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Title 唐末の藩鎭と中央權力 : 徳宗・憲宗朝を中心として Author(s) 大澤, 正昭 Citation 東洋史研究 (1973), 32(2): 141-162 Issue Date 1973-09-30 URL https://doi.org/10.14989/153511 Right Type Journal Article Textversion publisher Kyoto University

Title 唐末の藩鎭と中央權力 : 徳宗・憲宗朝を中心と …...全-け久局、。ル 第三十二巻 第二親 昭和四十八年九月 護 行 唐末の藩鎮と中央権力

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Title 唐末の藩鎭と中央權力 : 徳宗・憲宗朝を中心として

Author(s) 大澤, 正昭

Citation 東洋史研究 (1973), 32(2): 141-162

Issue Date 1973-09-30

URL https://doi.org/10.14989/153511

Right

Type Journal Article

Textversion publisher

Kyoto University

Page 2: Title 唐末の藩鎭と中央權力 : 徳宗・憲宗朝を中心と …...全-け久局、。ル 第三十二巻 第二親 昭和四十八年九月 護 行 唐末の藩鎮と中央権力

全-け久局、。ル

第三十二巻

第二親

昭和四十八年九月

護行

||徳宗・憲宗朝を中心として

ll

一徳宗朝の藩鋲叛飢

二代表的藩鎮類型とその性格

三徳宗靭の劉溶鎖政策

四憲宗の「中興」

- 1ー

t土

.141

私は先に、拙稿「唐末・五代政治史研究へのγ覗黙」(東洋史研究第一三省第四披〉に於いて、堀敏一氏の研究成果を主

要にとり上げ、唐末・五代政治史研究に際して、深化すべきと考えられる若干の離に燭れた。そこでは、唐宋饗革期研究

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の再検討という課題意識に立って、次のような貼に注目した。即ち、政治史展開の把握に於いては、支配権力内部の矛盾

の展開||地域的権力としての藩銀と唐朝統一擢力との封雁関係の展開||に基軸を据えて考察することが必要である。

そして、

そのためには

「地域差」

・をふまえた、藩鎮の性格的差異の分析が重要となる、等の貼について述べた。本稿で

は、このような問題意識に立ち、

」れまでも多くの研究が積み重ねられてきた、

所謂「藩鋲割援鐙制」の問題をとり上

げ、新たな方向での検討を加えたいと考える。

前稿でも述べたように、藩鎮の性格に劃する許債は、従来、一律的卒面的なものがあり、藩鎮と唐朝との聞の複雑な相

互聯闘を組鐙的に分析されることもなかった。また、藩鎮鐙制の展開に重要な位置を占める徳宗、憲宗朝については、徳

宗の「姑息」政策と憲宗の「中興」という

一面のみが強調して理解され、中央統一権力としての唐朝の一貫した志向、が如

何なるものであったのかに

ついては注意を向けられなかった。それ故、本稿では一つの方法論として、ます、唐朝と藩銀

の劃臆関係、藩銀相互の斬闘を分析するという親黙に立つ。そしてそこに表現される主要藩鎮の基本的志向から、その性

格的差異に言及し、

さらに、唐朝の封躍を考察してゆきたい。そのことによって徳宗、憲宗朝の歴史的性格にも迫ってみ

- 2 ー

たいと考えるのである。

徳宗朝の藩鎖販凱

徳宗朝に於ける藩鎮の動向を考えるには、何よりも建中・輿元年間ハ七八GJ八四年)を中心として起こされた藩銀叛観

をとりあげねばならない。それは、このような動揺の時期にこそ、卒常は沈潜している諸勢力の志向が一一層明確になると

考えられるからである。そして、この時の叛飢も、ただ車に反唐朝を目的とするという卒面的なものではなく、

叛蹴諸勢

力の動向にはより複雑な様相が表現されている。各叛観節度使は、自らの要求を基礎に据えつつ、唐朝の劃腰、他藩鎮の

動向、自藩鎮の内部事情など幾多の要因に規定され、その総監として「叛凱」という行動を起こしているのである。

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これまでの研究ではこのような複雑な要因には目を向けず、一般的な叛凱として「藩鎮史を通じてもっとも規模の大き

