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昭和63年3月10日 第217号
犬
養
(総務)
小
池
(施設)
委
員
長
を
承
認
新年度予算
・事業計画案も
日太丁記心省クラブ理事Aムは
一二月
七
日、理事
二人、監事
一人
の交代と、
これにともなう総務、施設運営両委
員長の交
代を承認した。
総務委
員長には犬漣康彦
理事
(共
同通儒社
専務理帯)が、
施設運営委
員長
には小池唯夫理事
(毎日新聞社富本共弗覚㍊ 員の記含こ署 呂
第217号
1988年
3月10日 発行
第134回 理事会
主筆
・東京本社編集局
長)が、それ
ぞ
れ就任した。
㎜圧事
会
はまた、昭和山ハ十=一年度予
算案
お
よび事業計画案
を審議した。
両案
は三月二十二日の臨時総会にか
け
られ
る。詳細は次[・ゴで報告する。
「ク
ラブ賞」選考始
まる
一士刀、山ハ十=】年度
「門]本詣記者クラ
ブ賞
」
の選考が聞始され、まず推薦
委員会
が二月二十六、
二十九両口、
八候補
について個
々に詳
しく検討
し
た。推
曲薦委u貝会のメンバ
ーは昨年同様
委員
長
・青木彰(個人
D)、委員・緒方
彰
(同)、五味三勇(同
)、
疋田桂
一郎
(名誉会
員)、村上孝止
(新聞協会審
東京都千代田区
内幸町
ニノニノ
一
日本ブ
レスセ
ソタービル
⑰㎜…
◎
社団法人
日本記者クラブ
電
話
五〇
三ー
二七二二(代)
査室
長)、野崎茂
(民放連研究所長)
の計山ハ八筑昌以9
このあと四月十
一日、総務委員会
が
選考委藁会となり、推薦委員会
の
報
告をもとに審査し、同月二十五
日
の理事会で授賞者を決定、五月二十
四
口の総会で表彰、と
いう段取りと
な
っている。
新企画
「アジアと日本」
二月
のクラブ行事
としては、鈴木
永
二日経連会長、渡辺美智雄自民党
政調会長を招
いての昼食会をはじ
め
フォーゲ
ル西[独連邦参噸議院議長、宮
木顕治共産党中央委議
長の記者会見
があ
ったほか、新たな
シリーズ研究
会
「アジアと日木」が発足、その第
一回として鳥羽欽
一郎早大教授から
「ノ
・テウ政権
の課題」、第二回とし
て登山家
の今井通子さ
んから
「私
の
見
た北朝鮮」
について聞
いた。
「アジアと日本」
は、企画委員会
で大ま
かな方針
を決
め、小委員会
で
具体案を練
ってきた長期企画で、ま
ず身近な朝鮮
半島
の問題から取り上
げ
ることにな
った。その趣旨
や今後
の進め方
に
ついては、本号掲載
の高
野洋委員の報圧[(14ページ)
を
お読
み
いただき
た
い。
前号でお約束
した
「経済見通
し」
の記録版配布
は、編集作業を
スピ
ー
ドアヅプし、ニガ中
にすべて完了、
多くの会員
に噌骨ばれたu編集
の過
程
で、講師の方
々にもゲラを見
ていた
だくなど、
ご協
力を願
った。厚く
お
礼中しあげ
る。
会報委員会
で
は、五十九年四月以
来、毎号連載
し
てきた
「スタジ
オ訪
問」がほぼ
一巡
したのを機会
に、会
報
の内容構成
や
レイアウトを見直
し
てみては、
と
の話が持ち上が
って
い
る。会員各
位
のご意見、
アイデ
アを
伺
いたい。
これに関連
して、会報の日玉
であ
る
「とっておき
の話」の筆者が途絶
えそうになり、編集子があわ
てる
こ
とがある。会員
すべてに
一度
は登場
していただく方
針なので、まだ
の方
は奮ってご寄稿
をお願いす
るQ
(事務局長
下田
進
一)
(1)
昭和63年3月10日 第217号
ζ、?てお:きσ~話
キ
ャラウ
ェイ
発
言
と
「柳眉が逆立
つ」話
昭
和
.一十
七年
二
九
六
二).….月
一
日付
の謝艦レ冗新聞
朝
刊
は、那…剃轟免北ハ
同電
として
「自
治
権
は現状
で十
分
沖
縄米高
等,弁
務官
が
「..口明」
と
い
う記
事
を.一.段
抜
き
で扱
って
いる。
同じ
共同電
を、
口経
はじめ地方
各
紙も
一.皿な
いし四
段
抜
き
で扱
った。
「方
、朝
目新
…開は・〔社
電
で
「統
ワ掴
責任
す
べ
て米
に
米
高等弁
務官
沖
縄
政簾
で強
硬
発
、.U.一と同
様趣
旨
の記事
を一.…段
扱
い
で掲載
し
た.、
現
在
の
よう
な
[米
の
力
関
係
な
ら、
おそ
らくゾてれ
ほど大
騒ぎ
にな
る
ような記事
でも
な
か
ったろ
う.u
し
かし、
一九
六
二年
と
いえば
、安
保
騒動
で辞
任
し
た岸
内
閣
の後
を受
け
て誕生
した池
田内
閣
が
よう
やく
二年
〔
に入り、
日本
の経済が
高度
松
本
克
美
成
長期
にさ
し
か
かろう
と
い
う
こ
ろ、米国
で
は
ケ
ネデ
f大統
領
が
キ
ュ:バ危機
に直
面
して
いた年
だ
っ
た
u世界
を
揺
る
が
した
ケネデ
ィ暗
殺車件が
起
き
た
のはそ
の翌年
であ
るu親
昌家
と
し
て知
られ
る
ラ
イ
シ
セワー米駐
日
大
使が赴任
し
て
ほぼ
一年目。も
ち
ろ
ん、そ
のころ
の沖
縄
はまだ米
軍
施
政ド
にあ
り、
一ド
ル陛[.一7]⊥ハ十
円
の
レー
トで通
化只は
ド
ル、本
上
と
の往復
にはパ
スポ
:
1,が
必要
な
酔町代
だ
った。
キ
一、ラ
ウ
ェで
高等弁
務官
の
う問
題発
一.ロウが
あ一った
のは、
二月
二十
八
日の現地
で
の
記者会見
の席
上
だ
った。
当時
、
沖
縄
に特派員
を
出
し
て
いた
のは朝
、
毎、読、共
同
、
時
事
、N
HK
の六
社りま
だ、
沖
縄
は
海
外扱
いだ
った
の
で
税
関
でも本
上
か
ら来
た
人問
は
フ
ナ.リ
ナ
ー
(外
国人
)、沖
縄
の人
々
はリ
ュー
キ
ュー
ア
ン
(琉
球人)
と
る差
別
"
され
て
い
たc
沖縄
には米
国
の民
政
府があ
り、
長
宮
は
米軍呵令
官
のキ
ャラウ
ニイ陸軍中
将が兼務〃、
現地の琉球
政
府
は
μ有
政、司法
、立法
の各部門
に分
かれ
て.一.権分
立
の建前をと
っており、
主席には大
田政作氏が就任
し
てい
た。しかし、名は政府と
はいうも
のの誌坑球
政府
の権限は弱く、画夫権
は衆軍が握
っていた。疏球政府
は
なrごとを決定するにも、米民政
府
に
ウお伺
い?をたてねばならな
いと
いう
のが実情だ
った。
日本政
府も南方連
絡嘱務所という外交機
瑚を那.覇
に置
いてはいたが、
いわ
ば総領事館
に過ぎず、対米折衝
の
ほとんど
は、日本政府が東京
や
ワ
シント
ンで
「代行」していた。
こ
のため被占
領下の沖縄
では自
治権
の拡大、本
土復帰が大きな課題と
な
って
いたQ
ザての折
のキ
レラウ
ニイ発
言
だけ
に、
[日頭
の記事が
口本
の国
会
や現
地
に与
え
た
シ
コックは大き
か
った
と
い
っ
ても
いい。記
者
会
見
には沖
縄現
地
の沖
縄
タイ
ム
ス、
琉
球
新報
の記
者
も
おり
、両社
とも.この発
.肖
を掲
載
し
て
いた。
記
事
の反応
はまず
束京
本
社
から
あ
った
Ω「国会
で野党が
、キ
ャ
ラウ
ェイ発
(.雨を取
り上げ
闇題
にす
ると
い
って
いる
。
ライ
シ素、ワ
ー大
使
か
らも
問
い合
わせがあ
った。
発}口の
詳
細
が
あ
れば
送
って欲
し
い」
と
い
う
の
であ
る。
とは
いう
も
の
の当方
には速
記録
が
あるわけ
でな
し、
テ
ープ
レ
コーダ
ーも現在
ほど
普
及
し
て
いな
い時
代だ、内容
よ記
質
こた
っぷ
り
盛
り
込
んだ
つも
り
だ
か
ら、
「いず
れ
米
民政府
の正式
発
噛..口録
が
来
る
はず
だ
か
らそ
れを送
る」
と返
竜
し
てお
いた。
ワシ
ント
ン支
局か
ら
も東
京
本
社
を通
じ
て、
「米
政府
の日
本
担
当
者
は、
なぜ
軍
が
あ
んな
強
.硬
発
言
を
した
のかと
首
を
かしげ
て
い
る
」
と
の連絡
があ
った
。
記
事
が
新
聞
に載
った翌
[、
朝
H
(2)
昭和63年3月10日 第217号
と共同
の支
局
に対
して、
乗軍・の広
報
担当
の陸
軍
人佐
から
「民
政
府
ま
で出頭
さ
れ
た
い」
と電
話
で呼
び
川
しが
か
か
った)
ネ
ルソ
ンと
いう男
で、
ふだ
ん
は愛想
が
い
いが
、
この
日ば
かり
は
口ぶりも
詰問
調
だ.、結
局、
「な
ぜ
あ
んな記
事
を書
いた
。
高等弁
務
官
はそん
な
こと...肖って
い
な
い」
「いや、..口った」
-二いう
や
り
と
りが
約
.時間
続
いて、
会談
はも
の別
れ
とな
った
り.一日後
、
米民
政
府
は
キ
ャラ
ウ
ェイ発...目の公式
記
録
を発表
し
たじ
そ
こには
「沖
縄
の自
治権
は現状
で十
分
」
「私
の権限
は
絶対
だ
」
と
いう
肝
心な
部分
は省
か
れ
て
いた。
いま考
えれば
、
私
の記事
にも
多.
