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ACCESS INFORMATION 新富士駅 河口湖駅 東富士五湖 道路 東名高速道路 新東名高速道路 大月駅 富士駅 沼津駅 国府津駅 甲府駅 JR 139 300 358 138 138 137 139 20 52 須走I C JR中央本線 JR東海道本線 中央自動車道 山中湖 河口湖 西湖 一宮御坂IC 甲府南I C 増穂I C 河口湖I C 富士吉田I C 山中湖 I C 大月JCT 双葉JCT 山駅 富士山駅 三つ峠駅 三つ峠駅 富士急行線 富士急行線 小田急線 JR東海道新幹線 甲府昭和I C 御殿場I C 御殿場JCT 新清水I C 新清水JCT 御殿場駅 清水JCT 富士I C 沼津I C 1 1 新富士I C 西富士I C 西246 六郷I C 富士吉田 西桂SIC お問い合わせ 監    修 山梨県富士山世界文化遺産保存活用推進協議会 事務局:山梨県県民生活部世界遺産富士山課 TEL:055-223-1316 山梨県立富士山世界遺産センター 堀内  眞 富士河口湖町教育委員会 杉本 悠樹 富士山 0 10 20km 東海道 甲斐国 信濃国 駿河国 相模国 武蔵国 足柄坂 都留郡 八代郡 巨麻郡 山梨郡 横走駅 御坂峠 三国山~籠坂峠間の峠 水市・加吉駅 河口駅 加吉・水市駅 古代の東海道甲斐路の経路 冨士御室 浅間神社 河口湖 河口 浅間神社 道者道 大石峠 淵坂峠 天神峠 桑崎 大石 河口 長浜 大嵐 勝山 小立 船津 浅川 鵜ノ島 長崎 鳴沢道 西湖 天神峠 > < > < > < > < > < 道者道 スポット 1 スポット 2 スポット 3 スポット 4 スポット 5 スポット 6 スポット 7 富士参詣 鎌 倉 街 道・道 者 道 赤色立体地図 で見る 施設名称 下吉田倶楽部(下吉田駅構内) 富士吉田市観光案内所 御師町お休み処富士吉田インフォメーションセンター 道の駅富士吉田 小佐野家住宅復原(ふじさんミュージアム庭内) (一社)富士の国やまなし通訳案内士会 富士北麓観光案内所(冬季休業) 中ノ茶屋(冬季休業) 富士河口湖観光総合案内所 山梨県立富士山世界遺産センター 道の駅かつやま 河口湖フィールドセンター 河口湖美術館 河口湖自然生活館 大石紬伝統工芸館 TEL 0555-22-1777 0555-22-7000 0555-24-8660 0555-21-1225 0555-24-2411 0555-30-2089 0555-72-9900 090-4614-0223 0555-72-6700 0555-72-0259 0555-72-5633 0555-72-4331 0555-73-8666 0555-76-8230 0555-76-7901 トイレ有無 観光案内所・道の駅等 鎌倉街道の概要 鎌倉街道を歩こう! 奈良時 代に平城 京と全国の国府とを結ぶために駅 路がつくら れた。甲斐国は東海道に属したが、東海道の本道は甲斐国を経 由していないため、駿 河国の横走 駅 から分 岐して甲斐国府に至 る支 道「甲斐 路」が 整 備された(下図)。御坂 峠を越える道であ ることから「御坂 路」とも呼ばれた。 鎌倉時代になるとほぼ同じ経路で武士たちが鎌倉に出仕す る道として「鎌 倉 街道」と呼ばれるようになる。室町時 代以降、富 士山に多くの道 者(大 衆登山者)が 訪れるようになり、甲府 盆 地 以西・以北の人々が富士山の参詣路として利用した。河口には道 者を受け入れる御師の宿坊がつくられ、江戸時 代まで賑わった。 道者道の概要 道者道は、富士河口湖町河口を起点に御坂山地の山際に 沿って河口湖の湖畔を西進し、同町の大 石、長浜、大嵐を経て富 士山内に入る参詣道である。河口から直接南進せずに河口湖畔 を周回するルートであり、修 験に起源をもつと考えられている。