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Meiji University Title Author(s) �,Citation �, 48: 287-299 URL http://hdl.handle.net/10291/19354 Rights Issue Date 2018-02-28 Text version publisher Type Departmental Bulletin Paper DOI https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/

延慶本『平家物語』に於ける女人往生 · 別離ノ期ニ非ヤ。サレバ可尊ノ来迎ヲ期シ、三途ノトボソヲ閉テ出離之妙果ヲ願フ。是只一門テ、九品ノ台ヲ願ヒ、一門之菩提ヲ祈ル。サレバ一念之窓ヲ開テ三悲願証明ヲ憑テ、三時ニ六根ヲ懺悔シ、一筋ニ今生ノ名利ヲ思捨

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Page 1: 延慶本『平家物語』に於ける女人往生 · 別離ノ期ニ非ヤ。サレバ可尊ノ来迎ヲ期シ、三途ノトボソヲ閉テ出離之妙果ヲ願フ。是只一門テ、九品ノ台ヲ願ヒ、一門之菩提ヲ祈ル。サレバ一念之窓ヲ開テ三悲願証明ヲ憑テ、三時ニ六根ヲ懺悔シ、一筋ニ今生ノ名利ヲ思捨

Meiji University

 

Title 延慶本『平家物語』に於ける女人往生

Author(s) 朴,知恵

Citation 文学研究論集, 48: 287-299

URL http://hdl.handle.net/10291/19354

Rights

Issue Date 2018-02-28

Text version publisher

Type Departmental Bulletin Paper

DOI

                           https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/

Page 2: 延慶本『平家物語』に於ける女人往生 · 別離ノ期ニ非ヤ。サレバ可尊ノ来迎ヲ期シ、三途ノトボソヲ閉テ出離之妙果ヲ願フ。是只一門テ、九品ノ台ヲ願ヒ、一門之菩提ヲ祈ル。サレバ一念之窓ヲ開テ三悲願証明ヲ憑テ、三時ニ六根ヲ懺悔シ、一筋ニ今生ノ名利ヲ思捨

――――

文学研究論集第号

'・

研究論集委員会

受付日

二〇一七年九月二十二日

承認日

二〇一七年十月三十日

延慶本『平家物語』に於ける女人往生

The

Topic

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Heavenly

Re-

birth

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The

Tale

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Heike

博士後期課程

日本文学専攻

二〇一二年度入学

 

PA

RK

Jihye

【論文要旨】

日本の仏教では平安時代以降、女は男の仏道修行を妨げる存在として

だけではなく、「五障三従」といった女性観にも見られるように往生し

難い存在として敬遠されており、罪人と女人は併称されるほどであっ

た。とはいえ、こうした女性観の普及の中で女の存在は仏教から一方的

に見放されることはなく、救済思想と連動していた。このように相反す

る女性観と女人往生の思想は仏教において重要な問題であり、その方法

は異なっても法然、親鸞、道元、日蓮といった浄土教や顕密仏教によっ

て広められていく。『平家物語』は諸本によって女人往生の描き方も異

なる。本稿では、延慶本における女人往生の描き方を確認する。延慶本

には、義王・義女・閉・仏御前、「三条サヘキノ頭」の妻、小督、建礼

門院、皇嘉門院、宇佐神官の娘と六場面で九人の往生が描かれる。その

内容を確認すると、悪事つまり死別・失恋といった逆縁によって出家し

ている。しかし、仏道に入っても断ち切れない現世での執念・恨み・恥

などの苦悩があり、それを解消することで、現世に思い残すことなく仏

道に励むことができ、その結果往生を遂げたという構造になっているの

である。

【キーワード】

平家物語、延慶本、女人往生、逆縁、仏教

はじめに

日本では平安時代以降、仏教において女は男の仏道修行を妨げる存在

としてだけではなく、五障(修行しても梵天王・帝釈天・魔王・転輪聖

王・仏にはなれない)・三従(家にあっては父に従い、嫁いでは夫に従

い、夫が死んだあとは子に従う)といった女性観によっても往生し難い

存在として敬遠されてきた。また、蓮如の『御文

(

)

』には「十悪五逆ノ罪

人モ、五障三従ノ女人マデモ」と罪人と女人は併称されるほどであっ

た。ただし、このような仏教の女性観の普及の中でも仏教から一方的に

見放されることなく、『法華経』「提婆達多品」龍女成仏や『観無量寿経』

韋提希夫人の悟りなどを説いており、救済思想と連動していた。このよ

うに相反する女性観と女人往生の思想は仏教において重要な問題であ

り、その方法は異なるが法然、親鸞、道元、日蓮といった浄土教や顕密

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――――

仏教によって広められていく

(

)

。中世の文学作品における仏教の影響の大

きさはいうまでもない。中世の多くの文学作品のなか、院政期を背景と

して鎌倉期に編纂され、それ以降様々な所で書写された『平家物語』は

女人往生をどのように描いているのか。『平家物語』は諸本によって女

人往生の描き方が異なる。たとえば、覚一本では 

(

)

・ 

女・とぢ・仏

御前、千手前、建礼門院・大納言佐・阿波内侍の往生が描かれる。服部

幸造

(

)

氏はこれらの女性が平家一門と関わることから「覚一本では、生き

残った女性が一門の菩提をとぶらうことによって自身の往生が可能にな

り、そのことが逆に平家一門の極楽往生を保証することになる」と論じ

た。一方、延慶本

(

)

に関しては横山知恵

()

