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Title <論説>平安初期の官人と律令政治の変質 Author(s) 佐藤, 宗諄 Citation 史林 (1964), 47(5): 631-665 Issue Date 1964-09-01 URL https://doi.org/10.14989/shirin_47_631 Right Type Journal Article Textversion publisher Kyoto University

Title 平安初期の官人と律令政治の変質 Citation 47(5 ......1 (631 ) 若干の復古的現象の背後にあるものは、宮田・公営田その他の

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Page 1: Title 平安初期の官人と律令政治の変質 Citation 47(5 ......1 (631 ) 若干の復古的現象の背後にあるものは、宮田・公営田その他の

Title <論説>平安初期の官人と律令政治の変質

Author(s) 佐藤, 宗諄

Citation 史林 (1964), 47(5): 631-665

Issue Date 1964-09-01

URL https://doi.org/10.14989/shirin_47_631

Right

Type Journal Article

Textversion publisher

Kyoto University

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平安初期の官人と律令政治の変質

出本

オよ誉口口子

安初期の官人と律令政治の変質(佐藤)

Ψ 【要約回公聴の分解もすすみ、律命的な土地制痩も負担体系も根本約に動揺していたにも拘らず、とにかく九世紀を通じて\まが 皿

一りなりにも律令政治が展開しえたこと鯖実である・それが蒙的には律令的支配階級にと・てかわるべき階級酌勢力の未熟さに 

… よそいたこともまた周知のことである・だが薩撲政治の罵醸について考えると・それは当面・国家によ・て〃良吏”として把握~

㎝ 

ウれた官人1とくに国司i達を分析することによって理解できるようである。彼ら“良吏”はまぎれもない律令宮入でありな 一

一 

ェら、従来にはみられない現実性をもっている。本稿ではそれを論証するために、穴騨史の史料性を検討することからはじめ、そ  

… 

アの政治の一応の成功の原囚であったし、それが次に律令国家を変形させた古代國象としての摂関政治体制の出現を保障する一つ ㎝

 の前欝役割藁したと考えられるのである.       ・       }

   一・ーー…’㌔・、粒曳更一、、<二藍~~<ーー》..~♪㌻一、一、・駕 -~・㍉}-監~<f-}、「}~-孕~、ゼ}~、~ぜノ、{~」「、~一㌔  ~」 -「  ・ ・.・ .  ・}♪  ・ ・一 隻   ㌔ ・)㌧ヒ.、 ・℃♪・、 ・{rコ「津」くくf}~門1>}〉}〉、ぐ,一;~「く允

                              ではなくして、むしろその出発点でなければならぬしとい

    は じ め に                             ①

いま、わたくしの脳裡をかすめるのは「日本古代史の諸

問題は古代が崩壊する時代の分析からのみ正しく提起され

る、古代から中世への転換時代の研究は古代史研究の終末

う石母田正氏のことばである。わたくしはここで平安初期

の政治的社会、及びそれがいかなる点で八世紀のそれと異

るかを明らかにしょうとしている。班田農民の闘争の成果

が平安初頭の政治に何をもたらし、それが次代に何を残し

(631)1

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たか、その具体的あり方を実証して律令制の本質を理解す

るための一助にしょうとするのが本稿の園的である。

 ところで本論に入る前に、いちじるしい豊本古代史研究

の進歩にも拘らず、比較的停滞の感がある平安初期政治史

について、画期的な業績をあげられた石母田氏の『古代末

期の政治過程及び政治形態』にふれておかねばならない。

                      ②

そこで氏は平安初期を評して次のように論じられた。

  この一代は、奈良時代における社会的、政治的矛盾の展開に

 もかかわらず、真に古代麟象を変革すべき階級的勢力が未成熟

 であり、したがって穣令制的政治体制の一直的再建の駐留が果

 される条件が存在し、 一世紀にわたって相霊的な政浩的安定が

 髭られた此此であった。

この指摘はそれ自身としては、きわめて当をえており異論

をさしはさむべくもない。しかし、具体的に「律令制的政

治体制の一時的再建の企図」とその「条件」とはどのよう

なものであるか、この点についての石母照氏の分析にまで

                      ③

立ち至ると問題がある。一方で氏は次のようにいう。

  平安初期における律令体制の糟毛的安定、皇室の権威の圓復、

 若干の復古的現象の背後にあるものは、宮田・公営田その他の

  撮営鰯の拡大と駒牽、勅旨田の急速な殼置筆に典型的にみられ

  るように、崩壊しようとする律令体鰯および班田鱗を古代的舞

 奴隷働的形態において再編成しようとする企図が一晦的に成功

  したことにあった。律令体勧は 動的にせよ、まだかかる再編

  成を可能ならしめるだけの政治力をもっていたのである。

  ここに二つの問題がある。一つは律令体綱の相対的安定

                 う   も

・の背後u奴隷綱的形態での再編成の典型とされた勅旨田・

                          ④

宮田等が氏のいわれる程に意義づけうるかという点である。

今一つは右を認めるとしても、氏の研究では直接には明ら

かにされていない八世紀以来の律令体制そのものの内部的

な変質過程こそが、律令体制の没落過程の研究にとって主

題となるべきではないかということである。その意味にお

いて再検討が必要ではあるまいか。いいかえれば、それは

石動田衡が皇室の豪族化をもって政治的安定の要因とされ

            ⑤

た方法霞体に関連してくる。少くとも政治的安定が一時的

にもせよ可能であるためには、支配階級と被支配階級との

間に露呈しはじめた矛盾を緩和するとそれなりの南湖が成

立していたと考えるべきであり、それは決して皇室の豪族

化といって解決する問題ではあるまい。

2 (632)

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平安初期の官人と律全政治の変質(佐藤)

 古代園家没落の歴史を追究するためには、被支配階級の

動向にふれつつ支配階級の対応E政策の具体的変遷を明ら

かにしなければならない。それなくしてこの過渡期の評価

もありえない。本稿の目的は右のような反省と視角にたっ

て平安初期政治史の 端を究明することにある。ここでは

公民の動向を基本にそなえ、直接には「麗卒伝」の特色を

明らかにし、その背後にある平安初期における律令政治の

歴史的特質にふれたいとおもう。かかる意味において本稿

は平安初期政治史研究のための序章にすぎない。

 ① 贋糧園道悪『中世的世界の形成臨初版猷。

 ②石偉撫藍玉『露代末期政治史序説』;賀。

 ⑧問『霜代末期政治央序説』三二一頁。

 ④ 例えばこれに対する批判としては書写展三郎氏「院政政権の歴史的

 ”評舗」 (同堺.古代国家の解体臨所叡)がある。私もこの点に聞する限

  うは林騰氏の説に養成である。

 ◎ この点、門脇禎二氏の批判は当を得ていると思われるハ晦「律令体

 制の変貌」岐波講座.『日本歴史観3所収)。

一 「蔓三三」とその特質・1

 古代史研究にとってもっとも基本酌な史料である「孟母

史しは、その性格・編纂方法によるのか、比較的個性に富

んでいない。それは従来から臼本書紀、それに離日本紀を

除けばほとんど編纂過程や史料価値の検討が行われていな

いことに懸想的である。しかし「いやしくも史たる以上、

その時代の大勢を反映し、撰者の欄性を暴露しないものは

ない」として、坂木太郎氏は緻密な分析からそれぞれの欄

                     ①

性とその雨飛を追究され、貴重な成果を収めている。そう

した坂本氏の分析の一つの中核となったのは、宮人等の麗

卒に際してその伝記をのせたいわゆる「新卒伝」である。

しかし、それは麟史の性格を示すものとしてのみではなく、

九世紀の政治史を考える上にもきわめて重要な意義を担っ

ているとおもわれる。そこで、まず坂本氏の業績によりつ

つ、 「箆卒伝」がいかなる特質をもっているかを検討した

い。もとより「伝」の検討は六幽史それぞれの編纂過程に

挺接かかわる閥題であって安易に論ずることはできない。

ここでは本稿の主題にかかわる形態の一都を論ずるにとど

めて、全体の検討は後田を期したい。

 一般に六鵬史は後になる程内容が豊富となり、体裁が整

ってくるといわれているようである。そこで、内容の検討

に入る轟95に、 「伝」のごく一般約な形式上の問題について

3 (633)

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め概略を記して、後の便宜に資したいとおもう。

   も   も

 まず形態の問題である。普通「伝」は種々雑多な形態を

とっているようにおもわれるが、そのもっとも整備された

ものは、 (若干の変動はあるが)基本的にはおよそ次のよう

な型をとっているようである。

 宮山(A)・流民(B)・氏姓名(C)・系滋…(D)・経罷(建).年齢

 (F)。批評(G)                   .

 本稿で問題にしょうとするのは経歴(狂)の内容である

が、それは後述するとして、まず右のような型の「伝」が

日本書紀をのぞいた五二史ではどのように存在するか、調

査の結果を表示しておこう(第一衷)。

第-袈

記事総数

.三文続日 続

録録紀紀IE占

九八九四EEil一二ニ ニ ブし プL 三三 二二

二六六三九一一三四〇〇九六

駈け箔遵鋸戸冠蛍葛

一一 @二  四七ノN一一一一プく1狸六

〇三七一一七プL

ノ、 ノ、

七〇二三八一

①続日本紀州ソノ成立車情カラ巻二+ヲサカイトシテ上.下三分シ

 タ。

②総数ノウチ、続日本後紀ノ六、三代実録ノ=ズ紀略ノモノデアル。

 ③『門伝しナク記事ノミノモノ撫ノウチ、紀二二ヨルモノハスベテ省イ

  タ。マタ三代幽天録ニハコノ他}コ瑚々Lト記サレタモノが三八アル。

 右の結果、三日本紀(上)では殆ど「弓偏は存在せず、

わずかに父の名を記した系譜(D)や年令(F)が記され

ている例が約三割を示しているにすぎない。しかるに一瞬

本紀(下)になると約四割はほぼ完全な「伝」を有するに

至り、文徳実録に至ると、約九割五分が完全な「伝篇をも

つに至っている。即ち、ほぼ整糠された「伝」は続臼本紀

巻二十一以下にはじまり、文徳実録にいたってほぼその全

てが整備された形態をとっている。また右の表からも明ら

かなように、 「伝」の形態に関する限りは三代実録よりも

文徳実録の方が整備∵統一されている点は、その特色を考

える場合に一つの参考となる。

   ヤ  ヤ  も  つ  や  め  つ  う  も  も  ぬ  ゐ  で  も

 次に麗卒記事と官人の官位との関係について述べよう。

                        ②

この点についてはすでに坂本太郎氏が述べておられるが、

ここでも調査の結果を表示しておこう(第置蓑)。

 左の結果、麗卒記事が国史に載せられたのは、続日本紀

から続霞本後弓まではほぼ四位以上の官人に限られ、文徳

文録・三代実録にいたって五位官人を含むに壼っているこ

4 (634)

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第慧表

続日本紀(上)

続日義紀(下)

日本後紀

続日本後紀

文徳実録

三代実録

数総

難一位:

従一位鑑二位従二位正霊位従三位正四位上正四位下従四位上従四位下正五位上正五位下従五位上従:ff,三下

外従五位下

六位以下

三六六ヨ九一一〇四五〇九六1 1 1 1 ,..一 ,,,,

nt 撃撃撃?.I

at nd 一 lzva E一1S・“

[ a」 :Lq =: las -lil

八1証四穴二

li_一=mu憲

瓢七七三三1フk凶⊂)ユエ五二ニソし。嵩   ご一輔灘四X八四Pt照ntwh 1 1 1 1 .,,

=: )”x‘ 1 1 1 =’

豊艶1__一_im獅蝿鼈: X“ i 1 pt nt

e_=11ilill二i

安初期の官人と律令政治の変質(佐藤)

 註紀略ニヨルモノモスベテヲ含ム。

がわかる。次に「伝」と官位との関係が問題であるが、

れはそれ自身として特徴はないようにおもわれるので、

略する。

以上の二つの側面を、坂本氏の研究を参照しつつ、統一

に考えれば次のようになるであろう。続摂本紀の前半で

原則として四位以上の宮人の麗卒の場合に記事を載せる

             ③

とにしているが、道公首名の場合を唯一の例外とすれば、

伝」はほとんどなかったに等しい。しかし続日本紀も後

に入ると「伝」の内容も徐々に詳しくなり、日本後入に

たると官人に対すゑ評価も加わって「伝」としての体裁

より整ってくる。しかし続日本後紀までは、麗卒記事が

せられるのは原則として四位以上の官入に限られており、

かもそれらの官人すべてに伝記が戴せられたわけではな

った。ところが文徳実録になると麗卒記事は五位官人を

むと同時に、それらは百済王安宗を唯一の例外として、

の官人にはすべて「伝」が戴せられるにいたる。こうし

麗卒記事・琵卒伝・麗卒官人が統一されるのであるが、

れは三代実録にいたるとやや統一性に欠けてくるようで

る。それは第-表からも明ら.かなように麗卒記事のみで

伝」の戴せられない三舎が増している(更に内容的にも「云々」

いった省略形記式が、単に雛卒記事・「伝」のみに限らず、他の

にも多くみられる)からである。わたくしが三代実録にい

って「内容の詳密に加ふるに体裁の整斉を得た」という

                  ④

本氏の結論に若干の疑義を感ずる所以である。またそれ

関して今一つ述べるならば、坂本氏は;一代実録では五

                    ⑤

以上の男女について必ずその伝がのぜられている」とさ

るが、例えば従四位下膨宗王は、三代実録貞観十三年(八

一)十月目三日条に「弘仁身卒」とあるところがら、 こ

以前に卒したことは明らかであるが、貞観七年正月越前

 (635)

