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日日本本軍軍とと日日本本刀刀のの実実態態 陸軍 94式(日本刀式)を持つ将校
抜刀して指揮を執る青年将校 1.不可解な首切り写真 p.2~5 2.欠陥だらけの日本刀 p.6~9 3.現実の日本刀の実用性 p10~16 4.苦心した軍刀操作 p.17-18 5.偽武勇伝の見破り方 p.19-20
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不可解な首切り写真 わざわざ、不法殺人の決定的証拠をカメラに撮らせる日本兵
左の写真) 堂々と写っている割には、撮
影者、肖像の人物、撮影場所、
日時、全て不明。 軍刀を持っているが、それを
納める鞘がない。 拡大写真
右の拡大写真) ① 人間の頭は、人体の重さの 13%を占める。(体重 60Kならば、頭部は 7.8K)それを指先で耳をつまむだけで、軽々と持っている。
② 顔の下方が、切り取ったかのように一直線になっている。輪郭をなぞってみた所、青いラインを真っ直ぐに引くことができた。(普通、目の部分はへこみ、
眉の部分は盛り上がり、額は頭頂に向かって曲線を描く。鏡で自分の顔を見ら
れたし) 合成写真との指摘があるが、誰もコンピュータ解析しない為、不明。 首は作り物、背景はセット、スタジオで撮影したインチキとの指摘があるが、専
門家による鑑定がない為、不明。 日本兵なのか、“二鬼子”と恐れられた朝鮮人兵なのか、かく乱工作兵(反日感情
を鼓舞する為に、日本兵に扮装して暴れていた中国側の工作兵)なのか不明。 死体は、戦死者なのか、処刑されたゲリラか馬賊(中国で暗躍していた山賊)な
のか、民間人なのか不明。 「日本兵の虐殺場面」等の好き勝手なタイトルを付けて、出回っている写真であ
る。
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明らかなヤラセ写真
両拳が重なっている 両拳の向きが逆
「女子供を殺す日本兵の蛮行場面」とされているが、撮影者、撮影場所、肖像の
人物、日時全て不明。 刀の持ち方もデタラメ。このような持ち方はありえない。 左の人物は、左足付近に鞘が見えるが、右の人物は鞘すらない。 ただ、日本刀を持ってポーズを取っているだけの、典型的なヤラセ写真である。
日本刀の正しい持ち方
握りは、コンバットグリップ。 右手は鍔元、左手は柄の端
を握る。小指と中指をしっ
かり締める。 開いた時、掌が同じ方向を
向く事が大切。 なお、右の人物は「右八相」に構えている。この場合は、右拳は上記の握りのま
まで、左拳をサイドに開く必要がある。しかし、右の人物の拳は正反対である。
これでは、刀をまともに振る事すらできない。 *上記の手幅は、剣道の持ち方。実際に物を切るには、左手を右手に寄せ、手
幅を狭める必要がある。 しかし、その握り方の違いは、古流剣術や居合術を学んだ者しか知らない。 居合術=「抜刀」「斬り」「納刀」の技術を中心に行う武道。
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偽生首写真
「日本軍の蛮行場面」
と称して出回っている
数多くの写真の一つで
ある。 撮影者も撮影場所も日
時も不明。
オリジナル写真 右が、上記写真のオリジナルで
ある。 「鉄嶺ニテ銃殺セル馬賊ノ首」
という説明文がカットされて
いる事が分かる。 日本軍の犠牲者ではなく、処刑
された馬賊(山賊)の首。 こういった日本軍と関係のな
い残酷写真が、「日本軍の蛮行」
と称したタイトルを付けて出
回っている。
中国では近代になっても、首切りが処刑方
法に用いられ、さらし首の習慣も残ってい
た。 ゆえに、生首の写真ならば豊富にある。
左は、1937年夏、上海で中国兵に首を切られた日本兵。 出典)CNN 1996年 9月 23日
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数少ない本物の斬首写真 日中戦争中、中国には「国民党政権」「汪兆銘政権」「八路軍(共産党)」「地方
軍閥」等の複数の政権があった。日本が正統な政権と認めていたのは汪兆銘政
権であり、日中戦争で日本軍と主に戦っていたのは国民党政権である。 ゆえに、日本側は日中戦争を国家間の戦争とは見なさず“地域紛争”と見なし、
捕らえた中国兵を正規兵の捕虜として扱う規定を設けなかった。 その為、中国兵の取扱は「荷物運搬等の使役」「武装解除の上、解放」「便衣兵
(ゲリラ)として処刑」(中国側は、農民や市民を含むゲリラを多用しており、
この処刑は国際慣習法では合法とされた)等、マチマチである。 注釈)ただし、日本海軍は「第三艦隊俘虜取扱規程」を制定し、中国兵を捕虜として扱い、
国際法に基づいて取り扱った。 国民党側は「俘虜処理規則」で捕らえた日本兵の名誉を尊重するように定めて
いたが、ろくに規則は守られず、捕虜になった日本兵のほとんどは殺された。 開戦の 1937年、捕虜として生かされ、西安の捕虜収容所に入った日本兵は海軍航空兵を中心にわずか 20~50 人である。(なお、日中戦争で本格的な交戦があったのは開戦の年だけであり、以降は、国民党軍の敗走劇である) 日本軍は、便衣兵を処刑する際、しばし軍刀を用いた。出回っている「日本軍
の蛮行写真」の中には、わずかながら、本当に日本兵が軍刀で処刑していると
思われるものが存在する。 右の写真は出典不明だが、本物だと思われ
る。 刀法は、難易度の高い水平斬り。 足位置を変える事無く、見事に引き切りに
している。 明らかに、長年、日本剣術を修行された腕
前である。 大勢の兵士たちが注目している点から察し
て、軍でも名の知られた人物だと思われる。
(戸山学校の剣術教師か?)
