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霞ヶ浦への招待 ファイル4 §2 霞ヶ浦の生い立ち 2.1 古代、中世の「霞ケ浦」 「霞ヶ浦」という名前 「かすみがうら」という名称は、『常陸国風土記』(710 年代の編纂)に 載る「香澄郷」(かすみのさと、潮来市牛堀とその周辺に比定)に由来するといいます。『風土記』に は「大足日足天皇(景行天皇)が、下総国印波の「鳥見の丘」(現利根川南岸の台地だが比定地に諸説 あり)から東を望まれ、お付きのひとに『海には波がゆったりただよい、陸には霞が朦朧とたなびいて、 朕には(香澄郷のある)国が霞と波の中にあるように見える』と仰せられたことから、当時の人びとは この地を「霞の郷」と言っている」(意訳)とあります。「かすみ」は気象現象の霞ですが、「神住」 (かみすみ、加住)、「浙み」(かすみ、水に潤うこと)とする説もあるようです。 霞ケ浦はむかし「霞の浦」と呼ばれたようです。たとえば 仄かにも 知られてけりな 東なる 霞のうらの あまのいさり火 (順徳院 新後撰和歌集(1301 年編纂)) のように、平安末期から鎌倉時代に詠まれた多くの歌に「霞のうら」が登場するので、「霞の浦」は都 人(みやこびと)に伝聞として広く知られていたと思われます。「霞の浦」が「霞が浦」になったのは 江戸時代らしく、歌枕の「霞関」も中世の「かすみのせき」が江戸時代に「かすみがせき」ち詠んだそ うです。「の」を「が」に置き換えるのは関東訛りと言います。 「霞浦」を「カホ」と音読みにすれば西浦の雅称で、旧制土浦中学校の校歌に「カホの水」とあり、 今は消えた霞浦劇場もカホ劇場と称していました。墨田川(隅田川)の川堤を江戸の文化人が墨堤(ぼ くてい)と呼んだようなものでしょう。 流海・内海・香取海 『常陸国風土記』の行方郡の条は、「行方郡、東南(西)並流海、北茨城郡」 とはじまり、このことから奈良時代の西浦、北浦が「流海」(読みはウミ、ナガレウミ、リュウカイ) と認識されていたことが分かります。赤松宗旦(現利根町の人)の『利根川図志』(1855 年ころの著作) に『仙覚抄』(万葉集註釈、成立は 1266~69、鎌倉時代の天台僧仙覚律師の著作)からの引用として「常 陸の鹿島の崎と下総の海上(うなかみ)との間から遠くまで入り込んだ海があり、先は二流に分かれる。 風土記はこれを流海(りうかい)といったが、いまの人は「内の海」という。この海の一流は鹿島郡と 行方郡の間に入り、もう一流は、北は行方郡、南は下総国との境を経て信太(しだ)郡、茨城郡まで入 り込む。この内の海は、ことに満ち潮のとき波が遡るので浪逆浦という」(意訳)とあるので、風土記 時代の「流海」は室町時代に「内の海」(内つ海、浪逆浦)と呼ばれたようです(文中の海上は現在の 利根川河口付近両岸から神の池あたりまでを含む古い郡名、信太郡は現在の阿見町・美浦村の全域と土 浦市・稲敷市・牛久市の一部にまたがる郡名、中世の茨城郡は現在の石岡市、かすみがうら市の一部を 含む)。 狭義の霞ヶ浦の別名は西浦で、西浦の東に北浦があります。現在の香取市北佐原から稲敷市の旧東町 地区を含む「内の海」の中心部は中世に「香取海」(かとりのうみ)、「香取浦」と呼ばれた浅い海で、 香取海は鹿島流海(北浦)、香澄流海(西浦)に続いていました。香取海では平安時代の末期から海夫 (かいふ、漁業水運従事者)が活躍し、彼らは香取神宮大宮司の支配下にあったそうです。香取海から みると北浦は北に、西浦は北西にあります。『利根川図志』の「香取浦」の項に「香取志(小林重規著、 1833 年序の書物)いう、この海の西は利根川に続き、東は銚子に 10 余里、北は潮来に1里余、北西は 「霞か浦」に 10 里余、北東は鹿島、息栖に3里という大河なので、昔から渡り難い浦とされており、香 取の浦、香取の海、香取の沖などを詠む古歌が多くある」(意訳)とあります。印旛沼(印旛浦)も香 取海に続く入り江でした。

