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美 由 紀

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隣のコートの観客席から歓声が沸き上がった。どうやら試合が終わったらしい。

わたしはベースラインに立ってボールを左手で地面に弾ませ、サーブを打つために

集中しようとしていたが、歓声に「儀式」を中断して隣のコートを見た。

隣のコートではネットを挟んで二人の選手が試合後の握手をしているところだった。

しのぶ先輩が唇を噛みしめながら握手している。どうやら負けたらしい。

さっき見たときは

6-5

でリードしてサービスゲームに入っていたのに、どうやらブ

レイクされてタイブレークに持ち込まれ、負けてしまったらしい。

しのぶ先輩が負けた。そう思った瞬間、わたしは全身から血の気が引くのを感じた。

六月にしては暑い日で、今の今までゲーム中にタオルで顔を拭かなければ汗が目に

入って困っていたのに、急に手が冷たくなった。ラケットをきちんと握れない。気を

取り直してボールを弾ませる「儀式」をやり直したが、ボールが手に着かなくて転が

っていってしまった。

これで団体戦の勝敗は二勝二敗。最後の試合を戦っているわたしがチームの命運を

握ることになってしまった。

今日は東京都中学テニスの第七ブロックの大会だ。二十四の中学が二校の都大会出

場権を賭けて戦っている。都大会に出場できるのは、優勝校と、優勝校に決勝と準決

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勝で負けた二校で戦う出場権決定戦で勝った中学の二校だ。

つまり、わたしたち西小谷中がここで負け、相手校である宮下中が決勝で負けた場

合は、わたしたちにはもうチャンスはない。宮下中が優勝した場合は、決勝の敗者校

と準決勝の敗者校、すなわちわたしたちで決定戦を戦うことになる。

だが、既に決勝進出を決めている日大第二中学はこのブロックではダントツの強豪

校なので、わたしたちがここで負けた場合、都大会出場のチャンスはほとんどないは

ずだ。だからこの準決勝は絶対に負けられない試合だった。

この宮下中戦で、コーチは変則的なオーダーを組んだ。

団体戦はダブルスが二戦、シングルスが三戦で行われる。普通はダブルスもシング

ルスも、そのチームの中で強い順に一、二、三と組まれていくが、今回コーチは二年

生のわたしをシングルス一に、一番強い奈緒先輩をシングルス三にした。

つまり、エース同士の対決ではこちらに分が悪いため、わたしを宮下中のエースに

ぶつけ、奈緒先輩としのぶ先輩でシングルスを二つ勝つ、という作戦だった。わたし

はいわば捨て石だが、個人戦でも都大会に出るほど強い相手と戦えることは楽しみに

していたのだが・・・

ところが、試合開始の挨拶をしてオーダー表を交換したとき、わたしたちは頭を抱

えてしまった。宮下中のエースである川澄さんがシングルス三にオーダーされていた。

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つまりこちらが避けたかったエース対決になってしまった、ということだ。こちら

はエースで一勝が計算できなくなってしまったので非常に辛くなってしまった。

対戦はコート二面で行われるので、最初にダブルス二試合が行われた。ここで一敗

でもすれば状況はほぼ絶望的になってしまったところだったが、我が西小谷中は奮起

して、このダブルスを二試合とも勝った。これでシングルスで一勝すれば勝ちが決ま

る、という状況になった。

ダブルスが終わって空いた二面に奈緒先輩としのぶ先輩が入って、シングルス三と

二の試合が始まった。奈緒先輩は川澄さんにはとても勝てまいが、しのぶ先輩の相手

は過去に三戦して全勝している相手だ。ここで決めてくれるだろう、と誰もが思って

いた。

予想どおり、奈緒先輩は川澄さんに

2-6

で負けてしまったので、そのコートにわた

しが入って試合を始めた。私の対戦相手の辻本さんは、去年の秋に個人戦の一回戦で

当たったときには

0-6

で負けている相手だ。でもしのぶ先輩が勝ってくれれば、わた

しの試合は消化試合になって気楽に戦えるはずだったのだけど。

そのしのぶ先輩が負けてしまった。つまり、わたしの試合で勝敗が決まることにな

ってしまったわけだ。

今、わたしの試合は

1-2

でわたしのサービスゲーム、1

5-1

5

の場面だ。ここまで負

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けて元々と、わりと気楽に戦っていた試合が、いきなりチームの命運を決める決定戦

になってしまった。

今、会場で試合をしているのは、わたしの試合だけだ。決勝進出を既に決めている

日大二中の選手もわたしの試合を観戦している。それに試合が終わったコートから観

客や応援の部員が続々とわたしが試合をしているコートに集まってきていた。

普段ならギャラリーが多いのはむしろ望むところなのだけど、今のわたしにはプレ

ッシャーの上乗せにしかならない。テニスをやっていて初めて、コートに立っている

ことが怖いと感じた。

隣のコートに目をやれば、今負けたしのぶ先輩が蒼白な顔でわたしを見ている。

誰かに助けて欲しくて観客席に目をやった。フェンスの向こうでは部員が声を張り

上げてわたしの応援をしているのに、その言葉も耳に入らない。観客席の最上段(と

いってもたった五段ほどだが)にコーチがどっかと座ってわたしを見ている。

味方のはずの皆の視線すら怖い。誰もわたしを助けてはくれない。

わたしは仕方なく、ベースラインに立ち、自信に満ちた顔で待ちかまえている辻本

さんにサービスを放った。

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5

まったく地に足が着いていなかった。

中断後のゲームは、まずわたしがダブルフォールトをやらかして

15

-30

となり、次

のポイントは入れにいった甘いサーブを強打されてリターンエースを取られ、1

5-4

0

最後はリターンは何とか返せたものの、浅い力のないボールを決められ、あっさりサ

ービスゲームをブレイクされてしまった。ゲームカウントはこれで

1-3

となった。

泣きたい気持ちで観客席を振り返った時、コーチが誰かと話しているのが見えた。

パパだ。少し遅くなるけど試合を見に来るって言ってたけど、やっと来たんだ。

コーチから今の戦況を聞いているらしい。パパと目を合わせれば少しは落ち着くか

も、と思ったのだけど、その時わたしはパパの横に女の人がいることに気づいた。

遠いので顔はよくわからないけど、すらっとしたスタイルが良い人だ。そういえば

パパ、今日の試合に誰か友達を連れて来るって言ってたような気がするけど、女の人

だったなんて。もしかしたら前にパパと約束したとおり、パパがつきあっている人を

わたしに紹介するつもりで連れてきたのかも。

紹介はいいけど、何も娘が死刑台の階段を昇っている気分を味わっているところに

連れてこなくったって。相変わらず空気が読めない人だ。

なんか、無性に腹が立ってきた。女の人もなんか澄ました感じだし。

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次のゲームも流れはまったく変わらなかった。辻本さんの強力なサーブで簡単にサ

