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Title 「不朽」の修辭學 : 胡適・コスモポリタニズム・白話詩 Author(s) 福嶋, 亮大 Citation 中國文學報 (2005), 69: 119-153 Issue Date 2005-04 URL https://doi.org/10.14989/177954 Right Type Departmental Bulletin Paper Textversion publisher Kyoto University

Title 「不朽」の修辭學 : 胡適・コスモポリタニズム・白話詩 ...「不朽」の修餅学-胡 適 ・ コス モ ポリタニズム・白話詩-福 嶋 大亮 京都

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  • Title 「不朽」の修辭學 : 胡適・コスモポリタニズム・白話詩

    Author(s) 福嶋, 亮大

    Citation 中國文學報 (2005), 69: 119-153

    Issue Date 2005-04

    URL https://doi.org/10.14989/177954

    Right

    Type Departmental Bulletin Paper

    Textversion publisher

    Kyoto University

  • 「不朽」の修餅学

    -

    胡適

    ・コス

    モポリタニズム・白話詩-

    京都

    大学

    ヨーロッパで第

    一次大戦が勃馨した

    l九

    1四年の春、胡

    適は留学先のアメリカにおいて'ある雑誌の誌面を晴れや

    かな顔寓真とともに飾ることになる。グリーダーの引用に

    よれば'そのキャプションには次のような説明が付されて

    いた。「どんなネイティヴの生徒よ-もうまい英語を操る、

    この奇妙

    「例外的」

    (anoma-y)な中国人学生'

    ス-

    71氏は'大

    いなる注目を自らの身に集めることにな

    た」。なぜなら、彼は

    「コIネル大学が行

    った英語論文で

    l等賞を勝ち取

    った唯

    lの中国人学生」に他ならず、「こ

    「不朽」の修辞学

    (福嶋)

    の文学的な名著に加えて、奨学金をも獲得した

    注目すべ

    き秀才だ

    ったからだ。ヴィクトリア朝時代の英国詩人ブラ

    ウニングをテーマに選んだ胡適は、モアやサンタヤナ'チ

    ェスタートンなど並み居る批評家の評債にも目配-しつつ、

    冷静な哲理と人間愛に裏打ちされたブラウニングの

    「オブ

    ティミズム」を堂々と論語してみせる

    そこでは殺伐とし

    た世界にあ

    って'なお悲観的になることな-、理性と愛に

    ょる陶冶の果てに平和な世界の現前を夢見る詩人

    ・ブラウ

    ニングの姿が描かれていた。すぐれた英語力を備えたこの

    若き中国人留学生は'この評論を大学の懸賞論文に投稿し、

    い評債を得る。その結果、彼は、賓にたやす-名門大学

    の権威ある賞を獲得してしま

    ったというのが事のあらまし

    だ。そして、受賞以降の胡適は'多岐に渡る活動を精力的

    にこなすことになる。たとえば'彼は各地の学生集合で講

    演を行い、大統領選について仲間と討論し、アメリカと中

    国の女性問題に思考をめぐらせ'

    1般の新聞や雑誌に時事

    的な論説を次々と投稿するだろう。これらの場所で、胡適

    は'国際政治上の中国の弱髄な地政学的位置をむしろ積極

    - 119-

  • 中国文学報

    第六十九冊

    的にアピールし、弱者

    (マイノリティ)としての地位を逆

    用したアイデンティティ

    ・ポリティクスを展開していた。

    異邦人であることは、必ずしもマイナスにはならない。ア

    メリカの地政学的

    ・文化的規賓を照射する上で'異邦人の

    位置は逆に強みにもなる

    (と謹み手に想定されうる)し、

    胡適もその属性をうま-活用していたように見える。この

    ように'アジアの劣等園からやってきた

    一介の留学生は、

    ハンディキャップを感じさせない華々しい言論活動を行

    ていたのである。

    とはいえ、留学首初の胡適は、かな-深刻な危機にも直

    面していた。留学中に書き留められ'蹄国後出版された

    『戒嘩主節記』(以下

    『留学日記』と表記)には'友人を亡

    -Lt租園の危機に際しても無力な彼が'キリス-数に接

    近してい-様子が記されている。彼の深刻な無力感は'さ

    しあた-宗教によって癒されなければならなかったようだ。

    後に胡適自ら回想したところによると'この接近は'

    1時

    の感情の動揺と、巧みな勧誘

    (ペテン)に惑わされた結果

    だという

    しかし'仮に宗教による癒しを断念したとして

    も'遠い異国の地で'しかも賓硯不可能な愛国の念を抱き

    ながら留学生活を迭らねばならないという催件そのものは

    何も奨わっていない。では'胡適はいかにしてその候件を

    克服したのだろうか。その理由は'必ずしも'心理的なも

    (気分の蟹化)や状況的なもの

    (環境との通庸)には還

    元できない。これから述べてい-ように、胡適はその課題

    をあ-まで論理的に解決しようとしていた。それはひとま

    ず'租園の苦難を引き受ける

    「愛国」から'愛国を含みつ

    つそれを乗-越える

    「コスモポリタニズム」

    への傾斜とし

    てまとめられるだろう。胡適を論ずる上で'この髪達は決

    して見逃せない重要なボインーである。

    しかし'問題はそれだけではない。というのも、胡適の

    この態度蟹更は、五四時期の文学者がおおむね共有してい

    た時代的な

    「空気」を顕著に表しているからだ.だとすれ

    ば、私たちは胡適を導きの練とすることによって、十年代

    後半から二十年代前半の文学史や思想史を橋渡しする'か

    な-大きな断面図を浮かび上がらせることができるだろう。

    以下論じてい-ように、その断面は'文学のレベルにおけ

    120

  • る言文

    一致連動

    (と-わけ詩論)と'政治のレベルにおけ

    るコスモポリタニズムがはっき-交差する地鮎でもあった。

    そして、そうした文学と政治の問題の原型は'『留学日記』

    において鉦に表れている.結論から先に言うならば'コス

    モポリタニズムと言文

    1致連動は、『留学日記』における

    文学と政治の封立'および前者の勝利という

    一連の流れか

    ら分岐したふたつの局面であると考えることができる

    (下

    圃参照)

    0

    したがって本稿は、最終的には単なる胡通論に留まらな

    い射程を目指してみたい。ひとまず胡適を中心軸に置きつ

    つ'同時に、胡適に集約的に象徴される昔時の中国の文学

    史的

    ・思想史的傾向を明らかにすること。それが本稿の課

    題である。そのために、私たちはまず、「中国新文学の源

    流」のひとつとして近年'研究者たちの脚光を浴びている

    時空-

    コ-ネル大学

    (一九一一-

    一五年)およびコロンビ

    ア大学

    (一九l五-

    一七年)への留学時期-

    に焦鮎を合わ

    せつつ、『留学日記』の思想的な位置づけを明らかにして

    いきたいと田いう.

    「不朽」の修辞学

    (福嶋)

    t九二~l四年

    (留学初期)

    政治の盾と文学の盾の禿離

    =

    「政治の季節」

    文学による政治の乗り越え

    I(A)コスモポリタニズム

    I

    (B)白話詩の構想

    一九一四-

    一七年

    (留学後期)

    政治の盾と文筆の盾の融合

    -

    「文学の季節」

    (A)(B)の縫合

    1俸達の純粋化

    =「世界」「人類」への飛朔

    l九l七-二十年代(韓国)

    「談新詩」「不朽」「終身大事」etc

    園 :留学期から蹄囲後にかけての胡適の思想的蟹遷

    - 121-

  • 中囲文筆報

    第六十九冊

    政治の季節から文学の季節

    『留学日記』を参照する限-、胡適の主要な活躍の場は'

    大学の授業ではな-'自らが所属するい-つかの学生集合

    にあ

    った。そのひとつが

    「世界学生曾」(コスモポリタン・

    クラブ)と呼ばれる組織である。彼はこのクラブの重要な

    メンバーとして積極的に闘わ-'そのことは日記でも頻繁

    に言及される。しかし、最初から彼が'メンバーと友好関

    係を取-結べたわけではない。たとえば'胡通は'租園の

    自主濁立を訴えた

    一人のフィリピン入学生に封する周囲の

    噺りを'苦々しい筆致で書き記している

    九二

    年四月二

    三日、以下

    『留学日記』からの引用については日付を記す

    )。留

    学首初'胡適は'自分と同じ-弱者の境遇にあるアジア人

    に射して同情の念を抱きつつ、周-を取り巻-倣慢なアメ

    リカ人たちには抜きがたい甑齢を感じていた。しかし'こ

    の後、本稿冒頭でも言及したブラウニング賞の受賞

    (一九

    l四年五月九日の日記に記載)を皮切-に、彼は様々なテー

    マで演説を重ね'遂には大学の代表として全国規模の含合

    に出向くまでになる。そのテーマは、多くの場合、「国家

    や民族を超えた人類の連帯」という関心によって支えられ

    ている。それは政治的弱者としての自らの脆弱な立場を'

    国際的な普遍的連帯の理念によって補填するものでもあ

    た。こ

    うしたコスモポリタニズム

    (世界市民主義)への接近

    は'留学期間に限定されるものではな-、これから述べて

    い-ように、蹄国後の彼の主要な主張の中にもはっき-皮

    響している。しかも彼のコスモポリタニズムは'従来の中

    華世界の規範秩序

    (朱子学)の枠組みと修辞を借りつつ'

    その内賓をそっ--組み替えるような結果ももたらした。

    したがって'彼の思考の過程を探索することは、思想史的

    に見ても、重要な意味を持

    っていると考えられる。

    具佳的に追跡してみよう。胡適は

    「My

    country-Right

    orwrong〉-Mycountry」(私の租園は-

    正しいか否かに関

    わらず

    -

    の租園

    である)というテーマに関して、注目す

    べき文章

    (英文)を残している

    (一九

    山四年五月一五日)。こ

    こで胡適は、正義の

    「ダブルスタンダード」'つま-'

    1

    --∫_i_1-一

  • 方で囲家の強権を抑制するための園内に向けた

    「正義」が

    あ-、他方で野外的な危機に封して蓉動される

    「正義」が

    あることを強調する。個人の人権をふみにじる専横な国家

    は'平時ならば個別の国家の法に優先する普遍的な

    「正

    義」に抑制されるべきである。しかし、そうした専横国家

    であったとしても、ひとたび他国の侵略にさらされた場合、

    その国民は国土の防衛にこそ

    「正義」を兄いだすだろう.

