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特集文

学の

二次創作

次   号   予   告   号

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5 4

桃太郎 

田中堅次

  

ムカシ 

ムカシノオ話ヨ

  

オヂイサンハ 

山ヘ 

シバカリニ

  

オバアサンハ 

川ヘ 

センタクニ

 

はじめに断っておかねばならぬのは、私は桃太郎の研究家でも熱心なマニヤの類いでも無い

という事である。私の持つ桃太郎知識は平凡な日本人の域を出ない。せいぜい、若かりし頃に

『桃鉄』を少々嗜んでいた程度に過ぎぬ。よって、桃太郎研究史を根底から覆すような新解釈

や、幾百の資料を駆使した考証などを期待された方はこの項は飛ばして次の作品をお読みなる

のがよろしかろう。時間の無駄というものである。人生はみじかい。なんぞ暇つぶしにでも読

んでみようか知らん、という酔狂な方だけこれからお付き合い願いたい。

 

前置きが済んだところで桃太郎である。桃太郎の住処と言えば、岡山が有名であろう。作中

にある「黍団子」と岡山の土産「吉備団子」を結びつけて、ゆかりの地としたのが岡山桃太郎

説であるが、実のところ正統な根拠は確立されていない。それは地元の町起こし的な風情とで

も言ったら良かろうか。ちなみに、私の近所にも『恵比須神社』なる簡素な社がある。ご大層

に『古事記』の蛭子に準えた物語を示す看板まであるが、嘘っぱちであろう。要は、言ったも

の勝ちなのである。

 

であるからして、桃太郎が誕生したのは岡山のどこか適当な山中である。山と川が有ればそ

れで良い。して、そこの川に流れて来るのである。桃が。

  

ドンブラ 

コッコ 

スッコンゴウ

  

ドンブラ 

コッコ 

スッコンゴウ

 

この「すっこんごう」というオノマトペはどういった様態を表しているのかという疑問は尽

きせぬところではあるが、差し当たって問題にしたいのは、やはり、桃である。なぜ、南瓜で

はなく、胡瓜ではなく、西瓜ではなく、桃なのか。

 

桃太郎研究の嚆矢、柳田國男『桃太郎の誕生』では、瓜から生まれた瓜子姫子との類似点を

指摘しながらも、結局のところ、なぜ桃なのか、という点に於いては不明である。そこから私

が判読出来たのは、桃と支那の直接的感化という文脈とは切り離せ、という部分のみである。

なぜなら、桃太郎成立当時の支那というのは、端的に言えば、漢学の事である。漢学とはいと

やんごとなき方々の領域であって、大衆に伝搬した昔話とはその領域が異なる。であるからし

て、直接的にそれは無関係である。

「なるほど」と膝を打つのであるが、前述した通り、柳田先生の論をこの後しばらく読み進め

ても、なぜ桃なのかという私的な問いには結びつかないのである。そして、……      

太宰治(1908年~1948年)紹介不要の日本人にとってメジャーな作家。高等学校時代から同人誌に作品を発表し以降作家活動を続け、憧れの第一回芥川賞候補になるも落選。受賞させてくださいと選考委員に何度も嘆願の手紙を送りつける、日本人離れした胆力の持ち主。またはKY。その周りの目を気にしない我が道を行く姿勢は現代の日本人が見習うべきなので、未だ国語の教科書に掲載され続けている、という訳ではない。

『お伽草紙』(1945年刊行)太宰治によって語り直された昔話。瘤取り、浦島さん、カチカチ山、舌切雀からなる。本人によって、桃太郎は「日本一はおろか日本二も三も経験せぬ作者が、そんな日本一の快男子を描写できる筈が無い」と本心なのかどうかは分からないが、執筆がされなかった理由が書かれている。何度も自殺を繰り返す人物という退廃的なイメージからはかけ離れた、見事なパロディのあり方を示した一冊。

田中堅次

田中堅次

田中堅次

田中堅次

田中堅次

田中堅次

田中堅次

田中堅次

田中堅次

田中堅次

田中堅次

田中堅次

田中堅次

田中堅次

田中堅次

田中堅次

田中堅次

田中堅次

田中堅次

田中堅次

田中堅次

田中堅次

田中堅次

田中堅次

  

オヂイサンハ 

山ヘ 

シバカリニ

  

オヂイサンハ 

山ヘ 

シバカリニ

  

オヂイサンハ 

山ヘ 

シバカリニ

  

ムカシ 

ムカシノオ話ヨ

  

ムカシ 

ムカシノオ話ヨ

  

ムカシ 

ムカシノオ話ヨ

  