道 に沿って、大 石には海蔵 寺、山名主 家、浅間日月神社、十二ヶ岳 神社、長浜には東光 寺、貴船 神社、法役 塚があり、長浜と大 嵐と の境界には大嵐天神社、大嵐には蓮華寺とその奥の院、行者屋 敷などの信仰施設が存在する。大嵐から富士山内への経路は、 土地改良に伴う区画整理や宅地化など開発の影響を受けて不 明な状 況になっているが 、船 津 胎内 付近に達していたと想定さ れる。長浜から大嵐の区間は、笛吹市八代町から鳥坂峠を越え て同市芦川町を経て、大石峠を越えて富士河口湖町大石に達 し、富士山北西麓を南西方向に横切る「若彦路」の経路と重複 する。道者道は、主要な街道である鎌倉 街道と若彦路を結節す る役目も担っていたと考えられる。 社叢には、河口浅間神社の七本杉をはじめ巨樹が多数あり、 長い年月の間に風雪を耐え、信仰の対 象として守られてきた神社 の歴史を物語るとともに荘厳な境内地の景観を構成している。 102030301020河口浅間神社 河口の集落 河口~浅川の鎌倉街道の沿道 大石 長浜 大嵐 船津 河 口 浅 間 神 社は 、平 安 時 代 の貞 観6年 ( 8 6 4 )に発 生した富士山の噴 火( 貞観 の噴 火 )を鎮めるために翌7年( 8 6 5 )に勧請され たのが 起源と伝えられている。 中世以降は鎌倉 街道を通じて富士山に集う 道者が寄宿する御師集落の中心に位置する 神社として富士信仰を支え続けてきた。 海蔵寺 臨済宗妙心寺派の寺院で、御坂山地の南麓の高台にあり、境 内地からの富士山、河口湖の眺望に優れている。 馬頭観音(道標) 道者道と若彦路が合流する地点にある 馬頭観音で、刻銘は判然としないが甲府方 面と大 石・河口方面を示していると推測され る。 長浜の道祖神 長浜の集落にある道祖神 で、道が屈曲し交差する地点 に位置する。道者道や若彦路 を通じて災厄が集落内に侵 入するのを防ぐために祀られ たと考えられる。 大石浅間神社(浅間日月神社) 道者道沿いに位置する神社で、大石地区の氏神・産土神であ り、御手洗浅間とも呼ばれる。 旧山名主家 大石に山名主と伝承さ れた家がある。山名主は富 士山八合目以上にあたる 八葉を管掌する名主とさ れ、大石の弥次兵衛家が 代々担当してきたという。 貴船神社 京都の貴船神社から分祀された神社で河口湖における水上交 通、漁業等の守り神として崇められてきた。神社の境内の東 辺に は、道者道・若彦路が通 過しており、かつてはこの付近まで湖水 が迫り、陸地と水上の接点に勧請されたと考えられる。 蓮華寺 蓮華寺は当初、大同山御堂寺と称する真言宗寺院であったが、 鎌 倉時代の弘安5年(12 82)に、日蓮の教化を受けた当時の住職 が法華経に帰依したことにより日蓮宗に改宗し、寺号も持名山蓮 華寺に改めたと伝えられている。境内地も数回移転し現在に至っ ている。 大嵐天神社 天神社は道者道の経路のうち、大嵐と長浜を結ぶ天神峠にあ る神社で、足和田山から勝山に延びる稜線上に位置する。江戸時 代の天保12年(1841) 12月26日に大嵐村の全村大火の際に焼失 し、弘化2年(18 4 5)3月に再建された本殿が現存し、建物の中に 納められている。 大嵐村絵図(文化3年(18 0 6)) 江戸時代後期に『甲斐国志』の編纂に伴い作成・提出された大 嵐村の絵図。大嵐から富士山に向かう道者道が描かれている。 六字名号塔・法役塚(ホウエン様) かつて山伏の争いによって刃傷沙汰 になったという伝 承 が あり 、昭 和4年 (1929)にコレラが流行したのは山伏の 祟りであるとされ 建 立された石造 物 。十 二ヶ岳や足和田山周辺で修験者の活動 があったこと、何らかの対立関係が生じ ていたことを現代に伝える石造物であ る。 馬頭観音(道標) 大 石の集落と田園地帯との 境界にある馬頭観音で、 「左な るさわ・右あしがわ」と刻まれ、 道 標 の 役 割も持っていた 。