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Title [書評] 松本肇著「唐宋の文學」 Author(s) 川合, 康三; 西上, 勝; 淺見, 洋二; 乾, 源俊; 和田, 英信 Citation 中國文學報 (2001), 62: 97-150 Issue Date 2001-04 URL https://doi.org/10.14989/177869 Right Type Departmental Bulletin Paper Textversion publisher Kyoto University

Title [書評] 松本肇著「唐宋の文學」 中國文學報 (2001), 62: 97 …repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/177869/1/cbh0… · Title [書評] 松本肇著「唐宋の文學」

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Title [書評] 松本肇著「唐宋の文學」

Author(s) 川合, 康三; 西上, 勝; 淺見, 洋二; 乾, 源俊; 和田, 英信

Citation 中國文學報 (2001), 62: 97-150

Issue Date 2001-04

URL https://doi.org/10.14989/177869

Right

Type Departmental Bulletin Paper

Textversion publisher

Kyoto University

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松本

肇著

『唐未の文学』

(創文社、二〇〇〇年へ本文二五八頁、人名索引、書

名・作品名索引1六頁)

京都

大学

西

山形

大学

大阪大

高知

大撃

お茶の水女子

大学

もう

一つの

「書評」の試み

日本の中国文学研究において、最も遅れているのは書評

のジャンルではないだろうか。論文や学術書の数は近年急

激に増加しているがtLかしそのなかで

「書評」は必ずし

も増えているとは言いがたい。中園には

『謹書』のように

書評に重きを置-雑誌'さらには

『書品』・『園書評論』な

どのような書評専門誌まであるにしても'中囲全髄の論文

数の、日本と比較にならない多さからすれば'中国でも書

評の比率はまだ高いとはいえないだろう。日本や中国のそ

うした状況に比べると'アメリカでは書評がはなはだ盛ん

なようだ。たとえば

"HarvardJournalofAsiaticSt

udies"

などでは、毎親の半分近-を書評が占めている。欧米の文

献目録を

一目してもわかるように、書評というものが彼の

地でははなはだ重視されているように見える。日本におけ

る書評の低迷はどこに問題があるのだろうか。

日本の書評は、二つの種類に分けることができる。一つ

は新聞や小雑誌の書評であ-'短い文のなかで'も

っぱら

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中国文学報

第六十二筋

紹介の機能を果たしているものである。専門が分化し出版

物が増大しているなかにあ

って、こうした紹介はいよいよ

有用になってきている。たとえば雑誌

『東方』は書評欄が

薄い雑誌のかな-の部分を占めているが、それを通して私

たちは最近刊行されている本のあらましを知ることができ

るし、さらには取-上げられた本を自分で謹んでみた-な

ることもある。

もう

1つは学術誌に載せられる書評である。中囲文学専

門の学術誌も最近はとみに槍え、それにともなって誌面の

後ろの方に掲載される書評も増えてはいるのだが、しかし

専門誌の書評はいかにあるべきかという認識や理念がまだ

確立していないのではないだろうか。

最も大きな問題は'書評とはすなわち許債することだと

いう思いこみが根強-支配していることである。かつて、

書評のコツは九割はめて

一割けなすことだと教えられたこ

とがある。「はめる」にせよ

「けなす」にせよ'そこには

書評とは鮎教をつけることだという

「偏見」が前提となっ

ている。許債しょうとすれば'学生に封して成績許債をす

る教師のように'おのずと書評者自身を高みに据える倣慢

さが要求されることになる。そしてそこに賛際に繰り贋げ

られているのは、許債の封象としやすい部分を取-上げて

批判することである。そのなかでも正誤の問題は黒白がは

っき-しているから'諜-を指摘するという安易な方法を

執る。その結果は'あ

っさ-言ってしまえば、自分の方が

よく知

っている、自分の方が謹む力がある、という知識量

や讃解力の誇示に終わるにすぎない。評債の封象としに-

い問題-

解揮とか考え方とか'人によって異なるような

鮎については鯛れられないことになる。そこにこそ著者が

一番言いたかったことがあるはずなのに'それが避けられ

てしまう。しかし謀議や遺漏などは個人的に俸えればすむ

ことであ

って、それだけが書評の内容であるとしたら'そ

れは日本の書評の貧しさを示すものにはかならない。

書評は本に部数をつけることではないはずだと言

っては

みても'賓際に書評と評債を切-離すことはむずかしい。

ことは書評に限られるものではな-'研究の営為そのもの

についても首てはまる。私たちは研究の場においては'た

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とえば

一時期の中国で行われていた'国家イデオロギーを

確固たる基準として過去の文学を裁断するような研究に抗

して'あからさまな評債を避けようとする。が'賓際には

許債の基準が政治的イデオロギーのようにわか-やすいも

のでないだけであ

って、研究においても複雑で暖味な基準

が暗に作用していることは否めない。書評に関しても'暗

款の評債が常に働かざるをえない。そもそも刊行された多

-の書物のなかから

一冊の本を取-上げること自髄'

一つ

の許債を伴

っている。そして評債には昔然'基準となるも

のがあ-、その基準を語ろうとすれば、それは書評から離

れて'書評者自身の考え方を提示することになるLt自分

自身の内部の基準は確かにあるにしても、いざそれを語ろ

うとすると'はなはだむずかしい。さらに加えて、ことに

文学研究の場合、基準が人によって様々であるという問題

もある。それぞれどのような態度や方法によって文学に臨

むのか'それは今のところ多様であるほかないし'多様で

ってよいだろうが'ただ書評の場合は同じ土俵にのぼら

なければ組み合うこともできないので、文学研究の基本的

な立場が

一定していないという事賓は'書評にと

って本質

的な困難をもたらしている。

許債を完全に切-離すことは不可能であ-、評債の基準

も人によって分かれているにしても、少な-とも単純な評

債を直接の目的としない書評は'いかにあるべきか。ある

べき姿を室に描いてみれば'評者が正面から著者に向かい

合い、著者の提起した問題に封してともに考え'

一緒に取

-組むことによって'嘗該の書物を越えて新たな知見がも

たらされるようなものであろうか。それを通して'著者は

自分

一人では得難いことを得られ'評者は本を手だてにみ

ずからを前進させる'つま-は本と書評の融合から新たな

世界が生み出されてい-'そういう書評はあ-えないもの

だろうか。

理想の書評はどのようなものか、それ自健'考えるべき

問題をのこしているLt明確なヴィジョンすらない段階で

いきな-着手することもできないがtと-あえず私たちは

ここに

1つの試みを提起しょうと思う。それは書評ではあ

るのに、封象となる書物や著者が表面にあらわれない'つ

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中囲文撃報

第六十二筋

まりは

一見すると書評の髄裁をなしていないものである。

私たちが

「書評」のなかで書こうとするのは'その本を謹

んで鰯覆された自分自身の考えである。それがあ-までも

普該の書物を通して感じた-考えた-したことである以上'

その本から離れた存在ではない。とはいえ'書評の封象は

直接には言及されていない。書評の讃者-

というものが

あるとすれば'讃者は本と書評とを重ね合わせて読むこと

を要求される。重ね合わせた紙を透かしてみることによっ

て、初めて書評として機能しうる。したがって'この書評

の試みは該書のいわば

「裏本」を書-ことにほかならない。

「裏本」の語が不穏首であるならば'「異本」と言おうか。

私たちが松本肇氏の

『唐末の文学』を取-上げるのは'

この本の意囲するところに共鳴するからである。中国古典

文学には'言うまでもな-'強固な枠組みが存在している。

他に類がないほど長-

一貫して持増してきた文学的因襲と

いう時間軸'或る時代を覆い蓋-す文学的環境という室間

軸'そのなかで

「文学」が営まれてきた。そのためにその

鰹系のなかに身を投じなければ、憶得することはむずかし

い。と同時に'そこから脱しなければ

「今」において中国

古典文学がもちうる意味を問うこともできない。中国古典

文学は常にそうした背馳する二つの要求を強いる。その葛

藤のなかで'松本氏は従来の枠組みから脱出Lt現在の知

によって解きほぐすことを選ぶ。『唐末の文学』という書

名から線想される内容は心地よ-裏切られ'著者の関心を

燭馨する問題だけを選び取って自在に筆を走らせている。

しかしその姿勢には共感を覚えても、結果については私た

ちは不満を抱かざるをえない。果たして本書を通して、私

たちは自分の内部の固定観念に揺さぶりをかけられただろ

うか。著者の該博な謹書が却

って安易に西欧の知に結びつ

けて解決してしまい'そこからこそ考え始めるべき糸口が

見過ごされてはいないだろうか。私たちは松本氏が取-上

げた問題の幾つかをめぐって、私たち自身の思いを馳せた

田㌣

執筆にあたっては'五略の一人ひと-が部分ごとに塘普

して草稿を書き、それを五暗全員が検討したうえで'討議

を生かしながらさらに楯富者が書き改めるというかたちを

- JO()-

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とった。共同執筆と個人執筆の長所を兼ね備えようとして

の方法である。

(川合康三)

T

「華山遭難」-

古典受容と作者像形成-

韓愈

(七六八1八二四)の同時代人である李肇

(王志保

『唐放言』巻

1に

「元和中

(八〇六-八二〇)中書舎人李肇撰国

史補」とある)は、国史として残されるべき公的な記録に

加えて'韓愈が華山で危う-遭難しかかった逸話を

『国史

補』に記録した。この極めて些細な記録には'中国の古典

文学を受容する際に働き績けてきた機制について'今日改

めて考えてみようとする時'恰好の端緒が残されている。

我々はあるテキストを謹み'様々な作者像を思い描-こと

ができる。その

一方で'思い描いた作者像に依

って'その

作者が残したテキストを謹み解いている。このような二つ

の文学的な営みが'中国の古典文学を受容する時には

一腰

どう働き合

ってきたのか'その

一端をかいま見るき

っかけ

をこの短小な記事は我々に輿えて-れているのだ。

この記録から、韓愈は高所恐怖症であ

ったなどとナイー

ブに思い描いてみるのは自由であるとしても'その想像に

基づいて韓愈の作者像と文学についてさらに述べようとす

るならば'それは軽率であると言わざるを得ない。李肇や

同時代の人々にとっては'韓愈がいかに

「好奇」であ

った

かを博える華山遭難の記事を謹むだけで'あ-あ-と韓愈

の人物像を想起することができたのだろう。そうした想像

を喚起する強い力を持

っていたために'この記録は以後長

-記憶されていった。しかし'現代に生きる我々にとって

は'李肇の記録はもはやあま-にも短小に過ぎて、昔時韓

愈が奇矯な

一面を持

つ人物と見なされていたのだと知るこ

とはできても'それ以上のことを想像するのはもはや難し

-なってしまった。そもそも遭難騒ぎの真備など、現代に

生きる我々にとってはもはや何らの意味も持たない。だが'

この記録に関わる言説の蓄積をもう

一度丹念に辿ってい-

ことによって'我々は古典受容の際に働-機制の

一端をう

かがい知るとともに、そこから文学のもつ可能性について

も思いを致すことができるかもしれない。

- 101-

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中国文筆報

第六十二筋

五代の儒者、沈顔はこの記録に先学の教訓を謹み取ろう

と試みた。沈俸師の孫であ-、唐未の天復年間

(九〇一-

九〇四)に'進士に及第して官途を開いた洗顔であったが'

戦乱のさなか江南に流浪のやむなきに至る。後'ようや-

呉に落ち着き'知制詰'翰林学士に至-、順義年間

(九二

一-九二七)に没した、と晃公武

『郡斎議書志』(淳配州年間

七四1二

八九の成立。その巻1人別集類

「沈顔警書十巻」)

は博える。華山での遭難騒ぎの記録には'賓は

「条に趣き

位を余る者」に封する韓愈の訓戒が込められているのだt

と説-沈顔の

「登華旨」は'同時代の文学に抗する意園を

もってまとめられた

『誓書』の中の一篇である。元結

(七

一九1七七二)「白樺」にいう

「警者」'すなわち

「時俗に

従乗せず'常世に鈎加せられざる」自分という立場、そう

いう立場への共鳴に由来する書名

『誓書』に、洗顔の世俗

に野崎しようとする自意識は十分に露わであると言える。

加えて'その自序には

「孟珂よ-以後千絵年'百千の儒者

を経るも、みな末だこれを聞くこと有らず。天その極まる

を厭い、付して郁子に在-」という-だ-があ-'そこか

ら洗顔の誇大虚誕ぶ-がうかがい知れる'と晃公武は許す

る。『誓書』はすでに失われ'今ではそのT部が博わるに

過ぎないけれども'「登華旨」(『唐文粋』巻四八古文類

「析衣

徴」)の末尾に記された

「悲しいかな'文公の旨'沈子徴

か-せばほとんど晦からん」という言葉や'「ああ'天下

の大'寓物の衆'その日を乱し耳を惑わす者、ただ硫扶鄭

衛のみにあらず。則ち知る'聖賢に非ざればそれ視聴に惑

わざる者稀なるを」(「視聴歳」'『唐文粋』巻七八歳類)とい

う慨嘆からは'自分自身を聖賢の道の継承者として権威付

けようとする意園がよ-窺える。

洗顔は、韓愈は聖賢の道を受け纏いだ人物'且つ自分に

とっては直近の先人であ-'韓愈の精神をこの世で継承し

ているのは自分だけだ、という疎外感を帯びた誇-を述べ

た。そのように韓愈を受容したのは洗顔ばか-ではなく'

宋初の古文家も同じだった。柳開

(九四七-1〇〇〇)や穆

(九七九-一〇三二)らは'孔孟を継承する

「大聖賢人」

として韓愈を尊崇Lt韓愈への完全同化を聾高に宣言した。

だが'彼らのそうした悲壮感さえ漂う主張は'世間の無開

- 702-

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心や無理解に抗う構えに止まるものであって'つまるとこ

「不遇の境遇にあってこれから世に出ようと欲している

いわば在野の聾」(川合康三

「古文家と揚雄」'『日本中国学曾

報』第五二集'二〇〇〇)に過ぎないと言われる。そもそも'

世俗を超越した聖人賢者として韓愈の作者像を形成Ltそ

れを崇める態度は便宜的ともいえるものであって'柳開自

身が述懐するように、容易に

「之を愛するの名は有れども'

誠に之を用いるの賓は無」(「迭李憲序」)き態度に韓じてし

まう可能性を学んでいた。謹み手が自らの権威を確立する

ため、或いはもっと世俗的な身分保障の手だてにするため

に思い描かれた作者像は'その用途に叶い目的を達した途

端に謹み手の脳裏から希薄化Ltやがては消失してしまう

だろう。そうした浅薄な作者像に満足せず'よ-深い内包

をもつ作者像を形作る試みは'さらに後の謹み手に委ねら

れた。後の謹み手を新たな讃解に誘

ったのは'やは-テキ

ストそのものが持

っていた力だったのだろう。

李肇から三百年近-後に生きた士大夫'貌泰

(『者渓漁隈

叢話』前集巻一二に

『桐江詩話』を引いて

「魂道輔、嚢陽人'元

(l〇八六1

1〇九四)名士也'輿王介甫兄弟最相厚」とい

う)は'自分の請書別記の中に、李肇の記録と'それはで

たらめだと断じた沈顔

『誓書』の見解を引いた上で'韓愈

「張徹に答う」詩の句を掲げ'沈顔の見解に改めて反論

する'といういささか手の込んだ文章を書き残した。魂泰

のこの文章は'彼の詩話

『臨漠隠居詩話』と筆記

『東軒筆

録』に'それぞれほぼ同文の二通-として今日に俸えられ

ている。恐ら-貌泰は、韓愈の人物像を'我々が不鮮明に

感ずる程ではないにしても'李肇のように明瞭に感じ取る

ことが難しくなってしまっていたに違いない。だから'こ

れは李肇には思いもよらないことであっただろうが'韓愈

自身が書き残したテキストを使

って、華山遭難の具備を明

らかにしようと試みる。同時代人の李肇には自明だった'