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欠陥だらけの日本刀 「日本刀は世界一の刀剣。だから誰が使っても折れない。何人でも斬れたはず
だ」という主張がある。これはちょうど「ポルシェは世界一の名車。だから誰
が運転してもエンストを起こさない。誰でもレーサーになれたはずだ」と言っ
ているのと同じ理屈である。 1.日本刀の意外な脆さ 甲野善紀
1949年生まれ 東京出身 合気道、鹿島神流などを学び、1978 年に武術の動きの研究のため、「武術稽古研究会松謦館」を設立。(2003年に解散) 彼の「捻らない、うねらない、ためない」という独特の身体操作
法は、プロ野球選手の桑田真澄投手を再生に導いた他、それを研
究した末續慎吾が、世界陸上 200mで銅メダルを獲得した事もあり、スポーツの各方面から注目されている。
武術の創造力 PHP文庫 甲野善紀&多田容子 2004/8 177~178頁 五十八 日本刀の意外な脆さ 多田 なかなか強烈ですね。あと、以前伺いましたが、「折れず、曲がらずよく
斬れる」という日本刀も意外と脆いところがあるようですね。場合によっては
木刀より弱いとか。 甲野 そうですね。水試しなんて川に胸まで浸かって、刀の刃を水平方向に向
け、刀身の平地全体を思いっきり水面に叩きつけると、その衝撃で三つぐらい
に折れる刀もあるようですからね。 これは金属という振動に対して敏感な物質だからこそ起きることでしょうね。
木刀だったら絶対にそんなことはなりませんし、鉄でも焼きが入らないような
炭素量の低い軟鉄だったらそんな折れたりなんて事にならないでしょう。 まあ、何でも“長所即欠点”で、焼き入れで鋼は硬くなりますが、そのために
脆くもなりますからね。その脆さは刀の場合思いがけないほどハッキリと現れ
ることがあるのです。例えば刀身にハンマーを当てて何か修理しようと思う時、
不注意に刀の中子などを持って刀身の半ばをコツンコツンとハンマーで叩いた
りすると、全くハンマーに触れていない切先がビィーンと異常な音を発して、
欠けて飛ぶことがあるようです。 ですから既に焼きが入った刀身にハンマーを当てる時は、必ず切先にガムテー
プを張って振動を吸収するようにし、その上、更にそのガムテープを貼った切
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先に布を巻いて、そこを掴んで刀身をハンマー打ちするようですね。 幕末の名匠として名高い水心子正秀という刀匠が、刀が折れた実例を沢山聞き
集めた記録があるのですが、それを読んだ人は「エッ、刀ってこんなに脆いの
か」って、きっと驚くと思います。勿論、なかには丈夫なものもあり、その差
は随分著しいようです。 *官給の軍刀は粗悪品が多かった事で有名である。しかし、もともと日本刀に
は意外な脆さがあった。 94式軍刀(曹長刀) 左は、量産化され、将校に支給されていた軍刀。
官給の軍刀は極めて粗悪品が多かった。 参考)「陸軍戸山流で検証する日本刀真剣斬り」 並
木書房 兵頭二十八&籏谷 嘉辰 2006 41~54頁
戦時中、軍刀の故障は非常に多かった。 その原因を「粗悪な官給軍刀」のせいにされる
事が多く、中には「伝統的な日本刀ならば、故
障せず何人でも斬れる」という神話を広める者
も少なくはなかった。 一例)軍で日本刀修理に関わっていた成瀬関次が著
書にて主張(著書『随筆日本刀』 二見書房 1943)
「官給の軍刀は使い物にならない。日本刀なら大丈夫」という神話を信じ、伝
統的な日本刀を自前で持参する将校も多かった。 しかし、どんなに日本刀が特別な刀剣であろうと、身幅が狭く、細長い日本刀
は、その構造上、多くの欠陥があった。 1634 年 11 月 7 日の有名な鍵屋の辻の決闘では、剣豪・荒木又衛門が36人を斬ったと伝えられる。が、史実では、斬れたのは河合甚左衛門と桜井半兵衛の 2人だけである。しかも又衛門は、名刀鍛冶・伊賀守金道の刀を使用していたが、
敵の小者(使用人)の木刀を受けただけで、刀はへし折れてしまっている。 武士と言う刀剣操作のプロと、優れた刀匠が多かった時代ですら、このような
エピソードは少しも珍しくはなかった。
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2.日本刀操作の難しさ 津本陽
