

戦後

(昭和二十八年

一月)に東京新

の招待で

ローが

日本

を訪れた時、

帯}国

ホテルで日本

の漫画家達と会

たが、

ナチスを痛烈に斬りまく

った

とも思えない、

一見好

々爺とみえ

る風

貌であ

った。

和三十四年、私が「毎

日」から「吉

た。津

さんは憎

いや

つほど鄭重にす

る人なのだろうと思

い、簡単

に消え

ることはある

まいと、内心ゾ

ッと

した。

首相にならな

い脇役で、絵

にし

画白

かったのは保

守党で

睦、広川弘禅、

三木武吉、苫米地義

三氏などで、野党

では共産党

の徳

.、社会党

の浅

沼稲次郎氏であ

た。広川弘禅氏

の朝食会

度出た

ことがあ

った。座敷

に硯

の蒐集品が

ころ狭

しとば

かり並

てあ

が、逸品と

いう

ほど

のも

のはなか

たようだ。

大野伴睦、林譲治

、和

田博雄氏

は俳

句が好きで、別冊文芸春秋の句会

々顔を合わせた。三人

の中では林

政治漫画家裏日記

っておき

の話

田から岸

へ」と

う政治漫画集を出

した時、漫画

のモ

ルにした主な人

々に本

が、吉田さ

んから

返事は

が、散々肴

にした

岸さんからは自筆

で封

書の礼状がぎ

氏が格段

にう

まか

った。大野氏

選句となると母を詠んだ句

には、

句がうまかろうがまずかろうが必

一票

入れる

ので有名だ

った。母

の話

になると涙をう

で、よほど親

いの人だ

ったのだ

ろう。

政治漫画をや

っていると、政治

や経済人

の顔

を沢山描く。私も

でに数千人

を描

いた。顔を沢山

いていると、人相見みたいにそ

の人の気性

や頭脳

の内容が分るよ

うにな

ってく

る。

つまり内容

の豊

かさや品性

の高

い人はおのず

と顔

に出てく

る、と

いう

ことだ。最近

政治家が小粒

にな

った。

つまり大

物がいな

いと

いうことは、立派

顔がいなくな

ったということだ

理解している。

戦前戦中

一流

の政治家

の顔を

見ると、戦後

、特

に最近

の政治家

とは大変な違

いである。頭

の中味

の違

いもさる

ことながら、命を

けていると

いう厳

しさの違

いであ

ろうか。善

いことをしても悪

いこ

(2)

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昭和56年12月10日 第142号

とをしても殺された時

代だ

った。

昭和十

一年

の二・二六事件

の頃、

私は

「日本少年」に連載漫画を描

きはじ

めて青山四丁目

に住

んでい

た。当時、広田外相が神宮参道の

に住

んでいたので、

ストルの

に小銃を持

った憲兵が、広田邸

の護衛

に馳け

つけ

て来

て、何

か重大な事件が

おこ

ったの

を知

った。それが

・二六事件で

った。

すぐ

ヤジ馬根性が出

て、雪

の中

を赤坂見付

から三宅坂方面

を歩き

まわ

り、反乱兵

の様子などを見て

来た。

なぜ歩きまわったかと

いうと、

昭和十年

の夏、私

は青

山小学校で

「簡閲点呼」を受けた。

の時の

点呼執行官が山

一太郎大尉であ

った。

この人は二

・二六事件

の黒

幕と

いわれた真崎甚三郎大将

の女

婿である。

が点呼

の時に激烈

口調

で当

の政.治家と財界

の腐敗

堕落を痛

罵し、近く粛正が行われ

るだろう

と予告

したのである。そ

れから

年も経

たぬうちの出来

で、

口大尉の言葉

を思

い出

したか

らであ

る。後に彼も事

に参加して

いた

のを知

ったが、

死刑は

のがれて

無期

った。

二十歳代だった私も、国政をあず

かる者

の責任

の重大さ

を強く感じた

のであ

った。

スケ

ッチしていたが、対談が終

てから大石女史が花森氏

に、「アンタ

も次

の選挙

に出馬

しなさ

いよ、

タみたいな婦人議員

が出ると私も

いわ」と本気

で出馬をすすめた

で、思

わず爆笑した

のを思い出す。

政権

のとれな

い政党

いう

のは社

人相

の話がそれてしま

ったが

、小粒

にな

った、

に魅

のな

い政治家

漫画家

モデ

ルとしても

頼りな

いのである。

「毎

日」

で花森安治

と大石

ヨシ

エ代議上

の対

談があ

って

スケッチした

ことがあ.る。

「暮し

の手帳」をはじ

た頃だと思うが、髪

にパ

マを

かけ

て女性のよ

に背中

にたらし、服装

スカート姿だ

ったので、

大石女

は彼をて

っき

女性だと思

いこんでいた

らしか

った。

しかも

この両氏

の面相

がよく似

のであ

る。私

は笑

いをこらえ

那須良輔氏略歴

一九

=

二年(大正二年)四月

一五

日熊本生まれ。六八才。太平洋美校

卒。毎日新

聞社隅託。漫画家協会、

ペンクラブ会員、漫画集

々員。

作品集

「吉

田から鐸

へ」「総本歳時

記」「自然対談」。

会党

に限

で、

理想だけ

しく

ても現

実味

いう

のが

欠け

いる

から、

国民

から

にされな

って

いく

であ

うo〔注

)9

ユ匹≧の漏四昌留『O臼一一ドo箋

イギ

の政

一八

一年

ユ!ジ

ンド

のダ

{ソ牛

から

で政

し、

.九

[

…年

,一十歳

シド

回,ブ

一7.

ソ』

ソ7と

.

一九

ンド

ンに

り、

『スタ

ー』誌

「イ

ング

・スタ

ンダ

悌とを艶艸ム刊固ト罷旧躍

一.一年

【りは

『マソ

ェス

、,・ガ

ン㎞

に移

って

つな

と難

ユー

政治

漫画

・!

の漫

て激

.に

ヒト

ーが

ス政

に抗

しば

蘭揖になり

ヤー

・てト…に

たが.

「現

の漫

に賛

.

二年

エリ

ス女

から

の爵

され

ユー

・プ

γ

・ク

誉法

t

..六

一九

,

(3)

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昭和56年12月10日 第142号

C

&

C

.・、

(融

)

1

い出

いう

こと

です

つい

一九

ター

です

スイ

ンタ

+

ルな

ニケ

!

・「=

一オ

ン(国

信連

)と

があ

、世

。世

ップ

の技

アド

一一ス

り、

の将

か、

いう

こと

っと

一九

ま左

った意

レイ

ッド

・サ

・デ

.ネ

(I

S

D

N

)

って

いく

いう

いう

いう

アド

ニス

ソ並

に大

の技

ンポ

ムな

し続

いる

ところで、ご承知

のように電話はベ

ルが発明したの

ですが、

この発明

が驚くべきものだと

いう

ことが、だ

んだん判

ってきたわけ

です。カーボ

ンで

つく

った送話

器を使

って、受信

の振動板を動かして声

が伝わる。

これを

アナ

卩グ通

信と言

います。声で話せば、それが

声で聞

こえる。

いまから考えると、と

んでもな

い発明

をしたものだな、と

いうことなんです。し

かし、当時は

とんでもな

い発明だと思わずに、当た

り前

のことだ、

の人

はちょっと頭が

いいから、ああ

いうものを発明

したんだろう、

というくら

いだ

ったのですが、これが

あまり

にも偉大な発明であ

ったために、そ

の後

一〇〇

年間、

これを追

い越すようなものが生

まれなか

った。

アナ

ログ量

で意

思を伝達するという、

こぶる端的な

偉大すぎたベルの発明

うか用意があ

ったわけですQ

ら、

.占蟻

[n本竃

蝋取

繍畔役会

通信の融合

ュー

シリ

!ズ研

『新技

術』

(田)

方法な

のですが、

これが偉大なる発明であ

ったという

ことが、だんだん判

ってきたわけです。

しかし、その後.電話だけではサービ

スが行き届かな

い、という空気がだ

んだ

ん出てくるわけ

です。そ

こで、

ジタ

ル蟻を取り入れ

ようという声が、

いまから三十

年前くら

いに出

てくる、

アナ

ログ量ではいろ

いろな旗

雑な

ことが出来な

い、デ

ジタル量にしたらも

っといろ

いろな

ことが出来る

のではないか、何

とかデジ

タル量

を取

り人れたい、と

いう

ことを考えだした人が何人か

てき

ました。

しかし、これは実用

にはならなか

った.なぜ実用に

ならな

いかと言います

と、

いま私

の話

して

いる話はア

ログ量で、耳はアナ

ログ景で聞いています。デジタ

ル量を使おうと思うと、

アナログからデ

タルに変換

して向

こう

へ送

って、デジタルを受けて、そのデジタ

ルをアナ卩グに変換し

て、耳

できかな

いと

こえ

い9デジタルにすれば

いろいろな細工が出来

るにもか

かわらず、アナ

ログとデ

ジタルの変換が長

いこと物理

に実現し得なか

った

わけです。

アイデ

アとしては非常

に占くからありました。中で

一番驚くべぎ発明

は、いまから五十年

くら

い前に、イ

ギリ

ス人の発明した

ゆバル入・コード

・モジ

ュレーショ

ソクです。彼は、

アナ

ログをデジタルに変

換し、デジ

タルをアナ卩グに変換す

る、その途中

の理論を組み立

て上げたわけです。

ころが、これも実用

に至らなか

ったり発明特許の有効

期間は二十年ですが、

二十年

有効期間を過ぎ

た頃

にな

ってはじめて物

になりそうだ

ぞ、

ということにな

った。

(4)