§2 霞ヶ浦の生い立ち - 茨城県...2.2 霞ケ浦の誕生 湖岸の地層 霞ケ浦のまわりは、南東部にある香取海由来の低地を除くとみな台地です。台地は新

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  • 霞ヶ浦への招待 ファイル4

    §2 霞ヶ浦の生い立ち 2.1 古代、中世の「霞ケ浦」

    「霞ヶ浦」という名前 「かすみがうら」という名称は、『常陸国風土記』(710 年代の編纂)に載る「香澄郷」(かすみのさと、潮来市牛堀とその周辺に比定)に由来するといいます。『風土記』に

    は「大足日足天皇(景行天皇)が、下総国印波の「鳥見の丘」(現利根川南岸の台地だが比定地に諸説

    あり)から東を望まれ、お付きのひとに『海には波がゆったりただよい、陸には霞が朦朧とたなびいて、

    朕には(香澄郷のある)国が霞と波の中にあるように見える』と仰せられたことから、当時の人びとは

    この地を「霞の郷」と言っている」(意訳)とあります。「かすみ」は気象現象の霞ですが、「神住」

    (かみすみ、加住)、「浙み」(かすみ、水に潤うこと)とする説もあるようです。

    霞ケ浦はむかし「霞の浦」と呼ばれたようです。たとえば

    仄かにも 知られてけりな 東なる 霞のうらの あまのいさり火

    (順徳院 新後撰和歌集(1301 年編纂))

    のように、平安末期から鎌倉時代に詠まれた多くの歌に「霞のうら」が登場するので、「霞の浦」は都

    人(みやこびと)に伝聞として広く知られていたと思われます。「霞の浦」が「霞が浦」になったのは

    江戸時代らしく、歌枕の「霞関」も中世の「かすみのせき」が江戸時代に「かすみがせき」ち詠んだそ

    うです。「の」を「が」に置き換えるのは関東訛りと言います。

    「霞浦」を「カホ」と音読みにすれば西浦の雅称で、旧制土浦中学校の校歌に「カホの水」とあり、

    今は消えた霞浦劇場もカホ劇場と称していました。墨田川(隅田川)の川堤を江戸の文化人が墨堤(ぼ

    くてい)と呼んだようなものでしょう。

    流海・内海・香取海 『常陸国風土記』の行方郡の条は、「行方郡、東南(西)並流海、北茨城郡」

    とはじまり、このことから奈良時代の西浦、北浦が「流海」(読みはウミ、ナガレウミ、リュウカイ)

    と認識されていたことが分かります。赤松宗旦(現利根町の人)の『利根川図志』(1855 年ころの著作)

