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1 アンチ・ファンタシーというファンタシー ファンタシーの変容とアイロニー 20世紀も終盤になってようやく、ファンタシーという文学ジャンルが文学 研究の場において正当な市民権を獲得したように思われる。例えばブライア ン・アテベリー(Brian Attebery)は『アメリカ文学におけるファンタシーの伝統』 The Fantasy Tradition in American Literature: From Irving to Le Guin,1980)において、確立され、完成された文学表現の手法の一つとしてファ ンタシー文学の存在を積極的に評価したからこそ、「アメリカにおけるファン タシーの伝統」などというものの航跡をたどろうとしている訳だ。この研究書 の副題の示す通り、本書の対象とする「伝統」の範囲はアーヴィング(Washington Irving)にまでさかのぼり、ホーソーン(Nathaniel Hawthorne)やメルヴィル (Herman Melville)を経た後、1900年に発刊されたボーム(L. Frank Baum) の『オズの魔法使い』(The Wizard of Oz) を転回点として捉え、オズ以降のレ イ・ブラドベリー(Ray Bradbury)等の存在を「ボームの伝統」(Baum tradition) という流れの中に見ていくことになる。そして、現代におけるファンタシーの 完成された姿の一つの典型としてル・グィン(Ursula K. Le Guin) の存在を認め ることにより、1980年に至るまでのアメリカにおけるファンタシー文学の 発展の軌跡を検証するという趣向が完遂されている訳だ。 これ以前にもファンタシー作品を対象として扱う研究書はいくつか存在した が、それらは作品自体の文学的価値を評価しようとするものよりも、ジャンル・ クリティシズムという形をとり、文化現象の一つとしてファンタシーという存 在をとらえ、飽くまでも心理学的考察の対象として、あるいは社会現象という 枠組みの中においてファンタシーを扱おうとするものが目立っていたのは否定 出来ない事実である。 C・S・ルイス(C. S. Lewis)やトルキン(J. R. R. Tolkien)による、準創造 (sub-creation)という言葉を用いて、真なる実在世界を観照するための積極的 な現実逃避の企ての一手段として創作活動の意義を評価しようとする、いわゆ るトランセンデンタリズム(transcendentalism) 的なファンタシー擁護論が以

Fantasy as Antifantasy

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アンチ・ファンタシーというファンタシー 1

ファンタシーの変容とアイロニー

20世紀も終盤になってようやく、ファンタシーという文学ジャンルが文学研究の場において正当な市民権を獲得したように思われる。例えばブライアン・アテベリー(Brian Attebery)は『アメリカ文学におけるファンタシーの伝統』(The Fantasy Tradition in American Literature: From Irving to Le Guin,1980)において、確立され、完成された文学表現の手法の一つとしてファンタシー文学の存在を積極的に評価したからこそ、「アメリカにおけるファンタシーの伝統」などというものの航跡をたどろうとしている訳だ。この研究書の副題の示す通り、本書の対象とする「伝統」の範囲はアーヴィング(Washington Irving)にまでさかのぼり、ホーソーン(Nathaniel Hawthorne)やメルヴィル(Herman Melville)を経た後、1900年に発刊されたボーム(L. Frank Baum) の『オズの魔法使い』(The Wizard of Oz) を転回点として捉え、オズ以降のレイ・ブラドベリー(Ray Bradbury)等の存在を「ボームの伝統」(Baum tradition)という流れの中に見ていくことになる。そして、現代におけるファンタシーの完成された姿の一つの典型としてル・グィン(Ursula K. Le Guin) の存在を認めることにより、1980年に至るまでのアメリカにおけるファンタシー文学の発展の軌跡を検証するという趣向が完遂されている訳だ。 これ以前にもファンタシー作品を対象として扱う研究書はいくつか存在したが、それらは作品自体の文学的価値を評価しようとするものよりも、ジャンル・クリティシズムという形をとり、文化現象の一つとしてファンタシーという存在をとらえ、飽くまでも心理学的考察の対象として、あるいは社会現象という枠組みの中においてファンタシーを扱おうとするものが目立っていたのは否定出来ない事実である。 C・S・ルイス(C. S. Lewis)やトルキン(J. R. R. Tolkien)による、準創造(sub-creation)という言葉を用いて、真なる実在世界を観照するための積極的な現実逃避の企ての一手段として創作活動の意義を評価しようとする、いわゆるトランセンデンタリズム(transcendentalism) 的なファンタシー擁護論が以

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前からあったのは確かだが、彼らの主張は文学研究者による体系的理論にのっとった文学論では決して無く、むしろファンタシー文学創作当事者の主観的立場から行われたものであったと言ってよいだろう。(1)文芸批評界の趨勢は、ロ-ズマリー・ジャクソン(Rosemary Jackson)の『ファンタシー、破壊の文学』(Fantasy: The Literature of Subversion, 1981)のように、このような見解は古めかしい、不適切なものとして退け、フロイト流心理学を活用して分析を加えようとするか、あるいはツヴェタン・トドロフ(Tzvetan Todorov) の『ザ・ファンタスティック』(The Fantastic, 1975)のように、構造主義の理論により社会的現象の一つとしてこれらの存在を解析しようとするものであった。ことに現代のファンタシー文学の流行の発端となったトルキンの『指輪の王』(The Lord of the Rings, 1954-5) については、ジャクソンはこれを作品としては全く評価しようとしていなかったし、トドロフの場合はこの作品の存在は全く眼中に無かったといっていい。しかもトドロフが「ファンタシー的なもの」(the fantastic)という名で呼んで、「自然法則のみを知る者が一見超自然的な現象に直面した時に覚える躊躇の念」という定義の許に論考の対象としたものは、一般的な意味においてファンタシーと呼ばれる類の作品ではなく、フランスで一時盛んに書かれた心理的な恐怖小説のように、ごく限られた特定の傾向を持つ作品群であり、彼はこれらが早晩消滅する傾向を持っていることを結論として選んだのであった。この予言は見事に外れ、彼の論考の対象とされたものとはいささか異なった姿をとったものとはいえ、とにかくも「ファンタシー」と呼ばれるものは生き延び、隆盛を究め、アテベリーのように実際にはいささか実在の是非については怪しげな部分もある「アメリカにおけるファンタシーの伝統」などというものを、強引に掘り起こそうとする熱心な研究者が現れる程、ファンタシーは20世紀後期における文学思潮の中心的存在となったのであった。 様々な意味でアテベリーの『アメリカ文学におけるファンタシーの伝統』は画期的な研究書であったと言える。彼はトルキンの『指輪の王』をファンタシー文学の典型とみなし、この作品の直接的影響の裡にあるものとして現代ファンタシー文学を積極的に評価しようとしたのである。トルキンの『指輪の王』を文学作品として価値あるものとして認めるか否かは、ファンタシー受容の視座を確認する上で重要な指標となるであろう。エドマンド・ウィルソン(Edmund Wilson)がアメリカにおけるファンタシー大流行をもたらしたこの作品の文学

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的価値を全く認めようとはしなかったのはあまりにも有名であるし(2)、『モダン・ファンタシー』(Modern Fantasy,1975)というファンタシー研究書を著したC・N・マンラブ(C. N. Manlove)も、トルキンに関する一章をわざわざ設けながらも、この作品の文学的価値については全く否定的であった。トルキンは熱烈な狂信的信奉者を得るか、全く等閑視されるか、或いは激烈な批判を受けるかのいずれかだったのである。こうした現象を踏まえてみれば、トルキンの存在をファンタシー文学の中核として据えた上で、その影響上に1980年に至る迄のレイ・ブラドベリー等に代表されるファンタシー作家達を捉え、ル・グィンに結実したアメリカの諸ファンタシー作品の意義を論じるばかりか、敢えてトルキンの影響以前のアメリカにおける「ファンタシー・トラディション」までをも掘り起こそうと試みたアテベリーは、ファンタシーの根づかなかった国アメリカにおけるファンタシー受容の一つの視座を代表するものなのである。 しかしながら端的に言ってしまえば、アテベリーはファンタシーを好意的に受け入れるとともに、ファンタシーの本質を取り違えたのであった。つまりこの「ファンタシー」という用語の最も広範な意味においてアテベリーはファンタシーを論じようと試みていたのであるが、この文学ジャンルの秘める最も微妙な、厳密な意味においては彼はファンタシーという現象を捉え損ねていたと言えるのである。 そもそもファンタシーという用語は定義を与えることがはなはだ困難な代物であることがしばしば指摘される事実である。アテベリー自身、後に『ファンタシーの戦略』(Strategies of Fantasy, 1992)を新たに著し、以下のように論の端緒を開いている。

CONSIDER THE FOLLOWING DEFINITIONS:

1. Fantasy is a form of popular escapist literature that combines stock characters and devices—wizards, dragons, magic sword, and the like—into a predictable plot in which the perennially understaffed forces of good triumph over a monolithic evil.

2. Fantasy is a sophisticated mode of storytelling

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characterized by stylistic playfulness, self-reflexiveness, and a subversive treatment of established orders of society and thought. Arguably the major fictional mode of the late twentieth century, it draws upon contemporary ideas about sign systems and the indeterminacy of meaning and at the same time recaptures the vitality and freedom of nonmimetic traditional forms such as epic, folktale, romance, and myth.

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以下の二つの定義について検討して頂きたい- 1 ファンタシーとは通俗的な現実逃避の文学であり、魔法使いや龍や魔法の 剣といったありふれた登場人物や仕掛けを組み合わせて、常に脆弱な善の力 が鉄壁を誇る悪の力に打ち勝つという決まりきった筋立ての物語を語るもの である。

2 ファンタシーとは文体上の遊戯性、自己反射性、社会・思想体制に対する 破壊的な傾向という特性を持った洗練された語りの様式である。おそらく2 0世紀後半における仮構表現の中心的様式であろうファンタシーは記号論・ 意味の不確定性という観念に密接な関わりを持つと同時に、民話・ロマン ス・神話等の非模倣的な伝統的表現様式の活力と開放性を奪還するものであ る。

そしてアテベリーはこの相反するいずれの定義についても同等の説得力を持った弁護をする用意があるとしている。これがこの時点に至ってのアテベリーにとってのファンタシーという用語が示すスペクトルの両端であるということであろう。そしてこの許容力の大きさがアテベリーという批評家の評価すべき特質であることは言うまでもない。しかし1980年に『アメリカ文学におけるファンタシーの伝統』を著した時点で、アテベリーは二度と再びファンタシーについて語ることは無いであろうと考えていた。ところが1992年に改め

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てファンタシーを対象として、ポスト・モダニズムやメタフィクションという概念を念頭に置きながら、このジャンルの内包する問題性を考察することを余儀なくされることとなったのである。これが1980年代以降の時代の変化であったであろうし、またアテベリー自身のファンタシー理解の発展でもあったことだろう。しかしながら現在ファンタシーと呼ばれている文学ジャンルは、そもそもその発端からこのような問題性を強く秘めていた、と語ってみればどうであろう。アテベリーは正しくもファンタシー文学の発生の糸口をドイツ・ロマン派のメルヘンに見ているが、マリアンヌ・タールマン(Marianne Thalmann)の『ロマン派のお伽話』(The Romantic Fairy Tale, 1964)を見るまでも無く、ドイツ・ロマン派とファンタシーの間には密接な関係がある。C・S・ルイスとトルキンという20世紀におけるファンタシー再興の起爆剤を発生させる上で大きな影響を与えたのは、ルイスによる喧伝のお陰で再び広く一般に知られることとなったイギリスのファンタシー作家ジョージ・マクドナルド(George MacDonald)である。マクドナルドはドイツ・ロマン派の直接の影響下に創作活動を行い、現代のファンタシー文学の源流とも言うべき独自の地平を開拓することに成功した。タールマンはドイツ・ロマン派の試みた文芸的お伽話(Kunst Märchen: literary fairy tale)を現代におけるロマン主義再考とシュール・レアリズムへの影響という文脈で論じていた訳だが、これらの思潮の内包する問題性を含めながらさらに現代的な形を取って現前してきたのが、実はマクドナルドに代表されるファンタシーではなかったろうか。マクドナルドは現代において「ファンタシー」と呼ばれるものの創始者と目されて良い人物である。そこにはトルキンとルイスに受け継がれた異世界構築を最大目標とするトランセンデンタル(超絶主義的)なファンタシーの一方の発現形と共に、もう一つ見逃すことの出来ない、極めてアイロニカルな機構が隠されていた筈なのである。 「虚構を描く」、という文学的営為の裡で、「一般にはあり得る筈の無い事象を題材として記述する」、という特性を持った下位区分を構成する「ファンタシー」というジャンルは、「フィクション」という言葉の持つ危うさにいささかも劣ることの無い程、それ自体究めてパラドクシカルな存在であり、「文学」と呼ばれる座標系、「現実」と呼ばれる座標系双方に対して大きな干渉を及ぼしうるパラメーターであった。しかも近年「フィクションを越える存在」という呼称を与えられた、これまたはなはだ問題の多い“ メタ・フィクション” という概

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念が導入され、これが従来のファンタシー文学と相互作用を及ぼした結果、よりリアリズム世界からの次元の乖離度の高いとされる、ポスト・モダンのファンタシー作品が続々と生成しつつある。このようなファンタシーの変化形としてのメタフィクションにおける時空発動の契機として、アイロニーという因子に着目せざるを得ないのは当然のことであろう。伝統的宇宙観の崩壊しつつあった近代の知識人の想念の裡で、宗教代替物あるいは普遍宗教に対する希求の念の発現形の一つとしてファンタシーという文学的表現が導入されたという事実が、様々の具体例を挙げて指摘することができる筈である。マクドナルドの創作動機の場合は典型的にこのようなケースの一つであった。そこでは、もはや文字通りに信じることの出来ない伝統的なキリスト教の信条にとって替わるものとして、つまり科学的・合理的知性による裏付けを得た、現代的な世界解式を提出しうる心理的形而上学の構築を企図する一手段として、ファンタシーという文学的表現が模索されていたのである。ドイツ・ロマン派の場合と同様、そこには永遠で不変の原理と価値の存在を「信じたい」という志向と、従来のいかなる教えも知識ももはや「信じられない」という絶望的な認識の間の葛藤を乗り越えるための、弁証法的試みの有効な手段として、アイロニーが導入されていた。アイロニーの精神は思考過程に内在する「信じる」という行為そのものを転覆させることにより、自らの想念の世界を否定し、破壊するニヒリズムという対極的作動因を取り込みながら、なおかつ新たな時空を創世するダイナミックな機構を含んでいる。そこには図らずもアテベリーがファンタシーに対するもう一つの定義として数えあげた、はなはだ現代的な問題意識と等質のものが窺えるのである。このようにして模索された思念の記述の結果が、ドイツ・ロマン派の諸作家の生み出したお伽話(Märchen)の実体であった。そこには信仰と不信という両極が渾然一体となった微妙な心的態度が現出している。ゆらぎと振幅の結果あるいは信仰が表に現れる場合もあり、またあるいは不信の方が表に現れる場合もあった。前者の典型的な例としてはヴァッケンローダー(Wilhelm Heinrich Wackenroder)やノヴァーリス(Novalis)の名があげられるであろうし、後者の例としてはブレンターノー(Clemens Brentano)やホフマン(E. T. A. Hoffmann)の名があげられるであろう。名付け得ぬ未知なるものに対する信仰がしばしばロマン主義の名で呼ばれてきたが、受け継がれてきたものに対する不信と、そして今自ら語りつつあるものに対する巧妙な内在的不信表明もまた、ロマン主義のもつもう一つの顔であることは、ともすれば忘れら

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れがちなことである。(3)本書においてはそのようなニヒリスティックな側面を作品世界提示の手法として際立たせ、積極的に利用したアイロニカルな機構をファンタシーの中に見ていくことにしたい。そしてこのような発現形態をとったファンタシーの存在を検出する指標をアンチ・ファンタシー(anti-fantasy)として定義し、その初期の発現形としてJ・M・バリ(James Matthew Barrie)の『ピーターとウェンディ』(Peter and Wendy, 1911)に注目し、またその後期の発現形としてピーター・S・ビーグル(Peter S. Beagle)の『最後のユニコーン』(The Last Unicorn, 1968) をモデルとして、ファンタシーの裏の容貌を瞥見していきたいと思うのである。 (1)

トルキン自身は自分の手になる創作物を「ファンタシー」という言葉を用いて呼ぶことはな

かった。彼は自身の文学活動弁護のために行った講演「妖精物語について」(“On Fairy-Stories”,

1938)において自らの理想とする作品のことを「妖精物語」(fairy-story) という言葉を用いて

呼んでいる。これはマクドナルドがやはり自分の創作動機について語った「幻想的想像力」

(“The Fantastic Imagination”)において「妖精物語」(fairytale)という言葉を採用していたこ

とにならったものだろう。ちなみにトルキンの僚友C・S・ルイスは「サイエンス・フィクショ

ン」(science fiction)という言葉でこのジャンルのことを語っているが、同時に“ fantastic”

という形容詞も論考の中で用いられている。彼は一般にサイエンス・フィクションと総称され

るものをいくつかの下位区分に分け、あるものは弾劾しあるものは弁護しているが、その中で

もとりわけ自分にとって関心の高いものをアメリカの雑誌Fantasy and Science Fictionに掲

載されている作品の幾つかを例に取り、超自然的な題材を想像力豊かに描き上げる要素を持っ

たものとしているのである。(“ On Science Fiction” , in Other Worlds, 1975. p. 67)

また、Oxford English Dictionaryでも文学ジャンルを表す用語“ a genre of literary

composition” としての“ fantasy” という言葉の初出を1949、The Magazine of

Fantasy and Science Fictionとしている。さらに用例としてはM. F. Rodellの「ミステリー

はウエスタン・ロマンス・歴史小説・サタイア以外のファンタシーという膨大な逃避小説の範

疇に属するものであり、全て同じ範疇に含まれるものである。」(Mystery Fiction ii. 4, 1954)

とF. Brownの「ファンタシーは現在存在していない、そして存在し得ないものを扱う。サイエ

ンス・フィクションは存在し得るもの、いつか現れるであろうものを扱う。」(Angels &

Spaceships 9, 1955)があげられている。

(2)

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Edmund Wilson, “ Oo, Those Awful Orcs!” Nation 182 (14 April 1956)pp. 312-3

(3)

このようなドイツ・ロマン派のアイロニーの機構に注目しているのは、G・R・トンプソン(G.

R. Thompson, Poe's Fiction: Romantic Irony in the Gothic Tales, the University of

Wisconsin Press. 1973) である。トンプソンはトルキンの主張したファンタシー文学創作理論

が後にジャクソン等によって揶揄を込めて呼ばれることとなった、「トランセンデンタリズム」

(transcendentalism)とアイロニーの関係をポーとドイツ・ロマン派との微妙な関連において詳

細に論じている。ジャクソンは彼女の研究書 Fantasy: The Literature of Subversionにおいて

文字通りファンタシー文学の機構を現状の社会機構の転覆を企てるものとして定義づけた訳で

あるが、この“ subversion” の機構は「ファンタシー」自身に対しても機能するものなのであ

った。

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メタフィクションとフェアリー・ダスト アテベリーは『アメリカ文学におけるファンタシーの伝統』においてピーター・S・ビーグルの『最後のユニコーン』を、トルキンの試みた徹底した異世界構築作業という文学創造理念との対照の裡に位置付けようとしている。アテベリーはまずビーグルがこのようなトルキンの影響を強く受けていることを指摘する。

Peter Beagle is one of the great appreciators of Tolkien. His essay on “Tolkien’s Magic Ring” (1) expresses the delight that many of us felt on discovering The Lord of the Rings. It points to Tolkien’s own faith in his materials as a source of strength, and it describes the sense Tolkien conveys that his story and the world within it were found rather than invented. (2)But it has little to say about how Tolkien makes his commitment infectious, and that should be the main concern of anyone who intends to follow in his footsteps.

p. 158

ピーター・ビーグルはトルキンの賛美者の一人であった。彼の書いたエッセイ「トルキンの魔法の指輪」は我々の多くが『指輪の王』を発見した際に感じた喜びをよくあらわしている。このエッセイはトルキンが自分の描く題材を想像力の源泉として強く信じていたことを指摘し、トルキンが読者に与える、この物語とそこに描きだされた世界は創りあげられたというよりはむしろ、見つけ出されたという感覚をよく描いている。しかしここには「どのようにして」トルキンが彼の関心に読者を引き込むことが出来ているかについてはほとんど何も書かれていない。それこそがトルキンの手法に倣おうとする者の中心的関心である筈なのに。

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1968年に『最後のユニコーン』を書いたビーグルを始めとして、後に続く1970年代のアメリカのファンタシー作家達がひとしくトルキンの影響を強く受けていることは紛れもない事実であろう。現実世界の瑣末なリアリティという束縛から想念を解放して、自由な仮構世界のなかで観念の新天地を切り拓くことを可能にするファンタシーの手法は、現代の心理的閉塞状況を打破する力を備えたものとして、訴えるものが大きかった。それはビーグルの場合よりも、『アメリカ文学におけるファンタシーの伝統』において最も重要視されているル・グィンの『影との戦い』(A Wizard of Earthsea, 1968)において更に顕著である。しかしここではアテベリーはビーグルのトルキン解説に対するアプローチのあり方に対していささか疑念を抱いているような口ぶりである。これはビーグルのトルキンに関するエッセイの出来栄えに問題があったというよりもむしろ、アテベリーの側にビーグルに対するある種の偏見があったからではないかと思われるのである。その辺りのところをもう少し探ってみることにしよう。さらにアテベリーはビーグルの作家としての経歴を紹介して次のように記述を進める。

Before Beagle attempted a fantasy he wrote a funny, offbeat ghost story called A Fine and Private Place. The type of low-key satire found in it is completely foreign to Tolkien’s fantasy: it is more likely to be found in the better grades of television situation comedy. When, in The Last Unicorn, Beagle attempted to express his appreciation for Tolkien in the form of a literary homage, he had to find some middle ground between the style he was accustomed to and the matter he was trying to incorp[or]ate. If there is any middle ground between wry comedy and high fantasy, it might just be the Thurber fairy tale, which is dazzling and funny and solemn, all at the same time. And the tone of The Last Unicorn, in its opening pages, is remarkably like that of The White Deer. Even little tricks like the anticlima[c]tic catalogs that both mock the subject and endear it to us, are the same. Here is a sample, a description of the Unicorn;

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She had pointed ears and thin legs, with feathers of white hair at the ankles; and the long horn above her eyes shone and shivered with its own seashell light even in the deepest midnight. She had killed dragons with it, and healed a king whose poisoned wound would not close, and knocked down ripe chestnut for bear cubs.

pp. 158-9

ビーグルはファンタシー執筆を試みる前に、風変わりで滑稽な『心地よく秘密めいた処』というゴースト・ストーリーを書いた。この作品に見られる控えめな風刺という様式はトルキンのファンタシーとは全く調子の異なるものである。これはむしろ出来のいいテレビの連続ホームコメディーあたりにありそうなものである。ビ- グルが『最後のユニコーン』においてトルキンに対する文学的賛辞を表明しようと試みた時、ビーグルは自分の慣れ親しんだ様式とこれから参入しようとしている様式の間に手頃な中間地点を見つけださなければならなかった。もしも皮肉な諧謔とハイ・ファンタシーの間に中間地点などというものがあるとするなら、それは厳かであると同時に可笑しく眩惑的なサーバー流のお伽話だろう。『最後のユニコーン』の出だしの調子は、正しく『白い鹿』にそっくりなものである。作品に描かれた主題を嘲笑すると同時に親しみ深いものにする拍子抜けするような事柄の羅列というさり気ない仕掛けさえも全く同じである。例を挙げてみよう。ユニコーンの描写である。

ユニコーンはとがった耳と膝のところに白いふさふさした毛のはえた細い足を持っていた。そして目の上の長い角は深夜の暗闇の中でさえも貝殻のような光を発して、ふるえていた。ユニコーンはこの角で龍を倒したこともあったし、毒を受けた傷がどうしても癒えない王様を助けてやったこともあったし、実った栗の実を熊の子供達のために払い落としてやったこともあった。

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アテベリーはビーグルの選んだ創作戦略をトルキンに対する賛辞(homage)であるとともに、トルキンのなし遂げたものとは地平を異とする別物であると指摘する。これは正しくその通りであろう。トルキンの『指輪の王』を格調の高い叙事詩のようなハイ・ファンタシー(high fantasy)の典型とするなら、ビーグルの『最後のユニコーン』は、一見リアリスティックな物語世界の中に超自然の現象が導入される、一般に言われるロウ・ファンタシー(low fantasy) ともまた趣の異なった、新趣向の作物となっている。これはアテベリーの言葉を借りるならばハイ・ファンタシーという極と「控えめな調子の風刺」あるいは「皮肉な諧謔」と呼ばれる極の中間に浮動する作品ということになる。そこにはジェイムズ・サーバー(James Thurber)が開拓したような、滑稽でもあり同時に厳かでもある独特の興趣が期待される筈であった。しかしながらアテベリーのビーグルの企図に対する最終的評価はかなり厳しいものとなっている。

But as soon as Beagle tries to inflate his fairy tale to encompass a world and a vision, after the manner of Tolkien, the Thurberish deftness departs and he grows self-conscious.[傍線筆者]The graft fails to take, and the two components draw apart, the magic into sentimentality and the modern voice into embarrassed joking. He gives his wizard the deflating name of Schmendrick and lets him indulge in anachronisms at the expense of the story, unlike Thurber, whose anachronisms always reinforce the charm of the fairy tale world through contrast. The center of The Last Unicorn does not hold: its characters and imagery go flying off in all directions, without reference to the patterns of significance that should command.

p. 159

しかしビ- グルがトルキンの流儀に倣って、自分のお伽話を膨らまして奥行きのある物語世界を構築しようとし始めるや否や、サーバー的な巧みさは失われ、ビーグルは「自意識過剰」になる。接ぎ木はうまくつながっていない。二つの要素は分離し、魔法は感傷へと変わり、現代的な語りの視点は落ちつかない冗談へと変わってしまっている。ビーグル

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は自分のお伽話の魔法使いにシュメンドリックなどという気落ちするような名を与え、時代錯誤のセリフを語らせてお話を台無しにしてしまう。サーバーの場合であったらその時代錯誤は常に現代と昔の見事な対照でもってお伽話の世界の魅力をより強めているものであったのに。『最後のユニコーン』の核は定まらない。登場人物達と作中に描かれた情景はばらばらに分解し、物語世界を引き締めるべき様式を形成することは出来ていない。

アテベリーはビーグルがトルキンに近づくことを意識した結果サーバー流の手法を試みることによってトルキンの域に迫ろうとしながら、結局破綻をきたしてしまっていると結論づける。(3)アテベリーの指摘するビーグルの「自意識過剰」な態度がこの作品全体に滲み出ているのは確かな事実だ。しかし果してこれは作者ビーグルが虚構世界構築の作業の途上で文学表現技巧のコントロール不能に陥ってしまった欠陥例として指摘するのにふさわしい特徴であるだろうか。この語り口は、「控えめな風刺」とアテベリーが呼んだ『心地よく秘密めいた処』を書いたビーグルの生得的なアイロニカルな体質が、トルキン流のハイ・ファンタシーを描こうとする際に齟齬を来した結果表出してきたものであると言いきることはできるであろうか。ビーグルに染みついたこの「皮肉な諧謔」的なスタイルの発現が、文学作品制作の場における失敗例として判断されるべき指標であると確信させうる基準はどこにあるのだろう。実はこの皮肉な要素はこの類の作品を理解する際には決定的に重要な因子として見做されなければならないものなのであるが、アテベリーは必ずしもこの言葉をそのような文脈で用いている訳ではないのだ。この点については、後にアイロニーとファンタシーの関係としてさらに詳細な分析の手を加えなければならないであろう。結局アテベリーはビーグルの選んだ作品世界創造の根本的戦略は頓挫したと断定する。アテベリーが認めるのはこの作品の一部に垣間見られる作者の詩的感性のみである。

Parts of the story are memorable: the fraudulent magical circus that reminds one of Ray Bradbury’s sinister carnival, the outwardly prosperous but inwardly barren town, the vision of unicorns floating like froth on the surf, the ponderous and

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fearsome Red Bull.

p. 159

物語の部分においては記憶すべきものが見られる。レイ・ブラドベリーの不気味なカーニバルを思い起こさせるいかさまの魔法のサーカスと、外見では繁栄しているように見えながら内実では不毛の町と、しぶきの上に泡のように浮かぶユニコーンの群れの場面と、重々しく恐ろしげな赤い雄牛のイメージは見事だ。

ここに紹介されているような創造的感覚の豊かさは、ビーグルの作家としての才質の高さを評価する上で非常に有効な具体例である。アテベリーも確かにそこのところを認めてはいる。しかしながらアテベリーには、決定的にビーグルを受け入れられない部分がある。それはこの作品の次のように論じられているような傾向である。

But Beagle does not gather these things into a satisfying whole because he lacks faith in them. He must lack faith, since he is always throwing pixy dust in our eyes to keep us from finding him out. This is pixy dust: “The witch’s stagnant eyes blazed up so savagely bright that a ragged company of luna moths, off to a night’s revel, fluttered straight into them and sizzled into snowy ashes”. So is this: “Schmendrick lighted down to support her, and she clutched him with both hands as though he were a grapefruit hull”. The first is uncalled-for, the second (grapefruit hull?) just silly. In neither case does the imagery advance the story, or even relate to what is going on. One feels like telling the author to play fair and let us see what he is about. Fantasy is not like parlor conjuring; its effects do not arise from misdirection and patter.

p. 159

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しかしビーグルはこれらを納得のいく全体像を形成する処まで繋ぎ合わせることが出来ていない。何故ならビーグルは自分のイメージを信じることが出来ないからである。信じることが出来ていない筈だ。なぜなら彼はいつも「妖精の粉」を振りかけるからだ。それはこんな具合だ。「魔女のよどんだ目はあまりにも凄まじい輝きを放って燃え上がったので、夜の酒盛りに出掛けるところであったオオミズアオの一行は、その目の中にまっしぐらに飛び込んで、しゅっと音をたてて雪のような灰になってしまった。」これもそうだ。「シュメンドリックは彼女を支えてやろうと飛び下りた。すると彼女はあたかも彼がグレープフルーツの皮かなにかであるかのように両手で彼にしがみついた。」前者の例はお呼びでない。後者は、(グレープフルーツの皮ときた。)単に下らないばかりだ。どちらの場合もその情景が物語世界を積極的に構築することはないし、話の進行とかみ合いさえもしていない。作者にもっと真面目に物語を語って、何が言いたいのかはっきりさせて欲しいと言いたくなる。ファンタシーは寄席の奇術などではない。ファンタシーの効果は見当違いのおまじないからは生まれない。

これがトルキンを認め、ビーグルを認めることの出来ないファンタシー評家アテベリーの下した最終的結論である。ここに得られたアテベリーのファンタシー受容の限界点から考察を始め、ファンタシーとアイロニーの不即不離の関連について検証を行うのが本書の目的であるが、その糸口として、まずここでいささか興味深い表現が用いられていることに注目しておきたい。それは「ビーグルがまやかしのファンタシーを読者に提供する」とアテベリーが断定する際の、「彼はいつも妖精の粉を振りまいている」(he is always throwing pixy dust)という表現である。この「妖精の粉」という言葉から我々は何か連想するものが有りはしないだろうか。それは言うまでも無く、バリの戯曲『ピーター・パン』(Peter Pan, 1904)に登場していた「妖精の粉」(fairy dust)である。バリは最初この劇を上演した時には、ダーリング家の子供達にピーター・パンの後を追って自由に空を飛ばせていた。ところがこの劇を観た子供達がダーリング家の子供達の真似をして飛び立とうとしてベッドからころげ落ちる、という事故が続出したため、バリは後のヴァージョンに、子供達に空を飛ばせるためには、ピーターは彼らに「妖精の粉」を振りかけなければならない、という

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設定を付け加えたのであった。 上演の度毎に観客の反応をうかがい、抜け目なく彼らの機嫌をとる娯楽提供者である人気劇作家バリのあざとい一面を人はここに読み取るであろうか。それも一考である。確かにバリは自分の劇を上演する度毎に綿密に観客の反応を観察して、脚本に手直しを加えるのが常であった。しかしバリは度重なる『ピーター・パン』上演の後、かなりの月日を経てから改めて小説版『ピーターとウェンディ』(Peter and Wendy, 1911)を書いている。脚本版とは異なった小説版『ピーターとウェンディ』には様々の語りの工夫が凝らしてある。それは文学作品における虚構性の操作が生み出す独特の効果を強く意識して、モダニスティックな小説を書くことから作家活動を始めたバリの技巧の集大成とも言えるものである。(4)この作品には実に巧妙に、安易な目で「ファンタシー」を読み取ろうとする読者をからめ捕る、作者の罠が仕掛けられていたのである。それがアテベリーが図らずも「ピクシー・ダスト」という言葉で呼んだフェアリー・ダストの正体であり、仮構世界を読者に提供しながら、同時にその仮構性自体をも読者の眼前に余すところ無く提示し、イマジネーションの世界の非在性を暴く、という「自意識的」(self-conscious)な様態を示す、先のアテベリーの言葉を再び借りるならば、「寄席の奇術」(parlor conjuring)にも似たメタフィクションの機構なのである。そしてまた、このような心的態度そのものが、ファンタシー文学誕生のきっかけとなったドイツ・ロマン派の哲学の特徴的な部分であったのであり、このような微妙な現実認識のあり方こそ、実はマクドナルドの切り拓いたファンタシー文学の内包する世界観に通底する視座なのでもあった。 (1)

Lyn Carter ed. The Tolkien Reader (New York; Ballantine Books, 1966)に序文として

収録されている。

(2)

語られる物語世界が作者の手により捏造された仮構である、という意識を読者に抱かせること

のないように細心の注意を払い、あたかも描かれた作品世界が現実世界のリアリティと比較して

遜色のないものであるかのように作品世界を提示する工夫として、トルキンは「ウェストマーチ

の赤い本」(the Red Book of Westmarch)という架空の書物の存在を想定し、自分はあくまで

もこの文献に対する註解者に過ぎないかのようなポーズをとって『指輪の王』という作品世界

を読者の前に示した。それが「創りあげられたというよりはむしろ見つけ出された」とアテベリ

17

ーが語る意味であり、異世界のリアリズムに徹底的にこだわるトルキン独自の文学表現上の発

明を評価する所以であった。アテベリーはトルキンのこの手法と比較して、ビーグルの作品世界

の提示の仕方が余りにも露骨に虚構性を読者の前に提示するものとして、不信表明を下している。

しかしながらこのようなビーグルの手法が伝統的な物語世界提示の手法を乗り越えようとする

ポスト・モダニズムの流れを汲んだメタフィクションの試みの一つであるとするならば、トルキ

ンの偽りのリアリズムを構想する、という手法自体がまた、フィクション世界構築のコンヴェン

ションを乗り越えようとするもう一つの試みであるという点で、正しくメタフィクションの機構

を備えている訳なのだ。当のアテベリー自身が後に『ファンタシーの戦略』(Strategies of

Fantasy)において、フィクションの枠組みをフィクション自体が意識することによってその枠

組みを破壊させるというこの機構が、『指輪の王』にも適用できることを指摘しているのは興味

深い事実である。(pp. 40-41)このような手法はアテベリーも述べているように、20世紀末

におけるファンタシー文学においてはむしろ主流を占めるに至ったのである。(p. 46 )この技

巧の先駆者がバリであり、アテベリーの指摘するもう一つの代表的なポスト・モダニズム的メタ

フィクションの戦略である、作中人物自身が自分がこの作品世界の一登場人物であることを語る、

(p. 47) という仕掛けをファンタシーの中に導入した先駆者がピーター・ビーグルなのである。

(3)

一つだけここで指摘しておくならば、アテベリーはビーグルが『最後のユニコーン』を書く際

に初めてトルキンのスタイルを採用した、というふうに理解していたが、実はビーグルはトルキ

ンを知る以前にすでにハイ・ファンタシーに属する傾向の短編を一つ書き上げていたのである。

19歳の時処女作『心地よく秘密めいた処』を書き、本作品が1960年に出版された後、ビー

グルがトルキンを発見したのが1965年頃で、ビーグルはその感動をもとにエッセイ「トルキ

ンの魔法の指輪」をHoliday Magazineに寄稿しているが、ビーグルの短編「死神嬢こちらへ」

(“ Come, Lady Death”)は1961年に書かれ、1963年に発表されている。この短編はビ

ーグルがスタンフォード大学在学中にファンタシーの嫌いなフランク・オコナー(Frank

O'Connor)のライティング・クラスに提出されたもので、オコナーはこの作品を「アビー・シ

アター風の見事な声で朗読した」後、「これはとても美しく書かれたお話だ。私はこの作品は嫌

いだ。」と言った、とビーグルの解説にある。(“ introduction” to The Fantasy Works of Peter Beagle, 1978)この短編は極めて完成度の高い逸品で、ユーモアとアイロニーが溶け合ったよ

うな、気品に満ちた造形的出来映えのファンタシーである。少なくともアテベリーが『心地よく

秘密めいた処』に感じたような「控えめな風刺」や「皮肉な諧謔」を感じさせるタイプのもので

はない。この作品を見る限りアテベリーの断定していたようにビーグルの生来の気質がサーバー

風の作風で書くことを妨げているということは出来ない筈だ。ビーグルはトルキンの模倣をする

必要の無い、独自のスタイルを持っているからである。むしろアテベリーがビーグルのアイロニ

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ーの深さを測り損ねたのではないかと思われる理由がここにある。

アテベリーは『指輪の王』をハイ・ファンタシーの典型と見ているようであるが、それは認め

るとしても『指輪の王』のどの要素をハイ・ファンタシーの条件とするかによって、この二分法

は変動しうるものである。ちなみにファンタシー撰集『闇の想像力』(Dark Imaginings: A

Collection of Gothic Fantasy, 1978)を編纂したロバート・H・ボイアー(Robert H. Boyer)と

ケネス・J・ザホースキ(Kenneth J. Zahorski)によれば、ハイ・ファンタシーとは想像上の二

次的世界を描いたもの、ロウ・ファンタシーとは現実的な一次的設定の裡に描いたもの、とある。

(“ introduction” to Dark Imaginings)これに従えば作品世界の基本的設定が現実とは異なる異

世界にある『最後のユニコーン』はハイ・ファンタシーに分類することも出来る筈である。アテ

ベリーのこの時点でのハイ・ファンタシーの概念は『指輪の王』の様式の方に偏向し過ぎている

きらいがある。

例えばトルキンの描いた奥の深い物語世界に劣ることの無い膨大な地誌・歴史を築きあげたジ

ェイムズ・ブランチ・キャベル(James Branch Cabell)の19巻余からなる『マニュエル年代記』

(“ Biography of Manuel’s Life” )は叙事詩的な文体で中世的仮構世界を描いている点で紛れも

無くハイ・ファンタシーであるといえるが、皮肉で風刺的な視点と語られる物語世界の仮構性に

対する自意識性もまたその特徴として備えている。アイロニカルなハイ・ファンタシーもまた確

かに存在する筈なのである。

ビーグルは極めて寡作ではあるが、彼の選ぶ作風にはファンタシーではありながら、いわゆる

ハイ・ファンタシー的なものとロウ・ファンタシー的なものの両極を窺うことが出来る。ちなみ

にハイ・ファンタシー的な短編を「死神嬢こちらへ」とし、ハイ・ファンタシー的な長編を『最

後のユニコーン』とするならば、ロウ・ファンタシー的な短編が「狼女ライラ」(“ Lila the

Werewolf” , 1974)、ロウ・ファンタシー的な長編が『心地よく秘密めいた処』という区分をす

ることが出来るだろう。長編『空の民』(The Folk of the Air, 1977) が出版されるまでにビー

グルの書いた小説はこの四編だけであったので、ビーグルはハイ・ファンタシーとロウ・ファン

タシー、長編と短編それぞれの組み合わせで各々一編ずつ書いていたことになる。これら4篇が

The Fantasy Works of Peter Beagleに収録されている。

(4)

モダニズム的作風の際立った例としては、バリがピーター・パンというキャラクターを最初に

導入することとなった小説『白い小鳥』(The Little White Bird, 1902)をあげることが出来る。

この作品の主人公である「私」は独身の中年の退役軍人であるが、何故か若い恋人達におせっか

いの手を差し延べ、不和になった彼らの仲を密かに取り持つばかりか、彼らの間に生まれた少年

に異常な愛着を示し、彼と共に一種独特の子供の世界の牧歌的風景を楽しむ。しかしながらこの

作品に描かれているものがいわゆる人情喜劇と異なるのは、上に略述したような主題が伝統的な

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手法を用いた小説のように時系列的なストーリーとして物語られるのとは異なり、一人称の語り

