24
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瀬川 武美 · 2010-02-18 · 成長」を目指して教育改革を行ったのがフィンランドである。 フィンランドは1990年代のはじめ、経済危機に襲われ、失業、不動産価格の暴落、貿易の衰

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「隠れたカリキュラム」の考察 その2

「隠れたカリキュラム」の考察 その2―幼児期の環境、大人の意識変革を―

瀬川 武美

はじめに

国の財産・資源は人間である。だが、人間は大切にされて来ただろうか。我が国は、戦後の

壊滅状態からの再生・新興を国是として経済発展・高度経済成長の道を選択し、一心不乱に突

き進んで来た。国の舵取り役はもっぱら経済界であった。国の経済の成長は国民の暮らしを豊

かにした。このこと自体は喜ばしいことである。しかし、過剰な経済成長の結果、皮肉なこと

に、今や国家は860兆2557億円1もの長期債務を抱え、完全失業率は過去最悪の5.7%2となり、

国民は富裕層と貧困層に分断されようとしている。1億総中流時代は過ぎ去り、閉塞感に覆わ

れている。国も民も未来はおろか、現在における「希望」「夢」もないところに立たされている。

平成20年中に経済・生活問題で自殺した人の数は7404人で、健康問題で自殺した人の数15153人

についで二番目に多い。3

経済成長の原理は、消費させるために物を量産することであった。その過程で人間は物をつ

くり、物を消費する機械と化されていった。そのことに当の労働者であり消費者である人間は

気づかなかった。幸せを求めること=金持ちになること、に夢中だったからである。しかし、

物をつくらせ、消費させることを考えた経済界のリーダーたちの多くは、余人は利潤をもたら

す労働者と消費者としか見なしていなかったのではないだろうか。“利潤の社会還元”を企業哲

学としたリーダーは何人いただろうか。

人々が幸せに暮らすためには、衣食住がある一定水準において安定し、物心ともに「ささや

かなゆとり」が必要である。

しかし、一度富を手にするとその豊かさが快楽をもたらす。快楽には成功の美酒を味わうこ

と、遊興三昧にふけること、優越感を満たすこと、などなどさまざまあるであろうが、「欲望」

に取り憑かれた人間はなおも快楽を求め続けた。過去に『欲望という名の電車』という映画が

あったが、「欲望」の意味は違うものの、戦後の時代そのものがまさにその感がする。人々は

「欲望」と「消費」の時代をつくり、その時代の流れに乗ったのである。

その結果、何が起こったか。富の独占欲に取り憑かれた強欲な者たちによる世界同時金融危

機である。そして、富める者はより富み、貧しきものはより貧しくなるという非情な経済格差

である。さらには、地球環境の汚染、破壊である。

こうした地球規模の危機的状況を作り出したのは、他ならぬわれわれ人間である。政財界の

-31-

みの責任ではない。新自由主義経済社会、市場原理、競争、弱肉強食、消費、になんら疑念も

なく追従・容認して生きてきた(自分で判断や決定もせず、一方的に断片的に発信されてくる

情報に流されてきた、といった方が適切かもしれない)われわれ民衆にも大いに責任がある。

われわれは、新自由主義経済社会をつくり、個人の尊重や人権をはきちがえた個人主義に陥り、

個人の欲望を満たすことに心奪われて、消費し続けることの危険性や、他者と競争をすること

の無意味さに鈍感になっていたのではないか。自分を見つめ、知り、自分をとりまく環境の様

子・変化、等を知り、その上で自分や時局を洞察し、制御する、批判する、という思考が停止

してしまっていたのである。ただただ前進・開発・破壊あるのみであったのではないか。

森羅万象の生命は循環しながら持続する、という摂理に反する生き方をしてきたのである。

資本主義経済は消費社会によって成り立つ。しかし、消費の先の究極にあるものは無である。

自然(多くの人間は自然を経済成長のための資源としかみなさなかった)は有限である。そこ

から無限の恩恵を被ろうとして知恵を働かせばよかったのだが、「欲望」を満たす知恵のみが働

き、自然の循環を次々と断ち切って来た。われわれは、今や無に至る“とば口”か、あるいは

すでにその過程の中にあるように思われてならない。

一方、人を育成する教育の世界においても、新自由主義経済の市場原理で動き、この重大な

摂理を置き忘れ、「欲望」と「競争」があたかも推進エンジンのごとく作用してきたのである。

その結果、拙稿「隠れたカリキュラムの考察その1」4に記したような学力低下、学習意欲の低

下、論理的思考力や創造力の未発達、それだけではなく学力格差、教育格差、学校・学級崩壊、

いじめ、自殺、殺人、登校拒否、学びからの逃走、といった深刻な問題が発生した。

未来に生き、その生き方が未来社会を形成する“子ども”の育成に関わる教育の責任は重大

である。現代社会を形成している“大人たち”は、その教育によって育成されて来た“かつて

の子どもたち”である。そのことを思えば、人間は自分の未来を、現代の自分の生き方で作り

あげているのである。子どもを育てる大人(とりわけ教師や親)は、自分のしたことが自分に

還ってくる、という当たり前のことの意味の重大さに気づき、子どもの育て方を考えなければ

ならない。次世代に「希望」と「夢」が持てるような真正の教育・子育てが必要である。

そのためには、過去の総括と対策が必要である。対処療法にならぬよう、問題の根源に迫り

たいと思う。そこで、本稿では①前稿の「隠れたカリキュラムの考察その1」を通して見えて

きた「忘れられて来たもの」(意識されなかったもの)は何か、それにはどのような意味がある

のか、その重要性について言及し、そして、②「隠れたカリキュラム」を形成する幼児期の親

の有り様について考察する。

なお、本稿でいう「隠れたカリキュラム」とは、学校教育における「顕在的カリキュラム」

とは別の、“子どもの発達過程における環境・経験の総体とする”ことを改めて確認しておく。

-32-

「隠れたカリキュラム」の考察 その2

1.「忘れられて来たこと」とその意味

我が国の子どもたちの学力において、「基礎・基本の理解の不確実さ」「構造的認知力・思考

力の弱さ」「生活・経験からの遊離性」を拙稿「隠れたカリキュラムの考察その1」で指摘した

が、本稿では、こうした学力とは別に、「人としての成長」にかかわるものとして、つまり、

“知と情が統合された人間形成”に必要なものを考察するために、経済の発展・成長、富の獲得

や、一流校・学歴信仰を目指してきた裏側で「忘れられて来たこと」とその意味について検討

する。

1.1 人としての成長

真正の教育は、子どもを一人の人間として成長させることを目指すものであるはずだが、前

稿にみる分析結果から、我が国のこれまでの教育にはこの点が抜け落ちているように思われる。

こうした我が国に比して、国の財産・資源は人間である、という視点に立って「人としての

成長」を目指して教育改革を行ったのがフィンランドである。

フィンランドは1990年代のはじめ、経済危機に襲われ、失業、不動産価格の暴落、貿易の衰

退、銀行危機など、いわゆるフィンランド版バブル崩壊があった。1993年12月には失業率が約

20%だったという5。この大不況を経験した国が、何故、2000年、2003年、2006年のPISA調査

における学力調査で世界のトップクラスの子どもを育成し、経済的にも発展することができた

のであろうか。その回答は、1994年当時の教育大臣であったオッリペッカ・ヘイノネンの次の

言葉にある。

個人としての資質を伸ばし、人としての成長に価値を置くべきであり、経済成長のこ

とは忘れるべきと思います。わたしは、人の資質、人間の成長に集中すれば、経済的な

成功はあとからついてくると思っています。経済成長だけに集中すべきではありません。

それは忘れるようにして、教育と人間の成長に集中する。このことで、経済成長も自ず

から実現する。教育と人間の成長を手に入れるためには経済成長を忘れることです。6

ヘイノネンは、ラテン語の「学校のためではなく、人生のために」という格言を、未来を切

り開くためのキーワードとして挙げている。これは、人は学校のために学ぶのではなく、人生

のために学ぶという意味である。フィンランドは国をあげて、ヘイノネンの言葉どおり、人生

のために学ぶことを目的として教育の機会を平等にし、競争を廃止し、学ぶ子どもたちの創造

性を引き出す教育改革を行ったようである。

それに比して日本は、国の財産・資源は人間である、という認識はあるものの、国家の繁

栄・経済発展が目的であり、人間はその繁栄・発展のためのいわば道具・手段として育成され

て来たように思われる。

-33-

「隠れたカリキュラム」の考察 その2

このことは、日本の近代の学校が、国民からのボトムアップではなく、政府からのトップダ