    そう考える胡適は'こう締め--る。「私たちがもし国内

    外の別にかかわらず通用するひとつの正常性のスタンダー

    ドを採用しない限-'議論の共通の地盤はありえないよう

    に思います

    」。胡適は西洋が練-上げてきた

    「正義」の説

    得力と賓致力を疑わないが、同時にパトリオティズムを追

    求することが

    「正義」と抵鯛してしまう可能性も考えてい

    る。このとき'普遍的な正義と個別的なパーリオティズム、

    地球規模の人類の正義と部分的な国民の正義はいかにして

    両立しうるのか。それこそが'胡適の抱えていたダブルス

    タンダードであり'彼はこの両者を縫合する新たな地平を

    模索していたのである。

    「不朽」の修辞学

    (福嶋)

    しかし、最終的に、そうした分裂は'普遍主義ないしコ

    スモポリタニズムの強調に収束していく。すなわち'

    コス

    モポリタニズムをパトリオティズムよ-も原理的なものと

    みなすことによって'ダブルスタンダードを解消する方向

    に向かう。胡適は徐々に考えを明確にしてい-。たとえば'

    彼は'人類普遍の原理を立てることが'そのまま租園の保

    全に直結するという論理を展開する。それは'世界各国に

    コスモポリタン的な人道主義が贋まることによって、軍備

    がいかに不必要なものであるかをひとびとが理解するよう

    になるtという線測に根嫁付けられている

    (一九

    一四年

    二月

    一日)。さらに彼は'弱肉強食の強権主義を否定し

    つつ'このように述べていた。「愛図は重要なことだ。し

    かし国家の上にさらに大きな目的'さらに大きな集圏があ

    ることも知るべきである。ゴールドウィン

    ・スミスが言う

    「Above

    alt

    Na

    tLonsisHumanLty」[すべての民族の上に人

    ]が

    これである」(完

    l四年

    l〇月二六的)。彼はこの

    理想に溢れた修辞のなかに'愛観に優越する普遍的=

    不偏

    的な命法、すなわちコスモポリタン的な友愛の理念を聴き

    ---JZj -

  • 中歯文学報

    第六十九冊

    取ろうとするのである。中国の

    「瓜分」の危機を救うため

    に必要なのは、革命のような政治活動ではな-、人類が共

    有するべき普遍性を練-上げ'平和主義を貫徹することで

    あ-'それが最も致率的なパトリオティズムにもなるとい

    うのが彼の最終的な主張である

    パトリオティズムは、胡適に限らず'常時の中図人留学

    生にと

    ってきわめて大きな問題として吃立していた。彼ら

    がおおむね熱烈な租囲愛に貫かれていたことは想像に難-

    ないが、害際には'彼らは政治的に無力な学生にすぎない

    (冒頭でも述べたように'胡適がキリスト教と出遭うのは'

    こうした状況においてであ-、そこには現賓の劣位を宗教

    的な信仰によって碑倒しょうとする意園が見え隠れしてい

    る)。彼らはこのギャップと正面から向き合うこと、そし

    て、できるかぎりそのギャップを解消することを目指して

    'しかし、それはきわめて困難な道だ

    った。後年'

    適は

    外国人に向けたある講演

    (1九二六年)の中で'

    次のように述懐している。

    l九

    1四年'五年そして六年には'絶望の感覚がす

    か-浸透していました。多-の若者が'外部に抜け出

    す道がどこにも考えられないこと、そして前方にはど

    んな光も見られないことを理由に自殺を選びました。

    その状況は、いつかどこかで革命が起こると人々が考

    えていた清王朝の末期の数年とは違

    っていました。確

    かに革命はやってきましたが、進むべき路から外れた

    方向に押し流され、憂欝と絶望だけが後に残

    ったので

    す。私の若い友人のひと-は杭州の西湖に身を投げま

    した-

    希望なき状況から脱出できる喜びをしたため

    た、友人

    への別れの手紙を残して。この数年の間に'

    人々は遂に政治の表面的な壁化のむなしさを悟-、新

    時代の基礎とな-うるような新しい要因を捜し求めは

    じめたのです

    そして、その

    「新たな要因」は'新文学の導入による思

    考様式の革命'すなわち、後に胡適自身によって

    「中国の

    ルネサンス」と名づけられる

    一連の改革として硯賓化して

    - 124-

  • いく。胡適自ら主導した俗語文髄の改良

    (言文

    一致)'察元

    培や銭玄同、黍錦輿を中心に達成された漢字の簡略化'魯

    迅の

    「狂人日記」に始まる俗語文学の誕生などに代表され

    「文学革命」において、辛亥革命では賓現しえなかった

    政治的革命が達成されたと彼は看倣しているのだ

    (むろん、

    こうした文学史的整理が事後的

    ・遡行的になされているこ

    とは注意しなければならない)。「瓜分」の危機に封虞でき

    ないという政治的絶望を'文学によって埋め合わせること。

    だとすれば、文学革命において胡適らが政治を全面的に放

    棄したというのは、あ-まで表層の理解に留まるだろう

    ヽヽヽ

    -

    正確に言えば'彼らはあえて政治を放棄したのである。

    彼らの考えでは'最良の政治革命は、ふつうに考えられる

    政治革命ではな-、

    一見して政治と無関係な

    「文学革命」

    によってこそ可能である。言い換えれば'彼らは'文学の

    レベルと政治のレベルを隔てる壁を突き崩し'文学的であ

    ることが同時に政治的であるかのような回路を作-上げた。

    多-の若者を沈欝な憂国の嘆きに追い込んだ政治の問題は、

    文学の問題に止揚され'結果的に解消されることになる。

    「不朽」の修辞学

    (福嶋)

    私たちはこの引用部で表明された

    一九

    一四-一六年頃の

    ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ

    樽換を、政治の季節から文学の季節

    への牽化と名づけてお

    こう.そして、ここで重要なのは、この奨化が'先ほど述

    ヽヽヽヽヽ

    べた普遍主義による愛国主義の止揚、すなわちパトリオテ

    ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ

    イズムの季節からコスモポリタニズムの季節

    への奨化とほ

    ぼ同時に行われていることだ。たとえば、『留学日記』の

    初期において、次のテニソンの詩篇が引用され'胡適もそ

    れに大

    いに共感を覚え

    いる。〟HFatman

    }s

    thebest

    cosm

    op

    otite\Whotoveshisnative

    country

    be

    st.″[自らの

    租園を

    もよ-愛するものこそ'最良

    のコスモポリタンである]

    (l九一三年四月)

    。この

    l節は'その後の胡適がたどる道

    筋を'ある程度線告していたと言えるだろう。政治

    (覗

    賓)と文学

    (理想)の乗離を埋め合わせる詩人の言葉に期

    待を寄せる胡適は、この後、かなりの精力を割いて、中国

    語による新たな文学の姿を構想することになる。

    その間の経緯を確認しておこう。政治

    への

    「絶望」が世

    を覆

    ったという首の一九

    一四年頃から'胡適は中国人の留

    学仲間'と-わけ梅光辿'任叔永らとの交流を深めてい-0

    125

  • 中囲文学報

    第六十九冊

    首初は、詩のや-と-、

    文学談議の麿酬から、文字論、比

    較文化論に到るまで'積極的に議論を戦わせていた彼らだ

    が、徐々に立場や考えの違いが鮮明になってい-ことが日

    記からは謹み取れる。そして'その決定的ともいえる敵酷

    が、翌年の夏に表面化する。

    普初この敵齢は'文言を擁護する梅光辿'任叔永らと'

    白話を支持する胡適との封立として表面化した。「半死の

    文字」である文言に代わって'よ-活力があ-、生活に密

    着した文字、およびそうした文字をベースにした白話文を

    使用すべきだと考える胡適に射して'梅光辿らは

    「字は思

    想の符鋸であ-、思想がなければ字もない。(-)字数[歴

    史的俸続を負

    った多種多様な文字量のこと-

    詳者]が増え

    れば思想もまたそれに従い'しかる後に言葉に内容が生ま

    れる」(完

    l六年八月二三的)