を軸に展開される抽象的な観念遊戯の世界として提示される点である。この独自の技巧をこの作

品において完成したバリは、『ピーターとウェンディ』においてはさらにもう一ひねり加えた、

モダニズムの枠を越えるところまで突き抜けてしまっていた訳であるが、『白い小鳥』は中程の

部分だけを独立させて『ケンジントン公園のピーター・パン』(Peter Pan in Kensington

Gardens, 1906)として発行されるなど、『ピーターとウェンディ』成立との関連から見ても、非

常に興味深いものがある。

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ネヴァランド—喪われた宗教 『ピーターとウェンディ』にはとりわけ気になる描写が一つある。それはネ

ヴァランドについて語られている部分だ。物語の語り手はこのようにネヴァランドを読者に紹介する。

If you shut your eyes and are lucky one, you may see at times a shapeless pool of lovely pale colours suspended in the darkness; then if you squeeze your eyes tighter, the pool begins to take shape, and the colours become so vivid that with another squeeze they must go on fire. But just before they go on fire you see the lagoon. This is the nearest you ever get to it on the mainland, just one heavenly moment; if there could be two moments you might see the surf and hear the mermaids singing. (1)

もしもあなた方が目をつぶったら、もしも運がよければ時には暗闇の中に宙づりになった綺麗な淡い様々な色をした水たまりのようなぼんやりしたものが見えるでしょう。それから目をぎゅっと強くつぶると、その水たまりのようなものはだんだんと姿をはっきりとさせてきて、その色はとっても鮮やかなものになり、さらにもう一度ぎゅっと目をつぶればきっと火がついたように燃え上がる筈です。けれども燃え上がる直前に、礁湖が見えるでしょう。これが本土で近づくことの出来る最高のところです。天国に行ったような一瞬です。もしもその一瞬のもう一つ先があったならば、渚が見え、人魚達が歌っているのを聞くことが出来るかもしれません。

ピーター・パンの住んでいる島ネヴァランドは、ピーター自身が言うように、「二番目の角を右に、それから夜明けまで真っ直ぐに」(“Second to the right, and straight on till morning.” )の辺りにある訳では決してない。作者もピーターが言うことは必ずしも本当ではない、と語っている通りだ。少なくとも、

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ここに描かれているネヴァランドは『宝島』(Treasure Island, 1883)のスティーヴンソン(Robert Louis Stevenson)や『ロビンソン・クルーソー』(Robinson Crusoe, 1719)のデフォー(Daniel Defoe)が描いたような南海の孤島などではない。これらはフィクションの世界の中とはいえ、具体的な地勢的遠近法の中に構想された、リアリズムの延長線上にその場所を特定することができる部分的小世界だった。しかしネヴァランドは目を瞑れば誰の頭の中にも自然に現れ出てくるという、一種の心的風景なのだ。正しく思念の焦点を合わせることさえ出来れば自ずと溢れ出てくるような、秘められた心の領域なのだ。敢えて言うならば、それは内観を通して意識の主体の裡に共通して発見される、集合的無意識と呼ばれるものに近いものなのかもしれない。ネヴァランドという場所(世界?)はピーターという不思議な主人公の秘められた本性を探る上で、『ピーターとウェンディ』においては重要な手掛かりを与えてくれるキー・ワードだ。この世界はピーターという存在と同様、誰もが誰かに特別に教えてもらったりする必要もなく、何時の間にか心の奥のところで知ってしまっている、自分自身の分身のようなところがある。例えばピーターに連れられてネヴァランドを訪れたダーリング家の子供達は、

Strange to say, they all recognised it at once, and until fear fell upon them they hailed it, not as something long dreamt of and seen at last, but as a familiar friend to whom they were returning home for the holidays.

p. 64

おかしなことだけど、子供達はみんな一目でそれが分かりました。そして恐怖の念が彼らを包むまでは、彼らは歓声をあげて島を受け入れたのでした。長い間夢に見続けてきてようやく目にすることが出来たものなんかではなく、お休みの間に戻って来て出会う親しい友達であるかのように。

とあるようにネヴァランドを異世界とは感じていない。むしろネヴァランドは彼等の魂の故郷なのだ。だからこの現実の世界(目を醒ましてしまったら自分が捉えられてしまっていると気付いたこの悪夢の世界)とは違って、何もかも

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が彼等にとって本来有るべき姿で存在している、安寧の世界なのだ。語り手はネヴァランドのことをこのようにも言う。

Of all delectable islands the Neverland is the snuggest and most compact, not large and sprawly, you know, with tedious distances between one adventure and another, but nicely crammed.

p. 10

幾多もある楽しい島のうちで、ネヴァランドは一番心地よくすっきりとまとまった島です。冒険と冒険の間にうんざりするような間隔がある大きなだだっぴろい島なんかではなくて、楽しいことがきっちりと詰め込まれているのです。

面倒な事は、一切無い。程よく、こぢんまりとまとまった、違和感を覚えることも疑問を抱くことも無いのがネヴァランドの世界だ。それは言わば回想の中で位相変換を施し、無駄なく圧縮された、理想化処理工程施行済みの完成品の記憶のようなものだ。人間社会の中にも自然の世界の中にも様々な矛盾に満ちた機構を見出して、この現実世界を創造し、司っている筈の神の配剤にふと疑問を抱いてしまわずにはいられない我々近代社会に生きる人間達にとっては、むしろ本当の意味で合理的な世界がこれだ。個と世界の存在とそれぞれを媒介する関係性の一つ一つに、確証された意義が宿っており、何一つ無意味や偶然などの夾雑物が紛れ込む事もない。そしてピーターがピーターとして存在することと、このような形でネヴァランドが存在することは、この物語の中では同等の意味を持っている。作者は物語のあちこちでピーターとネヴァランドの切り離すことの出来ない関係を匂わしているからだ。ネヴァランドはその言葉本来の意味で“Utopia”、(ou =not+tópos =place)つまり nowhereと同値であり、文字通りのあのトマス・モアのユートピア、つまりあり得ない理想郷なのだ。ピーターは正しく理想郷に我々を招いてくれる神であり、彼の「パン」(Pan)という姓は彼がキリスト教信仰に飽き足らなくなった近代的教養人が復活させてしまった、古代の異教の神、笛を持った牧羊神のパンであることを示している。だからネヴァランドは、例えばジョージ・マクドナルドが異質の想像力を駆使して、従来の信仰にとって替わるべき新たな形而上学的宇宙観を託して描

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いて見せた『ファンタステス』(Phantastes, 1858)や『リリス』(Lilith, 1895)などと等質の寓話の世界であるとも言える。この孤島が暗示するものは形を変えた新しい信仰の可能性なのだ。20世紀中葉の人々が民主主義や資本主義、あるいは社会主義などという名で呼んだ、現世の安逸だけを視野に入れたあまりにも薄っぺらで間に合わせの教理などよりはよほどまともな、自らの存在理由と世界存立の原理機構とを結び付ける力を備えた、力強い世界解式なのだ。しかしバリの場合はちょっと危ないところがある。上の引用の後で語り手は次のように続けているからだ。

When you play at it by day with the chairs and tablecloth, it is not in the least alarming, but in the two minutes before you go to sleep it becomes very nearly real. That is why there are night-lights.

p. 10

あなた方が昼の間椅子やテーブル・クロスを使ってネヴァランドごっこをして遊んでいる時は、ちっとも怖いところなんかありません。けれども床について眠りにつく二分程前になると、それは殆ど本物と変わらなくなるのです。だからベッドの脇にろうそくを灯さなければならないのです。

この理想世界はとても現実的になる。そしてそれはとても危険なことなのだ。一旦手に入れられ、実体化した理想は常にその背後に暗く不気味なものを覗かせているからだ。彼等のネヴァランドが現実的になるまでは、「もちろんネヴァランドはこの頃は空想でした、でもそれは今は本物になっていたのです。」(p. 64)と作者が語るように、これまではいかにも安全な空想の遊びでしか無かった。しかしそれが本物の現実になろうとし始めるや否や、「恐怖に取りつかれた三人は空想の島と本物になったその島の違いをこんなにも厳しく学ぶことになったのです」(p. 73)と語られるように、夢の世界は恐怖を秘めた手強い実在となってしまうものなのだ。心の中の理想を凝縮した夢幻郷は、自らの分身のように親しみ深く、いかにも心地良さそうに思えるのだが、この分身が実体化してあらたな他者として眼前に現れた時、これまでは思いもよらなかったおぞましい正体を見せつけることとなる。

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こうしてもう一つのキー・ワードが得られたことになる。それは「空想、振りをすること」であるメイク・ビリーブ(make-believe)という言葉だ。実際、この物語はメイク・ビリーブという観念を軸にして展開されているようなところがある。そしてこのメイク・ビリーブとは、作中に何度も繰り返し描かれているように空想の翼を羽ばたかせて遊ぶ、観念の遊戯であるとともに、実はビリーフ(belief)「信仰」の時に意図的な、時に無意識的な代替物として機能する複雑な心理機構のことでもあるのだ。 メイク・ビリーブとビリーフとの間の関係は実はなかなかややこしい。一方が実体で、他方が虚構である、といった安全な判別法が原理的に存在し得ないことが分かっているからだ。アテベリーの指摘に従って現代思想の問題点の一つを思い出すことができる。ゲーデルの定理があてはまりそうだ。「公理系が無矛盾である限り、その公理系は己の無矛盾性を自分では証明出来ない。」これになぞらえれば、我々はその信仰を信じている限りそれがメイク・ビリーブであることを証明出来ない(気付かない)。 メイク・ビリーブという観念が存在するという発想は何と絶望的で、しかも何と神秘的であることだろう。ピーターはこのメイク・ビリーブの天才なのだ。彼はネヴァランドで現実世界からさらってきたロスト・ボーイズ達を率いて戦争ごっこをしてみたり、彼らに御馳走を食べる振りをさせてみたりと、メイク・ビリーブの特権的行使者として、暴君的に振る舞う。そしてティンカー・ベルが死にそうになった時には、彼女を生き返らせるのには子供達の妖精の存在に対する「信仰」(belief)が必要であり「彼女はもしも子供達が妖精の存在を信じてくれたらまた元気になれる。」と、ピーターは現実の子供達にまでも訴えかけるのだ。

Peter flung out his arms. There were no children there, and it was night time; but he addressed all who might be dreaming of the Neverland, and who were therefore nearer to him than you think: boys and girls in their nighties, and naked papooses in their baskets hung from trees.

p. 197

ピーターは両手をさしのべました。そこには子供は一人もいなくて、し

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かも夜でした。けれども彼はネヴァランドのことを夢に見ているかもしれない、だから自分で思っているより本当は彼の近くにいる全ての子供達に呼びかけたのでした。寝巻を着た男の子にも女の子にも、木にぶらさげられた籠の中の裸のインディアンの赤ちゃんにも。

ここでもう我々の現実世界はこの物語の中に取り込まれてしまっている訳だ。誰ももはや物語の圏外で安全にお話の成り行きを傍観していることは許されない。心の中で夢見ているネヴァランドを通して子供達の誰もがピーターの「もしも信じるなら、手を叩いて欲しい。ティンクを死なせないで。」(p. 197)という呼びかけを聞く。子供達はこの要請に何らかの形で答えなければならない。そして恐ろしいことに、子供達の行動は既に作中で予見されてしまっているのだ。(2)

Many clapped. Some didn't.

A few little beasts hissed. p. 198

多くの子は手を叩きました。 叩かなかった子も何人かいました。 「ふんっ」と言った意地悪の子も二人か三人いました。

しかしピーターにとって、彼が要求した子供達のビリーフも、彼の楽しむ数ある気慰みのメイク・ビリーブのゲームの一つにすぎない。ピーターだけがこれまで遊んでいた「ごっこ遊び」を唐突に終了して、別の「ごっこ遊び」を開始する特権を行使することができる。子供達は何時如何なる折りにピーターの気が変わって、新しいゲームに移行してしまうやら、見当がつかない。ピーターはこれまで「ピーター」を演じてフックを相手に戦っていたと思ったら、今度は「フック」を演じて子供たちを相手に戦いをする海賊ごっこを始めたりさえもするのだ。子供達、そしてこの物語を通してピーターとネヴァランドのことを思い出してしまった我々は、ピーターの気持ちの赴くままに、メイク・ビリーブの世界の間をあてど無くキャッチ・ボールされねばならなくなるのだ。我々

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の想念の首筋は我々の心の中のネヴァランドを通じて既にピーターに搦め捕られてしまっている。ネヴァランドとは我々のまだ見知らぬ、そしてだからこそ我々を拘束する不思議な力を持つ、得体の知れない何物かでもあるのだ。ネヴァランドのことを思い出してしまったら、我々は今の現実を生きるために何時の間にか受け入れてしまっていた「信仰」や「思想」が、果してピーターの要求するメイク・ビリーブの一つであったのかどうかすら、分からなくなってしまう。 (1)

James Matthew Barrie, Peter Pan (New Jersey: Random House, 1987) p. 122.

『ピーターとウェンディ』のテクストとしては、1911 年発行の初版本のリプリントである

Peter Pan, (Random House, 1987)を用いる。以下本文からの引用は総てこの版のページで示

す。Peter and Wendyのテクストとしては他に様々のヴァージョンがあるが、原型を最も忠実

に留めているであろうこの版を選ぶこととする。煩瑣を避けるためタイトルは“Peter Pan”と、

原題とは異なったものになってはいるが、本書においては Peter and Wendyのテクストとして

は総てRandom House版の Peter Panを参照することとする。

(2)

このように物語を読む読者の存在を仮構世界という枠組を越えて取り込んでしまう機構は、ポ

スト・モダニズムの小説の用いる常套手段となったが、これは実はドイツ・ロマン派が演劇空間

の中で観客を舞台上のフィクション世界に巻き込もうと試みて創始した戦略であった。バリの場

合は思想的にはロマン派の自然宗教礼賛に傾きがちな心的状況をさらに乗り越え、20世紀初頭

に興隆したモダニズムの先駆的存在として時代精神の流れと関わっていたことは興味深い。今や

堕落の兆候が叫ばれているポスト・モダニズムとは果してどのような実体を備えた思潮であった

のだろうか。そしてまたポスト・モダニズムが対照物として措定した筈の「モダニズム」とは一

体どのような特質を持った思潮であったのだろうか。ポスト・モダニズムの政権奪取とその腐敗

(?)を前にして、今一度モダニズムの意味を問い直す必要が有りそうだ。

劇『ピーター・パン』(Peter Pan, Duke of York’s, December 27, 1904)においては、初演の

際バリは観客が演劇空間に参入して拍手をしてくれることは一切期待せず、オーケストラの楽員

が楽器を床に降ろして拍手する段取りであったという。しかしながら予期に反して観客は絶大な

拍手でピーターの要請に答えたのであった。かくしてこの奇想天外な作品は世界中で最もポピュ

ラーなお話の一つとなり、数多くのダイジェスト版やディズニーなどによるアニメ映画版が作成

され、本来のバリの仕掛けた毒を含んだ原作の実体は名声の許に忘れ去られるという運命をたど

ることとなった。

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しかしながらこの時拍手で応えた観客達は本当に妖精の存在を信じていたのであろうか。こ

の拍手の暗示する観客のビリーフ受容表明の態度のあり方には何かしら空恐ろしいものがある。

神亡き後の疑似宗教としてマクドナルドに代表される19世紀イギリスのファンタシーは興っ

たが、『ピーター・パン』が初演されたこの時すでに、人々は信じぬ神を敬うことを選んでしま

っていたのだろうか。それとも現代人の神は、徳性も倫理観も忘れ果て、束の間の快楽と欲望の

みに生きる人々が嘲笑しながらその存在を容認する、おもちゃのような偶像と堕してしまってい

たのだろうか。

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メイク・ビリーブの両義性とコンヴェンション メイク・ビリーブという観念は先程も述べたように、我々が想像する以上に陥穽に満ちた危険な代物であるのだ。何故ならば、経済学の用語らしい「公債と株式」(stocks and shares)などという難しそうな言葉を操り、世の中の常識にどっぷり漬かっている筈のダーリング氏でさえもが時に、ピーターや子供達と全く変わりの無いメイク・ビリーブを行ってしまっているからだ。例えばこんな具合だ。

“George,” Mrs. Darling entreated him, “not so loud; the servants will hear you.” Somehow they had got into the way of calling Liza the servants.

p. 30

「ジョージ、」ダーリング夫人は言いました。「そんなに大きな声を出さないでちょうだい。召使い達に聞こえるでしょ。」どういう訳か彼らはリザのことを召使い達と呼ぶようになっていたのでした。

さほど裕福でもないダーリング家には召使いといえるものは、子守りのリザを除いて一人もいない。でも夫婦は彼女のことを複数形で「召使い達」と呼ぶことにしている。大勢の召使いを抱える資産家の振りをしている訳だ。こんな類のメイク・ビリーブなら他にもあった。それは次のような部分だ。

Mrs. Darling loved to have everything just so, and Mr. Darling had a passion for being exactly like his neighbours; so, of course, they had a nurse. As they were poor, owing to the amount of milk the children drank, this nurse was a prim Newfoundland dog, called Nana, who had belonged to no one in particular until the Darlings engaged her.

p. 5

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ダーリング夫人はなにもかもきちんとやっていくのが主義でした。そしてダーリング氏もご近所の方々とそっくり同じ風にやっていくのが望みでした。そういう訳で、当然、彼らは子守を雇ったのです。子供達がたくさんミルクを飲むおかげで彼らは貧しかったので、この子守はナナという名前のすましたニューファウンドランド犬になりました。ナナはダーリング夫妻が雇うまでは特にどこのお宅にお仕えしている訳でもありませんでした。

ダーリング夫妻は子守りのリザのことを「召使い達」と呼ぶのと同様に、犬のナナを「子守」と呼び、子守として雇った振りをして、実際に子守りの仕事をさせてもいるのだ。彼らはご近所の暮らしぶりを意識して、社会的な体面をとりつくろうつもりで、犬を子守りに使っている。なんだか実際的でもあり、まるで実際的でないようでもある。ナナに子守をさせることで、彼らの体面は本当にとりつくろわれていたのだろうか。そしてこれがメイク・ビリーブという言葉の内包する不思議さでもある。「信じる振りをする」とは一体どういうことなのだろう。「振りをする」というからには本当に信じてはいない筈だ。しかしメイク・ビリーブとは確かに「信じていないことを信じている」ことなのだろうか。それともメイク・ビリーブとは「信じていることを信じていない」ことなのだろうか。我々の現実認識と絶対知に対する確信に関わる内省の基底を揺さぶるような不安をこの言葉は秘めている。(1) ネヴァランドこそこのメイク・ビリーブの本質を体現する世界であり、ピーターの最も特徴的な属性がメイク・ビリーブの天才であるということであった。このキー・ワードに焦点を合わせてしばらく『ピーターとウェンディ』の作品世界を追ってみることにしよう。まず子供達はピーターに連れられてネヴァランドに向かう途上ですでにメイク・ビリーブに関わる疑問に足をすくわれ始めている。

Sometimes it was dark and sometimes light, and now they were very cold and again too warm. Did they really feel hungry at times, or were they merely pretending,[傍線筆者] because Peter had such a jolly new way of feeding them?

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p. 59

時には暗くなったり、時には明るくなったり、またとても寒くなったり、またひどく暑くなったりもしました。時々とてもひもじくなったのか、それともただひもじい振りをしていたのか、よく分かりません。何故ならピーターはとてもおかしなやり方で彼らに食べ物を与えていたからでした。

子供達は自分達が空腹であるのかどうかが分からなくなる。それはピーターが空中で出会った鳥達から食物を奪う、という一風変わった食事のしかたを彼らに教えるからだ。彼らは本当に鳥達のくちばしから食物を取り上げたのだろうか。それともピーターお得意のメイク・ビリーブのゲームにすでに引き込まれてしまっていたのだろうか。「食べる」ということは重要な問題だ。それはこの行為が生命を維持していく、という営為につきまとう現実世界の非情な制約を意味しているからだ。食べることとは殺すことであり、奪うことである。食べる事を拒否して聖人になることが出来てしまえば、それは非常にお手軽な、あやかしのファンタシーとなる。そんなファンタシーもどきの人気作品も確か以前にあった筈だ。一つ具体例をあげるならば、「オズの魔法使い」の中で扱われていた「食べること」に関するモチ- フがある。文学作品に描かれた作品世界は、現実世界とは機構を異にする別世界であるから、登場人物が食物を手に入れることが必ずしもフィクション世界のリアリティを構築する上で要求されねばならないということはない。作者はそのような煩瑣な部分をオミットして記述を進めることができる。それがその作品世界の内的法則として公理系内の秩序を乱すことがない限り、作者は記述対象の恣意的選択の責任を問われることはない。ところがこの物語は作品世界の内的法則を破綻させる致命的なミスを犯しているのだ。 突然異世界に紛れ込んでしまったドロシーが、生きていくために食べ物を見つけ出すことを必要とするという基本条件は、この作品では無視されていない。ドロシーはバスケットの中にあったパンを食べたり、木の実を見つけて食べたりする。登場人物が生存を続けていくために食物を食べ続ける事自体においては矛盾はない。ところが食べることに付随した倫理(2) の点で、どうしても見逃すことの出来ない杜撰な作者の態度をこの作品は露呈しているのだ。残ってい

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たパンを食べ尽くしてしまって、翌日の朝食を手に入れる当ての無いドロシーに、ライオンが森に行って鹿を捕ってきてあげようかと申し出ると、ブリキの木こりは可哀相だからそんなことはしないでくれと頼む。そこでライオンは自分だけ森に入って自分の夕食を見つける。ところがこの場面のしばらく後にブリキの木こりは野ねずみを捕らえて食べようとしている山猫を見つけると、こんな可愛い無害な動物を殺そうとするのはいけないことだと「知っていた」ので、野ねずみを救うために山猫の頭を切り落としてしまうのだ。文字通りの御都合主義の子供騙しの展開であるが、実は大人より子供の方がむしろ物語の内的リアリティの一貫性についてはより敏感な筈なのだ。多くの大人達は仮構世界は現実世界とは別物の、気楽に受容されうるまがいものであるとして仮構世界内の矛盾について寛容な態度を示す。彼らの間違いは物語世界が提示する公理系が現実とは異なる別の体系であることを忘れ、物語であるが故に現実にはあり得ない矛盾が描かれていても差し支えないとして、矛盾点に対するこだわりを捨てる、という暗黙の了解を互いに押しつけあっている点だ。つまり社会的常識人である大人達は、仮構世界受容に関するコンヴェンション(約束事)(3) の条件設定に関して致命的な錯視を行っているのである。 バリの場合はむしろこのような仮構世界受容に関わるコンヴェンションそのものを作品の戦略兵器として積極的に利用しようと試みている。これも一つのメタフィクションの機構として指摘しうる事実である。読者の安直な願望に答えてお手軽な正義の幻想を与えてくれるようなことはバリは行わない。その点で『ピーターとウェンディ』の示す倫理的関心は、他のいかなるリアリスティックな文学作品よりも非情で、苛烈なものとなっていると言ってもよい。 食べることはメイク・ビリーブという主題と密接に関連して、冒険とともにネヴァランドにおける子供達の生活を描写する基盤となっている。彼らの食事の有り様はこんな風だ。

This meal happened to be a make-believe tea, and they sat round the board, gazzling in their greed; and really, what with their chatter and recriminations, the noise, as Wendy said, was positively deafening.

p. 152

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この食事はメイク・ビリーブのお茶でした。子供達は食卓の回りに座ってがつがつと食べていました。本当に、子供達のおしゃべりや口げんかのために、ウェンディの言ったように耳がおかしくなってしまうほどの騒ぎでした。

この見せ掛けだけの食事は、ピーターが子供達に厳密に命じることの一つだ。メイク・ビリーブの食事のために、ウェンディはわざわざメイク・ビリーブの食事の支度さえしなければならないし、子供達は自分達の意に反して御馳走を食べる偽りの儀式をとり行なわなければならない。なんとか本当に食べさせてもらえるのは、絶食のため体が細くなってしまって、秘密の地下の住処に出入りする木の穴の大きさに体が合わなくなってしまったことを証明できた時だけなのだ。

The cooking, I can tell you, kept her nose to the pot.... but you never exactly knew whether there would be a real meal or just a make-believe, it all depended upon Peter's whim. He could eat, really eat, if it was part of a game, but he could not stodge just to feel stodgy, which is what most children like better than anything else; the next better thing being to talk about it. Make believe was so real to him that during a meal of it you could see him getting rounder. Of course it was trying, but you simply had to follow his lead, and if you could prove to him that you were getting loose for your tree he let you stodge.

p. 114

本当にね、ウェンディはお料理につきっきりでなければなりませんでした。でも本当の食事にありつけるのか、ただのメイク・ビリーブの食事になるのか、それは誰にも分かりませんでした。みんなピーターのきまぐれ次第だったのです。ピーターはもしゲームの一部としてなら、本当に「食べる」ことができました。けれどもピーターにはお腹を一杯にするために「詰め込む」というのはできませんでした。子供達がみんななによりも望んでいたのはそのことだったのですけれど。その代わりにで

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きることといえば、食べ物のことについて話すことでした。メイク・ビリーブはピーターにとっては事実と変わりのないことだったので、食事の振りをしている間にピーターのお腹がふくらんでくるのを見ることさえできました。もちろんこんなのはつらいことでした。けれどピーターの言うことには従うしかありませんでした。そして子供達が自分の木に合わせるには体が細くなりすぎてしまったことをピーターに見せてやれた時には、ピーターは子供達に本当に食べさせてくれるのでした。

メイク・ビリーブというゲームを強いるピーターは、犠牲と供物を強いる神や祭礼を要求する神とどこか似ているところもあれば、また一味違ったところも備えている。ピーターにとって食べることはゲームであり、生きることも死ぬことも「途轍もない冒険」としてのメイク・ビリーブのゲームでしかないのである。メイク・ビリーブは時にはいかにも子供らしい、他者に感情移入して別の人格を演じる夢想となる。それはピーターがフックを倒し、海賊船を占領した後仇敵のフックの持ち物を奪ってフックになりかわっている場面によく窺える。

It was afterwards whispered among them that on the first night he wore this suit he sat long in the cabin with Hook’s cigar-holder in his mouth and one hand clenched, all but the forefinger, which bent and held threateningly aloft like a hook.

pp. 233-4

後程子供達は囁き合ったものでした。ピーターがフックの服を身に着けた最初の晩、ピーターはフックのパイプを口にくわえ、片手は人指し指だけ突き出して恐ろしげに鉤爪のように曲げて頭の上にかかげ、長いこと船室の中で座っていたと。

いつか必ず倒さなければならない仇敵のフックも、ピーターにとっては実際的な利害関係や倫理上の目的で排除しなければならない障害などではない。むしろ強敵であったがために、彼はフックにある種の憧れの気持ちさえ抱いているようなのだ。他者を倒して生き延びなければ自分が自分でいられない、生き物

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を殺して食べなければこの身を生かしていくことが出来ない現実世界の制約をあざ笑うかのように、バリはピーターの超越神的きまぐれによって振る舞われる絶対的権力の横暴さを描く。ピーターとともにメイク・ビリーブを演じている子供達と冒険の主導者のピーターとの間には測り知れない縣隔があるのだ。

The difference between him and the other boys at such a time was that they knew it was make-believe, while to him make-believe and true were exactly the same thing.

p. 102

こんな時のピーターとほかの子供達との違いは、子供達がこれはメイク・ビリーブだと知っているのに対して、ピーターにとってはメイク・ビリーブと事実とは全く同じことだということでした。

ピーターの指図のもとにゲームに参加する子供達にとっては、善悪も生死もないがしろにすることができない重大な意義を備えた絶対的で一義的なものである。ところがこれらの基本ルールさえ変更する力を持つピーターは、時として子供達を裏切るようなことまでも平気でやってのける。

It [the adventure] was a sanguinary affair, and especially interesting as showing one of Peter’s peculiarities, which was that in the middle of a fight he would suddenly change sides.

p. 119

その冒険は血なまぐさいものでした。ピーターらしい風変わりなところが見えてことに興味深いものでした。ピーターは戦いの最中に突然自分の属する側を変えるのでした。

メイク・ビリーブという観念について改めて分かることは、我々の現実認識においては認識する主体の我々自身が、我々の世界の運行規則を記述する原理法則が絶対値として正のベクトルを持つものか負のベクトルを持つものか決して判別することができないにもかかわらず、我々の実生活がこれにより絶対的支

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配を受けているのに対して、ピーターのような超越的存在においてはこれを選択的に操作することが出来るということだ。メイク・ビリーブに関して全能の力を持つピーターにとっては、時にはメイク・ビリーブの力を活用して楽しむことができる筈の冒険を「しない」ことさえメイク・ビリーブの対象となってしまう。

Peter invented with Wendy’s help, a new game... It consisted in pretending not to have adventure... To see Peter doing nothing on a stool was a great sight.

pp. 117-8

ピーターはウェンディの助けを借りて、新しい冒険を考えだしました。それは冒険をしない振りをすることでした。ピーターが何もしないで椅子にすわっているところは中々の見物でした。

つまり全能神においては非在すらもが可能であるということだ。「全能であるという条件によって神は存在せねばならない」とするスコラ哲学の神の存在証明は「神さえも論理の束縛を受ける」ということを前提としていた筈だ。ところが真に全能なる神はこのような二者択一的な論理の要請を超越し得るものであるかもしれないのである。(4) このような認識は20世紀後半において「真空のゆらぎから宇宙が生成する」という物理的事実を発見するに至った現代人が新たに確認し直したものであると言えよう。アテベリーが後に改めて指摘する必要を認めることとなったファンタシー文学の潜伏した問題性がこのあたりに反映されている。 しかしながら我々にとってはなはだ不安なことは、メイク・ビリーブの機構を支配しているピーター自身が自発動的なゆらぎを示し、ゲームの世界の規則、つまりは自分自身のアイデンティティを失念してしまい、「偉大なる父」(the Great White Father)として子供達の父親の役を演じていたことが事実であったかゲームであったのか分からなくなってしまい、ウェンディに「ぼくがこの子達のお父さんだなんて、ただのメイク・ビリーブだよね。」(p. 158)と不安気に尋ねたりもするということだ。 ここに窺われるのはやはりメイク・ビリーブという行為の暗示する両義性で

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ある。生命力に溢れ、いつも冒険を楽しんでいた筈のピーターは実は食物さえ摂取することのない、気持ちがおもむきさえすれば冒険しないことさえ、あるいは死んでしまうことさえ喜んで行ってしまう得体の知れない神なのである。生と豊穣の喜びに満ちた神の一面と、虚無をもたらす死神の一面を合わせ持っているのが、我々の記憶以前の深層に潜んでいたピーター・パンという神なのであった。 結局、ピーターは実際には「食べて」いない。しかし食べることに付随する倫理的問題点はこの物語において回避されている訳ではない。何故ならば食べることよりももっと直截な非道義的行為である「殺すこと」が彼らによって実際に行われているからである。『ピーターとウェンディ』は子供達の残酷さを描いたファンタシーなのであった。そしてユートピアが描かれた文学作品の多くがそうであったように、「楽しく生きる」ためには殺し合う冒険が無ければならない、という点ではネヴァランドの世界は反ユートピア(dystopia)の一面をも有していたのであった。 (1)

メイク・ビリーブとは言葉を変えて言うならば、我々が自ら意識することが原理的に不可能な、

我々の思考・認識機構を作動させるシステムのおぼろげな投影であり、空白の無意識が書き込ま

れるために初期化された心の白板(tabula rasa) の残像でもある、とでも言い換えれば 20世紀後

半の時代意識とバリの採用したアンチ・ファンタシー展開のための戦略との接点に対する記述と

は成りえよう。

(2)

この食べることの提示する倫理のパラドクスを物語世界の公理系の破綻としてさらに深刻な

形で抱え込んでしまった作品に、ヒュー・ロフティング(Hugh Lofting)の『ドリトル先生月へ行

く』(Dr. Dolittle in the Moon, 1928)がある。生きるもの全ての共生という理想郷の実現につ

きまとう、食べるために殺さねばならないという現実の制約が悲惨な形で浮き彫りにされていた

のがこの作品であった。これについては脇明子氏の『ファンタジ- の秘密』が詳細な論考を行っ

ている。さらに生態系に組み込まれた種の一つとして生を送る人類が普遍的倫理を語ることがで

きるか否か、という疑問はドイツ・ロマン派の夢と希望を引き継ぎ、詩と科学と宗教を一つのも

のにしようと夢想した日本の希有なファンタシ- 作家宮澤賢治の直面した重大問題であった。

『ピーターとウェンディ』におけるバリのこの倫理の問題に対する回答は、「楽しく暮らすには

残酷でなければならない」ということであった。賢治自身のこの問題に対する解答はおそらく「他

のもの達の幸せの為に自分の身を犠牲にしたい」というものであったろうが、個人的な願望とし

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てではなく論理的な解答として賢治のこの結論を考察すれば、これははなはだ不遜な願望である

と言えるかもしれない。生往生を通り越して全てのものがこのような決心をしてしまったならば、

生あるもの全てが死に絶えてしまう。他のもの達の幸福な生と己の生の放棄をこのように結び付

ける発想の裏側には、犠牲と成りうる己自身の救世主としての特権意識がある。また、キリスト

教的な文脈の中で贖罪という概念でこの問題を捉え直してみるならば、神の子であるイエス・キ

リストが苦しみの生を生きる人々を哀れんでその罪を贖う力を実際に持ったにせよ、その贖いの

行為は単なる肉体的苦しみを越えた、極限的苦難でなければならない筈である。ところがイエス

にとっての最も大きな苦しみは正しく人々がこのような苦しみを受け続けるということではな

かったか。とすれば彼の我が身を犠牲にして他を救わんとする贖いの行為は、磔刑に処せられる

ことなどでは到底叶えられる筈はない。産みの苦しみと老いの苦痛と殺し、食う悲痛に縛られて

人々が凄惨な生を送りつづけるのを目の当たりにすることこそイエスに課せられるべき代償で

はなかったか。だとすればイエスによって哀れみを受ける他者である我々はイエスの贖罪によっ

て救われることは決してないだろう。このディレムマを「贖いのパラドクス」と呼ぶことにしよ

う。自と他を分かつことにより救済の術を考える思想はこの論理の制約を越える力を持たない。

この贖いのパラドクスを逆転させたのがル・グィンの「オメラスから歩み去る人々」(“The Ones

Who Walk Away from Omelas”)というサイコ・ミス(psycho myth)であった。「贖い」とは、

かつてあまりにも強大な自然の力に弄ばれながら苦痛の生を送ることを強いられていた古代の

人々が、神の寵愛を得るために行っていた生贄の儀式を、自発的な他者救済の行為としてダイナ

ミックに反転させたパラドクシカルな行為であるとしてみることが出来よう。ル・グィンは逆に

贖いの中に強要された犠牲を見た。たった一人の負わされた苦痛の上に成り立つ平和な理想郷が

オメラスという世界である。オメラスの人々は彼らの享受している幸福が犠牲として選ばれた無

力な一者の際限の無い苦痛と引換えに得られたことを学ばざるを得ない。そしてオメラスの大部

分の者たちはこの欺瞞に満ちた理想郷に安住することを容認する。しかしある者たちは自分たち

に与えられたこの幸福を偽りのものであるとして拒否し、オメラスを立ち去ることを選ぶのであ

る。幻想を排した現実認識の許に倫理の問題の再検討を図ろうとすることを企図した寓話がここ

に描かれている。このようにファンタシーが素朴な倫理的疑問を土台とした寓話の形をとったも

ののことをル・グィンはサイコ・ミスという言葉を用いて呼んだ訳だが、ファンタシーと普通呼

び習わされているものは、バリの場合と同様実はもっとしたたかなメカニズムを裡に秘めている

のである。何故ならばオメラスの人々は自由意思でもってオメラスから歩み去ることが出来たが、

現実に生きる我々は文字通りこの世界から歩み去ることは不可能であることを知っているから

だ。現実世界はオメラスの世界ほど生易しいものではない。バリはこの「贖いのパラドクス」の

メカニズムを「グッド・フォームと内省」という方程式に変換してほろ苦く語ってくれることに

なる。

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(3)

ワイルドは「嘘の衰退」において作品世界の公理系を決定する因子のことをこの用語を用いて

語っている。ファンタシーというジャンルを可能世界の一つとして考察するにおいては、同等の

概念が“perspective”「奥行き、相関関係式」という言葉を用いて語られることとなった。Cf.

Rabkin, The Fantastic in Literature, 1976.