生身の人物に伴うアウラの如きものが消え失せたとき'そ

の人物が残したテキストを謹み鱒ごうとする者は'テキス

トを通してある特定の作者像を形成せざるを得ないように

なる。だから魂泰はテキストを謹み解いた上で'作者像を

形成しょうとする。その鮎に限って言えば、硯賛世界に生

- 103-

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中囲文学報

第六十二珊

きる同時代人の噂として韓愈のことを耳にすることがもは

やできなかった貌泰は'今日、韓愈の残したテキス-を目

前にする我々と同じ状況にあ

ったといえるのではないか。

1世紀以降の中国の士大夫は、韓愈のテキスIをいかに

「用いる」ことができるかをめぐ

って様々な讃みの試みを

頼けた。そうした試みの跡の

一つとして'魂泰が得意げに

ったような'書き手の履歴とテキス-の内容との封照符

合を指摘することもあ

ったわけだ。魂泰は'李肇の場合の

ように華山での遭難騒ぎを

「韓愈好奇」を端的に示す事薯

として見ようとしているだけではないように思える。韓愈

がどのような履歴や状況下で華山での遭難を健験したのか'

魂泰はむしろその経緯をたどろうとしているといった方が

。それは、魂泰にとっては'韓愈がいかなる人物か'

もは

や自明のものではなか

ったからではないか。自らと同

じょうに行動し思考する人間の章相として、韓愈の華山で

の鰻験を慎重になぞろうと試みている。その試みに資する

材料として選ばれているのが'韓愈が自ら我が身の来し方

を回顧する内容のテキスト'「張徹に答う」詩であること

にも留意したい。この全百句五十韻からなる五言詩では、

気心の知れた後進である張徹、彼はやがて自らの縁戚に連

なることになるのだが'その若者に向けて'韓愈はこれま

での二人の付き合い、そこで得た気持ちの通った野遊びの

倍験'交錯するお互いの履歴を振り返-'赦されて蹄京す

る自らの知らず知らず昂揚する思いを素直に披涯している

ように謹みとれる。華山でのやや無謀な登琴の思い出も、

気心の知れた友人にこれまでの忘れられない経験の

1つと

して数えるべ-書き加えられたのだろう。この詩は、韓愈

が残した詩の中では'なおやや生硬さが残る初期の作と位

置づけるべきものなのかも知れないけれども'これよりも

前に編年される

「経常箭」や

「山石」「叉魚」といった作

品群に通底する、これまでよ-見知られた自然景観の表現

に止まらず'自らの世界の見方を新たな様式で形象してみ

ようとする意欲が見られ'魅力あるテキストであることは

確かだ。魂泰にと

っては、新たな景観を求めて積極的に行

動する作者像が新鮮に映

った。読み手は'そこから自らが

欲する作者像を形成しうるように、テキストを受容するの

104

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ではないか。

これに反し'謹み手にと

って新鮮味を見出せないテキス

トは、軍に陳腐に感じ取られるだけでな-、加えて極めて

卑俗な性格を作者像に付興してしまう致果を持

つ。そのこ

とをよ-例示するものに'「韓愈俗物」説をあげることが

できると思う。こうした韓愈像も、生身の人間としての記

憶が薄れ'類型的聖人と見て満足する謹み方が超克された

後に、始めて形成されるようにな

ったのではないだろうか。

1面的な韓愈像に満足しない新しい謹み方を提示した謹み

手としてよ-知られているのがへ欧陽修

〇〇七-

1〇七

二)だろう。彼は韓愈

「感二鳥賦」と高弟の李期の手にな

「幽懐賦」とを謹

み比べ

て'こう

った。「凡そ昔鞠と

時を

一にする人'通

有-て

文を

能-する者、韓愈にし-は

なし。愈かつて賦有り。二鳥の光条を羨み'

一鞄の時無き

を歎-に過ぎざるのみ。これその心をして光条にして飽か

しむれば、則ちまた云わず」(「讃李朝文」へ『居士外集』巻二

三'景柘三年'

一〇三六'作)。若年の欧陽修のこの頭書剤記

では'単純な聖人韓愈像が早-も動揺し始めていることが

分かる。韓愈が提起した問題は、欧陽修らにと

ってはなお

切賓な人生観にかかわるものではあ

った。だからこそ、韓

愈のこの朕は謹まれ積けた。欧陽幡自身

「その談笑に資Lt

諸誰を助け'人情を寂し'物態を状するは、

一に詩に寓し

て'その妙を曲蓋す」(『六一詩話』)と述べたように'韓愈

の文学には高い評債を惜しまない。だがその

一方で、他者

「光条を羨み」自らの

「1鞄の時無きを歎-」ような'

緑利にのみ懇々とする人間の生き方は'欧陽情と

っては極

めて卑俗に見えた。それは、欧陽修の脳裏には

「有道而能

文者」は首然に相磨な廃退を融合から受けるべきだという

格率が'もはや疑うべ-も無いものとな

っていたからでは

ないか。葛暁音氏がいうように'「韓愈の理想は末代には

現章に愛わ

っていた」(葛暁音

「北宋詩文革新的曲折歴程」も

『中国社倉科撃』

一九八九年第二期'いま

『漠唐文学的壇襲』

北京大学出版蔽、

一九九〇)のだ。

この後、欧陽修の文名が世に喧俸されるのを聞いて'自

らの文学的営みを始めていた次世代の読み手にと

っては'

韓愈の俗物性はもはや否定Lがたいものとな

ってしま

った

JOJ

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中国文学報

第六十二筋

ようだ。そしてそうした作者像が、さらにテキストそのも

のに向かう眼差しを鋭-していったのではないだろうか。

貌泰の得意げな指摘も'こうした作者像の奨達と無関係で

はあるまい。程較

(l〇三三-二

〇七)は'韓愈が世俗の

名著にとらわれていたことを'弟子に

「退之は正に名を好

む中に在-」と語って

(『河南程氏遺書』巻一八'伊川先生語

四)'不満を表明した。さらに、胡仔

『苔渓漁隙叢話』前

(成子紹輿十八年tll四八)が蘇拭

(一〇三六-1一〇一)

の言葉として記録するのは、杜甫

「示宗武」詩

(大暦三年、

七六八へ五十七歳の作)と韓愈

「示見」詩

(元利十年'八1五'

四十八歳の作か)との詩句を引き比べて、そこから作者の

人格に説き及ぶものとしてよ-知られたものだ。二つの詩

がともに息子への呼びかけを内容としながらへ杜甫と韓愈

の態度は異なるtと蘇拭は述べたという。蘇珠は、杜甫が

息子を聖賢の道に進むべく励ますのに射し'韓愈は緑利ば

か-に目が向いていると'優劣をつける。こうした語-口

は蘇珠には似つかわしからぬ安易な批評のように見える。

しかし'韓愈が思想家としてはなお十分な深みに到達し得

ていないという認識そのものは、嘉砿六年

(一〇六一)二

十六歳で制科に鷹じた際に上進された政論の

1篇

「韓愈

論」にも'「韓愈の聖人の道におけるや、蓋しまたその名

を好むを知-て'いまだその賓を楽しむ能わず」とはっき

-公言されていた。韓愈が

「示見」詩で子に向かって誇る

のは'功成った後の物質的豊かさ

「成敗極致」ばか-だと

いう見方は、朱薫

(二

三〇-1二〇〇)にも受け継がれて

いる。来貢は

「この篇の誇る所は'乃ち

「感二鳥」(集巻

一「感二鳥賦」)「符謹書」(集巻六

「符謹書城南」)の成敗極致、

しかして

「上宰相書」(集巻一六

「後十九日復上音」)の所謂

行道憂世は、則ちすでに復た言わず。その本心はいかんぞ

や」(冒自費先生集考異』巻三)と述べて、作者韓愈の人格が

若年から壮年に及んで1倍どう蟹質してしまったのかと疑

義を提示する。テキストに封する注視が贋-かつ深-なる

につれて'

一面的な作者像だけを思い描いて済ますことが

できな-なったのか。テキス-を介して、そこに謹み取ろ

うとしていたのが、自分自身が考え得る最善の生き方であ

ることに来貢は気づいていたのだろうか。ともあれ、韓愈

JOd

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から二百年後の謹み手にとっては'自らの

「成致極致」を

誇るような生活の描き方そのものが'あま-にも単純だっ

た。人間の内在的気高さに解れないまま、物質的豊かさの

みを轟歌しているかに見えて、卑俗とされた。韓愈の詩文

を謹み継いで生きた二百年後の中国の士大夫にとって、物

質的豊かさよ-も'内的精神性に眼差しを向けることこそ

が、最善の生き方と考えられていたのだろう。俗物批判と

いう謹み方が'むしろ鮮明にそうした謹み手のモラルを浮

かび上がらせる。

活の趨翼

(l七二七卜

一八l四)は'韓愈が

「示見」詩で

利緑によって子を誘旅するのは洩はかな見識であ-'宋儒

の議論をかもしたのは首然であるとしながらも'史許家に

似つかわし-それが唐代の習いでもあったのだtと次のよ

うに指摘する。「知らず利線を舎てて品行を言うは、これ

宋以後の道学諸儒の論へ宋以前には固よ-この説無し。顔

氏家訓'柳氏家訓を観れば'また何ぞ嘗て栄辱を以て勧戒

を為さざらんや」(『甑北詩話』巻三)o趨翼の見解に沿

って、

唐代の

「柴辱を以て勧戒を為す」風と並んで'宋人の俗物

批判をも歴史的産物として相野化し'詩に込められた勧戒

について是非する立場を離れて詩を見ることはできないだ

ろうか。そうして杜甫の

「示宗武」詩を見るならば'子が

立身すべき時期を迎えながら、それに十分癒えてやれない

まま'あてどな-放浪するしか術のない自分の身の上をや

るせな-振-返っているようにも謹める。韓愈の

「示見」

詩にしても、そこに見える父親が子に封して自らの一生を

かけてかちえた業績を誇る気持ちは'俗悪といって片づけ

られない感情が潜んでいるかのようだ。それは'現代にあ

っても、すでに滑稽であることは免れないことであるにし

ても、少な-とも理解できない感情ではない。韓愈の表現

はあまりにあっけらかんとした楽天的なものであるとは言

え'自分が目指す生き方を獲得し得たことを喜ぶ'素直な

達成感がよ-謹みとれるように思う。

杜甫や韓愈が書き記したテキストは'彼らにまつわる逸

事を書き留めた同時代の記録者の思い'彼らの死後それを

謹み継いできた中国の士大夫たちの思いを経て、さ

な作者像を結んできた。それらの作者像は、それぞれの時

707

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中国文学報

第六十二冊

代の謹み手が自分自身にとってふさわしいモラルを探求し

た果てに得たものであった。そしてその探求の営みとは、

賓は自分自身がいかなる人間であるかを知るためのかけが

えのない手だてに他ならなかったのではないだろうか。現

代西欧の評論家

G・スタイナIは'六歳の時ウィーンから

避難したパリの仮住まいで父から手ほどきを受けたホメロ

スの

『イーリアス』讃解に激し-揺-動かされて以来'そ

れが生涯の伴侶となったと回顧している。彼にとっての古

典とは'次のように定義づけられている。「私は文学へ音

楽'その他の諸垂術'哲学的議論、等々の古典とはわれわ

れを

「謹む」表現形式の謂であると定義づける。われわれ

がそれを謹む

(聞-、感じる)よりも'それがわれわれを

謹む。この定義に暖昧性はおろか、逆説的なものは何もな

い。取-組むたびに古典は、「理解したか?」「責任をも

て再想像をしたか-」「君は私の問いかけと、愛貌し豊か

にな

った存在

の可能性に基づ

いて行動する用意がある

か?」と問いかける」(『G・スタイナ1日侍

(ERRATA)』、

工藤政司諸'みすず書房、

l九九八'第二章'二十五頁)。現代

に生きる我々にもまた'様々な人々に謹み継がれてきた韓

愈のテキストを介して'スタイナIのひそみに倣

って、

我々自身のモラルを求めることができる可能性が残されて

いるのかもしれない。松本肇氏が'韓愈の華山遭難のエピ

ソードから'冒険心あふれる生き方を自らが尊ぶべき格率

としたように。

(西上

勝)

「半夜鐘」-

詩観の饗遷-

・張継の七言絶句

「楓橋夜泊」は'数多い唐詩のなか

でもと-わけ名高い詩の

一つに教えられる。贋-謹まれた

アンソロジー、中国では

『千家詩』・『唐詩三百首』'日本

では

『三鰹詩』・『唐詩選』、そのいずれにも収められてい

ることが'

一般への流布を物語る。輿謝蕪村が師匠から讃

-受けた携

「夜半亭」がこの詩に由来し、泉鏡花が内容に

は関わらないものの、小説に

『鐘聾夜半録』と題している

など、文人の間にも痕跡をのこしている。さらに愈胆の筆

による碑の拓本が日本にも贋-俸わ-、書としても親しま

108

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れている。本文の字の異同が多いことも'この詩が贋-博

播していたことの謹左になろう

(今'問題とする

「半夜

鐘」についても'「夜半鐘」に作るテキストがかな-ある)。

詩そのものが人口に腺炎していたのみならず'その詩の

なかの

「半夜鐘」をめぐる議論が'宋代の詩話をにぎわし

てきたこともよ-知られている。果たして賓際に深夜に寺

の鐘が鳴るかどうかtという問題である。詩が事章と合わ

ないことを指弾するのは、「寓生」を旨とするわが俳句に

もあって、夏目軟石の句

「落ちざまに虻を伏せたる椿か

な」に封して'椿の花は上向きに落ちるものだと非難され

たことがあったように'古-て新しい問題ともいえる。

「半夜鐘」について最初に疑義を呈した欧陽情

(一〇〇

七-一〇七二)『六

l詩話』のその修を今

一度謹み返してみ

わす

ると、のちの議論では

られたことも含まれている。

詩人会求好句'而理有不通'亦語病也。如

「袖中諌草

朝天去、頭上宮花侍宴韓」、誠馬佳句臭。但進諌必以章

疏'無直用

草之理。唐人有云、「姑蘇台下塞山寺'牛

夜鐘聾到客船」。記者亦云'句則佳臭'其如三更不是打

(一作撞)鐘時。如貢島笑倍云、「寓留行造影'焚却坐碍

身」。時謂焼殺活和尚、此尤可笑也。若

「歩随青山影'

坐寧日塔骨」'又

「濁行揮底影'数息樹達身」、皆島詩。

何精粗頓

(1本無頓字)異也。

(郭紹虞圭編'中囲古典文学理論批評専著選輯

『六

1詩話

・白

石詩説

・淳南詩話』人民文学出版社、

一九八三。引用者接台宇

宙作墓。)

詩人が佳句を追い求めるばか-に'すじが通らないこ

とがあるのは、それも表現の映陥である。「袖中の諌草

天に朝して去

き'頭上の宮花

宴に侍して締る」という

のは、まことによい句である。しかし諌言を上程するに

は必ず章疏を用いるもので、草稿をそのまま使うという

ことはありえない。唐人の詩に、「姑蘇垂下寒山寺'半

夜の鐘聾

客船に到る」という。「いい句ではあるが、

三更は鐘を打つ時刻でない」という人がいる。貢島が僧

侶の死を笑して、「寓留す行道の影、焚却す坐稗の身」

- 109-

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中国文学報

第六十二研

(「実相巌和尚」詩)という。生きている坊さんを焼き殺

してしまったと言われたが'これが

一番おかしい。「歩

みて随う青山の影'坐して学ぶ自塔の骨」(「贈智朗揮師」

詩)とか

「濁り行-滞底の影、敷しぼ息う樹連の身」

(「迭無可上人」詩)とか'いずれも貢島の詩だ。(一人の

詩人のなかで)精粗がか-も異なるのはどういうことだ

ろう。

欧陽修は詩が事案と齢齢することを詩の映陥として、三

つの具髄例を挙げている。「袖中--」詩は作者を挙げて

いない。「姑蘇・-」

の作者はもちろん張継であるが'こ

こでは

「唐人」としか言わない。「幕留--」詩は貢島の

作であることを明示するのみならず、貢島の他の二篇の詩

の句を引いて'