氏が義王・義女・閉・仏御前、

「三条サヘキノ頭」の妻、小督、建礼門院といった「七人は自らの身に

起こった悲劇を逆縁として受け止め、出家・往生へと向かう契機とした

ことが共通している」と指摘した。さらにこの中で小督と建礼門院が皇

統につながる問題と関わり、清盛の権力獲得をめざす物語の展開と深く

かかわっているとみて論じている。氏は往生の条件のなか、特に善知識

に注目し、「善知識」を明記する建礼門院と明記しない小督も「自らの

身に起こった「憂きこと」を仏道に導く「善知識」と捉えた姿勢は」同

様とみて、「この世での「恨ミ」を「一旦ノ恥」として往生への願いに

昇華しようとした意識は、物語全体に行き渡る救済へとつながってい

る」と指摘した。これについては概ね同意である。ただ、延慶本におけ

る女人出家は戦乱を背景としているためか殆どが逆縁によるものであ

る。その中で一部の往生を遂げた女人達の内には横山知恵氏の指摘のよ

うに恨み、あるいは恥、執念を持ち、それを善知識として往生へ踏み入

れる例もある。苦悩を善知識として受け入れ思い直すことはそれを解消

する一つの方法であるが、苦悩の対象を何に置くかによっては描き方が

少し異なると考える。延慶本には、義王・義女・閉・仏御前、「三条サ

ヘキノ頭」の妻、小督、建礼門院、皇嘉門院、宇佐神官の娘という六場

面・九人の女人往生が描かれる。その内、異質である宇佐神官の娘の往

生については別稿に譲り、それ以外の女人往生を取り上げ、出家や往生

の場面から恨み・恥・執念などの苦悩の対象と、それを解消して行く姿

を確認し、考察を加えたい。

延慶本『平家物語』における女人往生

建礼門院

『平家物語』における女人往生といえば、まず浮かぶのが

建礼門院であろう。建礼門院の章段については優れた先行研究が多いの

で、本章ではそれらを踏まえて述べていきたい。巻十一の「建礼門院御

出家事」と巻十二の「建礼門院法性寺ニテ終給事」という二つの章段で

建礼門院の出家と往生を記す。壇ノ浦で捕らえられた建礼門院は「憂世

ヲ厭ヒ菩提ノ道ヲ尋ルナラバ」と思い、すでに無駄となった黒髪を切

り、出家をする。「憂世」とは、高倉天皇の后として、安徳天皇の母と

して頂点に昇ったのち、平家一門と共に滅びてしまった自身が置かれて

いる現実のことである。守ってくれる父清盛も、夫の高倉天皇も、子の

安徳天皇も亡くなりさらに一門まで滅びた、頼れるところのない、まさ

に三従の存在といえる身になっている。しかし、建礼門院はこの「憂世」

の境遇を誰かのせいにするわけではない。所謂「六道語り

(

)

」が記される

巻十二「法皇小原ヘ御幸成事」では、建礼門院は安徳天皇を追憶しなが

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――――

ら、罪のない天皇が幼くして壇ノ浦で崩御したことの原因を「是即我等

ガ一門、只官位俸禄身ニ余リ、国家ヲ煩スノミニアラズ、天子ヲ蔑如シ

奉リ、神明仏陀ヲ滅シ、悪業所感之故也」と、平家一門の悪行の報いと

受け入れている。これに関して、佐伯真一

(

)

氏は一人の母の苦悩ではなく

国家規模の苦悩と解釈した。それでは、建礼門院はこのような苦悩をど

のように解消していったのか。

出家の戒師は長楽寺の阿称房上人印西であり、布施は先帝の御直衣で

あった。上人は安徳天皇の直衣を長楽寺の常行堂にかけて、「縦ヒ蒼海

ノ底ニ沈ミ御ストモ、此功徳ニ依テ、修羅道ノ苦患ヲ免レ

御テ、安養ノ

浄刹ニ御往生疑ナシ」と、西海で沈んだ安徳天皇の往生が確実なものに

なったと述べる。さらに上人は御布施を見て出家功徳を説く。

願ハ今日ノ持戒ノ功徳ニ依テ、一門一族三界ノ苦域ヲ出デヽ、九品

ノ蓮台ニ詫セシメ給ヘトナリ。賢愚異ナリトイヘドモ、皆以法身常

住ノ妙体也。其中ニ一人往生アラバ、皆共仏道ヲ成ゼン。重請、今

生ノ芳縁ニ依テ来世ノ善友トナリ、三僧 

ヲ経ズシテ、必ズ一仏土

ニ生ズベシ。

上人は建礼門院の持戒の功徳によって一門の救済を願うと繰り返す。こ

のような建礼門院の出家受戒の功徳による往生結縁が一門一族全員の往

生をもたらすという思想の背景には天台における念仏結社の信仰の影響

がある

(

)

。建礼門院の出家の動機は建礼門院自身だけではなく、安徳天皇

をはじめとする平家一門の救済・往生を願うことであった。これはま

た、「六道語り」で、後白河院が建礼門院と対面をし、疎遠になってい

たことを恨んでいるであろうと問うと、恨みをなすこともないと答える

ことにも表れている。その恨みの対象は後白河院に対するものではな

く、身に起こった「歎き」について建礼門院は以下の説明を加える。

カヽル身ニ罷成事、一旦ノ歎ハ申ニ及ネドモ、一ニハ来生不退ノ悦

アリ。其故ハ、我五障三従ノ身ヲ乍レ

受、已ニ釈迦之遺弟ニ烈リ、

悲願証明ヲ憑テ、三時ニ六根ヲ懺悔シ、一筋ニ今生ノ名利ヲ思捨

テ、九品ノ台ヲ願ヒ、一門之菩提ヲ祈ル。サレバ一念之窓ヲ開テ三

尊ノ来迎ヲ期シ、三途ノトボソヲ閉テ出離之妙果ヲ願フ。是只一門

別離ノ期ニ非ヤ。サレバ可レ

然善縁善知識トコソ思侍レ。

建礼門院は自分の身に起こったことについて「一旦」の歎きはあるけれ

ども、これによって来生不退の確約を得たと述べた。その理由として

「五障三従」の身でありながら仏門に帰依することができ、さらに懺悔

を通して滅罪儀式を行うことで、今生での冥利を捨てて往生を願い一門

の菩提を願っている。建礼門院の往生は巻十二の「建礼門院法性寺ニテ

終給事」で描かれる。承久三年、後鳥羽院の境遇を耳にした建礼門院

は、平家一門が壇ノ浦の戦いで敗れ、西海の水底に沈んだ日のことを思

い出し、寂光院に籠って朝夕行法を怠ることなく行い、「紫雲空ニタナ

ビキ、音楽雲ニ聞ヘテ、臨終正念ニシテ、往生ノ素懐」を遂げた。

今生ノ御恨ハ一旦ノ事也、善知識ハ是莫大之因縁ト覚テ、目出ゾ聞

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ヘシ。昔ノ如、后妃ノ位ニテ渡セ給ハマシカバ、女性ノ御身トシ