(4)

例えばエレア派の神秘哲学者パルメニデス(Parmenides)が唱えた「存在と思惟の一致」など

の観念がこのような形而上学の一変奏として思い起こされるであろう。ピーターの正体を明かす

一つの解釈は、彼を「存在原理の形而上学的超越性」と見なす見解であろう。

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ハートレスな子供達 『ピーターとウェンディ』においては「正義」の所在は全く問題にされていない。ピーターも子供達も堅固な倫理観を備えて不正と戦うことを責務とする正義の味方なんかでは決してないし、彼等の仇敵である悪党キャプテン・フックの存在も、実は作品世界の倫理的極性を規定する絶対悪として機能している訳ではない。(1) さらに「食べること」に関わる倫理のパラドクスが棚上げにされるどころか、むしろ「食べること」に附随する倫理のディレムマの存在を嘲笑するかのように、作中人物の多くのものが実際に行っている快楽のための殺戮行為にあからさまに見てとることができる「残酷さ」が、作品世界内の価値基準を決定する美学の条件として積極的に強調されてさえいるのだ。 ピーターは本当に人を殺すことなど、なんとも思っていない。ダーリング家の子供達をネヴァランドへと連れて行く途中で、いかにもさり気なさそうにピーターは尋ねる。「ちょっと冒険してみるかい?それともお茶を先にするかい?」(p. 67) 常識的なウェンディはすかさず「お茶がいいわ。」という。臆病なマイケルは、ほっとしてウェンディの手をぎゅっと握り締める。けれども勇敢な長男のジョンは、そう簡単に勇壮な冒険の機会を逸する訳にはいかない。ジョンはピーターに尋ねる。「どんな冒険なの?」するとピーターは答えてこう言うのだ。

“There’s a pirate asleep in the pampas just beneath us, ...If you like, we’ll go down and kill him.”

pp. 67-8

「ぼくらのちょうど真下の草原に海賊が一人眠っているんだ。…もしよかったら、降りて殺しちゃわないかい。」

思わず怯えて「もしも海賊が目を醒ましたらどうするの?」と聞いてしまったジョンに、ピーターは憤慨してこう答える。「ぼくがあいつを眠っている間に殺しちゃおうと思っているとでもいうのかい?ぼくはまずあいつの目を醒まさ

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せて、それから殺すんだ。それが僕のやり方さ。」 海賊の寝込みを襲う方が好ましい、父親譲りの実利的なジョンの感覚とは異なって、ピーターのやり方は確かにフェアだ。けれどもピーターは悪を滅ぼすという大義名分のもとに清廉潔白な行動のみを自らに強いる正義の味方なんかではない。ピーターの行動を支配する基本原理はもっと別のところにある。これについては後に舞台を改めてさらに詳しく語らねばならないだろう。(2) 気押されて「ね、君たくさん人を殺したこと、あるの?」と聞くジョンにピーターは素っ気なく、「そりゃもう何人もさ。」と答えるのだ。ピーターにとっては海賊との血腥い殺し合いなど、日常茶飯事なのだ。ネヴァランドには戦いの相手となる大勢の海賊達が待ち受けている。ところがさすがのピーターも海賊達の親分の名を口にする時には険しい顔つきになる。その名はジャス・フックだ。なぜか不思議な事に子供達も彼の名を知っている。(3)フック船長といえば、黒髭船長の許で水夫長をしていた、あのバーベキュー船長さえもが唯一恐れていたという、名うての悪党なのだ。「フック船長ってどんな人?体は大きいの?」と尋ねるジョンに対するピーターの答えはこうだ。「昔ほど大きくはないな。」「それってどういうこと?」「ちょっと切り落としてやったからさ。」ピーターは以前にフック船長の右手を切り落としてしまっていたのだ。フックとの宿命的な抗争においては、明らかに残虐な加害者はピーターの方である。 ピーターには自らの行動を峻厳に統括する規範となる筈の倫理は存在しない。生命維持のための最小限の加虐行為である食べることのためどころか、気まぐれの遊びの目的でピーターは人を殺傷するのだ。そして子供達はピーターの指揮の許、喜んでこの蛮行に加わる。島にいたロスト・ボーイズ達もあるものは実際に海賊を殺し、あるものは抗争の中で自分の命を失っている。ピーターの手下の一人のスライトリーは、物語が大団円を迎えたフック船長と子供達の最後の戦いの際に、一人、また一人と倒されていく海賊達の数を冷徹に数えあげていく。(pp. 216-25)命を殺めることに頓着することのない残忍さにおいては、子供達は海賊達と何ら変わるところは無い。その証拠に、フック船長を倒して彼の船を奪った後、子供達のあるものは今度は自分達が海賊になることを望んだりもする。

Some of them wanted it to be an honest ship and others were in favour of keeping it a pirate; but the captain treated them as dogs,

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and they dared not express their wishes to him even in a round cabin [robin].

p. 233

子供達のうちのあるもの達はかたぎの船でいこうと思ったけれど、このまま海賊船でやっていこうと思うもの達もいました。けれど船長は彼らを犬のようにしか思っていなかったので、子供達は円形連判状でさえも自分達の希望をあえて彼に告げようとはしませんでした。

子供達はその粗暴さと卑劣さという本性において、彼等の敵の海賊達と全く変わるところはない。手下を犬のように扱うピーターはフックにそっくりだし、親分の絶対的権力に従っていかなる反道徳的行動でもとりうる子供達は、何故か鏡像的な程にフックの手下の海賊達とそっくりだ。ダーリング家の最年少の一番臆病なマイケルさえもが、海賊を自分の手で殺す。そしてマイケルは物語の終わりにわが家に帰って父親のダーリング氏の姿を久しぶりに目にした時、いささかの失望を交えて父親を海賊と比較することになる。

“Let me see father,” Michael begged eagerly, and he took a good look. “He is not so big as the pirate I killed,” he said with such frank disappointment that I am glad Mr. Darling was asleep.

pp. 244-5

「ぼくにもお父さん見せてよ。」マイケルは言いました。そしてじっくりと眺めました。「お父さんはぼくが殺した海賊ほど大きくないな。」彼はあんまりにもあからさまに失望の色を示したので、私はダーリング氏が目を醒ましてなくてよかったと思います。

この物語において人殺しという残虐行為を行うことと、このように両親を粗末に扱うことは、実は同等の意味を持っている。両者とも子供達の自己中心的な根っからの性分を端的に示すものだからである。子供達はピーターの誘惑に負けていともたやすく両親を見捨ててしまった。しかもこの誘惑に最初に陥落したのは、ダーリング家の最年長の子供であり、ネヴァランドにおいては分別

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ある「お母さん」の役割を健気に演じていたウェンディだったのである。子供達はネヴァランドを訪れた後、自分達の見捨てた両親のことをすっかり忘れてしまっていた訳ではない。それどころか実のところ事はもっと険悪なのだ。子供達は大人達が考えるよりも遙かに厚かましい、どうしようもない生き物なのだ。作者はウェンディについてこのように語っている。

But I am afraid that Wendy did not really worry about her father and mother; she was absolutely confident that they would always keep the window open for her to fly back by, and this gave her complete ease of mind.

pp. 115-6

けれども残念ながらウェンディはお父さんとお母さんのことは大して気にかけていなかったのです。ウェンディはお父さんとお母さんがウェンディが飛んで帰って来るのを待って、いつも窓を開けておいてくれることに絶対の確信を持っていたので、全くなんの心配もしていなかったのです。

ウェンディを含めて子供達の心は際立って自己充足的であり、他者の思惑を心に留める余地を持ち合わせていない。その証拠に母親と子供との間の関係は語り手によれば以下のようなものだ。

They knew in what they called their hearts that one can get on quite well without a mother, and that it is only the mothers who think you can’t.

p. 168

子供達は彼等が自分の心だと呼んでいるものの中で、自分達はお母さんなんてもの無しに十分うまくやっていけるもので、そうじゃないと思っているのはお母さん達だけだということを知っていました。

「彼らが自分達の心と呼ぶものの中でこう思っている。」ということは、彼らが

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実際には「心」というものを持っていないということだ。これこそが正しく子供達の特徴的な部分だ。彼らはハートレス(heartless)な生き物なのだ。これは『ピーターとウェンディ』の中で繰り返し語られている厳格な事実だ。例えばフック船長に生け捕りにされた子供達は、フックに彼等の内の二人をキャビン・ボーイとして受け入れる用意があることを告げられる。キャビン・ボーイにして貰えれば残酷な処刑を受けずに済む。ところがこの申し出を受けたトゥートルズの心の内はこうだ。

Tootles hated the idea of signing under such a man, but an instinct told him that it would be prudent to lay the responsibility on an absent person; and though a somewhat silly boy, he knew that mothers alone are always willing to be the buffer. All children know this about mothers, and despise them for it, but make constant use of them. [傍線筆者]

pp. 207-8

トゥートルズはこんな男の許で働くのはいやでした。けれども直感で責任を今いない人に被せる方が利口だということが分かっていました。そこで少しばかりのろまな子ではあったけれど、彼はお母さんというものだけがこんな時喜んで間に入ってくれるものだということを知っていました。子供達はみんなお母さんのこういうところをよく知っています。そしてそのためにお母さんを馬鹿にし、いつも利用するのです。

彼はいつになく賢し気にフックにこう答えることになる。

“You see, sir, I don’t think my mother would like me to be a pirate. Would your mother like you to be a pirate, Slightly?”

p. 208

「あのね、船長さん。僕はお母さんは僕に海賊になって欲しくはないんじゃないかと思うんです。君のお母さんは君に海賊になって欲しいのかな、スライトリー。」

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こうして子供達は代わる代わる仲間達に決定的回答を述べる手番を押しつけ合い、各々が母親をだしにつかってフックの申し出を断る。子供達にとって母親とは、こんな風に利用するだけの都合の良い道具に過ぎない。そして正に彼女が彼等にとって便利すぎる存在であることを理由として、彼等は盲目的な愛情の持ち主の母親を軽蔑するのである。家庭にせよ両親にせよ、気儘な冒険に胸を膨らませる子供達にとっては、それらは便利な一時的避難所、ただそれだけの意味を持つものでしかない。だからネヴァランドを見捨ててわが家に戻ったダーリング家の子供達は、極めて身勝手な態度をここでも示す。

They alighted on the floor, quite unashamed of themselves[傍線筆者], and the youngest one had already forgotten his home.

p. 244

子供達は臆面もなく床に降り立ちました。そして一番下の子などはもうすっかりお家のことなど忘れてしまっていたのでした。

子供達は自分達の生まれた家についての確かな記憶を失っているばかりか、子供達が去ったことを自分の責任であると感じて、わが身を責めるために犬小屋の中で暮らしているダーリング氏(3)の姿を見つけても、心の痛みを感じることは無い。むしろ自分達の記憶の不確かさに対してはなはだ身勝手な驚きを感じている程なのだ。

“Surely,” said John, like one who had lost faith in his memory, “he used not to sleep in the kennel?”

“John,” Wendy said falteringly, “perhaps we don’t remember the old life as well as we thought we did.”

p. 245

「確か、お父さんは犬小屋なんかでは寝たりしてなかったよね。」ジョンは自分の記憶に自信がなさそうな口ぶりで言いました。 「ジョン、私達は自分で思っていたほど昔の暮らしをよく覚えていな

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いのかもしれないわ。」ウェンディは口ごもりながら言いました。 子供達は両親を見捨てて勝手にネヴァランドへと飛び去った自分達の行動に後ろめたさを覚えることすら無い。むしろ折角帰って来てあげたのに、ちゃんと出迎えてくれないと、母親の不注意を責める程だ。

“It is very careless of mother,” said that young scoundrel John[傍線筆者], “not to be here when we come back.”

p. 245

「お母さんも不注意だな。ぼくらが帰って来た時ここにいないなんて。」ふらちにもジョンは言うのでした。

このように道義性においてはなはだ当てにならないのが子供という自分勝手な生き物だ。彼らには責任感も反省も、思いやりさえも無い。メイク・ビリーブと現実を混同して、自分だけの世界に一人満足して暮らしているのが、子供という邪悪な意識体のあるがままの正体だ。「じゃあウェンディは本当はぼくたちのお母さんじゃなかったの?」マイケルは眠そうな声で尋ねるのだ。このようなハートレスな子供性を余すところ無く描いているのが『ピーターとウェンディ』という現代のおとぎ話の皮を被った狡猾きわまりない物語だ。そしてこの子供達の身勝手さには、専制的な権力を行使する主人公のピーターさえもが、見事に裏切られてしまっているのだ。にわかにわが家のことを思い出して両親の許に戻ることを検討し始めたダーリング家の子供達に誘われて、ピーターの許で暮らしていたロスト・ボーイズ達までもがダーリング家に引き取ってもらうことを真剣に考え始める。これは彼等にとっては、かつて経験したことの無い新しい冒険の一つなのだ。現実世界に戻ろうという提案をどうしても受けつけないピーターを一人残して、彼らはダーリング家の子供達と共に現実世界に回帰する決心をする。そんなネヴァランドの子供達の不和の様子を描く作者は、少しばかり得意気でさえある。

Thus children are ever ready, when novelty knocks, to desert their dearest ones.

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p. 172

こういう風に、子供達はいつも目新しいことがおこったら一番大事な人でさえ捨ててしまえるものなのです。

子供達は子供達同士の信頼関係を守って団結することは決してない。そこには支配と従属という力関係と裏切り、見捨てるというはなはだハートレスな行為があるだけだ。そしてピーターからロスト・ボーイズを奪ったウェンディは、その痛烈なしっぺ返しをピーターから受けることになる。一人ネヴァランドに帰ろうとするピーターを引き止めようとしてウェンディがピーターを呼び止める場面だ。

“Oh dear, are you going away?” “Yes.” “You don’t feel, Peter,” she said falteringly, “that you would like to say anything to my parents about a very sweet subject?” “No.” “About me, Peter?” “No.”

pp. 250-51

「ねえ、ピーター。いっちゃうの?」 「うん。」

「ピーター、私のお父さんとお母さんにとっても大事なことについてお話したいことないかしら。」

「ないよ。」 「じゃ、わたしには?」 「ない。」 ウェンディはピーターをダーリング家に引き取りたいという誠心からの申し出を素っ気なく拒絶されるばかりか、ピーターと自分との間の親愛の念の確認すら冷淡に拒絶されてしまう。これが子供達の世界の偽らざる実情だ。そんな

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子供の意識世界を垣間見ることの不思議な魅力を十分に意識して描いたのが、『ピーターとウェンディ』という作品世界の心理的遠近法の正体に相違ない。語り手の次の言葉は皮肉たっぷりに、こんな子供の精神世界を覗き込む観念遊戯の面白味を語っている。これは当の子供達には決して理解出来る筈のない、ほろ苦さという味わいを知った大人だけが抱きうる、もう一つの特異な感覚なのだ。

Off we skip like the most heartless things in the world, which is what children are, but so attractive; and we have an entirely selfish time, and then when we have need of special attention we nobly return for it, confident that we shall be rewarded instead of smacked.

p. 166

この世で一番薄情なもの、子供達のようにとんで行ってしまいましょう。子供達というものはみんなそうなのです。けれどもなんと魅力的なことでしょう。そして好きなだけ自分勝手にふるまって、それから特別にやさしくしてもらいたくなれば、おしおきを受けるかわりにごほうびをもらうことをうたがいもせず、ゆうゆうと戻って来るのです。

作者はヴィクトリア朝の児童文学作家達のように子供の世界を理想化して賛美することは決してない。そんなことは偽善に満ちた愚かな大人達の勝手に抱く幻想であることを良く承知しているからだ。そしてまた作者は『ピーターとウェンディ』においては、子供達の身勝手な願望に答えて奔放な冒険の世界ばかりを寛大に展開してくれているわけでも無い。当の子供達には知る由も無い、子供の世界を遠く離れた外側から窺う視点を備えた、一種独特の興趣を持ち合わせた教養ある大人だけが楽しむことの出来る哲学的省察の世界が、巧みな擬装を施した精妙なある種の毒を盛られた形でこの作品には展開されているのである。何故ならば子供たちの身勝手さに対するこれらの指摘は、実はファンタシーという文学ジャンルに内包されている特有の思想形態に対する冷徹な総括をうながすキーワードとしても機能することになるからだ。 (1)

48

『指輪の王』においては絶対悪としてサウロン(Sauron)という存在が仮構世界の構成原理

となっており、仮構世界受容に関する基本文法は主として作者の物語世界提示の手法の上

に成り立っていたため、倫理の問題はむしろ簡便に処理されていた。ところが『ピーター

とウェンディ』の場合は、仮構世界受容に関わる基本文法の中枢に極めてアイロニカルな

形で倫理のパラドクスが据えられていたのである。

(2)

ピーターにとって倫理の替わりに彼の行動を拘束するものは、語り手によって「たしな

みの良さ」(good form)と呼ばれる、はなはだ微妙な観念である。別の言葉で言うならば、

それは子供の世界特有の「恰好良さ」という美学基準であるかもしれない。

(3)

この理由は本書第9章において『ピーターとウェンディ』の根本的主題に関する考察と

して改めて論議されることとなる。

(4)

子供達がダーリング家を見捨てて飛び立って行ってしまったことの原因が自分自身にあ

ることを認めて「犬小屋に住む」という罰を自分に課したダーリング氏は、このことのた

めに人々の注目を集め、有名人になってしまう。そして何時の間にかこの「社会的成功」

を享受する事を覚えてしまい、子供を失って嘆き悲しむ父親の姿を過剰に演じるようにな

ってしまった彼は、妻に「でもこれは罰のためじゃなかったの、ジョージ?あなたは楽し

んでやっているんじゃないでしょうね?」(p. 241)と叱責されてしまうのである。ダーリン

グ氏もまた子供達と同じ様に自己充足的なメイク・ビリ- ブの呪縛に捕まってしまってい

る。そう言えば脚本版『ピーター・パン』(1928)においては、ト書きに“All the characters,

whether grown-up or babes, must wear a child’s outlook on life as their only

important adornment.” 「全ての登場人物は、大人であろうと赤ん坊であろうと、人生に

関しては子供の視点を唯一重要な装身具として備えていなければならない。」と記されてい

た。意識の主体における世界認識の過程でメイク・ビリーブが及ぼす危うい作用は、「大人

—子供」という心理構造における二極的解釈を脅かすものとなっている。大人は自分で思っ

ている程大人では無いし、子供は大人が思っている程子供でも無い。我々は何時から子供

であることを止め、大人であることを始めたのか自分では定かではないし、何よりも自分

自身が何物であるかが定かでは無いのである。

49

汎宗教とパン 誰もが知っているようにピーターは決して成長することの無い、永遠の子供

である。しかし永遠の子供とは実はあり得ない存在のことでもある。何故ならば子供とは言葉本来の意義からして、成長して大人になることが避けられない生物のことを言うものであるからだ。決定的にピーターが他の子供達と異なるのは、彼が断固として大人になることを拒絶する点だが、実際にはそんな子供はいる筈が無い。ピーターは論理矛盾の具現化のような性格設定の持ち主なのだ。そればかりではなく、ネヴァランドという世界と同様ピーター自身にも、非在を暗示する部分が確かにある。ピーターという存在は矛盾撞着そのものを存在原理とする、ある種の不可能性の記号であると言ってもよい。例えば彼の固有の能力である空を飛ぶ力について、ここで論理学のおさらいをしながら検証してみることにしよう。 成長しない子供はいない。(There are no children who don’t grow.) →いない子供は成長しない。(No child does not grow.) 空を飛べる子供はいない。(There are no children who can fly.) →いない子供は空を飛べる。(No child can fly.) よって成長しない子供は空を飛べる。? (Therefore a child who does not grow can fly.)?

三段論法としては実はかなり怪しげな部分もある証明だが(1)、→で変換した箇所についてのみは、元を持たない空集合を一つの集合として認めることとする論理学の世界においては、これは正しい変換式なのだ。命題の述語部分を主語に冠した限定辞(modifier)に置き換えても命題の値が等しいという規則を応用して、「~では無い」という否定的命題における否定辞 “not” を、主語に冠した属辞 “no”に変換することによって消去し、「存在せぬ~は~である」という定言的命題を生み出すのは、論理学の初歩のお約束事の一つなのだ。 このルールに従えば、「存在する」も「存在しない」も命題の主語となる仮想的存在物の所有する属性の一つに過ぎない。同様に虚数(imaginary number)

50

のように仮想的(imaginary)であることや、論理矛盾を内包した「二律背反するあり得ないこと」も、仮構的(様相的)“ 存在物” においては保持されている数有る属性の一つであって良いということになるのだ。考えてみれば「~は~では無い」を「存在せぬ~は~である」と同値と看做したこの論理空間を大きく拡張し、不可能事として是認されている現象の顕現の様を描いたのがファンタシーの世界の基本文法に相違ない。『ピーターとウェンディ』の背後に隠されていた潜勢的世界構築原理は、上にあげたような明らかな偽説(fallacy)などとは截然と区別される、存在様態の再定義と記述様式の選択に関わる、いわば形而上学的パースペクティブ構築フォーミュラとして理解されねばならないものであったのだ。様相論理学もファンタシーも、共に現代における形而上学的存在論の復権に寄与するところが大きい。存在原理たる神を殺してしまった20世紀人は、形而上学的論理システムと形而上学的夢想世界のみを選んで復活させてしまったのかもしれない。 ピーターは空集合の元としての属性を与えられたパラドクスの具現化であり、

非在というモディフィケーションを施されたが故に万能なるドイツの伝説の妖怪Niemand、そしてまた言語空間のみにおいて主体として顕現することが可能になる英語世界の超越的能力者 nobody に連なる、遠くはギリシア世界からその起源を発する「ウーティス」の系譜(2)に属する観念的存在者の一人だったのである。 このようにピーターという存在は、女性達が一目でそれを視認し盲目的な愛

情に捕らわれてしまうというあの不可解な乳歯以外にも、やっかいな属性をふんだんに備えている、秘密の詰まった迷宮的玉手箱のような代物だったのだ。このあたりでピーターというキャラクターが『ピーターとウェンディ』において実際にどのような特徴を持つものとして描かれてきていたのか、最初から順を追って確かめておく必要があるだろう。 ピーターという名前が最初にこの作品の中に登場するのは、ダーリング夫人が毎日の日課で「子供達の心の中を整理」している時だった。

Occasionally in her travels through her children’s minds Mrs. Darling found things she could not understand, and of these quite the most perplexing was the word Peter. She knew of no Peter, and yet he was here and there in John and Michael’s minds, while

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Wendy’s began to be scrawled all over with him. The name stood out in bolder letters than any of the other words, and as Mrs. Darling gazed she felt that it had an oddly cocky appearance.

pp. 10-11

時折子供達の心の中を旅する時ダーリング夫人は訳の分からないものを見つけることがありました。その中でもとりわけ不思議だったのがピーターという言葉です。ダーリング夫人はピーターなんていう人は知りませんでした。けれどもこのピーターはジョンやマイケルの心の中のあちらこちらにいたのでした。その上ウェンディの心は一面ピーターという名前であふれそうになっていました。この名前は他の言葉よりももっと太い字でくっきりと書きこまれていたのです。そしてダーリング夫人はこの名前をじっと見ているうちに、なんだかこれが妙に生意気そうな顔つきをしているような気がしたのです。

ピーターという名前は子供達の心の奥底に埋もれていたものだ。実在的な外界としてではなく、意識の奥底の内界にあるものであるという点で、ピーターはネヴァランドと相似した存在である。そしてダーリング夫人が「子供達の心の中を整理」することができるのは、彼女の心象世界と子供達の心象世界が奥のところでつながっているからこそ可能なのだ。この指摘は本章の後における論の展開において重要な契機を提供することになるだろう。ダーリング夫人は最初はこのピーターという名前に心当たりが無く、とまどうが、自分自身の子供時代を振り返って、ようやく彼女もピーターのことを思い出す。

At first Mrs. Darling did not know, but after thinking back into her childhood she just remembered a Peter Pan who was said to live with the fairies. There were odd stories about him as that when children dies he went part of the way with them, so that they should not be frightened. She had believed in him at the time. But now that she was married and full of sense she quite doubted whether there was any such person.

p. 11

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始めのうちはダーリング夫人はこれが誰なのか分かりませんでした。けれども自分の子供のころを振り返って、妖精達と一緒に住んでいるというピーター・パンというひとのことを思い出しました。ピーターについては不思議な話がありました。子供達が死ぬとピーターは子供達が怖がらないように、途中まで一緒について行ってくれるというのです。そのころはダーリング夫人もピーターのことを信じていました。でも今は彼女は結婚して分別もあるので、そんなひとがいたかどうか、とっても疑わしく思いました。

大事な事が二つある。一つはピーターが妖精達と一緒に暮らしていると言われていたこと。もう一つは子供達が死んだ時に子供達が怖い思いをしないで済むように彼が途中まで付いて行ってくれる、ということだ。 ピーターは妖精達の仲間だという。では妖精というのは一体どういう存在だったのだろう。言うまでも無く妖精とは、キリスト教が侵入してくる以前に様々の国々で人々の信仰の対象となっていた古代の神々の変化した姿に他ならない。他の神格の存在を一切認めようとしない排他的な宗教であるキリスト教は、布教を拡大した地域でこれまで崇拝の対象となっていた土着の神々を魑魅魍魎の類いへと堕落させてしまった。しかし贖罪と契約という教義で人々の心を拘束した、教会によって制度化されたキリスト教は、人類の犯した始源的な罪という発想を前提とし、世界の破滅を予兆する極めてペシミスティックな教えであった。この頑迷な新体制は、周囲を取り巻く自然とその自然と一体である土着の精霊達と日々共に暮らしている民衆には、言い難い軋轢を強いることとなる。彼らは唯一の公認された神に対する暗い帰依と、幾多もの非公式の神的存在である精霊達との明朗な共存という、二重構造の信仰生活を送ることとなってしまった。しかしルネサンス以降の近代の合理的科学精神の発達と共に、この宗教の強いる教義のファンダメンタルな部分の矛盾性が次第に暴かれていくこととなった。その決定的な打撃がダーウィンの『種の起源』において説かれた進化論であったことは改めて言うまでも無い。けれども『種の起源』が現れる以前に、例えばスウェーデンボルグ(Emanuel Swedenborg)のような際立った科学的、合理的精神の持ち主が既存の宗教の世界像構築システムの再検証を試み、既に超越宗教、そして汎宗教と呼ぶことのできるものの確立という可能性を模

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索していたことは注目するに足る事実である。 キリスト教という枠組みで表された世界創世の原理を、スウェーデンボルグ

は「聖書心理学」という言葉で呼んで良い立場から、改めて解釈し直したのであった。「創世記」の読み直しというこの作業はキリスト教の支配下における中世的暗喩の体系とは全く異なった立場から、実在と超越的存在との間の関係のあり方を翻訳し直そうとするものであった。(3)この手法は、後にパラケルスス(Paracelsus)の錬金術を「現代科学」の方法論を用いて心理学の分析として考察する作業を行ってみせたユング(Carl Gustav Yung)のとったものに極めて近しいものである。中世的迷妄と決めつけられていた錬金術を、実在と精神との間の関係を修復し、世界の正しい方位付けを行うための心的反省作用というダイナミックな試みとしてユングは再評価したのであったが(4) 、その過程には従来のキリスト教の体系にあったものとは全く異なった宇宙論が自覚されていた。それは宇宙の全一性の中に生かされるものとしての「個」の発見であった。全にして個であり、個にして全である(5)という一見論理矛盾とも思われる存在物の属性記述に関する新たなる解式を通して伝統的な「理性」の制約を乗り越え、無意識の中に潜む直観力を解放することによって正しい宇宙の運行規則を回復する術を目指す、という生のモデルを彼は見出したのである。 実はこの思想自体はさほど目新しいものでは決して無い。むしろ教会による

キリスト教支配がなされる以前の古代世界においては、時代と地域を越えて普遍的に受容されていた神秘思想の一つの典型でさえあった。それがスウェーデンボルグによって三位一体説などのような形骸化した教理を合理的観点から批判させることを可能にした、理性の時代において復活したのは注目すべき事実である。我々はここで一つのパラダイムの転換を企てなければならない。理性の時代の要求する合理的・分析的思考形態がパラダイムの変換を経て、超論理的・直観的思考形態に一時その場を譲った、というパラダイムを修正し、合理的・分析的思考の延長線上のもう一端に当然の帰結として、全一的宇宙観に基づく二者択一の制約を越えた極限論理的(hyper logic)思想が発現している、というパラダイムが獲得され直されねばならないのである。(6) 丁度スウェーデンボルグとユングを繋ぐ線上に位置すると考えられるのがド

イツ・ロマン主義であった。ロマン主義の正体は、一般に言われるような理性の時代に対する情動面からの反抗などという安直な図式では到底理解しかねるものである。彼らは文学的である以前にまず科学的であった。科学的関心が哲

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学に作用し、その実践が文学という営為に実を結ぶこととなったのである。ドイツ・ロマン主義における宇宙論のモデルは「鉱物学」という形で意識されていた。鉱物水成説・鉱物火成説等の地質学的論議を通して彼等は当時の最先端の科学知識を吸収し、新鮮な本体論へと導かれる哲学的地盤を形成しつつあったのである。(7)ノヴァーリスを始めとして、「鉱物学」はキリスト教の宇宙論に関する基本的理解を再検証する作業を進める上で重要な指針を与えるものであった。プロテスタント主義の支配するドイツではあったが、18世紀から19世紀にかけての科学知識の持ち主たちは、新教対旧教という対立を越えて、実際に総合宗教の完成を構想するところまで歩を進めていたのである。 彼等は従来のキリスト教を否定したことによって反宗教の立場をとったと言

っても良いし、教会によって制度化された従来のキリスト教的教義を乗り越えて、さらに普遍的な宇宙観を復活させたという意味で究極的に宗教的であったと言ってもやはり良い。ドイツ・ロマン派の多くが後にカトリックに改宗したという事実は、彼等の思想の根本理念の矛盾がもたらした挫折として捉えることも出来れば、ある意味で思想の根本理念の要求する存在と行為の一致の要請に従った当然の帰結であったと理解することもできる筈である。実証的存在論に拘泥することなく、観念的な論理空間における超越局面的存在様態を積極的に開拓しようとするこうした次元での思念を「形而上学」と呼んで弁護して見せたのはドイツ・ロマン派の影響を強く受けた、哲学的奇想書『ユリイカ』(Eureka, 1848)の著者であるエドガー・アラン・ポー(Edgar Allan Poe)であった。このような形而上学は近代科学の発展と共にむしろ加速度的に展開されていったのであり、科学精神に逆行する単なる古代世界回帰の願望が生み出した虚妄だった訳では決してあるまい。言わばこのような意味に於ける形而上学は、合理的科学精神の行き着いた結果生まれた、観念的相転移の所産であり、必ずしもモダニズムの動きに逆行するものとばかり見なすべきものではないのである。(8) ニュートン的古典物理学の正しく延長上に量子物理学的モデルが花開いたのであり、デカルトベーコンの事象を個別的に分離して解析する手法の極まったところに、結局は相互作用という概念を導入して得られた新たな全一的宇宙観が導入されもしたのであった。我々はこれらの既成概念に迂闊に対立的機構のモデルを当てはめることは控えるべきであろう。モダニズムとポスト・モダニズムという対照の図式程安直なものは無い。むしろそこには「正反対の一致」(coincidentia oppositorum)の原理が慎重に読み取られるべきではなかっ

55

ただろうか。西洋の近代的合理主義は確かに産業資本主義という害悪を生み出したが、責められるべきは産業資本主義に便乗して卑賤な功利的手段に走った道義的堕落の精神であって、これは民衆主義的共産主義において発現した道義的堕落と正しく等しいものであった筈である。合理主義自体に責を負わせるような愚挙は避けるべきであろうことと同様に、硬直したモダニズム批判を闇雲に受け入れることもまた慎むべきであろう。 世界解式の変換を企図したドイツ・ロマン派が選んだのは、“The West is

clever; the East is wise”(9)「西洋は利口だが、東洋は聡明である」という言葉で示されるように西洋的論理と超越的絶対真理との乖離を認識し、言うなれば東洋的観照の道を模索することであった。彼等はある種の内観に行き着くための精神修養の手段として芸術作品鑑賞を理解するようになる。彼等の残したメルヘン(Märchen=fairytale)は正しくそのような目的のために生み出されたものであった。そこにおいて形骸化したキリスト教的呪縛から精神を解き放って、より合理的で自由な自然観を記述するために彼等が選んだのが、世界の構成要素である地・水・火・風の四つのエレメントの具現化であるとされていた精霊であり、その文学的な表現形が妖精達であった。マクドナルドの科学的関心が鉱物学にあり、伝統的なキリスト教の教えから逸脱した神秘思想を説く牧師であったマクドナルドのファンタシー作品の多くに妖精の存在が影を落としているのは、まさにこのような思潮を反映している。マクドナルドはドイツ・ロマン派の正統を継ぐ哲学的・文学的後継者であった。(10) ドイツ・ロマン派以降「妖精」という文学作品中の存在は西洋の世界観を根底から揺さぶるファクターとして機能し続けてきたのであった。 しかしマクドナルドにせよ彼の先達となったドイツのロマン主義者達にせよ、

自然の 4 大構成要素の具現化の図像としての精霊の存在をあるがままに信じていた訳では決してない。彼等の再発見した自然は身の回りを取り巻く外界としてではなく、むしろ自身の精神の内奥に潜むものとしての宇宙像であった。無意識と先験的叡知への回帰の必要性という自覚が、文学的表象の手段の模索の過程として、「妖精」という劇作手法的小道具を生み出したのである。「妖精を信じる」という標語を掲げた彼等は、その問題意識の先進性を考慮するならば、文字通りの民間信仰にある妖精達の存在を信じてなどいない、ということをこそ大前提として強く自覚していなければならなかった筈だ。妖精とは物質としての外界の構成原理を記述するメタファーであると同時に、紛れも無く精神と

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しての内界を記述する心理学的記号でもあったのである。ロマン主義における妖精が体現していたこの信仰と不信の曖昧性は、バリにおいてさらに先鋭化された形で応用されることになるのである。信仰の背後の不信と不信の背後の信仰の投影するものを正しく読み取ることが出来なければファンタシーの戦略を正しく評価することは出来ない。 例えばマクドナルドの処女作 Phantastes : A Faerie Romance for Men and Women (1858)においては、妖精と妖精界はそれぞれ人間と客観的実在世界の影として存在する対照的な概念として捉えられていた。昼と夜が交代するがごとく夢と現実が交代して顕現し、その住民たる人間界と妖精界が互いを補い合ってより緊密で堅固な真の実在世界を形成している、という構図で人間の霊性の秘密と世界構築原理の神秘を記述することが、ファンタシー文学の思想的特質を最も顕著に表していると思われるこの作品の企図したところであった。典型的なドイツ・ロマン派の作家ホフマン(E. T. A. Hoffman)の「ブラムビルラ王女」(“Prinzessin Brambilla”, 1821)に描かれた夢幻界と現実界の一見不可解な二重構造と奇妙な連続性に照らし合わせてみれば、マクドナルドの本作品における創作戦略はたやすく理解できるだろう。これに従えば世界の機軸があたかも陰と陽の原理にも似た対称性から成り立ち、玄妙な相補性という関連のもとに妖精と人間がそれぞれ互いの影あるいは実体として機能していることになる。実体たる人間にとっては自分自身の中に潜む未知なる領域が影であり、さらに自分自身を除いた世界の全ての領域が影でもありうる。つまり全ての部分が全体を補完するために欠かせない要素であり、無数に存在する全ての部分の補完物として一つの全体がある。絶えざる断片化の果てに崩壊しつつある近代西洋的自我の存在原理を保障すべき、統合的な説得力を備えた超宗教的方位磁針が、このように全体性を支える影の原理の再評価として切実に模索されていたのであった。自分自身の一部をなしていながら、本体と分離した途端、人間界も自然界も含めて世界の全ての秘密を知り、森羅万象をわが物のように操る魔術的能力を発揮する不可解な影は、アンデルセンの短編「影」(“Shadow”)やワイルドの童話「漁師とその魂」(“The Fisherman and his Soul”)において描かれている影の場合にとどまらず、19世紀において様々な国において書かれた分身を題材にする物語群と等質の主題を共有していたものであり、同時にそれは魔法という知のシステムとしての概念の暗示する世界解式的原理機構とも密接に重なり合うものであった。意義有るものとして存在するかけがえの無

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い宇宙と、その中で確固たる守備領域を任じられている筈の唯一の自我を包括すべき普遍的原理を示す具象的存在物として、人の影たる妖精があったのである。(11) その妖精達と存在論的価値においては等価である古代神パンでもあるピータ

ーが、「子供達が死んだ時途中まで一緒について行ってくれる」ことの意味は何であろう。これは単にピーターが死神の役割を司るものであることを意味するものでは無い。子供達は幼い頃から既にピーターの存在を知っていた。ピーターのことを忘れてしまうのは大人達だけである。子供と大人という様態が一人の人格の生の中で不可分であるのと同様に、生と死もまた不可分な魂の様態なのである。思えば生まれるということは死に始めるということに他ならない。誕生と共に、死と共にピーターは意識の主体の前に姿を表す。ピーターは外界から闖入する他者ではなく、魂の特有の励起状態の許に自覚される己自身の影だからである。 このように自らの奥底を覗き込むことによって、時を越え、空間を越えて世

界の本体を自覚し得るという発想こそ、ドイツ・ロマン主義の再建した古代思想であった。同等の宇宙観の痕跡が東洋思想の様々な局面において、例えば仏教やヴェーダ哲学、道教等の中にも垣間見られることであろう。また、古代ギリシアのエレア学派の祖パルメニデス(Parmenides)や新プラトン派のプロティノス(Plotinus)等に代表される神秘思想にも様々な共通項が見出されることであろう。これらは近代西洋社会の影の文化、隠秘学として実は長くその命脈を保ち続けてきた夜の世界の思想の中に確実に継承され続けてきたものであった。 ピーターにおいて顕現していた「非在」という属性の獲得によってもたらさ

れた万有と万能、遍在と普遍という発想は、神の死がもたらされた現代世界における新たな神の存在証明としての意義を担わされていたとも言える。それならば結局はファンタシーも、外界を内界の延長として捉えることにより、他者を自己の一部として、自己を他者の一部として繰り込み、世界のロゴスによるコスモス化を図ろうとするモダニズム的統一戦略の一つではあったと見做し得ることだろう。かくして自然と意識の主体との間の断絶を修復し、自然の一部としての自己と自己の背後にある自然を共に回復する使命を担わされたことによって、妖精達は再び元来の神としての高邁な本性を回復させられることとなったのである。 こうした意味においてピーターとは、言葉本来の意味であるがままの自然を

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体現するものであり、その大いなる自然と不即不離の関係を持つ自分自身を捉える汎神論的な宗教を暗示するものであり、その宗教とは特定の教義に縛られることなく宇宙の存立原理を観照する術の総てを包括する筈の汎宗教なのであった。『ピーターとウェンディ』においては半人半獣の姿をした笛を手にする古代神 Panは、pas =all(汎)=panと同定されることとなったのである。 (1)

当然ながらまっとうな三段論法は以下のようになる。

ピーターはいない子供である。

→Peter is no man.(ピーターは存在しない。)

いない子供は空を飛べる。

→No man can fly.(誰も空を飛ぶことはできない。)

よってピーターは空を飛べる。

→Therefore Peter can fly.(よってピーターは空を飛ぶことができる。)

等価な値の代入による整然とした式の置換から命題の展開がなされることが正しい推論の条

件となる。

(2)

世界の様々な神話・伝説の中に姿を現す「非在」という属性に基づく論理空間上の超越的能力

者“ nobody” の系譜については、『〈 無人ウーティス

〉の誕生』、楜澤厚生、(影書房、1989)

を参照されたい。

(3)

スウェーデンボルグのこのような意味における再評価としては、高橋和夫、『スウェーデンボ

ルグの思想』、(講談社現代新書、1995)を参照されたい。

(4)

C. G. ユング、『パラケルサス論』、榎本真吉訳、(みすず書房、1992)を参照のこと。

(5)

この古くからの発想は20世紀に至ってボーム(David J. Bohm)の「宇宙の全体性」という構

想の提唱、ベル(John Stewart Bell)の「事象は宇宙において非局所的に作用する」という定理の

発見、プリブラム(Karl Pribram)の“ ホログラフィー” というモデルを用いて宇宙全体がその部

分である「脳」の裡に含まれる、という図式で世界の存立機構を理解しようとする見解の提唱な

ど、一般に「ニュー・サイエンス」という言葉で知られる量子力学の様々な成果において不可思

議な一致を見ることとなったのであった。これらの知見がもたらした現実認識の変革が20世紀

59

後半のファンタシー文学再興の一因となっていることは言うまでもない。

例えば個々の素粒子の確率変動値に対応した宇宙空間単位に展開する複数のレイアーを仮想

し、全ての順列組み合わせの重ね合わせに対応した無数の可能世界の発現を仮想する量子的多元

宇宙論も、有限な宇宙空間の全てを存在確率領域として保有する個々の量子を重ね合わせること

により網羅的な存在可能様態を散乱する一種の全体主義的世界解式であるという点において、マ

クドナルドの妖精界と人間界の補完関係の許に世界の崇高な全体性を構想する思想や、あるいは

神智学の採用した霊性議論のように“ corporeal” , “ astral” という言葉を用いて呼ばれた物性

と霊性という次元の重ね合わせとして、外界と内界を含めた世界構造全体を捉える理論などと軌

を一にする、やはり影の思想の一変奏にほかならないとも言うことができよう。

(6)

理性の限界を当の理性が認識し得ることを立証した、とされるゲーデルの定理は、当然ながら

理性の限界を認めるしか無い、という敗北宣言の裏返しでもあるが、このようなウロボロス的二

面性の自覚がアテベリーが問題にしていた20世紀後期のファンタシー文学の色濃く反映してい

た思想的特徴の一つであることは言うまでも無い。

(7)

今泉文子、『鏡の中のロマン主義』、(勁草書房、1989)参照。

(8)

マクドナルドと共に19世紀イギリスのファンタシー文学勃興の一翼を担った『水の子』

(Water Babies, 1863)の作者Charles Kingsleyが自然科学的な水棲動物誌の要素の強い『グロ

ウカス、もしくは浜辺の神秘』(Glaucus or The Wonders of the Shore, 1855)を著しているこ

とは決して偶然ではないし、『水の子』において翼竜(pterodactyl)の化石についての論議がなさ

れ、地質自然史的関心が強く現れているのはむしろファンタシー文学特有の哲学的、宗教的関心

を示しているのである。

(9)

Marianne Thalmann, The Romantic Fairy Tale, p. 2.