    と猫特の主張で論陣を張-

    つつ、強硬に抵抗したのである。彼らは、文字の慣値を測

    定しょうとするという鮎は共有していたものの'新しさゆ

    えに宿るエネルギーを重税するか

    (白話派)'それとも長年

    の俸統ゆえに宿る思想を重税するか

    (文言振)'という鮎で

    ははっきり封立していた。しかし'よ-重要なのは'彼ら

    の主張の是非よ-も'こうした文字の新書の封立が'その

    まま来るべき文学のイメージ'具膿的には

    「詩」について

    の議論にずらされていったことだと思われる。文言に宿る

    俸続の重みと美的慣値を擁護していた梅光迫は'その論理

    を敷桁しっつ、ジャンルの差異という硯鮎から白話と文言

    の役割を峻別しようとする。「文章の腔裁は同じではない'

    小説詞曲ならば白話を用いてもよいが'詩文ならばそうは

    いかない」(同年七月三日

    )。胡適はそれに野して'白話で

    も十分に詩が作れることを立諾しょうとした。こうして彼

    が試作した白話詩は'審美的な側面から見ればあま-にも

    平板で失敗作に終わったものの'その試み自膿は仲間うち

    で高-許慣されたのである。

    私がはじめて白話詩を作

    ったとき'友人のうち'[朱]

    経農、[任]叔永'観荘[梅光辿]はみな精

    一杯反射した。

    そこで二ケ月ほど、私は筆戦をせず、ただ白話詩を作

    っていた。「賓地試験」の結果を侯

    って、私の主張の

    726

  • 是非を判定したかったのだ。今取-立てていうほどの

    目に見える成果は上がっていないとはいえ'「黄胡蝶」

    「嘗試」「他」「経農に贈る」の四首は、すべて経農'

    叔永、[楊]香備に賞賛されたので'反封する勢力は

    徐々に消えていった。経農は前日手紙を寄こし'白話

    に反封しないのみならず'白話の詩をつ--'今

    一度

    「白話」の看板を掛けようとした。私が喜んだのは'

    言うまでもない。(同年九月十五日)

    この白話詩の暫定的な完成が、「政治の季節から文学の

    季節へ」という問題系を内包した

    『留学日記』の賓質的な

    悼尾を飾ることになる。この後'『留学日記』には白話を

    用いた敷編の戯れの詩

    (打油詩)が書き付けられ'また考

    語学に関する学術的な知見が披渡されたりもするが'文学

    に封する胡適の論理的な構えは'ほぼ

    一九

    一六年の段階で

    完成していたと見て差し支えない。そして'翌

    一七年三月

    にアメリカから韓国した胡適は'留学中に磨き上げた文学

    観を武器にして'文学史上に残る華々しい活躍を見せるこ

    「不朽」の修辞学

    (福嶋)

    とになるのである。

    ここで再度、議論を整理すれば'

    一九

    一四年という政治

    への絶望の年を境に'胡適は'政治思想的にはコスモポリ

    タニズム'文学論的には白話詩を来るべき新時代の理念と

    して提示していた。『留学日記』による限-'この両者は

    彼の留学中の思想の機軸となるものであり、しかも'おそ

    ら-両者は不可分に結びついている。とはいえ'『留学日

    記』の段階では、この両者を縫合するところまでは議論が

    洗練されていないため'軍に徴かな交差を見せるだけで終

    わってしまった印象は拭えない。私たちは、しかし、鯖国

    後執筆された彼の代表的なエッセイにおいて、この両者が

    一の論理のもとで構想され'統合されていく過程を兄い

    だすことができる。

    それはどういうことか。しかし'先走って議論を進める

    前に、「文学の季節」を象徴するこのふたつのアイディア

    を、もう少し掘-下げて検討せねばならない。

    127

  • 中国史学報

    第六十九冊

    A

    コスモポリタニズム

    そもそも'コスモポリタニズムはあ-まで西洋の思想史

    上の概念であり、中国の侍続的な思想的用語には存在しな

    い。しかし、胡適にと

    って、コスモポリタニズムは俸続的

    な用語で十分説明

    (朝詳)しうるものだ

    った。このあたり

    の事情を見逃すことはできない。もちろん'西洋の概念を

    過去の東洋哲学の用語で勧請すること自膿は少しも珍しい

    ことではないが'仔細に観察するといろいろと問題が見え

    て-る。たとえば、コスモポリタニズムの詩語としてしば

    しば採揮される

    「大同主義」との関係を見るとわかりやす

    いだろう。

    周知のように

    「大同」思想は、廉有馬をはじめとする活

    末の奨法運動家にと

    って、重要なキーワードであ

    ったC彼

    らは'王朝国家の秩序を支える超越的な規範の失敗を目の

    首た-にして'かつて

    『砥記』で描き出された

    「大同祉

    曾」による社食ネットワークの建て直しを構想する。

    三一ロ

    で言えば、それは

    一種の農本主義的

    ・平等主義的なユート

    ピアだった。彼らは'と-わけ日清戦争以降'解膿の危機

    に直面した規範意識を穴埋めするために'古代の理想郷を

    動員し、ありうべき秩序の再建を固ろうとする。あ-まで

    孔子を制作者とする考えにこだわった鮎からも推察できる

    ように'康有馬は自らの主張を儒教的な馨想によって輪郭

    付けようとしていたのである。

    それに封して、胡適のコスモポリタニズムにおいては'

    侍枕的な理念を呼び出し'それによって自らの主張を位置

    付けるという作業工程が鉄けている。彼は'康有馬のよう

    に遇か昔のユートピアに遡行する必要もなければ'または

    『仁学』の講嗣同のように寓物に遍在する

    「以太」(エー

    テル)を仮構する必要もない。「大同主義」の雛形はむし

    ろ、胡適の目の前に用意されていた-

    なぜなら'他なら

    ぬ胡通自身が、民族

    ・国家の差異を乗-越えたコスモポリ

    タンとして、異郷の地アメリカで華々し-活躍していたの

    だから。胡適にと

    って、普遍的な秩序の回復は、儒教にお

    ける大同主義の枠組みをそのままコスモポリタニズムに移

    し襲えるだけで事足-たのである.

    128

  • l家よ-

    一族

    l郷に至-、

    l郷よ-

    l邑

    l園に至る。

    いまひとびとは

    一団に到るとそれで終わ-だと考える。

    園の外側にさらに人類があ-'世界があ-'さらに

    歩進めば大同の領域に昇ることを知らないのである。

    園に到ってそこで終わってしまうのは、自ら限界付け

    ただけである

    (一九一四年一〇月二七日

    )

    このとき'胡適が朱子学的な

    「修身斉家治国平天下」の

    綱領を念頭に置いていたことはおそら-間違いない。その

    古典的な枠組みを踏まえた上で'胡適は、朱子における最

    高次の

    「天下」を

    「人類」「世界」に代替することになる。

    もちろん

    一口にコスモポリタニズムといってもその種差は

    様々だが

    '

    簡潔にまとめるならば、ここで述べられている

    大同主義=コスモポリタニズムとは'微小な個が矛盾を季

    むことな-同心囲状に接大Lt最終的に人類=

    世界という

    普遍的な境地にまで到達しうるという

    一種の調和論である。

    ならば、ここで本質的な問題は'最高鮎がどこにあるかで

    はな-'起鮎と終鮎が無矛盾に連頼するようなヴィジョン、

    「不朽」の修節嬰

    (福嶋)

    つまり思考の形式的側面にこそ求められるべきだろう。そ

    して、そのような観鮎に立つとき、朱子学にせよ康有馬に

    せよ胡適にせよ、個から普遍へのまざれのない純粋な俺達

    を志向するというボインーを共有しているのが、はっき-

    と見えて-る。

    、おそら-もう

    一つ、胡適にとって暗款の

    (しか

    し重要な)参照項だったと考えられるのが'

    1九〇二年に

    その大部分が

    『新民叢報』に掲載された梁啓超の代表作

    『新民説』である。よ-知られているように'この論文の

    中で染啓超は

    「国家」を

    「私愛の本位'博愛の極鮎」とし

    て最高審級の座に据えた。その根嬢は次のように説明され

    る。

    いわゆる博愛主義、世界主義が、そもそもどうして徳

    の至-'仁の深みでないことがあろうか?とはいえ、

    これらの主義が理想界を離脱して現苦界に参入するな

    どということを、果たして期すことができるだろう

    か?[…-]そもそも競争は文明の母である。競争が

    129

  • 中国文学報

    第六十九筋

    目停止すれば'

    文明の進歩もたちどころに止まる。

    1

    人の競争が

    l家を成し、

    一家を通じて一族がなり、

    1

    族を通じて

    1囲がなる.

