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93. 生体の酸素センサー機構の解明-低酸素応答における代謝調節- 中山 Key words:酸素,低酸素応答,HIF,プロリン水酸化, PHD 東京医科歯科大学 難治疾患研究所 メディカルトップトラックプログラム 個体は,高地などの低酸素環境において,低酸素応答により呼吸や代謝を調節し,恒常性を維持する.また,体内微細環 境における低酸素応答は,発生時の器官形成,幹細胞増殖などに働くことが知られている.さらに,腫瘍や虚血組織などの疾 患部位においても低酸素応答は引き起こされる.Hypoxia Inducible Factor (HIF)-1α は,低酸素応答で中心的な役割を担 う転写因子である 1) .HIF-1α は低酸素応答に関与する現象を幅広く担うため,低酸素応答を制御するための最も効果的な標 的であると考えられている.HIF-1α の発現は,低酸素環境に応答して上昇する.しかしながら,生体がどのように酸素濃度変 化を検出し,HIF-1α の発現に働くのかは未知な部分が多い.私達はこれまでに,HIF プロリン水酸化酵素 PHD3 が低酸素 環境下で,高次の複合体 (低酸素コンプレックス)を形成することを明らかにしてきた 2) .本研究では,低酸素コンプレックス 内に酸素濃度の変化に応答して複合体化を調節する分子(群)が存在していることを仮説として,これらの分子の同定と解析 により, ‘酸素センサー’の解明を試みた. 293T 細胞を材料として用いて,PHD3 をトランスフェクションにより細胞内に発現させた.PHD3 を発現した細胞を低酸素 環境で培養した後に,タンパク質を抽出した.抽出したタンパク質から免疫沈降法により低酸素コンプレックスを精製した.次 に,精製した低酸素コンプレックスを二次元電気泳動により展開・分離して,低酸素コンプレックスを構成する個々のタンパク質を 質量分析により決定した.11回の試行により得られた候補タンパク質は全部で108個であった.それらのタンパク質は酵 素,膜タンパク質,転写因子,細胞骨格関連分子などに分類された(表1).これらの分子のうち複数回の試行で繰り返し得 られた分子を解析対象として絞り込み,エネルギー代謝に働くことが予想されたピルビン酸脱水素酵素 PDH の詳細な解析を進 めた.PDH の相互作用は,Flag タグおよび Myc タグを付加したタンパク質を 293T 細胞に過剰発現させて免疫共沈実験によ り検証した.低酸素コンプレックスの分離は,低酸素処理をした 293T 細胞のタンパク質抽出液を,superose6 カラムを用いて 分画することにより行った.ミトコンドリア内へのタンパク質の局在は,精製したミトコンドリアよりタンパク質を抽出して,ウェスタン ブロットにより検出した.PDH の活性は,細胞より得たタンパク質抽出物と酵素反応に必要なピルビン酸,補酵素A,および NAD + を混合して 37℃で5分間反応させて,生成される NADH の量を吸光度(OD 600nm)を測定して計測した. 上原記念生命科学財団研究報告集, 23(2009) 1

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93. 生体の酸素センサー機構の解明-低酸素応答における代謝調節-

中山 恒

Key words:酸素,低酸素応答,HIF,プロリン水酸化,PHD

東京医科歯科大学 難治疾患研究所メディカルトップトラックプログラム

緒 言

 個体は,高地などの低酸素環境において,低酸素応答により呼吸や代謝を調節し,恒常性を維持する.また,体内微細環境における低酸素応答は,発生時の器官形成,幹細胞増殖などに働くことが知られている.さらに,腫瘍や虚血組織などの疾患部位においても低酸素応答は引き起こされる.Hypoxia Inducible Factor (HIF)-1α は,低酸素応答で中心的な役割を担う転写因子である 1).HIF-1α は低酸素応答に関与する現象を幅広く担うため,低酸素応答を制御するための も効果的な標的であると考えられている.HIF-1α の発現は,低酸素環境に応答して上昇する.しかしながら,生体がどのように酸素濃度変化を検出し,HIF-1α の発現に働くのかは未知な部分が多い.私達はこれまでに,HIF プロリン水酸化酵素 PHD3 が低酸素環境下で,高次の複合体 (低酸素コンプレックス)を形成することを明らかにしてきた 2).本研究では,低酸素コンプレックス内に酸素濃度の変化に応答して複合体化を調節する分子(群)が存在していることを仮説として,これらの分子の同定と解析により,‘酸素センサー’の解明を試みた.