(10)

そしてこのような鉱物幻想を強く反映して、超越宗教の可能性を模索し、現代人の精神的救済

の手段としてのファンタシー文学の創造という形でこれらの人々の日本における後継者となっ

たのが、宮澤賢治だったのである。賢治の研究した「地質学」は、応用技術的な「農学」に生か

される以前に、哲学的方位磁針として彼の思想に強く作用していたのである。彼は時代に先んじ

て既に量子力学の暗示する新しい世界解式の可能性に着目していた。賢治の選んだ宗教は世俗化

した仏教の一区分をなす狭い教義にあったのでは無く、「日蓮宗」を含めキリスト教その他宗教

一般を包括する視点が賢治の裡にあったことはたやすく理解しうる事実であろう。

60

(11)

ポーの短編「天の邪鬼」(“The Imp of the Perverse”)においても、意識の主体の行動を実際

に支配してしまうことになる裏の意識の及ぼす衝動が、「天の邪鬼」という妖気の一種として捉

えられる一方、主体の存在自体を形成する相補的要素としての「影」という図式でもって明らか

に意識されていた。(We tremble with the violence of the conflict within us, -- of the

definite with the indefinite -- of the substance with the shadow.)例えて言うならばギリシア

神話の神々を抽象概念や人間の感情を「擬人化」したもの、として理解する発想とは全く別個の

図式でもって人間存在と世界存立機構の核心を捉える発想がここにあるといえよう。内面心理の

一要素が実在としての外部構造に直截に反映されていることを前提として、これらの神と妖精の

類いが心中に発現する抽象概念や感情を表す語と同義のものとして呼ばれ得ていたのであった。

「愛の女神アフロディーテのコスモス空間における顕現」という事象は、記述モードを変換する

ならば「一個人の意識内のある特有の情動の変化」という一方の現象でもまた実際にあり得た訳

だ。これらは極大と極小が結びついて連環をなすウロボロスの表象にも暗示されていた、宇宙の

共軛的潜勢力として機能する要素の各々であったのだ。さらにはソクラテスの聞いた内なる声で

あるダイモニオンとして現れた「分身」と、エピキュロスの唱えた世界の運動原理に作用する「普

遍的法則性」である偏奇性(クリナメン)を同一物の示す対極的な様相として統合的に理解する

こともまた許すであろう統一宇宙原理に相当する理念がここには想起されている訳だ。天の邪鬼

の衝動が主人公の犯した悪行を暴く「正義」の陣営に属する「魔的なもの」であったことを思い

起こせば、「ウィリアム・ウィルソン」(“William Wilson”)において現れた分身が主人公の犯す

悪行を糾弾する良心の具現化であったことと合わせて、「影」が慣習的な善悪二元論における通

俗的な否定的存在物として認識されていた訳では決してないことが分かる。“ imp of the

perverse” の存在を倫理的悪に属するものとして規定することを飽くまでも差しとどめ、多元的

価値基準に基づいて影の存在意義を改めて評価しようと試みる手順がここで積極的に機能して

いることは、現代的価値基準の多様化と呼ばれるものと現代が見失ったとされる古代的全一思想

の内実が実はことの他近接したものであることの証左であると言えよう。

原子論の創始者デモクリトス(Democritus)の名をとってデモクリトス・ジュニアを名乗ったロ

バート・バートン(Robert Burton)が、『憂鬱の解剖』(Anatomy of Melancholy, 1621)において

様々な疾病・障害のみならず怪異・超常現象、社会問題や天変地異に至るまでを「憂鬱」という

精神的疾患の引き起こした病理的な現象であるとして論じてみせた根拠が、総体としての歴史

的・博物誌的な現象世界的事象と個人の内面心理的現象が重ね合わせ可能な連続体であるという

前提にあった筈であることを理解すれば、「現代性」という概念の年代的定義に再考の余地があ

ることを十分に窺わせることとなるであろう。

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ピーターの無知と不思議な知恵 これまでに明らかになったようにピーターは集合的無意識の実体化であり、本能的直観の具現化とも言うべきものであった。だから当然この少年は、社会的常識や世俗的知識などとは無縁の存在である。しかしながらピーターは、このような無知の部分を持つと同時に、宇宙の根源と結びついたような不可思議な知恵を持ち合わせてもいる。本章ではこれら二点をテクストの進行に忠実に従って検証していくことにしよう。 ピーターは落としていった自分の影をみつけても、自分の体にくっつける方法を知らない。バス・ルームで見つけた石鹸をつかって、ちぎれた影を貼りつけようとする。(p. 36) 見かねたウェンディが、影を縫い付けてあげようと申し出ても、「縫う」という言葉さえ知らない程だ。(“What’s sewn?”「縫い付けるって、何?」p. 39)ウェンディに首尾よく影を縫い付けてもらうと、今度は影を縫い付けてくれたのがウェンディであることを忘れて、自分一人でこの難事をなし遂げたつもりになって一人浮かれていたりする。おまけにピーターは「キス」という言葉さえも知らない。ピーターはウェンディが「キスをしてあげる。」(“shall I give you a kiss?”)と言うと、何か品物でも手渡してもらうものと勘違いしたものか、キスを受け取ろうとして喜んで手を差し出す。思えばピーターが誰にも奪うことのできないダーリング夫人の口許に浮かぶキスをいとも容易に奪い去ることができたのは、彼のこの無知のお陰であったのだ。ウェンディは彼の気持ちを傷つけることのないように、「キス」と偽って、持っていた「指貫」を渡してやらなければならない。(p. 41) こうしてこの物語の中ではキスと指貫の意味転換が行われる。ピーターとウェンディの意識の重なり部分においては、キスが指貫であり、指貫がキスであるという可能世界の一つが開けていることになる。物理的実在を意識の重合部分の示す様相の一つとして理解するこのような感覚は、実はピーターのような純観念的存在の微妙な能力を考量する際には欠かせないものである筈なのだ。 ピーターはウェンディに歳を尋ねられても、自分の年齢さえ答えることが出来ない。そのくせ彼は不思議なことを覚えているのだ。

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It was not really a happy question to ask him; it was like an examination paper that asks grammar, when what you want to be asked is Kings of England. “I don't know,” he replied uneasily, “but I am quite young.” He really knew nothing about it, he had merely suspicions, but he said at a venture,[傍線筆者] “Wendy, I ran away the day I was born.”

p. 42

それはピーターにとってあまりありがたくない質問でした。英国の王様の名前を尋ねて欲しいときに文法の質問をする試験問題みたいなものでした。「知らないよ。」ピーターは落ちつかなそうに言いました。「とにかくぼくはとっても若いんだ。」ピーターは本当に自分の歳のことはなんにも知りませんでした。ただぼんやりと思うことがあるだけでした。でもピーターはあてずっぽうで言ったのでした。「ウェンディ、ぼくは生まれたその日に逃げだしたんだ。」

ピーターは「あてずっぽう」に自分が生まれた当日人間世界を逃げだしたのだと語る。そして彼の場合はあてずっぽうで言ったことは常に真実なのだ。ピーターは一体何故、折角生まれてくることになったこの現実世界から逃げ出さなければならなかったのだろう。ピーターの存在の秘密について彼は自分でこう語る。

“It was because I heard father and mother,” he explained in a low voice, “talking about what I was to be when I became a man,” he said with passion. “I want always to be a little boy and to have fun. So I ran away to Kensington Gardens and lived a long long time among the fairies.”

p. 42

「それはお父さんとお母さんが、ぼくが大人になったら何になるかということを話しているのを聞いたからなんだ。」ピーターは低い声で言いました。「僕はずっと小さな子供で楽しく暮らしていたいんだ。だから

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ぼくは逃げだしてケンジントン公園で妖精達と一緒に長い間暮らしてきたんだ。」ピーターは強い口調で言いました。

普通子供達は成長して大きくなることに強いあこがれを抱くものだ。大きくなるにつれて手の届く高さは増し、より速く走ることが出来るようになり、これまで目で追うばかりであった実行不可能の様々のことが、実際に身をもって体験出来るようになる。さらに、子供達は大人になればもっと自由に自分の身を処することが出来る筈だというおかしな幻想さえ抱いているものだ。 それなのに生まれたその日から大人になることのつまらなさを知ってしまったピーターは、一体どこからそんな物悲しくも深遠な知恵を手に入れてしまったのであろうか。この世に生きるものすべてにつきまとう生の悲哀について、生まれたばかりのその時から感得することができるというピーターには大きな謎が付きまとっている。実際、ピーターという存在自体が大きな謎(riddle)なのだ。この問題については後に章を改めて語り直さねばならないことになるだろう。 ピーターは妖精という存在の生成の秘密までわきまえている。ピーターによれば妖精の誕生はこんな具合にして起こる。

“You see, Wendy, when the first baby laughed for the first time, its laugh broke into a thousand pieces, and they all went skipping about and that was the beginning of fairies.”

p. 43

「あのね、ウェンディ、赤ちゃんが初めて笑い声をたてた時、その声ははじけて何千ものかけらになって、飛び跳ねるんだ。それが妖精の誕生なんだ。」

妖精の発生に関するピーターの説は、万物の有機的連関を前提とするロマン主義の思想に基づいた世界観と関連して本書で先に検証された見解とは、いささか異なるものである。しかし実際に妖精と共に暮らしている、古代の神族の一人でさえあるピーターの言うことだから、この件についても彼のあてずっぽうを一概に間違いだと決めつける訳にはいかないであろう。我々の知識の方に

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修正を加えるとするならば、ピーターの開陳する妖精誕生説は、以下のような見解を暗示するものとして解釈されるだろう。つまり始源の神そのものの顕在化した位相の一つであり、宇宙にあまねく行き渡るエネルギーの具現化のような存在である妖精が、その本性として持っている筈の本質的属性は、生まれて初めて笑った赤ん坊の声のように他愛なく喜びに満ちたものであると。これは滅亡の予言に脅かされ、神との間に交わされた苛酷な契約に縛られる教会制度におけるキリスト教的な世界観とは、全く対照的なものである。あるがままの自然をあるがままに受け入れ、かつ又自分自身の内面の心象世界を観照することによって、失われていた自己の本性を取り戻すことが出来さえすれば、それが最も幸福にみちた真実の生き方につながるものであると説く、ヴェーダ哲学等に代表される東洋哲学の教える伸びやかな世界観が、ピーターの語る妖精誕生説において暗示されている訳だ。それならばあてずっぽうに語ったはずのピーターの妖精誕生説は、先の章で検討したのと同様の、ファンタシー文学の内包する宇宙の不可分の合一性を前提とした楽天的世界観を見事に踏襲したものであると言える。しかしながらバリは妖精の発生の発端を「赤ん坊の笑い声」に帰するという観念遊戯をこの作品において付け加えもしている。このような奇想(conceit)においては『ピーターとウェンディ』は、前世紀においてジョージ・マクドナルドの描いたような、新たな宗教代替物となり得ることを企図した形而上的神秘思想を媒介する、アレゴリーとしてのファンタシー文学の軌道を大きく逸脱して、はなはだアイロニカルな20世紀的モダニズムの感覚をより追求した作品であると言えるのだ。 妖精という存在の霊的世界構成要素という要因を考慮すれば、ピーターの語る妖精に関わるもう一つの情報は、やはり我々の精神の構築する内的世界と外界である宇宙空間とが、緊密な有機的関係の許にあることを伝えるものである。子供達一人一人につき一人の妖精が「いる筈だった。」と語るピーターの言葉を聞きとがめたウェンディは、妖精と子供達の間の不思議な関わりについて教えられることになる。

“Ought to be? Isn’t there?” “No. You see children know such a lot now, they soon don’t

believe in fairies, and every time a child says, ‘I don’t believe in fairies,’ there is a fairy somewhere that fall down dead.”

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p. 43

「いるはずですって?じゃあもういないかもしれないの?」 「そう。子供達は今はたくさんのことを知ってしまうだろ。だから子供達はすぐに妖精のことを信じなくなってしまう。そして子供が『妖精なんているものですか。』と言うたびごとにどこかで妖精が倒れて死んでしまうんだ。」

子供達の信仰を失った時妖精は死ぬ。ドイツ・ロマン派の形而上学的アレゴリーにおいて「妖精」という記号が果していたものと同等な霊性の補完的機構がここにも窺われる。『ピーターとウェンディ』においてはロマン派の導入した妖精像が誕生神話において革新される一方で、その寓喩的意味は確かに継承されている訳である。 ピーターが知っているもう一つの大きな秘密は、ロスト・ボーイズに関わることであった。ピーターはネヴァランドでロスト・ボーイズ達と共に暮らしていると教えられてウェンディは、「ロスト・ボーイズって何?」と尋ねる。ピーターの答えはこうだ。

“They are the children who fall out of their perambulators when the nurse is looking the other way. If they are not claimed in seven days they are sent far away to the Neverland to defray expenses, I'm certain.”

p. 46

「ロスト・ボーイズっていうのは子守りがよそを向いている時に乳母車から落っこちてしまった子供達なんだ。もしも一週間のうちに見つけてくれる人がいなかったら、経費の負担のためにネヴァランドに送り込まれることになっているんだ。」

ここにバリが『ピーターとウェンディ』において創りあげた極めてモダニズム的な神話創成機構がある。「乳母車から落っこちる」という表現はおそらく乳幼児死亡率の高かった19世紀末から20世紀初頭のロンドンにおいて赤ん坊

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が命を無くすことを婉曲的に表現したものであったろう。(1)ロスト・ボーイズとは大人になる前に他界してしまった幼い死者達の魂のことである。バリはこの観念的な婉曲表現に具体的イメージを与えるという離れ業をやってみせた。泡がはじけるように笑い声の中から生まれる妖精達と、不気味な死の戸口をくぐり抜けてネヴァランドにやって来たロスト・ボーイズ達(2) は、極めてドライで無機質的なアイロニーの産物でもある。その意味で妖精の本性に関する描き方とロスト・ボーイズという奇想的存在の導入のしかたについては、この作品が極めてモダニズム的な要素を持っているということが改めて指摘出来るのである。(3) バリの作品における特徴的要素として「きまぐれ性」という表現が用いられることが多いが、この「きまぐれ性」とは、バリの開拓した戦略的奇想の産物のことなのであり、決してバリの創作行為そのものがきまぐれになされた訳では無い。ピーターの示す、時に他愛無く無知であり時に深遠な知恵にも満ちているという、一見当ての無いキャラクター設定要素は、深い部分でちゃんと繋がっている。これらはピーターという見事に一貫したキャラクターの発現形として現れたゆらぎの両極と見なし得るものなのである。 ピーターには女性特有の嫉妬という気持ちが分からない。ピーターがウェンディにキスをするのを邪魔しようとしてウェンディの髪を引っ張るティンカー・ベルのことをピーターはこのように語る。

“She says, she will do that to you, Wendy, every time I give you a thimble. ”

p. 48

「ティンクはね、ウェンディ、ぼくが君に指貫をあげる度にいつもこうするって言ってるんだ。」

ティンカー・ベルの言葉をこのように翻訳してやりながらも、いかなる心理で彼女がこんなことをするのか、その真意はピーターには分からないのだ。無邪気にティンカー・ベルに「でも何故?」なんてピーターは尋ねてしまう。でもウェンディには分かっているのだ。きっとあまりにも人間的なこの感情のことを知らないのは、ピーター一人きりなのだろう。そのくせピーターには、人の

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心の奥底を見抜いてしまっているような、妙に賢しげなところがあったりもする。ウェンディをネヴァランドに誘い込もうとしてピーターは様々の誘惑を仕掛ける。空を飛ぶことや人魚達のことなど、ネヴァランドに待ち受けている数多くの魅力について語った後にピーターが持ち出す決定的な誘惑の言葉は、こんな風に語られている。

“Wendy,” he said, the sly one, [傍線筆者]“you could tuck us in at night.”

p. 50

「ウェンディ、夜にはぼくらを床に寝かしつけることだってできるんだよ。」ずるがしこいピーターは言いました。

そして「僕等の服を繕い、ポケットを作ってくれることも出来るんだよ。」と続けるピーターは女心を知り尽くした百戦錬磨の女たらしみたいなところさえある。無邪気な筈の子供達が潜めている不可解な狡賢さは、ピーターの裡では誘惑者として鮮やかに振る舞うこのような場面に見られたし、ピーターの誘惑を受けるダーリング家の子供達の裡にも、このすぐ後の場面で見受けられることとなる。ピーターの誘惑に屈してウェンディが弟達を起こしたところで、ピーターはあたりに異常を感じて子供達に注意を呼びかける。その時の子供達の様子は次のように描かれている。

Their faces assumed the awful craftiness of children listening for sounds from the grown-up world. [傍線筆者] All was still as salt. Then everything was right. No, stop! Everything was wrong. Nana, who had been barking distressfully all the evening, was quiet now. It was her silence they had heard. [傍線筆者]

p. 51

子供達の顔は大人の世界の物音に聞き耳をたてる子供達の恐ろしいほどの狡猾さをただよわせていました。なにもかもしんと静まり返っていました。すべて順調です。いや、ちょっと待った!これではまずい。晩

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の間ずっと悲しげにほえつづけていたナナが今は静かになっています。子供達が聞きつけたのはナナの静けさでした。

このように子供達は大人の見ていないところでは特有の狡賢さを発揮し、その耳は静寂さえも聞き取ることが出来るのである。ピーターは子供達のそうした不気味な属性の見事な具現化なのだ。 ピーターが子供達に空を飛ぶ方法を教える時には、こんな風だ。

“You just think lovely wonderful thoughts”, Peter explained, “and they lift you up in the air.”

p. 54

「ただ素敵な、楽しいことだけを考えればいいんだ。そうしたらその気持ちが君を宙に浮かしてくれるんだ。」ピーターは説明しました。

素敵な楽しいことだけを思い浮かべるとその気持ちが体を宙に浮かせてくれるのだと言う。これは子供だけが自由に執り行うことが出来て、大人には決してかなうことの無い、霊妙かつ深遠な秘儀だ。何故ならば大人達は心中に「憂鬱」というどうしようも無い引力を抱え込んでしまっているからだ。皮肉なことに「憂鬱」から己を解放する術を知っているのは、憂鬱をまだ知らぬ子供達だけなのだ。実はこの「憂鬱」という概念は、ピーターという存在の秘密を明らかにする際の重要な指標となるものだ。これについては後に詳しく触れることになるが、今手短に語っておくとするならば、ピーターという存在のアンチ・テーゼであるフックの体現しているものが正しくこの「憂鬱」なのである。 ピーターはいつも実にいい加減だ。先にも触れたようにピーターの言うことは必ずしも当てにならない。ネヴァランドへ行く道筋についてウェンディ達にピーターが語った言葉についても、語り手はこのように述べて訂正している。

“Second to the right, and straight on till morning,” that, Peter had told Wendy, was the way to the Neverland; but even birds, carrying maps and consulting them at windy corners, could not have sighted it with these instructions. Peter, you see, just said

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anything that came into his head. [傍線筆者] p. 58

「二番目の角を右に、それから夜明けまでまっすぐに」それがピーターがウェンディに教えたネヴァランドに行く道筋でした。けれども地図をたずさえていて、風の中で地図をのぞきこんでいる鳥達でさえ、こんな説明ではネヴァランドを見つけることはできなかったでしょう。ピーターはね、頭に浮かんできたことはなんでもでまかせに言ってしまうのですから。

「二番目の角を右に、それから朝まで真っ直ぐに」これがネヴァランドに向かう道筋だとピーターは言う。ドイツ・ロマン派が書いたメルヘン(Kunst Märchen)が想像力の源泉とした民間伝承のメルヘン(Volks Märchen) が語ったフェアリー・ランドの在り処「太陽の東、月の西」(East of the sun, west of the moon) を思い起こさせるような謎めいた言葉ではある。でも空を自由に飛び回る鳥達でさえこんな説明では分からないだろうと語り手も言う。ピーターは当てにならないでたらめを言っているのだろうか、それとも鳥にさえ分からない不可思議な秘密を彼は手にしているのであろうか。 先にも触れたようにピーターは「食べる」ということを知らない。ネヴァランドへと向かう途上でピーターが子供達に教えた食料の調達の仕方は、ウェンディも危ぶむように、甚だ怪しいものであった。

But Wendy noticed with gentle concern that Peter did not seem to know that this was rather an odd way of getting bread and butter, nor even there are other ways. [傍線筆者]

p. 59

けれどもウェンディは気づいて心配になったことがありました。ピーターはこれがバターつきパンを手に入れるにはちょっとおかしなやり方だと分かっていないどころか、他に食べ物を手に入れる方法があることさえ知らないようなのでした。

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小鳥達からパン屑を奪う、ということ以外の食べ物の手に入れ方をピーターは知らないようなのだ。これは生を送る能力の欠如という致命的な欠陥であると同時に、飢えることを知らない、という生の限界を乗り越えた超越的な能力でもある。ピーターには常にこのような二律背反的な属性がつきまとっている。 空を自由に飛び回りながらピーターは星と会話を交わしたりさえもする。

He could come down laughing over something fearfully funny he had been saying to a star, but he had already forgotten what it was...

p. 62

ピーターはなにかとても面白いことを星に語っていたらしく、笑いながら戻ってきたりするのでした。でもどんな面白い話をしていたのか、ピーターはもうきれいに忘れてしまっていましたけど。

こんな不思議な能力を示しながら、星達と語らっていたことの中身をすぐさま忘れてしまうのがピーターなのだ。ピーターの忘れっぽさといったら、ダーリング家の子供達を置き去りにして空の彼方へ飛んで行った後、再び彼等に出会った時にはもう彼等の顔を殆ど覚えていない程なのだ。(p. 63) いよいよ目的地であるネヴァランドの見える辺りまでやって来ると、ピーターは静かに告げる「ほら、そこだよ。」「光の矢がみんな向いている方さ。」ピーターは子供達に教える。

Indeed a million golden arrows were pointing out the island to the children all directed by their friend the sun, who wanted them to be sure of their way before leaving them for the night.

p. 64

なるほど、百万もの金の矢が子供達に島の方角を示してくれていました。みんなお友達のお日様が、夜の間子供達から離れている時、子供達が道に迷うことのないようにとしてくれていたことなのでした。

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子供達は既にピーターと一緒にいるおかげで太陽の友達になっている。太陽と星々、大地と空と気脈を通じさせることが出来るのがピーターの力だ。 ピーターは妖精に関わることなら何でも確実な知識を持っているようだ。ティンカー・ベルの光を見つけて、海賊達が大砲で彼等を狙っているのが分かった時も、ティンカー・ベルが自分では思うように自分の光を消すことが出来はしないのだと語る。

“She can’t put it out. That is about the only thing fairies can’t do. It just goes out of itself when she falls asleep, same as the stars.”

p. 71

「ティンクは光を消すことはできないんだ。妖精ができないことってこれくらいしかないね。星と同じように、妖精が眠りに落ちたとき自然に光は消えるんだ。」

バリはティンカー・ベルという妖精を描くことによって、伝統的な土俗的妖精像を破壊し、背中に羽を生やしている小さくてこぎれいな現代的妖精像をもたらした張本人でもあるが、妖精の光の本質を大空の星の光と同格に置いたところでは、自然の根源的な力の象徴としてのロマン派の妖精像を受け継いでいるとも言える。(4) 子供達がネヴァランドに近づいていくに従って、ピーターの知恵はいよいよ確かなものになってくる。子供達にはネヴァランドの気配は余りにもおぼろげにしか感じられない。しかしピーターにはネヴァランドの様子が手に取るように分かっている。

It was the stillest silence they had ever known, broken once by a distant lapping, which Peter explained was the wild beasts drinking at the ford, and again by a rasping sound that might have been the branches of trees rubbing together, but he said it was the redskins sharpening their knives.

p. 72

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子供達がこれまでに経験したことのないような静けさでした。時折遠くの方でぴちゃぴちゃ音がしました。ピーターはそれは野獣達が川の浅瀬で水を飲んでいる音だと言いました。また木の枝がこすれ合うような音が聞こえることもありました。でもピーターはそれはインディアン達がナイフを研いでいる音だと言うのでした。

聴覚という人間にとっては幾分不確かな感覚において、ピーターの確信はより強いものとなっているようだ。視覚と理性に対して対極的な部分でピーターの能力はより研ぎ澄まされていくのだ。ティンカー・ベルのいたずらでウェンディがトゥートルズの矢に胸を射られて墜落した時も、ピーターは不思議なことを言う。

“She is dead,” he said uncomfortably, “Perhaps she is frightened at being dead.”

p. 97

「ウェンディは死んじゃった。」ピーターは落ちつかなそうに言いました。「たぶん死んじゃったことに怯えてるんだ。」

死んだ後のウェンディの心の状況まで推測出来るのはピーターの不思議な知恵だ。ピーターは生死の臨界点を越えた魂の真実を知っているのかもしれない。けれども、彼はおどけた振りをしてウェンディの亡骸の見えない所まで行って、二度とここに戻って来るのはよそうか、などとも思う。メイク・ビリーブの世界で手に終えない出来事が起こってしまったら、その冒険遊戯を投げ出して、忘れてしまうのが一番だ。これが子供の無責任な行動の基本原理であるのだろう。しかしながらウェンディ殺害の非を認めて「殺してくれ」と言うトゥートルズに対して、ピーターは二度矢を振り上げながら二度とも彼の心臓を突き刺すことが出来ない。ピーターは言う。「刺すことは出来ない。何か僕の手を押し留めるものがあるんだ。」(p. 98)ウェンディがまだ生きていることに最初に気付いたのはニブズだった。トゥートルズの放った矢はピーターがウェンディに与えた「キス」に当たっていたのだった。ピーターは事の真相を知らないまでも、

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自分の取るべき行動を導く何物かの声を聞くことができる。自分が知らないということを知っていながら聞こえる、するべからざることを押し留める内なる声は、ソクラテスのダイモニオンを思わせるものがある。無意識の声に耳を傾けて予言の言葉を聞き取る力を持った者は、自分自身と外界世界全てを包括してまどろむ、いつか覚醒すべき神性を本能の間近に感じ取る者なのだ。 このまま地面に横たわったままではウェンディは本当に死んでしまう。そこでピーターはウェンディの体のまわりに家を建てることを提案する。(5) これは中々いいアイデアだ。そんな素晴らしい閃きを見せるくせに、ピーターはそこに現れたジョンとマイケルの顔をすっかり忘れてしまっていたりもする。散々苦心して家を建て終わったあとウェンディを起こす時にはピーターはみんなに最上の身だしなみでウェンディを迎えるように命じる。何故ならば彼の言葉を借りれば「第一印象というものが特別に重要なんだ」(p. 106)からだ。でもピーターは内心誰も「第一印象」がどんなものであるか質問しなかったので安心する。ピーターにも自分の語った難しい言葉である「第一印象」がどんなものであるかちっとも分かってはいないのだ。家から姿を現したウェンディに子供達は自分達のお母さんになって欲しい、と頼む。「でもそんなこと私に出来るかしら、経験も無いし。」と、とまどうウェンディに語るピーターの言葉は彼の無知と無知なるがゆえに所有する不思議な知恵の両面を示すものである。

“That doesn’t matter”, said Peter, as if he were the only present person who knew all about it, though he was really the one who knew least.

p. 107

「それは問題じゃないんだ。」ピーターは今ここにいる人の中で、なにもかもわきまえているのは自分だけだというような口ぶりで言いました。でも本当は一番分かってないのはピーターだったのです。

子供達のお母さんになったウェンディはジョンとマイケルが両親のことを余りよく覚えてなさそうなのを心配して、試験問題を出す。ロスト・ボーイズ達も関心を示してこれに加わる。その試験問題とはこんなようなものだ。

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“What was the colour of Mother’s eye? Which was taller, Father or Mother? Was Mother blonde or brunette? Answer all three questions if possible.”

p. 116

「お母さんの目の色は何色でしたか?お父さんとお母さんとどちらの方が背が高かったですか?お母さんは金髪でしたか、黒髪でしたか?もしできればこれらの三つの質問に答えなさい。」

他にも様々な課題をウェンディは考える。しかしピーターだけはこれに加わらない。そこにはピーターの存在の秘密に関わる特殊な事情も有りそうだが、何と言ってもピーターには字を書くことが出来ないからだ。

Peter did not compete. For one thing he despised all mothers except Wendy, and for another he was the only boy on the island who could neither write nor spell, not the smallest word.

p. 117

ピーターは張り合おうとはしませんでした。一つにはピーターはウェンディ以外はお母さんなんてものはみんな馬鹿にしていたからでした。もう一つには、島にいる子供達の中でたった一人ピーターだけが字を書くことも読むこともできないからでした。ほんの短い単語すらピーターは知りませんでした。

ピーターはダーリング家の子供達を迎えた後のネヴァランドでのこのような生活の変化の中で一人浮き上がっているように見える。彼はウェンディの助けを借りて「冒険をしない振り」をするゲームをしてみたりする。しかしこれにもまもなく飽きてしまう。ピーターは一人きりで一体何をしていたのだろう。

He often went out alone, and when he came back you were never absolutely certain whether he had had an adventure or not. He might have forgotten it so completely that he said nothing about it;

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and then you went out you found the body; and, on the other hand, he might say a great deal about it, and yet you could not find the body.

p. 118

ピーターはよく一人で出掛けました。そしてピーターが帰って来た時、ピーターが冒険をしてきたのか、してこなかったのか、はっきり言うことはだれにもできませんでした。ピーターは自分のしてきたことをすっかり忘れてしまっていたため、なにも自分で言うことはなかったからです。それなのに出掛けてみると、ピーターに殺された海賊の死骸が見つかったりするのです。そしてまた、ピーターは自分のしてきた冒険のことをとても沢山言うこともありました。でもピーターに殺された海賊の死骸を見つけることはできなかったのです。

ピーターは海賊を殺して来た日もあったし、海賊を殺してきた振りをする日もあった。でも自分がそのどちらをしたのか覚えていないのがピーターなのだ。この忘れっぽさこそピーターと他の子供達を截然と画するピーター独自の秘密である。例えば礁湖におけるフックとの戦いの際、自分の方が高いところにいることに気がついて助けの手を差し延べたところでピーターはフックに傷を負わされてしまう。これはひどい裏切りだ。成長する過程で子供達は自分達の生きるこの世の中から様々の手ひどい裏切りを受け、傷つき、大人になっていく。しかしピーターだけは違うのだ。

No one ever gets over the first unfairness; no one except for Peter. He often met it, but he always forgot it. I suppose that that was the real difference between him and all the rest.

pp. 139-40

だれも初めて被った不正な裏切りから立ち直ることはできません、ピーターをのぞいては。ピーターはなんどもこんな目にあったことがありました。でもいつも忘れてきたのでした。私はそのところがピーターと他の子供達との本当の違いなんじゃないかと思うんです。

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ピーターの手下の子供達でさえもピーターの無知には気付いてしまっている。例えばジョンはこうだ。

“He is not really our father,” John answered. “He didn’t even know how a father does till I showed him.”

p. 153

「ピーターは本当はお父さんじゃないんだ。」ジョンも言った。「ピーターはぼくが教えてやるまではお父さんがどんなふうにするのか知ってもいなかったんだ。」

マイケルの場合はこうだ。

“It was me told him mothers are called old lady,” Michael whispered to Curly.

p. 156

「お母さんが『お前』って呼ばれているのをピーターに教えてやったのはぼくなんだ。」マイケルはカーリーにささやいた。

何よりもピーターが分かっていないのは、女の子の気持ちだ。ピーターの奥さんを演じている筈のウェンディが、こんな風に詰問しなければならない。ピーターとウェンディの以下のやりとりはいかにもちぐはぐだ。

“Peter”, she asked, trying to speak firmly, “What are your exact feelings to me?”

“Those of a devoted son, Wendy.” “I thought so,” she said, and went and sat by herself at the

extreme end of the room. “You are so queer,” he said, frankly puzzled, “and Tiger Lily

is just the same. There is something she wants to be to me, but

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she says it is not my mother.” pp. 158-9

「ピーター、あなたは私のこと本当はどう思っているの?」ウェンディはしっかりとした口調で言おうと意識しながらたずねました。 「お母さんが大好きな息子の気持ちだよ。」 「そうだと思ったわ。」ウェンディは言って、部屋のあっちの端まで行って一人で腰をおろしました。 「なにを言ってるんだい?」ピーターはごまかしでなく訳が分からなくなって言いました。 「タイガー・リリーもそんな風なんだ。タイガー・リリーはぼくの何かになりたいらしいんだけれど、ぼくのお母さんになりたいんじゃないっていうんだ。」

ピーターは子供達の両親の役をウェンディと共に演じていながら、ウェンディのことを自分のお母さんだとしか認識出来ていない。ピーターには絶対に知ることの出来ない何かがあるのだ。それと共にピーターだけが経験して知っている、恐ろしい秘密もまた存在する。床についてウェンディにお話をしてもらう子供達はウェンディの語るお母さんの子供達に対する限りない愛情の深さを信じて疑わない。ところがもっと深い真実を知ってしまったものが一人だけいる。それがピーターだ。

But there was one there who knew better; and when Wendy finished he uttered a hollow groan.

p. 167

けれどもそこでもっと深い真実を知っているものがいました。そしてウェンディがお話を終えるとピーターはうつろなため息をつきました。

ピーターの語るところによると、遠い昔ピーターはお母さんがいつも窓を開けてピーターが帰って来るのを待っていてくれると信じて、何ヵ月も家を空け、そして帰って来たらお母さんはピーターのことを忘れてしまっていて窓は閉じ

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られ、ピーターのベッドには別の赤ん坊が眠っていたのだという。(p. 167)これを聞いてにわかに不安になったダーリング家の子供達は両親の許に帰ろうと考える。そしてウェンディはピーターの気持ちも気づかうことなく、「家に帰る支度を整えてくれるわね。」と言う。これを聞いたピーターは平静を装って、敢えて拒もうとはしない。けれども彼の心の中は怒りに燃えている。

...he was so full of wrath against grown-ups, who, as usual, were spoiling everything, that as soon as he got inside his tree he breathed intentionally quick breaths at the rate of about five to a second. He did this because there is a saying in the Neverland that, every time you breathe, a grown-up dies; and Peter was killing them off vindictively as fast as possible.

p. 169

…ピーターは大人達に対してとても怒りを感じていました。大人達は例によってなにもかもだいなしにしてしまうのでした。ですからピーターは自分の木の中に入るやいなや一秒間に五回の割合でわざととても速く息をつきました。ピーターがこうしたのは、ネヴァランドにはことわざがあって、子供が一つ息をするたび毎に大人が一人死んでしまうのだというのです。そういう訳でピーターはできるだけ速くたくさん大人達を殺して、恨みをはらしているのでした。

現実の世界の子供達が妖精の存在を信じることを止めるとともに妖精達が死んでしまうように、ネヴァランドの子供達が息をつく度ごとに大人達が死んでしまうのだ。このような世界の裏側で作用している不思議な法則についてはピーターは妙に詳しい。そして意図的に速く息をつぎ、残酷にも大人達を殺してしまおうとするのだ。 瞬時における判断の的確さにはピーターは侮れないものを持っている。海賊達にさらわれた子供達を救いに出掛ける途中で、時計を飲み込んでいた鰐がもう時計の音をたてるのを止めているのに気が付いたピーターは、計算を越えた直観力でこの事実を自分の目的のために役立てる。

79

Without giving a thought to what might be the feelings of a fellow-creature thus abruptly deprived of its closest companion, Peter began to consider how he could turn the catastrophe to his own use; and he decided to tick, so that wild beasts should believe he was the crocodile and let him pass unmolested.

pp. 214-5

こんなに親しい連れを突然奪われてしまった同じ生き物の気持ちがどんなものであるか思いやることもなしに、ピーターはこの件を自分の役に立てるにはどうしたらよいか考え始めました。そしてピーターは野獣達がピーターのことを鰐だと思ってピーターの邪魔をすることなしに通してくれるように、鰐の真似をしてカチカチ音を立てることにしました。

こうして鰐のたてる時計の音を真似することによってピーターは野獣達に邪魔されることなく海賊達の船のところまでたどり着けることになるが、ピーターの無意識の直観が冴えるのはむしろここからだ。まず鰐が何を思ってか、これまで自分がたてていた時計の音をたてるピーターの後についてくる。この鰐は最後にフックの滅亡を招く重要な役割を果たすことになるのだが、ピーターにはそんな周到な計算は到底なかった筈だ。しかもピーターはあんまり長い間時計の音をたて続けていたので、自分がそうしていることさえきれいに忘れてしまっている。(p. 215)フックが子供達の処刑をウェンディの目の前で執り行おうとしているまさにその時フックの不意を突き、うろたえさせることになったのが、ピーターが忘れたまま真似し続けていたこの時計の音だ。(p. 212)フックとの最後の戦いを勝利に導くきっかけは全くの計算外の無意識の行為から得られたのである。 全ての冒険が終わり、ダーリング家の子供達は無事家に戻り、ロスト・ボーイズ達もダーリング家に引き取られた後、春の大掃除の日にウェンディに会いにやって来たピーターは、なんと仇敵であったフックのことまでもさっぱりと忘れてしまっている。

“Who is Captain Hook?” he asked with interest when she

80

spoke of the arch enemy. “Don’t you remember,” she asked, amazed, “how you killed

him and saved all our lives?” “I forget them after I kill them,” he replied carelessly.

p. 255

「キャプテン・フックって誰だい?」ピーターはウェンディが彼の仇敵のことを話した時、とても関心を示して尋ねました。 「覚えてないの?」ウェンディはびっくりして聞きました。「あなたがフックを殺して私たちみんなを助けてくれたのよ。」 「ぼくは殺したやつのことはみんな忘れてしまうんだ。」ピーターは無造作に言いました。

さらにピーターはティンカー・ベルのことさえすっかり忘れてしまっているのだ。ウェンディがいくら説明しても、ピーターはまるで関心を示さない。「妖精は数がとても多いからね。きっともう彼女はいなくなってるんじゃないかな。」(p. 256)ピーターは忘れっぽいお陰でどんな悲しみも痛手も負うことはない。変化し、失われていく者達の中でピーターだけは繰り返し、繰り返し変わらぬ生を活き活きと送り続けていくのだろう。覚えなければならないこともなければ、知ってしまうこともない。無知と英知が結ばれて一つになったような本能的衝動のおもむくままにピーターは生き続けることに違いない。 しかしピーターの得たこの永遠の自由は、生の束縛からの喜ばしい開放を暗示するものでは全く無い。実は彼は子供達の無意識の中を当てども無くさまよい続けざるを得ない、というあまりにも苛酷な呪縛に捕捉されてしまっているのである。ピーターとは決して復活することの無い神であり、永久に帰還することの無い王なのでもあった。ピーターの体現するこの恐ろしい宿命の実態については、改めてこの希有なファンタシー作品の本来の主人公とピーターとの関係を再確認した後に、検証の手を加え直すことになるだろう。 (1)

筆者は長らくこの指摘を裏付ける具体的資料を探していたのだが、和洋女子大学国際社

会学科のレベッカ・田中先生のご教授を得て、以下のホームページに19世紀末から20

世紀初頭にかけてのロンドンにおける伝染病の蔓延と、幼児の死亡率に関する統計的資料

81

があることを知った。

これらは『ピーターとウェンディ』第1章に描かれた、ダーリング家の子供達の誕生の

際におけるダーリング氏の伝染病に対する懸念と、この作品の基軸をなすロスト・ボーイ

ズという奇想的存在の誕生に影響を及ぼした歴史的背景を物語る大変興味深い資料である

と思われる。

The London GIS:

http://www.geog.qmul.ac.uk/gbhgis/sampler4/london.html#Inf_mort

(2)

ピーター・パンというキャラクターが初めて具体的に登場人物として実体化した作品で

ある『白い小鳥』においては、ケンジントン公園に住むピーターは乳母車から落っこちて

凍死した子供達を埋葬するのを習慣にしている。

(3)

しかしながらドイツ・ロマン派の作家達の作品を今一度振り返ってみるならば、例えば

ブレンターノーの得意とした、洒落や地口の言語遊戯から仮構世界を捏造する趣向のメル

ヘンや、ホフマンがしばしば演じてみせた、夢と現実を渾淆させて物語世界の非在化を図

る観念遊戯のメルヘンは、既にモダニズム的な要素を色濃く有していたのであった。(Cf.