    に『仙覚抄』(万葉集註釈、成立は 1266~69、鎌倉時代の天台僧仙覚律師の著作)からの引用として「常

    陸の鹿島の崎と下総の海上(うなかみ)との間から遠くまで入り込んだ海があり、先は二流に分かれる。

    風土記はこれを流海(りうかい)といったが、いまの人は「内の海」という。この海の一流は鹿島郡と

    行方郡の間に入り、もう一流は、北は行方郡、南は下総国との境を経て信太(しだ)郡、茨城郡まで入

    り込む。この内の海は、ことに満ち潮のとき波が遡るので浪逆浦という」(意訳)とあるので、風土記

    時代の「流海」は室町時代に「内の海」(内つ海、浪逆浦)と呼ばれたようです(文中の海上は現在の

    利根川河口付近両岸から神の池あたりまでを含む古い郡名、信太郡は現在の阿見町・美浦村の全域と土

    浦市・稲敷市・牛久市の一部にまたがる郡名、中世の茨城郡は現在の石岡市、かすみがうら市の一部を

    含む)。

    狭義の霞ヶ浦の別名は西浦で、西浦の東に北浦があります。現在の香取市北佐原から稲敷市の旧東町

    地区を含む「内の海」の中心部は中世に「香取海」(かとりのうみ)、「香取浦」と呼ばれた浅い海で、

    香取海は鹿島流海(北浦)、香澄流海(西浦)に続いていました。香取海では平安時代の末期から海夫

    (かいふ、漁業水運従事者)が活躍し、彼らは香取神宮大宮司の支配下にあったそうです。香取海から

    みると北浦は北に、西浦は北西にあります。『利根川図志』の「香取浦」の項に「香取志(小林重規著、

    1833 年序の書物)いう、この海の西は利根川に続き、東は銚子に 10 余里、北は潮来に1里余、北西は

    「霞か浦」に 10 里余、北東は鹿島、息栖に3里という大河なので、昔から渡り難い浦とされており、香

    取の浦、香取の海、香取の沖などを詠む古歌が多くある」(意訳)とあります。印旛沼(印旛浦)も香

    取海に続く入り江でした。

  • 榎浦・谷原・常陸川 香取海の西は「榎浦」(えのうら)と呼ばれる内海でした。『常陸国風土記』

    に「信太郡、北信太流海、南榎浦流海」とあります。いま榎浦は堆積土砂で埋まり、新利根川両岸の水

    田地帯になっています(大重沼、平須沼、大浦沼などを榎浦のなごりと見ることができる)。

    榎浦の西、現在の龍ヶ崎市・利根町・河内町・印西市などにまたがる低地は『風土記』で「葦原」、

    のちに「谷原」(やわら、埜原)と呼ばれる帯状の湿地帯で、『風土記』に鹿の多いことが書かれてお

    り、奈良時代には鹿が住める程度に陸化が進んでいたと思われます。谷原には毛野川(衣河、絹川、明

    治以降は鬼怒川と記す)が注ぎました。谷原の西、現在の守谷市・柏市の間から菅生沼あたりまでの低

    地は「藺沼」(いぬま)という細長い湿地帯でした。

    「藺沼」の上流(現坂東市方面)は多くの池沼(大正時代に干拓された大山沼(前林沼)・釈迦沼(水

    海沼)・長井戸沼・鵠戸沼(くぐいどぬま)など)の落ち水を集める帯状の沼沢地帯で、平将門が活躍

    した平安時代に「東の広河、広潟」(あずまのひらかわ、ひらかた)、室町時代に「常陸川」(ひたち

    のかわ)と呼ばれたようです(常陸川はいま利根川の河道です)。古代から中世の霞ケ浦水域は香取海

    を中心に北と西に深く入りこむ浅い内海で、西の入り江の奥は帯状の湿地帯だったのです。

    榎浦のあたりがごく浅い内海であったことを物語るものに『今昔物語集』(1120 年代ころの成立と言

    う)の巻二十五(第九)に載る「源朝臣、平忠恒を責むる語」があります。今は昔、常陸守に任じられ

    た源頼信は、下総でわがままに振る舞う平忠恒を攻めようと軍勢を整え、衣河の尻まで来ると、そこは

    「海の如し」で、渡しの舟はみな隠されていました。忠恒の館はこの内海をはるかに入り込んだ向こう

    にあり、陸路を回れば 7 日もかかって急襲できません。頼信は、どうしたものかと思案中、ふと「この

    海には渡る幅一丈ばかりの道がある」との家伝を思い出し、「誰か道を知るものはないか」と家来に問

    うと、真髪高文という者が「私はたびたび渡りましたのでご案内しましょう」と答え、従者に葦(あし、

    ヨシ)一束を持たせて馬に乗り、うしろに葦を挿し挿し渡ります。葦を頼りに軍勢が続くと、途中泳ぐ

    ところが二ヶ所あったものの、全員無事に内海を渡ることができたというのです。

    この浅い内海は年月をふるに従って徐々に埋まってゆき、家康が江戸に入った 1590 年には一部の開田

    が可能となっていました。『利根川図志』の「十六島」の項に「本名新島 香取浦の洋中にある。香取

    志いう、何百年か経つうち洋中に自然に州ができ、年を経るごとに大きくなった。ここに天正 18 年(1590

    年)水陸田を開き、まず上島が完成」(意訳)とあります。

    香取海 榎浦

  • 2.2 霞ケ浦の誕生

    湖岸の地層 霞ケ浦のまわりは、南東部にある香取海由来の低地を除くとみな台地です。台地は新

    治(にいはり)台地・筑波稲敷(つくば・いなしき)台地・行方(なめがた)台地・鹿島(かしま)台

    地に区分され、これらをあわせて常陸台地、千葉県側(下総台地)を含めて常総台地と呼びます。台地