    一団は、園髄の最大圏[最大

    領域]であ-、競争の最高潮である

    この年の梁啓超は

    『新民説』のみならず'文学

    ・宗教

    思想

    ・経済学その他賓に多種多様な文脈で仕事をした。そ

    の姿勢は、おおむね師匠である康有為ふうの大同主義を批

    判し、弱肉強食の世界において生き延びるために

    「新民」

    (-国民)を組織しょうとする動機のもとで

    1貰している。

    それに封して、留学中の胡適は、国家よ-も人類や世界を

    上位に任じっつ'人類の幸福

    (平和)がそのまま国家の幸

    宿

    (国土保全)に直結するような構想を抱いていた。こう

    した梁啓超と胡適の差異もまた、先ほどから論じている、

    政治の季節から文学の季節への韓換を象徴するものである。

    賓際'胡適の文学史的整理においては、梁啓超の占める地

    位はさほど大き-ない。多-の支持を集めた彼の新文鯉の

    「魔力」を認めつつも'胡適は'古文を基盤にした彼の文

    膿が不徹底な失敗作だったという立場を崩していないので

    ある

    梁啓超に封するある種の冷淡さは、胡適が対決Lt

    葬-去ろうとした思想の所在を雄梓に示しているだろう。

    胡適が推進した文学革命は、後で詳し-論じるように

    「文

    字の致用は達意にあ-、達意の範囲は最大多数の人間に博

    達されたとき最も成功する

    という信念を潜在させていた。

    胡適は、梁啓超の啓蒙の努力に

    一定の許債を輿え、自らも

    その恩恵にあずかったことは認めているが'その政治的立

    (愛国主義)においても文学改良

    (新文憶)においても、

    梁啓超ふうの啓蒙の博達範囲には限界があったと考えてい

    る。いずれにせよ'〟Above

    atl

    NationsisHumanity″と

    いうコスモポリタン・クラブ

    綱領は、主に儒教

    (朱子学)

    との修辞上の轄換を潜-抜けるなかで、胡適自身の確固た

    る信仰へと昇華していったのである。

    とはいえ'コスモポリタン・クラブにおける多種多様な

    異なる他者との出合いは'結局、大学という閉ざされた空

    間の中で完結するものでしかなかったことも付け加えなけ

    ればならない。胡適は後年、昔時の雰囲気を次のように述

    130

  • 懐している。

    こうした別々の民族が挙行した[コスモポリタン・クラ

    ブの]パーティにおいて'私たちは各民族のそれぞれ

    異なった習俗に射してよ-

    1暦深い理解を得たのです。

    さらに重要なのは、各民族の間に社交的接鯖と親密な

    国際的友情が生まれたことによって'私たちが人種の

    囲結と人類文明の基本的な要素を理解できたことでし

    ⑲た。

    口述の筆記者である唐徳剛は'この思い出を語る胡適の

    様子を書き留めている。「胡先生は六十を越された時期'

    私にコ-ネル時代の

    「民族パーティ」のことを話されまし

    たが'依然としてその口もとは昔時の香-をとどめてお-、

    [思い出の]味わいが残

    っているようでした

    」。彼の目に映じ

    ていた多種多様な民族や人種は'留学生組織の内部にのみ

    存在する甘美なイメージであ-、あえて言えば

    「どこにも

    ない場所」としてのユー-ピアであ

    った。もちろん、いま

    「不朽」の修辞学

    (福嶋)

    さら胡適をブルジョア

    ・イデオロギーの権化として批判す

    るのも、あま-に凡庸である。しかし'胡適ふうのコスモ

    ポリタニズムがその後'十年代後半から二十年代前半にか

    けての中国において'きわめて強い支持を得てい-ことは'

    やは-重要な問題として認識されるべきだろう。しかも'

    その際、差異を抹消するコスモポリタニズムの甘美なイ

    メージに'何らかの理論的な吟味が加えられた形跡もない。

    このことは、今後'批判的に検討されていかなければなら

    ないと思われる。

    しかし'まずは、コスモポリタニズムを可能にした土壌

    そのものの検討作業を始めるのが先決だ。そもそも'二十

    年代とは、第

    1次大戦によって西洋の啓蒙理性にはっき-

    と疑問符が付され、それに呼鷹するかたちで'ラッセルや

    ーイをはじめとする西洋の知識人が東洋の精神文明を

    高-許惜し、また'政治史的にもウィルソンふうの普遍主

    ・多文化主義

    (マルチカルチュアリズム)が積極的に唱え

    られた時代である。国内的にも、反帝国主義

    ・反植民地主

    義をスローガンとする五四連動が起こるとともに'知的エ

    - 131-

  • 中岡文学報

    第六十九竹

    リートの間では'東洋精細の復権が啓高に叫ばれ'梁激浜

    『東西文化及其哲学』(叫九二l年)がベストセラーにな

    るような事態が起こっていた。かつて

    『新民説』で国家主

    義を強調していた梁啓超でさえ、『欧瀞心影録』二

    一九

    午)では第

    1次大戦前後のヨーロッパの状況分析を施した

    上で'人類の四分の一を占める中国人が、物質文明の荒廃

    の後で果たすべき役割を強調し

    『先秦政治思想史』二

    二二年)では欧州の国家主義の俸続に射して'中国の

    「反

    国家主義」「超国家主義」の倦枕を封置している

    ここで

    彼は'それまでの国家主義からの轄回をほのめかすのみな

    らず、人類普遍のコスモポリタニズムが、他ならぬ中国文

    化にこそ俸統的に備わっていることを示唆しているのであ

    ㊨る。弱肉強食の祉合進化論的な世界から生き延びるべ-、

    西洋に倣

    ったナショナリズムを鼓吹していた彼は'いまや

    逆に

    「中国」に普遍的な原理を兄いだすナショナリストと

    してふるまう。かつて自らが急先鋒とな

    って批判した中岡

    人の

    「国家意識の紋如」こそ、むしろ肯定されるべき慣値

    なのかもしれない-

    この選巡において、彼の思想的立場

    は椅麗に反輯している。

    このように、とりわけ二十年代以降のコスモポリタニズ

    ムの展開については多-の語るべきことがあるが、ここで

    は胡適との関係に注目する立場から、先ほど名前を奉げた

    梅光辿の韓囲後の言説を検討することで満足しておこう。

    文学史

    ・思想史的に言えば'彼は、新文化運動

    (西洋化)

    に反封して俸続を擁護した復古的な東洋主義者として説明

    されている。しかし、その見立てには、敗にい-つかの疑

    義が提出されている。梅光辿らの東洋回蹄は決して彼ら自

    身の孤立した考えではな-'むしろ西洋の学者が提起した

    物質文明批判を継承したものではないか、というのがその

    疑問のポイントだ

    害際のところ'彼を中心に結成された

    雑誌

    『撃衡』グループは'

    ハ-ヴ7-ド大学のア-ヴィン

    ・バピ

    ッー

    (白壁徳)を特権的に支持していた。バビッ

    トは東洋文明の精榊を持ち上げ、西洋の物質文明を乗-越

    えようとしたが、その饗悪は、撃衡派によってそのまま律

    儀になぞ-返されている。だとすれば、私たちはここに、

    他者=

    西洋の欲望を内面化することによって'自らを表象

    132

  • する手立てを掴む

    「オリエンタリズム」の典型的なパター

    ンを見なければならないだろう。たとえば'梅光迫は新文

    化運動着たちを批判する際、頻繁に

    「侶欧化」という修辞

    を使用するが、この表現には'「異正の文化」を

    「建設」

    するに菖たっては何よ-も正統的

    (本来的)な西洋文化を

    受容すべきであるという含意がある。梅光過によれば、新

    文化運動着たちは西洋文化の皮相的な受容に留まってお-'

    その本質的な理解には造かに遠い。「彼らは西欧文化につ

    いて贋大で精密な研究を有していない。それゆえ知識は浅

    -理解もひど-謀

    っている

    」。

    ならば、西洋化は否定され

    るべきではな-、むしろ積極的に推進されるべきではない

    か。新文化運動者たちの近代主義は、それが慣-の西洋を

    前提しているという理由で批判されるのであり、だからこ

    そ異の西洋文化が早急に掻取されなければならない。

    そもそも梅光辿にとって、来るべき理想の文化は西洋/

    東洋の差異を消去し、互いの精華を十全に取-込んだとき

    にはじめて成立しうるものだった。「ゆえに固有の文化を

    改め、他者の文化を吸収するには、まずすべから-徹底的

    「不朽」の修酎嬰

    (福嶋)

    に研究をおこない'きわめて明確な審判をし、それにきわ

    めて詳細で首を得た仕事を加えるべきであり'そして'多

    -の物事を合

    一し中国と西洋を融合させた博学な大師が'

    国人を先導し、風気をさかんにすれば、四㌧五十年後に致

    果が表れるのを必ずや見ることができる

    」。

    梅光迫は'そ

    の賓規の任務は世界の文明に通暁した少数のエリ1-が塘

    うべきだと考える。「真正の学者は

    一団の学術思想の領袖

    である。文化の先駆けは少数の優秀な人間によって拾われ

    るのであ-'多数の凡人によってなされうるものではな

    ㊨い」

    。しかし、繰り返しになるが、そうした

    「学者」の雛

    形は'バビットをはじめとする西洋の人文主義者に求めら

    れていた。ならば'東洋

    (俸統)回蹄は'むしろ西洋の視

    線の中にこそ内蔵されていると言わなければならない。

    さらにこの論鮎は'梅光辿が

    「文学

    (批評)」を特権的

    に擁護していることからも補強することができる。梅光迫

    は、イギリスの杜倉秩序を再建するために

    「文化」による

    規範の再生を目論んだアーノルドを最大級に許債しっつ'

