マックス・ウェーバーとロシア(2)...マックス・ウェーバーと環シア(2/(小島...

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論 文

マックス・ウェーバーとロシア(2)

讐シアにおけるウェーバー

小 島 定

震次

i はじめに

2 ウェーバーの著鐸のPシア語数について

3 ウエーバーとロシアの講時代入

 (聾ウエーバーの窟シア革命論の反響

 (2)ボグダン・キスチャコーフスキーとウェーバー

 (3〉フ3一ドル・ステプーンとウェーバー

 (4麺シア在住の学者とウェーバー

 (5/ウェーバーの罫ルースキエ・ヴェードモスチ壁紙への公麗霧簡(欝総年

   3鷺i7!3{}暮)

逢 セルゲイ・ブルガーコフとウェーバー

 (i}罫国費経済と宗教的人擦3(獄獅

(瞬道薦譲文rヒ財ズム襟飾(i鰍似鉢誌第i蜷3号〉

5 懲2暮年代のロシアのウエーバー礒究

 (難ウェーバーの翻談とリシアの西洋吉代・中毯1隻醜劣

 (2/ペトルシェフスキーと「ブルジョア史学」褒撃の雛始

 (3〉A・陸ネウスイーヒンのウェーバー醸究(以上本号〉

6 現代置シアのウェーバー醗究の動病(以下未完/

5 欝2§年代の鷺シアのウェーバー醗究

(碁ウェーバーの翻談とロシアの醤洋古代・申量史羅究

襲にわれわれは前編でウェーバーの著鐸の置シア語訳を紹介したとき、ソヴ

 ]総i

待致社会論集 第簸巻 第1馨

エト時代の懲2馨年代の鹸半に、『都毒論露(婚23年〉俄ぎ一般経済史垂(姫23

年/懲罰古代農業事鋳叡婚25年/偶、と立て続けに3本の翻讃が鑓ていることを

確認した働。特徴的なことはまず第一に、ウェーバーの原論文の発表後非常に

畢い時期に翻訳がなされたことである。賭馨霧論蓋の原論文《勝eS綴嶺>は、

よく知られているように、はじめ湾名論諮海砂So2霞総裏ε紹郷ご観欝擢εo~裁夢。蕗

麟露δ.47,欝2§〆2iに発表され、欝22年鷺行の概略6瞬雛4磁sε傭‘瞬,

(初版〉に叡録されたのだから、その翌年の患版ということになる樹。ゼー般経

済史諺《Wl寳s蕊aξtsg総出重。雛e>に至っては、原本が刊行されたまさに隅じ

年のig23年であった。ぎ古代農業事藩露《Agr躍ver猿1盤重ssel醗Al艶r鞍懸>

の場合は、原論文は、鼠醗4欝6慈瀦蝕漉漉γ蕊翻案鍵魏ε欝罐復権艦3.A威.B6、

茎,欝欝に掲載されたものであるから、前二者とは多少事藩は異なるが、しか

しいずれにしても』これらの著作の外講話訳としてはおそらく最褥のものでは

あるまいか嚇。しかし第二に、もっと興喋深いのは、これらのウェーバーの三

書の題材がいずれも主として灘歎吉代史および中量史に灘わるものであり、し

たがってまたそのロシア語譲の責蓬編集者も西欧古代史ないし申量隻を専弱と

する歴史学者であったという点である。『都市論遜の編集者はニコライ・ガレ

ーエフ(藝甑戯譲潅雛脇欝疑鍛eeβ,185{}逓93難であむ、ゼー般経済史垂の責紐編

集者はイヴァン・グレフス(撫躍灘x擁。灘拓e鋭,欝欝一籌毒〉、 『古代農業

事構遜の編集者はドミート夢イ・モイセーヴィチ・ペトルシェフスキー

(員擁簿醸M棚£鐙総戴r琵↑費y鐵醗。灘嚢,工863霞g逢2〉である。彼らはいずれ、も疑:較

的よく蝦た経歴の涛ち主で、帝政期からすでに名を難られた硯究考であった.

,懇懇的類病から言えば霞露主義的な見解の持ち主であったが、ソヴェト政権初

期のアカデミズムの筐雰史教育を捷い、少なくとも欝20年代の前半まではその

地縫を保っていた.疑に葦令前から彼らの整史醗究のなかにウェーバーヘの関

心が生まれてお吟、それが騰年代前半期に.丘で述べたウェーバーの著難の翻訳

鷺行となってあらわれたのである.したがってソヴェト霧のロシアではウェー

バーの受容がまずもって賞シアの獲洋古代隻、中量史醗究のなかから始まった

               一一・・i(総一

マックス・ウェーバーと環シア(2/(小島 定〉

ことを確認することができる.ここでは以ぞ少し綾らの経歴を見ておくことに

しよう。

 『都市論藍の編集者、ニコライ・ガレーエフ(盤5翻欝3葺から始めよう。綾は

落器年にモスクワ大学麗史哲学部を卒業した後・パジに留学して(鰺77-78〉ク

ーランジュ(欝琶ste16εCo擁a糞奮e,i83§一i889〉のもとで学んだといわれるが、

フランス革命麟夜の農業富農浸開題を醗究した人物として知られている。露79

年に発表された披の修嫌文細蟹最後鵬継継のフラン刃こおける農疑

および農異調題逝く幽¢c翻鍵麓曝ec跳懸盤擁舞鍵難◎c齢串鐸職難B瞼£譲e雌艦

種e脇e興醒澱諺e難》はフランス農業鳳農罠史醗究のパイオニア的醗究として有名

であり、この著作によって後は、モスクワ大学を鑓点にした中盤イギ夢ス農業吏

のヴィノグラードフ(翼総鑛懸路羅醗羅B難催韓欝暮,i8騒一ig2萄、フランス農

業隻のルチツキー(幽簾Bac臨蓬鍵灘」玉響難灘麟,雄蕊一i鑓8〉、およびコヴァレフ

スキー(懸継。灘M麗。羅臆雛Ko駐継総鋸麟,鱈騒通9i鶴らと蓮ぶ、いわゆる「賞

シア歴史学派」の形成期、その「第一逡代まに位置づけられている{㌃なおガ

レーエフの著書のフランス語訳鋤も轟版されて、マルクス、エンゲルスの高い

評極を受けたこともある働、一時ワルシャワ大学で(懇79護88嚇教鞭を執った

。後、ペテルブルク大学の教授となったが(鰺鱒畦899)、麹§9年の大学紛争で大

学を追われ、その後ブロックハウス・エフロンの膏稗事典の歴蔓部霧の責任者

となってその編集に携わった。欝総年には大学に戻甑鐸年の革命までペテル

ブルクの歴史家協会の墾一ダーの一人であった.フランス農民史砺究と重んで、

25年間をかけて舞行したぎ近代西3一ロッパ虫垂(全7巻、9講本、i892{蟹7

年)《羅聯盤3罐翻ε脚轟もIB㈱e瞬羅>T.i-7溜9臨}C鷺6-i892

畦鍵7.という業績もある.後の藩究の特徴について言えば、ヴィノグラードフ、

ルチツキーらは実証的な醗究で量雰的な名声を得ることになったが、ガレーエ

フは次第に実証的な硬究よ鯵もむしろ歴史哲学の方向に繧斜していき、その繕

果は綾の博士詩文蓼歴史哲学の基本問題磨(全2巻、欝83年刊行/《0盤醗雛le

静9羅。細鱗離。磯懸蹴鱒費擁碧>,T.レ2,錘、,1883.となってあらわれた。彼の歴

               一欝7一一

行致歓会譲葉 第駐巻 第i懸

史哲学は営シアのミハイ冒フスキーらの主観主義栓会学灘を継承して、いわ

ば歴史学と縫会学との総合を泌るようなヂ類型論を舞振すものであったとい

われる(鋤。また、鼓治思想の面から見れ,ば、畿は露爵主義者であって、}%5

年i肩8-9嚢には、ロシアの流農を避けるためにヴィッテ、スヴァトポルクーミ

ールスキーと交渉する文此人の代表霧に藤わったこともある、そして、簿編年

革命競にはカデットに入党して、第一蟹会の議員の経験も持つ。その後政治か

ら身を弓昏、て学究生活に漢穆、i鍵7年欝月のボ夢シェヴィキ革命に薄しては、

これをロシア史の罫不再選的な鐵来事」として受け入れた.そして2§年代前半に

はゼフランス革命の歴喪家た鑓(全3巻、欝蟹一簿25/《鞭鴇郷獺串費躍y3c欝轟

βe蹴雛獺>,暮τ.iつ.を含めて歴史学や縫会学に関するいくつかの論文を発

表している。簸鍵代の罎愛醗究者として欝29年にソ連邦科学アカデミーの名誉

会員にも選ばれている・だが、すぐその後、縫の自由主義的歴史学者と瞬じく

懲3春年i2月には薪反マルクス主義的婆見解の落ち主として擬罪され、鴛瓢箪2

肩に急死した{勤.