1929年 3月 23日生まれ 和歌山県和歌山市出身 時代小説を中心とする作家。 1978年、第 79回直木賞を受賞。 『明治撃剣会』を始めとする剣豪小説で人気を得る。 剣道三段、中村流抜刀道五段(奥伝免許)の腕前。 過去、中村泰三郎の指導の下、豚を両断する実験を行ってい
る。 危地に生きる姿勢 講談社文庫 1991 36~44頁
編集部の協力で集まった資料のなかに、流泉小史という人物の書いた新撰組に
関する随筆があった。戦前に「文藝春秋」に連載されたものだそうで、著者は
剣道五段だと書かれている。 その内容には、日本刀の試し斬りに関する記述がたいへん多い。江戸で土方歳
三が主催し、沖田総司、清川八郎らが参加した試斬会のことも詳しく書かれて
いる。 小塚っ原で処刑された罪人の首なし屍体をいくつか持ち込み、土壇のうえに二
体を重ね、二つ胴というのを試みているのであるが、沖田の和泉守祐定という
江戸鍛治の新刀の切れ味は言語に絶し、爪を割るように二つ胴を両断したとい
う。 日本刀の試し斬りで最高記録は、関の孫六で成功した七つ胴だそうである。 流泉小史はそのような凄まじい刃味を披露する半面、現在(昭和十五年頃)仔
豚を試斬して成功する腕を持つ剣道家は、帝都に五人といないと書く。 明治になってからは、試し斬りはもっぱら豚の屍体でおこなうようになったわ
けである。乃木希典は明治 39年、谷干城邸で愛刀をふるい、見事に豚の腰部を両断する土壇払いの快挙をなしとげたが、それは誰にでもできることではなか
ったらしい。 谷干城邸は幾度も屍山血河の戦場を馳駆(ちく)し、日本刀の扱いはこころえ
ていると高言していたが、秘蔵の銘刀で試斬会にのぞんだところ、豚の皮一枚
も切れずに刀身を鍋弦のように曲げ、鞘に入らないまま風呂敷に包んで持ち帰
った。 また学習院長某氏は五度試斬をおこない、そのたびに愛刀を曲げ、音をあげて
その道の大家江釣某に秘訣を問いに行ったところ、笑って答えない。 根気よく問いつめたところ、答えを得た。 「据え物は、左手の小指、くすり指と下腹で斬るのである」 教示を得た学習院長が試斬に成功したか否かは書かれていないが、このような
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記述を読めば、日本刀はよほど扱いにくいもののようである。 私の義兄は太平洋戦争で四年間戦線にいたが、日本刀は重いばかりで武器とし
てははなはだ頼りにならなかったといっている。 いつか読んだ週刊誌の記事も頭にこびりついていた。新宿あたりのバーかどこ
かで喧嘩があり、ひとりが日本刀を振りまわして相手の手首を斬りおとした事
件についてのものだが、ふつうはそのようには斬れないものだという、警察側
の談話が載っていた。 その見解は、日本刀ほど斬れないものはない。手首が落ちたのは、たまたま当
たりぐあいがよかったためで、三島事件でも刀がグニャグニャに曲がっていて、
ろくに斬れていなかったというのである。 ほかにも人を斬れば刃に地脂がのってまったく斬れなくなるとか、一人斬れば
目釘ががたついてだめになるとか、聞いたことがある。 (中略=ここから作者自身が日本刀の切れ味を実験する為、中村泰三郎の指導
の下、試し斬りを行ってみるという話になる) 刀を買ってゆくつもりであったが、最初は中村氏の所持する試斬刀を使ったほ
うがいいということである。 途中の車内で中村氏の書かれた教本やパンフレットを見させてもらうと、ます
ます失敗の予想が濃くなってきた。 氏が山下兵団の教官であった頃、大学で剣道を修めた三段、四段の将校二十人
に巻き藁試斬をさせたところ、いちおうの成功をみたのはわずか五人であった
というのである。 「これはあかん」 と私は思った。戦前の三段、四段といえば、ものすごい腕前の連中であった。 *この後、津本陽氏は中村氏の指導の下、巻き藁斬りに挑戦。一度目に巻き藁
一本を両断、二度目は巻き藁二本を両断。しかし、三度目で斬り損じ、刃が5
㎜ほど左に曲がる。 最後は、用意していた豚の死体を試すが、見事、両断に成功する。 日本刀で斬れるか斬れないかは、刀剣の質もさることながら、個人の腕前に大
きく関わっている事を示すエピソードである。
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現実の日本刀の実用性 1.「刃切れ」を経験した軍人・山本七平 山本七平
(1921年 12月 18日~1991年 12月 10日) 東京都世田谷区出身 評論家 1944年 5月、第 103師団砲兵隊本部付陸軍砲兵見習士官(のち少尉)として門司を出航、ルソン島における戦闘に参加。 1945年 8月 15日、ルソン島北端のアパリで終戦を迎える。 イザヤ・ベンダサンの仮名で、ユダヤ人を装い、日本社会を