Thalmann, pp. 63-120)迂闊にロマンティシズム、モダニズム、あるいはポスト・モダニズ

ム等の色分けをすることが出来ない理由がここにある。ロマン主義とはまさにオスカー・

ワイルドが述べたようにリアリズムも反リアリズムも共にその裡に含んでいる両義的な観

念であるからだ。ワイルドによれば、リアリズムはたった一つだけのコンヴェンションに

縛られて一義的な価値基準しか持ち得ない観念の硬直を示し、ロマンティシズムとはそれ

に対し様々のコンヴェンションを認める多義的な価値基準を備えた観念の柔軟性を示すも

のである。従ってロマンティシズムから見ればリアリズムはある特定の形式を持ったロマ

ンティシズムの一種として認め得るが、反対にリアリズムの立場から見ればロマンティシ

ズムは価値基準を逸脱した決定的に認め得ざるものとなる。「嘘の衰退」(“The Decay of

Lying”)参照。さらに付け加えるならば、イギリスにおいてロマン主義勃興の先駆者的存在

であったゴシック・ロマンス作者達の中には、ウォルポール(Horace Walpole)やラドクリ

フ(Ann Radcliffe)等に代表される純粋に中世回顧的なゴシック・ロマンス作者達を揶揄す

る立場をとった、反ゴシック・ロマンス作家とも呼び得るオースティン(Jane Austen)やピ

ーコック(Thomas Love Peacock)達も含まれていたのである。このようなロマン主義とい

う概念の持つ根源的な曖昧さについては Robert Kiely, The Romantic Novel in England.(1973)を参照されたい。

この問題は当然ファンタシーという言葉の定義にも当てはまり、ファンタシーの指標を

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「ザ・ファンタスティック」(the fantastic)と呼び、その定義を「物語世界中の基本原則の

180度の逆転」(180 degree reversal of ground rules of a narrative world)としてリア

リティとファンタシーの関係をワイルドと同様の視座から論じたラブキン(Eric S. Rabkin)

の,The Fantastic in Literature, (1976)も作品世界は全て独自の宇宙定数である「相関関係

式」(perspective) を持った公理系としてリアリティとは軌を異にする別種の可能世界とし

て存在していることに目を留めて、絵画・映画等を含めて全ての芸術作品はファンタシー

であると結論付けている。(pp. 213-227)

『最後のユニコーン』の作者ビーグルが『ピーター・ビーグルのファンタシー作品』(The Fantasy Works of Peter Beagle, 1978) の序文「自家製の人狼」("The Self=Made

Werewolf")において“I am likely to announce that all writing is fantasy anyway: that to

set any event down in print is immediately to begin to lie about it,...”(p. 10) 「書き物

はすべて何らかの意味においてファンタシーであると述べたいと思います。何であれ記述

するということはとりもなおさず嘘をつき始めるということですから…」と述べているこ

とは、ワイルドの「嘘論」に「ファンタシー論」が呼応していることを示している。

(4)

『ピーターとウェンディ』の先行作『白い小鳥』に描かれた妖精は、より現代的に類型

化されたものとなっていたのが印象に深い。あえてモダニズムとポスト・モダニズムを分

別するなら、やはり『白い小鳥』がモダニズム的で、『ピーターとウェンディ』がポスト・

モダニズム的であるという図式はとり得よう。

(5)

このモチーフは『白い小鳥』にあったものをそのまま踏襲したもの。

83

キスと謎々 ピーターの体現している無知と不思議な知恵について検証していく途上で、ピーターという存在には想像以上に大きな謎が隠されているらしいことが分かった。謎とは単なる情報の欠落から生じる表面的な不合理でもないし、意図的な情報の隠蔽や狡猾な言葉のすり替えが即座に謎を成立させてくれる訳でもない。謎はいかなる解析手法をもってしても、またどのようなシステム変換を施したとしても、決して解読することが出来ないという原理的な不可解さを周到に備えた、例外的に特異な言説であるからこそ正しく謎で在り続けるのだが、“ 謎” という形で観念空間上に顕在化してもいれば、“ 謎” という言葉で呼び、思念の中に取り込んで論考の手順に組み込み得るものでもまたある。 しかしながら謎は、“ 魔法” や“ 予言” や“ 奇跡” 等のある特定の枠組みを形成する概念群と同様に、思考システムの一単位を形成する要素として堅固な職分を果たしていると同時に、思考体系の全体像を巧妙に歪め、総体としてのシステムの整合性を失墜させる破壊的要素として、実際にはその玄妙な機能を発揮することとなるのだ。これらは我々の意識構造と言語体系の背後に潜んでいる、より公汎で不可解な未知の観念空間と接合する、無気味なワームホールの入り口のような存在なのだ。これら超自然の範疇に属する概念とは、常に我々の内面意識と外界領域との重合部分に対する合理的な統一的解釈構築可能性の敷衍領域を浸食して、思考システム外部の測鉛不能なメタシステムの原理の存在を何時までも暗示し続けることになる、不吉な護符のようなものなのである。だから時には、“ 謎解き” の手順を通して一時的に超自然の逸脱例を自然的解釈に引き戻すことによって、さらに根源的な神秘の存在を際立たせることすら可能になってしまうこともあるのだ。 ピーターの謎について論考を始める糸口は「お母さん」にあった。ダーリング夫人は毎晩のお決まりの日課で子供達の心の中を整理している時にピーターの名前を見つけ出しても、いささかも驚きはしなかった。彼女はピーターの顔のようなものを、別のところですでに見たことがあったのだという。

He did not alarm her, for she thought she had seen him before in

84

the faces of many women who have no children. Perhaps he is to be found in the faces of some mothers also.

p. 15

ピーターを見つけてもダーリング夫人はびっくりしたりはしませんでした。ダーリング夫人は以前にも子供のいない女の人の顔の中に、ピーターの姿をみたことがあるような気がしたからでした。おそらく何人かのお母さんの顔の中にもピーターは見つけることができることでしょう。

ピーターとは、未婚の女性達や若いお母さん達の顔の上に窺われる特有の表情に類した何かなのだという。比喩表現の一種と目されていた言説がそのまま実体性を獲得し、意志性と肉体性を備えた固有の存在物として具現化してしまったかのような奇妙な記述が行われてしまっていたという訳なのだ。机上の空論に属する観念遊戯の所産とも、あるいは観念空間のみにかろうじて存在意義を主張することができる、危うい概念連合の結晶体とも看做し得るのが、この物語の主人公である少年の備えた本質的属性であったのだった。この不可思議な記号的特性を秘めた、異質のファンタシー作品の登場人物の存在の意味するものを、正しく理解するための最初の手がかりはこのような事柄であった。しかしもっと注意を払っておくべき特徴的な事実は、ピーターがダーリング夫人のキスにとてもよく似ていると語られている点だろう。

If you or I or Wendy had been there we should have seen that he was very like Mrs. Darling’s Kiss.

p. 16

もしもあなたか私かウェンディがそこにいたならば、ピーターはダーリング夫人のキスにとってもよく似ているのが分かったことでしょう。

キスと指貫との言葉の取り違えに基づくぎこちない誤解をめぐって、後ほどウェンディとピーターとの間に展開されることとなった滑稽なやりとりの場合とは対照的に、ダーリング夫人の“ キス” に関しては、作者は最初から特別の配

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慮を払って入念に語ってくれているのだった。“ キス” はこの物語の主人公である筈のピーターの秘密についてばかりでなく、同時にまたダーリング夫人という、もう一人のこの上無く魅力的な存在自体の秘める、限りなく謎めいた神秘性を窺わせるものでもある。

She was a lovely lady, with a romantic mind and such a sweet mocking mouth. Her romantic mind was like the tiny boxes, one within the other, that come from the puzzling East, however many you discover there is always one more; and her sweet mocking mouth had one kiss on it that Wendy could never get, though there it was, perfectly conspicuous in the right-hand corner.

pp. 1-2

ダーリング夫人は素敵な女性で、ロマンティックな心を持ち、あの人をからかうような魅力的な口許がありました。ダーリング夫人のロマンティックな心はいくら開けてもまだ次から次に中から出てくる、不思議な東洋からやって来た小さな小箱のようでした。そして彼女の魅力的なからかうような口は、ウェンディがどうしても手に入れることのできないキスを一つその上に浮かべていました。右の端にあるのははっきりと見えてはいたのですけれど。

ダーリング夫人の心は入れ子箱のように奥が深い。20世紀になって宇宙の極大と極小を極めつつあった現代の物理学が改めて直面することとなった、限りなく分割を続けてもさらに新たな様相を装って現れるかのように思われる数々の素粒子群のように、論理と理性による連続的論証の過程を中断させ、理不尽にも不可解な飛躍の手順を導入することを強いる、「段階的無限」という概念を暗示させるようなものがそこにはある。 ひょっとして彼女の心を構成する小さな箱は、外側のもっと大きな箱を内側に隠し持っていたりもするのだろうか。そうだとすれば、この謎めいた玩具があの神秘的な東洋からやって来たものであることと、何か不可思議な関係があるのかも知れない。大と小の位相空間的関係性を超越するかのように、互いを呑み込み合う大蛇の文様を用いて象徴されたウロボロスの図像(1)のような神秘

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性が、ダーリング夫人のロマンティックな心の特徴なのだ。外宇宙と内宇宙の不可解な照応と、万物の霊妙な連関を暗示させるのが作者の心を捕らえたこの魅力的な女性なのであった。その彼女の口許に見えるキスは、ウェンディが望んでもどうしても手に入れることのできないものだった。それは目の前にありながら、同時に果てし無く遠いところにあるものなのだ。矛盾撞着の具現化であると同時に、排中律の双方の選択肢の重ね合わせ、あるいは正反対の一致という最高級の存在属性としての手放しの称賛を与えられているのが、ダーリング夫人の口許に見えているというキスだ。(2) “ キス” とは謎の暗示する世界構成軸の所在の確かな方向を指し示す、魔法の力を封じ込めた方位磁針でもあった訳なのである。

The gaiety of those romps! And gayest of all was Mrs. Darling, who would pirouette so wildly that all you could see of her was the kiss, and then if you had dashed at her you might have got it.

p. 7

踊りまわるみんなの陽気さといったら!そしてその中でも一番活気に満ちているのがダーリング夫人でした。彼女はつま先立ってあまりに激しく回転するので、周りから見えるのは彼女のキスだけでした。その時に飛びつきさえすれば、彼女のキスを手に入れることができたかもしれません。

お母さんが踊ると余りに激しくくるくると回転するので、周囲の人に見えるのはお母さんのキスだけだという。保有するエネルギー値の臨界点を超えた瞬間、励起状態という新しい様相の許に全く異なった外観を呈してその秘匿された存在属性をあらわすことになる、世界の存立機構の枢要を解き明かす秘密の鍵の存在が、そこに暗示されてでもいるかのようだ。この無邪気な観念の遊びとも、あるいは思弁的宇宙原理把握の超出の一例とも目される属性記述の手法は、さらにお母さんのキスと Peter との間に示される不可思議な関係を通して増幅されていくことになるのだ。 例えば、Edgar Allan Poe の「ユリイカ」(Eureka, 1848)において語られている次の一節と比較対照してみることによって、ダーリング夫人の体現するも

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のの指し示す思想的立脚点が、より輪郭を明らかにして現れてくることが分かるだろう。回転するものが動的投射の総合として周囲に与える凝縮的写像と、回転した結果連続的映像として回転体自身の視覚に投影される統合的世界像との間の、主客を転倒した不可思議な一致と絶妙な符牒の可能性が、そこに暗示されてでもいるかのようだ。

He who from the top of AEtna casts his eyes leisurely around, is affected chiefly by the extent and diversity of the scene. Only by a rapid whirling on his heel could he hope to comprehend the panorama in the sublimity of its oneness. But as, on the summit of AEtna, no man has thought of whirling on his heel, so no man has ever taken into his brain the full uniqueness of the prospect; and so, again, whatever considerations lie involved in this uniqueness have as yet no practical existence for mankind. エトナ山の山頂から悠然と周囲を見渡してみたものは、その景観の大きさと多様性に先ず心を奪われる。踵を中心に素早く躯を回転させることによってのみ、その景観の全一性の持つ崇高さを理解することが可能になると思われる。けれども、エトナ山の山頂で未だかつて何人も踵を中心に躯を回転させてみることを思い浮かべたことは無かったので、その特異性の全容に思いを馳せたものは誰もいないのである。という訳でやはり、この特異性の許にいかなる考察が包含されているかについては、未だかつて人類の実際に弁えるものとはなっていないのである。

ポーの「ユリイカ」におけるロマン主義哲学的省察の立脚点を形成する宇宙の全一性(oneness)の表象を、エトナ山の頂上に立って周囲をぐるりと見渡すことではなくて、自分自身が激しく回転することによって反転的に顕現させることを可能にしているのが、ダーリング夫人の母性原理の不思議な力なのであった。このような極大と極小、あるいは主体と客体の反転的な連鎖的合一という恩寵的奇跡を可能とする、世界の存立機構の秘密の所在を顕示する旗印として、確固たる機能を果たしているのがダーリング夫人のキスだったのである。(3) 首尾よくダーリング夫人を妻として手に入れたダーリング氏も、彼女の心の

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秘密には気付いてさえいなかったし、このキスの方は程なく諦めることとなったのだった。

He got all of her, except the innermost box and the kiss. He never knew about the box, and in time he gave up trying for the kiss.

p. 2

ダーリング氏は彼女の全てを手に入れました。一番奥の箱とキスを除いては。ダーリング氏は箱のことは決して知ることはありませんでしたし、キスの方はまもなく手に入れようとするのをあきらめたのでした。

ところがウェンディをダーリング家に送り返しに来た時、ピーターはいとも簡単にこのキスを自分のものにしてしまったのだという。

He took Mrs. Darling’s kiss with him. The kiss that had been for no one else Peter took quite easily. Funny. But she seemed satisfied.

p. 254

ピーターはダーリング夫人のキスを持って行ってしまいました。他の誰にも手に入れることのできなかったキスをピーターはいともたやすく取ってしまったのです。不思議です。でもダーリング夫人は満足しているようでした。

ピーターに関わる謎の謎解きに当たるものは、ここでは敢えてするまい。謎は謎であることに謎としての第一の意味がある。しばらくは謎の所在を確かめるだけで充分だ。アイロニーについて語る言葉がアイロニーを含んでいなければならないのと同様に、謎について語る際には、まず謎の振幅を最大限に増幅しておくのが手順だ。一つだけ確かなことは、あり得ない世界の実現不可能な出来事を語るファンタシーの言説行為とは、存在不可能な事実をもっともらしく語るという点では紛れもなく嘘を語る技であるには相違ないのだが、文字通り

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のナンセンスと妄言に堕することなくその虚偽が弁証可能な意味を持ち得るのは、いかなる公理系においても決して成り立つことのない特異な命題として、公理の存在そのものの立脚点を根源的な部分から脅かす、啓示的なアポーリアとして機能する限りにおいてでしかあるまいということだ。 ファンタシーの時空を形成するための必須条件として存在すると思われる、“ 超自然” の要素を鮮やかに反映した概念として“ 謎” という言葉を捉え直してみることにすれば、例えば自然科学のメカニズムが行ってきたように、どうしても既存のシステムに適合しない、従来のシステム理論を破綻に陥れると思われていた微細な夾雑物的要素をこそ核として、システム全体のメタシステム的修正を施すことによって、より高次のシステム構築を企てようと常に模索する帰納的方法論そのものにほころびを生じさせる、決定的な“ 不自然さ” の要素の結晶化した要因が、“ 謎” として現出することになるのだ。 ピーターは女性に訴えかける絶対的な力を持っている。それは彼のまだ抜け変わっていない乳歯に象徴されているようだ。

He was a lovely boy, clad in skeleton leaves and the juices that ooze out of trees, but the most entrancing thing about him was that he had all his first teeth.

p. 20

ピーターは可愛い少年で、枯れ葉と木の樹液を身にまとっていました。でもピーターのもっとも魅力的なところは、ピーターが乳歯を全部持っていたことです。

誰もが一目で「生え変わったことが無い筈」のものだと確信するピーターの歯の魅力とは、厳密な分析的検証を加えた結果に得られた、「彼の歯がまだ生え変わっていない」という客観的判断が彼の魅力を判定する条件になっている訳では決してある筈がないことを考慮に入れてみれば、圧倒的に見るものの心を支配する彼の絶対的な魅力が、「当然彼の歯が一度も生え変わってなどいない筈だ」という奇妙な確信を与えるという、因果関係の倒置を通して得られた超越的属性の記述という独特のレトリックで語られているところにこそ、最も重要な意味が見出されなければならないものだ。(4)だからピーターはウェンディに対

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しても、やはり抗いようのない力で、不可思議な誘惑の手を差し延べることになるのだ。

“Wendy,” he continued, in a voice that no woman has ever yet been able to resist...

p. 40

「ウェンディ、」ピーターはこれまでどんな女の人も抵抗することができなかった声で続けました。

全ての女性に対して絶対的な影響を及ぼす力を持っているくせに、ピーターは何故か肝腎の母親という存在に対しては強い不信の念を抱いている。彼はネヴァランドでは、暴君的な権力を行使しさえもして、手下の少年達に彼等の母親の話をすることを堅く禁じている程だ。

It was only Peter’s absence that they could speak of mothers, the subject being forbidden by him as silly.

p. 84

子供達がお母さんのことを話せるのはピーターがいない時だけでした。この話題はピーターによっておろかしいことだとして禁じられていたのです。

ウェンディが子供達にお話をしてくれて、母親の愛の限りない大きさについて語り始めた時も、ピーターだけは気が乗らない様子だった。

“If you knew how great is a mother’s love,” Wendy told them triumphantly, “you would have no fear.” She had now come to the part that Peter hated.

p. 165

「もしもあなたたちがお母さんの愛情がどんなに大きなものか知って

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いたら、」ウェンディは勝ち誇ったように言いました。「なんにも恐れることはないのよ。」ウェンディのお話はピーターが嫌っていたところに近づいてきました。

そしてピーターは、彼だけが経験したある秘密を子供達に語るのだ。お母さんに閉め出された忌まわしい体験を。(p. 167)お母さんに身勝手にも絶大の信頼をよせている子供達とピーターが決定的に異なるのはこの部分だ。ピーターにとってお母さんとは、何故なのか激烈な嫌悪の対象となるものでしかないようだ。

Now, if Peter had ever quite had a mother, he no longer missed her. He could do very well without one. He had thought them out, and remembered only their bad points.

p. 173

さて、もしピーターが以前にお母さんを持っていたとしても、ピーターはもうお母さんのことを恋しいなんて思ってはいませんでした。ピーターはお母さんなしで十分うまくやっていけました。ピーターはお母さんのことは考え尽くして、[傍線筆者]お母さんの悪いところばかり覚えていたのでした。

ピーターは子供達の誰よりも自由で大きな権力を振るうことができながら、誰よりも辛く耐え難い記憶らしきものを持ってもいる。(5)それがピーターの謎を形成する極めて不可解な要素の一つであることは間違いのないことのようだ。

Sometimes, though not often, he had dreams, and they were more painful than the dreams of other boys. For hours he could not be separated from these dreams, though he wailed piteously in them. They had to do, I think, with the riddle of his existence. [傍線筆者]

p. 190

しばしばではなかったけど、時々ピーターは夢を見ました。そしてその夢は他の子供達の夢より辛いものでした。悲しげにうめきながらも、ピ

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ーターは何時間もこのような夢からのがれることができないでいました。私は思うのですが、そのような夢はピーターの存在に関わる謎と何か関係があるのじゃないでしょうか。

ピーターは母なる大地の中に憩う、溢れるばかりの祝福を受けた特権の享受者であると同時に、自分を生み出した造物主たる母親と限りなく離反せざるを得ないという、永劫の呪いを背負った故郷からの追放者でもあるかのようだ。(6)

彼の母親一般に対する理不尽な遺恨の念は相当に深い。子供達と共にダーリング家に戻り、ダーリング夫人の姿を目にしたピーターはティンカー・ベルにこう言う。

“It’s Wendy’s mother. She is a pretty lady, but not so pretty as my mother. Her mouth is full of thimbles, but not so full as my mother’s was.”

p. 242

「あれはウェンディのお母さんだ。きれいな人だ。でもぼくのお母さんほどきれいじゃない。あの人の口は指貫で一杯だ。でもぼくのお母さんの方がもっと一杯あった。」

こともあろうに、この作品において限りない慈悲と寛大さに満ちた守護天使とも、またいかなる重罪人をも決して見捨てることはない情愛豊かな妖精の後見人(フェアリー・ゴッドマザー)とも看做すべき役割を果たすダーリング夫人に対して、ピーターは理不尽な敵意をこそ奮い立たせるのだ。しかもウェンディによって植え付けられた誤解から、肝腎のダーリング夫人の“ キス” を“ 指貫” と呼び違えてしまいさえもしている。けれども今はもうウェンディと、彼女のお母さんのダーリング夫人との関わりを通して“ キス” というものの秘める深い真実を、表裏一体の二重の意味で知ってしまったピーターは、自分の心の奥底で疼く痛みをここでは自覚している訳だ。ダーリング家の子供達とも別れ、これまでは彼の忠実な手下として常に一緒に暮らしていたロスト・ボーイズ達をもダーリング家に残して立ち去るピーターは、最後に窓から子供達の方を振り返る。

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He had ecstasies innumerable that other children can never know; but he was looking through the window at one joy from which he must for ever barred.

p. 247

ピーターはほかの子供達には決して知ることのできない数多くの喜びを知っていました。けれどもピーターが窓越しに見ているのは、ピーターには永遠に禁じられている一つの喜びでした。

“ キス” とウェンディというこれまでかつて味わったことのないものを経験してしまったピーターにとって、このダーリング家の子供達を巻き込んで引き起こしてしまった一件は、さぞかし特別なものであったことだろう。そしてまた、ウェンディとロスト・ボーイズを失うと共に、お母さんのキスを奪って持って行ってしまうという、相補的な見事に円環的に完結した行為を完遂してしまったというのが、このお話においてピーターの行った冒険として語られていた顛末の意味する厳粛な事実なのであった。だとすればひょっとして我々は、この物語においてピーターという神格のかつて経験したことの無い、歴史的な転機を目にしたことになるのであろうか。ここにおいて宇宙の生成展開は新たな位相発現の局面を迎え、世界に斬新な新世紀の誕生をもたらすことになるのだろうか。一見したところは、そのようにも考えられるかもしれない。しかしながら実際のところは決してそうではないのだ。ティンカー・ベルを連れてダーリング家を立ち去る時のピーターは、すでにこのように描かれているからだ。

“Oh, all right,” he said at last, and gulped. Then he unbarred the window. “Come on, Tink,” he cried, with a frightful sneer at the laws of nature. [傍線筆者]

pp. 243-4

「うん、平気さ。」ピーターは最後に言いました。そして息をのみました。それからピーターは窓を開けました。「おいで、ティンク。」ピーターは自然の法則に対して凄い嘲りの表情を浴びせかけながら叫びま

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した。 ピーターがこの場面で嘲笑したという「自然の法則」とは一体何であったろう。それはひょっとして、生きるものは全て経験し、成長し、変化するという苛酷な宿命のような、我々のすべてを等しく支配しているあの呪縛のことであったろうか。そうであるならば、ピーターはこの物語に描かれたエピソードの結果、やはり何らかの変化を被っている訳ではないのだ。何故ならばピーターは、忘れてしまうからだ。フックによる裏切りも忘れ、フック自身のことも後にはすっかりと忘れてしまっていた。むしろピーターの体現する深い謎の秘める意義は、彼の存在そのものが自然法則を成り立たせる合理的推論に対する嘲笑として、すなわちシステム構築不能性をもたらす恒久的な原動力として不断に機能し続けている点にこそ見出されるべきものであった筈なのだ。 あるいはまたピーターの身に帯びている謎は、フックとの関連から照明をあててみることも出来るだろう。ピーターとフックは並び立つことの不可能な仇敵同士であるが、フックがピーターに対して抱く執拗な憎しみの念について作者はこのように語っているのだった。

Peter was such a small boy that one tends to wonder at the man’s hatred of him. True he had flung Hook’s arm to the crocodile, but even this and the increased insecurity of life to which it led, owing to the crocodile’s pertinacity, hardly account for a vindictiveness so relentless and malignant. [傍線筆者]The truth is that there was something about Peter which goaded the pirate captain to frenzy.[傍線筆者] It was not his courage, it was not his engaging appearance, it was not—. There is no beating about the bush, for we know quite well what it was, and have got to tell. It was Peter’s cockiness.

p. 182

ピーターはこんなにも小さな子供でしたので、この男がピーターのことをこれほどまで憎むことに驚きの思いを抱く人もいるかもしれません。確かにピーターはフックの腕を鰐に食べさせてしまいました。けれども

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この事とその結果鰐の執拗さのために導かれた生命の危険ということだけでは、これほど容赦のない悪意に満ちた恨みの念を説明することはできません。実際のところは、ピーターのどこかにこの海賊船の船長を狂気に駆り立てるものがあったのです。それはピーターの勇気でもなく、ピーターの見栄えのする容姿でもありません、それは…。あれこれ詮索する必要はないでしょう。それが何であるかは私たちはとてもよく知っているはずです。だから言ってしまわなければなりません。それはピーターの生意気さでした。

ピーターがフックを不倶戴天の宿敵であると見なす理由が、生死を賭けた抗争と関わる実際的な利害関係などとは無縁のところにあったように、フックがピーターに対して抱く限りない憎悪の念も、手を切り落とされたことで被った不便であるとか、鰐に付きまとわれることで及ぼされる生命の不安であるとか、このような実質的な利害に関する遺恨や畏怖にあるのではない。ピーターの生意気さこそが何よりもフックの気に障るのだというのだ。フックの繊細な感性にとっては、ピーターの示すこの生意気さはその高邁な精神を愚弄する、侮辱的なものでさえあるのだ。ピーターの隠れ家に忍び込んだフックは一人眠っているピーターの姿を見つける。余りにも無防備なその様を見て、心の底から邪悪である訳ではないフックは、あるいは同情の念を感じて引き返したかもしれない、とも実際に作者によって語られていた。しかし彼に足を踏みとどまらせる何物かが、確かにピーターにはあったのだ。

What stayed him was Peter’s impertinent appearance as he slept. The open mouth, the drooping arm, the arched knee: they were such a personification of cockiness as, taken together, will never again one may hope be presented to eyes so sensitive to their offensiveness.

pp. 191-2

フックの足を留めさせたのは、ピーターの生意気そうな寝姿でした。口を開け、手を下にたらし、膝を立てて、その姿は生意気さを絵に書いたようなものでしたので、そのなにもかもをこんな侮辱にはあまりにも傷

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つきやすいフックの目の前に示すことは、二度と期待できないようなものでした。

ここに述べられているピーターの“ 生意気さ” も、実際のところは彼の不可解な乳歯の場合と同様に、因果関係の連鎖の転倒という巧妙な観念操作を軸にして語られた、鮮やかなレトリックの所産であることに間違いはない。敢えて擬装された真実を暴露するならば、本当のところはピーターの保持していた属性の一つである“ 生意気さ” がフックの心を苛立たせるのではなく、ピーターの存在自体が否応も無くフックを苛立たせる原因となる謎を秘めており、そのためにフックはピーターの姿に避けるべくもなく“ 生意気さ” という圧倒的な主観的印象を感じ取ってしまうのだ。フックは絶え間なくピーターのために心を苛まれ続ける永遠の被害者であり、不可避的に救済される術を奪われた、宿命的な受難者なのである。この両者の関係性が主客を転倒した相互作用的現象認識に関する記述手法の展開の一例として、“ 生意気さ” という属性あるいは概念を採用してさりげなく語られていた、というのが事の真相なのであった。 船上での最後の戦いの際においても、ピーターの存在の謎は改めてフックの傷つきやすい心をいたぶる。哀れな受難者の海賊には、実は一つ思い当たる節があるからだ。フックはかすれた声で、「パン、お前は一体何物なのだ。」と誰何してみる。ピーターの答えはこうだった。

“I’m youth, I’m joy,” Peter answered at a venture, “I’m a little bird that has broken out of the egg.”

This, of course was nonsense; but it was proof to the unhappy Hook that Peter did not know in the least who or what he was, which is the very pinnacle of good form. [傍線筆者]

pp. 227-8

「ぼくは若さだ。ぼくは喜びだ。」ピーターはあてずっぽうに答えました。「ぼくは卵からかえったばかりのひなどりだ。」 これはもちろんなんの意味もないことでした。けれどそれは哀れなフックにとってはピーターが自分がなにものであるか毛ほども知らないということの証明でした。それこそ最高のたしなみの良さでした。

97

ここでもピーターの答えは、例によって当てずっぽうだ。ピーターは何一つ確かなことを知らない。そしてそのこと自体がフックにとっては痛ましいことに、ピーターが彼の唯一の弱点であるたしなみの良さの具現化であることを物語っている。ピーターは自己認識のあり方において正に「何も知らない」というそのことのおかげで、いかなる罪の意識からも、自己の存在理由に対するどのような疑念からも自由であり続けることができるからである。(7)ピーターにおいては「名無しの森」に紛れ込んだアリスと同様に、個体として存在する上で誰もが抱え込まなければならない筈の、執拗な縛鎖のような自意識からの開放が暗示されているのだ。けれどもピーターに与えられたこの限りない自由は、彼の体現する謎の展開領域をさらに次元軸を加算して辿っていってみればいずれ判明するように、実はやはりこの上もなく苛酷な呪縛に他ならないものでもあったのである。 (1)

ウロボロスの形象については、他にも人間世界を取り巻いて大地の総てを形成しているという、

北欧神話において語られたミッドガルト・サーペント(Jormangund)の場合のように、己の尻

尾を呑み込む一尾の大蛇の姿等、様々な変化形があることが知られているが、ファンタシー文学

の思想的特質における影の原理に焦点を当てて論考を展開する本書においては、“ 天の邪鬼” の

ように同形の一対として世界構成原理の巧妙な表象となる、この姿を用いてウロボロスを捉えて

おくこととしよう。

(2)

キリスト教神話において奇跡が果たしていたのと同様の、一般自然法則性からの絶対的な逸脱

例として、超越的な神秘と極限的な崇高を暗示する選別的機能が、この“ キス” という観念に仮

託されていると考えることができるだろう。これは予言もしくは啓示に代替して自然法則に重ね

合わせられることによって、ニュートン的宇宙論が仮定した時間と空間の均一性の主張を通して、

宇宙の斉一的解釈可能性を追求しようとする一般性の論理の展開を決定的に阻むことになる、エ

ントロピー増大の果ての熱死状態をも復元する力を秘めた、恩寵的な特殊性の論理の新たな主張

となるものと考えられるべき新機軸の概念なのである。

(3)

ネオ・プラト二ズム的な矛盾律の統合と近代の数学的極限概念を大胆に合体させることにより、

最大であるとともに最小でもあるという悟性認識の限界を超えたキリスト教の神の新たな属性

記述の方策を構想したクザーヌス(Nicolaus Cusanus)の唱えた“ 正反対の一致”(coincidentia

98

oppositorum)という発想が、対立物の暗示する論理矛盾の要素に対する積極的な評価を前提と

していたという点で、ファンタシーの思想的特質を形成する特有の根本認識に対して、無視する

ことが出来ない重要な影響を及ぼしたであろうことは、やはり認めざるを得ない事実であるだろ

う。

(4)

こうした類いの暗喩がアイロニーという概念と本質的に密接に連関しているものであること

は、これまでにも様々な局面において指摘されてきた事実ではあるが、“ 修辞法” そのものが超

自然の記述を直截的な結果としてもたらし、ファンタシーを発動させる本源的な要因として確固

たる機能を保有しているものであることを改めて顧みるならば、ファンタシーという形式あるい

はジャンルこそが、実は根源的な意味において文学(フィクション)の常道に他ならないもので

あったことが、改めて理解されねばならないこととなるだろう。

(5)

もしもどんなことでもすぐに忘れてしまい、一瞬たりとも記憶らしきものを保持することがな

い筈のピーターの記憶について云々することの不自然さが指摘されるとするならば、レトリック

とファンタシーの関連について素朴な指摘を加えた先程の例に倣って、指示するものと指示され

るものとの間のベクトルの向きを転換することによって、ピーターの持つ本源的に超自然的な属

性の相互作用的発露が「記憶を持っている」、「夢を見る」、「考え尽くした」等の修辞的表現を用

いて記述される結果を招いていると考えればよい訳だ。上の註において述べられていたように、

“ レトリック”はアイロニーと並んで根源的にはファンタシーの基本文法を構築するべき枢軸的

要素となる潜勢力として再評価されなければならない概念なのである。

(6)

二律背反する要素の巧妙な重ね合わせという存在属性が、ピーターの謎を形成するシステム理

論的核芯となっているのは間違いのないことだ。時として意味消失をもたらすナンセンスとして

機能することもあるピーターの存在論的本性とは、その背後に常に合理的自然法則構築の企図を

破綻に導くことになる究極的神秘と、一般命題を超越した奇跡として具現化することが目論まれ

る、思弁的推論から導かれうる主張可能な唯一の公理*の存在を暗示してもいるものなのである。

* “ 絶対的に真実であることなどはありえない。”という命題は当の命題自身をも記述対象に

含んでしまうので、矛盾撞着となり、この命題が真ではないことを逆説的に証明してしまう。

この種の論理形式の主張を行う際には、例えば“ 絶対的に真実であることなどは、この命題

を除いてはありえない。” という自己を例外とする制限事項を伴う記述様態を取らざるを得

ないことになる。そしてこのような形態でもって記述された命題は、一般性から遊離して特

筆されるべき例外事項として、その選別的存在意義を固有のシステム理論として強行に主張

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することになるのだ。類例としてはポーの「ユリイカ」における次の一節が挙げられるだろ

う。

…if an axiom there be, then the proposition of which we speak has the fullest

right to be considered an axiom — that no more absolute axiom is; and,

consequently, that any subsequent proposition which shall conflict with this one

primarily advanced, must be either a falsity in itself — that is to say, no axiom

— or, if admitted axiomatic, must at once neutralize both itself and its

predecessor.

(もし仮に公理などというものがあるとするならば、これから述べる提言こそが公理と

して看做されるべき最大の権利を有するであろう。すなわち、「これ以外に絶対的な公理と

いうものは存在しない、従って最初に述べたこの提言と齟齬を来すであろう他の提言はそれ

自体虚偽のものであり、つまり公理とはなり得ないか、あるいはそれらが公理として認めら

れることがあるならば、即座に先行したこの提言と己自身の主張を共に無効とせざるを得な

いこととなる。」という一文である。)

公理の存在自体の仮定の是非を主題にしたポーのここでの指摘のように、己自身の正当性

に対する疑念そのものを論点とする自己反射的論述の様相は、この章において問題とされて

いる“ 謎” を成立させる根幹要素を確認するための、説得力ある指標となるべきものを提供

する枢要な要因として看做し得るものだろう。

(7)

記憶に代替すべき超越的能力としてピーターに与えられているのは、あらゆる可能態の組み合

わせの全てを無作為に抽出して選択することにより、非在という結果も含めて網羅的に自らの存

在様態として現出させることが可能な、全方位的不定性の存在属性に他ならない。これが彼の得

意とする“ メイク・ビリーブ” という遊戯の結果的に意味するところであった。ピーターにあっ

てはいかなる選択がなされたところで、時間的にも空間的にも因果関係性においても、主体の保

持する可能性の範囲の縮小をもたらす結果を導くことは決してないのだ。人間的理解の限界であ

る因果関係及び時間軸の方向性と展開範囲の制約を超えた、本来の意味での“ 永遠性” の暗示す

る何物かがここに現出していると考えるべきだろう。

100

グッド・フォームと内省キャプテン・フックの憂鬱 フックと言えばピーターにその名を告げられただけで、ダーリング家の子供

達が震え上がる程の人物であった。(pp. 68-9)とすると、彼もまたピーターと同じく、知識として教えられることもなくいつのまにか自然にその存在が記憶の中に受け入れられてしまっている、子供達の心の基底をなしている集合的無意識のような存在なのだろうか。凶悪な海賊の代名詞であるかのようなフックの描かれ方を見てみればどうもそのようでもある。けれども実はそれ以上の深い事情を背負っているのがこのフックという登場人物だ。実は筆者は、ピーターよりもむしろフックの方が、この物語の本当の主人公なのではないかという疑いを持っている。本章ではこの仮説に従って、『ピーターとウェンディ』の裏の主人公フックの体現する巧みに隠された謎についての論考が行われていくことになる。 フック主人公説の証拠の一つとしてあげられる事実は、フックが実際に物語に登場する際には、彼に関する描写はピーターよりも余程念入りになされているということだ。

In person he was cadaverous and blackavised and his hair was dressed in long curls, which at a little distance looked like black candles, and gave a singular threatening expression to his handsome countenance. His eyes were of the blue of the forget-me-not, and of a profound melancholy,[傍線筆者] save when he was plunging his hook into you, at which time two red spots appeared in them and lit them up horribly. In manner, something of the grand seigneur still clung to him, so that he even ripped you up with an air, and I have been told that he was a raconteur of repute. [傍線筆者]

p. 80

101

フックの顔は死人のようにやつれて浅黒く、その髪は長い巻き毛になっていて、少し離れてみると黒いろうそくのようにみえて、彼の整った顔つきに特別の恐ろしげな雰囲気を漂わせていました。フックの目は忘れな草のような淡い青色で、深い憂鬱を湛えていました。そして君の体にあの鉤爪を突きたてる時だけは赤い二つの光がその両目にあらわれ、ぞっとするような表情をみせるのでした。フックの仕種にはどこか血筋正しいお殿様を思わせるようなおごそかさがあって、人の体を切り裂く時でさえ、優雅な身のこなしに思えるのでした。そして私の耳にしたところですと、フックは面白い話をするのが上手だという評判だそうです。

不気味な容貌のようでもありながら、なおかつ端麗な顔だちを備えたフックは、忘れな草の花のような色の、ロマンティックな目に憂鬱な表情を浮かべている。この「憂鬱」という問題こそフックという人物の本質を語るものであり、同時にピ- タ- という存在の秘密を探る糸口でもある筈なのだ。これは本章の後半で焦点を当てて考察されることになる『ピーターとウェンディ』の最大のテーマなのである。 さらにフックは名の知れたお話の語り手であるという。このあたりがピーターとは対照的なところだ。ピーターといえばお話をしてくれるどころか、ウェンディ達にお話をしてもらうばかりだったし、後にはウェンディの娘のジェインのそのまた娘のマーガレットに、自分自身の冒険のお話をしてもらって喜んでいる始末なのだ。そもそもピーターは物事を少しでも長く覚えていることが出来ない。それにひきかえ知識も教養もあるのがフックだ。フックに関する描写はまだ続く。

He was never more sinister than when he was most polite, which is probably the truest test of breeding[傍線筆者]; and the elegance of his diction, even when he was swearing, no less than the distinction of his demeanour, showed him one of a different caste from his crew.

pp. 80-81

フックは慇懃きわまりない態度を示す時ほど無気味な感じのすること

102

はなくて、それこそおそらく彼の生まれの良さを示す最上の証拠でしょう。そしてフックの言葉遣いの優雅さときたら、悪態をついている時でさえどことなく気品があり、立ち居振る舞いの品の良さとともに彼が他の仲間達とは生まれの違う存在であることを示していました。

粗野で不躾なピーターとは大違いで、フックは血筋も良く、礼儀作法もわきまえている。ピーターはジョンやマイケルにお父さんの振りをする仕方を教えてもらわなければならなかったけれど、フックの場合は罵る言葉にさえ優雅さが感じられるという。何よりも慇懃無礼さの裡に透かして見られる不気味さなどというものは、そこらの成り上がり貴族の真似出来るような代物ではない。彼は怪物的な程の高潔さの持ち主なのだ。

A man of indomitable courage, it was said of him that the only thing he shyed at was the sight of his own blood which was thick and of unusual colour.[傍線筆者] In dress he sometimes aped the attire associated with the name of Charles II, having heard it said in some earlier period of his career that he bore a strange resemblance to the ill-fated Stuarts; and in his mouth he had a holder of his own contrivance which enabled him to smoke two cigars at once. But undoubtedly the grimmest part of him was his iron claw.

p. 81 フックは不屈の勇気の持ち主でした。フックを怯ませる唯一のものはフック自身の血だけで、それは普通の血の色とは違ったとても濃い色をしていたということでした。装いにはフックは時折チャ- ルズ2世の名を思い起こさせるものを選ぶことがあり、それは以前にフックの容貌が不運なスチュアート家の人々を彷彿とさせるものがあるという意見を聞いたことがあったからでした。そしてフックの口には特別に考案した、一度に二本の葉巻をふかすことができるパイプがくわえられているのでした。けれどもフックの一番恐ろしげなところといえば、それは疑いなく彼の腕に付いている鉄の鉤爪でした。

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フックを唯一怯ませるものは自分自身の血の色で、それはとても濃い、珍しい色であるという。どんな色なのかははっきりと語られていないけれど、由緒正しい家柄の貴族の血筋のことをブルー・ブラッドと呼ぶことを考えてみれば、フックの血の色の場合はそれを上回るような人並み外れたものであることが暗示されている。さらにキャラクターの印象を決定づける小道具として、ピーターの「枯れ葉と木の樹液を纏った」と描かれている特徴的な服や、彼が連れているティンカー・ベルの与える印象にいささかも劣ることの無いように、その名の通りの鉤爪(フック)を右腕に装着し、口には二本の葉巻を同時にふかすことが出来るパイプ迄与えられているのがフックだ。アン・ラドクリフに代表されるゴシック・ロマンスの作家達が描いたおどろおどろしい悪漢小説においても、主人公よりもむしろ恰好いいのが仇役の筈の悪漢達であったが、フックの場合は物語のテーマを決定する上でそれ以上の欠かすことのできない存在意義を与えられている重要な登場人物なのだ。何しろ作者のフックに対する態度といったら、破格の扱いだ。フックについて描写する際は、作者はしばしば持って回った、凝った文体で語りを進める。フックが登場する時はいつでも厳かな背景音楽が流れているかのようだ。そして作者は、いつものフックのやり方を読者に紹介するために、仲間の海賊の一人を殺してみせさえするのだ。フックに関する描写はこのあと次のように続いている。

Let us now kill a pirate, to show Hook's method. Skylights will do. As they pass, Skylights lurches clumsily against him, ruffling his lace coller; the hook shoots forth, there is a tearing sound and one screech, then the body is kicked aside, and the pirates pass on. He has not even taken the cigars from his mouth.

p. 81

フックのいつものやり方を見てみるために、一人海賊を殺してみることにしましょう。スカイライトがいいでしょう。歩いていく途中で、スカイライトはうっかりフックに体をぶつけて、フックのレースの襟を乱してしまいます。すかさず鉤爪が踊り出ます。皮膚の裂ける音と悲鳴が一つ、それから死体がころがされて、海賊達は過ぎ去ります。フックは口からパイプをはなしてさえいませんでした。

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フックは残酷だ。非情な冷酷さはその属性の持ち主に尊厳と華麗さを与えてくれる。海賊達は眠っている時でさえ、フックが通りすがりに機械的に彼等を鉤にかけてしまうことのないように、あちらこちらと体を転がすのが常だ。(p. 202)作品世界の中で全面的に承認された残忍さは美学の最高の判定基準となる。フックは恰好いいのだ。何よりもフックの際立った恰好よさは、かれの生まれと育ちのよさから来ている。例えば地下の隠れ家から子供達を引きずり出した時も、フックは女性であるウェンディに対しては恭しく礼儀作法にかなった態度をもって接する。帽子をあげて手を差し延べる仕種だけでも、思わずウェンディが心を奪われてしまう程の優雅さなのだ。

With ironical politeness Hook raised his hat to her, and, offering her his arm, escorted to the spot where the others were being gagged. He did it with such an air, he was so frightfully distingué, that she was too fascinated to cry out.

pp. 185-6

人を小馬鹿にしたような慇懃さでもってフックはウェンディに帽子の縁をあげてみせました。そして腕を差し延べて他の子供達がさるぐつわをかまされているところまでウェンディを案内しました。それがとっても優雅な身のこなしで、びくっとするほど気品のあるものでしたので、ウェンディは心を奪われて悲鳴をあげるのを忘れるほどでした。

ピーターは無知のあまりウェンディにも、手下の子供達にもあきれられてしまうことが度々あったけれど、フックには自然と滲み出してくるような尊厳がある。フックが一人よがりで勝手に気取った仕種を演じている訳ではない。作者は実際にフックの高貴な素性については、確かな情報を持っているようなのだ。

Hook was not his true name. To reveal who he really was would even at this date set the country in a blaze; but as those who read between the lines must already have guessed, he had been at a famous public school;...