ービスキープされ、ゲームカウントは

1-4

になってしまった。

ゲーム中、わたしは昨夜のことを思い出していた。

わたしが自分の部屋からリビングに出ると、ママとあの男がソファに座っていたが、

その瞬間、空気が変わった気がした。和やかだった時間が一瞬だけフリーズして、二

人が急いで「わたし用の顔」を作っているような。ママとあの男が二人でいる時にわ

たしがその場に入ると、いつも微妙に空気が変わるのを感じる。

わたしはそれに気づかないふりをしながらママに話しかけた。

「ママ、明日の大会のためのワッペンをみんなで作ったから、ウエアに縫い付けて欲

しいんだけど」

ママはわたしに笑顔を向けて立ち上がろうとしたが、それをアイツが遮った。

「美由紀ももう中学生なんだから、自分のことは自分でやらせなさい」

ママは腰を浮かせかけた姿勢のまま、アイツとわたしの顔を見比べていた。

「いいよ、自分でやるから」

わたしはそう言い捨てると、アイツの顔は一度も見ずにリビングにある裁縫道具を

持って自分の部屋に引っ込んだ。

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ムカムカしながら裁縫を始めたので、ウエア一着にワッペンを縫い付ける間に二回

も針で自分の指を刺してしまった。その痛みがわたしの鬱屈した感情を増幅させた。

二着目のウエアにとりかかろうかという頃、ドアがノックされてママが部屋に入っ

てきた。

「あと何着あるの?」

ママはそう言いながら大きなお腹を持て余すように床に座った。普通に座るのは辛

いらしく、何回か座り直していたけど、壁にもたれながら座るのが快適らしく、よう

やく落ち着いて私を見た。

「ほら、貸しなさい」

そう言ってママはわたしから三着のウエアとワッペンを受け取って、器用な手つき

でワッペンをウエアに縫いつけて始めた。

ママが裁縫をするのをじっと見ていると、さっきまでのささくれだった気持ちの棘

が丸くなっていくのを感じた。同時に臨月で大きなお腹を持て余しているママに気安

く頼みごとをしたのが申し訳なく思えてきた。

「ごめんね。ママ」

私がそう言うと、ママはびっくりしたように目を丸くして私を見つめた。

「だって、そんなに大きなお腹でしんどそうなのに、気軽に頼み事なんてしちゃって」

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わたしがそう言うと、ママは微笑んだ。

「少しは動いた方がいいのよ。それにこのくらいのことは何でもないわ」

そう言って再び手元に目をやり、裁縫を続ける。わたしはそんなママをずっと見て

いた。穏やかな時間が流れた。ずっとこんなだったらいいのに、と思った。

「美由紀、ごめんね」

ママが最後のワッペンを縫いつけながら言った。

「なにが?」

嫌な話になるんじゃないだろうか。そんな気がしてわたしの声が低くなった。

「あの人があなたに辛く当たるのは、あなたが嫌いだからじゃないのよ」

ああ、やっぱり。せっかく幸せな気持ちだったのに。

「アイツの話なんてしたくないよ」

「あいつじゃないでしょ。お父さんでしょ」

「アイツはわたしのパパじゃない」

ほんとにその話はしたくないんだよ、ママ。

「美由紀、お願い」

ママがわたしの手を取ろうとした。わたしは反射的にその手を払いのけてしまった。

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「アイツはママがパパと離婚する前から、この家に大きな顔して入り込んできたんだ

よ。一度だってここで一緒に住んで良いかなんて、わたしに聞かなかったよ。当然の

ような顔してこの家に入り込んできたんだよ。そんなやつをどうしてお父さんって呼

べると思うの?わたしはアイツのこと、大嫌いだよ。どうしてママはそんなことを言

えるの?そんなことをわたしに強要するくらいだったら、パパと一緒にわたしも捨て

てしまえば良かったじゃない」

突然、頬に衝撃を感じた。一瞬、何が起きたかわからなかったが、ママがわたしの

頬を叩いたらしい。怒りに震えたママの目の中に悲しみの色を見つけると、言い過ぎ

ていることがわかっているのに、さらにママを怒らせたい気持ちになってしまう。

「アイツとママはどうしてわたしを捨ててしまわないの?パパからの養育費が惜しい

からでしょ。わたし、パパからどれだけもらってるか、知ってるよ」

全部言い終わらないうちに再び平手打ちがきた。さっきより強烈で頭がくらくらす

るほどだ。わたしはなぜか、自分の頬から鳴る音が小気味良い、とさえ思った。

「出てってよ」

わたしが静かに言うと、ママは涙を拭きながら部屋を出て行った。

最低だ、わたしは。

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せっかく穏やかな、自分が欲しかった時間に浸っていながら、自分からそれを壊し

てしまう。養育費のことなんてただの言いがかりだということはわかってる。ママが

離婚前にアイツとつき合っていたことも、パパから聞いた話でママにも「言い分」が

あることはわかっているつもりだ。このことを持ち出すことでママがどれだけ傷つく

かも知っているつもりなのに。それでもアイツをどうしても受け入れる気持ちになれ

ないことをわかって欲しかっただけなのに。

こんな最低なやつ、居場所がなくなって当然だ。

チェンジコートのためにベンチに戻ると、亜紀が泣きそうな顔をして私を待ってい

た。きっと私も同じような顔をしているのだろう。

テニスは試合中に選手に対してアドバイスなどをすることは禁じられているが、団

体戦に限りベンチにコーチングスタッフを配置し、奇数ゲーム終了時のチェンジコー

トの際にコーチングをすることが認められている。

とはいっても、勝負どころと読まれていたダブルスやしのぶ先輩には顧問の先生や

コーチがついていたが、捨石の試合のはずだったわたしには特に誰もおらず、テニス

部で一番仲がいい同級生の亜紀を、わたしから希望してつけてもらっていた。

わたしは亜紀からタオルとドリンクを受け取ると、ベンチに崩れるように座った。

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亜紀が何か言ってわたしを励ましているようだが、ほとんど耳に入らなかった。

