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13 軍記物語における家来像の多様性 -源義経と源義仲の忠義な家来の分析からー The Variety Images of the Followers in Tales of War -By Analyze the Loyal Followers of Minamoto no Yoshitsune and Minamoto no Yoshinaka スワパー・ティラキッティクン* チュラーロンコーン大学文学部東洋言語学科日本文化・日本文学博士課程D1 要旨 本研究は、『平家物語』と『義経記』を対象として、源義仲と源義経という 二人の主君と、彼らの忠義心にあふれる家来たちとの間にみられる特殊な関係 を考察するものである。『平家物語』と『義経記』における源義経と源義仲の 家来たちは自らの命を捨て、主君の命を守る忠義心にあふれた行動をとること がある。また、自身の最期まで主君に忠義を尽くすだけでなく、前世、現世、 来世にわたる「三世の契り」という縁を結んでいることが分かる行動をとる者 が多く見られた。このような中世の主従関係における「三世の契り」という考 え方は、当時の武士たちが受けた徳育のひとつだと考えられる。そして、中世 時代の軍記物語は主従関係という考え方を、武士達や一般の人びとに広く伝え る役割を果たしたといえる。 キーワード:軍記物語、主従関係、三世の契り Abstract This research aims to pinpoint and analyze the images of the followers of ____________________________________ * Suwapa THEERAKITTTIKUL, graduate student, Chulalongkorn University e-mail : [email protected]

The Variety Images of the Followers in Tales of War …east/japanese/files/JapanStudies...-By Analyze the Loyal Followers of Minamoto no Yoshitsune and Minamoto no Yoshinaka スワパー・ティラキッティクン*

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軍記物語における家来像の多様性

-源義経と源義仲の忠義な家来の分析からー

The Variety Images of the Followers in Tales of War

-By Analyze the Loyal Followers of Minamoto no Yoshitsune and Minamoto

no Yoshinaka

スワパー・ティラキッティクン*

チュラーロンコーン大学文学部東洋言語学科日本文化・日本文学博士課程D1

要旨

本研究は、『平家物語』と『義経記』を対象として、源義仲と源義経という

二人の主君と、彼らの忠義心にあふれる家来たちとの間にみられる特殊な関係

を考察するものである。『平家物語』と『義経記』における源義経と源義仲の

家来たちは自らの命を捨て、主君の命を守る忠義心にあふれた行動をとること

がある。また、自身の最期まで主君に忠義を尽くすだけでなく、前世、現世、

来世にわたる「三世の契り」という縁を結んでいることが分かる行動をとる者

が多く見られた。このような中世の主従関係における「三世の契り」という考

え方は、当時の武士たちが受けた徳育のひとつだと考えられる。そして、中世

時代の軍記物語は主従関係という考え方を、武士達や一般の人びとに広く伝え

る役割を果たしたといえる。

キーワード:軍記物語、主従関係、三世の契り

Abstract

This research aims to pinpoint and analyze the images of the followers of

____________________________________

* Suwapa THEERAKITTTIKUL, graduate student, Chulalongkorn University

e-mail : [email protected]

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Minanoto no Yoshitsune and Minanoto no Yoshinaka in Tales of Wars

Heikemonogatari and Gikeiki by analyzing their images, roles in saving their

lord’s life, as well as their belief that their lord – vassal bond lasts three life times.

The study finds that the followers remain loyal throughout that of faithful warriors

till their last breath. They play very important roles in saving theirs lord’s life while

minimizing their role as family members. The study also finds that their

faithfulness is influenced by the belief that lord – vassal bond lasts three life times.

Keywords : Tales of War, Homage between that load & the followers, The belief of

lord – vassal bond lasts three life times

1. はじめに

中世時代の軍記物語には、例えば、源義経や源義仲といった、たくさんの有

能な武士が描かれている。その一方で、戦に勝つためには、有能な武士である

主君に加え、家来たちの忠誠心にあふれた働きも極めて重要だと考えられる。

従って、中世時代の軍記物語を深く理解するためには、中世時代における主君

と家来の間に見られる、特殊な関係を理解することが不可欠である。

本研究の目的は、『平家物語』と『義経記』を対象として、源義仲と源義経

という二人の主君と、彼らの忠義心にあふれる家来達との間にみられる特殊な

関係を、次に示す 3つの観点(A、B、C)について分析することにより、主従関

係の多様性をみることである。

A.家来が最期まで主君に忠義を尽くし自らの命を失う場面。

B.家来が主君の命を守る場面。(自らの命を失うことはない)

C.主従関係において(前世、現世、来世という)「三世の契り」を大切す

る場面。

これらの観点を用いて『平家物語』と『義経記』にみられる主従関係を見て

ゆくことで、中世時代の家来たちが信じていた「三世の契り」という考え方

や、家来たちが自らの命を捨て主君の命を守るという行動、また、

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主君を優先し、自らの家族を放棄するという行動について、それらの行動を支

える考え方がどのようなものなのかを理解できるようになると考える。

2. 分析の対象

『平家物語』は鎌倉時代に成立したと思われる、平家の栄華と没落を描い

た軍記物語である。「保元の乱」、「平治の乱」における勝利後の平家と敗れ

た源家との対照、源平の戦いから平家の滅亡という経過とともに、没落しはじ

めた平安貴族たちと新たに台頭した武士たちの織りなす人間模様が詳細(文学

での用語のルールはわかりませんが、日本語教育では「見事」のような感情的

な形容詞は論文に使わないので「詳細」を使いましたが、適宜戻してくださ

い)に描き出されている。

『義経記』は源義経とその家来たちとの主従関係を中心に書かれた軍記物

語である。南北朝時代から室町時代初期に成立したと考えられ、源義経の幼少

期と源頼朝に追放された悲境の晩年を中心に、同情的に描かれている。

まず、『平家物語』と『義経記』の二作品の中に家来として登場する人物と

その主君を表 1としてまとめた。

表 1.『平家物語』と『義経記』における登場人物とその主君

登場人物 『平家物語』 『義経記』

1 伊勢三郎義盛 義経 義経

2 武蔵棒弁慶 義経 義経

3 佐藤三郎兵衛継信 義経 義経

4 佐藤四郎兵衛忠信 義経 義経

5 十郎権頭兼房 義経 義経

6 今井兼平 義仲 ×

7 樋口兼光 義仲 ×

8 巴御前(女) 義仲 ×

(出所:筆者作成)