批評した著書『日本人とユダヤ人』が有名。 戦時中、死体を使って軍刀を試したという。
山本七平 「私の中の日本軍(下)」 文芸春秋 1983/01 152~153頁 N兵長が水とナツメヤシの幹らしい丸太をもってきた。私は死体の手首をつか
み、その手を、その丸太を持つような形においた。タイマツを近づけさせた。
K兵長は、顔をそむけて立っていた。私は水嚢の水を、死体の手にかけて泥を
流した。白ちゃけた手が、真黒な土の中からのぴ、太い木をつかもうとしてい
るように見えた。炎の赤い反射と黒煙の黒い影が、白い手の上で、ゆらゆらと
ゆれた。 私は一歩下がって片膝をつき、軍刀を抜くと、手首めがけて振りおろした。指
をばらばらに切るより、手首ごと切った方がよいように感じたからである。が
っといった手ごたえで刃は骨にくいこんだが、切断できなかった。衝撃で材木
から手がはずれ、手首に細いすじが入ったまま、また土の中へ帰って行きそう
であった。私は軍刀を放り出すともう一度その手をつかみ、再び木材を持たす
ようにした。 その時ふと、内地の連隊祭の巻藁切りを思い出した。繊維はすべて直角にはな
かなか切れないが、斜めなら案外簡単に切れる。私は位置を少しかえ、手首か
ら小指のつけ根の方へ、手の甲を斜めに切断しようとした。二度日の軍刀を振
りあげたとき、鍔が何か少しガタが釆たように感じた。しかしそのまま掘り下
ろした。 手の甲はぎっくりと切り離れたが、下の木が丸いためか、小指のつけ皮がつい
たままで、そこが妙な具合に、切られた手と手首とで、丸太をふりわけるよう
な形になった。私は手をつまむと軍刀を包丁のようにして、その皮を断ち切っ
た。鋭角に斬断された手首は、ずるずると穴の底へもどった。小指が皮だけで
下がっている手の甲を、私は手早く紙で包み、土の上におき、円匙を手にする
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と、急いで土をかけた。 そのまま円匙を手にしで、私は、機械的にO伍長の墓に来た。すべてが麻痺し
たような、一種の無感覚状態に陥っていたらしい。全く機械的に土を掘り起し
たが、彼の手は、どこにあるのかわからなかった。骨ならば手でなくてもよい
だろう。そんな気がした。 軍靴をはき、巻脚絆をつけた足が出てきた。私は足くびをつかんで力まかせに
引きあげた。S軍曹の手がなかなかあがらなかったのでそうしたのであろうが、
その時、これが、彼のはずれた方の足だとは気がつかなかった。カが余って、
まるで大根でも抜くような形で、はずれた足が、スポッと地上に出てきた。私
は千切れた軍袴を下げ、切断部を水で洗うと、右膝をつき、左足の靴先で彼の
靴を押え、まるで足をタテに割るような形で軍刀を振り下ろした。鋭い鋭角状
に、肉と骨が切れた。おそらく、距離が近かったので自然に「挽き斬る」とい
う形になったことと、刃が繊維に平行していたからであろう。 私は、軍刀を抜身のまま放り出し、切断した部分を前と同じように処置し、急
いで土を掘り、足を埋めなおしてから、軍刀を紙でぬぐった。暗くてよくわか
らなかったが、一見何も付着していないように見えた刀身や拭うと、確実に何
かがべっとりとついていた。刀身は鞘におさまった。しかし、何か鍔や柄がガ
タガタグラグラする妙な感じがあった。しかしその状態は、もう再述する必要
はないであろう。 *明らかに、山本七平の軍刀は「刃切れ」を起こしている。 日本刀は、刀身と木製の柄の間に、“目釘”と呼ばれる芯を通して固定する。 正しい真剣の握り方を知らぬ者、未熟な者、熟練者でも手の内(両手にかける
力加減)を誤れば、この“目釘”に負荷が掛かり、そこから刀身に亀裂が入る。
これが「刃切れ」である。 負荷を軽減する為、“目釘”は、三年以上の真竹で、冬至の 10 日前に伐り、三年間干したものが良いとされているが、量産化できない為か日本軍は鉄製の“目
釘”を支給していた。その為、余計に「刃切れ」が生じやすかったという。 参考)「陸軍戸山流で検証する日本刀真剣斬り」 並木書房 兵頭二十八&籏谷 嘉辰
2006 47~54頁 *山本七平は、ユダヤ人の振りをして日本社会を批評した詐欺師だが、彼の「私
の中の日本軍」の日本刀に関する描写は、実に正確である。
日本刀の最大の弱点 茎(なかご)
刀身のこの部分を柄に差し込
み、中央の穴に目釘を通して
固定する。
