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明治大学教養論集 通巻409号 (2006・9) pp.1-21 「噺片」と「秋の悲嘆」1 富永太郎の都市体験とその詩作について みる上海の投影 詩人として,富永太郎の作品はそれほど多くない。というより,少ないと いうべきなのかもしれない。ただ,24歳の若さでこの世を去り,ほとんど の作品は死去するまでの,わずか数年のあいだに書かれたものだ。そのこと を考えると,寡作の詩人とは言えない。かりに長生きしていれば,もっと多 くの作品を残したであろう。何よりも,そのいくつかの作品は近代日本の詩 歌史において,まぎれもなく最高の水準に達している。もし早死でなかった ら,詩壇の巨人になっていたのかもしれない。 富永太郎の詩はやや難解という印象を与えることもあるが,まさにその点 こそ詩人の詩的感性,および言語芸術として純化させる天成の才能の現れと いえよう。とりわけ「秋の悲嘆」「鳥獣剥製所」「断片」「遺産分配書」(創作 順)などの作品において,詩人の鋭い言語感覚は鮮やかな表現として結晶し ている。 面白いことに,これらの詩はいずれも富永太郎の上海体験と関係がある。 もちろん「深夜の道士」や「夜の讃歌」などのように,上海に行く前に書か れた詩の中にも,傑出した作品はある。しかし,上海から日本に戻ってから 書かれた詩のほうがより完成度の高いものになっている。富永太郎の上海体 験がその詩的想像を刺激したのはまちがいないであろう。 ところで,富永太郎が上海でどのような体験をし,それが彼の創作にどの ような影響を与えたのか。これまで大岡昇平「富永太郎一書簡を通して見

「噺片」と「秋の悲嘆」1 みる上海の投影...「断片」と「秋の悲嘆」にみる上海の投影 3 年代になっても,髪の毛や腱毛が植えられている洋服屋のマネキンや,滑ら

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明治大学教養論集 通巻409号

(2006・9) pp.1-21

「噺片」と「秋の悲嘆」1            こ

富永太郎の都市体験とその詩作について

みる上海の投影

張 蛇跣

 詩人として,富永太郎の作品はそれほど多くない。というより,少ないと

いうべきなのかもしれない。ただ,24歳の若さでこの世を去り,ほとんど

の作品は死去するまでの,わずか数年のあいだに書かれたものだ。そのこと

を考えると,寡作の詩人とは言えない。かりに長生きしていれば,もっと多

くの作品を残したであろう。何よりも,そのいくつかの作品は近代日本の詩

歌史において,まぎれもなく最高の水準に達している。もし早死でなかった

ら,詩壇の巨人になっていたのかもしれない。

 富永太郎の詩はやや難解という印象を与えることもあるが,まさにその点

こそ詩人の詩的感性,および言語芸術として純化させる天成の才能の現れと

いえよう。とりわけ「秋の悲嘆」「鳥獣剥製所」「断片」「遺産分配書」(創作

順)などの作品において,詩人の鋭い言語感覚は鮮やかな表現として結晶し

ている。

 面白いことに,これらの詩はいずれも富永太郎の上海体験と関係がある。

もちろん「深夜の道士」や「夜の讃歌」などのように,上海に行く前に書か

れた詩の中にも,傑出した作品はある。しかし,上海から日本に戻ってから

書かれた詩のほうがより完成度の高いものになっている。富永太郎の上海体

験がその詩的想像を刺激したのはまちがいないであろう。

 ところで,富永太郎が上海でどのような体験をし,それが彼の創作にどの

ような影響を与えたのか。これまで大岡昇平「富永太郎一書簡を通して見

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 2  明治大学教養論集 通巻409号(2006・9)

