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日本漁業における北洋の問題 : 特に再開北洋漁業をめぐって
著者 柏尾 昌哉雑誌名 關西大學經済論集巻 3号 特ページ 169-200発行年 1953-12-20URL http://hdl.handle.net/10112/15813
日本漁業における北洋の問題
(
1)
批界最大の漁猿高を誇った日本漁業も敗戟による打撃は匿めて大きかった。即ち、
て石油及び漁業資材の歓乏大型漁船の微用撃沈等の生産手段喪失と、他方、輸送機関冷蔵冷凍施散販売施設の破壊
及び流通機構の阻害等とは、互にからみ合つて日本漁獲高を急激に減少せしめた。
高は明治末葉の一五
0万噸級から一貫して増加の傾向を示し大正末期には――
100万噸を越し昭和七年頃即ち漁船の
一般的機勤化完了の時期を以つて一応最高段階ーー年間約五
00万噸ーーに達し以後四
00万噸乃至五
00万噸の
漁猿店を維持していたが、昭和一六年第二次泄界大戦の勃発を契機に急激に下降し昭和二
0年には二
00万噸近く
迄減少した。併し峨後は再び急カープを画いて上昇し昭和二七年以降は再び四
00万噸以上ーー世界総漁獲高の約
四分の一ーーの漁睾をあげ著しい回復ぶりを示している。
柏
尾
ー
ー
特
に
再
開
北
洋
.
漁
業
を
め
ぐ
つ
て
ー
ー
日本漁業における北洋の問題
一方、労働力不足を基幹とし
「図A」に見られる様に、漁獲
昌
哉
169
(岡A) 日本の漁痰裔推移 (単位百萬噸)
5
4
3
2.
業危機
゜19!0 1915・1920 1925 . .1930 1935 1940 "1945 1950 (ll月43) (穴4) .(大 9) (大14) ・(昭5) (昭10) {日召15) C昭20). (Bi'I 25)"
I三口11936(昭11)1醤謬麟五I,... (昭20)-, ... (昭23f•fil (昭26)14,941,988'柑'4,858,336 4,629,405 2,344,088 3,017,864 4,344,208
作製安料
水産應 「水産業の現況」 p. 101 - p. 102
連合軍憩司令部「日本の股林水産安源」 p. 392
拾山義夫 「水産學概論」 p. 87
東洋饂涜 「繹清年鑑」 昭5年ー一昭15年版
170
日本漁業における北洋の問頚
次に漁業の必須生産手段たる漁船に就いて観察しよう。
張として僅少乍ら若千珀加の傾向が見られる。即ち大正末期の約三五万隻は昭和五年には三七万代に同一五年には
三八万代に増加する。併し更に詳細に見るならば実は増加したのは機動船のみであることに気付く0
即ち無機勤船
は大正以来昭和一五年頃迄三四万隻内外でほとんど変動はないが、機勤船では大正末の一万隻台が昭和一
0年には
六万台に昭和一五年には七万台にと急増加している。従つて明治末葉からの漁船隻数増加は機勁船増加として考え
られる。同様に噸数カープを見るときもその増加は機勤船である°猶ここで噸数増加のカープが隻数増加のカープ
より急傾斜で上昇しているのは一隻当り噸数の増大即ち機動船中で大型漁船の増加を示すものである。この機勤船
(
2
)
増加傾向特に大型化傾向は戦争によつて一時中断されたが、昭和二
0年以降は再び前よりも急激に増加し始めた。
特に漁船の大型化傾向はその噸数カープの急激な上昇が追憾なく之を物語っている。かくの如く漁船は明治末から
現在も猶増加大型化の傾向を進んでいるが他方漁獲店は既に昭和七年乃至一三年頃に五
00万噸と言う一応のピー
クに逹し以後その八割程度の回復に止まつていることは留意せねばならない。
更に漁業人口の推移を見るに、
明治末葉大正初年頃の約一
00万人は以後ゆるやかなカープを画いて上
昇し昭和一五年に到つて遂に一五
0万を突破した。大戦中は四割減少したが戦後は再び一五
0万の線を維持してい
る0
勿論この統計の中には業、王も被傭者も本業者も副業者もすべて一括されているのであって漁業人口内部の構成
変化を短い知ることは出来ないが尤も角も非常に多くの漁業人ローーl
世界漁業人口の約六割ー!jが存在することだ
けは判明するであろう。
漁獲高、漁船隊、漁業人口の三つの図に於いて、日本漁業が世界総漁猿高の四分の一即ち約四
00万噸以上を産
(闘C)
(国B)隻数では大正五年以降一般的機勤化の時期を契
171
儘 B)
6
2
l
840
i,I'
/ / \ /
一 一” ~ l .,,.,
--. - • ー・19IO (睛43)
日本の漁茄塚推移(二塁贋喜:塁魯字羹喜)
1915 (大4)
1920 1925 伏9) (大/4)
1930 1935 , j940 1945 . 1950 (昭5) (B召10) 国 15) (昭20)』 (BEl2~)
面y---竺竺¥1925(大14)11929(昭4)11932(昭7)119祁(昭m!l9塁一悶呵四7(昭22),1950(昭25)
: 動船日 12.813 I 31,103 I 45,469 I 62.169 I 61.049 I 88,301 I四,919摂計動細 344,107 328,442 315,217 諏,0潤 305,601 紐1,465- 351,421
356,920 369,545・360,686 蹄6,267 3紺,650 429,766 480, 拗
字心I I I―|― I 486.607 I曲 .591I 1 911.409 ー 一 讀.鵠1 307,101 319,436
498,798 52a 366 s2s, 哀18- 937 ,6!!2 ,230,846
作製汚料
作製査料連合軍穂司令部「日本の農林水産資源」 p. 396 東洋紐演 「紐浣・年録」 昭5-—昭1砕F版農林省 「農林省統計表1 1950年版(園C) 日本の漁業人口推移 (輩位十萬人)
5.050 11
,.---
----- \ /
1910 1915 1920 1925 1930 f935 1940. 1945 1950 (日月43) (大4) (大9) (穴14-) (日BS) (昭JO) (昭15) (IIB 20) (II&勾
11915叫 1925(大w/1935<昭10)11四(昭15)11叫 5(昭20*949(昭2<))951(昭26)
約 l約 I約 1約 1約 11,100,560 1,116,000i 1,531,0001 1,400,000 1,300,000 1・491,1叫1,506,6251
作製安料農林省 「農林省統計表」中央水産業會 「水産統計年鑑」東洋鯉済 「鯉済年鑑」
172
日本漁業における北洋の問題
(闘D)
する批界一の漁獲国であること、漁船も着々盤備俊秀化し約ーニ
0万噸四八万隻に達し戟前最盛期をはるかに上廻
ったこと及び批界の六割即ち一五
0万人の洸業人口を有することより名実共に批界一の漁業国海国日本を結論する
とするならばこれ程危険な結論はないと言はねばなるまい。このような結論が日本漁業のあらゆる本質的な問悶を
単なるマル竺^的人口論や季ラインやソ連治下漁場問願に解消せしめるのである。かかる皮相な観察から生ずるも
のはいたずらに問願を隠徹し膜朧とさせるヴェールに過ぎない0
海国日本11
「我は海の子」の自信を果して漁村の
子弟は今猶持ち続けているであろうか。以下分析を進めて見よう。
哭1)この点に隠しては各方面から若千報告されているが信頼すべきデークは乏しく何れも推定の城を脱していない。中で最も
信頼の置けるのは現地調査と含んだ次の年鑑である。中央*産業會「水産統計年鑑」(二
0年版)
(2)「績貧しさからの解放ー—漁業問題特集」には「:・・・・・多くの大型漁綿は沈没した。漁綿の戦争損害鑢数は四萬隻、三一萬
噸で、.これは緯数の一ー・五%と二八・ニ%に上る。大型鋼船は噸敬で九
0•五%という壊滅的打華を受けている。」とある。
連合國線司令部天然天源局報告では「正確な安料がないので不明である。・・・・・・・大型漁佃は大抵華沈されてしまった・・・・・・」とあ
る。「同局登行ーー日本の漁政」ーー昭和二
0年ーニ六年。猶水産慮「水産業の現況」によれば全國統制では楓動綿約八
0%、
大型機動綿のみで五
0%の減少となっている。
先ず漁獲高を問頸にして見よう。現今迄の漁業抜術水準から見れば、漁獲の中心は言う迄もなく比較的陸地に近
いところか島嶼附近か要するに海岸から目のとどく範囲の海面に於いて見出される0
而して優秀な漁場もほとんど
ここに存在する。そして陸地から離れて大洋に進出するに従つて漁獲は減少して来る。
これは植物性プラ
173
(岡D) 生産力分布と漁紺噸敷別曲線
y
漁
船
隻
数
生
産
力
乙—生産力分布線
¢—暉正な漁婆
c —不逝正な漁複.沿岸漁禎幽度て沖鑓平の不足
a£c -i
\、\``・ロ、‘‘、[〗.