    彼の

    「文学

    (批評)」のなかに、「文化」の最高鮎

    へとアク

    ー 133-

  • 中国文学報

    第六十九冊

    セスする上での最上の導き手を兄いだす。「アーノルドの

    文学批評は文化に到達するための手績きであることがわか

    ㊨る」

    。こうした文学

    (批評)の許債の背後には'哲学的言

    語の語嚢があま-に抽象的であること

    への反馨と、文学

    (批評)的言語の具鰹性

    への賞賛が潜在している。梅光迫

    は'哲学と文筆

    (批評)の差異を次のように説明する。

    「(一)哲学は多-抽象に走-、人生に接近しない。文学

    批評は事賓を重視し'具髄的な時論を行う。(二)哲学は

    多-専門用語を用い'それに通暁した人でなければ理解で

    きない。文学批評は普通の用語を用い

    (文学創作もまた同じ

    である)'人々に理解されやすい。(≡)哲学者の思想はと

    きに高尚だが文字は美し-ない。堅賓な説理の文にはなる

    が、垂術の文にはならない。文学批評家の文ならば、説理

    と蛮術を兼備することができるのだ

    」。梅光迫によれば'

    哲学が内賓を放いた抽象論しか語れないのに封して、文学

    は地域的な特性まで含みこんだ、よ-賓質的で具膿的な

    「文化」を語ることができる。そして'哲学では汲み取れ

    ない美学領域を賓装することによって、文学は普遍的な慣

    値を帯びることになるというわけだ。

    つま-、彼にとっては、哲学が専門家的な秘敦に陥-が

    ちなジャンルであるのに封して'文学は文化の具鰹的な精

    髄を汲み取り、特殊性をそのまま普遍性につなげる上で非

    常に有数なジャンルである。そして

    「二十世紀の文化」が

    多文化の融合を前提とする以上、雷然哲学よ-も文学が前

    面化されなければならない。こうした彼の文化論=

    文学論

    が、人類の普遍性を追及するコスモポリタニズムと限-な

    -接近していることはわか-やすい。

    それに射して'胡適は別の方向を向いているようにも見

    える。西洋文明を超克するものとして東洋文明を揚言する

    ひとびとに封して'彼は終始冷淡に振る舞

    ったのである。

    たとえば'文化に優劣はな-'いかなる文化も無候件で

    「世界文化」になると考える梁淑漠の論法に封して、胡適

    「いかなる根椋があるだろうか?

    一蹴しているし、

    後年'別の論文でも、ヨーロッパ文明がひとびとの欲求を

    十分に満たしてきたことを挙げながら'「この鮎からすれ

    ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ

    ヽヽヽヽヽヽ

    ば'西洋近代文明は決して唯物的ではな-'むしろ理想圭

    134

  • ヽ,,,,,,ヽ,㊨

    義的

    ・精神的である」とはっき-主張している。梁淑浜や

    梅光迫とは違って'胡適は西洋と東洋の絶封的な断層を見

    逃せなか

    ったのである。とはいえ、こうした西洋文明の

    「精神」の優位は'決してコスモポリタニズムを脅かすも

    のではない。胡適はここでへ西洋史の博枕に蓄積された理

    念を最大限利用し、それを人類の幸福に供せよと説-功利

    士義者

    (ないしプラグマティスー)としてふるま

    っているか

    らだ。彼にとって'西洋文明へのコミットメンIは、理想

    のコスモポリタニズムの賓現化に向けた致率的な第

    一歩で

    ある。

    かくして、文言と白話の優劣をめぐって激し-封立した

    胡通と梅光迫でさえ、二十年代のコスモポリタニズムのも

    とでは'あっけな-その差異を縫合されることになる。二

    人の差異は'人類の普遍性に到るための経路の違い'つま

    -活用すべき文化資源を東洋文明に求めるか'西洋文明に

    求めるかの差異でしかないのである。その経路の信悪性と

    透明性そのものは疑われていない。

    「不朽」の修節撃

    (福嶋)

    B

    先述したように'文言詩の特権性を標梼する梅光迫の批

    判に封して'胡適は白話詩を章際に制作してみせることで

    療酬した。しかし、同種の批判は、蹄国後も胡適の周囲か

    らは絶えず巻き起こっていたと思われる。たとえば'朱経

    農は、胡適の馨表した

    「建設的文学革命論」(『新青年』第

    四巻第四鍍)に封して次のようなコメントをアメリカから

    寄せている。「あなたの

    「白話詩」はどれもすぼらしいも

    のです。聾に出して謹んでみても音韻

    (リズム)があるし、

    すぼらしい興趣や新しい内容もあります。私はみだ-に反

    封をする気は全-あ-ません。しかし

    『新青年』に掲載さ

    れたほかの人の

    「白話詩」は、ちょっと謹み積けることが

    できなかった。

    […⊥「白話詩」を馨達させようと思うな

    ら'規則[韻律の決まり]がないわけにはいかないでしょ

    う」(l九l八年)。胡適はこの意見に封して'「近膿詩」は

    韻律からの自由

    (「詩鰭の大解放」)によって達成されること

    を強調し'はっきり反封の意を表明している。そして、現

    Ij5

  • 中閥文学報

    第六十九肘

    在が白話詩の賓験段階であることに重ねて言及しっつ、胡

    適は後人が新時代の白話詩の

    「規則」をつ-つて-れるこ

    とに期待を寄せる。しかし、その尊言は後に、彼自身が

    「規則」の定式化に着手することによって裏切られること

    になる。文言の優位性を突き崩し、白話の全面勝利を達成

    するために、胡適は

    「詩」の1盾赦密な理論化を急がなけ

    ればならなかった。「白話がこの詩園を征服するときが到

    来すれば、白話文学の勝利は完全なものとなると言える

    」。

    おそら-胡適には、後人に委託するような徐裕はなかった

    とも言えるし、それ以前に、自らの手で定式化するほうが

    っ取-早いという判断が働いたとも言えるかもしれない。

    いずれにせよ'ここで私たちはへ白話詩

    (新詩)の

    「音

    (リズム)」の可能性を論じた彼の代表的な詩論

    「新詩を

    談ず」二

    九l九年)を検討する必要があるだろう。この論

    文は、新文学の方向性をかなり明快に指示したという意味

    でも注目に値する1

    すなわち'このなかでは'文言の擁

    護派にとって最後の聖地というべき

    「詩」を制贋する据鮎

    が示されているのである。胡適は白話詩の韻律を特徴付け

    るために'猫特の論理を展開してい-。まず彼は、周作人

    や康自情へ博斯年'愈平伯といった白話詩の賓作者を列挙

    しっつ'「詩髄の解放」による成果を強調する。すなわち'

    苦乗の文言詩に比べ'感情表現はよ-繊細に、裏書はより

    細やかにな-'また新式の標鮎符髄の使用によって、詩の

    表現の幅は従来より格段に贋がったというわけだ。こうし

    た許債は'おおむね詩の内容面における達成に着眼したも

    のであると言える。しかし'それだけならば'本稿で取-

    上げる意味はさほど強-ないだろう。おそら-、この論文

    で異に注目に値するのは'白話詩のリズムを位置付け'正

    常化した箇所である。

    胡適によれば'文言詩の擁護派の根標は、ひとえに詩の

    音韻やリズムの有無にかかっていた。「現在新詩を攻撃す

    るひとの多-は'新詩に音節がないと言

    っている」。しか

    し、胡適はまさにこの期を棒倒しょうとする。

    新詩を攻撃する人はいるが'彼らは

    「音節」が何たる

    かを自分で理解しておらず'句末で韻を踏み'句の中

    136

  • 「平平伏灰」「灰灰牢乎」といった調子があれば、

    それで音節が存在すると思っているのである。中国の

    音節末尾は母音終わ-

    (いわゆる陰聾)でないならば'

    鼻音終わり

    (いわゆる陽聾)であ-'虞州の入聾を除

    いては'別種の聾母を用いて末尾を終わらせるものは

    存在しない。したがって、中国の韻はきわめてゆるや

    かである。句末の押韻などはまさにきわめて容易なこ

    とであ-'だからこそ古人には

    「押韻は問題あ-ませ

    ん」という皮肉がある。押韻は音節

    (リズム)の上で

    最も重要度が低い要件である。句中の平灰についても、

    重要ではない。

    ここで彼は'文言詩擁護者にとっての生命線である

    「押

    韻」および

    「午灰」の規則の存在債値をあっさ-と否定し

    てしまう。彼によれば'中国語の詩において最も重要なの

    は'韻にこだわることではないし'そもそも白話に音節が

    存在しないというのは端的に誤解にすぎない。そのことを

    根据付けるために'胡適は白話詩における致果的な

    「音節

    「不朽」の修辞学

    (福嶋)