          さとる                 けんた生涯と作品』,樋口覚『富永太郎』,青木健『剥製の詩学」はそれぞれ違

う角度から,その問題について検討を行った。一方,解明されていない課題

も残っている。そうしたことを視野に入れながら,異空間体験としての上海

滞在という視点から,そのいくつかの詩の解読を試みたい。

1.下宿先という謎

 まず「断片」という散文詩を取り上げてみたい。この作品を読んで,反射

的に上海のことが思い出された。もちろんこの詩は上海を描いたものではな

い。詩人にとって,この半植民地の都市は,あくまでも自分の内面世界を投

影するスクリーンにすぎない。ただ,一方ではこの街の文化的無国籍性は詩

人の想像力を羽ばたかせるのに,十分すぎるほどの浮力と風力を提供した。

富永太郎の詩において,上海の都市表象は偶然の産物と言えるかもしれない。

にもかかわらず,上海の熱気,喧喋,目まぐるしいスピード感は結果として,

独特の詩的スタイルで精緻に表象されている。近代日本の詩歌のなかでも,

また近代中国の詩歌のなかでも,都市のイメージがこれほど優れた言語感覚

で鮮やかにとらえられた例はほとんど見ない。

 ここで「断片」のなかの一節を見てみたい。

 私は幾日も悲しい夢を見つづけながら街を歩いた。濃い群衆は常に私

              かざりまどの頭の上で蚕いてゐた。時々,飾窓の中にある駝鳥の羽根付のボンネッ

トや,洋服屋の店先にせり出してゐる,髪の毛や腱毛を植ゑられた蝋人

形や,人間の手で造られてはならないほど滑らかに磨かれた象牙細工や,

あか  いうど                           ぶ さほう

紅く彩られた巨大な豚の丸焼きなどが無作法に私を呼び覚ました。私

は目醒め,それから,また無抵抗に濃緑色の夢の中に墜ちて行った。

この風景は一面において,きわめて写実的とも言える。じっさい,1960

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「断片」と「秋の悲嘆」にみる上海の投影  3

年代になっても,髪の毛や腱毛が植えられている洋服屋のマネキンや,滑ら

かに磨かれた象牙細工や,巨大な豚の丸焼きは上海の街のいたるところで見

られた。しかし,富永太郎の手にかかると,そうした日常の中の,卑俗的な

一コマも一瞬にして,詩的風景に変わってしまった。

 このような,比較的イメージしやすい都市表象がある一方,やや解読しに

くい,複数の心象風景が複雑に絡み合う場面もある。富永太郎はばらばらに

浮遊する都市のイメージを独自の言語秩序で再組織することに長けていた。

 ところで,この作品のなかで,詩的想像がどのような空間経験のもとで生

まれたのかという問題に触れる前に,まず富永太郎がどのように上海という

都市を見ていたかについて,その足跡を追いながら,見てみたい。

 富永太郎は1923年11月19日,山城丸に乗って神戸を出発し,上海に向

かった。3日後の22日に上海に到着。1924年1月末頃,日本に帰国した。

約70日間の滞在であった。

 1923年11月21日,22日付けの正岡忠三郎宛書簡によると,上海呉湘路

226号の「日の丸旅館」に宿泊していたが,11月27日の書簡によると,上

海Yuhang Rd 2039号に移ったという。しかし,その間,手紙と絵をのぞ

いて,上海についてほとんど何も書かれていない。「上海日々新聞」の社員

にフランス語を教えること,地図の校正をすることを除いて,滞在中に彼は

何をし,どこを訪れたかもほとんど知られていない。

 上海発の書簡を日付順に整理すると,次の通りである。

月 日 宛 先 執筆地 大岡編番号11.21 正岡忠三郎 船上 (L.53)

11.22 正岡忠三郎 上海 (L53)

11月(日不明) 富永次郎 上海 (L54)

11.27 正岡忠三郎 上海 (L55)

11.28 正岡忠三郎 上海 (L56)

12.8 正岡忠三郎 上海 (L57)

12ユ3 富永次郎 上海 (L.58)

12.20 富永次郎 上海 (L59)

1220 正岡忠三郎 上海 (L60)

12.30 正岡忠三郎 上海 (L61)

1230 富永次郎 上海 (L.62)

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 以上のように,船で書いたものを除くと,全部で10通。平均して1週間

に1通の手紙を書いたことになる。

 そうした書簡と,日本に帰国してから書いた詩を手がかりに,富永太郎が

見た上海について探ってみよう。

 山城丸が長江の入口から入り,黄浦江をさかのぼって上海の港に入港した

のは1923年11月22日の昼過ぎ。当時,日本からの船はバンドからやや南 ウェ-サイド

の潅山埠頭(Wayside Wharf)に接岸していた。山城丸も同じだと思わ

れる1)。

 大正4年以降,上海航路の定期命令船は,神戸上海間が本線に,横浜上海

間が付属線に変更された。その頃の命令本線には2,500トン級の博愛丸,山

城丸,近江丸,筑前丸,筑後丸の5隻が就航していた。大正12年春,日華

連絡船が開かれ,長崎丸をはじめ,5,000トン快速客船2隻が,処女航海を

した2)。富永太郎が上海に渡航したとき,最新鋭の長崎丸がすでに就航して

いたが,神戸から出発したので,乗ったのは2,500トン級の山城丸であった。

 船を下りると,目の前にバンドのパノラマが見える。しかし,富永太郎の

手紙のなかでも,詩のなかでもバンドらしい風景はまったく出てこない。彼

は西洋的な建築が立ち並ぶバンドにはほとんど興味がなかったのであろう。

 11月22日の手紙によると,到着した日は「上海呉湘路226号の日の丸館」

に宿泊したという3)。宿について,同日の正岡宛の手紙に次のように記され

ている。

 日本人のやつてゐる下宿兼旅館といつたやうなうちだ。暗い路次のつ

                        ふすまきあたりの支那風の土壁の家だ。中に入ると畳がしいて襖が立つでゐる。

 この建物は外見が中国風だが,中は和室になっている。日の丸旅館につい

て,樋口覚は現地で調査し,前述の著書のあとがきでその所在について,

「(富永太郎の)下宿兼旅館だった日の丸旅館はいまは代書屋のようなことを

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しているらしい」と書いた4)。著書の口絵には現地で取った写真が掲載され,