゜漁楊の沼岸距離
漁茄噸敷
資料拾山義夫 「股政評論」
同 「水産學概論」
x
漁場を媒介とする網元対網子の関係が成立する。
制成立と軌を一にして網元制即ち沿岸漁村の総有
のまつはる洸場総有制と姿本主義的性格の個人有
漁場との妥協的形態であり日本股業に於ける地主
而して明治政府の漁業支配機樽は旧来の半封建性
に極めて多くの封建的謡関係を引継いだものでは
ソクトソ増殖率の高い水域は陸地に近い大睦棚か
或は海洋中の島嶼附近にあるからである0
故に日
本漁獲高の八〇劣
(大正末葉頃迄は約九
0%)
海で獲得されて来たし現在もそうであると言えよ
ぅ°併し等しく沿岸及び内海からの漁獲と言つて
もそれが行はれる漁業の形態は同一ではない。
明治新政府による上からの改革は下部構造内部
あったが、
一方に於て従来の領主経済を抹殺した
ことは余剌価値の徹底的な牧奪をかなり緩和し全
体として漁業に於ける姿本主義の発逹を促進した。
迄は
この四つの島の海岸から目のとどく範囲で即ち内
1714-
日本漁業における北洋の問題
(表 1)沼岸・沖合漁業の漁獲高比較指敷
作製賓料、 宮城雄太郎
農林省
「最近における賓本漁業の構造」
「農林省統計表」
そしてこの半封建的関係を基盤として沿岸漁業が行はれたのである0
併しかかる
関係はより資本主義的な内地沖合漁業の発展によって次第に変質する0
漁場が沿
岸から内地沖合えと伸びるに従つてこの種漁業に適した技術や手段の所有が必要
となりこの生産手段を充足し得るものだけが新漁場を支配し得ることになる0
之
に対し従来の網元網子的沿岸性零細漁業は賽殖、沿岸網の改良精密化、大規模勤
力化等種々適応えの努力が見られるが何れにしても沿岸漁業・の限界内に止まり半
封建的性格は一貫して資本主義的発展を阻止し続けて来た。従つて内地沖合漁業
の初期はむしろ沿岸漁業小生産者の上向と言うより小生産の牧穿者たる商業賓本
(3)
の進出が著しかったのである°併しこれ等賓本も漁場を通じ或は労働関係を通じ
て網元屈と結び付き、ここに封建的関係ーー特に労働関係に於いてーーを含みつ
つ全体としては資本主義的生産えと移行して行く炊態が見られる°即ち前期的な
労働関係を内包している点に於いて資本制的経営といつても特殊な形態が現はれ
て来るのである。
今、統計により沿岸及沖合漁業発展の朕況を見るに、
(表1)
先ず明治三二年
から大正三年迄の所謂無機動船時代では発展は端初的で全体の指数をさして茄め
はしないが大正三年以後の指数は急増し漁獲高は昭和一四年には約八倍迄上昇し
中でも沖合漉業は一
0三倍という極めて高い指数を示している。そしてこの傾向
175
は戦後にも及んでいる。
かかる漁業の資本主義的発展も昭和一
0年以降は所謂戦時
かかる漁獲増大特に内地沖合漁業の発展は何と言つても漁船の機勤化に即応している°漁船の機勤化は第一に内
地沖合漁業発展と沿岸網漁業の大規稼機拭化の可詣性を与え第二に小漁民分解の作用を与える。沿岸漁業はその所
有形態と労働関係より一般には極めて封建的でありそれがその生産力発展を阻止して来たが内池沖合漁業とてもか
なり高度の技術水準を持ち乍らも労働関係は半封建的隷従や協業的手労働中心の漁掃が支柱であって賓本主義的発
展を示しつつも封建的たものを内包し、この沿岸性に象徴される封建性が沿岸漁民層の分解を窮極迄推し進めるこ
で)
とを阻止し不完全におしゅがめて行った。このことは漁獲高の最高。ヒークたる昭和五年乃至―二年頃が将しく漁村
(
5
)
恐慌期であったことよb明瞭に示されている。砿瞬A)
体制下に包摂されて全面的衰徴停滞の途を歩むのである。
とあれ日本洸獲高の八
0劣迄はこの様な日本近海に於ける沿岸及び内地沖合漁業から得られその担当者は漁家で
あり自営小漁業であり共同経営であった。残りの二
0劣が所謂巨大姿本を支柱とする遠洋漁業漁獲高であった。
日本遠洋礁業は「これが帝国主義的外国出漁の形態をとり、かつ漁業における独占資本の成長、支配の形態であっ
(
6
)
(
7)
た」のは一箕した特徴であり明治三八年制定の「遠洋漁業奨励法」により明瞭に示される如く始から政府の蹟極的
な保臨奨励を受けて成長した。そして巨大資本はかかる政府保護の基に常に何れかの遠洋漁業を独占し生産加工販
売の有利性を確保して来た。従つて明治三
0年乃至四
0年代にその端緒が見られる巨大資本の形成は、沿岸内地沖
合漁業ではなく遠洋漁業、貿易経油を苺韓として成長する°即ち始めから「アジア暑奪の方向に添い専ら内地を根
拠とした洸船の航海能力の増大による海洋漁業を発展せしめて国内市場の要求に応じ、かつ水産商品5国際的流通
176
日本漁業における北洋の問題
(
8
)
に介入する方法」が指向された。尤も遠洋漁業と言ってもカッォ漁業や以四底曳漁業等はむしろ沖合漁業の延長程
度で独占も行はれず中小企業が主なる担い手となって来た1
第二次大戦後はここにも巨大資本が中核として進出
するーーーのであり漁猿高も他の遠洋漁業より少ない。今問四としているのは北洋や赤道附近の苺船式漁業、支那海
のトロール漁業、南匿の捕鯨業唸である。この様な遠洋漁業の発述は「表2」で見られる如く漁船の一鼻般的機勁化