    (リズム)」の仕組みを考察する。そのメカニズムは、語

    気の自然なリズム'および毎句内部で用いられている文字

    の自然なハーモニーに大別され'その両者をうまくつなぎ

    合わせてはじめて、白話詩は良質の作品た-うるというの

    だ。そして'この鮎に関して'胡適が高い許債を下してい

    るのが'沈戸数の

    「三弦」という詩である.そのl節。

    安達有

    1段低低的土播'措佳了個弾三弦的人、却不能

    隔断那三絃鼓畳的聾波

    胡適はこの一句の内部に'三箇所の双聾

    (「費」「遠」/

    「有」「こ

    /

    「段」「低」「低」「的」「土」「措」「弾」「的」「断」

    「盗」「的」)が使用されている事案に着眼する。胡適によ

    れば、三番目のDtH音で統

    一された双聾のカテゴリー

    は三弦の音響を模嘉してお-、さらに

    「揺」「弾」「断」

    「藍」の四つの陽聾

    (鼻音終わり)は、残-の七つの除草

    (母音終わ-)と相互に交用されることによって三弦の音

    「抑揚頓挫」を表しているという

    重要なのは'こうし

    - 137-

  • 中歯文学報

    第六十九冊

    た彼の理解がどれほど的を射ているかということよ-も、

    むしろ、「音節」の意義が、詩の内容そのものを自然に反

    映し'博達することに特化してい-ことである。「詩の音

    節は'詩の意味から離れて濁立することはできない」「お

    よそ詩意の自然な曲折'自然な軽重、自然な上昇下降を十

    分に表現しえたものこそ、詩の最良の音節なのである

    」。

    胡適によれば'従来の文言詩において、音聾は基本的に詩

    作上のルールに従属してお-'意味や内容とは関連が薄い。

    それに封して'白話詩の

    「音節

    (リズム)」はつつがな-内

    容の倍達を遂行するための致果的な方法論であ-、意味の

    純粋な受け渡しと意味内容の的確な具現化にこそ奉仕する

    ものである。ここで胡適が念頭に置いているのは'具標的

    には

    「文学改良審議」の第

    一修に掲げられた

    「須言之有物

    (「物」のあることを言うべし)」の命

    題であろう。このとき'

    古典詩の韻律は'まさに

    「物」の俸達を阻害する悪しき慣

    例にすぎない。その上で、胡適は結論部分で、詩の理想的

    な姿を語-始める。彼は'詩人は何よ-も

    「具膿性」を重

    んじなければならないtと主張しっつ、李商隙のように唆

    味で思わせぶ-な表現を戒め、極力明断でわか-やすい表

    現を推奨する.これもまた'「物」を十全に膿現し'しか

    もそれをできるだけ純粋なかたちで倍達するという彼の志

    向を端的に表している。要するに'形式面では中国語の特

    色を生かした音節の重税、内容面では具膿性の重税という

    I,

    のが胡適の詩論の特徴であ

    非日常の輝きを湛えた崇高さを演出するのではな-、む

    しろ逆に'思想内容の博達を最重要課題とした、きわめて

    平明で自然な詩膿を追求すること。それにしても'こうし

    た胡適の理想は、

    一般的に想定されるような詩のイメージ

    とはまさに正反射ではないだろうか。賓際'胡適のつくる

    詩は意志倍達という局面では非常に致率的だが、美や崇高

    の観鮎から言えばま

    ったく許債できないだろう。それは、

    胡適の先行世代'とりわけ魯迅が構想していた詩論ともま

    った-逆方向を向

    いている。魯迅の

    「文化偏至論」「摩羅

    詩力説」(ともに一九〇八年)といった論文が'超越的で彼

    岸的な高みから民衆に覚醒を呼びかける崇高な詩人の姿を

    措いていたとすれば、胡適は'そうした崇高さを意識的に

    138

  • 抜き取った上で、日常的な感情の地平に徹底して忠章に寄

    り添い'その動きをうま-反映するものとして

    「白話詩」

    をイメージするのである。また'別の観鮎から見るならば、

    昔時はロシアフォルマリズムが墓頭した時期とも重なって

    いるが'その代表者であるシクロフスキーは'日常言語と

    詩的言語を厳密に直別した上で、後者の形式論を掘り下げ

    ようとしていた。しかし、胡適の詩論はむしろ'徹底的に

    日常の

    「自然」な地平にこそ寄-添うのであ-、そこでは

    詩そのものの固有性はほとんど問題にならない。したがっ

    て、彼の議論は、賓質的に'詩の詩たるゆえんを無数にす

    るような詩論であ-、私たちは'その無数化を要請した純

    粋な俸達への志向こそを問題化しなければならない。

    徹底してポエジーを脱色しっつ'同時に話し言葉を反映

    した

    「音節」は確保すること'そして、まざれのない侍達

    の遂行に限りな-特化すること。その志向は、賓は文学革

    命の最初期にまで遡れる。

    宋朝の大詩人の絶大な貢献は、ひとえに六朝以来の韻

    「不朽」の修酎撃

    (福嶋)

    律の束縛を打ち破り'話し言葉に近いような詩膿を作

    ろうと努めたことにある。そのときの私の主張は'宋

    詩を謹んだ影響を強-受けていた。そのため、「詩を

    作ること文を作るがごと-すべし」と言ったのであ-、

    「琢鐘粉飾」の詩に反封したのである。

    この問題意識を引き継ぎつつ'胡適は'

    一般的な意味で

    のポエジーや崇高

    (請)を解髄するかわ-に'人々の自然

    な話し言葉に密着したリズム

    (文)を作-出そうとした。

    彼は

    1貫して'韻律ならぬ

    「音節」と、口語文膿の

    「自然

    さ」とを統合しようとしていたのである。古典詩

    ・詞

    ・曲'

    いずれとも異なった

    「『白話詩』の音節

    は、封立関係に

    あった

    「詩」と

    「文」を調停し、縫合し、止揚する澄明で

    あ-、その止揚の過程で'内容のつつがない

    「侍達」とい

    う胡適の年来の課題は、かな-明確になるだろう。そして

    「琢磨粉飾の詩」は'そうした博達の純粋化を阻害し、メ

    ディア

    (文字)の物質性を露呈してしまうという鮎から排

    除される。ダメを押す意味で、また別のエッセイから引用

    139

  • 中囲文学報

    第六十九珊

    しよ、つ。

    文学は最もよ-職責を果たす言葉

    ・文字にすぎず、ま

    た文学の基本作用

    (職務)は

    「達意表情[こころを博達

    し'感情を表硯する]」であるので'第

    一の候件は、情

    や意をはっき-と表現し'博達し'謹み手に理解させ、

    しかも容易に理解させ、決して誤解のないようにする

    ことで

    文学は抽象的で晦溢なものではな-'むしろ具性的で明

    断なものでなければならない'それとともに、文字の物質

    性は限-な-無化されなければならない'そして何よ-

    「話し言葉」に込められているはずの感情や内面をうま-

    引き出さなければならない。そうした彼猫特の文学観が、

    ここでも顔をのぞかせている。あたかも話者と野面してい

    るかのような錯覚を生み出す'いわば距離ゼロの

    「文腰」

    をつ--だすこと。この鮎において胡適は、同時代人の追

    ヽヽヽヽヽヽヽ

    随を許さないほどに徹底した音聾中心主義者である。胡適

    の讃者なら誰しも'きわめて

    「自然」で平明な'そしてと

    きにはあまりにも凡庸にさえ見える彼の文膿に、

    一度は注

    意を向けるだろう。しかし、その透明な文腰の採用は、単

    に彼の資質の問題に鋸せられるわけではな-'むしろ、五

    四時期の言文

    一致

    (白話)連動が目指したひとつの理想の

    境地を表すものなのである。

    「不朽」の修辞学

    もう

    一度'問題を整理しておこう。私たちは'政治の季

    節から文学の季節

    へ、という持換を取り上げている。そし

    て、『留学日記』を讃解するなかで'

    コスモポリタニズム

    による愛国主義の乗-越えというテーマと、白話詩による

    文言詩の乗り越えというテーマを兄いだすことができた。

    しかし、その両者はかなり密接につながっているにもかか

    わらず、『留学日記』の段階では'まだその関係性が詳ら

    かにされていない。

    そこで'私たちはこれから

    「不朽

    というエッセイを取

    -上げてみよう。「新詩を談ず」とほぼ同時期に構想され

    - 140-

  • ていたこの論文は、ふたつのテーマの相同性をかな-明確

    に告知している。このなかで'胡適はまず、留学中のコス

    モポリタニズムを改めて中園の停続的な思想用語と関連付

    け、理論的に位置づけようとする。その作業が彼にとって

    非常に重要だったことは、彼自身がこの論文を敷度の改訂

    によって注意探-練-上げていることからも裏付けられる

    だろう

    (1九l九年に執筆した初稿を'翌年英文で改作し、さ

    らにその翌年に再び中国語で改訂した上で

    『胡適文存』に収録)

    初稿バージョンではへこの時期沓表された陳濁秀や李大別

    の評論との関連性が示唆されてお-

    「不朽」が同時代的

    な蓉想とかな-共振していることが謹み取れる。

    以下、具膿的に検討してみよう。論文の冒頭、胡適は多

    種多様な

    「不朽」概念をふたつに分類してみせる。すなわ

    ち、ひとつは

    「霊魂の不滅」という意味の不朽であ-、も

    うひとつは

    『春秋左氏俸』における

    「三不朽」である。胡

    適によれば、前者は有神論における

    「精神」の不滅を指し

    ているが、他方、『左俸』の

    「三不朽」とは、よ-知られ

    ているように、次の三種類を指す。「(こ

    立徳の不朽

    「不朽」の修酎嬰

    (福嶋)