 ガレーエフはこうした経歴の持ち主であったが、ウェーバー都市論へのみず

からの薩接的な幾わ滲については、破察身が「翻訳編集者の序文」のなかで、

欧のように述べている.ダ2§年薦にペテルブルク総合技徳島箏学校で私は古代

吏の講義を行なった。この講義の内容はその後『古代燈界の国家一都市葺

《F鯉y鍛餌聡。ずG脚叢濃欝欝噸翻。鞭韓>という表題で患版された.その幽暗わた

しにはこれに続いて中盤都甫、またその後に近代都市の講義もやろうという意

欲が沸いてきた。これはそれによって後に、都市生活の歴史的発展について、ま

た縫会発展の様々な段躇で都南が文化の一般的な発展に及ぼした影響について、

いくらかの一般的な社会学的結論が撰き思せるものと考えたからである.こう

した嚢識見は結局実理できない運命であったのだが、しかしそれだけに、本書

の翻談の編集を依頼されたとき、わたしはこのマックス・ウェーバーの著搾に

人一慾大きな羅心をもって撰き受けたわけである」{鶏。後の二人についても見

るように、欝轡紀末から臆轡紀初頭にロシアで藪欧古代・中毯!史の暴究が西歎、

               一鰺8一

マックス・ウエーバー歴シア(2/(ノ1艦鉛

特にドイツの最新の諸醗究を受容しながら大きく麗麗しつつあったことが窺わ

緬がにの点1翻_バーのr古代文イ搬落論〔漉s・z曲舞Gr認e§es

.號rg騨δera融e簸K磁雛,磁既腕総rstes臨量蓋eずt」896〕が・畢

くも王鰻年に、すぐ後で述べるペトルシェフスキーによって翻訳紹介されてい

ることのなかに繰ることができる〉、そうした文勲なかで・かつ歴蝉と

縫合学との総合を暖捲すような類型的方法への綾自身の志晦もあって、ウェー

バー都議論への麗心がガレーエフに芽生えたことは容易に想像することができ

る.なおig2簿代にはこの翻識とも1こ転一バー都轍に・当時継代鱒

駿家として登雛つつあったネウス仁ヒン(醸・翼eyc翻娯8鰭i嚇

が王難から取箸給んだことは、後輪で触れられるであろう。

 次に『一般経済史邊翻談の責任藻集者はイヴァン・グレフス(幽綴M照麟船一

g軽捷 F脚蟹,鰺6涯簿曇〉であった.披は露83年にペテルブルク大学麗愛哲学部を

卒業し、醐舌触、とくにビザンチン鋤嫁であるヴァシー婆エフスキー

 総目£擁護鼓舞珍鐘罫G脚e盤雛8ac鍼疑BC麟,1838緩899〉に学んだが、学生鋳代には解体

期の匿大疑の意志」諏の学生サークルに森羅した経験を持つ・その後難潅主義

に転換して解敏轟墾の機§§誌『オスヴォボジヂェーニエ(解放雄の編集にも関

与し、一i鰯韓輔雛カデッ騰貴であり、転一バ略そ伽シア論錬

かで瀕した融職業麟罫サユーズ母ユーゾフ儲礁齢〉」鍬その形

 威期の羅体の一つであるf学者疑銀三絃鍼鎌鍛袈K麟。㈹3の麟立者の一人でも

あっだ蟻.学凝して磯駄つい謡憲、i8難からペテノレブノレ妖学

 の中盤史講座の私講編とな陰、欝弱年に主著となるゼローマ土地翫有史機議

 (特に帝露時代の濃《磁8β総総麗羅灘鑓偲耀。齢鐙鍬難紹羅磁縦∫斌切臓蝦綴群

じ纏8ε鐸冠。6θ6凪響_卿麟>T、i,i899.を発表している・醗3年から綱大

 学の疋教授になった。彼もまたガレーエフと閥じくペテルブルク歴喪家鶉会の

麟史ゼミナーノレ錦醐な勒であった.綾の古脚継蜥究の特徴は・

 文化や露営生活、道徳や心猿など多様なファクターを強調するもので、文紀史

 あるいは社会史と呼びうるものであった。葺年革命後は懲23年までペテルブル

                一逓紛一

行政社会譲葉 第叢巻 第i号

ク大学で教塘に立ったが、民俗学(緯8εB嬢ε難e〉の緩織者としても活聾した。彼

もまた欝3()年に一時逮捕された経験を持つ。

 なお、後はウェーバーと密接な交流のあったキチャコーフスキーとも親しか

ったようで、キチャコーフスキーがi齢8年にドラホマーノフの政治論集をロシ

ア圏内でも鷺行ずる事業を始めたとき櫛1その巽講編集巻に名を連ねている偲1

ドラホマーノフは、前編でものべたように、ウェーバーが鞍シアの疑族問題に

麗達して非常に注暑していた人物であり、綾の著俸集の羅内趨蔽にグレフスが

関与していたことは、それ・はそれで興味深い事実であるが、さらにウェーバー

との§§連について害えぱ、キスチャコーフスキーが、これも羨稿で触れた欝総

年5月6曇付のウェーバーへの手紙のなかで、グレフスが上記のローマ土地新

春史の自著をウェーバーに送ると約束してくれたことを伝えている(資したが

って、ウェーバーの方も、その程度はともかくとしてグレフスのことはよく知

っていた略1とはいえ、グレフスが実蝶にどのような経緯で  原本の鐵版と

講じ年に!  ウェーバーの郵一般経済史雌の翻訳に閥与したのかは今の藤わ

れわれ、には詳しくは分からないが、ウェーバーの作品は通常の意瞭での狭い経

済史ではなく、古代から牛糞そして近代に及ぶその鶴野の広さとともに文化的

心蓬的ファクターと経済璽象との鑓違を特に重複したものであったわけだから、

羅じく文化史的な手法をとるグレフスの§§心を引いたことは容易1こ推離するこ

とができる。

 (2/ペトルシェフスキーと「ブルジ貰ア史学」攻撃の麗始

 ガレーエフおよびグレフスに競べて,『吉代襲業事構壌の騙葉者、ドミート

サィ・モイセーヴィチ・ペトルシェフスキー(β難鐙醗擁G鍵ee琶継9e玲y総総蟹麟,

18§3級g42〉はロシアの史学史のなかでもより重要な位置を占める人勃である。

一2§年代末に罎版された彼の一つの著書がきっかけになってFブルジョワ史学」

攻撃が大々的に麗始されることになったという事実があるからである.それの

みならず、われわれのテーマに窯らしてみても、彼の鍾置ははるかに重要であ

                一i憩

マックス・ウェーバーとロシア鱒(墨轟 定〉

る。というのは、破のその著書が一華ッケルトやドプシュと謹んで一一歴史

学の方法論としてウェーバーの曖念型論に高い評優を与えてお甑まさに

そのことが理霞とされて薮がマルクス主義史学の綴からのイデオ霞ギー攻撃の

的になったという事情があるからである。われわれは.ここで、すなわちスタ

ー!フン体調下のソヴェト・マルクス主義史学の確立難にゴブルジ望ア史学3

攻撃の一議点としてrウェーバー教鞭≦があったという事実に遊遇するわけで

ある.そしてさらに付け換えていえば、披は2§年代に貴重なウェーバー醗究を

残したネウスィーヒンの直接の麟でもあった・その意練では・べトルシェフス

キーは帝政期からソヴェト擬へと賞シアのウェーバー購究を橋濃しした大効で

あったということができるかもしれ、ない.

 チェル二一ゴフ桑生まれのべトルシェフスキーは、鰺86年にキエフ大学歴史

哲学部を卒業したが、鞍のキエフ時代の舗が、「ロシア歴史学派まの第…重代

に耀づ畜携れ、フランス革輔膿無上鰯題の古鋤鱗究で我が瞭

もよく嬲れているルチツ野(惣鍵8a幡鰹講y蝋離・i8嬢鰍であっ

だ樹。ルチツキーの搭導の下、籔の勧めでペトルシェフスキーは大学に残っ

てヨー賞ッパ中量更の醗究者としての道を歩むことになった。その後、モスク

ワ、ワルシャワ(玉髄2-i鱒5〉、ペテルブルクの各大学で勤務した後ほ鱒6年に

モスクワ大学の盤舞受講鰹の教授となった。!鍵i年に政癖文藻賓の大学嚢治擁

圧に銃議して多くの教授とともに辞錘したが、轡算年に大学に渓つた。ボ婆シ

ェヴィキ革命後も、鞍はモスクワ大学の歴史学講座の搭導的な教授であって、

1§璽年に購大学の爾究者養成部懇を母体にして発足した罫ロシア社会科学調査

醸究戸纏創(夢Gcc縮a貸Acc畷聾a照臨y闇魯耀㈹脅躍e茄。難x臨欝y瀧

晦ecτ醤駐軽難難妻叉縫装翼,通解A鋤0髄歴蝿究醜の蕨であった(i鱒年ま

で/償乙この醗究瞬には革命前からの裳韻主義的教授たちが螺集し、それにマ

ルクス主義者も撫わ箏、2§年代のソヴェト史学形成簸における一つの中心を成

していた.そして、ここから新健代の最良の学閥的な専穆婿究者が育っていっ

たのである。1 サの多くはすでに麟たちの見解とは異なり・史的曝物論の立雛

               一i董蓬一

行激徒会論集 第難巻 第!号

を敵るに至っていたが,ネウスィーヒンとともに、われわれのよく難っている

イギ夢ス申量農業更家コスミンスキーもまたペトルシェフスキーに教えを受け

た一人であった。しかし、ig28年末を転機にペトルシェフスキーは激しい「ブ

ルジョア史学撹判婆にさらされ、29年に科学アカデミー会員に興せられはした

が、事実上その醗究者生命を絶たれた.

 さて、ざっとこうした経歴を持つべトルシェフスキーであるが、綾の雛究者

としての地位は、なんといっても経紀転換点に発表されたぎワットタイラーの

蔑遜(全2巻.鰺97護9艇)<飾鐙灘eきF馨総懸錘総聾>,蔓.iぞ,C臨.一M.,露97

逓g襲.によって露まった〔鋳.これまでの大方の評簸では、綾はイギ肇ス中量

農業史醗究の分野におけるヴィノグラードフのダ継承者」(A麟・ダ二一臓フ〉{惣、

あるいは「ヴィノグラードフ学識の最大の代表者」(勢A・コスミンスキー/醐

とされている。コスミンスキーの整理に縫えば、ヴィノグラードフ、ルチツキー

らに次ぐ腰シア歴史学派3の罫第二重代達の代表者の一人ということになる(鋤.

 鞍は欝襲年以来欝欝年までは、毎年のように西欧を訪れて{鰍イギ夢スの資

料館で実証的な資料醗究をつみ重ねるとともに、縫方では、きわめて熱心に懇

欧における古代・申量史醗究の新しい学説の籔鞭に努めた。このことも媛の醗

究スタイルの特徴の一つであった。われわれのテーマに麗わる文鎌からいって

も、慶に欝蟹年の時点でウェーバーのf古代文化没落論ま(原論文は欝96年発

表)の1翻訳編集を行なったという事実は特筆すべき事構である{2餐破がこのウ

ェーバー論文からいかなる具体的な簡題を読みとったかという点については、

今のわれわれには詳しくは分からないが,ちょうどその覆被はイギ夢ス中量史

醗究とともに広く醤3一ロッパの封建麟の起源の翼題に縫心を広げていったこ

とが明らかになっているので(この問題を撮った準率鍵の社会と露家の歴史概

要遜がi鱒7年に崖版されている(筑/、そうした醗心から西欧の古代史論争を知

り、この論争にかかわりをもつウェーバー論文の翻訳を思い立ったであろうこ

とは容易に想像がつく{劉。こうしたヨーロッパ封建麟のゲネシスヘの関心か

ら、さらにまた稜を強く捉えていた歴史学の方法論的開題への強い関心‘蜘か

               一慧2一

マックス・ウェーバーとロシア(2/(小農 定/

ら、ぎ緩家学事典垂に掲載されたウェーバーのぎ古代農業事精嚢(第二蔽/(懲縛

年暮l/にも彼の§が向いていったことは、われわれにも充分理解しうる事構で

ある・そして破が責蕪纒葉者となったこの二つ馨のウェーバーの著作の翻訳が

簿器年の時点で繊版されたということは、ソヴェト時代の補期の歴隻学界と警

わけ西洋中盤史講究の分野でのべトルシェフスキーの権威が鱗き続き高かった

ことを証隣するものであろう.

 新盤代の中盤史家、漸鞍ダ二一茸フがかつて捲摘した辮によれば、1欝5年

革命の破綻以後ペトルシェフスキーは深い学縫上の「危機まを体験するが

ダニーβフは、これをヴィノグラードフ以来のロシア歴史学誠意古典的なヂブ

ルジョア歴隻学」の麓機の現われだとみていた  、そこからの活驚を、霰は

新カント濠、特に賛ッケルトの認識論とウェーバーの歴史歓会学、とむわけ

曖念型ま講に  この遅論凝念は歴史学と歓会学との総合を果たすものと、

ペトルシェフスキー一には考えられていた ・そしてまた、中糧史の古典的蓬

論に講ずるきびしい擬戦者として登場したアルフォンス・ドプシュ(Al麺盤

Doβs蕊,鰺68緩§53/の新学説とに求めることになったという(鋤。

 ペトルシェフスキーはソヴェト鋳代にも、露分はマルクス主義者ではなく、

ウェーバーとドプシュの継承者であると公言し、終生その志操を守ったといわ

れている(靴しかし、雄鐙年代の中頃までは学問上のことであれば、そうした

発言もそれほど咎められることなく許された麟、欝28年になって桂会的な雰醗

気が一変した。ポクロフスキーを中心とするマルクス主義学派が、猛然と罫ブ

ルジョア史学」を幾判ずるイデオαギー攻撃を開始したからである穫これは、

広く社会的な文麗から見れ,ば、懲28年3月のいわゆる罫シャフティ事件」を契

機にして始まったいわゆる郵ブルジョア専門家」攻撃の一環と見ることもでき

る.歴史学の分野で最初の標的になったのが、ちょうどその年に粥行されたべ

トノレシェフスキーの著書ぎ中毯1ヨー覆ッパの経済史観護雲(ig28年〉《0惚〃κ麓

欝3κ{}紐、縦結蟹罐麗麗卿鑓‘脚δ窪8紹κ08罐ε鋼。襯>M.,欝28.であった。

とくにその序文野饗代歴史学の譲選約諾問題∫がや管玉に挙げられた。欝28年

               一銭3一

行致縫会隷集 第難巻 第正号

3薄3嬢と4月6購こマルクス主義歴史家協会後会学セクシ望ンで、ペトルシ

ェフスキーの著書をめぐる擾判討論会が開かれ、綾の著書は「ソ連における庚

マルクス主義的雑史学派のマニフェス粒であると弾劾されだ鋤。その場で

大きく取り上げられた論点の一つが、  婆ッケルトの文化科学の方法と自然

科学の方法の二分鑑論(麺性化的方法と普遍化的方法/の鰻界を克服しようとし

た  ウェーバーの罐念型墜概念の問題であった.ペトルシェフスキーはウ

ェーバーの罎念型」概念を歴史学の方法蒲として積極的に謬織して、これを

中量史醗究に生かすべきことを主張していたからであった。

 われわれ.はここで取り上げられた問題の著書を見ることができないが、講じ

!928年にドイツ語で発表された破の…論文「中星羅譲受および経済史の論争隠

題」{脇から、当時の彼の見解のおおよそのところはっかむことができる。この

譲文では、従来中量経済の基本纏織をもっぱら鱗役労働に基づく領主講に求め

てきた古典的な荘聚運讒臣ro懸盤。ず一丁鼓eo藍e,鋳↑脳獺雛鷲嬢難/や、中童経済

の特徴を  近代の軒貨幣経済」に薄置された一夢現物経済達の基本カテゴ

ジーで説隣してきたビュヒャー流の選論に薄して、器量紀誘頭から現れたベロ

ウ、ドプシュらの新しい中髭史醗究の提越した諸論点を積極的に取り上げ、ま

たロシアではヴィノグラードフに代表さ齧るこうした古典的な中童経済像から

挟則すべきであると主張している。こうした文賑のなかで,とくに.古代都市

と中徴都濃の発展およびrその多様な諸形態と諸特盤i茎とを明快に捲いたもの

としてウェーバーの『都南論薄と『古代農業事構垂の意義にも言及している。さ

らに、ドプシュの「荘露資本主義ま(《gr識δ短rrs磁a實ll磁erK鋤ltalls艶総》〉

という講話にも「一定の妥当性窪があると語ったり、あるいは縫えば吉代朱鞘

のローマ帝羅をr躍家続会主義∫とか、あるいはシーザーの見た古ゲルマン諸部

族の釈態をr一種の戦時共産主義謹とかいった馬語でその縫会講度を特徴づけ

ることができるというような主張を展翻している。そして社会経済史学に煽っ

た従来の発展段繕譲約諾凝念の見直し、鱗えば「封建鵠、「都議経済」、「資本

主義∫などの一般凝念の昆遠しや諸凝念の歓会学的精緻化の必要性を述べて、

               一i懲一

マックス・ウェーバーとロシア②(小島 定)

縫会経済史醗究と演舞史的あるいは政治史的藩究との結合、それによる歴史学

の総合化を主張している{戦この文賑でまた、頃体的で翻姓的なるものを麺

握するために必要な、その論理的姓賂からいって、最終的にはユートピア的な

[非実在的なという意瞭での  筆者ユ一般概念」として、ウェーバーの曖念

型3概念の特籔についても言及している(鍬.ウェーバーの瞳念盤概念を

具体的な歴史学の分析方法にも生かして、中量桂会の一般蓬論を購棄しようと

する後の志晦がこ二の論文からも窺うことができる。

 こうした被の総会的な中童実像購築への志戴こ、ウェーバーの結{膿業事

幡蓋が少なからざる援護を与えるものであったことは聞違いないであろう。だ

が、ここで養われた法鰯史的なr封建融概念、あるいは「馨家縫会主義ま

(これらの稀語をウェーバーも『古代農業事欝遜のなかで綾絹している/や

r戦時共産主義墜と奮った罵語の吉代・中盤史への欝密な遠稽が、著しくイデ

オロギー的であった当時の「ブルジョア歴史学獄肇1穿の雰饗気のなかでは、政

治的な「反ソヴェト的なま言辞だとしてや吟玉に挙げられることもまた確実で

あった.