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守に任ずる記事を最後に卒記事は載せられてはいない。四

位においてもかかる状況である点を考えるならば、この坂

本氏の説には疑問をいだかざるをえない。詳しい検討はし

ていないが、後述するごとく、文徳実録・三代実録にある

五位宮人の卒記事は、必ずしも五位で卒した官人すべてを

網羅しているとは限らないとおもっている。いずれ詳しい

検討は今後に期したい。

 しかし,大体においては坂本氏の説は認めらるべきであ

り、 「六国史は時降るに従って人物の伝記の戴せる範囲を

拡大し、伝記の有無において最初と最後とでは著しき対照

           ⑥

を示すに至ったしのである。では、それはいかなる理由に

よるものであろうか。恐らく一般には国史の内容が詳密・

豊富になった結果であって、実態の変化をそれから論ずる

                       ⑦

ことは適楽な方法ではない、と考えられているであろう。

そこで「伝」の内容を呉体的に検討しよう。

 先に述べた約二百例に及ぶ整備された「縁砥のうち、坂

本氏をはじめとして従来注置されてきたのは、先の基本約

型に即していえば評価(G)の阿分についてのみであった

といってよい。その評価(G)は夏日本紀の後半部にはじ

まり、日本後紀にいたってもっとも顕著となり、続日本後

紀以下では経歴(E)が詳しくなるのとは反対に評価(G)

は例外なく消極的なものとなる。例えば臼本匠紀には「挫

琴を好み、他に才能なし、哀捌ありと難も、興に乗じて

                  ⑧

圏を煽る、財貨を叢り眠し、蔵業を営み求む」といった痛

烈な批判がある。坂本氏はこうした特微から、それが終始

一貫この書の撰修にあたった藤原緒嗣の思想・性格によっ

           ⑨

たのではないか、とされた。とすると、こうした評価(G)

の部分はその記事のある時点ではなく、更にその後の国史

の編修時に書かれたものと理解すべきであり、その史料と

しての性格を考える場合には、国史の編纂過程を十分考慮

しなければならないことになる。

 しかしながら「伝」は単に右のような点についてのみ注

口すべきではあるまい。先にも少しふれたように、 「伝」

における評価(・∫()のしめる劇舎はそれ程大きなものでは

ないとおもわれるからである。ここでは比較的に検討しや

すいとおもわれる経歴(E)の内容について論究し、「伝」

の史料的価値を検討する一助にしょうとおもう。勿論、こ

れは形態・内容等さまざまであり一概に論ずることはでき

6 (636)

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安初期の宮人と律令政治の変蟹(佐藤)

ない網も・とも典型的とおもわれるものを後の便宜のた

めに載せておこう。

       ⑪

  〔伴宿禰成益伝〕

        ゐ   へ    も   ヘ    ヘ     ヘ   ヘ   ヘ     ヘ   ヘ     ヘ   へ

 成益少在二大学}長習漏文章 応二進重氏}遂得昌登科一弘仁十閥年

 為一…左京少進}天長元年秋為 式部少丞一七隼春左転為二右京少進一

 九年冬叙 従五位下一承和三年夏為漏大蔵少輔}冬遷昌冷戦弁一

                    ヘ    へ  も  ヘ  ヘ  ヘ  へ

 十一年夏為二左中弁}十二年春叙二従四三下}依一法隆専僧善燈

 ヘ   ヘ   ヘ    ヘ   ヘ   ヤ   ヘ   ヘ   へ      ぬ   へ   も    ヘ   ヘ   ヘ   ヘ    へ   ゐ   ヘ   ヘ   ヤ  ヘ   へ    ぬ   へ

 訴訟事一弁官猛禽解却 後娼狂昌丹波権守一境内粛然團人称二其廉

 羅一(成心為レ人質滋、在レ公奉レ法 不レ阿二権費一)

  ( )は経歴ではないが便寛によってかかげておく。

 こうした「伝」の経歴(E)は一陣何ら特徴のない平凡

なもののようにみえながら、よく検討していくと、そのな

かにいくつかの共通の特徴が見出されるようにおもわれる。

例えば先の伴成益伝には、 承和十三年(八四六)に法隆寺

僧善憧訴訟事件によって左中弁を解却されたこと、丹波権

守になった折に境内が粛然となり国の人肉がその廉潔をた

たえたことなどが記されている。このように単なる履歴の

みではなく、その治績なり具体的言動が記された場合を検

討していくと、前の二薫例の「伝」のうち経歴(E)から

する限り(この場合は罫書共通に考えてよいようである)、それ

は次のように整理することができ、一定の特徴を指摘でき

るようである。詳しい考証は省略して、以下簡単に例をあ

げつつ論じておきたい。

      も  へ  も

 まず第 に文化面に関することは比較的詳しく詑されて

いることである。学制・遣唐使或は大営会などの行事、卜

術といった類である。学制についてはすでに桃裕行氏の研

究により一般的動向として注目されてきたところであり、

「少くして大学に遊び、史漢を渉猟す」といったことは殆

                   ⑫

ど「伝」の足型となっているといってよい。更に平安初期

                  ⑬

の文人として著名な賀陽朝臣豊年の「伝」には石上朝臣宅

嗣の芸亭院で「数年の問、博く群書を嘉しめたことが記さ

              ⑭

れており、善道朝臣真頁の「伝」には天長八年(八一七)

令義解撰修に加わった事情が記されている。かかる例は数

多く、内容的には儒教・律令といった面に限られず、算術・

ト術などもある。またこれに類するものとして故事に通じ

ていた池田朝臣春心が「古礼之体」によって大営会を行っ

            ⑮

たことなども記されている。

 次に遣唐使のことについては特に詳しい。そのうちでも

7 (637)

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弁論廿三年の場合には「海を渡りて唐に封り、大使と倶に

    ⑯

天子に謁す」とあるように比較的簡単であるが、承和元年

から五年の場合のものは詳しい。例えばその折に遣唐墨判

             ⑰

官となった長答宿称高名の「伝」には承和三年(八三六)

大使藤原朝臣常嗣に従って第一撃に乗り船内の雑事をすべ

て委任されたことや、難波三津浜で従五位下に叙されたこ

と、避秘して大唐揚州海竜県桑田郷桑梓浦上に着いたこと、

長安に到って翻使がいなかったため上殿が許されたこと、

が記されている。この承和五年の遣唐使の事情が何故詳し

く詑載されたかは、後述する如く、これが実質上は最後の

遣唐使であり、有名な副使小野朝臣篁が下船した事件の起

たときのものだからではないかとおもう。

 しかし、いずれにせよ、かように文化面の詑述が「伝」

に多いことは注旨しなければならない。それは律令制の文

官優位といった一般的な性格によったとも考えられよう。

しかし、漢詩集などにみられるように、この平安初期が学

制の隆盛期であったという事実を想起するならば、 「伝」

に文化面に関する言動が記されたのはすぐれて平安初期に

おけるかかる動向を反映しているからだと理解できるので

はあるまいかα更に後に論ずるように、それは当時変貌し

つつあった律令制を再編するために儒教的徳治主義で官人

を再武装させようとしたからであり、また高度な文化的行

事をもって崩壊しつつあった律令捌の外形を掩蔽しようと

したからではないか、とおもう。

 「伝」に比較的詳しく記載された第二の点として、先の

          も  も  で  も  も

遣唐使事件にふれて、政治的な面について述べよう。それ

は藤原恵美朝臣押勝の変、道鏡をめぐる事件、薬子の変、

承和の変、(癒天門の変)、更には伊豫親王事件、法隆寺僧善

                     ⑱

置訴訟事件、先述した遣唐使下船事件などである。先の険

難の変から雲壌門の変まではすでに従来から注臼されてい

る事件であり、改めて論ずるまでもあるまいが、その他で

も例えば承和十三年(八四六)の早退訴訟事件は薗田香融

砥も述べておられるように「僧尼令集解」にくわしく注釈

されている点から考えれば、当時の法家たちにとっては重

            ⑳

大な事件であったと考えられ、事件に関係のあった和気朝

臣真綱・伴宿章魚益・(小野朝照篁)・登美真人童名・讃岐朝

臣永直・正躬王・伴野畑善男等の「伝」に比較的詳細にし

     ⑳

るされたのも、当時の人々にとって強く印象に残る事件で

8 (638>

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  あったことのあらわれではないかとおもう。それは大岡二

  年(八〇七)十月の伊豫親王事件でも指摘できる。 これは

  藤原朝臣宗成が中務卿三贈爵豫親王と謀って国家に反抗し

  ようとしていると大納言藤原朝臣雄友が右大臣藤原朝臣内

  麻呂に通告したことによって発覚し、十一月十二日には親

  王母子が薬を仰いで自殺した事件である。これは臼本紀略

           ⑫

  にも「時の人蔭を哀れむ」と記しているように、或は貞観五

  年(八六三)の御霊会の対象となっていることからも知ら

  れるまうに、蜜時岡情を誘う事件であったようである。こ

  の事件に関し、この時左近衛中将として親王の第を囲んだ

          ㊨               、 、 、 、 、 、 、 、

  安倍朝阻兄雄の「伝」には、 「伊豫親王罪なくして廃せら

  も

㈱ る、上、盛んに怒る、群臣敢えて諌べる者なし、転記辞に

鮒,

R・颪手芸・と能わず・讐塗腐之義・す」

磯とあり・国史とはちがぞ親王の無罪を記して兄雄の言動

治懸を嘗てい、.わたくしは、」うしたなかに、公式の書、世

覇 論とのちがいを君取するとともに、 「伝」がそうした事件

叡、当時の状況を反映していると考えるがいかがであろうか・

の醐・れは次の遣唐使の下船事件についてもいえそうである。

鞍 承和元年の遣唐船は二度も失敗し、承和五年(八 天)

六月にいよいよ出発という時、捌使小野朝臣篁は病によっ

て進発することができなかった。だがこれは仮病であり、

原因は別のところにあった。それは渡唐に失敗し漂廻の後

に、大使藤原朝臣常嗣が上奏し、卜定した結果、篁がのる

べき第二舶を第一舶として大使がのり、旧第一舶を第二舶

として翻使小野朝臣篁が乗ることになったことであった。

彼は幽憤を懐き「西道謡」をつくって「遣唐之役」を風刺

したのである。そこで嵯峨太上天皇が大いに怒り宮位を剥

              ⑳

奪し隠岐国へ流罪としたのである。これが東日本後睾に記

                    ⑳

された事件の概要であるが、小野朝臣雛の「伝」によると

その事情は一腰あきらかである。

 まず第一舶と第二舶とを交替したのはト定ではなく(実

際には)第一舶が「水涙穿餓」状態であったかららしい。

続いて「伝」にはこうある。

 初定二舶次第一之臼 択鳳取実者一揖 第一単一分配之後再経二

 漂廻一人一朝改易 配昌当危器一以下己福利一代昌他害損一論晶之

 人情一是為一応施一謡言 爵昌一砂杭率レ下(中略)是篁汲レ水素

 レ薪 嶺レ致二匹右方孝 耳

彼の論理は明快である。こうして隠岐に流された篁は常に

9 (639)

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「講行春七言十韻」を賦し、それは「文章奇麗 興味優遠」

であり知文之輩は翠嵐しないものがなかったという。恐ら

く「西道謡」と「調弓懸」とは同じような内容を含んでい

たとみてよかろうが、この一方では「多く忌韓を犯しした

詩が、他方で「文を知るの叢、再論せざる莫し」といわれ

るのはどう理解すべきであろうか。ここでわたくしは先の

伊豫親王事件における国史と「伝」との間に立場のちがい

を含むという点を想起するのである。この場合、国史では

篁が痴愚にふれた以上刑罰は当然のこととしており、それ

はたしかに律令翻の基本的理念であった。だが「伝」の、

肖己。の利害のために第一舶と第二舶とを交替することは

「逆施」であって王命たりとも反対するのは当然という篁

の論理もまた律令綱の基本的理念の一面であった。これは

前者がより上級の官人の理念であるのに対し、後者は比較

的下級の官人のそれといいかえることもできるであろう。

この律令欄の理念の二つの側面が国史と「伝」の聞で使い

わけられていることはその性格を考える上に一つの示唆を

与えるものである、といえよう。もちろん後者が個人の伝

記である以上、それは千重とも考えられる。だが、かかる

内容のものがとにかく国史のなかに「麗伝」として詳しく

収載されたことは、(その編纂過程をどのように考えようとも)