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昭和56年12月10目 第142号

なぜかと言うと、

一九

四七年

〔昭和

二二年)にトラ

ンジ

スタが発明されたわけです。

トラ

ンジ

スタの発明

によ

って、いよいよ物

理的

にそういうこと

の出来る可

能性

が生まれてきた。

アナ

ログとデジタ

ルの相互変換

が経済的な意味も含め実現する可能性が出

てきた。

アナ

ログとデジタルの変換が物理的に可能性がある

いうことになると、それでは、ひと

つあ

れ(.ハルス・

コード

・モジ

ュレ…シ

ョン)を応用して、

どんどんと

しい通信方式を開発しようという動ぎ

が広

った。

の系譜を言いますと、電話だけではなく

て、デー

タ通信とか、ファクシ

ミリとか、画像通信。

トラソス

ミヅシ・ンで言

いましても、アナ卩グの伝送

からデジ

タルの伝送、デジタル伝送ネ

ットワーク。交換機から

⊃.口いましても、ク

ロスパー交換機(アナ

ログ交換機)、

間分括電子交換

(アナ

ログ)、

それ

から

ジタル交

ということで、いまま

でアナログで出来な

ったこ

とまで出来るようにな

ります。そういう系譜

で発展し

ていく方向がどんどん

肖に見えてきた。

なぜそれが可能にな

ったかと言います

と、先

ほど述

べたトランジスタの発明

でした。私が

一九五四年にア

メリカに行

ったとき

に、ある大会社-

社名

は申せま

せんがー

がトラソジ

スタが発明された

にも

かかわら

、小型真空管の新

しいシリーズを開発し

つつあるん

です。トラソジスタが発明されたのに、なぜ小型真空管

をえらい努力をして開発

しつつあるかq

トラソジ

スタ

にかないっこないも

のをなぜだろうか、と思

ってたず

てみたんです。そう

しましたら、「おまえ

は経済の観

アナロヴとデジタルの相互変換

しかし、実際

には私

のところは、日本

の会社の中で

は、ト

ランジ

スタの量産

に頭を突

っ込んだのが

一番遅

ったんです。なぜ

かと言うと、私

のと

ころのトラ

スタをや

ってお

った技術者が、各国をまわ

ってきま

て、私

の前任者

の渡

辺社長に、

「決して外国

に技術

は劣

っていない。

それならブ

卩ダクシ

ョンでも劣

るは

ずがな

い。やるならば自力でやるべき

である」と報告

したわけです。

でに各社は

一斉

にアメリカの披術導入

に走

ってい

る。私

は通産省

から注意されました。

「小林さん、お

たく

はどうするんです

か。

みんなもう

よ。もう締め切り

にしますよ。いま決意すれば最後

六番目くらいで線を引

っ張るつもりなんですが…

…」

という

ので、私

は、技術が進んでいるとか遅れている

いう

ことでなく

て、

こっちはレイト

・スター

ター

です

から、早く勉強し

て遅れた分を取

り返さなぎ

ゃい

かんと考え、

一番最後

にGEと技術提携

す。し

かし、そのGEは、結局、半導体

から撤退して

六番目で

.半導体

〃に参入

がな

いのか」と

いう

ことでした。小型真

一個七〇セント

のとき

に、テキサス

・イ

ンスツル

ントが

つく

って

いた

トランジスタは

一個

ルし

たり

「七〇セントの真空管を三ドルのト

ランジスタで

すぐ

に置き替えられると思うか。当分

のあ

いだは真空

の世

の中だよ」と言うわけです。この会

社は図

体は

大き

いけれども、少

し先

の見通しが悪

い、ダ

メな会社

だな、

と思

いました。そして、私はトラ

ンジ

スタに突

っ込

んでいこう、と思

ったわけです。

しまい、

いま、私どもはもちろんGEと

は関係がない

です。

こでどうなったかと言

いますと、

三ド

ルのトラン

スタからICが発明されたΩイソテ

ルという会社の

い技術者が発明したわけです。

この発明のヒソトは

こから出てきたかと

いうと、アメリカではなく、日

なんです。日本

のあ

る小さな電卓会社

が、と

にかくこれに興味を持ちまして、

いつも私のと

ころ

へ来

て、

「1Cを

つく

ってくれ、う

んと小さいの

つく

ってくれ」と

いう

ようなことを言

っておったん

です。私が

「あんたの会社は大きくな

いんだから、あ

りそういうことに興味を持

って頭を突

っ込むと破産

るよgおたくはお金儲けを考えたらどうですか」と

ったら、

「いや、話

は判るけれども、私は先に進み

いんだ」という調子

でした。とうとう

この会社は破

しちゃったんです。破産しましたけれども、

いまで

この業界におります。

正月

には挨拶

に来

す。非常

に誠実な人

ですし、ちゃんとや

っております。

ICは、その会社が、

トラソジスタを見てトランジ

スタを

一緒にく

っつけ

られないかと考え、それを私ど

にも要求し、アメリカにも要求し、結局、イ

ンテル

が最初

にやった。tれ

は本

にも霤

いてあ

りますから、

ではないと思います。そしてICが出来たわけです

が、

このときにはトランジスタは

一個当たり

一セγト

です。

三ド

ルが

一セントにな

った。

一たんそういうも

のが出来ると、ど

んどんとこれを

結合

していこう、と

いう技術が必ず生まれ

てきます。そ

して、

ラージ

・スケー

。イ

ンテグ

レーション

(LS

I)

が出来る。LSIの時代

になります

と、トラソジ

スタ

一個当たりがO

・一セントにな

った。超LsIは

(5)

Page 6: 昭和56年12月10日 第142号 政 - s3-us-west-2 ... · 昭和56年12月10日 第142号 “ 連 帯 ク の ワ レ サ 委 員 長 、 ハ ー ド ス ケ ジ ュ ー ル の 今

昭和56年12月10日 第142号

私、実は、

コソピ

ニーターでえらいやけどをしな

ら、苦労

しながらや

ってぎたんですが、昭和三十年頃、

初めて

コンピ

ューターを始めました。初めは

コンピ

ーターを

やるのにはトランジ

スタでやるべきだ、

と思

ったんですけれども、パラメト

卩ソというのを東京

の後藤助教授(当時)が発明しまして、ウ日本人が発

したものを先

に使わな

い奴があ

るか”というわけ

です。

なかなか国産奨励がやかましゅうござ

いまして……。

トラ

γジ

スタはすでにあ

ったんですけれども、ト

スタは高

いし、パラメト

卩ンは安

い。パラメト

卩ソの

欠点はスピードが遅

いという

ことです。まあ、

一番

初はパラメト

ロンでいいだろう、というので、バラ

のト

ンジスタ

・コ

ンピ

ューター

すでに二年

くらい前に出来

ておりまして、大型

ユーザ

ーが

エパリ

エーション中ですQ

エパリエーションには

二年な

いし三年

かかります。超

LS1では

一つのチ

プの上

一〇

万個から二〇万個

のトランジスタが並

のですが、

超LSIになりますと、トランジスタ

一個

が○

・○

[セソトになる可能性がは

っきり見

た。この可能

性がは

っきりしたも

のになりますと、物

理的にアイデ

アはいっぱ

いあ

ったんですから、デジ

ル化して

いくと、

いろいろな新

しいアイデアを具体化

することが出来

る。それで、

さらにどんどんと展開

加速され

ていくわけです。

したが

って、

コ、ミュニケー

ションはデジタル化し

いく。デジ

タル化すれば、

一〇〇年前

にベルが発明

た電話を、も

っと新しいサービ

スに応用出来るよう

なるわけ

です。

ンの

ンピ

ュー

ター

つく

った

した

し、

三十

には

ンジ

ンビ

畠ー

つく

o

の原

工業

の研

で開

です

へ行

、「ト

ソジ

ソピ

ュー

つく

いの

、ひ

つ援

「結

で、

三十

に初

ンピ

ュー

つく

いま

ン程

ので

は非

に喜

て、

オー

に出

、費

です

に使

った

うが

かも

った

三十

四年

一月

ンジ

スタ

・コ

ンピ

!

です

I

B

M

1

4

0

1と

いう

ンビ

満ー

を発

は、そ

一年

です

。私

ソジ

スタ

・コ

ンピ

I

B

M

6

5

0

いう

ンピ

ュー

、な

の頃

、世

ンピ

ュー

て輪

が、

ソビ

ムー

6

5

0

です

なも

ンジ

スタ

ュー

ター

いう

で意

んと

てき

て、

か多

ンピ

ュー

のう

と、

ンピ

ュー

ター

には

アが

いう

って

た。

ころ

ところが、

これでまともな競争をしていたら、

こち

らは負けます

から、私は、

コンピ

ューターも分散すべ

きであ

る、と

いう観点から再出発しました。分散すれ

ば、

コソピ

畠ーターが通信に結

合してぎます9

コンピ

ューターが通信に結合するよう

にな

ったら、私ども

もチャ

ンスあ

り、と見たわけ

です。

コンピ

ューターを

パーティカルに何でも大きくする

こと

けでいった

ら、や

っつけられる見込みは立

つけれども、や

っつけ

る見込みは立たな

い。分散すれば、必ず通信ネ

ヅト

ークと繋

ってくるから、分散

型の

コソピ

ュー

ターを

開発したらどうか、と考えたわけです。しかし、これ

はソフトウ

ェアが必要で、

ソフトウ

ェアの開発は容易

こと

ではな

い。ともかく、私

のところで分散処

理型

のコソピ

ューターを発表したのが、昭和四十八年

、石

分散

コンピ

ューター

の開発

いう

です

にお

い。

のほ

.バカ

から

「何

んだ

って、

ェア

る。

ンピ

ュー

も多

にな

て、

から

、大

いく

ェア

を中

に持

ェアを

いう

に、

ンテ

ンで

った

にな

と考

った

これ

I

B

M

の3

6

0

γピ

ュー

)6(

Page 7: 昭和56年12月10日 第142号 政 - s3-us-west-2 ... · 昭和56年12月10日 第142号 “ 連 帯 ク の ワ レ サ 委 員 長 、 ハ ー ド ス ケ ジ ュ ー ル の 今

昭和56年12月10日 纂142暑

コ ミ ユ ニ ケ ー シ ヨ ン(通 信)

(注)IC:rntegratedCircuit集 稽 回 路

LSI:LargeScatelntegratedCircuit大 規 模 集 積 回 路

図1C&C(コ ン ビ ユ ー タ と コ ミ ユニ ケ ー シ ヨン)の 発 展 図

一九

ョナ

・テ

米社がデジタル交換機を発表

の直

u

で始

ュー

にな

コソ

ュー

一籍

にな

る。

一緒

にな

”口う

の仲

(エ

レク

・デ

ィバ

ス)

.

