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KAGAWA GALAXY 吉源治・幸の世界(60) 第 60 回 四貫島セツルメントと吉源治(18) さて、1932(昭和7)の幕開けは、恒の正開催の「イエスの友冬期福学校」である。 会場は上の写真のように、前暮れに完成した農福学校「」であった。 「神の国運動」で全国をかけめぐる賀川豊彦は、ハルと男純基と共に参加し、「の建築師」と題する 「本農福学校校舎献堂式講演」を、正2に試みている。この講演筆記は『雲の柱』昭和74 号にある。 「の柱」第48号(昭和72)には、冒頭 の写真に加えて下の「出席者名簿」も掲載されてい るが、それをると吉源治・幸夫妻、間所兼次、 本清、杉元治、村島帰之など常連100名 余の名前が並んでいる。 ところで、賀川の献堂式講演が収められている『雲 の柱』4号の「編輯後記」で弘義が、吉源 治の病気院に触れたところがあるので、その部 分を書き出して置く。 「吉先が時重態であられたが、すっかり回

第60回 四貫島セツルメントと吉源治(18)KAGAWAGALAXY吉源治・幸の世界(60) 第60回 四貫島セツルメントと吉源治(18) さて、1932(昭和7)の幕開けは、恒の正開催の「イエスの友冬期福学校」である。

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  • KAGAWA  GALAXY  吉⽥田源治郎郎・幸の世界(60)  

     

      第 60 回   四貫島セツルメントと吉⽥田源治郎郎(18)    

    さて、1932(昭和7)年年の幕開けは、恒例例の正⽉月開催の「イエスの友冬期福⾳音学校」である。  

    会場は上の写真のように、前年年暮れに完成した農⺠民福⾳音学校寮寮「⼀一⻨麦寮寮」であった。  

    「神の国運動」で全国をかけめぐる賀川豊彦は、ハルと⻑⾧長男純基と共に参加し、「⼈人⽣生の建築師」と題する

    「⽇日本農⺠民福⾳音学校校舎献堂式講演」を、正⽉月2⽇日に試みている。この講演筆記は『雲の柱』昭和7年年4

    ⽉月号にある。  

     

      「⽕火の柱」第48号(昭和7年年2⽉月)には、冒頭

    の写真に加えて下の「出席者名簿」も掲載されてい

    るが、それを⾒見見ると吉⽥田源治郎郎・幸夫妻、間所兼次、

    ⼭山本⼀一清、杉⼭山元治郎郎、村島帰之など常連100名

    余の名前が並んでいる。  

     

    ところで、賀川の献堂式講演が収められている『雲

    の柱』4⽉月号の「編輯後記」で⾦金金⽥田弘義が、吉⽥田源

    治郎郎の病気⼊入院に触れたところがあるので、その部

    分を書き出して置く。  

     

      「吉⽥田先⽣生が⼀一時重態であられたが、すっかり回

  • 復復され退院の⽇日も近くなったのは、諸⽒氏の御加祷の賜として感謝せざるを得ない所であるが、更更に尚ベッ

    ドに臥しながら本誌のために有益な論論⽂文を賜った事はより感激的である。社会愛が斯る努⼒力力の背後に隠れ

    てゐる事を⾒見見落落とす⼈人はないであろう。」  

     

    正⽉月のこの福⾳音学校には夫妻で参加しているので、病気はその後のことであろう。源治郎郎の体調不不良良のこ

    とや、まして⼊入院治療療など初⽿耳であるが、「⼀一時重態」とはどういうことであったのであろうか。  

     

    ⾦金金⽥田が記しているように、『雲の柱』のこの号に「1932・3・18午後、○○病院のベッドの上にて―」

    として、7⾴頁にわたる論論⽂文「旧約聖書に於ける兄弟愛の研究―貧⺠民への愛を主題として」を書き上げ、寄

    稿している。  

     