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p. 203

フックというのは彼の本当の名前ではありません。彼の正体を明かすことは、今になってさえも世の中を大変にさわがすことになるでしょう。けれど行間を読んで下さる読者ならもうお気づきのはずのように、彼は有名なパブリック・スクールの出身なのでした。

フックは英国の有名なパブリック・スクール出身のエリートなのだ。作者は訳あってその正体をあかすことは出来ないらしいが、彼がかつては立派な現実社会の人間であったことは紛れもない事実のようだ。問題はそんな彼がどうして今は海賊となっているかだ。身をやつして海賊に成り下がったのでは決してないことが察せられる。むしろ海賊という稼業を選んだところにこそ彼の出自の正しさを窺い知ることが出来る筈なのだ。何故ならば一所懸命努力して地位や財産を勝ち取るなんてはしたない行為は、彼の生まれと育ちが許さないからだ。彼がただの俗物であったなら、きっと大学教授や大臣なんかになって満足していたことだろう。しかし彼は自分の社会的地位や成功なんかに満足を味わうことが出来るような野卑な男ではない。フックは感性の人であり、その本質は芸術家である。彼は花を愛するし、音楽を好み、ハープ・シコードの腕前はなかなかのものであるという。(1) このような芸術家的感性が卑俗な現実社会に反発を試みずにはいられない反省的自意識を呼び起こし、彼を海賊稼業へと駆り立ててしまったのだ。海賊とは美学に生を捧げた審美主義者のたどり着いた最後の姿である。(2) フックはその海賊の世界においてもうすでに名を遂げ、一流の地位を築いている。バーベキュー船長や黒髭船長という伝説上の存在との関わりを通して、フック自身がまがまがしくも魅力的な伝説となってしまっているのだ。フックは現実の世界から架空の世界の伝説的存在へと見事に転身を遂げたのである。だからこそフックはピーターのネヴァランドを媒介として、子供達の無意識の記憶の片隅に当然のごとくその住処を獲得することが出来ていた訳なのだ。大人達の牛耳る現実世界での陳腐な世俗的成功と比べて、彼の果たした功績には眩いものがある。ところが今、ピーターに毒をもって倒すことに成功し、長年の抗争に片をつけ、ピーターの手下の子供達を全員捕虜にして船にさらってきて、いまから処刑を行おうとする際の、バーベキューを服従させたおり以来の

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得意の絶頂にある筈のフックの様子はこのように描かれている。

“ Fame, fame, that glittering bauble, it is mine!” he cried. “ Is it quite good form to be distinguished at anything?” [傍

線筆者] the tap-tap from his school replied. “ I am the only man whom Barbecue feared," he urged,

“ and Flint himself feared Barbecue.” “ Barbecue, Flintwhat house?” came the cutting retort.

Most disquieting reflection[傍線筆者] of all, was it not bad form to think about good form?

p. 204

「名声、名声、輝かしくも愚かしいもの、それは今私のものだ。」フックは叫びました。「何かに際立って優れているということは、たしなみの良いことといえるだろうか?」学生時代からの心の中の声が答えました。 「私はバーベキューが恐れた唯一の人間だった。」フックは問い返しました。「そしてフリントさえもがバーベキューのことを恐れていた。」 「バーベキューにフリント、…どの学寮の出身だったろう?」鋭い反論が返ってきました。 何よりもフックの心を不安にしたのは、たしなみの良さ(グッド・フォ- ム)について考えをおよぼすことはたしなみの良いことだろうか、という内省でした。

「何かをなし遂げたということは本当にたしなみの良いことだと言えるだろうか?」このように自己に問いたださなければならないのは、名誉と共に生まれ育ったものの背負う宿命的義務ノブレス・オブリージ(noblesse oblige)をフックが感じているからだ。彼は常に自分自身を気高い所から厳しく見つめる内省の心(reflection)を失うことがない。絶対権力者である海賊の首領として思うがままに振る舞いながら、フックにはいつも己の権力の上に安住することの出来ない醒めた自覚がある。「たしなみの良さについて考えるなんてのはたしなみの良くないことではなかろうか?」正確な自己認識を客観的判断として常にう

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ながす理性と、潔癖なまでの倫理観との軋轢が強いるこのパラドクスはフックの心を苦しめる。そしてふと思うのは、「小さな子供達は誰も自分を愛してくれない」ということだ。フックは彼にとっては取るに足らない手下である筈のスミーと自分とを比べてみる。スミーはといえば、子供達が自分のことを怖がっていると一人勝手に思い込んで、呑気にミシンで縫い物なんかしているのだ。スミーは子供達に対して怖いことも言ったし、手のひらで子供達を打ったこともあった。でもそれは拳で殴ることができなかったせいだ。スミーが子供達を怖がらせようとする分だけ余計に子供達はスミーの方に擦り寄ってくるし、マイケルはスミーの眼鏡をかけてみたことさえあった。子供達に慕われる愛すべきスミーは、どうしてこんなに好かれるのだろう。フックは執拗にこの問題について考える。

...he revolved this mystery in his mind; why do they find Smee lovable? He pursued the problem like the sleuth-hound that he was. If Smee was lovable, what was it that made him so? A terrible answer suddenly presented itself: “ Good form?” Had the bo’sun good form without knowing it, which is the best form of all?

pp. 205-6

…フックはこの謎について心の中で考えをめぐらしてみました。どうして子供達はスミーに親しみを感じてしまうのだろう?フックはこの問題を彼本来の性分の探偵のように問い詰めていきました。もしもスミーに親しみを感じさせるものがあるのなら、何が彼にそうさせるのだろう?恐ろしい答えが突然現れてきました。「グッド・フォーム」だろうか?もしもスミーがそうと知ることなくグッド・フォームを持っていたとしたなら、それこそ最高のグッド・フォームではないだろうか?

フックの行動を律する絶対的規範はこのグッド・フォームなのであるが、グッド・フォームとは自覚して行おうとすればその途端に虚栄と化し、眼前から失われてしまう実にやっかいなものだ。成り上がり者根性を軽蔑するフックにとっては、自身の高潔さの尺度となるのがグッド・フォームに関する反省である

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が、グッド・フォームという概念はフェア・プレイなんていう身勝手な幻想を突き抜けたところに峻厳として展開される。正しい客観的状況把握を強いる知性の高潔さと自分の優越性を意識してしまわなければならない理性の卑俗さの間には、論理の力ではどうしても埋めることの出来ない溝がある。こうした知識と徳との乖離に関するディレンマは、フックが近代的科学思想をしっかりと身につけた教養人であることの証明だ。これは近代において西洋人が経験することになった、倫理と理性のせめぎ合いがもたらしたあまりにも手強いパラドクスなのである。自然に帰ることの意義を意識した途端、自然は手に入れるべき目標として外界に認識される異物となってしまった。近代的自意識は神を殺して自我の独立を果たした結果、世界と一体となることの出来る神のごとき無我の安寧を手放し、くつがえされた神の台座の下に世界の除け者である影のような自分自身を見つけ出してしまった訳だ。こんな意識の迷路の外側で頓着無しに生きていられるのがスミーのグッド・フォームの正体だ。

There was little sound, and none agreeable save the whir of the ship’s sewing machine at which Smee sat, ever industrious and obliging, the essence of the commonplace, [傍線筆者] pathetic Smee. I Know not why he was so infinitely pathetic, unless it were because he was so pathetically unaware of it; but even strong men had to turn hastily from looking at him, and more than once on summer evenings he had touched the fount of Hook’s tears and made it flow.

pp. 201-2

スミーが動かしている船のミシンの立てる心地よい音の他には、ほとんど音はしませんでした。勤勉で気のいい、平凡さを絵に描いたような、哀感あふれるスミー。私にはどうして彼がこれほどまでに哀感あふれるのやら、それが彼が哀感あふれるほどそのことに気づいていないためであるという以外、考えられないのです。でも強い男達でさえ急いで彼のほうから目をそらさなければなりませんでした。そして夏の夜には一度ならずスミーはフックの心を揺さぶり、フックの目に涙を流させたのでした。

109

際立って優れた(distinguished)フックとは対照的に、平凡を絵に描いたようなのがスミーなのだが、そのスミーをみてフックは「哀感あふれる」(pathetic)と感じてしまう。しかし本当に感性豊かなのはスミーではない。彼の姿を見て思い余って涙を流してしまうのはフックの方だ。さらにここでは、感極まる程に自分の体現する哀感に対して無頓着であるスミーの本性を痛ましい程に感じ取るフックの気持ちを代弁して、「彼はどうしてこんなにも哀感あふれているのだろう…」と作者の声が語っている。無慈悲で心ないピーターに代表される子供達に対して、作者の共感は明らかにフックの方にある。疎外の生を送る我々の心を代表して作者はフックの心を覗き込む。

...and knowing as we do how vain a tabernacle is man, could we be surprised had he now paced the deck unsteadily, bellied out by the wind of his success? But there was no elation in his gait, which kept pace with the action of his sombre mind, Hook was profoundly dejected.[傍線筆者]

pp. 202-3

…そして人間という存在がいかにはかないものでしかないかを知っていれば、フックが今自分の成功に酔いしれて足取りもあやしく甲板の上を歩いていても、何も驚くにはあたりません。けれどもフックの足つきには心の高揚の跡形も見受けられませんでした。フックの暗い心が足つきにも現れていました。フックは深い憂鬱にとらわれていたのです。

フックは憂鬱なのだ。彼のものであった世俗的地位が彼を憂鬱にさせたし、彼の勝ち取った超世俗的成功が彼を憂鬱にさせたし、そんなことを反芻して思い悩む自分自身の姿が何よりも彼を憂鬱にさせるのだ。憂鬱とは内省を持った教養人の抱え込む致命的な病理なのである。(3) フックはパブリック・スクール時代に身にしみ込んだ「内省」という弱点をどうしようもなく抱え込んでいる。それは論理の命題の一つとして今なお彼の心の中に沈澱しているのだ。

He remembered that you have to prove you don't know you have

110

it before you are eligible for pop. p. 206

彼はポップに選出される資格を得るためには、自分がその資格を持っていることを知らないことを証明しなければならないことを思い出しました。

「ポップ」(pop)とはイートン校の伝統ある社交・弁論クラブのことだ。クラブ員に選出されるためには、自分が被選出資格を持っていることを意識してはいないことを証明しなければならなかった。こんな形で自分の生を送る資格について思い悩まなければならないのがフックだ。何も知らないスミーを眺めているだけで、「知ること」に関わるパラドクスを胸の中に蒸し返さずにはいられないフックの心はこんなにも傷ついてしまうのだ。

This inscrutable [傍線筆者]man never felt more alone than when surrounded by his dogs. They were socially inferior to him.

p. 203

この測り知れない男は犬のような自分の手下共に囲まれている時ほど孤独を感じることはありませんでした。彼らは社会的にずっと身分の低いもの達だったのです。

手下を犬のように扱い絶対的権力を振るっているこの男は、自分の圧倒的優位さのためになおさら孤独となる。測り知れない(inscrutable)謎を秘めたフックが、存在に関わる不思議な謎を秘めたピーターの鏡面的存在であるとみなすこともできようが、むしろ視点を転換させて考えてみたいのだ。一見したところ華々しい主人公として現れるピーターというキャラクターの方こそ、本当はフックという我々の心にとって身近な、そして不可解な存在を照射するための道具として周到な計算の許に用意されていた秘密の鍵なのではなかっただろうか。思いに沈んで船上をさまようフックの有り様はこのように語られていたのであった。

111

Hook trod the deck in thought. O man unfathomable.[傍線筆者] p. 202

フックは甲板の上を思いに沈んで歩いていきました。測り知れない男、フック。

フックが測り知れない(unfathomable)存在であるのは、言うまでもなく我々がフックであるからに相違ない。何処より来たり何処へとおもむくのか分からぬまま不可解な生を送り、論理では説明のつかない内奥の倫理観に揺さぶられ続ける自分自身が謎なのだ。このように自己というものを客観的な一人格として捉える視点を持ってしまった者には、常に素朴な生の喜びの替わりに苦々しい懐疑が与えられることになる。そういえば巧みな策略のもとにピカニニー族を滅ぼした時もフックは一人映えない顔つきであった。

Elation must have been in his heart, but his face did not reflect it: ever a dark and solitary enigma,[傍線筆者]he stood aloof from his followers in spirit as in substance.

p. 181

フックの心は高揚していたはずに違いありません。けれども彼の顔つきにはその片鱗さえもうかがうことができませんでした。いつも一人きりの不可解な謎を秘めた男、フックはその体と同様心も手下共とは別なところにあったのです。

ピーターにおいて暗示されていた謎(riddle)とはフックの体現するこの謎(enigma)の対立物として機能するものだったのである。この謎の部分でフックとピーターは深く関わり合っている。フックにとってピーターは許すべからざる自身の影なのだ。グッド・フォームという言葉を軸にしてピーターとフックのネヴァランドにおける最後の戦いは描かれているが、何よりもフックにとって不利なのは彼が教養を身につけた近代的自我の持ち主である点だ。その上フックは生まれもって品が良すぎる。だからフックはウェンディの視線を身に感じ、戦いの中で被った服装の乱れを痛切に恥じる。

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Fine gentleman though he was, the intensity of his communings had soiled his ruff, and suddenly he knew that she was gazing at it.

p. 210

フックは立派な紳士ではありましたけれど、激しい争いのために襞襟が汚れてしまっていました。そしてフックは突然ウェンディがこの襞襟を見つめているのに気がつきました。

ピーターとの最後の決闘の際においても、フックが常に気にかけているのは、グッド・フォームのことだ。ピーターに受けた傷から流れだした自分の血の色に衝撃を受け、フックは手にしていた剣を思わず落としてしまう。フックは傷を負わされたことなどに怯えた訳では決してない。自分の血の色を見てフックが受ける打撃とは、フックの自意識の発露以外の何物でもない。

At sight of his own blood, whose peculiar colour, you remember, was offensive to him, the sword fell from Hook's hand, and he was at Peter’s mercy.

p. 227

自分の流した血の色を目にして、フックは思わず剣を手からとり落としました。ご存じのように、その独特の色は、フックには気にさわるものだったのです。フックはピーターのなすがままでした。

剣を無くして無防備なフックに対して、ピーターはこの絶好の機会を利用して攻撃の手を加えるどころか、寛大にも剣を拾いあげるようにうながす。しかしこの生意気な行為こそが、フックの傷ついた心に対してえぐるような致命傷を与えるものだ。フックは素早く剣を拾いあげながらも、敵であるピーターの方がグッド・フォームの体現者となっていることを痛切に感じざるを得ない。

Hook did so instantly, but with a tragic feeling that Peter was

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showing good form. p. 227

フックはすぐさま剣を拾いあげました。けれどもピーターがグッド・フォームを見せつけているという悲痛な思いを感じていたのです。

ピーターはフックにとって積年の抗争の相手であり、並び立つことの許されない敵であった。この不可解な気に障る存在は彼にとって怪物のようなおぞましいものであったが、ここに至ってフックはもっと恐ろしい疑惑にかられてしまうのだ。

Hitherto he had thought it was some fiend fighting him, but darker suspicions assailed him now.

p. 227 これまではフックは自分と戦っているのはなにか怪物のようなものだと思っていました。けれど今はもっと恐ろしい疑惑がフックを襲い始めていたのです。

そしてフックは改めてピーターに「お前は何者なのだ!」と誰何する。ところがピーターが答えるのは例によって当てずっぽう以外の何物でもない。フックにはピーターを自分の影としてその名を呼んで自己同一性の回復を図る機会さえ失われてしまっている。(4) 生に対する望みを捨てたフックにとって、願うべきことはもうこの悪魔を滅ぼすことではない。フックの唯一の望みはピーターに「みっともない様」(bad form)を演じさせることだ。フックは船の火薬庫に火をはなつ。ピーターのあわてた様を見さえすれば目的はかなえられる。「あと二分で船は爆発するぞ!」フックは叫ぶ。

Now, now, he thought, true form will show.[傍線筆者]

p. 228 今だ、今こそ化けの皮がはがれるぞ、フックは思いました。

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ところがピーターは両手に大砲の玉を持って火薬庫から現れ、何事もなさそうな顔で海に放り込んでしまう。(pp. 228-9)

What sort of form was Hook himself showing? [ 傍 線 筆者 ] Misguided man though he was, we may be glad, without sympathising with him, that in the end he was true to the traditions of his race.

p. 229

フックは自分でどんな無様なところを見せてしまっていたのでしょう? 道をあやまったものではありますけれど、最後にはフックは自分の血筋の者たちの伝統を汚すことはありませんでした。同情なんかではなく、私たちは喜んでいいことです。

誇りを踏みにじられ、権威を失墜し、いよいよ最期の時を迎えたフックに作者は言葉つきとは裏腹に共感的になっているようだ。フックにはもはや自分を嘲る子供達の姿も目に入らない。彼の心は純粋で汚れを知らないでいられた懐かしい学生時代に戻っている。

...his mind was no longer with them; it was slouching in the playing fields of long ago, or being sent up for good, or watching the wall-game from a famous wall. And his shoes were right, and his waistcoat was right, and his tie was right, and his socks were right.

p. 229

…フックの心はもはや彼らとは別のところにありました。フックの心は遠い昔の学校の運動場でくつろいでいました。あるいはこれっきりこの世からよそに行ってしまったか、名高い競技場でウォール・ゲームを見ていたのかもしれません。彼の靴も問題なく、彼のチョッキも問題なく、彼のネクタイも問題なく、彼のソックスも問題ありませんでした。

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作者はフックに物語の悪役として演じるべき最後の場を与えてくれた。「生き延びる」という「無様」(bad form)を回避することが許され、「破滅する」という美学が恩寵として捧げられたのである。作者のフックに対する最後の言葉はこうだ。

James Hook, thou not wholly unheroic figure[傍線筆者], farewell. p. 229

ジェイムズ・フック、全く英雄的でなくもなかった男よ、さらば。

作者はフックについて直接語る時には、意外にも必要以上にフックの品位を貶めて描こうとする身振りをする傾向が強い。実はこれはフックという人物に自らの思いを込めた作者の擬装が成させるわざであろう。我々はここに作者の屈折を指摘せざるを得ない。この章のもう一つの狙いは、やたらと読者の前に顔を出して語りかける作者の心の屈折を指摘し、作者の言葉巧みな欺瞞の裏をかき、巧妙に隠された真実を暴き出すことにある。だから「ピーターが一番好きな人もいます。ウェンディが一番好きな人もいます。でも私はお母さんが一番好きです。」(p. 239)と語って見せる作者の言葉にも、擬装の痕跡を疑ってみない訳にはいかない。信仰に対しては絶望を、物質的生活に対してはさらなる欲望を強いる現代の俗悪な中産階級の代表する産業資本主義に対して、あえて正面から挑戦する野暮はバリはしない。世の虚飾を嘲り笑うダンディーを演じながら道化のような廃残者に終わったワイルドの例をバリは知っているからだ。敢えて「現代」の嗜好に背をむけようとすることなく、むしろ安直な大衆の欲するような華美なだけのきらびやかな妖精ティンカー・ベルをバリは描いてみせる。アンチ・ファンタシーの先駆者的存在であるルイス・キャロルが行ったのは信仰に対する嘲笑(『不思議の国のアリス』、Alice’s Adventures in Wonderland, 1865 、『鏡の国のアリス』Through the Looking Glass, 1871)だったと言われるが、キャロルは必ずしも信仰の否定だけを試みた訳ではなかった。信仰に対する懐疑と嘲笑をこの両作品において示すと共に、キャロルは後にまた「愛」という新たな信仰を模索してもいる。(『シルヴィーとブルーノ』Sylvie and Bruno, 1889、『シルヴィーとブルーノ完結編』Sylvie and Bruno Concluded, 1893)典型的なファンタシー文学の創始者ともいうべきジョー

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ジ・マクドナルドの友人であったキャロルも、やはり一面ではあまりにも19世紀的なファンタシー文学の影響を色濃く残した文学者なのであった。 これらのファンタシーの先駆者達に対して、バリはアイロニーとニヒリズムに彩られた20世紀のモダニズム文学の先駆者的存在であった。バリはキャロルやマクドナルド達に続く次世代のファンタシー作家として、自然と無意識への回帰によって現代世界の無秩序の中に心霊的秩序を回復しようとするロマン主義の高邁な形而上的試みが、知性によって無惨にも否定されてしまった後の現代人のアイロニカルな心的態度のあり方を、“ 誠実なニヒリズム” という形で見事に示しているのである。気紛れな奇想を奇術師のように操るかのように見えるバリの独特の作風は、巧妙に計算し尽くされた観念遊戯という操作の見事に結実した、Peter and Wendyという類い稀な作品として、アンチ・ファンタシーという新たなるファンタシーの透視図を切り開くことに成功したのであった。 (1)

子供達とインディアン達と手下の海賊達がただ血なまぐさい冒険ばかりを求めてどうどうめぐ

りをしている間、フックだけは風景の美しさに身を浸らせて、ため息をつく。

Hook heaved a heavy sigh, and I know not why it was, perhaps it was because

of the soft beauty of the evening.

pp. 86-7

フックは大きなため息をつきました。なにがあったのでしょう。おそらく宵の静かな

美しさのためなのでしょう。

フックは風景の美に敏感であり、この物語の中で芸術的素養が語られている唯一の人物である。

The man was not wholly evil; he loved flowers (I have been told) and sweet

music (he was himself no mean performer on the harpsichord); and, let it be

frankly admitted, the idyllic nature of the scene shook him profoundly.

p. 191

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この男は心の底から邪悪な訳ではありませんでした。フックは花が好きでしたし(確

かにそう聞きました)美しい音楽が好きでした。(フック自身ハープ・シコードはなか

なかの腕前でした。)それに、はっきり言ってしまえば、この情景の牧歌的な雰囲気が

強くフックの心を揺さぶったのでした。

フックの感性の鋭さについてはピーターと対照的に女性的な感覚が強調されている。礁湖(ラグ

ーン)においてピーターに自分の声を真似され、自分が誰なのか分からなくなってしまったフッ

クは「女性的な直観力」でこの危機を乗り越える。この力が優れた海賊に不可欠なものとされて

いるところは興味深い。

In his dark nature there was a touch of the feminine,[傍線筆者] as in all the

greatest pirates, and it sometimes gave him intuitions.[傍線筆者]Suddenly he

tried the guessing game.

p. 135

フックの謎に満ちた性格の許には、女性的な部分がありました。一流の海賊はみんな

そうなのですけれど。そしてこのおかげでフックは時折本能的直観にめぐまれること

がありました。突然フックは「当てっこ遊び」を思いつきました。

ピーターは子供だから当然ゲームの誘惑には勝てず、折角仕組んだ陥穽を放棄して自らの正体を

暴露してしまうことになるが、考えてみるとこの時フックはすでにアイデンティティ喪失の危機

にさらされていたのであった。ピーターの声に自分自身に対する確証を奪われ、自分は鱈だと決

めつけられてしまったフックは、「フックは自我がすり落ちて行くのを感じていました。」(p.

135)と描かれている。フックはピーターという影に常に自分の存在意義をおびやかされていた

が、この時は女性原理の力によって自己同一性の回復を図ることが出来ていたのであった。

(2)

オスカー・ワイルドはアイロニーの人としてヴィクトリア朝の偽善を嘲笑し、物質的俗物主義

を克服する手段として審美主義者を名乗った訳であるが、ダンディーとしての超俗的生活は逆に

彼を罠にはめ、人生の破綻をきたすこととなった。ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』(The

Picture of Dorian Gray, 1890-1)ではドリアンは「自分の肖像画」という影と共に滅びることに

なる。

(3)

ロバート・バートン(Robert Burton)の「憂鬱の解剖学」(The Anatomy of Melancholy, 1621)

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が何よりもこの診断を裏付ける証拠としてあげられるであろう。

(4)

己の倨傲が呼び出してしまった「影」を己自身の名で呼び、受け入れることによって世界の

均衡の回復を図ることが出来たル・グインの『影との戦い』( A Wizard of Earthsea)がその世

界認識の楽観性によって子供のためのファンタシーであるとするなら、影との戦いの中で空しく

一人芝居のようにあがき、あえなく倒されるフックを描く『ピーターとウェンディ』は、その現

実認識の苛烈さにおいて正に大人の為のファンタシーと呼ぶにふさわしいものであろう。この分

身のモチーフはワイルドばかりでなく、シャミッソー(Adelbert von Chamisso) の「影を売っ

た男」(“Peter Schlemihls wundersame Geschite”, 1814)やアンデルセン(Hans Christian

Andersen)の「影」(“The Shadow”, 1847)がすでに用いていたものであったし、ポー(Edgar Allan

Poe)の「ウィリアム・ウィルソン」(“William Wilson", 1839)の中にも同様の主題が窺える。近

代的知性を脅かす影というモチーフは19世紀においてはかなり普遍的なものであったといえ

る。バリの場合はこの自我を破滅に追いやる分身という機構を裏返しにして、影のピーターの方

を主役に据えて一見楽しい冒険物語の様相を呈したファンタシーという形式の許に描いている

ところがいかにも20世紀的であり、バリのアイロニカルな才覚には他を圧倒するものがあると

いえよう。

119

10

おしゃべりな語り手と擬装 —アンチ・ファンタシーにおけるディコンストラクション

『ピーターとウェンディ』では語り手が頻繁に読者の前に姿を現す。例えば物語の舞台がネヴァランドへと移ったあたりでは、語り手は読者に呼びかけてこのように言う。「ごらんなさい。インディアン達はほんのわずかの音も立てずに地面に落ちた小枝の上を歩いていきますでしょう。」(p. 82) また語り手は勿体をつけて次のように読者に語りかけたりもする。「この鰐が誰を探しているのかは、まもなく分かりますよ。」(p. 83) さらに打ち解けた様子を装って読者にこんな風に声をかけたりもする。「ロスト・ボーイズ達がどこにいるか、お話ししてあげましょうね。」(p. 85)このようなおしゃべりな語り手が読者の前に顔を出す例はいちいち数えあげればきりがない。しかし作中における作者の読者に対する語りかけという手法自体は実は格段目新しいものではない。考えてみれば最も素朴な物語の形とは、語り手が自らの体験を隣人に対する伝達として語ったものであったことだろう。お伽話の語り口のように、作者は言わば登場人物の一人として物語の進行に加わっている訳だ。さらにまた民間伝承のお伽話が物語られる際は、聞き手の多くがあらかじめその物語の内容を知っていることが多かった。語り手はすでに神話・伝説として聞き手に受容されている既成の事実について語りの作業を進めているという自覚を持っていた筈だ。語られつつある主題とその語りの様式は語り手、聞き手双方の暗黙の了承事項なのであった。このような情報の共有意識の機構は『ピーターとウェンディ』が物語られる際にも随所に指摘することが出来る。読者の多くは小説『ピーターとウェンディ』の出版の7年前に上演されて好評を博した劇『ピーター・パン』のストーリーを熟知していた。作者バリも当時のこの小説の読者も、『ピーター・パン』の度重なる上演を経験してきたせいなのか、『ピーターとウェンディ』で物語られる出来事は、作者と読者の互いの間ですでに了承済の事柄として扱われることが多い。民衆に受け継がれたメルヘンと一種相似た、再話(retelling)という状況設定の中で読みの行為が行われていくという構図がおのずから出来上がっている訳だ。けれどもただの良くある再話の機構を越えた、作者が登場人物の一人の実況報告者としての権限を越えて、さらに積極的に物語の進行に

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関与する仕掛けが『ピーターとウェンディ』の中に窺われるのももう一つの事実なのだ。たとえば、初めてフックの姿を読者に紹介する際に、「いつものフックのやり方を見てみるために、海賊を一人殺すことにしましょう……」と作者が語り始めるのが代表的な例だ。作者は虚構世界を語る作業を行う際の作品世界の提示方法に関して明らかに自意識的である。当然のことながら語り手には物語世界の展開を思いのままに操作する権能が与えられているのである。さらに語り手は作品世界内で進行する時間の流れの外側に身を置いた、テキスト的拘束から自由な唯一の作中人物でもある。ダーリング家の子供達が家を立ち去る日は次のように語られている。

The opportunity came a week later, on that never-to-be-forgotten Friday. Of course it was a Friday. “I ought to have been specially careful on a Friday,” she used to say afterwards to her husband,...

p. 19

その時はあの決して忘れることのできない金曜日にやってきました。もちろんそれは金曜日でした。「金曜日にはことさら気をつけていなければならなかったのに」ダーリング夫人は後になってよくダーリング氏に語ったものでした。

物語に描かれた内容の過去も未来も同じ一つの容認済みの伝説として均等化された時間意識がここに窺われる。このような作中の「語り」という行為がもたらす、読者の心象における物語世界の再構築作業に作用する時間性渾淆の効果はモダニズムの作風の典型的な一例であった。それは後にロスト・ジェネレーション作家の一人としてモダニズムの潮流を先導した小説家フォークナー(William Faulkner)がしばしば試みた手法でもあった。フォークナーの場合は個々の作品の背後に通底したヨクナパトーファ・サーガ(Yoknapatawpha saga) という疑似伝説的歴史の存在を浮き彫りにすることによって神話創成の作業が行われていた訳であった。それに対してバリの場合は、以前に自らの手で上演されていた劇『ピーター・パン』において語られていた情報を、小説『ピーターとウェンディ』にとっての伝説的事実として利用し、この伝説を再話する機

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構の許に新しい文学作品提示の場を開拓したことになる。逆に言えば小説『ピーターとウェンディ』によって劇『ピーター・パン』の内容は神話化されたとも言える。フォークナーはいかにも仰々しく実験的新技法としてこのような語りの手法を創作行為の前面に押し出したのだが、バリの場合は控えめにさり気なく事を運んでいる分だけ仕掛けがもっと巧妙でもある。 もういくつかこのような例をあげてみることにしよう。ウェンディがピーターから「キス」の代わりにどんぐりの実を貰った場面がある。

It was lucky that she did put it on that chain, for it was afterwards to save her life.

p. 41

ウェンディがそれを首の鎖に付けておいたのは幸運でした。なぜなら、後になってそれが彼女の命を救うことになったからです。

語り手と読者は明らかに物語の筋の進行と結末を予見しながら語りと読みの共同作業を進めている。ここに提示されているのは後になって読者の納得をうながすことを企図して埋設された伏線などではない。結果は既に了承済みの事なのだ。次の例もそうだ。ネヴァランドへ向かう途中でティンカー・ベルの光を海賊達に見つけられ、大砲で狙われた子供達はティンカー・ベルをジョンの帽子の中に隠す。ところがジョンの要望でウェンディがこの帽子を運ぶこととなる。

Presently Wendy took the hat, because John said it struck against his knees as he flew; and this, as we shall see,[傍線筆者] led to mischief, for Tinker Bell hated to be under an obligation to Wendy.

p. 72

今度はウェンディが帽子を手に取りました。ジョンが膝にぶつかって飛ぶのに邪魔だと言うからです。そしてこのことが、後で分かるように、問題を起こすことになりました。というのはティンカー・ベルはウェンディの世話になるなんてまっぴらだったからです。

122

フォークナーの築いた伝説世界が、作中の登場人物達の繰り広げる内的独白や、彼らが折々の場面での体験を通して発見する諸事実に加えて、その他様々の語り手によって恣意的にかつ断続的に与えられる情報を重層的に反復しつつ、時間軸を自由に操り、作品世界の中で覆い隠されていた事実が読者の前に暴きたてられていくというミステリー的な機構の上に築かれたものであったのに対して、『ピーターとウェンディ』の世界はより物語自体の内在的な自意識性が高いものであると言える。フォークナーの試みが結果的に物語の仮構性を隠蔽しようとする効果を持つ点で、トルキンの『指輪の王』において成し遂げられた疑似リアリティ構築作業に類似しているとするならば、『ピーターとウェンディ』の世界は仮構性そのものを操作する遊戯性が強調されている点で、メタフィクション的な要素がより色濃いものである。語られつつある虚構として物語世界の非在性を自覚し、読者の想像力の参入を条件にして可能態としての疑似リアリティを構築していく機構は、『ピーターとウェンディ』の随所に見られるものなのである。本章ではテクストの進行に忠実に従ってこの実例を検証していくことにしよう。 子供達に異変が起こりつつあることを知ったダーリング夫妻は急いで家に帰ろうとする。その時のことを語り手はこう述べている。

Will they reach the nursery in time? If so, how delightful for them, and we shall all breathe a sigh of relief, but there will be no story. [傍線筆者] On the other hand, if they were not in time, I solemnly promise that it will all come right in the end.

pp. 56-7

ダーリング夫妻は子供部屋に先に着くことができるでしょうか?もしそうであれば、夫妻にとってはなんとうれしいことでしょう。そして私たちもほっと安堵の息をつくことができます。けれどもそれではお話が続きません。それに対して、もしも夫妻が間に合わなかったら、私はお終いには万事めでたし、めでたしになることを、堅くお約束いたしましょう。

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我々はお話を読んでいるのだ。語り手は読者にお話の世界のリアリティを現実のものと混同することを求めているのではない。語り手がつつましくも、また確信をもって保証するのは、読者の「自発的な不信の一時停止」(willing suspension of disbelief)(1)が得られれば面白いお話が展開されるということだけだ。ネヴァランドにおける子供達の様々な冒険を紹介するにあたって、語り手はいくつかのエピソードを用意している。けれどもその全てを語るには英語・ラテン語辞書かラテン語・英語辞書くらいの分厚い本でなければ無理だと語り手は言う。(p. 119)物語られるべきエピソードの候補をいくつかあげてみた後、語り手はこう続ける。

... but we have not decided yet that this is the adventure we are to narrate....

p. 120

けれどまだ私たちはお話する冒険をこのことにすると決めた訳ではありません。

さらに語り手はまだ決心をつけかねるように、海賊達が子供達を罠にかけようとしてケーキを焼いた話や、ピーターのお友達の鳥の巣が海に落ちた時ピーターが救ってやった話などのことを語ってみようかと持ち出す。しかし語り手が実際にこれから読者に語るエピソードはこのようにして決定されることになる。

Which of these adventures should we choose? The best way will be to toss for it. I have tossed, and the lagoon has won.

p. 121

これらの冒険のうち、どれをお話したらよいのでしょう?一番いいのはコインを投げて決めることです。コインを投げてみました。そして礁湖のお話が選ばれました。

これは中々巧妙な戦略だ。まだ語っていないと語りながら、すでに情報の一部は語られている。「『語る』ことがらを選ぶ」という語りの様式を巡っての論議

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が、語りの機構に関して自己言及的に参照されている訳だ。このような反射的論理操作はアテベリーがポスト・モダニズムの影響を意識しながら指摘した、メタフィクションの特徴的な部分であった。(2)礁湖のエピソードの終盤で、負傷したピーターをネヴァバードが救いにきてくれたところでは、語り手はこのような語りの手法を採用している。

I forget whether I have told you that there was a stave on the rock driven into it by some buccaneers of long ago to mark the site of buried treasure.

pp. 147-8

私はもうお話してしまったかどうか、忘れてしまっていたのですが、海賊達が埋めた宝物の場所を示すために、ずっと以前にその岩に打ち込んでいた杭があったのです。

話題を直接に物語るという体裁を取ることなく、語ったかどうかという本筋から外れたかのように見受けられる問題を話題にすることによってさり気なく題材を語る、という実はかなり姑息な戦術が時には展開されてもいる訳だ。語りに対する作者の自意識は非常に高い。ウェンディは子供達を寝かしつける時にお話をしてくれる。ウェンディのお話とは、そのお話を聞く子供達を登場人物にしたものであった。『ピーターとウェンディ』というお話の中のウェンディという登場人物が同じお話の中の子供達のことをお話してくれる、という入れ子箱の構造がここにもある。

“O, Wendy,” cried Tootles, “was one of the lost children called Tootles?”