の仕

(コミ

ニケ

ン)、

ンピ

ー、

ん中

・デ

ス、

I

C

L

S

Iが

これ

つが

[体

のも

って

いく

「体

にな

る新

スが

る。

・今世

って

白兀全

これ

いう

ふう

C

&

C

です

(網

1

)

て、

I

S

D

N

(イ

ッド

・サ

・デ

・ネ

ット

ワ:

ク)

よう

の側

たが

ュ:

コミ

ニケ

ンを

アは

9

いと

です

、交

ログ

ンピ

ュ!

出来

い。

ゃな

し、

ル交

いう

いか

い。

々公

てデ

ル交

って

いる

いう

こと

って

いな

いわ

(7)

Page 8: 昭和56年12月10日 第142号 政 - s3-us-west-2 ... · 昭和56年12月10日 第142号 “ 連 帯 ク の ワ レ サ 委 員 長 、 ハ ー ド ス ケ ジ ュ ー ル の 今

昭和56年12月10日 第142号

ニオ

(I

T

U)

の大

-

一回

つ大

です

i

・ノ

・スピ

カーとして招待されましたときに、私は、それが

口か

ら出かか

うたのですが、我慢して言わなか

す。なぜならば、交換機がアナ

ログだ

った

から

です9

いず

れデジタルになるけれども、霍だアナ

ログ

ら、

いまアナウンスしたら、

かえ

って混乱を招くだけ

だという

ので、

一九七

五年

のときには、私

は我慢をい

たしました。

そうしましたところが

一九七六年に、

アメリカのノ

ーザ

・テ

レコムがデジ

タル交換機

の発売

た。私のと

ころは、当時、

ロスパーとか

スペー

スデ

ビジ

ョソの交換機を

アメリカで売

っていました。

こで、私

のところ

のアメリカの連中

は、どうも少

し商売がやりにくくな

った、というわけ

です。当時、

ジタル交換機を発売す

るという方針を、う

ちではま

だ決

めて

いない。

スベー

スデピジョソは持

って

いる。

「まあ、

いいじゃないか。

そんなに慌

てる

い。電

々公社でもまだ使

ってないんだ」と言

っておっ

たところが、だんだん商売

が細くな

ってきた。

一九七七年

一月に、

TRWがパイパ!と

いう、デジ

タル

・トラソスミッションをや

っている小さな会社を

買収す

る。

TRWは、

「デジ

タル交換機

アメリカ市

に発売する。値段は三分

一だ」と発表した。

これ

には参

っちゃったんです。大量生産だからそうなるん

だ、と言うわけです。

それは嘘

に決ま

っているんです

が、とにかく後ろについているTRWは、世界的な

ソグ

ロマリット

・カγバ

ニーですから……。

こまで追い詰められまし

て、

一九七七年夏

になり

ましたら、私のほうのセー

ルスの連中はお手上げ

にな

一九

「イ

ム77

いう

タ市

た。

の郵

ヅプ

が集

った

。N

E

C

ル交

。コ

ソピ

ュー

る。

つを

って

る。

ソピ

ュー

、ミ

ニケ

ョソ

は完

ンテ

レー

「イ

ソテ

コム

77

の経

ソピ

ュー

ター

いう

一回

一九

に第

の会

コで

った

日本

・ノ

・スピ

いけ

い。

ころ

へ来

・ノ

・ス

へ行

って

コソ

ュー

の話

い。

「私

、ア

へ行

って

コン

ュー

スピ

っと

つら

い。

いた

M

I

T

ー総

ナー

った

・ノ

ル賞

の人

「そ

い人

・ノ

「インテレ

コム77」でC&C構想を

りま

した。お得意さんのと

ころ

へ行き

ます

と、

まず真

っ先

「デジタル

を持

っているか」とき

かれ

る。

「ありません」と言うと、

「もう話

は聞く必要な

いよ

」とやられる。

ト・スピーカーになるのは

つらいな」と言

ったら、「お

まえ、心臓強

いんだから、行

ってや

って

こい」と言う

のです。

しょうがない。私は、義務だろうと心得

まして、サ

ンフランシスコで、主

として

コソピ

ューター

の話をし

たわけです。日本

コンピ

ューターは決

して物まねで

はあ

りません、という

ことをぶち上げた。

それだけの根拠があ

ったのです。私

のと

ころに、も

う亡くなりましたが、私より大学

「年下

で中鳥君とい

のがおりました。

これが数学

の天才で、日本電気

入りまして交換機を

やらされていたんですが、

「こん

なアホらしいものはな

い。およそプリミティブとい

たら、

このくら

いプリ

ミティブなも

い。何で

っと理論的

に設計出来るようなも

のをやらな

いか」

いうようなことを言

って

いたんです。そ

こで中島君

は、自分が数学が得意なも

のですから、

トポ

ロジーと

いろいろな数学を応用

して、何とか理論を立てよう

と思

ったんですね。

しかし、なかなか厄介なものだと

いう

ことがだんだん判

ってきた。彼が昭和十年

にペー

パーを書

いて学会雑誌

に発表したんですが、

これが

ソピ

ューター回路

の基本

理論なんですね。それがアメ

リカ

のほうでも認められ、注目されて、

いろ

いろな文

に紹介されたわけです。

は、そのとき

のことを思い出しまして、中嶋君と

榛沢君という両博士が日本電気にいて、デ

ジタル交換

の基礎

理論を

つくろうと研究していたが、中途で戦

にな

ってそのままにな

っていた。すなわち日本のコ

ソピ

ュータ:のルーツはここにあり、と

いう

ことから

めたわけです。何

かしら

こっちにもな

いと、

“ただ

真似ば

かりしました”

では、

キー

・ノート

・スピーチ

(8)

Page 9: 昭和56年12月10日 第142号 政 - s3-us-west-2 ... · 昭和56年12月10日 第142号 “ 連 帯 ク の ワ レ サ 委 員 長 、 ハ ー ド ス ケ ジ ュ ー ル の 今

昭和駘年12月10日 第142号

になりませんから。

そういう話から、日本

コソピ

ューターは分散処理

であると続けたわけです。

「ただ大型が

いいと

いうも

のではないので、私

はIBMの後ばかりは追

い駆けま

せん。私どもの

ニーズ

に従

ったも

発する

つも

りだ」とやったわけです。なぜかと言えば、私

のと

ころ

コソピ

ューターと

コミ

ュニケーショソの両方をや

ている。

これらは必ず

結合す

る。それが

一九八〇年頃

から始まるだろう。今

世紀末までかかるかもしれな

が、必ずそれはイ

ソテグ

レートされるだろう、

という

ふう

にやった。

これが

一九七八年です。

ウイズ

ナ:さんは碩学

ですから、実

に程度

の高

いこ

とを述べたわけです。聴

いている人の半分くら

いは、

そんな程度

の高

い話はとても

かなわんな、という

こと

になる。私は、そんな難

いことを知りませんから、

の話はだれでも判るから評判がよかったんです。そ

れから、だ

いぶあちこち

から、あの話が面白

いからや

ってくれ、という

のでお座敷

もかかったんですが、

九七九年

のインタ:ナシ

ョナル

・テレコミ

ニケーシ

ョン

・ユニオンのジ

ュネーブ

の大会で、私

はこ

の考

(C

&C)をあらためて整理し直して発表

したわけ

です。

これ

に対して

一番対抗精神が旺盛だ

った

のが

フラソ

スです。

フランス電

々総裁

はすでにフラソスのデ

ジタ

ル交換

への移行を発表し

ておりました。ジスカ!ルデ

スタンの御名において、

〃テレマティークウ

(通信復

合体)