一人の作者のなかでか-も違うことにいぶ

かりの念を示している。三人の詩人の詩句を挙げながら、

作者を記す態度には明らかな違いが認められる。詩句と作

者の結び付きがしだいに強-なっているのだ。だから貢島

に至っては、貢島という

1人の詩人の内部における整合性

が問題とされている。張継については

「唐人」とまでは規

定しても、名を奉げていないのは'貢島が個性ある詩人と

して周知されていたのと違って'「姑蘇--」詩が'唐詩

という性格まではもっていてもう張纏という個別の作者と

の結びつきが希薄であったためだろうか。草書'我々の認

識においても'盛唐詩に時折見られる'よ-知られた詩篇

はあってもその作者についてはなじみがないtという例の

1つに張継は入るだろう。

問題の提起も'賓は欧陽修自身のことばとして直接畿せ

られたものではない.張裾の詩については

「説者亦云」、

君島については

「時謂」と言うように'いずれも他者の意

見として記しているのである。「説者」「時謂」という言い

方は'『六

1詩話』にはほかにも見える。たとえば梅毒臣

の言葉を記した候のなかに、

聖愈嘗云'「詩句義理維通'語渉洩俗而可笑者'亦其

病也。如有

『贈漁父』

一聯云'『眼前不見市朝事'耳畔

ヽヽ

惟聞風水聾』。説者云'『患肝腎風』(四字一作

『此漁父肝

-Ilo-

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戒熱而腎臓虚也』)。又有詠詩者云

(一本無以上六字)、『蓋

ヽヽ

日寛不得、有時蓬自乗』。本謂詩之好句難得耳へ而説者

云'『此是人家失却猫鬼詩』。入管以為笑也」。

梅尭臣がこう語ったことがある。「詩句は意味が通じ

ても'言葉が通俗的でおかしいのは'やは-鉄陥だ。

『漁父に贈る』の一聯に'『眼前に見ず

市朝の事'耳

畔に惟だ開-

風水の聾』という。『肝臓と腎臓の病気

だ』という人がいる

(四字は

『この漁師は肝臓が炎症を起こ

し腎臓を病んでいるのだ』とも作る)。また詩について詠じ

た人がいて

(上の六字がないものもある)、『蓋目

覚めて

得ざるも'時有りて還た自ら束たる』という。もともと

はよい詩句を得難いことをいっているのだが'それを

『これは飼い猫がいな-なった人の詩だ』という人がい

て、大笑いになった」

また'「時謂」は'松江に作られた新しい橋を唱

った蘇

舜欽の詩を構えた候にも見える。

ヽヽ

--時謂此橋非此句雄偉不能稀也。--

--この橋はこの雄々しい詩句こそふさわしいと人々

に言われたものだった。--

ここでの

「時謂」は世間の評判'その時代の人々の賞賛

を代表しているものであり、先の

「説者」は詩句をわざと

ふざけて解樺して座興に供している'そういう場のなかで

馨せられたものである。作者が讃者に要求する詩の謹み方'

それは詩を成-立たせている文学環境のなかで無言のうち

に成立している枠組みであるが'それを承知のうえで本来

の意味を敢えてずらし、ふざけた解樺を投げかけて興じ合

う、そんな雰囲気のなかでの言餅であることがわかる。も

ちろん欧陽修自身も

「時謂」や

「記者」の馨言に輿してい

るのだが'こうした言い方は、欧陽修個人の濁特の見解を

主張するというよ-も'このような故意の曲解を呈してお

もしろがる場というものがあり'その雰囲気のなかで馨せ

られた言辞であることを示している。

-111-

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中国文学報

第六十二筋

同じ-

「説者」の言として記された

「夜半鐘」をこうし

た文脈のなかにおいてみると、必ずしも張椎の詩の致命的

鉄隅を欧陽修が取-上げて糾弾したというものではな-、

このように暇庇を指摘することもできるといった軽い戯れ

として受け止められよう。もともと詩話なるものは'正面

から文学の正しいあ-方を論じたものではな-'軽やかな

座談といった性格をも

っているが、「記者」のことばとし

て記されるこの場合は'気軽な座興と結びついていること

がいっそうはっき-している。

とはいえ'そこに欧陽修やその周連の人々の詩観が反映

していないわけではない。そしてここには詩と草葉との関

係についての重大な問題提起が含まれていることは確かで、

だからこそ以後に績々と議論が生じているのだ。

欧陽修が

「理有不通」というのは'詩が草書と齢齢する

ことを指している。詩は事案と繋がっていなければならな

いとしながらも'「理」さえ通ればいいというわけではな

いことは'梅尭臣の語として記された

「詩句義理錐通'語

渉洩俗而可笑者、亦其病也」の修からも明らかだ。二つの

修は

一軒として謹まれなければならない。「義理」は

「通」

じても

「語」がおかしい

「病」、「好句」を追求するあま-

「理」が通じない

「語病」-

欧陽修は詩と事賓との関係

における両極端を挙げているのである。

欧陽修は事賓に忠賓であ-さえすればいいと考えていた

わけではないことが確認されたが'しかし後席する詩話は'

「理有不通」の指摘だけを取-上げて'それに封する反語

を頼々と拳げている.

1連の反論が根嬢とするのは、賓際

に深夜に鐘を撞-ことがあること'過去の書物にもそれが

見られること、その二つにまとめられる。そこには文献資

(史書と唐詩)と昔時の事案とを等債に扱う態度が期せ

ずしてみられる。文献資料のなかでも史書と唐詩とがとも

に事賓を示すものとして同等にみなされている。つまり書

かれていることと規賓のことが直別されず、また歴史の言

説も詩の言説もひとしなみに事賓の記録として受け止めら

れていたことを示している。これは今日我々が文献の記述

と賓際とを、また史書と詩とを直別する態度とは隔た-が

ある。事賓であることの説得にはしばしば自分自身が髄験

112

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したことが語られるが、末代の詩許には自分が佳験してみ

て初めて詩が理解できたというかたちの評債が記されてい

るのも'それと通じるところがある。

末の詩話は半夜の鐘が事賓として存在していたか否か、

その間題に終始するものであって'もし事賓でないとした

ら'詩の解得にどのような意味が加わることになるか、そ

うした方向には説き及んでいない。しかしそこから新たな

詩の解梓が生まれていることが'五山の注輝からうかがう

ことができる。村上哲見

『漢詩と日本人』(講談融、一九九

四)'堀川貴司

「『三倍詩』注梓の世界」(『日本漢学研究』第

二壊

'一九九八)などに詳し-論じられているのを借-れ

ば、元の樺囲至

(鍍天隠)の注に、

霜夜客中愁寂。故怨鐘聾之太早也。夜半者、状其太早

而甚怨之之辞。説者不解詩人活語'乃以馬賓半夜。故多

曲説、而不知首旬月落烏噂霜満天、乃欲曙之候臭。岩鼻

半夜乎。--

(『槍注唐賢絶句三僅詩法』)

霜の降-た夜に族の身は寂し-'そこで鐘の音が早す

ぎるのを怨むのである。「夜半」というのは'早すぎる

ことを示す怨みの言葉である。詩人の

「生きた言葉」が

理解できない注稗は'賓際に寅夜中のことだと考えて'

様々な曲説を立て'首句の

「月落烏噂霜満天」が、夜が

明けようとしている時刻であるのに気付かない。本営に

夜中であるはずがない。--

ヽヽ

とあるのを承けた義堂周信は'天陰がもう朝が来たと解す

ヽヽヽヽ

るのとは逆に'眠れない夜がなかなか明けないと捉える

(『三膿詩幻雲抄』)のだが'「夜半」を賓際の時刻ではなく、

心理のもたらす錯覚を借-たレ-リックと見なしていると

ころは同じだ。さらにそこから尾ひれをつけて'中諦

(辛

は敵中)のように'妓女と密曾する約束を反故にされた寂

参の思いを張纏が唱

ったものだという解樺まで登場する

(『聴松和尚三膿詩之抄』)。五山の恰たちがこうした解輝を

生み出した背景には'異性を思って眠れないというモチー

フが定着していた相聞歌の土壌があって'詩歌に接する際

ー 113-

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中国文学報

第六十二冊

にそれが暗に作用を及ぼしていたのだろう。

五山の解樺が展開したこのような方向へ中国では向かわ

なかったようだが、しかし明代に至ると'「半夜鐘」が賓

際にあったか否かという末代の議論を

二親に無数にする新

たな意見が提起される。胡麿麟

『詩薮』外編巻四の一棟で

ある。胡癒鱗によれば'事賓か否かを巡って議論するのは、

昔の人にからかわれているようなものだという。「聾律之

調」'「興象之合」'それこそが詩にとって重要なのであっ

て'「直画たる事賓」に拘泥する必要はないというのであ

る。詩と事案のつなが-を否定する論は'『詩薮』のその

前の候にも繰-蓮されている。

葦蘇州

「春潮帯雨晩来急、野渡無人舟自横」。宋人謂

源州西潤、春潮絶不能至'不知詩人遇興遣詞'大則須禰'

小則芥子'寧此拘拘。擬人前政自難説夢也。

孝磨物の

「春潮

雨を帯びて晩来急な-'野渡

人無

-して舟自ら横たわる」について、宋人は源州の西潤に

は、春潮は絶封来ることがないという。詩人が詩興に巡

-合

って表現するのは'大なるものは須潤に至-'小な

るものは芥子に至るまで自由自在、こんなことにこだわ

-はしない。疲れ者の前で夢の話をするような、わけの

わからぬことである。

寺唐物の七絶

「源川西澗」'ことにその末句の

「野渡無

人舟自横」は名句としてと-わけ名高いものだが'それに

封しても、事賓との敵齢を難じる議論があったことを挙げ

て'胡療麟は詩に封するそうした態度を異っ向から否定す

る。胡鷹麟の詩学においては

「膿格聾調」'「輿象風神」、

それが根幹に据えられ'詩が事賓と

1致するか否かは問題

ではない'それがわからない人は詩がわからないのだ、と

いう立場である。

この論調は'詩観のうえではまった-異なる清の衰枚に

も共通している。『随園詩話』巻八にいう'

唐人

「姑蘇城外寒山寺'夜半鐘聾到客船」、詩佳臭。

114

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欧公議其夜半無鐘聾。作詩話者又歴畢其夜半之鐘以諾賓

之。如此論詩'便人夫閑性塞'塞断機括'豊非詩話作而

詩亡哉。

唐人の

「姑蘇城外寒山寺'夜半の鐘聾

客船に到る」'

この詩はよい。欧陽修は夜半には鐘の音はないと非難し、

詩話作者たちは夜半の鐘を列挙して賓.諾した。このよう

なかたちで詩を論じることは'性露を塞いでしまい'機

括を閉ざしてしまう。これこそ

「詩話生じて詩亡ぶ」と

いうものだ。

欧陽修の批判もそれに封する反駁も'いずれも詩を損な

うと断罪する。それは詩にと

って肝要な

「性塞」「機括」

を阻害するというのである。衰枚のいわゆる

「性量説」は'

胡摩麟が連なるところの前後七子の復古的立場を否定する

ところから生じているのだが'事賓

への拘泥を否定する黙

においては通じ合うところがある。それぞれが主張する概

念は違っていても'詩を言語外の現賓との関係で捉えるの

ではな-'詩内部の味わいを何よ-も重税するという鮎で

共通するのである。

以上に見てきたきたように'欧陽修が

「半夜鐘」は賓際

にはありえないと難じたことに射して'後席する末代の詩

話では文献と鰹験に基づいて反論を連ねていた。欧陽情の

指摘とそれに封する反論'どちらにも前提となっているの

は'詩は事賓と敵蔚してはならないという事賓優先の立場

である。但し欧陽修が必ずしも事賓偏重主義でないことに

は留意しておかねばならないがtと-あえずこの議論の展

開に限れば'欧陽修はそれを提起した最初の人であり、以

後の論はすべてその掌のなかで反論しているに過ぎない。

問題は彼らはなぜ詩と事責との関係に拘-始めたのか、そ

れは中園の詩の歴史のなかでどのような意味をもつかtと

いうことだ。

事賓を尊重する'ないし偏重するtという態度は'中国

ではもともとはなはだ根強いものであった。たとえば

『授

紳記』にこんな話が載

っている。魂の文帝は

『典論』のな

JJ5

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第六十二冊

かで

「火昆布」というものはあ-えないと断じた。ところ

がのちに西域の使者が

「火昆布」を賛際に献じるに及び、

明帝は石に刻した

『典論』のその部分を別-取ったtとい

(『三国志』巻四

「少帝紀」襲松之注)。しかしここで問題

とされているのは、『典論』という文のなかの、事賓と敵

齢する記述である。詩についても事賓を優先する見方があ

らわれるのは'末代まで待たねばならない。宋に至って突

如としてこうした議論が出てきたことは、この時期に詩軌

の大きな禦化が生じたことを示している。すなわち、それ

以前の'文学内部の規範が強固に存在していた時代にあっ

ては'詩句はその枠組みのなかで機能するものであるから、

それが賓際とどのような関係にあるかは'問題にされるこ

とはない。すべては文学的因襲と文学的環境のなかでのみ

成立しているのである。事賓との関係が問われるようにな

ったのは、文学を成立させていた強固な枠組みが緩み始め

たからだ。文学は日常と地頼きのものとして捉えられるよ

うになる。それが宋詩の日常化といわれるものであ-'文

学の俸続にはかつて取-上げられることのなかった素材'

感情'思考がどっと入って-るようになる。詩を囲

ってい

た枠が解催し、現賓との間に障壁がな-なったがために、

詩は事賓と

一致しているかどうかが問われるようになった

のである。

胡鷹麟が詩の

「輿象」を重視して'事賓とのつなが-を

否定したことは'詩を再び日常世界'硯賓世界と切-離し'

詩的感興が生動するもう

一つの世界へと戻すものであった。

とはいえ、それは唐以前の詩が文学的因襲のなかで自立し

ていたものともはや同じではない。文学的因襲のなかにあ

る讃者は、因襲の鰹系のなかに組み込まれている。讃者と

いう濁立した存在はな-'文学的因襲だけが自立している

のである。それに射して胡麻麟の唱える

「興象」は謹み手

と詩作品の間で感取されるものなのである。だからそれが

できない讃者は

「療人前政自難説夢也」と否定されること

になる。衷枚の

「性壷」説は中心とする概念は異なっても、

作品と謹み手の関係では同じである。いずれも話者が作品

世界から猫立Lt讃者自身が

「興象」な-

「性塞」な-を

馨勤しないかぎ-'詩の世界に入っていくことはできない。

F]F15]

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末代から明代

へのこの韓換は、詩観の歴史のなかで非常に

大きな埜化であったと認めなければならない。

詩と事賓とを合致させようとする宋人の議論を否定Lt

作品世界を硯賓世界とは別個に存在するもう

一つの世界で

あるとする胡歴麟

・哀枚の詩観は'今日の我々にと

っても

理解しやすいものである。しかし作品に自立した世界を認

めるにしても、胡磨麟や哀枚の立場とそのまま重ね合わせ

ることもできない。詩

(ことば)と硯賓との関係を今'