テ、争カハ彼法性ノ常楽ヲ証ゼサセ給ベキト哀也。

延慶本では往生の記述後に建礼門院の恨みを「一旦」の事として、この

ような恨みがあったからこそ最後に往生できたとし、后の位のままでは

往生はできなかったと説いている。この「一旦」の論理とは、身に起こ

ったことをはじめは歎くのだが、それにより来生の確約が得られるとい

う構造である。このように「歎き・恨み→善知識として受け入れる→往

生」と、苦悩を解消する方法は建礼門院の往生譚に最も鮮明に表れる

が、他の女人往生譚にも確認できる。

小督

巻六の「小督局内裏ヘ被召事」は高倉天皇の崩御後に語られる

生前の追悼説話群の最後に置く。この章段は小督に対する、隆房の恋慕

と高倉天皇の寵愛で大別される。小督は信西の孫、藤原成範の娘で、

「容顔美麗ニシテ、色貌人ニ勝レ、心ノ色モ情モ深」い人物として描か

れる。冷泉大納言隆房が小督に恋慕し、艶書を送ったが、拒否された。

隆房は断念することなく長年和歌を送り、ついに受け入れてもらった

が、小督が出仕してからは頑として拒絶される。ところが、高倉天皇は

小督を寵愛したため、中宮である建礼門院を避けるようになった。それ

を知った建礼門院の父清盛は激怒し、「是ヲ取テ尼ニナセ」といった。

小督は「忽ニ身ヲ徒ニナサム事、無レ

由」と思い、天皇にも知らせずに

出奔して嵯峨に隠棲する。高倉天皇は昼夜悲しみにふける日々を過ごす

が、八月の中旬に涙を流しながら仲国に小督を連れ戻すように命じる。

仲国は嵯峨で「相夫歌」を弾く琴の演奏を聴き、小督の居場所を突き

止めた。小督は仲国に対面し、内裏を出奔した理由をのべた。

始ヨリ申タカリツレドモ、世中ノウラメシサ、身程ノハヅカシサ

ニ、カクトモ申サヾリツレドモ、強ニ恨給ヘバ、難レ

去加様ニ申

也。世ニ隠ナキ事ナレバ、定テソレニモ聞給ケム。入道ノ方サマ

ニ、安カラヌ事ニシテ、召出テ可レ

被レ

失ナムド聞ヘシカバ、心憂

悲テ、ゲニモサ様ノ事アラバ、乍レ

生恥ヲ見ムモウタテクテ、君ニ

モシラレマヒラセズ、人独ニモ不レ

被レ

知シテ、(中略)

定テ君ハ、「隆房ニ心ヲ通シテ、被レ

隠サ

タル歟」ナドモヤ思召候ラ

ムト、ハヅカシクコソ候ツレ。

李鮮瑛

(

)

氏は「身程ノハヅカシサ」を、中宮を押しのけて帝の寵愛を受け

たことが身の程に過ぎた「ハヅカシサ」であると考察したが、むしろ世

の中(清盛)に対する恨みに加えて、出奔せざるを得なくなった自らの

境遇に対する「ハヅカシサ」なのではないか。小督にとって生きて「恥」

をみるということは清盛の「是ヲ取テ尼ニナセ」という言葉を踏まえた

もので、出家させられることに対する「恥」なのである。小督はその恥

をかくまいと、高倉天皇にも知らせず内裏を出て入水を考えたが、自害

することは即ちと悪道に落ちるということなので断念している。高倉天

皇が隆房と復縁を疑う事を心配して、これを「ハヅカシ」として記す。

この「ハヅカシ」は高倉天皇への未練であろう。このように小督の出奔

理由は「ハヅカシ」や「恥」を用いて表現されている。特に出家させら

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――――

れることについて「恥」と描写していることに留意したい。小督は、明

日には大原に入るつもりであったと、自ら仏道に入る事を示すが、結局

内裏に戻されることになる。

小督はやがて姫君を出産する。しかし、百日を過ぎたころ清盛が清涼

殿に押し入ってきて枕元に立ち、小督が中宮の心を悩ましていると激怒

し、小督の髪を切り捨てて尼にさせた。小督の出家は史実においても事

実であったことがわかっている。『山槐記

(

)

』治承四年四月十二日条の範

子内親王初斎院記事の中に「母権中納言成範卿女、号二

小督殿一

、即新

院女房也、生二

此宮一

之後不レ

参、去年冬為レ

尼、生年廿三也、有二

子細一

歟、不レ

知二

其由一

」と、小督は出産後すぐ出家したが、その理由は不明

であると記されている。角田文衛

(

)