道 者道と奥川の左岸を通り若彦 路に連絡する道との分岐に位 置する。 道者道は、大石から天神峠を 越え山の中腹の等高線に沿っ て長 浜に向かう。このことは 、 河口湖の水位がかつては現 在よりも高く、湖岸の通行が困 難であったことを示している。 富士山に登拝する道者・富士講信者た ちは、宿を経営する神職の御師と固定的 で継続的な関係を結ぶのが原則であっ た。登拝にあたっては、御師の家又は宿坊 に宿泊し、祈祷及び宗教的指導を受け、 湧水等で水垢離を行い、浅間神社に参拝 した後に富士山を目指して出発した。 かつて御師が宿坊を構えた町 並みから南(富士山方向)へ進む と、鎌 倉 街 道は寺川橋 から東へ 直角に曲がる。河口湖には元来 自然の放水路がなく、湖水面は 現 在よりも高く、御師集落 付近ま で大きく張り出していたため、湖岸線を避けて東に迂回した。旧 国道137号の経路と離れた古道の景観が残る。 「河口の稚児の舞」 (重要無形民俗文化財) 河口浅間神社に伝わる神事芸能 で、毎年4月25日の例大祭「孫見祭」 と7月28日の「太々御神楽祭」で奉 納されてきた。「御幣の舞」、 「扇の 舞」、 「剣の舞」、 「八方の舞」、 「宮めぐ り」の五番の舞からなり、 「孫見祭」 の際は、 「御幣の舞」から「剣の舞」 の三番、 「太々御神楽祭」では五番 全てが奉納される。元々は江戸時 代に河口の御師が奉納していた 太々神楽のうち、 「神子の舞」が形態 を残したものと考えられている。舞手 (稚児)は、河口地区の少女が担う。 街道沿いには宿坊の街並みの雰囲 気を残している。 河口(川口)の御師 河口浅間神社を中心とする河口の地は、甲府盆地から続く官 道(甲斐 路・御 坂 路・鎌 倉 街 道)の宿駅であり、交 通の結節点と しての 役 割を果 たしてきた 。富士山の 登 拝 が 大 衆 化 するのに 伴って、 16世紀以降は御師の集落としても発展を遂げた。 河口(川口)御師の基盤は甲府盆地以北・以西の地域であり、長 野・北関東方面の富士信仰を支えていた。江戸初期には川口十二坊 と呼ばれる12軒の御師がおり、この十二坊から分家が進み最盛期 には120人余の御師がいたと記録されている。その後、江戸庶民に 富士講が大流行し、それに伴って上吉田の御師が隆盛したこと、さ らに明治3 6 年(19 0 3)に中央線が 開通すると、御坂峠を越えて河口を 経由する人々の流れがなくなり、御 師集落は終焉を迎えた。 自然への崇敬の念と火を噴く山 への畏れと、神の怒りを鎮めたい との人々の願いが富士信仰の原 点といわれる。戦 国期から江 戸 期 に入り、庶 民の 登 拝が大 衆 化して いく。その役 割を果たしたのが、長 谷 川角行(かくぎょう)を開 祖とす る「富士講」であった。江 戸中期に は、弟子の村上 光 清(こうせい)や 食 行身 禄(じきぎょうみろく)らに 受け継がれ、身禄が吉田口の烏帽 子 岩で断 食入定して即身仏となる と、信 者は急 増。組 織 的に講を組 み、江戸後期には「江戸八百八講、 講中八万人」と隆盛を極めた。 これに対し、鎌 倉 街 道を通じて 御坂峠を越えて富士山に集う道 者(宗 教 者からなる先 達に連れら れて登山をする人々)は、中部 地方 や関東の西・北部の山村を拠点と し、少人 数の 代 表 者を選 出して登 山する代 参講を行っていた。 COMMENT 江戸時代における河口(川口)は、農業生 産力が極めて低く、1,000人を超える人口を もちながらも、村の人々の食糧を賄うことが 困難であったと推測される。 河口(川口)の御師は、登山期の2ヶ月間 を除く時期に御師の家を訪れる道者(檀家・ 旦那)の家を訪ね、お祓いなどを行うととも に、神札や薬の販売、寄付として米や麦など の食物を得ていた。これを檀家(旦那)廻りと 呼び、農業生産力の低さを補うために、重要 な収入源になっていたと考えられる。 