ウンで創設されたことに起因するように思われる。

1872(明治5)年に制定された「学制」の趣旨は、「学問は身を立るの財本」であるとして国

民皆学が提唱され、他のことを擲ってでも一人ひとりがその能力に応じて勉学に励まなければ、

治産昌業に結びつかない、故に、保護者は必ず子どもに学問をさせよ、というものであった。

このことは「学事奨励に関する被仰出書」に明らかである7。

そして、1885年に初代文部大臣となった森有礼は、教育勅語を教育の根本原理として、工業

商業をもって国家の繁栄と発展を図り、世界における一等国を目指すことを教育の目的とし、

特に師範学校にその役割を付与し、能力の競争を是とした。さらに森は、経済は国家の損害に

関わるとして経済主義教育を唱えた。その経済観とは、①時間、金銭、物品の使い方を効率よ

くすることであり(校長の職務としてその責任性を説いた)、②知力、労力、時間、金力を問わ

ず、用いた力(費やした資源…瀬川注記)に見合う効果が得られること、であった8。ここに経

済優先、効率主義、成果主義、競争原理の教育の姿が萌芽していると思われる。

その後、大正期から平成の今日に至るまで、日本の学校教育は、国家政策に即応して教育課

程が改訂され、めまぐるしいといってよい程に変遷を経て来た。その基調は、大正デモクラシ

ーの児童中心主義や第二次大戦後にデューイの経験主義教育などの実践はあったものの、それ

らは根付かずに、総じて国家の経済発展、水準の向上、さらには覇権の拡充にあったといえよ

う。

例えば、大雑把にみると、①1960年代は高度経済成長に伴い科学技術教育に重点がおかれ、

②1970年代は「教育の現代化」として、産業界に必要なハイタレント養成に強い関心がおかれ、

③1980年代は経済の安定成長期の中で、人間性重視への転換が図られたものの、国旗・国歌が

強調され、③1990年代以降からの平成不況期においては、変化の激しく、且つ、高度情報化と

知識基盤社会を内包するグローバル時代にあって、個人の「生きる力」が提唱されているもの

の、他国との競争に勝ち、優位な国家的地位を獲得するために産業力・科学技術力の育成が重

視されている(理数教育の充実)。

直近では、2009年8月4日に文部科学省の基礎科学力強化推進本部が「基礎科学力強化総合

戦略」を発表した。この基本戦略として「国是としての科学技術創造立国を再認識し、基礎科

学力の強化に社会総がかりで取り組む」とある。その一つとして、初等中等教育では「スーパ

サイエンスハイスクール」を指定し、理数に重点を置いたカリキュラムを実施する、等の施策

を提言している。9例えば、環境問題の解決に関する技術の開発は、人類の未来に貢献するもの

であるだけに意義深いことである。しかし、その開発力で国家の地位を獲得するという目的が

ある限りにおいて、基礎科学力教育の目的は純粋に個人のためにはないといえよう。

教育基本法(新旧)の第一条教育の目的に「教育は、人格の完成をめざし、(中略)国家及び

-34-

「隠れたカリキュラム」の考察 その2

社会の形成者として(中略)国民の育成を期して行われなければならない」、と理念としては謳

われているが、どうも「国家及び社会の形成者としての育成」が優先されているように見えて

ならない。

個々の人間には固有の能力や資質がある。第一次産業に適している者もいれば、第二次や第

三次産業に適している者など多様である。一国の国民は互いの異文化の交流、文明・技術と文

化・精神の交流を通して共存共栄し合って生きている。それが豊かな国家ではあるまいか。元

来異文化な存在である人間を、国家の覇権的地位獲得のために一つの目的にむけて押しなべて

教育することはいわゆる個性を殺すことであり、落ちこぼれや学びからの逃走者がいても当然

である。

勿論、国家の安寧、成熟なくして国民の幸福・平和はありえない。しかし、ヘイノネンの言

うように、一人ひとりの子どもの「人としての成長」に価値をおくことが何よりも大事であり、

「人として成長した」子どもたちが安寧、成熟した国家を形成するのではないか。また、国家の

成長とは他国に秀でることではなく、一つの国家として「成熟する」ことである。「成熟する」

とは、一言では表現しがたいが、経済的安定と社会の安寧の中で、個人がそれぞれの特性にお

いて輝き、かつ利害の調整と共生による関係で人々が生きていることと考える。それは人間対

人間にのみ言えることではなく、国対国の関係においても言えることである。

政財界の描く国家建設(成熟とはほど遠いもの)のために教育は利用されるものであっては

ならない。教育に携わる者の意識の有り様次第で、子どもの育ちや未来社会が作られていくこ

とを、これまでの国家の歩みと教育の在り方を顧みながら、改めて心に刻む必要がある。

人として子どもを成長させること。そして、子どもの生きている様子を見、声を聴くところ

から教育は始めなければならない。子どもは、国のためではなく、一人の人間として成長する

権利を持っているのである。子どもに、集団から落ちこぼれまいと、競争させるのではなく、

“こういう人間でありたい”として自分の道を歩むことに邁進させてやることが大人の役割であ

る。

20世紀型の経済成長の終わりを実感した今こそ、大人自身の価値観の在り方を問い直さなけ

ればならない。

1.2 精神文化―「人生とは何か」「生きるとは何か」「命とは何か」という「問い」―

「人としての成長」に関わるものの一つとして、ここでは精神(心・情・感性)というものを

取りあげる。ここでいう精神文化とは心の有り様のことをいい、「人生とは何か」「生きるとは

何か」「命とは何か」という「問い」を内包するものである。そして、この「問い」について考

える視点として「豊かさの中身」「人格の完成」「待つこと・ゆったりとした時間」「こころの知

能指数」を取りあげ、これらについて考察する。

-35-

「隠れたカリキュラム」の考察 その2

1.2.1 豊かさの中身

幸福を求めて、経済的裕福を獲得することに夢中になった多くの大人たちは、富・豊かさや

幸せの意味・中身すら問わずに生き、物を創り、子どもを育ててきた、のではあるまいか。

大人は一流学校への進学→一流企業への就職→出世→経済の安定・裕福、という「幸せライ

ン」の構図を思い描いた。だが、このラインどおりの人生を歩んだ人間は一体何人いるのだろ

うか。就職までは乗り得ても、何人が活躍しただろうか。出世して裕福になったとしても何人

が円満な生涯を終えたであろうか。ちなみに、ハーバード大学を卒業した者を追跡調査した結

果、大学時代に秀才だった人がそうでない人より収入や業績や地位などの点で特に成功してい

るとはいえない、という結果が報告されている10。にもかかわらず、少子化時代になっても受験

熱がさめず、受験勉強のための通塾児童生徒が後を絶たないのは、「幸せライン」の達成にとら

われているからである。それを実現することが「夢」なのであろう。

ところが、人々のこのような「夢」を打ち砕くかのように、平成不況は教育格差を発生させ、

この度の100年に一度といわれる経済危機はその格差をより深刻なものにした。特に生活保護受

給世帯と母子家庭世帯では進学費用や通塾費などを捻出することには厳しいものがある。先の

「幸せライン」の構図に学力が置き換えられるならば、経済力の格差がそのまま学力の格差につ

ながるのである。

平成20年度の全国学力調査結果から、保護者の収入と子どもの学力は関連することが報道さ

れていた。お茶の水女子大学が約6000人の小学6年生の保護者について年収を調査したところ、

国語、算数ともに年収200万円未満の家庭と年収1200万円未満の層とにおける子どもの学力の差

は最大約20~23ポイントの差がある11、ということである。進学塾に通う割合が成績上位層に多

い、というベネッセの調査12とも考え合わせると、年収と学力の比例関係は否定できないものが

ある。

様々な調査において学力といわれているものは、調査する人間が設定した学力観を物差しと

して測定されたものだから、実態として認識することは大切であっても、調査結果に一喜一憂

するものではない。問題は親の経済力と子どもの学力が比例することである。

親の経済力が関係する主な理由の一つは、学校外の学習機関に子どもを通わせなければなら

ないからである。

しかし、そもそも学校での学習以外に他の学習機関でさらに学習しなければ望む学校・一流

学校に進学できない、ということ自体に、学校段階の接続の問題も含めて日本の学校教育の根

本的問題があると考える。また、こういう構造に何ら疑問を抱かずに、経済的負担を強いられ

ながらも、それを常識として受け止めている国民感情はどういうことなのだろうか。これも、

世の中の流れ(空気)に乗り遅れまいとする日本人の性向の表れなのだろうか。

何故、教育関係者や保護者は「NO!」「おかしい!」と叫ばないのだろうか。

-36-

「隠れたカリキュラム」の考察 その2