なも仇」としてしか評債されない傾向があった。本節ではこのような複雑な藩鎮叛飽の遁程を詳細にあとづけることによ

り、各叛飽勢力の基本的志向を考察してゆきたい。

さて、この時の叛飽展開には、地域的に三つの勢力が表面化する。一つは河北、准西諸鎮であり、一つは朱批等の、長

安を占領して唐朝の危機を深化させた勢力であり、もう一つは言うまでもなく唐朝及びその支持勢力である。これら三勢

力の相互的な聯闘の下に情勢が展開すると考えられるので、この黙に注意しつつ叛範の展開を見てゆかねばならない。ま

四段階に於ける要貼に鯛れながら、まず叛範の始末を見てゆ

た、叛範情勢は全鐙として四段階を経て終結した。それ故、

@

きたい。

第一段階は寂凱の開始から唐朝優勢の段階である。叛飽の契機となったのは徳宗の劉藩鎖積極策と、これに劃抗する所

謂駿麗藩鎮との聞の劉立激化であった。つまり、嘗時、

ノ唐朝支配の大きな阻害要因とな

っていたのは、安史の飽降鼎の藩

@

鎮としての駿雇であり、その結果と

Lての唐朝財政の窮迫であった。この背景から徳宗は、第一に「河朔の奮事」を守り

一方、既得権盆を守り抜こうとする諸藩鎮はこれに劃抗して奉

-3-

績けよう

γ

とする河北諸藩への介入に乗り出したのであり、

兵するのである。

この時(建中二年〔七八一年〕五月)拳兵したのは、叛範の契機とな

った、成徳節度使李賓臣の子李惟岳伶それを支援す

る貌博節度使田悦、卒直節度使李正己、山南東遁節度使梁崇義である。彼等はいずれも安史の組以来の強力藩鎮で、唐朝

@

からの介入。に

劃しては、互いに協力して針鹿することを約していた間柄であった。しかし、この段階にあっては、奮支配

瞳制を回復しつつあ

った唐朝側の勢力は強力であり、叛飽側を匡倒した。李惟岳は、部下の王武俊に新られ、田悦は追い

つめられた。そして、唐朝は河北介入の第一歩として藩鎮細分化を試み、易定治節度使、深趨都圏練使の二藩鎮設置を命

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ずることとなる。

第二段階は、こ

の唐朝の政策によって引き起こされる叛乱棋大の時期である。

河北に新たに二藩鎖を設置することは、唐朝に聞いていた幽州節度使朱活にとっても、成徳軍兵馬使王武俊にとって

も、一つの不満と危機感を興えるものであり、これを利用した貌博回慌によって叛蹴の新たな局面が聞かれる。即ち、田

その時の説得の内容は衣のようであ

った。

王武俊を叛凱に引き込むわけであるが、

慌は朱泊、

徳宗が朱泊に深州を興えなかっ

たことは約束違反である。

唐朝のねらいは河北をすべて掌握しようとすることにあるから、

競博が破れれば、次には、首然、成徳・幽州がね

らわれる。

朱活に貝州を割譲しよう。

というものであ匂この主張の重貼は言うまでもなく②にあった。

つまり、唐朝の河北介入という危機感を煽ることによ

-4-

って朱泊を叛範へ起たせたのである。

かくて朱泊の反唐朝の意志は決せられるが、この時の彼の藩鎮内部の動き、殊に兵士集園の動向には注意しておかねば

ならない。即ち、朱泊が唐朝側の寧への攻撃命令を下した時、軍士達はそれに鷹じようとせず、

数十人を斬ることによっ

@

て彼の命令を貫徹させた事件、並びに、田悦の救援に趨こうとした時、反封した兵士二百除人を斬り、朱治の意志を通さ

ざるを得なか

った事件のごつである。ここでの兵士達の主張は、自分の土地を離れて戦争に参加することへの反援がその

主なものであった。つまり、彼等は、所調「傭兵」の如く、報酬さえあれば藩帥の意のままに動くという軍隊ではなく、

何らかの形で在地との強いつながりを持っていた箪陵であると考えられる。ここに河北藩鎮の性格の一端が窺えるのであ

る。さ

て、朱泊、

田悦の協力関係が成立すると共に、

王武俊も加わ

って唐朝に反旗をひるがえし

」こに幽州・成徳・親

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博・卒車四節度使の聯合が成り、建中三年〈七八二年ν

十一月には鞍園時代七園の故事に則って、

が結ぼれることとなる。さらにこの四藩鎮は、作州を占領して勢力の強大になっていた准西李希烈を仲心に据え、ことに

五藩鎮による劃唐朝戦線が現出することとな

った。

ところで、先の河北四藩鎮の盟約には彼等の目的とする所が表現されていて興味深い。通鑑に「倶に王を稽して年続を

@

改めず、昔、諸侯が周家の正朔を奉じた如くに云云」と議論の内容が記されている如く、彼らは、唐朝の存在自睦を否定

はしていなか

ったのである。むしろ、唐朝支配の強化に劉Lてのみ反抗するという意味合いが強かったと考えられる。そ

Lて、この河北諸藩の志向性が結局は唐朝による叛蹴切り崩し成功の要因となるのである。

朱活を盟主とする盟約

第三段階は、長安で朱枇が叛範を起こしたことによって引き起こされる新たな段階である。朱枇の凱の結果として、叛

飽は全園的な規模に援大されたかの如くに見えるが、その寅、河北では封唐朝の聯合戦線が分裂するという情勢にも準む

のである。

- 5ー

長安に於ける、朱泊の兄朱枇の叛凱は、直接的に唐朝中植を攻撃し、徳宗を長安から追い出した所に意義があった。こ

の統一擢力の主盤たる唐朝の動揺は、全園の藩鎮に少なからぬ影響を興え、事態の蹄趨を静観させる結果となった一方

で、朱枇の勢力もその内賓とは逆の確固たる勢力としての許債を輿えられた。このような朱批の、朱泊と呼醸して唐朝支

@

配にとって代ろうとする勢は、殊に河北の叛能勢力に深刻な波紋を投げかけたのである。結果的には、王武俊、田悦が唐

朝と結ぶことになるが、彼らがこの行動をとった理由は衣の二黙にまとめられる。

①前述の朱治の強犬化に劃する脅威

@

「奉天改輿元元年赦」によって既得権盆が認められたこと

であり、ここにも河北諸鎮の重要な性格が表現されている叶

朝であろうと他藩鎮であろうと反抗してゆくのである。

つまり、自らの牧奪佳制へ介入する恐れがあれば、それが唐

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」のような河北戦線の分裂は

叛乱を最後の段階H移結へと導いてゆく。

即ち、

叛凱側は、幽州の朱泊、准西の李希

烈、長安の朱批とに分断され、

さらに河北から長安に集中してくる唐朝軍によ

って、不満分子の寄せ集めに過ぎなかった

朱枇は敗られることとなる。また一

度は皇帝を稿した李希烈は依然頑強な抵抗を綴けるが、朱泊は叛範勢力の衰退と共に

幽州へ引き上げざるを得なくなる。

ここで注意しておかねばならないのは、この時の王武俊の行動である。彼は叛凱の蹄趨が決定的となっていた段階で、

@

唐朝より幽州節度使の地位をも興えられていたが、この地位を自ら辞退した。つまり、朱泊の支配地であ

った幽州藩鎮を

自分の支配下に入れることが可能であっ

たにもかかわらず、これを辞退し、朱泊の地位を保障してやる行動をとったので

ある。ここには、自分に劃する直接的脅威がなくなれば他藩鎮の存在を認めるという王武俊の志向が見られる。

とができるであろう。それは、封唐朝という覗粘'に立った時、

一つは河北諸鎮の如く、唐朝を否定するのではなく、

- 6 ー

以上、藩鎖叛凱を四段階に分けて検討してきたが、この過程の中から、次のような二つの類型の叛凱藩鋲を抽出するこ

その

介入の強化にのみ劉抗し、在地性の窺える類型であり、

一つは、朱批、

李希烈等の如く、自らの権力をうち立てようとす

る類型である。こう見る時、叛刷胤藩鎮の動きは必ずしも一

様に見ることはできず、各々の異なる基本的志向が存在してい

ることを認めないわけにはゆかない。次には、これら藩鎮の基本的志向を確認しつつ、さらにその背景に

ついても考察し

てみなければならない。

代表的藩鎖類型とその性格

前節に見た如く、藩鎮叛範の過程には、二類型の簿鎮を抽出し得るわけであるが、この他に、唐朝を経済的に支持し績

けた藩鎮もまた存在した。これら三類型の藩銀を、ここでは劉統一権力という現酷から、

ω分立志向型、倒権力志向型、

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ω統一樺力-支持型、と呼んでおきたい。そして、本節では、こ丸ら三類型の藩銀について、各々の基本的志向をより明確