そのキャプションにも「旧日の丸旅館」とある。

 ところが,調べてみると,その場所は富永太郎の書簡の記述と齪露がある

ことがわかった。樋口覚の著書には,前出の写真とともにもう一枚の写真が

掲載されている。この写真を見てわかるように,写真の建物は余杭路と呉瀬

路と交差したところにある。しかし,富永太郎は11月22日付けの正岡忠三

郎宛の書簡のなかで,「暗い路次のつきあたりの支那風の土壁の家だ」と書

いており5),樋口覚が撮影した写真は富永太郎がいう「暗い路次のつきあた

り」ではないのは明らかだ。残念ながら,旧日の丸旅館にあたる場所は上海

の急速な都市開発の波にすっかり呑み込まれてしまい,いまやすでにその痕

跡が残されていない。

 富永太郎はその日の丸旅館に約4,5日宿泊して,11月27日の正岡忠三

郎宛ての書簡には

こsへ移つた。

C/OMm, ROaCh 2039 YUhang Rd. Shanghai

と書いた。この住所について,樋口覚が「余杭路」としているのに対し6),

青木健は『剥製の詩学』のなかで「有恒路」と表記している7)。いずれも,

とくに説明はなかった。前者は現在の地名で,中華人民共和国が成立した後

に変えた道路名である。後者は当時の名称である。上海語では「有恒路」と

「余杭路」とが発音が近いから,字を変えたのであろう。ただ,いずれも同

じ道路を指している。

 ところで,中国の地名や道路名のアルファベット表記には,併音つまり中

国語のローマ字表記と英語表記との二通りある。「有恒路」の英語表記は

Yuhang Rd.で,併音はYou Heng Luである。むろん,「有恒路」は1949

年以前の道路名で,排音の表記はなかったはずだから,You Heng Luとは

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6  明治大学教養論集 通巻409号(2006。9)

かりに併音で表記する場合の綴りである。

 一方,余杭路は中華人民共和国が成立した後に付けた地名で,排音の綴り

はYu Hang Luと表記する。現在,中国の地名や道路名の英語表記は排音

の綴りをそのまま用いるので,英語表記も同じである。

 富永太郎が上海に滞在していたとき,まだ排音はなかったから,「有恒路」

の英語表記Yuhang Rd.が使われていたのだが,それは偶然「余杭路」の

併音「Yu Hang」と同じであった。そのため,これまで富永太郎は日の丸

旅館を出てから,余杭路(有恒路)2039号に移った,というのが定説のよ

うになっていた。この点では樋口覚も青木健も同じである。

 ところが,この住所には大きな疑問がある。

 上海の道路の番号は奇数と偶数に分けて表記されている。片側が1,3,5,

7のような奇数の番号で,反対側が2,4,6,8のような偶数の番号である。

しかし,121号の道路反対側に122号,というふうに奇数番号と偶数番号は

必ずしも位置的に対応しているわけではなく,道路の曲がり具合などによっ

て,かなりずれる場合がある。また,番号は必ずしも順繰りになっているの

ではない。建物の大きさも考慮されているから,学校,病院,政府機関など

敷地の大きい場所は左右に欠番が出ることもある。たとえば77号の次がい

きなり120号ということもありうる。

 現在の余杭路は奇数番号の側が133号までしかなく,偶数番号の側は工事

中のため,最終号はまだ確定していない。ただ,ふつう奇数号と一桁の違い

はありえない。

 もちろん,現在133号までしかなくても,当時はもっとあった可能性もな

くはない。しかし,2倍なら260号台,5倍でも650号台であろう。ところ

が,富永太郎が書いたのは2039号であった。2000号台なら,じつに現在の

15倍に相当する。街がどんなに変化しても,あの短い道路にかつて2000号

台の番地があったとは考えられない。

 ところで,2039号は書き間違いで,20弄39号あるいは203弄9号という

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「断片」と「秋の悲嘆」にみる上海の投影  7

可能性はないのか。これもほとんどありえないであろう。この道路は短い上,

周辺の土地は奥行きがあまりない。大正年代の地図を見ると,有恒路には

「弄」に当たる路次はない。そうしたことを考えると,Yuhang Rd.2039と

いう住所は存在しておらず,富永太郎は日の丸旅館を出た後,有恒路の下宿

に移ったのではない,と考えるべきであろう。

 そう断定するには有力な根拠がある。「上海年鑑』1926年版には「上海在

留邦人職業別一覧」と「上海在留邦人会社銀行一覧」が掲載されている8)。

その記載リストにもとついて,大正時代の有恒路を復元すると,日本人の店

が軒を連ねていたことがわかる。奇数側を若い番地順に見ると,3号は病院

の「喜多医院」,履物屋の「弁慶屋」と「かなや呉服屋」がある。7号には

寿司屋の「入潮」があり,11号には「副島畳屋」がある。やや離れて23号

に食料雑貨を販売する「坂田商行」があり,31号には履物屋の「恰大洋行」

がある。その隣の33号は下宿屋の「八代館」で,37号は「辰巳屋旅館」で

ある。

 偶数側を見ると,小売の「岩佐商店」はc2号で,4号は「野根縫箔店」。

その隣の6号は輸出入貿易の「極東公司」と電気材料および同工事を営む

「宗洋行」で,10号は鮮魚と蒲鉾を営む「西岡商店」である。間をおいて,

34号は「吉住医院」,36号は寿司屋の「新むさし」であった。

 上に見られるように,この通りには日本人が経営する店が多く,買物客も

おそらく日本人が多数を占めていたであろう。ところが,富永太郎は上海に

行く目的の一つは,日本人からなるべく遠く離れたいことだ。11月中,弟

富永次郎宛の手紙(書簡54)には,「(茶館)へ来ると,日本人の顔は一つ

も見ないですむ。気持ちがいい。上海にゐる日本人と來たら揃ひも揃つて會

ひたくもない奴ばかりだ」と書かれている。それは日の丸旅館を出る理由の

一つだったのかもしれない。その気持ちを考えると,富永太郎は日の丸旅館

と目と鼻の先にある有恒路を下宿先として選んだ可能性はほとんどないであ

ろう。

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 8  明治大学教養論集 通巻409号(2006・9)