という概念を発表

していました。この

“テレマ

ティークウというのは、

いまでもわりあ

いポピ

ュラー

です。

しかし、彼らはテ

マティークだけで、半分

しかな

んな

ことで私は火を

つけたわけです。問題

はアメ

リカ

です。

アメリカにはATTという会社

す。

ATTは通信です。

IBMがあります。

IBMは

非常

に巨大ですが、通信がな

いんです。

ATT

には

ンビ

訊ーターがない。そ

へC&Cと言

って火

つけ

たも

のですから、ちょ

っと大変な

ことになりかけてい

るわ

けです。

メリカの中でどう

いう

ことが起

こっている

かとい

うと

IBMは通信に入り、

ATTも

コソピ

ューター

に入

る、ということを言

っております。

通信に参入するーBM

い。

通信複合体だと言

っているのに対して、私

のほう

は通

信と

コンピ

ューター

のイソテグレーシ

ョソです。

マーシャルネームではあ

りません。まだ

一緒

にな

いな

いが、必ず

一緒

になる方向

へ行く。だ

から、日

本電気

はデジタル交換機

を積極的にやる、

いう姿勢

を鮮

にした。それが

一九七九年です。以来、

デジタ

ル交換機

の受注量は世界

一番

になりまして、

三八〇

万回線

を受注しました。

二番が

エリクソンで

二〇〇万

回線

くらいや

っている

のではないでしょうか。

のと

ころ

は世界じゅうで工事をや

っております。

いま

一番

大き

いのがアルゼンチンでして、来年早

々、完

成する

だろう

と思います。

ういうことで、ここまでくるとあらゆ

ニューサ

ービ

スが花開く。

コソピ

ューターと通信

の結

合を物理

に、あ

るいは経済的

に可能にするのはI

Cです。

のいずれもで凵本は合格点を取

っているわけ

です。こ

ら先は勝負

になるよ、と

いうことです。

こで

はIBM、ATT

の動きを注目して

いるわけです。IBMは

コムサットと合弁

で(それに生

命保

険会社を

一つ入れ

ていますが)、

サテライト..匕ジ

・システム

(SBS)という子会社を

つくりまし

たG

この子会社は、国内衛星を使い新

しいタイブの通

信を

やるわげですが、衛

星通信

の地上局

の国際入札を

いま

した。囗本電気

は、国外ではた

った

一社

です

が、応札しまして、SBS

の地上局は、

日本電気とア

メリ

カのヒ露ーズと

いう会社

とが半

々ず

つ受注し、い

ま据付

けが進展中です。最終的には

一〇〇〇局

から二

〇〇局据付けると言

っていますが、取

りあえず貰

た注文

一〇〇局です。

こで私は、いよいよく

るものがきたな、

というの

で、

地上局を納める際

に、また貿易問題とか、

ケチな

ことを言われても困るも

のですから、バ

ージ

ニア州の

S

BS工場の隣

へ、私

のほうの工場を

つく

りました。

「ここで作

っているんです

よ9アメリカで作

っている

です

よ」とはっぎ

り判

るようにしました。予定どお

り順

調

に進展しています。

の地上局をつく

って、どういう通信をやるのかと

いますと、テレカ

ソファレンス

・シ

ステ

ムです。ワ

。ツウ

・ワンの電話

の話

ではなく、

A社

とB社とが

議を

テレビでやるわけです。顔も見

えるし、あらゆ

る声

も聞

こえるテ

レカ

ンZ

,レンス

・システ

ムで加入

を募

ろうというわけ

です。

こうしてIBMは、すで

コミ

ュニケーションの中

へどんどん入

ってきていま

す。こ

一月に、IBM

のケアリー会長

が新聞記者会見

を行

いました。私は、非常

に興味深く

見て

た。

ケアリー会長

は、

IBMの問題点を

二つあげまし

(9)

Page 10: 昭和56年12月10日 第142号 政 - s3-us-west-2 ... · 昭和56年12月10日 第142号 “ 連 帯 ク の ワ レ サ 委 員 長 、 ハ ー ド ス ケ ジ ュ ー ル の 今

昭和56年12月10日 第142号

一方、ATTのほうで言

います

と、ATTの前会長

のデパ

ットさんとは二十年来

の知己

ですが、

一九七七

に、彼

とアトランタで会

ったとき

に、「小林、わしは

もうATTの会長を辞める。

っくりするなよ」と言

うのです。

アメリカでは六十五歳

になると辞める。余

生を楽しまなき

ゃ損だ、という気持があるんですね。

日本人みた

いに、もう後も先も

い、何でも働かなき

ゃ我慢出来

ない、というのと

はち

ょっと違うんです。

「おまえ、

まだ六十三で、早

いじゃな

いか」と言

った

ら、「いや、何しろくたびれた」。

A7Tも新しい模索を

[つ

ェア

です

て、

I

B

M

7

ェア

で苦

いる

こと

って

っく

つは

L

S

I

と言

って

I

B

M

って

これ

いく

I

B

M

の新

にも

。第

一番

ロボ

ック

。ロポ

スを

一番

にも

てき

は、

日本

り刺

と思

う。

トダ

ンと

しれ

い。

コミ

で、

ニク

ス。

ニク

であ

って

いま

んな

いう

です

って、

ュー

ーだ

I

B

M

であ

のが

こと

最後

にもう

一つお話申しあげた

いのは、

ソ7

トウ

アに

ついてです

。先

ほど、ソフトウ

ェアが

って

る、

これが

一番

厄介な問題だ、という話をしました。

”人間

ωに接近する電算槻

るんですね。

通信だけなんです

から

(笑)。

通信

で完全

に固ま

っていますから、コンピ

ューターをやり、

して次

にC

&Cをやるには、

トップ

の三〇〇人

の半

分くら

いを取り替えなければダ

メだ、

と言うんです。

「わしにはそんなことは出来な

いので、ブラウ

ソにき

いたらウやりますクと言うから、やる奴がおるう

ちに辞

めなければ

、辞

める時期がない」という笑い話

ですが

.・・…(笑)。

それで予定どおり

一九七

八年にデパ

ット氏

からブラウ

ン氏

に交代した。ブラウ

ソさん、いま

一生

懸命

にや

って

いる最中です。

去年

の暮、私、行ぎまして、

ATT、ウ

エスタソ

エレクトリ

ック、その他の幹部全部招きまして、仕事

の話

一切

せず、旧交を温めたわけです。そこで得た

感想

は、大変

のは私どもだけではな

いなあ、

という

ことでした。

これが私のところの

一つの救いですよ。

自分

だけ苦

しむ

んじゃかなわんな、

みんな苦しいんだ

なあ、というわけですね。

んなこと

で、結局、私どもが警戒

している

のは、

“日本はけし

からん

”と言われる

ことです。向

こう

議会

では、

日本

のことは全部知

って

います。私

がどん

なことを喋

ったかということまで、全部判

っています

から、刺激

はしたくないんですが、そうかとい

ってこ

そこそするわ

けにはいかない。やはり、堂々と

やらな

きゃいかん、

というふうな感じでいるわけです。

そのソフトウ

ェアはどういうふう

に入

ってくるかと言

いますと、たとえば

一九五〇年~六〇年代

は、

コンピ

ューターはデ

ータ処理であり、

一九七〇年~八〇年代

は情報処理で、だ

んだんと人間

の知恵

に近

く。

一九九〇年代

には知識の処理

になるでしょう。

れは私の想像

ですが。

また、機械

の中

にイソテリジ

ェソスがどんどん織

込まれてくる。そ

の過程はどうかと言

いますと、

一九

五〇年~六〇年代

においては、

ハード

ウェアとソフト

ウェアは完全

に分離

していました。

一九七〇年~八〇

年代は

ハードウ

ェアとソフトウ

ェアがだんだん接近し

て並行してくる。

「九九〇年代

になると

ハードウ

ェア

とソフトウ

ェアは完全に

一体化す

るだろう。現

に超

SIにな

ったら、決定的にソフトウ

ェアが中に入って

しまいます。

利用者膕から言

いましても、

一九五〇年~六〇年代

は、通信も

コンピ

ューターも専門家が利用したわけで

す。特にコソピ

ューターは専門家が使

った。

一九七〇

年~八〇年代

は企業とか、官庁とか、集団が利用した。

一九九〇年代

には決定的

に個人が利用する時代

になる

と思われます。

だんだんと人間的色彩が強くな

ってくるわけです。

つまり、か

つての

コンピ

ューターの誕生のとき

には

(図2参照)、

コンピ

ューターを使うためには、

人間

コソピ

ューターに近寄らなけ

れば

いけなか

うた。機

械語とかなんとかいうのがありまして、人間が

コンピ

ューターに近寄

って

コソビ

ューターを使

った。と

ころ

が、だんだんと

コソピ

ューターが進歩

し、データ処

の時代

になると、

一歩

コソピ

ュー

ターが人間に近づ

てくれた。さら

に情報処理になると、さらに

一歩近づ

(10)

Page 11: 昭和56年12月10日 第142号 政 - s3-us-west-2 ... · 昭和56年12月10日 第142号 “ 連 帯 ク の ワ レ サ 委 員 長 、 ハ ー ド ス ケ ジ ュ ー ル の 今

昭和56年12月10日 第142号

関2人 間 要 累 を 考 慮 し たC&Cの 発 孱 段 階

で、

ま放

C

&

C

は、

ェァ

の泥

で身

って

7

要素

に絡

です

の中

って

った

いう

です

私が第

=蕾目に屯張

しているのはー

前から丹.凵って

いるんですがー

ソフトウェアに経済価値を認めるべ

いう

とQ

C

&C

ムは

い。

のま

って

ます

フト

ろう

ー、「口わ

りま

放置すればソ7トの泥沼に

いてくる。八〇年代、これから始まる時代

は、相当

コンピ

ューターが人間に近づ

いてくるりそし

て、九〇年代

には、決定的に人間

へ接近するような

ンピ

ューターが生まれてくる。

こういう

ことではなか

ろうか、というような感じているわけです。

っまり、

一九五〇年~

一九六〇年代

コンビ

・ータ

・アアド

・コミュニケ!シ]ン

(C

&C)の中

にお

ける人間であ

ったQ

一九六〇年~

一九七〇年代はC&

Cの上における人間である。

[九

八〇年

~九〇年代

C&Cと共にあ

る人間社会であ

る。人間社会と共

にあ

るC&Cであ・る、と

いうことではな

いだろうか。

先ほどの三

つの図

(線)で非常

に簡単

に書

いたもの

が、人間的.要素を加味すると、非常に複雑で大変厄介

なものにな

ってくるQ人間社会とC

&Cの共存という

姿になると、気が遠くなるほど復雑な問題にな

ってく

る。

(11)