化すると共に、その内包する性格的差異をも検討してゆきたい。

河北三鍋を中心とする類型||分立志向型||

叛凱過程で河北諸鎮が示した運動原理は次のようにまとめることができる。

川中央統一樺力H唐朝は藩鎮支配の維持にとって否定し難い存在である。

MW唐朝、他藩鋸を問わず、自らの牧奪鐙制に介入し工うとする勢力には一致協力して反抗する。

付藩鎮を構成しでいる兵士には「在地性」の強さが見られる。

付従って河北諸鎮を基盤としては新たな統一擢力の捲い手は成長し難い。

(A) 以上のような志向が見られるわけであるが、これを「分立志向」型と呼びたい。

ー 7 ー

かような運動原理は唐朝側官僚の分析する所によっても確認できる。徳宗朝の重臣陸費は「河朔藩鎮は念があれば力を

合わせるが、それがおさまれば互いに憎みあっている。これみなその場限りのものであり、繭となることは少ない」と指

摘し、河北諸鎮の前述した如き志向を運べているし、憲宗朝の宰相李緯は、河北三鎮の中の成徳軍を創南西川、新西節度

使と比較して次句ように見る。「成徳では、内には歳ごとに圏結が強まり、外には他藩鎮との結合が盆々康がっている。

そして賂土・百姓達は代々保護されてきた思を感じており、天子と節度使との聞の守るべき君臣関係も知らない。」とじ

て、成徳箪の在地との結びつきの強さを語っている。また、杜牧は、河北の濁自性を保障するような、自給自足が可能な

ほどの生産力の高さと、天下に占める位置の重要性を述べている。

以上の各人の指摘を見れば、河北の「分立志向」という性格がより明確になってくる。就中、在地性の強さについての

指摘には注目しておかねばならない。それは、従来一律に言われてきたような藩鎮軍の「傭兵」的性格とは相容れないも

のだからである。そして、この在地性は河北諸鎖に特有のものであったと考えられる。

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この反映として、周知の如き軍編成の方式が史料に残されているのではないか。

軍編成の方法は、戸口の多寡を計って徴兵し、或いは、丁男の三人に一人を徴設するものであっ

た。この他の藩鎮の軍編

成方法については、他に史料が残されていないので断定することはできないが、後述する四川の劉闘や新西の李鋳の軍が

明らかに傭兵であったことからすれば、説博

・昭義に代表される河北の徴兵方法がより在地的であったことは十分考えら

即ち、規博、昭義(津泌)各節度使の

れる所である。そして、

その結果として藩鎮の在地的性格が附加されるのである。

また、もう一つの河北藩鎖の特徴は、李緯が特に分析している如く、一人の軍絡がすべての権力を握るのではなく、幾

人かの軍柏村に分散して軍を統率させる鐙制であり、相互に牽制させることによって、

藩帥の支配を維持している、と言わ

れる貼である。李絡はこの位制を河南・河北政雇藩鎖、即ち准西、河北諸藩鎮濁自の政策的なものであるかの如くに見て

いるが、この軍賂の比重の大きさより考えれば、むしろ、河北諸藩により特有な鐙制であると考えられる。

- 8 ー

河北諸藩には、節度使の死によって後縫者が立つ場合、唐朝の認可が得られず動揺する例が屡々見られるが、この藩帥

動揺への匪カがコニ軍」と表現されていることは、これら軍絡が藩帥騒立に於ける匪力となっていたことを裏づけるもの

である。またそれは唐朝の「権威」が背景に無ければ、軍賂達は藩帥を認めないという動きがあったことをも窺わせるも

のである。

つまり河北諸藩に見られる藩帥の不安定性は、宣武軍等に於ける騎兵の問題とは別に、以上見たような、在地

性の強い軍を背景とした軍将達による所が大きいと考えられるのである。

こう見てくるならば、河北の「分立志向」の背景には、河北藩鎮の性格が反映しているのであり、従来言われた如く、

他藩銀を含めて一律的に「傭兵」的性格とは見ることができないであろう。

唐朝権力を否定する類型l|擢力志向型||

叛見の過程に於いて明確に唐朝を否定し、自らの権力を創出しようとする行動をとったのは、朱批と李希烈であ

った。

彼らに共通する特徴は、兵力、財力の一方又は隻方の優位という背景に立って唐朝を否定し、自らの樺力を作り出そうと

(B)

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するが、在地的基盤は非常に弱いかほとんどないということであろう。特に准西の李希烈はそのような勢力の典型と見る