以前に於いて既に漁獲増加の基礎が与えられておりそれが第一次大戦後の飛躍的増大えと連なるのである。そして
一方では遠洋漁業の中核である北洋漁湯の独占をめぐつて資本の斗争そレて大姿本えの集中が続けられた。かくて
幾多の経過を辿つて日魯漁業会社の第一回目の狭占は成功レ、他の大賓本はアラスカ沖に指向するがそれ等は又日
で
9)
本水産に集中独占される。
かくて明治末葉にその発展の基礎が築かれ大正以来急激に伸長した遠洋漁業は当然漁猿高をも増加せしめた。
(表3)即ち昭和―二年頃の最盛期には大正初年の実に四五倍に達し中でも北洋漁業では五六倍という障くべき増加
率を示す°併しここで注意すぺきことは全漁獲物中遠洋漁業は二割内外の比率であるがこの主体をなす巨大資本は
全市場、流通経営貿易を独占しているということである。むしろ沿岸及び内地沖合漁業を流通面で支配し自らは遠
洋漁業に従事して国際的独占の方向に進んだのであって単に数字の示す以上の力を持つことは明かである。かくて
北洋漁業は日本漁業支醗機構の頂点に立つて君臨して来た。
敗戦は巨大斑本から植民地漁場と多数の漁船を奪い去った°併し戦後はいち早く政府の大資本軍点復興保護政策
を基幹としてマ・ライン内の漁業の再編集中に乗出した。戦争で三一万噸を失った巨大資本は復興金礁金庫から三
三万噸の政府資金を借出し従来以上の装備で漁業を開始した°遠洋漁業の頂点たる北洋を失った巨大資本はその鉾
177
(表2) 遠洋漁業初期の生産高 (箪位千貧)
> !~!I~戒:領出領 ー 212
トロール漁業 一, 一
合計!2,783 3,566 4,479 5,377 11,254
~i・1001~士~1931コず
253 158 141
477
149
1,297 1,983 935
主コ-指
安料、 近藤氏「前掲書」 23頁
遠洋漁業奨励法施行の年より十五年間に沼岸漁業は2.5倍、内地沖合は
5.7倍、遠洋漁業は4.4倍となつでいる。
(表3) 漁業種別生産高壻加指数
---漁業三五-----年度 大正3年大正1芽F昭和2年昭和12年 昭和25年
沼岸及び内地沖合 100 155 178 224 222
北 洋 100 1,328 2,385 5,611 98
遠 洋 その他 100 1,937 2,051 3,328 、1,988
計 100 1,821 2,899 4,466 1,917
隷 漁 獲 高 100 175 183 249 226
遠洋の隷涼獲に占める% 12 19 21 28 18
北洋の鑢漁獲に占める% 2 7 12 12 2
作製安科. 農林省 「農林水産統計」
北海逍立努働科學研究所安料
178
日本漁業における北洋の問題
先をカツォ、
マグロ漁業を行う鈷船式漁業及び遠洋底曳(支那海)と内地沖合漁業の全面的進出に向けた。カッォ、
マグロ漁業にしる支那海底曳にしろ従来は自営小漁民が一災乃至二隻の船で多数従事する程度の小さい遠洋漁業で
あったが今や大洋漁業を中心として二百隻以上の大型船が大規模に漁獲する様になり中小漁業は一般的には圧迫さ
れ荒廃隷属させられている。更に沿岸及び内地沖合漁業えの俊入による影響はここを生活の場とする九割余の漁民
にとつては極めて深刻であった。即ち自営小漁業及び一般漁家とは比較にならない装備を持った優秀な大型漁船の
活勤は段違いの漁猿力を示した°敗戦后上から与えられた漁業改革もその基本的性格から沿岸沖合漁民恩を救い得
ずここに沿岸漁業の相対的過剰と蛮源の枯渇を生み出し漁業危機をまねいたのである。この危機回避の方策として
計画されたのが巨大資本の遠洋漁業えの復帰であり小漁民層の沿岸沖合漁業の盤理である。再開北洋漁業もかかる
過程の一環として考察しなければならない。
「図E」に示される敦後碑獲高の復興は従来と構成が変つていること
を注意すべきである。従来は沿岸及び内地沖合の九割は一般漁業者のものであったが戦後のそれは約六割程度であ
る0
反対に遠洋漁業を拇る巨大斑本は北洋漁場喪失による遠洋漁獲が減少しても沿岸沖合えの大幅な侵入はそれを
或る程度補つていると言えよう。従つて漁獲高の回復は漁民一般のものではなぃ°好調に漁獲を回復向上せしめて
いるのは巨大姿本のみである。
註(
3
)
宮城雄太郎「汲近における安本漁業の構造」によれば「日本漁業の性格を決定づける巨大安本漁業の成長狡展も、毀は前
記した沖合漁業と無闊係に存在したのではない。というのは初期の沖合漁業は沼岸小生産者が、自已の安本を蓄租して行った
内部登展というよりも、むしるこれらの小生産の牧率者であった商業資本の漁業進出であった。したがつて沖合漁業よりも利
潤率の高い安本制遠洋漁業の登展にたいしてはこれらの商業安本は再韓して・その投安者となり漁業における安本主義の登逹に
179
直 E) 最近の日本漁獲莉 (単位百萬噸)
6
3
2
.
1
0
ー
ーオ南`鯨漁業ーオ宵鯨9卜直連芹漁業}逮洋漁業e::J沿摩訟内地沖令漁業
ロ')遣治下,)<琢よ •Jli)戦前漁複高
定. 1935-1939 1百5
(平均)(昭20)
椎~.
定
作製宍料
連合軍線司部
晟林省水 J>.産:認!