Page 12: 昭和56年12月10日 第142号 政 - s3-us-west-2 ... · 昭和56年12月10日 第142号 “ 連 帯 ク の ワ レ サ 委 員 長 、 ハ ー ド ス ケ ジ ュ ー ル の 今

昭和黔年12月10日 第142号

九割

にな

ったものの経済価値を認めなかったら、

コン

ュー

ターも通信もつく

る人は

いなくなってしま

いま

す。ユ

ーザーのほうも同じ

で、使うのに人がたく

さん要

るわけ

ですから、経済価値

を認めなければ、

これを使

ことに勇気を持

つ人

はいなくなるだろう

す。経営者が認めてもくれな

いそんなものを、だれが

やるも

んか、ということ

にな

ってしまう。

ソフトウ

アに対

して経済価値を認

める

ことが絶対的

す。

しかし、この観念が日本人

には非常に少

いわけ

です。自分で苦労したのではなく物まねでい

ったも

ですから、

この観念が非常

に少な

い。特に通信もデジ

タル化

していったら、そ

コストは大変なも

のになる

だろうと思

います。

では、

ソフトウェアとはど

んなものなのか。

ソフトウ

ェアは、蜜

士山

みた

いなも

のじゃな

いだろ

うか。富士登山をした、と

いう

ことをよくきき

ます。五

合目まで

タクシーで行

って、

タクシーで帰

ってきて、

「おれは富士登山してきたよ」と言う人が

います。五

合目くら

いまでは、煙草

を喫

いながら、鼻唄をうた

ながら行けます。郊外

の散歩

と同じです

よ。

本当

の富

士登山

は五合目から上です。脚

に頼るよりほかしよう

がない。特

に八合目から上は絶対的に脚

で、脚が弱か

ったら登れません。困難さを比較すると、五合目

から

上が九割、五合目から下が

一割

です。

だから、

ソフトウェアは難しいから、

“と

てもあれ

はダメだ”とすぐ言

い出すんですが、そうじ

ゃな

い。

五十にも

六十

にもなっては、

ソフトウェアは頭が痛く

てやる気がしない。ところが、十九か二十くら

の人

たちは、そ

んなもの訳な

いわ、と言う。私

のと

ころ

にも

つて

!

!

か、

いろ

った

よう

の分

る。

ら近

ても

コス

り、

んも

ンピ

ュー

使

ェア

から

お金

を使

って

を持

つべ

ュー

った

に動

てく

い間

から

いだ

いう

こと

を考

った

です

ェア

つく

て、

に道

つく

ロダ

ン・テ

戸ジ

、と

いう

o

C

&

C

ステ

.テ

ロジ

・ラボ

つく

て、

C

&

C

いま

にし

こと

って

ェア

の需

六〇

。そ

ヨー

ロッ

いう

マイ

・エレ

ソ7トを近代産業

らな

いから男より能率がいいんです。

女子

のソフトウ

ェア担当者が大ぜ

いいますが、気が散

村野

(司会)

この頃、巷には、日本

の科学技術は

いまや世界

一であり、日本

の繁栄は続くと、非常

に楽

観的な風潮が流れているやに思いますが、果

たして本

当にそうな

のか。小林さんの本音のところをお教

ただけ

るとありがたいと思いますけれども

……。

小林

日本

の技術が進んだとは言えると

が、最高だなんて、とんでもな

い話です。空を見たら

判ります。

ほとんどアメリカの衛星で占領

され

いま

す。

こともなげにシャトルを飛ばしています。

同本

るのは、

まあ、

コマーシャルの技術だけ

です。

コマ

ーシャルの技術で、アメリカを追

い越したなんて言う

ものだから、アメリカは頭

にき

て、カッカとして、く

だらん

ことまで、やれ日本が輸出をしたためだなんて

スは困るというわけです。

マイクロ

・エレクト

卩ニ

クスと

は、裏を返して言えば

ソフトウェアと

いう

こと

です。

自分が

マイク卩

・エレクトロニクスをや

ってな

いも

のですから、気力がなくな

ってしまって、

入口で

膝を

ついて、もうダ

メだ

と言

って、頭から

マイ

ク卩

エレクト

卩ニクスは失業をもたらす、と結論づ

けてし

まいがちです。

です

から私

は、ベルリ

ンで行なわれた

ロー

マクラブ

の世界大会で、それは逆だ、

ソフトウ

ェアは労働

の量

が減

るのではなく、労働

の質

の転換を迫

ってくる

のだ

と力説

しました。私どもはいま、それに

一生懸

命応え

よう

としているんだ、と言

っているのですが、

この点

については、みなさまのご関心をぜひ呼びた

い、と思

って

いるわけです。

(12)

Page 13: 昭和56年12月10日 第142号 政 - s3-us-west-2 ... · 昭和56年12月10日 第142号 “ 連 帯 ク の ワ レ サ 委 員 長 、 ハ ー ド ス ケ ジ ュ ー ル の 今

昭釦56年12月10日 第142号

って、

とんがるわけです。

全般的

に言えば、使

って

いる金

の量からしてケタ違

いです。技術はすべて、とん

でもない投資の、

つま

ィフェンスの技術から生まれ

ています。

ば、デ

ィフェソスの技術がとんでもない需要を持

って

います

から、

コマーシャルの技

術のほうがお留守

にな

っているとも言えます。そ

のお留守になっている

とこ

へ空巣狙

いのように行

ってる……とは言いませ

んよ

(笑)。行

っているとは言

いま

せんけれども、それ

で、

おれは偉

くな

った、なんて思

っていたら、とんでもな

い間違

いだというのが、私

の感

じです。

ついで

に言いますが、私

“日本的経営”と

いう言

葉が大嫌

いなんです。日本だ

から日本的

う。

アメリカ

へ行ったら、

メリカ的経営ですよ。

は、

ンフランシスコのシリ

コンバ

レーで破産

に瀕

た会社を、三年前に一つ買

いました。四百名程度

の会

社ですが、幸

いにして社長以下

全部残

ってく

たD赤字

になると、ああな

っちゃうものかなあ、

と思

いましたが、ひどい状態

でした。買収して技術者、

働者に逃げ

られたら、ドブ

へ金

を捨てたようなも

のに

なるわけ

で、非常に心配した

んです。それで

一番最

に、私

が行

ってみんな会

って、

話をしたりしたん

です

が、幸

い全員残

ってくれました。

私は、

この会社は三月で利益

を出せるよう

にな

る、

と言

った

んですが……。

みなさんご承知のとおり、

LS1をつく

っている工

場では、

町を歩いてきた靴を取

り替えて、白

い上

っば

りを着

て、白

い帽于をかぶ

って、毛が出ないよう

にし

て、白

い手袋をはめて、

入口で強

い風でパッと埃をみ

んな取

ってしまって、それ

から

って仕事をす

るわけ

です。と

ころが、現地で見たら、白い上着もあ

るし、

そう

いうも

のがあるのに、上着も着なければ泥靴

のま

まで入

って行

って仕事をしている。

「これはひど

いじ

ゃな

いか」と言

ったら、

「いや、よく知

って

だ。

よく知

っているけど、小林、あれを見ろ」

と言う

わけ

です。見上げるとアドパ

ルー

ソに

「≦。、=

思《一〇

冠§

∋o話」とあるわけ

です。ちょ

っとやかまし

こと

を言う

と、

一〇%でも多

いほう

へみんな行

ってし

まう

から、経営者は恐くて言

えな

い。そのうち

に赤字

にな

って会社が売

りに出されちゃ

った、というわけ

す、こ

のあ

いだ、

一年半ぶりに行き

ましたら、

こんどは

私が

っく

りしちゃった。白

い上着、白い帽子、靴、

ちゃんと

えてや

って

いるし、私が入

って行

ても見向きもしないんです

よ。き

ょうはやかま

しいの

が来

ると言

って、やらせた

のかなと思

って、社長

にき

たら、

「いや、そうじゃない」と。

ここまでいきます

と、

ちゃんと黒字が出るんです。黒字が出れば

給料を

上げ

っていいんですから、

「おまえ、そ

っちを忘れ

るな

よ」と言

ったわけです。

全員を集

めて社長が

一席ブ

ッて

いるんです。

「先月

の業績

はこうであ

って、おまえら

の努力でここま

でき

た、もう

一息だ」と言

って、私

のことなんか全

然言

やし

ません。最後に、私

一言

いってくれ

ら、

「オ:

。マイ

・フェロー

・ボ

ーイズ

・アソド

・ガ

ールズ」と言

ったら、

ワァー

ッとな

って、本当

にいい

気持

でした

(笑)。

ちゃんと

利益を出すよう

になり

ました。

小集団活動というのは日本的経営

の基本にあ

ると思

います。

アメリカでは小集団活動を、ところによ

って

はなかな

かしにくい。

つまり、

アメリカの経

堂晶者

は、

ミド

・アップは日本人

より働く。そ

のかわり全

責任を持

っているわけです。

ミド

ル・ダウソは命令

って動

きます、という人たちだけです。協力

させな

ければ協力

しない、という

のが常識ですが、必ず

しも

そうじ

ゃな

いということです。

小集

団活動ということについて、別に私は

一言も言

わな

いんですが、その社長

R

して、私ども

の工

場を見

て勉強した結果です。

日本的経営とアメリカ的

経営

のア

マルガメイトした経営

であ一る、とかな

んとか

ってや

っていますよQそれは何でもいいんで、

おれ

がや

った

んだよ、という気持

でやらせなければ

いけな

い。押

つけちゃダメです。

だから、

アメリカでや

って

いるものは、どんなも

であろうと、

アメリカ的経営

であり、日本でや

ってい

るも

のは日本的経営

です。

技術

の話

に戻

りますが、謙遜するという問題

ではな

くて、

技術

でもなんでも、やはり、よほどグー

タラな

あれ

でな

い隈

りは、ほぼ投資

に比例した結果が出てき

ます

よ。投資

の額を比較

してみたら判るでし

ょう。

アメリカのあ

の軍事技術を含

めて百うならば

、とん

でもな

いも

のがあります。中

には、日本が少

し進

んで

いるも

のがあるかもしれませんが、威張

ったも

のでは

い。

ただ、

ヨーロッパは、どうも少しおかしくな

てしま

いましたね。いろいろな理由があると思

んで

すけれども。

村野

いままで日本は目標があ

ったから、みんな励

んでき

ましたけれども、目標がなくな

ってくると、自

分で

つく

らなければいけな

いから、その点、経皿冨者と

して大変

です

ね。

(13)

