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プール学院大学研究紀要 第 56 号 2015 年,13 〜 28 Fritz Kreisler(1875-1962) 音楽の本質 ―社会的背景と音楽表現を通しての考察― 作 野 理 恵 オーストリア = ハンガリー帝国の首都 Wien に生まれ、医者でアマチュア音楽家の父が開く 家庭音楽会の弦楽四重奏に幼少期より加わった Kreisler は、1882 年に 7 歳で入学した Wien 音 楽 院 で、Wien 楽 派 ヴ ァ イ オ リ ン 奏 法 の 大 家 G.Hellmesberger(1828-1893) を 父 に 持 つ Joseph Hellmesberger(1855-1907) にヴァイオリンを、オーストリア作曲家 Anton Bruckner(1824-1896) に和 声学を学んだ。1885 年には「Wien 音楽院金賞」を受賞し、その卓越した才能が認知された。この 様に Wien 音楽、及び Wien 伝統文化が浸透し切っていると考えられ、実際に「Wien 的」とレッテ ルを貼られている Kreisler 音楽だが、本当に「Wien 的」なものなのか、他にどの様な要素を包含す る音楽であるのかについて、Wien 生まれの現役音楽教育者 Andrea Linsbauer 著『Das Wienerishe Moment in den Kompositionen Frits Kreislers』を中心参考文献として、彼の伝記的事象や社会的背 景を探りながら考察していきたい。 同時に、19 世紀半ばにドイツ語圏で起こった音楽種別である E-Musik と U-Musik 1) の何れに、 Kreisler 音楽が属するかについても考察する。神判にキリスト教が介入して以来、「聖と俗」の境界 線が明確になったヨーロッパ社会において 2) は、音楽分野に関しても両者の何れに属するかが重要 な命題として成立する。 また、彼の音楽人生を大きく翻弄した「ユダヤ人である」という視点から、それが彼の作曲活動、 並びに作品に及ぼした影響について探究する。 Ⅰ 社会的背景、及び音楽活動 1.社会的背景 1848 年の市民革命後、ヨーロッパ三大帝国としてフランス、ロシアと共に勢力を競い合っていた オーストリア帝国は、ハンガリー、イタリアを初め、チェコ、ポーランド、ルーマニア等周辺国を 支配下に置く多民族国家として栄華を誇っていた。1867 年にはオーストリア = ハンガリー帝国と なるが、1870 年のドイツ帝国創建に伴い Doppelmonarchie は弱体化する。イギリス、フランスと

―社会的背景と音楽表現を通しての考察― 作 野 理 恵 - PooleKreislerはA.Corelli(1653-1713)、G.Tartini(11692-1770)等イタリア・バロック時代の名人を源流とし、

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  • プール学院大学研究紀要 第 56 号2015 年,13 〜 28