 ウェーバーの「理念型ま凝念はそもそも、特定の文化的簸値観点から繋象の

特権をク夢テイカルに瞬き思す、その鰻蓼で主観的に権威された観念であって、

その意瞭で「ユートピア的機念達だといわれるが、それはまた当時の隻的嵯勅

諭の騰遍的な法貨彗」概念への撹判を強く意識して作られたものでもあったた

めに(ペトルシェフスキーはr方法論的自然主義まという言葉で史的艦物論幾

覇を含意させていた〉、この時幾にマルクス主義史学の確立を急いだポク貸フ

スキー学派によって、ウェーバーの蓬譲が場代の反マルクス主義的な「反動的

還論の代表として取鯵上げられたのである‘蹴しかし、われわれの観点から

みれば、この討論会のなかで、コスミンスキー(欝86一欝5勢と若いネウスィー

ヒン(欝98一婚69/の二人だけがペトルシェフスキーを擁護する発言を行なった

ことが注目を携く(璽ちなみに綾らはともに、みずからの学問の方法譲として

史的甦勅諭の立場にたつことを表翳していた煎終生葬党員であることを通し

一1i5一

行政縫会議集 第鮭巻 第i号

た人たちであった。コスミンスキーは、その討論のなかで、縛:文」よ蓼も著

作の本体である綾の具体的な歴隻分新の部分に蔭を請けて、討論会の参撫者に

歴史家として資麟に基づいて議論をするようよびかけた。彼はペトルシェフス

キーの古ゲルマン時代の原始経済の蓬解、瞬建鵜の凝念・そしてドプシュ

を継承したr荘露姿本主義匪の緩念を取り上げて、ペトルシェフスキーの方法

譲とそれらの観念がf非マルクス主義的である」ことは確かだが、破の著書全

体は決してr反マルクス主義的ではないまという形で主鞍告に反論した。そし

て会場の零露気に航して、コスミンスキーは「本書はわれわれが共有できない

ような、マルクス主義とまったく無縁な観、転がら書かれたものではない.この

本は膨大な資料、膨大な新事実、そしてこれまで歴史学にもたらされた多くの

新しい醗究を取鞍入れて鐵来上がった本である。そこには中量史学のあらゆる

基本的諸概念が練参上げられてお警、しかもそれは葬常に簡単にマルクス主義

の罵語への翻譲を可籠にする観点からなされているのだ∫と締めくくっだ搬

コスミンスキーの発言からは、あくまで実証的な資料麟究を重複する彼の姿勢

がよく窺えるように、患うが、また、疑に当時一定の年齢に達していたこともあ

ってか(披は綴織で欝罫年の革命を違えていた/、破の発露は全体として論鋒

で擁凝の効いたもの   と、われわれ,に1は感じられるのだ潜一一であった{4艶

瞬時にここでは、綾はこの場でウェーバーの名前をまったく舞にしていないと

いうことにも留意しておきたい.

 もう一一人の擁i護者、ネウスィーヒンはコスミンスキーよ箏…蔭参著く (後は

この鱒30歳前、革命時はig歳〉、また当時アスピラントであ参、PA雛{()魏の歴

史醗究湧でペトルシェフスキーから直々に中量史の薫晦を受けた愛弟子であっ

た。彼はやや感精的になって、満場のペトルシェフスキー非難の調子に統議し

て次のように逮べた。ギこの場で夢ッケルトが開題になるときには、稜と結び

つくものはすべてまるで悪魔のごときものとして毅われる。縫方マルクスに襲

来するものなら、そのことだけですべてよしと養われる。それがよいものだか

らではなく、マルクスに憲来するからだというわけだ(船ヨと.そして、それに

               一ii6一

マックス・ウェーバーと麗シア麟(小島 定)

続1ナて、われわれがいやしくも歴史家であるならば・たとえそれ溺マルクスの

ものであっても罫ドイツ・イデオロギー遥のなかにではなく、タキトゥヌのな

かに、罫ゲルマン諸部族に其属体が存在したかどうかという問題に関する資料

を探すであろ髭と述べた。歴史学における実証的精神の追究というコスミン

スキーの発言の趣旨と本質的には講じことを言おうとしているのだが、しかし

ネウスィーヒンのこうした授爵っぽい発言  しかし発言の内容そのものは学

問的な姿勢からすればまことに真っ裏なことなのであったが一は、会場を支

湿した雰囲気のなかでは、罫戦翻的縷物論煮たち」一と概覇者たちは自称し

ていた一の怒りを増纒する結果しかもたらさなかった。軒マルクス主義でな

いものは科学的さはないまというのがこの討議会を支湿した雰翼気であ甑そ

の到達した結論だったからである。この討論会以後、ネウスィーヒンは、コス

ミンスキーとは異なって、長い不遇の時期を遍ごさねばならなかった峨乞

 ネウスィーヒンもまたペトルシェフスキーの著{乍は罫葬マルクス主義的まで

はあるが、ギ反マルクス主義重ではないといって露分の麟を擁護したが、この

討論のなかでコスミンスキーとは違って、ウェーバーのr理念勤についても

言及した.それは疑に緩なりの一定のウェーバー醗究をその背後にもっていた

からであった。彼がウェーバーの罎念型葺概念について遠べたことは、それ

はたしかに評葬マルクス主義的機念」ではあるが、史的唯勅諭の「法則ま観念

に取って代わるものではなく、あくまで具体的な歴史分析をすすめていく上で

の「歴史認識の道具三であるにすぎない(つま拳 「反マルクス主義まではない)

ということであった.しかし、さらにそのうえで披は、ウェーバーの諸凝念は

マルクス主義のタームで奮う幾台蛋とrあ灘構造3とのr櫓豊作融の運解

を糖綴化するのに有絹なものであって、いわばマルクス主義の歴史学的方法譲

を補完する役割を果たすものだ、と逮べた鴎1これがソヴェトのマルクス主義

愛学の確立期の中選史家、ネウスィーヒンのペトルシェフスキー擁護論であ疹

購時にウェーバー論の基調でもあった。以下ネウスィーヒンのウェーバー論に

立ち入って検討してみよう。

                一最7一

行政社会譲葉 第餐巻 第董号

 (3)A贋・ネウスィーヒンのウェーバー硬究

 アレクサンドル・ヨーシフォヴィチ・ネウスィーヒン(A鍵総癬鋤論C紬0諺難

鞭y轍x難,露§魯欝69〉は灘舞革命後に串量望醗究の遵に入った縫代であり、懲

2i年にモスクワ大学歴史哲学部を卒業してから身A蕪猟蜜歴史醗究所の大学続

生として、ペトルシェフスキーの指導のもとで学んだ直鵡子であった。薮嚢身

はその麟とは異な鯵、史的曜物論の見地に立つことを表萌したが(あるいはこ

の重代の醗究者としては、それ以外に道はなかったのかもしれないが〉、しか

し締への学襲的尊敬の態度を懸げなかったために、ig28年のペトルシェフスキ

一投甥以後一誓戦時の糧薄的に嚢露な葺一時期を除いて  聯究成果の発表

を許されず、基本的には簿憩年代の末まで、薪ペトルシェフスキー学派の惨め

な代表者」というレッテルを難られっづけた学者であった(鞠。

 破の専野饗は欝2§年の修士論文新古ゲルマンの能会体麟」、欝鶉年の博士論文

茸古ゲルマンの諸部族法典における癬有と霞鑓という表題からも窺えるよう

に、吉ゲルマンの業鰯俸の羅究とドイツ封建農罠の成立遍程の醗究であった。

主著として  久しく発表の機会が得られなかったが一ζ6量紀一8盤紀西

ヨーPッパにおける窃蟻串選縫会の欝級としての隷属農民の発症垂(懇懇年〉

(《B纒翻翻e醸e3鐡。聾繍。曜。τ磯囎雄a麗護呂cc呂躍紬㏄灘灘脚○髄ec霧a

B33磁灘麟ε勢鰭e擁一蟹B翫>擁.,嬉56.〉と郵8量紀一鴛量紀のドイツに

おける嚢霞農浸の運命墓(ig騒年〉(《Cy齢6ac慧06鰭臨O聯eCTも簸CT鍵駐

Fe郷麗螺9羅1-X簸認,>盈重.,i蟹漣./という著書がある。ネウスィーヒンは、

ドイツの、時代としては8縫紀一H糧紀の封建縫会成立娚を醗究婦象としてい

たが、ゲルマン諸認族の法典の資料懸究を基にして、ゲルマン共購体の富撚な

一と磨と大封建籟主との中開に位置する「小搬襲領地まの広籔な存在に浅馨した

ことで知られている鴎),これはコスミンスキーが欝毯:紀のイギ墾ス農村の醗

究で、教会鎮や大荘露の外に広範に存在した小領主経営に着饗してイギジス中

盤望粥究に購期的な成果をもたらしたことと黙応ずるものがある(コスミンス

               一筋8一

マックス・ウェーバーとロシア/2/(小鶴 定/

キーの場合は繋建議の発達した段踏におけるそれであったが〉。我が国でもか

つて、マルクスの共羅体論への関心からソヴェト中猛史学にお1ナるドイツ初期

封建歓会の代表的な醗究として彼のいくつかの譲文が翻訳紹介されたこともあ

る幽}。

 披は欝2(1年代に、そのいわば学闘的修練の時代に、ビュヒャrゾムバルト、

シュペングラーを始めとする当時の薩敏の歴史学の勝産をソヴェト・買シアの

学界に紹介するいくつかの書評を書いたが、そのなかの一人にウェーバーが入

っていたわけである/糀瞬らかに綾は歴史学の方法論という幾懸絶心からウェ

_ノミ_の歓会学に接透した.綾がウーバーについて繭から取り欝た論文

として、われわれは①「マックス・ウェーバーの都毒の縫会学的藩究達(欝23〉、

⑨曝系的経済墾構築の新たな試み」(欝24)、⑨ヂマックス・ウェーバーの

『経験社会学垂と歴史学の論遅ま(懲27/の三本の論文を知っている{轍。[以下

これらの譲文から弓漏する時、それぞれの論文に蛋号を付しページ数のみを証す・た

だし③の譲文は当該雑誌の二つの号にまたがって掲載されたので・論文の番号とペー

ジ疑の隊号数を大縞こ旅する.隠らに窺灘雄行された最初の「ソ

ヴ鋪大酬鞍叙第噸〉第蜷蕨のr転一バーゆ顧搬の手になるものであっだ醗前編でも指摘したよう1ご磯①と③の論文潜最近・シアで

鷺行されたウェーバー著葎集にその付録として叡録されたことに見られるよう

に、破のウェーバー醗究は今蓉ではソヴェト時代の先駆的な醗究であ鰍ロシ

アに「土着的な」ウェーバー醗究であったとみなされている難乙

 まずネウスィーヒンが鰐象として取瞬上げた素材の麟から言えば・①の論文

では『経済と歓会選翫叡の罫都毒論選であ鯵、⑨ではぎ一般経済史垂であり、

⑤では『宗教歓会学論集垂の「量界宗教の経済倫理匪の「序論罫序論善「中間

考察接げ・テスタンティズムの倫理膿本主義の精掬遊びに鰹済と

縫会丞のぎ都藩論露が扱われている。その飽にも髄霰で『学問論集垂の「客観

惣論文や「文化秘学の論運学の顧域における擬覇的醗発からも多くの携欝

がなされている.猪巽南論遜やぎ一般経済史藷など古代・中童史関連のものが

                一難g一

行致緩会誌集 第簸巻 第i号

主要な繋象となっていることから見て、ネウスィーヒンのウェーバーヘの関心

潜ペトルシェフスキーの影響の下で膏まれたことは疑いのない駈であるが、

『宗教社会学譲集遜やゼ学鷺論集遜ζ経済と縫会遜にも深く立ち入ってお蓼(ま

た『経済と鮭会丞のζ理解社会学」の方法とその諸カテゴ夢心にも書及してい

る)、ペトルシェフスキーと箆べても擁野が大きく拡大していることは瞬らか

である。それだけではなく分断それ爵鉢も格段に綿密なものとなっている.し

かし、それと潟時にウェーバー解萩の点で、ネウスィーヒンの醗究はペトルシ

ェフスキーのそれとは大きく異なっているところがあることも欝摘しておかな

ければならない.それは亨ッケルトとウェーバーとの関係、それと密接にかか

わるウェーバーとマルクスとの関連をどう縫えるかという縫題に纏わる。この

点を意識しながらネウスィーヒンの議譲を追ってみよう.この主張は三論文を

通じて変わらな》・が、分量も多くまとまった議論を展饑しているのは⑤の論文

である.したがってわれわれもこの譲文を中心に見ていくことにする。

 ペトルシェフスキーの場合は、ウェーバーがヴィンデルバント、夢ッケルト

らの新カント主義のr文化科学」と縷然科学」との二分化の方法論を、その

具体的な歴史暴発において基本的には継承発展させたものと見る傾向が強かっ

たのに薄して、ネウスィーヒンの場合は、ウェーバーが新カント諏の認識識哲

学のなかで青ってきたことは聡違いないとしても、歴史事象を扱う其体的な分

桁に進む段になると、ウェーバーの方法溺夢ッケルトから「隣れる」ところが

あること、しかもその際このジッケルトからの離反を促したのが実はマルクス

の史的曝物論であったこと、この二つの点を強調する.ここにネウスィーヒン

のウェーバー論の最大の特徴があるといってよい。鰍えば破は次のように運べ

ている。穆ッケルトの論遷学がウェーバーの純論蓬学的醗究にとって基本的

な導きの糸となったこと、またその影響を示す響きがときには破の具体的歴史

醗究の中でも露こえてくる。しかし、ウェーバーが多様な諸理象、ときには遠

くかけ離れた諸饗象や歓会盈活の諸綴葱の闘の諸雛連を確定しようとする方晦

に進めば進むほど,また鍍の歴史学的一纏会学的蘇究の籔霧が広がれば広がる

               一i2§一

マックス・ウェーバーとロシア鱒(小島 定〉

ほど、ジッケルトの論理学という導きの糸はますます撚むあげられて聡くなり.