文徳実録の編纂者(例えば藤原基経、菅原是善、墾田良臣)が

小野篁の合理性を認めなければならなかったことのあらわ

れと理解するほかはない。彼はまさに「奉国を期した」の

であ砺・その背後に先述したところ高様に「伝」が歪

の社会的動向を反映している点を推測するのも、あながち

強弁とはいえまい。後述するように、こうした篁のような

合理性が政治の前面にでてきたことこそが平安初期の政治

社会を特色づける一つの要因でもあるとおもわれる。更に

この事件に関して付言するならば、先述したようにこの度

の遣唐使の遺脱が詳しく書かれてはいるが、それらが(途

中で漂流したことは記しても)唐での文化摂取については全

くふれていない点は注目してよいのではあるまいか。それ

は先の事件にみられるように、当時において一つの重要な

政治的事件であったこととあいまって、彼らが渡佳したこ

と一そのことが最大の関心事であったからではあるまい

か。実質的にはこれが最後の遣唐使であることを考えるな

らば、それは至極当然ともいえよう。そこではもはや唐で

10 (64e)

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安初期の官人と徳令政治の変質(佐藤)

何を学んでくるかは殆ど問題ではなかった、とおもわれる

のである。

 このように「伝」に政治事件に関する言動がしるされ、

それは必ずしも国史そのものの記事内容と一致するとは必

らない。この国史の記事とは矛盾するような内容のものが

「伝」にのせられたということは、「伝漏がその成立時一

或は国史、編纂時iのある一定の状況を示しているとしか

考えられない。

 更に第三に「伝」に比較的詳細に書かれた例として、藤

原朝臣緒嗣の「伝」や安倍朝臣安仁の「伝」にみられるよ

   め   も

うに、天皇(或は太上天皇)との関係をあげることができる

が・ここでは論述すること箸略した魎

 以上、 「伝」について一、二の面から若干の検討を加え

てきたのであるが、その史料価値について、ここでは当面

つぎの点を確認しておきたいとおもう。すなわち「伝」の

経歴(E)の部分に関する限り、単に国史に収載される事

実の範囲が拡大したということにとどまらず、国史とは若

干立場を異にする「伝篇i或は国史iの成立時の状況が

反映しているとみられることである。

 そこで次にこうしたことを含めて、本稿の主題である

「伝」の経歴(E)における窟職とその記述の特色につい

て検討したいとおもう。

① 城本太郎氏「六野史について漏(『本邦史学史論叢駈所取)、「六園史

 とその編著」(『歴央教育駿二一じ、『隣本の鯵史と史学』、および「史料

 としての六驚史」(『旧本鷹史魅一八八)、「六岡史と伝詑」(信濃』}六

 -薫)、「六園由人と文徳実録扁(『脚山論刀謳附蕪・甲噌記念一調文集』所…収)、「六

 国史の文学性」(『四圏語と踊文学』四一…四)。

② 

旧坂本氏晶駒掲悪澗文「山ハ蘭四巾八について偏 「六爾門南人と文晶偲笑録」など。な

 お表i・護ともに氏の整理された衷と含致しないが、整理の籏準のち

 がいによるものであろう。

⑥ 続R木山 養老二年陽月乙亥条、道公首名立。

④ 坂本氏前掲論文「六岡史17』ついて」。その後、人物伝については文

 徳実録がもっとも盛んだされている(前掲コ六岡史と文徳実録」)。ま

 た氏は盃代笑録に顕著な「云々」を「書写のさいの略文」とされてい

 るが、 ただちにこう理解してよいものか、 少しく疑聞もある (前掲

 「六圃史の史料性」)。一二代実録の史料的性格については鎧働をあらため

 て考えたい。

⑤ 坂太一氏一回工費『日本の夏中ハと史学』三〇買。

⑥ 坂本氏前掲論文「六園史について」。

⑦ 例えば佐伯麿清・佐藤治郎両氏は「六難史の中で櫃武朝ごろから官

                     セ  ヘ   ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へ

 瞭の美談が記載される例が多くなってくる。これは現実に官僚の美談

 ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヤ   ヘ   ヘ   ヘ   へ

 が多くなったのではなく、中岡風の照史編纂の影響があったと考えら

 れ」と述られている(「再び『律令欄の再検討』をとりあげるにあたっ

 て」『歴史学研究駈一 七六)。私は後述する如くこうした一般釣、消極

11 (641)

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 的な評価ではなく、なぜ国史に記載されたのか、という毅極爾を評価

 すべきだとおもう。いずれにしろ、膨大な原史料から取捨選択し、編

 集するわけであり、その特質を考えたいのである。

⑧掘本後紀延暦十六年二月丁丑(21)条、大中匝朝臣諸評伝。

⑨坂本氏前掲論文「六圏史とその編者」その他。

  この点について、坂本氏が緒嗣偲入の性格というかたちでとらえら

 れたのに対し、門脇禎工氏は当時の政治史全体のなかに爺婆づけられ

 ている(「律令体制の変貌」)。十分な論証は加えられていないが注目

 すべきである。

      リ  ヤ                                                  マ  ヵ  う   で  キ  キ   ヤ  あ  へ

⑩傍えぱ「数窟を歴事し」(橘逸勢伝)、とか「兵部大輔左中弁右兵

 衛督を庶事し扁 (紀朝臣興道伝)など。また、ここでは『伝駈の原史

 料の如何が問題となる(城本越前椙一「六国史の文学性偏)が、後考を

 まちたい。

⑪ 文徳実録 仁寿工年一…澱丁未(10)条。

⑫ 桃裕行氏『上代学鰯の研究』にその例が殆ど網羅されている。

四盤・ 臓本窯紀 弘仁工編年山ハ月影宙ハ(72)条。

⑭続日本後紀承和十二年器皿丁酉(20)条。

⑮続旧本後紀承和蹴年三月乙丑(8)条。

⑭ 続日本後紀 承和九年十月丁丑(17)条。

⑰ 文徳笑覧 天安元年九月丁顯(3)条。

⑱ 城本氏はかかる点から、続日本後詑阿智繋累縄、文徳実録置都良香

 の関係をとかれている。こうしたなかで徐々に、かっては政治家既官

 人と文入とは岡 人の表裏でしがなかったものが、官人と文人とは必

 ずしも同一入の蓑裏を示するとは限らなくなってくるとおもう。その

 時点をどこに求めるかは種々開題もあろうが、私は今のところ、九世

 紀末葉だと考えている。したがってそれ以前に文人政治を穣令政治と

 は別の概念として使用することには疑問であり、文人をことさらにと

 りあげて政治史を説明するのは方法酌に成立しがたいとおもう。

  更に最近、この時期の文化現象を検討し、 「律令体制の整備」とか

 「穣令政治発展政策扁などと評価されているが全くみとめることはで

 きない(滝翔政次郎氏「平安時代の法家偏『歴史教育』九一六、山中裕

 氏「日本の年申行菓と定石天皇」『歴史地理』九〇一工)。それは以下

 諭ずるところでも明らかであろう。

⑲ 更に詳しく問題にしてゆけば、これ以上に政治的小事件の記述があ

 ることは勿論である。

⑳ 薗田香融氏「承漁十 二年僧蕃機訴訟事件に関する覚え轡」(『関西大

 学文学論集』第十巻第一号)。

⑳ 続日本後紀 承和十三年九月乙丑(27)条、文徳実録 仁欝工年二

 月丁未(10)条、岡仁寿二年十二月癸未(22)条、同仁寿三年六月己

 巳(10)条、三代実録 斑観四年八月長月条、同寅観烈年五月癸亥朔条、

 同爽観八年九刃翌二磯条。その内容については藺団氏煎掲論文参郷。

㊧ 濤本紀略 大弼二年十 鍔乙未(12)条。なお、この事件について

 は北由茂夫氏「平城上皇の変についての試論」(『立命館法学』四四)、

 佐伯有清氏『藩撰姓氏録の研究』研究篇(二〇〇頁以下)等を参照さ

 れたい。

  三代実録貞観五年五月悲罰条。

⑳日本後紀大同ヨ年+月乙卯(19)条。岡様なことは安倍朝畠鷹野

 の「伝」の中臣王の行動からもしられる(日掛後聞大醗四年閏二月

 甲辰(28)条)。

⑳} 続脚R【本後個中 「氷製缶な十六飛戊申(22)条。

⑳ 続日本裏写 承和五年十二月己亥(15)条。

⑳ 文徳実録 仁寿二年十一一月癸未(22)条。

  続旧本後紀 承和八年関九月乙卯(19)条。

  またこの折の篁の歌は「古今和歌集」に収められている。 「しかり

12 (642)

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平安初期の宮人と緯令政治の変質(佐藤)

 とて そむかれなくに 乱しあれば まずなげかれぬ あなう世の

 中」 (九三六)もこの折のものではあるまいか。

⑳ この享件に注目したものとして門脇禎二氏「時代区分と文化の特質扁

 (『講座臼本文化史駈第二巻所収)、川騎庸之氏「弘仁・爽観時代」(蓮

 災薫三編『弘仁・」貝観時代の美術』所収)等をあげることができる。

 またこの点で、先述したように、承和七年六月に入京が許され、翌

 八年閏九月乙卯(19)に「篁、奉騰を期すると難も、猶お農を失うこ

 とを悔む。朕惟れ暇を願み、且は文才を愛し、故に優貫に降して殊に

 本酸岬に復す」と認ざれたのは十分理解しえよう。

⑳ 続総本後紀 承和十年七月庚戌(23)条、三代実録 践観元年四月

 二三二条。本稿でこれを省略するのは、種々な事情を個別に検討しな

 ければならず、煩頂となり、それに本稿の窯題と直接深く関係するわ

 けではないからである。

二 「麗卒伝」とその特質

X

 先と同様に、 「伝篇の経歴(E)で特に言動が註記され

るのはどのような官職の場合であったかを検討してみると、

ここでも一つの特色を示している。例えば文室朝臣秋津の

 ②「

伝」には右衛門督となったときのことを記して「非違を

監察するは、最も是れ其人なり」とあるように、一概に割

り切ることはできないが、その殆どは国司(或は地方行政官)

の場合であり、大局的にみれば「忙しの経歴(狂)にその

治績・言勤を記されるのは第一に國司の場合であったと考

えてもよい程である。例えばも9とも典型的な例として藤

        ②

原朝臣大津の「伝」をみてみよう。

  年十八雨漏大舎人大允一後葉為昌博覧大回}還為漏右近衛将監一

                 ヘ   ヘ    ヘ   へ    で   ヘ   ヘ    へ

 天長三年叙話従五位下一為二簾後守一頗有塩戸誉一厩庶子レ想 九

 年為昌大監物一十年遷為 散位頭一承和元年為繍左馬助一王年為二

 儒濃守 九年為漏陸奥守一留山=左衛門佐~十一年為=伊予守一

 ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   へ

 歳余豊稔蕎姓寓鵬 一触元年昌昌備前守一十一月叙二正五三下}

 このように内外の諸宮職を歴任しながら何故に国司の場

合にのみその治綾が記されたのであろうか。それは先に述

べたことを考えあわせると、圏司としての地方政治のあり

方が当時の律令政治の運営にとってきわめて重要な意味を

もっていたことのあらわれである、とみてよかろう。そ、う

して後述するように、これこそが平安初期の政治を特色づ

けているもっとも重要な側面なのである。

 しかし、ここで一つ問題となるのは、かかる特色は道公

            ③

唐名や淡海真人三船の「伝」など続日本紀にもみられ、必

ずしも平安初期特有のものとはいえないのではないか、と

いうことである。すなわち、先にものべたことであるが、

13 (643)

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 般的にいわれているように、日本後紀以下は記事が詳密

になり、従って「無しの記載内容もそれにともなって詳し

くなったにすぎず、もし続臼本紀でも更に詳しいものであ

ったとすれば、当然それに収められた「伝」は後の麟史に

みられるような体裁をとったのではないか、ということで

              ④

ある。勿論そうとも考えられよう。だがそれは本稿の立論

にとって何ら障りとはならない。それにたとえそうである

としても、現に他の官職の場合には比較的記されることの

ない雷動が国司(他の地方官職も含めて)の場合によく記さ

れているという事実は否定できないのである。さらにわた

くしがこうした記載に注蹟したのは、 単に 「伝偏 の経歴

(13)で治績・…冨動をしるされた窟職として園司の場合が

匠倒的に多いということだけによるのではない。それは以

下論述するところがらあきらかとなるであろう。そこでま

ず、右のように「伝」に記された地方治績の記載の形式上

の問題から検討していこう。

 「伝」に記された国司としての治績の記述は粗密区区で

あるが、詳しいものとして著名なものといえば例えば左の

ようなものがある。

                        (丹蘇)