    Fritz Kreisler(1875-1962) 音楽の本質―社会的背景と音楽表現を通しての考察―

    作 野 理 恵 

     オーストリア = ハンガリー帝国の首都 Wien に生まれ、医者でアマチュア音楽家の父が開く

    家庭音楽会の弦楽四重奏に幼少期より加わった Kreisler は、1882 年に 7 歳で入学した Wien 音

    楽 院 で、Wien 楽 派 ヴ ァ イ オ リ ン 奏 法 の 大 家 G.Hellmesberger(1828-1893) を 父 に 持 つ Joseph

    Hellmesberger(1855-1907) にヴァイオリンを、オーストリア作曲家 Anton Bruckner(1824-1896) に和

    声学を学んだ。1885 年には「Wien 音楽院金賞」を受賞し、その卓越した才能が認知された。この

    様に Wien 音楽、及び Wien 伝統文化が浸透し切っていると考えられ、実際に「Wien 的」とレッテ

    ルを貼られている Kreisler 音楽だが、本当に「Wien 的」なものなのか、他にどの様な要素を包含す

    る音楽であるのかについて、Wien 生まれの現役音楽教育者 Andrea Linsbauer 著『Das Wienerishe

    Moment in den Kompositionen Frits Kreislers』を中心参考文献として、彼の伝記的事象や社会的背

    景を探りながら考察していきたい。

     同時に、19 世紀半ばにドイツ語圏で起こった音楽種別である E-Musik と U-Musik 1)の何れに、

    Kreisler 音楽が属するかについても考察する。神判にキリスト教が介入して以来、「聖と俗」の境界

    線が明確になったヨーロッパ社会において2)は、音楽分野に関しても両者の何れに属するかが重要

    な命題として成立する。

     また、彼の音楽人生を大きく翻弄した「ユダヤ人である」という視点から、それが彼の作曲活動、

    並びに作品に及ぼした影響について探究する。

    Ⅰ 社会的背景、及び音楽活動

    1.社会的背景

     1848 年の市民革命後、ヨーロッパ三大帝国としてフランス、ロシアと共に勢力を競い合っていた

    オーストリア帝国は、ハンガリー、イタリアを初め、チェコ、ポーランド、ルーマニア等周辺国を

    支配下に置く多民族国家として栄華を誇っていた。1867 年にはオーストリア = ハンガリー帝国と

    なるが、1870 年のドイツ帝国創建に伴い Doppelmonarchie は弱体化する。イギリス、フランスと

  • 14 プール学院大学研究紀要第 56 号

    共に新創立国ドイツ、イタリア等ヨーロッパ諸国がアフリカ大陸等の覇権争いに参戦する中、ヨー

    ロッパ大陸で唯一、オーストリアは植民地を持たなかった。「伝統を誇る皇帝を頂き、様々な民族を

    抱えるオーストリアは、遠い世界の僻地を征服する野心を持たなかった」3)のだ。しかし、オース

    トリアの勢力拡大を恐れるセルビア人によるオーストリア皇太子暗殺をきっかけとして、1914 年に

    第一次世界大戦が勃発した。1918 年のオーストリアの敗戦を機に、帝国を構成していた東欧諸民族

    が独立し、事実上、Doppelmonarchie は崩壊した。同盟国としてオーストリアに加担したドイツの

    Adolf Hitler(1889-1945) は、この敗戦体験を憎悪に変えて周辺国に侵攻し、1938 年、オーストリアも

    彼の率いるナチス軍隊に征服された。1945 年の敗戦後もドイツの占領下にあったオーストリアだが、

    1955 年に漸く解放された。「ドイツ軍の犯したホロコーストは、扇動や非寛容が、いかに容易に人間

    を非人間に変えるかを物語っている」4)という、美術学者 E.Gombrich(1909-2001) の指摘は奥深い。

     Kreisler 活動期の Wien は多くの戦争の直接的戦禍を免れ、革命による社会転覆を知らず、保

    守主義政府体制の堅持により、その市民生活は逸楽的であったが、生活苦や将来不安により生

    活に暗い影が差していた為、芸術表現には独特の哀愁感が漂うものが多い。この「悦楽と哀

    愁」という二面性が Wien 音楽の特色となり、それに深みを与えたと渡辺譲氏は説く5)。同氏は

    W.A.Mozart(1756-91)、F.Schubert(1797-1828)、J.Strauß(1825-99) に至る明るさの陰に潜む暗さを

    「Wiener Hintergründigkeit( 背景性 )」と表現し、Wien 音楽の厚みの源となっていると分析する。こ

    の相反する両者の共存から、Wien 音楽特有の「優美さ」「気品」が生み出されるというのだ。

     一方、多民族帝国の首都として周辺諸国の文化や人材が集結した Wien 文化には、他国には見ら

    れない多様性がもたらされていた。ユダヤ人も市民階級の中で特別な役割を果たし、その内 15 万人

    程のユダヤ人は、医者、弁護士、俳優、芸術家、学者、銀行家、貿易商人等として活躍していた。

    2.音楽活動

     弱体化しつつあったものの、栄華を極めた Doppelmonarchie の申し子として首都 Wien に生まれ

    育ち、その伝統の中枢部で教育を受けた Kreisler は、1885-87 にパリ音楽院で J.Massart(1811-92) に

    よりフランス楽派ヴァイオリン奏法を学んだ。アメリカでの演奏旅行後、1889-93 には演奏活動から

    離れてギムナジウム生徒として Wien の義務教育を受け、1893 年には、学問と医学のメッカであっ

    た Wien 大学医学部に入学するが、1895 年からの 2 年間の兵役による医学部中断後、ヴァイオリン

    演奏家に復帰する。

     1898 年に Wien デビューを果たし、同時期に作曲家としての第一成功期が訪れる。1899 年のドイ

    ツ王国首都ベルリンでのデビューを皮切りに、1907 年迄にアメリカやイギリスでも数多くの演奏旅

    行を行い、アメリカで知り合った良家の女性 Harriet Lies と 1902 年に結婚する。1914 年、オース

    トリア国民としての入隊命令を受け取り、4 週間をロシア前線で戦った後、コサクでの負傷のため

    Wien に移送される。一年後に戦争の悍ましさと祖国愛の記録として『塹壕での 4 週間-あるヴァイ

    オリニストの戦争物語』と題したドキュメントを出版している。1914 年 12 月にはソリストとして

  • 15Fritz Kreisler(1875-1962) 音楽の本質

    演奏を再開するものの、アメリカで彼は敵国軍人として受け入れられず苦労する。その間、彼の傑

    作室内楽曲である『弦楽四重奏曲 a-moll』を作曲する。1920 年夏に Kreisler は Wien へ帰郷するが、

    飢えと貧困に苦しむ故郷の人々を目の当たりにし、社会的苦境に陥っているオーストリアの為に夫

    人と共にアメリカで募金活動を行い、戦争孤児の為にも奔走した。Kreisler は、彼の出演料の大半

    をヨーロッパの困難にある人々の為に使い、その目的の為のコンサートも開いた。

     1924 年にベルリンに居を構えた Kreisler は、1921-30 年のコンサートツアーでヨーロッパ聴衆の

    信頼を獲得した。この間、Kreisler はバロック時代の巨匠音楽に着想を得た多くの自作品を、その

    事実を黙秘し、作品蒐集家として出版社に提供している。

     Hitler の全外国人、及びユダヤ文化の排斥政策に伴い Kreisler の出演、生活に制約が生じ始めた

    1939 年 3 月に、夫人と共にフランスに渡り、パリが彼の第二の精神的故郷となったが、大戦勃発後

    の 1939 年 9 月にはニューヨークへ移住する。1941 年 4 月に頭蓋冠骨折という大事故に遭うが、9 ヶ

    月後には舞台に戻り、1942 年に傑作『Viennese Rhapsodic Fantasietta』を完成させる。1943 年 3

    月のアメリカ国籍取得後、アメリカでの演奏、録音活動に勤しむが、ニューヨーク市民栄誉賞受賞

    2年後の 1962 年 1 月に心臓発作で亡くなる。

    Ⅱ 音楽作品内容

    1.作品・演奏特徴

     Kreisler は A.Corelli(1653-1713)、G.Tartini(11692-1770) 等イタリア・バロック時代の名人を源流とし、

    天才 Mozart を経由し、鬼才 N.Paganini(1782-1840)、P.Sarasate(1844-1908) に至る、名ヴァイオリニ

    スト兼作曲家系譜の末裔であり、不出世の大音楽家6)である。

     「Kreisler の名人芸、音楽、解釈を分析するには、彼が教育や影響を受けた様々な楽派や国々

    についての考察が必要になる」と Linsbauer 氏が述べる7) のはその通りである。Wien 音楽院での

    ヴァイオリンの師、J. Hellmesberger の父が代表であった「Winer Geigenschule」は、その特徴に

    「geschlossenes breites Vibrato sowie die Fertigkeit der intensiven, aber stets locker schwingungs-