    の末端はたいてい崖です。崖に露出する地層を見ると、表面の黒土(土壌)の下に赤土の層があり、そ

    の下に砂礫や粘土の層が重なって、さらに下は比較的きれいな砂の層(貝殻が混じる)になっています。

    地質の専門家は赤土の層を関東ローム層、砂利混じりの層(竜ケ崎層)と粘土層(常総粘土層)を合わ

    せて常総層、比較的きれいな砂の層を成田層と呼んでいます。成田層は下総層群と呼ばれる地層群の最

    上部にあたります。

    地質学では、およそ 260 万年前から現在までを「新生代第四紀」と呼びます。第四紀は今から約 1 万

    年前まで(最終氷期の終わり)の「更新世」と、その後の「完新世」に分けます。湖岸の崖をつくる地

    層はすべて更新世の堆積物で、その堆積は霞ケ浦の誕生に深くかかわっています。

    古東京湾 放射性同位元素の分析などから、成田層の貝殻が 12 万年~14 万年前の堆積物であると分

    かっています。矢部長克(やべ・ひさかつ、1878~1969、わが国地質学の先駆者のひとり)は、成田層

    が北は常総台地から南は横浜の台地まで広く分布することに着目し、関東平野の一帯に広がり現在の鹿

    島灘方面に開く海湾を想定して、これを「古東京湾」と名づけました。その後、さまざまな調査が進ん

    で、今では霞ケ浦誕生の道筋を、およそ次のように考えています。

    古東京湾ができたころ 下末吉海進の初期 下末吉海進最盛期

    (菊地隆男「古東京湾」、URBAN KUBOTA 18 特集『関東堆積盆地』、16-21、1980 より引用)。

    霞ケ浦環境科学センター

    敷地の地層模式図

    深井戸掘削の試料から

    (原図)

  • 第四紀のはじめごろ、関東平野の一帯は房総半島の先端部と三浦半島の一部を残して海の底でした。

    上総海盆(かずさかいぼん)と呼ばれるこの海底地形の東縁は 1000m 級の深海となって太平洋に続いた

    ようです。200 万年ほど前になると、南部の海底が隆起して三浦半島が陸化するとともに、房総半島の

    南半が島となりました。このため三浦半島~房総島の北側にあたる現在の関東平野の一帯は広い海湾と

    なります。これが古東京湾で、古東京湾地域の堆積物が下総層群です。

    下総層群には4つの不整合面(層と層の重なりが乱れる面)があります。不整合面は海底の堆積層が

    陸化し浸食を受けて表面がでこぼこになり、その上に新しい堆積物が積もってできたと考えられます。

    繰り返しやってきた氷期の海面は現在より 80m から 100m~130m ほど低く、間氷期には海面が上昇したの

    で、古東京湾の浅海底は陸化と水没を繰り返したのです。氷期に海面が低下し浅海底が離水して海岸平

    野になると地表面は浸食され、その上に山地から延伸してきた川が砂礫を運び込みます。間氷期に海面

    が上昇すると砂礫層は海面下に沈み、その上に内湾性の泥が、続いて外洋性の砂が積もります。しかし、

    つぎの海退期になると、海はまた浅くなって浅海底に泥が堆積するようになり、離水すれば堆積面が浸

    食を受けます。海進と海退の繰り返しにともなって下総層群が堆積したのです。いちばん新しい海進期

    の堆積層が成田層です。

    下末吉海進と北浦の誕生 成田層が堆積した 12~13 万年前を中心とする海進を下末吉海進(「し

    もすえよし」は横浜市鶴見区の町名)と呼びます。古東京湾は下末吉海進より前から現在の西浦方面に

    達しており、西浦の北西部は海底谷の中にありましたが、下末吉海進で湾岸は涸沼方面に北進しました。

    石岡市街の北西、標高 40m ほどの地点にある「波付き岩」は、この時代の汀線の跡です。かすみがうら

    市崎浜の牡蠣殻層(かきがらそう)は、この時代の浅瀬で形成されたものです。

    下末吉海進のころ、古東京湾の東部(湾口付近)の海底が帯状に隆起しはじめました(鹿島・房総隆

    起帯)。この隆起が水の疎通を妨げて、古東京湾は閉鎖性を強めたようです。隆起帯の一部はやがて南

    北に並列する 2 本の帯となって離水し、台地となりました。この台地が現在の鹿島台地と行方台地です。

    ふたつの隆起帯に挟まれた区域は沈降して細長い谷となります。この谷が北浦の原型です。

    古鬼怒川三角州 下末吉海進はおよそ 10 万年前に終わり、海退の時代となります。8~10 万年前の

    西浦一帯は広い潟で、この潟に古鬼怒川(鬼怒川の前身)が山地から土砂を運んで堆積させ、大きな鳥

    趾状三角州を形成しました。この三角州が新治台地と筑波稲敷台地の起源で(小野川や一之瀬川・菱木

    川は鳥趾指の間の低地を流れる)、三角州をつくる堆積物が常総層です。このころ火山活動が活発とな

    り、古箱根火山などから飛来した火山灰が潟の水底に積もって常総粘土層となりました。

    古鬼怒川の浸食谷 およそ 3 万年前に最終氷期が訪れて海面はさらに低下し、同時に古東京湾地域

    の地盤が急速に隆起しはじめます。このため古東京湾の海底は平坦な台地にかわり、台地には山地から

    延伸してきた河川が谷を刻みました。そのころ那須・男体・榛名・赤城・浅間などの火山活動が活発に

    西浦中岸 崎浜の崖に露出する カキ殻の層

    (広報広聴課資料)