「ねえ、亜紀」

わたしはタオルに顔を埋めながら話しかけた。

「わたし、無様だよね」

この二ゲームのわたしは、自分でも情けない、と思う。地に足がついていない、と

はまさにこのことだと実感したほどふわふわしていた。

亜紀はわたしにどう答えようか迷っている様子だったが、結局正直に言うことにし

たらしい。

「うん。これなら私が出た方がよっぽどマシだと思ったよ」

亜紀のこういう歯に衣を着せないところが好きだ。

「亜紀なんかもったいないよ。一年生が出てもわたしよりマシだったよ」

そう言ってまたタオルに顔を埋めた。

こんな無様な試合をやって、それでもまだ次の団体戦のメンバーに残れるだろうか。

みんなをがっかりさせるようなみっともない負け方をして、それでもテニス部の中

にわたしの居場所は残っているのだろうか。わたしはこうやって、家でも学校でも自

分で自分の居場所をなくしていってるんじゃないだろうか。

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もう時間だ。コートに立たなくては。

少し気持ちの整理ができた。要するに、わたしの居場所を失いたくなければ、もっ

とマシな試合をするしかなさそうだ。

「ちょっと顔色が良くなったよ」

タオルをわたしから受け取りながらそう言う亜紀も、さっきよりずいぶん明るい顔

になっている。

「ねえ亜紀、ちょっと聞きたいんだけど」

亜紀はスコアシートと鉛筆を取り出してスコアを付ける準備をしながら、なに?と

聞き返した。

「もしわたしがこのまま負けてしまっても、友達でいてくれる?」

亜紀がスコアシートから顔を上げてわたしを見た。

「はあ?なに言ってるの?そんなの当たり前でしょ」

「今みたいな無様なまま負けても?」

亜紀が腕を組んでわたしを睨んだ。

「くどい。私はテニスの強さで友達を選んでるわけじゃないから」

亜紀がコーチングスタッフに入ってくれていて良かった。

「わかった。ありがと。もう少し頑張ってくるよ」

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私は亜紀がかざした掌を右手でパチンと叩いてベースラインに向かった。

ベースラインに立ってコートを見た。大丈夫。さっきより広く見える。

コートの向こう側で辻本さんが、既にレシーブに備えて構えている。その向こうの

観客席に、パパと女の人が並んで座っているのが見えた。それを見てもさっきみたい

に心がざわつかない。うん、ちゃんと試合に集中できている。

私は辻本さんのポジションを確認し、サーブを放った。

第六ゲームはわたしがサービスをキープしてゲームカウントは

2-4

になった。

続く第七ゲームは辻本さんにあっさりサービスをキープされ、ゲームカウントは

2-5

、いよいよ試合も大詰めだ。

ベンチに戻ると亜紀がタオルを差し出してくれた。

「ほら美由紀、ちゃんとやれるじゃない」

「うん。でもいよいよ追い詰められちゃったね」

亜紀はドリンクをわたしに渡しながら言った。

「あのサーブを何とかしないとね。川澄さんより速いんじゃない?」

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「うん。そうかも」

わたしは頷いた。確かにあのサーブは脅威だ。速い上にスライス回転がかかってい

るのでバウンドが低く、リターンしにくい。もう何本エースを取られただろう。

でも、あれほどのサーブがありながら川澄さんの二番手に甘んじているということ

は、他に弱点があるということだ。でもその前に。

「でも、その前にわたしのサーブをちゃんとキープしなきゃ」

休憩を終えてコートに入るとき、パパの方を見た。パパはわたしをみて大きく頷い

た。わたしもパパに頷いた。でも、隣にあの人がいない。

あれっと思って周りを見ると、すぐ近く、フェンスに他の部員達と一緒に張り付い

ていたのでびっくりした。わたしと目が合うと両手の拳を顔の前で振りながら、頑張

れー、って叫んだ。

ちょっとびっくりして、わたしは反射的に目を逸らしてしまった。

最初のポイントで、サーブを入れるといきなりストレートにハードヒットしてきた。

そのリターンはネットにかかってわたしのポイントになったが、通っていればリター

ンエースになりかねなかった。どうやらこのゲームで決めにきているようだ。

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15

3

0-3

0

からのポイントは長いラリーになった。このポイントを何とか耐えて取り、

次のポイントはこの試合初めてのサービスエースを取って、なんとかサービスゲーム

をキープしてゲームカウントを

3-5

とした。

さて、いよいよ相手のサービスゲーム。これをキープされれば負けだ。ここは死に

物狂いでブレイクするしかない局面だ。

最初のサーブは少し甘く入ってきたので思い切り叩いてリターンエースを取った。

「ナイスショット!」

フェンスの向こうで部員達が叫ぶ声に、大人の女性の声が混じっていた。

振り返ってみると、あの人が真っ赤な顔をしてガッツポーズをしていた。

ところが、次のポイントではサービスエースを取られ、その次はセカンドサーブを

叩いたリターンがサイドラインを割ってしまい、さらに再びサービスエースを取られ、

あっという間に

40

-15

となり、二つのマッチポイントを握られてしまった。

辻本さんに背を向け、深呼吸して気を落ち着かせる。コーチ、パパ、部員達を順番

に見た。今は彼らの視線が心強い。

次のポイント、甘く入ったセカンドサーブを思い切り叩いたら、リターンボールが

ネットコードに当たって真上に跳ね上がった。心臓が口から飛び出た。

跳ね上がったボールがコートのこちら側に落ちれば試合は終わり。

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だが、ボールは相手コートに落ちた。自分のポイントを確認するまで、わたしの心

臓は止まっていたかも。

でもまだ相手のマッチポイントだ。もう一度観客席を向いて深呼吸する。

あの人がいない、と思ったらへたり込んでいた。顔の高さで金網を両手で掴んでい

るため、わたしからは顔と両手しか見えない。目と口がまん丸に開かれたまま凍りつ

いているみたいだ。この人、呼吸してるのかな?と心配になった。思わずくすっと笑

ったら、止まっていた時間の分だけ早送りしたみたいに、泣きそうな顔から笑顔に目

まぐるしく表情が変わって、最後に唇を引き締めて緊張した顔になり、わたしに何度

か頷いた。

そうだ。まだマッチポイントを握られていることに変わりはない。集中しなければ。

結局、このゲームは

40

-15

から四ポイントを連取し、土壇場で辻本さんのサーブを

ブレイクすることに成功した。最後のポイントが決まった瞬間は、思わず左手でガッ

ツポーズを作り、吠えた。フェンスの向こうで応援している部員達も大騒ぎだったが、

その声に混じって「うお~っ」って叫び声が聞こえた。あの人だった。

あのネットインで流れが変わった、というより、4

0-1

5

になった時点で辻本さんが

勝ちを意識してしまい、腕が縮んでいたような感じだった。

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ベンチに戻ると亜紀がボロボロ泣いていた。

「美由紀、あんた、やっぱりすごいよ」

わたしに渡すはずのタオルで自分の涙を拭いてる。わたしは亜紀からタオルを奪っ

て汗を拭きながらベンチに座り込んだ。

「でも、まだ

4-5

で負けてるんだからね。感動するのはまだ早いよ」

観客席を見ると、コーチとパパがわたしを見てガッツポーズをしていた。フェンス

では部員達が亜紀と同じようにくしゃくしゃの顔をしていたが、中でもあの人は一番

激しく泣きじゃくっていた。部員からタオルを借りて顔を埋めている。

なんだかおかしな人だな、と思った。綺麗な薄桃色のワンピースを着ているから部

員達に混じると浮きまくっているけど、やってることはあの中にいてもまったく違和

感がないもんな。最初見たときの印象ほど背も高くないことにも気づいた。すらっと

した、という印象は細いからそう思ったのか。でも細い割には出るところはちゃんと

出てて羨ましいな、とかぼんやり思っていた。

それと同時に、あの人にはどこかで会ったことがあるような気がした。気のせい?