 しかし,富永太郎は11月27日と,12月20日の手紙のなかで,2回も同

じ住所を書いた。

 いったい富永太郎がどこに住んでいたのか。わたしはこの住所は書き間違

いではないかと推測している。じつは,「有恒路」の東に「東有恒路」とい

う通りがある。二本の道路はややずれてつながっているが,本来,別々の道

路である。英語表記なら,「東有恒路」はEast Yuhang Rd.になる。念の

ために整理してみよう。

大正時代の道路名 現在の道路名 英語の表記 併音の表記

余杭路 Yu Hang Road Yu Hang Lu

有恒路 Yuhang Road

東有恒路 East Yuhang Road

余杭東路 Yu Hang Dong Road Yu Hang Dong Lu

 富永太郎はルーマニア人のローチ夫人からこの住所表記を教えてもらった

のだが,中国語のわからないローチ夫人がうっかりしてEastという言葉を

書き漏らしたのかもしれない。というのは,East Yuhang Roadの略称は

E.Yuhang Rd.ローチ夫人がEを書き忘れた可能性は十分ある。あくまで

も推測だが,富永太郎は有恒路ではなく,東有恒路2039番に住んでいたの

ではなかろうか。

 「東有恒路」は現在「余杭東路」になっているが,今の余杭東路は奇数は3

号から1395号しかなく,偶数号も1354号までしかない。しかし,当時,もっ

と番地が多かった。その根拠として大正15年に刊行された『上海年鑑』(上

海日報社)の記載が挙げられる。「上海邦人営業別名簿」26ページを見ると,

「鶏卵」という職業別の下に「植松商店 東有恒路c3570号」とある。当時,

少なくとも3570番まで番地があったことがわかる。

 問題は番号が東からなのか,それとも西からなのかということである。木

之内誠の『上海歴史ガイドマップ』を見ると,番号は西から東へと大きくなっ

ており,600番台は宋氏故居よりも東になる9)。ちなみに,現在の番号も西

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              「断片」と「秋の悲嘆」にみる上海の投影  9

から東へと大きくなっているから,木之内誠の『上海歴史ガイドマップ』は

概ね正確だろう。したがって,富永太郎の下宿先はさらに東のほう,つまり

アルコック・ロード(いまの安国路)辺りになると思われる。

 ところで,富永太郎は日の丸旅館に滞在しているあいだに何をしていたの

だろうか。

 書簡54によると,「毎日散歩ばかりしてゐる。有名な名所などは,案内役

と地圖をたよりに探しに行くのが面倒なので,まだあまり訪ねないが,あて

もなく町中をふらふらあるくことは毎日の日課になつてしまつてゐる。珍し

い支那の風物には到るところ出くはすが,さりとてそれを一々糟に描きたい

とは思はない」という。

 問題はどの辺りを歩いていたのかだ。まず考えられるのは住まいの近くで

あろう。日本人が最初に住み着いたのは呉瀬路辺りだ言われている。長期滞

在者が増えるにつれ,呉澱路から北四川路にかけて,日本人街が出来た。富

永太郎が上海に訪れた大正12年頃は,すでにかなりの規模になっていた。

富永太郎は弟宛の手紙のなかで「日本人の顔は一つも見ないですむ。気持ち

がいい」と書いているから,この日本人街にはあまり行っていなかったのか

もしれない。しかし,日の丸旅館に宿泊していたときや,引越をしてから,

アルバイトのために梧州路にある上海日々新聞社に通っていたとき,あるい

は何かを買い物するとき,この日本人街に行ったことはあるであろう。

 富永太郎の手紙を読むと,彼はかなり遠いところまで足を伸ばし,市内の

多くのところを訪ねたと推測できる。そのとき,四川路橋をわたって蘇州川

の南のほうに歩いていったのであろう。

2.街の音と茶館という空間体験

 雑然としていて,混沌とした上海は富永太郎の詩にどのように投影されて

いるのか。帰国後に書かれた詩を読むと,詩的想像というフィルターを通し

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10 明治大学教養論集 通巻409号(2006・9)

た朧なイメージから,上海の投影を見ることができる。なかでも,大正14

年4月の散文詩「断片」にはたいへん興味深い場面が描かれている。

 夜,私は,古着の競売場,茶館,最も雑踏の街衡,または居酒屋にあ

つて,未知の鼻音の狂熱的な蒐集者であつた。不潔な燈火の下を飛び交

ふこれらの新奇な鼻音と,交流する世界の諸潮流の海鳴りとが,私の頭

蓋中で互の協和音を発見し合ひ,響かせ合つた。一私は誇りを以て沈

黙した。そして,花のやうに衰弱を受けた。

 むろん詩的表現は現実のリアルな再現ではない。一方,この作品のなかで,

               かまぴす上海は異質な声が飛び交う場所,喧しい空間として詩人の心にエコーした

ことはまちがいない。居心地の悪さ,強烈な疎外感とそれゆえの魅力がかえっ

て詩人の言語感覚を研ぎ澄ませ,豊かな想像力をかきたてたのであろう。な

らば,そのイメージはどのような空間体験から生まれたのだろうか。

 ここで列挙されたのは「古着の競売場」,「茶館」,「雑踏の街衙」および

「居酒屋」である。屋外と室内と両方の例が挙げられているが,いずれも特

定の場所の名は触れていない。

 「断片」のなかで,とりわけ興味を惹くのは「茶館」と「居酒屋」である。

                    びおん「不潔な燈火の下を飛び交ふこれらの新奇な鼻音と,交流する世界の諸潮流

の海鳴りとが,私の頭蓋中で互の協和音を発見し合ひ,響かせ合つた」とい

う描写は,むろん前に挙げた四つの場所の,いずれにもあるのだが,わたし

はとりわけ「茶館」から受けた印象とかかわっているのではないか,と考え

ている。

 「鼻音」というのは必ずしも詩人の想像力が紡ぎ出したものではない。紹

興酒の産地であり,魯迅の故郷でもある紹興の方言は中国人の耳にも違和感

を覚えるほど,鼻音の強い言葉である。

 近代に入ってから,上海の商業を牛耳っていたのは江漸商人と言われてい

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              「断片」と「秋の悲嘆」にみる上海の投影  11