    (二)立功の不朽

    (≡)立言の不朽

    」。

    そして、これらの

    「不朽」概念は'いずれも儒教によって支えられた

    「中華

    世界」のシステムの中で重要な役割を果たしていたと言え

    るだろう。徳

    ・功

    ・言の

    「不朽」は'儒教的な統治機構-

    -

    「頑治システム

    -

    を支える中心理念であり、その理

    念が調整的な準堰鮎として作動することによって'士大夫

    の欲望は儒家的な秩序の中で整流されることになる。つま

    -、徳

    ・功

    ・言は'有限的な個濃

    (士大夫)の死を

    「不朽」

    の名のもとに意味づけLへ中華世界の秩序のなかに適切に

    水路付けるための重要な結節難である。おそら-胡適は、

    こうした事情をよ-理解していたと思われる。

    整理すれば'「死後の霊魂」の不滅が土着的な信仰の土

    豪なのだとすれば、胡適の挙げる

    「三不朽」は、士大夫-

    讃善人階層の理念を基礎付ける'よ-聖化された概念であ

    る。こうした両種の

    「不朽」概念に関して、胡適は

    「言う

    までもな-、「三不朽」説のほうが

    「霊魂の不滅」説よ-

    もずっと良い」

    と述べている。しかし'胡適は積いて

    「三

    不朽」説の映鮎を三つ掲げている。第

    一に

    「不朽」となれ

    141

  • 中国文学報

    第六十九冊

    る人間は'

    墨子やイエスらのごと-'きわめて非凡な人間

    に限られていること。第二にこうした

    「不朽」は楽観的な

    観念によって着想されてお-'死後の震魂における

    「地

    獄」のようなネガティヴな制裁は設定されていないこと。

    第三に

    「徳」「功」「言」の三つの範囲

    ・境界が不明瞭であ

    ること。これらの映鮎を克服するために'胡適が提唱する

    のが

    「融合的不朽論」である。

    ここで胡適は、ライプニッツの

    『モナドロジー』を援用

    しっつ'ふたつの

    「我」(私)概念を設定している。

    私というこの

    「小我」は濁立した存在ではない。無数

    の小我と直接的あるいは間接的な相互関係を持つもの

    であ-'融合の全鰹や世界の全鰹と相互に影響しあう

    関係を持つものであ-、融合や世界の過去

    ・未来と因

    果関係を持

    つものである。様々な先行する原因や'

    様々な現在の無数の

    「小我」、そして無数の他の勢力

    によ-もたらされた原因、それらはすべてこの

    「小

    我」の

    一部分を構成している。私という

    「小我」に

    様々な先行する原因を付け加え'また様々な現在の原

    因を付け加え、それが俸えられてい-と、さらに無数

    の将来の

    「小我」を生み出すだろう。こうした様々な

    過去の

    「小我」'現在の

    「小我」、将来の無窮の

    「小

    我」は'

    一代また

    一代と博えられ'僅かな量にまた僅

    かな量が加えられてい-.

    1筋の練のように博えられ、

    連綿として絶えることがない。ひとつの川が勢いよ-

    ほとばしって'滑々として絶えることがない.-

    れこそ

    「大我」である。「小我」は消滅してしまうだ

    ろうが、「大我」は永遠に不滅なのである。「小我」は

    いつか死んでしまう存在だが、「大我」は永遠に不死

    であ-永遠に不朽なのである

    胡適はここで、空間的

    ・時間的に遍在する

    「小我」の絶

    佳を

    「大我」と呼んでいる。文化的な差異や時間的な落差'

    政治的な断層は

    「大我」から見ればほとんど問題にならな

    い。胡適は'歴史上かつて存在し'そしてこれからも生ま

    れるであろうあらゆる

    「小我」をそのものとして包み込む

    142

  • という美しい調和論を奏でつつ、個別的な存在がそのまま

    普遍的な存在に短絡する道筋を描き出している。ほとんど

    宇宙大にまで贋がる沃野そのものとしてイメージされる

    「大我」は、ある特定の時空でしか通用しない儒教の理念

    をはるかに凌駕する。「中園の儒家的な宗教は'父母の観

    念'租先の観念を提出することによって人生における

    一切

    の行為の制限を行

    っている

    」。つまり融合的不朽論とは、

    こうした儒教の三不朽を乗-越え'儒教の

    「制限」を解除

    した果てに兄いだされるひとつの視座なのである。そして'

    こうした

    「不朽」概念の組み換えは'胡適自身の大きな韓

    換をも意味していた。たとえば'留学中に書かれたもうひ

    とつのブラウニング論において、胡適は'人間の理性と良

    識に全幅の信頼を寄せるブラウニングに儒教の蓉想との類

    似を見ていたのである。「儒家はブラウニングと同じ-、

    人間の個性と人間の存在

    ・行為の不朽をと-たてて強調し

    ている。彼らは決して滅びない三つの不滅のものを信じて

    ⑳いる

    。しかし蹄国後

    「不朽」を書いた時鮎の胡適ならば'

    昔然ブラウニングに

    「融合的不朽」の理想形を見ただろう。

    「不朽」の修鮮撃

    (福嶋)

    私たちは、ここでも'首初肯定的に捉えられていた

    「三不

    朽」が別種の

    「不朽」に取って代わられるプロセスを尊兄

    することになる。

    超歴史的

    ・超空間的に遍在する不朽の

    「大我」。この新

    たな不朽を演出する修節が'個別のパーリオティズムを乗

    -越えたコスモポリタニズムの修辞と等しいことは容易に

    想像できる。賓際'後年、胡適が英語で行

    った講演では、

    「大我」が

    「人類」や

    「世界」とほぼ同義語として用いら

    れているのである。かつてのコスモポリタン・クラブの綱

    領は'ここにもはっき-反響している。

    この

    l連の推論は融合的不朽

    (soclallmmortatlty)の

    宗教とでもいうべきものに私を導きます。というのも'

    その推論は本質的に次のような考えに基づいているか

    らです。つま-、社食的自我による影響の蓄積の産物

    である小我

    (lndtvLduaLseLf)が、より大きな自我の上

    にあらゆる存在やあらゆる行動のぬぐえない痕跡を残

    留するという考えなのですが、その大きな自我とは

    - 143-

  • 中国文学報

    第六十九冊

    「融合

    (soctety)」

    「人類

    (Humanity)」もし-は

    「大なる存在

    (GreatBelng)」と名づけられるかもし

    れません。個濃は死ぬかもしれませんが、その個鰹は

    この不朽の大我

    (GreatSetf)のなかで生き頼けている

    のです

    このように

    「不朽」には'『留学日記』以降のコスモポ

    リタニズムがはっきりと刻印されている。そして'この時

    期の胡適は'精力的に

    「不朽」の理念の作品化に励んでい

    た。たとえば

    「不朽」を馨表した翌月の

    『新青年』に掲載

    された戯曲

    「終身大事」は、コスモポリタニズムと文学が

    再度交差した作品であ-、「不朽」の理念を寮作の面から

    補強するような役割を果たしている。あらすじを含めて簡

    単に説明しよう。留学鋸-の若い女性田亜梅には将来を誓

    い合

    った男性がいる。彼女は結婚を望むが両親はそれに反

    封する。母親はいかがわしい占い師のお告げに従

    ってこの

    結婚を不吉だと主張し'

    一見進歩的に見える父親も母親の

    迷信を噸笑するにも関わらず、田姓と陳姓とは租先を同じ

    -する

    「同姓」ゆえに結婚はタブーだと主張するのである。

    田亜梅は絶望してこう叫ぶ。「お父さん!お父さんはず

    と迷信的な風俗をやっつけようとしていたけど'結局のと

    ころ迷信的な塞廟の決まりはやっつけられないなんて、わ

    たし夢にも思わなかった」

    。そのとき'悪人から手紙が届

    -。「これは僕らふた-だけの問題だ、他人は関係ない。

    きみが自分で決めるべきだ」。この呼びかけに歴じて彼女

    は家を出る。

    この作品の主題は明白である。母親は土着的共同健の論

    理に束縛され、父親は儒教的な規範意識から逃れられない。

    この両者が'「不朽」における

    「塞魂の不滅」と

    「三不朽」

    に封雁していることは言うまでもない。そして、そうした

    悪しき因習から町並梅を救い出すのは懲人の男性の

    「呼び

    啓」であり、イプセンの

    『人形の家』をなぞるかたちで彼

    女は

    「家出」を敢行する。ならば、不在の男性の聾の呼び

    かけに腔じて外部に脱出する田並梅の行き先は、中国人で

    あることが同時にコスモポリタンでもあるような新たな

    「不朽」の世界のほかにはあ-えない。田並梅が待望する

    144

  • のは'土着の因習と儒教の因習をともに乗-越えた、い

    「すばらしき新世界」なのだ。ここに私たちは、文

    (戯曲)とコスモポリタニズムが融合したひとつの例を見

    ることができる。

    しかし、その融合は既に

    「不朽」において示唆されてい

    たー

    胡適の詩論の要石というべき沈ヂ款の詩が'「不朽」

    のなかに引用されているのである。この詩は

    「不朽」(政

    治)と

    「新詩を談ず」(文学)を媒介する蝶番のような役割

    を果たしている。ここに'コスモポリタニズムと白話詩

    (言文一致)の接黙があからさまに生じて-る。

    そこに

    「低い土壁があって'三弦を弾-ひとをその中

    に囲い込んでいる」[一座低低的土播、遮着一個弾三弦的

    人]とする。その三舷の音波は空間の内部に無数の波

    動を起こす。その振動した生気の質鮎は、直接的間接

    的に周囲の無数にある空気の質鮎を振動させる。この

    波動は近-から遠-まで行き渡ることによって、無窮

    の杢間に到る。現在から賂乗まで、いまこの剃郡から

    「不朽」の修辞学

    (福嶋)

