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Title ハイネの 『フランスの画家たち』 (1831年) について Author(s) 一條, 正雄 Citation [岐阜大学教養部研究報告] vol.[16] p.[33]-[50] Issue Date 1980 Rights Version 岐阜大学教養部ドイツ語研究室 (Faculty of General Education, Gifu University) URL http://hdl.handle.net/20.500.12099/47488 ※この資料の著作権は、各資料の著者・学協会・出版社等に帰属します。

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Title ハイネの 『フランスの画家たち』 (1831年) について

Author(s) 一條, 正雄

Citation [岐阜大学教養部研究報告] vol.[16] p.[33]-[50]

Issue Date 1980

Rights

Version 岐阜大学教養部ドイツ語研究室 (Faculty of GeneralEducation, Gifu University)

URL http://hdl.handle.net/20.500.12099/47488

※この資料の著作権は、各資料の著者・学協会・出版社等に帰属します。

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- i

岐阜大学教養部 ドイツ語研究室

( 1980年10月13日受理)

33

ハイネの 『フランスの画家たち』

(1831年) について

條 正 雄

Uber Heines 。Franz6sische Maler“

M asao lchijo

作品が美の魅力に輝いているのは, 思想の息吹きに生気づけられ心の感動を内に

宿しているからに他ならない。

一 ド ラ ク ロ ワ(2) -

/

y

H そ の 位 置

1831年 5月20日, 名実ともにヨーロッパの芸術と政治の中心地であったパ リにはじめて到

着し, そののち, 結局は25年間に及んでしま う亡命生活に入ったとき, ハイネの最初の仕事

となったのが, パ リの展覧会について, コ ック書店の 「モルゲソブラ ッ ト」 誌に順次寄稿す

るこ とであった。 事実, ハイネはこの年の7月に, 恒例の夏の絵画展 「サロン」 をみるため

に幾度かルーブルへ足を運び, その結果は, その年の10月27日から11月16日にかけて 「モル

ゲソブラ ッ ト」 誌の257 274号に, 8人の画家をめぐっての記事となって掲載された。

これらの絵画の取扱っている対象はハイネの心を大き く 占めるこ とになった。 画題がハイ

ネの予想に反して, 従来のそれとは決定的に変化していたのである。 すなわち, 1830年 7月

の日々以後の政治情勢の変化にそのこ とが起因しているこ とは, ハイネならず とも確信する

こ とができたであろ う。 この年のサロンがエポッ クを画していることは, ミ ヒ ャエル ・ マソ

も指摘するところだが(3), みれば歴史的・時代史的・時代批評的テーマを扱った作品がこの年

そ う こ うする うちにも, 新しい時代はまた新しい芸術を うみだすであろ う。 その

芸術は新しい時代と高らかに共鳴し合 うであろ う し, 色槌せた過去から芸術の象

徴を借 りて く る必要もない。 その芸術はこれまで とは異なった新しい技巧す らも

うみだすに相違ない。 そのときまでは, 色彩 と音を駆使して, 自分に溺れた主観

。性, 世間とい う範から解き放たれた個性, 天真爛漫な人格といったものが, その

生のよろこびを主張するがいい。 実際にそ うすることの方が, 古臭い芸術の死ん

だ仮象に比べてずっ と役に立つのだから。

イ ネ(1) -ノ ゝ

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34 一 條 正 雄

のサロンに支配的であった。 美術の専門家的視点に拠って立つのでな く , ハイネの関心にひ

きつけて, それぞれの絵画の意味するところについて絵解きの作業をする程度のことならば,

ミ ュンヘン時代のハイネが文字と絵画の関係について, 新たに交流のあった若い画家たち相

手に, 「君たちの志向をまず鑑賞者にあきらかにしなければならず, 君たちの名声は, 君たち

の絵画という ピエログラフを世界中に肺分けしてみせなげればならない文筆家の手中に委ね

られている(4)」 と心だのし く ジャーナリスティ ックな解釈を加えている点を想起するまでも

な く , またゴルフが原稿をみて, 事実コ ックに保障して くれた程度の出来栄えの報告を送る

ことはハイネにとってきわめて容易なわざであったろ う。

けれども, この散文を書き上げたもっ と深い抜き差しならない事情を, 当時のハイネの詩

人的関心の所在から判断してみて と らねばならない。

1820年代と30年代の前半のハイネの詩作活動は, 文字通 り問いかけと探究, 実験 と訓練そ

のものといってよいものだった。 彼の主観的文体は, 客観性に裏 うちされた文体へとこの時

期のこ う した努力の陰で次第に変化を とげていくのである(5)。この辺 りの事情を述懐して, 八

イネは1837年にこ う語っている。「詩がそれ以上どうにもならないことを知って久しかったの

で, 私は一生懸命に立派な散文を目指した。 けれども散文では, 美しい天気, 春の陽ざし,

5月のよろ こび, ニオイアラセイ トー, 名もなき樹々で間に合わせるこ とができないので,

新しい形式には新しい素材を求めなければならなかった。 それによって私はいろいろな理念

と取 りレ組むという不幸なことを考えついてしまった。 ……ム」 (サロン第3巻序文(6)) つま り,

近代社会の政治や社会構造が, よ り省察を加えられた, 歴史ならびに哲学に方向づけられた

「図解」 を求めている, とい う洞察につき動かされて, ハイネは政治 ・哲学的理念との対決

を必然と していったのである。

そのことは, 20年代の 『旅の絵』 の作品中で散発的に始まり, 『カール ドルフ貴族論の序』

(1830年) , 『フランスの画家たち』 ( 1831年) , 『 ドイツの宗教と哲学の歴史のために』 ( 1833

年) へと, 散文による分析, 究明, 対決の仕事を徹底してす xめるこ とによって, ハイネは

ヴァル トブルク祭にみられるよ うな ドイ ツ時代の参加のレベルから, 1831年が截然とこれを

分かつこ とになるが, 支配的で富める経済ブルジ ョアジーと抑圧された貧しい小市民やプロ

レタ リアの住民層との間の社会的対立の尖鋭化のうちに, 統括的な juste-milieuを見分ける

に到るのである(7)。

従って, ドイツ時代の最後の散文 『カール ドルフ貴族論の序』 と フランス時代の冒頭を飾

るイ フラソスの画家たち』 の二篇は, ともにこの時期のハイネの収支決算書, 綱領文書であ

り, またおのずから相補的な姉妹篇を形づく っているのである。 前者が3年後の, ハイネに

よって精選された言葉で人類解放闘争を促そ う とする『 ドイツの宗教と哲学の歴史のために』

の萌芽的スケッチとして ドイツ政治革命論と呼びうるなら, 後者は, ロマン主義から リアリ

ズムへのハイネの大きな歩みを示す芸術論である といってよいと思 う。

(二) そ の 背 景

㈲ パ リのハ イ ネ寸描 ( 1831 ・ 5 ・ 20 10 ・ 31)

『フラ ンスの画家たち』 ( モルゲソブラ ッ ト誌への寄稿名は 「パ リの絵画展1831年」) に八

イネが実質的にかかおる時期は10月一杯であろ う。 その理由は, 9月のワルシャワのことが

おしまいの方で扱われているこ とや, コ ック男爵宛ハイネ書簡(10月31日) (8)に, 『フ ランスの

状態』 執筆を展望するハイネがみえるこ となどによる。 この半力年ほどのパ リのハイネはど

うい う生活を営んでいたろ うか(9)。

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ハイネの 「フランスの画家たち」 ( 1831年) について 35