氏は、その理由を小督の父・成範と清

盛の関係から考えて、小督に対して強い圧迫を加えたとは思われないと

述べ、出家の原因を高倉天皇の乱脈な後宮に対する失望や、隆房を心な

らず裏切った深い後悔の念に求めた。実際の理由はともかく、延慶本で

は小督は清盛に髪を切られ「心ナラズ尼」になったのである。髪を切ら

れた小督は再び、「哀、嵯峨ニテ思立タリシ時、大原ノ奥ヘモ尋入テ、

吾ト様ヲモカヘタラバ心ニクヽテ可レ有ニ、無レ

由モ再被二

召帰一

テ、恥

ヲ見ツル悲シサヨ」と内裏へ戻されたことも、嵯峨で出家していなかっ

たためだと後悔し、恥を見る悲しさを歎いた。

髪を切る行為は出家の意志を表す。第一末の「成親卿ノ北方君達等出

家事」では、成親が処刑されたことを聞いた北方が、もう一度夫に会え

ると思い「憂キ身ナガラ髪ヲ付テ有ツレドモ、今ハ云ニ甲斐ナシ」と、

自ら髪を切り出家する。第五本の「通盛北方ニ合初ル事付同北方ノ身投

給事」では、亡くなった小宰相を通盛の鎧を着せて海に沈ませたあと、

乳母子の女房は悲しみのあまり自ら髪を切り落とし、律師忠快が髪を剃

って戒を授けた。第五末の「維盛卿高野詣事」では、時頼は聖を尋ねて

出家の志を述べるが断られ、自ら本鳥を切り、出家して西山嵯峨の釈迦

堂の辺、法輪寺の内往生院という所に閉じ籠る。さらに、十三「時頼入

道々念由来事付永観律師事」では、対面を拒む時頼を恨んだ横笛が自ら

髪を押し切り、庵室の窓に投げつけ、出家する。これらの人々は出家へ

の意志を髪を切る事で表明し、その後戒を授かる。一方、小督と同様髪

を切られて出家に至った人物もいる。巻一の十七「蔵人大夫高範出家之

事」では、殿下乗合事件で恥をかいた資盛の復讐のため清盛に命じられ

た片田舎の侍によって殿下の代わりに高範が本鳥を切られた。高範は本

鳥を付けて自らも本鳥を切る演技をして出家する。ここで興味深いのは

資盛の恥を髪を切る行動で復讐したことである。髪を切られる行為は武

士の名誉を損することと等しいのである。小督が内裏を出奔しながら

も、出家願望を持っていたことを踏まえれば、小督も他人により出家さ

せられたことに恥を感じたといえる。つまり、出家というものは飽くま

でも自ら行う事であって、他人の手によることは恥という社会通念の存

在を示す。

髪を切られた小督はまた入水を考える。しかし、悪道に堕ちることを

恐れて、「今生ハカリノ事、一旦ノ恥モナニナラズ。後生ハ終ノ栖ナレ

バ、浄土ヲコソ願ハメ」と、思い直し、大原の奥に入って一向念仏を唱

える。少しも怠る事なく行ったところその功が積って、臨終正念して往

生の素懐を遂げたのである。このように小督は清盛によって出家させら

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れてしまったが、それをこの世だけの「一旦ノ恥」、一時的なものだと

受け止めて心を改め、念仏修行を行ったのである。ここで注目すべき事

として小督の恥は、髪を切った清盛に対する恨みではなく、切られたこ

とに対する恥であることである。そして、小督は今生を仮の場所とし、

起きてしまったことは諦めて後生を永遠に生きる場所とすることで、そ

れまで悩まされていた恥を覆すことができたのである。この論理は建礼

門院の場合と類似する。興味深いこととしては建礼門院も小督も起こっ

たことに対して歎いたり、恥入ったりするのだが、その契機となった人

物に対する恨みなどは持たないことが挙げられる。

皇嘉門院

巻六の「皇嘉門院崩御事」は、皇嘉門院(藤原聖子)の出

自、出家、修行、善知識、往生の奇瑞が短篇的に記された短い章段では

あるが、往生譚としての条件は十分揃っている。長門本はほぼ同内容

で、四部合戦状と源平盛衰記は崩御の哀傷を述べるのみで往生の記述は

省略される。崇徳院の后である皇嘉門院は院が讃岐へ流された時の「御

物思ヒ、何計ナリケム」と、語り手は皇嘉門院の思い煩う様子を哀れ

む。「命ハ限アリ、思ニハ死ヌ習ナレバヤ」と、命には期限があるので、

思い煩うことでは死なないと気付き出家したとする。『女院記

(

)

』には

「保元元年十月十一日法性別業ニテ為レ

尼。年卅五。垂尼云

。長寛元年

十二月廿六日九条亭ニテ出家

(

)

」とあり、最初の法名は清浄恵、七年後の

長寛元年の出家の際には法名を蓮覚

(

)

と改めた。「垂尼」とは、剃髪せず

髪を短く切って垂らした在俗の尼をいう。延慶本で記している出家が、

保元元年か長寛元年かは確かめられないが、どちらにしろ崇徳院が長寛

二年に崩御したので崇徳院の死が直接な出家の動機ではない。延慶本で

は出家の動機を夫の配流としており、出家した後に一向後生菩提の営み

を行い、「院ノ御菩提ノカザリトモナリテ、吾御身ノ得道無疑」と記し

ている事から、夫と本人の御世菩提のためであったことが窺える。ここ

で参考にしたいのが夫を亡くした妻たちの出家記事である。延慶本では

「昔モ今モ夫ニヲクルヽ人多レドモ、サマナドカウルハ世ノ常ノ事也

(

)

と夫の死後出家するのは世の常識であると記している。また、巻九の

「平家ノ人々ノ頸共取懸ル事」には「サテモ今度被打ヌル人々ノ北方、

サマヲカへテコキ墨染ニ成ツヽ、念仏申テ後生訪給」と、平家の処刑さ

れた人々の北方が出家してから念仏をし後生を弔ったという記述もみら

れる。巻二の「成親卿ノ北方君達等出家事」には、成親の北方の出家記

事がある。成親が鹿ケ谷の事件で捕らえられ、処刑された後、北方は自

ら髪を切って雲林寺で戒を受け、夫の追善供養を営んで菩提を弔った。

巻十一の「重衡卿日野ノ北方ノ許ニ行事」には、重衡の北方の出家記事

がある。重衡が日野を尋ねた後、法戒寺の上人に戒を受けた。重衡が処

刑された後、骨を拾って高野へ送って供養した。重衡をはじめとする平

家一門の北方や成親の北方は夫の死後出家して後世菩提を弔ったと、そ

れぞれの物語を締め括る

(

)

。しかし、巻十の「維盛ノ北方歎給事」では、

維盛が高野山で出家して熊野の那智で入水したことを聞いた北方の「サ

マヲモ傷、身ヲモ投給ヌベクゾ覚ヘシ」という記述はあるが、出家や入

水の言及はない。「夫の死→妻の出家→後世菩提を祈る」が一つのパター

ンとなっている中で、さらに夫の最期によって出家記事の有無が決まる

と想定できる。つまり、謀反や合戦で夫を殺された妻の場合は出家と供

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――――

養が描かれるが、那智で入水した維盛の北方について、その出家と供養

は描かれないということである。周知の通り崇徳院は讃岐に配流され、

都に帰れぬまま崩御し、怨霊となったとされる。つまり、皇嘉門院の出

家も謀反や合戦で夫を殺された妻の出家と供養のパターンに附合する。

武久堅

(

)

氏は『玉葉』などの皇嘉門院供養記述から「九条家にとっては、

皇嘉門院の供養はそのまま崇徳院の供養であったことであろう」と推察

した。延慶本と長門本が「皇嘉門院崩御事」を往生譚として収録したこ

とにも同様な背景があったと考えられる。さらに大乗院供養表白である

歴博本『転法輪鈔』には、九条兼実が建久五年(一一九四)八月十六日、

皇嘉門院の追善のために、彼女の生前の御所を比叡山無動寺内の敷地に

移築して大乗院を建立した際の記述がある

()