  • なって多量の火山灰を噴出し、飛来した火山灰が台地面に積もりました。この火山灰層が現在の赤土(関

    東ローム層)です(ローム層は陸成の火山灰層、粘土層は水成の火山灰層です)。

    右上 鳥趾状三角州形成時代の霞ケ浦域

    (井内美郎・斉藤文紀、「霞ヶ浦」、URBAN KUBOTA 32、特集「海跡湖」、56-63、1993 より引用)

    西浦で行われた湖底ボーリング調査は、現湖底の下約 20m に幅広い樋状の平坦面が埋まっていること

    を明らかにしました。平坦面には 2 本の谷が刻まれ、谷底は現在の湖面下約 50m に達しています。平坦

    面に載る礫は安山岩・石英斑岩など鬼怒川上流域に分布するもの、谷底の礫は花崗岩など筑波山方面に

    分布するものです。このことから、およそ 2.9 万年前(礫に挟まる材について年代測定、もう少し早い

    時期かもしれない)に古鬼怒川が現在の古里川低地(旧大和村)から桜川~西浦~鹿島灘(河口は現在

    の軽野の先あたり)の筋を流れて樋状平坦面を形成したと考えられました。桜川低地と霞ケ浦で採掘さ

    れてきた砂利(土浦礫層)は、この時代の古鬼怒川が山地から運びこんだものです。

    西浦湖底の地層断面(池田宏ほか、筑波の環境研究2、104~113、1977 より引用)。

    下 常総粘土層が堆積する

    時代の関東平野 (菊地隆男「古東京湾」、 URBAN KUBOTA 18、特集「関東堆積盆地」16-21、 1980 より引用)

    KM:霞ヶ浦泥層

    TG:古鬼怒川が運んだ

    礫(土浦礫層)

    BG:桜川の原型が運んだ礫

  • およそ 2 万年前(最終氷期の最盛期)になると古鬼怒川は元の小貝川筋に戻り、古鬼怒川が作った平坦

    面を桜川と恋瀬川の原型が流れるようになります。そのころの海面は現在より 80mほど低く、古東京湾

    は消滅していたので、桜川と恋瀬川の原型が樋状平坦面を海側から深く掘り込んで 2 本の溝を刻んだの

    です。最終氷期は 1 万数千年前に終りに近づき、海面が上昇して古鬼怒川が作った凹地を海水が満たし

    はじめます。こうしてできた海湾が西浦の原型です。そのころの気候は温暖化と寒冷化を繰り返し、お

    よそ 1.1 万年前(海面は現在より約 40m 低い)の西浦は広い沼沢地だったようで、繁茂していた植物の遺

    骸が泥炭層(厚さ約 1m)となって湖底に埋もれています。

    西浦周辺低地の形成過程

    (左 井内美郎・斉藤文紀、「霞ヶ浦」、URBAN KUBOTA 32、特集「海跡湖」、56-63、1993 より引用)

    (右 池田宏ほか、「筑波台地周辺低地の地形発達」、筑波の環境研究2、104~113、1977 より引用)

    古鬼怒湾(縄文海進) その後も温暖化が進んで海面は上昇し、約 6 千年前の海面は現在より 3m

    ほど高くなりました。この海進を「縄文海進」(有楽町海進)、縄文海進で古鬼怒川旧河道にできた海

    湾を「古鬼怒湾」と呼びます(東京湾側には「奥東京湾」が形成されます)。海進の最盛期はおよそ 5000

    年前(縄文時代中期)で、3000 年前(縄文後期から晩期)になると気候は弥生の小寒冷期に向かい、海

    は退きはじめます。この海退のようすは周辺の台地に分布する貝塚を年代別に整理することで追跡され

    ています。海退期の古鬼怒湾では河川が運び込む土砂が湾口に堆積し、また海砂が潮汐三角州をつくっ

  • て湾口を塞ぎました。このため古鬼怒湾は湖沼の性質を強めます。西浦の湖心で堆積が進み始めたのは

    約 2500 年前(弥生時代早期)と推定されています。

    気候が寒冷化に向かうと樹林(木の実や狩猟動物)が変るとともに、海が退いて浅海性漁労が困難に

    なりました。これを契機に縄文から弥生への生活様式転換が進んだとされています。海退で奥東京湾は

    消滅し、海岸線はほぼ現在の東京湾岸まで退きましたが、古鬼怒湾側では霞ケ浦が残り、漁労の継続を

    可能にしました。このため霞ケ浦地域では縄文の生活様式が比較的遅くまで続いたということです。

    (井内美郎・斉藤文紀「霞ヶ浦」、URBAN KUBOTA32 特集「海跡湖」 56-63、1993 より引用)