我々はどのように捉えるか、今日の言語観に即して'そこ

から

「半夜鐘」をめぐ

ってもう

一つの論が書かれなければ

ならないだろう。

(川合康三)

「作家と作品」、「詩識」'そして

「恐ろしい

-

作品が謹まれるということト

作品とは'多数の讃者の多様な謹みに封して開かれた存

在であるが、そのことによって本質的に不安定であること

を免れない存在でもある。作品は、いったん生み出される

や'不特定多数の讃者のさまざまに異なった讃みの視線に

さらされて、さまざまにその姿を襲える.作品に表現され

たメッセージが唯

一無二のものであ-、それが讃者のもと

へと謀議されずに博達されること'そのことを指して作品

の安定と呼ぶとするなら'作品とは不安定であることを運

命づけられた存在であると言

ってもいいだろう。

作品の不安定性は'例えば

『本事詩』瑚戯篇や

『唐放

言』矛盾篇に見える自店易と張砧との次のようなや-と-

にもあらわれている。張砧がはじめて自居易に出合

った時

なげう

のこと、自店易は張砧の

「鴛鷺の細管

何度に

'孔

雀の羅杉

阿誰に付す」という詩句を指して'犯罪者に封

する尋問だと言

った。すると張砧は自居易の

「上は碧落を

窮め

下は黄泉'両虎

正々として皆見えず」という詩句

を指して'日蓮の地獄めぐ-だと麿じた。張砧の詩句は妓

女の死を悼んだ

「感王将軍柘枝妓披」(『全唐詩』巻五二

)

と遺される詩の

1節'白居易の詩句は言うまでもな-

「長

恨歌」の

1節。互いに相手の詩を故意に曲解して戯れたの

- 117-

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中拭文学報

第六十二冊

である。これとよ-似たタイプの*l言が

『六

一詩話』にも

記されている。梅尭臣によれば、ある人は某氏

「贈漁父」

詩の

「眼前

市朝の事を見ず'耳畔

惟だ風水の聾を聞

-」という

一節を指して'肝臓と腎臓を患

ってでもいるの

かと言

ったという。いずれも笑い話にすぎないが、ここに

は作品の言葉がいかに不安定なものであるかがよ-示され

ている。例えば、張砧の詩句は亡き妓女の遺品を前にした

哀しみを'また梅毒臣があげる某氏の詩句は俗世を離れた

漁父の姿を表現した言葉として謹まれることを本来ならば

望んでいるはずなのだが、詩の題も見ずにそれだけを取-

出して謹めば、女性宅から奪

った盗品のゆ-えについて問

いただす取調官の言葉'また内臓疾患のため目や耳に牽調

きた

た人物をうたった言葉として謹むことは充分可能で

あり'作品の言葉はそうした線期せぬ謀議の危機を避ける

ことはできないだろう。

右の例は'本文=

テクスーの

一部分が取-出される場合

の意味俸達の不安定性を示すものであるが、たとえ本文全

髄が謹まれる場合であ

っても、作品はこの不安定性の危機

を完全に免れているわけではない。自覚的な作者であれば'

この種の危機を可能な限-未然のうちに回避しょうとする

だろう。そのために彼

(彼女)らはどうするか。テクスト

に、そのテクスIが本来位置づけられるべきコンテクスト、

つま-メッセージの意園やメッセージが生み出されるに至

った背景などについての説明を附け加えようとするだろう。

あるテクスIが誤讃もし-は曲解されるのは'単純な讃解

ミスを除けば'ほとんどの場合本来のコンテクストから逸

脱したかたちで謹まれているからである。(本来のコンテ

クス-などというものが本首にあるのか疑

ってみなければ

ならないが、ここではその鮎にまでは立ち入らない。)請

の題や序といったものは'こうして本来のコンテクストを

明示しょうとする配慮から生み出されてきたはずである。

右の張砧の詩や梅重臣があげる某氏の詩の

一節にしても'

「感王将軍柘枝妓穀」'「貯漁父」という題によって指し示

される本来のコンテクストに従

って謹まれる限-'盗人に

野する尋問の言葉'内臓疾患による身鰭の不調を訴えた言

葉として誤讃される危険性は'ほぼ完全に回避されるだろ

F]F]El

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1つ

O

LかLtすべての作者が常に題や序などを附け加えるこ

とによって作品のコンテクストを説明して-れるわけでは

ない。例えば'李商隙の艶詩。それは

「無題」と題するこ

とで'讃解のための指針を讃者に野して説明することを敢

えて避けている。李商隙の場合はなかば意園的にそうした

のだと思われるが、それとは異なって、コンテクスーを提

供することにもともと無頓着な作者'結果的にコンテクス

トをのこさなかった作者というのも数多-存在する。最も

端的なのは

『詩経』に収められる詩の作者であろう。『詩

経』の詩は題や序をもたない。私たちが現在目にする

『詩

(毛詩)』には題や序が附されているが、それは基本的

に後から附されたものであって本来のものではない。『詩

経』の詩の作者は'コンテクストの提供に無頓着であると

いう鮎において、私たちが通常考える作者というものの位

置から若干隔たった所に身を置いている。そもそも

『詩

経』の詩は題や序だけではな-、作者の署名を鉄-。作品

を支え、作品をとりま-コンテクストについての説明の機

能を拾うもの

(G∴ンユネッ-の言う

「パラテクスト」)のな

かで、題や序以上に重要なのは作者の署名だと思われるが'

(彼女)らは敢えて自らの固有名を作品に附け加えよう

とはしなかったのである。(

ただし、『詩経』には詩の本文

に作者自身の名が書き入れられたと推定されるものが少し

だけのこっている。例えば小雅の

「節南山」には家父'

「巷伯」には寺人の孟子'大雅の

「路高」と

「桑民」には

吉甫の名が'いずれも本文の末尾に本文の一部に組み入れ

られるかたちであらわれる。

一般的に作者の署名は作品の

本文=

テクスIの外部に位置するものと考えられるから'

これらの固有名はテクストの一部となっている鮎で'い

ゆる作者の署名とは若干異なると言うべきかもしれない

だが。)

『詩経』の詩における作者と作品の関係について考える

とき'清の勢孝輿

『春秋詩話』巻

Tが饗風の詩について述

べる次の言葉は興味深い。「風詩の襲'多-は春秋間の人

の作る所な---。然れども作者名のらず'述者作らざる

は何ぞや。蓋し昔時は砥

だ詩有-て詩人無し。古人の作る

- 119-

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中国文学報

第六十二冊

所'今人援-て己の詩と馬すべ-'彼の人の詩'此の人廉

ぎて自作と馬すべし。言志を期すのみ。人に定詩無-、詩

に定指無し。以て故に名のるべ-も名のらず'作らずして

作る」。作品は特定の作者に蹄層する作者固有の所有物で

ある-

こうした理解の枠組みをはずれた所に

『詩経』の

詩は位置しているのだと努孝輿は考えている。賓際'『春

秋左氏博』などには

『詩経』の詩を自由に採用するかたち

で意志を俸え合う外交上のや-と-が記されている。した

がって、努孝輿のように考えることも可能であろう。かつ

て作品は、作者の署名によって指し示されるコンテクスー

の支配を離れたかたちで'贋-不特定多数に使用されてい

た。つま-'作品は作者だけではな-、それを詠む

(請

む)者にも蹄屠する

1種の共有物であ

った。だから、作品

の帝展先をあらわす作者の固有名も必要とされなかったの

だtと。この考え方は今日ではなかば常識となって虞-受

け入れられていよう。(例えば願易生

・薄凡

『先秦雨漢文

学批評史』上海古籍出版社へ

一九九

〇tは'努孝輿の右の

尊言を引用しっつ

『詩経』解碍撃史を論じている。)

だが、たとえ

『詩経』の詩が作者の署名によるコンテク

ス-の支配を離れたかたちで流通するものであ

ったとして

も、作品のメッセージとして表現された

「志」を歪曲して

使用すること'「志」を謀議することは許されなか

ったは

ずである。『孟子』寓章上篇が

「詩を説-者'文を以て解

を害わず、静を以て志を害わず」と言うように。では'作

品の

「志」を正し-讃解するためにはどうすればいいか。

『孟子』高車下篇が唱える

「知人論世」とは、そのような

問いに封して提出された方策のひとつであ

ったと言

っても

いいだろう。詩を讃むためには'その詩を書いた

「人」す

なわち作者'更にはその作者が生きた

「世」すなわち時代

状況を理解することが必要だと孟子は言う。作者と、それ

に附随して作者の生きた時代状況に関する情報が、ここで

は作品を理解するためのコンテクスーとして求められてい

る。『詩経』の詩の作者たちは自身が作者であることを積

極的には求めなかった。彼

(彼女)らに作者であることを

求めたのは'孟子のような

「詩を説-者」すなわち後世の

讃者だ

ったのである。漠代

になると

『詩経』

の詩に序

120

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(『毛詩』序)が附される。それもやはり作品を謹む讃者の

立場から'作品に表現された

「志」の理解のために正しい

とされるコンテクス-を確定しようとする試みであったが'

ここでも作者という存在がクローズアップされるに至る。

孟子の言う

「知人論世」の賓践と言

ってもいい。例えば

『毛詩』序を見ると、固有名をあげて作者を指定するもの

が三十例ほどあ-、このほか官職名や

「君子」「国人」な

どの語によって指定するものも含めれば'全膿の三分の一

近-の作品について作者に言及する言葉が見える。『詩経』

解樺撃のなかで作者の指定は重要な課題となっていたこと

がうかがわれる。作品を支えるコンテクストのなかで主要

な位置を占めたのは'作者に関する情報だったということ

だろう。(無論'三分の

一という数は決して多いとは言え

ない。作者を明らかにしようと努めつつも'資料上の制約

もあってのことか、三分の二以上の作品についてはそれを

放棄しているのだ。)

右に見たように'

古-は作者自身が作品に署名すること

1般的ではなかったし、題や序によって作品のコンテク

ストを説明することにも積極的ではなかった。作者自身が

そういった配慮に自覚的になるのは漠代以降のことであろ

う。『詩経』の詩の序が作られ作品のコンテクストの探求

が行われた漠代は'謹者の側からだけではな-、作者の側

からも作者という存在が追求され尊兄された時代だったの

である。観音期になるとこうした自覚的な作者の存在は

盾明確なものとなる。そのことは、晋の陸機

「文賦」(『文

選』巻一七)に見える次の言葉からも確かめられる。「必ず

こと

支-普

擬する所の

らざれば、乃ち闇に

篇に合することあ

こころ

おそ

-。予が

梓軸すと難も'柁人の我に先んずるを

いやし

やぶ

あやま

-

も廉を

-

て義を

ば、亦た愛すと錐も必ず指

つ」。自分の文章の表現がたまたま他人のそれと同じにな

ることがあるが、その場合は敢えてその表現を棄て去るべ

きだと陸機は言う。努孝輿が

「古人の作る所'今人援-て

己の詩と馬すべ-、彼の人の詩'此の入唐ぎて自作と為す

べし」と述べるような作者とは異なって'自己と他者の直

別にあ-までも潔癖であろうとする作者'作品の唯

一無二

の蹄屠先であり所有者であろうとする作者、そういった作

I-I_71-

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中国文学報

第六十二筋

者の姿勢がここには表明されている。

このようにして'作者に関する情報は作品を支えるコン

テクスーとして必要不可鉄のものとな-、讃者は

(作品は'

あるいは作者はtと言い換えても同じことだが)作品の背

後に作者をめぐる物語を求めずにはいられな-なる。それ

が普然の権利であり義務であるかのように。なお'ここに

言う物語とは'創作=

フィクションという意味に必ずしも

限定されない。事賓の記録をめざすものと通常は見なされ

る史博の歴史記述もまた

1種の物語である。そして、作者

をめぐる物語のなかで最も中心的な役割を掩うことになっ

たのは

『史記』をはじめとする歴史書の文学者の博記であ

ろう。漠代に著された

『史記』の例えば屈原の俸記は、屈

原の

「離騒」をめぐって次のように言う。「屈平

王の聴

-ことの聴ならずして'読話の明を蔽い'邪曲の公を害し、

方正の容れられざるを疾み'故に憂愁幽思して離騒を作

る」。作品がどのようにして生み出されたのかへ作品の背

景をなす作者と作者をとりま-時代状況に関する情報を提

供するこの記述は'『毛詩』序に見えるい-つかのそれと

極めてよ-似通っている。つま-

『史記』の屈原侍は'屈

原という作者の書きのこした作品を讃解するためのコンテ

クスIの説明と言

ってもいいような性格を強-帯びている

のである。(ちなみに屈原

「離騒」もまた'テクス-内部

に作者の固有名が書き入れられた最初期の特異なテクス-

のひとつである。)

ここで私たちは次のように考えるかもしれない。文学者

は作品を書きのこすことによってはじめて文学者となる。

したがって'文学者の文学者としての侍記は必然的に作品

のコンテクストについての記述とならざるをえないtと。

賓際へ以後も歴史書の文学者の博記にはそういう要素が受

け継がれてゆ-。だがへ例えば後に正史と呼ばれることに

なる歴史書の文学者の俸記を概観するとき'右に見た

『史

記』屈原博の

「離騒」についての記述のように'個々の作

(と-わけ詩)のコンテクスーを説明して-れる記述は

意外にも極めて少ないものであることに気づく。ある作者

のある特定の作品のコンテクストを知ろうとしても、ほと

んどの場合それらの俸記は'必要充分な情報を輿えてはく

722

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れないだろう。正史の博という形式では個々の作品のコン

テクスIをひとつひとつ掬いあげることはできなかったの

かもしれない。おそら-'この映如を埋めようとして'特

に唐代以降'例えば

『朝野愈載』『隔唐嘉話』『唐国史補』

『劉賓客嘉話録』『本草詩』『雲渓友議』『唐扶言』『北夢頚

言』など、文学者とその作品をめぐるさまざまな逸話を記

した

一群の筆記小説は生み出された。(末代になると、こ

の流れを

一部汲むかたちで多-の詩話も生み出される。)

唐末の孟菓

『本事詩』は、そのなかでも代表的な著作の

ひとつである。まず'この著作が掲げる

『本事詩』という

題名に注目しよう。ここに用いられる

「本事」とは作品の

背景となる出来事、作者をめぐる物語を意味する。詩作品

の背景となった詩人の逸話を'作品を理解するために必要

なコンテクスIとして記述しょうとする姿勢が、この

『本

事詩』という書名には端的に示されている。唐の呉競

『禦

府古題要解』が劉孝威の楽府詩

「鳥生八九子」について

「但だ烏を詠ずるのみにして、本事を言わず」(ただし現行

本に見えるこのコメン-は呉萩の原本に後人が施したものであ

る)と述べるように、多-の場合作品のテクスIは

「本

事」という作品が位置づけられるべき本来のコンテクスI

を放いたまま議者の前にあらわれるのだが、その時やは-

読者は作品の背後に

「本事」を探ろうとする欲求を抑える

ことは難しい。こうした欲求に答えるのが

『本尊詩』であ

-'このほか作品の

「本尊」を記述する一群の筆記小説だ

ったと考えられる。ちなみに

「本草」とは'『漢書』重文

志が

『春秋左氏俸』について

「本事を論じて博を作-'夫

子は空言を以て経を説かざるを明かにす」と述べるように

「室言」ではない事賓の記録を志向する語である。史書の

侍の本文を指して

「本事」と言うこともある

(『史通』論

質)。「本末」とほぼ同義の語と言っていいだろう。その意

味でも'これら筆記小説はこれまで見てきた序や博の流れ

を汲むものである。筆記小説と史侍との関係については'