ことができる。不満分子にかつぎ出されて飯凱に決した朱枇よりも、自らの意志と力で支配基盤を固め、さらに皇帝を稿

するに至った李希烈には、より明瞭に彼らの基本的志向が表現されていると考え得るのである。次に、李希烈の叛観への

背景を検討することにより、倒権力志向型藩鎮の基本的志向の背景を考えたい。@

李希烈が皇帝と稿し得た最大の要因は、通鑑に記されている通り「兵強財富」であったと考えられる。准西は、玄宗朝、

に西北の異民族を移住させたことなどもあって、「兵強」という要素が作られていたが、しかし、「財富」とは結びつい

@

ておらず、周浸からの略奪を大きな財源としていたよラである。一それ故、この「兵強」と「財富」が結合された時、即ち

作州を占領し、その財を獲得した時、

はじめて李希烈は皇帝と稽するに至

ったのである。

嘗時、作州一帯は江准漕運の中心地であり、全園的な流通経済の一大接黙となっていた。そして、この一帯を支配する者

@

@

が如何に莫大な利盆を得ていたかは宣武軍節度使韓弘の例によっても明らかである。彼らは自ら手を下している遭運から

利を上げるのみならず、流通経済を把握することによって、計り知れない貨財を得ていたと議想される。その一例として、@

軍の用度にあてたという記事があげられるが、

-9-

宣武軍節度使王智興が、支配下の掴ロに於いて税(恐らく商税〉

をかけ、

この他にも、様々な手段によって私的広蓄財することは容易なことである。

ともあれ、李希烈が皇帝を稿し得た背景を「兵」と「財」の一致にあったと考える時、後、唐朝を倒した朱全忠が「臆

子都」を編成するに際して作州の「富家の子弟」を集めたという事賞とかなり共通した志向を感じさせる。即ち、統一擢

力獲得を目指す二勢力が、このような流通経済の把握乃至は豊富な財源の把握を必要候件としていたことは興味深い。

倒型藩鎖としての性格を以上のように考える時、嘗然、兵力としての「傭兵」の存在をも認めねばならない。宣武軍の

騎兵、徐州の「銀万都」或いは仇甫の説卒定に功のあった「黄頭軍」等の強力な軍隊が豊富な財力をパックに編成され、

149

節度使鹿立にも多大の影響力を持つほどになるのである。

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唐朝を支えている類型1

1統一権力支持型||

以上の如き叛飢落鎮の他に、唐朝を支持し績けた藩鎖類型についても慣れておかねばならない。

叛範嘗時、奉天へ避難した唐朝を迎え入れようとしたのは、陸軌貝も述べている如く、剣南西川節度使張延賞と、ポ江東西

節度使曹況であっヤまた、苦境にあった唐朝に援助を績けたのは江南西道節度使曹王(李)泉であった。

このように主として、江南、四川の節度使が唐朝支配を支え績けたのであるが、その背景の

一つは、勿論官僚支配の徹

@

底であり、既に松井秀

一氏も指摘する所である。

(c) ここで注目しておくべきは、藩鎮軍のあり方である。即ち、李錆の例に見られるように軍の中核は純粋の傭兵であっ

ことであり、且つ州刺史まで節度使の支配が貫徹していなかったことである。さらにこれら州刺史は、

叛凱に射して「郷

@

閣の子弟」を集めて封抗している貼にも注意しておかねばならない。この後も、,仇甫の凱に際しては「土圏の子弟」千人

@

或いは四千人を短時日のうちに集め、叛範に針抗している。

このような、藩帥個人の一国的支配が成り立ち難いという

ω型藩鎮の性格は、官僚支配の徹底と共に、江南、

- 10一

四川の生

産力、土地経皆様式によって規定される所が大きいと考えられるが、より詳細に検討されねばならないであろう。

以上、

ω倒悶三類型の藩鎖に

ついて検討してきたわけであるが、各類型の持つ基本的志向はより明確になされ、藩鎮縮

瞳を決して一

律的に考えることができないことも明らかになったと考える。それでは、このような藩鎮に劃して唐朝はど

のような劉躍をし、その支配をどのようにして貫徹させたか、が次節の課題となる。

徳宗朝の封藩鎖政策

@

従来、徳宗朝の政策は「

一郡一

鎮兵有れば必ずこれに姑息す」と言われるような「姑息」政策の面が強調されて理解さ

れてきた。この結果として唐朝支配が後退し、藩鎮の駿属が一層激しいものとなったとするのであ旬。しかし、このよう

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な理解は極めて一面的であるし、その結果、中央統一権力として絶えず自己の支配貫徹を園る唐朝

η一貫した志向を見落幅

してしまうことになる。又、憲宗の「中興」へ至る過程も、皇帝個人の資質の問題に解消されてしまい、支配貫徹への一

貫した方向性を見失うことになる。それ故、本節では、皇帝個人の資質をも含み込んだ形で展開される唐朝の支配維持・

貫徹の志向を検討することが必要となる。

さて、徳宗朝の政策を分析するには、陸費(陸宣公)の主張をまずとりあげねばならない。

彼は、徳宗即位の大暦十四

年(七七九年)翰林皐土に抜擢されてより、貞元十一年〈七九五年〉忠州別駕に左遷されるまでの約十五年間、徳宗の信頼

をプ身に集め、殊に藩鎮叛凱の困難な局面にあっては、ほとんどの詔殺が彼の手になるなど、徳宗にとって必要不可扶の

@

側近官僚となっていた。宰相をしのぐ権威を持

っていた彼は、嘗時「内相」と稽されたと云う。それ故に、徳宗朝の封藩

鎮政策の基本は大部分彼に依接していたと考えられるし、まず第}に彼の主張を検討することが必要なのである。

陸費の主張する所はかなり多岐にわたるが、大きくは二黙に集約されるべ第一黙は、統一擢力としての唐朝の存在を確

認し、その擢威の確立を圃ろうとするものであり、第二黙は嘗面する情勢に於いての百六瞳策、即ち劃藩鎮という面で、叛

範藩鎮の性格、寅肢を分析した上での現質的封鷹策である。

第一の黙については、

-11ー

か、事態を見守っており、

嘗時の全園的な叛範情勢について「全園の藩鎮は各々叛乱側につくべきか、唐朝側につくべき

@

'

いささかの手違いも許されない」という認識の下で、唐朝の統一権力としての地位が危機に瀕

しているとして主張される。

この主旨の主張が初めてなされるのは、徳宗が奉天府から輿元府べと避難しつlつあった時である。この時、百姓の「瓜

果」を献ずる者があり、これに感激した徳宗は彼に寄位を典えようとした。陸費はこれをとどめて、「嘗今の病む所は、

@

まさに爵軽きにあり」として、徳宗を諌めるのである。彼はこの時すでに、貴族的秩序の象徴たる「爵」が軽んぜら一れて

おり、それと比例して唐朝の擢威も失われつつあることに気づいていた。そして、この擢威の失墜をくい止めるべく警告

1:51

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152

を註したのである。

かくの如き主張は朱枇の飢が移結し、唐朝が長安を回復した後には、より明確な形でうち出されてくる。即ち、時に朱

枇の降持李楚琳が鳳朔節度使として任命されていたのであるが、これを交替させるべきであるという議論が起こ

ってく

る。この議論に射して陸費は、李楚琳が害を篤し得ないという情勢を分析した上で、まず唐朝の健制を整え、威令を復活

@

した後に李楚琳を交替させるべきであるとする。

また、貞元元年(七八五年)河中の李懐光を卒定した後、その勢に乗じて准西の李希烈をも討伐せよという議論が起こっ

てくるのに劃しでも、陸賢は唐朝の権威確立を急務として反封論を展開する。その概要は次の通りであった。即ち、建中

年間以来の叛見は一腰の卒静に闘し、唐朝がその地位を復活したことによ司て天下の情勢は大いに饗化した。しかし、今

准西の李希烈を討とうとするならば、残存している反唐朝の諸勢力は、次に自分が狙われるであろうことを恐れ、再び叛

飽に向うであろう。故に現在の唐朝のなすべきことは、皇帝としての『恵と威』をより確固たるものとすることにある。

@

李希烈に劃しては、孤立策をとって十分な注意を梯えば自ずから害はないであろう、と。徳宗はこれに従った。

- 12ー

以上の如く、

まず第一に、

まさにこの時期に、唐朝のなすべきこととして、中央統一擢力H唐朝の権威の復活と確立が

イデオロギー的支配の重要性を十分に認識し

一義的に主張されるのである。陸費は中園統一王朝の支配維持に於ける、

ていたと言えるであろう。

この結果、貞元年間にはここで確立された唐朝の権威が河北藩鎮に劃して大きな役割を果すこととなる。

成徳軍の聞の抗争に劃して、

つまり、貞元

六年(七九O年)、同八年(七九二年)に起こった卒庫軍、

朝は南藩鎮の調停者として登場

@

し、和卒を成立させる。こ

こでは、藩鎮の上に立つ統一権力としての唐朝の権威を生かし、

Eっ、統一権力としての存在

を他藩鎖すべてに示しているのである。

次ょに、陸賛の主張の第二の貼についてはどうであろうか。前にも燭れた如く、彼は「論南河及准西利害献」に於いて、

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要貼次の如き主張をする。即ち、河北諸鎮は唐朝の支配を受け入れることには反抗するが、その直接的影響はそれほど大