3.結果

3.1 伊勢三郎義盛

3.1.1 家来が最期まで忠義を尽くして自らの命を失う場面。(A)

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伊勢三郎が最期まで主君に忠義を尽くしたことは、『義経記』の巻二の「伊

勢三郎義経の臣下にはじめて成る事」において述べられている。

「治承四年に源平の乱れ出で来て、御身に添ふ影のごとくにて、鎌倉殿

の御仲不和にならせ給ひし時、また奥州に御供して、終に御膝の下にて

討ち死にして、名を後代にあげたりし伊勢三郎義盛とは、その時の宿の

主なり。」

一方、『平家物語』では、伊勢三郎の最期は述べられていない。

3.1.2 家来が主君の命を守る場面。(B)

伊勢三郎が主君の命を守った場面は次に挙げる①~③において述べられてい

る。

① 『義経記』巻八の「衣川合戦の事」において、主君である源義経

が自害を果たす為、敵と戦った場面。

「さる程に、長崎太郎大夫介をはじめとして五百騎の者共、大手よりた

だ一手にて押し寄せたり。十郎権頭、喜三太家の上登りて、蔀遣戸を盾

にして散々に射る。大手には武蔵坊、片岡八郎、鈴木三郎兄弟、鷲尾三

郎、増尾十郎、伊勢三郎、備前平四郎、以上八人なり。(省略)「軍は

はや限りになりぬ。備前平四郎、鷲尾、増尾、鈴木兄弟、伊勢三郎、思

ふままに軍して討死仕り候ひぬ。今は弁慶と片岡ばかりになりて候。」

(原文そのまま)

② 『義経記』巻四の「土佐房義経の討てに上る事」において、土佐房が源

頼朝の指示により義経を暗殺しようとした場面。

「土佐が勢を中に取り籠めて、散々に攻む。片岡八郎、土佐が勢の中へ

駆け入りて、首三、生捕り三人して見参に入る。伊勢三郎、生け捕り二

人、首五取りて、参らせけり。

③ ②番と同じ場面が、『平家物語』巻十二の「土佐房被斬」にも述べられ

ている。

「さる程に、伊勢ノ三郎義盛、奥州ノ佐藤四郎兵衛忠信、江田源三、熊

井太郎、武蔵坊弁慶なンどいふ、一人当千の兵共やがてつづいて攻め戦

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ふ。」

ちなみに、伊勢三郎は主君の命を守る役割だけではなく、義経の大将として

の様々な役割もあったが、今回は除かせていただく。また、伊勢三郎の童が、

敵である飛騨三郎左衛門景経から主君を守った場面が『平家物語』巻十一「能

登殿最期」に描かれている。

3.1.3 主従関係において「三世の契り」を大切にする場面。 (C)

『角川古語大辞典』(CD-ROM版1) によれば、「三世の契り」の意味や定義は

下記のように説明されている。

【三世契】さんぜのちぎり(名) 三世にわたって深いつながりを持つ、と

いう約束事、因縁。君臣、主従の関係についていう。

「今君を見まいらせ、御目にかゝり申事三世のちきりと存ながら」〔義経

記・二〕

「たとひ世を捨て給ふとも、三世の契りなるものを」〔謡・高野物狂〕

更に、「三世」を用いて主従関係をあらわす言葉は他にもいくつかある。例

えば、「三世主君」、「三世縁」、「三世機縁」、「三世恩」などである。

『義経記』に描かれた伊勢三郎のセリフからうかがえる「三世の契り」を信

じていたことを表す記述は 4ヶ所あるが、『義経記』巻二の「伊勢三郎義経の

臣下にはじめて成る事」には、二人が出会った場面で、伊勢三郎の父は義経の

父の家来だったということが発覚する。そして、義経が伊勢三郎の家に立ち寄

ったことは偶然ではなく、前世からの契りだということを伊勢三郎は信じたの

であった。それらは「他生の契り」、「三世の契り」、「重代の君」と「相伝の

主」などのことばで述べられている。これらのことより、伊勢三郎が義経とい

う主君に仕えるようになったのは、「三世の契り」を信じていたこと、及び代

から仕えるという当時の習慣に基づく行動からであったと解釈する。

3.2 武蔵棒弁慶

1 角川古語大辞典編纂委員会 (2002)『古語大辞典』角川書店.