る。とりわけ紹興出身の商人はかなりの勢力を占めていた。後で触れるよう

に,「茶館」は商売の仲介所という性質を持っていた。また,ある地方の出

身者が特定の商売に従事するということも,当時では珍しいことではない。

 そうしたことを考えると,富永太郎が通っていたのは,紹興出身の商売人

が集まる「茶館」ということがわかる。「断片」のなかの「鼻音」という言

葉は想像の産物ではなく,紹興出身者の話を聞いて,そうした印象を受けた

のであろう。

 それにしても,上海の茶館はいろんな方言が飛び交っていた。そのなかで

鼻音の強い言葉に気付いたのは,並々ならぬ音声感覚と言えるだろう。

 興味深いことに,富永太郎は上海の茶館という場所がかなり気に入ったよ

うだ。正岡忠三郎や弟の富永次郎に寄せた手紙のなかで,しばしば言及され

たのは茶館である。大岡昇平が整理した書簡の54番は茶館について次のよ

うに紹介している。

 今茶館へ上つて南瓜の種をかじりながら茶をのんでゐる。この町には

方々に茶館といふものがある。大抵下が食物を商ふ店になつてゐて,二

  おおひろま階の大廣間で茶ばかり飲ませるのだ。ここもその一つ(少々下等の方)

なのだ。丁度本郷の青木堂の二階ぐらゐの廣さで,また丁度あのくらゐ

の汚なさの室だ。テーブルが三十ほど並んでゐて,今頃は人が一ぱいだ

(今は夜の八時頃)。時々給仕がピカピカ光る真鍮の大薬罐を奇術師のや

うに振りまはして急須に熱湯を注しに来る。薄暗い電燈の灯つてゐる廣

間の中は大勢の話し聲が煙草の燗ともつれ合つて一杯になつてゐる。テ

ノールからコントラバスまで,すき間もなく織り返して,まるで一つの

大きなオーケストラだ。煙草を吸ひながら眼を閉ぢると,うつとりとな

つてしまふ。

この手紙には日付がないが,内容から見ると,上海に到着して約1週間ほ

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12 明治大学教養論集 通巻409号(2006・9)