    reichen Tongebung nahe am Steg 8)」という特別な音響形成手法を持つ。Wien 音楽美学の主流をな

    していた「音楽の美は鳴り響く音以外にない」とする音楽評論 E.Hanslick(1825-1904) の美学が、こ

    の Geigenschule の基盤であり、その柔らかく深みのある弦の美しい響きの伝統は、現在の Wien フィ

    ルハーモニーに綿々と受け継がれている。渡辺和彦氏は「Kreisler の音楽世界は現代の Wien のそれ

    とは相容れない」9)と述べる。確かに、Schubert『ヴァイオリン・ソナタ Op.162』第一楽章の演奏

    に利かせている甘く感傷的な portamento や、重音進行の幅広い vibrarto には、ロマン派前期作品

    の解釈としては過度な濃厚さも覚えるが、開放弦の使用や鋭音の緊張を避け、特別な vibrarto で楽

    音を包み込む手法は、現代の Wien フィルの弦の音色に脈々と息づいていると筆者は考える。

  • 16 プール学院大学研究紀要第 56 号

     József Joachim(1831–1907) 等、傑出した Virtuosen の影響により Winer Geigenschule は、19 世

    紀には国際的な高評価を得た。この Wien 楽派が Kreisler の繊細さと楽音への感知力を磨き上げ

    たのであり、Kreisler のヴァイオリン演奏家としての基本的素養は、Wien 音楽院で習得されたと

    Linsbauer 氏は断言する。彼自らが、Wien 音楽院時代に Joachim や Anton Rubinstein(1829-94) の演

    奏を聴いたことは非常に意義深い体験で、自分の成長を促進させたと明言している。

      2 番 目 に 意 義 深 い 教 育 場 面 は パ リ 音 楽 院 で あ り、 師 事 し た Massart に よ り Kreisler は、

    H.Wieniawski(1835-80)10)同様、師の体系的 vibrato と高難度の技巧、並びにフランス楽派特有の運

    弓のエレガントさと透明感のある音色を習得し、技術面だけでなく表現力と音楽感覚の磨きも増

    した。彼の並行進行音 ( 重音奏 ) における vibrarto 技能は、これまで誰にも凌駕されたことはない

    と Linsbauer 氏は分析する。その技能とは、複数小節に亘る両音への特別な vibrarto で、彼は音響

    や Glissandi、及びポジション変更に関しても卓越した才能を持っていたと氏は語る。20 世紀のヴァ

    イオリニストと比較して Kreisler が際立っている点は、彼の特別な「Tongebung( 音色 )」である

    と氏は分析する。その柔らかい響きは唯一無二で魅力的で愛らしく、且つ男性的で力強いが常に温

    かく、それを紡ぎ出す運指法と技術は傑出しており、一音一音が明確で、明瞭なアーティキュレー

    ションが施され、一拍、一音たりとも不注意に奏せず、むしろ意識的に音楽的に奏していると、氏

    は説明する。彼の演奏における技術的、曲想的、そして解釈の独自性は、繊細さ、優雅さ、チャー

    ミングさ、情熱、民族的ルーツ、そして何よりも音楽というものを前にした彼の深い謙虚さである

    と Linsbauer 氏は分析する。彼の独特の音楽解釈や傑出した技術、華やかな運指、運弓法以上に、

    その豊かな人間性と敏感な感性が彼の演奏を構成していると言うのだ。Kreisler 作品演奏で著名な

    Itzhak Perlman(1945-)11)も、「Kreisler 作品演奏は私に、彼の人間的資質ゆえにアピールする。」と述

    べている。

    2.音楽作品

    (1)音楽的背景

     19 世 紀 末 Wien の 作 曲 家 で E-Musik 領 域 に 入 る の は R.Wagner(1813-83)、J.Brahms(1833-97)、

    A.Bruckner(1824-96)、H.Wolf(1860-1903)、 及 び G.Mahler(1860-1911) だ が、Brahms は 1862 年 に、