。その内容をみると、「所謂

前皇嘉門禅定仙院者、先公長女、天治元妃。三宮啓令之昔、女氏筆流芳

名、双鬢剃除之後、僧伽衣薫戒香」と、出家後の僧侶たちの衣に戒香が

薫ったとする。持戒の人の徳を比喩した表現である。

延慶本では、臨終の善知識は大原来迎院の本浄房湛慶である。湛慶に

ついては本章段では特に言及されないが、他の章段を確認すると、巻十

一の「大臣殿父子 

重衡卿京ヘ帰上事付宗盛等被切事」においては宗盛

父子の有髪作法を授けて念仏を勧めた人物として登場する。宗盛は受戒

後高声に念仏を百返繰り返したとする。また、巻十一の「経正ノ北方出

家事付身投給事」では、若君を殺された経正の北方に対して出家して子

供の後世を弔うように説得した人物でもある。経正の北方は百日無言の

念仏を行った。これらをみると、湛慶が念仏を重んじ、源平合戦で敗北

して朝敵になってしまった平家の救済と関わっている事がわかる。朝敵

の救済という点に着目すれば、この章段における湛慶の登場は皇嘉門院

の往生を通じて崇徳院の救済を連想させるものと考える。皇嘉門院は十

二月三日崩御した

(

)

が、往生の瑞相の一つである「異香」が仏前にするこ

とによって往生が確認された。『玉葉

(

)

』では臨終の違乱を心配していた

が、十二月一日から毎日戒を受けたこともあって崩御の様子を「御心神

安穏、手取二

五色旗一

、心係二

九品望一

、安然而令二

入滅一

給了」と、御臨

終の姿が思いの如く神妙であったと記す。

さて、延慶本では「夫の死→妻の出家→後世菩提を祈る」が一つのパ

ターンになっているといったが、出家・修行に留まる記事と往生が記さ

れる記事では何が異なるのか。ここで一つ注目したいのが「御物思ヒ」

で苦しんでいた皇嘉門院が「命ハ限アリ、思ニハ死ヌ習ナレバヤ」と、

現世での苦悩を解消しようと考えを改めたことである。「御物思ヒ」が

何に対する思いなのか具体的に記されない。ただ、讃岐に配流された崇

徳院に対する憐憫や一人都に残されている自身の境遇に対する思いであ

ると想定できる。また、建礼門院や小督の「一旦」の論理のように現世

のことを一時的なものとみて来世に託そうとする表現はないが、皇嘉門

院の「命ハ限アリ」という認識に通じるところがあると考える。上記の

表現がなく、崇徳院の配流の記述だけであったとしても出家の動機は十

分に伝わる。しかし、敢えて思い煩ったと記し、またそれを考え改めた

としていることからは、苦悩とその解消が延慶本の女人往生において重

要な要素であったことがわかる。

義王・義女・閉・仏

巻一の「義王義女事」では四名の往生が描かれ

Page 9: 延慶本『平家物語』に於ける女人往生 · 別離ノ期ニ非ヤ。サレバ可尊ノ来迎ヲ期シ、三途ノトボソヲ閉テ出離之妙果ヲ願フ。是只一門テ、九品ノ台ヲ願ヒ、一門之菩提ヲ祈ル。サレバ一念之窓ヲ開テ三悲願証明ヲ憑テ、三時ニ六根ヲ懺悔シ、一筋ニ今生ノ名利ヲ思捨

――――

る。閉の娘である義王は妹義女と共に白拍子として清盛に寵愛された。

不足のない生活を送っていたが、ある日、白拍子の仏が推参する。清盛

は義王がいるので、「仏モ神モ不レ

可レ

然」といい、追い返す。しかし、

義王は遊者の習として「メサレドモ加様ノ所ヘ参ルハ常ノ事」と説得し

て、見参して帰さないと仏の面目が立たないと呼び戻すことを促す。そ

して、義王のために呼び戻された仏は「能」を披露する。仏は清盛に対

する祝言の意の今様を三返上手に歌い、舞いを舞う。これを清盛は「二

心」もない様子で見惚れていた。その様子を義王は可笑しく思って「少

シ打咲テ」、いたとする。この様子はまだ余裕を持っているようにも見

えるが、気持ちが移った事に気付いても敢えて信じたくないと回避する

ようにも見える。清盛は舞いが終わるのも待たずに仏を抱いて寝室へ入

る。清盛の気持ちは既に仏に移っており、義王は退出させられることに

なった。語り手は「加様ナル遊者ナレバ、必ズサテシモ長ラヘハテ給ハ

ジ。終ニハカクコソアランズラメ」と、遊者の儚さを痛感している義王

の気持ちについて「指当リテ人目ノ恥シサ、心ノアヤナサ、ナゴリノ悲

シサ」が推し量れて気の毒だと記す。里に帰った義王は涙を流しながら

母に、自分を高貴な家に奉公に差し出すことも

(

)

、どこかに養女にするこ

ともできたはずだが、「加様ナ遊者」つまり白拍子にしてしまったので、

このような憂目にあったと恨みを吐露する。義王は何れ捨てられること

は覚悟していたが、同じ遊女に思いが移ったことに対して「口惜」く思

うと述べた。義王は淵川で入水したいといい、妹に母を頼む。しかし、

閉は親より先に死ぬ事は不孝なことだと指摘し、五逆罪を説いて入水を

制止した。その後義王は想い沈んで次第に衰えていく。

翌年の春になって清盛は仏の「ツレ」を慰安するために義王を呼

びよせる。しかし、義王は母に今更都を追い出されても殺されても恨む

ことはないと言い、清盛の呼び出しに応えない。幾度にわたる召喚にも

従わないので、清盛は「今度申切レ。相計フ旨有」と腹を立てた。これ

を聞いた母は泣きながら老いた身に憂目を見せることなく生きて孝養を

してくれと頼む。そして、清盛に参上した後、出家するように説得す

る。これを聞いた義王は止む無く義女と白拍子を連れて参上した。しか

し、義王たちの席は縁に置かれて一段下がっており、それを見た義王は

涙が止まらず、心中ではその場に行かせた母を恨んだ。宿所に戻ってか

ら「母ノ仰ノ重クシテ参タレバ、ウキ目ミル事ノ悲シサヨ」と母にその

恨みを向ける。その後「世ノ人、『入道殿ステハテ給ヌ』ト聞ケレバ、

心ニクヽ思テ、我モト文ヲカヨハシ、縁ニ付テ契ヲ結ブベキ由申ケ

レドモ、不二

聞入一

シテ、義王ハ廿二、義女ハ廿、母ハ五十七ニテ一度

ニサマヲカヘテ、皆墨染ニ成ツヽ」と、清盛に捨てられたことを聞いた

世の人々から文が送られてきたが、それを聞き入れずに出家したのであ

る。このことについて佐伯真一

(

)