 (天長)五年学参丹波介一土民麓仁心レ順二教化一跡号レ難レ治 隅成

 施以 猛政一答罰為レ先 聴事事前籔楚如レ積 数年部内大口耳歪

    ⑤

 レ今称レ之

このように比較的詳細に記されたものは十例たらずだが、

その内容についてはそれぞれ後に検討するとして、とにか

く「伝」に圏司としての治績がその年・任国(先の例でい

えば天長五年・丹波国)とともに記された官人は約閣惣名を

数えることができ、そのうち若干の例を除けば、そのほと

                       ⑥

んどは「吏幹」とか「良吏」とか評されたものである。ま

た、その年代(先の例でいえば天長留年)を整理すると、弘

仁後半から天長・承和を経て貞観初年に至る時期を中心と

          ⑦

していることがわかる。すなわち、史料による限り「伝」

にしるされた登司としての治績はそのほとんどすべてが国

家にとってあるべき理想的なものに限られ、時期的には特

に九世紀初から中.葉に至る閥に限られているようであり、

本稿では以下こうした官人を「良吏」とよぼうとおもう。

 この「良吏」は後述するように基本的には被支配階級た

る公民を把握した国司たちであったが、これについて全く

研究がないわけではない。かって吉村茂樹氏は「当時国司

24 (644)

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平安初期の宮人と律令政治の変質(佐藤)

    も  も  し  や

としては珍しくも清廉潔白な、而も地方政治に対して良心

を有し、所謂能治を施さんとして赴任した良吏」として藤

原保剛、紀夏井、和気仲世、正躬王を例として挙げられ、

           も  カ  も  も

つづいて「これは言はば暁天の髭の如き存在であった」(傍

          ⑧

点いずれも筆者)と評された。 これは吉村氏に限らずほぼ通

説とみてよ輸たしかに吉村氏も指摘されるようにすでに

奈良時代にはじまる国司制度の崩壊的現象から、国司の土

着・受領化への途を考えれば大局的にはそれを承調しなけ

ればならない。しかし律令政治の変質を追求していくうえ

に、かかる例を単なる例外としてのみ評価することがはた

して正鵠であろうか。彼ら「良吏」の行動はそれほど歴史

のなかで軽視さるべきものなのであろうか。わたくしは先

述のように判明するものに限ってもそれは決して「暁天の

星」の如き存在とのみは断欝しえなかろうし、まして「伝㎏

のなかにわざわざその治績が記されたことを考慮するなら

ば、たとえ当時の社会において歴史的には積極的意義を担

わないとしても、かかる「良吏」の動向を単に例外として

のみ掘握することに疑義を抱かざるをえない。例外という

ことをどれ程主張しても問題は解決しないのであり、更に

            し  ヘ  ヤ

全政治的動向のなかでその積極面を評価しなければならな

い。そこで次に「召しにしるされた治績とはどのようなも

でのあったか、その実態を考えてみようとするのである。

 まず「伝」にしるされた国司の治績の大部分は「政化清

平」とか「仁愛にして務をなし、民庶仰ぎ慕う」といった

               曝

儒教約徳治主義的な抽象的表現が多い。例えば遠江守とし

て「政は声誉あり、黎庶悦び服し国内安静にして倉魔盈濫

            ⑪

す」といわれた清原真人有雄や、能登守として「彼の国累

年荒廃し百姓煩擾す、春枝国に到り此れ三年に及ぶ、国漸

                     ⑫

くにして興復し、民は心安を得」といわれた春枝王などの

例がしめすように、徳治とは愈がみちることであり、畏が

安定することであった。したがって当然のことではあるが

      も   も   へ

それらは徳治だからではなく、 「行うところの政事、頗る

                  ⑬

民望に合う」ことが要求されていたのである。それは法律

をいかに現実に適応するかといった点でもみとめられる。

「才学なしと難も、従政に長じて到る所の処には必ず風声

を樹つ」といわれた丹舞真人門霞は先にもあげたように天

長五年(八二八)丹波介となったおり、 土民がもろもろに

さからい教化に順がわないので「施すに猛撃をもってし、

15 (645)

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答罰を先となし」て、民から称えられたというのであるが、

一方菅原朝樋清公のように刑罰を用いず刻寛の治をほどこ

      ⑭

した例もある。つまりここでも、律令を徹底化することに

問題があるのではなく、時と場合によって適宜使いわけ、

「公民」を支配することが必要であったことを示している。

したがって「良吏」のなかには本来の律令的な行動をなし

て認められた官人もいた。例えば一度任地に赴かず聖賢解

任された清原真人禽鳥は承和十四年(八四七)大和守となっ

た折、さかんに客舎をつくり能く名をあげ、貞観二年(八

六〇)には大宰大弐となった。彼はそこで特に破壊のはな

はだしかった「西府倉庫」を修造するため神社の木を伐つ

                        ⑮

たためにその絵によって責観三年(八六一)二月に卒した。

これは官舎の修造を通して三光を馳せようとした官人の悲

劇でもあったといえよう。

 しかし、こうした例とは逆に儒教的徳治主義にありなが

ら、律令と異った行為の結果みとめられた官人も少くなか

った。

 例えば天長四年(八二七)美濃介となった藤凍朝臣高房

はそこで、

 威恵兼施属託不レ行発二軸飾伏一境無属盗賊}安八郡有昌駿渠一

 隆防決壊不レ得レ蓄レ水 高粗漏レ脩二提防}土人博臼 阪渠有レ神

            ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へ  う  ヘ    ヘ                  へ

 不レ欲レ遇ン水 逆レ之老死 故前代国司廃弼不レ脩 高房臼 筍

 利二於昆一死而不レ披覧駈レ民築レ隆概灌流通民至レ今称レ之

といわれ、また席顯郡でも民を毒害する妖座を単身で入部

して其の類を追捕し、そののち備後・肥後・越前などでも

    ⑳

名を馳せた。また大伴宿学今人は備□守の時、百姓の…微々

たる非難をあびながら橡河原連広法とともに磐を破って大

渠を開き、最後には多くの利益をこうむった民から称嘆さ

れ犀渠」といわれたといゆ

 彼らのなかには従来の律令官人にはみられない新しい一

                ⑱

面があった。それは戸田芳実氏の研究に譲るとしても、こ

こで注属しておかなくてはならないのは、高房にしても今

人にしても、ともに現地民の猛烈な反対をおしきって政治

を行い、その結果称えられるにいたったという点である。

つまりここでは地方の迷信からも脱難し、将来のために現

実を改良することに行動の隅標があったことがしられる。

したがって山田宿禰古嗣のように畢災に常にかかる阿波国

で破を築きて水を蓄え、その灌概をたよりに「人用玄冬」

16 (646)

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平安初期の官入と律令政治の変質(佐藤)

した行為も理解できよう。

 つまりかれら「良吏」にとって必要な条件は、在地の慣

習に耳をかすことや、律令そのものを遵奉することではな

く誕驚には民心をうることであ・た・一畢れは従来

の律令そのもので規定された国司と全く同一のようではあ

るがしかしその中に変質を見出さねばならない。そこでは

もはやかっての形式のヴェールは剥ぎとられて、現実の農

民をその手で把握することが決定的に重要であったからで

ある。先の大伴今人や山田古嗣の行為が中央政府で重視さ

れねばならなかったのは、愚時一般に憲豪が一定の社会的

役舗をもつにいたっていた点を考えあわせるならば、国家

は富豪と競合して公民を律令国家の手中におさめるために

は何よりも公田支配が前提とならねばならなかったからで

  ⑳

あろう。このように当時の国司にとって必要なことが形式

ではなく実績であった。次の例はそれをもっとも嬬的に示

したものとして注昌される。

         も   へ   も   も   も   も   し   ヤ   な       へ   も   め   ね   も   へ   も

 良滲朝臣木連は「功名を立てんと欲し、好んで異治を施

もす(中略)行う所の政は旧例に拠らず隔その結果、彼は失政

          ⑳

を行うにいたったという。つまりこの背後には漏例によち

ず異治をほどこし成果をあげることが功名を立てる一つの

途でもあったことが推測される。また「簡要」を貴んだ小

野朝垂釣梅と紀朝臣野守とが、大宰府吏が多く不良にして

襲弊瞬に甚しいことが問題となった折、

                 も  う

 有レ意馬執論一十レカ=矯柱一末レ審篇虚実 海面属耳劇一

      壌

であったという。つまり彼らは名案はないかと考えてもな

かなか思い及ばない。ただいまだっかめていない実態を把

握するために「耳劇篇一型学聞をするより他に道はなかった

のである。ここでも当時の地方支配が机上の論では役立た

ないことを明確に示しているといえよう。

 不十分ながら、以上論証してきたところがらすれば、

「伝扁に登場する良薬司とは律令的秩序の崩壊期に当面し

          講

つつ未だ再編の可能な段階において、律令の儒教主義と同

時に形式ではなく実際にその再編に効果をあげた人々であ

る、といえるのではあるまいか。それは基本的には「律

令」的でありながら、従来のそれとは異った新しい要素を

含んでいる。このように考えてくると、わたくしにはここ

でも「伝」が平安初期の特殊な菓情を大きく反映している

ようにおもわれるのである。

17 (647)

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 同様なことは「伝」を記された官人とその官位との関係

からも説明できるようであり、一つの傍証となりうるとお

もう。先にものべたところであるが文徳実録になると従来

存在しなかった五位の卒伝が登場してくる。そこでこの卒

伝をのせられた三十四人の五位官人のあり方を「伝」の内

容から検討してみると豊春・特殊技術者(たとえば法律・卜術.

仁術・涯術など)が十二人、能吏とされたもの八人、武術にす

ぐれたもの三人、その他十一人といった具合であり、その

なかには批判さるべき官人は一人として存在していない。

詳しい検討は直穿に譲るがこれからわたくしは次のように

結論づけることができるのではないかとおもう。この三十

四人の五位卒伝に政府によって非難さるべき宮人が一人も

存在しなかったということは、そもそも文徳実録を撰述す

るときに五位の全懸者のうち国家にとって有効なる官人の

みを選びだし「伝」を記したからではないかと推測される

のである。とするならばここに五位の卒伝の右の内訳はそ

のまま当時t詳しくいえば文徳実録撰述の元慶三年ころーー

における中央官人の関心のありかたを示していることにな

る。それはあたかも前に述べた「伝」の経歴(E)のうち

の諸特徴の内容とほぼ一致するのである。全くの推測では

あるが、先の諸点と考えあわせると鱈 過できないことであ

るようにおもわれるのである。

 以上、 ご見平凡な「麗卒伝」の経歴(E)の記述の仕方

から、その特質を検討してきた。そこでは至極当然のこと

ではあるが、 「伝」が平安初期社会の特質をいわゆる国史

の記袈とは別の側面で強く反映している点がほぼ明らかに

なったのではないかとおもう。そこで次に視点をかえて、

こうした特質をもたらした平安初期の政治とはどのような

ものであったか、検討してみようとおもう。

 ① 続日本後室 承和十年三月辛坤(2)条。

  その他続日本後影では萱原糊臣清公の「伝播や、藤原朝霞富士麻鼠

  の「徴」をあげることができる。

 ②文徳実録斉衡元年十月庚串(9)条。

 ③続臼本紀養老二年四月乙亥(11)条、岡延暦四年七月庚戌(17)

  条。

 ④だがわたくしはそう劉り切ってしまうのに疑問である。即ち例えば

  滋蔚名の門伝」が続合本紀にもある以上、それを収載する方針は元よ

  り存在するとしよう。しかし、それにもかかわらず、例えば続目本紀

  の前半には首名だけしか記されなかったということはどういうことだ

  ろうか。現に国名のそれが存雀する以上紋載範囲を訟上することは適

  灘であるまい。また、その内容を詳しく検討してみると、そこに梱違

18 (648)

Page 20: Title 平安初期の官人と律令政治の変質 Citation 47(5 ......1 (631 ) 若干の復古的現象の背後にあるものは、宮田・公営田その他の

安初期の’露入と雑令敵}台の変質(佐藤)

 をみいだすことができると思われる(例えば首名は人離に対しては侮

 ら妥協はしない)がそれについては刎の機会にゆずる。

⑤文徳実録仁寿三年三月王子(23)条、丹鎌髭入門成伝。

⑥ここでは日本後紀以降の四岡史にあらわれる、それらの官人のうち

 童なものを人名だけかかげておく。 (大伴宿悪今人)・(吉備朝臣泉)

 〔以上後紀〕、甘粥備真倉高颪・紀朝臣深江・菅原朝影雷公・笠朝距

 梁麿・藤原覇臣典主・善道朝臣真爽・藤原朝縣喬野・藤源朝臣長瞬・

 (良雰朝曇木蓮) 〔以上続後紀〕、荻上大宿禰清野・興世朝阪書主・

 藤原朝翻意守・滋野朝臣貞空・伴葉山成歯・和気朝臣仲世・藤原輔羅

 高…勝・丹堀輿人醸成・山田宿繭古嗣・伴宿禰三月・藤原朝命火津・奪

 二王・長琴犠醐高名・南淵朝臣永河・藤原朝縣衛・満凍輿入有雄・安

 倍覇臣氏主・肉田達春城〔以上文徳笑録〕、安倍醐距安仁・小野朝臣恒

 籾・浩原真人器成・正躬王・三朝距翼井・坂上大宿灘当道・多治比纂

 入貞謬・坂上大宿輔藪守・紀朝臣安雄・橘朝臨良塞〔以上三代笑録〕

⑦ 整理したものを表示すれば左のようである。

  

狽窒T穆・霞23.