    Bruckner は 1868 年に Donaumonarchi の首都に入り、当時の音楽関係者を Bruckner や Wolf 等の

    Wagner 派と Brahms 派に分かれさせた。

     一方、Wien の U-Musik の支柱として Linsbauer 氏は J.Strauß のワルツ文化やオペレッタを挙げ

    ているが、筆者は前稿において彼のマイスター・ワルツやシンフォニック・ワルツを、疑いもなく

    E-Musik に分類している。U-Musik としては Schrammel 兄弟四重奏曲 12)から軍隊音楽時代に移り、

    宮廷では Liszt(1811-86) や Brahms 等の超絶技巧音楽の次に、サロン音楽が奏でられるようになる。

     19 世紀末から 20 世紀初頭にかけて E-Musik 領域で規模、技巧、無調性面で更なる新発展が

    Mahler、R.Strauß(1864-1949)、A.Schönberg(1874-1951) 等によってもたらされたが、それらの音楽が

  • 17Fritz Kreisler(1875-1962) 音楽の本質

    聴衆の内面的な魂の調和、喜びを共有できたかと Linsbauer 氏は問い掛ける。Schönberg 等新 Wien

    楽派の作曲家が十二音音楽を組み立てていた時、Kreisler の後期ロマン派作品は聴衆の心情を敏感

    に感じ取り、心地よい和声をもって作曲されていた。古典派、並びにロマン派室内楽作品や軽快な

    U-Musik を演奏した家庭音楽会に幼少時より参加していた生育環境と、彼が定期的に訪れた Café

    でかかる Wien 歌曲等が、Kreisler の調性システムの優先に繋がったと、氏は考察する。Strauß や

    F.Lehár(1870-1948) の Operette や歌曲等、Wien の U-Musik が彼に与えた影響は多大であったのだ。

     Kreisler の音楽観については、彼自らが出した小冊子『音楽と人生』で「音楽は感情から成る。

    音楽は聴き手の心情に応じて深い動きをもたらし、肉体的、魂的な共鳴を招く。」と表明している。

    彼は人間の魂への影響力に、音楽の優先的な機能を見ているのだ 13)。

     Kreisler の故郷 Wien とその家庭環境は、彼の人間性のみならず、思考、精神性において彼の全生

    涯を導き、とりわけ際立った創作手法面で霊感を与えたと Linsbauer 氏は分析する。

    (2)内容

     第一グループとして、数多い編曲、カデンツァと共に、「Wien 様式 14)」の中で形成された作品群

    を挙げることができる。「Alt Wiener Tanzweisen」に括られる 3 曲や『Wien 奇想曲』『Wien 狂詩

    幻想曲』等、大半の叙情的小曲はそれに入る。オペレッタ 2 作、及び『弦楽四重奏曲 a-moll』もそ

    の範疇に入れることができると Linsbauer 氏は語る。

     第二グループは全 18 曲から成る古典的手稿であり、バロック様式に依拠する超絶技巧ヴァイオリ

    ン作品集として、第一グループの対極とも言える異彩を放っている。声楽、ピアノ作品も独自の位

    置を占めており、それらは彼の創作活動の個人的発展のみならず、その時々の彼を取り巻く文化的

    社会的環境への順応を反映している。初期声楽作品は、より強く Brahms や後期ロマン派手法に依

    拠しており、後期歌曲は既に無調性、若しくは構成拘束の緩やかな手法で書かれている。また 1939

    年の渡米以降の歌曲は英語の歌詞が付きやポピュラーやミュージカル的様式の作風となっている。

     Linsbauer 氏が分類する最後のカテゴリーは民族音楽作品群で、彼が特に好んだスペイン等地中海

    周辺国、ロシア、ロマ音楽、及びアラビア、インド、中国等エキゾチックな音楽が見られる。

     彼の最後の創作期間に作曲された傑作は、先述の通り大事故直後に完成した『Viennese

    Rhapsodic Fantasietta』である。彼の作曲才能の頂点的作品であり、故郷 Wien への思慕と祖国愛が

    証明された作品だと氏は解説する。

    (3)ユダヤ的要素

     『聖書』創世記 4:21 に、ユダヤ民族の祖先の一人であるユバルがリラ属、リュート属等弦楽器を奏

    していたと記録されている。聖書にはユダヤ音楽の精神治療効果を初め、神への賛美、労働歌、儀式歌、

    冠婚葬祭歌、シオニズム哀歌、戦歌等の記録が残っており、その形式は「半終止の短旋律 (a) +完全

    終止の長旋律 (b)」が特徴で、「a+a+b+b+ 間奏」や「a+a+b+a+a+ 間奏」のリピートが最古の様式

    だと言われている 15)。ユダヤ民族の離散後から今日まで、これらを基としてシナゴーグ ( ユダヤ教

  • 18 プール学院大学研究紀要第 56 号

    会堂)で口伝えされた宗教歌が、ユダヤ伝統音楽の主流となる。離散期にユダヤ人が移住した各コミュ

    ニティの周辺民族音楽とユダヤ伝統音楽が融合し、「ユダヤ音楽」を形成していくのだ。そのユダヤ

    音楽は初期ユダヤ教会の典礼音楽「詩篇唱」「旧約聖書朗唱」「祈祷歌」として形作られ、それぞれ

    は基本的テトラコード 16)の結合した個々の固有旋法を持っていた。特に、「旧約聖書朗唱」の「預言書」

    第一旋法ドリア (defgabcd) はユダヤ教会歌、ユダヤ民族旋法の標準型であり、短調風だがメランコ

    リックではなく、深奥に約束と希望を宿した明るさがあると、水野氏は分析する 17)。

     ユダヤ教典礼音楽は人間的感情表現を基底とし、一方は西洋音楽の礎であるグレゴリア聖歌へ、

    もう一方はユダヤ民族音楽としてセファラード音楽とクレズマー 18)へと引き継がれていく。セファ

    ラード音楽が、半音階を多用したメリスマ調アラブ音楽的な無拍、単調なものであるのに比べ、アシュ

    ケナージの音楽は有拍で長短構造が明確、且つ幅広いダイナミックや感情の横溢が見られると水野

    氏は分析する。また、ドイツ民謡との接触が持続しているクレズマー音楽は、民謡的調べ、ペンタ

    トニック 19)構造、ドリア、フリギア旋法 (efgabcde) を基本としているところがである。実際に『コル・

    ニドレ』等ユダヤ典礼音楽と共に両者の民族音楽を 20 曲聴き比べてみると、それらの傾向が顕著で

    あることが解った。

     その後、ゲットーや収容所ではユダヤ民族音楽が維持、推進されるが、それらユダヤ人共同体の

    音楽は単に非人間化からの救済や人生の肯定的意義付け、並びに安らぎの提供だけではなく、自分

    たちの置かれた状況を整理、理解する為の、又理不尽さへの怒り、絶望の記録として口伝えされていっ

    た。何れの収容所のイディッシュ語 20)歌にも、郷愁と共に深い喪失感が漂っている。

     16 世紀以降に出現したヴァイオリンを手にしたユダヤ人音楽家は、重要な地位を獲得するよ

    うになる。ユダヤ民族の祖が弦楽器を奏でたことに始まり、同民族内で受け継がれていった弦

    楽器による民族音楽の継承が、Kreisler を初めとして J.Heifetzas(1901-87)、D.Oistrakh(1908-74)、

    Y.Menuhin(1916-99)、Isaac Stern(1920-2001)、そして現在も大活躍中の Perlman や M.Vengerov(1974-)

    等という数多くのユダヤ系名ヴァイオリニストを輩出したことに深く関係すると考える。本間ひろ

    む氏も「クレズマー音楽が多くの名ヴァイオリニストを育む土壌となった」と考察している 21)。

     19 世紀末から 20 世紀初頭にかけてクラシック音楽界を牽引していたのは先述の通り、Wagner

    のドイツ・ロマン派対位法の進行形として無調から十二音技法を確立した Schönberg とその弟子の

    A.Webern(1883-1945) や A.Berg(1885-1935) ら「新 Wien 楽派」と呼ばれる作曲家であるが、一方で

    P.Hindemith(1895-1963) の実用主義や I.Stravinsky(1882-1971) 等の原始リズムを採り入れた新古典主

    義という潮流も登場した。第一次大戦を経験して人類は、人間の醜悪さをえぐり出そうとする表現

    主義や、敢えて即物的な表現を使うモダニズムへと向かったと高岡氏は考察する 22)。感情の入り込

    まない客観的、非人間的な音楽により、人間の本質や本心を表現、代弁しようとしたのだ。

     しかし、Kreisler が「音楽が芸術表現の枠組であり、感情の究極の言語であると考えるドイツ・

    ロマン主義哲学の伝統」とその延長の「後期ロマン派」に立脚していたのは、これ迄の考察からも

  • 19Fritz Kreisler(1875-1962) 音楽の本質

    明らかだ。ナチス・ドイツの台頭に伴い多くのユダヤ人音楽家が他国へ亡命した為に途絶えたかに

    見えた二大潮流の「実用主義」と「後期ロマン派」音楽だが、Kreisler や E.Korngold(1897-1957)23)