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3.2.1 家来が最期まで忠義を尽くし自らの命を失う場面。(A)

弁慶が最期まで主君に忠義を尽くしたことが『義経記』巻三の「弁慶義経

に君臣の契約申す事」に描かれている。下記の①で掲出する。また、巻八の

「衣川合戦の事」には、弁慶の有名な「立死」のシーンが描かれているが、そ

れは下記の ②で掲出する。

① その時見参に入り始めてより、志また二心なく、身に添ふ影の如くし

て、平家を三年に攻め落とし給ひしにも、度々の高名を極めて、奥州衣

川の最後の合戦まで御供して、終には討ち死にしたりし武蔵坊弁慶これ

なり。

② 木戸口に立ちて、敵の馳せ入りけるを、寄り合ひてははたと斬り、ふつ

とは斬り、馬の太腹をがばと突き、敵の落つるところをば、内兜に長刀

を突き入れて、首を刎ね落とし、背にて打ち、刄にて斬る。十方八方え

を斬りければ、武蔵坊に面を合はす者ぞなき。(省略)寄せ手の者共申

しけるは、「敵も味方も討死すれども、この法師ばかりいかに狂へども

死なぬは不思議なり。(省略)立ちながらすくみける事は、君の御自害

の程、敵を御館へ寄せじとて立死にしたりけるかとあはれなり。

3.2.2 家来が主君の命を守る場面。(B)

弁慶が主君の命を守る役割を果たしていることが『義経記』の様々な場面に

記述されている。たとえば、巻四の「土佐坊義経の打手に上る事」(下記①)、

また巻四の「義経都落の事」には、平家一門の幽霊が義経を海に沈めようとし

てあらわれるが、弁慶は経文を唱えて、幽霊を退散させてしまう場面がある

(下記②)。更に、義経が奥州の藤原秀衡に助けを求めて落ちのびていくとこ

ろで、弁慶は山伏の姿になって身を隠し、三つの関を越える場面では、一般の

山伏と違った義経が関の役人に疑われた時、弁慶は主君に守る役割を果たす

が、その様子は、巻七の「三の口の関通り給ふ事」(下記③、④)また「如意

の渡にて義経を弁慶打ち奉る事」(下記⑤)に活写されている。

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① 武蔵坊六条の宿に臥したりけるが、「今宵はなどやらん夜が寝られぬぞ

や。さても土佐が京にあるぞかし。殿の方覚束なや、見廻りて、帰らば

や」と思ひければ(省略)殿の方へぞ参りける。

② 平家の死霊ならば、よも一堪へもたまらじ。それに験なくば、神を崇め

奉り、仏を尊み参らせて、祈り祭りもよもあらじ。(省略)矢継早に

散々に射たりければ、冬の空の夕日明りの事なれば、海の潮も輝きて、

中差何処に落ち着くとは見えねども、死霊なりければ、掻き消す様にぞ

失せにける。船の中にこれを見て、「あら恐ろしや、武蔵坊だになかり

せば、大事出で来てまし」とぞ申しあひける。

③ 弓手の腕を差し伸べて、頸をつかみ逆様に取りて伏せ、胸を踏まへ、刀

を心先に差し当て、「汝は曲者かな。ありのままに申せ」と責めけれ

ば、口利き立つにて申しける事は打ち置きて。顫ひ顫ひ申しける。「某

は上田左衛門が内に候ひしが、恨むる事候ひて、彼のの国井上左衛門が

内に候。君を見知り参らせて候ふ由申して候へば、待ち迎ひ賺し参らせ

候へと固く申され候へば、ともかくも君を疎かに思ひ参らせん」と申し

ければ、「それこそ汝が後言よ」とて、只中を二刀刺して、頸掻き離

し、雪の中に踏み込めて、さらぬ体にてぞ通られける。

④ 弁慶、「形の如く先達のある上は、小法師ばらが申す事御咎め詮なし。

大和坊そこ退き給へ」とて申しけり。か様に言はれ、関所の縁に腰打ち

かけて居給ひけり。関守、「これをこそ判官殿よ」と申しければ、弁慶、

「さればこれは羽黒の讃岐坊と申す者にて候ふが、年籠りに熊野へ参

り、下向する山伏なり。九郎判官殿とかやをば、美濃の国とやらん、尾

張の国とやらんにて、生け捕りて都へ上りしとこそ承りて候ひしか、羽

黒の山伏、判官と言へる事こそ粗忽なれ」と申しければ、「何と陣じ給

うとも」とて、槍、長刀、弓などにて差し合はせ、色めきける所へ、後

の衆も近く来たれり。

⑤ 正しくあの客僧こそ判官殿にておはしけれ」と指してぞ申しける。その

時弁慶、「あれは白山より連れたる御坊なり。年若きにより人怪しめ申

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す無念さよ。これより白山へ戻り候へ」とて、船より引き下ろし、扇に

て散々にこき伏せたり。その時渡し守、「羽黒山伏ほど情けなき者はな

し。判官殿にてましまさずは、さにてこそあるべきよ。か程いたはしげ

もなく、散々に当たり申されし事、併ら私が打ち申したるなり。御いた

はしくこそ候へ」とて、舟を寄せ「ここに召し候へ」とて、檝取の傍に

乗せ奉る。「さらば船賃出だして渡り候へ」と申しければ、弁慶、「何時

の習ひに山伏の関船賃なす事やある」と言ひければ、「日頃取りたるこ

となけれども、余りに御坊の腹悪しく渡り候へば」と申す。弁慶、「か

様に我らに当たらば、出羽の国へ今年明年にこの国の者越えぬ事はよも

あらじ。坂田の渡りは、この幼き人の父、坂田次郎殿の知行なり。只今

この返礼すべきものを」とぞ威脅しける。余りに言ひ立てられて渡しけ

り。かくて六道寺の渡りをして、弁慶判官殿の御袖を控へ、「何時まで

君を庇ひ申さんとて、現在の御主を打ち奉りつるぞ。天のの恐れも恐ろ

しや。八幡大菩薩も許し御納受し給へ」とて、。さしも猛き弁慶、さめ

ざめと泣きけり、余の人々も涙を泣流しけり。

3.2.3 主従関係において「三世の契り」を大切にする場面。(C)

