信長公御物 薬研藤四郎 畠山尾張守政長持、居城河内国正覚寺へ細山政元、同義豊責寄せ候時に明慶九 年四月九日政長生害の節、此短刀にて腹切むと三度まで突立けれども通らず、名 作とて持傅へたれど無益の道具かな迚擲すてければ、傍らに有之ける薬研へ突 立、表裏二重に貫き通す、主の別を思ふ故か、丹下備前守信国鵜首造りの脇差に て我腹を二度まて突き、刃味よし是にて遊ばされ候へ迚出す。其にて腹切る夜る の事なり、元亀四年正月十日松永弾正父子尾州岐阜へ参向の刻、信長公へ上る京 都本能寺にて焼る。 ※↑ここまで刀剣名物帳原書?(徳川吉宗時代)※ ※↓ここから大正 9 年編纂時書き添え?※ 右の説明は「畠山記」に記すところによりたるものなり、この小刀もとは足利 家の物なり、「明徳記」に御所様(義満の事)其日の御装束はわざと御小袖をば 召されず、ふすべ革の御腹巻の中二通り黒皮にて威したるを召し、同毛の五枚甲 の緒をしめ、累代御重賽と聞こへし篠作と云御佩刀に二銘と云御太刀二振りそへ てはかせ給ふ、薬研通しと云御腰の物をささせたもう云々とあれば、足利家の物 なるは明かなり。(この文中篠造と二ッ銘を別の刀の如く書きたるは作者のあや まりなり二ッ銘は一文字則宗にて二字銘なる故に二ッ銘と云、篠造とも言ふは拵 えに笹の紋あるが故なり)この薬研藤四郎、本能寺にて焼たるのち、太閤の手に 入りしなるべし「難波戦記」に秀頼御最後の時薬研藤四郎と云刀と骨喰と云刀焼 失したりと云りと記せり其後の事詳かならず、明暦三年徳川家名物焼失目録にも この刀の名は見えず。 「薬研」の由来 成立時期についての疑問 前段で紹介されている「畠山政長の自害」は 1493 年の事件であ り、後段の「明徳記」の成立は 1391 年の明徳の乱直後と言われてい る。つまり、薬研通しの由来であるはずの事件の 100 年前に、既に薬 研通しと記載されている。 これが正しければ、「腹が切れず、怒って投げたら薬研を通した」 のではなく、「(元々なにかの謂れで)薬研も通すと評判の刀であっ たのに、主人の腹は切れなかった」という可能性がある。 現在確認のため、畠山記、明徳記、信長公記を取り寄せている。進 展があり次第報告をまとめる。