きいものではないので『計』をもって園ればよい。しかし、准西藩鎮のもつ反唐朝の影響力は非常に大なるものがあるの

@

で最重に封慮する必要がある。というものである。このような陸費の主張は、

ω分立志向型藩鎖と倒権力志向型藩鎖とを

明確に巨別し、保件によっては唐朝の存立に重大な影響を及ぼす倒型藩鎮に十分な警戒を排うべきであるとする主張と考

えることができる。

かような陸賛の主張の基本は、貫際に様々な政策として貫施された。貞元十五年(七九九年〉、時の准西節度使呉少誠の

許州攻撃に劉抗して、唐朝が「討果少誠詔」を設して武力討伐に乗り出したことは、「姑息」政策の下では極めて特異な

ことである。また、時期は前後するが、貞元三年(七八七年〉には、准西を牽制するという明確な意園の下に李泉を山南

@

東道節度使として涯遺している。このように、唐朝が准西に劃して排った注意は非常なものであった。

さらに注目すべきは、准西のみならず、河南一帯の藩鎮に劃して、藩鎖細分化と見られる政策がとられたことである。

貞元元年三月、,李澄を義成節度使に、同二年七月、曲環を陳許節度使に、同四年十一月、張建封を徐掴濠節度使に任命

する。また、同三年二月には鎮海節度使韓混の死に乗じて、彼の奮領域を漸西、新東、宣教池の三藩鎖として分割してい

- 13一

の、或いは数十年間節度使が任命されていなかったものである。このように貞元年間初に、河南、江南、就中、江准潜運

路に沿った藩鎮が細分され、復活されたという事賞は、唐朝の目的とする所が、江准漕蓮の確保と共ビ、「丘ハ」と「財」

それは陸費の主張とも合致するの

るのである。これらの中、

徐掴濠各節度使は、

を品兼備した倒型藩鎮の出現に劃しての預防措置であった

t

と見ることができるし、

また、

である。

153

衣に、徳宗朝の政策として燭れておかねばならないのは、

周知の如く、徳宗の財政強化策の特徴は、

その財政強化策である。

「税外方国」・「用度羨徐L

等と呼ばれる、藩鎖からの私的な進奉||陳垣は

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154

「ただ賄賂なるのみ」

(「通鑑表徴」巻二

O〉と評しているがーーーを奨励したことにあった。

即ち、

回復した唐朝の権威H

貴族制的爵位賜興援を最大限に利用し、租税牧入よりも、より安易に、より多額の牧入を確保しようとする。そして、こ

の劉象となる藩銀は、嘗然、前述

ω型藩銀をおいて他にないのである。即ち、奮唐室百食貨志にある如く、創南、江西、揚

州(准南〉、宣州(飾郡宣池)など四川、江南の各藩鎮から

「日進」「月進」と稽せられるほどの進奉が寄せられたのであヤ

@

さらに進奉は憲宗朝でも行なわれ五代へと績いていった。

と聯な

ってゆく。

かくの如く唐朝は、

ω型藩鎮よりの牧奪を一一暦苛酷なものとすることによって支配を維持し績け、憲宗朝の「中輿」へ

しかし、一方では、貨幣経済の護展が促進され、唐朝支配を根底から掘り崩してゆくのである。

以上を要するに、徳宗朝の劉藩銀政策の本質は、各藩鎮の持つ性格を分別して巧みに利用し、自らの中央統

一権力とし

ての存在を確立、保持する所にあったと言える。つまり

ω型藩鎮に経済的に依援しつつ、倒型藩鎮の出現を抑匪し、

ω型

その統

一権力を否定し得ないという弱貼を利用して、徐々に支配下に組み入れようとするものであった。徳宗

- 14ー

藩銀には、

の所調

「姑息」政策の内買はかくの如きものであり、あくまでも、唐朝支配の維持貫徹を主眼としたものであった。ここ

に、憲宗の

「中興」へと設展してゆく要因を内包していたのである。

興」

前節まで徳宗朝の藩鎮

・唐朝の封麿関係を分析しつつ、その基本的志向と背景について検討してきた。それでは、次の

憲宗朝に於いてこれら唐朝・藩鎮の劃躍関係はどのように設展し、また、

あろうか。本節では、再び唐朝と藩鎮の封塵関係に注目し、

カの志向の展開並びに

「中興」の本質を探

ってゆきたい。

「中輿斗は如何なる過程を経て達成されたので

「中興」達成までを三期に分って分析することにより、各勢

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第一期は憲宗の劃藩鎖積極策が確立した時期である。それは、前にも燭れたような四川の劉聞、新西の李錆が叛飢を起