ムカシ 

ムカシノオ話ヨ

  

オヂイサンハ 

山ヘ 

シバカリニ

  

オヂイサンハ 

山ヘ 

シバカリニ

  

オヂイサンハ 

山ヘ 

シバカリニ

  

オヂイサンハ 

山ヘ 

シバカリニ

  

オバアサンハ 

川ヘ 

センタクニ

  

オバアサンハ 

川ヘ 

センタクニ

  

オバアサンハ 

川ヘ 

センタクニ

  

オバアサンハ 

川ヘ 

センタクニ

 

はじめに断っておかねばならぬのは、私は桃太郎の研究家でも熱心なマニヤの類いでも無い

 

はじめに断っておかねばならぬのは、私は桃太郎の研究家でも熱心なマニヤの類いでも無い

 

はじめに断っておかねばならぬのは、私は桃太郎の研究家でも熱心なマニヤの類いでも無い

 

はじめに断っておかねばならぬのは、私は桃太郎の研究家でも熱心なマニヤの類いでも無い

や、幾百の資料を駆使した考証などを期待された方はこの項は飛ばして次の作品をお読みなる

や、幾百の資料を駆使した考証などを期待された方はこの項は飛ばして次の作品をお読みなる

や、幾百の資料を駆使した考証などを期待された方はこの項は飛ばして次の作品をお読みなる

や、幾百の資料を駆使した考証などを期待された方はこの項は飛ばして次の作品をお読みなる

や、幾百の資料を駆使した考証などを期待された方はこの項は飛ばして次の作品をお読みなる

や、幾百の資料を駆使した考証などを期待された方はこの項は飛ばして次の作品をお読みなる

や、幾百の資料を駆使した考証などを期待された方はこの項は飛ばして次の作品をお読みなる

や、幾百の資料を駆使した考証などを期待された方はこの項は飛ばして次の作品をお読みなる

説であるが、実のところ正統な根拠は確立されていない。それは地元の町起こし的な風情とで

説であるが、実のところ正統な根拠は確立されていない。それは地元の町起こし的な風情とで

説であるが、実のところ正統な根拠は確立されていない。それは地元の町起こし的な風情とで

説であるが、実のところ正統な根拠は確立されていない。それは地元の町起こし的な風情とで

説であるが、実のところ正統な根拠は確立されていない。それは地元の町起こし的な風情とで

説であるが、実のところ正統な根拠は確立されていない。それは地元の町起こし的な風情とで

説であるが、実のところ正統な根拠は確立されていない。それは地元の町起こし的な風情とで

説であるが、実のところ正統な根拠は確立されていない。それは地元の町起こし的な風情とで

説であるが、実のところ正統な根拠は確立されていない。それは地元の町起こし的な風情とで

説であるが、実のところ正統な根拠は確立されていない。それは地元の町起こし的な風情とで

説であるが、実のところ正統な根拠は確立されていない。それは地元の町起こし的な風情とで

説であるが、実のところ正統な根拠は確立されていない。それは地元の町起こし的な風情とで

  

オヂイサンハ 

山ヘ 

シバカリニ

  

オヂイサンハ 

山ヘ 

シバカリニ

  

オヂイサンハ 

山ヘ 

シバカリニ

  

ドンブラ 

コッコ 

スッコンゴウ

  

ドンブラ 

コッコ 

スッコンゴウ

  

ドンブラ 

コッコ 

スッコンゴウ

  

ドンブラ 

コッコ 

スッコンゴウ

  

ドンブラ 

コッコ 

スッコンゴウ

  

ドンブラ 

コッコ 

スッコンゴウ

  

ドンブラ 

コッコ 

スッコンゴウ

  

ドンブラ 

コッコ 

スッコンゴウ

  

ドンブラ 

コッコ 

スッコンゴウ

  

ドンブラ 

コッコ 

スッコンゴウ

  

ドンブラ 

コッコ 

スッコンゴウ

  

ドンブラ 

コッコ 

スッコンゴウ

  

ドンブラ 

コッコ 

スッコンゴウ

  

ドンブラ 

コッコ 

スッコンゴウ

  

ドンブラ 

コッコ 

スッコンゴウ

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太宰治『

走れメロス・

女生徒』+

岡田利規

戯曲 

山本握微

『走れ

ス』を

読ん

『女生徒』

起床

布団。卓袱台。

女生徒が寝ている。

枕元にはハードカバーの「走れメロス」が置かれている。

女生徒

……。(目が覚める)……朝か……厭だなあ……(伸びをしつつ)。(呼びかけるように)

「おとうさん」……は、もういなくて、(呼びかけるように)「おねえさん」……は、もうお

嫁に行つちやつてて……「おにいさん」……が、あれだ、おにいさん、昨日、といふか一

昨日、街へ出かけて、今朝つてか昨日、帰つてくるなりいきなり、明日、つていふのはつ

まり今日? 