歴史家ウェーバーの羅究の道は複雑で麟が瞬くねったカーブをたどることにな

った。実際に綾はますます夢ッケルトから離れていった・そして霰の凝大な歴

史鮭会学的な総捲約諾譲文では、婆ッケルトおよび新カント灘全体とは嬉立す

るまったく幾の哲学、馨懇の影響が感じられる.それは史的曜動議(精確に言え

ば、その麟始者マルクス〉の影響であった。雄 (⑤藻9,iiの

 ネウスィーヒンがf歴史縫会学的な総揺譲文ゴといって取り上げたのはぜプ

躍総藻と置都毒論陣であった。彼はその基本的な内容を櫨当諄しく一われわ

れの震からみても一一かな滲精確に紹介した後で、方法論の閣題に立ち入鰍

婆ッケルトとウェーバー、ウェーバーとマルクスの関係について馨らの見解を

逮べる.腿題の中心は言うまでもなくウェーバーの曖念型葺の理解にある。

ただその場合、留意しておかなけれ,ぱならない点は・ネウスィーヒンはウェー

バーのr蓬念型三論をその認識論レヴェルないし捨象的な論蓬学レヴェルにお

いてではなく(泌  この鬱葱ではウェーバーがマルクスとは異質であること

はネウスィーヒンにおいても§醗のことであったが一一、霰の表現で誓えぱ、

r歴史学的一社会学的分析の方法として押さえている、ということである(飛

その意練をもう少し詳しく言えばこうである。舞えば、プロテスタンティズム

の宗教総理と資本主義の精神との密接な関連を分析したζプロ総垂論文は、薩

ヨーロッパの逓代資本主義の発生遜程のr鰻牲的な獲露勤を見事に分新した

ものであるが  r欝性的で独自な事象達を穀象として分析するのがさしあた

答歴史学の轟有の課題であるとネウスィーヒンも考えている一一、それにとど

まらず、その分桁にウェーバーが種麹の[蓮念璽」凝念を健駕したことによっ

て、疑時に経済総遅と宗教総理との関連の「一般的な購造を解饒する」もの

(これをネウスィーヒンは当時の罵語でr縫会学達の課題であると考えている〉

に繍っているということである.ここでは、ネウスィーヒンによ編ま・「墾

ッケルトによって麺姓的なるものと普遍的なるものとの潤紅控ち立てられたき

びしい壁がウェーバーの手によって取り払われている」(⑧漫歌鴛7〉。さら

                一i2董一

行政歓会譲葉 第韮誉 第正号

に「歴史的鰭体性連なるものの解釈においても、ウェーバーは夢ッケルトとは

異なっているという。夢ッケルトは繋象への認識主体のF懸鎮関係まによって

歴史認識に「本質的なもの」と「非本質的なもの」とを薮鷲して、麟者を鐵来

事の壽一騒携嵯とr独自性まとを内容とする罫絶繋的餐愛機念」と縫え、後者

をr多様姓のなかの統一姓∫を内容とするr椿講的歴史概念逢ととらえたが、

ウェーバーの場合はr歴史的翻体性まをr文化的意義の観点から概念上一っの

全体として統一した歴史的現実の諸連麗の複合体∫と定義する(殊その場合後

が言うのはジッケルトのいう懸者の擾念ではなく、リッケルトがζ集合機念j

Ko恥嚢t主輪曙で燈と縛んだ後者の概念にあたるものである。ウェーバーの言う

「歴史的醸捧姓」とは決して鑓来事の薪一懇牲まを奉質的内容とするサッケル

トのいう(麗対的歴史概念∫としての〉f歴斐的鱈捧惣ではない、したがっ,

て、ネウスィーヒンによれば、ウェーバーのr建念型重鍵綴tyβs緩念は、歴

隻!における「鶴蘂盤的なるもの」、「独嚢性」を麺握しつつ、岡持に「独麩姓のな

かに繰箏返して起こるもの、鰻性的なるもののなかにある普遍的なるものの発

動をも課題とするr歴史認識の道具諜なのである。〈Ty舞S〉という表現に

は「繰蓉返し起こること」が、また〈廻e3葺という表現1こは「具体的には存

在しないが、論遷的に優位する特徴達という意殊が蕾まれている、というので

ある(⑧藻i2,i26〉、まさに歴史分新の罵麹としての瞳念型」の機念は、

ネウスィーヒンによれ,ば、ウェーバーが「純粋遷論の面ではヨジッケルトから

患発しながら夢ッケルトから誓離反ゴする、その局懸を示すものであった。

 このウェーバーの夢ッケルトからの「離反∫という点に驚達して、ウェーバ

ーの運念型論についてもっとも早い縛簸にまとまった分衝を行なったフォン・

シェルティンク(A艶x騰δer vo欝S蕊e董t塗蔚の譲文{論にネウスィーヒンがいち

早く言及していることも興蕨深い事実である.ネウスィーヒンによれば、シェ

ルティンクはウェーバーが歴史的懸盤並の握握を課題として、まずは肇ッケ

ルトの認識譲の立場にたとうとしながら曖念型f論の観念形成にあたっては、

その概念のなかに一r普遍的な機念3、その意陳では葬繰滲返し起こること」を

               一i22一

マックス・ウェーバーと冒シア/2/(小揚 定〉

潜蓼込ませたという点で、ウェーバーは首尾…貫姓に欠けていると幾利してい

る。だが、まさにシエルティンクの害うウェーバーの「矛薦」あるいは婆ッケ

ルトからr外れるところ葺、そこにこそウェーバーの鬱念型譲の本頷がある、

というのがネウスィーヒンの強調したセ億なのである。後明か視れば逆

にシェルティンクはジッケルトにウェーバーを兎ごと透づけてしまう譲歩を麗

しているということになる麟!

 纏論理学的な記遠から離れて具棒的な麗隻を繋象とした鮭会学的な分構に移

ると、ウェーバーは夢ッケルトから離れて今度はマルクスの史的鑑勅諭にr接

近する∫というのが、破の主張の今一つのポイントであるぼプロ倫垂(これは

ぜ都毒譲蓋(騎と壷んで、ネウスィーヒンによれ’ば.ウェーバーのr歴史桂会学

的分勧の代表的な編であるのを読むと一と繍・てネウス女ヒンは

言う  、「あまりその輪郭ははっきりしていないが、ウェーバーを§に見え

ない影で導いているある有名な、思想家のシルエットか常にわれわれの知的な複

線の前に浮き上がって見えてくる.それは紛れもなくマルクスのシルエットで

ある∫(③M i2,i登、〉.蓼プ讐纐の主題は爾欧の透代資本主義のゲネシス

の問題であ蓉、近代資本主義の歴史的に独自な経済購造の開題であったが、こ

れは瞬らかにマノレクスに海来するものであるとネウスィーヒンは主張し始める。

ただマルクスがその原蓄論で資本主義の客観的前提の問題を扱ったのに請して、

ウェーバーはその主観的前提の幾題、資本主義の「精神」の形成とその思想構

造を解窮しようとしたという違いはあるが、しかし一方ではウェーバー露身が

みずからのアプローチが開題の一面だけを意識的に取韓上げたものだというこ

とを充分認識していたし{璽縫方マルクスもまたプ賞テスタンティズムの宗教

総聯縢本の発生に果たした役翻こついて、陵本謝第捲鴫品の物神姓

とその秘密まの章をはじめ随所で触れているとして・ウェーバーの叙遠に蝦応

ずる諸論点をそれぞれ蓼資本論垂の叙這から継かく拾い離している・更に・舞

えばウェーバーのいう罫禁欲主義“ご繋応ずるのはマルクスではr生産的溝費ま

のカテゴ賛一であるとか、あるいはウェーバーのいうビュー夢タニズムの纒人

                一i23一

行政歓会論集 第縫巻 第工畢

主義の「超人賂的性撫にはマルクスの桂会釣人隠縫係の物象{絢論が照籍

しているといった議論を展麗して、ウェーバーのタームはマルクスのカテゴ夢

心に充分翻訳可読なものであると主張する。このようにしてネウスィーヒンは.

ぎプ買総璽の開題設定のみならず、一般に「経済と宗教との糠麗麗係まを解関

する上でもrマルクスとウェーバーとの類{欝こは驚くべきものぶあるまという

のである。

 ネウスィーヒンはウェーバー後会学を積極的に燦足して端的にr経験鷲会学ゴ

〈3繊聯縄ec灘co難G灘舞舞〉であると特織づける.ウェーバーは藷観念論者でも

唯物強者でもない」、綾はr経験讒者、しかも無意識的ではなく原遅的な経験

論者≦である(⑤藻12,員6)。 「経験社会学3というこの矯定は匿に最初の

①論文一拳寮論を穀象としているものだが一のなかで与えられたものであ

るが、ネウスィーヒンによれば、ウェーバーの縫会学はr後会発展の一般法貼

の解瞬を意緩した「麹象的な桂会学まではなく、また俺らかの擁象的な哲学体

系を麟造しょうとするものでもない(それは「形誌上学∫だ〉.その特鍛は「具

体的な硬究に基づいてそれぞれの歴史遍程の具体的な進行についての表象を鐸

り、さらに箆較史的な方法でこのプロセスを纏の諸環象との翼果連閣の形で叙

述する」というところにある.それはr歓会の発展過程を全体として一般的な

諸機念で摺握する」縫会学と「冠会発展の騒々の灘面の具体的な諸現象を摺握

する繕劉科学まとしての歴史学との闘の瞑介環」(雛叢鯵繍耀y鴨聯撚

3鍵楠e琶/を提供するものに飽ならない(①247〉。あるいは「通常の歴史学的方

法と後会学的方法と呼ばれているものを…つの方法に融合したもの3(①鍵9)

といってもよい。このウェーバーの方法は、一方では歴斐の多蟻な諸現象の露

果連麗をただ一つの原遷でもって一元的に議明しようとするf悪しき一元論茎

を、地方では諸現象を複数の原理からそれぞれバラバラに多様なfファクターま

や漂動カヨでもって説窮する「悪しき多元論」を、それぞれ雛験して歴史

の多巌な諸夏象の権互俸恥を解隣しようというものである{靴ウェーバーの

体系をこのような意殊で「経験縫会学∫と特徴づけることによって、ウェーバ

               一i2嘆一

マック、ス・ウェーバーと葺シア鱒(小島 定)

一のr運念動輪を座吏謀議の一般遷論としてのマルクスの史的椎物論(ネウ

スィーヒンはマルクスの史的唯勃論を実際の具捧的な簗史学的分析のr方法盛

と漉鬱してはいけないことを繰瞬返し語っている/に接合することができると

考えたのである。

 ウェーバーの「蓬念型葺概念をもっぱら歴史学の方法というレヴェルで据え、

また夢宗教と経済との権関関係三の艶握において講者が一致すると解験する瞬

に硯繍砿匁、ウェーバーをマルクスに大きく継餓ナて鰍するネウス

仁ヒンの議論は、予想される勘、ウーバーは蜘唯物論のタームで猷

ば「上部構造まのr土台∫へのr反作織の総懸を分衝しているのだとする主

張に行き善く。したがってウ瓢一バーのもろもろの「理念型嵯は史的羅勃論の

外ムに蘇できるということに練る繍脇る・瀞惣轡輿望・.ネウス贈ヒン趣醗繍の堀ドに立つと書いっっ鹿蝉膿鰍妨

決議をむそウェーバーの理念型達を積極的に評慰する時、そこには史的艦物

論に一定の眼界を感じ取っているネウスィーヒンの姿が見え稔れしているよう

に思う。もちろんこの場合の史的艦勅諭というのは当時のソヴェト歴史学で…

般的であった遅解を前提しているのだが。ネウスィ㎜ヒンの言う翫によれば・

史的唯物論は縫会発展の一般法則に関わる理論であり、「講論としての原理的

な仮説まを遠べたものであって、自分もそれが死しいものと考えるが、だから

といってそれを歴史学者が懸雛的で多様な歴史的事象を実課に分析する場合に

必要な麗壷分析のf方法iと直ちに隅一観することはできない。実謙に具俸的

な歴史分析の齪では、マノ砂ス碇式化し硬離物譲鋤テ甥一雄も

もっと具体イヒされたカテゴ夢一を健駕することが必要になるとネウスィーヒン

はいう(⑧漣12,i23/。ウェーバーの薩念璽の概念構成は、宗教祇会学

の弼で言えば、「宗教と宗教輪珊「経済論鍵」「生活態度」「経済的歴史的状灘

の醒屡からなるとネウスィーヒンは馨解するが、こうしたウェーバーの方法は、

言ってみれば罫土台∫と「上部構造」との閣にr多くの蝶介環淫(③藻玉2,

珍3〉を設定する意殊を持つ.ウェーバーの「歴史縫合学的方法∫を、歓会発展

                一i25一

蒼政麺会論集 第鴛巻 第i号

の一般的理論と纒姓的な歴史分析とを紅結合する試み」だとするネウスィーヒ

ンの議i論は、結局ここに帰著するわ謬である。ボウェーバーがマルクスの定式の

原還納意義を認めるか認めないかは、われわれ・にとってはたいした問題ではな

い。稜がそれを認めな謬れぱそれでよい,だが,だからといってこのことから

護ちにマルクス主義はウェーバーがその歴史観究で行なった試み、マルクスの

麹象概念やカテゴ聾心を具体化しようという試みをすべて拒否すべきだという

ことにはならない。むしろ逆である。マノレクス主義は、マノレクスの学識の哲学

的意義を全鉢として「神肇なものまとして維持しながら、こうした試みを認め

るべきなのである。なぜならば、ウェーバーの試みは歴史的叙述の最大隈の具

体性と広範な桂会学的一般化とをいかに結合させること渉できるか、またいか

にしたら(少なくとも方法的には/一瞬たりとも麟式主義に離ることなく、イデ

オロギーのもっとも総やかな藪をマテジアジスティックに分墾できるのかを示

した葬常に教護的な飼だからである」(⑧藻鴛,鴛3/.このように述べて、

ネウスィーヒンはマルクス主義の観点に立って歴史分析をする上でもウェーバ

ーの遷念型概念を  一定程度概念のモディファイを行なった圭で  利絹す

ることができるというばか馨か、むしろ積極的に麟駕するべきだとさえ主張す

るのである.