こし、

、短期間で卒定されたこと、また、卒宜節度使、か唐朝へ一つの一譲歩をせざるを得なくなったことに表現される。

元和元年(久O六年〉、創南西川に於ドて劉闘が、同二年、断西で李錆がそれぞれ叛範を起こすが1

共に支配基盤の弱さか

ら短時日のうちに卒定される。この弱さは前述したように、軍の中核が傭兵軍であり、且つ、彼らの支配が支郡にまで及

んでいなか

ったという事責に示されている。それ故、戦後慮理も叛飽首謀者を除くことのみであり、その他はすべて奮睦

@

制そのままに蔑されたのである。

一方、これらの叛飽に際してとった唐朝の劃慮も巧みなものがあった。つまり、叛観の全園波及を恐れて、最も注意す

@

ベき河北諸鎮に劃しては、官位を上げるとい骨ノ劉策をとり叛凱への同調を抑えるのである。この結果、劉闘、李錆の叛飽

は容易に卒定され、また、卒宜節度使の後纏問題に劃して、唐朝が節度使任命を拒否しても、隣藩が干渉に乗り出してく

ることはなかったのである。かくて唐朝は、四川、漸西の叛範卒定に全力を集中することができたし、また、節度使任命

拒否によ

って起こった卒宜軍内の動揺を利用して、雨税上供、唐朝によあ官吏任命、盟法の賓施を内容とする卒宜節度使

の譲歩を獲得したのである。

-15 -

第一期に見られるこのような動きは、唐朝の志向が、河北藩鎮に劃しては

ω型藩鎮としての性格を刺用して牽制する、

或いは支配を侵透させ、

ω型藩鎮の叛凱にはその卒定に集中して財政的基盤を確保する、という黙にあったと見ることが

できるであろう。ここに、方針を確立した憲宗は、准西、河北の介入へと進むのである。

第二期は、第一期の成功を基礎に、河北、准西への介入に踏み出した時期である。

元和四、五年(八O九、一

O年)の成徳王土員、准西果少誠め死を機と

Lて唐朝内部には、この商藩鎮への介入が議論さ

れるが、ここには唐朝の目的とする所が窺い得る。

憲宗と官僚との聞には意見の相違があったが、李緯を代表とする官僚

155

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156

の主張は准西を先にすべきであるとするもので、次のようなものである。即ち、

わたっている州豚であり、(河北などの)叛凱勢力とは通謀できない情況にある。

「准西の四周はすべて、唐朝支配のゆき

朝廷が節度使を任命するのは今が正にそ

の時であり、高

一受け入れなければ、征討も考えねばならない。成徳の『致し難きの策』を捨てて、准西の『成し易きの

@

謀』につくべきである。」という主張であり、前述陸費の主張と多くの共通貼を持っている。

方は別として、河北、准西に削到する唐朝の意向が徳宗朝以来

一貫していることを示している。

」のことは憲宗個人の考え

一方、河北諸鎮では各藩鎖濁自の動きを示すが、基本は徳宗朝に見られた「分立志向」の動きである。まず成徳軍内で

は、唐朝からの節度使任命が得られないことから動揺が起こり、王承宗は二州を分割するという篠件のもと、節度使任命を

旗をひるがえさせることに成功する。

求め唐朝もこれを認めた。ところが貌博節度使田季安は隣藩の動揺に危倶を抱き、王承宗を欺くことによって、唐朝に叛

また、幽州の劉済は、昭義軍節度使慮従史が成徳と結んでいることを察した上で、

- 16ー

唐朝に加婚するのである。このように河北内部では、唐朝に反抗する成徳、親博それに昭義があり唐朝の側には幽州が立

つというように相互に封立していた。しかし、

幽州が唐朝側に立ったとしても、後により明瞭になるが、そのねらいは唐

朝より給される所謂

「食出界糧」にあったようであり、親唐朝、反唐朝の匡別はあっても、河北内部での戦闘は積極的な

ものではなか?たと考えられる。

他方、河北征討軍の内部にも、官官が組指揮権を握ったことに劃する反援も大きく、成徳征討は進展が見られなかった。

このような情況から、

憲宗は昭義軍節度使庫従史が強制迭還されたのを機に、成徳征討を中止することとなるのである。

以上の如く、第二期は河北介入の挫折の時期であった。唐朝は准西の後縫者を認可した上で、河北に力を集中したにも

かかわらず得られた成果はほとんどなかっ

た。ここには、再び河北の根強い「分立志向」の性格が表面化してその力を護

@

さらに、本来河北三銀を制する役割を輿えられていた昭義節度使までが、河北三鎮に同調することとなったのであ

揮し、

った。

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第三期は、これまでの数訓をふまえて「中興」が達せられた時期である。その成功の最大の要因は准西への攻撃集中と

その解瞳に成功したことである。

元和九年〈八一四ち

准西臭少陽の死によ

って、再び第二期と同じ情勢が展開されるが、やはり唐朝による征討ば進展

しない。その事情は幽州節度使劉組の動きに明白に示されているところである。彼は王承宗征討の命を下すよう積極的に

@

唐朝にはたらきかけたにもかかわらず、征討の命が下るや、‘自分の領域からわずかに「五里」進出したのみで、しかも、

@

月々十五高縄の度支銭を得ていたのである。彼の目的とする所は、成徳軍征討ではなく、唐朝より支給される貨幣にあっ

@

たのである。そしてこの結果河北が強大になることは白居易の恐れた所でもあった。

かくて、唐朝は元和十二年(八一七年〉河北から撤兵し、准西に全力を集中ずることとなる。

この結果、李憩等の活躍

もあって准西征討を達成することができた。そして、李希烈以来三十絵年間、唐朝支配の障害とな

ってきた准西藩鎮は、

領域が三分されることにより、全く解鐙されるとととなる。

この准西征討の影響は大きく、河北諸鎮も競

って唐朝に降伏する。しかし、卒宜のみは反抗を績け、遂には武力討伐さ

れるわゆであるが、この時の戦後慮理も亦准西以上に徹底したものであ

った。人口、土地、軍隊、資産等を調査の上で均

@

等に三分するという方法がとられ、卒直藩鎮の再現に針して巌重な注意が携われたのであ

った。

以上によって、憲宗の「中興L

が達せられたのであるが、この成果を確保するために刺史への軍事権分散という針策が

@

@

とられた。しかし、この政策は河北ではほとんど数力を持たなか

ったことは明らかである。それは前越の「中興」達成の

経過からもわかるように、唐朝の河北支配ば極めて表面的なものであ

ったからである。それ放に、この封策のねらいとす

る所は、倒

ω型藩鎖、殊に同型藩鎖抑匪の意味合いが強かったと考えられる。何故なら、李錆の場合に見られた如く、

ω- 17一

157

型藩鎖に於いては刺史の果す役割は、既に、・重要なものがあったからである。そして、

日野開三郎氏が一般的に指摘された所でもあった。

たことは、

」の劃策がある程度の効果を上げ

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さて、以上三期に匡分して憲宗の「中興」達成の遁程を見てきたわけであるが、