道者を迎え入れる以外に御師は広範囲 に檀家(旦那)場をもって活動していた。 COMMENT 母ノ白滝   河口浅間神社の東を流れる寺川 の上流にある滝。修験者の行場や 河口(川口)集落に宿泊した道者が 富士登拝に際して精進潔斎をした と伝えられ、富士山の周辺の8つの 湖沼を巡る「内八海巡」の行場とし ても位置付けられた。 追坂の石造物   河口湖に張り出した産 屋ヶ 崎から続く稜 線 上にある追坂 を越えると浅川に達する。峠の 頂には馬頭観音などの石造物 があり、人々の 往 来が 盛んで あったことを示す。 親鸞像 (浅川) 阿弥陀堂境内 白山神 社(浅川)   浅川は「アザガワ」と読み、江 戸時代後期に編纂された『甲斐 国志』によると大月市に同じ浅川 の地名があり、区別をつけるため に濁音にしたと記述されている。 扇状地を鎌倉街道が南北に縦 断し、集落が営まれている。 御師本庄家住宅    河口集落において江戸 時代の御師住宅の姿を現 代に伝える数少ない貴重 な建築である。 御師三浦家の門 江戸時代に徳川将軍 家から御祈願所に位置 付けられ、将軍の代参を 行うなど 重要な役 割を 果たした御師三浦家。そ の主屋は現存しないが、 門の大きさから往時の 状況が偲ばれる。 富士河口湖町大嵐地内に建てられた道者道の石碑 河口湖周辺の歴史の道 横町の石造物群(道祖神など)   現在の鎌倉街道沿道の景観 古代東海道甲斐路の景観復元画 鎌倉街道と追坂 丸尾地蔵堂 最乗塔 天上山と鐘突堂 鎌 倉 街道は相模・駿河に通じる道 として、戦国時代には甲斐国の重要 な軍用路であった。沿道には他国勢 の侵攻に備えて構築された様々な城 館跡が見られる。天上山には烽火台があったと伝えられ、山裾に は有事の際に鐘を鳴らす鐘突堂があった。 高尾山穂見神社の石造物群 富士河口湖町船津の鎌倉街道沿 道に所在する高尾山穂見神社前に ある馬頭観音などの石造物群。かつ ては沿道に点在していたものが集め られたと考えられる。街道を多くの人や馬が往き交っていたことを 示す石造物群である。 畳岩 河口湖畔の船津浜に見られる畳 岩。縄文時代の中期(約4,500年前) の富士山噴火によって溶岩流が流入 して出来た地形と考えられている。 江戸時 代には、富士講の「内八海巡」の行場としても位置付け られていた。 赤坂の道標 鎌倉街道沿道の富士河口湖町と富士吉田市と の境界は赤坂と呼ばれている。ここには船津の 関所や防塁が築かれ、富士山に集う登拝者の改 めが行われていた。地内に残る道標には、 3面に 行き先が 刻まれている。新 倉、甲府・善光寺、沼 津・小田原とあり、鎌倉街道が太平洋岸と甲府盆地を結び、海のない 甲斐国に塩や海産物を輸送するためにも重要な役割があったことを 示す。鎌倉街道は、赤坂を過ぎると富士吉田市松山を経て同市上吉 田の金鳥居で富士山道に合流し、吉田口登山道につながる。 「森嶋家文書」(ミュージアム都留所蔵) 401030503010道者道を歩こう! ※=湖畔周遊道路(県道)経由 5-1 5-2 5-3 5-4 2-1 2-2 2-3 3-1 3-2 3-3 3-4 4-4 4-5 4-3 4-2 4-1 6-1 6-2 6-3 6-4 7-2 7-1 ※季節、時間等によりトイレが 利用できない場合があります。また、一部施 設では有料施設内にトイレが設置されています。 しゅう あらし 山梨県立富士山世界遺産センターは、 世界遺産の価値をわかりやすく紹介す る施設です。富士山の自然と人の関わり の歴史とその広がりを感じることができ ます。 表紙の右下は、REBIRTH! 富士講 プロジェクトのマスコットキャラクター 「みろくくん」です。 作画:吉田葉子 富士河口湖町船津66631 TEL:0 5 5 5720259 FAX:0555720 211 WEB:http://www.fujisan-whc.jp