学力優秀な人材を養成し国家の経済的繁栄を目指したその国家が、何故未曾有ともいえる経

済的危機をもたらし、国民の生存権さえ脅かす事態を招いたのか。国家の推進役が一流校出身

のエリートたちであったことに少し思考をめぐらせば、「日本の教育はこのままでいいのか?」

「何か変だ」という疑問が湧いてくると思うのであるが―そういう声がそろそろ巷間から、マ

ス・メディアから聞こえて来てもよさそうに思うが―学力格差や教育格差と経済力との関係

ばかり議論の対象になっている。こうした議論も大事だが、教育内容・質について突っ込んだ

議論がより必要である。教育界の一部で、教育を根源的に問い直すオルタナティブな教育13が提

唱され実践されているが、大きな変革の、潮流を変える程のパワーにはまだ至っていない。

受験偏向の教育で子どもたちに培われた学力の質はどうかというと、これまでのPISA調

査、IEA調査、全国学力調査の結果から明らかになったことは、「基礎・基本の理解の不確実

さ」「構造的認知力・思考力の弱さ」「生活・経験からの遊離性」という課題のあることである。

いわば学力の空洞化(表層的な知識ばかり身に付けている)が発生しているのであるが、これ

が、我が国では高校段階までに矯正されることなく、大学受験のための教育を受けて進学する

―受験勉強偏向に賛同しないが、現実問題として、少子化にあって、需要と供給の関係から

受験勉強をしなくても進学できるので、受験勉強をした学生としなかった学生との学力の格差

は憂慮すべきものがある―。そして、大学では学力の格差と空洞化を抱え込みながら、キャ

リア教育という名で就職講座が展開される。

学校教育は、一流校進学や就職に有利か不利かという物差しで商品化されているようなもの

である。有名校に何人進学させ、有名企業に何人就職させたかで世間は学校をランク付けする。

学校が、こうした世間の評価に即すことによって、受験学力競争に偏向し、「人としての成長」

のための教育が剥落していったと思われる。この剥落した「人としての成長」こそ、誰のもの

でもない、誰からも奪われない財産・宝なのである。すなわち自身にとって「豊かなもの」な

のである。

1.2.2 人格の完成

ところで、前述したように、教育基本法第1条(新旧)に謳われている教育の目的には「人

格の完成」とある。広辞苑によると「人格」とは、“道徳的行為の主体としての個人、自律的意

志を有し、自己決定的であるところの個人”とある。

この意義を踏まえるとして、どうすれば人格が形成されるかを考える必要がある。私は次の

ように思う。

さまざまな体験に遭遇し、「人生とは何か」「生きるとは何か」「命とは何か」という「問い」

が自発的に生じ、それに向き合い、その問いと共に歩く、あるいはくぐり抜ける過程で培われ

ていくものであり、長い時を要して形成されていくものである。功利的、効率的に一方的に教

-37-

「隠れたカリキュラム」の考察 その2

授された知識によって促成栽培のように形成されるものではない。

したがって、一流の学校への進学や企業への就職を目的とした表層的な知識教育は、「人格の

完成」を置き忘れてきたと思う。「人格の完成」を忘れた教育を受けてきた大人たちだから、行

き過ぎた経済成長の危険性を察知し抑制する思考が働かなかったのではないだろうか。

では、前述の筆者の考えるような人格の完成(人間形成)はどのような実践をすれば可能だ

ろうか。島根県の山間部の小学校2年生の児童たちの「生活科」における“白ネギ作り”を参

考までに簡単に紹介する。これは、

ネギとの出会いと栽培活動を通して、ネギの7不思議を発見する「起」、夏の一時期、

元気がないと心配しつつ世話を怠らなかった「承」、見事に収穫できた549本のネギとど

のようにお別れしたらいいかと悩んだ「転」、国語の「かさこじぞう」の学習で、“さび

しくない方法で別れたい”“簡単に手放したくない”という気持ちを納得させる解決方法

として、“ねぎくんがいなくなって寂しい気持ちをいつまでも持ち続ける”ことを発見し、

悩みが一気に解決し、天にものぼる気持ちになった「結」。14

という物語性をもった活動が7人の子どもたちによって展開された。このネギ栽培は「失敗

と悔しさが渾然一体となってバネとなり、すべての中に流れ込んで行った」15人間性の回復の作

業であった。教師が何もかも計画し子どもたちに計画どおりにさせたのではなく、教師と子ど

もが同等に一緒になって、むしろ子どもたちに任せて「行けるところまで行く」覚悟を教師が

決めて取り組んだのである16。その結果、子どもたちに次のような変容があった。

①「ねぎくん」と呼びかけ、自分たちの仲間のように受け入れた。17

②何でもできる子どもたちに成長した。18

③よく世話をし、よく観察した結果、成長への畏怖と尊敬の念が生まれた。

例えば、

ア「白ネギに育ててもらっている」という意識を子どもたちが自発的に持った19。

イ「よういがいいねぎくん」という感想文に、ある子どもは次のように書いている。

“せいちょうてんは土のなかにあります。せいちょうてんのしごとはつぎのめと

かよういするのがしごとです。つぎのつぎのめもよういしてはたらいています。

それとねぎのせいちょうてんはよういがいいのです。それとねぎはぼくらより、

よういがいいです。”20

つまり、ネギと同様に生命ある存在としての自分たちの「生き方」を見つめる

学習へと発展していった21。

さらに、

-38-

「隠れたカリキュラム」の考察 その2

ウ 太陽や雨などの自然の恵みに感謝することが大切であり、自分たちの働き

を自慢してはいけない。収穫物をむやみに売ることだけは慎みたい、という

意識が一人ひとりの心の中にあった。22

エ さみしそうな目をした変わった子どもとみられていたS君が自信を強め、本

当の自分の姿をみつけていった。23

7人の子どもたちが白ネギとの全人格的な交流を遂げていく中で、白ネギのパワーと子ども

たちのパワーが交じり合い、お互いを高め合い、育ち合っていった。担任は「子どもたちはず

いぶんたくましくなり、私はもう追い越されたみたいです」と述懐している。24

杉山は人格の完成とは「生き方としての個性形成」であるとし、それには社会性や共同性、

つまり、思いやり、情け、「共同の感情」を含めた個性というもの(人となりの豊かさ)への教

育が、集団、すなわち他者との生き方の交流を通して必要、と述べている。25

この子どもたちにどうしてこのような人間性や感性が育まれたのか。それは、なによりも子

どもたちが主体的に白ネギと関わり、栽培の過程で問題や壁に遭遇し、それを自分たちの力で

乗り越えて来たからである。そして、そういう環境を用意した教師が存在したことからである。

教師が先回りをして計画をし、あれこれ指示をするのではなく、むしろ子どもの後から教師

がついて行き、一緒に作業をしたり、考えるという姿勢が取られた。そのことで、子どものエ

ネルギーが発動したのである。

また、子どもたちのこうした変容(人としての成長)は、当初から予測されたものでも意図

されたものでもなかった。自然な流れであった。こうして育まれた力こそ「生きる力」であり、

一人で生きていく力となっていくのである。教師から一方的に教授される知識を記憶するだけ

の銀行型教育や受験勉強で育まれるものではない。そして、一人ではなく、仲間たちと相談し

あい、協力し合うことからも「生きる力」は育まれていくのである。

1.2.3 待つこと、ゆったりとした時間

白ネギを子どもたちに栽培させた教師の態度から一つ大切なことが見えてくる。それは子ど

もの成長を「待つ」ことである。教師が先回りをして計画し、あれこれ指示をせずに、子ども

たちの力でネギを最後まで栽培させたことである。ここに教師の子どもを信じて待つ姿勢がう

かがい知れる。

競争原理に支配された社会で人々は速さや効率を重視した。つまり時間も商品としてどんど

ん消費していった。例えば、インスタントラーメンや「電子レンジでチン」の手っ取り早さ、

新幹線の快適さなどに感動したわれわれは、一つのことに時間をかけなくても簡単に物を手に

入れられることを知り、時間を効率よく使えばいろいろなことが短時間でできることに気づい

-39-

「隠れたカリキュラム」の考察 その2

た。速さは良いことと思ってしまった。そして、効率性・利便性のある商品がどんどん開発さ

れ、人々は消費していった。時間をかけて物を作ったり、じっくり観察したり、何もしない時

間を過ごしたりする人々が減少していった。何もしない時間をつくることがまるで罪悪である

かのような意識に呪縛された。しかし、その結果が100年に一度といわれる未曾有の経済危機で

ある。

こうした人間の行動は、ミヒャエル・エンデの『モモ』(1974年にドイツ児童文学賞受賞)の

世界と重なり合う。この作品の概要は次のごとくである。

とある街に出現した「時間貯蓄銀行」という名前の灰色の男達(服装や持ち物、顔色も灰色)