    により、アメリカの地で甘美な旋律とシンメトリーな音楽構造、及び Wien 的二面性を持つ「古き

    良き時代」の Wien ロマン派音楽が醸成され続けたのだ。彼らの音楽により、後期ロマン派の特徴

    である「和音解決プロセスの引き延ばし」と「調性と結びつきが強い全音階メロディ」 24)が堅持され

    たのである。

     Schönberg もユダヤ人であったため、1933 年にアメリカへ亡命している。彼はナチスの台頭を機

    に自身の出自に意識的になり、カトリックからユダヤ教に改心している。彼の作品は音列技法等斬

    新な表現法を駆使しているものの、ユダヤ伝統精神・旋律を基底としたオリエント的哀感漂う、後

    期ロマン派色が見え隠れする作風となっている。ユダヤ人作曲家 Mahler、D.Milhaud(1892-1974)、

    L.Bernstein(1918-90) 等も、ユダヤ思想とその精神的特質を自身の個性と融合させて深い音楽表現に

    至った。

     アシュケナージ系ユダヤ人 Kreisler のユダヤ民族的意識、乃至作品中のユダヤ的音楽表現の有無

    について探る時、ユダヤ音楽学者 A.Idelsohn(1882-1938) の「ユダヤ人によって作曲される音楽が、

    必ずしもユダヤ音楽である訳ではないという事実を指摘しておけば今のところ充分である」25)とい

    う言葉を手掛かりとすることができる。また「音楽の国境はそれ程厳として存在するものではない」

    ので「現代ユダヤ音楽の定義は困難」26)という水野氏の提唱も参考となる。ただ、何れのアシュケナー

    ジ系音楽家も濃淡こそあれ、作品の精神、題材、着想、展開を旧約聖書、ユダヤ聖典タルムード、離散・

    迫害体験等から抽出し、ユダヤ、及びオリエント旋律や素材を西洋の作曲技法で処理、表現してい

    る言うことはできる。

     Kreisler 音楽は、D.Shostakovich(1906-75)27)の語る「ユダヤ民族音楽は非常に多様性を帯び、見た

    目は陽気でも実際は悲劇的なのである。(中略)ユダヤ音楽は常に二層から成っていなければならな

    い。ユダヤ人は絶望を、陽気な舞踊音楽の中に表現している。」に、正しく該当する。オーストリア

    の為に兵役をこなした祖国愛に満ちた作曲家は、そこからの放浪を余儀なくされ、放浪先では国籍

    ゆえに辛酸をなめ、結局二度と最愛の故郷に帰ることはなかった。Kreisler 音楽は、Wien 人として

    の背景性とユダヤ人としての二層という、二重の二面性を包有していると言える。

     「最も Wien 的なヴァイオリニスト」と称される Kreisler だが、実際はユダヤ人であるゆえに、

    Heurige、Schrammel、Operette という Wien の庶民的な生活感とは一線を画した都会的、国際的な

    洗練さが感じられると福島氏は述べ、例え『ウィーン奇想曲』でさえも Wien の模倣に過ぎないと

    言い加えている 28)。しかし、これ迄見てきた生育歴から、Schrammel と Operette は幼少時の家庭

    音楽会時代から彼の体内に浸み込んでおり、彼の音楽的一基盤となっていると筆者は考える。

     つまり Kreisler 音楽には、Wien 的、並びにユダヤ的要素が歴然として包有され、その両者が本質

    となっているのだ。

  • 20 プール学院大学研究紀要第 56 号

    Ⅲ 音楽作品分析

    (1) 作品全体の特徴

     Kreisler 作品には、古典主義の主題構造の構成とリズムの自由さ、変奏技術の高さ、ロマン派の

    遠隔調使用、Wagner の半音階と和声構成、並びに示導動機の心理的描写としての使用が見られる。

    Wagner の分かり易さと独特さ、全・半音階混在モチーフ使用、感情的ロマン派と非人間的近代音楽の

    二面性という特徴が Kreisler 作品にも垣間見られる。

      彼 の 作 品 は、2 曲 の オ ペ レ ッ タ、G.Viotti(1755-1824) 第 22 番、Mozart 第 3、4、5、6 番、

    Beethoven(1770-1827)、Brahms のヴァイオリン 協 奏 曲カデ ンツァ 7 曲、 全 18 曲 の「Klassische

    Manuskripte」や 13 曲の「Original Kompositionen」含むオリジナル曲、18 曲の他作曲家作品の編曲、

    全 28 曲から成る編曲集、Wiener Lieder 等を合わせて約 200 曲に及ぶ。

    (2) 室内楽曲 ; 弦楽四重奏曲 a-moll(1919)

     20 世紀初頭のドイツ語圏の作曲家にとって、弦楽四重奏等室内楽曲は「絶対音楽」として特別な意味

    を持っていた。Kreisler も先述の通り、弦楽四重奏曲を一曲作曲している。渡辺和彦氏は本作品を「Wien

    賛歌」だと解説するが、Schönberg が十二音技法を完成させた頃に作曲された本曲には、Wagner、

    R.Straußを想起される無調的な半音階が駆使され、ドイツ後期ロマン派の最後尾を感じさせる作風となっ

    ている。

     第一楽章は、冒頭のチェロによる深みを湛えた Bruckner 的半音階的旋律に続くヴァイオリンの不

    協和音的緊張後に、甘い和音と 2 本のヴァイオリンによる重音進行が登場し、その Wien 的哀感が郷

    愁へと誘う。中間部には彼の愛した N.Rimsky-Korsakov(1844-1908) の交響組曲『シェヘラザード』

    Op.35(1888) を彷彿とさせるオリエンタルなヴァイオリン旋律も挿入され、その後に続くメリスマティックな

    曲調は更にエキゾチックさを増長させている。「解決和音の引き延ばし」が散見でき、Brahms 交響曲の

    和声も垣間見られる。

     第二楽章は、彼の『中国の太鼓』Op.3 着想と酷似している。第三、四楽章も不協和音より入るが、第

    四楽章には Wien 民謡調の作風が取り入れられており、最後には第一楽章冒頭の主題が再現する循環形

    式を採り入れている。全楽章を通して次世代音楽と前世代ロマンティシズムの融合した傑作となっている。

    (3) ヴァイオリン独奏曲 (Original Kompositionen)

