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■発行元:JICA横浜 海外移住資料館 神奈川県横浜市中区新港2-3-1 JICA横浜2階 Tel:045-663-3257(代)URL:http://www.jomm.jp/  ■編集発行人:JICA横浜 海外移住資料館 館長 小幡 俊弘 Japanese Overseas Migration Museum News No.40 2015 Autumn 上:バンクーバー「朝日」(1926年)★ 中:補償規約に署名後に握手をかわ すブライアン・マルローニー首相 (右)とアート・ミキ全カナダ日系人 協会会長(1988年)★ 下:「バンクーバー新朝日」(2015年) ★写真は全て日系文化センター・日系博物館提供

2015 発行元 : JICA横浜 海外移住資料館 Autumn …2015 Autumn 上:バンクーバー「朝日」(1926年) 中:補償規約に署名後に握手をかわ すブライアン・マルローニー首相

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■発行元 : JICA横浜 海外移住資料館  神奈川県横浜市中区新港2-3-1 JICA横浜2階  Tel:045-663-3257(代) URL:http://www.jomm.jp/ ■編集発行人 : JICA横浜 海外移住資料館 館長 小幡 俊弘Japanese Overseas Migrat ion Museum News No.40

2015Autumn

上:バンクーバー「朝日」(1926年)★中:補償規約に署名後に握手をかわすブライアン・マルローニー首相(右)とアート・ミキ全カナダ日系人協会会長(1988年)★

下:「バンクーバー新朝日」(2015年)

★写真は全て日系文化センター・日系博物館提供

 バンクーバー市は、カナダ西海岸ブリティッシュ・コロンビア(BC)州に位置する港町です。1887年にバンクーバー・横

浜間の太平洋航路が就航し、1920 年代にかけて 多くの日本人が横浜港からバンクーバーへ移り住みました。

 バンクーバー・横浜両市はこうした歴史的な結びつきから、1965年に姉妹都

市として提携し、今年で50年となります。

 当資料館では、カナダの日系文化センター・日系博物館の協力のもと、常設

展示パネルをほぼそのまま再現し、横浜・バンクーバー姉妹都市提携50周年記

念企画展示「TAIKEN体験-日系カナダ人 未来へつなぐ道のり-」(後援:横浜

市)を10月24日(土)から2016年2月7日(日)まで開催します。

 カナダの日系社会が次の世代に伝えようとしている一世、二世の世代が乗り

越えてきた「体験」を紹介します。

 1877年に一人の日本人がカナダに渡って以来、新天地を夢見てカナダへと渡った日本人は、その数が厳しく制限される1928年頃までに3,500人にものぼります。しかし、そこで待ち受けていたのは差別や過酷な労働という厳しい現実でした。そうした苦境を乗り越えようとしていた矢先、第二次世界大戦が勃発。1942年には、約2万人以上の日系カナダ人は財産を没収され、強制収容所に抑留されました。 戦後しばらく経った1970年代から日系カナダ人たちによって損害賠償を請求する運動が開始され、1983年に訴訟が起こされました。その結果1988年9月に、カナダ政府は個人だけでなく、日系社会に対して損害賠償を行うことを決定しました。この補償金を管理するために日系カナダ人補償基金が設立され、その基金をもとに2000年9月、BC州バーナビー市(バンクーバー市の東に隣接)に「日系プレース」が建設され、日系文化センター・日系博物館(下写真★)がオープンしました。

2015年10月24日(土)~2016年2月7日(日)

日系文化センター・日系博物館

バンクーバー市を訪問し、グレゴール・ロバートソン市長と握手する林文子横浜市長(2015年6月)

タール紙で作られた小屋が並ぶタシメ収容所(1942年)★

 1939年、イギリスがドイツに宣戦布告すると、イギリス連邦に属するカナダも戦争協力体制になりました。1941年12月7日、日本がハワイの真珠湾を攻撃すると、カナダも日本に宣戦布告し、1942年3月から11月までの間に、約21,000人(BC州からは約12,000人)以上の日系人が、BC州沿岸から100マイル(約160km)までの「防衛地域」外に立ち退きを命ぜられ、強制収容所での生活を余儀なくされました。道路建設や農場での労働を強いられた人もいました。 また、日系人の財産はそのまま保管されるという約束があったにも関わらず、強制収容のための経費という名目で、家、車、船、機械などの財産は没収され、売却処分されてしまいました。