Page 14: 昭和56年12月10日 第142号 政 - s3-us-west-2 ... · 昭和56年12月10日 第142号 “ 連 帯 ク の ワ レ サ 委 員 長 、 ハ ー ド ス ケ ジ ュ ー ル の 今

昭和56年12月10日 第142与

小林

経営者として、本当

に大変

ですよ。大変です

けれども、目標と

いう

のは、

アメリカでは非常には

きりしています。

ここに

一つの秘密があるんですね。

私も、かつてアメリカで頼まれて合弁会社を

やったこ

とがあるんです。私は、

「マジ

ョリティー

にはならな

い。

マイノリティーだよ。

三〇%しか持たない。した

って、責任は持たな

いよ。しかし、援助

はしよう」

と言

ってベ

ンチャー

・ビジネ

スに援助したんです。す

ばらしい技術者が

二〇名くらい集まりまして、たちま

ちのうちに業績が上が

った。業績が上がると、必ずミ

リタリーの需要を把む。日本

エレクトリ

ック

・カソパ

ニ!と言

ったら、日本

の会社だろう、日本

の株主がお

る会社なんか、注文出さな

いよ、と言うんです。「あ、そ

か。そうか。判

ったよ。それなら、重役会から名前

を消してしま

ってかまわ

んよ」と言

って、結

局、株だ

はいまでも持

っていますが。

この会社

は大きな会社

に身売りしましたo

どうして身売りしたかと言

いますと、

アメリカでは

自己資本率が五〇%を切

ったときから、銀行は金を貸

し渋るんです。非常

に経営

が困難になります。

三〇%

を切

ったら、絶対的に銀行

は金を貸さな

い。

そのことは、私

は前

から知

っていたんです。昭和三

十九年

に私は副社長でしたが、転換社債を売

りに、大

の福田さんとアメリカ

へ行きました。増資

説明会を

サソフラソシスコ、

卩サ

ンゼ

ルス、

シカゴ、ボスト

ン、

ニューヨークとや

って、発行した株だけは売り切

りたいというわけ

です。私

は、ブ

ローク

ソな英語で

生懸命説明したわけです。そうしたら質問が出て

「ア

メリカでは、

こう

いう会社

を破産会社

と言うんだ」と

言うんです

(笑)。

自己資本率

二五%じ

ゃないか、

ういう会社は破産会社だと言うんですね。それ

で、私

は、

日本では優良会社

です、とやったんです

(笑)。ど

うな

ることかと思

いましたけれども、何

とかかんとか

ニュー

ヨークにたどり着くまでに全部売

り切

りました

が、私は、幾

つも

そういう経験を持

って

いるんです。

一つは、これがあ

るために、技術を有効

に生

かすと

いう活力が、

アメリ

カの会社側にな

い。勢

いどうして

も軍

のほうに向

いてしまうわけです。

日本ではとにか

く自

己資本率が

二〇%

を切

っても、経営者

が血

みどろ

にな

って

一生懸命

っていると、

「あ

れはとにかくや

ってるよ」とかな

んとか言

って貸してく

れるんです。

ゃんと利息は払

いますからね。

ういうこともあ

りますが、強さはどうです

か、と

かれたら、それ

はもう、ちょっと問題

にならない。

シャトル一つ考

えてみた

って判ります

よ。特

に総合的

な力

、それから部

分的な力も大変なも

のです。

ただ、

それが会社の力

にな

っているか、と

いう

ことになると

問題

がある。と

いう

のは、いまのアメリ

カの会社はあ

まり

に業績本位

です

から。業績が上が

らな

いと借金も

出来

ない。自己資

本が五〇%切

ったら、金

は貸

してく

れなくなる。三〇%

ったら絶対に貸

さな

い。どんな

に頭

を下げてもダ

メです。ああいう社会

は非常

に合理

的ですから。したが

って、経営者は非常

に短期

のサイ

トしか持

っていな

いo

ですから、会社

いい技術を持

っているか、という

こと

になると、それ

には疑問があると

いう

ことです。そ

れでは会祉がど

こから技術を得ている

かというと、や

はり、軍需から得

ていると思います。家電

のち

ょっと

ひねく

ったもので技術が進んだ、なん

て言

って

いる国

が、そんなに按術が進

んでいるとは、私

には思えませ

ん。卑下するんじゃな

いけれども、大変な実力を向

は持

っている。

しかし、ヨー

卩ッパは国全体として少し自信をなく

している。

一番の問題

は移入労働じ

ゃな

ょう

か。三割は移入労働

ですから。イギリ

スは労働組合問

題。

一つの会

も十五も組合があ

って、しょつ

ちゅうゴタゴタを起

こしている。フランス

義。私も、

フラ

ンスのある会社と、頼まれ

てネゴをや

ったことがあるんですが、行き詰まるとすぐ

「ちょつ

一時間休んでくれ」と言

って、官庁

の局長

クラスの

図を得に行く。これ

は会社じゃないなと、私どもの目

から見ても思

いました。

西ドイッは、と

にかく非常に

ったけれども、昨今

ちょっと……と

いう感じがし

ます。やはり、

一つは、移入労働の問題とポーランド

題があると思いますね。

西ドイツで、ある世

界的な大会社の人と話

したとき

に、「おまえのほう

のア

ニュアル

・レポートを見ると、

究費が売上げ

の五%

と書

いてある。わし

の会社は研

究費

は売上げ

の八%

である。八%使

っても、おまえの

会社

ほどのあれほど

の多彩な製品を出す

ことが出来な

い。どうしてるんだ

」と言われて、私も実体

をよく把

んでないんですから、

説明に困

っちゃ

った

んです。

それで私は、「あ

なたは八%では足りな

いというが、

まあ、そうだろう。私

のところは、研究費として計上

しているのは五%。

からアニュアル

・レポートでは

うしている。しかし、おそらく

一五%は

使

うて

る。あとの

一〇%は

コストに織り込まれて

いる」とい

ことだろうという話

をしました。

もう

一つは、西ドイ

ツはポンと溝を飛び越

えるとい

ようなことが出来

い。一歩ず

つ前進し

ていって、溝

(14)

Page 15: 昭和56年12月10日 第142号 政 - s3-us-west-2 ... · 昭和56年12月10日 第142号 “ 連 帯 ク の ワ レ サ 委 員 長 、 ハ ー ド ス ケ ジ ュ ー ル の 今

昭和56年12月10日 第142号

貿易」という

こと

に尽き

る。オーストラリ

アの

主要新聞は毎月四-

五十本

の日本関係記事

をのせる

が、日本の大新聞

は、

せいぜ

い十本内外。特派員

数はお互いに六人ず

つな

のだが、送

った記事がのる

率、

いわゆる

〃打率”

は、オーストラリア側が九〇

%内外なのに対し、日本側

はよくて五〇%以下、と

いうア

ンパラソスぶりだ。記事の内容

については、

双方とも、経済

・貿易関係中心で、文化

、生活もの

ても

、オーストラリアのことは日本の新聞

にあ

まり

のり

ませんなあ。

A

SEAN歴訪の主目的

は、新聞協会とフ

ォーリ

。ブ

レスセンターが共同でやって来たASE

AN

記者

研修計画

(毎年各国

三人、二か月)

の跡づ

けだ

った

り四年やったから、

〃卒業生”が各国

に十何人

いるわけだ。

いずれも中堅記者で、中

には部

長、

ンを

であ

メデ

アで

「白

の国

「コ

ルー

の国

「資

の国

」と

いう

タイ

をあ

いな

い、

いう

た。

日本

ミ関

いえば

「片

”日

”への熱

ヘフ

オー

■ブ

スセ

ー専

理.事

月、

ラリ

アと

A

S

E

A

N

って

スト

研「究

催晒の

「オ

スト

よび

メデ

ー出

のた

アと

コ、ミュ

ニヶ

ンを

て、

コミ面

コ、・・ユ

が足

りな

い9

はこう

いう実情を

のべたのち、日本は、心配

しな

けれ

ならない世界の地域

がず

っと多

い、

いま

のよ

うな

日豪関係ができた

のは、たかだか十年くら

いの

ので、日本の関心の

〃急成長ウはムリだが、確実

に伸

びている、と指摘し

て来た。しかし、

それ

にし

があ

ったら溝

の前で立

ち止ま

って考えている。

橋でも

架けない限りは前進

していかな

い。ところ

は、歩いて行

って、溝

があ

るとポォーンと逆立

ちして、

こう

ヘピ

ョンと立ち上がる。

「そういうと

ころがあ

りますなあ」、「いや、そ

わしも思

ったよ」と

いうわけでして、このへんのところはシステ

ムの相違

いうか、日本人的な能力

というか、やはり、

日本人

の力

は小集団活動からき

ていると思うわけです。技術

でも

、生産能率でも、経営

でも、すべてが小集団活動

から

ていると思います。

から、

ヨーロッパと比べると、技術

の点

では、そ

んな

に引け目がないという

か……。しかし、引け

目が

いんだ

ったら、航空機くら

いのものは出来そう

なも

のじ

ゃな

いですか、と言

いたくなるんですよ。そ

の航

スク、論説、出先キャ

ップに昇格して

いる人もい

る。外務省を通じて出先公館

に、彼らを集

めてもら

たと

ころ、よく集ま

った

のはうれしかった。中

には、

二百

ロ運転してかけ

つけたのもいた。

ク同窓会ウ

を組織

しようじゃな

いか、と

いう話の出たと

ころも

った9

みんな目を輝

かせて、あれはどうな

った?