    無量の剃郡、無窮の時間に到る。これこそ、もう不滅

    不朽なのだ

    胡適は

    「三弦」の音を暗室の束縛を超克した'いわば超

    歴史的に遍在しうるものと考えている。それは時空を越え

    て無矛盾のままで染み渡-'「無窮」で

    「不朽」の

    「融合」

    に到着するだろう。そしてそのような遍在する音色こそ'

    「新詩を談ず」において'最良の白話詩として稲えられて

    いた皆のものではなかったか。白話詩を騒動する修辞と、

    コスモポリタニズムを駆動する修節は'時空を越えた無制

    限の世界と卑小な個人を接合する鮎ではっきり共通してい

    る。こ

    のように

    『留学日記』に萌芽する

    「政治の季節から文

    学の季節へ」の韓回は'「不朽」における白話詩とコスモ

    ポリタニズムの修辞上の縫合によって'さしあた-の完成

    を迎えたのである。紛れのないきわめて純粋なコミュニ

    ーションを志向すること'個別の能力の差異'文化的差

    異'経済的な格差、その他すべての差異を消し去-'遍在

    145

  • 中国文学報

    第六十九冊

    する波動のイメージのもとで諸個人を統合することへそし

    て'俸達を地球規模

    ・人類規模にまで接張すること。留学

    期以来の胡適の勢力は'これらの目標のイメージ化に注が

    れる。もちろん'こうした馨想を誇大妄想的だとして噸笑

    するのは容易いが、しかし'諸々の差異を解消する思考様

    式は、必ずしも胡適に限

    った話ではない。賓際、こうした

    費想そのものは、たとえば

    「文学の季節」から再び

    「政治

    (マルクス主義)の季節」

    へと韓回を見せ始めた

    一九二〇

    年代後半においても'なお兄

    いだすことができるだろう

    (l例を挙げれば'いわゆる

    「創造穂の左旋回」が政治への深い

    洞察というよりは、革命や大衆へのロマンティック

    (文学的)な

    賛美に基づいていたことはよく知られている)

    胡適自身はやや方向を襲えている。「不朽」以後の胡適

    は、白話詩そのものの整備を行うよりも'『国語文学史』

    (一九二七年)や

    『白話文学史』(一九二八年)といった著作

    のなかで、「白話文学」の歴史的な正富化を目指している。

    自ら言うように、彼の白話詩

    へのコミッーメンーは'あ-

    まで従来にない先例をつ-るための

    「嘗試

    (こころみ)」に

    限られてお-、それ以上の追求については禁欲的である。

    胡適が先鞭を付けた新詩は、しかし'成功したとは言いが

    たい。賓際、後年彼はある講演のなかで、四十年前の新詩

    連動とその展開を'次のように苦々し-振-返っていたと

    いう。「新詩は軍に

    「嘗試」にすぎなか

    ったのであ-、今

    に至るまで完全な成功を果たしておらず、ただ軍に口火が

    切られただけである

    」。その上で'胡適は'新文学は新詩

    のみならず長編小説や戯曲においても遂に良質の作品を生

    み出しえなかったと判断している。この述懐はある程度、

    正鵠を射ていると言うべきだろう。

    とはいえ、胡適がコスモポリタニズムと白話詩を通じて

    企画していた

    「俸達の純粋化」の問題系そのものは、賓際

    には脈々と継承されている。たとえば、創造杜の詩論'大

    衆語論争'革命文学論戦'第三種人論争などにおいて

    「倍

    達」は

    一貫して問題化されているLtしかも最終的には紛

    れのないコミュニケーション空間のイメージが優勢になる

    鮎においても胡適と共通している。自己の同心囲状に贋が

    る想像的な風景のなかに他者を取-込み、回収すること。

    - 146-

  • 少な-ともこの鮎においては'右翼と左翼、保守と革新の

    別を問わず'多-の中国近代文学者たちが胡適ふうの思想

    圏域に屠していると言うことができる。胡適は、政治思想

    的にも文学論的にも'五四以降の言説杢間におけるウエル

    メイドな類型をほぼ書き壷-してしま

    った。そして、彼の

    諸論文は'おおむね

    「不朽」で示された調和論的な馨想の

    圏内にあると考えられる。

    以上のように、

    一九二〇年前後の胡適は'個別から普遍

    に到るための

    「純粋な倍達」を問題化していた。賓際のと

    ころ、胡適は'きわめて巧みに

    「政治と文学」を縫合して

    みせたと言えるだろう。この手際のよさは'同時代におい

    て確かに際立

    っている。だとすれば、今後追及されるべき

    課題は'彼の巧みな縫合が二十年代後半以降いかなる締結

    を迎えたかという問題であ-、また'近年胡適の著しい再

    許債を遅行している解揮共同鰹が'どれだけ彼

    の巧みな

    「縫合」を吟味しえているかという近代文学研究の言説室

    「不朽」の修辞学

    (福嶋)

    間に関する問題でもある。それはまた'胡適の名に託して

    現在'肯定的に語られている

    「個人主義」や

    「自由主義」

    の内案を再検討することにも

    つながるのではないだろうか。

    しかし、それらの問題を論じる紙幅は残されていない。

    その問いに答える作業は'また別途なされなければならな

    い。しかし'最後にひとつだけ'胡適ふうのコスモポリタ

    ニズムに封して'最も早い段階からイロニカルな異議を申

    し立てていた文学者の言葉を引用しておこう。以下の文章

    は'「不朽」よ-以前に書かれているものの'胡適に封す

    る暗款の歴答のようにも讃めて-る。

    私が阿Qのために正博を書こうという気にな

    ったのは、

    もう

    一年や二年のことではない。しかし書こうと思い

    つつも、あれこれ選巡してしまう。ここからしても、

    私が

    「立言」の人ではないのは十分明らかである。昔

    から不朽の筆というものは'すべから-不朽の人を俸

    えるものなので、人は文を以

    って停わ-'文は人を以

    って俸わるとなるとー

    結局'誰が誰によって俸わる

    147

  • 中国文学報

    第六十九冊

    のか、

    だんだんよくわからなくな

    ってくる。ともあれ、

    ついに阿

    Qを備えることにしたが、あたかも脳裏に鬼

    (幽塞)が宿

    っているような感じがする。

    Qは

    「不朽」の人物ではない、と魯迅は明言している

    -

    このつまらない人物を

    「博達」する上でつきまとう、

    「幽霊」のような居心地の悪さとともに。もちろん、不朽

    ならぬ阿

    Qが'中国近代文学のみならず世界文学に名を連

    ねる主人公となり、他方'胡適をはじめとする新文学の作

    家たちがつむぎだそうとした

    「不朽」の主人公が'今やほ

    とんど忘却されているのは'皮肉でも何でもない。私たち

    が見据えなければならないのは'他ならぬその必然性では

    ないだろうか。

    註①

    GrLeder,JeromeB

    Hu

    ShLh

    an

    dtheCh

    meseRenalSSanCe・

    LlberalLSm

    lntheChinese

    RevolutLOn

    ]9]7・]937

    Harvard

    UnlVerSltyPress,)970,)990p.40

    「ス

    -

    7-」

    とは昔

    時の胡適

    稀。なお、

    l九二

    年の手紙に'綴-を

    「Suh

    HuJから

    「HuShlhJに埜吏する旨の説明がある。『胡適全

    集』(四十)(安徽教育出版赦、二〇〇三年)二1九頁。以下、

    『胡適全集』からの引用に際しては'『全集』と略記した上'

    巻数と頁数を記す。

    胡適の受賞論文

    "ADefenceofBrownLng〉sOptlmLSm"は

    『全集』(三十五)で謹む

    ことができる。さらにへその翌年

    には'ブラウニングの美学と儒教の博統思想を結びつけた

    "ThePhlLOSOPhyofBrownlngandConfuclanlSm"(同書所

    収)が馨表

    れてい

    ことにも注意したい。

    『全集』(二十七)

    一五四百。

    「留学日記」『全集』(二十七)

    1三二頁。

    同上、三

    l頁。"(tseemstomethatunlessweadopt

    onestandardofrlgh

    teousnessbothwLthln

    andwithoutour

    country,wehaven

    ocommongroundonwhich

    w

    ecan

    argue

    同上、五八四頁。

    同上、五三

    l頁。「愛国是大好事ー惟告知国家之上更有

    1

    大目的在.更有

    1更大之圏健在ー葛得宏斯密斯

    (GoLdwLn

    smith)所謂

    「寓囲之上猶有人類在」(AboveaLLNattonsIS

    Humanlty)是也。」

    『留学日記』に

    けるパトリオティズムの馴致に注目した

    ものとしては、Grleder前掲書、と-わけ第二章を参照。本

    稿も彼の議論には大いに示唆を受けている。

    148

  • "TheRenalSSanCelnChlna"『全集』(三十六)

    l六四頁。

    "tn19)4,)9)5and19)6therewasanall・pervadLngsense

    o

    fdespatr.Anumb

    e

    ro

    fy

    oungm

    encommlttedsulCldebe・

    causetheycoutdthlnkof

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