に詳しい。
1946 (8H21)
「日本の西林水産宍源」「日本の漁政」
「股林省統計表」
「ホ産業の現況、 1952年」
下附することとしその他種々の補助金交附の規定が
1947 (昭22)
漁獲物虞嘩運搬業にも奨勁金を下附する外、西洋型
1948 (BIJ23)
(
4
)
近藤康男編
今後個別的研究のまたれるところである。
「日本漁業の鯉済楷造」序章、第一
(5迄近藤氏「前掲書」序章・
水産事項特別調査
四三四し四三五頁
(
6
)
近藤氏「前掲書」ニー頁
(
7
)
この法は先に施行された明治n二年の同法の全面
的改正である。改正の主要点は奨勁金の率を裔め、
遠洋漁般を新造し又機闊据え付けにも漁般奨励金を
見られる点である。この改正法は第ニー議曾の協賛
を鯉て同年二月公布四月一日から賓施された。
(
8
)
近藤氏「前掲書」ニ一頁
(
9
)
この点に隅しては桑田透一氏「概糠日本水産史」
1949 (昭24)
1950 (Bll25)
八し九頁
章、第二章参照
1951 (昭26)
1952 暉27)
業資本の役割ゼ賀証するデータは未だ充分でなく、
協力するにいたつている。」とある。尤もかかる商
180
日本漁業における北洋の問題
ここでは漁船に就いての分析を行い漁猿高との関連を考察して見よう0
漁船隊は第二次大破中一時中絶したが堅
実な増加傾向を示し特に噸数増加11大型機助船増加傾向の強いこと、そしてこの培加はすぺて機動船の増加である
ことは既述した。
今、統計によってその跡を辿ると、先づ「表
4」で無機動船は全体としては僅かづつ沖合遠洋漁業に於ては大幅
に減少し代つて機動船が増加している。この機動船の増加は先づ一般的機動化の時期即ち大正末葉より昭和一
0年
頃迄に急激に増加し漁群を追つて次第に内地沖合え進出したことを意味する。小生産者がかかる機勤力を導入する
ことによる小型漁船の機勤化が喪力の点で一
0年程ずれて即ち大姿本の沖合遠洋漁船機勤化より遅れているのは当
然と言えよう0
然らぱ一体如何たる種類の漁船が増加して来たであろうか。
「表
5」によれば先づ二
oi五0噸の
内地沖合漁船機勤化が昭和初頭より急激に現はれ次いで昭和ー
0年以降は主として五〇屯以上の遠洋漁船機動化が
促進されている0
勿論ー
0噸未満の沿岸漁船機勤化も小生産者によって生産流通両面に於ける巨大資本の圧力に対
抗する為に続けられてはいる。併し之に適応し得ない屈は分解し沖合遠洋の漁業労鋤者ー明浩年間に比して昭和五
l-0年頃は約五倍ーとなり発逹する大資本漁業に応じて行く。かくて沿岸性零細漁業を益底とした半封建的日本
漁業も次第に資本主義的た発展のnl-^を歩
tro
かくの如く大型機動船か増加して行く傾向は第二次大戦で一時中断される。即ち敗戦で大資本会社の所謂大型漁
船は全減した。この限りに於いては小漁民屈の打掌は大したことはなぃ°併し政府の企図する方策は大資本中心の
181
(表4) 漁細鑢数と沖合・遠洋漁郁指数
昭和 l昭和 昭和
15年匹年 26年
71 80 87
3,200 I 4,120 6,380
3 5 10
787 2,500 '5,800
作製宍料、 既林省
宮城氏
「森林省統計表」
「前褐論文」
(表5) 部型jlJ動力.漁細墜化指数
\領、種~ごI大 正 昭 和I昭和 i!昭和 昭和 昭和
1 1年 1 年 5 年 10年 22年 25年
5,077
10 ,.:_ 20屯 I100 114 1鵠 1吟 j 173 237
2')・-田屯 I100 II 畑 515 ... I ! ... 1,1邸
50屯以上 I100 128 361 1,oss 3. 132 4,278
安料、 痕林統計調査、宮城氏「前褐論文」
復興政策でありその一環としての漁船復興政
策であった。従つて「図F」に見られる様に
戦後日本漁船は着々復興され漁猿最盛期たる
昭和一
0年頃に餃べて隻数で一.___倍噸数で
ニ・一倍の増加ぶbを示し特に機勤船の大型
化は極めて著るしいが、これ溶は何れも巨大
賓本のものであることは明らかである。数字
(10)
上では総司令部の調査に次の様に記載されて
「五噸ないしそれ以上の日本漁船で、
一九三九年にクイグル・ウォークーで作業し
000噸であった。
ていたものは七万九四六
0隻で、約七
0万六.
一九四八年には、これは
0年には、
0噸となった。 ―
―-_万三
000隻、九五万――
100
クイグル・
一丸四八年には、
ウォークーと、そうでないところに宰いて作
業するあらゆる型を総括した日本漁船の数は
ー一万隻、八二万二
000噸とたり、
一九五
いる。
182
日本漁業における北洋の問題
直F) 日本漁佃隊推移昌r.L
機動般無機勁盤
草位 戸十底屯
1936 .t 器吾圭華邑弓吾毎幸器 ~,,,A
(昭!1)屯芸--'3'-~·'=::.-丑匹工-年-
1946 叫 I 明(昭21)
1 9 4-? 支屯巨全―:.=-豆亘奎忌宕”
(暉22) 臣苔答吾ぞ与逹:'a,乏全彗 ら1///-'クノグ1/./4,.,.,.,, ク グノ
1 9 4 8 支屯臣芸 苔ざ~-写—幸:,:.
(謡29) ;;;:;;, 菩="'-菩李:.;;;,~ぎ三 クノ '//. ---(1昭94294)支屯
芸き芸至ざ~a:;宝 圭 苓 珈 ~~
苧--苧-s:.=_ .. -,., -全..._-.,.,. -- ,:;-~~~~~
1 9 50 皇屯吾忌芸呑舌生苫豆工巨老呑こ
(11825) こ圭言毎.!:€:¾:=コ""ぷ.,.,,,,._,,,
Zヽ"'、 ク Z ク 4 グ'
1 9 5 ~ 隻屯 宰全ヨ2 舌'=-— :E-三辛 = (111126) ---互.. =...:. 毛与邑;;r_;;;;; ッ'.Z 2・ヽ
゜↑ 2
3
4
5
6
7
8 ,
10 11 12
製作安料、 連合軍緯司令部
盛林省
内地沖合侵入に対抗して漁民眉"U組合及び小生産者等に
3
主体は単に五噸未満の小機動船の増加—大型漁船の沿岸
-0度以西で作業のもの)
万九七
0六噸(七.
l
=%)、その他のトロール船(東緯
•七“夜)、中型トロール船(東緯―――
-0度以西で作業もの)五
「日本の農林水産安源」
「農林省統計表」
年には全日本漁船数は―二三万
0八四六噸に上ったが、
一九五〇
五万六
000隻、
一九五
0年には
一九三九年には、
この種の船が約
四五万ニー四二隻で、
いで一九五
0年には、
く増加したのである。
九万九
OOOll:t(、
―
10万噸を数えるにいった。っ
この数は四八万
OIJ一四
0隻、
三万一
000噸になった。五噸以下の機動船の数が著し
10万一
000噸で、
一八万一
000噸であった。
その内訳は、魚類遮搬船―一万九ニニニ噸(全体の一四・
八%)、底曳機船―二万三八二四噸(一五・一%)、鮪鰹
船一
0万八七五四噸(
l
-
―-・-=%>、鮭あぐb網船七万八
五六三噸(九・六%)、小トロール船八万三
0九〇噸
H^
一万九四五三噸
(二•四%)であ
る。」以上の様に漁船増加を数字的に示しているがその
(表6)企業者別復興緻賓による銅個建造許可
ゞ l1隻 l2隻I:;I~。; 11~ 130隻30錢~
第一次許可 4 5 11 3 6 3 會
第二次許可 5 8 6 5 3 1 第三吹許可 12 15 3 3 1
祗第四次許可 6 7 7 1 第五吹許可 1 3 1
第一次許可 7 19 2 個
第二次許可 51 5
第三次許可 75 4
人 第四吹許可 60 12
第五吹許可 7 2
作製安斜
(表7)
水産塵漁紺課索料
含祉別・漁業別・漁佃建造許可数
Iトロー,1,1かつを I I運搬 I 遠洋底曳まぐろ 捕鯨 鉗その他
隻 隻 隻 袋 隻184 10 14 1 10 3 7 16 15 10 10 27 “ 6 .