が、「時間を節約し、それを銀行に貯蓄しておくと、5年、10年、15年後には利子がどんどん増

えていく。だから生活を豊かにするために時間を節約しよう。仕事への愛情はむしろ仕事の妨

げになる」といって街の人々から時間を盗んでしまう。街は規格品のような建物が建ち並び、

まるで砂漠のような気配になり、街の人々の心にも余裕が無くなり冷気が漂うようになってい

った。こうして盗まれていった時間が、人々の気づかないうちにモモとモモの仲間たちによっ

て取り戻され、街の人々は愛情をもって仕事をし、人々の心に豊かさが戻ってくる、という内

容である。26「時間をケチケチすることで、ほんとうはぜんぜんべつのなにかをケチケチしてい

ることには、だれひとり気がついていないようでした。じぶんたちの生活が日ごとにまずしく

なり、日ごとに画一的になり、日ごとに冷たくなっていることを、だれひとりみとめようとは

しませんでした。」「けれど時間とは、生きるということ、そのものなのです。そして人のいの

ちは心を住みかとしているのです。」「人間が時間を節約すればするほど、生活はやせほそって

いくのです。」27という作者の言葉がこの作品のテーマを象徴している。

『モモ』では人々が時間の大切さを自覚したが、果たして我が国民はどうだろうか。

大人の効率性・利便性を追求する心理と、子どもには「幸せライン」を一直線に完走させた

いという親心は通底する。

学校教育の「ゆとりの時間」は学力低下の元凶であるかのように叩かれた。受験勉強に無関

係な学習は時間の無駄なのである。子どもを「幸せライン」に乗せることだけしか念頭にない

親も教師も、子どもが効率良くあれもこれも(ただし受験に関係のあるもの)勉強をしていな

ければ不安なのである。当然、子どもの思考も感化される。

ところが、「ゆとりの時間」を削ったり、通塾をしたりして勉強をしても、子どもたちに課題

解決力や学習意欲は育っていなかった。そればかりではなく、学習意欲は低下し、いじめや自

殺、学びからの逃走が発生したのである。

これに比して、白ネギを栽培した子どもたちには、時間がたっぷりと与えられた。計画する

時間、失敗を経験する時間、やり直す時間、白ネギとお別れをする時間などが与えられた。も

し、教師が、子どもたちに考えさせる時間を惜しんで、子どもたちをせき立てていたら、子ど

-40-

「隠れたカリキュラム」の考察 その2

もたちは自立しなかっただろうし、あのような豊かな人間性は育まれなかったであろう。この

子どもたちには、課題解決力や学習意欲も育まれていったと思われる。子どもたちの力を信じ、

解決する時間をたっぷり与え、成長することをじっと待つ教師の姿勢が真に子どもを人間とし

て成長させたのである。

大人の思うようにではなく、子どもの自然な発達に歩調を合わせて、「ゆっくり」始めること

を見直すべきではないだろうか。

早く早くと前傾姿勢で急いでいると近視眼的になり、問題が発生してもその場凌ぎの対処療

法しか考えない。根源的な問題は残されたままになるので、時間が経過すれば、また同様の問

題が発生する。

学習指導要領がめまぐるしく改訂され、教育課程・制度が変更されても同じ問題を引きずっ

ているのは、立ち止まって根源的な問題を分析・考察し、そこにメスを入れないからである。

入れ物を変えても中身が変わらなければ無意味である。むしろ、問題を根深くしていく。中

身の入れ替えには時間がかかるものである。その時間を惜しんでいるから改良されないのであ

る。

また、時間がないという理由で強引に中身を入れ替えても、意図どおりに変わるものでもな

い。それほど、人間の成長・変容は余人によって意図的に達成されるものではないし、そのた

めの合理的な方法・技術はないのである。それを強引にすればするほど、意図に反した逆説的

な結果を招くことになる。

1.2.4 こころの知能指数

1)こころの知能指数

「こころの知能指数」という言葉は、1995年10月にアメリカで話題を呼んだ『Emotional

Intelligence 』の翻訳本のタイトルである。著者はダニエル・ゴールマンという心理学博士であ

る。脳の画像処理技術が発達して、現に活動している脳の状態を目で見られるようになった結

果、脳の情動(感情の動き)をつかさどる部分と人間の感情・衝動との関係が明らかになった。

その結果、人間の基本的な倫理観は「こころの知能指数」(EQ)の基礎の上に立っていること

が、近年少しずつ明らかになってきた。28

ゴールマンは数多くの事例をとりあげて、人生で成功するのはIQ(知能指数)ではなくEQを

高めることであることを説いている。EQは人格的知性やメタ能力(さまざまな能力をどこまで

使うかを決める能力)を意味するものである。

何故、EQが人格的知性やメタ能力に作用するのかは、次のサロベイによる基本的定義29が参

考になる。

-41-

「隠れたカリキュラム」の考察 その2

①自分自身の情動を知る能力

EQの基本。自分の中にある感情をつねにモニターできる能力は、自分自身を見

つめ理解したり、自信を持つうえで絶対に必要。さもなくば、感情の波に押し流

されてしまう。

②感情を制御する能力

自分の情動を認識した上に成り立つ能力で、感情を適切な状態に制御しておく

能力。感情をうまく制御できる人は、逆境や混乱からはやく立ち直ることができ

る。

③自分を動機づける能力

目標達成に向かって自分の気持ちを奮い立たせる能力は、何かに集中したり何

かを習得したり創造したりするうえで不可欠。「フロー状態(才能が自然にほとば

しる状態)」にまで自分を高める能力は、あらゆる分野で傑出した仕事につながる。

こういう能力を持っている人は、何をやっても生産的で効率的。

④他人の感情を認識する能力(共感能力)

共感も情動の自己認識の上に成り立つ能力で、根本的な人間関係処理能力。

共感能力に優れている人は、他人の欲求を表す社会的信号を敏感に受け止める

ことができる。そうした才能は他人の世話をする職業や教師、セールス、経営な

どに向いている。

⑤人間関係をうまく処理する能力

大部分は他人の感情をうまく受け止める技術。

この能力は人気やリーダーシップや調和のとれた人間関係を支える基礎となる。

こうした能力に優れている人は、他人との協調が必要な仕事を何でもうまくこな

す「社会的スター」である。

そしてゴールマンは、子どもの学習能力は、基本的なEQレベルに左右されるとし、幼年期が

もっとも大切な形成期であるという。しかし、脳は驚異的な順応性を持ち、つねに学習してい

るので、EQのかなりの部分は脳が学習した習慣や反応であり、正しい方向で努力すれば矯正し

向上させることが可能だ、と述べている。30

学級崩壊、学びからの逃走、いじめ、自殺、殺人などはEQの低さと関係しているようである。

その責任は当人たち以上に、前述したように、子どもを立身出世のラインに乗せるために、偏

差値やIQを高めることばかりに夢中になった教育者や大人たちの責任である。これに比して白

ネギを育て、自分達自身も人間的に成長した7人の子どもたちのEQはかなり高いといえそうで

ある。

-42-

「隠れたカリキュラム」の考察 その2

杉山は、感性こそ、科学者にとって大切なこと、知性はそのあとのこと、レイチェル・カー

ソンも知性に偏重する教育にどれだけ害毒があるかを訴えている、31と述べているが、EQの作

用を考えると妥当な主張である。科学者に高いEQが必須なことは、「インターネットのエジソ

ン」といわれるビル・ジョイの主張からも納得できる。彼はコンピュータの急速な進歩が、人

類の運命を左右する力が国家ではなく人間一人ひとりに与えられるようになる危険性を説き、

技術がもたらす結果をあらかじめ評価して、これ以上進むと危険だと判断したら、知の探究は

そこで止める必要がある、32と述べ、その後コンピュータの開発に関わらなくなった。ビル・ジ

ョイの勇断にEQの高さが感じられる。また、ノーベル賞受賞者の益川敏英氏も「科学というの

は非常にニュートラルなものです。どう使うかは、人間の問題です。」「特殊な知識を持ってい

る市民としての科学者は、常に自分の生活体験からどう発言していくか、どう生きていくか、

問われている。」と語っている。33

世界同時金融危機を回避できなかった大人達は、とりわけ②の感情を制御する能力において

EQが低かったのだろう。また、いじめや殺人などは、歪んだ自己愛と他者への思いの剥落・未

発達であり、想像力の欠如といえる。③以外の領域の欠損(③が保障されているかどうかはわ

からない)がかなりあったのではないかと推察される。

2)足るを知る

ところで、上記②の感情の制御は、「足るを知る」ことによって可能である。

「足るを知る」とは、「知足者富」(足るを知る者は富めり)(老子第33章)34や、「知足の法は

即ち是れ富楽安穏の處なり」(佛遺教経)35などにみる観念である。すなわち、自分の中に本来

全てあることを知り、あるがままの状況を受け入れることや、与えられた環境に満足できる人

こそ真の富者・幸福者である、という意味である。「佛遺教経」では、この後に「足ることを知

らない者は裕福であっても心が貧しい」という言葉が続く。

「足るを知る」ことのできない人間は、今ある自分に満足できなく、自分をしっかり見つめな

いで、際限なく欲望(不必要なもの)を満たそうとして危険な罠に落ちる(零落する)ことを

戒めるものでもある。

戦後の我が国の高度経済成長社会と、「幸せライン」しか見えていない大人と、その大人に育

てられた子どもたちに欠落していたのが「足るを知る心」であったのではないか。

序でながら、自分の行為が生態系に悪影響を及ぼすことを考えないで、気に入った外来種の

動植物を持ち込むのも「欲望」からである。

それに比して、ネギを育てた7人の子どもたちの「太陽や雨などの自然の恵みに感謝するこ

とが大切であり、自分たちの働きを自慢してはいけない。収穫物をむやみに売ることだけは慎

みたい、という意識」は、「足るを知る心」そのものである。

-43-

「隠れたカリキュラム」の考察 その2

「こころの知能指数」は、環境次第で高めることができる。よって、大人・親はその環境づく

りをしなければならない。もっとも、親自身が最強の環境であることを自覚する必要がある。

1.3 自然や人とのかかわりの中での遊び、自己決定

「人としての成長」に関わるもうもう一つの側面として、ここでは「遊び」について考察す

る。

遊びは子どもの聖域である。その遊びも今日ではコンピュータゲームが主流になっている36。

コンピュータゲームで遊ぶ子どもは、バーチャルな世界でしかものごとを考えたり、楽しんだ

りすることができなくなりつつあるのではないか。その理由は、ゲームは前頭前野機能を低下

させるといわれているからである。その結果、様々な問題発生が予測される。

岡田(臨床医)によると前頭前野機能の低下は、危険回避、社会性、課題遂行のそれぞれの

機能に影響する。例えば、①ゲームで長時間遊ぶ子どもは、共感性や状況判断力(社会的能力)