第十ゲームからは辻本さんもブレイクされて目が覚めたのか、いつもの辻本さんに

戻っていたが、わたしももう簡単にブレイクされる気はしないほど集中できていた。

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第十二ゲームでは相手のネットインなどの不運があって、3

0-4

0

でマッチポイント

を握られはしたが、この日二本目のサービスエースであっさりデュースに持ち込み、

続いて二ポイントを連取してサービスゲームをキープした。

これでゲームカウントは

6-6

となり、勝負はタイブレークで決着をつけることとな

った。タイブレークは最初の一本は辻本さんのサーブで始まり、以後はサーブを二本

ずつ交代で打つことになる。七ポイントを先取した方がこのゲームを取り、つまりこ

の試合の勝者となるが、6

-6

になった場合はデュースとなり、二ポイント差がつくま

で続行されるのは他のゲームと同じだ。それと六ポイント毎にコートチェンジがある。

辻本さんがサーブを打つためにアドコートに入った時、わたしの背後で数人の部員

があの人にタイブレークのルールを説明しているらしい声が聞こえた。

タイブレークは互いに自分のサービスのポイントは落とさないという、完全に互角

の展開で進んだ。

しかし、4

-5

まで進んだ時、辻本さんに強烈なリターンエースを決められた。サー

ブのコースにヤマを張って、わたしがサーブを打つインパクトの直前にもう動いてい

たようだ。良いサーブが良いコースに入った、と思った次の瞬間に強烈なリターンが

返ってきて、わたしは一歩も動くことができなかった。

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辻本さんがコートの向こうでガッツポーズをつくって吠えていた。これで

4-6

、辻

本さんが二つのマッチポイントを握った。

一瞬血の気が引いたけど、まだ終わったわけじゃない。次のもう一本のサーブも辻

本さんはヤマを張ってきたが、これは外れでわたしのこの日三本目のサービスエース

になった。まずひとつ、凌いだ。

次はマッチポイントでの辻本さんのサーブ。ここが最大のピンチだ。

わたしはさっきのお返しに、辻本さんのサーブをセンターに山を張った。スライス

サーブがアドサイドからセンターに入ると、わたしから逃げていくボールになるので、

今日の試合はこれで五本くらいエースを取られている。最後もこれで来る、と決めた。

辻本さんがトスアップをしてサーブを打つ瞬間、わたしは全力で右に走った。

するとサービスエリアのど真ん中、ほとんどオンラインの位置に素晴らしくキレが

良いサーブが来た。普通なら触れもせずにノータッチエースになってしまうサーブだ

けど、既に走り出していたわたしは完全に打点に入れている。

クロスに叩いたリターンがエースになったのを見届けて、わたしはガッツポーズを

つくって吠えた。これで

6-6

のタイ。

コートチェンジの時、さっきマッチポイントを握られてからずっと両手で顔を覆っ

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ていたあの人が隣の部員に何か言われ、ようやく手を顔から外したのが見えた。

その時、わたしとあの人の目が合った。

もう心臓が止まって三十分は経った、って顔をしていたので思わずクスクス笑った

ら、その人は頬を膨らませて唇をへの字にした。あれ?この顔、見覚えがある。

次は辻本さんに強烈なサーブを入れられ、やっと返ったボールをダイレクトボレー

で決められた。6

-7で再び辻本さんのマッチポイント。でも次はわたしのサーブだ。

スピンサーブを辻本さんのバックに入れ、返ってきたリターンをクロスに打ち、辻

本さんを走らせる。ラリーの主導権は渡さず、辻本さんを何回か左右に走らせた。甘

くなった返球をドロップショットで辻本さんを前に走らせ、次にパッシングで左側を

抜き、ようやくマッチポイントを脱した。7

-7

のタイ。

次のポイントもスライスサーブをワイドに打ち、辻本さんをコートから追い出して

主導権を握った。返球を逆サイドに打って決めたつもりだったが、少し甘くなったの

か辻本さんに追いつかれてしまった。また長いラリーの始まりだ。主導権は渡さない

が、なかなか追い込めない。全力のショットを左右に打って辻本さんを走らせる。浮

いたボールを前に走ってダイレクトボレーでようやく決めた。8

-7

でこの試合初めて

のわたしのマッチポイントだ。観客席がどよめく。

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でも、次は辻本さんのサーブ。なんと二本連続でサービスエースを決められ、再び

辻本さんのマッチポイントになった。スコアは

8-9

ここからしばらく、同じような展開が続いた。互いにサーブポイントを落とさない

ので交互にマッチポイントを握るのだが、同時にサーブ権が相手に移るので最後のポ

イントを取ることができない。

でも、サーブポイントを連取するといっても、辻本さんはほとんどサービスエース

か、やっとの思いで返したリターンを簡単に決められているのに対して、わたしの方

は長いラリーの末にようやくもぎ取るポイントばかりだ。

この土壇場に来て、わたしも辻本さんもほとんどのファーストサーブが入り、リタ

ーンもストロークも全力で打っているのにミスもしないという、二人ともほとんど神

懸かった状態になっていた。いつの間にかとんでもない人数になっていた観客が一ポ

イント毎に大歓声をあげていたが、それもわたし達の集中の妨げにはならなかった。

ただ、大歓声に混じっているあの人の声だけは、不思議とわたしにはよく聞こえた。

だんだん声が枯れていくのさえわかって、心のどこかでぼんやりと、この人の声が

完全に枯れてしまうまでに早く決めてしまわなければ、と思っていた。なぜか、あの

声が聞こえるうちは大丈夫、という気持ちになっていた。

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二十八ポイント目、もう何本取られたかわからないサービスエースを取られ、わた