    1)Liebesleid(1910)

     冒頭の感傷に満ちた旋律(譜例 1)には、ゲットー内で作られた精神的抵抗歌『ドナドナ』やナチス収

    容所を舞台とした映画『シンドラーのリスト』主題歌というユダヤ音楽の旋律と悲哀が聴き取れる。とり

    わけA-Dur に転調する中間部に、「陽気な音楽で悲しみを表現するユダヤ音楽」の真髄が感じ取れ、哀

    切さが表われている。

  • 21Fritz Kreisler(1875-1962) 音楽の本質

    (譜例 1)

    2)Caprice viennois Op.2(1910)

     衰退の翳りを見せ始めた故郷 Wien への哀惜と、古き良き時代を追懐する憧憬の共存する、Wien

    の精髄を凝縮した作品だが、3 度並行進行による緩やかで甘美なワルツ部(譜例 2)にこそ「Wiener

    Hintergründigkeit」の哀愁が漂い、切なさを感じる。

    (譜例 2)

    3)La Gitana(1910)

     彼の好んだスペイン音楽リズムとアラブ系ロマ音楽の融合したオリエント風音楽に、スペイン情緒と

    Wien 風和声の組み合わさった、もの悲しさを伴った名曲となっている。

    4)プニャーニの様式による前奏曲とアレグロ (1910)

     バロック巨匠の様式に依拠した作品の中でも名曲と謳われる本作は、イタリアの名ヴァイオリニスト兼作

    曲家 G.Pugnani(1731-98) の作風を模倣しており、アレグロ部は技巧的であるが、ダイナミックや終結部の

    曲想等には Kreisler 様式が看取できる。

    5)Berceuse Romantique Op.9(1910)

     単純な子守唄風であるが、転調展開の速さに次世代音楽的要素が導入されている。ユダヤ音楽に興味

    を持っていたドイツの作曲家 M.Bruch(1838-1920) の着想も読み取れる。

    6)ルイ十三世のシャンソンとパヴァーヌ (1910)

     バロック時代フランスの大作曲家 F.Couperin(1668-1733) の手法に依拠した作品ではあるが、パヴァー

    ヌ部には Wien 民謡風の調べも聴き取れ、特に最終フレーズ(譜例 3)には温かい情感を忘れない

    Kreisler らしさが表れている。

  • 22 プール学院大学研究紀要第 56 号

             (譜例 3)

    7)ベートーヴェンの主題によるロンディーノ(1915)

     Wien 古典派に属するベートーヴェンだが、本作品は初期ロマン派の色合いが濃く、そこに Kreisler の

    独特な portamento が加えられることによって盛期ロマン派作品に仕上がっている。

    8)Zigeuner-Capriccio

     ロマの特徴的な旋律が使用されてはいるが、その半音階的展開やピアノ伴奏部には後期ロマン派色が

    看取できる、次世代的な作品となっている。

    9)Viennese Rhapsodic Fantasietta(1942)

     半音階進行による長いレチタティーヴォ的冒頭こそ後期ロマン派の香り高いが、主旋律に入ると同時に

    一世代前にタイムスリップした様な、ロマンティシズム溢れる曲想となる。三度重音奏によって連なる旋

    律やピアノ伴奏部リズム等、『ウィーン奇想曲』の着想が全曲を通してちりばめられていること、及び栄華

    を極めた Doppelmonarchie 時代の芸術遺産であるWiener ワルツが大々的に登場すること等から、初老

    の域に入った作曲家が、二度と帰ることはなかった愛する故郷への横溢する思慕の念と、「豊潤な Wien」

    への追懐の思いを表現した、思い入れ深い作品である。パリ音楽院の先輩に当たるWieniawski から着

    想を得た曲想も取り入れられている。最終部にはアメリカ・ディズニー映画音楽の影響も見られ、本作品が、

    正しく彼の音楽人生の集大成的作品であることが証明されている。

    (4)ヴァイオリン独奏曲 (Transkriptionen)

    1)ロンドンデリーの歌 (1922)

     ピアノ伴奏部和音にジャズ進行が取り入れられている(譜例 4)ところに、既に幾度も演奏活動を行

    い、一時は活動拠点を置いていたアメリカ文化の影響が見られるが、それ以上に、節毎にオクターブずつ

    上昇していく旋律手法の中に、彼の故郷を偲ぶ深い感傷が読み取れる。本人、Isaac Stern、Perlman、

    Nigel Kennedy(1956-) の演奏を聴き比べてみたが、portamento、rubato、vibrarto 奏法、及び弓を弦

    に押し付けない繊細さは Kreisler が際立っており、特に第三節の哀切込もった情感には彼の本質が感じ

    取れる。

  • 23Fritz Kreisler(1875-1962) 音楽の本質

    (譜例 4)

    2)太陽への賛歌 (Rimsky-Korsakov/Kreisler)

     しみじみと歌い上げる旋律はインド風であるが、それを支えるピアノ伴奏や旋律の解決手法は、

    Wieniawski や Bruch 時代の盛期ロマン派音楽が想起される。

    3)真夜中の鐘 (Heuberger/Kreisler)

     同国の作曲家 R.Heuberger(1850-1914)Operette の Wiener ワルツを、甘美に、且つ叙情的に編曲した

    作品である。6 度音程による重音奏が Wien の二面性を映し出している。

    4)スペイン舞曲 (Granados/Kreisler)

     詩的なロマンティシズムの E.Granados(1867-1916) 作品を更に抒情味豊かに編曲し、アンダルシア地方

    のアラブ色も一層色濃く表現されている。

    5)Tango Op.165-2(Albéniz/Kreisler)

     Granados とは趣の違うI.Albéniz(1860-1909) の北スペイン舞曲を基にした作品だが、舞曲リズムには

    忠実でありながら、旋律展開には Wieniawski の趣向も採り入れた、汎欧的な作風となっている。

    6)Malagueña Op.165-3(Albéniz/Kreisler)