両者の類縁性を踏まえるならば多-を言う必要はないだろ

う。賓際'正史の記述が筆記小説に取-入れられるのはも

ちろんのこと、筆記小説の記述が正史

(例えば

「唐書』)の

博に取-入れられるなど'両者の関係は密接である。『唐

- 123一

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中国文学報

第六十二筋

国史補』という書名にしても

「国史」の補いであろうとす

る姿勢のあらわれである。

一万㌧序との密接な関係につい

ては次の例をあげよう。『本事詩』事感篇には元積の

「贈

貴明府」詩の

「本事」を記録する保があるが、そこでは元

積の督該の詩の序文が全文引用され'孟柴自身の言葉はわ

ずか十九字が加えられているだけである。元積の序文の記

述が首該の詩の

「本事」となっていると考えたからであろ

、つ0い

ま述べたように

『本事詩』をはじめとする筆記小説の

記述は'序や博と同じ-作品の本来のコンテクスト、すな

わち作品の背景をなす出来事の事賓の記録であることを

面で志向している。しかし'志向したからといって結果が

ともなうわけではない。したがって、次のような批判もし

ばしばなされた。例えば

『夢渓筆談』巻四は

『唐書』と

『本草詩』の李白

「萄造難」についての記述を比較して考

謹するなか、筆記小説というものの性格について

「蓋し小

説の記す所、各おの1時の見聞に得て'本末は相い知らず'

率ね舛諜多し」と言う。小説の記述は'理想的な

「本末」

-

「本事」の記録とはな-得ておらず信頼できないという

のである。(なお'『夢渓筆談』は

『唐音』の誤-も指摘し

てお-'正統的とされる史書の記述がすべて事案の正確な

記録であると考えているわけではない。更にもうひと言附

け加えるならば'このとき沈括が判断の稼-所とした李白

集中の

「章仇乗壇を刺った」とする記述も'今日の覗鮎か

ら見れば事案であるとは認められない。)今日でも、この

『本事詩』は

「詩物語」(狩野直喜

『支那小説戯曲史』みすず

書房、

一九九二)というようなとらえ方をされる。ここで

「物語」というのはフィクションという傾きを多分に含ん

で用いられていよう。確かに

『本草詩』に記される

「本

事」には'

一見すると事案ではないと思われるような記述

が多-'そのことは例えば次にあげる

『本事詩』情感篇に

見える戎豊の詩の

「本事」についても指摘されている。

戎豊はある妓女に思いを寄せていたが'その妓女を上司

の韓操に差し出さねばならな-なった。妓女と別れる際に、

彼は湖のほと-で宴席を設け詩を作

って妓女に贈-'その

詩を韓涙の前で詠ずるよう言い含める。後に、韓混のもと

- 124-

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へ行

った妓女が韓涙の前でその詩を詠ずると、韓操は戎豊

が妓女に思いを寄せていたことに気づ-。そこで結局'韓

操は妓女を戎豊のもとに拝してやった。問題の詩は

「題湖

亭」あるいは

「移家別湖上亭」(『文苑英華』巻三1六㌧『全唐

詩』巻二七〇)などと題されて俸えられるもので、次のよ

うにうたわれる。

「好し去らん

春風湖上の亭、柳保藤蔓

つな

すべ

離情を繋ぐ、責

久し-住めば

相い識-'別れんと

欲して頻-に噂-

四五聾」

。『本事詩』のこの候について、

例えば博旋環

「戎豊考」(『唐代詩人叢考』中華書局'

一九八

〇所収)は、この詩はその題と本文の内容から見て妓女と

の別れに際しての作とは見なせず、したがってここに記さ

れた

「本事」は事賓ではないとしている。(博氏は別の根

接もあげてこのことを論語しているのだが、ここではふれ

ない。)

だが、果たしてそうだろうか。このようなとらえ

方をするとき、ある種の線断が入-込んでしま

っている危

険はないだろうか。

確かに'戎豆のこの詩の現在博えられる題名

「題湖亭」

または

「移家別湖上亭」は'孟葉が記すような

「本尊」を

っき-と指し示してはいない。「移家」の語に着日すれ

ば'むしろ戎豊自身の引

っ越し、旗立ちを指すと考えるの

がふつうであろう。しかし'この

「本事」との間に決定的

な敵齢を来すとも言いに-いのではないだろうか。そもそ

『本事詩』の記述のなかにこの題名はあらわれないのだ。

些細ではあるが、この鮎には注意する必要がある。更に言

えば'この題がどこまでオリジナルを俸えているか疑

って

みなければならない。題は後世の讃者によって改愛されて

いる危険性があるのだから。本文についても'妓女との別

れの席で作られ'韓涙が戎豊と妓女との深い仲を察知する

に至

った詩の言葉として謹むことは充分可能だろう。この

詩でうたわれているのは、湖のほと-から立ち去-がた-

別れを哀しむ者の思いである。この詩を聴いて戎星が妓女

に思いを寄せているのが分かったとあることから'私たち

はこの詩のテクスト内の蓉話者として戎呈自身を想定し、

彼が妓女に寄せる思いがテクスト内に直接書き込まれてい

るものと思ってしまいがちだが

(また'そう思

って謹む限

-博氏と同様の結論にたどりつかざるを得ないが)、必ず

125

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中国文筆報

第六十二筋

Lもそうである必要はないだろう。戎豊が妓女になり壁わ

って、妓女の思いを代梓するかたちで書いた

(そして、そ

れを韓操の前でうたわせようとした)ものとも考えられる

のではないか。つま-'戎星が妓女に寄せる思いがテクス

ト内に直接書かれていたからではな-'戎豆のもとを立ち

去-がた-別れを哀しむ妓女の思いが表現されていたから'

あるいはそういう思いを表現した詩を戎星が書きそれを妓

女が思いを込めて詠じたから'だから韓操は二人の仲を見

抜いた-

そのように考えることも可能ではないだろうか。

(ついでにひとつの想像を附け加えると'ある作品の本文

をさまざまなコンテクストに鷹じ題を襲えるなどして繰-

返し使用する、というようなことも賛際には行われたかも

しれない。戎豆のこの作品の場合にも'本来は戎豊自身の

「移家」にともなう留別というコンテクストのもとで書か

れたのだが、それを妓女の放立ち'妓女との別れというコ

ンテクストにおいて再使用した可能性を想定できないだろ

うか。)

だが、わざわざ附け加えるまでもないことかもしれない

が、右の

「本手」がフィクションか否かはいまとなっては

確かめるすべがないし'この場合それを論ずることにあま

-意味はない。むしろ'ここで指摘したいのは'先に自店

易と張砧とのや-と-'梅尭臣の饗言などを例に確認した

作品の不安定性'それと同じものが戎豊の詩の讃解をめぐ

っても露出せざるを得ないということである。すなわち'

「本草」=

コンテクスーの設定の仕方次第で、作品はさま

ざまにその姿を襲え得るということ。同様のことは'「詩

識」という現象においても指摘できるように思われる。

「詩誠」すなわち詩による確言とは、ある作品に表現さ

れたメッセージが後に現賓化する'あるいは現賓化したよ

うに見えることを指して言う。例えば、唐の武元衛は

「夏とど

夜作」(『全唐詩』巻t三

七)と遺して詩を作-

「清景を

よし

・王

るに

し'日出づれば事

た生ぜん」-

すがすがしい

夏の夜の時間を止めてお-ことはできず'夜が明ければま

た煩わしい

「事」に追われるのだろう'とうたった。翌朝'

武元衛は殺害されてしまうが、この詩句が不吉な務言すな

わち

「詩識」となったのだと'後に唐詩人の侍記

『唐才子

- 126-

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俸』巻四は言う。この詩が作られた時鮎では'ここに述べ

られた

「事」が武元衛の殺害を意味することになるとは誰

しも思い至らなかっただろう。本来そのようなコンテクス

トのもとに書かれた詩ではなかったはずだから。この詩句

が武元衡の殺害を準言するものであったと人々が考えるに

ったのは'詩が書かれた後'作者の武元衡が殺害された

後のことである。このように、「詩誠」とは多-の場合、

作品が書かれた後の時鮎になってはじめて構成されるコン

テクスIへと昔該の作品を置き換えて謹むことによって成

立するものである。作品が作者の手元を離れた後'言い換

えれば本来のコンテクス-の支配を離れた後の時鮎の讃者

であるからこそはじめて許される特殊な作品の謹み方'そ

れが

「詩識」と呼ばれる現象だと言ってもいいだろう。

もちろん'作者もまた自らの作品を謹む護者のひと-で

ある。いま

「詩識」とは後の時難の讃者による'後の時鮎

での詩の讃解に関わる現象だと述べたが、後の時鮎の讃者

のなかには作者自身も含まれる。例えばへ播岳は

「金谷集

作詩」(『文選』巻二〇)のなかで石崇との永遠の友情を誓

って

「自首

締する所を同じうせん」とうたった。後に'

この詩句が不吉な確言ででもあったかのように、播岳は石

崇と同じ刑場で虞刑される。『世説新語』仇陳篇や

『青書』

藩岳博の話者はこれを指して

「詩識」だと言うが'こうい

う見方

(謹み方)をしているのは作者の播岳自身でもある

だろう。『世説新語』や

『青書』によれば'刑場で庭刑を

前にした播岳はこの詩句を思い起こして石崇に語-かけて

いる。作者自身、自らの過去の作品が、思いもよらない姿

で目の前にあらわれたことに不意を衝かれて驚き'感慨を

催しているのである。換言すれば'作者自身が'かつて自

らが想定した本来のコンテクストとは別のコンテクストの

なかに自らの作品を置き直しへ別のメッセージを表現した

テクストとしてそれを謹み返しているのだ。作品は本来の

コンテクスト

(だが繰-返せばうそのようなものが本昔に

あるのだろうか)のなかに安住しない。常に別のコンテク

ストのなかに身を移し換え'別の姿にな-愛わろうとする。

自身の作品であ-ながらも'自身の想定を超えた所で別の

姿に埜わ-果ててしまった作品の不安定な振る舞いに封す

727

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中国史学報

第六十二筋

るとまどいを含んだ驚き-

播岳の

「詩識」をめぐる物語

が私たちに語って-れるのは'自らの作品の不安定性に直

面した作者という存在についての物語であるのかもしれな

\0

作品の

「本事」すなわち作品のコンテクストをめぐる筆

記小説や史博の一群の記述は'作品がいかに書かれたか'

作品の制作のあ-方を俸える資料であると同時に、作品が

いかに謹まれたかへ作品の受容

・讃解のあ-方を俸える資

料でもある。(ふつう前者の資料として扱われることが多

いが、第

1義的にはむしろ後者の資料として扱われるべき

だろう。)そこから浮かびあがって-るのは'作品という

ものが多様な謹みを招かずにはいられない存在であ-、そ

してまた多様な讃みの視線にさらされるが故に揺れ動-こ

とを免れない存在であることである。作品はコンテクスト

によって支えられることを求めるが、しかしコンテクスト

の設定次第でどのようにもその姿を襲えられてしまう.

「寄託」や

「比興」といった中国文学に特有の表現のメカ

ニズムもこのうえに成-立っている。もちろん'これを指

して多様な讃解を許容する作品の豊かさと言うべきである

Lt文学の普遍性というものもこれによって保護されてい

よう。だが同時に'それはしばしば

「附合」を招き寄せ、

例えば蘇軒が巻き込まれた筆禍事件に見られるように'政

治的な力による作品の弾墜さえも引き起こす。作品がそれ

白檀で他の支えを借-ずに存在すること'自己完結的で唯

一無二の固有性を備えた存在であること、そのことを指し

て作品の自律

(自立)と呼ぶとするなら、ここから浮かび

あがって-るのは作品の他律=

非自律性とも呼ぶべきもの

である。

だから'文学作品とは'じつは極めて脆弱な側面をもつ

存在であると考えなければならないのだろう。では'この

理解のうえに'例えば

「恐ろしい文学

(文学は恐ろしい)」

という命題を重ね合わせるとしたらどうか。果たして文学

は本営に恐ろしいのだろうか。確かに文学は恐ろしいもの

なのかもしれない。しかしそれは'文学が強固で安定した

自律的な存在であるからではないだろう。この鮎を確認し

てお-必要がある。先に引いた

『漢書』重文志の言葉を借

72g

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-て言えば'おそら-文学は

「空言」にすぎない。不安定

で弱々しい

「空言」であるからこそ'文学は自らを支え、

自らを満たして-れるコンテクスト=

物語を求めるが、ひ

とつの物語に安住することができず、

謹者に封して次々と

新たな物語を要求する。「恐ろしい文学」という命題もま

た、そのような物語の言説のひとつとして組み込まれ'消

費され、やがて見捨てられてゆ-ことを免れないだろう。

文学は自律

(自立)できない'弱-不安定な存在である。

私たちひと-ひとりの人間存在がそうであるように。だか

らこそ、文学は恐ろし-'また敢えて言えば魅力的なので

はないだろうか。

(浅見洋二)

「作家と作品」1

滴仙人と呼ばれた李白-

長安に出てきた李白は'賀知章の訪問をうけ

「萄遭難」

をさしだしたところ'涌仙人と呼ばれて絶讃された。この

話は'唐末の

『本事詩』に書き留められて以降、五代の

『唐放言』や元の

『唐才子停』に受け継がれることによっ

て、ひろ-知られるところとなっている。しかしわれわれ

がよ-知っている、このような唐末の小説から出た話は、

もとをたどってゆ-と往々にして草書とは食い違っている

場合が多い。まずはこのことに言及するい-つかのテキス

トを時間の順に追うことによって'話がどのように構成さ

れていったか'ひととお-見てゆこう。その過程のなかで、

事賓とは認められない要素がどうして入-こんでくるのか、

考えてみることにしよう。

李白が賀知章から涌仙人と呼稀されたことについては、

李白本人がそのことを述べている。諦仙人という名は彼自

身のお気に入-だったようで'自作の詩のなかにしばしば

日柄するところであるが、なかでも

「封酒憶賀監」詩

(tl

首の一)ならびに序には、このときの様子が最も詳細に記

されている。序には

「太子賓客賀公、長安の紫極宮に於て、

余を

一見し、余を呼んで詞仙人と為す。因って金亀を解き'

酒に換えて楽しみを為す」と、詩には

「四明に狂客有り'

風流の賀季異。長安に

lたび相見て'我を詞仙人と呼ぶ」

- 129-

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中国文学報

第六十二筋

とそれぞれ述べている。

これによれば'場所は長安の老子

「紫極宮」で'道教という共通の背景をもっこの大先輩

の詩人は、初野面で彼の風貌を見るな-

「詞仙人」と呼ん

だのであ

った。「長安紫極宮」とは、『李白全集校注嚢梓集

評』(百花文蛮出版社'一九九六)によれば'京兆府紫極言の

別稀または正名で'おそら-長安城内の長安願所轄直内に

ったもののこと'従来

「西京太清宮」とされているのは

読-であろうtということである。天賓二年

(七四三)≡

月の詔によって'西京

・東京

・天下諸郡の玄元皇帝廟が'

新たに

「太清宮

・太微宮

・紫檀宮」とそれぞれ改構されて

いた。なお、「封酒憶賀監」詩は'賀知章の没後に彼を偲

んで書かれたもので、唐瑛

『李白詩文繋年』(作家出版社'

一九五八)は天賓六載

(七四七)に懸けている。

さて李白に績いてこのことを記録するのは'彼と親し-

交わ-を結んだこともある杜甫である。安緑山の謀反の際'