方 法

  293T 細胞を材料として用いて,PHD3 をトランスフェクションにより細胞内に発現させた.PHD3 を発現した細胞を低酸素環境で培養した後に,タンパク質を抽出した.抽出したタンパク質から免疫沈降法により低酸素コンプレックスを精製した.次に,精製した低酸素コンプレックスを二次元電気泳動により展開・分離して,低酸素コンプレックスを構成する個々のタンパク質を質量分析により決定した.11回の試行により得られた候補タンパク質は全部で108個であった.それらのタンパク質は酵素,膜タンパク質,転写因子,細胞骨格関連分子などに分類された(表1).これらの分子のうち複数回の試行で繰り返し得られた分子を解析対象として絞り込み,エネルギー代謝に働くことが予想されたピルビン酸脱水素酵素PDHの詳細な解析を進めた.PDHの相互作用は,Flag タグおよびMyc タグを付加したタンパク質を 293T 細胞に過剰発現させて免疫共沈実験により検証した.低酸素コンプレックスの分離は,低酸素処理をした 293T 細胞のタンパク質抽出液を,superose6 カラムを用いて分画することにより行った.ミトコンドリア内へのタンパク質の局在は,精製したミトコンドリアよりタンパク質を抽出して,ウェスタンブロットにより検出した.PDH の活性は,細胞より得たタンパク質抽出物と酵素反応に必要なピルビン酸,補酵素A,およびNAD+を混合して 37℃で5分間反応させて,生成されるNADHの量を吸光度(OD 600nm)を測定して計測した.

 上原記念生命科学財団研究報告集, 23(2009)

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 表 1.低酸素コンプレックス構成タンパク質

 

精製した低酸素コンプレックスに含まれていた分子を機能別に分類した. 

結 果

1.ピルビン酸脱水素酵素PDH と PHD3 の結合  PDHは低酸素コンプレックスに含まれうることから,まずはPDH と PHD3 の細胞内での相互作用を免疫共沈実験により検証した.その結果,これらの分子は細胞内で結合することが明らかになった(図1).さらに,PDH の相互作用領域を決定するために,PDH の N 末または C 末を欠失した変異体を作成して免疫共沈実験を行ったところ,PDH の N 末端側 1-220 番目のアミノ酸配列に相互作用領域が存在することが明らかになった(図1). 

 図 1. PHD3 と PDHの結合.

Flag-PHD3 と Myc-PDH, PDH-N, PDH-C を 293T 細胞にトランスフェクションした.48時間後に細胞を回収して,タンパク質を抽出した.細胞より得られたタンパク質に Flag 抗体を加えて免疫沈降した後,ウェスタンブロッティングにより検出した.PHD3 と共沈したPDHおよび PDH-NがMyc 抗体によって検出された( 上段).免疫沈降したPHD3 は Flag 抗体により検出された(二段目).Total lysate中の PDH, PHD3およびコントロールの β-actin が下部三段に示されている.

 

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 2.PHD3 と PDHの低酸素コンプレックス形成への寄与  PHD3 と PDH が低酸素コンプレックス内で共存することの証明を試みた.両分子を細胞内に発現させて,そのタンパク質抽出液をゲル濾過クロマトグラフィーにより分画した.その結果,PHD3 と PDH はともに,低酸素コンプレックスに相当する分子量(1,000 kDa 超)の画分にピークを形成することが明らかになった.このことから,両分子の相互作用は低酸素コンプレックス内で起こることが考えられた.3.ミトコンドリアへの局在 次にPHD3 と PDH の相互作用が細胞内のどの画分で起こるのかを明らかにするために,細胞を核,細胞質,およびミトコンドリアに分画して,それぞれの分子の局在を検証した.PDHはこれまでに報告されていた通り,ミトコンドリアにその大部分が局在していた.一方,PHD3 の局在は核・細胞質にも認められたが,新たにミトコンドリアにも存在していることが明らかになった.また PHD3 は,ミトコンドリア内で PDH とともに酵素複合体を形成する E1α,E3 サブユニットとも相互作用したことから,両分子の相互作用はミトコンドリア内で起こることが考えられた.4.PHD3 は PDHの酵素活性を正に調節する 両分子の相互作用の生理的意義を,PHD3,PDH の酵素活性に注目して検討した.PHD3 の活性を in vitro 系を用いて,PDHの存在下・非存在下で測定したところ PHD3 が HIF を水酸化する活性には変化は認められなかった.次に PHD3 の発現を RNAi により抑制した細胞の抽出液を用いて,in vitro で PDH 酵素の活性を測定したところ,PDH の酵素活性は顕著に減少していた(図2).このことは,PDHの酵素活性に PHD3 は協調的に働くことを示唆している.PHD3 は低酸素環境においてHIF の安定化に働くのみならず,PDHを介したエネルギー代謝にも働くことが示された. 