     暦仁長和祥寿衡安観…

  代亙

延薄墨覆契貞…

⑧露村茂樹氏『悶司制の崩壊』二八頁。氏のこうした考えかたは後の

 『鰍司鯉度崩壊に関する研究臨『島島鰯度隔においても一貫して主張

 されるところである。

⑨舞えぱ、滝韻政次郎灰『律令酵代の農靴生活転。ただ最近彦由一太

 氏がこうした〃能吏〃を積極的に位澱づけんとされている(同「九世

 紀『令義解体制臨における地方費政の本質」 『懸吏学研究臨二七六)

 が、方法上の疑閥もあむ、基本的には史料の羅列にとどまっている。

⑩文徳実録

 条。

嘉祥銀年幸一月額卯(6)条、岡天安元年十月蛭子(捻)

⑪ 文徳巽録 天安元年十工丹戊子(25)条。

⑫ 文徳実録 斉衡壮年九月癸丑(13)条。

⑬文徳実録天安元年九月丁醸(3)条、長城宿禰高名低伽

⑭続鷺塞後紀 承和九年十月丁丑(17)条。

⑮ 釜代笑録 貞観三年二月菅九日条。

  しかし、こうした官余修理が班田農民からの版奪を強化したことは

 事実であり、承心当76年の「佐渡国三郡防熱等解」には岡斑が「口利を

 求めんが為、旧館を捨て、幽して更に新館を造るの状」をその患状の

 一つにかかげているのはその「鋼である(政築要略巻八十四、承和元

 年十一月五謎解)。

⑯文徳実録仁寿二年二月軽輩(25)条。

⑰口本石紀弘仁エ年釜月甲蜜(20)条。

礁 芦田芳実氏「中世文化形成の前提」(『講座瞬本文化史』第二巻)。

⑲ 文徳実録 仁寿三年十二月丁丑(21)条。

⑳ 門脇禎二氏前掲論文参照。

へ⑳} 続n口太・後紀 

騨茄祥二年六月由庚成(82)条。

⑳ 文徳実録 仁券工年二月乙巳(8)条、滋野朝温麺蓋明。

【鳳

@弘仁期政治の丁二の特質

今天下之人各有蓋僕底心.平生之臼既役昌其身一

             ①

路辺一無=人一三}遂致鵡餓死一

病患之時鄭出漏

かって一律に支配すべきであった公民層の階層分解の結

19 (649>

Page 21: Title 平安初期の官人と律令政治の変質 Citation 47(5 ......1 (631 ) 若干の復古的現象の背後にあるものは、宮田・公営田その他の

果創出された隷属民錘「僕隷」が、健康な時には駆使され病

になれば路辺に出されて餓死するという。それは単に「僕

隷」のみの問題ではなく、公民層の分解が一層の拍華をか

けて展開しつつあったことをもっとも象徴的に示している。

かかる情況のなかから桓武・平城につづく嵯蛾天皇の時代

一弘仁期の政治は一層の危機に直面していたといわなけ

ればならない。

 律令制の形式から脱皮して、現実への適応に重点をおい

て進められた桓武朝の政治にすら、延暦廿四年(八〇五)

の「天下の絹論」で「方今天下の苦しむ所、軍事と造作と

なり。此の両事を停むれば、百姓之に安んぜん」と、その

破綻を主張し、有識を感歎させた藤原朝臣緒嗣も、そうし

た律令政治の課題を最も確実に掘暗していた官人の一入で

  ②

あった。 「政術に暁達して、王室に臥治し、国の利害知り

      ③

て奏せざる無し」と評された緒嗣は大圃三年(八○八)六

月に菓山道観察使兼陸奥出羽按察使を辞退する奏言のなか

          ④

で次のようにのべている。

            ぬ   ヘ     ヘ   ヘ   ヘ   へ   ゆ   ヘ         

ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   へ   り

 若万一有レ鑛 筆意栢違 即非二蕾微臣之死鐸一 還亦国家之大

 労也 当今天下園レ疫亡妓殆半 丁壮之余猫未昌休息一是知二蝿

 ヘ   ヘ   ヘ     へ   も   ヘ     ヘ     へ

 窮兵疲蒲守不レ可レ止忽蜜ネ虞…写歴支防

(多分に形容があろうとも)緒嗣は、彼個人の失政が個人の

問題に止まらないことを十分に察知していたし、またその

凍因が「民窮兵疲」といった公民層の破壊にあったことも

はっきりと認識していた。 「亡没殆ど半ば」でありながら

「而して守ること止むべからず」という、そこに緒嗣の苦

悩があった。彼が任に赴く東山遵中で百姓の苦を間うたの

も、こうした彼の立場がなさしめたのであろう。もはや彼

の政治理論では、かって律令官人が認識していたような公

       ⑤             、 、 、 、 、 、 、 、 、 、

民一「無知の愚民」ではなかった。彼が公民を支配の対象

セ  あ  ヘ  セ  も  ヤ  も  へ  も  も  も  ヤ  ヤ  も  も  も  も  め  も     ヘ  ヤ  も  も  ち  り

として正鶴に把握しようとすればする程に、彼らを動くも

も  も  め  も  も  も  へ  も  へ  も  も  も  う  も  へ  う  も

のとして把握しなければならなかったのではなかろうか。

そうした彼なりの鋭い現実認識の故にこそ、桓武天皇は麟

らの畢生の事業を否定する緒胴の書を、 (菅野朝臣真道の反

対にも拘らず)認めざるをえなかったのではないだろうか。

更に、こうした摺絵の立場は薮椿彼特有のものではなかっ

たことは、絹論の結果「有識之を聞きて、感歎せざるなし漏

であったことから推察され、いわばそれが延暦末年におけ

る官人の新しい動向であったと考えられるのである。

20 (650)

Page 22: Title 平安初期の官人と律令政治の変質 Citation 47(5 ......1 (631 ) 若干の復古的現象の背後にあるものは、宮田・公営田その他の

平安初期の窟人と律令敷治の変質(佐藤)

 一般班田農民が家をすて業を失い他郷に浮領するという

実情に対し、それを禁圧することが何ら政治的効果をえな

いことを、この時期の中央貴族達は奈良時代前期からの歴

史的教訓として強く認識せざるをえなかったのである。平

城刺に皇太子伝として皇盤質神野親王(蟻峨天皇)に侍し

ていた藤原朝臣園人もその一人だった。彼の弘仁二年(八

     ⑥

一一)の奏状はそれを如実に示している。

 夫撫工鞍百姓一良宰是資 今吏域非=其人一侵擾尤レ巳 棄レ家鼠

 レ業 浮口無他郷一尋㎝其由趣一過在二官葵一

 意外に地方官としての生活が長かった鳥人の政治観はそ

               ⑦

れだけに多分に現実性に蜜んでいた。園人にとって、律令

体制を維持する方法は班田農民の動向を上から鎮圧するこ

              カ   も   も   も   も   も   へ   も   ヤ   も   ち   も

とではなく、富豪層に対抗して農民が自ら国家側に結びつ

、、、、、、、、、、、⑧

く条件を国家側で用意すること以外にはなかったのである。

例えば大同元年(八〇六)閏六月、勢家の山川藪沢専有に

対する八世紀以来の対策に対し、公卿らが「瑚ち知る、徒

も  ぬ  も  も  め  も

に憲章を設け曾て遵行ずるなし、 (中略)百姓をして妨有

らしむしと批判したのもその一例である。そこでまずここ

では、政策の基調の変化を前に略述した檀武朝のそれを念

頭において論じよう。

 かかる観点からすると、弘仁二年(八二)の譜第郡斑

制の採用は注嚇しなければならない。この才用主義から譜

第主義への郡司採翔心癖の変化は一見延暦十七年三月の才

用主義に対する反動・復古のように考えられがちであるが、

詳細にみれば何らそれを意味するものはない。この譜第郡

司採用を奏言したのは大納書藤原刺臣園人であり、それは

                        ヘ    ヤ

 傭取無筑業一永福二譜策一用二庸愚之標置一処轟門地之早上[為レ政

 モ   ヘ   ヘ   ヘ     へ        あ      ゐ   ヘ    ヤ   ヘ   へ      ゐ

 則物情不レ従 聴レ訟則決断無レ伏 於レ公認レ済 伏講郡司之擬

 先尽蕪…鏡一遂無=其人一己及㌫野業一者

        ⑨

ということであった。つまり延暦十七年の譜第之選の停廃

はその本来の日的であった地方政治の刷新という点から地

方行政…機溝の末端にくらいする郡司舗の整理再編を意味し

たものであったとしても、実施の結果は当初の予想とは逆

に、在地の農民が従わず地方を混乱におとし入れるに至っ

                    ⑲

たという点にこの改変の主要困があるのである。それは先

にもふれたように園人慮身が

 頻歴菖外任}徴レ酉及レ束惣十有八年 黎民疾苦政治得失 耳聞臼

     ⑪

 冤頗無蓋窮鼠}

21 (651)

Page 23: Title 平安初期の官人と律令政治の変質 Citation 47(5 ......1 (631 ) 若干の復古的現象の背後にあるものは、宮田・公営田その他の

という経験から割り出されたものであったし、だからこそ

郡司の鎗擬についても

 一依鴇国定↓若選雰匹其入一政績尤レ験、則署帳之官戒解{見任㎜

          ⑫

 永不昌叙漏榊以徴二将来脚者

と、すべてを地方に委任し、したがってその結果について

も暑富盛(一瞬瑚)に全責任が及ぶという従来にはあまり

みられない政策iそれは地方に委任した点で現実性を示

したであろうし、全責任を問う点において律令約窟人秩序

を強調した点で矩令政治の現実化を王事に示した政策であ

るが…一を奏したことも十分に理解することができる。し

かもかかる藤原証人の奏状が中央で「実に其の理を得たり」

とされ、更に任命の仕方について彼が

 今年凝帳遊覧嵐返却一 一定計帳 明春心行 庶A署理治之声二二

 於嘉年}富康之垂流ゆ於後代滋

としたことは、これが極めて現実の具体酌動向を認識して

いることが推測され、同次にそれが単に藤原愛人という一

個人の政治理論ではなく妾時の支配者の一般的考えであっ

たことをここでも示している。もちろん実際にかかる政策

がどれ程、地方政治の安定に役立ったかは一般的にはきわ

めて疑斜視されているのであり、現実には責任追求は空文

              ⑮

に等しく到底実行不可能であった、とさえいわれている。

それを考慮するとしても、この絹織的に新しさを持った政

治が行われはじめたことは注臨すべきである。なぜなら、

それは律令体制の瀕壊という律令官人共通の危機にいかに

対処するか、という政治的課題の中から必然的に生れ禺ざ

るをえなかった動向だからであり、またそれは浮逃・課役

忌避、或は開発といった長年にわたる公民の闘争の政治的

表現であったともいえるであろう。

 かかる例はこれに限らず、例えば弘仁二年四月、奈良時

代以来禁制久しかった菱の青刈が「其れ得る所を計るに実

を収むること倍せり、利は筍くも民に在り、何んぞ禁制を

労さん」として京邑でその売賀が許町された致策にも指摘

できる。従来飢艇の折の儲として重要な役割をもっていた

麦の青刈が許可されたという、この奈良時代以来の伝統的

政策が(京邑に限られたとはいえ)転換をとげたことは少く

とも次の二点において注目しなければならない。一つはも

はやこの時期の聞題が菱を貯蔵するという将来のためより

も、直接生活に利潤をもたらすという現在のためにあった

22 (652)

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寧麦初期の官入と律・令葦Vx治の変質(佐藤)

ということであり、二にはかかる対策の根本が「民に利す

る」という点にあったということである。即ち、この政策

の背後に、時の律令政治にとって第一の課題が班田農民の

再生産を直接に保障することにあったことを推測すること

ができるのであり、この政策が八年後の弘仁十年三月に禁

止された点を鼠子の乱後に一時的に妥協した政策を引しめ

たものと理解すべきではない。後述するように弘仁七年以

                    ⑮

降は飢鰹であったし、事実旧制への復帰の官符には、 「去

年登らず、百姓の食乏し、夏時に至りては必ずや飢饅あら

ん、飲を救うの儲、備えざるべからず」とその理由を述べ

ているように、それは(先述した意味での)現実的政策とい

う点から説明さるべきであろう。

 またやや対象はちがうが、以前諸王及び五位以上の子孫

で十歳以上のものは皆入学すべきだった大学も、弘仁三年

には改正されることになった。それはなかには「徒に多年

を積むに未だ一業に成らざる」ものも存在するので、 「其

の好む所に任せ、稽に物情に合」せることになったのであ

る。 

この一一、三の例から知られるように、弘仁期には桓武覇

よりの律令の形式から脱皮した現実に適応しうる施策が一

         ⑰

層展関されたのである。

 一方、樋武朝に特に顕著となった官人毒心は例えば弘仁

期では藤原冬嗣の次のような言葉のなかにも指摘できる。

                   ヘ  ヤ  ヘ  ヘ  ヤ  ヘ    へ

 頃年三流屡古謡破損一民疲二修造【多費=公糧一面期国司等無レ心漏

 も   ヘ     ヘ     ヘ     ヘ   ヘ     へ   も     ヘ   ヤ        ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ     ヘ   ヘ     マ

 検校一不レ労昌小谷一之所レ致也 政術隠密以レ此可レ知 奉公東道

 一彗轟 娠

 …七島レま!