お前の、妹の、つまり私の、結婚式をあげる、つていふもんだから、はあ?

とかなつて、おにいさんが、今日、といふか昨日、街に行つたのは、私の結婚準備の諸々

買い出しに、行つてくれてたつてのは薄々、わかつてたけど、感付いてゐたけど、でも普

通、結婚式つて、結構、決めてから最低でも半年くらゐはかけるぢやないですか。会場と

か、招待状とか、引き出物決めたりとか、半年どころか全部含めたら一年くらゐは、かけ

てしかるべきぢやないですか、普通。昨日明日の問題ぢやなく、来年、再来年のスパン

で、捉へるべき案件ぢやないですか。私の旦那は、確かに、ご近所さんで、昔から、お互

ひ家同士、お付き合ひあるので、結婚自体つていふのは、もうだいぶ前から、ほぼ決まり

つていふのは確かに、あれですけど、明日つていうのは唐突過ぎるといふか、そもそも、

おにいさんが決めるものでもないぢやないですか。決定権ないぢやないですか最初から。

だから、全体的にシュールな空気になつて、つい私、いいよ、明日でも明後日でも、私は

別に、あでも、彼さへよければで、彼に聞いて、つて投げやり気味に、丸投げしちやつて

彼に。すると、彼の家にすつ飛んで、そのとき初めて、あ、これはまづいことをしたかな

と、私が兄の暴走の、防波堤にならなきや、昔から結構、かういふシチュエーションあつ

たなーさういへば、と。彼、私のおにいさん、苦手だから、また、さういふ時お前が防波

堤にならなきや、つて後で言はれるな確実に。決壊しまくりで申し訳ないですけど。でも

まあ、抵抗するより、流されるがままの方が、却つて被害は少なくなるつていふことも、

ありなわけで、彼もだいぶ抵抗したみたいですけど、結局、結論からいうと、明日、とい

ふのは今日か、に結婚式をあげることになつちやつて、やつぱりそれなら、もう、おにい

さんが明日つていつた時点で、諸々手配を始めた方が、やつぱり良かつたつてことに、な

つちやつてますよね、現実問題。現実問題つていふか、夢みたいな話ですけど。朝、すつ

ごいリアルな夢見たなあつて時、忘れないやうに、すぐ忘れちやふから、夢の内容、…… 

岡田利規(1973年~)演劇ユニット、チェルフィッチュ主宰。演劇作家、小説家。日本の現代演劇のトップランナー。『三月の5日間』で岸田國士戯曲賞受賞。若者言葉の活写、無意識な仕草の拡張、語り手の流動など独自の演劇理論を駆使し、現代口語演劇の極北に位置する。演劇活動のほか、小説も発表しており、小説初単行本『わたしたちに許された特別な時間の終わり』(新潮社)は第2回大江健三郎賞を受賞。

『走れメロス』(初出1940年『新潮』)国語の教科書に掲載され続け、その分かりやすいストーリーは様々にリメイクを生み、安定したネタとして我が国に君臨する。大学生に「過去に読んで感動した青春文学を挙げてください」と言うとおよそ三人か四人に一人は本作を挙げるそうだ(『芥川賞はなぜ村上春樹に与えられなかったか』)。まさか本当に感動したとも思えず、とりあえず挙げとけ的な、鉄板の信頼感も獲得している模様。

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コワカエN

o.6

ただいまの進捗状況(刊行目標▲

二〇一二年一一月第十五回文学フリマ!)

 小説 

大江健三郎『芽むしり仔撃ち』 

初稿

太宰治『走れメロス・女生徒』+岡田利規 

初稿

太宰治『御伽草紙』 

初稿

安部公房『砂の女』 

未入稿

G・K・チェスタトン「ブラウン神父」 

未入稿

村上春樹「鼠三部作」+あさのあつこ『N

O.6

』 

未入稿

 批評

小説パート入稿次第、批評パート開始!