15 2 70 12 20 4 8
8 2 報國水産 10 l2 日本洋 海逗 12 五水産 10 中幸川悔水蓮産 6 2
賓富東士水産6 5
山 漁業他 駁)その 31 129 12 15
合 計 岱9 270 31 23 15
力なくしてはもはや存在は許されない。
安斜、 宮城氏「前掲論文」
水産朧漁鉗課統計
よb行はれたものーのみに原因をしめることは勿論誤りである0
弱肉強食の場となった沿岸及び内地沖合では機勤
「表
6」は企業別に復興金融金庫磁資による鋼鉄船の建造統計であるが、
一般漁民には極めて貧しく大部分が大姿本に利用されていることが明白に出ている。即ち個人漁業経営体の漁船建
造はほとんど旅二隻までであるが大資本は圧倒的に数が大きく、且つ、個入のそれが大部分イソフレ昂進期の建造
184
日本漁業における北洋の問題
(表8) 復金椴安残高表(昭23.12,31)
I業 態 別
捕 鯨 1,985,194千閾 (41.6%)
カツオ・マグロ 1,431, 臨 (30.0%)
製氷.冷凍 659,018
以西底曳 瑯,382
浩 岸 I91,300
員 .珠 51,830
運 搬 佃 17,400
以東底曳 7,500
そ の 他 51,500
I 貸出規模別
lll嘗り 件敷且%金富
%
1億閾以上 4 2,129,194 千閾 42.1
300萬躙以上 308 2,642,616 52:26
300萬闘以下 605 285,368 5.65 計 917 5,057,188 100.0
費の高い第四次調華ー漁業者の不満の調盤ーであるのに対しいち早く恢復体制を墜えた大資本会社は第一次より第
三次に到る船価安で而も魚価高の時代に手当をしている。そしてこれは隻数制限を基礎として九大な特権的狭占資
本的船価上昇を形成する。「表
7」は、二
0九隻の数字を示す大洋漁業をはじめとして日本水産、日魯漁業、極洋捕
鯨の四大水産を基幹とする大姿本礁莱の建設に重点が置かれていることを明瞭に物語っている
0
之は「復金」融資
面から見ても明かで
(表8)
喪斜、近藤氏「前揚書」
漁政課安斜
ーロー倖円以上の大口の貸出は件数では全体の僅か
0•四%に過ぎないのにこのO.
四%に対して全体の四ニ・一%とやう大きい額が箕出されているのである。かくて国家資本による「復金」を通じ
(11)
ての復興政策は第一に巨大独占資本ー捕鯨、ト
ロール、以西底曳等で第一次に於いて早くも臨
資されたーに、第二に中小産業資本ー主として
転換産業資本によるカッォ、
マグP
漁業ーに、
第三に、個人船主ー第四次許可以降ーにという
順序で即ち大資本の先行性優位性の線に沿つて
行はれている0
故に、漁船隊の増加の中心は必
然的に巨大資本の漁船増加であ
b特に大型機動
船は全部巨大資本に集中された。
H」はこの塾態を示してやる°即ち「図G」に
よれば五屯以上の機勤船はすぺて企業体であり
「図G」
「図
185
直G) 動力有無別屯敷別所有漁細
唱)
20
.10
。紀歎 管碑
安料
農林省
鑢:未 5以
散屯瀾 屯上
.'
有動力漁船
追林「股林省統計調査」 (昭24)
「図H」では五
0屯以上の大型船のほとんどが会社所
有である。五屯以上の機勤船が漁家に全然ないのは既
に日本漁業の担当者は個々の漁象ではなく企業体であ
ることと連らなり更に五〇屯以上の大型機勤船を会社
が独占して.いるのは企業体の中でも漁業のヘゲモ―-1
を掌擢しているのは組合漁粟ではなくて会社漁業であ
ることを示す。更に一ュ分の一に圧縮された狭い漁湯に
失った三一万噸を上廻る三三万噸の追加漁船が進出し
たことは分解集中を進行せしめ四大水産えの独占集中を
強行せしめる°更に巨大洛本は市場と直緒するために必
要欠くことの出来ない迎搬船を四社で一ー万三千噸(大
洋漁業が八四袋、五六七八八噸、日本水産が一―-_隻、五四六四
五噸、菌洋捕鯨が九集、一五八九噸、日魯漁業なし)を所有し -動g
.
.
0
0
0
C)
0 0
5
4
3
2
1
5屯未襴
5
l
,
10
l
19
公) 30
t l 29 49
印 100
I I
99 199
.査科農林省「農林統引調査」{畷24) 6
8 '
空心以上
日本漁業における北洋の問題
四
全体の機動運搬船中実に九六劣を独占し、他方国内の冷凍冷蔵加工設備を握ることによb市場及び流通の全過程を
掌握し危険分散を計りつつ中小漁業賓本、共同経営、漁家の生産過程をも必然的に隷屈せしめている。かかる巨大
資本の圧倒的大婿船団による洛岸内地沖合進出と流通面の独占は多数の漁家はもとよ
b組合漁業、中小資本漁業を
も破壊する。それにも拘らず遠洋漁場の多くを失った巨大賓本は日本資本主義構造の危機の一環として再生産過程
(12)
の機能をまひせしめ共々に関連して深刻な漁業危機の様相を示して来た。この危機の籾極的な延命回避策として先
づ取上げられたのが極洋捕鯨漁業であり次いで赤道附近の鈷船式マグP
、カッォ漁業でありそして最後に全要望を
になって浮び上ったのがかつての日本漁業の頂点たる北洋漁業再開であった。
註G10>連合運継司令部「日本の農林水産安源」一
1
一九七頁
(11)
近藤氏「前揚啓」八九ー九一頁「戦後の復興に金融が如何に花要な役割をもったかは今更いうまでもない。國家安本によ
つて復興金融という形態をとったことは、漁業についても拉めて誼要な意味を持つ。」……かくの如く漁業再生産(漁猿物商
品化と生産手段たる賓材の統制、許可制、金該)の線体的管瑾、統制、計班の方向と獨占安本の國家梱力による擁睫、進出、
支配が相互に縫合しつつ展開するところに國家獨占資本主義段階の性格が規定される。」以上の如く國家賓本による「復金」.