『義経記』の弁慶のセリフの中で、「三世の契り」を信じていることが見られ

る描写は 2ヶ所ある。『義経記』巻三の「弁慶義経に君臣の契約申す事」で弁

慶が義経と戦った場面と巻八の「衣川の合戦の事」で弁慶が義経に辞去した場

面である。これらを見ると、「主従の契り」は現世に終わらずに、来世までの

契りであることが理解できる。

① 「これも前世の事にて候ひつらんめ。さらば従ひ参らせ候はん」と申

しければ、着たる腹巻を御曹司重ねて着給ひ、二振りの太刀を取り待ち

て、弁慶を先立てて、その夜の内に山科へ具しておはしまして、傷を癒

やして、その後連れて京へおはして、平家を狙ひけり。

② 最期の戦で、弁慶が義経に来世の主従関係の約束する場面。

備前平四郎、鷲尾、増尾、鈴木兄弟、伊勢三郎、思ふままに軍して討死

仕り候ひぬ。今は弁慶と片岡ばかりになりて候ふ。君を今一度見参らせ

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ん為に参りて候ふ。君先立たせ給ひ候はば、死出の山にて待たせ給ひ候

ふべし。弁慶先立ち参らせて候はば、三途の川にて待ち参らせ候ふべ

し」と申しければ、判官「いかがすべき。御経読みはてばや」と仰せけ

れば、「静かにあそばしはてさせ給へ。その程は弁慶防矢仕り候はん。

たとひ死にて候ふとも、君の御経あそばしはてさせ給ひ候はんまでは守

護し参らせ候ふべし」とて、御簾を引き上げて、君をつくづくと見参ら

せて、御前を立ちけるが、また立ち帰りてかくぞ申しける。六道の道の

衢に君待ちて弥陀の浄土へすぐに参らん来世をさへ契り申して、??

3.3 佐藤三郎兵衛継信

3.3.1 家来が最期まで忠義を尽くし命を失う場面。(A)

継信が最期まで主君に忠実であることは、『義経記』巻五の「忠信吉野に止

まる事」(下記①)、巻八「継信兄弟御弔の事」(下記②)の二つの場面で述

べられている。

① 「御辺の兄、継信が八島の軍の時、義経が為に命を棄てて、能登守の

矢に中りて失せしかども、これまで御辺の付き給ひたれば、継信も兄弟

ながら未だある心地してこそ思ひつれ。」

② 汝が父八島にて義経が命にかはりしをこそ源平両家の目の前、諸人目

をおどろかし、類あらじと言ひしが、まことにわが朝の事は言ふに及

ばず、唐土天竺にも主君に志ふかき者多しといへども、かかる例なし

とて、三国一の剛の者と言はれしぞかし。

3.3.2 家来が主君の命を守る場面。(B)

継信が主君の命を守る役割を果たしている様子は『義経記』には、3.3.1 の

① と②と同じ場面で、二回にわたって繰り替えされている。つまり、上記①

の巻五の「忠信吉野に止まる事」と、上記②の巻八の「継信兄弟御弔の事」に

おける場面である。

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更に、『平家物語』巻十一の「嗣信最期」でも、この人物が主君の命を守る

役割を果たしている場面が描かれている。なお『平家物語』では、この人物名

の漢字表記は『義経記』とは違って「嗣信」となっている。(下記③)

③ やにはに鎧武者十余騎ばかり射落さる。なかにもまッさきにすすんだ

る奥州の佐藤三郎兵衛が、弓手の肩を馬手の脇へつッと射ぬかれて、し

ばしもたまらず、馬よりさかさまにどうどおつ。

また、『平家物語』巻十一の「嗣信最期」での同じ場面では、継信が主君の

身代わりとなって死ぬことは武士の名誉になったようである。そのことは、継

信及び語り手のセリフからうかがえる。その一方で、忠義な家来、継信に対し

てしかるべき報酬が与えられた場面も描かれている。(下記④)

④ (嗣信は) 『源平の御合戦に、奥州の佐藤三郎兵衛嗣信といひける

者、讃岐国八島のいそにて、主の御命にかはり奉ッてうたれにけり』

と、末代の物語に申されむ事こそ、弓矢とる身には今生の面目、冥土の

思出にて候へ」と申しもあへず、ただよわりによわりにければ、判官涙

をはらはらとながし、「此辺にたッとき僧やある」とてたづねいだし、

「手負のただいまおちいるに、一日経書いてとぶらへ」とて、黒き馬の

ふとうたくましいに、黄覆輪の鞍おいて、かの僧にたびにけり。判官五

位尉になられし時、五位になして大夫黒とよばれし馬なり。一谷の鵯越

をもこの馬にてぞおとされける。弟の四郎兵衛をはじめとして、これを

見る兵者共みな涙をながし、「此君の御ために命をうなはん事、まッた

く露塵程も惜しからず」とぞ申しもあへず、

3.3.3 主従関係において「三世の契り」を大切にする場面。(C)

『平家物語』と『義経記』にはこの人物の「三世の契り」については、はっ

きり描かれてない。その一方、謡曲の「摂待」では「三世の契り」については

っきり描かれている。

3.4 佐藤四郎兵衛忠信

3.4.1 家来が最期まで忠義を尽くし命を失う場面。(A)

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忠信が最期まで主君に忠実であることは、『義経記』巻六の「忠信最期の

事」において、忠信が敵の目の前で自害する場面で描かれている。(下記①)