少
、
一[粟
じ
りを捕
え
た
と
いう気
負
いが
込め
られ
て
いた
か
も
し
れ
な
いc
残
念な
が
らア
.兀にはそ
の折
の
メ
モ帳
も、
米
軍
の発表
文
も残
って
は
いな
いc
し
かし、
この記事
のせ
いかど
う
か
は分
か
らな
いが、
そ
の
後
の.記者会
見
など
で、
キ
恥、ラ
ウ
ェ
イ中将
の
「過
激な
発.、口」
が少
しず
つ後
退
し
てき
た
のは事
実
であ
る
Q
沖縄
県
民
か
ら
は歴
代
74令
官
のな
か
でも
最大
の
タ
カ派
、
と
いわ
れ
た
キ
ャ
ラウ
ェイ氏
は現
役
を
退
任
し
た
後
、故郷
の米
国
で弁
護
士を
開業
、
老
後
を送
った
と
い
うが詳
し
い消
息
は知
らな
い。
◇
こ
こで話
題
はが
らりと変.わる
。
と
って
おき
の話
、
がも
う
ひ
と
つ出
てく
る
のは
ヤボ
と
無
能
の
証
拠
だ
が
、
ど
う
し
ても
書
いておぎ
た
い思
い出が
あ
る
、
「女
優
恐
るぺ
し
」-・}
いう話
であ
る。
昭和
五
十年
か
ら五十一..年
に
かけ
て、私
は本社
の文
化部
長を
経験
し
た。そ
の前
の科
学
部長時
代
にも
社
内
で
いわれ
た
こ
と
だ
が
、
お
よそ
「非科
学
的
」
「非
文化的
」
な
部
長
だ
った
に違
いな
い。叛
にし
ろ元
は
ぎ
った、
は
った
の社会
韻育
ち
であ
る。現
場
に
飛び
出す
の
は早
いが
、
へ
し
ヘ
へ
深
い教
養
と
知
識
でじ
っく
り取
り紐
む科学
記
事
、
文
化記聾
向き
の人
聞
でな
いこと
は、本
人も自
ら認
め
る
と
ころ
だQ
そ
れが
こう
い
った
ボ
ス
トに就
く
のだ
か
ら、
めぐ
り合
わ
せ
と
いう
のは面
白
い。
た
し
か文
化部
長
にな
った
年
か翌
年
の十
一月
ころ
だ
ったと
思
う
Q文
化部
の新
年
原稿
企画
に
「男
女
中年
対談
」
と
いう
のが
あ
り、
私
が
司会
役
を務
め
る
こと
にな
ったc
場
所
は
銀
座
の某
料
亭
で
、出席
者
は男
が藤
本義
一、
女が
岡
田茉莉
了
と
いう顔
合
わ
せ
だ
った.
天下
の大
美
女
に会
え
る、と
、いそ
いそ
と私が
会
場
に駆
け
つけ
た
こと
は
いうま
でも
な
い。
先
に着
いた
のは藤本
氏
で、
岡
田さ
ん
は五
、
六分
遅
れ
て姿
を
現
し
た。
型
通
り
のあ
いさ
つと
と
りと
めも
な
い雑談
を交
わ
した後
、
いよ
いよ
本
題
に人
る。
そ
こで
の司会
の発言
が
まず
か
った。
私
は冗
談
ま
じ
り
で
い
った
つも
りだ
が
、
「き
ょう
は美
男
、美
女
に来
て頂
いて、中
年
の魅力
にっ
い
てお話
願
いた
い」
と
い
った
と
たん
、
岡
田さ
ん
の顔
色
が
変
わ
っ
たc
「中
年
と
は
なん
です
か。私
ば
ま
だ中
年
の
つも
りで
は
あ
り
ま
せ
んく
対談
の趣旨
が
そ
ん
な
こ
と
な
ら、私
は帰
ら
せて頂
き
ます
」と
、突
然
立
ち
上
が
った
のだ。
も
ち
ろ
んあ
わ
てた
の
は
こち
らだが
、藤
本氏
も
び
っく
り
した
ら
し
い。
仕
方
な
いの
で男
二人
も立
ち
上が
り、
「まあ
ま
あ
、
そう
いわず
に」
と
岡
田さ
んを
ひき
止
め、結
局
は私
が
「中年
」発
噂、口を
訂正
して、
よう
やく対談
が始
ま
った。
美
人が
怒
る
こと
を
「柳
眉を逆
立
て
る」と
いうが
、
こ
のとき
の岡
田
さ
ん
の眉
毛
は
ほん
と
う
に
つり上
が
って
いた。以
来
、気
のおけな
い女
性
以
外
に、
「中
年」
と
いう呼び
か
け
は私
のタブ
:と
な
った。当時
の
年
齢
で
いえば
、
た
し
か岡
田さ
ん
は
四卜
一、
.一歳
の
ころ
だ。藤
木氏
も
同
年
の
はず
。現
在
のよ
うな長
寿社
ム耳か
らみれば
、
ま
だ
ま
だ若
い盛り
だ
ろうが
、
女性
に
ト
シの話
はオ
ッ
カ
ナ
イ。
いま
の
オ
カ
マリさ
んに、
「実年
」
など
と
い
った
ら、
また柳
眉
が逆
立
つだ
ろう
か。
一度
試
し
て
み
た
い気
もす
る。
ま
.りも
と
が
り点
ヘハ賃
.凡
.
.几年
生
ま
れ
神
16小
川
県唱
騎
≠
認ロ院
た院炉肇
亙
...年
共
同
虚鳥
人杜
沖
龍
特
.派員
大
阪
d.会
部
長
叡
孔
文
化
部
k
編
集
瞬
次
.員
フ
ニ.局
員
二
.1
匠ブ
ィァ
{
ンタ
ー
k
繁り4,」懸
κ.
現
κ
艮
奉
望
字
放
迷
へ出
同
中
馳・福
田
大
学
埋
L
学
部
滑
師
(3)
昭和63年3月10日 第217号
,.ワー キ ン グ プ レ スハ マ コー 委 員 長 辞 任
国会
を
一週間近
くも揺るがした
「浜
田問題」は、浜
田幸
一代議士
の衆院予算委員長辞任
でようやく
決蒋
したo振
り
返
れ
ば、浜田氏
が、強引な委員会
の議
事運営や質
問妨害と
いった、議
会制民主主義
の
ルール違反の責
任をと
っただけ
だ。に
もかかわらず
、最近では今回
の取材ほど深い疲労感
を覚えた事
件
はなか
ったよう
に思
う。政治記
者
にと
って政局、国会、政策
など
の取材
で
「夜討
ち、朝駆
け」
は口常茶飯事。肉体酌、精
神的疲労とは裏腹
に、
国政や
外交
のヤマ場を踏
ん
で特ダネ
を狙うのは生きが
いである。
をほめちぎ
った。社会党
の山ロ書
記
長です
ら
「辞任
は当然」としな
がらも
「態度
としては男
らしか
っ
たと出心う」と気配
り
を
み
せ
たo
「男らしい」
というのは
「国家
の
ため」♪一自ら
バラを切
った占韻だけ
でなく、
「浜
田氏が沈黙を守
った
ため」
(自民党幹部)という見方
が
一般的。
政界
の裏面
に通じた浜
田氏を、
後
見役
の金丸前副総理らが対野党
腐
心し、最後
に自
ら提案者とな
っ
て自民党が衆院本会議で委員長解
任決議案を提
出、
可決す
る
バラを
固めた。安倍氏も
「幹事長就任
以
来、最も骨が折れる仕事」と周辺
に漏らしたよう
に、取り扱いを誤
れば
ポスト竹下
の第
一人者として
の指導力を問
われるところ。そ
こ
で都内
のホテ
ルに陣取
って浜
田氏
と極秘会談
を重
ねたが、報道陣が
安倍氏の私邸
で待ち受けているの
"政
治〃取材
は奥行
きが
深
いが
しかし、今回
は収拾しても苦
い
思
いが残
った。取
材現場である政
界
の体質が改めて問
わ
れ
た
か
ら
だ。
「政策不在、
国民不在
のドタ
バ
タ劇」を追うため、休刊日まで
返
上して党執行部
や浜
田氏
の動き
を取材するのは、
正直
言
ってウソ
ザ
リした。
「まことに男らし
い態度。立派
な出処進退だ
った」
(安倍幹事長)