 堰の破損の原因が国司の怠慢にあるとしているのは、た

しかに現実に農民が修造等に疲れていたことにもよるので

あろうが、嗣時にそれは律令的秩序の崩壊という現実のな

かで、その危機を救いうるのは妾面には地方官しかないと

認識されている点で注藏しなければならない。変貌を余儀

なくされた律令貴族官人のなかで、かかる政治が登場して

きたことは十分に評価しなければならない。中央における

平安初期の特色ある政治はこうして漁発したと考えられる

のである。

 詳しく論ずることはできないが、弘仁期に異常な流船を

みせる藤原朝臣冬嗣の登場の背景には藤原北家という家系

のみではなく、かかる歴史約意義のあることをも高く評価

23 (653)

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した瞳九世紀初頭における中央の貴替人達は多かれ少

なかれ、かかる共通の特質をもっていたと考えられるので

ある。

 しかし、このように弘仁期の公卿達が現実的・農民擁護

者的となったのは、何度も述べるように、律令鋼の矛盾の

展開という状況からなされたものであって、ある一定のと

ころまでゆけば彼らの政治観も自から限界を持つのは当然

である。例えば、先にのべた藤原冬嗣が堰につき国司の台心

慢をいましめた一方の根拠は「多く公傷を費す」点にあっ

たことも看過すべきではない。例えば彼が農民の擁護をそ

の中心にかかげても

       、 、 、 、  、 、 、 、 、轡

 唯 池溝賭事潴漏公功~者 不レ聴レ用二其水}

とか、貴族の封禄を義倉にあてることについて

 封禄義倉其率懸隔 以レ少奪レ多 泰垂晶寛恕一宜下以篇其禄物一

         ⑳

 准昌輸鍛数一倍而割留漏

ということのなかに貴族としての限界を示すものがある。

前者は令のそれと同じだし、後岩は自らの収入の減少を否

定しているのである。

 かかる冬嗣の開明性と限界は天長元年(八二四)八月二

      ⑳

十日の彼の塗笠に示されている。

 縞馬國双三或欲下崇修轟治化一樹ゆ之風声上則掬扁於法律一不レ得繍馳

 驚一(中略)反レ経制レ冠勤不レ為レ己者 将従ユ寛恕 無レ鈎繍文法一

 国司が良治をしょうとしても法律で制限されておもうよ

うにならない…成果-…、そうかといって経に煙いては

これまた政治を行いえないーー限界-…、今後は「寛恕」

に従って律令には掬らないようにというのである。

 最近再び話題となっている公営田経営計画も、かかる政

治的環境のなかでこそはじめて政府の認めるところとなっ

たのであろう。提案者小野門守はその理由を次のようにの

べている。

 今法者溺当於古律一儒者拘一轍旧礼}若握 二世之法一無智晶百代

 之民}猶下以二}衣}擬二寒暑一以昌一薬一治中疫磁北借財漏錦鯉鋤一轍

 上=新議 

 この堺守の公営田の論理はさきに予想した冬嗣のそれを

さらに明確にいい放ったものと考えられ、しかもこうした

「良吏」の論理を展開するのは、非儒教的立場からではな

くして、むしろ儒教的立場からこそ出ずる論法であった。

平安初期に学制が隆盛となったのも、かかる政治状況と無

24 (654>

Page 26: Title 平安初期の官人と律令政治の変質 Citation 47(5 ......1 (631 ) 若干の復古的現象の背後にあるものは、宮田・公営田その他の

安初期の官人と律令政治の変質(佐藤)

縁ではあるまい。

 以上みたように、藤原朝距緒嗣をはじめとする九世紀初

頭の中央貴族の政治が、依然として律令的儒教的な政治で

あったことは疑う余地のないところであるが、そのなかに

儒教の合理的側面を前面にかかげざるをえなかったことは

注目しなければならない。律令政治の形式ではなく、その

前提にまで立ち返り、動揺してきた現実の生麗関係まで認

識を及ぼすと同時に、官吏の統制を強化するといった両者

あいまった政策、それこそが当時の政治にあっては「簡要し

であり「易行」であったと考えられるのである。この根対

的には前進した政治こそ、かかる官人の政治観の変革のな

かから誕生したものであったし、それは公民の長年にわた

る抗争の最初の政治的成果であった。

① 類聚三幾格 弘仁四加十穴熊}日太政官符。

②日本総説延暦骨植年十二月薫寅(7)条。

  この認事の前後を、最近進んできた楓霜朝研究の諸成果を含めて、

 詳しく検討すべきであるが、本稿の主題よ夢ややそれるので鋼の機会

 にゆずる。唯、ここで確認しておかねばならないのは、桓武朝の政策

 の基調には、それ以前に比較して明らかに現実への寄事膝繰があって、

 かっての形式からは不十分ではあれ脱皮しているという点である。そ

 うした上で官人構成の検討もなされうるようである。

③続臼本後紀承和十年七月庚戌(23)条、藤原朝距緒嗣伝。

④臼本後紀大爾三年六屑壬子朔条。

  この点については、形式酌なもので彼の立場を考える史料とはなら

 ないと考えることもできるかともおもわれるが、轍時の社会的状況か

 ら考えて、あえて形式とする必要はないとおもう。門脇禎二氏「大問

 期政漁の基調」(『田本歴史』}八○)参照。

⑤例えば続日本紀天平九年九月癸巴(22)条。

⑥類聚三代格弘仁二年八月十}議太政窟符。

⑦こうした園人の政漁燈については、角田文衛氏「平安初期の政治思

 想」(『歴史学』1)に詳しい。その点彼の献…冨は注闘すべきではある

 がここで論ずることは霜略する。

⑧この点についての門脇禎二氏の指摘(前掲論文)…一「二号には政

 府の強弓労働にかり謡されるより、はるかに有心な途がひらかれつつ

 あった」けれども「薫距勢家や富豪にではなく、依然として畷家に保

 識を求めたこと、これが弘仁期から延喜時代にかけて律命沌只族屠の律

 令政治再編成の努力を引き鐵す条件ともなっていた」1は示唆に富

 んでいる。本稿もこうした観点に立ちつつ直接には政治そのものに論

 点を集中している。

⑨類聚猛代格弘仁二年二月廿日詔。

⑩ 大贋良耕【氏「轍照第郡司の性質鳳(『西賑先生岩髭記念隣本誌{代史論

 叢』訴収)、その他、新野僚吉氏「桓武朝における郡司層の動向」(『古

 代学』一〇…エ・三・四)、等参照。尚、梅田義彦氏はこの変化を論

 じて「これ譜第の編に沈論ずるを哀れんで、累代の門葉登用の途を復

 した」とされたが、史料上もそれを認めることはできない(同「神郡

 行致の特姓とその変遷」『国脱生活史研究』4勝収)。

⑪ 曝本署紀 弘仁薫年六月壬子(26)条。

⑫ 

類聚一鳳代格押 弘仁一鳳年八n月五門口太政窟田村(秋山小後紀 弘仁三年六月

25 (655)

Page 27: Title 平安初期の官人と律令政治の変質 Citation 47(5 ......1 (631 ) 若干の復古的現象の背後にあるものは、宮田・公営田その他の

 壬子(26)条)

⑬ 大石良材氏前掲論文。

⑭ 日本後紀弘仁二年四飛丁丑(14)条。

⑮類聚三代下愚仁十年歴遣百太政霧符所引問年三月十三日太政窟

 符。

⑯獄本後紀弘仁三年五屑戊寅(21)条。

⑰ その飽、田図から田籍…への変化(弘仁十一年十二月二十六田官符)

 や、農業のために由林が重要だとする点(弘仁十二年四月二十一陛官

 符)などその側は数多い。

㊧ 類聚三代格 弘仁十一年七爲一日太政窟符。

⑲林陸朗氏「藤原綴嗣と藤高冬嗣」(『騰史教育』一〇1鷲)、北山茂夫

 氏「摂関政治」(岩波講座『田本鷹史駈4所紋)等もこうした点につい

 て触れられている。先述したように、藤原闘入が神野親王の巣太子伝

 として側近に侍していたことを考えれば、その神野親王が即位すると

 岡目・に、藤原冬羅が政鼻の中枢部に登場してくることもかかる観点か

 ら、十分理解しうるところとおもわれる。

⑳ 類聚三幾格 天長元年八肩甘日太政官符。

⑳類聚三代集弘仁十一年聡翫準位一驚太政官符。

⑫ 類聚三代絡 天長元年八月昔繍太政窟符。

⑬ 公営田の研究史については聞名網宏氏「大宰蔚管内の公営曝経営に

 ついて扁(『麗史学研究』二七三)、原島礼二氏「公営田と羅馬の経鴬

 に関する二、 嵩の問題」 (糧歴央学研「究恥エ七六)等を参照されたい。

 塞た公営田の先駆酌形態として贋見岡醗鴬田に注臼し、平安初期敗治

 史上に位鐙づけたものとして門脇禎二氏「九世紀における『婦化人』

 の役舗」 (『古代文化隔九-鷲)がある。購じく九世紀の著名な事件

 であろ元慶官田についても、かかる観点から理解することができるが

 別稿にゆずる。

四 新政治体制の形成

 右のように政策の現実化と官人統制の強化という動向が

決定的となったのは弘仁末年のことであった。すでにそれ

以前から諸士で民衆の「続書篇が信じられ、なかには濁家

                 ①

を批判するものもでるに及んでいた。律令支配を脱して私

約大土地所有者のもとに逃散する公民も決して少くはなか

ったであろう。かかる状況のなかで、班田農民の没落・国

郡罰の私的収奪等による社会不安を一目促進したのは、弘

仁八・九年(八一七・八)にはじまる水影による飢鱒、及び

それにつづく疫病の流行、特に弘仁十年(八一九)から十

             ②

三年にかけての凶作であった。

 この凶作のなかで、国家財政の危機が到来するや、公卿

等は評議して「しばらく五位以上の封禄の四分の一を割き

         ③.

て以て公用に均うる」ことにしたとか、或は「辮姓困窮し

肩を息むる所なき」がために「宜しく諸国脚夫の部下の役

              ④

は自今以後永く停止に従うべき」ことにしたことなどは、す

べてかか客観的状況のなかで出された政策なのである。も

はや自らの封禄を減らしてでも繰令約祉会秩序を再建させ

26 (656)

Page 28: Title 平安初期の官人と律令政治の変質 Citation 47(5 ......1 (631 ) 若干の復古的現象の背後にあるものは、宮田・公営田その他の

業蜜初期の官人と律傘政治の変質(佐藤)

ること一直接には祉会不安を解消させること一こそ貴

族層にとって第一になさねばならぬ間題であったのである。

 それは明らかに現実への妥協政策であったのであるが、

律全支配の困難さは更に別の点にもあった。先の「狂言』

に示されるような社会不安をおさえるため、或は峯時の政

治的道徳からすれば当然でもあった賑給すらも園司によっ

て主体的に利用されるにいたっていたからである。彼らは

                     ⑤

賑給数を実際より多く・甲嘉して私利を増していた。しかも

それは決して限られた例外ではなく、一般的であったとい

うことは、律令国家にとって現実支配の一図の困難さを示

すものであった。その点で僧景戒の「日本霊異記」の最後

の部分は嵯峨朝の動向をもっとも端的に示しているといえ

⑥る。

 (蔚略)又何以知議塾君一耶、世俗云、圏皇法、人殺罪人藪、必

      (蝿峨)

 随レ喰殺。鶏冠天聴者、出 弘仁二八醐傅レ漫、応レ殺之人威漏流罪ハ

                 ヘ  ヘ  ヘ   ヘ  ヘ   ヘ  へ     ゐ

 活「}彼命「以人治也。是以贈知亀賢君~也。天人誹三民非鵬盤君⑩何

 ヘ  ヘ     ヘ  ヘ  ヘ  ヘ     ヘ  ヘ  ヘ  へ  し     し  ヘ  へ  も  ヘ  ヘ  ヘ  へ  も  ヘ  へ

 以故、此天半時、天下皐颪有。又天災地妖忘勝難繁多有、又混晶

              ヤ   へ   ゐ    さ      ヘ   マ   へ   ぬ      ヘ   ヘ   へ

 鷹犬一適当鳥猪鹿{是五二慈悲心↓是儀雰レ然、食属三物、旗国皇

 ヘ  ヘ     ヘ    ヘ  ヘ  ヘ  ナ  ヘ  ヘ  ヘ  モ  ヘ      ヘ  ヘ  ヘ  ヘ  へ  ぬ  ゐ  り

 色物、指レ麟許末、私物都無也。心志耀薩窃在室儀也。難詰蒼姓~

 敢誹之耶。 (下略)