の日本

の最大の問題

は?

などと問い

たり日本

についての情報

に飢えている感じだ

った。

最も

多く聞かれたのは、

日本

の防衛力増強

問題だ

た》と

もあれ、ASEAN各国

マスコミの中堅層

に、

これだけ

の友人ができ

ている

ことは、日本

の〃財産?

で、今

後とも育て、拡

ばならぬ、

と痛感し

たし

これも、同計画

に協力して下さ

った各方

面の努

の賜も

のと深く感謝する次第です。今後

ともお願

い致

します。

ついでながら、当

センターは今年

から、中近東の

記者

についても研修計画をはじめました。

一年

に、

四人、

一か月なので、

ASEANに比べれば規模も

小さく

、問題も多

いが、

これも大事に育てた

いと思

って

います。

いま

に出

L

S

I

だけ

仙仮

りも

つま

った。

I

C

てき

に、

の会

。イ

ャイ

ルド

ヨー

よう

は、

の重

つか

った

(15)

Page 16: 昭和56年12月10日 第142号 政 - s3-us-west-2 ... · 昭和56年12月10日 第142号 “ 連 帯 ク の ワ レ サ 委 員 長 、 ハ ー ド ス ケ ジ ュ ー ル の 今

昭和56年12月10日 第142号

ですから、私から言わせれば、

LSIでは日本のほ

うが進んでいるようなことを言

っていますが、アメリ

カより十年遅れていると考えてしかるべきじゃないだ

ろうか。そ

の日本よりもさらに十年

遅れているのが

戸ッパじゃないか、という感じがするくらいです。

ヨー

ロッパは非常に遅れてしま

った。

しかし、もうし

ばらく経

ったら絶望的

になりますが、

いまからでも遅

くないです

よ、と

いう感じですね。

決して日本

の技術を卑下する必要

はない。とにかく

日本もよくや

ったものだと思

います。

しかし、天狗

なるほど進

んではいないんじ

ゃな

いですか。

西岡

(東京

)

ソ連の技術

についてはどのように評

価していますか。

小林

これは、ま

ったく判らな

いんです。しかし、

技術がなかったら、ああや

って

ンクを

つく

ったり、

衛星を打ち上げたり、

ミサイルを

つく

ったり出来な

はずだ、と思うんです。が、私ども

している

コ岬、ーシャル

・プ

ロダクトに関する限

りにおいては、

ことに不細工だなあ、という感

じを持

つわけです。

あの国は、秘密

のベールに包まれたところで、目に見

えるところで判断するくらい危険な

ことはな

いのです

f、

O

......

ュー

にな

った

か。小

ンピ

ック

ル用

コンピ

ュー

は私

です

めた

こう

いう

てぎ

いて

いま

こう

つく

いる

は、

I

B

M

3

6

0く

のじ

西

ンピ

ュー

ーも

に、

I

B

M

の大

のや

いう

ます

I

B

M

ンピ

ュー

ター

いる

い間

いで

I

B

M

の悪

つも

いけ

I

B

M

は世

の市

%

って

いま

カ、

日本

西

ツ、

フラ

ス、

ア、

タイ、

ィリ

ン、

んな

ュー

です

の。

んな

γピ

ュー

33」っ

に同

はず

です

ょう

ほど

ほど

のも

のを

いう

ふう

に私

は理

I

B

M

ンピ

ュー

から

うが

I

B

M

い越

た、

はと

い間

いだ

です

I

B

M

ンピ

ュー

ター

には

ほど

いな

い。

のだ

った

エチ

アと

カが

ンビ

畠i

ターを

使

い。

(日

)

の労

レ!

の新

かど

いう

いま

つの見

る人

カが

いう

つあ

と見

Q

かし

これ

い。

つま

カは

った

った

から

ん。

に、

騒ぎ

って

って

コスト

のを

つく

う、

いう

動いているよう

ですQそういう見方

をする人がだんだ

んふえてきています。

もう

一つは、先

ほど、私

のと

ころで買収した会社

話をしましたが、わずか二年で、私どもの目で見て間

違いなく九〇点を

つけられるくら

いに立ち直

った。結

局、私どもと同じ

に成し得ると

いう

のが、私のところ

の連中の見方

です。

ですから、

こう

いう考え方はどう

でし

ょうか。日本

はすべてのことが平均化する。バ

ューは平均してい

ます。アメリ

カはバリューに非常な

る。だか

ら、悪

いほうだけ

を見て、いや、

メリカなんか大し

たものじゃな

い、

というのは危険じ

ゃな

いだろうか。

そう考える人がだ

いぶふえつつあります。ちょうど中

くらいのところを見

て、私どもが対応していくのが

いのではないだろうか。そういう目

で見るならば、ア

メリカが特別

にまず

いとは思いませ

んね。

レーガンで

かなり士気が上が

っているんじゃな

いですか。

ただ、アメリ

カは着

々と声を上げず

に用意している

ぞ、ということを言う人は、現実を見

て歩いている人

ですが、

「小林

さん、あまりそのことを言わないでく

ださい。刺激しますよ」と言うんです

(笑)。

へ56・m・16

文責・繦集部げ

(16)

Page 17: 昭和56年12月10日 第142号 政 - s3-us-west-2 ... · 昭和56年12月10日 第142号 “ 連 帯 ク の ワ レ サ 委 員 長 、 ハ ー ド ス ケ ジ ュ ー ル の 今

昭和56年12月10日 第142号

ユーリウ

ス。卩イターによ

て始

められた

卩イター通信は

の十月

に創立百三十周年を祝

た。

冒イ

ターの日本での活動は

一八七二年

に逆上る。その年、

ロイター東方進出の立役者、

ンリー

・コリンズが長崎と横浜

にオ

フィスを開設したc国内

通信網

は未整備だ

ったが、す

に上海i長崎間には海底

ケーブ

ルが敷

かれていた。

東京

オフィスは第

一次大戦後

に開設され、現在の共同通信会

館九階

へは、六四年の東京オリ

ソピ

ックの年に移転した。

十月

に着任したばかり

のピー

タi

・サラモソ支囗句長を訪ね、

話をき

いた。佐藤剛会員も通訳

を兼ね同席してくれた。

X

X

「現

の外

に分

れ、

の十

二名

の編

、ア

ニス

レー

γ、

ー、

ンジ

占,ー

ルバ

トも

にな

メデ

ア向

「般

ンから東京

へはダイ

レクトにもど

って

くる。

卩ソド

ンの本社

から東

へ入

って

くる

ニュー

ス量は

一日

に約五万語

になる

いう。

「経済、金融都市東京

の動向

は国際的

にも高

い関心をひぎますから、

われわれ

が打

“東京発をは、

一日何

ソーズ

にな

るか、検討も

つかな

いくら

い多

いんです

ヨ」東

京支局でも来年からはビデ

・エデ

完全

に脱したといわれる。

に国際通貨、

ユー

・デ

ポジット、

債権、貴金属、商晶相場

サービ

スを提供

する

「ロイター

・モ

ニター」が大

ヒット

し、現在、このサービ

スは五十六か国に

及び、加入者件数は

六、

六〇〇件

に達し

ていると

いう。

このシステムでは、加入者

モニター

のキーをポ

ンと押すだけで、秒刻みの国

際市況や関連情報がディ

スプ

レイに瞬時

死身

の老

積極的に電算化を

サラモ ソ支尉長

ユー

スは

て各

へ、

ニー

一般

へ配

る。

ュー

の単

独契

は香

って

〃東

ュー

ンド

へ送

ら集

った

ュー

スは、

ソ木

で地

に編

、「卩イ

ュ!