を蓮じての復興政策の窯義を論じている。
(12)消極的な危披延命策としては「南極の捕鯨や政府用のほかは、級動漁個はすぺてで八1
寓噸を汲大限とする」漁頒制限、
漁業制度改革による漁楊秩序の編成替、組合自管の促進等が考えられる。
現在の日本漁業は二四万戸の漁家と二万二
000の企業休で全従業者百五
0万人以上によって行はれている。そ
1&7
(表9) 漁民階層比率の愛遷(漁榜について)%
戸 I明治24年1大正10年l昭和4年1昭和11年I昭和1碑 1昭和22年1昭和2辟4
本業主業者
副業主業者 36.5
副業被儲者 27.1
本業被傭者 13.5
100%
作製安料、 昭和15年迄は近藤氏「前掲書」
昭和22年及び25年は農林省「農林統計表」より
びつにゆがんだ型に漁民屈を分解する。
して漁猿高の変動如何に拘らず批界漁業従事者の六割を占めるこの数字はほ
とんで変勤していない。
明治二四年には本業主業ニニ・九%、副業、主業一__六•五劣、副業被傭二七
•一%、本業被傭―――-•五劣となっていて所謂専業漁夫の少ないことから資
本主義の発展による漁民屈の分解は極めて未熟である。
扇9)
以後除々に
ではあるが本業主業(巨大安本を含む)も副業主業も又副業被傭も漸次減少し
逆に本業被傭が次第に増加している0
即ちこれは「本業及び兼業主業者から
本業及び副業被傭者え副業被傭者から本業被傭者えという兼業を媒介にして
(13-
不完全分解の形態」を示すもので全般的には次第に賓本主羞えと移行するに
も拘らず維然として多数の小漁民陪及び半プロ的漁民屈は未分で残存してい
る。そしてこれ等の屈は漁業協同組合とか廣汎な共同組織に僅かに活路を見
(14)
出さんとする0
分解未熟の理由としては日本漁業が立遅れた日本喪本主義か
ら見ても更に立遅れた形態にあったこと及びそれが封建的なものを内包して
吝本主義的発展に対して阻止的役割を演じて来たことであると言えよう。兎
も角、かかる阻止的要因の存在にも拘らず漁業に於ける盗本主維は進行しい
かかる漁業の階級構造を経営組織から考察しよう。先づ「図I」によって
188
日本漁業における北洋の問題
組織別謡営体単位に見ると、二六万九―二二戸の内漁家が二四万六七三一個即ち九割強を占め逆に企業経営体は僅
か一割にも満たない二万二三九一戸しかないことが判明する。更に「図J」よ
b之を企業構成別に観察すると個人
経営が一万四ニー三即ち六割五分、共同経鴬が七二二六即ち三割強、会社は僅かに七七三即ち三分程度である。従
つて単に数の上で窪営体を見るならば漁業会社と称せられるものは全体の僅か四厘を占めるに過ぎない。
九人が三・七%、
一人が三八%、二乃至三人が四二劣、四乃至九人が一四劣、
10乃至二
100人以上は僅かに二劣である。原則として資本を大にして大規模な漁業を営むに従つて従業
者は増加する。従つて一人とか二乃至三人とかの経営体は勿論漁家である。即ち漁家の大部分は三人以下どんなに
大きくても一
0人以上も持つていることは先づ無いのである。他方一
0人以上の中に企業経営体として個人及び共
同と会社が含まれる訳であるが、個人及び共同はせいぜい一
00人位のものであり一
00人を越えるようたものは
すぺて会社而も大きい会社程多数の従業者を持つているのである。
今この観点から漁獲店と紐合して見ると「図L」
「表
10」の如く数に於いては圧倒的な漁寂も漁猿詞に於いては
僅かに二八劣に止ま
b七二劣は企業体が占めでいる。ここに現在日本漁業生産の中核体がもはや五噸以上の機勤船
皆無・の個々の漁家ではた<少数の企業体であると言はれる基礎がある。然らばかかる企業体で漁携に従事する漁業
労働者の実態はどうであろうか°漁業斑木家の階屈に応じて労鋤者の階層も分たれる。即ち巨大姿本から小衰本に
到るに従つて半封建的要素が強ぃ°而も巨大姿本と言えども機会あればこの半封建性を利用することを忘れはしな
い0
例えば鈷船式漁業の如きはそれである。従つて例え巨大衰本の労働者であっても何等かの形で旧網子的搾取と
関連ー激しい労働強度、船上生活、昼夜逆緬、推薦制度等ーしている。即ち批界一の漁業国は激しい人間牧奪た基
k」によって之を従業者別に分類すれば、
一方「図
189
(回1)、組織別経営倅比率
269,122
0 10 20 30 40 50
(図 J)企業経営妹構成比率------
-----― 22、391
%,.‘.,;,'
。
書星10
""g ,
一一
•• =, 8-一
•• ^u-7-一
一一
^U-
i.6-
100~
償 K)従業者数別紐営比率
作製安料
腿林省「農林統計調査
lq゚
日本漁業における北洋の問題
(園L) 鯉管組織別漁獲量割合
安゚料、 農林省[農林統計調査」 24. 3. 1センサス
(表10) 鯉螢形態別鯉替体数並に漁獲裔
-------紐螢体敷 1百分比 l漁獲―高 1百分比
漁 家 246,731 91.7 % 172,910 千貫 27.9 %
個人繹管 14,213 5.3 217,835 35.1
共同繹螢 7,226 2.7 103,336 16.8
會批繹管 773 0.3 / 120,440 19.5
漁業會自管 105 o.o I 2,446 I 0.1 そ の 他 74 o.o 871
ムロ 計 269,122 100.0 617,867 100.0
管料、
は極めて急速に姿本集中が
近藤氏「前揚書」
ーつに
24. 3. 1セソサス
ている。この故にこそ漁業
実証しているーし隷属化し
礎にしているのである。他
方一般漁家はその沿岸性か
らして極めておくれた関係
に緊縛され地緑的であり部
落的であり、そこには半封
建的な網子的関係が厳存ー
個々の実態調査報告は之を
賃労働者より低い牧入しか
あげ得ない場合が出て来る
のである。かかる未分解な
小漁民胴の残存は、
強行された結果一般的傾向
として小漁民の上向は稀ー
「(
3
)
」.参照ーであることと
191
(表11) •主要國漁業比戟表 (戦前最盛期)
尉ニーニ旱m-m-3-m-臼―召一阜
a_-m
言ー一ー一ーニ江戸[:J 406̀紅
-]
.. 五_T
`
隠一旦叫_遵翌召二悶苔=三一
34.
屯上
9-皿_囁―S285-139-89-g-131-
―3403-27450-403-
_22-
悶旦「二悶□
―5□-'〗晉_?―
属胆K
1
|
iー
ー
11119,’
ー
一5
誓這翌賛―賛戸こ
1
―碧賛一5
m-旱
153-13=-5
三3
8
-
1
,
6
5
2
ーニ300
―-310107-80
―-5
1
3
4
-
2
4
-
,
一
高
,~\ー
11,
.一ー5同Tー釦己怠
猥
g
-
品-111-101
一ー一―
漁
'
ー
87-107-].90-34134-][
・
ー
ー
,
.
.