は、倒型藩銀がその志向を明確になし得ない情況になっていた他は、ほぼ徳宗朝と同様である。しかしながら、強化され

た唐朝財政は、徳宗朝の如き唐朝・藩鎖聞が均衡拭態にあることを許さなかったのである。そして、軍事権の分散という

」の過程に表出された各勢力の志向

針策をとることによって、藩帥個人への軍事権集中を抑匪し、倒型藩鎮の出現を議防することに成功したのであった。こ

こに、憲宗の「中興」の歴史的役割の一端が窺い得るし、かくて唐朝は以後八十徐年間の延命の基礎を築いたのである。

以上、藩鎮と唐朝の劃醸関係を検討し、そこに表出された各勢力の基本的志向とその背景を考察するという方法論をも

って、徳宗、憲宗朝の政治史展開を考えてきた。ここに指摘できたことは、

ω倒ω型に分類した如き藩銭類型を抽出し得

-18 -

それと密接に封醸しつつ、唐朝の支配貫徹が貫行されたことであった。憲宗はこのような諸勢力の志向を

巧みに利用して「中興」を達成したのである。そして、この遁程を見てゆく時、支配階級内部に於ける、更なる矛盾の展

開は、「藩鎮割援韓制」の枠を越えた農民叛範によってになわれる部分が大きいことを議想させるのである。

たことと共に、

このように、唐末の政治史展開に於いては、唐朝、藩鎮の複雑な連闘をたどることによって、根底に於いては生産力の

護展に規定されながらも、政治史がもっ濁自の護展過程を把握することが可能であり、そこから、さらに新たな歴史像を

ー探ることができると思われるのである。本稿では、徳宗、憲宗朝を中心に検討してきたわけであるが、今後さらに、宋初

@

までをも劃象とした政治史展開が新たに検討されねばならないであろう。

②①註

以栗下原.の盆絞男述「に安於史いのて筒Lは I と、藩

特富鍋制れ のな 展L、開限」

R護資講治座通世鑑界(摩以史下 6遇

鑑と略す)、雨唐書、冊府元勉の関聯部分を柑総合して述べてある。

③遇鑑谷二二六建中元年七月の傑

初、安史之観、数年間、天下戸口什亡八九、州蘇多国府藩銀所接、

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貢賦不入、朝廷府庫耗喝、

醤唐害容一四二李賓臣停

輿辞嵩・回承嗣・李正己・梁崇義等連結姻短、五銭表裏、意在

、以土地、停付子孫、

@奮唐書省一四一回承嗣停附田悦停

設朱沼田、::叉問、司徒離幽州日有詔、得ハ李〉惟岳郡豚、

使毅本銀、今割、深州輿(康〉日知、是園家無信於天下也、且今

上英武濁断、有秦皇・漢武之才、談夷豪傑、欲掃除河朔、不令

子孫嗣襲、(中略)如馬峰雄・ハ李)抱員等破貌博、後靭廷必以

儒徳大臣、以鎮之、則燕・越之危、可麹足而待也、若貌博全、

則燕・越無患、回向書必以死報窓義、合従連衡、教災郎患、

春秩之義也、::・倫書以貝州車中司徒、命莱迭孔目、惟司徒熟計

之、治既有武於圏、5

折然従之、

⑤新唐室百昌也二二一朱浴停

軍中不慮、三競之、乃臼、幽人死於南者、骸携不検、痛蔵心髄、

奈何復欲暴同{同中野乎、司徒兄弟受園寵、土各蒙官賞、願安之J

不郎其官、治罷、潜殺不可共観者数十人、

①A

同前

卸引丘ハ救ハ回)悦、次東鹿、軍大諜日、天子令司徒北還、市南

救貌、

寧有詔邪、:::沼回、次深州、訣首愛者二百人、衆催、

通鑑容二二七建中三年十一月の篠

於是幽州剣官李子千、恒実判官飾濡等共議、請奥部州李大夫居周

囲圏、倶稽王而不改年銃、如昔諸侯奉周家E朔、築壇伺盟、有

不如約者、衆共伐之、不然、血一一旦得常潟叛臣、詑然無主、用兵既

無名、有功無官爵篤賞、使将吏何所依鋳季、活等皆以篤然、

① ③

③。全唐変容五二六朱枇「遺弟浴室田」にその意気ごみが記されてい

る。

'

淫原・四銀主馬手騒、隣右・鳳開、献書総至、三秦之地、指日

克卒、臭・萄之間-己令宣一郡、t

河北一路、用銅珍除、布新令以

示之、推利害以誘之、懸爵賞而招之、'張皇麗而逼之、ー騒鍛騎以

臨之、横行洛陽、奥卿大曾於定鼎、

⑬回悦の軍内で行なわれた議論にその深刻さが窺われる。通鑑建

中四年十二月の係、

司武侍郎許土則回、:::活魚人如此子大王何従得其肺騎而信之

邪、彼引幽陵・回絞十高之兵、屯於郊綱、大王出迎、則成檎失、

彼囚大王、粂貌園

Z丘(、南向渡河、奥開中相隠、天下其敦能省

之、大王於時悔之無及、

@唐大詔令集轡五

其李希烈・田悦・王武俊・李納及所管内将土・官吏等、一切並

輿洗練

A

各復爵位、待之如初、

⑫冊府元亀谷四

O九将帥部退譲こ

王武俊、輿元初、震成徳軍節度粂幽州虚龍雨道節度、表議幽州

虚龍一節度、帝許之、

,陸宣公集省一一「論南河及准西利害吠L

叉此郡兇徒、互相劫制、急則合力、退則背憎、是皆有且之徒、

必無越軟之患、此臣所謂幽・燕・恒・貌之定、勢緩而禍軽、

全唐文谷六四六李絡「論河北三銀及准西事宜吠」(李相国論事

集省三「叉上鎮州事」とは異同が多い。〉

成徳則不然、内則鯵固歳深、外則蔓連勢車園、其賂土・百姓懐其

累代烈短之恩、不知君臣順逆之理、、議之不従、威之不服、将母刷。

- 19ー

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160

朝廷差、

焚川文集昌也五「較論」

河北硯天下、猫珠磯也、天下観河北、猶四支也、珠磯有無、量

不活身、四支萄去、

主口不知其億人、::・是以出則勝、廃則段、

不窺天下之産、自可封殖、亦猫大州民之家、不待珠磯、然後以潟

富也、

前註⑬で李絡は劉闘・李錆の軍について

劉隠・李鈎濁生狂謀、其徒皆莫之興、関・錆徒以貨財抱之、大

軍一臨、則品開然離耳、

と述べ、また新唐蓄倉二二四上李錆停には

(李〉鋳得士山、無所俸、闘久安計、乃金募兵、選善射者、震一

屯、抗挽硬随身、以胡笑雑類似須者、震一将、競蕃落健見、

とあって、その傭兵軍の緩子がわかる。

⑫李相闘論事集出世五「論貌博」

(李〉絡日、凡河南・河北叛換之地、事僅大問、健部下諮終有

機、恐得使間己、各令均莞丘ハ馬、不令扇在一人、使力敵機均、

篤嬰不得、若由同輿諸将計曾、必謀洩不向、若一一将震裂、自然兵

少不済、以此相制、先動不得、

一例として卒虚軍ではこのような軍将を統制するために、その

妻子を人質にする場合もあったほどである。沓唐書倉一二四李正

己侍附李師道停に

自正己至師道、総有郡

・菅等十二州六十年失、・憾衆不附己、皆

用般法制之、大将持兵銀子外者、皆質其妻子、或謀蹄款於朝、

事洩、其家無少長皆殺之、以故能劫其衆、

成徳軍王承宗の場合は遁鑑袋二三八元和四年八月の僚に

⑬ ⑬ -⑬

(王)承宗受詔甚恭、目、三軍見迫、不暇倹朝旨、請献徳・様

二州、以明懇款、

とある。

二二九輿元元年正月の係

王武俊・回悦・

李納見赦令、皆去王鋭、上表謝罪、惟十字希烈自

侍丘ハ強財富、途謀稽帝、・

E

・e-

希烈途郎皇帝位、図説大楚、改元

武成、

@

山治三郎『唐代政治制度の研究』第四章で述べられている。

通鑑省二四一元和十四年七月の係。

③藩鋲が潜運を扱っていたことは王鳴盛

『十七史商権』各八十九

楊子院の項に

愚案厨時、天下財賦、持運使掌外、度支使掌内、雄有此分、然

此等使名、賀無定員、其脅秩職掌、

随時愛易、有以宰相粂領者、

有以節度

・観察等使粂領者、

-a

至鱒連、錐有特遺使者

q

而中

葉後、節度・観察之粂之者尤多、

と述べられている如くであり、また唐語林容一には

始於揚州柏崎運、船毎以十隻翁一綱、教江南穀奏、自准

・澗入作、

抵河陰、』母船載一千石、揚州遣軍肺門押至河陰之門、填閥一千石、

斡相受給、逮太倉、十運無失、卸授優労官、休水至黄河迅急、

将吏

・典主数運之後、無不髪白者、

とあって、軍将、将吏が漕運に関係していたことがわかる。

⑧新唐害容一七二王智輿停

(王)智輿由是禁索財賂、交檎幸、以頁慮名、用度不足、始税

沼口、以佐軍須、

陸宣公集省一五「輿元論解薪復吠」

- 20ー

@

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161

凡在郷主之誠、各懐後后之志、是以八張〉延貨車中迎於西局、‘韓

混肇幸於東呉、此乃臣子之常情、.古今之遁理、

@還鑑省二戸一九建中四年十一月の係。

@松井秀一「唐代後半期の江准について」史事雑誌第六六編第二

続。

@遇鑑各二三七一冗和二年十月の僚

湖州刺史辛秘潜募郷闇子弟数百、夜襲越惟忠省、

、斬之、

同前轡一一五O威還元年四月の篠

於是関諸管見卒及土園子弟、得四千人、使導軍分路討敗、府下

無守兵、更籍土圏千人以補之、

唐園史補谷中

徳宗自復京閥、常恐生事、一郡一銀有兵、必姑息之、

日野関三郎『支那中世の軍閥』以来の一般的な見解である。

奮唐書省二二九円新唐書倉一五七陸賛停。

陸宣公集昌也一六「輿元請撫循李楚琳獄」

以諸銀危疑之勢、居二逆誘脅之中、淘淘撃情、各懐向背、賊勝

.