李白は永王燐の起兵に参加したかどで罪に問われ'いった

ん稗放されたものの'ふたたび夜郎に流されることになる。

ときは乾元二年

(七五九)'常時秦州にあ

った杜甫が李白に

宛てた

「寄李十二日二十韻」詩には、彼

への思いを'自身

の見知

った詩人の半生記とも言うべき記述のなかに描きだ

している。その冒頭に

「昔年

狂客有-'爾を滴仙人と渡

す。筆落つれば風雨を驚かし、詩成りて鬼神を泣かしむ。

聾名

此よ-大き-'滑没

一朝に伸ぶ。文彩

朱握を承け'

流俸必ず倫を絶つ。龍舟

樺を移すこと晩-、獣錦

袖を

奪うこと新たな-」と'賀知章による滴仙人の呼稀をき

かけに、彼の榊に入

った創作ぶ-が話題とな

って、不遇で

った彼が

1朝にして宮仕えするまでになったことが述べ

られている。このあと'杜甫自身が彼と出合い楽しいとき

をともにしたこと'安緑山の乱を経ていま繋がれてあるさ

ま'それに封する粁護の気持ち、と順に述べられてゆ-の

だが'李白の人生がひらける発端のエピソードとして'こ

の十数年前の話を位置づけて語-起こすのである。李白の

記事が'滴仙人という呼稀を得たことの得意さ'賀知章と

のよしみを言うことに重鮎があるのに封して、この杜甫の

記事は'涌仙人の呼稀をき

っかけに出世の道がひらけると

いう'事柄を理解するうえでの文脈が用意されていること

- 130-

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に気がつ-が'これには詩人の半生を四十句二十韻のなか

に描きだす、杜甫の書き方がひとつの要因としてかかわ

ている。

ところで'この杜甫の停える李白の就職にいたる経緯は'

詩のなかにも解れられるように'離職して長安を離れた直

後にふた-が出合いtLばら-の親密な交遊のときをも

ていることからしても、出庭にかんしてはこれ以上ない確

かなものである。しかし、その内容については、これも李

白と交わ-のあ

った魂寮の俸えるところに擦れば、賓際は

もうすこし違

ったものであ

ったようだ。

貌寅は、かつて李白から手稿を手渡され編纂するように

依頼されたが、安史の乱で散逸して約束を果たせずにいた

ところ、上元末年

(七六1)にたまたまこれを得て刊行し

た。そこに付された

「李翰林集序」には'自身が科挙に登

第した喜びとともに'刊行の経緯がそのように述べられて

いるが'李白の就職の経緯にも次のように言及している。

李白は久し-峨眉山に居たが、友人の造士

・元丹丘ととも

に玉異公圭によって推薦された。李白はまた玉異公圭によ

って翰林に入ったと。これが章際のところであろうと現在

認められている説だが、とするとさきに杜甫が言

っている

ようにみえた'涌仙人の呼稀が就職に直結したかどうかに

ついては'じつは不確かである。それはことのある見え方

を述べた話と言えようか。ひとびとの間ではそのように言

われており'杜甫もそれを採用したというところであろう

か。さて魂寮の序にも滴仙人の話は記されていて、これが

ひろ-知れた話だということがわかるが'ただこの魂薪序

における扱いは'杜甫とはやや違

っている。というのは'

李白が翰林に入ったという記述の後に積けて

「名は京師を

動かす。大鵬膿は時に家ごとに

一本を赦す。故に賓客賀公

白の風骨を奇とLt呼びて滴仙子と為す。是に由-て朝廷

歌を作るは数百篇」と言い'これを素直に謹めば'嫡仙人

の呼稲が就職後のことのように見えるからである。魂寮の

書き方が時間の先後に頓着していないということだろうか。

こうしたことについてもうすこし考える材料を提供して-

れるのは'貌寮序の翌年に書かれたもうひとつの李白文集

の序である。

- 131 -

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中囲文筆報

第六十二筋

賓歴元年

(七六二)に篤い病の床にあ

った李白は、枕上

で草稿寓巻を手ずから李陽妹に授けて序を書-ように依頼

した。その

「草堂集序」には'李白の家系から文学の指向

へ、さらに宮廷に召されて以降の経歴へと筆が進められて

ゆ-のだが'話仙人の話については'翰林に入ったあと同

僚の誹諸によ-帝に疎んじられ'飲んだ-れてさまよった

という記述に緯けて

「又た賀知章

・崖宗之等と'自ら八仙

の遊を為し'公を詞仙人と謂う。朝列

滴仙の講を賦すこ

と、凡そ数百首。多-は公の意を得ざるを言う」と述べら

れている。翰林に入ったあとにこの話題が配され、朝廷の

詩人が彼のために歌を作

ったという文脈は魂穎序とおなじ

だが'ここではさらに

「八仙の遊」というもうひとつ別の

話柄のなかに詞仙人の話が組みこまれるように'さらに饗

化を被

っている。「八仙の遊」といえば杜甫の

「飲中八仙

歌」がすぐに思いあたるが'杜甫自身も虹に昔時ひとびと

のあいだで稀されていたものをもとに書いたと考えられて

おり、その鮎では必ずしも李陽妹の記述の信悪性を云々す

るものでない。李白は賀知章のほかにもうひと-名が拳が

る荏宗之とも詩のや-とりをしてお-'ここで

「自ら八仙

の遊を馬」したというのは、時人に

「八仙」と稀されるそ

うした酔狂な交遊をみずから任じて馬していた、というよ

うな意味であろう。「公を詞仙人と謂う」とは、その交わ

りのなかで李白を詞仙人と呼んでいたtというほどの意味

で、したがってこれをもって賀知章による涌仙人の命名が

就職後のこととする根接にはならない。宮廷の詩人が彼の

ために歌を作

った話も'ここでは

「嫡仙の講」で'李白の

不満を言ったものだ、というように髪わっている.事後二

十年経って書き留められるこれらふたつの文集序の記述に

は'それぞれい-つかの話題が絡みあってそのひとの経歴

が形成されてゆ-様子が窺え'ここからことの起こった時

期も含め尊書がどうであったかを云々するのはなかなかむ

ずかしいことのように思える。詮索はこれ-らいにしてお

こ、つ。

次に滴仙人の話題を記録する文章が現れるのはtLばら

-時間を経たあとのことである。ときは元和十二年

(八一

七)、宣

・欽

・池等州の観察傍として赴任していた苑博正

132

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は'李白終蔦の地である普塗へ李白の孫女を訪れ、その言

うところの遺志によって墓を移した。その際に書かれた

「唐左拾遺翰林学士李公新墓碑序」に、やはりこの話題に

も言い及んで

「長安に在-し時'秘書監賀知章

公を渡し

て滴仙人と為す。公の烏棲曲を吟じて云う'此の詩は以て

鬼面を失せしむべLと」と述べ'以下

「酒中八仙」の話

と績いてゆ-。ここで注目されるのは'この話題にはじめ

て作品名が加わっていることだ。これについて考えるため

には'杜甫の

「寄李十二日二十韻」詩に戻らなければなら

ない。それは詞仙人命名をいう杜詩冒頭二句に績いて

「筆

落つれば風雨を驚かし、詩成-て鬼神を泣かしむ」と述べ

られていたところである。ここは'賀知章による涌仙人の

呼稀をき

っかけに、李白の一気吋成の'柵に入った創作ぶ

-が話題となって、有名になってゆ-tという文脈で謹ん

だ。しかし、この蒋俸正の記述に擦れば、この二句がその

まま賀知章の聾吉の内容として括弧で括られねばならない

ことになる。ふたとお-の取-方はいずれも可能であ-、

いずれと決する決め手があるわけではない。しかし、これ

は名作

「烏棲曲」をめぐって生じた話題であると考えたい。

箔俸正は、杜詩から生じた話題を'そこに書き留めている

のであろう、と。この苑俸正の文章が興味深いのは'彼の

出生が李白とは

「甲子相懸た-」ながらも'たまたま父の

文集中に李白と唱和した詩を見

つけて、これは

「通家の

奮」だと親近感をおぼえ、そこで人間よ-彼の遺篇逸句を

拾いつねづね口ずさんでいた'という詩人と作品に酎する

意識や行動が記されている鮎である。李白没後五十年の昔

時、この半世紀という時間は'そのひとが確かに賓在した

ということをまだかろうじて賓感できる時ではあっただろ

うが、苑俸正はそのうえに自分の知

っている肉親の思い出

を重ねて'李白を思い描くことができたのであろう。

このあと曾昌三年

(八四三)に書かれた装敬

「翰林学士

李公墓碑」にも涌仙人の話は記される。そこでは李白の墓

にたち寄

った彼がその才を愛でて墓碑を作る旨が述べられ

たあと、詩人のひととなりについて、常人と異なるのは

「或は日-、太白の精

下降す、故に字は太白な-と。故

に賀監渡して詞仙と為すは'其れ然らざらんや」と'太白

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中国文筆報

第六十二冊

の精が降

ったものだからとして、滴仙人の話へと繋げられ、

その呼稀もも

っともだと括られる。ここでは詩から感じら

れる

「天上物外に在-て'神仙曾集'雲行鶴駕'瓢然の状

を想見するが若き」印象にしたがって、その詩人像が形成

されるようだ。

以上のような段階を経て、冒頭の

『本事詩』の話となる。

鑑にお気、づきのことかと思うが'ここまでの記述に

「萄遭

難」は出てこない。光啓二年

(八八六)の序をもつ首書に'

はじめてこの作品は登場し'重要な役割を果たすことにな

る。

やど

李太白'初めて萄より京師に至-'逆旗に

。賀監

はじ

知章、其の名を聞き'首めて之を訪う。奴に其の姿を奇

とLt復た為る所の文を請う。萄道難を出し以て之に示

す。讃みて未だ尭らざるに'稀歎すること教四'壊して

涌仙と為す。金魚を解き酒に換え'輿に傾けて醇を蓋-

まじ̀

す。期するに日を聞えず。是に由りて稀替光赫た-。賀'

又た其の烏棲曲を見、歎賞苦吟して日く'此の詩は以て

鬼神を泣かしむ可Lと。故に杜子美

詩を贈-て蔦に及

べ-0

箔博正の墓碑序から七十年'蓑敬の墓碑からは四十徐年

の年月を経て'この記述のなかでは'苑俸正が感じること

ができた詩人の賓在感は鑑に抜け落ち'その代わりにと言

うべきか'事柄のディテールにさまざまな説明が加えられ

ているのを見ることができる。その最大のものは'涌仙人

の呼稀にさきだって、賀知章に

「萄遭難」を謹ませている

鮎である。そもそも最初の話はどのようなものであったか。

李白本人の記述に戻

ってみる。彼は'賀知章が

「余を

一見

Lt余を呼んで詞仙人と為す」と述べていた。この話は'

後漢以来の人物評論に端を費する'あるひとが世に出よう

とする際に有力者の鑑定を得て'その評語が滑乗の出世に

おおき-開輿する風習を思わせる。鑑定の妙味は'それが

瞬時に行われ、しかも本人にぴった-の評語にあらわされ

るところにあった。またそれがゆえに風乗というものは'

- 134-

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われわれが思う以上に重要な債値をもっていた。王堵

「文

人輿薬」(『中古文人生活』上海実株出版社'一九五T、『中古文

学史論集』上海古典文筆出版社へ一九五六'『中古文筆史論』北

京大学出版社'1九八六)には'後漢の郭泰や許勅の話をは

じめとする多数の事例とともに'このことが詳述されてい

る。また曹操が許勅に

「治世の能臣'乱世の姦雄」(『三国

志』巻

1「武帝紀」斐注引孫盛異同難語)と許された話などは'

この人物評の最もよ-知られた例であろう。王滝によると、

この風は六朝時代を通じて行われていたというが、いまこ

の李白の例を見ると'なお唐代にまで息づいているようだ。

その風が賓際に行われているということと、それを語る話

の型がなお存積しているというふたつの意味において。

それでは

「滴仙人」という名づけの意味についてすこし

考えてみよう。これを

「仙人のようだ」と言ったらご-午

凡な名である。「誠」それ自鰹はよ-ない意味の語である

が'神仙世界からの流滴であるとして

「仙人」に冠するこ

とにより、仙界の無上の債値とあわきって'われわれ人間

の側からすれば慣値的なことば

「滴仙人」に特化したもの

である。人間であ-ながら'本来は仙人であるtと目には

見えない債値を身に纏ったことを、ここで李白はよろこん

だわけだ。それは紳仙界からみれば不本意な'反債値的な

名であるが、人間界に轄ずれば

「すねにきずをもつ」のが

素性の諾Lでもあ-却

って動章にもなって'かつ仙界の

「わる」の匂いも漂わす。「天上から落ちてきた男」とは

確かにかっこうがいい。この意味の重層性は、例えば、こ

れをきっかけとして'天上から放逐された李白が'人間界

では、これまた神仙世界にしばしば模される宮廷に、逆に

召し抱えられるようなことにもなってゆくtというところ

にまで及んでいる。さらに言えば、宮廷に入った李白が同

僚の議言によって放遺され'人間界でもおなじ憂き目にあ

うというような

「おち」までついて。ときはあたかも唐王

室自憶が老子を租として'みずからを道教の神々の系園に

組み入れようと董策していた時代である。開元年間の終わ

-にかけては

『道徳経』の御注御疏が完成し頒示され'開

元二十九年

(七四1)には西京

・東京

・天下諸郡に玄元皇

帝廟が設けられる。同年'玄宗皇帝自身の夢のなかにあら

135

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中国文学報

第六十二筋

われた老子の玉像が模観山間よ-出土し、明-る天賓元年

(七四二)には田同秀なるものによって玄元皇帝の降臨が

幻視され'その言のとお-函谷散開の平喜董よ-蛋符が尊

兄される'というようなことが起こる。このように世を挙

げて玄宗の道教信仰から生じた幻想

へと投じてゆ-熱い雰

囲気のなかで、「滴仙人」の名があたえられたことを考え

ると、李白のよろこびようもいかばかりであったか。しか

しそれにしてもなぜ賀知章はわざわざ

「滴仙人」というこ

とばをとっさに選んだのであろうか。「詞」ということば

がどうもひっかかる。これについては李白の漂わせる雰囲

気が開輿しているに違いないが'ここで思いあたるのは、

李白の家系をめぐって'先租が

「罪に非ずして'修支に涌

居」したという'李陽泳

「草堂集序」の記述である。家族

「紳龍の始め

(七〇五)、局に逃蹄」したとき'李白は鑑

に出生していたとみられ、すなわち自身の記憶にはな-と

も'遠-おそらくは危険な族をして萄に流れ着いた家庭の

雰囲気というものは'幼少時の李白の人格形成におおきな

影響を及ぼしたであろう。「罪に非ず」と言うもののそれ

は何らかのとがであるに相違な-'いずれにしても遠地に

「摘居」した、この家系の

「きず」が'李白本人の意識に'

そして風貌にも纏われていたのではなかろうか、と想像す

る。その負の刻印をとらえ'瞬時に翻してよい意味に縛じ

たとしたら、賀知章の感覚が抜群であったことになる。李

白のよろこびも'自分の存在が認められ'宿年の劣等感が

捕われたからこその歓喜ではなかったか。「詞仙人」とい

う語は'「妃諭された仙人」という観念とともに既に六朝

時代よ-あ-'李白の例が最初であったわけでは決してな

いが、このように見て-ると'まさに李白のために用意さ

れたかのような呼稀であ-'のちに

「詞仙人」といえばこ

の事例をまず思い起こすことになるのも合鮎がいこう。

ともか-、この賀知章の呼稀は、そのひとの美質を言う'

人物評論のオーソドックスなあ-方ではな-、規格にはず

れていることを言うもうひとつの方向においてなされたも

のであ-、それが逆に仕官に結びつくというように撃化を

遂げながらへ語-つがれることとなった。李白本人のテキ

スーと、杜甫以降のテキストとの間には'事柄のみを記す

Jjd

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のとその文服を用意するのと、ひとつの断層があるかに見

えたが'じつは杜甫もよ-古い物語のコンテクスーによ-

つつ書いていたことになる。杜甫のテキストが事案を忠賓

に俸えていたと考えるのはわれわれの思いこみであ

って'