氏は、「最高の権力者たる清盛の愛人と

して、頂点を極めた遊女としてのプライドが許さないのであろう」と解

釈した。義王・義女・閉は出家して嵯峨の奥でひたすらに「後生浄土、

極楽往生」を祈っていた。そこに清盛の館から出奔し尼になった仏が訪

ねてくる。仏は自分のせいで清盛に捨てられた義王の事を心苦しく思っ

て「諸共ニ後生ヲ祈リ、此ノ日来ノ恨ヲモ休メ」るため、尼になったと

述べる。仏によって義王が抱いた感情が「恨」として表現される。義王

は仏の訪問によって恨みの念を懺悔し、四人一所に勤めを行って遂に仏

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――――

道を遂げる。義王の往生で最も重要なことは仏による懺悔によって恨み

を引き払ったことである。牧野淳司

(

)

氏は義王の物語を〈母―子〉の問題

化から「生まれる種々の(自身・母親・仏への)恨みの「懺悔」の物語

―解消から往生へ向かう物語―を構成」したと指摘する。この恨みの解

消というのが懺悔という行為によって表現されているが、これは仏の訪

問によるものである。つまり、仏によって義王は恨みを持つが、仏が出

家して訪問することによって恨みが解消できたのである。換言すれば義

王の往生は仏の導きによるものといえる。

「三条サヘキノ頭」の妻

巻五の「文学ガ道念之由緒事」は文覚の発

心譚が描かれる。「三条サヘキノ頭」の妻は盛遠(文覚)が渡辺橋供養

で見初めた鳥羽の女房の母である。本章ではこの「三条サヘキノ頭」の

妻に焦点を当てて論じたい。具体的な出家記事はないが、「尼公」とい

う記述から出家していたことがわかる。盛遠は一目惚れした女房を探し

求めるために説法を行った聖を問い質す。聖は女房が刑部左衛門の妻と

言い、女房の父が生きていたころの刑部左衛門は釣り合わない相手であ

ったが、嫁ぐことになったので、その母が「未ダ

心ヨカラズ」と思って

いると述べた。盛遠は刑部左衛門に仕えて本意を遂げようとするが、す

ぐ思い直して尼公に近付く。盛遠は自分は上西門院に久しく仕えていた

が、六波羅には出仕できなかったと語る。この尼公は盛遠の上西門院の

経歴に好感をもち、その場で盛遠を養子とする

(

)

そんな盛遠に尼公は刑部左衛門の不満を漏らす。大事に育てた娘に

「高フルマヒ」をさせようとしたが、夫の死後突如として刑部左衛門に

嫁いだと嘆く。娘と疎遠になってから尼公は夫の事だけを考えて供養を

行う。唱導の詞を聴聞し、すぐに発心修行して夫の後世菩提を祈りつ

つ、自身の臨終も祈ろうと思ったがそれはしなかった。その理由を以下

のように記す。

月日ノカサナルニ随テ、此ノ女子ノ事思出ラレ、又幾程ツレハツマ

ジキ事ヲ思フニモ、ナニノ心モヨワリテ不孝ユルシテ候ヘバ、此程

ハ悦テ通フ也。凡ハ、幾程ナラヌ夢ノ世ニ、心ヲタテタリトモナニ

カセム。

月日が経過するにつれて娘の事を思い出し、己の反対を押し切って刑部

左衛門に嫁いだ娘を許せるようになり、復縁を期待するようになったの

である。このように尼公にとっては亡夫よりも娘のことが気がかりであ

って、一度起こした発心もおさまってしまったのである。

盛遠は邸宅で生活しながら娘に対面できる好機を窺ったが、三年経っ

ても碌に姿を見ることも出来なかった。しかし、鳥羽の女房に対する気

持ちは衰えることなく、やがて恋煩って病床につく。盛遠は病の様子を

心配する尼公に責められ積年の片思いを打ち明ける。尼公は娘を恋慕す

る気持ちを聞いて喜び、娘との間をとりもつことを承諾した。尼公は病

を偽って娘を呼び寄せ、事情を話す。そして兄弟として今まで対面して

いないことを非難し、世の通念として姿だけでも見せて盛遠を助けるよ

うに促す。鳥羽の女房が唖然としていると、尼公は親と子は前世からの

契りなのに、疎遠になっていた娘をまた非難し、逆に盛遠の至極な孝行

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――――

を称賛する。そして盛遠にもし死なれたら「生涯ノ恨」になると言い、

夫婦になれというのは難しいだろうが、再度世の通念として盛遠を助け

るために催促し、さらにそれが叶わないなら絶縁だと脅迫する。鳥羽の

女房は刑部が盛遠を意識して実家に通うことを注意していたこと、女と

しての貞節、兄弟であるからこそ承諾できないと抗弁する。それを聞い

た尼公は飽くまでも兄弟としての対面であることを主張して娘が断れな

いようにし、鳥羽の女房が苦渋の決断を下すしかないほど追い詰めるの

である。小林美和

(

)