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2.プロが語る日本兵の軍刀の実力 古岡二刀齋(古岡 勝)
1919年生まれ 福岡県出身 無双流居合斬道創始宗家 陸軍予備士官学校卒業の年、大東亜戦争開戦。中国戦
線に配属。(将兵に軍刀指導を行った経験あり) 陸軍大尉で戦場より帰還後、従七位に叙せらる。 戦後、学習研究社入社。副社長を経て現最高顧問。 「夢想神伝流」「無雙直伝英信流」を学び「無双流居合
斬道」創始。國際居合斬道連盟理事長。 平成元年、勲三等瑞宝章受賞。
Webサイト「旧日本帝国陸海軍軍刀」 http://www.h4.dion.ne.jp/~t-ohmura/
サイト管理人の電話取材による古岡二刀齋先生の回答を転載 http://www.k3.dion.ne.jp/~j-gunto/gunto_028.htm
柄握りの間違い 私は剣道を経験し、若い頃、脇差し(近江大椽藤原忠広)で和竹を切った事もある(刃まくれを起こした)。 柄の握り方は、鍔の傍を右手で握り左手は大きく離れて柄頭(兜金)の近くを握る。之を常識と思っていた。 師が先ず言われた事は、柄の持ち方を皆さんが間違えている。 これでは刃筋は通らず、刀は曲がったり折れたり、 斬れ味も悪く、敵に致命傷を与える事は出来ない。 時代劇に観るような柄の持ち方は間違いであって、これでは絶対に物(人)は斬れないと断言された。 師は、鍔の傍を右手で握り、左手は右手から指一つを置いた処で握るものだと
言われる。 ここで思い当たる節がある。騎馬戦では太刀は片手で操った。両手握りの徒歩
戦に移行した時、刀は既に主武器ではなくなっていたし、実戦で使う刀は消耗
品と考えられていたから、柄の損傷は当時は大きな問題とはならなかったのか
も知れない。 それとも古えの武士達は師と同じ握り方だったのだろうか。 軍刀柄の破損の原因の一つは、この柄の握り方にも起因している様に思える。 人を斬る時、目釘を支点として、茎尻には下向に大きな応力が掛かる。 柄頭を握った左手がこの茎尻の応力に逆らって柄頭を上に向ける理屈になる。 茎と柄の作用・反作用の大きな力学上の相剋が、朴の木の柄の中で生じること
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になる。 師の言われる握り方だと、左右の手はほぼ目釘の位置で握られる事になり、柄
には茎尻の応力に逆らう力が殆ど生じない。目釘や柄の破損の理由の一つはこ
の柄の握り方にもあると思われる。 手の内・間合い・刃筋 刀が本当に斬れるか斬れないかは「手の内」と「間合い」にあり、正しい「手
の内」でなければ絶対に人を斬ることはできないし、日本刀の威力・特徴など
その真価は発揮できないと言われる。 「間合い」は剣道の経験から意味は充分理解できるが、「手の内」は正直、真剣
で物斬りの修練をしていない私には難解であった。 師の下には、うら若き女性から大柄の外国人男性迄巾広い人が修行にきている。 大柄の外国人は殆どが刃長 76 ㎝位の大刀を使うという。(因みに師は大変小柄でいらっしゃる) 修練が浅い時の彼等は力に任せて物を斬るので、安くもない刀を大抵曲げて仕
舞うと苦笑しておられた。 その点では短い脇差しは曲がり難いとの事。これは物理的にも充分理解できる。 「手の内」を修練した若い女性消防士で、見事に物が斬れるようになった人が
いるとのお話があった。 「手の内」の意味と「刃筋(刀身の軌道)を通す」ということが、その女性消防士と外国人男性の例を重ね合わせる事に依って何となくその輪郭が私なりに掴め
たような気がする。 「手の内」を会得すれば力などは要らないし、刀の自然の動き=軌道に任せれば良いとの説明であった。 師は事もなげに仰しゃったが、6年に及ぶ戦場での実戦経験と戦後の永い修練の積み重ねで極意を会得された師にこそ言える話であって、素人が直ぐにその境
地に達する訳ではない事は云うまでもない。 刀が斬れるか斬れないかは、将に「使い手の腕」ということはよく理解できる。 関連「刀柄の神秘性」参照 http://www.k3.dion.ne.jp/~j-gunto/gunto_024.htm
将校と軍刀 将校軍刀の意義をお尋ねする為に、先ず昭和 12年の「百人斬り競争」の件をお尋ねしたら「副官と歩兵砲だろう。あり得ない」との明快なお答えだった。古
岡大尉の任官時期と特殊任務に就かれていたご様子(当方の推測)なので、一般将校軍刀の意義をこれ以上お尋ねすることは無意味と思い質問は取り止めた。 騎兵が機甲に変った後、士官学校では歩兵科生徒のみ本科で戸山学校軍刀操法