ど経ったときに書いたものと思われる。上海に到着してから,すぐ茶館に行っ

たのはなぜか。そもそもそんな場所をなぜ知っていたのか。後で詳しく触れ

たいが,当時の上海では,茶館はかなり怪しいところであった。富永太郎は

中国の事情にそれほど詳しくないし,中国語もできない。上海に着いてまも

ない頃,すぐ茶館に行ったのは,誰かが情報を提供したとしか考えられない。

 注目すべき点はもう一つある。上海に滞在しているあいだに富永太郎はよ

く茶館に行っていた。12月8日付けの正岡忠三郎宛の書簡にはこのような

言葉が書かれている。

 この頃は夜書茶館に入りびたりだ。暗い廣間の中で日夏取之介をよん

だり,自分の詩を讃み返したりして日を暮らしてゐる。

 富永太郎はなぜ頻繁に茶館に行っていたのか。理由の一つとして現地の日

本人に会いたくなかったことが考えられるであろう。では,それ以外に何か

理由はないのだろうか。とりわけ「夜書茶館に入りびたりだ」とは非常に興

味を惹く言葉だ。というのは,当時,一日中,茶館に入り浸ることは特別な

意味を持っていたからだ。

 井上紅梅は『支那風俗」のなかで,一章を割いて,上海の茶館と茶館にま

つわる当時の習俗および社会背景を紹介している。

 茶館は支那人にとつて是非ともあつて欲しい必要物だ。新聞のある今

でも此虜で世間の噂を聞き,市井の珀談や時事問題などいろいろの話が

はじまり,いはゆる耳學問の交換所ともなる。……茶館は中流下流社会

の倶楽部であり,公會所である9)。

 上海市民生活のなかで,茶館がどのような役割を果たしているか,簡潔に

まとめた文章である。当時,茶館にもランクがあった。井上紅梅は,上海の

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「断片」と「秋の悲嘆」にみる上海の投影  13

おもな茶館の店名を挙げて紹介している。

                  ソ マ ル 今上海でおもなる茶館を列墨すると,四馬路の青蓮閣,杏花櫻,四海

           いちん  いえん         きえん昇平櫻,長樂,五馬路の恰珍,恰園,交通路の綺園などで,青蓮閣は午

                         めんじっ     あぶら前中から午後に掛けて西側が石炭商,東側が太倉の綿花,綿實,油,油

かすしょう

粕商などの集まる庭で(中略),杏花櫻は雑穀商,四海昇平櫻は木行,

さくとう  せんかい

作頭,碑灰などの建築に關係する者。長樂は顔料染料商。恰珍は午前は

        こむぎこ洋雑貨商,午後は麺粉商,恰園は骨董商。綺園は染料商である1°)。

 このように茶館は商品の取引を行う場所,という側面がある。富永太郎が

どの茶館に行ったかは明らかではない。ただ,井上紅梅が挙げたのは,いず

れも名の知れた茶館ばかりで,しかも富永太郎が宿泊しているところからか

なり離れている。富永太郎がそうした茶館に行っていたとは考えにくい。お

そらく住まいに近い,小さい茶館を利用していたであろう。それもさきほど

述べたように,紹興出身の商人が集まる茶館の可能性が高い。

 上海に到着してから,弟の富永次郎への2通目の手紙の中で,富永太郎は

茶館について「大抵下が食物を商ふ店になつてゐて,二階の大廣間で茶ばか

り飲ませるのだ。丁度本郷の青木堂の二階ぐらゐの廣さ」と書いている。井

上紅梅が紹介した茶館と比べて,規模が小さい。同じ手紙のなかで,「時々

         しんちゅう給仕がピカピカ光る真鍮の大薬罐を奇術師のやうに振りまはして急須に熱

湯を注しに来る」という言葉があるが,それはお茶の入れ方の一つである。

一時,途絶えていたが,今また復活して,各地の茶館で見られる。

 茶館のほか,富永太郎は居酒屋にもよく行っていた。12月8日付けの,

               コ-リャンチュ-正岡忠三郎宛ての書簡に「今夜は高梁酒に酔つた。場末のごく下等の居酒

屋だ」という言葉がある。また,11月27日付けの正岡忠三郎宛ての書簡の

     ロ-チュ-なかで,「今老酒に酔つてゐる。何も書けない」とあるが,こちらのほうは

居酒屋かどうかは明らかではない。上海に到着してまだ5日しか経っておら

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 14 明治大学教養論集 通巻409号(2006・9)

ず,しかも引っ越した直後であった。自宅で酒を飲むとは考えづらい。どの

ぐらい居酒屋に行っていたかはとにかくとして,散文詩「断片」のなかに,

騒音の記憶として居酒屋も茶館とともに挙げられているから,居酒屋が富永

太郎に強烈な印象を与えたことはまちがいないだろう。

 では,その居酒屋はどのような場所だっただろうか。じつは「居酒屋」と

は日本語の表現で,上海では「居酒屋」とは言わない。当時の日本人にとっ

て,どんな場所が居酒屋で,どんなところが料理屋なのか。井上紅梅の『支

那風俗』を手がかりに調べると,いわゆる「居酒屋」とは中国語でいう「酒さん

桟」のことだとわかった。「酒桟」とは小さい料理屋のことである。料理屋

は大小を問わず,「楼」という字が使われることが多いから,店の名前だけ

ではほとんど区別できない。富永太郎もおそらく雰囲気から呼び分けていた

のだろう。当時,酒を飲みながら,「猜拳」という,ジャンケンのようなゲー

ムをする風習があった。負けた人が罰として,酒を一気飲みしなければなら

ない。このゲームは大声で叫びながら,手で一とか二とかを出す。熱が入る

と,茶館以上に騒がしくなる。富永太郎が「誇りを以て沈黙し,花のやうに

衰弱を受けた」という詩句を書いたとき,そのような飲み屋の残影も脳裏に

あったのかもしれない。

3.上海の女という残像

 ところで,ここでもう一度さきほどの問題に戻るが,なぜ富永太郎が上海

に到着したらすぐ茶館に行ったのか。それは上海に渡航する前に,茶館につ

いての知識をすでに持っていたからであろう。どこから茶館についての情報

を手に入れたかは定かではない。もちろん,誰か知人から直接聞いた可能性

もなくはない。しかし,その可能性はあまり高くない。わたしはもしかする

と,井上紅梅の『支那風俗』を読んだのではないか,と推測している。なぜ

なら,大正年代に出版された上海紹介の本のなかで,茶館に触れたものはき

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              「断片」と「秋の悲嘆」にみる上海の投影 15

わめて少ないからだ。河東碧梧桐『支那に遊びて』には青蓮閣という茶館で

見た私娼の強引な客引きが描かれているが,茶館と当時の社会背景について

の紹介は井上紅梅の「支那風俗」以外にまったくなかった。少なくとも現時

点で,わたしはそれより詳しい紹介をまだ見つけていない。

 ところで,井上紅梅の『支那風俗』で茶館のことを知ったとしても,なぜ

富永太郎がそれほど興味を示したのか。前にも引用したが,12月8日,正

岡宛ての手紙のなかで,「この頃は夜書茶館に入りびたりだ」と書いた。ま

た,弟宛ての手紙のなかで,夜八時ころ,茶館で手紙を書いている,とも記

している。「夜昼茶館に入り浸り」とはどんな意味なのか。また,夜,茶館

にいるとはどんな意味なのか,井上紅梅の証言から推理してみたい。

 『支那風俗」には非常に興味を惹く記述がある。

 茶館ゴロといふのがあつて朝起きると茶館へ行つて顔を洗ひ煙草を吸

                      か             ひるめしひ輕少の食事をとり,場合に依れば髭も剃り髪も苅り,やうやく書飯時

           せいさん分になつて自宅に錦る。正餐を終るとスグ又茶館へ出掛けて一日中の大

部分を此塵で暮し此慮で仕事をしてゐる者もある。彼等は一見唯ブラブ

ラとなす事もなく遊び暮してゐるように見えるが,實際は茶を飲んだり,

煙草をふかしてゐる中に,何かしら飯の種を見出してゐるのである1’)。

 中国人の場合,飯の種を見出すために1日中茶館にいる人がいたが,富永

太郎にはそのような必要はない。考えられるのは,もう一つの理由。という

のは,当時の茶館にはもう一つの顔があるからだ。

    ちゃし                    きんしゅう

 青蓮閣茶犀はつねに日暮に至つて茶客粛集し,座これが爲めに満ち,みち                                ひんち      ち  りゅうぎ