パリに到着したハイネは翌日サソ・シモニス トの機関誌 LaGlobeの編集室に, 編集長 ミ ッ

シェル ・ シュヴァ リエを訪問, 話を交わしている。 この人は当時ハイネがかかお りを もつ唯

一のフ ランス人であった よ うだ。 22日には, ハイネのパ リ到着を報 じ る記事が LaGlobeに

掲載された。 パ リ最初のハイネの住所は, ハイネ宛モル トケ伯爵の手紙 ( 7月25日) が教え

て く れるのだが(10), H6tel du Luxemburg, 54 rueVaugirard であ った。 今 も この建物は,

参議院の正面玄関を左に見ながら リュクサンブール公園の外周に沿って少し西進すれば道路

右手に見える。 ハイネは自室の窓から, 緑したたる公園のたたずまいを真向いに眺められた

筈である。 ハイネの作品の検閲問題はあとでまとめて触れるが, 5月27日にはプロイセン全

土で 『旅の絵 ・第 4巻』 が没収されたこ とがカソペの手紙によって判明する。

ハイネがパ リの住人となった年のパ リの人口は861, 436人であった。そのうち ドイツ人は約

6, 700人であった といわれる(11)。尤も, この人たちは大部分が手工業者で, 七月王制下のフラ

ンスには, それ以外にも大勢の農民が移住してきていたようである。 10年後にはパ リの ドイ

ツ人は4倍近 く にふぐれあがるが, 48年を頂点にして 3月革命後の ドイツ本国への帰還の波

がつづき, ドイツ人移住者の数は急速に減少して行く。 ジャ ック ・ グラソジ ョ ソクの判断に

よれば(12), これら亡命 ドイツ人の数の推移のかげに, ドイ ツ本国の政治と経済にかかおる理

由が如実に秘められているとい う。 と もか く , ドイツ人亡命者の組織がうまれるのは, 1832

年 2月のこ とであ り, サソ ・ シモソ主義のハイネヘの影響もその時期頃から次第に濃厚にな

る とみて よかろ う。

滞在後 1ヵ月の間に, 実に多彩な顔ぶれの各界の人だち との面識, 交流が始まる。 「私に関

する限り, その頃はじめて首府を訪れ, 数限りない新しい印象にとらえ込まれていた……(13)」

とい うハイネの言葉さながらである。 面識を得たサソ ・ シモニス トで言えば, バザール, レ

ル ミニェなどの名がみえる。 音楽家が実に多い。 ベルリオーズ, シェルビーニ, シ ョパン,

リス ト, ス リ, オソズロー, ロ ッシーニの人たちの面識をハイネは得た。 さ らに親し く交流

をもつに到った音楽畑の人たちには, 作曲家のヒラー, メ ンデルスゾーン, オペラ作曲家の

ヤイヤーベーア, さ らには音楽関係の発行人シュレーシンガーが加わる。 この時期にハイネ

が付き合った人たちのうちで注目したいのは, ドラ ク ロワのパ トロンにもなった政治家ティ

エール, ペルネと連れだってそのサロンに通 う こ とになる銀行家夫人ヴァレソタ ソ, ポーラ

ン ドのジャーナ リス トのグロウスキーなどである。

ハイネのパリからの第一信は。 6月27日モーゼス ・モーザーと K. A. フ ァルソハーゲソ ・

フ ォン ・ エソゼに宛て発せられた。 この期間, 手紙は極端に少な く なっていて, 6 ヵ月間に

9通しか見当らない。 フ ァルソハーゲソヘの手紙の出し方をみても, 手紙そのものが出しに

く い状況認識がハイネの側にあったこ とは窺われる。 1824年から26年にかけてモーザーと親

しい交流をつづけていたが, 『ルッカの温泉』 ( 1830年) 以来, プラーテンの章にモーザーが

感情を害し, そのことに端を発してハイネはモーザーから距離をおく よ うになっていた。 事

実, 5月25日付のモーザーのハイネ宛書簡も, わだかまった文面であった。 これに対して八

イネは流離の地パリからベルリンへ, 自分たぢの間の友情関係が終ったことを厳し く告げて

いる。 ハイネの人類解放概念が次第に客観性をもって深化して行 く につれて, いつになって

もそのよ うなハイネを理解せずに, ユダヤ人の解放問題にかかりあっているモーザーに手

厳しい拒絶の言葉が投げつけられたものであろ うか。「君はぼくの生活と努力を理解したこと

はなかった。 ぼ く を苦しめるのは, ま さにそのこ となのだ。 まだ君には判っていない。 一度

だって君はぼくの生活と努力を理解したこ とはなかった。だから, ぼく らの交友関係はス ト ッ

プしたのではな く て, 一度も存在などしていなかったんだ(14)。」 尤も, このあ と一度だけ5年

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後の1836年11月 8 日に, ハイネはモーザーに金の無心の手紙を出している。「君の友ハイネを

助けよ」 のサインをつけて(15)。

こ う した, ハイネとモーザーとの, ある意味では乱暴な関係を前提にしない限り, 甚だ理

解に苦しむこ とだが, モーザー宛の書簡中に, フ ァルソハーゲソ宛のハイネ書簡が同封され

ていて, 「市内便でな く , 特別な方法で」フ ァルソハーゲソの下へ転送するよ う, ハイネは依

頼している。 ミ ュンヘン時代にも第一報がフ ァルソハーゲソに宛て発せられた経緯を想い浮

かべる と, この手紙(16)がハイネのパ リ生活と心境を伝える比重はまこ とに大きいといわなげ

ればな らない。

事の勢いでパリまで来てしまったこと, 26日にパンテオンを訪れてみたこ となど 「他愛な

いこと」 を報じてから, フ ァルソハーゲソの体面にかかおっては大変だから今後の手紙はさ

し控えるよ うにしたいと して, 必要最少限の連絡方法を提案してから, 「私はプロイセンのス

パイに囲まれている」 と報 じている。 たしかに七月王制下のパ リの ドイツ人の動静はベルリ

ンの出先機関によって探索されていたので(17), そ うい う実感を殊更ハイネも抱いたのかも知

れない。 「あ X, 6 ヵ月前に私は一切を予見していました し, で きるこ とならポエジーの世界

36 條 正 雄

にひきさがり, 他の人びとにたたかいの仕事は委ねたかったのです

秋になると, 文筆家との交流が目立って く る ベ ーア , ベ ル ネ , ヴ ィ ニ, マ ル テ ィ ッ ツ

で もそ うはな りませ

んで した。事の勢いとい う ものです。私たちはぎ りぎりのと ころまで追いこまれています 7」

「祖国を靴の腫にひきずるのでなければ, 逃亡は容易なこ とで し ょ うカリ 私はダン トンを

心いためつつ涙ります。 リュクサンブール公園の中を散策するこ と, いたる と ころで一片の

ハンブルク, プロイセン, あるいはバイエルンを靴の腫につけてひきずるのは心痛むこ とで

す。」 「私にと って闘争と苦難以外の何ものでもない故郷に比べたら, そ して安眠もできず,

私の生活の源泉のすべてが毒されている故郷に比べたら, パ リはそんなにひど く はな らない

で し ょ う。 もちろんパ リでは, 時代の波, さかま く革命の渦にのみこまれています。 - そ

の上, 私は燐から出来ているのです。 だから人びとの荒あらしい海に呑みこまれている間に

一 私の生来の気質によって, 私は燃焼するのです」。イリ 到着後約 1ヵ月のハイネの心境を

写して余すと ころがない。 青白い燐光を発するハイネのイメ ージは深刻である。

7月に入る と, 前に触れたよ うにルーブルを幾度か訪れる。 この頃 『新しき春』 のい くつ

かの詩がモルゲソブラ ッ ト誌に掲載される。 観劇, オペラ, 晩餐会などへの機会が知友に誘

われて多 く なって く る。 7月下句には, モル トケ伯爵から 『カール ドルフ貴族論の序』 の件

でハイネとの接触を求めて く るが, 『フランスの状態』 ( 1832年) にその結果が反映するので,

こ こで は立入 らない。 8月下旬か ら書籍商人 フ ラ ン ク と マ イ ヤーベーアの弟のベーアを伴 っ

てブローニュ ・ シュル ・ メ ールに避暑旅行に出掛けたハイネは, 9月20日前後パ リに帰着し

『フランスの画家たち』 の執筆に取 り組む。 フランクの想出によれば, ハイネはブローニュ

の海と比べてヘルゴラン トの方が遥かに印象深いと し, ヘルゴラン トについて数々のことを

フ ランクに語 った とい う(18)。10月初めには絵画展の報告は仕上ったよ うだ。「ハイネは当地の

絵画展に関する一連の論稿を仕上げました。 それはモルゲソブラ ッ ト誌寄稿用となっており

ます。 印刷原稿は既に小生の手元にあ ります。 それをハイネと一緒に現在目を通していると

ころです。数日後にはあなたのお手元に送る予定です……」( コ ック宛ゴルフ書簡10月 5 日(19))

コルプ, レーヴァル ト等である。 もちろん中心はなんといってもベルネとの付合いであろ う。

簡単に言って しまえば, この両人の当時の関係は, ヒラーの想出の一文に端的に示されてい

る。「世間がハイネにベルネのことを常に切り離しがたい友人と呼ぶのに, ハイネは耐えがた

かった。 《ベルネとぼくがなんのかかお りがあるのか》と, ハイネは機嫌を損ねるたびに叫ん

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だ。 《ぼく は詩人なのだ / 》そ してこの言葉には自覚と同じだけの真実がこめられていだ20)。」