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監    修

山梨県富士山世界文化遺産保存活用推進協議会事務局:山梨県県民生活部世界遺産富士山課

TEL:055-223-1316

山梨県立富士山世界遺産センター 堀内  眞富士河口湖町教育委員会 杉本 悠樹

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三国山~籠坂峠間の峠水市・加吉駅

河口駅

加吉・水市駅

古代の東海道甲斐路の経路

冨士御室 浅間神社

河口湖

河口浅間神社

船津口登山道

道者道

御室道

大石峠

若彦路

鎌倉街道(御坂路・甲斐路)

淵坂峠

天神峠

桑崎●

大石

河口

長浜

大嵐勝山 小立

船津

浅川

鵜ノ島

長崎

鳥坂・鳥居坂峠

鳴沢道

西湖

天神峠

若彦路

妙法寺●>

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道者道

スポット 1 スポット 2 スポット 3 スポット 4

スポット 5 スポット 6 スポット 7

富士参詣の道を往く鎌倉街道・道者道

赤色立体地図で見る

施設名称下吉田倶楽部(下吉田駅構内)富士吉田市観光案内所御師町お休み処富士吉田インフォメーションセンター道の駅富士吉田小佐野家住宅復原(ふじさんミュージアム庭内)(一社)富士の国やまなし通訳案内士会富士北麓観光案内所(冬季休業)中ノ茶屋(冬季休業)富士河口湖観光総合案内所山梨県立富士山世界遺産センター道の駅かつやま河口湖フィールドセンター河口湖美術館河口湖自然生活館大石紬伝統工芸館

TEL0555-22-17770555-22-70000555-24-86600555-21-12250555-24-24110555-30-20890555-72-9900090-4614-02230555-72-67000555-72-02590555-72-56330555-72-43310555-73-86660555-76-82300555-76-7901

トイレ有無有無有有有─有有─有有有有有有

観光案内所・道の駅等

鎌倉街道の概要

鎌倉街道を歩こう!

奈良時代に平城京と全国の国府とを結ぶために駅路がつくられた。甲斐国は東海道に属したが、東海道の本道は甲斐国を経由していないため、駿河国の横走駅から分岐して甲斐国府に至る支道「甲斐路」が整備された(下図)。御坂峠を越える道であることから「御坂路」とも呼ばれた。鎌倉時代になるとほぼ同じ経路で武士たちが鎌倉に出仕す

る道として「鎌倉街道」と呼ばれるようになる。室町時代以降、富士山に多くの道者(大衆登山者)が訪れるようになり、甲府盆地以西・以北の人々が富士山の参詣路として利用した。河口には道者を受け入れる御師の宿坊がつくられ、江戸時代まで賑わった。