① 心安げに思ひて、念仏高声に三十遍ばかり申して、「願以此功徳」と

回向して、大の刀を抜きて、引き合はせをふつと押し切りて、膝を突い

立て、居丈高になりて、刀を取り直し、左の脇の下につばと刺し貫き

て、右の方の脇の下へするりと引き廻し、心先に突き貫きて、臍の下ま

で掻き落として、刀押し拭ひて打ち見て(省略)これもただ余りに判官

を恋しと思ひ奉る故に、これまで命は長きかや。これぞ判官の賜びたり

し御佩刀、これを形見に見て、黄泉も心安かれ」とて、抜いて置きたる

太刀を取りて、先を口に入れて、膝を押へて立ち上がりて、手を放ちて

俯伏しにがばと倒れけり。鍔は口に留まりて、切先は鬢の髪を分けて、

後ろにするりとぞ通りける。惜しかるべきかな。文治二年正月六日の辰

の時に、終に人手にもかからずして、生年廿八にて失せにけり。

忠信は主君とともには居なかったが、最期まで忠義を尽くして自害するとい

うことが、この場面を通して理解できる。

3.4.2 家来が主君の命を守る場面。(B)

忠信が主君の命を守る役割を果たしていることは、『義経記』の様々な場面

で記述すされている。たとえば巻五の「忠信吉野に止まる事」の2つの場面で

ある。下記①では、忠信は、大物浦で敵の手島冠者と上野判官と戦うことにな

った義経の前衛となることを志願する。また、下記②では、忠信は仮装をして

主君である義経の姿に扮し、義経の代わりに敵と戦った場面が活写されてい

る。

① 佐藤四郎兵衛、これを聞きて、御前に畏まりて申しけるは、「かかる

事こそこそ候はね。この人共が先駆け論に敵はすでに近づき候ひぬ。あ

はれ仰せをもつて、忠信承りて、先を仕り候はばや」と申しければ、判

官、「いしう申したるものかな。望めかしと思ひつるところに」とて、

やがて忠信に先にを賜ぶ。

② しも多く候ふに、御前に進み出でて、雪の上に跪きて申しけるは、

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「君の御有り様、我らが身を物によくよく譬ふれば、と所に赴く羊の、

歩々の思ひもいかでこれには勝るべき。君は御心安く落ちさせ給ひ候

へ。忠信は留まり候ひて、麓の大衆をち得て、一方の防ぎ矢仕り候ひ

て、一先づ落とし参らせ候はばや」と申しければ、

加えて、忠信は、義経という主君の仮装にする為、主君と鎧を交換しなけれ

ばならない。しかし、主君の鎧とに着替えることは失礼な事であるため、忠信

が主君義経に謝った場面が『義経記』に述べられている。

3.4.3 主従関係において「三世の契り」を大切にする場面。(C)

『平家物語』と『義経記』を見る限り、この忠信という人物の「三世の契

り」については、兄の継信と同様、はっきり描かれてないが、謡曲「摂待」で

は「三世の契り」についてはっきり描かれている。したがって、『義経記』に

おける忠信は、主君の代わりに死ぬことは兄継信からの影響を与受けたと考え

られる場面がある。(下記①、②)

① 義経は忠信に御佩刀を授けた。

四郎兵衛これを賜りて抜き出だし袖にてのごひ、「あはれ御佩刀や。こ

れ御覧候へや。兄にて候ひし継信が八島の合戦の時、君の御命に代はり

参らせて候ひしかば、奥州の基衡が参らせて候ひし、太夫黒と申す名馬

を賜りて、黄泉路までも乗り候ひぬ。忠信君にまことを致し参らせ候へ

ば、御秘蔵の御佩刀を賜り候ひぬ。

② 忠信は義経と鎧を交換する際、忠信の死んだ兄継信の鎧を屋島合戦か

らずっと着ていた。

「御辺が着たる鎧はいかなる鎧ぞ」と仰せありければ、「これは継信が

最後の時着て候ひし鎧にて候」と申せば、「それは能登守の矢に堪らず

通りたりし鎧にて、頼み所なきに、衆徒の中にも聞こゆる精兵のあんな

るぞ。これを着よ」とて、緋威の鎧に、白星の兜添へて賜りけり。着た

りける紅末濃の鎧脱ぎて、雪の上に差し置き、「雑色共に賜び候へ」と

申しければ、「義経も着るべき鎧もなし」とて、召しぞ替へられける。

まことに例しなげなる御事にてぞありける。

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3.5 十郎権頭兼房

3.5.1 家来が最期まで忠義を尽くして命を失う場面。(A)

十郎権頭兼房が最期まで主君に忠義を尽くしたことは『義経記』巻八の「兼

房が最期の事」に描かれている。義経の自害を見届けた兼房が高舘に火をか

け、義経の頭を取りに来た敵将長崎太郎を切り倒し、その弟次郎を小脇に抱え

て炎に飛び込むという壮絶な最期を遂げた場面である。(下記①)

① 我が朝において、御館の御座所に馬に乗りながら控ゆべきものは覚え

ず。かく言ふ者は、誰かと思ふ。清和天皇に十代の御末、八幡殿には四

代の孫、鎌倉殿の御弟九郎大夫判官殿の御内に、十郎権頭兼房、元は久

我大臣殿の侍、今は源氏の郎等、樊噲を欺く程の剛の者、いざ、手並み

の程を見せん」とて、長崎太郎が馬手の鎧の草摺、半枚かけて、膝口、

鐙の鐙靼革、馬の折骨五枚かけて斬り付けたり。馬も人も足を立てず、

転びければ、兄を討たせじとて、弟の二郎、兼房に打つてかかる。兼房

走り違ふ様にして、取つて馬より引き落とし、左の脇に挟みて、「独り

越ゆべき死出の山、供して得させよや」とて、炎の中に飛び入りけり。

兼房思へば恐ろしや。偏へに鬼の如くなり。これは元より期したる事な

れば、思ひ切りてもありつらん。長崎二郎は勧賞に与り御恩蒙らんと思

ひけるものの、心ならず捕らはれて、炎に入るこそ不便なれ。

3.5.2 家来が主君の命を守る場面。(B)