ペルネの女友ジャネ ッ ト ・ ヴォールとベルネの交信を手掛 りに, ハイネ ・ ベルネの関係を も

う少し穿繋しておきたい(21)。

「昨日午前中にひと りの若者が私のところにやって来ました。 喜色満面, 飛び込んで く る

な り笑い声をたて, 両手を私の方へ差し出しました。その男に私は面識がありませんでした。

その男こそ, 終日私が想い描いていたハイネだったのです。 ……第一印象で他人を判断して

はいけないのですが……・ イヽネは私の気に入りません。 ……ど うも判らないのです。 ……本

当に彼が愛しているのは, 美だけなの首す。 ……彼には信念というものがありません。 ……

私はジャーナルの共同発行のために語ったのです。 だが, 彼にはそのこ とに関与する意志が

ないのです。 素晴しい発想を彼は持っていますが, それを繰 りかえしたがり, そ う して自分

自身を笑いとばしてしま うのです。 昨晩, 私だち とフ リード リ ヒ・リス トとが会食しました。

……」 ( ベルネ, 9月27日)親 しい相手への表現であるから, 極端なき らいはあるものの, ベ

ルネの期待と, そのあてが外れた様子が手にとるよ うにあらわれている。 翌日の, この手紙

の追い書きにベルネは, 「またハイネは, 芸術にと り くむ積 りだ, とも言いました。 そ こで彼

ハイネの 『フランスの画家たち』 ( 1831年) について 37

ソタ ソの所で, またもや次のような嘲笑を耳にしたこ とです。 ハイネはち ょ く ち ょ く 自分の

仕事のことを口に出す, と。 なんと気質の相違が大きいことで し ょ う 7……」 と付け加えて

いるが, 10月に少な く とも 5回はハイネと会い行動を共にしている。 医師ジ ッヘルの結婚立

会人を両人が引き請けているし, サロンへの出入, 会食, 談論などを重ねている。 「今日の午

前中ク イネが訪ねて来ました。 彼はあなたのこ とを訊ねてこ ういいました。 彼女はとても優

しい女性だ, と。 これは, ハイネと私の間では注目に価するこ とです。 彼が私に与えた第一

印象はますます強まるばかりです。 彼は情の薄い男だ と思います。 彼の対話には知性があり

ません。 書 く指にしか彼の知性はないようです。 理性的な言葉を語 りませんし, 私から理性

的な言葉をひき出すこ とも出来ないのです。 彼は人間憎悪と侮蔑とをみせたがる。 自己の文

書の公的な批判にはとても敏感です。 彼の語ると ころでは, 気楽な人間と付き合 うのが一番

だそ うです。 彼はとても不機嫌で陰気です。 ……」 ( ペルネ, 10月3 日) 会 う度毎に, これに

類した印象がジャネッ トに送られているが, なおしばら くハイネとの交渉は続 くのである。

ハイネがポーラン ド事件に触れながら, 『フ ランスの画家たち』の中で, スラヴ人のこ とわざ

「まだ切 り落と した く ない手には口づけを しなければならない」 を引用するとき, ハイネの

念頭に全 く別のベルネのことが一瞬かすめたのではないかと思いた く なるほど, 両者は表裏

別々の交流と印象を重ねている と しか言いよ うがない く らいである。

このベルネの書簡に対応して, ジャ冬ッ トからは, 10月3 日以降, 28日にかけて, 4通の

書簡中に返事の内容がみられる。「あなたにハイネが合致しないこ とは大変残念です。あなた

はあんなにも彼のこ とを期待なさ っていたのですから。 でも, あなたがハイネのこ とでお書

きになった通 り, も う大勢の方たちが判断なさっているのを私は耳にしてお ります。 ……」

(ジャネッ ト, 10月3日) 「あなたが期待していらした男子をハイネの中に見出すことができ

ないなんて, 本当に私の心を腐らせます。 残念でな りませんわ。 あなたがあれほど期待七,

彼のこ とであんなに約束なさ り, それで何も見出せないのですから。 彼がどのよ うなジャー

ナルにもあなた と企画するつも りがない理由について, あなたがお考えの点はきっ とその通

りなので し ょ う。 あの人の考えが判るこ とは本当に辛いこ とです。 あの人のこ とをそんな風

には考えていなかったのですから。 ……」 ( ジャネ ッ ト, 10月 9 日) ベルネのゲーテ批判を度

外れだ と心配した りするジャネッ トから推してみても( ジャネ ッ ト, 10月14日) , ペルネの極

は最近の絵画展について大論文を執筆中だといいます。 奇妙に符節するのは 昨晩ヴァレ

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38 條 正 雄-

以上が, ハイネのパ リ到着後約半力年のあらましである。 ,

(b) 検 閲

コ ック宛書簡で, 絵画展についてのハイネの印刷原稿を同封しながら, ゴルフは 「ハイネ

がこれまでに書いた中で最も素晴らし く見事で, 考慮し抜かれたもののひとつであるこ とを,

あなた様ご夫妻も確信を抱かれるであ りまし ょ う。 ただし, ハイネはひとつのこ とをおそれ

ています一 検閲です。これに対してハイネはあなたの特別なおと りなしを も とめています」

( ゴルフ, 10月 7 日) (22)と, ハイネについての配慮を示しているが, ハイネの心配する検閲の

実態はハイネの場合どうであったろ うか(23)。 ドイツ語版に比し, フ ランス語版では思い切っ

た表現が用いられた背景でもあ り, 事実, 『フ ランスの画家たち』の場合にも, 後出のとお り,

そ う した例がみられるし, た とえば, 『フランスの状態』 出版後には, モーザーの報告 (1833

年10月22日) [ これにハイネは返事をださなかったが, 内心狼敗し, 母には安心させる手紙を

出しつつも(1833年10月25日) (24), ] ロン ドン再亡命を検討しているほどに, 検閲とプロイセン

当局の弾圧措置には神経を尖がらせていた問題である。 ひるがえって, ハイネが発する言葉

は, まさに発する度毎に 「天空から放射され宮殿を焼き払い, 賤が家を照らし出す燃えさか

る星ぼしにも似た言葉」 「第七天国までも唸 りを生じて飛びあがり, そ この最も聖なる中へ忍

び入っている信心深い偽善者たちに命中するきらめ く投槍にも似た言葉(25)」 へと磨かれ研ぎ

すまされ熱していったのであるから, その意味でハイネが検閲に対するおそれを抱いていた

のは, 怖気どころか, 現実を見抜き対決しているものの深刻な配慮である, とい う側面を重

く みなければな らないだ ろ う。

市民階級の経済的発展を法規的には可能と し, そ うすることによ り適度な限度内で支持し,

同時に強まる市民階級が政治権力を引受けるこ とを阻止し よう とする点で前三月期にとって

特徴的な政府当局側の戦略は, 連邦および個々の領邦国家の検閲政策に最も明確にあらわれ

ている(26)。 カールスバー トの連邦議会決議 (1819年 9月20日) は。 こ ういう検閲政策の基本

的性格の必然的帰結であり, 5年の時限立法は1824年無期限のものと改まり, 1835年12月10

日の dasJungeDeutschland へ の禁止決議 と な っ て い っ た 。 30年代初頭 にみ られ る , 国家 に

よる出版の後見役拒否の, 市民階級の闘争は, 自由主義的な運動の経過を辿って, ドイツ国

内でも展開尖鋭化したのは事実だが(27), これらの動きは, 運動側の力量不足 (市民階級の不

充分な発達や, 運動参加者の自由主義的な運動綱領など) によってみるべき成果も得られな

いま 1, 政府当局側に押し切られ, 基本的には, その情勢が48年まで推移したとみるこ とが

できるだろ う。

ハイネの場合, 35年の決議を うけて, 全面禁止の措置は ドイツ国内で48年まで続 くが, こ

こで照明を与えるべき31年までの状況は, 20-Bogen-Grenzを逆手にとって検閲をのがれた

り, 発行場所を他都市に移して摺抜けた りするカソペの発行人と しての努力があった り, 八

イネの側で文章に妥協の手を加えた り, カムフラージュした りといった対応の歴史となる。

そのあた りをや x具体的に眺めておこ う。

『旅の絵・第一巻』 ( 1826年 5月) は散文の 「ハルツ紀行」 であるが, ベルリンの検閲官に

手ひどい扱いを うけた。 カ ンペの努力もあってハンブルクで無事出版に漕ぎっ けた。 フ ァル

ソハーゲソは日記にこの作家の影響力を予見していたが, プロイセンの検閲の噂はまだ他の

端なハイネ評にジャネ ッ トが必ずしも同意していないことは, 次のような文面からも明らか

であろ う。 「( フ ランクフル トの騒動を伝えてから) ハイネに私からと心からお伝え下さい。

うれしいですね, まだハイネが私のこ とを覚えていて呉れる とは。 ……」 ( ジ十ネ ッ ト, 10月

28日)

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ハイネの 『フランスの画家たち』 ( 1831年) について 39