の問題が生じやすい。②落ち着きがなく、注意散漫になりやすい。③外向きの対人関係では自

分を抑える一方で、そのはけ口を弱い存在や思い通りになる親への攻撃的態度によって紛らわ

す。④対人関係やコミュニケーションに対して貪欲でのめり込む傾向もある。⑤低年齢でゲー

ムにたっぷりつかる程、これらの傾向は重度になり、回復が困難になる。37

1969年から79年の10年間は、カラーテレビやビデオが普及し、映像メディアが家庭の中でま

すます大きな存在をもつようになった。その後、20年間に子どもをめぐる環境で起きた最大の

出来事は、テレビゲームの家庭内への進出と、驚異的な浸透であった。そして、1998年には、

不登校や家庭内暴力が深刻さを増すとともに、次々と凶悪な少年事件が起こり、日本列島を震

撼させはじめるようになった。38

すなわち、岡田の理論によると、メディアの影響が前頭前野機能の低下を引き起こし、その

結果、情動や行動のコントロールの苦手な子どもや若者が増えているということになる。経済

優先が招いた負の遺産である。ビル・ジョイ氏のような勇断が働かなかったのだろうか。技術

開発者のEQについ考えさせられるものがある。

また、過保護、幼い頃の愛情不足、相互理解不足、いじめ体験は、いずれもゲームやネット

への依存を助長する要因となることが統計的にも裏付けられている39ので、注意しなければなら

ない。

こうしたゲームへの依存症からか、遊びそのものへの意欲が衰退しているように見受けられ

る。自由でありたい、という人間の大切な願いが失われようとしているのではないか。

また、ゲームにはゴール・正解に至るルート・手順がゲームの制作者によってし組まれてい

る。どれだけ速くそのルート・手順を見つけ、ゴール・インするかがゲームの楽しみであろう。

-44-

「隠れたカリキュラム」の考察 その2

だから、一つのゲームのやり方が分かると次のゲームへと興味が移っていく。しかし、人生に

正解はないし、正解に至るルートも勿論ない。ゴールや正解のあるゲームに遊び慣れた子ども

に、果たして、正解のないもの、不確実なものに対して果敢にねばり強く挑戦する気力や根気

が培われていくだろうか。とてもそうは思えない。

では、どのような遊びが、望ましい形で子どもを発達させていくのだろうか。

かこさとしは、遊びと子どもの発達の関係を次のように述べている。

本能や生理的満足は、他のいきいきした働きの基礎である。体を使い、運動するこ

とは、筋肉をより強く柔軟に鍛え、健康な体をたもつとともに、大脳の発達を促進す

る。絵描きや草木の遊びでの工夫や創造、指先の運動、お手玉をするときの反射神経

や敏捷さ、あやとりの順序性の追尾と抽象的な形態の認識力、石蹴りの時の瞬発力や

持久力など、いずれも手足を刺激する。そして、それぞれの遊びをしながら言葉を学

んでいくのである。鬼ごっこや隠れんぼは、追ったり追われたりしながら、知恵を働

かせ、冒険心やスリルを感じながら楽しむものだが、走力や機敏性などが養われる。40

自然の中での冒険遊びや探検ごっこは、たくましい心身を鍛えるとともに、危険に対する認

知力・判断力、対処の仕方を身につけたり、自然の偉大さ、不思議さなどを五感を通して自ず

と実感することになる。近年子どもの体力の低下が問題視されているが、自然の中で遊ばなく

なったことが大いに原因があると思われる。体育の時間だけで体力がつくものではない。日常

においてどれだけ体を使って遊んでいるかによるのである。

また、テレビやコンピュータは、例えば上高地や釧路湿原はこういうものだ、という情報を

見せているにすぎない。花・草・木などの色・形・匂いや感触、風の匂いや感触、鳥の姿やさ

えずり、川の流れや冷たさ、などを実感することはできない。実際と似た色や形や音を伝えて

いるだけである。子どもに必要なのは、実際に体で体験することである。家の庭でも、公園で

もいいから、実際に自然に触れることが豊かな感性を育むうえにも大切である。

しかし住宅、道路、工場建設のために自然を次々破壊した大人は、子どもの遊び場から自然

を奪った。それは、子どもの発達を阻害することでもあった。大人は真に子どものために生き

て来たのだろうか? 子どもに未来を保障しているといえるか? といった疑問が持たれる。

また、工作道具を使って物作りをしない子どもたちは、刃物の扱い方や殺傷力を知らない。

刃物を用いたときの力加減や防御の仕方が感覚的にわからないものだから、はずみで怪我をし

たり他人を殺傷してしまったりする。

ところで、子どもは本来自己中心的で暴力を奮ったり、悪口をいったり、弱い者いじめをす

-45-

「隠れたカリキュラム」の考察 その2

る。しかし、すばらしい調整力と自律心でこれらを乗り越えていく力も持っている。こういう

ことを幼少年期に充分体験させることこそ成長には必要である。いわば、遊びとは健全な大人

に成長していくための通過儀礼なのである。人格の完成・人格形成に必要なのである。特に、

異年齢集団での遊びは、人間関係力・社会性が培われていくので、EQを形成し高めるには恰好

の機会である。ゲーム機に子守をさせる親は、子どもの発達・成長を歪めているといえよう。

ゲーム機との関連から、科学を偏重しすぎる人間の愚かさを評した記事41があったので、編集

して紹介しておく。

①気象予報官について

昔、気象予報官のタイプに「屋上派」と「地下室派」がいたそうである。屋上派

は屋上で空を眺め、風を確かめる。実況に照らしてデータを修正して予報を出す。

一方、地下室派は部屋にこもって資料とにらめっこをする。解析技術は高いが、

雨が降っているのに「晴れ」と予報するぐらいに実況には無頓着な人たちだそうで

ある。

②数値にたよる医者について

パソコンばかり眺めて、患者の顔を見て診察しない医者がいる。数値に頼って患

者の訴えを聞かない。これは科学的根拠に基づく医療が行きすぎたゆえの問題らし

い。その反省から「ナラティブ・ベイスト・メディシン」(物語に基づく医療)が提

唱されているらしい。つまりは話しをよく聞き、「ひとりの人間としての患者」を忘

れない医療である。結構な話だが、医師のコミュニケーション能力は大丈夫かと心

配になる。最近、ある医学部を見学した人が驚いていた。「患者ロボット」を相手に

問診の訓練をするのだという。なぜロボットかと聞くと、人との対話が得意でない

学生もいますから、などと説明があったそうだ。その大学が「最先端」なのかもし