 こうしたネウスィーヒンの主張  後の議論それ窪体は今鐸のわれわれから

みればそれほど嚢新しい議論ではないし、したがって駁撃たてて大騒ぎするほ

どのものではないともいえようが一には、当時のソヴェトの知的環境の中で

のマルクス主義の教条主義乾、図式主義化傾向に対する抵銃が惨められている

ことも推離するに難くないであろう。したがって、この点に関連して、ネウス

ィーヒンはマルクス主義の「一般醒式化領海に端する解毒麟謹をウェーバーに

求めたのだというダヴィードフの評懸はそれ露体としては基本的に当たってい

ると、想う{§飛

 しかし、もちろんネウスィーヒンは、講者の本質的な違いを忘れているわけ

ではない。第一に、現実の資本主義の形成以前に、資本主義のr精神」が宗教

               一王26一

マックス・ウェーバーとロシア/2)(小島 定)

的欝簿から生み鐵されたという瑳解そのものはやは鯵マルクスの理解とは異な

る。あるいは罫宗教的イデオロギー」とr経済的諸経係匪との霞果連縫の握握

においては、ウェーバーの場合、源慰と「絃果重とが駁撃違えられている。

第二に、ウェーバーのカテゴ夢一、たとえば資本主義の精神と宗教論蓬との関

連を示す時に篤いら翻る擾念、「鶴舞姓j W譲重veyw蹴欲s磁a甕の概念はマル

クスの「法則盤茎の概念とは異なる,事例としてこのような点をネウスィーヒ

ンはあげているが、彼鹸根本的蠣でマノレクスとウェーバーが対立すること

は粉蜘っていた.しかしこ磯題は擁わ編幌ることのできるi㈱鰍

のネウスィ詫ンのウ_バ論で醐らかに後景縫いている吸

われわ編辷れまで見てきたよう1こ、ウェーバーの歴史論の部分を励馳・

しかもウェーバーを大きくマルクスに瞬き寄せて解殺して{餓そのrウェーバ

司によってrマノレクス纏補完するというのがネウスィーヒンの転一ノく一

論の骨格であった,だがウェーバーとマノレクスとの本質的な靖立点というこの問

題は、ひょっとしたら、論文rマックス・ウェーバーの『経験琶会学逼と歴史

学の論理ま(欝27年9月、鐙鴛発表/で予告されたその第二部、すなわち「纏論

還学的なレヴェル」でウェーバーの遅念型論を擾う予定の章で、ネウスィーヒ

ンは積極的に講じるつも穆であったのかもしれない。第二部では獲念型の論理

構造、その漣譲的源泉、遷念型的考察と霞乗論的考察との運論的連縫の開題を

振うことが予告されていたからである(⑤藻12,捻6通37)。あるいはそこで

は、そ磯葱こ繭か徹れることは寮ま嘱避さ繰越し醜い・それ

はなんとも奮えない事櫓である.われわれにとって窮らかな事実は、この第二

部は第一部が書かれた直後欝28年春に突難として襲った一とおそらくネウス

ィーヒンには、轡われていた一ペトルシェフスキー攻撃とrブルジョア歴史学ユ

迫害の嵐の結果、ついに書かれずじまいであった、ということである(多くの

来発表の披の草稿を駿録している、先に触れた披の遺稿集にもそれは見あたら

ないし、われわれの知る鰻りでは、この第二部に櫓当する草稿があったという

ことは今馨まで伝えられていない〉。もとよりそれは外から靉靆された中断で

                一/27一

行酸歓会譲葉 第聾巻 第堂号

あったことも確かである。この事実はしっかりと書きとめておかなければなら

ない。今轟の摩シアの真摯なウェーバー醗究者ならば、これ以後半盤紀にわた

ってロシアのウェーバー懸究が中臨を余儀なくされたことに一悪箏と諦念と

潜入診交じった  無念の舞上を押さえることはできないであろう。窟シアの

ウェーバー受容をたどり、ネウスィーヒンを読んできたわれわれもまた彼らの

想いに共感を覚えないわけにはいかない.

 しかしながら、もし飯にネウスィーヒンが第二部を書籍て、そこでウェーバ

ーとマルクスとの鰐立点の簡題に取り緩んだとすれば、果たしてそれはどんな

内容のものになっただろうか。そんなことを考えてみるのもまったく無意駿な

ことではないと思う、と言うのはこういう理由からである。すなわち歴史学の

方法という綴癒に鰻定してウェーバーの運念型を遜解し、そのことによってウ

ェーバーを著しくマルクスに弓港付1ナて解験する方法、このネウスィーヒンの

試みはヂマルクス諜と「ウェーバー」とのヂ融解」を騒ろうとする一つの試み

であり (その意蕨でネウスィーヒンのウェーバー論はfマルクスとウェーバーゴ

問題のソヴェト蔽であったともいえようか/、それはそれでウェーバーに耕す

る紋{舞型の撹舞が続行した当時のソヴェト学罫の中では大きな意殊のある貴重

な仕事であったと評侵することができる、しかし実燦のところ、認識論や鮭会科

学方法詮の論遅レヴェルでは、ウェーバーとマルクスとの鐸霧こ架橋しがたい大

きな溝があることはおそらく誰しも否定できない以上  とわれれわれは考え

るのであるが  、ネウスィーヒンはさらに大きな無遷を冒さずして第一部の

譲寳と整合する影で(ということはすなわち、ウェーバーを退度にマルクスに

弓捲付けた形で、ということであるが/ウェーバーの運念型論の諭達学的解弱

なるものを果たし得るのだろうか、こうした疑問がどうしても湧いてくるから

である。だが、残念ながらわれわれの議論はこ轟より先に進むことができない。

今ここでは、やはり第二藻は書かれなかったという事実を確認しておくことに

とどめるほかはない。

 ネウスィーヒンのウェーバー羅究はig2暮年代のソヴェト・ロシアの特殊な状

               一128一

マックス・ウェーバーと鷲シア(2/(小島 定/

混のもとで、帝政籍に育ま細たそれなりに豊かな管シアの西洋古代愛・中糧1史

爾究の学閣的選産のなかから生まれた一つ貴重な灘シアのウェーバー醗究であ

ったと評慰することができる(鰹それは異嶽にイデオ冒ギー化しつつあったソ

ヴェトの学問量饗の申でヂウェーバー」を救う一つの試みであったが、瞬時に

それによってrマルクス窪を救う試みであったとも見ることができる。ネウス

ィーヒンはその当時「プ馨テスタンティズムの論遷と資本主義の繕神匪のロシ

ア語訳の緯蔽を考えていたが麟i3§年代以降の状溌の中ではその饗実性は皆無

であった。だが、ウェ㎝バーの主要な著搾の齪設計嚢は彼の弟子の一人で、ネ

ウスィーヒンから『職業としての学海の雛象深い一籔の引稀を含むあの手紙

を受け取った駐(達8〉参購聾陸レーヴィナの手にしっかりと受け継がれた。

しかしまた、それが馨の§をみるにはなんと半盤紀近い時間を要した。レーヴ

ィナの手による訳書の辮行が始まったのはやっと鴛72年のことであったからで

ある。しかしこの翻訳も当初は一部の専霧寒露けのものでその部数は眼られて

お瞬、一部の者しか読むことができなかった{働.ロシアの一般読者がウェー

バーのまとまった主要著作を読むには、またそれからさらに鎗年の屑蒙を要し

たのであった。そしてその時はネウスィーヒンの譲文第二部の発表をはばんだ

あのイデオPギーと体麟とが嶺壊したまさにその時と一致していたのである。

今嚢の舜シアのウェーバー硬究の奔流に流れ込む潮瀧の一つは、ネウスィーヒ

ンの時代とは内外の釈溌も大きく変わった欝7§年前後の時蟻に  この時擬は

また国焼的にも思想状濁に一つの大きな転換が始まる時期でもあったことに留

意する必要があろう  、ネウスィーヒンのそれとは異なった簡題謬§心から・

そしてまた学翼分野からいえば、歴史学ではなく今度は哲学と蓬論社会学の分

野から発している.したがって新しいウェーバー暴究はネウスィーヒンが書こ

うとしてついに「叢かれなかったユあの第二部に梅醤する翻分、哲学的、選論

縫合学的な諸問題にその対象を据えるところがら再思発することになる。βシ

アの学界の特殊性からいって、ウェーバーの人賂と学閥および鍍の思想全体を

婦象とする、その意駿でのウェーバー暴究が本狢的に始まるためには・そして

一i29一

行政桂会識集 第鷲巻 第i号

ウェーバーそのものに難した新羅究が一定の成果を上げるためには、やは吟一

度は罫マルクス」の愛縛から解き数たれることが必要だったのである。(未完〉

(i〉 纏躍。 Bε獅,畠β磁,聾e郷.§.謎.恥鵬a,羅郷.琶、経玉3鯉照,舞乳,i§23・

(2〉 錘舐。樋嬢,翫醒。露観照3磁醗磁,碗餌κ8‘齢6駕嘉。峨灘ノ童毒理。謹麗3κ齪躍琶一

 観纏膨謝脚,銭3螂翼鶴OCTa鞭e翻然4護e羅購{c謹’e議論観雛,餐帥e鵬騨。猫脚

輪重翻x雛。縦y維e郷掌e↑e軽羅.臨癬,鱗艦B濫翻K鰍聯糎εc融臨騰駐

δe登羅ε.鞭郷蟹蹴鐸.畷紳.舞.M.F郷ca,翫,i§23・

(3〉撫藍cBe蜘,恵卿繊麗ε脚鐸解傭~o繊麗,晦駅蹴E£鞭恥贈醤£髄峨

 蹴倉e置.猛ご曜舞照.政.擁.舞働y欝ε灘G欝,筑,ig25・

(紛 搬穣「マックス・ウェーバーとロシア(葺」(本誌第欝巻3簿轡駿〉の第2章

 参、無。

(5〉 但し翻訳書にはどちらを巌本にしたかが認されていないのではっきりしたこ

 とは分からない.嚢訳が雌章続成になって駆る点から見ると、講じく達章編成に

 なっている護ヂ跳動燐γ3確殿魏魏ε郷魏魏醗だS砿臨夢β魏魏擁.47、懲2射濃・で

 ある可能{窪が高いよう1こ、想う。

(嚇 ちなみにウェーバーの著俸の最初の英訳は罫一般経済史」で、その鐵版は

 ig27年のことであった。 6七難8箆~」ε‘{}館θ辮詫κ露ゴ綴ツ,tr3糞綴atε4むy Fr盆盛{茎{・

 K盤麟t,Lo撮O簸a総翼e脚Yor駄,A重油&晦W塗,i§27・

(7/ £・A・コスミンスキー『イギ誓ス農業史と冒シア学派遷福冨蕉実談、未来被、

 欝69年、8ページ。

⑧ N.Kar醜v,撚鯵離郷ε翫磯曲卯探郷鰭醗融號面罵」ε御館麟

 卿鋭漁X職εゴ甑tra擁琶灘sseβarCWW・y灘・ws野風Par重sj8鰍

(鋳 露7§年4鴛の越・M・コヴァレフスキー宛てのマルクスの手紙及び鷺89年2月

 2縮鍔K.カウツキー宛てのエンゲルスの手紙。多マルクス驚エンゲルス全集雲譲

 34巻壌8畷懲ページおよび第37巻i26穫3董ページ。

(欝〉欝.藝、幽費e碓,oε総戯酵ご脚矯繊麗磁09鵬 c懸・ほ欝6・恥e灘。講欄ε

 (茎罐.歪一G護{}《}{}鰯{○〉, c.5-26、

一i3§一

マックス・ウェーバーとロシア(2!〔小島 定/

(墾〉ガレーエフの隻灘と業績を課しく紹介したものとして、践鼠3麗醗簿e臥

H螺劔麟臨a欝蹴鞠εe警(i85雛鰹〉,飾繊麗胎齢磁儲鍛・灘,湧2,懸

4,c.i28弓55.がある.またガレーエフがフランスの簗塗学雑誌《彪観臆

 齢癩鰐>の求めに応じて寄稿した滋シア歴史学の灘年を露饑した譲文が最近に

 なってロシア語に藤訳紹介された.藝、軽.1{鯵eeB,0讐蟹。野£c齢舜欝騰難ec藍醸

 蕪a》贈認5§護劔(i876畷g26〉,0耀惚ε粥ε概観脚辮解観,婚94,藻乞この譲文

 が《Rε耀2榛面倒毎麗>誌に発表されたのは欝27庫と蝕2琶年のことであった。な

 お最近になってロシア講内では、ガレーエフを2§盤紀初頭のロシア縫会学の麟威

 難を握った一人として佳麗づける動きがある、A醒.M銀y懸盤蟹醸,躍鍛ρ〃齪

 β脚εκ磁‘戯欝鱒~灘,M.,鎗93,c.蔦3磯警.さしずめ霰の分野は歴隻縫会学とい

 うことになろうが、麟漣にあげた著俸魏.謎.モ〈鋤e総,0翻。戯運脚躍磁‘綴欝。灘2鰭,

 C獅.,i鱒6.の総締もそうした動海を示す一つの擁である。

(圭2〉銭.薮a脚e舞,恥戯。憩灘跨を灘騨猟e辮縄,灘欝&鋤,ヂ鋤δ,c、3畷.

(i3/ウェーバー陣シア革命論難名古裂大学総廠会、1鱒7年.擁護蕊ページ以

 下参黙、。

(i4〉 JG簸a亡繋寂費建.Sa轟盛ers,麓審訊び鴛毎辮(ゾび鴛ゴ。欝∫PoJ震動4」,ε{〕費麗。魏露,Cゴ漉」窪㌶4

 翫灘諺盆葱趣。灘駿魏纏εゴ勉勉1、蘇θ5R鰯纏R8びぬオ纏,Col職漉u盛

 v{}rs重ty P董}.D.,ig85, Pt謹,∫あ58L

(錫/これよ滲前に、懲§5年にパ葺で二巻本の『ドラホマーノフ政治譲葉選ぶスト

 ルーヴェとキスチャコーフスキーの手によって遡行されたことについては、離

 掲揺稿、買2畦73ページを参窯.