連邦国内にひろま りぱしなかった。

『旅の絵 ・第二巻』 ( 1827年 4月) は 「北海第三部」 と 「ル・グラフの書」 を含むが, よ く

知られると ころ となった検閲の痕跡をその 「ル ・ プランの書」 の第12章にとどめている。 こ

の章はすべてカ ッ トされ, 偶然 4語が残った。 「DiedeutscheZensoren‥‥‥Dummk6pfe

(28)」 カ ソペは 20-Bogen-Grenzeを極力活用して, 「ベル リン便 り」 「北海」 および散文の断

片を併せて印刷させるこ とができた。 カールスバー トの決議が影響がい くつかの邦におよん

で, 『旅の絵・第二巻』 の禁止措置も, プロイセン, ハノ ーフ ァー, オース ト リー, メ ク レン

ブルクでおこなわれた。 ライン地方の, プロイセンへの発禁処分報告は, ハイネの影響力を

過小評価していたが, このラインの処分のニュースが, ハイネの 『旅の絵』 への関心を計ら

ずもたかめて しまった。

『族の絵・第三巻』 ( 1829年12月) はイタ リア紀行で 「 ミ ュンヘンからジェ ノアへの旅」 と

「ルッカの温泉」を含むが, 「民主主義的な決然たる方向が打ちだされている」 ( フ ァルソハー

ゲソ, 丁日記) 1830年 1月26日) (29)にも拘らず, 発禁処分を うげなかった。

『旅の絵・第四巻』 (1831年 1月) は 「ルッカの町」 と 「イギリス断章」 を含み, 第三巻の

補遺のよ うな性格のものだが, 七月革命後とい う事情もあ り, ベル リンの検閲当局は神経

を とがらせていて, ハイネは手直しを しなければならなかった。い くつかの抒情挿曲を入れ,

フ ィ ナーレを添えた。 ドイツの民衆の政治的隷属状態と自分の道化じみた振舞いをハイネは

フ ァルソハーゲソ宛に歎いている(1830年11月30日) (30)。 実際の処分は, ベルリンでの漸定的

差押処分 ( ! 月26日) , 大臣による作品の内容鑑定依頼発令 ( 2月17日) , 検閲当局者全員に

よる差押妥当の結論 ( 3月 7 日) , 大臣による処分決定 ( 4月 5 日) とい う経過を辿 り, ベル

リンで36部, マクデブルクで 5部, コブレンツで 1部が現実に押収された。 尤もカ ソペは領

布の方法に困りはしなかったよ うである。

それまでは触れられるこ とのなかった第三巻も, 1833年12月31日には処分を うけた。 プロ

イセンで全面禁止となるのは, いずれにしても, 第一巻 ・第三巻を含めて, 35年の連邦議会

決議によるもので, この時以来, ハイネの著作はこれまでも今後も含めて, 48年まで, ドイ

ツ国内で状況の好転はなかった。

『旅の絵』 に続いて, 『カール ドルフ貴族論の序』 ( 1831年 3月8 日) がハンブルクではな

く , ニュルンベルクで発行された。 このため検閲は通過したものの, 6月18日には既にプロ

イセンで禁止処分となってしまった。

こ う した ドイツの状況を踏まえつつ, ハイネは 『フランスの画家たち』 の筆をすすめたこ

と にな る。

(c) 十 一 月 蜂 起

『フランスの画家たち』 の結論に近い部分で, ハイネはド ゥラ ロシュの作品 『チ ャールズ

I 世の柩の蓋をあけるクロムウェル』 をみて, その時代の大浪, 時代の大いなるたたかいに

身も引き裂かれんばかりの鑑賞者, ハイネ自身を描き, また偶然か隣接七て陳列されている

ロベールの作品, 首刈りでな く穂の刈 りと りの, 『刈手の到着』の画面から漂 う, 始ま りもな

ければ終 りもない人類悠久の歴史のひと駒のよ うな世界に触れて, 心を鎮静化され明る く さ

れる鑑賞者ハイネを描いている。 このような対照的な鑑賞者ハイネの耳に, 屋外から人びと

のざわめきが届 く 。「ワルシャ ワが陥落 した / われわれの前衛が敗れ去った 7 大臣たちを

ひきず りおろせ ノ ロシア人には戦争を ノ プロイセン人には死を 7(31)」 いわゆるポーラン

ドの十一月蜂起の敗勢に向かう転回点ワルシャワの陥落とい う, きわめて時代的なニュース

をハイネは結論部分の展開の挺子として挿入しているのである。 ハイネが 「時代の動きその

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40 一 條 正 雄

ものが芸術を旺盛にするものの筈なのであって, ち ょ う どかつてのアテネやフ ローレンスで

の, 荒あらしい戦争や政党の嵐の中で, 芸術は最も見事な花を咲かせた(32)」 と して, 大いな

るたたかいの実例にえらびあげたポーラン ド問題について, こ xでい くつかの側面を確かめ

あき らかにしておかな く てはならない。

まずハイネ とポーラン ドとの出遭いについてであるが, ベル リン時代の学友, EugenBreza

の招きで, ハイネがポーラン ドへの旅に出発しかのは, 1822年 8月初句のこ とだった。 彼の

父親 Stanislaw v. Brezaの所領で, また WoIlowiczイ白爵の領地などに滞在し, ポズナユで

はギムナジウムの ドイツ語教師 Schottky を訪ね, 1 ヵ月半ほどのポーラン ド体験をつんだ

のである。 旅先から発信された学友 E. C. A. ケラー宛の書簡は, 若いハイネのポーラン ド原

体験ともい うべきものを生なまし く伝えている。 「ぼ く の生来の荒あら しい気性は, ぼぐを

ポーラン ドの森へと駆 りたてました。 ぼ く はこの国土のこ とを知 りたかった し, 親しいポー

ラン ドの友人の二・三の人だち と再会したかったのです。 この国土は眼を背けた く な ります。

気持をふさがれる印象をポーラン ドの村むらが与えます。 こ xでは人間が家畜同然の営みを

おこなっているのです乙否, ケラー君, それどころか教養つんだ貴族の結果であるポーラン

ド農民の惨たる状態を眺めたとき, ぼく の心は本当に憂うっ になってしまいました。 わが愛

する ドイツでは, 事態はこれに類した状態には, つま り中世への逆戻 りはないとい う こ とを,

正義と真理の戦士が多数保証して くれています。 ヴェス トフ ァーレソのケラー君のような人

士が請合って くれています。 ……でヽ もポーラン ドの人びとは善良です。 貴族は実直で勇敢で

す。 誰にも尊敬されるに値しています。 ポーラン ドを旅行して, 逆の判断を ドイツにもちか

える ドイツ人は, 通常ポーラン ド人を ドイツ的な眼鏡で考察しているか, 胸中に民族的偏見

を持っているかです(33)。」

1830年のポーラン ド革命の経緯はどうであったろ うか。(34)11月29日ワルシャワでツアーの

異国支配に抗して蜂起が勃発した。 この蜂起には, 民族の自由と社会 ・経済的自由をも とめ

る農民も結合したが, 蜂起の主導権はポーラン ド貴族の手中にあった。 この貴族の関心は,

専ら既存の権利をツァ ーに対して守ろ う とする点にだけあった。 た しかに一時的には臨時政

府も樹立されるが, ポーラン ドの歴史家 Joahim Lelewelの指導下にあった民主主義陣営は,

事を貫 く に力量が弱体すぎた。 民族独立の達成を, 人民によってか, 大国と連携する政府に

よってか, とい うポーラン ドの独立運動に終始ついてまわる内部対立も生じ, 蜂起は既にそ

の当初から敗北を うちに秘めていた。 ロシア皇帝二コライ I 世の蜂起鎮圧軍は, 1831年 1月

末, 対ポーラン ド戦争を起こし, 9月 7 日ワルシャワを陥落させて占領し, ポーラン ド自治

を廃した。 「会議王国」は消滅した。 この時以降ポーラン ドには合法的に正規軍は存在しな く

なってしまった。 「1830年の蜂起は民族革命 (ポーラン ドの75% を除外していた) でも, 社会

またぱ政治革命でもなかった。この革命は国内民衆の状況を何ひとつと して変更しなかった。

これは保守的な革命である。」とエングルスは規定したが(35), それはと もかく , 蜂起によって

ツアーの軍隊はポーラン ドに釘づけにされたので, 西ヨーロッパにおげる革命に反対する意

図的な干渉が阻まれて しまった。

「われわれの綱領における民族問題」(36)の中で レーニンは, 「ポーラン ドを ロシア, オース

ト リア, プロイセンの革命的な部分たらしめた特殊な社会的諸条件」 についてのマルクスの

言説に触れてから, エングルスの新ライン新聞への寄稿文「フラソ ク フル ト議会におげるポー

ラン ド討論」を引用している。 「当時はまさにポーラン ド全体が農民ばかりか多数の貴族まで

もが革命的であった。 民族解放のための闘争の伝統はすこぶる強 く深刻であったから, 祖国

で敗北したのち, ポーラン ドの最良の息子たちは, いたる所あらゆる場所で革命的階級の支

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ハイネの 「フラ ンスの画家たち」 ( 1831年) について 41