 図 2. PHD3 は PDHの活性維持に必要である.

in vitro のピルビン酸脱水素酵素アッセイを行い,細胞内の PDH 活性を測定した.PHD3 を RNAi した細胞において,PDH活性の減少が認められた.PDHの活性維持には PHD3 が必要であることが示された.

 

考 察

 これまでに低酸素コンプレックスに含まれるタンパク質として PDH を同定して,その機能解析を進めた.PDHは PHD3 と結合して,低酸素コンプレックス内に共存することを明らかにした.さらに,PHD3 の RNAi を用いた実験より,PDH-PHD3 間の相互作用は PDHの酵素活性を保持するのに重要であることが明らかになった. 低酸素応答の主要な働きの一つにエネルギー代謝の調節がある.低酸素環境で細胞は,ミトコンドリア内で起こる TCA 回路・電子伝達系中心のエネルギー産生を停止させ,解糖系中心のエネルギー産生に切り換える 3).PHD3 は PDH と相互作用することにより,低酸素環境下における TCA 回路の働きを調節することが明らかになった.このことに基づき,以下のようなモデルを立てて証明を試みている(図3).すなわち,通常の酸素濃度から低酸素環境へと移行した初期の段階では PHD3 はPDH の活性を保持してエネルギー産生を維持していることが考えられる.しかし,長期的な低酸素環境では PHD3 は嫌気性代謝に働く LDH に奪われるために,代謝経路は解糖系を中心とした経路へと変換される.このようなエネルギー代謝経路の切り替わりは,古くは癌細胞におけるWarburg 効果として知られている 4).また近年,低酸素環境に存在する幹細胞が解糖系を中心とした代謝経路を利用することで,静的な状態を保持していることも明らかにされてきた.今後は PHD3 が作用する代謝経路の切り換わりが,癌細胞や幹細胞の増殖・生存維持にどのような役割を担うのかに焦点を当てて本研究を発展させる予定であ

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る.また, 初期のスクリーニングで同定した酸素センサーおよびその下流の実行役の候補分子は,まだ多数残っている.今後はこれらの分子の解析も進めて,細胞内における多様な酸素依存シグナルの作用点を明らかにして,一大目標である生体内の酸素センサーの実体を解明したい. 

 図 3. 低酸素応答における PDH-PHD3 相互作用の役割のモデル.

通常の酸素濃度から低酸素環境へと移行した初期の段階では PHD3 は PDHの活性を保持してエネルギー産生を維持している.しかし,長期的な低酸素環境ではPHD3 は嫌気性代謝に働く LDH に奪われるために,代謝経路は解糖系を中心とした経路へと変換される.

   謝辞:研究室をセットアップする時期に貴重な助成を賜りました上原記念生命科学財団に深く感謝申し上げます.

文 献

1) Wenger, R.H., Stiehl, D.P. & Camenisch, G.: Integration of oxygen signaling at the consensus HRE.Sci. STKE, 306: re12 1-13, 2005.

2) Nakayama, K., Gazdoiu, S., Abraham, R., Pan, Z.Q. & Ronai, Z.: Hypoxia-induced assembly of prolylhydroxylase PHD3 into complexes: implications for its activity and susceptibility for degradation bythe E3 ligase Siah2. Biochem. J., 401: 217-226, 2007.

3) Semenza, G. L. : Oxygen-dependent regulation of mitochondrial respiration by hypoxia-induciblefactor 1. Biochem. J., 405 : 1-9, 2007.

4) Kim, J.W. & Dang, C.V. :Cancer's molecular sweet tooth and the Warburg effect. Cancer Res., 66:8927-8930, 2006.

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