れないが、ひょっとしたらそんな流れなのだろうか。病という難事において人生と

いう物語を共有してくれる「屋上派の医師」がもっと育てばいいのだけれど。

地下室派の気象予報官やパソコン医師、患者ロボットで問診の訓練をする医学生の話は、笑

い話ではすまない。まして、技術の進歩に感心している場合ではない。人間は自分で判断・決

定できなくなっている、いや、判断・決定をさせられなくなっているところまで来ているので

はないだろうか。確実に安全にかつ迅速にという思いから、機械に判断・決定を求めるように

なったが、自律的意志を持たず、自己決定のできないプロフェショナルが続々と排出されてい

くのだろうか。人間における洞察力の欠如、こうしたことに危険を感じないことこそ危機的状

況ではないだろうか。教育はますます人格の完成から遠のいていくのだろうか。そのようなこ

-46-

「隠れたカリキュラム」の考察 その2

とはあってはならないことである。

序でに、ゲームの怖さについて、筆者と同様の関心を持っていると思われる記事があったの

で紹介しておく。

ビデオゲームのスタジオでゲームの映像を見ることがあるが、若者はゲームを通じて、

いずれ核か何かで「世界の終わり」がくるかもしれないということを受容しているよう

に見えて、とても気になる。42

2.幼児期の環境-大人の役割-

「三つ子の魂百まで」という言葉があるように、幼児期までの体験や環境は、無意識の層に入

っている経験となったり、大人になっても原風景として残っている場合があるほどに、情動の

奥深いところに影響し、人間形成に大きく作用するものである。

スキャモンの発達曲線(Scammon's growth curve 成長発達曲線、発育発達曲線などとも呼

称されている)によると、4・5歳までに神経系の80%が発達し、12歳頃にはほぼ100%に達す

る。43神経系は精神機能や運動機能の発達に関係する部分である。なかでも「情動は神経系の学

習の筆頭格であり、幼児期は一生に重大な影響をおよぼす情動の傾向を左右する大切な時期」44

である。『EQ~こころの知能指数』で紹介されている事例から二つ紹介しよう。

事例1 4歳の時点で、目の前のマシュマロに手を出さずにがまんする能力が、14年後

の大学進学適性試験(SAT)で210点の差となってあらわれた。

これは、1960年代にスタンフォード大学の心理学者ウォルター・ミシェルが附

属幼稚園で行い、高校を卒業するまで追跡調査したものである。

○実験

「ちょっとお使いに行ってくるから、帰ってくるまで待っていてくれたら、ご褒美

にこのマシュマロを二つあげる。でも、それまで待てなかったら、ここにあるマシュ

マロ一つだけだよ。そのかわり、今すぐたべてもいいけどね」という言葉を残して実

験者が部屋をでた。

○結果

SATの点数は、マシュマロにすぐ手をだした子どもたちは、言語分野の平均点が524

点、数量(数学)分野の平均点が528点。マシュマロを長くがまんしていた子どもたち

は言語分野の平均点が610点、数量分野の平均点が652点だった。

ゴールマンは「目標を達成するために欲求をがまんする能力は、情動の自己規制に

おける本質的要素だろう」とコメントする。45

-47-

「隠れたカリキュラム」の考察 その2

事例2 生後8ヶ月の子どもに積み木を2個与え、「こうやってならべてみてね」と手本

を示すと、希望に満ちた世界観を持ち自分の能力に自信を感じている子どもは、

次のような反応をみせる。

積み木を一つ取りあげ、ちょっとなめてみて、髪の毛にこすりつけたりして、それ

からテーブルの下へぽんと落とす。取ってくれるかどうか、こちらの反応を見ている

のである。積み木を取ってやると、子どもはようやく与えられた課題どおりにふたつ

の積み木をならべる。そして、「ね、すごいでしょ!」と瞳を輝かせてこちらを見上げ

る。

これは、ハーバード大学の小児科医ブレイズルトンの報告である。彼は、次のよう

にコメントしている。

“こういう子どもは周囲の人々から褒められ励まされて育っているので、人生でさ

さやかなチャレンジに遭遇しても、きっと成功できるという自信を持っている。対照

的に、冷酷で混乱した家庭、あるいは子どもに無関心な家庭で育った子どもは、同じ

課題を与えられても、はじめから失敗するにちがいないと思いこんでいる様子を見せ

る。実際に積み木がうまくならべられないわけではない。実験者の指示は理解してい

るし、それに応えようとする協調性もある。しかし、たとえ課題がきちんとできたと

きでも、こういう子どもは「ぼくなんかダメだ。ほら、やっぱり失敗した」と言わん

ばかりの卑屈な表情を見せる。このタイプの子どもは長ずるにしたがって敗北主義的

な人生観を抱き、教師から励まされることも注目されることも期待せず、学校生活に

楽しみをみいださず、やがて落伍してゆくことになる。

自信に満ちた楽観的な子どもと失敗すると思いこんでいる子どものちがいは、生後

2・3年で形成されはじめる。子どもが自信を養い、好奇心を育て、学ぶ楽しさを知

り、限界を悟るうえで親の対応がどれだけ大きく影響するか、親自身が自覚する必要

がある。”

なお、このアドバイスの背景には、入学前に形成された情緒的特質が学校生活を順

調におくれるかどうかを大幅に左右する、と指摘する多数の研究報告がある。46

この2例からも、生後から幼児期における子育ては非常に重要であることが分かる。ダニエ

ル・ゴールマンは、特に養育者との関係が情動学習をだいたい決めてしまう、と述べている。47

つまり、生後から幼児期の育てられ方や環境が、学校における学習態度やその後の成長基盤

を形成する「隠れたカリキュラム」となるといっても過言ではないと思われる。

-48-

「隠れたカリキュラム」の考察 その2

したがって、「親は、子どもを励まし、許し、誉めること。子どもを受けとめ、肯定し、認め

ること。誠実とやさしさと思いやりを身をもって示すこと」48である。事例を一つ紹介してお

く。

4歳のフランクは、幼稚園でいやなことがありました。(中略)お父さんのお迎えも、

その日にかぎって遅れました。仕事がいそがしかったのです。

車に乗ると、お父さんはフランクに話しかけました。

「幼稚園はどうだった?」

本当は、お父さんも、疲れていて、口をききたくなかったのですが……。

「べつに」

窓の外に目をやったまま、フランクは、後ろの席からそっけなく答えました。(中略)

二人が家に帰りつくと、お母さんはキッチンで夕食の支度に大忙しでした。(中略)