援に赴いた。 ……当時は, ヨーロッパにおける民主主義の完全な勝利は, ポーラン ドを復興

せずには不可能であった。 当時, ポーラン ドはツアーリズムに対抗する文明の真の防塞であ

り, 民主主義の先進部隊であった。」 そ して1903年という時点で, 「今日では……ポーラン ド

の労働者がポーラン ドを分割した 3力国のすべてで, なんらの隔意な く , かれらの階級的同

志と肩をならべて闘争することを絶対的に命じている。 ブルジ ョア革命が自由なポーラン ド

をつ く りだすこ とができる時期は過ぎ去った。 今日ではポーラン ドの復興は, 近代プロレタ

リアー トがその鎖を絶ち切る社会革命によってのみ, 可能である。」 とそのポーラン ド問題の

核心的課題の推移を確認している。 なお, レーニンは 「いずれかの民族問題が, 政治劇の前

面に一時的に登場する可能性がないと きっぱり断定するこ とは, 空論主義に陥る危険を犯す

こ となしには不可能である」 とい う指摘も省いていない。

七月革命と十一月蜂起とい う時代の関連性, 革命的フランスと新大陸アメ リカ対分割三国

とい う対立構図, 「ポーラン ドはつねに文明の兵士であった。 フランスがあらだな人類社会の

源泉である哲学的理念を成熟させている間, その国境を守ったのはポーラソ ドである」 ( J ・

ミシュレ) (37)といった理解, こ う した こ とが 「サロン」 の鑑賞者ハイネの耳に達した 「屋外の

ざわめき」 の背景であった。 ハイネの場合, 『フ ランスの画家たち』 の中で, ドイツ語版では

「自由」 と した ところをフランス語版では 「パ リの革命」 と改めているほどに(38), 民族の自

由と独立への関心は高かったよ うである。

(三卜 再生と活路を も とめて

丁パ リの絵画展1831年) の冒頭の書きだ しはこ うである。 「このサロンの絵画は5月初旬か

ら展示されたのち, 今は閉じ られている。 これらの絵画は, 概して浅い眼でみられただげで

ある。人びとの心は他の方向に忙殺され, 気がか りな政治のこ とでいっぱいになっていた(39)。」

パ リに着いて間もないハイネ自身乱 他の人たち以上に, 芸術作品に接するのに欠く こ との

できない精神的ゆと りをもってルーブルの広間をさまよう こ とができなかった。げれども「芸

術の哀れな子供」である絵画が, 「せわしなき群衆によって唯どうでもよいような一瞥とい う

喜捨」を投げかけられるだけの状況や, 「苦痛も口に出さず, これらの絵画は僅かばかりの共

感あるいは心の片隅への受容をも とめ」 ていて, しかもその芸術作品の側の要請が徒労にお

わっている場にハイネは居合わせて, 展覧会が芸術の子供の 「孤児院」 そのものに思えて く

る。 「孤児院」 のみせる 「品位をおと して, いかんともなしがたい状態, 若い時代の破綻」 を

目の当りにすれば誰しも心を動かされるよ うに, ハイネはこの展覧会に 「心を動かされ」 芸

術の再生と活路を も とめて, これらの作品が訴えているものが群衆の心の奘により深 く受け

とめられるよ うな手だてを講じなげればならな く なったのである。

ハイネは, 「健全な理性」 の持主 フ ラ ンス人のお xかたの評判にのぼった画家たち 8人

A .Scheffer, H .Vemet, Delacroiχ, Decamps, Lessore, Schnetz, Delarocheお よび Robert に

ついて, その選択の判断に同意した上で紹介の筆をすxめている。 こ xでは, この作品の眼

目で もあると思われるので, と く にハイネヘのヘーゲル美学の大きな影響と対決の中から発

言された 「芸術時代の終焉」 とい う芸術観, ロマン主義と リア リズムをめぐっての検討にか

かお る ドラ ク ロワ, ド ゥカー, ド ゥ ラ ロシュに限って触れてみるこ とにする。

㈲ ド ラ ク ロワ ( 1798- 1863) (40)

のちのちまで(41), ドラ クロワ自身も気に入っていたという 『バ リヶ - ド上の自由』 が1831

年のサロンに出品されると, ハイネも書き とめている通 り, 「その前にはいつも大勢の人だが

りがしていた」。政府買い上げとな り, ドラ ク ロワに栄光と名誉を もたらしたこの絵をみた八

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42 條 正 雄

イネは, 「 この絵には不思議にもわれわれにむかって吹き寄せて く る偉大な思想が息づいてい

る」 と述べて, その画面から受げた印象をいろいろ と綴 ってい く のである。

と もか く生涯に6, 600点以上のデ ッサンを残 した ドラ ク ロワが(42), デ ッサンの教授法の中で

「文学の作家がペソの先に自己の思想をもっているように, 鉛筆の先に諸君の思想をもて」

と後進にもとめているこ と, また彼が精神の糧と してシェ イクスピア, バイ ロン, スコ ッ ト

に親しんだこと, 1824年バイロンがミ ソロンギで客死を遂げた年 『キオス島の虐殺』 をサロ

ンに出品した り, 1827年のサロン出品作 『サルダナパールの死』 の主題が部分的にバイ ロン

に負っている(43), などバイ ロンを 「現代の不具者, 追放者, 現世のカイ ッたろ う とする一層

豊富な喜びを味わいつつ, 現実の世界(彼を と りま く世俗的世界= 筆者補記) を否定する者(44)」

とするバイ ロン観を抱いていた点, また, 日記に 「偉大な詩人, あるいは偉大な画家を真に

特質づけるもの, いいかえれば, すべての偉大な芸術家を特質づげるものは, た ゞ単に思想

を表現するための新奇な形式を考案することでな く , 精力的な努力によって思想を実現する

こ とであ り, 一個の思想の核心にあらゆる造形要素を集中し, その思想を肉体化し, 実在す

る生命にまで高め うる力こそ, 強靭な芸術家の想像力なのが45)」 と書き留める人であった点

など, い くつか考えあわせると, ハイネが 「吹き寄せて く る偉大な思想」 を ドラ クロワの作

品からまず うげとめえたのは至極当然な印象と して首肯できるのである。

もちろん ドラ ク ロワの日記の文章が本格的に冴えて く るのは, 1832年 1月のモロッコ旅行

の体験を綴る時からで, こ う した転機を迎える以前の出品作であった点は踏まえてお く必要

がある。

ハイネは七月革命の日々の民衆の一団を描 く この作品を 「群衆を率いる自由の女神」 と し

てだけと らえているのではない。「画面中央に殆んど暗喩的な形姿といってよい く らいに, 若

い女性がそびえ立ち, その頭にはジャコバン党員の赤い帽子をのせ, 一方の手にはブ リッ ト

銃, 他方の手には三色旗を持っている」 拡 屍を踏み越え, たたかいへと促しつ 1 仏 腰ま

で肌を露にした, 見事な激情的な身体つき, 大謄な横顔, 思い切った苦痛を表情にあらわす

彼女を 「娼婦, 商い女, 自由の女神の類まれな混合」 とハイネはと らえているのである。 す

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ハイネの 『フラ ソスの画家たち』 ( 1831年) について 43

なわち, 「宿命的な負担を投げ捨てるだけだけしい民衆の力をあらわしている」とみて とって

いるのである。 この 「民衆の力」 の具現を中心にすえて, それを相補 うい くつかの人物像の

説明が試みられる。 「両手にピス トルを持ち, 路地裏のヴィ ーナスの傍に立つ煙突掃除の

キューピッ ト」, 「昨晩は劇場の途中外出券を売り捌いていたであろ う, 地面に横たわる……

男性」, 顔にはカ レー船漕ぎの刑罰の痕をのこし, みに くい上衣には陪審裁判所の匂いをつけ

た 「銃を持ち突撃して く る勇者」。 そ してハイネの感動は, 「この名もなき人びと……を神聖

化し, かれらの心の中に眠れる品性を覚醒させた, 偉大なひとつの思想」 の表現とい う一点

につ なが ってい る。

ハイネはドラ クロワの彩色法をめぐっても同じ感銘を うけている。「この展覧会の全出品作

の中のどれにも, ドラ ク ロワの七月革命の作品にほどに色彩が光沢を消され乾いているもの

はない。 それにも拘らず, まさにこの光沢と微光の欠如, あるのは硝煙と塵埃, これがまる

で灰色の蜘蛛の巣のように形象を覆っている。 日光による乾いた彩色法, それが言わば水滴

をも とめているのだ。 こ ういった一切がこの絵画に真実性, 本質性, 根源性といったものを

与え, この絵の中から, 七月の日々の実相を感じ と らせるのだ。」こ こには既に, フ ランスの

ロマン派がその絵画生産において, リア リズムの萌芽を うみだ し, ドイ ツ ・ ロマン派を しの

い七いる実感がハイネにはある(46)。

パ リと太陽, 七月革命をたたえるハイネの言葉はあの 『ヘルゴラン ト便 り』 そのま 1だが,

「ベルギー暴動」に触れるこ とによってさ らに奥ゆきをみせている。 「自由の樹が天国にまで

も生い茂らないように」 とはすなわち, 1830年 8月25日のブ リュ ッセルの小市民による蜂起

が9月の市街戦での奇蹟的勝利を経て, 貴族, 上層市民の革命側への加担, 10月の漸定政府

の樹立とな り, 1831年 6月立憲君主制の成立を以って落着するこ とを指しているからである。

ドラク ロワの出品作のハイネによるこ う した解釈は, さ らに作品に見入るいろいろな立場

の人たち (商人, 若い女性, 上流市民の父娘, 枢機卿, 侯爵) の対話や振舞いをハイネが活

写するこ とによって対比補強され締め く く られている。

(b) ドゥカー (1803- 1860)(47)