     旋律、リズム共にスペイン民謡を素材としているが、アシュケナージ生活を舞台としたミュージカル『屋

    根の上のヴァイオリン弾き』(1964) 音楽と酷似しており、ユダヤ音楽的要素も採り入れている。

    7)スラヴ舞曲第 3 番 G-Dur(Dvořák/Kreisler)

     中間部こそ、A.Dvořák(1841-1904) のスラヴ舞曲色が表れているが、冒頭より綿 と々歌い上げられる 3、

    6 度による重音奏旋律は、Wiener Operette のアリア風であり、第 1、2 番編曲よりもWien への郷愁を

    誘う趣に満ちている作品である。ピアノ曲を、哀愁漂う見事なヴァイオリン曲に編曲した『ユーモレスク』

    と共に、ボヘミアとWien への哀傷感に満ちた作品である。

    8)スラヴ幻想曲 (Dvořák/Kreisler)

     Dvořák の歌曲集『ジプシーの歌』Op.55 第4曲『母の教え給いし歌』の旋律には忠実に編曲しているが、

    ピアノ伴奏部和音や間奏・移行部曲想、転調展開手法等に、後期ロマン派的要素をちりばめている。

    9)無言歌 Op.62-1「五月のそよ風」(Mendelssohn/Kreisler)

     同じユダヤ系作曲家として、ドイツ・ロマン派の王道を進んだ F.Mendelssohn Bartholdy(1809-47) へ

  • 24 プール学院大学研究紀要第 56 号

    の敬意の感じられる作品である。低めの音域に移調することで、ロマンティックさが増長されている以外は、

    Kreisler 色の抑えられた、原曲に忠実な編曲となっている。

    10)Mazurka a-moll Op.67-4(Chopin/Kreisler)

     Kreisler は F.Chopin(1810-49) の Mazurka を 2 曲編曲しているが、Chopin が祖国ポーランドを痛み想

    う心境に重ね合わせ、哀愁帯びたヴァイオリン名曲に仕上げている。

    11)フラスキータのセレナード (Lehár/Kreisler)

     Kreislerと同世代の Doppelmonarchie 生まれの作曲家 Lehár を、共に繁栄と哀愁の Wien を表現し

    た同志として敬愛していたことが感じ取れる作品である。夫人がユダヤ人であったことが Lehár の作曲活

    動に影を落とすことになるが、その彼の意思を継いだとも言える本作は、Kreisler 面目躍如の Wien 情緒

    豊かな名作となっている。

    12)ハンガリー舞曲第 17 番 f-moll(Brahms/Kreisler)

     Brahms のハンガリー舞曲中、ロマ色濃厚な本作を採り上げた Kreisler は、重音奏によって魂の深奥

    からの重い悲しみを表現している。終結部の曲想には希望の光が差している。

    13)まるで薔薇のように (Nevin/Kreisler)

     アメリカ作曲家 E.Nevin(1862-1901) が最晩年 (1901) 年に作曲した歌曲を基にしているが、音楽活動の

    大半をベルリン等ヨーロッパで過ごした彼の音楽には芳醇な中央ヨーロッパの香りが漂い、Kreisler の手

    によって、一層その面影が増している。

    14)故郷の人々 (Foster/Kreisler)

     S.Foster(1826-64) の代表的な通俗歌曲を、ジャズの要素も取り入れた Kreisler のロマンティックな和

    音進行、転調展開等により、哀惜の念に満ちた名郷愁曲に仕上がった。

     「作曲家として、また演奏家として彼ほど聴衆に愛され、同じヴァイオリン奏者から支持と尊

    敬を勝ち取った音楽家はいない。(中略)今日でもその名は魅惑と高貴の代名詞となっている」29)

    Kreisler は、ヴァイオリンの音色と表現の改革者であり、おびただしい数のヴァイオリン名曲を世

    に送り出した。E.Elgar(1857-1934) の唯一のヴァイオリン協奏曲が彼に献呈された程である。洗練さ

    れた音色と品性、幅広く素早い vibrarto、portamento や rubato 奏法等は、他の奏者とは確実に一線

    を画する才能と資質の持ち主であったのだ。

     彼の音楽的土台が Wien で築かれたことは間違いなく、その Wien は当時多民族国家であったため、

    周辺東欧民族文化との接触が恒常的であった。その上にフランス楽派の教育も加わり、Mozart が度

    重なる長期間の演奏旅行によって各土地ゞ、国々の民謡や民族音楽を幼い身体と心で感じ取って作

    品に採り入れた様に、Kreisler も幼少期からの演奏旅行を通してヨーロッパ全土やイギリス、アメ

  • 25Fritz Kreisler(1875-1962) 音楽の本質

    リカの文化・音楽を吸収し、それらを作品に自然に取り込んでいたことは容易に考えられる。その

    中には少数民族のロマやアラブ等中近東文化も含まれていた。そしてユダヤ人としての民族意識を

    有していたことも、今回の作品分析等で判明した。

     しかし、例え国を追われようと、否、追われたからこそ、生涯、彼は Wien を思慕し、Wiener と

    しての矜持を抱き、ユダヤ系 Wiener としての作曲姿勢を貫き通したのである。

      彼 は C.Saint-Saëns(1835-1921) や C.Debussy(1862-1918)、P.Tchaikovsky(1840-93) 等、 ラ テ ン 系、