(i6〉擁.舞.伽a購懸偲,飾澱蜘鎧εむκ観灘¥灘碑麗鬼,r、1,旋帰趨β麗。御館纏・購叢

 輝、銭、M、恥ε8c鰭§.A.K欝撚脇。冠㈹,M、,舳、器。瓦C凱閣jgβ8’

(墨7/麟掲幾稿、i綬ページ.鍵.c.臨醗難総騨擁.真.貿卿e講囎,飾塑。繊麗瑠卿蝋

 玉9鱗,漣2,c.76、

(i8)ウェーバー麺シア革命論理名古渥大学緯懸会、嬉97年原漉(3}、都議

 鰺8ページ。

(欝〉報訳にルッチスキ一罪革命蕪夜のフランス農異書遠藤輝瞬譲、未来桂、欝§7

 年がある。

(2鋳 」{}蓋欝βar移er,Soび鹿ぜ鐸蕗めヂ臨鴻鵠C劉奮奮,1輩28-1食32」耀a{:拠量蕪段簸Pre繍」9

 8エ,β.i4.

一里3i一

行政祇会論集 第雛巻 第i■号

(2聾この奉はig越年、難解年、簿37年と縷版を璽ねた.本書は践Sav醗ε(乱技

 C認難,鰺73-1923)一波もまたイギ聾ス農業史を専醗とするロシア歴史学灘の

 「第二鍵代倭に臆し、コスミンスキーの翻の一人であった一の書評によって

 蕩歎の学雰に紹介された。翫g臨海κ麟。拶盈ε擁ε鋤垂§麗,鱒1ほ7,卿マ麟一78乞

 および韓¢漉撫編ss漉癖麟6θ2麺一観だ既醜ご罐s84s魏魏ゑd鍵3,9感聾{ε實

 尋,S.583-592、

(22〉Co紹耀κ醗統辮鑓麗‘κ醗、3畷甑繊縛齪,T、6,c、i2§畦2L

(23〉 E.A K{}c謎垂{}圭。譲猶, 雌蟹翼鷲擬嚢 Mo魏{}{}{讐妻聾種 賢e舞}y蟹ε猟厳擁嚢, C汐8δ冠翻ε 8~κ轟, B5箕{.2,

 ig4§,M.,c.6.

(24〉蔓〉舟コスミンスキー、麟掲難読、鍵ぺ」ジ。ペトルシェフスキーについて我

 が霞ではこれまで詳しい醗究は縁とんどないと患われるが、彼に羅する都詰文

 獣としては、先のコスミンスキーの蔀訳読文の飽に宴下孝吉氏による評伝があ

 る。ぎ縫合経済史大系窪後会経済史家評伝雲弘文堂、薄給年、蕗7畷磁ページ。

(25〉⑰翻灘εβε総,露撚.2,雄46,c.鱒5纏欝.に被の詳細な学徳的な経錘が載っ

 ている.

(26〉M、Be励,C鑓雌灘簸e騨囎賑霞目異e灘a灘穂癬冠ぎ灘y夢も1,彗e醐、翫C

 鞭聯y醐。輔,鞭.躍.政.擁.鞭騨㈱£欝ro,磁y慧耀伽麗,醗媛,蹴乳

 e.i§8-i麗.これは簸axWeもeぎ,P墨esozla19鷺Gr纐慶δesU簸ter鶴η9Sδεr

 a難t嶽le准K纏t礎.∠)露髄敵紡鋤i8§6,歪3δ、δ,S.57-77の翻訳である。

(27〉 』1.!媛、 蓑e貰}y雛艶董3c鐙麟ナ o》鬱病麗 餐3 麗‘耀(}芦麗君 q豊8δ理ε88κ{鰺02θ 06鷹2ε趨6捻 琶 ~{)‘y一

 磁躍綴磁,擁、,婚解,本書もまた蔽を重ねた。2略ε躍顕、雄認,3噂を慧譲.欝欝,4

 一鍵鴎遼.i毅7,5一艇蕪3叢.i舘2.

(28〉A.騒.撫繍認,3灘雛醗躍麟一凝e瓢創軽食照ec醸X駐3灘鋼鼠蟻・険難盗e-

 8㈱艶麗e羅鱗茎e蹴鑓も購。即職韓細。降鯉x駐㈱駐,@δ纏8ε灘,鰯、6,

 墨9…55, c. 3{:}6-3{)7.

(29〉ペトルシェフスキーには「歴史学の譲遷的スタイルの総懸に寄せてま(欝欝

 年〉K鋳聯cy〔猛鱗讐e膿⑪蟹。撚e蹴聯擬。齢齢3難(醜躍灘躍漉即{}2姻‘融

 2β躍。、躍耀x綴雅櫛~o鑓醗灘y耀漉鷹躍βε灘鱒~β,o紹ε謹耀yκ鮒醗纏縫8ε一

 κ齪鐙躍δ麗讐εκ繊r,玉9i5,ぞ、24.萎巽叡〉と題する論文があ吟、これが前達した野中轡1

 の桂会と国家の歴史機要垂の第達糠(轡鐸年)、第5版(簿22年〉の序文に据えられ

 た。なおこの論文は懲簸年に「ペテルブルク総合披講学校」の教授蕊妊にあた

一捻2一

マックス・ウェーバーと韓シア(2/(小島 定〉

 って行なった彼の講演がもとになっている。

(3登)歳.軽.長a繋灘総,3書翻懸盤鰭e舜難嘱鍵。緯轟蟹隈e銀翼x琶銀搬徳風養髪恥簿y酸}

 駐。翼劔G疑醍醐鯵蹴瞬套鐸も得αo鐸倉糟碑難。鯉羅氈x駐撒紹,c解麗麗68硲・猛鳥翫6}

 響55,c.3§争誤3. なおこの譲文は雄蕊年のペトルシェフスキーの邉捧読集

C“醜脚撚,翻.2,鷹§.における、コスミンスキー・ネウスィーヒン硫

 よるべトルシェフスキー再評愚に薄する撹覇を意験して書かれたものである。

(鋤6、C.縫e鰯懸,縫㈱醸照雌醐欝e鹸eτ緯簸,8脚徽歩脚噸鵜欝9倉・

 瀞9,c.錘§.

(32)その最鱗の挽舞論文が、雛.動繊潮懸,長懸膨鯉a隠3躍・∫恥δ鋸盤躍綴餌

麗麗灘。麗耀,ig28,藻2,c、i塁7一醗であった.ポ舛フスキ}1こよる灘は・

醗.鰍醐。離,‘靹残ε”灘ε灘蹄yc㈹融CT鱗欄嚢灘ε輝隅統御齢灘轟βπ‘麗。醒,i魅,断,c.3ぞ、嬢、」幽艶駄・麺雄3i蛋鋳参黙・

(33〉この討論会の発叢記録は次の文献にみることができる。灘盤欝○鰍欝e∫LM.

露e窮灘e露。鵬(0鍵櫛。騨聯弾£y灘擁⊂yε聾e醐x騨聯齪。輔翼ay蛾

 翫脚鱗一ノ物耀躍,窺8,擬8,cマ9-i28・

(34〉 P、M.Petrt玉s}茎evs垂{量,Strltt量ge F罫a窟ε登{艶で鵬量tte董a亜terl圭。難e黄Ve鍾ass載簸墓s一

 麟w量rtsc醸ts窪es薇隻。飯te,掘繰麟薙躍嫁欝競ε義磁孟灘細紐瞬翫

 85(3〉,i§2霧,s.嬢68一魂蟹}.

(35/あるいはペトルシェフスキーはこんなことも言っている・凝念の再検討によ

 って串縫縫会像を再檎賊するならば、r近代は中量のもっとも本源的な有機的な

 連続なのであって、決してその否定、アンチテーゼではない≦ということも瞬

 らかになるであろう、と。P.M.P緩難曲evs騒,3.a{),S護88、

(3§〉D.M、Petr慧s魏亨skl,a.a、0.S.488,

(紛撫告考の一ノ、、フト鱒ヤンドはウェーバーについで撫蝿と疑「ド

 イツ露浅主義の畏族灘」と強く結びついた美嚢識人サークノレの罎身で、第一次大

 戦牢は罫ドイツのブルジョア的インチ婆ゲンツィアの支柱」であ参・また戦後は

  rドイツのすべての愛馨主義的懇懇家の華∫であったと縫える・そして・ウェ

 ーバーの懇懇に見られるこのr畏族的な大露主義的績両」を、トレルチがその

  灘i史主義葦(欝22年〉のなかで捲観した  盤罫大戦と革命とによる一罫歴史

 哲学的思惟の竜機曇の叙逮を援駕して、2§量紀のヨーロッパの罫ブノレジ葺ア的

 なj r簗隻意識の危機のF反駿」を示すものだと位置づけている。撫韻罫○

一圭33一

行政桂会論集 第登巻 第i号

 麟建長.M、舞㈱y贈駐㈱紛,醜欝輝給.梅郷麗醗,翻8,藻8,c.85-9暮丁.な

 お、先に紹介した懲55年のA・鋳ダ二一資フのべトルシェフスキ一議(前渡(3韓〉

 はその基本枠縛みにおいてフ撃一ド夢ヤンドのこうした観点を継承したもので

 あるように思われる、さらに、その鰹にもダニーロフには広く第一次大戦前後

 のドイツ墜史学を考察しながら、そのなかでも自密主義的な潮流の衆表として

 トレルチ、マイネッケとともにウェーバーを取瞬上げ、とくに戦鋳期のウェー

 パーの内政襲主{ヒ論と戦争及び革命に爺する後の態度とを詳しく検認した論文

 がある.この論文は懲58年に発表されたものであるが、ウェーバーの敏治的時

 譲を撮ったものとしてはおそらくロシアでは秘めてのものではあるまいか。ウ

 ェーバーの政治譲に立ち入って蘇じているもので懸途櫨討を要する論文である.

 ここではただ、ウェーバーの罫人民投票的ライヒ大統鑛鰹譲」が罫ドイツのフ

 ァシズム独裁への道を掃き清める」結果を欝いたとの指籏が見られることだけ

 を言っておこう。A.銭.最癬醗総,鍵饑餓羅e6y魏ya3臨艶踊。鴇雛難《鰯硬照論難灘

 縦葺琴濃§轟e琶獅モ> 昼{}融萎}e鰻鐸 轟ε至}猟}嚢 酵聾蓼}{電{}蕪 猷}藝鐙躍 擁 算〉{}駐。護多{}猛鍵翼 igi8-igig ゼ。潔懸,

 κ蔀紹窟麗麗磁魏魏鷹那。鐸∫窟,鯵58,暴5,c.盤§、ダ二一ロフは欝63年飛行の

 ぎソヴェト歴史事典垂第3巻垂こ掲載されている「ウェーノミー3の項§の執筆者で

 あった、ご。紹魏躍齪緬脚躍》2‘総建議雛齪纏留醗,T.3,M.,欝63,c、鷲、

(38〉なお、二人の縫にその当時哲学の分野からペトルシェフスキーの著書を高く

 評簸する一舘の動きがあったことが最遠になって繧介され・た。 フッサール愛象

 学の醗甕者であったr.F.臨eT(鰺7嘗雄37)のべトルシェフスキー宛ての手紙が

 それである、F.碧.総疑τ,長.擁、鞭獅y墜総。紛織,驚/欝一打亨緯28p.,8醐脚醒

 琶ご灘{ψ麗麗 8ぐ競2‘雌雄03ヂ{49ど窟 麗 綴aひ醒κ産, ig88, 轟轟. 3, c.墨2(}一i28.

(39〉 五睡。難y雫 〔)麗軽羅・{}笈、き董. 翼{}賢)y齪猟駁(}ギ〔}ン 翫耀{}β置κ一1羅窪〃κε麗ご鷹, ig28, 藻 8,

 c、9を95、

(4窃なお、最近のコスミンスキー論の一つに、E.8、1一y蟹燧a,A総総難照E齪綴麟

 A灘cee幽}{oぐ撒。醸糞,物8醗醐ウ紐齷齪齪灘鐸躍,ig92,藻2,c.懇5飛78.

 がある、

(淫i〉 盈糀。β麗冠一一護鷹ク紀ご窪‘羅, ig28, ♪曇8, c. 99、

(42〉コスミンスキーの方もその後の学問的境遇についていえば、やは瞬結余蘊新が

 なかったわけではないが、しかし、破はこれ琢前のi望5-26年にイギジスで醗究す

 る機会を得て、欝欝年代には灘欧の縫会経済史学嬰に大きなインパクトを与え

一i34一

マックス・ウェーバーと鷺シア(21(小島 建)