しのいくつ目かのマッチポイントを逃れられた。

次のポイントは辻本さんのサーブは、珍しくコースが少し甘かったので、良いリタ

ーンを返すことができ、ラリーになった。

もうかれこれ二十ポイント近く、二人とも自分のサービスポイントを落としていな

い。逆に言えば相手のサーブをミニブレイクできていない。わたしの方はさっきから

辻本さんのサーブには簡単にやられっ放しなので、ラリーになったこのポイントはチ

ャンスだ。何とか主導権を握ろうとしているのだけど、辻本さんは徹底的にわたしの

バックハンドを攻めてくる。

延々とバックハンド同士で打ち合った末、ようやく少し甘く入ってきたボールをフ

ォアに回り込んでストレートに強打した。取った!と思ったが、僅かにベースライン

を割っていたらしい。観客席がどよめいた。これでまた辻本さんのマッチポイントだ。

今度はわたしのサーブだ。ボールを左手で地面に弾ませながら考える。スライスを

センターに打つ、と決めてトスを上げようとした瞬間、辻本さんが僅かに右足に重心

を移したような気がした。もしかして、センターを読まれている?トスアップしなが

らコースを変えて、ワイドに打つことにした。

これは辻本さんには予想外だったようだ。コースの読みが外れたのと、辻本さんに

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とっては自分の方に食い込んでくるようなサーブになったので、振り切ることができ

ず、合わせるだけのリターンになった。それでもきちんとスライスをかけて深く返し

てくるのはさすがだ。そしてそのままネットダッシュしてきた。

大丈夫。浮いたスライスだからバウンドは高い。ネットに詰めてくる辻本さんの左

側をパッシングできる。わたしは強めにスピンをかけたショットを打った。

抜いた、と思った瞬間、ボールがネットコードに当たって真上に跳ね上がった。ボ

ールはもう一度ネットコードに当たって、そしてわたしのコートに落ちた。

そのことが何を意味するのか、すぐには頭に入ってこなかったが、ネットの向こう

で辻本さんが両手を突き上げて喜びを爆発させているのを見て、少しずつわたしは負

けたのだ、ということがわかってきた。辻本さんがネットの向こうでわたしに右手を

差し出している。試合終了の握手に行かなきゃ。わたしはまだぼーっとしたまま、の

ろのろとネットまで歩いて辻本さんの右手を握った。

試合後の挨拶のため、両校の団体戦選手がコートに入ってきた。

わたしは辻本さんが飛び跳ねながら宮下中の歓喜の渦に迎え入れられる様子を、呆

然と見ていた。

不意に誰かがわたしの背中を叩いた。亜紀だった。

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亜紀は真っ赤に泣き腫らした目でわたしに言った。

「すごい試合だったよ。さ、行こ」

わたしの仲間はみんな泣いていたが、中でもしのぶ先輩は挨拶をして観客席に引き

上げるまでずっと泣きじゃくっていた。これまで全勝していて、自分も含めて誰もが

勝てると思っていた相手に、追いつかれた挙げ句の逆転負けをした。自分のせいでチ

ームが負けた、と思っているようだ。さっき自分が味わった恐怖感を思い出すと、し

のぶ先輩の気持ちはとてもよくわかった。わたしはさっき、この試合に負けたらテニ

ス部にもう自分の居場所はない、とさえ思いつめた。今のしのぶ先輩に、そんなこと

ないよ、ってどれだけ慰めても慰めにはならないんだろうな。

選手全員でコーチに報告に行った後、みんなは決勝戦の観戦に移動した。この決勝

戦で宮下中が勝って優勝すれば、わたし達と日大二中とで決定戦を戦うことになるが、

その可能性はまず低かった。

みんなが決勝戦のコートに向かったのでわたしも一緒に行こうとすると、コーチが

わたしを呼び止めた。

「美由紀、今の試合はどうだった?」

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わたしは少し考えて答えた。

「第四ゲームと第五ゲームがグダグダでした」

コーチはそれを聞いて笑ったが、すぐ真顔になった。

「そうだな。あの二ゲームのお前は小学生並みだった。あの時はしのぶが負けて自分

が決戦になってしまったことが影響していたのか?」

わたしは黙って頷いた。

「団体戦では負けて良い試合はひとつもない。それはお前に試合に向かう心構えがで

きていなかった、ということだ」

わたしはもう一度、黙って頷いた。わたしが「捨石」っぽいオーダーだったことは

言わなかった。それが言い訳にはならないことくらいわたしにもわかる。

「でも」

コーチは亜紀がつけたスコアシートを見ながら続けた。

「あの二ゲームであれだけメロメロだったのに、終わってみればタイブレークまでも

つれる良い試合だった。それがどういうことか、わかるか」

わたしは首を横に振った。

「お前は、次に辻本とやれば、今度は勝てる、ということだ」

そうなのだろうか。それなら今、この試合を勝ちたかった、と思う。今さらながら

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悔しさがじわじわと込み上げてきた。

「元々美由紀を二年生でただ一人、団体戦のメンバーに入れたのは、お前が誰よりも

負けん気が強いからだ」

コーチはスコアシートをファイルに綴じながら言った。

「これで三年生は引退だから、この秋の大会からは美由紀、お前がエースだ。今日の

ようなシビれる試合をもっとたくさん見せてくれ」

もう行け、という手振りをコーチがしたので、わたしはありがとうございました、

と礼をしてその場を後にした。

荷物のところに戻ると、パパがあの人と一緒にわたしを待っていた。

「すごい試合だったな。シビれたぞ」

パパが笑顔でわたしを迎えた。

「でも負けちゃったよ」

笑おうと思ったけど、うまくいかなかった。

「決勝戦、見に行くのか?」

「うーん、もういいや。多分決定戦はないだろうし」

もし宮下中が勝ちそうなら、亜紀あたりが大騒ぎしながら呼びに来るだろうし。

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「そうか」

パパがそう言ったまま、そわそわしてる。わたしはパパの隣に立っているあの人の

方に顔を向けながら、ちょっと首をかしげてパパを横目で見た。

パパは緊張しているのか、ちょっぴり上ずった声で私にその人を紹介した。

「美由紀、えっと、こちらは福寿愛美さん。愛美、これは僕の娘で美由紀だ」

愛美と紹介されたあの人がわたしに微笑みかけた。

「美由紀ちゃん、はじめまして。愛美です。よろしくね」

わたしはぺこっと頭を下げた。

「美由紀ちゃん、すごかったね~。私、感動しちゃったよ。美由紀ちゃんが叫んだと

きは私も『うぉ~』って吠えちゃったよ」

愛美さんの応援の方がよっぽどすごかったと思うけど。大人であそこまで感情を入

れてくる人には会ったことがないよ。

「でも負けちゃったから」

私がそう言うと、パパが横からわたしをからかうような口調で言った。

「でも、今回は泣かなかったんだな。大泣きするかと思ってたぞ」

そうだ。どうしてだろう。

あまりにも集中しすぎて、まだ心が敗戦を受け入れてないのだろうか。

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いや、多分そうじゃない。負けた悔しさはずっと心の奥底に溜まっていて、吹き出