    海湾から湖へ 弥生の小寒冷期が終わると平安時代を中心とする小温暖期が訪れます。鎌倉時代か

    ら室町時代にかけての関東南部では海面が現在より 2m ほど高かった可能性があり、その影響もあってか

    霞ケ浦は 14 世紀ころまで海の姿を残しました。しかし、やがて海面が低下するとともに湾口では堆積が

    進みます。西浦の汽水化は 15 世紀~17 世紀に進んだと考えられています(湖底堆積物の調査による)。

    西浦の湖底約 50cm の深さにヤマトシジミ(汽水性)の貝殻層があり、これは 15~16 世紀の堆積と考え

    られます。香取海では堆積が進み洲が発達して、16 世紀末(1590 年)に新島(十六島)が開田します。

    海との水の交換が西浦より容易であった北浦の汽水化は西浦より遅れ、18 世紀であったと考えられま

    す。北浦では富士宝永火山灰層(1707 年噴出)より新しい湖底堆積層で海洋性の珪藻(けいそう)が消

    え、その後 100 年ほどで汽水性の種類も消滅して、淡水性の種類ばかりとなっています。18 世紀はヨー

    ロッパから日本にかけての小寒冷期で、海面が少し低下した可能性があり、これが北浦、西浦の淡水化

    に寄与した可能性もあります。

    霞ケ浦の浅化を早めた要因のひとつに 1783 年 8 月(天明 3年 7 月)の浅間山噴火による降灰(浅間 A)

    があります(降灰は佐原で 3cm 程度か)。火山灰は自然に川に流れ込みますが、それに加えて人々が田

    畑に積もった灰を川に運んで捨てたため、利根川や霞ケ浦下流部の河床が著しく上昇したのです。1823

    年(文政 6 年)麻生村提出の嘆願書(茨城県史料近世社会経済編Ⅱ286)に「近年は不漁が続くが、麻生

    前は先年から六、七尺も埋まり、このごろは深いところで三、四尺、浅い所は一、二尺となって、魚も

    陰を隠しかね、自然と寄り付かなくなっている」(意訳)とあります。

    西浦の湖底に埋まる谷地形 堆積する

    沖積土の下に埋まる谷の等深線図

    (新藤静夫ら原図)。

  • 縄文期貝塚の分布(○印) K:古鬼怒湾 O:奥東京湾

    (羽鳥謙三「関東ロームと関東平野」、URBAN TKUBOTA 11 特集『第四紀の日本列島』、12-17、1975

    より図を引用し文字を加筆)。

    2.3 利根川の東遷

    鬼怒川水系 鬼怒川はいま利根川の支流ですが、江戸時代より前の鬼怒川は利根川と別の大河で、

    榎浦~香取海の堆積地を貫流し銚子口で海に注いでいました。霞ケ浦は鬼怒川水系の湖だったのです。

    鬼怒川水系の東端は北浦、西端は常陸川です。鬼怒川水系の西に渡良瀬川水系があり、渡良瀬川は平野

    部で太日河(布止井川、ふといかわ、江戸川の原型)となって旧江戸川河口付近(現在は旧江戸川放水

    路を江戸川としている)で海に注いでいました。そのさらに西が利根川水系で、利根川は荒川を(最下

    流部で入間川も)合わせて住田川(隅田川)となり、いまの隅田川河口付近、荒川を分離したのちは中

    川河口付近で海に注いだようです。渡良瀬川と利根川は羽生~栗橋付近で絡み合い、二つの川に挟まれ

    た地域は両川が乱流する湿地帯でした。

    利根東遷 「利根川の東遷」と呼ばれる工事は徳川家康が関東に封じられた 1590 年から江戸時代初

    期の 1654 年まで、中断を挟みながら約 60 年をかけて実施された大規模な「瀬替え」(河道の付け替え)