景戒が国内の物は「国皇のまにまに宙在の儀なり」と王道

論をもちださねばならなかったことは、彼霞身が、誹諺の

原因とした嵯峨朝の畢腐や鼠饅を否定しえなかったことを

示しているのである。これは社会不安が万人の認めざるを

えなかったことを示して興昧深いではないか。

 かかる弘仁末年の状況のなかで、律令顯家その支配を維

持しようとする以上は、政策の現実化と官入統制の強化と

を一層徹底的におし進める必要にせまられたのである。天

長元年(八二醐)八月骨ヨの一連の公卿陰言は、 いわばか

かる動向の集約的表現であると同時に、当時における公卿

の政治を知るうえにきわめて注鐸すべきものであるとおも

われる。最後にそれをやや詳しく検討しておきたいとおも

、つ。

 現在知りうる天長元年八月二十臼の一連の格とは左の十

二の内容を含んでいるようである。

 まず年鑑されるのは、岡一日にこれだけの新政策がでて

いるということであるが、しかし、ここでこの一連の格に

注目するのは単にその内容が多方齎にわたるからではない。

i27 (657)

Page 29: Title 平安初期の官人と律令政治の変質 Citation 47(5 ......1 (631 ) 若干の復古的現象の背後にあるものは、宮田・公営田その他の

内     容

回状者

出  典

              }択昌良吏一宴

A藤原冬嗣類聚三代格A

順二時令}事

11

訓義巡察使 事        D

挙レ賢避レ邪事

藤原緒嗣

択晶園守一事       B

良答安世

(借=一二共栄級一事)    C

類聚三代格天長2・7・8所収

令三諸氏子孫威読昌経史一事

多治比今麻呂

類聚三代格A

国鶏公癬不填論定未納事

橘 常 主貞観交替式

諸社翼長全函司検校添

停レ徴 課欠駒慨一事

清原夏野

応【 諸國荒田令晶民耕食 事

類聚三代格

朝集使事         狂

11

類聚三代櫓

まず第一には右表からも明らかなように、それらがすべて

当時の公郷奏言によっているという点に注囲しておく必要

がある。それを前提として次に内容を検討して行くと、そ

の各々の間に相矛盾するものがないばかりではなく、むし

ろそこに一貫した主張がみられるのであって、これこそ注

目しなければならぬ第二の点である。以下、本稿の主題に

従って直接支配機構にかかわるものに限って検討しよう。

いま中核となるそれぞれの奏状を掲げよう。

A 択二良吏}事

  一日 登レ昌昌レ任為レ化之大方 審レ宮援レ才経国之要務

 も    ぬ   ヤ    ヤ   も    つ   ヤ      モ      う   う    ヤ      ゆ     う    り   ら      り   ぬ      ゐ   ヤ   ち

 今諸国牧宰或欲饗崇扁修治化一樹串之風声上則掬黒於法律一且レ得昌

 馳驚一郡国二郷職此之由 伏望 妙薦漏清公美才 以任轟諸国

 守介髄其新除守介鋼特賜’ 引見一勧二喩治方一因掬論天物一口禰

 ヘ   ヘ   ヤ     へ   ぬ     ヘ   ヘ   ヘ     ヘ   ヘ   ヘ     ヘ   ヘ   ヘ   ヤ   リ

 政積有レ雪加=増寵爵一公卿有レ嗣随即擢用、又反レ経制レ重言不

 レ為レ己者、将従昌寛恕一無レ掬{文法一己

B 択晶国守皿築

                       ヘ    ヘ   へ

  国守者古之遡吏也当レ仁之人不レ可漏肥溜}過量 令罵…一良

 ヤ   ヘ     ヘ   モ   カ        へ   ぬ   ヘ   ヘ   ヘ     モ   へ     し        ヘ   ヘ   ヘ   カ   ヘ   ヘ     ヘ   ヘ     へ

 守兼 帯諸臨一一大之一往田所サ請 一両僚属亦依・講任・之

 (下略) 〔宜叩試轟於一日”明知二治否一然後令”兼レ之〕

C  (借=授郡三栄級一事)

  郡領者今之県令也親レ民行レ化実在 斯人一時旧俗旧称レ格

       ぬ   ヘ   エ    ヘ   ヘ   ヤ    ヘ   ヤ    ち       ヤ    ヤ   う   ヤ    う    も    へ

 者希 四望 善政為三圏司所二挙申一者 借=授二級一口レ足晶自

 ヤ     ヘ   マ   ヘ   ヘ   ヘ     ヘ   ギ   へ

 展 然後考績依レ実与奪者

D 遣=巡察使~事

  古意分嵐鮎八使一巡昌行風俗 考’{牧宰之泊否鯉問二人民之疾習一

 所粛以宣レ風展レ義挙レ善弾v違也伏計量月島急使一考二其治否一

 者

£ (朝集使事)

28 (658)・

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初期の官入と律命敷治の変質(佐藤)

   濁中之政朝集使可レ申 蒲或附晶史生一得[新型㌘政讐如レ爾レ

      ヘ    ヘ   へ                        ぬ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ     ヘ   リ   へ   も    へ

  塘伏望 差昌宮長}副昌史生一人一興国俗諦律調玉階之前一跨論

  顧陳欝}然後罷却乾留晶史生一令レ成【 遺政「者

 先述したように、これらは内容的に桐関連しており、別

々に論ずることは困難であるが、一応中核であるA史料か

ら検討しよう。

 A史料で意図する下縄とは、 「清公美才」なるものをえ

らんで国罰とし、彼らそれぞれの「写方」に従って政治を

行い、その結果政績きこえたものには特に官位を授け、場

合によっては公卿にまで登用しようというのである。すな

わち、地方行政にすぐれた官人を中核として構成しようと

しているのである。すでにのべてきたような地方支配の動

向は官人構成の面ではかかる新対策を生ぜしめるにいたっ

た。しかし、ここで「良吏」とされた官人とは単に右の点

で特色をもつのみではなく、むしろ注澤すべきは、ここで

主張する地方政治とは決して従来からの形式的な律令によ

る政治ではない、ということである。奏状に明らかなよう

にそれは当時の国司がよりよい…律令国家にとって-

地方行政を企図しても律令に左右されて効果をあげえない

という反省からきていた。したがってこの政策のなかで主

張されるのは決して形式ではなく、実際の効用であり、い

わば名をすてて実をうる政策といわねばならぬ。すでに論

じたように農民の囲窮・逃散が決して特殊ではないという

情況のなかで、律令体制を維持するためには周郡司をAエ

度律令体捌側に再把握することこそが急務であり、その手

段として着日されたのが、 「伴渠」をつくった大伴今継の

ような数少い「良吏」の動向だったのではあるまいか。純

粋な律令宮人が少くなればなる程律令国家は彼らを前面に

ださねばならなかった。同一階層からの再生産として特色

              ⑦

づけられる八世紀の官人構成の実態からすれば、上級支配

者にとっては明らかに一つの妥協を示したこの政策で、公

             り  も      も  も  も  も  ぴ  へ  も  も  セ  も

獅にまで登用しようとする「良吏」とは律令支配という籟

も  へ  も  カ  も      も  ち  も  も  も  ヤ  ぬ  も  も  へ  も  も  も  カ  ヤ  も  も  ヤ  む

囲において、法には拘らず地方行政に成果を示した官人で

あった。

 これは決してB史料のいうところと矛駕するものではな

い。 ここで諸国を兼帯し、 その政治の具体化や下級富人

(一僚属)は任意とされた「良守しとはまさに仁一清公美

才のそれであり、またそれが形式で決定されるものでなか

29 (659)

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ウたことは格として公布されるとき、まず一国で成果を確

かめた上で兼帯するようにいっているところがらも推定し

うるのであり、まさに先の「良吏」に他ならぬのである。

ここに諸国の政治一具体的政策と官人1はかかる「良

         も   も   へ   も   ち

守」証「良吏」という蔵人に一任するにいたる。かかる政治

が実際に展開されたことはさまざまの側面から実証できる。

地方支配に効果をあらわしたものが特に重用されたことは、

その僑濃墨としての治績が後人の及ぶところにあらずとし

            ⑧

て牙笏等を給わった安倍安仁や、天長四年に遠江守として

の治化を善しとして従五位上を授けられた藤原衝などの例

       ⑨

から明らかである。又「良吏漏がその部下の宮人を個人の

意志で選択しえたことは、斉衡二年正月大宰大弐となった

正躬王が尊しく僚属を選んで橘朝臣良基と匝勢朝臣夏井と

                ⑭

を大宰学監としたことからもしられる。

 こうして諸国の政治を一任された「良吏」によって、更

に一段下部の単位である郡はどのように支配さるべきであ

ったか、それに対する解答がC史料である。郡司の「善政」

は国司皿「良吏」の挙申によって借りに官位を授け、以降

の郡司の言動によって正式に授けるか否かを決定するとい

うのである。公民支配という点ではもっとも直接的であり、

それだけに現実支配に一つの足がかりをもつ当時の政治に

おいては特に重要であった郡司に対する支配権も、すべて

は「良吏」に一任されたわけである。この政策に至る郡司

対策の変化の政治的意味についてはすでに前節でのべたと

ころであるが、この郡司対策が政治的に「良吏」支配の一

環の表現であり、かつ現実的で慎重なものといえよう。か

かる点からわれわれは中央貴族宮人の律令国家の歴史から

の教訓の自覚を見出すのであって、この点こそが平安初期

政治成立の藏接の背景であったといえよう。この政策の具

体的展開は史料的にはいわゆる郡司の「五位描授」のなか

      ⑪

に示されている。

 このように「良吏」黒人に地方政治を一任するに中央政

界での問題は、一つは「良吏篇の選択のいかんであったが、

今一つは地方監察の強化であった。前者は直接公卿三身の

間題であるが、後者に対する政策がD史料の巡察使派遣で

あり、E史料の朝集使に「宮長」を差す政策である。かり

に内外官に清正灼然なる者を取り、国内の豊倹得失を検校

し、政遮を推検し民芸を慰問し、薫姓の疾蕾を採訪するべ

3e (660)・

Page 32: Title 平安初期の官人と律令政治の変質 Citation 47(5 ......1 (631 ) 若干の復古的現象の背後にあるものは、宮田・公営田その他の

O

安初期の窟P人と穣令敷治の変質(佐藤)

ぎであった巡察使の派遣は、偉令酌地方政治の正常な運行、

更に一般班田農民の実情を視察し律令的収奪の維持を掻的

としてい静本質的にはここで高ら変化はないが、ただ

ここでその動的が人民の疾苦を問うこ乏よりも牧宰の治否

を考えることにおかれているということi形式的にもせ

よ一は、公魁の分解がもはや決定的なる当時においては

律令曲地方行政維持の唯一の残された場が園司装「良吏」の

治否以外には存在しえなかったことの表現と考えられ、そ

の点で注目しなければならない。朝集使に「官長」を差し、

二二に「玉階」の前で陳訂することとともに、かかる点に

おいてすぐれて平安初期の状況を反映しているとみられる

が、いかがなものであろうか。それは明らかに延暦期から

新たな展開をはじめた地方政治の嗣新という動向の一つの

局面を示している。

 かかる「良吏」を中心とする政治機構は、律令鋤の根本

               も  へ  あ

的理念を逸脱してはならぬという守旧性と、実態把握とそ

              へ  も  も

れに対する有効な政策をという現実樵とを兼ねそなえた国

司質地方行政を中心として中央政界をも梅成しようとする

ものであった。 「良吏」政治の形態とはかかるものであっ

たのである。それは明らかに今までのべてきた九世紀初頭

の公卿層の統一による政界全体の新しい政治的な動向の体

制下であったとみてよい。門脇禎二段の指摘された平安初

期における新政治の基盤もこうしてつくられたのではある

 へ  し む

まもカ

 そうして、かかる「良吏」国司の展開こそは先にのべた

「麗卒伝」の特質と無関係ではないようにおもわれるので

ある。 「伝」に諸国での治績が他に比較して詳しく記載さ

れたのは、その背後にかかる律令政治の変質が存在してい

たことを十分に考える必要があるのではあるまいか。 「麗

卒論篇もかかる社会的政治的動向を反映していたというほ

かはないのである。

①日本後紀弘仁三年九月辛巳(26)条。

  「而して諸闘に民は狂薔を信じ、欝上まことに繁く、或纂罎園家

 に及び、或は妄りに禍福を陳べ、法を敗ぞけ紀を糺すに、斯より甚し

 きは莫し」とある。当時の農民のあり方について、詳しい史料をかか

 げて便利なものとして佐伯有清氏『新撰姓氏録の研究』研究篇(第匹)

 をあげることができる。

②例えば日本後紀弘仁五年七月庚午(25)条、類聚三代格弘仁十

 一年十一月七日詔、岡弘仁十三年正月二十六日太政官符など。この飢

 鑓が貴族逮にどの程度の衝撃であったかは、疫病の百姓を養活したも

31 (661)

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 のには位階を叙すことにしたことからもしられる(類聚三代格 弘仁