すタイミングを狙っている。それを止めているものは・・

「うーん、なんかさ、しのぶ先輩が大泣きしてたから、わたしが泣き損なっちゃった

ような。しのぶ先輩が、チームが負けたのは勝てるはずの試合を落としちゃった自分

のせいだって責任感じてるみたいだから、わたしがいつもの調子で泣いちゃうと先輩

がよけい責任感じちゃうかな、って気もするし」

すると愛美さんが微笑みながら言った。

「美由紀ちゃん、優しいんだね」

びっくりした。わたし、優しくなんてない。わたしは試合中も自分の居場所ばかり

心配してビビッていたんだ。それに昨日、わたしがママに言ったことも思い出してし

まった。それらの自己嫌悪や試合に負けた悔しさが、まるで愛美さんの一言で化学反

応を起こしたように突然膨張してせり上がってきた。

「わたし、優しくなんかない」

愛美さんにそう言おうと思ったけど、最後まで言葉にならなかった。嗚咽を止めよ

うと歯を食いしばってみたけど、それも無駄な抵抗だった。

泣きじゃくるわたしを、愛美さんはそっと抱いてくれた。わたしは愛美さんの肩に

顔を埋めて泣き続けた。

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しばらくわたしは愛美さんの肩で泣き続けた。

泣きたいだけ泣いて腹の底の黒いモノを吐き出してしまったら、少し楽になった。

パパは呆れたように笑っていた。

「相変わらず美由紀は負けず嫌いだなあ」

でも愛美さんは、私がようやく泣きやんで、同時にちょっと恥ずかしくなって愛美

さんから離れたとき、私の耳元で囁いた。

「それだけじゃないのよね」

わたしは愛美さんの目を見て、愛美さんにだけわかるように小さく頷いた。

その時、わたしは初めて愛美さんの顔を間近でしげしげと見た。ぱっちりとした大

きな目をしているのに、笑うとほとんど線みたいに細くなる。細面できりっとした顔

立ちなのに、笑うと不思議なくらい「丸顔」に見える。不思議だ。

よく見ると愛美さんの化粧がずいぶん崩れていた。きっとわたしの試合中、泣いた

り叫んだりしていたせいだ。

「あの、愛美さん。化粧がけっこう悲惨なことになってるんですけど」

私がそう言うと、愛美さんは慌ててバッグからコンパクトを出して自分の顔を確認

して、ちょっと直してくる、と言ってクラブハウスの方に行ってしまった。

「愛美はいつものように綺麗だよ」

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愛美さんの後ろ姿にパパが間抜けなフォローをした。いや、それは断じてフォロー

ではない。愛美さんは「むぅ」とパパを睨んで歩いていった。

「パパはダメだねえ。ちゃんと教えてあげなきゃ」

わたしがダメ出しをすると、パパはちょっと動揺したようだった。

「やっぱりそうか?教えようかと思ったんだけど、どう言えば良いのかわからなくて」

パパと二人きりになると、パパがわたしを見ずに言った。

「美由紀、どうだ?『面接』の方は」

わたしは苦笑した。いきなりストレートにそんな聞き方をするかね?

「あ、やっぱり『面接』なんだ。つまりパパは愛美さんと結婚するの?」

わたしがそう言うと、パパはわたしに向き直った。

「結婚するかどうかはまだわからない。でも、パパは愛美を愛しているし、一緒にい

たいと思っている」

「なら、そうすればいいじゃん。わたしの許可なんて必要ないでしょ」

「そうじゃない。パパと愛美が一緒にいるところには、美由紀の居場所もなければな

らないから」

わたしはちょっと不意を突かれて一瞬、言葉を失った。

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「あのね、パパ。わたし、今日の試合をしてて、自分の居場所は自分でつくらなきゃ、

って思ったよ」

パパは目を丸くして、それから笑いながら首を振った。

「そんなこと考えながらテニスしてたのか」

それから真顔になって言った。

「美由紀がちゃんとそこに気づいているのは頼もしいな。そうだな。社会に出れば最

初から保証されている自分の居場所なんてどこにもないから、自分で切り拓いてつく

らなきゃならない。今でも家の外ではそうだよな。だから美由紀は自分の居場所を守

るために、あんなに頑張ったんだよな。でもな。子供にとって家の中は無条件に自分

の居場所だよ」

ママもそんな風に思っていてくれたらな。

「だから、もし美由紀が愛美のことを、この人とは暮らしたくない、って思ったら、

パパは愛美とは結婚はしないよ。少なくとも美由紀が成人するまではね」

わたしはびっくりした。本気でわたしが認めないと結婚しない、と思ってるようだ。

「パパ、愛美さんにそんな条件を言ってるの?」

パパは笑って首を横に振った。

「美由紀の面接をパスしなければ僕たちは一緒にはなれない、とだけ言ってる」

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それからまた真顔で付け加える。

「それにな、これはパパと愛美がいるところに美由紀が自分の居場所をつくれるか、

という問題ではなくて、パパと美由紀がいるところに愛美が入ってこれるか、という

問題なんだ。だから『条件』なんかじゃない」

ママとアイツがそんな風に考えてくれている様子はないけど。

「まあ、今日会ったばかりで一緒に暮らせるか、まではわからないだろうから、ゆっ

くり考えてくれればいいさ。時間はまだまだあるから」

「ねえパパ、愛美さんって、やっぱりあのエミなの?」

このタイミングでそれを聞かれるとは予想外だったようで、パパはしばらく目をぱ

ちくりさせていた。やっと何のことかわかったみたいで、ああ、そのことか、と呟い

てわたしに答えた。

「そうだよ。ちょっと前に三十年ぶりに会えたんだ」

「ふーん。もう絶対に会えないんじゃなかったの?」

「パパも愛美もそう思っていたんだけどな。今でもパパにはよくわからないんだけど、

多分ちょっとした奇跡が起きて、それで会えた」

そうかぁ。

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「あのね。さっきからずっと、どこかで会ったことがある、って思ってたんだ。愛美