❸強制収容と財産の没収

 強制収容所は土地の起伏が激しく、過酷な気候条件下にありました。牢獄のような収容所の小屋は、板とタール(※)を染み込ませた紙で作られていて、電気、水道、暖房なども不足していました。その小屋は3部屋に区切られ、中央の部屋にのみストーブが配置されていました。寒い冬には部屋のなかにも氷柱ができるほどで、厳しい生活条件の下、たくさんの人が病気になりました。それでも収容された日系人たちは強い絆で結ばれ、お互いに助け合い、耐えしのんで生活していました。※石炭からコークスを製造するときに出る黒褐色の粘り気のある油状の液体。

❹強制収容所での生活

 1877年5月、長崎県人永野万蔵がイギリス船でブリティッシュ・コロンビア州(BC州)へ上陸します。1855年に生まれた永野は大工の見習いをしていましたが、船の修理を手伝っているうちにカナダ行きを決意したと言われています。フレーザー川でのサケ漁とともに製材所やレストラン、ホテルなどの経営に手腕を発揮し、特に日本向けの塩鮭の製造で成功しました。しかし、運悪く火災で財産を失ってしまい、晩年に帰国しました。 ハワイへの官約移民が始まったのは1885年。カナダへの本格的な移民は、そのハワイからアメリカ大陸へと転住する人が現われるようになってからですが、カナダ日系社会では最初にカナダに渡った永野に敬意を表し、1877年を日本人移民の始まりとしています。 横浜・バンクーバー間に太平洋航路が開設されたのは、1887年です。日本人移民は太平洋沿岸の北部から南部まで、そしてフレーザー川流域にある農場、漁村、鉱山、製材工場、パルプ工場などで働きました。

❶最初の日本人移民

永野万蔵とその家族(1910年頃)★

1928年に開館したカナダ、バンクーバーの日系会館。日本語学校の隣に建設された。国王ジョージ6世(※)はカナダ訪問を祝したパレードに正装で参列(1939年)★※カナダの元首はイギリス国王が兼任している

 1890年代になると、日系人は商店、ホテルなどをバンクーバーのパウエル街で始めました。そこは日本人労働者を多く雇用していたヘイスティングス製材所の近くで、第二次世界大戦まで日系人最大の移住地でした。初期の移住者の多くは広島県、滋賀県、和歌山県、鹿児島県などから移住した独身の若者たちでした。 日系カナダ人のコミュニティはBC州のバンクーバー、ヴィクトリア、スティーブストンを中心に広がり、日本雑貨店、日本語学校、仏教会、日本語新聞社などが誕生しました。1907年には、BC州の日系人の人口は18,000人を超えています。

❷B C州と日系人ブリティッシュ・コロンビア

 1967年に移民法が変わり、新しい移民(新一世)が日本から移住してきました。彼らが、茶道やいけばな、折り紙、舞踊、武道など日本の伝統文化を新たに伝えることにより、カナダ日系人のアイデンティティーを再び目覚めさせました。 1977年、カナダ日系社会は永野万蔵がカナダに到着したことを祝う「日系カナダ人100年祭(第1回パウエル・ストリート・フェスティバル)」を行いました。これは、一世、二世、三世らがカナダに貢献してきたことを再確認し、日系カナダ人であることの意味を考える良い機会となりました。

❺日本からの新たな移民

 1970年代になり、日系カナダ人たちは戦争中の権利の侵害に対して行動を起こすことを決め、1983年にナショナル日系カナダ人協会(NAJC)は強制収容や財産没収に対して訴訟を起こしました。その結果1988年9月22日、カナダ政府は「戦時中の不当行為を認めること」「資格を有するカナダ人に1人あたり21,000ドルを支払うこと」「コミュニティの再建基金として1,200万ドルを拠出すること」「戦時措置法※によって罰則を受けた人々の犯罪歴を抹消すること」「日本に国外追放させられた人々にカナダの市民権を回復すること」「カナダ人種関係基金の創設(1997年に設立)」を発表し、お互いに合意に至りました。※カナダの法令で、カナダ政府が非常事態に権限を持つことを認めるもの