氏は、このような母について「娘へ断ちがたい愛情の

コンプレックス」があり、娘には母の気に入らない人と結婚したという

「不孝の思いが念頭にあった」と指摘する。鳥羽の女房と盛遠が対面す

ると、尼公はその部屋から退場し、鳥羽の妻は夫の殺害計画を自ら持ち

かける。しかし、彼女は最初から死ぬ覚悟であったので、夫の身代わり

となって盛遠に殺された。長年愛していた女を自らの手にかけたことを

盛遠は後悔し、刑部左衛門に自分を殺す事を懇願するが、刑部左衛門は

出家して女房の菩提を祈るように言い、二人を出家に導いた女房を観音

の垂迹とする。女房は死ぬ前に形見として消息を残し、「イトヾ女ノ身

ハ、罪フカキ事ニコソ候ナルニ、ウキ身ユエニ多ノ人ノウセヌベク候ヘ

バ、我身一ヲ失候ヌル也」と、己を犠牲とする発言をし、その上「母ニ

先立マヒラセテ、物ヲ思ワセマヒラセムキミコソ心ウク」と、母への不

孝を詫びる気持ちを綴り、仏になって左衛門と母を迎えにくるといっ

た。これを見た母の様子は以下のように描かれる。

イトヾ目モクレ心モキヘテ、モダヘコガルヽ有サマ、タメシ有ベシ

ト覚ヘズ。冥途ニモ共ニ迷ヒ、猛火ニモ共ニ焼ム事ナラバ、イカヾ

ハセム。

このように泣き崩れ正気を失ったかのように深く苦しむ母の様子が尋常

ではなかったと記し、冥途や地獄に共にしようともできないという。こ

の歎きは娘に選択を迫って詰め寄った母の後悔であり、自省心が表れて

いる部分でもある。その後、天王寺で「只ハヤ命ヲメシテ浄土ニミチビ

キ給ヘ。我仏ニナリテ、ナキ人ノ生所ヲモ求メツヽ、一仏蓮台ノ上ニ再

行アワム」と、再会を祈念する事が格別であったと記す。天王寺は念仏

信仰の「メッカ」をなしており

(

)

、尼公は翌年五十五歳で亡くなった際、

「終ニ往生ノ素懐ヲ遂」げたと記述されている。夫の死では修行に踏み

切ることができなかったが娘の死を契機として仏道に入り、往生を遂げ

たのである。鳥羽の女房が善知識となって母を往生へ導いた。小林美和

(

)