る重要な蘇究論文を&醗酵癖‘κ魏θ拶Rε戯鷲1こ発表して、露際的にも著名と

な管、欝欝年にはソ達薙科学アカデミーの逓澹会員、欝46奪には董会員に選ば

れた.さら1こ欝42隼には  今霞のPシアでは決して名誉なことと葬儀されな

いであろうが一スタージン賞を受賞するなどソヴェト麗史学雰の頂点に立つ

に至った。コスミンスキーのイギ琴ス農業史に麗する二つの議文、丁簸e疑膿血畷

盆磁S旗279-8§as盆S。穀ぞces毎r臨薯蝕A墓rarla簸跳腰y,翫E‘㈱厭

離。曜磁歓蹴,」a懸欝穂,および、sεrv孟ces麟臨聯装e登ts塗

蝕丁灘憂e麟Ce麟ry,ゴ綴V/2,A倉rl難35か年灘醤で繍玉って大塚久雄

によって鐸ギ獄荘蹴駿麩に越する醗的なも鋤として評儀さねいわゆる大塚史学の近代資本主義成立受論の形成にも大きな繭灘を与えたこと

はよく知られてレ・る。大塚久雄がコスミンスキー譲文を紹介したのはig3§年の

ことであった(大塚久雄終ギ夢ス荘鍵の麟究に絶する最近の一縷陶」東京大

学『経済学譲集露9の欝、1§39年、蓼増誇・透代資本主義の系譜垂上巻、弘文堂、

謄駐年、駈駿〉.このコスミンスキーの醗究が、「冒シア歴史学海」の第二重代

の代表者の一人であるペトルシェフスキーから大きな影響を受けていることは、

館身のペトノレシエフスキー論からもある程度鋤ことができるが(ε人

K巷翻醐,撫聯獅鰍eε継無難謹避難磁,c図耀甜楓臨2ほ9鎗C.5一鷲.〉、イギ夢ス中髭農業史の具体的な諸講点についていかなる影響を受け

たかについては、われわれ1ままだ立ち入って書及するだけの稽惹がない・この

瞬題については縫馨を類したいと思う。

 なお、欝年代ソヴェト・ロシアの軽洋中量史癖究と大塚久雄の暴甕とに襲適し

て一書琶け簾えておけば、第一次大戦以降(そしてボ要シェヴィキ革命以後も長

期にわたって〉薦歓への嚢露な渡航が聚難になったことが、原資料に基づく実護

的な籏究の鳶で優れていた「担シア学源」の醤欧串縫史醗究の伝統を受け継ぐ難

史家たち、ペトルシェフスキーはそのr第二謹代ま・コスミンスキーはそのf第

三遷代まの代表者の一人であるが、披らをして運論砺窪や歴史学の方法論摂究

に霧かわせたという事構があったかもしれない。それは疑じく礫譲的色彩の濃

い社会経済史学である大塚史学の礫誌形成が、瞬じように西歌への留学の遵溺

譲ざされた第二次轡界大戦の勃発という「不幸な蝿然」という事精の下で始ま

ったことと{旅いるよ猿、野(大塚久翻身の発言についてはぼ大塚久離著

作集選第捻巻、岩波書癖、欝86年、3駁ページ参熊瓦一方、ペトルシェフスキ

一i35一

行政歓会論纂 第ii巻 第i号

 一の弟子でもあったコスミンスキーがig篶一器年にイギ要スに渡ることができて、

 R撒δr磁盆磁S,董葺解重S量tl倉総欝S重縫醗重e灘といったイギ1ナス牢轡農業塗にとつ

 ての新しい原資料を髄ってきわめて実蓬的な農業土地講穫史醗究を発展させる

 ことができたのは、この時期としてはおそらく遜外的な零梅であって、それは

 「幸運な纒然∫であったといえるのかもしれない。

(蓬3)緬欝{}野麗絶f鍵α汐κε超。醒,i§28,藻8,c.隻24-i25. 豪たコスミンスキーもウェ

 ーバーの名麟こそ葺にはしなかったが、この点にかんしては、麟遠した緩の発

 叢から窺えるように、この時期にはネウスィーヒンと凝じような考えではなか

 つたかと想{象される。

(4逢〉 涯.T. M紘凝}c奎鍛舞, A飯漿。懸難事}翼{}£醒毒()搬獲 }一{εyc疑)灘}{、 τe喜搬魏。・践}撰 羅y賢} y至重e聾(翼x),

 飾6齪鵬縦搬醗齪灘脚爾,1992,鹸3,こ.圭5§.ミー1ナスカヤ鉱ネウスィーヒ

 ンの直弟子の申糧喪家である.

(薦/福冨正実ヂソビエト中量史学における罫小量襲額圭論争」、霞奉哲男、纏冨

 董実談罫ゲルマン井溝体の基本構造馨有斐閣、玉蝿§年、翫駿、274ページ以下参窯。

(46〉露1本哲男、福冨豊実訳『ゲルマン奨属体の墓塞講追善にネウスィーヒンの3

 本の譲文が駿録されている。またほかに、秣纂訳r携禦黄建時代(6懲盤紀〉嚢3

 一口ッパの農費屡と農甕運動達『専修人文譲葉薩第鍍号、懲78年解薮がある。

(47〉彼の合著搾婆ストがA翼.鞭y磯X翻,伽0融醒醒紹β離ε齪κ{〉~θ蜘露麟醜雛,

 M.,ig7窪,c.52ト32霧こある。

(遵8)①直.錘.旋y偽灘難,C鯉鰯ギ鞭麟ε照醗畳鰯齪錘灘a9醜夢叡}酷警隈,ノ爾

躍鯉ε鰹麗鍬灘疫,ig23,麟8-9,c.2i§一2灘.⑨直.羅.旋yc撚羅,賢麟嚢

 o難錐瞬ぐ聯ε賛難曙。↑磯盆鰯聡。製罐韓。欝鐸鋒x倉3離。竿盤,蝿μ耀8κ.凝α那ω窟φ、

 ∂渥2鋤躍,ig24,T.圭,c.蓬25穫35.⑧A.鞍.}{εy£繊籔,《3購騨聡。灘co雑嚢書.臓

 脚>Ma繊Be{ゆa擁凝然韻。響腰黙輔醸懸,撫δ3搾齷齪飯撹鰍ε麟8,i§27,

 雄9,c.玉i3-i43,蝿毘,c.濃畦37.①と③は襲に遠べたように、欝握年に

 運行されたネウスィーヒンの遺稿蒲文集(A懇.融y轍x醸,雄厩肥蟹だ紹欝麗舐

 ‘鱒鐙夢80∂御簾&難,鑛、,鯵74,c、蕨争難色〉に叡録されて、綾のウェーバー辮

 究がほぼ串縫紀をへてソヴェトの摩史学雰にも知られるようになった。 なおこ

 の論集には鞍の博士論文「古ゲルマンの諸翻族法典における所有と登臨がも

 との形で叡録されるとともに、破のいくつかの私欝が駿録されている。その私

 信の一つに、綾の弟子であ鯵、婚7§年代にウェーバーの主要著馨の腔シア藷談

一136一

マックス・ウェーバーと質シア麟(小島 建〉

にたずさわることになるM.甦.レーヴィナに宛てた興駿深い霧縫がある。それは第

歌大戦中醜のでくi麗解羅鮒〉、鶴身が輔練腿であっ塒代の手

紙であるが、惚こでは輔に翻そうになった弟子を賭すために・学陶繰る

か弥次転一バーの職難しての学剛鍍鰯儲な縢趨舞拶で語られている.その一部を紹介しておこう。「・・痩猿史学のみならず〉どんな分

蜜者も、学薦的翻造にはある種の無私の精神が必要とされる。それ1ま醗究者の

霞懸盤界との麗連を完全に絶つという意駿ではなく、それを馨究の客観的諸課

題に部分的縦わせるいう意嚥こおセ・てである.学翼鵬纏嫁た縫のどん

な禽縫活動でも、歎さ纏騨や人との{麸合い磯合で桐じであるが)

勧、卿撫、腰求する.そしで一波がそれ1硬事しているあレ’だは一途

人擦を飲み込み、後を全面的に支愛する、したがってその時、精神の弛の部分

はそれとはまるで麗係のない、韓か付縫的な働きをしているに過ぎな》・(だがそ

れはそう見えるだけであるが〉. (摩史家であ陰縫会学者であった)ある学者が

動学闘鱒麩のパ隊を次鉱曇こ縦したのも麟のないことではない・

ゼこのテキストのまさにこの韓蔑の判読のために数喜年のときが過ぎ去り・その

講読の真実性が確証されるためにはなお数百年のときが遍ぎ去るであろ貌解

議したのはわたしであるが、しかし事観のわたしで終わるわけで1諏い・

わたしはこの学翼の発展の客観的な必然性が逓遇する一恵に遜ぎないのだ。し

かしまた、わたしは単なるr燕雲ではなく、生きた人聞であ甑1学闘発展の

一_ル1繍櫓妨鋤たし蠣樋遍し起としかもそ謡灘朗の勤

によるものだと知ることはわたしの毒びである。たしかに、わたしの為したこ

とは魑の人でもできたかもしれないが、この場合それを為したのはこのわたし

なのだ」〆この厳しい考え方を誇張した震い方だとして撫否するとしても(わた

しはそこには多少誇張があるのではな替かとも慰っているのだが〉・それでもや

は嘆に馨鋤雑慮こは禁欲蟻にまで達する配雛の締綱海くてはな

らないということは認めなくてはならないだろう・…その講じ学者はまた次の

ようなことも謡った。学聡製造の独轟樵は学者のどんな修贔もあるいはどんな

発貼常にr勲越え敏る」髄欲するという点にある・なぜなら学海誕

どまることなく前逸するものだからである.したがってまじめな学者は砦、嚢

分瞳事淀燵顧ただ畷隊なること趣建義鍛のであり浸し

一i37一

行致歓会論集 第簸巻 第i暑

 て綾の業績がその不可避的な(つま吟客観的に必要な/一段罐であったことが覇

 れ’ば、それで綾は嬉しく思うものなのであるユ。鴛観蜘ε,e.5総一騒9.

(4{多〉 δo誰酎ど{三見 C{}68耀ご紅α窟 ∂声{姦麗κノま。π8δ麗窟, i 睦3差., T.9, !犠.,i§28, c.玉2§一玉3i.

(5鱗幾稿「ウェーバーとロシア(聾」奉誌第欝巻3号、蔦4縫§8ページ、

(5碁鰯えばダヴィードフとガイデンコは欝95年の箸修のなかで、r織密な分析.

 学闘約文乾的な擾野の広さ、深く考え抜かれバランスの取れた綜譲という薫で.

 ネウスィーヒンの醗究はこれまでロシアでウェーバーについて書かれたものの

 なかでは最良のものであったと思うまと書いている。融燐餐.至}avy60v,籔a盤叢

 P.(}a重{董e盤{o,ノ~鋸β裁棺ゴ鐸雑だ諾εヂ晒s琵館,S盤渓擁{a螢董》,F臓譲{ず穫rt段驚継a熱,玉露5,

 S.董9i.

(52〉実は⑤譲文「マックス・ウェーバーのぎ経験琶会学垂と歴史学の譲邊」(i競7)

 は当鱗二曹器構弄戎となることが予定され、、第二部でウエーノミーの認識講や1論選i学

 的なレヴェルの議詮(例えばr理解鮭会学∫の誇カテゴ夢心、ダ幾融盤∫、夢客観的可・

 能牲3などのカテゴ夢一)を検討すると予告されていた鮮、この翻分縁結局発表

 されな恥ままに終わった.ネウスィーヒン論文のこの第一藻の発表を最後に、

 ロシアのウェーバー醗究は長類にわたって途絶することになる。

(S3/「ウェーバーの社会学がわれわれの昌§心を撰くのは、新しい体系ないし新し

 い遜譲だからではなく、歴愛現象をそれぞれ解萌し解験するために実課に適薦

 される方法だからである.ウェーバーが飽の桂会学者と違うのは、まさに社会

 学の課題を追求するにあたって、彼の砺究の結果がはるかに具体的な内容を含

 んでいるという点で、趨常以上に大きく歴隻学に透づいていることである」。A.

 レ董.}董{}y£豊}塁x}蟹, C〔擬譲疑。餅粥ぞ。醸》ε 碁cc轟e叢{)薄墨碁{e M登翼。寂 駐(}{5響)a O r『《)葦}o戴e, ノヌ。δ 3躍{三湿ε一

 厚ε嘱 況{夢鍔ご麗鱗{∫, ig23, ♪轟 8-9, c.24乏3.

(鋤漁xWe碁er,G螺耀耀漉護璃識8~寓耀ε」碧競欝2繍幽Bδ、董,S.3§.大

 塚久雑談『プロテスタンティズムと資本主義の精神墨、25ページ。

(灘A蓋exa磁ervo鑓SC鼓εltl鰭,P量eloglS艦eT盤eむrleδer振stoτIS磁e登K駿墨報r-

 w玉ssε舞sc盤a{t v⊂}管巻蓬ax等彫e董}eで績鼓6量鑓娩s⇔鐘6ere籔se重縫Begギ1衰δes k量ε段裏ty警鞍s,

 〆聖κ海山ノ垂認&驚露~欝魏8鯵εご毒窪窪麗惣ゴSo~霞ゆ。壽オ臆,茎§22,登{董.4§,蘇e實3,S623-7S2.

 なお、この論文が基になって、Alexa綴εrvo簸Sc熱e転筋g,離礁既知欝爾魏槻一

 記幡醗辮,磁ε1θ部‘勉P灘配魏4群海魏魏s漉醗κ麟解撤醗ご麓掴膨2G新醗絡¢

 ぜεγSozf扉09露4ε8騨憾8麓&Tt疲}魏§e簸,」、C、B.Mo}霧,ig3遵、が干彗行されたこと

一!38一

マックス・ウェーバーと冒シア/2/(小島 定/

はよく矯れているが、ネウスィーヒンはこの講轍聴する書評を残していた・

 これが最近になって公表された。おそらく謄3毒年代畢ばに書かれたものと推灘

 されるが、当時綾のおかれた献浅では発表の機会を得ら動ず、彼のアルヒーフ

に残されたまになっていたものである。なおこの手稿にはシエルティンク撹

続螺する形で、レーヴィト縛一バーとマノレク勾(K’L紬織ぬx 蒐駆eもer簸簸δKar至聖縫農rx,ノ魏魏瀞ノ訪・Sひ2魏」欝魏ε郷ご瞬麗麗4Sθ~魏」麹}魏ゴ爵,B{量・67・

玉蹴.〉への高い評働畷られる.だ㈱勉撒ラ麟離層躍台β醜翻2謹3・

 c.i55-!5§、

(56}A.覇、鐘eyc撚懸,《3韻脚欝ec総舜。錐獅魂(嘗雛》羅麗。呂B騰e翼睦識○鞭叢a

照。鰍騰輪y羅,嗣3繊躍脚膿躍窟,ig27謹i2・c陸2転およ訊

飾躍麗驪山槻朧卿鷲,i鰭2,藻3,£.i58畦5翫

(57)ネウスィーヒンはウェーバー『都市講壌の麩有の意義を遷念璽的方法と壷ん

 でとりわけ葬姥鮫史的方法涯を採累しているところにあると捉え、こ為を諺ヒ

 較史的醗究の見本であるまと書っている。∫んδ躍翻醗躍灘舞錐&鷺乳簿2乳藻

 i2,c.i3§、

(58〉この点について、ネウスィーヒンは、ウェーバーが罫プP翻論文の末尾で達

 べた一筋、すなわちこの論稿ではプ韓テスタンティズムの瞼運ぶ資本主義の成

 立に果たしたr、む遷的動機まの藤だけを数参、ヒげたが、「プ翼テスタンティズム

 の禁欲それ嚢体が遵に、その生成遜程においても、その特質についても琶会的

 文化諸条件の総体、とりわけ経済的条群:によって深く影響されているというこ

 とも覇らかにしていかねぱならないだろう」(大塚訳、27翻2難ページ〉という一一

 籔を弓鰯した。したがってプロテスタンティズムの宗教編遅が資本主義の成立

 に果たした役翻を遠べたからといって、後をr観念論者」だとはまだいえない

 と、一一当時の支醗的な考え方を意識して一…ウェーバーを擁護する姿勢を見

 せている.