“Yes, he was.” “I am in a story. Hurrah, I am in a story, Nibs.”

p. 164

「ね、ウェンディ。」トゥートルズが叫びました。「子供達の一人はトゥートルズという名前じゃなかったの?」

125

「そう、そういう名前よ。」 「ぼくはお話の中にいるんだ。やったね。ぼくはお話の中にいるんだよ、ニブズ。」

お話の登場人物が自分が架空の存在であることを意識しているというのが20世紀後期のメタフィクションの典型的な構図であったが、ここではさらに、お話の中の登場人物が、自分が作中で語られるお話の登場人物であることを知って喜んでいる。ウェンディのお話はまだ続く。

“Let us now,” said Wendy, bracing herself up for her finest effort, “take a peep into the future”; and they all gave themselves the twist that makes peeps into the future easier. “Years have rolled by, and who is this elegant lady of uncertain age alighting at London Station?”

p. 165

「さて、それでは、」ウェンディはこれ以上ないというほど強く自分で自分の体を抱きしめながら言いました。「未来をのぞいてみましょう。」そして子供達は未来をのぞくのをもっとやさしくする一捻りを自分たちに加えました。「何年もが過ぎ去りました。ロンドンの鉄道駅に降り立ったこの優雅な淑女は誰でしょう?」

架空のお話の中のウェンディがもう一段階奥の架空の自分自身の将来の姿を語りつつある。こういう言い方をするといかにもいわくありげだが、ポスト・モダニズムだとかメタフィクションだとかの戦略的技法を仰々しく持ち出すまでもなく、実はこのような反射的機構そのものがお話を語る、つまり仮構世界を構築するという行為の持つ本源的な機能であった筈だ。アテベリー言うところの「非模倣的な伝統的表現様式」が存分に活用されていることが確かめられれば十分な筈なのだ。ポスト・モダニズムは言うまでもなく、モダニズムあるいはリアリズムなどと呼ばれる概念が、あたかも明確な実体を備えた堅固な対象物を規定するかのような安全な定義として存在するなどという幻想を抱いたままでは文学の本質は語れない。リアリズムの勃興だの近代の社会に生きる人間

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のあるがままの生活や心理を描いた「小説」(novel)の誕生だのという怪しげな所説がもっともらしく論議されることのいかがわしさが再確認出来ればそれでよい。少なくともファンタシーという言葉がこのような硬直した文学観に対する脱幻想化作用を裡に含むものであることは、本書の第一章で既に暗示されていたことであった。だから本書はアンチ・ファンタシーとファンタシーは根源的な部分では等価であることを立証しなければならないという訳だ。フィクションという名の両面神の容貌を語る言葉としてファンタシーという述語を採用するならば、アンチ・ファンタシーという表現について言及されねばならなくなるのはむしろ当然のことであると言えるであろう。 語り手は全知(omniscience)の持ち主であるばかりでなく、作品世界の運行については正に全能(omnipotence)の持ち主でもある。「語る」こととは話者が全能の一者である可能世界を創世することに他ならない。そうした意味においては、『ピーターとウェンディ』の語り手の役を務める作者も、裏の主役であるフックも、フックの影であるピーターも同一人物の示す局相の一つであると言えよう。何故ならば創世の思念が実体化して生成した宇宙においては、被造物の総てが全一なる創造主の意志のその一部として存在するからだ。だからこそ原理の統率者の実在を信じる思想は「神は細部に宿る」と主張することができもする訳だ。そして語り手はこんな風に宇宙の基本定数を支配する全権を振るってみせる。フックに「英雄的な」最期をもたらしてくれた鰐の時計に関する記述である。

He[Hook] did not know that the crocodile was waiting for him; for we purposely stopped the clock[傍線筆者] that this knowledge might be spared him; a little mark of respect from us at the end.

p. 229

フックは鰐が自分のことを待ち受けていることを知りませんでした。何故なら私たちはフックがこのことに気づかないようにするためにわざと時計を止めておいたからです。フックの最期の時にあたっての私たちからの尊敬の念の証です。

ラドクリフのお上品なゴシック・ロマンスにおいては悪漢に誘拐されたヒロイ

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ンがどんなに恐ろしい危機に陥っても、貞淑を失う危険に晒されずに済むことは約束されていたし、トルキンの『指輪の王』においては善の力が最後に勝利を収めるであろうことは、ストーリーの展開の当初から既に暗黙の了解であった筈だ。トルキンは『指輪の王』が裏に何らかの意味性を担ったいわゆる寓話として読まれることを嫌ったが、作品世界において仮構世界存立の条件として必要不可欠な公理系という形で存在する最低限の「意味」は、文学作品が可能世界として読者の心中に受容される過程で必然的に現出するものなのである。トルキン自身が「妖精物語について」で語っているように、作者トルキンはハピー・エンドという絶対的恩寵が作品世界において叶えられることを最大の目的として『指輪の王』という壮大な仮構世界を物語ったのであった。トルキン自身の言葉を用いるならば、「幸いなる大団円」(eu-catastrophe) という至福が享受される場としてこそ作品世界の存在意義があったのである。これが文学作品受容におけるコンヴェンションであり、そこでは現実世界のあるがままの事実(リアリズム)を反映するなどということは問題にされてはいなかった筈だ。むしろ我々の生きる現実世界が正にこのようなものであるという堅固な認識こそが、架空の異世界を構築する作業の契機をもたらしていたのであった。そこにあるのは作者によって取り決められ、読者によって了承された観念上の約束事に他ならない。文学作品におけるリアリズムとは、飽くまでも仮構世界内のもっともらしさという可能世界的リアリズムと、仮構世界提示の手法としての技法的リアリズムのことを言うに過ぎないものであった筈だ。物語の創成の面白さは現実を奇妙に歪曲し、様々に現実世界の座標変換を企てる思考実験を試みるところにある。アテベリーが “speculative romance” という呼称を与えて評価した一部の卓越した “science fantasy”の特質は、Hawthorneや Poe の手になるような高度に知的な観念的小説の場合に限らず、実は「物語」の特質そのものでもあった。(3)そしてまた、トルキンが指摘していたように、現実世界とは全く地平を異にした異世界を創り上げる行為そのものの裡にも、我々の生きる現実とは「異なっている」という指標においてこそまさに、異世界の構築を行う作者の現実認識の深さが窺われている筈なのである。この暗黙の了解の機構を語りの表面に持ち出し、公然の場において契約事項の再改変を行おうとしているのがバリの選んだお遊びだ。ダーリング家に戻りつつある子供達の描写から離れて、語り手は敢えて子供達の動向について何も知らないダーリング夫人のことを問題にする。

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If we had returned sooner to look with sorrowful sympathy at her, she would probably have cried, “Don't be silly, what do I matter? Do go back and keep an eye on the children.”

p. 234

もしも私たちが先にダーリング夫人のところに戻って、なぐさめてあげたとしても、ダーリング夫人はきっと「馬鹿なこと言わないでちょうだい。私のことがなんだっていうの。はやく戻って子供達のことを見ててちょうだい。」と叫んだことでしょう。

このように作品世界という一つの可能世界で起こったことを記述するだけでなく、起こりえたかもしれない様々の可能世界についても記述の手を広げているのがバリの手法なのだ。記述の対象となるのは作者の心中に浮かんだ一つの完結した可能世界であるのではなく、様々な変化形を取り得る生成途上の可能世界の束なのだ。バリの記述行為は一つの事象として対象を特定することなく、時にはあり得た経路の幾つかを併記することを許す。だからこのような可能世界内の反実仮想も言及されることとなる。

Why on earth should their beds be properly aired, seeing that they left them in such a thankless hurry? Would it not serve them jolly well right if they came back and found their parents were spending the week-end in the country? [傍線筆者] It would be the moral lesson they have been in need of ever since we met them; but if we contrived things in this way Mrs. Darling would never forgive us.

pp. 234-5

子供達が恩知らずにも大急ぎで逃げだしていってしまったことを思えば、子供達のベッドがちゃんと風を通してもらっているのは勿体ないことです。もし子供達が戻って来た時、両親は郊外で週末を過ごしていたなんていう展開になっていたら、その方がよっぽど彼らにはふさわしい

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ことではないでしょうか。私たちが子供達と出会って以来彼らが当然受けるべきであった教訓はこういうことでした。でも私たちが事をそのようにすすめたら、ダーリング夫人は決して私たちを許してはくれないでしょう。

『ピーターとウェンディ』において描かれているのは、与件として提示された因果関係の連鎖という線的なストーリーではない。物語世界の描像は相反する様々な可能性を併記することを許すという点で、量子力学が電子の存在を記述する際に採用したファインマンの「歴史総和法」と類似したものになっている。アテベリーの言葉を借りれば、「意味の不確定性」を意識した語りの技法が展開されている訳だ。これもまた『ピーターとウェンディ』のメタフィクション的要素の一つとして数えられる特質である。『ピーターとウェンディ』の著者であるバリの示す、作中の登場人物であるダーリング夫人への偏愛がこうしたメタフィクション的効果発動のパラメーターとして作用していることは注目するに足る。全てを許してくれる愛に満ちた新たな救世主たる「お母さん」の具現化であると共に、作者にとって取って替えることの出来ない特別な存在であるのがダーリング夫人だ。作者は物語を語る「作者」としての自覚を持ちつつダーリング夫人に言及してこう語る。

One thing I should like to do immensely, and that is to tell her, in the way authors have,[傍線筆者] that the children are coming back, that indeed they will be here on Thursday week. This would spoil so completely the surprise to which Wendy and John and Michael are looking forward. They have been planning it out on the ship: mother's rapture, father's shout of joy, Nana's leap through the air to embrace them first, when what they ought to be preparing for is good hiding. How delicious to spoil it all by breaking the news in advance[傍線筆者]; so that when they enter grandly Mrs. Darling may not even offer Wendy her mouth, and Mr. Darling may exclaim pettishly, “Dash it all, here are those boys again.” However, we should get no thanks even for this. We are beginning to know Mrs. Darling by this time, [傍線筆者] and may be sure that she

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would upbraid us for depriving the children of their pleasure. pp. 235-6

私がやってみたいとことさら強く思うことは、本の著者がよくやるように、彼女に子供達が戻ってこようとしていて、次の木曜日にはここに着いているだろうと告げてあげることです。そうすればウェンディとジョンとマイケルが楽しみにしている不意打ちの計画が台無しになってしまうことでしょう。子供達は船でこの計画をずっと練り続けてきたのでした。お母さんは喜びに我を忘れ、お父さんは歓声をあげ、ナナは子供達を一番最初に抱きしめようと宙に跳ぶことでしょう。本当だったら彼らがしていなくてはならなかったことはうまく身を隠すことであったでしょうに。前もってダーリング夫人にこのたくらみを告げて、子供達の予定を台無しにしてやれればなんと楽しいことでしょう。意気揚々と子供達が家に入ってくるとダーリング夫人はウェンディにキスをさせてあげるために顔を近づけてくれさえしないのです。ダーリング氏は「やれやれ、またこいつらが戻ってきたよ。」なんて不機嫌そうに言うかもしれません。けれども、そんなことになっても私たちは全然感謝してもらえることはないでしょう。私たちはダーリング夫人という人のことをもうそろそろよく理解できるようになってきました。ダーリング夫人は子供達の楽しみを奪ってしまったら私たちのことを責めるに違いありません。

全能の筈の著者が作中のダーリング夫人という登場人物の思惑を顧慮しながら作品世界の進行を司っている。これは明らかな論理矛盾である。作者と、作者と共に作品を読み進める読者の属する世界である現実世界が、語り進められつつある仮構世界の及ぼす干渉を受けているのだ。しばしば自己言及に付随して生起するパラドクスと同等の論理構造を持った、互いに他方を否定し合う一対の命題という図式がここにも見られる。そこに発現しているのは禅の公案にも似た、論理の破壊を通して得られる特異な感覚だ。これは以前にダーリング夫人の心の不思議な特徴として語られていた、入れ子箱の構造を思い起こさせるものである。ダーリング夫人に集約される母性原理の力は、因果関係を持たない筈の諸可能世界間の関係をも取り持つことができるものであることを暗示し

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ているのだろうか。それ程に作者のダーリング夫人に対する偏愛は深い。「お母さん」という記号は作品世界の宇宙定数を思うがままに決定し、仮構世界内の諸法則を統率する公理系を超越することが出来る奇跡的な潜勢力として機能しているのであろうか。不思議なことにダーリング夫人の寛容のお陰で子供達は現実世界の様々な障害から自由でいられる反面、自分たちの首領のピーターのために想像の世界で様々な不自由を味わわされるのである。現実と想像世界との奇妙な反転現象が生起していることになる。社会という束縛から開放されたあるがままの自然としてのピーターによって課された苦難を耐え忍んだ後、子供達は愛に満ちたダーリング夫人の待つ小市民的な家庭に無事回帰することを許されるのだ。全てを免罪する力を持っているのがダーリング夫人の子供達に対する愛である。キャロルが『シルヴィーとブルーノ』において標語として選んだ「愛が全てを救う」という理念が妙に覚めた形で踏襲されている。「贖いのパラドクス」をも乗り越える「偏愛」の万能がここに強引にも成就されている訳だ。 ところが作者はこのダーリング夫人と敢えて偽りの不和を演じて見せたりもするのだ。

“But, my dear madam, it is ten days till Thursday week; so that by telling you what's what, we can save you ten days of unhappiness.”

“Yes, but what a cost! By depriving the children of ten minutes of delight.”

“Oh, if you look at it in that way.” “What other way is there in which to look at it?”

p. 236

「ですが、奥様。今度の木曜日で十日にもなるんですよ。奥様に何がどうなっているか教えてさしあげることで奥様は十日分の悲しみを無しにすることができるんですよ。」 「それはそうですけど、その代わりに子供達の十分間の楽しみを台無しにしてしまうなんて。」 「そうですか、奥様はそういう角度からこの件をご覧になっていらっ

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しゃる訳で。」 「この件を他のどういう角度から見ることができるとおっしゃるん

ですの?」 作者と登場人物の間に取り交わされるこのような滑稽なやり取りこそ、バリの真骨頂をあらわす物語の仮構性を最大限に活用する遊戯なのだ。作者は全能の宇宙創成者の座から一気に作中の登場人物の一人の道化の役柄に転落する。ドン・キホーテとサンチョ・パンサの一人二役を演じているのが語り手としての作者なのだ。このようにひとしきりダーリング夫人とやり合った後で、今度は語り手は読者の方に言葉を向ける。

You see the woman had no proper spirit. I had meant to say extraordinary nice things about her; but I despise her, and not one of them will I say.

p. 236

ごらんのようにこのご婦人は、当然示すべき覇気を持っていませんでした。私は彼女について特別に素敵なことをいくつかお話ししてあげようと思っていたのですけれど、こんな風では私は彼女のことを軽蔑せざるをえません。だからもうなんにもお話することはありません。

こういう訳で生意気な子供達の不作法に一矢報いてやりたいと思う作者も、ダーリング夫人の子供を思う気持ちには打ち勝つことが出来ない。ダーリング夫人の子供達に対する偏愛は何物にも増して強いし、作者のダーリング夫人に対する偏愛は既に作者に作品世界に対する支配権を放棄させてしまっていた。結局作者の意に反して子供達のベッドはちゃんと風を通され、ダーリング夫人は家を空けることも無く、窓は開け放たれている。子供達は自分勝手なわがままをし放題のままダーリング家に無事帰還できることになりそうだ。作者はこれ以上ダーリング家にとどまってダーリング夫人に抗議をする術もない。作者には読者と共に子供達の船に戻るしか道は無さそうだ。けれども作者は未練がましく読者に語りかけて言うのだ。

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However, as we are here we may as well stay and look on. That is all we are, lookers-on. Nobody really wants us. So let us watch and say jaggy things, in the hope that some of them will hurt.

p. 236

しかしながら、私たちは今ダーリング家にいるのですから、とどまって様子を見ているのもいいでしょう。私たちは結局ただの傍観者に過ぎないのですから。誰も本当に私たちを必要とすることはないのです。ですから私たちは横から眺めていて、とげとげしい言葉を言ってやることにしましょう。気分を害することを言ってやれるかもしれませんから。

ここに至って作者は今や作品世界を舞台の外側から眺める傍観者以外の何者でもない。その姿は造物主としての神権を失墜し、自らの構築した世界の中で今は追放者として振る舞う、古代の神の堕落した末裔を思い起こさせる。作品宇宙においては超越的存在であった筈の全能なる作者が、その権限を完全に失墜し、ストーリーを進行させる権能を失ってしまったばかりか、全てを包括する全一なる一者の立場であったものの人格の分裂と解体までもが導かれてしまっている訳だ。この拍子抜けするような(anticlimactic)楽屋落ちの構図は、ドイツ・ロマン派の文学作品の中にもしばしば見られたものであった。このような傾向を不毛なアイロニーの空回りする観念遊戯の堕落として否定する見解が取られることがあったかもしれない。アテベリーがビーグルの作品世界運行手順において示した態度に対して覚えたような反発感を与えるような要素が、このようなメタフィクション的悪ふざけの許にあるのは時として認めざるを得ない事実だろう。 しかしながらここで皮肉られているものの内実は、実は秘める処が大きいも

のである。アンチ・ファンタシーという指標を用いてこのような皮肉な要素の内包する意義性の再検討を図り、ここに見られたような作品世界提示の手法の弁護を図ることが本書の目的とするところであった。上に検証された一見無責任な悪ふざけのような外観を呈する作品内の自己解体的様相は、一般にファンタシー作品といわれるものの多くが無意識の裡に指向していると思われる、有機的連関を備えた全一的宇宙の創世を行った始源的存在の分裂と堕落の過程を

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意図的に演出していると理解し得るものなのである。この神格崩壊過程のパロディはまさしく、始源的流出から世界を生み出した根源的なエネルギーである最高神の自我崩壊と分裂の過程というモデルに基盤を置く、失われた崇高の復権を企図した世界描像そのものに対する戯画化の意図を暗示するものであろう。全一的存在の分裂とその分身同士の背反の過程として現象世界の諸相を捉えるこのような世界観は、神秘思想家スウェーデンボルグに強い影響を受けると共に激烈な反発をも示し、独特の神話的世界像を彫画と詩を用いて表現して、悲惨な世界の存在像を描き出したブレイク(William Blake)のヴィジョンを思い起こさせるものである。そしてまた宇宙開闢のインフレーション・エネルギーが様々のより派生的な力と物質へと相転移を繰り返し、分裂していった結果現在の宇宙が形成された、とされる量子物理学的世界描像を既に知っている我々にとっては、このブレイクの構想した神格崩壊のヴィジョンは、ある意味で極めて身近な世界解式を提示するための模式図であるとも言える。バリの施したこのヴィジョンの変奏は、自我と世界の乖離に生の苦痛の原因を見出し、宇宙(全)と認識の主体(個)との正常な関係修復のための心理的試行作業として文学と哲学を捉えたロマン主義と、その影響下にメルヘンから派生して開花したファンタシー文学の心理学を見事に照射するものになっているのである。離反し、敵対することの裡に得られる仮初めの快楽と敵対し、憎み合うことに付きまとう永劫の苦痛の相互作用がドライなアイロニーによって処理され、ことさらユーモラスに描かれているのが『ピーターとウェンディ』のアンチ・ファンタシー的な部分なのだ。 ピーターという体験を蓄積することの無い不毛な行為者と、如何なる達成も

絶え間無い自省という宿痾のために悔恨の種としかならないという呪いを背負った楽園追放者フックの二者が示す相克の様態は、無残にも切り裂かれた全能の存在の二つの半身同士が繰り広げる堂々巡りの円舞曲なのであった。ピーターとフックの宿命的な抗争とは、全能を備えた筈の超越的存在の分身が織り成す、実を結ばぬ永劫回帰のアラベスクにほかならなかった。しかしながら一方の破滅と共にこの連星(ダブル・スター)の暗示していたウロボロス的円環は解体し、本体を失った影は時空の彼方へと飛び去ることとなる。 結局のところ全てを救う力を備えた母性原理の愛は子供たちの放恣を容認す

るだけの偏愛へと硬直してしまい、救済者たる聖母は物語世界の収束の全権を任された創造主である作者と、その愛の不毛さ故に離反し続けることになるの

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である。母なる自然の体現者たるダーリング夫人は創造神たる作者と反目し合い、幼児的で無慈悲なあるがままの自然の体現者たるピーターが美学と倫理という意味性のストイックな求道者であるフックに最後の引導を渡してしまうことになる、というあまりにも冷徹な結末が、このポピュラーになりすぎたきらいさえあるファンタシー文学作品の真実の姿なのであった。 ここに現出しているのは、愛は理不尽な偏愛という形でしか存在しえないと

いう醒めた自覚であると共に、全てを恕するキリスト的愛という俗っぽいロマン的幻想からの脱却の意志表明でもあろう。一見したところ生真面目な幻想擁護派の読者達には反感を与えるような無意味な悪ふざけとして見なされかねなかった『ピーターとウェンディ』のアンチ・ファンタシー的部分とは、実は空疎なヒューマニズムという避難所に安逸なる読者達を逃げ込ませることを峻烈に拒否する、誠実なニヒリズムの所産であったのだ。つまりここでは堕落したロマン派的形而上学が極めて醒めた目で脱構築されていたのである。「全て」を一つの原理に統括すべき存在論を模索し、「全て」の事物の間の調和と協調の可能性を構築しようと企図したファンタシーの形而上学的戦略は、いずれの航路を選んだところで「贖いのパラドクス」と「偏愛の不毛性」という暗礁に足をすくわれてしまわざるを得なかったという訳なのである。 改めて言うならば、『ピーターとウェンディ』においてはファンタシー文学の本質的主題が極めて脱構築的に捉えられ、ファンタシー文学の中心的な題材を形成している「自我の分裂と再統合」という主題が、潜伏した裏のストーリーとして戯画的に描かれていたのであった。その点においては『ピーターとウェンディ』はファンタシー文学のパロディであるとも言えるし、またファンタシー文学に対する辛辣な批評行為であるとも言いうるであろう。モダニズム作家である筈のフォークナーが時として指摘されることがあった、このような創作行為における対象癒着性の対極をなす、極めてドライな徹底した対象離反性とも言うべきものを導く契機は、当然高踏的なアイロニーの発動にあるが、このアイロニーを導くものは全体と個、真理と認識の主体の断絶を初期状態からの厳然たる決定事項として容認する、極めて冷徹なニヒリズムにほかならない。そもそも始原の宇宙の生成したことの意義も、自らがこの世に生まれ出てきたことの意味もまた無ければ、成し遂げるべき目的など与えられよう筈もなく、進歩も向上も幼児的な幻想に過ぎず、いかなる覚醒の機会も決してもたらされることは無く、ましてや悟りや永遠の真実に対する理解など得られよう筈も無

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いあるがままの現状を、自らを偽ることなくただ冷徹に見据えていこうとする、極めて傲岸なストイシズムがそこにはある。つまり「アンチ・ファンタシー」とは、価値観の統合を希求する精神の指向する信仰代替物に対する飽くなき模索行為として見なしうるファンタシーと、いかなる全体主義的信仰をも拒絶しようとする頑なな分断の決意表明として理解しうるニヒリズムという一見相容れないもののように思われる二つの要素を、ファンタシー文学の規範を一旦否定し、逸脱するという形式を備えたアイロニカルなファンタシー文学の一つの発現形として、ファンタシーの枠組みの側から一種の力技(tour de force)を用いて統括させようとしたダイナミックな試みなのであった。(4)だからこそ「アンチ・ファンタシー」とは、ファンタシー(幻想)に惑溺することのみを期待する幻想中毒者にとってははなはだ苦い解毒剤であるとともに、また一方万人に対して不変の価値観を提供する筈のリアリズムという空疎な夢想(ファンタシー)に対しては強力な脱幻想化過程を施す効能を備えた、極めて健全な幻想導入剤でもあったのである。アイロニーとニヒリズムの飛び抜けて誠実なる体現者であるバリが書いたファンタシーが「アンチ・ファンタシー」という形を取らざるを得なかったのは、ある意味で当然のことなのであったと言えよう。 (1)

ロマン派の詩人・批評家コールリッジ(Samuel Taylor Coleridge)によって “Biographia

Literaria”において既に指摘済みの、正統的とも言うべき仮構世界受容に関わる心理学であるが、

この観点は、彼のゴシック・ロマンスの潜在的性向に対するもう一つの指摘である、「社会体制

に対する転覆の願望」と共に、ファンタシーの奥底に等しく根差している アンチ・ファンタシ

ー的傾向を検出する試薬となるものと言えそうである。

(2)

Attebery, Strategies of Fantasy, pp. 40-8

(3)

Attebery, The Fantasy Tradition in American Literature, p. 163

(4)

この特質にのみ注目して判定を下すとしても、『ピーターとウェンディ』はポスト・モダニズ

ムの特徴を色濃く備えた文学作品であると言ってよい。歴史的位相からすれば『ピーターとウェ

ンディ』はモダニズムの占めるニッチに適合するもの以外の何物でもない筈なのだが、これまで

に得られたような図式において『ピーターとウェンディ』のメタフィクション的特徴の示す属性

としてポスト・モダニズムの要素を措定し、そのアイロニーの対象物としてロマン主義とファン

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タシーに照準が合わされていると捉えるならば、この視点移動による座標変換の結果からは、ロ

マン主義は狭義の「モダニズム」の一形態として理解されるという結論が導かれてしまうことに

もなるだろう。ファンタシーと「モダニズム」の思想的特質における関連を考える時、この帰結

はあながち帰謬法(reductio ad absurdum)を完成するものと見做されるべきものでもないだ

ろう。翻って最も広義に「モダン」という概念を捉え直してみるとするならば、古代の人々が「道

理」と対峙する孤立した「自我」という概念を見い出し、自我を包括し、その故に自我の延長た

る世界と道理の体現する「崇高さ」という観念とのどうしようも無い乖離をアポーリアとして受

け止め、この葛藤を超克するための契機として神や魔術という超自然的存在を構想したその時か

ら「モダン」という時代はすでに始まっていたに違いない。ロマン主義とはそもそも本来どのよ

うな思潮であったのか、モダニズムとは果していかなる指標でもって検知されるべき概念であり、

その対立概念として現出した筈のポスト・モダニズムとは一体何であったのかを改めて問い直さ

なければならない理由がここにある。アテベリーが後にファンタシー文学再評価の必要を認める

原因となった、20世紀後半のアメリカにおけるファンタシー文学流行という現象が突きつけた

問題性は、このあたりにあると考えなければならない。ロマン主義の影響下に展開されたファン

タシー文学における信仰代替物としての新たなる世界解式構築の可能性模索が、『ピーターとウ

ェンディ』においては脱幻想化の過程の否定要素に置き換えられてしまっているという事実は、

神の死を宣告された 20世紀的思念のアイロニーの位相を反映していると共に「現代」の意義の

再評価を迫るものだったのである。我々がファンタシーとアンチ・ファンタシーという対立概念

を採用してフィクション世界論の再認識を図る必要に迫られることとなったのはそのためであ

った。

138

11

アンチ・ファンタシーのポストモダニズム的戦略 —ビーグルの『最後のユニコーン』と“ 漫画性”

アテベリーが『最後のユニコーン』においてどうしても許容することの出来

なかった、作品世界提示の際における作者自身の手による仮構世界内リアリティ構築作業転覆の企ての顕示、という言わば楽屋落ち的悪ふざけは、実はアテベリーが『アメリカ文学におけるファンタシーの伝統』の中で言語道断な実例として挙げていた2箇所だけに留まらず、『最後のユニコーン』の至る所に様々の様態をとって現れているものなのである。本書の目的はこのような仮構性暴露的フィクション世界提示の手法に対し、ファンタシー文学特有の思想的特質と現実認識の在り方に関する再検証の作業を通して、弁護の可能性を模索することであった。そのために先ず『ピーターとウェンディ』においては、メタフィクションとディコンストラクションの相関関係の機構が、ファンタシーという概念と現象そのものを対象にして的確に機能しており、アンチ・ファンタシーという裏返しのファンタシーの存立可能条件の主張として展開されていることを確認してきた訳であるが、ここで改めて本書の冒頭において「アンチ・ファンタシー」といささか性急に名付けておいたレトリックの全貌を、『最後のユニコーン』のポストモダニズム的創作戦略に対する再検証の試みとして探ってみることにしよう。 作戦展開の手始めとして照準を定めるべきアンチ・ファンタシーの戦術の摘

要例は、アテベリーが既に『最後のユニコーン』のジェイムズ・サーバーの『白い鹿』との類似点として挙げていた、物語の冒頭の箇所においても指摘することができる。アテベリーが「作品に描かれた主題を嘲笑すると同時に親しみ深いものにする」として紹介した、「拍子抜けするような事柄の羅列」、つまり “anticlimactic catalogue”という呼称を用いて指摘がなされていた部分である。

She [unicorn] had killed dragons with it [horn], and healed a king whose poisoned wound would not close, and knocked down ripe chestnut for bear cubs.

(1)

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ユニコーンはこの角で龍を倒したこともあったし、毒を受けた傷がど

うしても癒えない王様を救ってやったこともあったし、実った栗の実 を熊の子供達のために払い落としてやったこともあった。

“anticlimax”、つまり「急遁法」とは、意味性を漸増的に累加して展開されることが予期されている筈の記述もしくは場面が、読者あるいは観客の期待に反してその絶頂に当たる部分で突然失速し、記述なり描写の初期の目的が頓挫してしまうかのような事態が招かれてしまうことにより、羅列あるいは反復が本来の意図と反した皮肉な意味で用いられる結果となる、という実は極めて古典的かつ伝統的な修辞法の一つである。 ここでは神話的な存在のユニコーンの所業を語るものとして、類型的な伝説の記述に従い、彼女と同様に崇高性を帯びた神話的存在である龍をその角を用いて倒したことが先ず述べられる。それを受けてさらに、また規範的な程にユニコーンに関する伝説的なエピソードとなっている事実を反復して、毒を受けて傷の癒えない王様の命をその角の力を発揮して救ってやったことが挙げられている。そしてこれら二つのユニコーンの属性に関する、言わば典型的な記述の総決算として当然予想されるべき事柄の三番目として羅列されている事実は、ユニコーンの本性の象徴たるその角を用いて、「栗の実を熊の子供達のために払い落としてやった」というごく日常的で瑣末な事柄に過ぎない。この落差感覚が、“anticlimax”を導く羅列的記述の典型的な用例としてアテベリーによって紹介されていたのであった。アテベリーの語る通り、この記述展開は確かに物語の主人公であるユニコーンという主題を「嘲笑すると同時に親しみ深い」ものにしている。このレトリックはアイロニーとユーモアが程よく融合したサーバー流のおとぎ話の基調を指摘する場合の好例とはなるであるだろう。しかしながらファンタシー作品『最後のユニコーン』においてここに現出したような “anticlimax” の用例は、実は本作品の企図するより複雑で巧妙な主題性と、さらに内奥の部分で緊密に関わっているものなのだ。『ピーターとウェンディ』の場合と同様に、『最後のユニコーン』もまた、迂闊な目でファンタシーを読み取ろうとする者達に痛烈なしっぺ返しを与える、精巧な奇術的戦略機構を物語全編の背後に巧みに潜ませてある作品なのであった。 物語の出だしの部分に改めて着目してみることにしよう。

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The unicorn lived in a lilac wood, and she [傍線筆者]lived all alone.

p. 7

ユニコーンはライラックの森の中で、彼女一人きりで暮らしていました。 この物語の主人公であるユニコーンの性は女性として設定されているのである。伝説上のユニコーンが、その角が男根を象徴するものであることから、常に男性のイメージを担っており、処女達の守神とされていたのとは対照的である。我々の現実世界の伝説においては、王権の守護者として男性原理を集約したかのような存在であるユニコーンが、この物語世界においては森と大地を守る女性原理を主張する文脈の中に描かれていくことになるのである。この座標変換による方位修正の結果、王国を危機に陥れる簒奪者としての龍を駆逐し、神授の絶対的統率権の具現化である王の傷を癒して権力の庇護者となる行為と、森の熊の子供のために栗の木の実を払い落としてやる牧歌的振舞いが、ここでは全く等価のものとして処理されていることになる。従来の神話・伝説において受け継がれてきたユニコーンの父権的属性が、これからはことごとく鏡面的な転換を施された価値原理の許に再編成されていくという巧妙な戦略的見通し図が、“anticlimax”というレトリック操作の裡に暗示されていた訳なのであった。 そしてまた、一般の類型的なファンタシーの道具立てを敢えて転覆するかのような、伝統的価値観の逆転を意識したこのような視点は、実は主題的側面においては、ファンタシー文学そのものの孕む思想的特質を如実に反映しているものでもあることは言うまでもない。常套的なファンタシーはファンタシー自身の持つ恒常的な破壊的気質によりその覇権を転覆されざるを得ないことは、本書の冒頭において既に指摘した通りである。ここで行われていたさりげない代名詞 “she”の挿入は、実は「価値観の転倒」という発想を軸にして常に反転的世界描像の現出の可能性を示唆する、ファンタシーの内包する体制転覆行為指向性に対する先鋭な自意識を顕示するための、照明弾投入作戦行為として理解されるべきものなのであった。アテベリーがしばしばファンタシー作家や SF作家達の創作戦略における破綻の例としてあげていた、無責任に創作世界を投げ出す戦線離脱的作戦行動とも紛らわしい、いかにも皮相で諧謔的な価値観の破壊行動は、むしろこの作品における自己反射的なアイロニーの発現をうなが

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す基調音とこそなっているのであり、我々がファンタシーの本質に対する理解のためのキーワードとして設定した、“antifantasy”という概念の微妙な意義性を雄弁に物語っているものなのである。 ビーグルは巧妙かつ周到に全方位に渡って、『最後のユニコーン』におけるアンチ・ファンタシー戦線の戦略的展開を図っていたのであった。アテベリーがこの作者の擬装に目を奪われ、作戦展開の全体像を見誤ったとしても不思議ではないのだ。ビーグルの伏兵に満ちた布陣を暴くために、先ずアテベリーがあきれてこれ以上指摘することを避けてしまったと思われる、『最後のユニコーン』の一見したところ浅薄な悪ふざけと思われてしまいかねない箇所の一つ一つを、改めて検証し直してみる必要があるだろう。 格調高い崇高な物語世界を語る筈のファンタシーの記述が、卑近で現実的な事物を描いてしまうという事態の好例は、旅に出たユニコーンが捕らわれてしまうことになるサーカスの一行の檻の描写にも見ることができる。

Their [wagons’] draperies were gone, and they were now adorned with sad black banners cut from blankets, [傍線筆者]and stubby black ribbons that twitched in the breeze.

p. 27

檻を覆っていた垂れ布は取り払われ、檻は毛布を切り取って作った色 褪せた三角旗で飾られており、黒いリボンの切れ端が引きつるように 風にゆられていました。

作者の記述態度は作品世界の奥行きを増し、重厚な物語を構築しようとするどころか、張り子と書き割りでしかない小道具を観客の眼前に突きつけるようにして、ことさらに薄っぺらな舞台背景を暴いてしまい、あたかも矮小な現実世界の出来損ないの模倣でしかないもののように、飽くまでも冷笑的に作品世界の描写を進めるのだ。トルキン的な荘重さと生真面目な叙述態度に慣れ親しんだ、驚異と崇高をこそ描くべき異世界構築作業をファンタシーに期待した読者は、アテベリーの場合のように腹立たしい焦燥をさえ覚えてしまうことであろう。いかなる時代性をも超越した筈の魔術的古代世界に闖入した卑近なグレープフルーツの皮が我慢ならなかったアテベリーは、きっと同じく現代世界の

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台所的日常性を喚起するオートミールにも拒否反応を起こしたことに違いない。

Schmendrick’s face had gone the color of oatmeal. p. 32

シュメンドリックは色を失って、その顔はまるでオートミールみたい

な色になりました。 これらはファンタシー文学擁護のために立ち上がった戦士達にとっては、犯すべからざるアナクロニズム摘要の反騎士道的反則行為と映ったことであろう。卑近な現実感覚を作中に引きずり込む覚醒物質の投入行為は、驚異に殉じた騎士道的ファンタシー擁護戦役参加者においては、仮構世界描述作戦行動のタブーとも見做されなければならないものなのであった。 アテベリーの気に障った『最後のユニコーン』において目に付く戦線離脱的傾向のもう一つの側面は、一言で述べてしまえば「漫画的叙述」とでも呼べば適切なものであろう。ここではファンタシーのポストモダニズム的再評価という観点から、論理学的・認識論的問題性を意識して、「現実には起こりえない筈であるとされている事柄を題材として描く」という定義の許に存立するファンタシー世界においてさえもさらに、「有りえる筈がない」という決定的な違和感を作品世界受容者に与える題材が導入される叙述方法として、「漫画的叙述」という用語に対する定義を与えておくことにしよう。(2)身も蓋もない言い方をしてしまえば、『最後のユニコーン』は格調高い文学作品として読むには甚だしく漫画的な部分を備えている物語なのである。トルキンその他のファンタシーを等しく容認することができたアテベリーにどうしても認めることができなかったのは、文学作品の中に闖入したこの漫画的部分であったことに違いない。アテベリーが既に指摘した箇所ではあるが、改めて作品の進行に忠実に従って、問題の箇所をここにもう一度引用してみることにしよう。

The witch’s stagnant eyes blazed up so savagely bright that a ragged company of luna moths, off to a night’s revel, fluttered straight into them and sizzled into snowy ashes.

p. 36

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魔女のよどんだ目はあまりにも凄まじい輝きを放って燃え上がったの

で、夜の酒盛りに出掛けるところであったオオミズアオの一行は、そ の目の中にまっしぐらに飛び込んで、しゅっと音を立てて雪のような 灰になってしまいました。

トルキンの流れを汲む魔法と妖精と怪物達の世界にあっても、なおかつ一線を画すと思われる異世界構成要素が、この燃え上がる目とそこに飛び込んで焼き尽くされ、灰になってしまった蛾の群れなのであった。これはトルキンの格調高いハイ・ファンタシーの世界においてなら、決して用いられることがあってはならない禁断の呪法なのであった。しかしこれと同様の「漫画的」描述行為はこの直後にも懲りることなく行われている。

A few grains of sand rustled down Mommy Fortuna’s cheek as she stared at theunicorn. All witches weep like that.

p. 37 砂粒がいくつかユニコーンを見つめるマミー・フォルチュナの頬を転

がり落ちました。魔女が泣く時には砂の涙を流すのです。 マンラブはトルキンの『指輪の王』を論難するにあたって、作品世界受容を困難にする、読者の心中に具体的イメージを形成することを妨げるような記述がなされているとして、トルキンの創造した木の妖精、あるいは木のような姿をした精霊の一種族 Ent (Fangorn) の導入を挙げたものだが(3)、トルキンを全面的に受け入れることができたアテベリーにとってどうしても受け入れ難い部分が、上に挙げたような漫画的におどけた描述行為であった。フィクション世界にのみ存在を許される様々の可能的存在物の中で、“ 読者の側の自発的な不信の停止” という後方支援を受けてさえも、「最も現存性の希薄であると見做される要素」という言葉で「漫画的」と先程名付けた仮構的存在を呼び換えてみれば、意味の不確定性の時代以降にフィクション世界構成要素の被った仮構世界内存立条件の変化が、いくらかは明確な輪郭を持って見えてくることだろう。つまり語られつつある作品世界の仮構性を常に意識しながら、メイク・ビリー

144

ブされつつある対象とメイク・ビリーブしつつある自分自身を常に意識し、受容し構築されつつある自らのイマジネーション世界の非実在性を嘲笑する冷徹な視点を保持し続けていく、という反射的機構が極まった突出部分が、「漫画的」と呼ばれる描述行為の正体であると言ってもよい。あるいはまた「有りえぬ筈のことを語りつつある」という自らの行為を反射的に畳み込んだ自己言及的描術行為として、フィクション性を自覚したフィクションの様態の際立った部分が「漫画的」という印象を仮構世界受容者に与える、と語ることによって場の座標変換を試みることもできるだろう。これらは権威と崇高さから芸術が開放されたモダニズムの時代を経て、俗悪さと稚拙さもまた積極的な芸術作品成立に寄与すべき相互作用的構成要素として認められるに至った、ポストモダニズム文化における特徴的な傾向なのである。ティンカー・ベルとアンディ・ワーホールを許容した 20世紀文化の中で、不可解なことに未だその評価が適切に定められるに至っていないのが、この仮構世界記述行為における「漫画的」部分とその受容に関わる心理学なのだ。そして字義的にはファンタシーの本質要素としてどのファンタシー研究書においても当然のごとく受け入れられていながら、必ずしも十分な理解が得られているとは思われない “the fantastic” という用語の含蓄を正しく照射することが出来るかもしれないのは、この「漫画的」という概念ではないかとも考えられるのである。(4)卑近な現実感覚の闖入も調子外れのアナクロニズムも、この「漫画的」要素の漸増的階層構造における相転移の諸相としてみなすことができよう。そういう訳でこれからは、この「漫画的」要素の力学に注目しながら、『最後のユニコーン』のアンチ・ファンタシー的機構発現の実例に関する検証をさらに進めていくこととしよう。 魔法使いはいかさまの奇術しか満足に行うことができないものだから、敵を脅かすのに口先ばかり巧みで、恐ろしい魔法の術の代わりに神秘的な柔道の技の行使をほのめかしたりもする。

The magician stood erect, menacing the attackers with demons, metamorphoses, paralyzing ailments, and secret judo holds. [傍線筆者]

p. 106

魔法使いは背中を伸ばして立ち上がり、襲いかかってくる者達に、悪

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魔を呼びだすぞ、変身させてやるぞ、体を痺れて動けなくさせてやる ぞ、柔道の隠し技をかけてやるぞ、と脅しの言葉を投げました。

ここに現れた威嚇の言葉の羅列もまた “anticlimactic catalogue” の典型的な一例となるであろう。様々な魔法の術の後を受けて最も強力な呪法の言及されるべきところに持ち出されるのは、今語りつつある筈の自分の魔法の技術の高邁な優位性を一気に放擲してしまうかのような、次元を全く異にする皮相な神秘性にのみ依存した柔道の秘技なのである。そしてまた「柔道の隠し技」は、ここでは勿論アナクロニズムの発現例として、低俗な現代アメリカの日常性を喚起する役割を果たしてもいる。東洋の神秘の通俗的代名詞として用いられるカラテやジュードーなどは、魔術的遠近法の許に展開される高邁なファンタシー世界においては、いかに軽佻浮薄な現代アメリカ文化の中にあってさえ御法度の禁句であった筈なのだ。『最後のユニコーン』におけるアナクロニズムのこのような活用例が、この作品の「漫画性」を緊密に構築していくための効果的な援護射撃となっていることはたやすく理解される事実であるだろう。 次の部分もいかにも「漫画的」な描き方だ。本作品における象徴的悪漢であるハガード王の城を警備する衛兵達に関する描写である。

Both men were clad in homemade mail—rings, bottlecaps, and links of chain sewn onto half cured hides—

p. 123

どちらの男も半なめしの皮に金輪や瓶の蓋や鎖の輪をいくつも縫い付 けた、手製の甲冑を身にまとっていました。

ここにあるのはまるで学芸会の手作りの衣装の裏側をクローズ・アップで暴くような、醒めきった記述態度ではなかろうか。作品世界享受の機構を読者の側のメイク・ビリーブ操作推進行為として理解するならば、ここに展開されているのはことさらに“ ビリーブ” を妨げるような、“ メイキング” の部分のあからさまな露出にほかならない。作者は明らかに意図的にこれらの漫画的な描写方法を採用しているのだ。アテベリーは作者ビーグルの、自身が語りつつある作品世界に対する創造者としての自信の無さがこのような空中分解的記述行為を

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招いたものであると決めつけていた訳だが、作品世界に充満するこれらの薄っぺらなリアリティ感覚は、実は70年代のアメリカ文化と思想を照射すると思われる本作品の根幹的テーマに関わる、物語描述行為において発露した重要なポストモダニズム的ファンタシーの気質的特徴を如実に反映しているものであると考えられるのである。(5) 『最後のユニコーン』におけるユニコーンは、我々が従来慣れ親しんできた

伝説におけるユニコーンには見られなかった特有の属性を他にもいくつか持つものとされている。この作品においてユニコーンの体現するものとして挙げられている象徴的記号性は、その存在そのものが絶対的原理機構としての魔法の力と同等の超越的意義性を担っているものとされている点であるとか、ユニコーンという生物の姿そのものが極限的判断基準の具現化として機能し、この作品世界においては世界で最も美しいものの尺度とされている点であること等様々であるが、何よりも本作品においてユニコーンがなくてはならない決定的に重要な存在であるのは、彼女が欺瞞に満ちた偽物のひしめく世界において、数少ない「本物」であるということだ。「実物」に対する模倣物をのみ「偽物」と呼ぶ発想は、実は「偽物」をしか視認することのできない貧しい認識力を露呈するものでしかない。存在物の各々が先験的に自ずから保持しあるいは永遠に保持し得ない絶対的な属性として「本物」の存在であること、すなわち「本物性」が『最後のユニコーン』の世界を構築する枢軸的な構成要素の一つとして掲げられているのである。本作品においてはいかなるオリジナルの実物であろうとも、先天的かつ原理的な「本物」としての属性を有していないものはすべて「偽物」というみすぼらしい範疇に属する運命を決定づけられている哀れな被造物に過ぎないのである。 ファンタシー文学の抱く潜在的志向として、絶対的原理の存在を裏打ちする