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の教練があった。 将校達の軍刀操法の程度をお尋ねしたら「特殊な任務でない限り、将校は軍刀
操法など殆ど知らない素人ですよ」との事。短期間の教練を受けても使いもの
にならないと云う意味を込めての事のようだ。 血刀 これに関して人を斬った血刀の処置をお尋ねした。 刀に付着した血脂はすぐに白くなり、時間が経つと固形化し、そうなると血脂
は絶対取れなくなるとの事。 従って人を斬ったらなるべく早く手入れをしなければならず、布で拭った位で
は駄目である。砥石をかけるのが一番だが、砥石を戦場で持ち歩く訳にはいか
ないから最低打ち粉と拭い紙の手入れ道具は必要である。人を斬ったら必ず手
入れが不可欠で、これは常識とのお答えだった。古岡大尉の兵科と軍務が今一
つ不明な為、一般将校の状況の応答に些か齟齬(そご)をきたした。 全将校が軍刀手入れ道具を戦闘中も携行したのであろうか。軍務・兵科にも依
るが、第一線の歩兵将校達が連続戦闘や激戦の状況で果たしてそんな余裕を持
てたのか、ここは少しく疑問の残る処であった。 因みに、血刀をその儘にして置くと、一晩で真っ赤な錆を生じる。 刃部は最も錆に弱い部分で、血脂の固着と共に数日で刀は使い物にならなくな
る事が実証されている。 生半可な刀身の手入れでは、その刀身を何日も掛けて連続使用するという事
は斬れ味からしても大変難しいという事になる。 *戸山学校=1873年創設。軍隊指導者を育成する為に、全国の各部隊から抜粋した将校と下士官に、射撃・体操・剣術・戦略等の教練が行われていた。 剣術科では、防具・竹刀を用いる「剣道」の他、古流剣術を元に編纂した「戸
山流居合術」が、歩兵科の生徒にのみ教練されていた。
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3.皇道派の台頭と剣豪ブームと一緒に、軍に広まった日本刀 1931年 12 月 13 日、皇道派(精神論を重んじ、天皇の親政を唱えたグルー
プ)の荒木貞夫が、陸軍大臣に就任。(1934年 1月 22日まで留任) 1934年 1月 23日、荒木貞夫が軍事参議官に就任。
2月 15日、皇道派により、日本陸軍の軍刀が西洋刀式から日本刀式に変更される。(陸軍記念日の 3月 10日施行) 参考)「陸軍戸山流で検証する日本刀真剣斬り」 並木書房 兵頭二十八&籏
谷 嘉辰 2006 27~28頁 1935年 8 月 12日
相沢事件発生。 相沢三郎中佐(剣道四段)が、皇道派に対立する永田鉄山軍務局長
を軍刀で刺殺。 備考)一撃目を切り損じ(与えた傷の深さは1㎝)、銃剣道の突き技を用いて
殺害 参考)前記 28~31頁
1935年 8 月 22日
文豪・吉川英治の剣豪小説『宮本武蔵』が朝日新聞で連載開始。 空前の剣豪ブームが到来。(現在も、20カ国以上に翻訳され、世界的にヒット)
1937年 吉川英治、毎日新聞の特派員として中国戦線を視察。 毎日新聞・浅海記者が、南京攻略戦で野田・向井両少尉が百人斬り
を行ったと報道。 備考)この記事は、吉川英治『宮本武蔵』の「二乗寺下り松の決闘」の影響を
受けていると思われる。この時期、吉川と浅海は行動を共にしていた筈である。 この年、海軍でも、日本刀式軍刀が許可される。
*武士のシンボルである日本刀は、その実用性を検証される事なく、皇道派将
校らの精神論と吉川英治の影響により、軍部に広く普及してしまった。
百人斬りのモデル、二乗寺下り松の決闘 武蔵の伝記『二天記』を元に、吉川が書いた架空の話。 武蔵が一人で百人近い敵を切ったと描かれているが、当時、
刀剣研究家&鍛冶職人・岩崎航介が、吉川に対して「ありえ
ない」とクレームを付けている。 参考)遺稿集『刃物の見方 三条金物青年会 1969』
現在の下り松
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4.軍に日本刀信奉を広めた 2人 荒木貞夫
(1877年 5月 26日~1966年 11月 2日) 東京都狛江市出身 1931~1934年、陸軍大臣を務める。 1934年、軍事参議官。1935年、男爵。 1936年、二・二六事件の粛軍の結果予備役編入。 1939年、文部大臣に就任。 終戦後、A級戦犯として服役。1955年、仮釈放。 皇道派の重鎮であり、精神論者。
升本喜年 「軍人の最期」 光人社 2001 161頁 荒木は演説が得意で、国体精神の昂揚を説き、満州事変の意義を強調し、国政