    の工事です。この工事は第一に利根川の流路を整理し、第二に利根川と渡良瀬川を合流させ、第三に太

    日河を改修して江戸川を起こし、第四に利根川と常陸川を連結する新河道(赤堀川)を掘削しました。

    これによって利根川の洪水が常陸川筋を下るようになり、霞ケ浦の堆積、洪水と水運に大きな影響を与

    えました。

    利根東遷の工事内容はたいへん複雑ですが、霞ケ浦との関係からは大きく2つに分けることができま

    す。その一は①「会ノ川の締切り」(文禄 3 年、1594 年完成)、②「新川通りの開削」(元和 7年、1621

    年完成)、③「権現堂川の開削」(寛永 18 年、1641 年完成)の3工事で、乱流を整理して利根川と渡

    O

    K①

    ② ③ ④

    ① 榎浦・谷原の低地 ② 鬼怒川・小貝川の低地 ③ 広川(常陸川)の低地 ④ 利根川・渡良瀬川の低地

    香取海

  • 良瀬川を合流させましたが、常陸川(霞ケ浦)と直接の関係はありません。権現堂川(ごんげんどうが

    わ)は現在の茨城県五霞町と埼玉県久喜市・幸手市の境となる下総(現茨城県となる部分)と武蔵(現

    埼玉県となる部分)の国境の川ですが、1928 年に廃川となり、1992 年に調整池とする工事が完成してい

    ます。

    その二は④「江戸川」の開削、⑤「逆川」の開削(寛永 18 年、1641 年完成)と⑥「赤堀川」の開削

    (承応 3 年、1654 年完成)です。江戸川は太日川(庄内川)を改修した新河道、逆川(ぎゃくかわ)は

    権現堂川と赤堀川をつなぐ水路、赤堀川(栗橋~境間)は渡良瀬川と合流した利根川を常陸川につなぐ、

    赤土の台地を掘って作った水路です(赤堀川はいま利根川の本流です)。赤堀川の開削は、現古河市、

    境町と陸続きであった現五霞町を川向こうの埼玉県側に切り離しました。この工事の結果、栗橋で渡良

    瀬川と合流した利根川はすぐ2分岐し、北側は赤堀川経由で常陸川に、南側は権現堂川経由で江戸川に

    連結することになりました。逆川が赤堀川と権現堂川をつないでいます。こうした形に変えられた利根

    川を『利根川図志』はつぎのように記しています。

    上野国(群馬県)藤原の奥から渡良瀬川との落合(合流点)までを上利根川という。その下、栗

    橋の関所の前に渡しがあり、これを房川(ぼうかわ)ノ渡という。以下2川に分かれ、南を権現堂川、

    北を赤堀川という。権現堂川は2里ばかりで関宿に至り、赤堀川から分岐した逆川を合わせて江戸

    川となり、下総国葛飾郡堀江新田(現江戸川区堀江)で海に注ぐ。赤堀川は権現堂川との分岐から

    1里半ばかりで逆川を分け、平時の逆川は江戸川に落ちる。洪水時は関宿の杭出しに遮られて川(逆

    川)が逆流し中利根川に落ちる。赤堀川の下は中利根川となり、6里を下り蚕養川(こかいがわ)