(59〉ネウスィーヒンはギ悪しき一元論3の韓として・中啓1拳毒の趨源を一一・冗的に

 説覆する興講体起源i論者や籏主舗起源譲者がその仮説に不懇合な諸事実を無観

 する態度、いわば「事実に暴力を簾える」態度のことを挙げている。「悪しき多

 元霧翻の弼としては、ドプシュとべ賞ウの名麟をあげている。ネウスィーヒン

 によ丸ば、古代壷びに中権都市の懸究でドプシュはウェーバーが考察したのと麟

 じ歴史発展の諸要素を考察し、都斎発展に聾する属じ諸運譲(其購体説荘鑛説

一i3§一

行政琶会譲葉 第簸巻 第i畢

 薦場説、ブルク説/に書及しているが、それを総揺するに楽だってドプシュはその

 いずれ,にもヂ糞運の芽があるユというにとどまっている、これに麟してウェー

 バーはその瞳念型注の鰻念によって古代壷びに中盤のそれぞれの都市の諸現

 象や特徴を掻き崖し、それらをまたr建較史的方法」によって鰐鑑整饗するこ

 とによって、都市論として一つの大きな全館蟹に纏め上げるのに成功した。λ.鯵、

 鞭yC蹴醗,C魯難鱒糊ec鵜e齪。鐸ε鑑磁醗灘灘唇e卿盆○鱒夢醗酵,飾δ謝齷齷醒

 耀那薇観σ,欝23,雌8尋.c.鍍7受認.方法論の薩では、ウエーバーと競べれ

 ばドプシュ遷論は問題にならないというのが彼の結講である。題題はマノレクス

 主義についてであるが、綾はマルクス農身の方法を「悪しき一晃鍮」の鰹に入

 れることはない.ネウスィーヒンの遷解によれば、マルクスは「、と蔀欝造」の

 薪土台」へのギ反作欝」を決して否定してはいないし、またどの麟の歴史も…

 律に歴史発展靉靆の法則に押し込めるような態慶はとっていないと連ぺて、こ

 こでは周知のマルクスの「褄馨雑記編集蔀宛ての手紙∫を携絹している。r麟

 」乱1〔~, c.246,羅}擁墾.茎、

(§{簸  」駿で毒蕪.£酸vy緩GV,野望我灘a駐,Ga重虚e難茎{o,議.a.0.S.ig4.  ’

〔磁〉ネウスィーヒンはウェーバーの「行為の諸類攣」論あるいは「理解社会学」

 の方法についても触れていないわけではない。綾は第三譲文の餐頭蔀分で「ウ

 ェーバーの最後の雛会学襲究(綾の死後患蔽された落窪蓼経済と桂会書の若干

 の章、特に導入部の独象理論の鵠分〉はかっての破の方法詮{ネウスィーヒンぶ

 言う所のウェーバーの罫歴史琶会学的方法」のことをさしている  筆者ユとは

 頓当異なる新しい手法で書かれている」ことにもきちんと目を肉診ている.し

 かし、そこではウエーバーが嚢達した「行為の縫会学」は歴史的其体的鹸容を

 欠いた、「畿来事の一一般的規劉鍾ge欝臓茎1ε衰ぞ解魏6esGesc艶麺鍛s》の確立に腐

 心する噌通の社会学」に近いものとなっていると彼は評簸する。そして、こ

 の未完に終わった  と媛はみるのだが・ r背為の社会学」の体系は「もし

 ウェーノ度一の類》、まオもな歴史感覚がな力玉つたとすれ蓄ま、 ジッケノレトの観点カンら

 はもとよ箏、史的繧物論の観点からもまた、葬難を受けても当然であっただろ

 う」と逮べて.ウェーバーとマルクスとの庫質的な薄立点のあ吟かを示唆して

 いる。 ∫撫δ麹齪醜躍踊翻総総轄8,雄27,縄9,C、盤5.罫経済と桂会雲の基礎

 におかれた行為の蓬論は彼の観点からすると墾らかに方法譲、とは後退なのであ

一i菊一

マックス・ウエーバーとロシア鱒(小農 定)

 つた。しかしながら、罫経済と祇会糞の方法につ恥てはネウスィーヒンの議識は

 そこにとどま吟、「ウェーバーが未完に終わった破の著作罫経済と縫会垂で打ち

 立てようとした社会学の分籔は籔念せざるを得ない」とのべて、本論に入って

 いく.そして、われわれがこれまで鑛々紹介してきた一波の簗隻学的器心に

彊寄せた…ウ_バーの歴難会学鰯油について講たのである・(§2〉ネウスィーヒンはウエーバーを「渥史学の場藏ではマルクスの直接の継承者

 である」とまで言っている。F科学一般と箒わけマルクス主義に麟するウェーバ

 一の主要な貢献は、綾が縫会構成体のさまざまな鰯藤の撫互葎稽の歴史分析を

皇載行っ規本を示した点に麟、また蜘認れを騰においてではなく・

鐵蝋練ったという点にある.そ礁繊蛙台に解る上騰造の灘撃壌

 という学説を広籠に舞濡したのである。この意喋において彼は文字どお瞬では

ないとしてもそ備神癒からい謡ま、歴史学の擁ではマルクス罐接の縫

 承者なのであるj. 恥δ3磁.麗舘梶螺拠撒躍窪,懲2乳蓮i焦。ユ23畦2亙こう

 した言い醤しの中に、ネウスィーヒンがおかしているr無理まを感じるのは、

 筆者だけではあるまい。

(鋤雛樵はi蜘鰍伽シア助一バ噸究が醐古脚継懸案紛野 から生まれたことを見てきたが、2§年代離半にはもちろんそれ以外にウェーバ

_雛がまったくなかった擁ではない.たとえば・欝シェヴィキ醜つと

 も勧な職家で誘ったブハー夢ンの羅綾的鞠講嚇繊餓鑑麹版玉92謝購ウ_バーへの言及があちこちに克捷る・ブハ一華呂ま転

 _.レを獄釧カレ湘ア確覆僻でも畷纒繰疑の宗教磯養 と呼んで.駿饗宗教の経灘鐵翻する細鱗深》噺究頚佐野勝隆繍

晃彗獄捜醗樵錆木舗、ig7鱒、222一灘やジ〉として・編教樋

 教碁ヒンズ融と{嫌疑翻しひ・る(霧・醗ig7・2i7皿鵬・222一鷹

 ページ〉, 「資本主義の精鋼論文を「企業家の心選」について集卒した砺究で

 あるとして、ゾムバル蓮ならべてで翻るがウーバー銘を挙げてレ’る・

 そしてげル弛ア売醜っ紬優繰学都である秘儀論はぼ資本謝 のなかでプ賞テスタントがr伝統的な休駐をほとんど仕事銭に変えたことによ

 って資本の発鞍の、ヒで一つの館麺演じて幡捷捲摘したマルクスの職

 を麟させた榊だと礎べてセ・る編書、難蠣ページ)・なおこの謙1まネ

 ウス仁ヒ濃おいて髄べ軈て櫛、ウェーバーをマルクス砲摂する議

一i凝一

行政縫会義集 第難巻 第i号

 論の一つに縫われた。ブハー婆ンの著樺からは披がウェーバーの罪宗教縫会学

 論集蚕を重暮当議…んでセ、たことが轟轟える。

  さらにルナチャルスキーに、ウェバーの音楽社会学を論じた一論文がある。

 A、巴羅y}麺重縁舞》cき{}{嚢,O c{遣エ嬢}潔}ド難t紛{!き{o璽 樋eT(黛e 鷺 賢}輝灘騨 薩 経{】賀)喜}濃{ 擁y3盤翼}董ン ∫嚢賀α欝き

 嵐ρ28むノ窒κ)鐸拐耳, 玉925, 睡{.3, c、董i-27.

  少し変わったところでは、臆年伐後半にコミンテルンで議論された中国革命

 の戦舞各をめぐる問題との関連で、ウェーノミーのぎ儒i数と道教雲が狂・ヴァノレガの

 論文に雛絹されたこともあった。ε.B鍛撮,3欝購羅聡。獺e鯵騰轟e糞灘鍵醤醗躍灘

 聾糠搬e,履齪偲。εκ03雁澱磁,玉925,藻i2,ご.工7i,恥鰹.王.

  代表麟なボジシェヴィキ運論家たちがこのようにウエーバーを講じていると

 いうことは、懲2毒年代のソヴェト・ロシアでは.ウェーバーが辻較的よく知ら

 れた存在であったことを勅語っている。

(§4/ネウスィーヒンの妻に宛てた手紙の一つに(稽2§年6月i4欝付/次のような叙

 遮がある.「今嚢ヤスパースのウェーバーについての講演を羨み返して嬉しくな

 りました。この発車なウェーバーの特徴づけをロシア語に畿訳して、わたしの

 罫プ皿テスタンティズムと総蓬書の翻訳書につけるウェーバーに関する序文の

 代わ鱗こおいたらどうかという考えが浮かびました、」なお、これにつづけて、

 綾は次のようにのべる。「でも印麟されることはないでしょう。あま撃にも罫観

 念論的選ですからね。図書館で淫交していた講じヤスパースのPsy畿olo癖鐙慶r

 We董ta黙磁a殺懸g琶登{欝至9暴こ今馨鰻を通しました。こ為はこれでまた披の罫精

 神癖遜学雌属様に面震いものです。これは巌々な哲学体系を資料にして、大腿

 の精神毯界に対する態度の基牽的な藷類型を捲こうとする試みです.すなわち、

 哲学的麟窪の心理学的な繭激要霞を解朝しようという試みなのです・これは盤

 舞鶴の心饗学といったもので、いわばぎ理実選雰感覚の哲学』紬織Oc陣難

 羅夢{矯環y斑ε終獺/とも言うべきものです.この本は葬常に生き生きとかつ癬瞬に霧

 かれています。わたしがどれほどこうしたことに興陳を弱かれたか想像してみ

 てください。わたしもすべてのロシアの詩人たちを被らの抱く璽実経鼻感覚の

観念から分新しようと鼠講んでいたからですが、ヤスパースは懸じことを哲学

 に関して行なっているのです」(論結児麗鱒8露雄齪麗灘3芦醗,欝92,羅3,c.i灘

穫韓./。ここには.公表された学籍論文の表懸からは窺うことができない、ヤ

一M2一

マックス・ウェーバーと賞シア鱒(小島 定〉

 スパースに共鳴するネウスィーヒンのもう一つの糞雰がみえる。なお、彼は華ル

 ケの愛読者であったことも韓鍾換えておこう。

(§5〉しかしながら、この翻譲護に対する麗心は葬常紅高かったようで、現在モスク

 ワのレ灘縫0魏に藤織されているものは、いず翻も手編で表紙は黒ずんでいた。な

 お、この藻訳書をめぐる事構については、捲稿「マックス・ウェーバーと輝シ

 ア(窃本誌第鎗巻3暑、薦狂騰4ページを参窯、。

補漣緯  モスクワにある随シア連邦露アルヒーフ」鎌鼬に駐難羅歴蜥究

脚継勲クシ拉が行なった窺3瑠月購の議会講が保存擁窟’る (毒.4総5,鱗.至,叢.舞5〉。その記録によると、蘇究会はほぼ月i曝のペースで聡催

 され、ペトルシェフスキーが主宰し、ネウスィーヒンが叢論を務めている・コ

 スミンスキーも常連の参総者であった.ここで取甑とげられているテーマを躄

ると、たとえば、ドプシュの難やウェーバーの都旙一の縫小腸蹴塙か

 つたことが構われる。またコミンスキーは23年3擁藩響に「捻量紀イギ夢ス農樗∫

 と題する報髄行ない、すでにこ嚇点で」畷システム購「鋤経測の 象鐵ではなく、むしろ「貨幣経済」の浸透の結果であるという、後に有名にな

 る妓の重要な譲点を展織している、ペトルシェフスキーが捲導者となった、こ

の輔勉クシ.ン嚇究会がソヴェ潮脚酵中鞭学を禽締したのであ

 るむ

  なお、塒ネウスィーヒン艇か嬬、庭一レ都備に諏旋輪ク 夢ツカヤーテレシコヴィチの譲文がある。敷C欝縦錘懸毅一Te脚螺。黎廼,r瞬傑。

 騒。雫愈夢終髭。一。磁嚢倉驪山ec継継翼観3費e懸,醜報羅謹辞爾灘難窟」925・眠し c寵一

78,鶴翼.2,c.雛ii8.微はドイツ雑纂較鱒陛す嶺玉・転一バ躍

譲_鋼薄駈い猿では、こ備文は勅ス仁ヒンのそ編魏べれば・二

 歩も三歩も癖ずる蔽があることは、瞬らかである。

補潅/21

  なお今貧では、その弟子達を中心にして一一ソヴェト時代、学者としてダ茨

 の麹を齢だ一、ネウス仁ヒンとそ癖ぺ防シェフスキ絶を誘ら ためてロシアの藤洋申量史学の発展の中で蕉塞に謹優し、位置づけようとする

 嚢がある.その観して、離離鮒たミー夢初や備文の渤》に量 界史醗究翫が霧得した記念講文集、慧Bj「y稚儒a,JL覧M鐘鋳催醗(槻8.鉾瓦瓦

               一意3一

                   行敬社会論集 第韮巻 第i号

融融灘齪縦灘8雄}・糟翻3徽翻薦趨ε鹿ε駕脚幽晦耀3、灘,

鍵.厚8耀W灘ε6ご凝袴(声α、・塩.κ、厚8}℃尻鰭鰐.M.,讐9§.がある.

羅甥耀麗粛.

一越4一

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