の改革を論ずる。 盛んに新聞、雑誌にも取り上げられ、荒木の古武士的日本主義の雰囲気と演説
は、満州事変後のこの時期、軍国的気分と軍国主義昂揚の波に乗って、爆発的
喝采を浴びた。 荒木の外人記者相手の「日本は竹槍千万本あれば、列強恐れるに足らず」とい
う「竹槍論」や雑誌社(改造社)の招聘で来日したイギリスの文豪バーナード・
ショーとの対談で度胆を抜いたと伝えられる「古来、日本人は地震によって、
強靭な国民性を養われて来た」という「地震論」などの派手な国防論は、尾鰭
をつけて広がり伝説とさえなった。 荒木の精神主義強調と野党的言動、それに上下の枠を越えた青年将校らとの接
し方は、彼らに抜群の人気があった。
吉川英治
(1892年 8月 11日~1962年 9月 7日) 神奈川県横浜市出身 1926年、作品『鳴門秘帖』がヒットし、時代小説作家として名を上げる。 1937年、毎日新聞の特派員として中国戦線を視察。 1938年、ペンの部隊として中国戦線に二度従軍。 戦時中、朝日新聞で連載された『宮本武蔵』が大ヒットし、
不動の地位を固める。 終戦後、一時執筆活動を停止するが、1947年に活動再開。 1950年、『新・平家物語』を週刊朝日に連載。 1953年に、菊池寛賞受賞。 1960年には、文化勲章受章。
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苦心した軍刀操作 日中戦争中、軍刀で人を斬る事の難解さが判明すると、1940年末より陸軍戸山学校の「剣術科」において、初級将兵に対する軍刀操作の見直しが始まった。 海軍では、1942年より、高山政吉が独自に「高山流抜刀術」を考案し始めた。 “一大隊”の話に過ぎないが、真藤巌大隊長の部隊では、1942年の半ばより、剣術の教練に非常に力が入れられるようになったという。 軍刀の非実用性を認めようとせず、なんとか軍刀操作が出来る軍人を育てよう
と試みたのである。 しかし、盛んに教練されていた「剣道」が、かえって軍刀操作の弊害になって
いたといわれる。 参考)「日本精神」と抜刀道」 BABジャパン 中村泰三郎 2001 参考)「陸軍戸山流で検証する日本刀真剣斬り」 並木書房 兵頭二十八&籏谷 嘉辰
2006 参考)「大日本戸山流居合道」 森永清 1982年 非売品 一般的ではなかった斬首刑 日中戦争では、国際慣習法に則って、日本軍は便衣兵や馬賊を処刑した。その
際、しばし軍刀が用いられた。(5頁参考) 出回っている斬首写真の多くは偽写真だが、中には本物と思われる斬首写真も
わずかに存在する。
だが、そういった斬首写真は、みな、鮮やか
に斬首に成功している場面ばかりである。 将校の間で盛んに斬首刑が行われていたの
であれば、その数十倍はあるはずの「斬首の
失敗写真」や「未熟な刀法による斬首写真」
は見当たらない。 これは、斬首刑は一般的ではなかった証拠で
ある。 見事な斬首場面の写真は、わざわざカメラに
収める為に、確実に斬首が出来る人物(長年、
剣術か居合の修行をされた剣術教師)に依頼
し、撮影していたものだと思われる。
見事な袈裟斬り。一撃で確実に斬
っている。 これも、長年、剣術修行をされた
人物の腕前である。 注釈)当時、馬賊の斬首写真は絵葉書として売られていた
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軍刀操作に弊害を与えていたといわれる剣道 剣 道
1815年頃の北斎漫画より 防具を着け、竹刀を持つ武士
剣道史略歴 <生誕> 元々は、18世紀半ば、中西派一刀
流の中西子武が開発した、防具と竹
製の剣を用いて打ち合う稽古方法を
差した。 当時の名称は、竹刀打込稽古。 安全に稽古が出来ることから、関東
を中心に多くの流派で採用された。
千葉周作
<専用技術の確立> 19世紀初頭、北辰一刀流の千葉周作が、各流派の技を集大成
し、初めて、竹刀打込稽古専用の技術を体系化させた。(いわゆ
る「六十八手」) 以降、竹刀打込稽古は、「試合用の武道」として各流派の間に普
及した。
1895年、全ての武道流派を包括する「大日本武徳会」が設立されると、剣道の用語と技術は整頓され、剣道は「試
合用の武道」から「独立した武道」へと昇華。 1911 年に中等学校の正科、1941 年に国民学校の必修科目となり、軍の教練にも盛んに取り入れられた。 注釈)これとは別に、武道流派の本来の技(基本技のみ)