杜甫が倦えているのはこうした物語の枠組みをとおして見

える、ある物事の見え方であるへということになろうか。

この

『本事詩』の話が妙に気が抜けているのは、そのひ

との能力を瞬時に観'資質を言いあてるという、人物鑑定

の妙味が作品を介在させることでだいなしになったためで

あるがtでは賀知章に

「萄遭難」を謹ませる話が付け加え

られることによって、どのような新たな意味を話に加える

ことになるのか。有力者に詩が投ぜられるのは、就職の事

前運動として作品を献呈する

「行巻」の風習を思わせる。

科挙の受験者はあらかじめ自作を

一巻にまとめて'合格の

可能性をたかめるため、ときの有力者に投ずることが行わ

れた。この

「行巻」の風習については'程千帆

『唐代進士

行巻輿文学』(上海古籍出版社、一九八〇)に詳し-述べられ

ている。とすると'人材の登用にあたって風栄や評判を基

準にするのと、詩や文における才能を重んじるのと'話の

讃解にあたってこの百数十年の間に断層が生じている。こ

れは融合構造やひとびとの意識において起こった撃化と関

係、づけられるものかどうか。ことはそんなに単純なもので

もあるまいが。さてそれでは'ここに関係づけられるのが'

他の作品ではな-て、どうして

「萄遭難」でなければなら

ないのか、考えてみる。これについては、同時代の

『河岳

英塞集』に

「萄道難等の篇の如きに至

っては、奇の又た奇

と謂う可し」と挙げるのによっても、代表作としてよ-知

られていたことが大前提となるが、そのうえでこの詩の含

意がおおき-開輿している。含意というのは'葛の地

へ功

名を求めて旅立

つひとへ'そのむずかしさを道中の険難な

地勢にたとえて一軍っもので、楽府題の歴史をたどれば'陳

なん

の陰鐙が

「萄道の難きは此の如し'功名は

要む可けん

や」(「萄遭難」)と述べるのによっても、また李自作の解樺

をめぐ

つては中庸の挑合が

「李白

萄道難し'蓋て為す成

る無-して締るを」(「迭李鎗及第韓萄」)と、李白の生平を

それと封照的ないまの友人の境遇に比して述べるのによっ

137

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中国文学報

第六十二冊

ても'これが常時のひとびとの共通認識であ

ったことがわ

かる。道行きのうたが人生行路の困難さの比愉であるとい

う認識は'楽府

「行路難」をはじめ古い時代から文学俸続

のなかに息づいていた。とすると、この人生における出世

の得難さを嘆いたtとされる作品

「萄遭難」がこの場に組

みこまれることで'それが有力者の承認によって'彼の賓

人生において逆に作品に書かれた状況自性を乗-越えさせ

るき

っかけともなるtという逆説的な展開をもたらすこと

になる。そうした面白みを物語に添えている。このような

話の展開に鷹じて'「初めて萄よ-京師に至-、逆族に舎

る」と'故郷の苛からはじめて長安に出てきたばか-であ

ると状況設定が行われ'常初の布衣のさまを際だたせ、の

一樽して葉巻を得るはなばなしさが演出されるのが見て

とれる。賓際には、この天質時の上京が李白にと

って最初

のものでな-、これ以前に都を訪れていたことは確かであ

-'「萄よ-」とあるのも含めて'ここに言われるのは話

の脚色にすぎない。

作品が組みこまれたあと'その含意にしたがって話が潤

色されてゆ-様子は'このあと五代の

『唐放言』において

よ-穀かである。そこでは

「李太白、始めて西萄よ-京に

至-'名

甚だし-は振わず。因-て業とする所を以て賀

知章に賛謁す。知章、萄道難

1篇を寛て'眉を揚げこれに

謂て日-'公は人世の人には非ず、是れ太白星の精ならざ

る可きゃ」と、葛から出てきた詩人の不遇が

「名

甚だし

-は振わず」とことばに表され、また

『本事詩』で賀知章

から訪ねたとしていたのを、みずから手みやげを持参して

訪れ'作品をさし出したと改めている。「眉を揚げ」驚い

たという措寓も脚色の痕があらわである。『本事詩』の李

白に除裕があったのに比べると、こちらはみずから不遇の

状況を切-開いてゆこうとするふうであ-'なにやら科挙

の受験生めいているのは、編者の王走保が唐末の進士で'

この書が唐

1代の貢拳のことを細か-記載するのと関係が

あろう。さらに元の

『唐才子博』では

「天賓初'萄よ-長

安に至-、道いまだ振わず、業とする所を以て賀知章に投

ず。謹みて萄遭難に至-'歎じて日-'子は涌仙人な-と。

乃ち金亀を解き酒に換え、終日相い楽しみ'遂に玄宗に薦

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めらる」と、『本事詩』の話の配列にしたがって'ところ

どころ書き方は

『唐披言』のを抄

っている。問題の箇所に

ついて言えば、『本事詩』では賀知章から

「為る所の文を

請う」とあ

ったのが'『唐妖言』では

「困-て業とする所

を以て賀知章に賛謁す」と愛化し、いままた

「業とする所

を以て賀知章に投ず」と、遂に

「行巻」の自作を投ずる行

為が言われることとな

った。しかも

「讃みて萄遭難に至

-」とあるように'賀知章が謹んでいるのはよ-ながい編

纂物だということが明らかになっている。また

「天賓初

--遂に玄宗に薦めらる」と、事柄の起こった時期やこと

の顛末などについての説明が首尾に加えられているのに気

がつ-が'これは奴に

『新唐書』に記してあったのを承け

ていよう。

以上で李白滴仙人の話は終わりである。われわれはこの

考察をとおしてどのような教訓を導き出すことができるの

か。いま二鮎にしぼってすこし考えをまとめておくことに

したい。書

ひとつは'この考察を始めるにあたって最初に立てた問

題の立て方をめぐ

って。「ある話が、もとをたどれば事賓

ではないことが多い」とLT事案でない場合

「なぜそのよ

うな要素が話のなかに入って-るのか」と考えていった。

しかし、考察をとおして直面したのは、そもそものもとに

なる

「事案」とは'いったいどのようなものであるかtと

いうことだ。この話のもとになっているのはう賀知章が李

白を滴仙人と呼んだ、ということである。確かにそのよう

なことがあったのであろう。しかしそれは、確かにそのよ

うなことがあったのであろう、という以上の意味をもたな

い。というのも、考察の過程であきらかになってきたよう

に、賀知章が名をあたえたのも'李白が名を得てよろこん

だのも、鑑に備わっていた人物鑑定をめぐる風習にしたが

ったまでのことであ-'さらに言えば人物鑑定をめぐる物

語をまたみずからの役割にしたがって演じているに過ぎな

いtと捉えることができるからだ.つまり、鑑にある話に

したがって、新たなふるまいがなされ'またそれを記す仕

方もおなじ話の型によっている。それをさらに他者の日で

- 139-

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中囲文筆報

第六十二筋

記録する杜甫の記述。貌寮、苑俸正というように。幾重に

も重ねられてゆ-。とすると最初にあるのは事柄ではな-'

物語のほうではなかろうか。と、このように言うこともで

きる。辛苦と物語のあいだというのは、じつに微妙なもの

だ。も

うひとつは、この考察のテーマである'作者と作品の

関係をめぐ

って。正確には'「作者と作品の関係」という

問題をどのように扱うべきか、ということについてである。

というのも'ここに扱

った事例では、作品は後から関係づ

けられただけで'つまるところ話に登場する作者とは'そ

の場面において本来かかわ-がなかった。作品のほうに中

心をおけば'その作品の制作状況を説明する材料として、

鑑にある'まった-関係のない話が用いられた。たまたま

作者本人にまで記述を遡ることができたことによって'以

上のようなことがあきらかになったわけであるが'これが

ひとつの事例に過ぎず、作品と作者を結びつける話は、賓

際にはよ-多-のさまざまな場合が想定されるであろうと

はいえ'おなじように、いずれ後代の謹み手のさまざまな

意識を纏いつつ現在われわれの目にする資料のなかにある

ことは確かである。作者と作品の関係を、後饗の資料によ

りつつ'話のなかの関係そのままに受け取

ってわれわれが

考えるとしたら、また話に纏わる徐剰物に無関心であると

したら'それは軽率のそし-を免れまい。そこに言われて

いるのは作者と作品の

「か-そめの」関係である、という

ことをもういちど確認する必要がある。

われわれが作品を謹んで直接把握することになる作者'

われわれが作品そのものから感受する作者、これを藁の意

味での

「作品と作者の関係」と考えよう。そうすることに

よって、作品のまわりに纏わ-ついていたさまざまな付属

物から'いったん自由になろう。これら付属物が'それ自

佳われわれから観れば非常に古い時代のものに属し'古い

こと、作者の時代に近いことに慣値があるとのみ考えるの

は、ひとまずやめにしておこう。それによって'後の資料

「誤謬」を異に受ける'晃の意味での

「誤謬」をひとま

ず避けることにしよう。しかしこう言

ったとたんに'次の

ような聾も聞こえてきそうである。なるほど、後出の資料

ー 140-

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における作品の作者との関係は'場合によって

「控遷され

た」ものである。とはいえ'それを考えた昔時の讃者は'

どう考えていたか。彼らな-に、作品から作者の

「異の」

姿を思い浮かべたのではないかと。確かに、そうすると、

彼らが作品から作者を思い浮かべたのと'いま提案したよ

うに、われわれが作品から作者を思い浮かべるのと'そこ

に本質的な差異を認めることができるであろうか。

ここで次のようなことに思いあたる。われわれは作品か

ら作者について思いを致す際、具鰹的な、李白や杜甫とい

った'特有のキャラクターをともなった作者像を思い描か

ざるをえないようになっているのだと。われわれは作品を

謹む際に'それを書いたのが誰であるか'知らない詩人で

あればいま謹む作品によって作者像をもとうとし、知

った

詩人であれば、鑑に知

っている作者像にしたがって作品を

謹みすすめ、新たな壁化を付け加えようとする。したがっ

て'作者の名の放けた作品を前にしたとき、言いようのな

い不安に駆られる。しかし考えてみれば、このような作者

と作品の関係は'詩歌の歴史が起こったはじめからのこと

ではないし、そもそも

『詩』がはじめうたわれていたよう

に、また五言詩のもととなった漠代の歌謡がうたわれてい

たように'原初的な形態は特定のだれかのものでない、も

しくはだれのものでもある感情がうたわれたものであ

った。

建安詩人によって、このうたの形式が取-あげられ'自身

の抱負を天下国家の問題とからめて述べる語-方が試みら

れて以降、作品と作者が密に結びついた書き方、謹み方が

次第に定着してゆ-のだと。われわれが作品から導かれる

作者というものを'具腰的な、特有のキャラクターをも

た、ひとりの人間の像として思い描-や-方でしか'テ

ストの外に外在化された形象としてしか考えられないとす

れば、それはわれわれ自身がこの建安以降の中国古典詩の

書き方にあま-に探-浸りすぎているからではあるまいか。

「古楽府」と呼ばれるはじま-のかたちにおいて、「作者」

はもちろんこのようなわれわれの習慣によっては捉えられ

ず'物語の

「語-手」やそれがうたわれていたとすれば

「歌い手」と呼ばれることになろう。これと'作品のなか

に出て-る族人や兵士との関係はどのようなものであろう

141

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中国文学報

第六十二冊

か。「古詩十九首」のような作品においては'またこれと

異な

って'人生の短さを嘆き'その解決に向けての思考が

あらわれていたが'他とは違うその特有の思惟をなす圭鰹

として

「作者」は捉えられなければならないだろう。いま

評者はこのような考えの端緒にいた

ったばか-であ-、提

示した問題に充分な説明をあたえる準備があるわけではな

いが'「作者と作品の関係」を中国古典詩にふさわしい仕

方で論ずるのであれば'作者をテキストの外にではな-'

内在するものとしてみる'このような硯鮎は放かせないで

あろうと思う次第をへと-あえず述べたまでである。これ

によってどのような新たな中国古典詩の見え方が提示でき

るかはういまは多言をもちいず'来るべき機合を期して、

もうすこし考えてみることにしたい。

(乾

源俊)

「古文の修辞学」-

欧陽情の場合-

欧陽情の古文

への志向が'少年期における韓愈の尊兄に

端を鷺するものであることは'その日博的叙述のなかに明

白に語られている

(「記者本韓文後」、『外集』巻二三)0

韓愈の文章に鯖饗を受け'欧陽修が目指したものは'ま

ずは文鰹の襲革であ

った。昔時通行の形式的美文

「時文」

に封する嫌悪は、「古文」

への希求と表裏をなして'これ

もまた彼の文集の随所に言及されている。小論で考えてみ

たいことは'文章表現という営みにおける文腰のも

つ意味、

と-に欧陽情による

「古文」という文健の選樺と彼の表現

営為との関わりについてである.

周知のとお-

「時文」は'

1句あた-四字もし-は六字

という

〓疋の字数、二句ひと-みでの封偶構成という形式

的規制を有する。そしてこうした規制は用語の遥拝にも影

響を及ぼす。それはおおむね古典に由来する文学語蓑であ

-、依摸した古典にもとづ-

〓疋の喚起性は期待されるも

のの'習用による槌色は避けられず'指節

・用語ともども'

おお-は美的緊張感を喪

って株式化する。

これに封し

「古文」は、右のような規制からは自由なス

タイルとされる。そしてその表現形態の自由さは'と-あ

えず多様な表現の可能性につながるものであ

ったと想像さ

- 142-

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れる。事青、以下に見てゆ-ように欧陽修の表現営為は'

「文」の可能性に封するおよそ病的といってよいまでの執

着の様相を呈する。

中国の文章史のうえで'欧陽情ほどその表現営為の

「過

程」に関心を寄せられた表現者はいないであろう。われわ

れが文学作品として目にするもののほとんどは、表現営為

の結果としてのこされた最後のかたちなのだが、欧陽傭自

身の文章と'それを受容したひとびとが蓉した様々な言説

の双方に'彼の表現の

「過程」が露出しているように思わ

れる。具鰭的には次のようなことである。

ひとつには韓愈の表現に封する踏襲

・模擬、あるいは両

者の類似について。「古文」の再興という観鮎からすれば、

このことは異とするに足-ないかも知れないが'やはり少

なからぬ人々の注意を引いたようである。

たとえば南末の孫変の

『(履斎)示鬼編』(巻七

「租述文

意」)は'欧陽情が韓愈の文章に学んだことを指摘したう

えで、欧陽修の

「本論」が韓愈の

「原道」に、「上苑司諌

書」が

「諌臣論」に'「書梅聖愈詩稿」が

「迭孟東野序」

に'さらに

「縦囚論」「怪竹耕」が

「原人」に似ていると

Lt同じ-陳善の

『刑乳新話』(巻六

「欧文多擬韓作」)はこ

のほかに、「祭具長史文」と

「祭醇中丞文」'「弔石畳卿文」

「祭田横墓文」の類似を指摘している。

洪遇もまた'韓愈の

「盤谷序」の

「宋於山'美可茄'釣

於水、鮮可食」と、欧陽幡

「酵素亭記」の

「臨渓而漁'渓

深而魚肥'--山毅野萩'雑然而前陳」を封比Lt「欧陽

修の文勢は大よそ韓の語を化せるな-'然れども--煩簡

ひと

工夫は則ち

L

からざる有り」とtより局所的な部位なが

ら'両者の表現を具鰹的に挙げ'その類似と繁簡の相違に

注意を喚起する

(『容斎三筆』巻二

「韓欧文語」)0

ここでは時代は降るが明

・孫緒の指摘を見ておこう。

欧陽公序梅聖余日'「聖命日以其不得志者葉子詩而蓉

之、便其得用於朝廷'作為雅頒'以歌詠大宋之功徳、呈

不偉哉」。此等語意'全是撃昌泰

「迭孟東野序」所謂

「窮而在下着、孟郊東野始以其詩名へ抑不知天格和其聾'