さんとエミって、やっぱりよく似てるんだね」

パパは苦笑いをしている。

「まだ会ったばかりだからわかんないけど、わたし、愛美さんを好きになれそうな気

がするよ」

パパが嬉しそうに笑った。

部員達がぞろぞろと戻ってくるのが見えた。もう決勝が終わったのだろうか。

わたしはパパに、じゃあ行くから、と告げて仲間達の方に歩き出した。

「今日は夕食を一緒に食べないか?」

パパがわたしの背中に声をかけた。わたしはパパに振り返って頷き、走り出した。

「決勝はもう終わったの?」

私を見つけて駆け寄ってきた亜紀にそう聞いた。

「終わった終わった。日大二中が

5-0

で勝ったよ。どの試合もあっという間」

つまり、わたし達の地区大会は終わった、ということだ。

「ミーティングは明日やるから、今日はもう解散だって」

不意に亜紀がわたしの脇腹をこづいた。

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「ねえねえ、あそこにいるの、美由紀のお父さん?」

みんなの荷物が置いてある場所に、パパと愛美さんが二人で立っている。

「そうだよ」

「ねえ、ちょっと話を聞いてもいい?」

いつの間にか、他の部員が何人も集まっている。

「後でご飯食べに行こうって言われてるから、少しならいいんじゃない?」

私がそう言うと、亜紀が先頭に立ってきゃあっ、と甲高い声をあげながら、みんな

がパパのところに走っていった。隣にいるのがエミのモデルになった人だよ、って言

ったら、どんな反応が返ってくるのだろう?

とりあえず着替えに行こうとクラブハウスの方に向かった。途中で部員達がパパと

愛美さんを取り囲んでいる近くを通った。

「え~?愛美さんていうんですか~?」

「もしかして~?」

という声が聞こえたと思ったら、一呼吸おいてきゃ~っ、という歓声があがった。

わたしはちらっとパパの方を見て、照れたような困ったようなパパの顔を見て、思

わずクスッと笑いながらクラブハウスに歩いていった。

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それから数時間後、わたしとパパと愛美さんの三人は、吉祥寺のレストランにいた。

わたしがハンバーグステーキを食べたいと言ったので、パパが良い店があるからと

連れてきてくれたのだ。

このスリッパくらいありそうな大きなハンバーグ、さすがパパはわかってる。今日

はもう腹ペコなんだよ、わたしは。

食後のジュースを飲んでいたとき、パパが私の名を呼んだ。なんだかちょっと改ま

った感じだ。わたしはさっきの話の続きかな、と思ってジュースを置いた。

「実は、京都に移り住もうかと考えてるんだ」

は?なにそれ。

「愛美さんと住むの?」

わたしがそう聞くと、パパはちょっと複雑な顔をした。

「もちろんそうしたいけど、さっき話したこともあるし、いつ一緒に住むことを考え

るかは、また別の話だな」

わたしはまたジュースに手を伸ばした。飲み終わると愛美さんが言った。

「美由紀ちゃん。私はあなたの母親ではないけれど、家族にはなれるよ」

わたしはママとアイツがいる、これから帰る家を思い浮かべた。あれもわたしの家

族のはずだ。

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「家族ってなんですか?」

わたしは愛美さんに聞いた。

「安全地帯、かな」

愛美さんはちょっとだけ考えて、こう答えた。

「家族は、何があっても最終的にはあなたの味方だよ。家族がいるところは、何があ

ってもあなたの居場所だよ」

「わたしがクズみたいな人間になっても?」

わたしがそう言うと愛美さんはまん丸な笑顔になった。

「もちろん。わたし達はそうならないように、あなたを叱ったり怒ったりするけど、

それでもあなたはそこにいて良いの。あなたは家の外では戦って自分の居場所をつく

らなければならないけど、家族とは戦わなくて良いの」

ちょっと涙が出そうになったので、わたしはテーブルの上を見つめながら固まって

いた。

「ねえ美由紀ちゃん」

しばらく私を見ていた愛美さんが、穏やかにわたしに話しかけた。

「あなたとあなたのパパは最初から家族で、この先もずーっと家族だけど、そこに私

も入れてもらってもいいかな?」

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わたしは愛美さんの目を見た。笑ってるけど真剣な目をしていた。わたしが嫌だっ

て言えば、本当にこの人はパパを諦めるんじゃないか、って気がした。

大人の人にこんなに真剣に頼み事をされたのは初めてなので、どう答えたらいいか

わからなくて、わたしは愛美さんの目を見たまま、ただこっくりと頷いた。すると愛

美さんの目から緊張が消えて、さっきよりまん丸な笑顔になった。

アニメのエミがこんな笑顔をするのを、アニメ特有のデフォルメだと思っていたけ

ど、ぜんぜんデフォルメじゃなかったんだ、と可笑しくなった。わたしは自然にクス

クスと笑い声をあげて笑っていた。愛美さんも声をあげて笑った。愛美さんはわたし

がなんで笑っているのか知らないだろうけど。

「良かった~。私、美由紀ちゃんに嫌だって言われたらどうしようかって気が気じゃ

なかったよ~」

愛美さんがパパを見てそう言った。

「僕は大丈夫だって言ったろ?愛美と美由紀は絶対仲良くなれるって」

そういうパパもほっとした顔をしている。

「ねえパパ」

わたしもパパを向いた。

「京都に住むところを探すんだよね?そこにわたしの部屋もあるよね?」

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わたしは急き込んで言った。これから先のことをちゃんと決めなくちゃ。

「もちろん。近江県の坂本ってところで一軒家を探す、という案もあるけど」

パパが言った。一軒家。それは素敵だ。

「わたし、中学はやっぱりこっちにいたい。今の部活の仲間と離れたくないから」

パパと愛美さんが頷いた。

「だから、高校からそっちに行ってもいい?」

パパと愛美さんが笑って頷いた。

「もちろん」

二人の声が揃った。

「じゃあさ、私、京都でも近江でも、テニス部が強い高校を調べてみるよ。私立でも

良い?」

「多分大丈夫だよ」

パパがそう言って少し心配そうな顔になった。

「ママにはどう話す?パパから話そうか?」

わたしは少し考えて気持ちを決めた。

「まず自分で話してみる。それからパパもママと話してよ」

わたしがそう言うと、パパと愛美さんは顔を見合わせ、頷き合った。

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「わかった。どういう話し合いになったのか、パパにも教えてくれ。それを聞いてか