ス」と

。往

7・

イティ

ングを採用する。

日増

しに膨張す

る情報量

への対応と速報態勢

の強化のた

めである。

ところで、六〇年代

の中頃

から

ロイタ

ーは、積極的に

コンピ

ューター化を推進

し、経済

ニュース関係

のデ

ータ検出サ…

,ヒスを強化

した。当初

こそ設備投資費増

大による赤字をよぎ

なくされ

たが、

この

積極経営が功を奏し、その後業績はいち

じるしく向上、

一時期

の経営

上の低迷を

にあらわれるよう

にな

っている。

「東京だけでもすでに

一一五件

のお

得意さんが出来ました。

いま、これ

一番力を入れて売

り込んでいるんです

ヨ。ニュー

スを売るだけでは採筧が…」

販売畑出身のサラ

モソ会員の説明

っぽさが加わ

った。

東京は「モニタ!」の市場としても、

絶好

マーケットな

のだろう。阪売畑

から初めての支局.長が、東京

へ送り込

まれたのも偶然

ではなさそうだ。

通信社の自主独立経営は経営難との

いだとよく

いわれる。が、自室独

の経営なしにフェアーな客観報道

は存

在しがたい。大戦中、

pイ

ターの客

報道はドイ

ツのブ

卩パガ

ンダ報道を完

に押し切り、ドイツの新開人をして、

英国[の空軍、陸軍

よりも強ηで危険

卩イターと

いわしめたと

いう。

卩イター小史

の巻頭ハ、口には、

「通信

社は最も控え日ではあるが、きわめて

重要なジャー

ナリズ

ムであり、通信社

の機能はかなり複雑だが、それによ

て世界は自己を確認出来る」とあ

る。

相互依存性を増し、

一層錯そうす

国際情勢

の中で、各国、各人が自己を、

そして世界を確認するための情報を必

要としている。財政的な自立甚盤確保

のでぎた、「ニュー

スの

目イター」に期

待されると

ころは大ぎ

い。

(長谷川)

(17)

Page 18: 昭和56年12月10日 第142号 政 - s3-us-west-2 ... · 昭和56年12月10日 第142号 “ 連 帯 ク の ワ レ サ 委 員 長 、 ハ ー ド ス ケ ジ ュ ー ル の 今

昭和56年12月10日 第142号

レビの広報担当部長

(東京

二二!ス

大西敏雄会員)▽加藤益男氏の出版を

祝う会

(サンケイ

阿部穆会員)

5

日▽千葉雄次郎さんの新聞文化賞受賞

をお祝いする会

(内川芳美会員)

6

日▽紙面審査全国懇談会

(協会)▽新

聞広出ロゼミナール懇親会

(協会)▽新

聞研究座談会ー

在京社会部キャップ

(協会)

7日▽都市問題研究会

(木

原啓吉会員)

9日▽吉閏前中国大使

の話を聞く会

(米谷健

一郎会員)▽仏

印会

(前田雄二会員)

11日▽

「一九

一年日本にて」試写会ー

ホネカー

国家評議会議長訪日時

の記録映画

(東

独大使館)

12日▽

ニュース

ハイライ

ト賞

贈賞式ー

昌ア

コンガ遭難交信

記録

(北海道放送)

田んぼの中のコ

ソサートホール

(東北放送)

散逸す

る戦争資料保存運動をめぐ

って

(山形

放送)

大阪八尾市

・放置自転車追放

条例

(毎日放送)

辻典子さんの多忙

な夏

(熊本放送)が受賞

(TBS

ツ六社会

(抽勘

会)

▽おとり広

表示に関する

懇談会

(協会)

列…日▽新聞

モニ

ターの会

(読売

高山登会員)

25日▽時事OB

(富田

一宏会

員)▽目本婦人

放送

(TBS

高階

玲子会員)

26

喜びを語 る千 秦会艮(上),朝 日ダンスクラブ(下)

ム ムπo紹

2日▽中近東記者

研修懇親会

(FP

C河村欣二会員)

4日▽新聞放送懇

談会-

朝、毎、

読、

日総囲、サソケ

イの学芸担当とテ

橋尚会員)▽東都会t

都、東京新聞O

B会

(宮村文雄会員

)

13口▽ピーター

・ナー

エソ氏会見-

日本文学を紹介す

ロンドソの出版社社長

(時事

藤田昌

司会員)▽販売労務担当者全国会議

(協

会)

14日▽座談会-

坂本正弘経企庁

経済研究所次長、藤川直逍青森県企画部

長ほか

(陸奥新報

泉嶺会員)

給日▽

磯崎史郎氏出版記念会

(奈良新

大川啓

一会員)▽在京山梨政経懇話会十周年パ

ーティー

(山梨日日

曽根謙吾会員)

18日▽読売国際漫画大賞審査会

(読売

日野利達会員)

19日▽民間放送地方局

懇談会

(民放連

泉長人会員)

幻日▽

朝日ボ:ルルームダンスクラブパーティ

(朝日

木村明生会員)

20日▽スポ

日▽欧米衛星

リモートセソシング関係

者懇親会

(読売

為郷恒淳会員)▽大

東京祭写真

γ

ル表彰式

(束

吉田充会員)

日▽細川忠雄

んをしのぶ会

(読売

日野利達会員)

28目▽クレペール会

(時事

小林淳宏

会員)

30日▽放送著作権制度研究会

(NHK

川竹和夫

会員)

〔灘臨轢

」第53回会員資絡委員会

(昭和56年11月10日

(火)

日本記考クラブ小会購鬣)

十二月

一日付

の入退会を審議。

出席

滝沢、藤井、東、山田の各委員。

第25回会報委員会

(珊韓

州紺

)

一月号会報

の意見交換後、十

二月号、

一月号会報

の編集

について協議。

『と

ておき

の話』

の執筆ほ、那須

良輔、

サム

・ジ

ェームソソの両氏に依頼す

こと

した。例年

一月号に掲載して

いる

『新春

随想』は原

四郎初代理事長

にお願

いする

ことにした。

なお、

一月号

『東京支社訪

問』

では

新潟日報をとりあげることにした。

出席

小林委員長、東郷、中沢

の各委員。

第糾回企画委員会

(㎜韓

畑蝕針)

事務局から十月のクラブ行事及

び十月

十四日

(水)

のアラファトP

LO議長会

見の運営

について報告した後、

昭和

五十

七年の予想

アンケートを、明年

一月十三

(水)午後

五時三十分からの新年互礼

会員懇親会

の席上行うことを決

め、出題

を割り当てた。

出席

藤村委

員長。石丸、山本、広瀬、

平田、米、高

野、梅本、藤川、鈴木

、浅

野、今

の各委

員。

(18)

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昭和56年12月10日 第142号

十二月

一日付

で入会した法人

・個人賛助会員と、特

別賛助会員

の方がたです。

愾例

の新年互礼会は、明年

一月斗

三日

(水)午後五時三十分から、串

階プ

レスセソターホールで行われ亡

す。,

例年好評

の全員総当り

の「福引き

「昭和

五十七年予想アソケート」

が実施されます。多数のご出席をセ

待ちします。会費は三、○○○円弔

す。

(191

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昭和56年12月10日 第142号

▽昭和56年1月

から

12月までの間

の取材、報道、

評論活動を通じて、とくにジャーナリズ

ムの職

業倫理ならび

にジャーナリストの社会的地位

向上

に功績

のあ

った個人を、候補としてご推薦

ください。

▽本賞はいわゆる

〃特だね賞ウではあ

りません。

ジャーナリストのすぐれた典…型を示す事績、人

に与えられるも

のです。

▽候補有資格者は会員のみに限りません。法人会

員社の社員すべてが有資格者

です。他紙他社

ジャーナリストの方

でも積極的

にご推薦

いただ

きた

いと思

いますc

▽受賞者は来年度

のクラブ通常総会

の席上で顕彰

され、

クラブ

の名誉会員とな

って

す。

これまでの受賞者は長崎新聞

の松浦直治氏

(姐

年度)、TBSの古谷綱正氏

(50年度)、毎日新

の松岡英夫氏、

NTVの池松俊

雄氏

(51年

度)、

朝日イブ

ニソグの芝均平氏、

NHKの磯

村尚徳氏

(52年度)、朝

日新聞の松山幸雄氏(53

年度)、熊本日日新聞

の岩下雄二氏

(54年度)、

朝日新聞の

田桂

一郎氏

(55年度)、

読売新聞

の村尾清

一氏

(56年度)です。

▽推薦手続きなど

の詳細については、事務局

へお

い合わせくださ

い。

日本記者クラブ賞の

候補者をご推薦ください

法人

・個人賛助会員

別賛助会員

一四二社

一六人

九四九人

四社

一五七人

六六人

一一人

一九六社

一、七

九九人

十二月

一目現在の会貝状況

鮒劃別

森本教会員

(名古屋タイ

ムズ)が、十

一月三日

肺ガ

ソのため逝去されました。謹

んでご冥福をお析り

いたします。

輟囲碁同好会鬣

十二貝月一一十

亠ハ日

に納会

一月七日

(土)、

例会を開催しまし

た。

加十二

名、総対局数二十

四局、おもな成績

は次

のとおり。

吉沢正也五段

(D)、出田裕三段

(東京)、小林淳宏

四級

(時事)、

いずれも三勝

一敗。

次回は師走

の最終土曜日十二月

二十六日午後

一時か

ら開催の予定です。本年を納める会

として、日本棋院

の小山嘉代

二段

をお招きして指導を

お願

いします。

いつも和気あ

いあ

いの例会です。初

めての会員の方

も遠慮なくお顔

を見

せてくださ

い。

会員の著書

(ご恵購いただきました.・

松下幸之助全研究

命知の国際経営

石山四郎

山形、戦没兵士

の手紙

山形放送

会報委員長阻小林淳宏

委員11桂敬

斎藤吉史

東郷茂彦

申沢道明

逗綺11長谷川

(事務局)五〇三-二七二

クラブルー

ムは十一一月二十九日

(火)午後三時

で閉室させて

いただきます。新年

一月五日(火)

から平常通り開室

いたします。

事務局も

クラブルーム同様、十

二月三十日から

一月四日まで休ませていただきます。

なお、恒例

の新年互礼会員懇親会

は明年

一月十

三日

(水)午後

五時三十分から開催

いたします。

多数ご出席くださるよう、お待ち

いたしておりま

す。会

員の皆さま、良いお年をお迎えください。

事務局

一同

年家

・年始

のお知らせ

23

24

8

-

(火)午前

8時30分~

富士通

77ナ

ック見

学会

(火)午後

4時~5時30分

ホーリグレン

スウ

ェーデン消費者オ

ンブズマン記者

会見

(水)午後

6時30分~

試写会

『泣かないで』

(木)午後

2時~4時

シリーズ研究会

『新

技術』V

稲葉清右衛門富士通ファナ

ック社長

一一月

(20)