而便鳴国家之盛耶、抑牌窮餓其身'思愁其心腸、而使自

- 143-

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中国文学報

第六十二筋

鳴其不幸耶」。欧公国非踏襲劉窃入着'想其讃韓文熟、

不日知其鵠用耳。(『沙渓集』巻一三、雑著、「無用閑談」)

欧陽公は梅聖命の詩稿に序して'「聖命は自らの不遇

の思いをすすんで詩に覆した。これがもし朝廷に用いら

れ'雅や煩を作り'わが大末の偉大さを歌いあげていた

ならば'どれだけ素晴らしいことであったろうか」と。

これはすべて韓昌黍

「孟東野を送る序」の

「窮して下に

いるものでは孟郊'字東野が'はじめてその詩によって

名誉をえた。いったい天はその歌聾に調和をもたらし'

囲家の繁条をうたわせるのであろうか。それともその身

を窮乏させ'その心を憂いに沈ませて、みずからの不幸

をうたわせるのであろうか」に学んだものである。もと

よ-欧陽公は踏襲

・剰窃をよしとするような人ではない。

きっと自ら気づかぬうちにその表現を用いるほど、韓文

に習熟していたということであろう。

欧陽傭

「梅聖愈詩集序」(『居士集』巻四二)と韓愈の

「迭

孟東野序」(『韓昌泰文集』巻一九)は'ともに豊かな詩才を

抱きながら不遇であった

(あるいは不遇にある)友人'梅

尭臣、孟郊について述べた文であるが'彼らの詩をその境

遇が反映したものととらえ、国家隆盛の詣歌にふた-の詩

才が畿拝されるべき理想

(もし-は可能性)を語るところ'

そしてそれが叶えられない硯賓に封する詠嘆をにじませる

鮎など、たしかに両者には否定Lがたい共通性がみとめら

れる。

ただ、陳善が韓欧両者の類似について、「蓋し其の歩深

馳験は亦た似ざる無きも、但だ其の句語に倣いしのみに非

ず」(『刑乳新話』)とコメントするように'両者の用語

・措

辞そのものは必ずしも同

一ではない。興味深いのは'素材

の選揮'モチーフの構成'論の運びといった、表現を深盾

で支える要素'すなわち馨想や思考の

「かたち」の共通性

に目がとまることである。音数律や対偶などの表面的形式

が剥離されたため'かえ

ってよ-深層の形式が浮かび上が

ったというべきか。

欧陽修の表現営為について'いまひとつ注目すべきこと

144

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は'その堆敵

・改蟹についてである。最もよ-知られるの

「酔翁亭記」(『居士集』巻三九)に関する次のエピソード

であろう。

欧公文亦多是修改到妙庭。頃有人買得他

「醇翁亭記」

藁。初説

「源州四面有山」'凡数十字。末後改定'只日'

「環源皆山也」五字而己。(『朱子語類』巻一三九)

欧公の文章の多-は、手直しを経て素晴らしいものに

なったのであるo先頃ある人が

「酔易亭記」の原稿を手

に入れたところ、はじめは

「催州の四面に山有-」以下

数十字であ

ったものが'最後には

「源を還-て皆山な

り」のわずか五字に改められていた。

周必大もまた前輩の言として'欧陽修がその文章を壁に

かけておき朝夕に改訂をほどこしたことを紹介し、それゆ

え俸乗のテクストや手帖に文字の異同が多々みられると述

べる

(「欧陽文忠公集践」).「三上

(馬上、枕上、席上)」

(『掃出録』)、「三多

(多看'多倣、多商量)」(『後山詩話』)

の話柄にもうかがえるように'欧陽修の文章制作における

刻苦は、昔時の人々に贋-浸透していたようだ。

「酔纂亭記」の話題において注意してお-べきは、最初

の敷十字が修改の結果、最後には五字に縮約されたこと。

すなわち修改の過程が用字の塵鮪と重ねられている鮎であ

る。少ない言語容量によ-多-の情報を盛-込むことが必

ずしも名文の修件ではなかろうが、少な-ともここでは'

「環源菅山也」の五字が'それ以前の敦十字に匹敵する情

報を停達し'そのうえでよ-簡省な表現た-得ていること

「妙虞」と評慣している。さきにみた洪遇も'韓愈と欧

陽修の類似した表現の繁簡の相違に目をとめていた。

欧陽修自身にとっても、言語表現の経済性が文を作る営

みにおいて一定の位置を占めていたことは'たとえば

「進

新修唐書表」(『表奏書啓四六集』巻二)に'『奮唐書』に封

する

『新唐音』の利鮎を挙げて'「其の事は則ち前よ-増

し、其の文は則ち善よ-省-」と述べることばにうかがわ

れる。馬が犬を蹴-殺したという同

1の事態を'同僚が

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中国文学報

第六十二筋

「有夫臥於通衝'逸馬蹄而殺之」と表現したのに封し、そ

の冗漫さを否定して

「逸馬殺犬於道」としたというエピ

ソード

(宋・畢仲絢

『帳府燕開銀』)が侍えるものもまた、欧

陽修の簡省への志向と'それを彼の表現の特質の1つとと

らえた讃者たちの認識であろう。

さきに欧陽情の表現営為の

「過程」の露出について梱れ

た.いま友人ヂ珠に手向けられた

「軍師魯墓誌」について、

その表現の過程そのものを自ら解説してみせた希有な作品、

「論ヂ師魯墓誌」(『外集』巻二三)の冒頭の

一節を見てお

こう。誌

言、「天下之人'識輿不識'皆知師魯文学議論材能」。

則文学之長'議論之高、材能之美'不言可知。

又恐太略、

改修析其事'再述於後。述其文'則日

「簡而有法」。此

一句、在孔子六経'惟春秋可首之。其他経非孔子自作文

章。政雄有法'而不簡也。修於師魯之文不薄夫。而世之

無識者'不考文之軽重、但責言之多少'云

「師魯文章不

合砥著

1句造了」

墓誌には

「天下の人は、彼を直接に識る者か否かを問

わず、みな師魯の文学

・議論

・才能を知っている」と書

いた。これで師魯のすぐれた文章

・学問、議論の高遇さ'

才能のすぼらしさは、言わな-ても分かるはずだ。ただ

簡略に過ぎることを恐れ'その言わんとしたところを候

節ごとにことわけて説明しておいた。まず師魯の文章に

ついて

「筒にして法有り」と述べた。「簡にして法有-」

とは、孔子の六経のうちでは'ただ春秋のみがこれに昔

てはまる。その他の経書は孔子が自ら書いた文章ではな

いので、「法」は備わってはいるが

「簡」ではないので

ある。わたしは師魯の文章については深-理解している

つも-だ。ところが世間の見識のない連中は'表現に込

められた意味の重さ

(「文之軽重」)を省みずに'ただこ

とばの量

(「言之多少」)のみを責めたて、師魯の文章は

ただこの一句のみでは言い蓋-せないなどという。

ここでは

「文之軽重」と

「言之多少」が野比され'前者

と後者の相関関係から

「言之少」が

「文之重」によって補

- 146-

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償されると述べる。ここにもまたと-あえずは、言語の表

・博達機能が維持される限り'よ-簡省な表現をよしと

するみかたが謹み取られよう。

欧陽情の文章をめぐるこうした言説をみるとき'欧陽傭'

そして彼の読者たちの意識のなかに共通して、表現を

コンテンツ

フオーム

「内

と「形

に分けてとらえる二元論的な言語観

が見出されるように思う。欧陽修のことばを用いるならば'

先にも引いた

「其の事は則ち前よ-増し'其の文は則ち奮

よ-省-」(「進新修唐音表」)の

「事」と

「文」がこれに相

普しょうか。このことは同

一の

「内容」が複数の相異なっ

「形式」をと-うるという認識に基づ-。すなわち語る

べき

「内容」をよ-よ-博える

「形式」の模索が文章制作

の課題として位置づけられる。

こうした

「何

(内容)」と

「何如

(形式)」の闘わ-'あ

るいは

「内容」とそれに野療する

「表現」の繁簡について

は'賓のところ

『春秋』以来、中国の歴史叙述の要諦とし

て議論されてきたところであった。たとえば劉親は、「故

に春秋は

1字を以て褒乾し、喪服は軽きを挙げて以て重き

を包む。此れ言を簡にして以て旨を達するな-。鄭詩は章

を聯ねて以て句を積み'儒行は説を糎にして以て餅を繁に

す。--故に知る繁略は形を殊にLt隠顕は術を異にする

も'抑引して時に随い'愛通して合に適するを」(『文心離

龍』「徴聖」)と。また唐の劉知幾は'「夫れ国史の美なるも

たくみ

のは叙事を以て

為し、叙事の工なるものは簡要を以

つづまやか

て圭と為す。筒の時義は大なるかな。--文

して

事の豊かなる。此れ述作の尤も美なるものな-」(『史通』

「叙事」)と。

右に挙げた二例はいずれも併催文の書き手による嘗吉で

あ-、となれば

「事」と

「文」の繁簡の按配は'文髄の何

如を問わず'まずは文章表現における課題のひとつであっ

たとみとめられる。ただ'「古文」の選樺によって得られ

た、音数律等の形態的規制からの自由は'簡省な表現への

志向をよ-先鋭化させたことは否定できないように思う。

封偶という形式のよってきたる所について劉親は、「造

さす

化の形を朕-るや、支健は必ず双な-。紳理の用を為すや、

めぐ

事は孤立せず。夫れ心に文辞生じ'百慮を

し裁

つに'

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中国文学報

第六十二筋

高下は相須ち'

自然に封を成す」(『文心願龍』「麗辞」)と。

すなわち、野偶は表現以前にすでに自然のものであ-、認

・蔑想と文章表現のかたちが

一致したとき'おのずと封

偶の形式が馨現すると述べる。文髄を認識の枠組みとする

このような考えを肯定するならば'断文と異なる新たな文

「古文」の選樺は'認識のありかたの饗化を映すものに

他ならず'表現の営みはそれを盛-込む新たな

「かたち」

の模索ということになるであろう

(-

なおここで

「かた

ち」というのは'言節の形態にとどまらない'よ-深層の

形式を指していう)

形態的規制を取り去った新たな

「かたち」は'まずは多

様な表現の可能性を想像させる。たとえば欧陽修は、詩や

詩人にまつわる逸話を語るジャンルとして

「詩話」を創始

したことで知られるが、登場人物の語ることばを話柄のな

かに多-と-いれつつ、士大夫暦の話題交換の場を活菊Lt

さらにはテクストそれ自鰭として'欧陽修が聞き手に語-

かける

「話」を再現するそのスタイルは'「古文」の選樺

によって獲得された新しい表現の領域といってよい。

いっほう

「かたち」とは'そもそも規制と不可分のもの

でもある。選樺と配置によって形作られる

「かたち」には'

自ずとその

「かたち」を律し整える

「法」への志向が伴う

はずだ。「事」と

「文」の繁簡に封する欧陽修の過敏なま

での関心は'そうした新たな

「かたち」の追究

・模索が'

見やすいかたちで露出したものに他なるまい。

ただ新しい

「法」の模索が単純に

「言之多少」に還元さ

れるようなものではないことは'欧陽修自身によっても十

分に認識されていた。先の

「論ヂ師魯墓誌」に見た

「文」

「軽重」という要素は、「言」の

「多少」のように数値

的にたやす-把捉されるものではない。自作解説という前

例を見ない手だてをとってまで語-たかったことは'おそ

ら-はこの間題の複雑さであろう。

同時に目をとめて考えておきたいことは、いわゆる

「内

容」と

「形式」の微妙な闘わ-についてである。「内容」

「形式」をつなぐ深層の形式をかりに右では

「かたち」と

表記したように'そもそもこの両者'裁然と二分するのは

むつかしい。韓愈

「迭孟東野序」と欧陽修

「梅聖愈詩集

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序」を封比する論者たちにとって、彼らがみとめた両者の

類似性とは'「内容」についてであろうか。それとも

「形

式」であろうか。か-に

「内容」であるとするならば、こ

の場合の

「内容」とは、優れた才能を抱きながら不遇であ

った

(あるいは不遇である)友人について'という抽象化

を経たものととらえなければならない。そしてこうした抽

象化は、すでに表現の

「形式」の領域に足を踏み入れてい

る。文の新たなる

「かたち」を模索する欧陽情は'このこ

ともまた誰よ-も強-意識していたのではないか。

ことばによる表現と、それによって描き出される言語外

の硯賓との封療関係は、たとえば詩における

「半夜鐘」の

エピソードにみられるように'欧陽情にとっては常に意識

されるものであったと思われる。「半夜鐘」が語るものは、

詩は言語外の現章

・事案を侶-な-反映すべきものとする

欧陽修の文学観であろうが、この限-において表現の

「形

式」は、語るべき

「内容」に封して従属的な位置にあると

言わねばならない。

しかし.ながらこれとは逆に'ことばが世界を作るという

意識、換言するならば'「形式」「内容」を超えた

「かた

ち」が世界を作-出す

(-

あるいは見出された新しい世

界が

「かたち」を得て現出する)という意識が欧陽情をと

らえたことは全-なかったであろうか。このことにつき、

欧陽修自身が明確に語ることばを見出すのはむつかしい。

ただ銭錘書

(『管錐編』「毛詩正義」「洪奥」)が紹介する

・郎瑛の記事は、このことを考えるにあたって'興味深

いことがらを俸えて-れる。自ら源州を訪れた郎瑛によれ

ば'「源を環-て菅山な-」という

「酵翁亭記」のことば

に反して'かの地は四方に開けていて'ただ西に郵郡山が

見えるのみであったという

(『七修類稿』巻三

「牛山」)0

「醇纂亭記」の冒頭をあらためて見てみるならば、「源

を環-て皆山な-。其の西南の諸峰、林墾尤も美し-'之

を望むに蔚然として深秀なる者は'珊瑚な-。山行するこ

と六七里'漸-水琴の混演として両峰の間に潟ぎ出づるを

聞-者は'醸泉な-。峰回-道轄じて'亭の翼然として泉

上に臨む者有-、酔翁亭な-。--」と。

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中国文筆報

第六十二筋

叙述の範囲

・封象がしだいにせばめられ、「記」の主題

である

「酔翁亭」に接近する。全髄から部分へという集

・韓換が繰り返され'それぞれのユニッ-は'「環源皆

山也」「--郵邪也」「--醸泉也」「--酔翁亭也」とい

うように、「也」字の指標によって段階をはっき-示しな

がら結ばれる。

ここに修辞優先の志向のみを認めるのも'あるいは現

・事賓との食い違いを見出し、「半夜鐘」に関する費言

との撞着をあげつらうのも、いずれもさほど意味あること

ではないだろう。このあと

「記」は、

一日のなかで'ある

いは

一年のなかで'折々に移-ゆ-自然の美しさ'時宜を

得た宴遊の楽しさをつづる。「醇翁亭記」が語るのは'榔

珊山中のこの地においてのみ許された禦しみ'ここにおい

てのみ見出される美しきであ-'右に引いた書き出しの部

分は'この

「醇翁亭」という選ばれた空間へのアプローチ

をみごとにことばによって再現している。欧陽修によって

硯賓の中からす-い取られた

「酔翁亭」の慣値

・喜びが'

この

「かたち」によってはじめてことばに定着され、世界

に現前することを得たといえるのではなかろうか。

(和田英信)

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