ら、パパがママと、それからあの男と話す」

パパが初めて、「あの男」という言い方をした。これまでわたしには「新しいパパ」

としか言わなかったのに。

「ねえ美由紀ちゃん」

愛美さんが横から割り込んできた。

「今度、京都に遊びにおいでよ。いろいろ案内してあげるよ」

「えっ?パパと初めて出逢った場所とか、連れてってくれる?」

すると愛美さんは照れくさそうに笑った。笑うと細くなる目が、とうとうただの線

になってしまった。

「恥ずかしいけど、いいよ」

二人と別れて家に帰る途中、わたしはずっとママとアイツにどう話そうか考えてい

た。愛美さんが、わたしとパパの家族に入れて、と言ってくれた言葉がずっと耳に残

っていた。

わたしが帰宅すると、アイツはもう酒を飲んでママと楽しそうに産まれてくる赤ち

ゃんのことを話していた。例によって、わたしがリビングに入った途端、会話が一瞬

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止まった。いつものことだ。

わたしはその空気を押しのけるように、小さなガラステーブルを挟んで、ママとア

イツに正対してソファに座った。

「あの、話があるんだけど」

酔っているアイツに話すより明日の朝にでもした方が良いのではないか、とちらっ

と思ったけど、もう少しでも早く話してしまいたかった。アイツも泥酔してるってわ

けでもないし、話くらいできるだろうと思った。意外に本音も聞けるかもしれないし。

「わたし、高校からパパと暮らしたいの」

ママはわかっていた、という顔をしていたが、アイツの顔は険しくなった。わたし

を邪魔者扱いしてるのに、出たいと言うと嫌な顔をするのは、あまり考えたくないが

やはり養育費の問題とかがあるからだろうか。

ママとアイツが何も言わないので、わたしは愛美さんのこと、京都で一緒に住むつ

もりでいること、愛美さんがわたしに、パパとわたしの家族に入れて、と言ってくれ

たこと、わたしは部活の仲間が好きだから今の中学を卒業したいこと、を時々つっか

えながらも二人に話した。特に、愛美さんが言ってくれたことは強調したつもりだ。

黙ってわたしの話を聞いていたアイツが、皮肉っぽく片方の唇を吊り上げるように

笑いながら言った。

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「それで美由紀は、せっかく一緒になった二人のおじゃま虫になるつもりなのか」

悪意に満ちたその言葉を聞いて、さすがにわたしの心は怯んだ。一瞬、ほんとはパ

パも愛美さんも、わたしを邪魔だと思ってるんじゃないだろうか、と思ってしまった。

わたしは目をつぶって今日のパパと愛美さんの顔を思い浮かべた。大丈夫、パパも

愛美さんもわたしに嘘はついていない。

同時に、この男がわたしをどう思っているか、それもよくわかった。ママに付いて

きた余計なコブ、って思っているんだ、こいつは。

まだ目を閉じているわたしに追い打ちをかけるように、この男がまた口を開いた。

「そんなにそっちに行ってしまいたいのなら、高校からと言わず今すぐ行ってしまえ

ば良いだろう」

よくわかった。この家の中では、わたしは戦わなければ自分の居場所を確保するこ

とができないということが。

わたしは目を開き、アイツの酔いで濁った目を真っ直ぐに見て言った。

「わたしがいつこの家を出て行くかは、わたしが決める」

アイツの目が怒気を孕んだ。

「お前にそんな権限があるわけが」

「いいえ、あります」

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突然予期しない方から声がした。驚いて声がした方を見ると、ママが背筋を伸ばし、

拳にした両手を膝の上に置いてあいつを見つめていた。

「美由紀がどうしたいか、私はこの子の気持ちを全面的に支持します」

ママがこれだけはっきりと、アイツに逆らうのは初めて見た。アイツは気圧された

ように目をぱちくりさせて黙ってしまった。

「美由紀、おいで」

ママは私の手を引くと、すたすたと私の部屋に歩いていった。部屋に入るとママは

いきなりわたしを抱きしめた。

「美由紀、ごめんね。愛美さんのように、彼がママと美由紀の家族に入れてくれ、っ

ていう気持ちがあればこんなことにはならなかったんだよね。そんな当たり前のこと

に今の今まで気づけなかったママを許して」

わたしはそっとママの背中に腕を回した。久しぶりにママの匂いを嗅いだ気がする。

何かママに言ってあげなきゃ、と思ったけど、言葉が見つからなかった。まあいい

や、と思ってわたしはママの背中を抱いていた。

翌朝、わたしがリビングに出て行くと、アイツが朝食を終えて立ち上がるところだ

った。ママがアイツにネクタイを手渡した。

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私はママが出してくれたコーヒーを飲みながら、アイツがネクタイを締め、バッグ

の中を点検するのを見ていた。

アイツがリビングのドアを開けて出て行こうとした。

「行ってらっしゃい」

わたしがかけた声に、アイツは一瞬凍りついて、それからわたしに振り返った。

わたしはにこりともせず、コーヒーを飲みながらアイツの視線を受け止めた。

アイツは、「ああ」か「うう」かよくわからない声をあげ、わたしから目を逸らして

リビングを出て行った。やがてアイツが玄関のドアを開けて出ていく音が聞こえた。

「どうしたの?」

ママが目を丸くしている。わたしがアイツに挨拶したのは、多分これが初めて。

「別に」

わたしはトーストにバターを塗りながら答えた。

「ただ、昨日ママがわたしの味方になってくれたでしょ。アイツが拗ねてこの家を出

てっちゃったりしたら、ママが困るでしょ?」

ママがわたしの向かいに座った。

「美由紀は優しいのね」

わたしはびっくりして首を横にブンブンと振った。

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「わたし、優しくなんかないよ」

昨日もそんなこと言われたな。わたしは自分のことしか考えてないのに。

「それとね、わたしは自分でここを出て行くって決めるまで、ここに居座るぞ、ここ

に自分の居場所をつくるぞ、っていう宣戦布告の意味もあるから」

ママはわたしを感心したように見つめた。

「そんなことまで考えてるの。まだまだ子供だって思ってたのにね」

それからわたしの方にサラダの皿を押しやりながら言った。

「それにね、あんなに彼のことが嫌いなのに、彼がいなくなったら私が困るって、私

のことも考えてくれたんだよね。やっぱり美由紀は優しいよ」

そんな風に褒められると、なんだか落ち着かないな。

「学校に遅れちゃう。わたし、もう行くね」

わたしはそう言って立ち上がった。

「うん、行ってらっしゃい」

「あ、いいよ。座ったままで。そんな大きなお腹で玄関まで来られたら、転ばないか

心配しちゃうもん」

わたしはそう言い捨てて玄関を出た。

下の道を見ると、亜紀が歩いているのが見えた。

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わたしは大急ぎでエレベーターホールに向かった。

エレベーターが一階に着くと、わたしは亜紀の背中に向かって走り出した。

今日も良い天気だ。坂の上に青空が広がっていた。

(完)