兼房が主君の命を守るという役割を果たしていることは『義経記』巻八の

「衣川合戦の事」で、兼房と喜三太が主君義経が自害を果たすまで敵と戦った

場面で述べられている。

① さる程に、長崎太郎大夫介をはじめとして、五百騎の者共、大手より

ただ一手にて押し寄せたり。十郎権頭、喜三太家の上に登りて、蔀遣戸

を楯にして散々に射る。

また、巻八の「判官御自害の事」で兼房は、義経の命令により、義経に代わ

って北の方と姫君を殺害した。兼房は北の方の乳父なので、大切に育てた北の

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方を殺害することは難しかったが、主君の名誉を守るため、やむをえず命令を

遂行しなければならなかったのである。

②「自害以前に申すべく候ひつれども、敵の近付き候ひつる程に、急ぎて

申さず候。早これは弱りたる身にて候。思し召し切りて候はば、兼房に

仰せ付けられ候へ」とて、「兼房近く参れ」とて、向かはせ給へば、

更に、『義経記』巻八の「判官御自害の事」では、兼房が義経の自害して果

てた後、宿所に火をかけたことは義経の最期の言葉にみられる。

③「早々宿所に火をかけよ。敵の近付く」とばかりを最期の言葉にてこと

切れ果させ給ひけり。

3.5.3 主従関係において「三世の契り」を大切にする場面。(C)

兼房は義経の北の君の乳父であり、北の君は義経と結婚した後で北の君

と共に来た。義経の一人家来として仕える。兼房は伊勢三郎と同じように先祖

から主君に仕え、主君である義経が忙中の際には、主君の家族を守る役割がみ

られる。たとえば『義経記』巻七の「判官北国落の事」で、北の方が義経と共

に奥州へ行こうとした場面でその様子が見られる。

① 北の御方、「さても妻子をば誰に預け置きて参るべきぞ」と仰せられ

ければ、「相伝の御主を妻子に思ひ替へ候ふべきか」とて、着たる白

き直垂を、俄かに浄衣のごとく拵えて、白髪混じりの髻を解き乱し

て、これも兜巾をぞ着たりける。今年六十三にぞなりにける。

次に、『平家物語』における源義仲の家来たちは忠義心にあふれるイメージ

もある。

3.6 今井兼平

3.6.1 家来が最期まで忠義を尽くして命を失う場面。(A)

兼平が最期まで主君に忠義を尽くしたことが『平家物語』巻九の「義仲最

期」で義仲の討たれた事を聞いて自害する場面で描かれる。

① 此日ごろ日本国に聞えさせ給ひつる木曾殿をば、三浦の石田の次郎為

久がうち奉ッてぞや」となのりければ、今井四郎いくさしけるが、こ

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れを聞き、「今は誰をかばはむとてかいくさをもすべき。これを見給

へ、東国の殿原、日本一の剛の者の自害する手本」とて、太刀のさき

を口にふくみ、馬よりさかさにとび落ち、つらぬかッてぞうせにけ

る。さてこそ粟津のいくさはなかりけれ。

3.6.2 家来が主君の命を守る場面。(B)

兼平が主君の命を守る役割を果たしたことは『平家物語』巻九の「義仲最

期」において、主君義仲が自害を果たすまで敵と戦った場面で述べられてい

る。(下記①)

① 兼平一人候とも、余の武者千騎とおぼしめせ。矢七つ八つ候へば、し

ばらくふせぎ矢仕らん。あれに見え候、粟津の松原と申す、あの松の

中で御自害候へ」とて、うッてゆく程に、又あら手の武者五十騎ばか

り出できたり。「君はあの松原へいらせ給へ。兼平は 此敵ふせぎ候

はん」と申しければ、

3.6.3 主従関係において三世の契りを大切にする場面。(C)

『平家物語』には主君に対する「三世の契り」についてははっきり描かれて

ない。しかし、『平家物語』においても、下記の三つの場面の義仲の言葉の中

に「契り」や「同じ所で死ぬ」という表現が見られる。(下記①、②、③)

① 『平家物語』巻九の「河原合戦」において義仲軍が負けて、義仲は自

らの最期と分かった。幼い日の約束は、義仲の話の中に現れている。

木曾涙をながいて、「かかるべしとだに知りたりせば、今井を勢田へ

はやらざらまし。幼少竹馬の昔より、死ならば一所で死なんとこそ契

りしに、所々で討たれん事こそかなしけれ。

② 『平家物語』巻九の「義仲最期」で義仲が今井兼平に会い行く場面で

ある。

木曾殿、「契はいまだくちせざりけりか。

なお、上記に挙げる文の「契り」は小学館の『平家物語』巻九の「義仲最

期」一七六頁の注六で「契り」は前の「幼・・・契りした」を受ける。この契り

を、前世からの因縁と解する説もあると描かれている。

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更に、の③のように、義仲が今井兼平に会った場面で、「同じ所で死ぬ」の

お互いの希望が表出されていることにも注意しておきたい。

③ 義仲都にていかにもなるべかりつるが、これまでのがれくるは、汝と

一所で死なんと思ふ為にり、所々でうたれんよりも、一所でこそ打死

をもせめ」とて、

3.7 樋口兼光

この登場人物は、主君義仲の最期に同じ場所に居なかったので、主君を守っ

た役割が見られなかった。しかし、義仲と今井兼平の死を聞いた際に、主君の

後世を弔う為に出家入道しようと思ったという表現に注目したい。それらは、

下記①の『平家物語』巻九の「樋口被斬」に見られる。

① 君に御心ざし思ひ参らせ給は人々は、これよりいづへもおちゆき、出

家入道して乞食頭陀の行をもたて、後世をとぶらひ参らせ給へ。兼光

は都へのぼり打死して、冥途にても君の見参に入り、今井四郎をいま

一度みんと思ふぞ」

3.7.1 家来が最期まで忠義を尽くして命を失う場面。(A)