1
自民党執行部
は浜田氏の決断
秋
山
光
人
折衝など
で
「重宝な人材」として
活用してきた。浜田氏は説得に努
めた安倍幹事長ら党幹部に
「辞
め
ても
いいが、野党幹
部も道速れに
す
る」と野党対策をめぐる
スキャ
ソダ
ル暴露を
ちら
つか
せ
た
と
い
う。さらに竹下政権
を揺るがしか
ねない話を表ざた
にする、と開き
直
ったという情報も流れたほど。
安倍氏は浜
田氏
の口を封じたま
ま自発的辞任
に踏
み切らせるよう
を察知、そ
の夜
は帰宅
し
なか
った。
「解任も辞さず」との
安倍氏の決意が伝わり、
浜田氏も
ついに折れた。
安倍氏
は幹事長の面目を
保
ち、カブを上げた。竹下首相も
胸をなでおろし
たはずだ。浜田氏
は沈黙を守
って辞めたことで、政
府自民党首
脳
に貸しを作
ったとも
曇.口える。
だが、同時
に対野党
工作
の裏舞
台
など真相も
ヤミに隠れ、開き
か
か
ったフタも閉じられた。与野党
関係者が貝にな
れば、
不明朗な国
会
運営の実態を暴く
のは難しい。
ロッキード事件
とは
スケールこそ
違うが、報道す
る側
は粘り強
く取
材活動を継続す
べきだろう。
義理人情
に訴
え、浜田氏を
「国
士」に祭
り上げ
ての決着
は、
いか
にも自民党的な政治手法。そ
の
一
方
で、浜田氏
の委員長就任を強く
推
した金丸氏と、
これを認
めざ
る
を得なかった首相
は無原則な人事
の報いを受けた格好だ。超安定多
数
にあぐ
らを
かく自民党
のタガの
ゆ
るみを浮き彫
り
にもしたQ
政治取材
は奥行きが深
い。そ
れ
だけ
に記者
の原点を踏まえ、心を
引き締
めて報道
に当たる。今回
の
事件を機
にこ
の原則を改めて確認
したのは私だけではあるま
い。
あきやま
てると氏
一九ヒ三年日本経済新聞入
社ヒ五年から政泊部
八八年三月に国際一部へ
「お 世話鵡 廷 りま した、 困会を出 る浜 田氏
く2.12)写 真 日本経 済新聞
(4)
昭和63年3月10日 第217号
ワ ー キ ング プ レス政府税 調 地方公聴会
新
型問接
税絡
み
の税
制改革問
題
で、既41手
は全国
の耳
口を集
める
ニ
ュー
ス震源
地
の宿
命
を
背負
ってし
ま
ったようだ
し
一.月十一二臼、山石f
県
宜口守村
で
の
地
方
公聴会
に出
席
し
た
政府税制調
査
会
の小倉武
一会
.長
は、記者会見
で
[EC隅什
加
価
値
税
が理想」「生
活
必辞脇
よ低税
率
か
非
課税も検討
す
る」と発
.、口G
「例
外
を設けな
い」
と
し
て
いる政
府
、
自
民党
と食
い違
いを
みせ、各
紙
が
翌
日朝
刊
で
.斉
撮道
した。
ち
ょうど
.年
前
、
参
院岩r
選
撃
区補
選
で
は、
反
売
ヒ税
一
木
や
り
で戦
った社
会
党
の小川
仁
一氏が
圧勝、
全
国
に反売
上
と
の考
えがあ
っ
た
のか
も
し
れ
な
いし
地方紙記
者
に
と
っては、国
民
一般
の関心事
で
あ
る
にも
かかわ
ら
ず
中
央
レベ
ルで
論
議
が進
む、新
型
問
接税問題
を
じ
か
に取村
でき
る
チ
諏.ンスであ
る。
小
さな山村
が
公
聴会
を開く
と
い
う
のは、実
際
大
変
な
ことだ
った⊆
まず
意見発
表
者
探
し
。売上税
の聴.
の
よう
にイ
エ
スか
ノ
ーを答え
る
だ
け
な
ら
いいが
、
今
回
は1ーバ体案
が
示
二
度
目
の
"岩
手
シ
ョック
"
税
旋風
を巻
き起
こし
た。
公聴会
に
は、
この小川氏
が
百
人
の傍聴者
の
一入
として出席
∪税
制
改革論議
の
場
で
ク反売-に税
男
ク
が
ニラ
ミをき
かすー
と、
これだけ
でも話題性
は十
分だ
った。
宮
守村
は北
上
山
地
に抱
かれた人
口六LI二訂
の過
疎
地
ロ純
提村
地世胃
とし
て開催地
に決
ま
ったが
、税
調
側
には岩
手
の間
接
税
ア
レルギ
ー反
h応
のワての後
の経
過
を
診
.断
した
い、
の財源をU的
に、私らからも税金
を取る新型間接税
には反対だLc厳
しい農業環境
を背景
に、農民の側
から税の不公平是
正を求める声が
満ちた。
小倉会長から
「食料品
に
〔新
型
間接税をぜ課税す
ることはどうで
す
か」と水を向け
られたのにも、
「生き
るため
]にしなければな
ら
な
い物まで二
律課税というのは反
対」とキヅパリ.、閉ムム後の一記者くム
藤
原
敬
されていな
い。
「税金問題
で弁
の
立
つ人なんて
いな
い
スよ」と、役
場
の苦悩が伝わ
ってきた∪結局、
村議、婦人
グ
ループ代
表
ら
を
選
び、県農協中央会
の税務職員を呼
んでの農業課税勉強
会も行
って、
音心見発表
に備え
た。
公聴会
の意見発表
者五人のうち
三人が農業従事
者。
「農畜産物
の
価格が低迷し、
税を納めるほど
の
所得がない」
「サラリー
マソ減税
見
で小倉会長に
[,非課
税
検討L発言させた
のは、
山あ一いの村
に生き
る農
民
の悲
痛な訴えが、導火線
にな
った
のではないかと
思う。
「EC型付
加
価
値税
が
理
念
型
で、ほか
の
は喰
落
し
たも
のだ」「も
う決
ま
って
い
る
。
今
は時間稼
ぎ
」
「 本
に絞
って
出す
と反発
を招
く
ので一.、一一.案
を
併
記
した
い」cこ
の
小倉
会長
の言
葉
は、追
っかけ
.取材
して
いな
い地
元
記
者
にと
って
あ一ま
り
にも衝撃
的
だ
った。
しかし
これ
ら
の発、一.口は
決
し
て歯切
れよ
いも
の
でなく、
「こ
こ
だ
け
の話だが
…
」
と
のつぶや
き
も
も
れ
、苫
し
い胸
中
が
ありあ
り。
これ
ら
一連
の発
...一口で、
小倉
会
長
は政府税
調
の間
接
税特別
蒲会
か
ら
「口を慎
ん
で下
さ
い」
と申
し入
れ
さ
れ、衆
院
予
算
委
で参6
人
とし
て
真意
を
ただ
さ
れ
る
ハメにな
った。
公聴会
で
の
.皆
r
シ
了
ックウ
の
余韻も消
え
たが
、当紙
面
に
「政
府
税
調」
コ小
倉
会
長-
の見出
しが
褒
ら
な
い日
は少
な
い.v今
のと
ころ税
調
が税
制
改革
のL役
を演
じ
て
いる
印
象だ.、これ
は政府
の.コリ押
し
だ
け
が目艶
った売
上税
の時
と大
き
な
違
いであ
る。
政
府
は前面
に出ず
、
税
調委員
に自
由
に話
をさ
せ
、税
制
改
革
の必.要
性
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ムードづ
く
り
を
し
て
いる
よ
うだ
ら
案外
、小倉
会
.長
の
勇
み足発
. .肖も
計
画的
なも
のだ
った
のかも
し
れ
な
い.u
ふ「・わら
.か
氏
.71一八
年岩r日蝦八着
郵理蔀を睦・.・へ四年弘ら政音部
公聴 負の4;r)ノ ∫}.珊・∴ 枇 判{.2.131・1'・.「 村.