氏の「延慶本の発心譚の一面が母尼公の懺悔譚であるという所以はここ

にあり、その意味で、こうした状況設定は重要な意味を持つ」という指

摘には同意する。尼公にとっては執念の対象であった娘によって往生へ

と導かれたのである。延慶本では尼公以外にも子供の死を契機に出家す

る例が見受けられる。上記で触れた巻十一の「経正ノ北方出家事

付身

投給事」には、経正の北方が若君を殺され、大原の来迎院で出家したと

記す。その後息子の首を抱いて天王寺に行き、百日間無言で念仏をし

た。しかし、悲しさに耐え切れなかったのか百日目に渡辺川で高声念仏

を千返して入水する。さらに巻二の「成親御出家事

付彼北方備前ヘ使

ヲ被遣事」で、平康頼の母は幼いころ両親を亡くし、若くして夫を亡く

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――――

し、三人の子供の内、女子二人も亡くした後、出家して往生だけを求め

ている。子供の死によって世俗から離れ、自分自身と亡くなった家族の

後世菩提のために祈ることが窺える。当然ながら子供に対する愛や悲し

みは見受けられるが、これらの章段には子供に対する執念も悔悛の情を

示すことも様子もない。また、『平家物語』諸本における尼公の描き方

を確認すると『四部合戦状』では尼公が娘を非難したり責めることなく

二人の仲を持つ。しかし、長門本と『源平盛衰記』では甥である盛遠に

殺されかけた尼公の命を助けるために娘は盛遠と一緒になる。尼公はた

だ涙を流すだけの弱い老尼として描かれ、盛遠のみが悪人とされる。諸

本と比較すると、延慶本のみが娘への執念と悔悛の情を明確に描写され

ていることがわかる。尼公は執着していた娘に導かれて往生を遂げた。

これは義王が恨みの対象とする仏と再会し、懺悔することで往生を遂げ

たことと類似する。つまり、恨みあるいは執念の対象によってそれが解

消され、往生へと導かれるのである。

結びにかえて

延慶本における女人往生譚をみると、女人たちは悪事つまり死別・失

恋といった逆縁によって出家しても断ち切れない現世での執念・恨み・

恥などの苦悩を持っていた。その苦悩の対象が自分の置かれた境遇の場

合は、現世だけでの苦悩だと思うことで、後世菩提に励むことができ

た。また、その対象が人物である場合、相手の人物によって往生へと導

かれる。苦悩の対象を何におくかによってその描き方は少々異なるが、

「苦悩の解消」という枠組みから考えると、同じく現世に思い残すこと

なく仏道を励むことができ、往生を遂げたという構造になっている。

『平家物語』が源平合戦を背景とする軍記物語である以上逆縁による

出家の顕著は当然かもしれない。一応、延慶本でも逆縁ではなく、順縁

による出家も見受けられる。巻三の「法皇ヲ鳥羽ニ押籠奉ル事」では左

衛門佐の出家記事がある。左衛門佐は後白河院が鳥羽に幽閉された際

に、「左衛門佐ト申シ女房、出家ノ後ニハ尼ゼト召サレシ尼女房一人ゾ、

御車ノ尻ニ参リケル」と、出仕を唯一許された人物であった。出家の契

機に関しては触れていないが、「静憲法印法皇ノ御許ニ詣事」に参考と

なる記事がある。

此左衛門佐ト申女房ハ、若クヨリ法皇ノ御母儀待賢門院ニ候ワレケ

ルガ、品イミジキ人ニテハナカリケレドモ、心サカシウシテ、

一生不犯ノ女房ニテオワシケレバ、「浄キ者ナリ」トテ、法皇ノ御

幼稚ノ御時ヨリ近ク召仕ワセ給ケリ。臣下モ君ノ御気色ニヨテ、尼

御前トカシヅキヨバレケルヲ、法皇ノ、ウヤマウ字ヲ略シテ、御カ

タコトニ、尼ゼト仰ノ有ケルトカヤ。カヽリケレバ、鳥羽院ヘモ只

一人付マヒラセラレタリケリ。

左衛門佐の出自に関しては未詳だが、延慶本では傍線部で確認できる

ように「品イミジキ」、「心サガシウシテ」、「一生不犯ノ女房」とい

った左衛門佐の性質について触れている。「一生不犯」は延慶本巻一の

「後二条関白殿滅給事」で伝教大師に対して「此中ニ『天台ノ一ノ箱』

ト名テ、一生不犯ノ人一人シテ見事ニテ、輙ク開ク座主希ナリ」、ま

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――――

た、巻七の「踏歌節会事」では役行者に対して「一生不犯ノ男聖也」と、

性質を描写した表現として散見される。しかし、延慶本では左衛門佐の

往生を描いていない。延慶本の往生を遂げた女人たちをみると、左衛門

佐とは異なり、聖なる存在というよりも苦悩が多く、世俗的であること

がわかる。彼女らは出家しても修行に身を入れることができずに恨みや

恥、嘆きを持っていた。こういった延慶本の描き方には、必ずしも左衛

門佐のように聖なる存在でなくても苦悩や心中の葛藤を解消することで

往生することができるということが示されている。

しかし、上記に挙げたものが延慶本の女人往生の全例ではない。巻八

「宇佐神官ガ娘後鳥羽殿ヘ被召事」の章段の宇佐神官の娘の往生では、

後鳥羽院に一夜召され、そのまま出家して、生きながら過去帳に記名さ

れている。類話を確認すると、恨みや悲しみがあっても、延慶本では描

かれず、出家の動機も苦悩も描かれない。この章段については別稿に譲

りたい。

    

(

)

『蓮如

一向一揆』(日本思想大系

十七)

    

(

)

女人往生に関する先行研究は頗る多いが、本稿では主に以下の論文を参

照した。平雅行「顕密仏教と女性」(『日本中世の社会と仏教』塙書房一九

九二年十一月)、遠藤元男「女人成仏思想序説」(西岡虎之助編『日本思想

史の研究』章華社

一九三六年)、笠原一男『女人往生思想の系譜』吉川

弘文館

一九七五年

    

(

)

「ぎおう」の表記は諸本によって異なるが、それぞれの諸本に従ってそ

のまま記す。

    

(

)

服部幸造「覚一本『平家物語』における女人往生」(『語り物文学叢説―

聞く語り・読む語り―』三弥井書店

二〇〇一年五月)

    

(

)

本文は『校訂延慶本平家物語』(一)~(十二)(汲古書院)による。

    

(

)

横山知恵「延慶本『平家物語』の女人往生―善智識の視点から」(『名古

屋大学国語国文学』一〇五

二〇一二年十一月)

    

(

)

佐伯真一氏は(「女院の三つの語り―建礼門院説話論」(『古文学の流域』

新典社

二〇〇六年四月、のちに『建礼門院という悲劇』

角川選書四四

二〇〇九年六月に収録))、建礼門院の語りには本来、「六道語り」「恨

みの言の語り」「安徳天皇追憶の語り」の三つがあったと想定する。

    

(

)

注に同。

    

(

)

小林美和「平家物語の建礼門院説話―延慶本の出家説話を中心に―」

(『伝承文学研究』二四

一九八〇年六月、のちに『平家物語生成論』三弥

井書店

一九八六年に収録)

    

(

)

李鮮瑛「小督物語―時代背景に基づく女人造形の考察―」(『筑波大学平

家部会論集』九

二〇〇二年六月)

    

(

)

『山槐記』(増補史料大成・一九六五年刊)

    

(

)

角田文衛「小督の局」(『王朝の映像―平安時代史の研究―』東京堂出版

一九七〇年八月)

    

(

)

『女院記』(群書類従・二九・雑部)

    

(

)

『女院小伝』もほぼ同内容。『兵範記』保元元年十月十一日条によると、

戒師は権僧正覚忠。『百錬抄』では保元元年十月一日条に「皇嘉門院御出

家」と、日が異なる。

    

(

)

『本朝女后名字抄』(群書類従・二九・雑部)

    

(

)

巻九「通盛北方ニ合初ル事

付同北方ノ身投給事」の記述。ただ、この

場面は通盛の死後小宰相が入水した事を嘆いていう言葉であった。

    

(

)

重衡の北方は安徳天皇の乳母としての物語に登場し続ける。

    

(

)

武久堅「平家物語発生の時と場―生成平家物語試論」(『軍記と語り物』

二八、一九九二年三月)

    

()

牧野淳司「〔資料紹介〕国立歴史民俗博物館蔵『転法輪鈔』解題」(『国

立歴史民俗博物館研究報告』一八八

二〇一七年三月)

    

(

)皇嘉門院の没日についてはテキストによって異同が見受けられる。『神

皇正統録』は養和元年十月三日、『興福寺略年代記』は十二月三日、『玉葉』

は十二月四日、『百錬抄』『紹運要略』『皇帝紀抄』『女院小伝』『保暦間記』

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――――

十二月五日(異本では三日)を没日とする。ただし、『延慶本平家物語全

注釈』は、『玉葉』での毎月月忌の仏事を五日に行っていた事から五日と

している。

    

(

)『九条家本玉葉』(図書寮叢刊)

    

(

)

延慶本では「ミヤタテ」と表現する。辞書などに立項されていない語だ

が、この意については、佐伯真一氏の論文による(「義王の選択―「ミヤ

タテ」の語義、そして遊女の娘の人生―」(『日本文学』五〇―九

二〇〇

一年九月))。氏は遊女の娘が高貴な家に奉公することは十分可能であった

とみて、「人生のさまざまな選択肢が、物語の中では暗黙のうちにいくつ

も捨てられている」と考察した。

    

(

)

佐伯真一氏は(「 

王は平清盛に翻弄されたのか」(『国文学解釈と鑑

賞』七〇―三

二〇〇五年三月))、さらに一流の遊女としてのプライド

と、来世への信仰によって彼女たちは自ら厳しい道を歩んだとする。

    

(

)

牧野淳司「中世における恋愛と唱導―延慶本『平家物語』「義王義女事」

の表現―」(『古代文学研究(第二次)』七

一九九八年十月)

    

(

)

名波弘彰「延慶本平家物語における文覚発心説話―地下官人社会におけ

る母娘の悲劇―」(『文芸言語研究・文芸編』三一

一九九七年三月)

    

(

)

小林美和「文覚発心譚再考―物語世界の考察―」(『平家物語の成立』和

泉書院

二〇〇〇年三月)

    

(

)

小林美和「文覚説話の展開―説話の変容」(『平家物語生成論』三弥生書

一九八六年五月)

    

(

)

小林美和「文覚発心譚再考―物語世界の考察―」(『平家物語の成立』和

泉書院

二〇〇〇年三月)