樋口兼光は出家入道し、主君の後世を弔おうとしたが、義経の軍に捕ま

り、児玉党は樋口の命を願って義仲に後世弔う為?????。しかし、樋

口が犯した罰は重く、許されずに、義経に死罪を命じられ、最期まで忠義

を尽くして命を落としたことが見られる。

① 我等が中へ降人になり給へ。勲功の賞に申しかへて、命ばかりたすけ

奉らん。出家入道をもして、後世をとぶらひ参らせ給へ」と云ひけれ

ば、樋口次郎、きこゆるつはものなれども、運やつきにけむ、児玉党

の中へ降人にこそなりにけれ。これを九郎御曹司に申す。院御所へ奏

聞してなだめられたりしを、かたはらの公卿殿上人、局の女房達、

「木曾が法住寺殿へ寄せて時をつくり、君もなやまし参らせ、火をか

けておほくの人々をほろぼろうしなひしには、あそこにもここにも、

今井、樋口といふ声のみこそありしか。これらをなごめられんは口惜

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しかるべし」と、面々に申されば、又死罪にさだめらる。

3.7.2 家来が主君の命を守る場面。(B)

『平家物語』ではこの登場人物が主君の命を守る場面は描かれていない。

3.7.3 主従関係において「三世の契り」を大切にする場面。(C)

『平家物語』ではこの登場人物の「三世の契り」の場面も描かれていない。

3.8 巴御前

『平家物語』巻九の「義仲最期」で、巴御前は義仲という主君を守り、義仲

と共に最期まで居る要望があったが、義仲が最期の合戦に女を連れて来るとい

う評判が立つのは宜しくないと言ったので、巴御前は仕方がなく合戦から離脱

したことが述べられている。

木曾殿、「おのれは、とうとう、女なれば、いづちへもゆけ。我は打

死せんと思ふなり。もし人手にかからば自害をせんずれば、木曽殿の

最後のいくさに、女を具せられたりけりなンど、いはれん事もしかる

べからず」と宣ひけれども、

3.8.1 家来が最期まで忠義を尽くして命を失う場面。(A)

『平家物語』には、巴御前の最期ははっきり描かれていないが、『源平盛衰

記』では記述されている。合戦後、巴は和田義盛と再婚し、一人の息子が居た

と述べられている。

「巴尼トテ、仏ニ奉花香、主、親、朝日奈ガ後世弔ケルガ、九十一マ

デ持テ、臨終目出シテ終ニケルゾ」

カンナパット(2007)によれば、「主」に後世弔うことについて、「主」の

字は「主君」と「主人」という 2つの意味が考えられるとされている。「主

人」和田義盛を弔うことは普段の習慣で、「主君」源義仲を弔うことは普段の

習慣に加えて、義仲の遺言を実施するという一面もあることも考えられた2。

2 カンナパット・ルーンピローム(2007)「軍記物語と謡曲における巴御前の女性像」

,2007年, p.52 , チュラロンコーン大学文学部日本文学科.

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又、野田(1997)は「巴像の形成」においてこの場面を取り上げ、死んだ人の

事を語ることや死んだ人の為に弔うことで死んだ人の魂は成仏できるという信

仰があったことを指摘している3。

3.8.2 家来が主君の命を守る場面。(B)

① 巴御前は義仲の命令により合戦場から退出するが、そのまえに、主君

を殺しに来た敵を殺害した。

巴その中へかけ入り、御田の八郎におしならべて、むずととッてひき

おとし、わが乗ッたる鞍の前輪におしつけて、ちッともはたらかさ

ず、頸ねぢきッてすててンげり。其後物具ぬぎすて、東国の方へ落ち

ぞゆく。手塚太郎打死す。手塚の別当落ちにけり。

3.8.3 主従関係において「三世の契り」を大切にする場面。(C)

『平家物語』のはこの登場人物の「三世の契り」の場面は描かれていない。

『平家物語』における源義仲の家来像は、源義経の場合と同じように「三世の

契り」がはっきり現れていないが、主君と同じ所で死にたかったという場面を

描く点に特徴がある。

4. まとめと考察

表 2 : 各登場人物の主君に対する忠義の程度まとめ:『平家物語』

登場人物 忠義を尽く

して命を

失う場面(A)

主君の命を

守る場面

(B)

三世の契りを

大事にする

場面 (C)

主君

1伊勢三郎義盛 × × × 義経

2武蔵棒弁慶 × × × 義経

3 佐藤三郎兵衛継信 ○ ○ × 義経

4 佐藤四郎兵衛忠信 × × × 義経

5 十郎権頭兼房 登場無し 登場無し 登場無し 義経

3 野田小百合 (1997)「巴像の形成」,『玉藻』31号1997年8月 : pp.45-46, フェリス女学

院大学文学部日本語と日本文学科.