写rll}臼1慨
(5>
昭和63年3月10日 第217号
.』つ 一 キ ン グ プ レ ス二丘一ハ ンプシ ギ←予備選
テ
レビ
は票
を生
み、
票
は
カネ
を
生
み、
カネ
は
テレビ広
化口を
生
むo
米大
統
領選
は
テレビが
つく
り
出す
一大
ド
ラ
マであ
り、
テ
レビ
にと
っ
て
は最
大商
品
であ
る。
「な
る
ほど、
これが
第
四権力
か」
と
大
統
領選
を
追
って
、私
はそ
の威
力
を
ま
ざ
まざ
と知
った。
米
国
には約千
二百
のテ
レビ局
が
あ
り、
う
ち半分が
、
N
B
C
、
C
B
S、
A
B
C
璽
.一大
ネ
ヅト
ワー
ク下
にあ
る。
こ
のほかC
NN
に代
表
さ
れ
る
ケーブ
ルテ
レビ
が
あ
り、
ラジ
ナ局
にいた
って
は八
千
六百
を
数え
る
であ
ろう。
一.一大
テ
レビ
の選
挙
報
道
は
「すご
い」
の
一語
に
尽き
る。
同市
の人
ロは九万だ
から、
テレ
ビは同市
の人
口を
一時的
に
一%以
上も増
やしたことにな
る。
一人当
たり三千
ド
ルとしても
テ
レビだけ
で三百万ド
ルは落ちる。
このほか
新聞記者、週刊誌記者、外
圏特派
員など二千人が詰めかけ
る
から、
四年
に
一度
の大統領選
は
ニュー
ハ
ンプ
シャー州
の
一千万
ド
ル産業で
ある。
共和党候補
のドール上院
院内総
行脚
は続くというg
そ
んな
にカネを
つぎ
込
んでペイ
す
るのか、などと心配
は無用。日
本と違
って米国は候補
者が
カネの
続…く限
り
テレビに
スポ
ット広告を
出す
ことが
できる。
このテ
レビ広
告
の効
果が
てきめんで、
ゲ
ッパー
ト下院議員
がアイオワ州
の民主党
党員集
会
でトップを占
める
ことが
でき
た
のは、
「一万ド
ルの米
国車
は韓
国
で四万八千ド
ルもす
る。米
テ
レビ
は巨大
な集
票
マシン
例
えば
初
の予
備選
の行
わ
れ
た
二晶
:
ハンプ
シ
ャー州。
三
大
テ
レ
ビ
は、
同州
最大
の都
市
マン
チ
ェ
スタ
ー
に、
そ
れぞ
れが
ほぼ
ホ
テ
ルを借
り切
って前線
本部
を
築
い
た。
送
り
込
んだ
ニュー
スキ
ャ
ス
タ
ー、記
者
、
カ
メラ
マソ、技
術
員
はC
B
S
が
約
三
百人
、
N
BC、
A
BC
は
二
百人
前後
で、
CN
Nや大
統
領候
補
者
の地
元
テ
レビ局など
を
加
え
れ
ば
、
一千
人
はゆ
う
に超
え
る
。
鈴
木
健
二
務を取材
しようと、ベ
ッド
フォー
ド市
の長老派教会で待
ち
伏
せ
し
た。小高
い教会
の入口で、
はるか
彼方を見
ると長蛇の車
の列。近づ
いてくれば
、なんのこと
はな
いド
ール氏とそ
の運動員、
これ
を追う
報道陣
の車
だ
った。「いつか
らドー
ル氏と行動
を共にして
いる
の」と
NBC
のカメラマソにき
いたら、
「もう三週間になる」との答
えだ
っ
た。ドー
ル氏が破れるま
で彼
らの
コンピ
ューターが
日本で
二倍もする。関税障壁の
せいだ」との
スポ
ヅト広
告
で人気を博し
たためと
言われている。
一つの大
統
領選で、雨屯波
に消える
広
告費
は十
億
ド
ルを下
ら
な
い。
テ
レビが
大統
領選
を報
道
す
る
の
で
はな
く
、
テ
レビ報
道
そ
のも
のが
大
統領
選
の
過
程
と
な
って
し
ま
っ
た
。
ブ
ッシ
ュ副
大統
領
は
ニ
ュ:
ハ
ンプ
シ
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利
宣
言
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分
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対
本
部
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く、
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B
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前線
本
部
の
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ルに来
て行
った。
ニュー
スキ
ャ
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・プ
ロ
コウが
イ
ンタビ
ューす
るた
めだ
った。
こ
の
よう
な選
挙報
道
が
本
来
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り
方
と
し
て正し
いの
か
ど
う
か、判
断
は米
国
民
にゆだ
ね
る
ほ
か
は
な
い。た
だ
一つ言
える
こと
は
、
テ
レビ
の報
道
が
勝敗
のみ
に
関
心
が
偏
っ
て
、
ほと
んど政策
が
置
き
ざ
り
にさ
れ
て
い
る
ことだ。
テ
レピ
ニュー
ス
の時
問
が
限
られて
い
る
こと
からく
る必
然
の理
からかも
し
れ
な
いが、
みて
く
れが優先
さ
れ
て
い
る
こ
と
に、
な
ん
とはな
い不安
感
が
つきま
と
う
の
は、活字
メデ
ィ
ア
のや
っか
みだ
ろ
う
か。
(二月十
八日記)
すずき
けんじ氏
「九六七年毎口新聞入赴
政
治齢を経て八四年外前離
八五年からワシノトγ
特派員
LII:論 凋 陛.、『カ、,ブカ・,)し なはb・ 」rノ⊂い と い う教 、訓 ウ・'■≠
ん だ 日 」 且位 蓮 爆 の ブ,・ ン ユ 候 補12461写 真WWP
(6)
昭和63年3月{0圓 第217号
ワ ー キ ン グ プ レズ大韓機事件 薗際論論韓
・日
マスコミの
「由具由羊ハフィ
ーバ
ー」が続く大韓航空機事件
ほ
発生
から三か月余りがた
ち、韓国
による捜査結果発表と朝鮮
民主土
義人民共和国(北朝鮮)の反論も再
三行
われ、事件
に対する殴界各国
の見方もほぼ定着
したよう
にみら
れる。容疑者、金賢姫
の詳細な供
述以外
に具体的な物証が
とぼ
しい
だけ
に、西ドイツやイタリ
アのよ
う
に、事件
の調査が不十
分
である
とし
て慎
重
な態
度
を表
明
した
(国
連
安保
理)と
ころも
多
い
が
、主要
各
国
の論調
を見
る
と
、
南
北
朝鮮
と
の緊密
さ
の度
合
い
が如
実
に表
れ
て
いる.)
特
に中
国、
ソ連
は、
とも
に
表など、事実関係は比較的細かく
フォ
ローしながら、どちら
か
一方
への肩
入れは注意深く
避
け
て
き
た、韓
国当局
の捜査結果発表と金
賢娩
のテレビ記者会
見が行
われた
翌日の
一月十六日、北京放送
は北
朝鮮が発表した「事件
とは無関係」
との声
明や中国駐在
の北朝鮮臨時
大使
の否定会見を報
じる
=カで、
中国外交部
の
「いかな
る国際
.アp
にも反対」
「論評す
る
つもりはな
示唆
的
な中
、ソ
の対
応
北朝鮮
の南北統
一政策
やπ輪
の南
北共催案
を支持し
つつ、九
月のソ
ウ
ル五輪参加を決めた点
では
一致
しなが
ら、大韓機事件
に
ついては
際立
った違
いを昆せており、極
め
て示唆的だc
中国
のこの事件
に対す
る報道姿
勢
は、積極的
でありなが
ら慎重そ
のも
のであるc事件
の翌
口には北
京放送が事件発生を報じ
たのをは
じ
め、その後
の南北双方
の声明発
18
北京放送)。
これ
に対し、ソ連
は昨
年十二月
十四
目の時点で既
に
「韓国はすべ
てを北朝鮮
の罪にしようとしてい
るQ北
への挑発はA唱大中氏ら致事
件
や金浦空港爆破
でも
行われたが
事実無根だ
った」(モスクワ放送
)
と北
への肩入れを明ら
かにし、金
賢姫会見後の
一月二十
日、タス通
信
の政治評論[貝が
「南…の挑発的宣
伝
キ
ャンベーンであ.り、北
の.乎和
福
島
尚
文
いL
との中
立的立場を
ぱ
っきりと
伝えた。
ま
た国連安保理
について
は、各
国
の演説内容を伝え、中
国が
「事
件
により朝鮮半島
の
(緊張)情勢
を
エスカレートさせな
い
よ
う
望
む」
との中立的立場ととも
に、南
北対話や統
一問題に
ついて、北の
「建設的提案に積極的
に呼応する
よう希望する」と北朝鮮支持
の立
場を演説
で表明したと報じた(2・
イ
ニシ
アチ
ブ
から注意
を
そらす
ため
、
北
にデ
ッチ
L、げ
の非
難
を
つキcつゆリ五
愉共催
を
阻
止
し
よ
うとし
ている」と述
べ
、完
全
に北
朝鮮
の
主張
に同
調
したc
そ
の後も北支持
の姿勢
は
一貫して
おり、韓
・日・米の主.張
は伝えず、
北
の主張
のみを報道
して
いる。
この対照的な中
ソの違
いは、最
近
の朝
ソの軍事
・政治的緊密さと
韓中急接近、特
に中国
の
経
済
禰矩
設
、
アジ
ア大会開催
など
での韓国
への期待感
の現れとみられ、興味
深
い。
一方
、西側諸国
の論調
は
「また
しても
テ
ロを行
った北朝鮮は国際
的
に
一層
孤立
化
し
た
L
と
のト
ー
ソ
で共
通し
ている
。
事
件発生
や金
賢
姫
会
見など
にか
な
り
の紙面
を割
き
、
継
続的
にこ
の
事
伴口を報じ
てレざた凱不ワシ
ント
ン
。
ポ
スト紙
は
「北
朝
鮮
が当面
い
い子
で
いるだ
ろう
と
の見
通
し
は厳
し
い
現
実
に引き
.民さ
れ
、
米朝
関係
は再
び凍結状
態
とな
った」
(1
・25.】と
指摘
した。
英
タイ
ムズ紙
は
「企て
は失
敗
し
たが
、北
の孤
立
は、
再び試
みる
か
も
しれ
な
いと
の不安
を抱
かせて
い
る」
T
・19
.)、
仏
ル
エ、ンド
紙
も
「北
の
予
測
不
能
な
行
動
は
中
ソ
を
不
安
に
し
て
い
る
」
(1
・21
}、
西
ド
で
ツ
の
フ
ラ
ン
ク
フ
ル
タ
ー
・ア
ル
ゲ
マ
イ
ネ
紙
は
「中
ソ
は
北
朝
鮮
と
f
を
切
る
か
、
分
別
あ
る
態
度
で
接
す
べ
き
だ
」
(2
・2
)と
し
、
北
朝
鮮
へ
の
警
戒
感
が
基
調
に
な
っ
て
い
る
G
ふ
」ゴ
5、
なおふへ.k
一九L...年共同岨信入社
・巳都与.局
担'匹部などか経'
ヘペ年から外稲離
(7)
昭和63年3月10日 第217号
「沖縄の声」の
伝
達
者
と
し
て
真
境
名
弘
最
近
、
沖
縄
の
マ
ペ
コ
ミ
を
に
ぎ
わ
せ
た第
三次
家
航
教
秤
呂
訴
訟
の
沖
縄
出
.張
,心悶
と
パ
イ
ナ
ソ
ブ
ル自
山
化
問
鴨唱は
、
現
侮①的
には
胤ハ
質
に
み
え
る
が
、実
質
的
に
は
同
質
同根
と
い
って
い
いだ
る
う
レそ
れ
は
、
常
に
国簾
が優
先
し
て
、
沖
縄
が犠
牲
にな
っ
て
い
る
と
いう
こ
と
で
あ
ー1、
こ
の
よ
う
な
購
図
ぱ
明
治
の
「琉
球
処
分
一以
来
、
ほ
と
ん
ど
変
わ
っヂ、い
な
い
よ
う
に思
わ
れ
る
.