崇高なるものの顕現が可能となる世界を背景として描き出すことが指摘され得るとするならば、本作品は思想的な側面としては飽くまでも正統的なファンタシーに倣って、世界構成軸となる普遍的原理の具現物としての「本物」を描き出すことを必要とし、そのためにこれら絶対的存在以外のものは、この作品がその中に含まれる我々の現実世界を含めて、全て「偽物」という烙印と共に記述されることとなるのである。『最後のユニコーン』においてはユニコーンを代表として、その他ほんの僅かのもの達のみが「本物」であることを主張することができるが、本作品においてこのような「本物」を形容する格別の形容語と

147

して選ばれているキーワードの一つが “old” という言葉なのであった。真実の存在に目を向け、唯一の存在意義に対する覚醒と向上の志向とを本分とするものは、自身をユニコーンになぞらえて “old” であると主張するこの物語世界においては、 “old” であることに目をくれない、あるいは “old” となることをあえなく放棄してしまったものは、全て浅薄な紛い物としての存在性を暴露してしまうことになるのである。つまり漫画的アンチ・ファンタシーとは、この “old” 性の極北に位置する対照的属性を記述するための指標として、欠くべからざるものとして措定され、有無を言わさず印してある非情な烙印なのであった。 このような意識の場において発動する可能世界においては、テクノロジーと

民主主義の支配する産業資本主義の帝国たる現実世界アメリカに根差したものは、作品外現実世界のみならず現実内仮構世界たる作品世界自体さえもが、おしなべて薄っぺらな紛い物として描かれなければならなかったのは、むしろ当然と言えば当然のことであった。作者が語りつつあるのは一つのストーリーに過ぎないのであり、仮構という嘘をあたかももっともらしい真実であるかのように語るような所業は、誠実な嘘つきには言語道断のことに相違無い。仮構を仮構として語る真摯な態度のみが仮構の背後に潜むあり得ない真実を語る資格を持っている筈なのだ。臆面も無く喪われた真実を回復する術を説く形而上学を開陳する鉄面皮を持たない正直な嘘つきは、フィクションという断り書きを際立たせて、非在性という画布の上に一見したところはのどかな偽りの夢を描いてみせることとなる。 このように漫画性という性向を検知したことによって、ネヴァランドとユー

トピアを結ぶ非在性の物語の延長線上にこのファンタシー作品が正しく位置していることが判別されることとなる。いかなる権威に対しても沒心的従属を拒否する醒めきった情熱と共に、誠実なニヒリズムへの帰依という信仰告白の形さえとって、欺瞞と偽りを排除する潔癖な自意識が、この作品には行き渡っているのである。 張り詰めた諧謔性を裏打ちするかのように表出する危うい現実認識と、異世

界的なものあるいは反現実世界的なものに対する憧憬の念の強いあらわれは、騒音と怒号の背後の静謐な観念空間において惑星の音楽の音色を聴き取ろうとするような澄明な心的態度と相俟って、『最後のユニコーン』が20世紀後期におよんで再び、19世紀中葉に発現した初期のファンタシーの裡に示されていた、ドイツ・ロマン派の作品世界提示行為を緊密に支配していたあのアイロニ

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ーに立ち返ったことを良く示している。正しくアンチ・ファンタシーとは、ロマンティック・アイロニーの今日的発露の一つの形に他ならないものなのであった。『ピーターとウェンディ』にせよ『最後のユニコーン』にせよ、ファンタシーの文法は全て備えているのだ。ファンタシー自体を対象物として明確に認識し、外的存在として客観的にファンタシーについて語ってしまっている、という個の中に全が含まれる、自覚的な論理矛盾の要素が戯画的に付加されている点を除けば。そして又上に指摘した再帰的構造性の自覚そのものが、かつてのロマンティック・アイロニーの保持していた占有的特質に他ならないものであったことは改めて言うまでもない。 真実と偽りを常に厳しく峻別する意識は、実は『最後のユニコーン』におい

ては偏執的なまでに支配的なものである。作者はユニコーンという古くから良く知られた伝説上の存在を、普遍的真実の代名詞たりうる新機軸の神話的存在として再構築してみせた。ユニコーンは世界で最も美しく、だから唯一究極に真実の存在であり、それが故に永遠に善であるはずなのだ。意味が意味をなす世界の軸を担う存在として、全ての存在の意味性を保証すべき核となる原存在として、普遍的原理機構に呼応する具象的存在物として、地上に降り立った天上の音楽の位相の一つとして、ユニコーンに関わる伝説は新たに語られ直していくこととなる。ユニコーンは“ ユニバーサル”(普遍)という概念と、韻律のアナロジーという言葉の魔法を媒介にして緊密に連なった指標的存在なのであった。ピーターとフックの関係に暗示されていた、意味性追及行為に付きまとう原理的不毛性への堂々回り的帰着という、実証主義が封印を解いてしまった世界の意味性消失をもたらす邪悪極まりない呪法に対して、このおぞましい全宇宙の崩壊(disintegration)をもたらす力を持った凶悪な呪詛を打ち消すべき対立呪法(カウンター・スペル)の恩寵的顕現として、『最後のユニコーン』ではユニコーンその他の神話的怪獣達が明瞭に機能しており、その確かな存在性を浮き彫りにするために用意された背景的対照物として、“old” ならざる者たちすべての露呈する愚かしさ、下らなさ (absurdity) が、アンチ・ファンタシーのレトリックを摘要して語られていくという作戦展開が、「漫画的ナンセンス」という擬装に固められた布陣の許に仕組まれていたという訳なのであった。皮肉なことにファンタシーの正統を引き継ぐべき純血の王権主張者は、ディズニー・ランドとラスベガスという悪夢が実体化してしまった後の20世紀終盤のアメリカという虚飾の帝国においては、アンチ・ファンタシーという仮面を被

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って登場せざるを得なかったのである。

(1)

Annotated Last Unicorn(近代文芸社、2004年) p. 7

The Last Unicorn の版には様々なものがある。筆者が現在保有するものだけでも年代

順に挙げてみれば、

The Last Unicorn. New York: Ballantine Books, 1974. The Last Unicorn. in The Works of Peter Beagle. New York: Viking

Press, 1978.

The Last Unicorn. New York: Del Rey book, 1988. The Last Unicorn. New York: Roc Book, 1991.

など、テキストとして用い得るものとして4種類の版が存在する。しかしながらそれぞれ

の版において誤植あるいは編集ミスによる異同もいくつか存在することが判明している。

また市場にあるものを網羅すればもっと多くの版が見つかることであろうとも思われる。

そのため The Last Unicornの決定稿としてみなし得るテキストとして、筆者による注釈

付きのテキスト Annotated Last Unicorn(近代文芸社、2004年)を、本書において

は引用の出典として用いることとする。同書はアンチ・ファンタシー研究総合プロジェク

トにおける論文パートを形成する本書に対して、相補的機能を果たすべき注釈テキストパ

ートを形成するものである。

(2)

日常語における含意としては、 “fantasy” という言葉も “fairytale” という言葉も共に

「根も葉もないたわ言」、「とりとめのない夢想」、として日本語の「漫画」という語に対応

する部分を広く持つと思われる。西洋的見通し図におけるアイロニーとファンタシーとい

う概念に対して、東洋的遠近法における「風狂」と「佯狂」、そして「荒唐無稽」という概

念を対置させれば、本書におけるファンタシー再評価の視点がいくらかは明らかになって

くることだろう。

(3)

C. N. Manlove, Modern Fantasy, pp. 201-2 (4)

ラブキンはファンタシーの本質的要素として“the fantastic”という言葉に “180 degree

reversal of the ground rule”という定義を与えて論考を展開していたが、(The Fantastic in Literature, 1976)彼の施した「基本原則の 180度の逆転」というファンタシーに対す

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る定義は、ファンタシー文学に対する規範的定義としてはいくつかの問題点を露呈するこ

とになったものの、全てのファンタシーの等しく内包すると思われる根幹的要素である反

逆性及び転倒性、則ち“ アンチ” 的性向に対して照準点を定めた投影図として捉えれば、

その指摘の的確さには多大に評価すべきものがあると言えよう。

(5)

この作者特有の現実感覚の危うさは、短編「狼女ライラ」(“ Lila the Werewolf”)にお

いて顕著に現れている。現代ニューヨークを舞台として語られる新規軸の狼人間譚は、狼

女の愛人である常に醒めた傍観者の主人公ファレルに与えられた「いかなる不思議をもあ

るがままに受け入れる」才能と、夜の都会の街を舞台にして繰り広げられるシュール・レ

アリスティックで実現不可能な追跡劇という背景を通して、日常の現実感覚そのものが、

夢と驚異と奇想の表皮にちりばめられた揮発性の添加物に過ぎないことをよく物語ってい

るかのようだ。

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12

不毛の王国の貪欲なストイスト —フック的アンチ・ヒーローと神格化された無知

『最後のユニコーン』において世界に不毛と荒廃をもたらした張本人である典型的な悪漢として登場するハガード王も、やはり本作品特有のおどけた漫画的叙述の拘束から自由な存在ではあり得ない。その強権でもって王国に圧制を敷く極悪非道の専制君主である筈のハガード王は、あろうことか落ちぶれ果てたような貧困さと荒唐無稽な程の吝嗇家振りをもっともらしく国人に噂されているのである。

They say also that there are no lights in his castle, and no fires, and that he sends his men out to steal chickens, and bedseets, and pies from windowsills.

p. 54

そしてまたハガード王の城には、灯りも暖炉の火さえも灯されることは無く、ハガード王は手下の兵に命じて町の家々から鶏やシーツや、窓辺でさましてあるパイなどを盗んでこさせるということです。

ハグズゲイトの町の町長として、強欲と無節操の権化であるかのごとく滑稽を絵に描いたような姿で語られる人物のドリンさえもが、町と運命を共にすると謎めいた予言で語られている彼等の主君ハガード王のことを、次のように語っている始末だ。

“He walks in Hagsgate at night, not often, but now and then. Many of us have seen him—tall Haggard, gray as driftwood, prowling alone under an iron moon, picking up dropped coins, broken dishes, spoons, stones, handkerchiefs, rings, stepped-on apples; anything, everything, no reason to it.”

p. 102

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ハガード王はしばしばではないにせよ、時折ハグズゲイトの町の中を歩き回ることがあるのです。我々のうちの多くのものが彼の姿を実際に目にしています。背が高く、流木のようにくすんだその姿が、鉄のように冷たい月の下を這いずり回り、道に落ちたコインや割れた皿のかけらや、スプーンや小石やハンカチや指輪や、踏み砕かれたリンゴまで、何でも、どんなものでも、何の理由も無く拾い集めていくのです。

『ピーターとウェンディ』において、フックを単なる敵役の悪漢に決めつけることを許さなかった、彼の体現する教養の高さと感性の深さの代わりに、『最後のユニコーン』の象徴的悪漢であるハガード王は、漫画的に誇張されたみすぼらしいばかりの貪欲さでもって常に語られているのである。この不可解な人物の一筋縄では容易に解釈の糸口を与えることの無さそうな秘密を解きほぐす鍵は、やはり“ アンチ・ファンタシー” という乱数表の干渉を加えることによって発現情報系の暗号変換を企てることによってしか、見つける術はなさそうだ。 王様お付きの魔法使いとして召し抱えてもらうことを目論んで、魔法の力に

よって得られる様々の喜びについて述べたてようとするシュメンドリックに対してハガード王が語る次の言葉は、この作品の謎の一端を解き明かす契機を与えるであろう重要な手掛かりとなる筈のものだ。

“You are losing my interest,” the rustling voice interrupted him again, “and that is very dangerous. In a moment I will have forgotten you quite entirely, and will never be able to remember just what I did with you. What I forget not only ceases to exist, but never really existed in the first place.”[傍線筆者]

pp. 127-8

「お前は儂の関心を失いつつある。」しゃがれた声で再びハガード王が シュメンドリックをさえぎった。「そしてそれはとても危険なことなのだ。次の瞬間には儂はお前のことなどすっかり忘れてしまっていることだろう。そうなればお前と言葉を交わしたことさえ思い出すことはある

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まい。儂が忘れてしまったことは存在することを止めてしまうばかりでなく、最初から存在などしていなかったことになってしまうのだ。

この言葉に従えば、ハガード王にとっては時間軸の方向性の支配さえ一切受けることなく、存在物の総てが単なる自身の記憶上のものとして、つまり己の思念の下位項目を成す内部機構として感知され、また実際に客観的具象物としても存在することとなる。ハガード王という人物造型においては、文字どおり作品世界中の全智で全能である、造物主としてのすべての特権を保持する存在としての作者(語り手)と同格の権能を備えた、つまり語り手と同列の超テキスト的全権性を備えた作者の影、あるいは分身であるとも看做され得る存在原理が暗示されているということなのだろう。 さらにハガード王はシュメンドリックの勧める華やかな宮廷の楽しみごとの

数々についても、取り付きようもない冷淡な態度で次のように語っている。

“They are nothing to me,” King Haggard said. “I have known them all, and they have not made me happy. I will keep nothing near me that does not make me happy.”

p. 128

「そのようなものは儂にとっては無に等しい。儂はお前が今語ったものの総てを味わってみたけれど、そのいずれも儂に幸福を与えてくれることは無かった。儂に幸福を与えてくれることの無いものなど、傍らにおいておくつもりは無い。」

ここに描かれているハガード王は、快楽の総てを知り、なおかつ充足を得ることが決して無く、常に絶え間の無い飢餓感にあえぎ続けているという点では、『ピーターとウェンディ』のフックと見事なまでに酷似しており、いかなる達成も向上と変化に結びつくことがない不毛な経験者であり続けるという点では、奇妙にピーター自身と相似的でもある。 これまで召し抱えていた卓越した魔法使いであるマブルクに対して、彼の与えてくれた魔法の成果の全てを以下のように語り捨てるハガード王は、知ることと成すこと、経験と達成に関する価値基準の設け方に対する視点構築の再評

154

価を通じて、この世に生きることの意味とかくのごとき世界の存在することそのものの意味をも同時に問い直すものとなっている。

“But that also is nothing to me,” King Haggard went on. “In the past, you have performed whatever miracle I required of you, and all it has done has been to spoil my taste for miracles. No task is too vast for your powers—and yet, when the wonder is achieved, nothing has changed. It must be that great power cannot give me whatever it is that I really want. A master magician has not made me happy. I will see what an incompetent one can do. You may go, Mabruk.” He nodded his head to dismiss the old wizard.

p. 130

「しかしそれも又儂にとっては無に等しい。」ハガード王は言葉を続けた。「これまでお前は儂が望むいかなる奇跡でも成し遂げて見せた。けれどもお前の行った奇跡のどれもが儂の奇跡に対する期待感を損なってしまうだけだった。お前にとってはいかなる難題も難し過ぎるということはなかろう。けれども、お前が何をして見せたところで、何も変わることは無かった。儂が本当に望むものが何であろうと、偉大な魔法の力がそれを儂に与えてくれるということはないのであろう。最高の魔法使いは儂に幸福を与えてくれることは無かった。だから無能な魔法使いが儂に何を与えてくれるかをこれから確かめてみることにしよう。お前は用済みじゃ。マブルク。」ハガード王は首を一振りして年老いた魔法使いをしりぞけた。

フック的ストイシズムが結局は空中分解的な自我の分裂と、いかなる成果をも残すことの無い孤立の果ての破滅という悲惨極まりない結末を招かざるを得なかったのに対して、その直系の子孫であり、よりその存在属性を研ぎすまされた進化形でもあるハガード王は、有能な魔法使いが成し得なかった奇跡を無能な廃残者にこそ託してみるという遊戯的選択を自覚的に採用する、はなはだアイロニカルな美学的性向をさらに増幅して備えている。 ハガード王に体現したこの傾向は先に指摘した「漫画的」傾向と軌を一つに

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して、作品世界の存在原理の一つの転倒をさえ企てる有力な要素として発動することとなる。大団円を迎えたこの物語の一瞬は作中の登場人物の一人であるモリー・グルーの眼を通して次のように描かれることになるからだ。

For Molly Grue, the world hung motionless in that glass moment. As though she were standing on a higher tower than King Haggard’s, she looked down on a pale paring of land where a toy man and woman [傍線筆者]stared with their knitted eyes at a clay bull and a tiny ivory unicorn. [ 傍 線 筆 者 ] Abandoned playthings—here was another doll, too, half-buried; and a sandcastle with a stick king propped up in one tilted turret. [傍線筆者]

p. 193

モリー・グルーにとっては、この凍り付いたような一瞬、世界の総てが動きを止めて宙に浮いているように思えた。あたかも彼女がハガード王の立っている城よりもさらに高い城の上に立っており、白っぽい砂浜の切れ端の上でおもちゃの男と女が眉をひそめて粘土細工の牡牛と象牙細工のユニコーンを見つめているのを見下ろしているとでもいうかのように。それはまるで遊び飽きて捨てられたおもちゃさながらだった。もう一つの人形が半分砂に埋もれ、砂の城が傾いた塔に棒切れのような王様を寄り掛からせていた。

物語世界が究極の緊張の一瞬を迎えようとするその時、作中人物の1人のモリーの視点は、物語世界の枠外に存在すると同時に物語世界のすべてにその影を反映させている語り手の視点と同調する。物語世界の住民達とは、紛れも無く作者の心中に束の間存在することが可能となった操り人形のような、観念上の仮構的存在物達に過ぎないのである。その限界性の烙印が時に応じてあるいは荒唐無稽な漫画的描述方法の裡に、あるいは玩具的非実体性として戯画化された彼等の姿に表出することとなっていたのであった。しかしながら唯一本物中の本物である筈のユニコーンさえもが結局はまぬがれることが無かったこの仮構的存在属性の烙印を、束の間作者の視点と同調したモリーの視点さえも超

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越して、ハガード王のみは負わされていないという訳なのだ。ハガード王だけが格別の例外的扱いを受けていることになる。ハガード王はユニコーン以上に“ リアル” であり、従ってある意味においては、より“ old” でさえあるかもしれない存在なのだ。

But King Haggard, who was quite real, [傍線筆者] fell down through the wreckage of his disenchanted castle like a knife dropped through clouds. Molly heard him laugh once, as though he had expected it. Very little ever surprised King Haggard.

p. 195

けれどもハガード王だけは間違い無く本物だったので、雲の中を突っ切って落ちるナイフのように魔法の解けた城の残骸の中を落ちていった。モリーは彼があたかもこの事態を待ち受けていたかのように満足そうに笑う声さえ耳にした。ハガード王を驚かすことのできるものなど滅多にありはしなかった。

ドイツ・ロマン派のしばしば採用したドラマティック・アイロニーの手法と同様に、作品を鑑賞する観客/読者の世界の次元構成軸を、彼等の鑑賞の対象となっている舞台/作品世界の次元構成軸に強引に引き寄せるかのような、楽屋落ち的メタフィクションの構図を通して描かれているハガード王の存在属性とは、作品世界中に発現した語り手の姿の投影として機能する一登場人物であると共に、作品宇宙の総体としての時・空・精神、そしてまた存在・現象のそれぞれを形成する潜勢力の全てを秘めた原初的作動因の重ね合わせとして認識された、実在としての作者/世界そのものの鏡面的自画像というべきものに他ならないものであったのだ。(1) ハガードの体現していた「強欲」とはフック的ストイシズムの影の、正しく

アンチ・ファンタシー的な表現形の一つに他ならなかったのである。本物の魔法使いを自認するシュメンドリックと、本物の魔法使いとなり得なかったものとして本物を操ることのできる魔法の技を振るうことを切に求め続ける魔女マミー・フォルチュナの両者が顕著に示す、真実なるものに対する憧憬の念“ hunger” ともども、様々な人物造型の発現形の中で種々の階層的存在様態を

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とって表れる「本物」指向性は、作品世界全編に散乱した創世者/被造物としての作者/読者の統合的思念を、常時反転的に限り無くアンビバレントに照射し続けているものなのである。 『最後のユニコーン』の謎めいた悪漢ハガード王とは、フック的ヒーローという人物像の延長軸上に座標を固定された、主客を転倒し影の系譜に属することを余儀なくされることとなった象徴的悪漢の一人なのであった。(2)『ピーターとウェンディ』において行ったと同様に、顕われ出た影との対比を通して登場人物の存在属性と作品世界そのものの奥行きを考量し直してみることによって初めて、作品世界の存立条件を決定付けるであろう宇宙定数の次元を推し量ることが可能となることに違いない。ハガード王の影として作品宇宙そのものの存在属性決定の相補的条件となるものと見なされるべきものが、あの謎めいた怪獣レッド・ブルであることは疑いの余地を容れない事実であろう。 『最後のユニコーン』の中でストーリーを先導する表の主人公として重要な

役割を果たすユニコーンや、物語の導入部において彼女の仇役として登場したハーピーなどは、種々の伝説を通してギリシア、ローマの遠い昔から既にお馴染みの神話的存在だが、世界からユニコーンが消滅する直接の原因となり、この作品の大団円を迎える場面でユニコーンと対峙することになる仇敵レッド・ブルも、世界の終末の際にその姿を現すことになると旧約の神によって予言されている、「申命記」(Deuteronomy)に記載されたあの牡牛を思わせるものだ。牡牛とは、終末の有り様を物語る救世主の言葉としてかの一節に記されているように、月満ちた時彼方より来りてこの地を支配する、並外れた能力を備えた地上の王たる力を持つものを呼ぶ言葉ではあった。けれどもユニコーンが実際には冒頭から既存の伝説から離れた独特の記号性を担わされていたのと同様に、その究極の対立物であるらしいレッド・ブルもまたやはり、本作品における物語創出の軸を形成する、純粋に独創的な象徴性を身に帯びていなければならない筈だ。しかしこの古くもあり新機軸の要素も存分に備えてある筈の怪物は、容易にその極性をも示すことの無い、はなはだ特性の不明瞭な被造物でもある。アンチ・ファンタシーとしての本作品の存立機構が正当に理解され得ない限り、レッド・ブルの担う存在意義も極めて謎めいた曖昧性の中に封じ込められたままになってしまうことだろう。 レッド・ブルに関する情報を最初にユニコーンに与える予言者的存在となった蝶は、ユニコーンをこの世から駆逐してしまった直接の原因となるものとし

158

て、伝説的なレッド・ブルの名をあげて次のように語っていたのだった。

They [unicorns] passed down all the roads long ago, and the Red Bull ran close behind them and covered their footprints.

p. 15

ユニコーン達は遠い昔に世界のあらゆる所から姿を消し、レッド・ブルが彼等を追い立て、その足跡を踏み消してしまいました。

しかしこの蝶は、はなはだ当てにならない口からでまかせの虚言癖の持ち主でもありそうで、調子に乗っていかにも怪しそうなレッド・ブルに関する予言までおまけに呟いてしまったりもしている。

His firstling bull has majesty, and his horns are the horns of a wild ox. With them he shall push the peoples, all of them, to the end of the earth.

p. 15

彼の第一子は王権を得るであろう。そしてその角は野牛の角。これを用いて彼は全てのものを、地の果てへと駆り立てることになろう。

ここにある託宣は、一見したところあの申命記における予言の言葉を忠実に繰り返したものではあるものの、実は語られる予言の内容は微妙に換骨奪胎されている。あらゆる人々を否応なく審判の場へと追い立てる筈の牡牛の代わりに、蝶の語る牡牛は宇宙の構成軸の一つである筈のユニコーンを地上から駆り立て、世界から駆逐してしまうのだ。レッド・ブルに関する最初の情報提供者であり、またユニコーンの探究の旅への出立の判断を促す直接の要因として機能するこの蝶は、嘘と真実の境界をあてども無く飛び回る、はなはだ頼りない助力者ではある。半分だけの真実をしか語らない彼の言葉は正しく狂気そのものであり、また出鱈目性の具現化とも言うべきものである。世俗的判断基準に照らし合わせれば、彼の提供する情報に信を置く余地は全くない。しかしながらファンタシーの本質と、アンチ・ファンタシーの示唆する思想的特異性を改めて考慮し

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直した時、本作品世界においては正しく蝶の体現するその情報の不明瞭さと、彼の語る言葉の二律背反した曖昧性こそが、レッド・ブルとハガード王との間の不可思議な関係性並びに、この作品宇宙の根底にある宇宙存立機構の秘密を雄弁に物語るものであるとも考えられるのである。 無限遠の真実に焦点を固定した際に附随して生起する遠近法の歪みと、座標軸の振幅を常に意識し続けることによって思考と言表を織り成すアイロニーの思想がここでもやはり的確に機能している事実を掬い取るならば、全ての気紛れと出鱈目が首尾一貫して精妙にあらゆる細部に啓示を潜ませていることが分かる。蝶の語る言葉はその浮遊的無意味性と律動的二律背反性という確証の無さにおいてこそ紛れも無く、究極の真実を指し示すものでなくてはならない。 『最後のユニコーン』において最も曖昧で謎に満ちた存在であるレッド・ブ

ルは、ビーグルという現代の天才的神話創成者の手になる新機軸の神話的造型の見事な成果であると共に、やはり実は申命記に語られていたものとは別の意味で、最も根源的かつ原初的な存在物の発現可能態に対するこの上無く素朴な記述手法のもたらした結果でもあったのだ。永遠の対立物であると共に延長線上の外周として常に堅固な同一性を保持し続ける本体と影の示す、ありとあらゆる変化形と主客転倒の順列組み合わせの可能性の総てを、ハガード王とレッド・ブルの一見したところとりとめない錯綜した関係性が如実に指し示しているからだ。例えばハガード王の衛兵達がシュメンドリック一行に与えるレッド・ブルに関するはなはだ頼りない情報は、その矛盾撞着と意味の不確定性においてこそまさに、自我の分裂もしくは無からの生成過程の発端となる真空分極の暗示する相補的存在属性のマトリクスの展開領域の全幅を雄弁に語っているものなのである。

The fourth man, who was the youngest, leaned toward Molly Grue, his pink, wet eyes suddenly eager. He said, “The Red Bull is a demon, and its reckoning for attending Haggard will one day be Haggard himself.” Another man interrupted him, insisting that the clearest evidence showed that the Bull was King Haggard’s enchanted slave, and would be until it broke thebewitchment that held it and destroyed its former lord.

p. 147

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一番年下の4番目の男が涙にしょぼついた赤い目を突然見開いてモ

リーの方に身を傾けて言った。「レッド・ブルの正体は悪魔なんだ。そしてこいつがハガード王に助力するその代償は、最後にはハガード王自身の魂を奪うことになるのだ。」すると別の男が横から口をはさんで言った。「レッド・ブルは魔法にかけられたためにハガード王の奴隷となっているのであって、いつかはこの魔法を打ち破り、主人であるハガード王を殺してしまうことになるのは、どこから見ても間違いの無いことだ。」

そしてまた仲間達の世界からの消滅の原因という謎を解くべく出立するユニコーンに対して伝えられる、情報の当て処の無い不確かさという点においては、ユニコーンの探究の旅に同行し彼女の運命に深く関わることになる、聞き覚えの知識ばかり豊富ではなはだ魔法の腕は頼りにならない魔法使いのシュメンドリックが与えてくれた情報もまた同様に、互いに他を否定し続け、全体像を結ぶことなく拡散し続ける切片的情報の束であるという一点においては疑いようも無く正確に、ハガード王とレッド・ブルとの間の関係を物語っていた訳なのであった。

“As for the Red Bull, I know less than I have heard, for I have heard too many tales and each argues with another. The Bull is real, the Bull is a ghost, the Bull is Haggard himself when the sun goes down. The Bull was in the land before Haggard, or it came with him, or it came to him. It protects him from raids and revolutions, and saves him the expense of arming his men. It keeps him a prisoner in his own castle. It is the devil, to whom Haggard has sold his soul. It is the thing he sold his soul to possess. The Bull belongs to Haggard. Haggard belongs to the Bull.”

pp. 54-5

「レッド・ブルはと言えば、耳にしたことよりも分かっていることの

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方がより少ないのです。何故ならばあまりにも様々の逸話が伝えられ、 その各々が矛盾するものであるからです。牡牛は実在する、牡牛は幽 霊だ、牡牛の正体はハガード王自身で、日が落ちた時の彼の正体だ、 という具合です。牡牛はハガード王の来る以前からこの国にいた、と いう説もあれば、ハガード王と共にこの国に来た、という説もあるし、 ハガード王のもとに後に牡牛がやってきた、という説もある。牡牛は 略奪や反逆からハガード王を守っていて、兵隊達を武装する経費を省 いてくれている、という者もあれば、城の本当の主人は牡牛で、ハガ ード王は捕われの身に過ぎない、という者もいる。牡牛の正体は悪魔 で、ハガ- ド王はそいつに魂を売ったのだ、という意見もあるし、こ の牡牛を手に入れる代償としてハガード王は魂を売ったのだ、という 意見もある。牡牛を支配しているのがハガード王だ、とも言われれば、 牡牛の方がハガード王を支配している、とも言われている。

誰もユニコーンを視認する透徹した目を持たなくなってしまったこの世界の中で、唯一ユニコーンを選んで狩り立てることができるというレッド・ブルは、ユニコーンの体現する崇高さに対する渇望を全く抱いたことの無い、完璧な程に盲目的でありうるこの世で唯一の存在でもあった。レッド・ブルという、飽くまでも正体の不明瞭なままで有り続けるかのような謎めいた神話的存在と象徴的悪漢ハガード王との間の輻湊した曖昧至極で不可解な関係性とは、正しく本体とその影との不即不離の微妙な合体/離反状況を、揺らぎと共に同調する重ね合わせとしての存在原理そのものとして、網羅的に不確定性のまま取り込む、典型的に20世紀的な事象の記述様態を示すものに他ならないものでもまたあったのである。 上に確認したハガード王とレッド・ブルとの間の関係性をユニコーンとハーピーの関係と照らし合わせてみれば、その図式の位相の異なりがより明らかになるだろう。ユニコーンとハーピーは、截然と分別された崇高なる善(聖性)と崇高なる悪(邪性)としての二つの極の存在を体現するものであったのだ。これらは紛れも無く宇宙本来の整然とした真空分極の結果生成した聖と邪の織り成す連星であり、その関係性とは対極的原理の持続的転回によるウロボロス的循環という、無限の安定と永続性を結局は暗示しているものであった。神話創成作業においては、円環的かつ循環的かつ回帰的な時間性提示の試行は、無

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限を包摂する交替原理の設立をこそ希求するものに他ならなかったからだ。 あるいはまた、本体からの影の分離という整然とした真空分極さえも確実に起こる保障が失われ、信仰喪失の結果招かれた世界の総てのカオス化と断片化の進行により、主と客、自と他との区別さえもが不明瞭になってしまった極性不在の末世的状況がハガード王とレッド・ブルの関係に暗示されていると語り直してみても、決して圧縮情報展開作業上の膠着現象と判断される結果となりはしないだろう。『ピーターとウェンディ』においては語り手の話術の問題としてカモフラージュされていた物語世界に生起した出来事の実態確認に関する曖昧性は、『最後のユニコーン』においてはさらに積極的に、存在物の様相記述に対する極限的に自省的な手法を浮き彫りにするための、確固たる方策の一つとして強調されているのである。 19世紀においては自我の暗黒面たる影、あるいは分身という妖怪が跳梁跋扈し、自省的知識人達は一様に虚無という怪物に対峙することを余儀なくされたが、理想とあるがままの自分自身との乖離を意識するだけの峻厳とした自己認識と世界存立の意味性追求に対する自覚をさえ失った20世紀のアメリカにおいては、自身の影というかつて隆盛を誇った妖怪はあっさりと姿を消し、「無知」という新しい妖怪が世界を飲み込みつつあったのである。フック的自省とストイスティックな官能主義の後継者たる絶滅一歩手前の教養人は、20世紀後期に至って終に、かつて19世紀人の近代的自我を脅かした影の背後に、「無知」と「盲目性」という新たな神格の様相を暴きたてる結果に至ったのであった。 あるいはまた、この物語の記述システムに倣って、指摘されるべき真実の位

相のずれを意識しながら重ね合わせるべき同位体的属性記述の展開例を新たに求めるならば、上に挙げた模式図に対して以下のような変異形を提示することもまた可能であろう。すなわち、20世紀初頭の俗物主義の王国イギリスにおいて新機軸の作品世界を構築しつつあった小説家バリは、前世紀にファンタシー文学において支配的であった汎宗教確立の願望と、人間原理による自然に対する意味性賦与という切実な形而上学的指向を嘲笑するかのように、あるがままの自然と無意識の本能性の具現化した姿を“ パン” という古代神の名のもとに改めて神格化してみせたのであったが(3)、20世紀後半においてようやく文化の爛熟らしきものを体験するに至った蒙昧の愚民の帝国アメリカでは(4)、ビーグルというかつて長らくファンタシーの根付くことのなかったこの新大陸に生ま

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れた卓越したファンタシー作家が、より分極先鋭化した近代的知性の影として無知そのものを、新たなる神話的創造物としてファンタシー空間の中に顕現させてしまったのであった。

(1)

森羅万象の背後で原理的に機能している作動因の各々も、偶発的に生起した派生的な現象の

個々も、共に互いが互いの変数として存在し、これら全てを包括する全体がそれぞれの部分の変

数でもまたある、という鏡面的反転原理が全一的世界観の前提とするところであった。だからこ

そ思考と言葉が実体としてあり、人と音声が仮象に過ぎないという裏の世界の存在意義が主張さ

れ、形相と質量の重ね合わせであるこの世界がヌーメノン(noumenon)とフェノメノン

(phenomenon)の関係を相互に転倒させた描像でもって語られることをも許し、さらにはミ

ーム(模倣子)もジーン(遺伝子)も共に実体(entity)の示す共軛的な位相のそれぞれである

のだから、ミームという実体(本体)とジーンという観念(仮象)という再定義に基づく記述シ

ステムの脱構築もまた主張可能となり、このように主体と客体が常に位相交換を実現しつつある

ことを常に意識するのがロマン主義的思考と言説の常道にほかならないものであった。

(2)

ハガード王のアイロニカルな美学的傾向とは、思想的には有能と無能、苦痛と快楽が極大と極

小を接点として連結しており、本体と影の間の関係が、ル・グィンが『影との戦い』において描

いてみせたような、精妙な“ バランスとパターン” を整然と維持して宇宙の全てが連関している

という、世界の根本原理に対する信奉の念を示すものであったと解することができよう。

“ 魔法” と“ 予言” という知のシステムを用いての世界の存立機構に対する記述様式の再構築

試行という文脈に従えば、魔法の原理機構を背後で支配する影の論理として、究極の真理の示す

対偶的存在属性が常に鏡面的構造性を維持していることを法則性として仮定するこの見解は、魔

法使いナイコスが弟子シュメンドリックの無能さに対して与えた反転的評価と予言の根拠を成

す確信と、正しく軌を一つにするものなのであった。

(3)

19世紀中葉、キリスト教的崇高とギリシア的ロゴスの呪縛からの脱却を図りつつあったヨ

ーロッパ人達は、その過程で「内省」という病理を抱え込み、『ファンタステス』のアノドスの

場合のように、霊的向上という高邁な理想を宿すことのない無目的的な存在性というあるがまま

の自然が体現する現実世界の影の姿を直視することを強いられたが、実はこの典型的に思弁的な

ファンタシー作品において彼の発見した影が担わされていた、科学的真実の幻想を排した受容の

必要性が暗示する絶望と希望の両義性は、分節化され尽くした宇宙(コスモス)を解体し、一旦

未分化の初期状態(カオス)に還元することにより、世界の不条理の総てを個人の思念の中の問

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題として位相変換する殲滅工作を夢想する、一面では全一主義的な心理療法でもあり、また一面

においては極めて過激な全体主義的破壊願望でもあるファンタシーの内包する反射的内省機能

を、『ピーターとウェンディ』以前に既に見事に反映しているものなのであった。

(4)

「漫画性」という前章から導入してきた概念を“ 荒唐無稽”、あるいは明らかな論理矛盾を内

包した非実体性の意図的な顕示という概念と喚び換えてみれば、かつてアメリカにおいてポーと

いう希有のファンタシー作家/批評家が体現していたものとの類似性が即座に思い浮かぶこと

だろう。しかしながら実際のアメリカにおけるポーに対する理解と評価が、このあまりにも精緻

な知性を備えた韜晦癖に満ちた思想家に対するものとしては甚だ頼りないものでしかなかった

ことは周知の事実である。しかしながらアメリカという文化的辺境国における頑迷なる教条主義

の支配下における無知の蔓延と根深い偽善性に対する憂慮こそがむしろ、この作家の一般に対す

る理解を著しく損ねることになった過度な諧謔性を生み出した原動力であったこともまた想像

するに難くない事実であろう。ともあれ、『最後のユニコーン』の誕生は、20世紀後期に至っ

てアメリカでも漸くポーとロマンティック・アイロニーをさほどの誤解もなく受け入れるだけの

文化的成熟が進んできた、という事実を物語ってはいる。少なくともアメリカの無知性は一つの

芸術作品に新しい神話的存在の具体的なイメージを提供することにはなった。

165

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楜澤厚生、『〈無人ウーティス

〉の誕生』、(影書房、1989) 高橋和夫、『スウェーデンボルグの思想』、(講談社現代新書、1995)

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Todorov, Tzvetan. The Fantastic: A Structural Approach to a Literary Genre. Trans. Richard Howard. Ithaca: Cornell UP, 1975.

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あとがき 本書はファンタシー文学の思想的特質について、“ アンチ・ファンタシー” と

いう指標を摘要することによって考察を試みるためのプロジェクトの一部である。注釈テキストと論文テキストを相補的な関係の許に配置することにより、アイロニーの興趣を妨げることなく微妙なアイロニーの位相についてなるべく素朴に語ることを企図した結果、このようなアプローチが採られることとなった。論文パートをなす本書に対して対応する注釈テキストパートとして、Peter S. Beagleの The Last Unicornを対象に作成したAnnotated Last Unicornは、近代文芸社より既に公刊済みである。もう一方の注釈テキストパートであるJames M. BarrieのPeter and Wendyを対象にして作成した注釈書Annotated Peter and Wendyは、現在のところ未公刊であるが、Annotated Last Unicornを除く他のテキストと共に、すべて筆者のウェブサイト “Fantasy as Antifantasy”にて読むことができる。また、本プロジェクトの中心をなす作品テキスト The Last Unicornに対する別次元軸からの注解の試みとして、「日替わり講座」の形をとって公開中の筆者のブログ “Fantasy as Antifantasy Daily Lecture”がある。これらもまた、印刷物テキストに対して電算化データとして、さらに次元軸を加算して新たな相補的関係性を構築することにより、本プロジェクトの主題である魔術的宇宙論の基本構造を反映することが目論まれている。 本書の論考の基軸となる影と人格発現/崩壊のメカニズムについては、以前

筆者の所属する英文学科の学科長を勤めておいでであった、土屋繁子先生に頂いた御指導を忠実に守った結果導かれたものである。土屋先生は愚直にファンタシー文学の研究を行っていた筆者にブレイクと『4ゾア』に関する御著書を賜り、研究の指針とすべく助言を与えて下さったのである。現在に至って漸くその助言の意味する内実の一端を理解することが出来るに至り、御厚誼の深さに頭の下がる思いであるが、御指導を活用することの出来ない我が身の愚昧さには恥じ入る他ない。 本書がこのような形で作成される結果となったのは偏に、その後英文学科長

をお勤めになられた植松みどり先生のお力によるものである。植松先生は初老の時期を過ぎて以来つとに記憶力の減退を感じていた筆者が、備忘録代わりに作成してあった粗末なメモに目を留められ、これらを「論文」と偽って発表することをお命じになったのである。さらに植松先生は学内の研究成果刊行補助

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の制度を整備され、そうこうするうちに本書が刊行物の体裁をとって出来上がっていたという次第となった。 女子大という奇怪至極な環境の中で、優れた二人の女性の上司に恵まれ、親

切な御指導を頂くことが出来たことは身に余る光栄という他ない。当方の果たすべき返礼として、相応に優れた仕事を残すことが叶わなかったのは幾許かの残念を認める部分ではあるが、悔恨と慚愧を心中の重しとして余生を生きていくのも、愚者の健全な生き方の一つではあるかもしれないと納得する次第である。 本書は和洋女子大学の平成16年度研究成果刊行補助の摘要を受けて作成さ

れた。 ホームページ:“ Fantasy As Antifantasy” http://www.linkclub.or.jp/~mac-kuro/

ブログ:“ アンチファンタシーというファンタシー日替わり講座”

—『最後のユニコーン』(The Last Unicorn)読解メモ http://antifantasy2.blog01.linkclub.jp/

黒田 誠