「その絵画が私にはまるで己自身の心の発する声のさまざまなエコーのように思えて く る

ほどに, そ してその親和的な色調が私の心の中に不思議に共鳴して く るほどに語 りかけ」 て

く る よ うな魔力をハイネにおよぼしてきた画家が ド ゥカーであった。 サロンでハイネはこの

画家の傑作のひとつ 『犬の病院』 をみるこ とは, 会場から取 りはずされたあとであったため

にで きなかった。 それ以外に彼の佳作の二 ・三をやはり取 りはずされる前にみるこ とはでき

なかった。 ハイネにはサロンの三千余点の大量の作品の中から, それらをみつけだすこ とが

で きなかったからである。

う ヽイネと ドゥカーの出会いは, 『ス ミュルナ (現在の トルコの港湾都市イズ ミル) の夜のパ

トロール』 を通じてであった。 この画面には, ス ミ ュルナの警察の首脳, ハジ ・ ペイが配下

の警官をひきつれて, 街の巡察を しているところが描かれている。 多少長 く なるが, ハイネ

による具体的な描写の記述を引用しておこ う。 ハジ ・ ベイは 「ぶよぶよの腹をつきだし, 馬

上高だかと構えている。 周囲を眸睨する風情で, その顔つきは見る者の心を傷つけずにぱお

かぬ横柄さで, 無知の暗さをあらわにしているが, それは白いターバンにようて更に強調さ

れている。 手には絶対的な トルコの腫打ちの刑の笏を持っている。 彼の脇の足も とには, 彼

の意志の忠実な執行人である 9人が走っている。 にも拘らず, これらの忙しない生物たちは

痩せた短い脚を し, 動物的といってよい顔付を している。 猫の如 く , 牡山羊の如 く , 猿の如

く , 否それどころか, ある顔は犬口, 豚眼, ロバ耳, 仔牛の微笑, 兎の不安のモザイクになっ

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條 正 雄44

ている。 これらの警察官たちは手に不揃いな武器, た と えば, 長い柄のついた槍, ブ リッ ト

銃, それに警棒を立てて持っている。 投槍や竹竿の束といった正義を擁護する道具もそ う し

ている。 一団が通過する と ころの家並は石灰色の白さで, 地面はローム状の黄色なので, く

ろ ぐろと してちっぽけな人物形象が明るい背景に沿って, 明るい前景を越えて急ぐのをみる

と, 中国の影絵の効果をおこさせる。 時刻は明るさの残る黄昏どきで, 痩せた人間の脚と馬

の脚の奇妙な影が, バロッ ク風の魔術効果をつよめる。 警官たちはあんなにもおどけたカプ

リオーレをみせて, 信 じがたい跳躍を して走るし, 馬も脚をあんなに馬鹿ばかし く素速 く投

げだ しているので, 腹部で這った り, 飛んでいるよ うにみえる。」

こ う した ド ゥカーの作品乱 不自然でカ リカチュアだ と拒否する批評家に対 して, ハイネ

はその描法と彩色法を擁護する側にまわり, 「芸術の国の警察」をたた く役割を演ずる。 この

分析や立論の手続は, まさにヘーゲル美学の実践的応用といってよい点が多く , またはや く

もシュ レーゲルを離れ, サン ド ・ フープやボー ドレールの視点へのハイネの接近の側面も看

取される(48)。 ヘーゲルは[美学] の「第一部 芸術美の理念または理想, 第三章 芸術美また

ぱ理想, B. 理想の限定相, III. 理想の外的限定相, 3 . C. 芸術作品の真の客観性」 の中

で(49), 表現の客観性と主観性をめぐって, ゲーテの 『西東詩集』 を例と して, 次のよ うに述

べて卜る。 「これに反して ( ゲーテがその論文 『ピロス トラ トス書』 でギ リシアの芸術家がい

かに素材を扱ったかを分類整理して, 教示 しよ う と した八 世人の注目する と ころ とならな

かった) 遥かに深い精神においてゲーテが成功をおさめたのは, 彼の 『西東詩集』 を通じて,

彼の自由な内面世界をみせるさ らに後年に東方世界を今日のわれわれのポエジーの中へ引き

入れ, その世界を今日の観かたに受入れさせたこ とである。 この場合に, ゲーテは自分が西

方世界の人間であ り, ドイツ大であることを しっかりと弁えていた。 そのようにしてゲーテ

は東方的基調を, 東方的な状態や関連の特徴を考慮 しながら, 徹頭徹尾 うち出し, だがしか

し同じ く 今日のわれわれの意識やその独自の個性にも完全な権利を与えて卜る。 このように

して, 芸術家には卜ずれに して乱 自己の素材を遠い地域, 過去の時代および異民族の中か

ら借 りて く るこ とが許容されている, また大体において神話, 慣習および諸制度から, その

-

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ハイネの 「フランスの画家たち」 ( 1831年) について 45

歴史的形象を保管してお く こ とが許されている。 だが同時に, 芸術家はそれらの形象を自己

の描かれるもの (Gemalde) の枠として用いなければならない。 これに反して内的なものは,

芸術家の時代の↓よ り深 く本質的な意識に適応させなければならない。」

ハイネが ドゥカーの彩色法に魅了されて, 「あ とで判明したのだが, ド ゥカー自身 トルコを

訪ねたこ とがあるのだ。 私をあんなに魅了した彩色法は, 彼の独創であるばかりでな く , か

れの東方世界の絵画の中で, 忠実かつ控目な色彩で語 りだされている真実でもあった」 と披

樫するとき, また「 ド ゥカーがわれわれのとこ石へ東方世界からもたらした見事な花言葉Oヽ

イネは芸術家と作品の関係を示す例に花言葉の花をあげて, 芸術家とは, 夜バグダ ッ ドの庭

園で, 深い愛の叡知によって特別の花を摘み, 花言葉に編み, しかも目覚めたときにはその

意味すると ころを もはや全然みずからは知らない夢遊する王女に似ている, とい う) を, 芸

術のハーレムにおける走 り使い, ハーレムの目付役キスラル ・ アーガをひっ く るめてすべて

の宦官ども と比べても, 私の方がずっ と上手に理解するこ とができる」 と語るとき, はや く

も今と りあげたヘーゲルの言葉の意味での美学へのハイネの芸術観の照応, 反映をみなけれ

ばならない。 芸術の課題をヘーゲルは感性的形態での真理の暴露とみたが(50), ハイネにとづ

て 「音と語, 色彩と形象, この現象一般は, しかしながら理念の象徴にすぎない。 聖なる世

界精神に動かされるとき, 芸術家の心情にのぼって く る象徴だ。 芸術家の作品は, 芸術家が

他の心情の持主に自己の理念を伝達する象徴にすぎない。もっ とも僅かで簡素な象徴で, もっ

とも多 く の重大な事柄を語 りだす者, それが最大の芸術家」 なのである。

芸術美の限定相をめぐるヘーゲルが展開ずる思索の道筋は(51), 美術美が理念にと どまる限

り普遍的概念にすぎず Besonderheit と Bestimmtheit を もっ理念を現実的に理想に転移せ

しめねばならず, それはいかにして自己の本来性を保つのか, と問われて行 く。 客観的側面

(作品) については, 内容を形成する内的発展関連においてと らえられた行為が主題と して

論じ られ, 外化の問題が更に論じ られる。 主観的側面 (芸術家) については, 心的契機が問

われる。芸術家の活動を荷負う能力(天才, 能才) , 内的機因, 芸術家の内面状態, 独創性( マ

ニール, 様式) へとす xめられるのだが, ここにはひとつの図式がみとめられる。 それは3

個の同心円で, 外側の円は世界の一般状態, その内側の円は, 特殊状況, 中心の円はHandlung

である。

ハイネが 卜ウカーを弁護して, 「芸術の世界では, 私は超自然主義者である。芸術家は自己

の様式のすべてを自然の中に見出すこ とはできないと思う。 もっ とも重要な様式が生来の理

念の生来の象徴として, 言わば彼の魂の中に開示されるのだと思う。」と述べたり, 芸術家の

「内面の夢想観に従って描 く」創造活動, 「調和的に鳴りひび く結構な色彩の音楽」を以って,

「不自然」, 「カ リカチュア」 といった ドゥカー評の非難に対置する場合, これらのハイネの

主張の根底に, ヘーゲルの芸術美の限定相をめぐる論義との照応をよかれあしかれ認めねば

な らないだろ う。

ド ゥカーについてのハイネの文章は, 芸術と芸術家の歴史・社会的限定性がどのよ うになっ

ているのかについて, つぎの指摘を しつつ結ばれている。 「 ド ゥカーの画面には若い婦人が

2 ・ 3人いて, それはヴェールを被らぬギリシアの女性だが, 窓辺に腰かけ, あのおどろお

どろ しい一団が駆け抜けるのを見ている。 彼女 らの平静さ と美し さは, この一団と と くべつ

魅惑的な対照をなしている。 彼女らはにこ りと もしていない。 脇を走る犬の如き従順さにつ

き従われた馬上の尊大さは, 彼女らには見馴れた光景なのだ。 そのこ とによって一層迫真的

に私たちは絶対主義の祖国に移し変えられるのを感ずるのである。

自由な国家の市民でもある芸術家だけが, 明朗な気持ちでこの絵を描 く こ とができるのだ。

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46 - 條 正 雄

フ ラ ンス人以外の画家な ら, も っ と きっ く 色を塗 り重ねていだろ う し, ベル リンのブルーを

少し加えていたろ う。 あるいは, 緑色の胆汁を少し加えていたろ う。 そ して茶化した基調が

欠落させられていただろ う。」

(C) ドゥラロシュ (1797- 1856)(52)