を十本抜粋した「大日本帝国剣道形」が 1912 年に制定されている。 *剣道は、“身・息・心の一致”を重んじる禅のごとく、打突の時に“姿勢・太
刀筋・気合”の一致(気剣体の一致)を重んじる。 それに伴う心身の鍛錬と、その洗練された技術は素晴らしいものである。しか
し、その「剣の握り方」「打ち方」「技術」は、実際の日本刀操作には極めて不
向きである。
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偽武勇伝の見破り方 戦時中、士気鼓舞と日本刀信奉から、軍刀を用いた偽武勇伝と軍刀神話が多々
作られた。 戦後は、日本軍の残酷さを強調し、その原因となった天皇制を批判する為に、
軍刀を用いた偽蛮行証言が多々作られた。 (反差別国際運動日本委員会理事長を務め、国際社会に向かって日本の人権侵
害を声高に訴えている武者小路公秀が、世界一の人権侵害国家・北朝鮮を讃え
る「主体思想研究会」の理事も兼任しているように、反政府活動を正当化する
為に平和団体や人権団体を名乗っている輩が多い事を留意すべきである) これら偽武勇伝や偽蛮行話を見破には、二つの方法がある。 <経歴を調べる> 前述の通り、日本刀操作は難しく、武士ですら切り損じる事が多かった。 特に、剣道経験者や未熟な者には、日本刀で人を斬ることは極めて困難である。 本当に人を斬ったというならば、長年、古流剣術や居合術を学んだか、最低で
も「戸山流居合術」か「高山流抜刀術」の教練を受け、優れた成績を残してい
た筈である。 その経験がないのに、何人も斬ったなどといっていれば、それは明らかにおか
しい。 <軍刀の描写を検証する> かつて、文豪・吉川英治が著作『宮本武蔵』において、「二乗寺下り松の決闘」
(百人近い敵を切る話)を描いた時、当時の刀剣研究&刀匠の第一人者・岩崎
航介が、次のようなクレームをつけている。 武術の創造力 PHP文庫 甲野善紀&多田容子 2004/8 98頁
宮本武蔵と刀 朝日新聞連載の「宮本武蔵」を読んでいる中に、次の事に気が附いた。 一、一条下り松激戦で、武蔵の刀は欠ける可き筈なのに刃が欠けたとは書いて
いない。 二、本阿弥光悦と会っている場面に、光悦が研師である事が、何等書いていな
い。 三、武蔵佩用の刀を胴田貫と書いてある。 右の中、一の刃の書けない事は、現代作家の通幣で、本当の戦争を知っている
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昔の人は、必ず刃が鋸の様になったとか、ささらの様になったとか、弓の如く
反ったとか云って、激戦の有様を描写している。而るに実際の斬合を見た事の
ない現代人は、スパリスパリと切って刃が何ともならない様に考へている。況
(いわん)や真の日本の精神など、却々掴み難いらしい。是は吾々専門家の方
で、提供すべきものであると思ったので、友人の紹介で吉川先生にお会ひする
事にした。
雑誌 『作刀研究』 昭和十五年七月号より *どんな優れた名車とて、長時間走り続ければエンジンは傷む。悪路を駆けれ
ばタイヤは酷く磨り減る。車体に傷も付けば、凹みもする。 優れた名刀とて、実戦に使用し、人を斬れば破損を起こすのは至極当然である。 軍刀に起こりやすかったといわれる「刃切れ」の描写がなく、「刃まくれ」も「刃
折れ」の話も出てこず、血糊の処理についても言及がなくば、その武勇伝や蛮
行証言は創作だと思われる。 ちなみに、吉川英治の『宮本武蔵』に登場する“刃物の鬼”と呼ばれる研師・
厨子野耕介は、クレームを付けてきた岩崎航介がモデルであるという。 文豪・吉川英治にクレームを付けた男
岩崎航介
(1903~1967年) 新潟県生まれ 刃物の製造で世界一だったドイツに勝つ為、幼少より
刃物研究を志す。 日本刀研究に没頭し、研師・永野才二のもとで修行を
積む。1922年、日本刀の秘伝書を読む為に、わざわざ東京帝国大学文学部国史学科に入学。 東京帝国大学国史学科を卒業後、工学部と大学院で冶
金を学ぶ。 1945年 5月に故郷・三条に帰り、日本刀・切込刀の研究製作に没頭。
不純物の非常に少ない玉鋼(たまはがね)を使用した優秀打刃物の研究により、
世界最高の切れ味を保つ剃刀の本格的製造に成功し、遂に三条刃物を世界一の
位置に押し上げる。 (一回研いだだけで、1000人の髭を剃ってもなお余力を残すカミソリを造
り上げる事ができたという) 晩年は、宮内庁正倉院刀身調査員を拝命。 跡を継いだ長男・岩崎重義は、1998年、ミュンヘン国際匠の技メッセにより、匠の技の大賞である「バイエルン州政府首相金賞」を受賞している。