路これが爲めに塞がる。品茗にあらずして品雑なり。雑は流妓の稻な

り,俗に野鶏と呼ぶ。四方の過客あらそつて此虞に至りて野鶏を観て快

                        ヤ チ -となす。夜になると商場は引けるから東西の櫻も全部野鶏の躁躍すると

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ころとなる12)。

 「流妓」も「野鶏」も街娼の隠語。ここで「断片」のなかの,「不潔な燈火

の下を飛び交ふこれらの新奇な鼻音」という言葉を思い出してみよう。茶館

の風俗的な性質を身を以て体験したからこそ,「不潔な燈火」という言葉が

用いられたのであろう。

 富永太郎は上海の滞在についてほとんど書いていないし,その行動を知っ

ている人もいなかったらしい。実証できる資料が欠乏している今日,あくま

でも推測の域を出ないが,富永太郎が女目当てに茶館に行ったのではないか,

と思われる。

 富永太郎は「上海の思ひ出』という油彩画を描いたことがある。上海の思

い出として女しか思い浮かばないのは興味深い。この絵に描かれているのは

部屋のなか。壁の色が上下二段になっていて,下は約1メートル20センチ

の高さで,グリーンに塗っている。上は白く塗られており,境目に茶色のラ

インが引いてある。

 興味深いことに,富永太郎は自分の下宿している部屋について,書簡のな

かで取り上げたことがある。

 室内の壁は,こSの多くの壁がさうであるやうに,人の肩ぐらゐのと

ころを堺として,それから上は濁つた卵色,それから下はマヴオ同人が

好んで用ゐる,虚脱した人間のやうな暗緑色だ。そしてその堺を劃する

のは,指二本ほどのヴンダイキ・ブラウンの一線だ。まことに無自畳な

設計である。

『上海の思ひ出』という絵は自分の部屋を描いたとも思えるが,ほかのど

こかで見た場所を描いたのかもしれない。少なくとも下宿した部屋のイメー

ジも混ざっているのはまちがいないであろう。ちなみに,このような室内装

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「断片」と「秋の悲嘆」にみる上海の投影  17

飾は上海ではごく一般的で,1980年代までまだ多く見られた。しかも,ど

ちらかといえば,中流階級以上の住宅によくあるデザインだ。

 富永太郎は書簡の中でそのセンスの悪さをあざ笑っていたが,日本に戻っ

てから,上海の思い出の背景として絵に描いた。時間が経つにつれ,記憶が

過去のイメージを美化したのかもしれない。

 絵に描かれたほかのものを見てみよう。部屋の真ん中の,菱形の物体は暖

炉である。鉄製のもので,練炭を炊いて暖を取るのに使われている。一酸化

炭素中毒を防ぐために,パイプを通して排気を外に出している。1960年代

になっても,このような暖炉を使うのは裕福な家庭であった。したがって,

当時ではかなり贅沢,と理解すべきであろう。赤いカーテンもそのことを物

語っている。これはビロードで造られたもので,かなり高価な部類に入る。

部屋には丸いテーブルと椅子しかなく,日常生活の匂いは乏しい。

 次に描かれた人物を見よう。画面には二人描かれていて,右の若い女性は

赤い服を着て,本か何かを読んでいる。髪の毛にはピンクの花が飾ってある。

左側の人物は年齢がはっきりしないが,足を組んでタバコを吸っているとこ

ろを見ると,若い女性の家族とは考えにくい。そもそもこの人物の性別特徴

がはっきりしない。おそらく富永太郎自身の投影であろう14)。テーブルの上

にウイスキーか何か洋酒らしい瓶が置かれている。

 そうしたことを総合すると,この絵は風俗の女を描いていることはほぼま

ちがいないであろう。富永太郎にとって,上海の思い出とはすなわち風俗の

女の思い出,と言えるのかもしれない。ただ,かりに風俗の女であるにして

も,詩人はある種の感情を込めて,描いているのはまちがいない。

 ここで,「秋の悲嘆」の一節が思い出される。

 私はただ微かに煙を挙げる私のパイプによつてのみ生きる。あのほつ    はく と どせい         くび

そりした白陶土製のかの女の頸に,私は千の静かな接吻をも惜しみはし       あかがねいろ      おお  いち ょ う

ない。今はあの銅色の空を蓋ふ公孫樹の葉の,光澤のない非道な存在

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18 明治大学教養論集 通巻409号(2006・9)

 をも赦さう。オールドローズのおかつばさんは埃も立てずに土塀に沿つ

 て行く……

 この詩に出てくる「オールドローズのおかつばさん」は『上海の思ひ出」

の若い女性とイメージと明らかに重なっている。絵には「白くてほっそりし

た頸」が描かれていないが,服の色はオールドローズで,しかもおかっぱを

している。「秋の悲嘆」にあらわれた女と,「上海の思ひ出」に描かれた女が

同一人物であることがわかる。片方は詩的なイメージで,片方は具象化した

形で表現したに過ぎない。仮に絵が部屋のなかの場面の回想であるならば,

詩は立ち去ったときの様子を描いている。どうやら,彼女が立ち去ったとき

の姿は富永太郎に強い印象を残したらしい。

 詩のなかでも絵のなかでも,女が娼婦として描かれているわけではない。

どちらかというと,恋人を思わせるような描き方である。

 夕暮,私は立ち去つたかの女の残像と友である。天の方に立ち騰るか

の女の胸の襲を,夢のやうに萎れたかの女の肩の襲を,私は昔のやうに

いとほしむ。だが,かの女の髪の中に挿し入つた私の指は昔私の心の支

へであつた,あの全能の暗黒の粘状禮に鯛れることがない。私たちは煙

になつてしまつたのだらうか? 私はあまりに硬い,あまりに透明な秋

の空気を憎まうか?