    との落合の下で下利根川となって銚子に落ちる(引用者意訳)。

    この記述から、東遷工事で利根川の本流が江戸川に移るとともに、赤堀川~常陸川が江戸川の放水路に

    なったことが分かります(逆川は平時に西流して江戸川に、増水時は東流して赤堀川に落ちた)。文中

    の「杭出し」(ふつう「棒出し」と呼ぶ)は江戸川の飲み口に作られた水制です。『利根川治水史』(栗

    原良輔、1943)によると「棒出しは川幅を狭めて流量を調節する構造物で、はじめは乱杭を打っていた

    が、のちに両岸から堤防を突き出し、その法面を三段に石枠で固め、その先に長い杭を打ち詰めたもの」

    でした。江戸川の流量を制限して洪水を中利根川(常陸川)に落とすための仕掛けです。

    掘削当初(1621 年)の赤堀川は幅 7間と狭く、河床が高くて水が流れなかったようです。1625 年に 3

    間拡幅しますが十分でなく、1654 年に拡幅と掘り下げを実施して、ようやく利根川の洪水が常陸川筋を

    栗原良輔(1943) 『利根川治水史』、 p133 の図をもとに作図

  • 流れるようになったといいます。赤堀川はその後も改修され、1698 年には川幅 27 間(49m)深さ2丈 9

    尺(8.7m)になっていました。天明の浅間噴火で河道は一変しますが、文化 6 年(1809 年)の改修で赤

    堀川は幅 40 間(72m)となり、利根川の洪水がおもに常陸川筋を流れ下るようになったのです。

    もともと水量の少なかった常陸川が利根川の洪水を受けるようになると、中流で下刻作用が、下流で

    堆積作用が進んで霞ケ浦の洪水が頻発するようになりました。

    利根東遷の理由には諸説(江戸の水防、東北諸藩に対する防衛線、湿地の開田、舟運の確保など)が

    ありますが、現在は全体計画に基づくものでないとの説が有力で、開拓が主目的と思われるものの、日

    光街道の整備が目的だとする説もあります。江戸川、荒川の周辺は奥東京湾が残した湿地で、耕地化す

    るには排水が必要だったのです(戦国の合戦録に泥中で身動きがとれず大勢が討ち取られる話がありま

    す)。利根川東遷の工事と同時に、江戸川と中川を結ぶ新川および中川と隅田川をつなぐ小名木川(2

    川とも行徳と江戸を結ぶ運河)が改修されて、銚子、霞ケ浦と江戸をつなぐ舟運が開かれました。

    江戸時代の新島付近 江戸時代初期の利根川下流は現在の横利根川~北利根川~浪逆浦の筋を流

    れて無堤でしたが、新島での新田開発が進むにつれて居村の周囲に水除堤(輪中堤)が築造され、やが

    て連続堤になると河道が確定して、1720 年ころに横利根川が定まったようです。1740 年の大洪水のあと、

    利根川の河道は横利根~北利根の筋から佐原新堀川(佐原~浪逆浦)に移って、横利根、北利根は派川

    (本流から枝分かれする川)となります。西浦の湖水は横利根(ときに逆流する)、北利根を経て下利

    根に落ち、この地形は明治 10 年代測量の迅速測図(第一軍管地方二万分一迅速測図)に見ることができ

    ます。

    新利根川の開削 1662 年(寛文 2年)、現在の利根町押付から「谷原」の地を掘って新島(稲敷市

    上之島)まで、約 35km に及ぶ新川(谷原新川、新利根川)の開削がはじまりました。新川は 4 年後に完

    成、布佐と布川の間に堤を作って利根川を塞ぎ利根川の水を導入しました。しかし、水路が直線的なの

    で乾きやすいうえ、氾濫すれば大被害をもたらすので元に戻すことになりました(新川は揚排水路に使

    う)。流頭を締め切り、利根川の塞ぎを取り外し、羽根野に水門を設け蚕養川の水を堰き入れる工事が

    1670 年に終わっています(堰は天保年間に豊田に移され、豊田堰はいまも残る)。新利根川が利根川と

    して機能したのはわずか 3 年です。新川をなぜ開削したか定かではありませんが、谷原、手賀沼、印旛

    沼の排水、開拓が目的に含まれていただろうと想像できます。

    このほか江戸時代初期には鬼怒川と小貝川の分離、鬼怒川河口の付け替え(大木丘陵を掘削)、小貝

    川河口の付け替え(羽根野台地を掘削)、利根川狭窄部の新設(布佐~布川間の台地を開削)が行われ

    ています。これらは印旛沼・手賀沼・谷原の開拓と常陸川(利根川)の水量増加による舟運の利便性向

    上などを狙ったものと思われ、工事でできた地形は現在に引き継がれています。工事はみな台地を掘っ

    て川を通していますが、洪水を台地に当てて上流側を遊水池とし、下流の増水を軽減する策であったよ

    うです。

    利根東遷の完成 歴史としての「利根東遷」は江戸時代初期の出来事とされますが、河川工学的に

    みると、利根川の河口を銚子口とする工事の完成は昭和 5 年(1930 年)と考えるのが妥当です(江戸時

    代の東遷工事は利根川河口を旧江戸川河口に固定した)。中利根川は浅間噴火後の赤堀川改修で洪水流

    量が増したものの、平時の流量は少なかったようです。赤堀川は毎年底浚えをしても舟運の確保が困難

    で、冬には 2 週間も舟が動けないことがあり、その打開策として明治になってから利根運河(野田運河)

    が開削されています。

    利根川筋はたびたび洪水に見舞われ、その抜本改修が明治 10 年代から叫ばれましたが、財政の逼迫か

    ら実現できませんでした。大氾濫が明治 18 年、23 年、29 年と続き、そのころ足尾の鉱毒が顕在化しま

    す。政府は行徳(現市川市)の塩田に毒水を入れないよう、明治 31 年(1898 年)に江戸川への流入を

    強く制限しました(棒出しを幅9間とする)。これによって中利根の流量は増したと考えられます。こ

  • うしたなか、明治 32 年(1899 年)に利根川の大改修計画がようやく帝国議会を通過し、翌明治 33 年(1900

    年)から 30 年計画の近代工法による利根川水系改修工事が佐原から始まりました。これによって浪逆浦

    に入っていた利根川は現河道をとるようになり、江戸川の棒出しは撤去されて水閘門に変わります。利

    根川本川と江戸川、中川を含めた利根川大改修が完成するのは昭和 5 年(1930 年)です。これによって

    上利根川の水が常時常陸川筋を下るようになり、「利根川河口は銚子」と言えるようになったのです。

    横利根閘門付近の利根川(1962 年) (広報広聴課資料)

    1951 年潮来の水路 (広報広聴課資料)