 13・3・26官符)。

③類聚三代絡弘仁十 年十一肩七田詔。

④類聚三代格弘仁十三年正月廿六目太政官符。

⑤類聚三代格弘仁十年五月膏一日太政宮符。そのなかで国珂の非法

 をあげているが、たとえば次のようにのべている。 「たとえば国司巾

 す所の飢昆十万、使藩実録するところは只此れ五万もし実を挿さずん

        マ   へ   た   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   へ   し   で   へ

 ば五万既に隠す、圏の例として既に之あり扁。

⑥日本霊異記下巻智行並具禅師霞得巴入身一生二岡皇之子・縁錦辮九。

⑦野村忠夫氏「律令二人の構成と繊騰」(大阪歴史学会長『律令照家

 の基礎構造』所収)。

⑧三代実録薮観元年四月昔三日置。

⑨文徳実録天安元年十}月戊戌(5)条。その他地方政瀞の功績に

 よって叙位されたことの明らかなものに紀朝雌深江・藤原朝鳶長岡陰

 春枝王・清原真人有無などがある。

⑩三代実録仁和三年六月八日条、橘朝臣良塞俵。

⑪ この点については鈴木鋭彦氏門郡司の湘二男授について篇(岡愛知学

 院大学論叢駈三)がある。しかし氏は覧位口授の格が出ざれた要困と

 して、園郡通の一般的な反律令酌行為を考えられているが、ここでい

 う麟伺は一連の格と共に考えられ良綱穿とみるべきであろう。又押部

 佳周氏はその要嗣を財源の不足に求め「経済的・身分酌特権を附与し

 ない制度」と考えられているが、史料上それを確認できない。それが

 借授制の根本的な問題ではあるまい。 (同「八・九世紀の在地豪族に

 関する一考察」 『史学研究L八一)。

⑫詳しくは機会があれば論じたいが、一応の概観は、阿部猛氏「古代

 地方行政監察機関の一彰察」(『歴史学研究』二流七)になされている。

むすびにかえて一新政治の意義1

 以上、わたくしは平安初期における政治の特色について

論じてきた。ここではそれを総括しつつ、その歴史的意義

について論じてむすびにかえておきたい。

 班田農民の動揺とそれにともなう国家財政の窮乏、国郡

司の私的活動の一般化、更に地方豪族が新しい陰口的役割

を担って登場してくるという平安初期の一般的動向i律

令体制の解体現象一、それは貴族層においては全階層的

危機の到来を意味していた。そこでは政治は個人の利益で

はなく、貴族屠全体の利権獲保に重点がおかれ、ここにき

わめて一時的であるにせよ貴族層統一の必然性があった。

そうしない限り、新しい現象(11勢力)に鮒抗しえなかっ

たろうからである。

 かかる状況のなかで展開される政治、それは基本的には

地方豪族経嘉魚層に対抗して一般班田農民を雛令国家体制

のもとに再把握しようとする政策の展開過程として理解し

なければならない。それがためには、政治は現実を素直に

認識をするという点から出発を余儀なくされ、したがって

32 (662)

Page 34: Title 平安初期の官人と律令政治の変質 Citation 47(5 ......1 (631 ) 若干の復古的現象の背後にあるものは、宮田・公営田その他の

安初期の官人と律令政治の変質(佐藤)

律令も部分的修正がなされねばならなかった。以前に比較

すれば一層の正確な現実認識と官人統制を中核として政治

は運営されていく。官人の側颪に隈っていえば、当時「良

蔓」として認められた良官能吏に地方行政を委ね、中央で

はそうした現状認識にすぐれた官人を公郷に抜擢するとい

う、それなりの新しさをもつ政治体制の登場こそがその具

体的表現であった。かかる政治機構は疫病の流行・館鶴の

連続により社会不安が一定深化した弘仁末年から天長初年

にほぼ完成の域に達した。

 この「良吏」を通じて公民を再び麹臥しようとした新政

治は、従来の公式主義に陥りがちであった律令政治に比較

すればたしかに新しさをもってはいたが、それは逆に左の

点において困難な開題をもっていた。

 第一にはすでに本文で触れたように、これは官人の国家

依存を前提とすると岡時に国司の私的収奪が増加するなか

   ヘ  ヘ     ヤ  ヤ  も  へ  も  し  も  も  も  も

で、 「良吏」は絶対数として小数派であったということで

ある。その点でこの新体制には自から限界があったとみな

ければならない。

 第二にはさきの点にも関連するのであるが、官人機構の

面に限っても、 「良吏扁が治績をあげようとすればする程、

その下級の僚属においては一層事務が多忙になり、そこに

自から反掻が生じ事務…支配iは円滑を欠くに至ると

いう点である。山田春城・橘良農の場合などはそれをもっ

とも典型的に示している。

 仁寿三年(八五三)、山珊春城が駿河守であったとき、彼

の傍吏・百姓は清察を嫌い無気大神の称宜・心算をして「奇

異の事を以て国司庶人を令嬢」させていた。彼はその詑偽

をただし、その結果妖書が絶え、傍吏諸人はその聰察に服

    ①

したという。また伊予・丹波・信濃等の諸国で韓理のほま

れ高く、時の人も二面をもって相許していた橘良基は「情

は進取にありて退素をもって自諭すること能わず、敵性は

強梁にして推屈する所なし、心に悪くむ所は僚佐というと

難も、未だ必ずしも含博せず」といった気一本の性格の持

    ②

主であった。それは彼にとって「良吏」の条件であったと

同時に欠点でもあったのであるが、とにかく僚佐との関係

が円滑ではなかった。しかもそれは単に官人に対してのみ

ならず治下の百姓についてもいえることであったらしい。

彼が信濃国守であった仁和元年(八八五)、同圏筑摩郡の百

33 (663)

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姓辛犬甘秋子がその居宅と家人男女七人とを焼き失ったこ

           ③

とを太政官に愁訴している。理由ははっきりしないが、そ

れは以前(何らかの理歯で)秋子を捉え熾明した良基が、秋

子の訴によって秋子が放免され自分が謎責されたのをうら

んで、坂名井子縄麻呂と大原経佐とをして行わせたもので

あった。三代実録はこれを「積怨之漸、辱家人に及ぶ」とし

   ④

ている。また良基は、「韓理を以て、紀を見」たという丹波

守時代には、先とは逆に左近衛府近衛であった品息継名.

香肉宗守・紀家雄・頁根常雄等十六人によって陵櫟された

     ⑤

ことがあった。恐らく王臣家との対立にでもよったのであ

ろう。 「良吏」政治の効果もいよいよ疑わしてなってきた。

このように九世紀も末葉になると紀今守の体を帰放し「良

吏」の最とされた橘良基の政治も、その矛盾を多方爾に露

骨にあらわさざるをえなかったのである。かくして新政治

はより駿少化した形で、宮衙の内からも矛盾を露呈するに

いたるのである。

 更に第三には、先にもふれたところであるが、かかる「良

吏」の政治は、 在地の再編(国家による)が未だ可能な段

階においてのみ有効な方法であったという点である。ここ

ではその一例として加賀国の場合を記しておこう。

 弘仁十四年(八二三)二月に越前国江沼・加賀両端は別

       ・ ・    ⑥

に加賀国とされ中国となった。それは二黒が越前の国府か

ら離れており不便であり、或は「郡司郷長、意に任せて垂

足し、民は冤屈を懐くも路遠く訴うることなく、深酷堪え

      おわし

ず、逃散する者衆」といった有様だったからである。とこ

                        も

ろが僅か二年を経た天長二年(八二五)正月に加賀国は上

も国とされた。それは「課丁田鬼無数差益ししたからであっ

⑦た。ところでその關この越前・加賀二国の国守が、紀末成

             ⑧

であった点こそ注臼すべきである。彼こそは「良吏」の一

人に他ならなかった。彼が在地でいかなる支配方法を用い

たかは知る術もないが、二年間で上国になりえたことは、

方法のいかんによれば律令的支配をたてなおしうるだけの

可能性を地方がもっていたことを示し、ここから「良吏」

の展関のもたらした成果の一端を推定してよかろうとおも

う。こうした可能性の消失する過程は藤原朝匿保翔の動向

                  ⑨

にも示されるが、いずれ別に考えてみたい。

 このように「良吏」を中核とする新政治はさまざまの矛

盾を内包していたのである。にもかかわらず、それを中核

34 (664)

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平安初期の宮入と律令政治の変質(佐藤)

としなければならなかったのが平安初期の政治であった。

したがってそれは、律令政治の変質でしかなくそれを脱絶

したものではありえない。あくまで儒教の金理性の一面を

客観点状況のなかで実現しえたというにすぎず、体制とす

るにはあまりに不安定だともいいえよう。しかし逆にその

不安定性の故にこそ、律令棚の末期にあたった平安初期政

治の歴史的特質をもっとも端約に示しているといわねばな

らぬ。さきにのべたように、諸々の条件のバランスの上に

未だその政治が可能であったということこそが、平安初頭

を梱対的に安定たらしめえた条件ではなかったろうか。

 したがって、この平安初期即智の崩壊もすでに口前にせ

まっていた、だがそうだからといってこれを過少.評価して

はなるまい。それは七世紀以来の律金政治の歴史にとって

最初の変質であったし、律令糊はこうした一つ一つの変化

をへてはじめて崩壊にいたるものだからである、こうして

律令貴族たちは平安初期政治とその挫折のなかで地方末端

にまで欝入支配を貫徹することの不可能なことをいやおう

なく知らねばならなかった。唐突のようではあるが摂関政

治の特質と成立とを条件づける一つの前提はここにあった

ようにおもわれるのである。

① 文仙伽庸火録 瓢人煙二年論二月「巳酋(20)条ほ

② 三代実録 仁和蕪年六月八日条。

③霊代実録仁榔元年四刀五日条、同年十二月二十二獅条。

・④ 

ご一

纒ヌ奈鯨 仁和 嵩年轟ハ月八薩条 橘肺患翫良墓徴。

⑤ 窯代実録 元慶三年九弩四口条。

⑤ 類聚三代格 弘仁十四年……月三H太政富謹奏(巨木紀略では三月丙

 脹二条に収められている)。

⑦ 類聚…二代格 天長一…年正月十H太政官符。

⑥彼の「伝しには出宍・常陸・大沸・燧前纈として「並びに幹済を以

 て闘え」たとある(類聚園史六十六、芙長2・12・壬寅)。こうした点

 を労えると、加賀侮成立外廻一を地域事事幕よりも、その背後の中央政

 界での経済的…利益を考えられた遠藤……兀男氏の鋭には疑問が多く一賛成し

 がたい(閻「加賀濁の成…立事陣泊についイ、」『北陵史学』第六号)。

ゆ かかる平安初…期政治の没落の一つの過程については拙縮…「『前期摂関

 数冶倒』 の南Xけ削位置し (端“み小史研廊九』轟ハ七)、 キよた全「殻的な占…について

 は拙稿「九・+世紀の国家と農民閏題」含、日本史研究軸七})参照。

        (昭和綴…八年}月成稿、同…工九年四月補訂)

                  (東都大学大学院学生)

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Page 37: Title 平安初期の官人と律令政治の変質 Citation 47(5 ......1 (631 ) 若干の復古的現象の背後にあるものは、宮田・公営田その他の

O蚤cials and the Degeneration of Ritsuryo律令Government

         at the Beginning of the ffeian平安Era

                           by

                       Sojun Sato

  In spite of £he dissolving public公民and the tumuituous landholding

and tax.bearlng systems, it is the fact出at Ritsuryo律令govemme撹

couid develop at any rate; and it is also established that the fact was

substantial!y due to the immaturity of the c1ass power to take the

place of the ruling class ln Ritsuryo government. A study on the

aspect of clirect governing enables us to understand it by analysing

the then o価cials_.,.especialiy Kofeushi国司__taken for‘‘Ryori,,良吏

by the state. They, “Ryori”, had, in spite of the very oMcials of

Ritsuryo government, the reality that had never been seen beiore.

  To demonstrate it, this article, starting from the judgemeBt of the

importance of烈日。肋s毎六国史as a source book,宅races to its cause

of entrance on the stage and i$ to reach for its historica1 character.

The opinion that the disso}ving process of Ritsuryo government with

verious possibility cannot be properly understood by the traditioRa1

treatment of “Ryori” only as a ey. ceptionai case is £he reason why

“ Ryori ” was taken as a subject for consideratlon. Tbe fact that most

of the Pub至ic公民疑nder the“Rγori’・i簸the nineth century stiil had

substantial trend for the movement depending on the state rather

than against the state caused a temporary success of this governraent,

and in tum played an assuming part to secure the establishment of

the Sekhαn摂関po玉itical system as an ancien℃state which transformed

the Ritsuryo state.

Pao-P’Zt一’痂抱朴子in his World(1)

                by

         Tadao Yoshikawa

  People in the .Wei-tsin ew-N’ era, emancipatecl from the authority of

thr traditienal Confucianism, began to freely take thelr interest in

every direction. lt is a symptom that Kc“一leung ’es}k (283-343), attthor

                              (774)