出張,尋問では、沖縄
戦
における住民
の
「集
団自決-が大ぎな
争点にな
った。集
団自決は、国側が主張するような犠牲者
の
「数-の問題ではなく、
「なぜ起き
た
か」と
いうことを問題
にしなければなら
な
い.冒日本軍
に追
い
つめられ
た
結
褒
の
o自決
クであり、そ
の背景には
-曳民化
教育
一があ
った9
皇民化教育では、.口語をはじめ沖縄
固
'七'』 ・亭・.ノ.=1[駈i「1ヒ 「;1乱;1レ『)メU受.kf=・L9
有
の伝統…文化
が抑圧され、
口本
化と軍国
E義教育が徹・底して行
われた.岬ての結墨が集団自決
や
ひめゆり学徒などの悲劇を生.ん
だ》
-口の丸
・君
が代
」の強制
に多くの県民
が反発する
のも、
そ
こに皇
民化
教育のにお
いをか
》,」とるからである。
沖縄戦
では、沖縄が本土防爾
の
「捨て石」
にされたが、戦後
は目本の独
立
と引き換えに、三
十年近くも米
国の統治下に置か
れ
た
。
復
帰
後
も
全
国
の米
軍
専
用
施
設
の
七
五
%
が
集
中
し
、
基
地
機
能
の強
化
は
進
む
一
方
で、
いま
な
お
基
地
の重.圧
下
で
生
活
し
て
い
る
、
日
米
安
保
体
制
が
沖
縄
の犠
牲
のト
に
維
持
さ
れ
て
い
る
こ
と
は
、
案
外
知
ら
れ
て
い
な
い
の
で
は
な
いだ
ろ
う
か
u
醐反産{物
自
-旧化
の
ガ
ット
勧
告
を
口
・本政
府
が
受
託
し
た
こ
と
て
、
沖
縄
の
パ
イ
ナ
ノ
プ
ル
産
業
が
危
機
的
状
況
を
迎
え
て
い
る
、
パ
イ
ナ
ヅ
フルは
沖
縄
の
病
幹
作
物
であ
る
が
、
自
山
化
にな
る
と、
壊
滅
的
打
撃
を
受
け
る
こと
ぱ
目
に見
え
(
い
る
u
パ
で
ナ
ヅ
フル
は
、
融眠性
↓唱壌
に山独く
、
⊥エ
地
のや
せ
た
川
間
部
で
も
、
ま
た
台
風
と
「
ば
つ
が畳巾嬰
す
る
劣
唖心な
条
件
下
で
-も栽
培
で
き
る
作
物
であ
る
u
戦
後
、
農
地
を
米
軍
棊
地
に
接
収
さ
れ
、
山
地
…川発
に活
路
を
求
め
な
け
れ
ば
な
ら
な
か
った
沖
縄
農
業
にと
って
、
パ
イ
ナ
ップ
ルは
う
っ
て
つけ
だ
った
り
国
の帳
護
育
成
の
下
に、
ザ
ト
ウ
キ
ビ
と
と
も
に生
産
振
興
が
図
ら
れ
てき
た
。
し
か
し
、
一方
で繭
は冷
凍
パ
イ
ナ
ッ
フルの
輸
入
自
山
化
に続
く
同
果
汁
の輪
入
割
り当
て
を
行
う
な
ど
、
ウト
カ
ゲ
の
し
っぽ
切
リワ
の
よ
う
に
「自
由
化
への
道
一を
進
め
てぎ
た
、
生
産
畏
家
は
、
[収近
の
円
h局
・ド
ル安
に
加
え
、自
由
化
の
波
に
お
び
え
てき
た
が
、突
然
の
完
全
自
由
化
で大
き
な
衝
撃
を
受
け
て
い
る
。
同
じ
農
産
物
で
も
粉
乳
・練
乳
、て
ん
ぶ
ん
の
二
品
11
が
,自
由
化
留
保
」に
な
って
、
パ
イ
ナ
ソ
プ
ル缶
詰
・果
汁
が
完ムL自
由
化
さ
れ
る
こと
に生
産
農
家
は
割
り切
れ
な
い思
いで
あ
る
り
確
か
に
、
沖
縄
の
ハイ
ナ
ッ
ソ
ル
は
生
産
硫
、
呉
家
.ー-数
と
も
少.な
い
、し
か
し
、
地
域
喫
茎
に与
え
る
影
響
は
ド{り
深
刻
で
あ
り
、
農
家
にと
って
死
治
閏
題
であ
る
二
と
に変
わ
り
柔
よ
毛レ
号」ノー噌
国
が
何
ら
対
策
を
示
さ
な
いま
ま
に
パ
イ
ナ
ッ
フ
几自
由
化
を
進
め
て
い
る
こ
と
に
、
農
家
は
大ぎ
な
不
安
を
感
じ
て
い
る
無こ
れ
で
は
弱
者
切
り捨
て
L
に
な
り
かね
な
い
し
、
沖
縄
に
4差
別
ヴ
と
〃犠
牲
ウ
を
強
いる
も
の
だ
と
の
批
判
の士円も
.あ
が
っ
て
い
る
り
復
帰
後
の
沸
縄
は
、
本
-工と
の
格
凄唱の
是
正
と
自
霞
的
発
展
を
可
能
と
す
る堰
礎
条
件
の整
備
を図
る
た
め
、現
在
、第
一.次
沖
縄
振
興
…用発
計
画
を実
悔
中
で
あ
る
回峡
地
経
済
か
ら
脱
却
す
る
た
め
、
沖
縄
の
地
理
的
、
R
然
的
条
俘
を
生
か
し
た
産
業
用
発
が蓮
め
ら
れ
て
い
る
)
パ
イ
ナ
ソプ
ル産
裳
も
そ
の
「つで
あ
る
。
・てれ
を
.自
山
化
」
と
いう名
の下
に
つ
ぶ
ず
よ
う
な
こと
に
な
れ
ば
、
政
治
の在
り方
が
問
わ
れ
る
こと
に
な
ろ
う
、U
沖縄
問
題
と
一ロ
に
いうげ
れ
ど
、
そ
の
基
本
は
沖
縄
戦
の
教
訓
を
止
しく
次
代
に
伝
え
、
葬
和
を
築
く
こ
と
にあ
る
9そ
れ
は
、
決
し
て
.,沖縄
「だ
け
の問
題
で
はな
い
。
ま「ウ.・な
門、4ろー汽
沖縄了f・ハλ論而差n長
一九
P-酒
年入d
整雌諭長
㌦ゴ芸都長
編堕..委員
爾"説委
員か騨}
へ一.儒Tから即.職
(8)
昭和63年3月10日 第217号
甕i堕 蜘 羅
TBS
「情報 デス クToday」
独 自 の 視 点
プ ロの洞察力で
「た
め息
が
出
る
ね
」
こ
う
いう
二
.,1
入
聞
く
と
》国
に
は
町疹
の
余
地
は
な
いと
、.口わ
れ
る
し
、
知
劇
の
調停
案
は
け
と
は
す
し、
今
度
は
!
.・リ
カ
へ直
詐
し
に
行
つた
を
いう
.
〃池.「r
7
は
本
来
、
国
と
国一の
川
題
な
んだ
よ
ね
。
日
本
の地域
問
題
を
、
米
政
府
や議
会
が
直パ正
商
か
ら受
け
と
る
わ
け
が
な
い
.