道者道の概要ど う し ゃ み ち

道者道は、富士河口湖町河口を起点に御坂山地の山際に沿って河口湖の湖畔を西進し、同町の大石、長浜、大嵐を経て富士山内に入る参詣道である。河口から直接南進せずに河口湖畔を周回するルートであり、修験に起源をもつと考えられている。道に沿って、大石には海蔵寺、山名主家、浅間日月神社、十二ヶ岳神社、長浜には東光寺、貴船神社、法役塚があり、長浜と大嵐との境界には大嵐天神社、大嵐には蓮華寺とその奥の院、行者屋敷などの信仰施設が存在する。大嵐から富士山内への経路は、土地改良に伴う区画整理や宅地化など開発の影響を受けて不明な状況になっているが、船津胎内付近に達していたと想定される。長浜から大嵐の区間は、笛吹市八代町から鳥坂峠を越えて同市芦川町を経て、大石峠を越えて富士河口湖町大石に達し、富士山北西麓を南西方向に横切る「若彦路」の経路と重複する。道者道は、主要な街道である鎌倉街道と若彦路を結節する役目も担っていたと考えられる。

社叢には、河口浅間神社の七本杉をはじめ巨樹が多数あり、長い年月の間に風雪を耐え、信仰の対象として守られてきた神社の歴史を物語るとともに荘厳な境内地の景観を構成している。

河口浅間神社

横町の石造物群

追坂(頂部)

天上山護国神社

高尾山穂見神社

赤坂の道標

10分 20分 30分 30分 10分 20分

河口浅間神社 河口の集落 河口~浅川の鎌倉街道の沿道

大石 長浜 大嵐

船津河口浅間神社は、平安時代の貞観6年

(864)に発生した富士山の噴火(貞観の噴火)を鎮めるために翌7年(865)に勧請されたのが起源と伝えられている。中世以降は鎌倉街道を通じて富士山に集う道者が寄宿する御師集落の中心に位置する神社として富士信仰を支え続けてきた。

海蔵寺臨済宗妙心寺派の寺院で、御坂山地の南麓の高台にあり、境

内地からの富士山、河口湖の眺望に優れている。

馬頭観音(道標)道者道と若彦路が合流する地点にある

馬頭観音で、刻銘は判然としないが甲府方面と大石・河口方面を示していると推測される。

長浜の道祖神長浜の集落にある道祖神

で、道が屈曲し交差する地点に位置する。道者道や若彦路を通じて災厄が集落内に侵入するのを防ぐために祀られたと考えられる。

大石浅間神社(浅間日月神社)道者道沿いに位置する神社で、大石地区の氏神・産土神であ

り、御手洗浅間とも呼ばれる。

旧山名主家大石に山名主と伝承さ

れた家がある。山名主は富士山八合目以上にあたる八葉を管掌する名主とされ、大石の弥次兵衛家が代々担当してきたという。

貴船神社京都の貴船神社から分祀された神社で河口湖における水上交

通、漁業等の守り神として崇められてきた。神社の境内の東辺には、道者道・若彦路が通過しており、かつてはこの付近まで湖水が迫り、陸地と水上の接点に勧請されたと考えられる。

蓮華寺蓮華寺は当初、大同山御堂寺と称する真言宗寺院であったが、鎌倉時代の弘安5年(1282)に、日蓮の教化を受けた当時の住職が法華経に帰依したことにより日蓮宗に改宗し、寺号も持名山蓮華寺に改めたと伝えられている。境内地も数回移転し現在に至っている。

大嵐天神社天神社は道者道の経路のうち、大嵐と長浜を結ぶ天神峠にあ

る神社で、足和田山から勝山に延びる稜線上に位置する。江戸時代の天保12年(1841)12月26日に大嵐村の全村大火の際に焼失し、弘化2年(1845)3月に再建された本殿が現存し、建物の中に納められている。

大嵐村絵図(文化3年(1806))江戸時代後期に『甲斐国志』の編纂に伴い作成・提出された大

嵐村の絵図。大嵐から富士山に向かう道者道が描かれている。

六字名号塔・法役塚(ホウエン様)かつて山伏の争いによって刃傷沙汰

になったという伝承があり、昭和4年(1929)にコレラが流行したのは山伏の祟りであるとされ建立された石造物。十二ヶ岳や足和田山周辺で修験者の活動があったこと、何らかの対立関係が生じていたことを現代に伝える石造物である。