,
'
カ
計
ド
ス
趙
連
ス
一
鮮
ツ
ン
ゾご覇ー[-~77ロ安料、
漁猿は将に批界最底であっ
最盛期でも、漁業者一人当
b
除野氏「鯉済地理學概況」
しくなっている°即ち戦前
ることによって急激なプロ
>タlJャ化をまぬがれたか
らであろう。それが強度の
をも漁場から離さなかった・
のであろう0
併し極端な低
位生産力は二三男のみなら
ず世帯主すら過剰になると
いう欣態を招いている。大
漁はあっても漁民は常に貧
しかった°敗戦後は一回貧
漁場濫獲と限りなき生活水
準の低下となって過剰人口
と、更に、沿岸的な半封建
性と激合密着し或は隷従す
192
日本漁業における北洋の問題
四、北千島サケマス漁業
五、遠洋クラ釣漁業
、苺船式カーー漁業
、露領漁業
(例えば石渡氏)ー
かくて深刻極まる窮境に直面した日本漁業は「漁船法」によって遠洋漁業以外の機勤漁船を八一万噸に制脹して
漁場濫猿を防止し他方遠洋漁業に活路を見出さんとしたのである。
註(13)
近藤氏「前褐書」一四頁
(14)
近藤氏「前拇書」にはこの点に闘し第一にマニニフアクチア漁業
lこれに腺しては問題がある。
の限界性、第二には日本安本主義褻達の構造との闊連から規定されるとしている。
日本遠洋漁業は明治三八年に制定された「遠洋漁業奨励法」に明らかなように、強い政府の保護特に強大な軍事
力をベックにして発展し且つ技術的にも進んでいたことは既に述.へた。そして巨大資本の集中独占が行はれ北洋漁
業がその王座に位していたことも既に述べた。戦前に於ける北洋漁業の生成と発展に関しては別稲に論ずることと
(15)
して今は簡単にその漁種を挙げるに止めたい。即ち次の六種が主体となっていた。
一、鈷船式サケマ_^漁業
五
たのだ。(表
11)現在は更に低下している。
193
このような北洋漁業は昭和一七年以来は全く姿を消した。そレて昭和—
-0年の敗獣は日本漁業に大きな情勢変化
をもたらした°即ち廣大な遠洋漁場の喪失は従来の五分の一に漁場を縮小をレめた。敗載後の日本漁業復興政策は
繰り返し述べた如く大資本中心のそれであった。そこで、従来以上の復旧された生産設備11巨大漁業資本を以つて
圧縮された沿岸及び内地沖合で暑奪的漁業が現出するに到った。即ち巨大資本の大型漁船は続々と沿岸に侵入しそ
の結果は分解と集中と沿岸内地沖合漁業の分割が進行し漁場の資源は極度に枯渇化して巨大資本えの集中を強めつ
つ全般的に漁業危機の様相を生成したのである0
漁業危機は二つの面で現はれた。第一には沿岸漁業荒虞を基礎と
して階恩分解による過剰貧窮漁民の問顆でありもう一つは巨大資本の構造的矛盾即ち資源不足を主因とする再生産
過程のまひである0
かかる危機に対応して先づ巨大資本中心の遠洋漁業えの復帰が所謂独占資本の構造的矛盾打開
策として望まれるに到ったのである。戦後昭和二六年初期迄の数度にわたる総司令部えの懇請はこの事実を物語っ
(16)
ている。そしてかかる懇請に対して遂次拡張或は出漁許可が実親されているが勿論すぺて占領政策の枠内のもので
咆
あり特に占領期間中北洋漁業が全く許可されなかったのもこの証左に外ならない占領下に許可された漁業及び漁
(18)
区拡張は次の如く僅かなものである。
一、第一次漁区拡張ー操業面板六三二四
00乎方哩となったが遠洋カツオマグ
g温業の一部を許可したに過ぎない。
(一九四五・九・ニ七)
二、小笠原列島近海における捕鯨業(一九四五・ニ・——
10)
三、第二次漁区拡張ーこれで一_二九四四
00乎方哩が拡張され、カツォマグロ漁業の約二倍以上の源船行動区域と
六、沿海州機船底曳網漁業
19•
日本漁業における北洋の問題
以西底曳関係の操業区城拡張がもたらされた。
四、第三次漁区拡張ー太平洋漁区の一部が一八
0度線迄東方に拡張されて約八六四
000乎方哩の拡張となった。
之は遠洋カッオマグロ漁業の操業区域の拡大である。
五、苺船式マグロ漁業許可ー第一次より第八次にわたb許可された。
六、南永洋捕鯨ー(一九四六・八・六付スカッピン第二
01=-芭
(一九四七•五・一ー)
併し、以上のような全盛期に餃ぺると問題にならぬ僅少の拡張であつても狭い沿岸内地沖合を唯一の投機の場と
していた巨大資本にとつては生気回復のてことなった。
そして待箋の北洋漁業は購和直前に行はれた日米加漁業条約成立を契期として昭和二七年に到り始めて再開され
たのである。それは実に一
0年ぶりのことであった。併し所謂かつての北洋漁業は帰つて来たかったし将来も帰b
そうにはない。それは何故であろうか。戦後批界漁業共通の傾向は、「漁携技術ならびに漁携手漢9高度化を基底
とした合理的生産様式の確立」でありこれは「漁船の航海範囲の拡大であり、多数漁場利用の途」である。之は過
去の水産物輸入国をして自国漁業高揚えの勤きを起させ自国附近水城の資源保護の勤きを起させて極めて強い排他
的傾向を引起す。公海自由の原則を肯定しつつ地方では日本漁業の進出に一定の条件を附して漁場姿源の占有を計
らんとしてやる。かつて昭和―一年日本政府がアラスカのプリス}ル満の試験操業の結果この資源の豊さを実証し、
アメリカの二割を占める大宗漁業たるサケ、
っ笑貪後、奏な工業生産力をベックにしてアメリカの漁業生産力は飛躍的に増加した。現在では一万隻以上の
五噸以上機動船ー一九四五年の約二倍ーを持つて遠洋え遠洋えと漁場を拡大している
0
殊にカッオ、
ご^漁業が次第に日本漁業に圧迫され険悪なる欣態になったことがあ
(
1
九四六・九・一九)
(一九四六•六・ニニ)
マグロ漁業で
19/J
漁業、日魯漁業、
(表12) 日米カッォ・マグロ漁獲比率%
\ 戦前戦後
日本 62.3 33,1
アメリカ 27.0 55.4
そ の 他 10.7 11.5
― I 100.0~ ぷ―←水産認「水産統計」
(表13) 27年度北洋出漁船岡隻数
は「表
12」の如く戦争を契期として日本とアメリカは地位が転倒している0
勿論之は占領下の漁区制限にも原因す
るがさりとてアメリカの発展は充分認めねばならない。取前の七
0八隻命
I
七二九七噸)を上廻る―
JOO隻
一五八噸)
のカッォ、
マグロ漁船を以つて北洋再開を望む日本漁業に対してアメリカが管戒をおこたる筈はない。
これが占領時代に北洋から日本を閉出し再問後も副眼を付さんとする理由である。ここに再開北洋漁業がかつての
制限条項が漁業条約に組入れられたのである。かくて日
木の再開北洋漁業はサケ、
マス、
オヒョウ漁区に於いて
かれたのである°然らばかかる制約のもとに行はれた北
洋漁業は如何たる形態によったであろうか。
昭和二七年に到り戦後始めて母船式サケ、マス漁業が
行はれた。而してこれは所謂漁業独占浴本の構造的矛盾
とその主導権の中で行はれたことは苺船の許可が、大洋
日本水旅の三社のみに与えられたことより明らかである。かくて飩船は三社が独航船は沿岸中小