 富永太郎の詩にあらわれる女性のイメージは二種類ある。一つは恋する女

で,もう一つは死と関連するイメージである。興味深いことに,詩のなかで

も絵のなかでも,恋する女の目の描写は避けられている。じっさい,「秋の

悲嘆」は目にまったく触れていないし,一方,『上海の思ひ出』の女も目や

鼻や口は描かれておらず,のっぺらぼうになっている。「鳥獣剥製所」には

女の目が描かれているが,それは剥製されたような目であり,ツバを吐きか

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「断片」と「秋の悲嘆」にみる上海の投影  19

ける対象となる目であった。

              しゅんせつせん このとき,私は,下の方に,凌喋船の機関の騒音のやうな,また,

幾分,夏の午後の遠雷に似た響を聞いた  私のために涙を流した女ら

の追憶が,私の魂の最低音部を齪打した。私は,私が,鮮やかな,また

は朧うな光と影との沸騰の中を潜つて,私の歳月を航海して來た間,つ

ねに,かの女らが私の燈毫であつたことを思ひ出した。(中略)かの女

らは(中略)つねにその不動の眼を私の方へ送つてゐたことを思ひ出し

た。私は,退屈な夜々に,かの女らの一生を,更に涙多きものとするた

めに,私のために流された涙の,一滴一滴を思つて泣いた。が,かの女

らの眼は冷く,美しく,剥製された動物らのそれと,その無感覚を全く

等しくしてゐた。

 ここに出てきたのは,剥製されたような眼。美しいが冷たい。そうした描

写は,富永太郎の恋愛経験および上海での女性交友関係を背景としており,

「秋の悲嘆」や油絵『上海の思ひ出』などを視野に入れて読み解く必要があ

るであろう。

 富永太郎は『上海の思ひ出』のほかにも女性を絵に描いたことがある。た

だ,『M夫人とその娘』にしろ,デッサン『湯の濱の思い出』や『女の顔』

にしろ,いずれも目を描いている。それに比べて,『上海の思ひ出』では意

識的に目の描写を避けている。

むすび

 富永太郎の上海における場所の経験とその詩作との関係は非常に複雑なも

のである。詩は想像力の幅広さと言語の斬新さをよりどころとする表現形式

で,詩語によって構成されたイメージは,そもそも現実との距離を誇示する

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ことによって成り立つものである。詩人の経歴や交友関係などの解明には実

証的な方法がきわめて重要だが,作品批評においては,逆に慎まなければな

らない場合もある。詩に描かれたことを一々現実と対応させるのはまちがっ

た作品理解に導く恐れがある。その意味では,富永太郎の詩の解読において,

上海での空間体験を問題を解く鍵として持ち込むのは,ある種の危険性を孕

んでいるかもしれない。ただ,詩的イメージが形成される過程について考え

る場合,それが有効な手段にはなるであろう。

 じっさい,「断片」にあらわれた空間の表象はすべて想像力の産物だけで

はない。上の分析からうかがえるように,都市のイメージは詩人の実際の体

験と深い関係にある。「秋の悲嘆」に描かれた女性も想念上の存在ではない。

確固とした根拠を見つけるのは難しいかもしれないが,詩的イメージの形成

において,詩人の女性体験と深く関係しているのはまちがいない。

                《注》

1) 青木健が「太郎の乗った山城丸が投錨したのは,黄浦江上流寄りの郵船桟橋だっ

             ウz-サイド た」とあったが,正しくは,涯 山埠頭(Wayside Wharf)とすべきであろう。

 青木健『剥製の詩学』小沢書店,1996年6月,124頁。

2) 米沢秀夫『上海史話』,畝傍書房,昭和17年7月,107頁。

3) 大岡昇平が作成した年譜の,大正12年の項に,「十一月十九日,神戸出帆。二

 十二日,上海着。呉路二〇三九に下宿」とあるが,脱字があったのであろう。大

 岡昇平『富永太郎一書簡を通して見た生涯と作品』中央公論社,昭和49年9

 月,7頁。

4) 樋口覚「富永太郎』砂子屋書房,1986年12月,457頁。

5)大岡昇平,前出,176頁。

6)樋口覚,前出,457頁。

7) 青木健,前出,125頁。

8) 上海日報社編『上海年鑑』1926年度版,大正15年11月,上海日報出版部発

 行,四海書店発売,第5編1~71頁。なお,この本には記述の不備が見られる。

 目次では「上海在留邦人職業別一覧」と「上海在留邦人会社銀行一覧」になって

 いるが,本文では「上海邦人営業別名簿」と「上海邦人貿易商」になっている。

9) 木之内誠編著「上海歴史ガイドマップ』大修館書店,1999年6月,28~29頁。

10) 井上紅梅『支那風俗』上巻,日本堂書店,大正9年12月,248頁。

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「断片」と「秋の悲嘆」にみる上海の投影  21

11)

12)

13)

14)

井上紅梅,前出,248頁。

井上紅梅,前出,250頁。

井上紅梅,前出,255頁。

この点については佐々木幹郎氏から示唆を受けている。

(ちょう・きょう 法学部教授)