・:
・:
ア
く
q
ヵ
".・.許
訟
お
二す
た
って、
渋
的
に
そ
れ
が
成
立
す
る
ん
だ
ろ
う
か
」
お金.も
時
間
も
か
か
る
、幼
稚
な
感
じ
だ
、(ね
逗
f
に
よ
池
.r馴
題
L
かな
いみ
.た
い
に
ぬ,な
い
か
∪
こ
の市
長
}.㌔ん、
直
政
も
考
え
ず
自
分
の
や
り
た
い
こ
とば
か
ー-:
:
:
も
っと
4、っと地
に
足
の
つ
いた運
軸…を
し
な
げ,,れ謬鳳いげ
な
い
ん
じ
ゃ
な
い
かi
『λ
ク
ジ
司
訪
問
』
し
た
二
月
卜
八
口
、
『情
報
デ
ス
ク
T
Od
a
y』
(月
~木
午
後
11
:
50
~
0
・・35
、一で
は
、
こ
の
口
の
ニ
ュー
ス
の中
か
ら
まず
富
野
逗
f
市
長
ら
の訪
米
行
脚
を取
り
上
げ
た
ロ
キ
ャ
スタ
:
の秋
.兀秀
雄
さ
ん
の
〃富
野
評
ク
はぎ
び
し
い
り
ゲ
ス
ト
の堀
部
政
男
一橋
大
教
投
も
、
「新
し
い市
民
運
動
な
の
かも
し
れ
な
い
が
、
未
国
の環
・撹保
護
法
て
訴
訟
し
ても
、
法
的
には
意
味
が
な
い
」。
番
組
本
番
中
、
建
設
反
対
派
の
蓮
f
L巾
民
から
ウ抗
議
ワ
の
屯
話
が
入
った
リ
フ
ロ.τ
、.1
†
ー
の
市
橋
史
生
さ
ん
は
こ
う
需
る..一多.く
の
マ
ス
コーが
、
富
野
市
.長
を
好
意
的
に
扱
っ
て
いる
よ
う
だ
が
、
乃政
治
的
な
問
願ゲ
と
し
て
みた
場
置
、
富
野
市
政
に疑
問
は
な
い
の
か
、
「情
報
デ
ス
ク
』
で
は
い
つも
切
り
口
を
変'え
、
見
落
と
さ
れ
が
ち
な
側
面
か
ら
二
∴ー
スを
掘
り下
げ
て
い
繁、・
た
いと思
って
いる
。
大
勢
と
は異
な
る
ウーー
ウ
で
と
ら
え
る
こと
ウ∵Uが
け
て
いま
す
」ワ電
話
を
かけ
てき
た
逗
f
の視
聴
者
に
は
、
い
ろ
ん
な
方
策
を探
って
い
る
の
は分
か
る
が
、
果
た
し
て今
回
の訪
米
が
有
効
な
のか
ど
う
か
、
…同
題
は
な
い
の
か、と
いう
視
点
で取
り
上
げ
た
、
と
答
え
た
と
.葺
う
}
同
番
組
は五
十
八
年
十
月
に
人
タ
:
ト
し
た
深
夜
の報
道
番
組
で
あ
る
。
一日
の
ニ
ュー
ス
を
ま
と
め
た
『ブ
ラ
ッ
シ
ング
』
や
『朝
刊
目「
版
』、
[海
外
市
場
の相
場
』
な
ど
の
コーーナ
ー
も
あ
る
が
、
テ
ー
マ
を
し
ぼ
りそ
れ
を
掘
り
下
びりて
解
説
す
る
『シ
ソ
キ
ング
』
が
番
紐
の
メ
ダ
リ・であ
る。
読
売
新
聞
記
者
を
経
て
政
治
・
経
済
評
論
家
と
し
て
活
躍
し
て
いる
秋
元
さ
ん
の
ゐ分
析
を
と
〃直
一.ゲ
と
で
番
.紐
は
進
む
り
こ
の口
の
『シ
ァ
キ
ン
フ』
は南
ア
の
ア
パ
ル
ト
ヘイ
ト
が
テ
ー
マ》来
日
し
て
いた
南
ア
の作
家
で、黒
人
の
救
済
基
金
「カ
キ
ソ基
金
」
蒔
務
陽
長
ア
ハ
マド
・ダ
ン
、,贈ー
氏
の
イ
ン
タ
、に
、1を
中
心
に
、7
パ
ルト
ヘイ
ト
の実
態
、
口
菰・の旧可」哨ア
貿
砧四の実
情
を
紹胆介「、
秋
.疋艶ご
んが
日本
人
の国
際
戒露見、
口
本
企
業一の
弓政
経
分
離
7
の畳口利
ヒ
霧
を鋭
く
つ
いた
)
「秋
.痴さ
ん
の
.・ノヒ
ー
ナ
リ
ス
ト
と
し
て
の
嗅
覚
と洞
察
力
で
、
二
.ー
ス
の背
景
や
ヘノ後
を視
薄
者
に分
か
りや
す
く
語
って
も
ら
う
の
が
、
こ
の番
組
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いです
」
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市
橋
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ん
)
スヌ
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初
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ャ
ッ
ヂ
フ
レー
ズ
は
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夜
、
男
は
ニ
ュー
λ
を噛
む
」
だ
つ
た
が
、
挟
瓦ざ
ん
のゾ
ロと
し
て
の
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ス
へ
の
〃噛
み
つぎ
ク
に
、
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き
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ら
れ
て
い
る
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聴
者
も
多
いと
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9
そ
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.兀評、ごん
は
、
二
・ー
ス
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計..、昌タ
ー
と
いう
、..口葉
が
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ス
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る
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道
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る
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番
組
づ
く
り
を
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て
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と
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フ
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悟
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局
の
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人
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こ
と
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る
。
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と
いう
意
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て
は
き
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、
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か
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、
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った
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小
僧
が
多
い
一と
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な
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プを
前
に
」
て
容
赦
な
い
.口
葉
か
と
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ず
ろ絵
9
に
頼
る
〉そ
れ
な
の
に
、
二
度
と撮
り直
し
の
き
か
な
い
弓絵
?
に対
す
る
真
剣
さ
が
足
ら
ん
.
雪
崩
現
象
的
な
ウ怜
道
洪
水
シ
の
中
で
、F情
報
デ
ス
ク
』
は軟
.肥さ
ん
の
.ハー
リ
ナ
」
ラ
ー
・を
軸
に
独
自
の番
靴
づ
く
り
を
し
てぎ.た
ワ
テ
レ
ヒ
は
数
多
く
あ
る情、報
源
の
ひ
と
つ
の
ス
テ
ー
ジ
にす
ご、な
い
.
『瞭旧鰻
ブ
ス
ク」
は
ま
た
ワての中・の
ひ
!.つ
レ新
聞
毛
テ
レビ
も
同
じ
人嗣澗
へ小.り
が
ち
な巾-で
、
こ
の番
組
鴫、
は
、
俗
年
に
入
り
や
す
い見
方
と
は
哨匹
った
ア
ング
ん
か
ら
、
た
胆
に
ニ
ェー
スを
と
り
扱
っ
て
いぎ
た
い
一と
市
橋
さ
ん
も
凱…る
。
(長
谷
川
和
f
)
い'減 蝋 ρ 好 プ}1・ヒに 三.・t中1蔓 旨.・
'卜 κも ・凝 .【 田∫[1」'㌔臼lf'.ノ,[il吐'「」〆 民,ノ.-
(9)
昭和63年3月10日 第217号
鈴木
永二
日経連会長
お
な
じ
み
の
〃生
産
性
基
準
原
理
7
に
・出る
賃
L
げ
に
つ
いて
の
[
「経
連
の
公
式
見
解
を
確
認
し
た
後
、
一、つ
の希
望
を
つ
け
加
え
た
)
U余
裕
のあ
る
と
こ
ろ
改
ま
ず
時
厩
と
セ
ヅト
で考
え
、
労
働
時
間
短
縮
を
考
え
て
ほ
し
い、
②
特
に利
益
が
出
て
い
る
好
況
産
業
は余
裕
分
を
貨
上
げ
に
で
は
な
く
ボ
ー
ナ
ス
に、
と
》
生
産
性
堰
準
原
理
と
..口いな
が
ら
定
昇
に
限
る
と
い
う
会
長
発
、.口は自
己
矛
盾
て
は
な
い
か
.-ー
と
指
摘
す
る新
聞
論
評
に
ば
次
の
よ
う
に反
.而、
釈
明
し
た
り
,定
昇
に
限
る
と
は
「回
も
、口って
いな
いゆ
定
昇
を
中
心
にし
て決
定
さ
れ
る
こ
と
に
な
る
で
し
ょう
と
申
しあ
げ
て
いる
」。定
昇
は
個
人
の能
力
や
年
功
を
反
映
し
た
も
の
で
、
ベ
ア
は
各
人
の個
別
要
件
に関
係
の
な
い
一律
・底
上
げ
な
の鴫、、
蒔
代
の要
請
か
ら
し
て
も
、
定
犀
巾
心
に
ξ
え
る
べ
き
で
あ
ろ
う
、
と
いう
説
明
で
あ
る
、定
昇
中
心
の考
え
方
は
、
毎
年
日
経
連
が
各
企.業
に対
し
て
行
って
いる
ア
γ
ケ
ー
ト
結果でも顕著なので、そう
いう見通しを
述べた
のだと
.口う。
しかし、年功中心
の賃金体系
のドで、
能力給的要素をどう反映させるかが十分
に確定
し得
ていない現状
で、
「定昇を中
心に考
える」という
ことは、客観的
にみ
て
コ定昇抑
え込み論しととられ
ても仕方
がな
いのではないかリ
「人間中
心主義」が日本的経営
の神髄
と、..口う、会長
の記念署名は
「不易流行
Ω
仏教 の.…口葉
で、物事
には変わらざーる本質
的部分
と時
とともに変わる付帯的部分が
あ
り、
それを見誤
ってはならな
いという
意味
のようだ
、芭燕も
「奥の細道
の旅
の終わり近く、貧し
い弟子
の
「俳句
のし
とは?
」の問
いに、
「千歳不易
「時流
行」と答
えているとか。すなわ
ち、俳句
の心は真実
とか生命を把握す
る
ことで、
それは変
わらな
いが、それだけ
では俳句
にならず、そ
の時々の白然や断
の中の移
り変わりを織り込んではじめて生きた具
体的麦現
になるu
口本的経営者にふさわし
い座右銘であ
るoが、国際化の進
展にともなう新しい
社会的、経
営
的
要
請と、
「人間中心室
義
」を支えた年功敵税の賃金体系や終身
雇
用
慣
行
などの中から、何をど
のよう
にいつ取捨選択
す
る
か
は、秀句をひね
るよりはるかに至難
だ∪
誉.月八日
ーー
叫
会
広醐一郎委員
嵩席
ヒ山、人】
渡辺美智雄
自民党政調会長
「NTT株売却益
と税収
の好調
で、新年
度↓3,符が案
では二Q%㎝増
の公娠ハい賢業費を計
上でき
たが、国債費
の規継はすでに社会
保障費
をヒ団って
おり、財政官情が急
に
、笛くな
っているわげ
では■ない」
瀞木国経済が健巖を同韻俣するのに相当時
間がか
かりそうな
ので、日木の内需拡大
策も五、
六年続けざ
るを得な
いか・もしれ
な
い.