❻補償のための闘い

国会議事堂前でデモ行進をする日系人(1988年)★補償規約に署名後に握手をかわすブライアン・マルローニー首相(右)とアート・ミキ全カナダ日系人協会会長(1988年)★

 2015年3月、横浜市とカナダ・バンクーバー市の姉妹都市提携50周年を記念して、両市の少年たちによる親善試合が横浜市内で行われました。 親善試合のために来日したのは、13歳から15歳の日系少年の野球チーム「バンクーバー新朝日」のメンバー15人です。「バンクーバー新朝日」とは、第二次世界大戦前にカナダで活躍し、日系社会の誇りとなりながら、戦争によって消滅してしまった日系二世の野球チーム「バンクーバー朝日」の創立100周年を記念して、「朝日」の名を引き継ぎ2014年に結成されたチームです。 試合の後、当資料館を見学した新朝日の投手シンクレア孝ノ助さん(13)は、「日系カナダ人の歴史には、たくさんの苦労を乗り越えた強さを感じます。朝日軍の伝統を受け継いでいきたい」と話してくれました。

❼伝統をつなぐ

資料館を見学する「バンクーバー新朝日」の選手たち

永野万蔵がニュー・ウェストミンスターに到着。カナダに最初に定着した日本人となる。グランビル・タウンという名称が変わり、バンクーバー市となる。人口は1千人、日本人は13人だった。バンクーバーに日本国総領事館が創設される。日本人人口は約50人最初の日本語学校がバンクーバーで設立される。1906年から1908年の間に9千人以上の日本人移民がカナダに入国する。日本人移民が年間で男性400人、家事使用人に限定される。「写真花嫁」のシステムによる写真結婚が広がる。日系二世の野球チーム「バンクーバー朝日」が結成される。第一次世界大戦時、カナダへの忠誠を示すため、200人以上の日系カナダ人がカナダの軍隊に志願する。ブリティッシュ・コロンビア州政府は、「白人住民以外」の人々に対する漁業許可証の発行数を減少させる。その後の5年間日本人に対する発行数が減り続ける。日系カナダ人の製材所労働者が、日系カナダ人の最初の労働組合を組織する。第一次世界大戦に参加した一世の退役軍人に日系カナダ人としては唯一参政権が与えられる。日本がハワイの真珠湾を攻撃し、カナダが日本に宣戦布告する。カナダ海軍により1200隻の日本人所有漁船が没収される。日本語学校は閉鎖される。沿岸100マイルの「保護地域」からの日系カナダ人が強制移動させられる。日系カナダ人は敵性外国人資産管理局に資産や所有物を引き渡すよう命令される。カナダ政府が日系カナダ人を、国内に分散するか日本へ送還することを発表する。最終的に3,964人が日本へ送還される。日系カナダ人は全面的な市民権と参政権を獲得し、カナダ国内を自由に移動できるようになる。アレキサンダー街のバンクーバー日本語学校が再開される。戦後唯一、日系コミュニティに返還された建物となる。日系カナダ人市民協会(JCCA)により、「月報」創刊号発行トロントで日系文化会館(JCCC)設立横浜市とバンクーバー市が姉妹都市提携を結ぶ第1回パウエル・ストリート・フェスティバルがオッペンハイマー公園で開催国会議事堂前で戦時中の扱いへの補償問題にサポートを訴えて日系人が結集補償問題の和解、ブライアン・マルローニー首相が戦時中の日系人への不当な扱いに対して正式謝罪日系カナダ人の人口が8万5000人を越える。日系少年野球チーム「バンクーバー新朝日」結成横浜市とバンクーバー市が姉妹都市提携50周年を迎える。

1877年1886年

1889年1906年

1908年

1914年

1916-1917年

1919年

1920年1931年

1941年

1942年

1945年

1949年

1952年

1958年1964年1965年1977年1988年

2001年2014年2015年

企画展示関連イベント

在バンクーバー日本国領事館(1905年頃)★

バンクーバー朝日の写真(1938年)★

収容所が建設されるまでの一時収容所。広い展示場に何百もの二段ベッドが置かれた(1942年)★

横浜市とバンクーバーの姉妹都市提携50周年を記念して「バンクーバー新朝日」が来日(2015年3月)