同前倉一四「駕孝梁州論進献瓜果人擬官欣」「叉論進瓜果人擬

宥吠」。

同前倉一六「論替換李楚琳吠」。

同前各一六「牧河中後請罷兵吠」。

通鑑各二三三貞元六年二月の線、新唐書昌也二=ニ李師古停。

陸宣公集巻一一「論爾河及准西利害紋」

臣謂、幽・燕・恒・貌之定、勢緩而税軽、汝・洛・談・休之虞、

勢急而踊重、緩者宜聞之以計、今失於高成太多、急者宜備之以

@ @ @@@ @ ⑧@⑧⑧

殿、'今失於守禦不足、

通鑑昌也ニ三二貞元三年間五月の篠

上以裏・郵施准西衝要、笑亥、以荊南節度使曹玉泉鍵山南東道

節度使、以裏・郵

・復

F

・部・安・隠・唐七州隷之、

奮唐書轡四八

其後、議賊既卒、朝廷無事、常賦之外、進奉不息、象皐創南有

日進、李粂江西有月進、社亙揚州、劉賛宣州、王緯・李鋳新西、

皆競魚進奉、

憲宗朝の例としては奮唐書倉一五九雀撃停に

時憲宗急於渥窓、頗奨衆敷之臣、故藩府由是希旨、往往鎗拾、

自篤進奉、虎州刺史苗稜ハ積〉進羨徐銭七千賞、

とある如く、戟費として重視された。

@唐大詔令集倉一一一四「卒劉闘詔」

西川諸州銀、刺史・大将及参伍(佐〉・官吏・終健・百姓等~

一面脇被彼脅従、補署職掌、一切不問、

また遜鐙谷二三七元和元年九月の僚に劉閣の飢後の虜理として

軍府事無豆細、命一選章南康故事、従容指揚、一境皆卒、

とある。

@遇鑑省二三七元和元年二月の篠

葵丑、加数惇節度使田季安同卒章事、

同年六月の傑

加虚龍節度使劉務粂侍中、己亥、加卒慮節度使李師古粂侍中、

全唐文容六四六「論河北三銀及准西事宜吠」

准西四芳、皆園家州問勝、不奥賊遇、朝廷命帥、今正其時、高一

不従、可議征討、故臣願捨笹実難致之策、就申禁易成之謀、

@ @ @

~ 21ー

@

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162

李相園論事集容四「銀州准西事宜」も同意であるが、本文章の方

が簡潔になっている。

@李相園論事集省三

「津総事宜」

且四惇瀦五州、嬢山東要書、河北連結、唯此制之、磁・邪

・洛三

州、入其腹内、国紀所在、質深安危、

通鑑省二三九元和十年十二月の篠

王承宗縦丘ハ四掠、幽

・治

・定三銀皆苦之、,字上表請討承宗、

同前谷二四O元和十二年五月の係

劉総辞得武強、引兵出境紛五皇、留屯不進、月給度支銭十五禽

縄、沓唐書容一四三劉停停附劉線停

及王承宗再拒命、総選兵取賊武強間師、途駐軍、持雨端、以利朝

廷供餓賞賜、

自氏長慶集谷四二「請罷兵第二状請罷恒州兵事宜」

臣伏見、陛下比来愛人省周、愛自深心、至於聖拐、毎事節像、

今以府庫銭由m・百姓脂菅、資助河北諮侯、鱒令富貴強大、臣怨

念此、不勝憤歎、

⑬ @ ⑬ ⑬

通鑑容二四一元和十四年二月の傑

上命楊於陵分李師道地、於陵按園籍、観土地遠遜、計士馬衆寡、

校倉庫虚賞、分震三道、使之遮均、以郭・曹・狭篤一道、制帽

育・旗門・登

・莱翁一道、売

・海

・祈・密震一道、上従之、

情府元亀谷六O帝王部立制度

一元和十四年四月丙寅の篠

詔、諸道節度

・都圏練・防禦・経略等使所管支郡、除本州軍使

外、別置銀遁

・守捉・兵馬者、並令廃刺史、如刺史得本州園練・

防禦

・鎮遁等使、其兵馬名額便隷此使、如無別使、卸麗軍事、

通鑑省二四一元和十四年四月の燦に

其後河北諮鎖、惟横海最震順命、由重胤慮之得宜故也、

とあって横海節度使以外では数力を持たなかったことがわかる。

@

以上述べ来たった如きテlマでの研究に王誇南『唐代藩鋲輿中

央闘係之研究』(嘉新水泥公司文化基金曾議室田〉があるが、各論

黙に於いて筆者の理解する所とは、かなりの相違がある。それら

の黙については本論の中で明弘かになっていると考えられるの

で、特にとり上げることはしなかった。

⑮ ⑧ @

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Page 24: Title 唐末の藩鎭と中央權力 : 徳宗・憲宗朝を中心と …...全-け久局、。ル 第三十二巻 第二親 昭和四十八年九月 護 行 唐末の藩鎮と中央権力

The Fan zhen 藩鋼and Central Authority in

       

the Late Tang 唐

  

especiallyduring the Reigns of De

   

zong徳宗and χian zong 憲宗一

        

MasaakiOsawa

  

In order to understand the development of Late Tang politicalhis-

tory we must study not only the activitiesof the centra] government of

the Tang 唐state but also those of the Fan zhen 藩鎮as local political

authorities. Unless we have a thorough grasp of the relations between

the Tang state and the Fan zhen powers, l think it will be difficultfor

us to understand historical developments from the last phase of the

Tang period to Five Dynasties五代 period. In this articlel take up

three representative types of Fan zhen and analyse the relationsbetween

them and the Tang state. Then, I trace political developments from

the‘temporizing' policy of De zong徳宗to the dynastic‘restoration'

policy of Xian zong憲宗

  

The major Fan zhens of the period can be classifiedinto three

types with respect to their attitudes towards the central authority :(A)

those which aimed to be independent of the central authority;(B)those

which aimed at seizing the central authority;and (C)thosewhich sup-

ported the central authority of the Tang state. The Tang state tried to

maintain and strengthen its own authority, dealing with these three

types of Fan zhen in various ways, as Lu zhi 陸M, prime minister during

De zone's reign, did. The ‘restoration'of the dynasty by χian zong can

be considered an extension of the aforesaid line of policy・of the Tang

State.

The Ortaq-qian 斡股銭(Loan for Ortaq) and its Background

          

Matsuootαが

During the firsthalf of the 13th century, silver which had been.

                   

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