.方、琶齢化社会も猛
スビ:ドで
や
ってくるりそれら
に対応するための財
湘仙をどうするのかロ・もう僻旧金
は
できーな
い冒法人税も所得税も
タ{旨誰が考え
て
も消費税
で広く薄く
みんなで負担するし
かな
いではないか、とたたみかける)
しかし、
「誰が考えて・1・消費税しかな
い
一だけ
で、有権者
は納得す
る
だ
ろ
う
か9政権交代のな
い政治状況下で、自民
党が間接税導入を柱
にした税制改革を訴
えるなら、旧熊依然
の予算配分のあり方
に自ら
{スを人れる態度
が必要なのでは
な
いか9
[広く薄
い負、相ごに対応して、固
定西爪には結びつきず
ら
い
「広く薄いサー
ビ
スL
の向
上
を
実
現
し
て
いく
姿
勢
を
明
ら
か
にす
べ・ざで
は
な
い
の
か
り特
定
産.業
や
地
域
対
馳唯で
な
く
、た
と
・えば
国
口代の教
素月曲買、隔比
居
費
軽
減
を
は
か
る
措
置
を
.r算
化
し
て
いく
方
針
を
.小す
な
ど
し
て
u
【
月
.
.11
金
昼
費・鍛
明((
高傭祥紀旧委R
出席
.ー、「へ】
ベ
ル
ン
ハ
ル
ト
・フ
ォー
ゲ
ル
西
ド
イ
ツ
参
議
院
議
長
1ー、直
接
選
挙
で
選
ば
れ
る
の
で
は
な
く
、
ド
イ
ツ
の参
院
は州
政
府
代
麦
で構
成
さ
れ
て
お
り
、
州
に関
係
す
る
法
律
の場
合
こ
こ
の議
決
が
必
要
で、
`
ンバ
ー
は
現
在
四
κ人
⑦
二
二
年
前
に現
首
相
の
コ
・.ル
さ
ん
の後
任
と
し
て
ラ
イ
ンラ
ント
ロ
7
フ
ズ
ル
ツ
州
首日相
に
り
ウモ
ー
七
ル
ワで
ンなの
代
表
と
し
ても
数
度
来
日
し
て
いる
が
、
今
回
は
爆
田
参
院
議
長
の
招
き
で.勘兄
は社
民
党
党
首
で
、
本
人
は
キ
リ
ス
ト
教
民
牧
党
の州
首
相
と
い
う
や保
革
連
合
一
家
"
で
、
ど
う
い
う
わ
け
か
独
身
.と
司
会
者
が
紹
介
、
す
か
さ
ず
議
長
は
「兄
は
.
.度
結
婚
し
て
いる
ので
、ち
ょう
ど
い
い計
算
」と
。
〃ボ
ン
・パ
リ
枢
軸
ク
に
対
す
る英
国
の警
戒
弧柵に
つ
いて
の
質
問
に
は
、
「エリ
ゼ
条
約,二
(10)
昭和63年3月10日 第217号
ク ラ プ ゲ ス ト
五
周
年
を
記
へ,心して
、
独
仏
く口同
旅
団
が
.編
成
さ
れ
防
衛
と経
済
・財
政
の
.一っ
の
評
議
会
が
設
置
非、㌔れ
た
診
・
ノド
ン
の不
快
感
ウ
と
いう
観測
は
確
か
にあ
る
が
、
こ
れ
は
止
し
く
な
い。
か
つ
て
は
独
仏
関
係
が
卵心い
こと
が…回題噌だ
っ
た
の
だ
か
ら
一、
茉
ソ
か
ら
の中
立
化
の
可
能
性
に
つ
い
て
は
「あ
り得
な
い
、
酒
側
同
盟
の
確
固
た
る
一員
であ
る
り
}甲な
る
防
衛
の
た
め
で
な
く
、自
由
、.軒
等
と
いう
共
通
の
価
催
観
を
嬬
有
す
る同
明肌の
、
ハン
ザ
)
ー
、
ボ
ー
ラ
ソド
と
の経
済一協…力
は痕
側
に
も変
化
を
も
た
ら
す
」。【
.昆
、
ぼ
水
」しヴ臼\β見
旨.致
G
・ヒん
〆ドー.変h
屯録
凸片㍗恵.r
R
・卜iウ一,.
田席
.
.六人】
宮
本
顕
治
日本共
産
党
議
長
六
Q
年
代
から
七
〇'年
代
に
かげ
て、
文
仙堅、
チ
エコ艀
伺
、
ア
フ
ガ
ソ侵、入
な
ど
、
議
.長
の
㎡
に
よ
れ
ば
一社
ム至ヒ義
に
あ
る
ま
じ
ぎ
偏
向
、
逸
脱
-
と
いう
外
か
ら
の糊
風
に見
舞
わ
れ
た
、社
会
室
義
国
家
が
誕
生
し
て七
〇年
、、社
会
主
箆
の初
志
を
生
か
す
と
いう
活
動
面
で
は期
待
を
裏
切
ら
れ
た
「」
国
内
で
は
自
治
体
レベ
ル
で
の社
共
共
闘
の
後
、
八
〇
年
一月
に
-社
公
合
意
」が
結
ば
れ、
共
産
党
の
孤
立
化
が
進
む
.、
口
本
が
経
済
大
国
に
の
し
L
が
る
過
程
で
、
社
会
老
義
国
の
中
に
は
経
済…臨脚力
と
ひ
ぎ
か
え
に
一白口民
党
に
4嘘ハ
名
ウ
を
お
く
る
と
こ
ろも
出
て
き
た
寛
が
、
議
長
は
…社
ムπL
黙我の初
心
に帰
ろう
と
い
う
精
神
を
持
つかぎ
ワ
〃立
ち
直
り"
は
あ
る
.と
り
一つ
の紙
嘆,が
コ
ルパ
ヂ
.,フ
の
ベ
レ
ス
ト
μイ
カ
で、
「ア
フ
ガ
ン、
チ
.…コ
への
対
応
が
試
金
石
に
な
る
」
と
み
る
、た
だ
、
コ社
ムム主
筏
国
の外
交
努
力
だ
け
で
、
い
ろ
い
ろ
な
問
題
が
埋
性
的
に
解
決
さ
れ
る
と
思
う
の
は
危
険
L
で、
生
産
の
大
部
分
を
握
って
い
る
主
要
資
本
上養
国
に
お
い
て
も
、
、r
閥
が
か
か
っ
ても
地
道
に国
民
の
声
を
政
治
に反
映
さ
せ
、
政
府
を変
え
て
い
く
努
力
が必
要
な
の
だ
L
と
も
。
着
贈
し
た
ま
ま
一時
間
の二くピ
ー
千で
、
ま
ず
世
界
と
口
本
の現
状
を
ど
う
見
る
かを
話
し
た
後
、
社
会
党
大
ムムの
評
価
、
税
制
改
雄
、
大
韓
機
事
陣
、
浜
田発
.肖に触
れ
た
.
今
回
が
九
回
目
の登
場
で
、
司
会
者
は
.甲最
多
登
板
投
手
ウ
と
紹
介
し
た
。
これ
ま
で
八
回
の話
で
、
これ
ほど
一社
会
†
義
の初
志
」
と
い
う
.言葉
が
使
わ
れ
た
こ
と
は
な
か
った
と
思
う
り
「な
ん
の
た
め
に臣公座党
を
や
ってき
た
か
分
か
ら
な
く
な
る
一な
ど
、
秋
に
は
八十
歳
を
迎
え
る
議
長
の
〃肉
声
"
-㍉…開か
れ
た
)議
長
は
.いま
日本
で
は社
会
ド
義
は
人
気
が
な
い
ん
て
す
一と
.日った
が
、
「赤
旗
-
紙
上
で
の
大
韓
機
ん北
犯
行
ワ
見
解
や
二
、コ
ー発
言
も
あ
って
か、
^立
ら
聞
ぎ4
が
出
る
ほど
の
大
入
りだ
った
.
弓
.り
.尾目
争
ず者会見
d会
杯
卓男委員
呂窩
.
.
.、..へ】
鳥
羽
欽
一郎
早大
教
授国会議]貝選挙は
「.選
挙
朔偽改定
いかんにもよ
るが、大統領選の時
よ
りも
っとは
っきりした
形
で目民卍党が勝
つので
は
な
いか
一M野
党
分裂
.で学生運動も縮小過激
化
へ、
労働
筆
議
は中
小
以
下
の
と
ころ
に
火
が
つ
いた
時
が
大
変
にな
る
、
と
。
問
題
は
す
べ
て
左
輪
以
後
、
秋
に
な
っ
て
か
ら
だ
が
、
ノ
・テ
ウ
新
大
続
領
にと
って
は
民
宅
政
府
と
し
て
の
ア
イヅ
ンテ
fテ
f
1
を
い
か
に打
ち
出
し
、
イ
ソ
7
レを
抑
え
る
か
が
当
面
の課
題
と
み
る
り労
働
関
係
法
、
内
閣
責
任
制
、
地
方
自
治
の
問
題
を無
難
に
こ
な
せ
ば
、「自
民
・覚
の
よ
う
な
彰
で
、
㌻
党
・民
止
党
が
長
期政
轍
化
す
る
の
で
は
な
いか
一り内
政
の推
移
に
つ
い
て
は峡
本
的
に
は
〃口
本
踏
襲
型
ウ
と
み
る
。
外
交
も
対
米
、
対
北
朝
鮮
、
対
中
、
対
ソ、
対
口
の順
に問
題
列
挙
、
特
に韓
中
関
係
改
善
に
注
日
し
、
コ圧輪
陵
に
貿
易
事
務
所
が
設
置
さ
れ
る
よ
う
な
気
が
す
る
」
と
。
【.序
..一.日
(.月
研究会
-γジ,'と口本
.