アレキサンダー街のバンクーバー日本語学校の教室の様子(1908年頃)★

ゴードン門田 日系文化センター初代理事長11月28日(土) 14:00~15:30 JICA横浜1F 会議室1

二つの母国 ~カナダ社会における  日系人の歴史と現在~

入場無料・予約不要特別講演

補償規約に署名するブライアン・マルローニー首相(左)とアート・ミキ全カナダ日系人協会会長(1988年)★

 JICAではカナダと中南米で日本語学校に通う13歳~16歳の日系人の生徒を対象に「日系社会次世代育成研修」を行っています。この研修では1カ月の日本滞在中に、中学校への体験入学、ホームステイなどを通じて、新しい世代間の交流を深めています。 今年の6月に来日し研修を受けたカナダの生徒は「僕の未来の目標は日本語を続けて日系人でいるプライドを持つことです」と感想を寄せています。

特別講演

そろばんの授業を受ける生徒たち

カ ナダ 日 系 移 民 年 表

  日本とカナダ 次世代の交流深める

JICA横浜 海外移住資料館

アクセス 

●開館時間●休 館 日

●入 館 料

10:00~18:00(入館は17:30まで)月曜日(月曜日が祝祭日の場合は翌日)、年末年始(12月28日~1月4日)無料

「馬車道」駅(4番出口)から徒歩約8分 「みなとみらい」駅(クイーンズスクエア方面改札)から徒歩約15分

「桜木町」駅から(汽車道→ワールドポーターズ→サークルウォーク)徒歩約15分  

みなとみらい線

JR線・市営地下鉄

TOPICS海外移住資料館や海外移住にまつわる

さまざまな情報をお届けするコーナーです。

モルフィーちゃん(海外移住資料館マスコットキャラクター)

 当資料館は2002年10月4日のオープン以来、9月11日に入館40万人を達成しました。 2013年3月に30万人目をお迎えしてから2年6カ月。20万人から30万人まで3年4カ月かかったのに比べ1年近く早く達成できました! 40万人目の来館者は、博物館実習で来館した関西大学の学生14人。記念セレモニーで、代表の舟越寿尚さんがくす玉を割ると、「祝 海外移住資料館入館者40万人達成」の垂れ幕が現れ、大きな歓声があがりました。小幡俊弘館長から40万人記念証明書と記念品を受け取った舟越さんは、「予期しない出来事に驚きましたが、いい思い出となりました」と話しました。 小幡館長は「40万人目の来館者をお迎えすることができてとても嬉しい。これからも多くの方々に来館していただけるよう努力していきます」と挨拶しました。

40万人目の来館者となった舟越さん(後列右から3人目)と、関西大学のみなさん

 横浜市と市教育委員会が主催する「子どもアドベンチャー2015」が8月18、19日に行われ、当資料館では初めての企画「ミニ資料館を作ろう!」を実施しました。 小学4年から中学3年までの9人の子どもたちが、自分で資料を選び、解説文を考え、写真を撮って、パネルを作り展示。最後に、自分の調べた資料についての発表を行いました。 参加者からは「資料を調べるだけでなく、どうやって展示するかを考え、工夫してやることができ楽しかった」、「古い資料を実際に手に取ることができて、わくわくした」などの感想が寄せられました。

常設展示場内に作られた「ミニ資料館」の前で

大好評!!子どもアドベンチャー「ミニ資料館をつくろう!」

「日本人と海外移住」JICA横浜・日本移民学会共同開催

「在日ニューカマー:在日ブラジル人を中心に」● アンジェロ・イシ(武蔵大学教授)

「在日オールドカマー」● 李 洙任(龍谷大学教授)

「移民研究の現状と展望」● 飯野正子(津田塾大学名誉教授)● 浅香幸枝(南山大学准教授)

第10回 10月31日(土)  13:00~14:30

第11回 12月5日(土)  13:00~14:30

第12回 2月27日(土)  13:00~14:30

公開講座シリーズ

リー イムスー

入場無料予約不要

資料館来館  40万人を達成!