みんなお腹がぺこぺこです。フランクは上着を脱ごうとして、カウンターの上に置

いたお弁当箱を引っ掛けてしまいました。お弁当箱は床に落ち、あたりはパンくずだ

らけになってしまいました。

お母さんは、(イライラせずに…瀬川加筆)フランクに卓上箒と塵取りを渡して言いま

した。

「いいのよ、フランク、大丈夫よ。ほら、これでゴミを集めて」

そして、オーブンに鶏肉を入れ終わると、脇にしゃがんでこう話かけました。

「きれいになったわね。じゃ、後はお母さんがやるから、これでいいわよ」

そして、箒を手にすると、フランクが差し出す塵取りに、残りのパンくずを掃き入れ

ました。

フランクはお母さんにやさしくしてもらって、うれしそうです。49

このエピソードはわれわれに次のことを教えてくれる。「親自身が気持ちをコントロールし、

優しい態度で接し、子どもの自尊心を傷つけない言葉をかけ、そして一緒に行動をしてやるこ

とで、子どもは愛されていることを実感する」と。

愛されることで子どもに自尊感情が育っていく。この自尊感情は他人を尊重する土台となる

ものである。

また、自尊感情は親から本を読んでもらうことによっても育まれていく。さらに、読み聞か

せのことばかけが、脳の左側頭部(課題遂行能力)を刺激する50。笹倉は次のように述べてい

る。

-49-

「隠れたカリキュラム」の考察 その2

親に読んでもらうことによって、「ことばを聞く喜び」「ことばを知る喜び」「ことばを使う喜

び」を徐々に体験していく。

親から心をこめて楽しみながら本を読んでもらうことは、愛情のこもった最高の贈り物で、

より深い愛情にめざめてゆく。51

ところで、幼児期から「読み聞かせ」をしてもらった経験の多い子どもほど読書量も多い52、

ということからすれば、学校段階が進むにつれて読書量が減少している53のは、幼児期に「読み

聞かせ」をしてもらっていないか、もしくはあったとしても記憶に残る程のものではなかった

のかもしれない。

読書から得るものは多い。生きることの意味、生命の尊さ、自然への畏敬の念、人間の絆、

自己認識、洞察力、覚醒、心の支えや勇気、飛翔する力、等々。読書は精神文化への入口であ

り、EQを形成し高めるものでもある。

子どもが学びからの逃走をせず、楽しく通学し、地下室派の気象予報官やパソコン医師のよ

うな「冷たい知」ではなく、1.2の精神文化を基盤とするような「情のある知」――命や生と深

く関わるという意味において「魂のある知」とするのが適切か――を持った人間に成長するた

めの「隠れたカリキュラムづくり」として、幼児期からの「読み聞かせ」や愛情あることばか

け・コミュニケーシュンを、親の愛情として行ってほしいものである。命を授けた者の責任と

して。

おわりに

筆者が子どもの発達や教育に疑問を抱きだしたのは、1998年「たまごっち」が大流行した頃

であった。社会では、これと前後して、経済成長や進学熱とは裏腹に、オウム真理教による地

下鉄サリン事件、児童虐待、子どものいじめ、自殺、殺人などの事件が相次いだ。そして、小

学生か中学生かと思われるような知性しか身に付けていない大学生と筆者自身が接するように

なった。「分数のできない大学生」がいることは知っていたが、現実に遭遇して暗澹たる思いに

なった。大学生からの教育で変容・成長させることに、かなり厳しいものを感じさせられる学

生の多さに唖然とした。一方で、彼ら彼女らが哀れに思われた。かつて、我が国の教育は世界

においてトップクラスを誇っていたはずなのに、何故だろうか。どんな教育を受けて来たのだ

ろうか。どのような育てられ方をしたのだろうか。1億総中流意識の国民の心に何が起こって

いるのか。

そのような疑問を抱いた時に脳裏に浮かんだのが、かつて読み共感していたダニエル・ゴー

ルマンの『EQ~こころの知能指数』である。そして、ゴールマンの説が、近年知った「スキ

ャモンの発達曲線」によって妥当性のあるものと確信した。幼児期の環境が、その後における

-50-

「隠れたカリキュラム」の考察 その2

成長の仕方や人生の根源であると思っていた自身の直観も、間違っていなかったことが分かっ

た。

そこで、真正の教育を考えるために、学校教育の「顕在的カリキュラム」だけでは成長させ

ることのできない力、時には「顕在的カリキュラム」を無力化するほどの力を持つ「隠れたカ

リキュラム」の考察に取り組んだのである。

その結果、前稿で考察したように、1960代以降の日本の発展自体に問題が内包されているこ

と、発展を推進してきた大人の意識・精神性に多くの問題のあることが分析された。そして、

本稿では、この大人の意識・精神性の問題点の中から「忘れられて来たこと」を分析し、次の

ような意識変革を説いた。それは、一流校信仰・学歴信仰ではなく、①人としての成長を目的

として、②精神文化を豊かにすること。つまり、「命や人生」についての問いを持ち、豊かさの

中身を問い、人格の完成を図ることを考え、大人が先回りをしないで、子どもの主体性を信じ、

子どもが自ら解決するだけのゆったりした時間を与え、「待つ」こと。そして、「こころの知能

指数」を高めること。「足るを知る」こと。③自然や人とのかかわりの中で子どもを遊ばせ、そ

の中で子どもに体力や知力、自己決定する力を培わせること。④そして、子どもの教育環境の

筆頭である親は、子どもの成長の根源となる「こころの知能指数」を高めるために、幼児期に

愛情をもって子どもとコミュニケーションをし、「読み聞かせ」をすること、である。

子どもを養育するこうした大人の意識や存在、関わり方が、知と情の統合した「人格の完成」