.ー
ノ・テ弗.政権
の課題
司会
高野洋委員
出諏
..」
.、.べ】
今
井
通
子
登
山
家
「私
の見
た
北
朝
鮮
」
の
テ
ー
一.で
話
を
聞
い
乱」)
ハ十
.一年
一一月
げト、
匁、の∩
頑川山
、
ム立
剛
山
、妙
香
山
に
登
った
時
の体
験
と
見
…圓を
.去」
⊃
幽
.
)
コ
ー-
▼
'
卜
宇
都
宮
憾
馬
卜κ人
の
姪
r当
た
る
冒
.伯
父
の
仕
賢
は尊
敬
し
て
い
る
が
、
そ
の
イ
一7ーオ
ロ
、ヤー
や
ヒ炭
を
いま
の多
く
の
日本
人
.一『捉、透
さ
せ
る
のは
持
ず
か
し
い
の
で
は
な
い
か
リ
サて
れ
よ
ゆ
L酵
通
の人
が
い
ろ
ん
な
国
へ行
く
の
々
手
伝
う
方
が有
効
な
の
叫、は
な
いか
.行
げ
ば
そーの国
の人
達
の
々痛
友
ク
ば
分
か
る
」り
一昨
年
十
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、
{r都
」呂氏
から
.川凋鮮
民
L
L
義
人
民
共
和
国
に
も
い
い山
が
あ
り
ま
ず
よ
.と電
話
が
も
った
。一冬
な
ら
登
り
た
い
一と
零
え
たら
、
宇
欄
宮
氏
が
金
日成
卜席
に視
書
を
出
し、
一月
七
ロ
に
常
か
ら
ゴ
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十
日
か
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コ.月
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の間
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、
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名
、
【
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H
11
研髪唐
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旧本
甜
呵へみ
河
韻義.止
嬰
員
出喧ヒ
.へ
】
〔玄
)
(11)
昭和63年3月10日 第217号
会
合
紹
介
4日▽民報協記者研修会
ゲ
スト
渡辺
美智雄自民党政調会長
「関年
政治経済
はこうな
る」
土井たか子社会党委員長
「今、なぜ
護憲か1社会党
の今後」
(N
TV
河合公八郎会員)
6
日▽
ロンド
ン記者会
OB会
ロンド
ン特派員経験者
の集
い
(共同
柴田純
一会員)
10日▽
社会部
OB会
(日経
占野光久会員)▽
日本婦人放送者懇談会sJ賞授賞
パーテ
ィー
(NHK
後藤美代子会員)
12日
▽カメラ記
者クラブ懇話会
(朝
日
木原
昌三会員)
15日▽早大政治学会OB会
(朝日
伊波新之助会員)▽共同外信O
B会
(大塚喬
重会員)
18
日▽日本林政
ジャ…ナリストの会総会
・懇親会
(朝日
大谷健会員∀
19日▽日本外交協会研究
会
講師
藤
田公郎外務省
アジ
ア局長▽
豪口牛肉交渉
に関する記老発表
スチュ
アート参
事官
(豪州大使館
武田吉朗会
員)
22日▽JNN編成部長
会
懇
親
会
(TBS
磯崎洋三会員)▽ζ需=
冨
準窃の
ζ㊦簿
}09
∋稀三2(FPC
河
村欣
二会員)
23日▽全国郷土紙連合社
長会
・懇親会
(陸奥
川越淳弘会員)
29日▽第
一回中国記者団歓迎
レセプ
ショ
ン
(FPC
安延久夫会員)
(難艀
滞織繍哩婿聖擁没)
(12)
昭和63年3月10日 第217号
▽
こ
の度
、
金
琉
煕
の
後
任
と
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て
、
東
京
支
.
社
長
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る
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国
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国
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を
も
た
ら
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も
の
と
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す
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と
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に
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て
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大
性
に、
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き
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ま
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.
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さ
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う
、
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だ
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ま
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と
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ま
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年
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来
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展
.、
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か
ら
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年
.月
に
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の
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絵
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に続
い
て
、
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か
ら
は
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聞
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し
た
、
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を
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た
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、
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年
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を
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日、
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た
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ル
ル
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…囲、
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中
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京
地
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、
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、
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し
た
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た
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者
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者
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え
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を
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げ
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。
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本
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聞
東
京
支
社
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信
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金員ハの、胎題や、会葭の毛へ、憧、豊三恥力.力況
たどを溶宰.せ!ぬ
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一
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hHヒ岬.に駐維」艮皿,へお
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第
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た
、
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碁
の
会
〇
一.月二十
日の例会は、テレビ
の・棋譜読
みEげなどで知る人ぞ知る女流棋上尚司
1二 二て ・一本 しう こ♪て.お ㌧・て 『 二,1ノ ハら ハ.碁 騒 一・.♪_
《∬で ト よ え と1'赫 「三」三 身乏.右.
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、
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た
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、
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事
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が
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て
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って
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を
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え
た
。
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く
の
は
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り。
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ま
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五
人
が
、
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ち
て次
か
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次
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戦
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た
、結
果
は
ま
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し
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と
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て
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ま
った
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も
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と
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が
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と
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ら
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年
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月
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、
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、
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。
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、
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、
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定
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り
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段
にな
った
。
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二』ー」ハ日
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乍-後
一時
。
(13)
昭和63年3月10日 第217号
ク
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の
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画
委
員
会
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、
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こと
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、
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、
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部
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委
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と高
野
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務
局
を
ま
じ
え
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委
員
会
で
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見
を
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わ
し
た
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研
究
会
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宛
に誰
も
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な
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勢
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った
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ぐ
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の
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、
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り、を
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島
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題
か
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る
こ
と
、
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の
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心
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いと
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る
問
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を
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れ
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ン
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た
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る
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を
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た
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十
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の
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ズ
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の
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約
が
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方
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准
が順調
にすすめば、そ
の波紋
が
アジア
太.平洋地域
にどういうように広がるの
か、
ヨー
ロッパでは地域的軍縮交渉
の
枠組みがあるのにアジアにはな
い冒
アジアはあまりに多様性
に寓むので
一筋縄
ではいかな
いレ地域軍・縮や相圧
信一輔一形
成耕…置など、管絃楽
の楽譜
のよ
うな形
で喪現てきな
い曲がある。いや、
それ以前
に未解決の領土問題がある.
高野 洋NHK髪1∫ 門委 員1
以
上
のよ
う
な
問
題
意
識
を
整
理
し
て
、
改
め
て
企
画
委
員
会
で
の倹
討
を
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た
と
こ
ろ
、
講
師
の名
前
を
含
め
て
い
ろ
い
ろ
有
益
な
意
見
を
聞
く
こ
と
が
でき
た
。
結
諭
と
し
て
一.月
か
ら
一.一月
に
かけ
て朝
鮮
半
島
の
問
題
を
「ノ
・テ
ウ
政
.権…の課
題
」、
北
朝
鮮
の
現
状
」
を
一.
本
、
「朝
鮮
半
島
と
日
本
」
と
ムロ計
四本取りトげることにな
ったu
四月
には台湾、五月
にはNICSを
予定
しているが、テ:マの具隼的設定
はまだ作業がす
んでいない。会員諸賢
のこ音心見を、企画委員会ある
いは事務
局
にご教.ポ頂ければ幸
いであ
る。
会見や研究会
では、でき
るだけ多く
の方
から端的なご質問が出れば
いいと
思
って
いる.》
慧
会
議
報
告
懸
第
53
回
企
画
委
員
会
・2
・5
会見寄
1
五
月
の通
常
総
会
の
記
念
講
演
の講
師
に
つ
い
て
協
議
し
た
後
、
新
シ
リ
ー
ズ
研
究
会
「ア
.シ
ア
と
日
本
」
に
つ
い
て
、
高
野
委
員
が
小
委
員
会
鴫、の協
議
鞘
果
を
報
出ロ、
了
承
し
た。
出
席
細
谷
委
員
長
り
浅
井
、
佐
野
、
山
岸
、
広
瀬
、
井
上
、
佐
藤
、
石
丸
、
高
橋
、
高
野
、
高
阪
、
武
藤
、
河
野
、
有
馬
、
林
、
平
田、
堤
の
各
委
員
り
第
88
回
会
報
委
員
会
一2
・田
第2会議室
・
二
月
号
、
記
録
版
に
っ
い
て意
見
交
換
の
後
、
三
月
号
の編
集
を
協
議
し
た
Q
五
十
九
年
四
月
号
か
ら
連
載
し
て
いた
『ス
タ
ジ
オ
訪
閥
』
を
三
月
号
で
終
~
す
る
こと
に
し
、
そ
れ
に代
わ
る
新
企
画
に
つ
いて協
議
し
た
∪
出
席
、「.好
、
松
井
、
林
の
各
委
員
.、
第
46
回
施
設
運
営
委
員
会
一2
・16
第2会議室
一
ク
ラ
ブ
と
し
て
.一度
目
の
〃円
高
差
益
還
元
ク
と
し
て
、
=.月
二十
一.日
か
ら
洋
酒
価
格
を
引
ぎ
下
げ
る
こと
を
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定
し
た
。
ま
た、
チ
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ズ
、
ピ
ザ
な
ど
のお
つま
み
を
提
供
す
る際
、
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集局長)
(旧)
渡辺
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日本新聞社
(新)
自濱英美
(常務取締役
・編集
制作担当)
(旧)
日高
旺
〈監箏交代〉
四国新聞社
(新)
津森
明
(取締役東京更社長)
〔旧)
溝渕.止行
〈委員長交代〉
総務委員長
(新)
犬養康彦.(共同通信祉專務理
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渡辺
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施設運営委員長
(新)
小池唯夫
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(旧)
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