馬頭観音(道標)大石の集落と田園地帯との境界にある馬頭観音で、「左なるさわ・右あしがわ」と刻まれ、道標の役割も持っていた。道者道と奥川の左岸を通り若彦路に連絡する道との分岐に位置する。道者道は、大石から天神峠を越え山の中腹の等高線に沿って長浜に向かう。このことは、河口湖の水位がかつては現在よりも高く、湖岸の通行が困難であったことを示している。

富士山に登拝する道者・富士講信者たちは、宿を経営する神職の御師と固定的で継続的な関係を結ぶのが原則であった。登拝にあたっては、御師の家又は宿坊に宿泊し、祈祷及び宗教的指導を受け、湧水等で水垢離を行い、浅間神社に参拝した後に富士山を目指して出発した。

かつて御師が宿坊を構えた町並みから南(富士山方向)へ進むと、鎌倉街道は寺川橋から東へ直角に曲がる。河口湖には元来自然の放水路がなく、湖水面は現在よりも高く、御師集落付近ま

で大きく張り出していたため、湖岸線を避けて東に迂回した。旧国道137号の経路と離れた古道の景観が残る。

「河口の稚児の舞」(重要無形民俗文化財)河口浅間神社に伝わる神事芸能

で、毎年4月25日の例大祭「孫見祭」と7月28日の「太々御神楽祭」で奉納されてきた。「御幣の舞」、「扇の舞」、「剣の舞」、「八方の舞」、「宮めぐり」の五番の舞からなり、「孫見祭」の際は、「御幣の舞」から「剣の舞」の三番、「太々御神楽祭」では五番全てが奉納される。元々は江戸時代に河口の御師が奉納していた太 神々楽のうち、「神子の舞」が形態を残したものと考えられている。舞手(稚児)は、河口地区の少女が担う。街道沿いには宿坊の街並みの雰囲気を残している。

河口(川口)の御師河口浅間神社を中心とする河口の地は、甲府盆地から続く官

道(甲斐路・御坂路・鎌倉街道)の宿駅であり、交通の結節点としての役割を果たしてきた。富士山の登拝が大衆化するのに伴って、16世紀以降は御師の集落としても発展を遂げた。河口(川口)御師の基盤は甲府盆地以北・以西の地域であり、長

野・北関東方面の富士信仰を支えていた。江戸初期には川口十二坊と呼ばれる12軒の御師がおり、この十二坊から分家が進み最盛期には120人余の御師がいたと記録されている。その後、江戸庶民に富士講が大流行し、それに伴って上吉田の御師が隆盛したこと、さ

らに明治36年(1903)に中央線が開通すると、御坂峠を越えて河口を経由する人々の流れがなくなり、御師集落は終焉を迎えた。

 自然への崇敬の念と火を噴く山への畏れと、神の怒りを鎮めたいとの人々の願いが富士信仰の原点といわれる。戦国期から江戸期に入り、庶民の登拝が大衆化していく。その役割を果たしたのが、長谷川角行(かくぎょう)を開祖とする「富士講」であった。江戸中期には、弟子の村上光清(こうせい)や食行身禄(じきぎょうみろく)らに受け継がれ、身禄が吉田口の烏帽子岩で断食入定して即身仏となると、信者は急増。組織的に講を組み、江戸後期には「江戸八百八講、講中八万人」と隆盛を極めた。 これに対し、鎌倉街道を通じて御坂峠を越えて富士山に集う道者(宗教者からなる先達に連れられて登山をする人々)は、中部地方や関東の西・北部の山村を拠点とし、少人数の代表者を選出して登山する代参講を行っていた。

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 江戸時代における河口(川口)は、農業生産力が極めて低く、1,000人を超える人口をもちながらも、村の人々の食糧を賄うことが困難であったと推測される。 河口(川口)の御師は、登山期の2ヶ月間を除く時期に御師の家を訪れる道者(檀家・旦那)の家を訪ね、お祓いなどを行うとともに、神札や薬の販売、寄付として米や麦などの食物を得ていた。これを檀家(旦那)廻りと呼び、農業生産力の低さを補うために、重要な収入源になっていたと考えられる。 道者を迎え入れる以外に御師は広範囲に檀家(旦那)場をもって活動していた。