    ロシア系作曲家作品の編曲も多く手掛けたが、J.S.Bach(1685-1750) や Mozart、Beethoven を初め、

    Schubert、C.A.v.Weber(1786-1826)、R.Schumann(1810-56) 等、正統ドイツ・ロマン派作曲家作品を

    全 33 曲と積極的に編曲、紹介している。これは自身が、その後継者であることを自覚している表れ

    であると考える。

     また、彼の作品の中でも民族色豊かな『ジプシー奇想曲』『スペイン舞曲』『アラビアの歌』等は、

    典型的なユダヤ音楽のドリア、フリギア旋法的な曲調が使用されている。

     此の度の研究を通し、Kreisler 音楽が正統ドイツ・ロマン派音楽の最後の継承遺産であること、

    紛れもなく E-Musik であること、そして出自を認識してユダヤ人としてのエッセンスを込めている

    こと、何よりも栄えある Wien 文化のメッセンジャーとしての確固たる使命感を持って、創作・演

    奏活動に身を投じたことが明確となった。

     そして、彼と彼の音楽が万民から愛される理由は、彼の音楽に向き合う謙虚で真摯な姿勢、及び

    聴衆の魂に届く、彼の Wien 的、且つユダヤ的「Dopplehintergründigkeit(=二重の二面性)」の魅

    力であることが新しく解った。

     今後も彼の多くの作品分析を行い、更なる特徴を解明していきたい。

    <註>

    1)ernste Musik( 真剣な音楽 ) と Unterhaltungsmusik( 娯楽音楽 ) の略。

    2)阿部謹也著『ヨーロッパを読む』p.426

    3)E.H. ゴンブリッジ著『若い読者のための世界史』p .336

    4)同掲書p .355

    5)渡辺譲著『ウィーン音楽文化史㊦』pp.266、268

    6)宇野功芳他著『クラシック CD の名鑑』p.343

    7)A.Linsbauer 著『Das Wienerische Moment in den Kompositionen Fritz Kreislers』p.20、l.15

    8)同掲書 p.20、l.25

    9)渡辺和彦著『ヴァイオリニスト 33』p.18

    10)8 歳でパリ音楽院に入学したユダヤ系ポーランド人のヴァイオリニスト。情熱的で驚異的な技巧とスラヴ的

    情緒に満ちた作品で有名。

    11)イスラエル生まれの名ヴァイオリニスト。両親はユダヤ系ポーランド人。

  • 26 プール学院大学研究紀要第 56 号

    12)2 ヴァイオリン、クラリネット、ギターで奏される Wien 民俗音楽。

    13)『Das Wienerische Moment in den Kompositionen Fritz Kreislers』p.52

    14)Wien 前古典派、古典派が導入したバロック手法と共に、本楽派が創始・確立したホモホニック書法とソナ

    タ形式に Wien の背景性を加えた様式。

    15)水野信男著『ユダヤ民族音楽史』p.38

    16)四音音階。

    17)『ユダヤ民族音楽史』p.115

    18)オリエント、地中海周辺のユダヤ人をセファラード、ドイツ、東欧に移住したユダヤ人 ( アシュケナージ )

    の広めた音楽をクレズマーと言う。

    19)五音音階。

    20)ドイツ語とヘブライ語が融合した、アシュケナージ系ユダヤ人の言語。

    21)本間ひろむ著『ユダヤ人とクラシック音楽』p.32

    22)高岡智子著『亡命ユダヤ人の映画音楽』p.36

    23)二重帝国領のチェコに生まれ、Wien で活躍したユダヤ系オペラ作曲家。

    24)『亡命ユダヤ人の映画音楽』p.83

    25)黒田晴之『イーデルゾーンの目指した「ユダヤ音楽」』p.55

    26)『ユダヤ民族音楽史』p.203

    27)マーラー以降の最大の交響曲作曲家として評価されているが、ソ連体制に翻弄される自身の悲運をユダヤ人

    のそれに重ね合わせて考えるようになり、ピアノ三重奏曲第 2 番を初め多くの作品にユダヤ音楽を使用した。

    28)宇野功芳他著『クラシック CD の名鑑』p.345

    29)ジャン=ミシェル・モルク著『偉大なるヴァイオリニストたち』p.19

    <参考文献>

    A.Linsbauer 著『Das Wienerische Moment in den Kompositionen Fritz Kreislers』Peter Lang 2009

    Fritz Kreisler 著『Four weeks in the trenches; the war story of a violinist』Houghton Mifflin Company 1915

    堀内久美雄編『新音楽辞典』音楽之友社 1977.3

    水野信男著『ユダヤ民族音楽史』六興出版 1980.7

    門馬直美他監修『最新名曲解説全集第巻独奏曲第4巻』音楽之友社 1981.4

    渡辺護著『ウィーン音楽文化史㊦』音楽之友社 1989.4

    U. ミヒェルス編著『図解音楽事典』角倉一郎監修 白水社 1989.11

    阿部謹也著『ヨーロッパを読む』石風社 1995.10

    渡辺和彦著『ヴァイオリニスト 33』河出書房新社 2002.1

    E.H. ゴンブリッジ著『若い読者のための世界史』中央公論美術出版 2004.12

    堀内久美雄編『新訂標準音楽辞典第二版』音楽之友社 2008.3

    宇野功芳他著『クラシック CD の名鑑』文藝春秋 2009.11

    黒田晴之著『クレズマーの文化史』人文書院 2011.6

    ジャン=ミシェル・モルク著『偉大なるヴァイオリニストたち』藤本優子訳 ヤマハミュージックメディア 

  • 27Fritz Kreisler(1875-1962) 音楽の本質

    2012.7

    シリル・ギルバート著『ホロコーストの音楽』二階宗人訳 みすず書房 2012.8

    田村和紀夫著『文化としての西洋音楽の歩み』音楽之友社 2013.1

    高岡智子著『亡命ユダヤ人の映画音楽』ナカニシヤ出版 2014.3

    本間ひろむ著『ユダヤ人とクラシック音楽』光文社 2014.9

    黒田晴之『イーデルゾーンの目指した「ユダヤ音楽」』立命館言語文化研究 25 巻 4 号

  • 28 プール学院大学研究紀要第 56 号

    (ABSTRACT)

    The Essence of the Fritz Kreisler’s Music ―A Consideration of His Social Background and His Musical

    Expression―

    SAKUNO Rie 

    Fritz Kreisler (1875-1962) was born in Vienna during the double empire of Austria and

    Hungary. From an early childhood he played the violin with his father’s amateur string quartet. He

    studied violin, harmonics, and composition at conservatories in Vienna and Paris. He mastered the

    Viennese and French ways of playing violin at these two academies of music.

    Kreisler was also Jewish and, accordingly, a Jewish element of music can be found in his

    works. The influence of additional kinds of folk music can be found as well. However, despite the

    diversity found in his works, Kreisler has always been thought to represent “the most Viennese

    musician”.

    Through this research it has been proven that although Kreisler left his homeland and

    hometown, never to return, he loved them both very much. With his music, using the techniques of

    late Romanticism, he expressed the prosperous Vienna of old. Kreisler was truly Jewish, Viennese

    and an artist of the world.