ハイネが歴史画の代表 と呼ぶ ド ゥラ ロシュは, 1831年のサロンに作品を 4点出品したOノゝ

イネはそのいずれを もみている。 ふたつの小品, いわゆるキャ ビネ ッ ト用の作品は, フラン

スの史実に基づき, 他のふたつの作品はイギ リスの史実に拠っている。どの作品も画題は「死」

にかかおる問題が採 り上げられているが, イギ リスの 1枚をのぞいてハイネの印象は比較的

簡単に扱われている。

まずフランスの 1枚は, 枢機卿 リシュ リューが瀕死の身であ りながら, タ ラスコソから ロー

ス河を力7 - で遡航しており, その後部に固定された他の1叟には, ルイXⅢ世の寵児サソ ・

マルス と政治家 ド ゥ ・ トーが乗せられ, リ ョ ンに連行されて行 く。 この両名の首はそ こで リ

シュ リューの命によ り撥ねられるこ とになっている。 今を盛 りの若者二人が, 瀕死の老人に

ひかれて刑場に船で赴 く 図, である。

フランスのも う 1枚の作品は, リシュ リューの後継者マザランの瀕死の様子が悲劇的に描

写されている。 き らびやかな死の床の周囲で, 楽 しげな宮廷人や従者たちが互いにお喋 りを

交わし, カー ド遊びを し, そぞろ歩きまわる。 いろ と りど りで死者には余計な人物ばか り。

登場人物の話の内容, 僧侶の挙動, 主人公の表情などからハイネは推量 して, 宮廷生活には

びこる類廃 と新しい時代の不可避的な到来を示そ う と している とみる。

等身大で簡素に描かれたイギ リスの1枚は,」 483年 7月 6 日リチャー ドIII世が即位して数

日後, 本来の王位継承者たるエ ドワー ドIV世とその弟 リチャー ドが, リチャー ドIII世の命で

殺害 ( おそ ら く はベ ッ ドで絞殺) された史実に拠った作品で, 「若い王とその弟は古色蒼然と

した休息ベ ッ ドに腰かけている。 牢の扉にむかって, 二人の飼って いる仔犬が走って行 く。

この仔犬は吠声で殺人者の到着を教えているよ うだ。」 「囚われの王, とい うものはそれ自体

でも う暗 うつな思想だ。 この画面では, その王が無実の少年 といってよ く , 為す術もな く放

猪な殺人者の手に委ねられている。」 「足は寝所から垂れさがり, それでいて床に達 していな

いのだが, 摘みと られた花のよ うに, 挫折の印象を少年に与えている。」

これら 3枚の作品をハイネは言わば次の4枚 目の作品 『チャールズ I 世の柩の蓋をあける

オ リヴァー ・ ク ロムウェル』 を説明するための伏線に用いているにすぎないといっても過言

で はな い。

オ リヴァー ・ ク ロムウェルはチャールズ I 世に1649年 1月25日死刑の判決を言い渡させ,

1月30日に処刑せしめたが, ブルジ ョアジーが, その封建制度に対する三大蜂起の第二の決

戦で, 理論的支柱をカルヴァ ンの信条にも とめ, 自営農民 と都市の平民分子の加勢を うげて,

チャールズ I 世を断頭台に送るまで突きすすんだ歴史のひと駒である(53)。

ハイネはこの画面から受けた衝撃を まず次のよ うに書き とめている。「画面にわれわれはこ

の作品のふた りの主要人物をみる。 一方は屍 となって柩の中に, 他方は生命力にみちみちて

柩の蓋を もちあげ, 死せる仇敵を視つめる。 それと も見えるのは英雄たち 自身ではな く , こ

の世界とい う監督によってその役割を振 りあて られた俳優にすぎないのだろ うか ? そ して

知る こ と もな く双方の攻め合 う原理を演 じているのだろ うか ? この敵視する原理, ふたう

の大いなる思想, おそ ら く は創造主の胸の中で既に論戦しているものかも知れないが, こ k

では採 り上げない こ とにす る。 だからわれわれはそれ らを画面上に相対す るのをみるのであ

る。 一方は官れ傷つき血を流すチャールズ ・ スチュアー トの人物と して, 他方は大謄に勝ち

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ハイネの 『フラ ンスの画家たち』 ( 1831年) について 47