を達成する、つまり真正の教育を営むことのできる「隠れたカリキュラム」となると考える。

最後に、ハワード・ガードナーの次の言葉を引用して終わることにする。

子どもの発達のために教育がなしうる唯一最大の貢献は、その子が自分の才能に最もふさわ

しい方面に進んで能力を発揮し満足して生きられるよう応援してあげること。わたしたちはそ

のことが現在見えなくなっている。いまの学校教育は、生徒全員を大学教授(例えである…瀬

川注)に仕立てようとするかのような内容である。そして、そのような狭い基準に合うかどう

かだけですべての学生を評価している。学校はいいかげんに子どもをランクづけするのをやめ

て、子どもたちがそれぞれ持って生まれた才能や資質をみつけ、それを伸ばしてやることに力

を注ぐべき。成功に至る道は何百何千とあるのだし、そのために役立つ能力も実に多種多様な

のだから。54

1 朝日新聞、2009年8月30日、朝刊6面2 前掲書、社説、3面3 平成21年5月発表、警察庁統計資料

http://www.t-pec.co.jp/mental/2002-08-4.htm 2009/09/01アクセス4 瀬川武美「隠れたカリキュラムの考察その1」、帝塚山学院大学研究論集[文学部]第43集、平成20年

-51-

「隠れたカリキュラム」の考察 その2

5 堀内都喜子『フィンランド豊かさのメソッド』、集英社新書、2008年、33頁6 オッペリッカ・ヘイノネン+佐藤学『「学力世界一」がもたらすもの』、NHK出版、2007年、76-77頁7 『平成21度版 教育小六法』、学陽書房、2009年8 国立国会図書館 近代デジタルライブラリー収載、文部大臣演述筆記/森有礼述 文部省、明20.8

<YDM50833>

httm://www.ndl.go.jp/portrait/datas/204.html 2009/08/22 アクセス9 文部科学省「基礎科学力強化総合戦略(平成21年8月4日、基礎科学力強化推進本部)」

http://www.mext.go.jp/a_menu/kagaku/kihon/1283596.htm 2009/09/10アクセス10 ダニエル・ゴールマン、土屋京子訳『EQ~こころの知能指数』、講談社、1996年、62頁11 「学力も年収と比例傾向」、朝日新聞、2009年8月5日、朝刊1面、12 瀬川武美「隠れたカリキュラムの考察その1」、帝塚山学院大学研究論集[文学部]第43集、平成20年、

56頁13 シュタイナー学校、きのくに子どもの村学園14 杉山浩之『教育よ、子どもと自然に還ろう!』、三学出版、2007年、33頁15 前掲書、67頁16 前掲書、42頁17 前掲書、33頁18 前掲書、47頁19 前掲書、36-37頁20 前掲書、79頁21 前掲書、46頁22 前掲書、49頁23 前掲書、61-66頁24 前掲書、46頁25 前掲書、141頁26 ミヒャエル・エンデ、大島かおり訳『モモ』、岩波書店、2006年27 前掲書、106頁28 ダニエル・ゴールマン、土屋京子訳『EQ~こころの知能指数』、講談社、1996年、7-9頁29 前掲書、74-75頁30 前掲書、75頁31 前掲書(14)、69頁32 産経新聞、2000年8月28日33 益川敏英他『教育を子どもたちのために』、岩波ブックレットNo.764、岩波書店、2009年、10頁34 福永光司/興膳宏訳『世界古典文学全集 第17巻 老子 荘子』、筑摩書房、2004年35 三井晶史編『昭和新纂 國譯大藏經 經典部第六巻』、名著普及會、昭和52年36 瀬川武美「隠れたカリキュラムの考察その1」、帝塚山学院大学研究論集[文学部]、第43集、平成20年37 岡田尊司『脳内汚染』、文藝春秋、2005年38 瀬川武美「隠れたカリキュラムの考察その1」、帝塚山学院大学研究論集[文学部]、第43集、平成20年、

資料「1960年代以降の社会、家庭、学校の変遷」39 岡田尊司『脳内汚染』、文藝春秋、2005年40 かこさとし『子どもと遊び』、大月書店、2001年

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「隠れたカリキュラム」の考察 その2

41 「天声人語」、朝日新聞、2009年8月28日、朝刊1面42 スティーブ・オカザキ「核なき世界へ」、朝日新聞、2009年8月5日43 http://www.k3.dion.ne.jp/~kony/hpfile/scammon.html 2008/09/02アクセス

http://www.bea.hi-ho.ne.jp/y-kondou/page_1.htm 2008/09/02アクセス44 ダニエル・ゴールマン、土屋京子訳『EQ~こころの知能指数』、講談社、1996年、298頁45 前掲書、133-134頁46 前掲書、293-294頁47 前掲書、46頁48 ドロシー・ロー・ノルト/レイチャル・ハリス、石井千春訳『子どもが育つ魔法の言葉』、PHP文庫、

2005年、261頁49 前掲書、43-44頁50 笹倉剛『心の扉をひらく本との出会い』、北大路書房、2003年、120頁51 前掲書、12-15頁52 笹倉剛『子どもが変わり学級が変わる 感性を磨く「読み聞かせ」』、北大路書房、2004年、29頁53 瀬川武美「隠れたカリキュラムの考察その1」、帝塚山学院大学研究論集[文学部]、第43集、平成20年54 ダニエル・ゴールマン、土屋京子訳『EQ~こころの知能指数』、講談社、1 9 9 6年、6 5 - 6 6頁

(ガードナーは、当時、ハーバード大学教育学部の心理学者であった。)

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「隠れたカリキュラム」の考察 その2