コワカエについて

「コワカエ」は文芸同人雑誌です。小説と批評をセットの形で掲載しています。

面白い小説が書きたい。読みたい。どうしてその小説が面白いのか分からない。自分は誰より

もその小説を面白く読んだという自負がある……

書くことと読むことは原理的に表裏一体。その原点を、コンセプトとしています。

小説が書かれっぱなし、読まれっぱなし、という現状を打破したい。誰も気づかない、何も変

わらない。そんな世界はちょっと寂しすぎる。

飲み屋で語り合うよりは、もう一歩踏み込んで、しっかり頭を働かせて、文章でコミュニケー

ションをとる。

そういうことが面白い、離れがたいと感じる人がいるために。何より自分が楽しむために。

コワカエという場を用意しています。

本誌を読んで面白いと思われた方は、ぜひご参加ください。

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コワカエ 次号予告号 2012年5月6日発行

コワカエ 小説と批評 No.6特集―小説の二次創作

2012年11月文学フリマ於発行予定続報はブログにて!http://d.hatena.ne.jp/takatako/[email protected]

現代芸アート術

は、過去の作品・歴史的なコンテク

ストを踏まえた上で、自身をそのコンテクス

トにどのように位置づけるかということに重

点を置いた作業であると言える。

それは必然的に、過去の作品がどのように作

成されているのか、分析の作業を経ずして行

うことは出来ない。その分析作業とはつまる

ところ、どのような「技術」でもって作品が

作られているのかということを知り、それを

会得する作業となる。

小説家の円城塔は、インタビューの中で「職

業としてもの書きを名乗っている以上、三島

由紀夫にしろ村上春樹にしろ、「やってみろ」

と言われればどんな文体でもかき分けられな

ければいけないんじゃないか、と思ってしま

うんです。」と述べている。そのように述べ

る以上、三島由紀夫や村上春樹のようにかき

分けることが出来ないということであろう。

それは、なぜなのだろうか。

TV番組「なんでも鑑定団」には、骨董品や

芸術家の作品と思われる様々な物が持ち込ま

れ、その真贋が見極められる。その精度の実

際はひとまず置くとして、問題は、「鑑定士」

に依頼しないと、素人では見極めがつかない

ということにある。見事な水墨画と信じてい

た物が実は二束三文にもならないということ

がママ起こり、視聴者もそれを楽しみにする

訳だが、「鑑定士」にはその真贋を見極める

知識がある。

さらに重要なのは、鑑定士がいくら豊富な知

識を持っていても、その鑑定士では、永遠に

雪舟の水墨画を描くことはできない

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というこ

とである。これは原理的な話である。

だが、我々は文字が書ければ誰でも、村上春

樹の『1Q

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』を書くことができる。円城塔

の『道化師の蝶』だって書くことができる。

その本を開き、パソコンのワードを起動して、

一字一句間違えないように、慎重に書き写せ

ばよいのである。気の遠くなるような根気の

いる作業の果てに、できあがったものが何か

違うと思えば、本と同じように文字数と行数、

文字サイズと行間を設定して、フォントも揃

えれば、手に持っている本とまったく同じ小

説を、あなたは書いた訳である。

しかし、いうまでもなく、それは「三島由紀

夫や村上春樹」のように書いたわけではない。

造形作家の岡崎乾二郎は、著書『芸術の設

計』で、「芸術諸ジャンルの表現形式を、そ

れぞれの技術を通して見直してみる」として、

建築、音楽、ダンス、美術それぞれの製作過

程に注目することで、作品を作る「技術」が

そこにどう現れるのかを検討している。

たとえば、落語家など、技能の継承が同じ名

前を襲名することに象徴されるように、名人

芸はその技能を要素に解体し、それを教わる

ことによって伝承されることになるが、要は

要素をどう解体するかが重要なのであって解

体された要素にあるのではない。その解体し

た要素を再びどのように組みたて繋ぎ合わせ

るのかということが、秘伝であろうと述べる。

明治期の徒弟制のあった文壇であるならまだ

しも、いまの時代その秘伝をどのように受け

継ぐべきであるのか。

いくら研究書や評論を読んで知識を蓄えても、

それではなんでも鑑定団の「鑑定士」どまり

である。「技術」を会得するためには、自身

で体を動かすしかない。目の前のそれが我々

にとっての作秘伝の書品

だ。

本特集「文学の二次創作」は、各人なりの解

体と組みたて作業を通した、「技術」の会得

への試みである。作業は孤独ではない。同人

という複数人の力によって、「秘伝」は少し

だけでも、その端緒を紐解くことができるの

ではないかと思うのだ。

美術は真贋の判定が必要なほどに模倣は可能

だが、複製(雪舟の

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水墨画)を書くことは原

理的に不可能だ。文学は複製を書くことは可

能だが模倣は困難を極める。小説、批評の両

面から二次創作の実践と分析により、文学か

ら「二次創作」とは何かを少しでもクリアに

見ることができればと思う。乞うご期待!