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母ノ白滝   河口浅間神社の東を流れる寺川の上流にある滝。修験者の行場や河口(川口)集落に宿泊した道者が富士登拝に際して精進潔斎をしたと伝えられ、富士山の周辺の8つの湖沼を巡る「内八海巡」の行場としても位置付けられた。

追坂の石造物   河口湖に張り出した産屋ヶ崎から続く稜線上にある追坂を越えると浅川に達する。峠の頂には馬頭観音などの石造物があり、人々の往来が盛んであったことを示す。

親鸞像(浅川)阿弥陀堂境内

白山神社(浅川)   浅川は「アザガワ」と読み、江戸時代後期に編纂された『甲斐国志』によると大月市に同じ浅川の地名があり、区別をつけるために濁音にしたと記述されている。扇状地を鎌倉街道が南北に縦断し、集落が営まれている。

御師本庄家住宅   河口集落において江戸時代の御師住宅の姿を現代に伝える数少ない貴重な建築である。

御師三浦家の門 江戸時代に徳川将軍家から御祈願所に位置付けられ、将軍の代参を行うなど重要な役割を果たした御師三浦家。その主屋は現存しないが、門の大きさから往時の状況が偲ばれる。

富士河口湖町大嵐地内に建てられた道者道の石碑

河口湖周辺の歴史の道

横町の石造物群(道祖神など)  

現在の鎌倉街道沿道の景観 古代東海道甲斐路の景観復元画

鎌倉街道と追坂

丸尾地蔵堂 最乗塔

天上山と鐘突堂鎌倉街道は相模・駿河に通じる道

として、戦国時代には甲斐国の重要な軍用路であった。沿道には他国勢の侵攻に備えて構築された様 な々城

館跡が見られる。天上山には烽火台があったと伝えられ、山裾には有事の際に鐘を鳴らす鐘突堂があった。

高尾山穂見神社の石造物群富士河口湖町船津の鎌倉街道沿

道に所在する高尾山穂見神社前にある馬頭観音などの石造物群。かつては沿道に点在していたものが集め

られたと考えられる。街道を多くの人や馬が往き交っていたことを示す石造物群である。

畳岩河口湖畔の船津浜に見られる畳岩。縄文時代の中期(約4,500年前)の富士山噴火によって溶岩流が流入して出来た地形と考えられている。

江戸時代には、富士講の「内八海巡」の行場としても位置付けられていた。

赤坂の道標鎌倉街道沿道の富士河口湖町と富士吉田市と

の境界は赤坂と呼ばれている。ここには船津の関所や防塁が築かれ、富士山に集う登拝者の改めが行われていた。地内に残る道標には、3面に行き先が刻まれている。新倉、甲府・善光寺、沼

津・小田原とあり、鎌倉街道が太平洋岸と甲府盆地を結び、海のない甲斐国に塩や海産物を輸送するためにも重要な役割があったことを示す。鎌倉街道は、赤坂を過ぎると富士吉田市松山を経て同市上吉田の金鳥居で富士山道に合流し、吉田口登山道につながる。

「森嶋家文書」(ミュージアム都留所蔵)

河口浅間神社

旧山名主家

天神峠【大石〜長浜】

天神峠【長浜〜大嵐】

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道者道を歩こう!

※=湖畔周遊道路(県道)経由

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※季節、時間帯等によりトイレが利用できない場合があります。また、一部施設では有料施設内にトイレが設置されています。

か わ ぐ ち あ さ   ま   じ ん じ ゃ   か わ ぐ ち し ゅ う ら く

お お い し

か わ ぐ ち       あ ざ が わ ふ な   つ

な が は ま お お あ ら し

山梨県立富士山世界遺産センターは、世界遺産の価値をわかりやすく紹介する施設です。富士山の自然と人の関わりの歴史とその広がりを感じることができます。

表紙の右下は、REBIRTH ! 富士講プロジェクトのマスコットキャラクター「みろくくん」です。作画:吉田葉子

富士河口湖町船津6663-1TEL:0555-72-0259 FAX:0555-72-0211WEB:http://www.fujisan-whc.jp