誇るオ リヴァー ・ ク ロムウェルの人物と して。」

最初の衝撃のあと, ハイネぱこの画面を子細に検討して, ド ゥラ ロシュの提示する強烈な

イノ ーごを真正面から うけとめてみせる。 「チ ャールズ I 世の居城ホワイ ト・ホールの黄昏の

広間のひとつ, 暗赤色のビロー ドの椅子O上に, 首を撥ねられた王の柩が置かれ, その前に

ひと りの男が立つ。 彼は静かな手つきで蓋を持ちあげ, 遺骸を視つめて卜る。 彼はそこにぽ

つんと独 り立ち, 形姿ぱずんく丿 と して, その姿勢には引き締った と二ろがな く , 表情は乱

暴な く らいに名誉心に裏 うち されて 卜る。 彼の衣装は通常の戦士のそれで・, 清教徒ら し く飾

り気がない。 暗褐色で長目のビロー ド製チ ョ ッキ, その下に皮革製の黄色の上衣。 乗馬靴は

ずっ と上まで穿卜ているので, 黒ト ズボンが眼につかぬく らいである。 胸に斜めに汚れた黄

色の剣掛けがあって, それには釣鐘状の握 りのついた剣がかかっている。 頭部の短か く 刈ら

れた黒っぽ卜髪には, 黒色の鍔のめ く 杵上った帽子が赤い羽根をつけてのっている。 頻には

白色の, 外側に折 り出された小さな力う ーがあ り, その下には鎧が見える。 汚れた黄色の手

袋。 剣の柄近 く のよ ー,。一方の手には短ト ステ ッキが持たれ, 他方の手には柩のあげられた蓋が

あって, その柩には王が横だわっている。」

ク ロムウェルと際立った重大な対照をなして卜るのぱ丿柩の中の緑の絹製のたっぷ りとし

た枕, ブラバン ト地方のレースで縁ど りされた眩 しいばか りの白卜死者のシャツの優雅さ」

である。 惨めに血を流す王権と卜引世界苫を目の当 りにして, 深刻な感じに襲われたハイネ

は, 頭を落 と した時には王冠を既に喪失 していたルイXVI世 と, 首そのものと一一緒に王冠をな

く したチャーリレズ I 世 とを比較して, レレイ ・ カヘーには涙を, チャールズ・スチ ュアー トに

は月桂樹を 昂 と揚言するのである。 「も っ と も激越な共和主義者ですら, 心痛打気分の悪さ

に圧 しひし力示 て」 しまった歴史の大きな変転の断面をハイネは執拗 と思われる く らいにな

ぞってみせる。 王とい う樅の樹を不幸な斧で倒す木樵のイ ノージ化, チ ャールズの頚の傷,

小太鼓が打ち鳴ら さわるルイXVI世の最期の場面……。

こ こでハイネはドゥラ ロシュと隣に陳列されて卜るロベールの卜|」手の到着』 を対比する。

それはまだ終っていな卜大卜なる時代の闘争の世界史と, 始ま り もなければ終 りもな卜人類

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48 一 條 正 雄

の歴史との対比であ り, また 「あの遥かな海鳴 りかアホ ウ鳥のつんざ く よ うな啼声に似たイ

ギ リスの方言の特徴」 と 「 卜入力ナの甘美な言葉がローマ人の口唇から響 く」 のとの対比で

もあった。 そ して将にハイネ一流の表現なのだが, この対比そのものが一挙に屋外の騒然た

るデモのざわめき とい う生なましい現実の中へ突き入れられる。 ハイネの文章は重苦しい筆

致から, ここで俄かに 「動」 に転ずる。 言わば, 苦悶と模索から認識 と決断への移行なのだ。

「ワルシャ ワが陥落した / われらの前衛がイトれた 7」

「このような喧噪の中では, 思想や形象のすべてが混乱し, 脇に片づけられて しま う。 ド

ラ ク ロワの自由の女神がすっか り顔付を変えて, 私の方へ歩いて く る。 激しい眼に不安の色

をたたえて といって よい く らいにして」 「死せるチャールズの顔もす っか り変った。 一挙に

変って, よ く見る と黒い柩の中には, 王ではな く殺害されたポーラン ドが横だわっている。

柩の前には, ク I==・ムウェルは既にみえず, ロシアの皇帝がいた。」 こ こには A. W . シュ レー

ゲルの説 く方向との明確な対置が看取される。 宗教に代って政治が(54)。

芸術批評がどんなに困難になっているか, とい う こ とを将にこの喧噪の中でハイネは感じ

ている。 分裂と誰もが論争する時代, 芸術はあらゆる点で平和のオ リーブを必要とするのに

も拘らず, 戦争の トランペ ッ トが鳴りひびかぬかと不安に駆 られて耳をそばだてる心ある人

たち, そ うい う状況に芸術家は囲続されている とい う没落感- ハイネはこ うい う状況認識に

立った上で, それに対置する考えを打ちだそ う とする。あのハイネの偉大なる師ヘーゲルは,

絶対精神の概念における 3つの形式の第一の形式である芸術が, 精神の最高のBedUrfnisであ

るこ とをやめたのが, われわれの (ヘーゲルの) 時代だ とみて とったが(55), 詩人ハイネは,

ハイネの時代を fatal なものと しては受けとめなかった。 「ゲーテの揺 り寵の傍で始まり, 彼

の柩の傍で終焉するであろ う芸術時代についての私のかつての予言は, その実現に近づいて

いるよ うだ。 今の芸術は亡びるに違いない。 それはこの芸術時代の原理が依然と して命脈の

沓きた陳腐な体制, すなわち神聖ローマ帝国の過去に根ざしているからだ。 従って, この過

去の色槌せた残滓のすべて と同じ く , この芸術時代の原理は, 現代とどう し ようもなく矛盾

対立に陥入っている。 時代の動きそのものでな く , この矛盾が芸術にとって極めて有害なの

だ。 むしろ, この時代の動きそのものが芸術を旺盛にするものである筈」 だ と述べてハイネ

は, アテネやフ ローレンスの故事, フ ィ ディ アスや ミ ケランジェ ロが 「自分たちの芸術を時

代の政治から切 り離さなかった」こと, ダソテは追放の身で, また戦争の苦難の中で, 「己の

才能の没落をでな く , 自由が亡びるこ とを歎いた」 こ とをもあげて, 新しい時代と高らかに

共鳴する芸術の再生に思いを馳せるのである。

「それとも, いずれにせよ芸術や世界そのものが悲しい終末なのだろ うか ? 現在ヨーロッ

パ文学の中にみられる圧倒的な精神化, それはひょっ と して近づいた命脈の轟きる前兆なの

だろ うか ? …… それ と も 白髪のヨ ー ロ ッパは再び若や ぐのだ ろ うか ? そ して ヨ ーロ ッパの

芸術家や文筆家のたそがれゆ く精神性は, 死にゆ く者の不思議な予感能力ではなしに, 再生

のぞ く ぞ くするよ うな前駆感, 新しい春を感ずる息吹きなのだろ うか ? 」

このよ うにぎ りぎ りのと ころで, 自分も含めての真剣な存否を問 う検証の言葉を経て, ノゝ

イネは新しい芸術の再生とい う困難な課題を フ ランス人たちがなし遂げるであろ う こ とを確

信して, 展覧会の報告を結ぶのであった。

Emst Elster : Heinrich HeinesSiimtlicheW erke Bd.4 S.73 (以下 W erke, Bd.4 S.73 と記 す )

植村鷹千代 (訳) : ドラ ク ロワー 芸術論 (創元社 1951年) 35頁

(1)

(2)

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49ハイネの 「フランスの画家たち」 ( 1831年) について

(3) Michael Mann : ZeitungsberichteUber Musik u.Malerei (lnsel-Verlag, 1964) S.186f

(4) MichaeI Mann : a.a.0 . S.13

(5) E.KrUger : Heineu. Hege1(Scriptor Verlag Kronberg/Ts.,1977) S.208f

(6) W erke, Bd.4 S.305f

(7) E.KrUger : a.a.0 . S.16f

(8) Hirth : Briefe (333) II . S.6f

(9) FritzMende: Heine-Chronik S.89ff と く に断 りのない場合, この項の生活描写はこれによる。

(10) Hirth : Briefe, Erlauterungen, (331) V . S.9

(H) Beatrix MU11er : Diefranz6sischeHeine-Forschung 1945-1975 (Verlag Anton Hain, 1977) S.172f

(12) JacquesGrandjonc: DiedeutscheEmigranteninParis, in。HeineKongreB1972“(Campe, 1973) S.166

(13ド W erke, Bd.4 S.25

㈲ Hirth : Briefe (329) I I . S.3

(15) Hirth Briefe (484) II . S.146ff

㈲ Hirth fBriefe (330) II . S.3f

(17) Beatrix MU11er : a.a.0 . S.170f

(18》 M ichael W emer : Begegnung mit Heine (Campe, 1973) S.231

(19) M ichae1W emer : a.a.0 . S.240

圀 M ichael W emer : a.a.0 . S.234

(21) Ludwig B6me : SamtlicheSchriften (Joseph Melzer Verlag, 1968) S.11-60, an Jeanette, und S.859

-862, an B6rne

(22) M ichae1Wemer : a.a.0 . S.241

回 H .Houben : VerboteneLiteraturvonderKlassischenZeitbiszurGegenwart(Georg01msVlg., 1965)

S.385-395 この項は主と してこれによった。

(24) Hirth : Briefe (379) I I . S.48f

回 W erke, Bd.7 S.59

叫 Hans-Peter Reisner : Literatur unter der Zensur一一一DiepolitischeLyrik desVormiirz (Ernst Klett。

Stuttgart, 1975) S.28

(27) Hans-Peter Reisner : a.a.0 . S.33f

冊 W erke, Bd.3 S.167

(29) H .Houben : a.a.0 . S.388

叫 Hirth : Briefe (315) I . S.468f

(31) W erke, Bd.4 S.69

励 W erke, Bd.4 S.72

(33) H irth : Briefe (31) I . S.45f, und (Heine, Samtliche W erke 6, DUsseldorfer Ausgabe) S.493 。der

polnische Bauer galt seit dem 18.Jh. als lnbegriff des Schmutzesund der N iedrigkeit.“

(34) この項はと く に断りのない限り, 岩波歴史講座世界史第18巻271頁以下, 300頁, 第20巻221頁以下, MEW

Bd.5 S.297, 325, 333 を 参照 し て い る。

叫 MEW Bd.5 S.535f

叫 レーニン全集第 6巻 472頁以下 (大月書店, 1972年)

(37) 岩波歴史講座世界史第20巻 239頁

(38) Fritz MendetHeinespolitischesTerminologie (ttudesGermaniques, 1974) S.321

剛 W erke, Bd.4 S.25f

㈲ W erke, Bd.4 S.36-40 のハイ ネの文章を断 りのない限 り この項に引用 してあ る。

(41) 中井あい (訳) : ドラ ク ロワの日記 (二見書房, 1969年) 前文 (植村鷹千代) 参照。

(42) 植村鷹千代 (訳) : 前掲書, 64頁

(43) 高畠正明 (訳) : ドラ ク ロワ (美術出版, 1974年) 「キオス島の虐殺」 「サルダナパールの死」 の項。

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50 一 條 正 雄

(44) 植村鷹千代 (訳) : 前掲書 128頁以下

㈲ 中井あい (訳) : 前掲書 8頁

㈲ Michael Mann : a.a.0 . S.188

(47) W erke, Bd.4 S.40-46 か ら, 断 りのない場合, ハイネの文章は引用されている。

㈲ Michael Mann : a.a.0 . S.190

㈲ Hegel : Asthetik Bd.1 registriertvonFriedrichBassenge(AufbauVerlag, 1965) S.269f なお, 訳語に

ついては, 竹内敏雄 : ヘーゲル美学 第一巻下 (岩波書店, 1970年) を参照した。

(50) 山村房次 (訳) : 美学の基礎 (啓隆閣, 1973年) 204 224頁, ドイツ古典観念論の美学 (ヘーゲルの項)

(51) 竹内敏雄 (訳) : 前掲書 669頁以下

剛 W erke, Bd.4 S.56-74 か ら, 断 りのない場合, ハイネの文章は引用 されている。

剛 MEW Bd.22 S.300f (Einleitung zur englischenAusgabeder 。Entwicklung desSozialismus“)

闘 Michael Mann : a.a.0 . S.191

回 Hegel : VorlesungenUber dieAsthetik (SuhrkampVerlag, 1970) Bd.13, S.142

なお, 本文中に使用した 3点の図版,

Eugane Delacroiχ : Die Freiheit auf den Barrikaden

Aleχandre Gabriel Decamps : Die Nachtpatrouille in Smyma

Paul Delaroche : Cromwe11 6ffnet den Sarg K arls l。

は M ichael M ann : a.a.0 . か ら借用 し た 。