資本礁業ー主として北海道東北の機船底曳ーより編成され三船団で出漁した。(表13)併し乍ら経岱方式は昔とほ
とんど変らない。即ち鈷船11巨大賓本と独行船11中小浴本とは外面的には共同弩営であるが実質的には主従的な隷
アリューシャンの西側に制限され早くも昔の夢は打くだ
の原則に立ち乍らも一方では賓源保誰という伸縮自在な
北洋漁業と根本的に異つている点がある°即ち公海自由
G
九
196
日本漁業における北洋の問題
(表14) 27年母船式サケ・マス操業期
ミ 出航月日 舷統月日 操業日敷
日 水 5月1日 8月3日 72日
日 魯 ク 8月7日 73日
大 洋 I~ 8月13日I74日
(表15)
逍水産部詞
組合別細囮別漁獲高 (27年度) (蹴位尾)
-組、ヽ合、~母船‘ 日 水 日 魯 大 洋 合 計
北海道組合 203,432 184,436 594,119 981,987
内地組合 178,581 170,571 532,868 880.020
詞 査 船 89,431 73,215 97,135 259,781、
A ロ 計 471,444 434,222 1,224,122 2,129,788
茄園比率% 22.1, 20.4 57.5 100.0
逍水産部調
(表14)
に於いてもその漁獲(表15)では一方的配分
資本利潤を猿得し益々集中独占を強化せしめる。他
恐慌の危険性を転嫁し苛酷な労働牧奪より生起する
くて礁獲の配分に於いても良船側の一方的決定をお
しつけられ枇船側は逆に不漁の危険をも転嫁し得る。
これは艇船側が一応全部黒字を出したのに反して独
航船の多くが赤字であったことが雄弁に物語ってい
る。かくて舟船対独航船の隷従的関係は、生産及び
(21)
労働者との対抗関係を中小漁業におしつけ乍ら巨大
方中小漁業は枯渇した沿岸は勿論遠洋漁業に於いて
すら活路を見出し得ず全面的低落従属化の方向を辿
る。かくて中小資本の独航船は期待された北洋操業
及び市場独占と連らなって実に八割迄が赤字を出し
ている。二割の黒字を出したものがあったのも北洋操業中制瞑区城たるカムチヤッカ沖合六五哩のコマンダー群島
南を主況場として拡大したからである°之なくば恐らくは全狼航船は勿論苺船側も赤字を出すことは確実だったと
に醤船の手に握られていろことから強化される。か
従関係である。更にこの関係は漁獲物商品化が完全
197
註(15)今田清二「水産繹済地理」
日本北洋漁業はかつての神通力を失つてしまった。
言はれてどる。労働条件に関して若千附言するたらば具体的には就業規則の不備11非近代的労働条件及び歩合制賃
銀形態等と長時間不規則労鋤が現はれていて徹底的な労働強化が見られる。
かくて歓呼の声に送られて出漁した北洋漁業はかつてのそれに餃べて余bにも実りすくなきものであり特に苺船
を巨大資本三社に独占された沿岸中小賓本の独航船は更に赤字を重ねねばならずその結果は集中破壊を強行し決し
て資本主義的発展を望めないことが判明しつつある。更に小康を得たかに見える巨大資本も公海たる資源豊かなア
(22~
ラー〈力を鎖され更に関税院壁を設けられては前途は真暗である。東南アジア方面の排他的傾向も強くなっている。
将に戟後の漁業は生産設備の巨大化をめぐつて海洋を縮少し乍ら海洋資源の再分割の方向に進んでいるのであり日
本漁業もこの一環の中に於て方向が決定されるのである。
旅業危機打開策として箋まれた北洋漁業は既に公海自由の原則を乗b越えて資源再分割の段階にあり日本の北洋
溶
漁菜に対する制限は大して甘くならないと考えられる而も旧ソ連沿岸及び中国沿岸では漁獲は出来ない0
もはや
一方漁家の窮乏は放置されている0
漁村は過剰人口のプールで
ある。というのは日本疫主義構造の危機のもとでは大漁業え或は他の大産業えと排出することを許さない。そして
半封建的関係に縛られて骨のずい迄心身共にすりへらされている。問顆はもはや漁業問顕だけでは解決されない。
大日本水産會「水産講座、漁業篇第七巻」
(16)1、昭和二
0年ー一月二二日
東支那海におけるトロール漁業操業冨域披張
198
日本漁業における北洋の問題
2、昭和ニー年五月―一日
支那東海の窟城外において五月初旬から九月ー―
10日までトロール漁業及び底曳漁業の操業の一時的許可
3、昭和ニー年九月―-=日
カムチャッカ東、西海岸沖合における母細式サケマス漁業及びトロール漁業並に千島列島沖合の機綿捕鯨業
4、昭和二二年四月一六日
アラフラ海方面における属珠採瑕許可
5、昭和二二年五月五日
海軍纏括的許可
a、支那東海、黄海におけるトロール漁業及び底曳綱漁業操業蓋域の擦張
b、中部太平洋におけるカツオマグロに漁業操業蘊域の捧張
C、北洋における母郁式漁業
d、南部千島及び宗谷海映における漁蔦撰張
6、昭和二二年八月ーニ日
南部千島の國後島、色丹島等の近海における各種漁業の許可
7、昭和二二年八月―-=日
琉球列島及び台湾方面における海人草の探取許可
8、昭和二四年五月一_―-日
東支那海におけるトロール漁業及び機綿底曳網漁業に茸する漁蓋披張陳惰書
9、昭和二五年九月二九日
東支那海に捻ける漁軍禦張に関する陳情書
10、昭和二六年一月――
10日
199
東支那海における日本トロール漁業及び機細底曳綱漁業の賀悔報告書
冨農林省水産睾編、「水産業の現況一九五二版」)
(17)この点に関しては色々國際的な問題がからんでいたが―つにはサケ、マス、マグロ漁業がアメリカ汲大の海洋漁業でもあ
ったからである。
(18>北洋逍科學研究所交料
(
1
9
)
近籐氏「前揚書」六四頁
(20)
北方漁業開登調査報告害
水産題「日本水産年報第二集」
(
2
1
)
この点に賜しては「昭和二七年度母茄式サケ’マス流網漁業の概要」(逍水産部編)を参照されたい。
(22)
今田氏「前掲害」
(23)
昭―二八年―一月一六日附水産認登表は次の如く北洋漁涎の捩張を報じている。
一、漁濫の西南端を東径一五四度――
-0分としこれまでより二〇マイル、カムチャッカ牛島寄りに披げる。
1
、獨航血加の位数を今年の九――一袋からニハ〇隻に増加する。
1
、獨航皿の適格要件は五
0ー八五噸でデイゼル機関、無線電信機、方向探知槻を備え時速七カイリ以上のものとし、北海泣
および石川縣、千葉縣以北の
1
1
縣の中型機熊底引漁茄から選定する。
かくて母茄も昨年の一_一袋から五隻程度に培加すると思われるが、之は未だ決定されていない。
この披張は昨年漁期牛ばに披大されたコマンダー群島の南海域であって昨年より大して披大されたとは言えない。特に安源
豊かな公海アラスカが依然閉されたままになっているのは注意すべきであろう。
後記、日本梱業形態の登展は安料と別個的研究の不足から未だ充分明確に把握されたとは言い得ない朕態である。従って不
、統]な全体的把握の撤念より必然的に不統一である点と資料の紹介に項点を粧いた為幾つかの問題点を素通りしたこ
とをおことわりしたい。
200