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6 今井兼平 ○ ○ △ 義仲

7 樋口兼光 ○ × × 義仲

8 巴御前(女) △ ○ × 義仲

○:あり、△:明記されていないがあると判断、×:なし(出所:筆者作成)

表 3 : 各登場人物の主君に対する忠義の程度まとめ:『義経記』

登場人物 忠義を尽く

して命を失う

場面(A)

主君の命を

守る場面

(B)

三世の契りを

大事にする

場面(C)

主君

1 伊勢三郎義盛 ○ ○ ○ 義経

2 武蔵棒弁慶 ○ ○ ○ 義経

3 佐藤三郎兵衛継信 ○ ○ ×(謡曲) 義経

4 佐藤四郎兵衛忠信 × × ×(謡曲) 義経

5 十郎権頭兼房 ○ ○ ○ 義経

6 今井兼平 登場無し 登場無し 登場無し 義仲

7 樋口兼光 登場無し 登場無し 登場無し 義仲

8 巴御前(女) 登場無し 登場無し 登場無し 義仲

○:あり、△:明記されていないがありと判断、×:なし 出所:筆者作成

上記の表 2と表 3を見ると、下記(1)から(4)の四つの考察が可能である。

(1)『平家物語』において、家来が主君に忠義を尽くして命を失う場面や主

君を守る場面は、源義経の家来より源義仲の家来の方が多い。『平家物語』に

おける源義経の5人の家来のうち、義経への忠義を尽くして命を失う場面や主

君である義経を守る場面が確認出来たのは佐藤継信だけである。継信は屋島合

戦(源平合戦のひとつ)の際に、主君である義経を守って死んだ。このとき義

経は継信のことを褒めたたえている。その一方で、『義経記』では、継信以外

の源義経の家来たちが主君に忠義を尽くし命を失う場面や主君を守る場面は描

かれている。

(2) 今井兼平と樋口兼光と巴御前の 3名は源義仲の乳母子である。義仲は兼

平と「同じ場所で死ぬ契り」を交わしているが、残りの2名が義仲と「同じ場

所で死ぬ契り」を交わしたのかどうかは記述されていないので、はっきりしな

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い。これまでの調査から得られた筆者の理解では、3名のうち、義仲と「同じ

場所で死ぬ契り」を交わしたのは、今井兼平のみである。

(3) 樋口兼光は、源義仲と弟今井兼平の死を聞いてから、主君である義仲と

弟の死を弔う為、出家入道しようとした。しかし、それまでに樋口兼光は義仲

とともに、たくさんの悪事をしていたため、出家入道することはかなわず、最

期には死罪となった。ここから見ると、主君が死んだ武士が主君の御霊の為に

出家入道することも主君に対する忠義に見える。

更に、義仲の家来の一人である巴御前は女性である。義仲の最期の合戦

で、7騎だけになった際に、負け戦であることが明らかであるにもかかわら

ず、巴御前は最期まで義仲と一緒に戦うことを望んでいる。しかし、義仲は合

戦に女性を連れて来たことを批判されることを恐れて、巴御前に合戦場から逃

げるよう命令した。巴御前は義仲の命令に従って合戦場を離れたが、その際、

巴御前は合戦場を離れる際に、敵将のひとりを討ち取っている。

死を恐れず最期まで義仲と行動することを望み、敵将を討ち取った巴御前

は、女性であるにもかかわらず、男性と同じように勇敢で勇ましい人物である

ように、筆者には感じられる。

(4) 『義経記』は義経と頼朝の不和の後の、源平合戦後の出来事を描いてい

る。義経と義経の家来たちが奥州へ逃げる間に遭遇した事件や困難だった出来

事などが描かれている。『義経記』のなかには、本稿で説明した5人の義経の

家来(伊勢三郎義盛、武蔵坊弁慶、佐藤継信、佐藤忠信、十郎権頭兼房)の他

にも、例えば、片岡八郎、備前平四郎、喜三太、根尾、鷲尾など、義経に忠義

を尽くす家来が登場している。しかし、これら片岡八郎、備前平四郎、喜三

太、根尾、鷲尾なといった家来たちは、巻の章名に利用された伊勢三郎義盛、

武蔵坊弁慶、佐藤継信、佐藤忠信、十郎権頭兼房ら義経の主要な5人の家来た

ちと同じ場面に登場することがあるものの、詳細については描かれていない。

『義経記』の作者は、5人の義経の家来(伊勢三郎義盛、武蔵坊弁慶、佐藤継

信、佐藤忠信、十郎権頭兼房)を強調して物語を描いている。

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(5) 『義経記』において、伊勢三郎義盛、佐藤継信、佐藤忠信らが、自らの

家族を気にかけることなく、主君である義経への忠義を優先する描写が確認出

来た。彼らの行動をみると、主君への忠義は家族との絆よりも強いことがあ

る。この時代には、主君との主従関係は「三世の契り」であるのに対し、夫婦

の関係は「二世の契り」であるといわれていた。従って、彼らの行動は、これ

らの「契り」に矛盾しない行動といえる。

5. 結論

以上をまとめると、『平家物語』と『義経記』においては、源義経と源義

仲の家来たちが自らの命を捨て、主君の命を守る忠義心にあふれた行動をとる

ことが見られた。加えて、家来の中には自身の最期まで主君に忠義を尽くすだ

けでなく、前世、現世、来世という「三世の契り」を結んでいることが分かる

行動をとる者がいた。また、自身の最期まで主君に忠義を尽くすという家来の

行動は、『平家物語』よりも『義経記』に多く見られた。前述の「三世の契

り」という考え方は、中世時代の武士たちが受けた主従関係に関する徳育のひ

とつだと考えられる。そして、中世時代の軍記物語は、主従関係という考え方

を、武士たちや一般の人びとに広く伝える役割を果たしたといえる。今後、中

世時代の武士たちの間に見られた主従関係が、現在の日本の社会にどのような

形で残っているのかということについて見ていきたいと思っている。

<参考文献>

カンナパット・ルーンピローム(2007)「軍記物語と謡曲における巴御前の

女性像」,2007年, p.52, チュラーロンコーン大学文学部日本文学科

野田小百合 (1997)「巴像の形成」,『玉藻』31号1997年8月 : pp.45-46,

フェリス女学院大学文学部日本語と日本文学科

吉永清 (1957)「戦記物語にあらわれた主従関係」,『群馬大学紀要』:人文・社

会科学編 6-4号 1957年 2月 : pp.1-14