    新築完成の⼀一⻨麦寮寮に於ける最初の⽇日本農⺠民福⾳音学校は、2⽉月11⽇日開講式、3⽉月10⽇日閉校式となってい

    るが、⾦金金⽥田がその報告を短く『雲の柱』の同じ号に寄稿しているので、次に取り出して置く。従来の10

    名の規模から倍近くになり、わざわざ賀川夫⼈人が東京から来て⾷食事その他の世話をした事や、藤崎盛⼀一夫

    妻が1ヶ⽉月間寝⾷食を共にした事などが記されている。源治郎郎はこの時元気で、教務主任として参加してい

    たかどうかわからない。『雲の柱』8⽉月号の「編輯後記」で⾦金金⽥田は「吉⽥田先⽣生も全く健康に快復復活動してゐ

    られる。本誌に筆を執られる⽇日も遠くはあるまい。」と読者に知らせている。  

     

       

  • 前年年(昭和6年年)の「第4回全関⻄西イエスの友夏期修養会(於四貫島)」の写真が残されていたので、遅れ

    ばせながらここに収めて置く。昭和7年年に「北北港児童会館」も落落成するが、この写真は落落成前の場所で写

    されたようである。(この場所は四貫島ではなく⻄西宮の賀川宅宅のようだ)  

     

       

    ところで、「⻄西宮⼀一⻨麦教会前史」(前掲『五⼗十年年のあゆみ』所収)の1932(昭和7年年)の項には、次の

    事が書かれている。  

     

    1⽉月2⽇日〜~4⽇日   新築の⼀一⻨麦寮寮を会場に、初めてのイエスの友関⻄西冬期福⾳音学校(第5回)が開かれた。

    以来、昭和8年年から16年年まで毎年年開かれた。  

    2⽉月11⽇日   ⼀一⻨麦寮寮で初めての⽇日本農⺠民福⾳音学校(第6回)が開催された。  

    3⽉月   ⼀一⻨麦寮寮の東隣隣に託児施設としてヤへ・シバ館が建てられた。  

    4⽉月   賀川先⽣生により⼀一⻨麦保育園(園⻑⾧長・賀川豊彦、主事・吉⽥田源治郎郎)が創⽴立立された。  

    また、関⻄西学院進学部の学⽣生や有志の⼈人々の応援を得て断続的に⽇日曜学校も開かれるようになった。  

     

    賀川の主たる住まいはこの頃、東京の松沢村にあり、そこから全国に⾶飛び回っている⾝身であるが、賀川が

    「園⻑⾧長」であり、吉⽥田も四貫島セツルメントの総主事の⾝身での「主事」である。直ぐ翌年年(昭和8年年)に

    は、埴⽣生操が「主任」として働き始めている。    

     

      「吉⽥田源治郎郎と⼀一⻨麦保育園並びに⻄西宮⼀一⻨麦教会」に関しては、別に項を⽴立立てて学ぶ必要がある。また「吉

    ⽥田幸と⼆二葉葉幼稚園」の項も「四貫島セツルメント」と同時並⾏行行の働きであるが、便便宜上別⽴立立てにして置か

    なければ混乱するので、ここでは深⼊入りせず「四貫島セツルメント」の働きの続きを⾒見見て置きたいと思う。  

     

    いずれにもあれ、この頃の吉⽥田源治郎郎の仕事量量は重なるばかりで、⼀一時の静養が必要だったのであろう。

    ⼊入院治療療と養⽣生を終えた源治郎郎は、「1932・8・20朝」記したという「四貫島セツルメントの夏期児

    童宗教教育の試み」と題するレポートを『雲の柱』9⽉月号に寄せている。  

  •           四貫島セツルメントの夏期宗教教育の試み(7⽉月30⽇日〜~8⽉月7⽇日)  

     

     

     

  •  

     

     

     

    上のレポートに「7⽉月初めに落落成式を挙げたセツルメントの北北港児童会館」のことや「ラジオ体操」のこ

    とも記されている。  

    その写真が残されているが、この頃のものでではないかと思われる。  

     

       

    この写真は「北北港児童会館」前のものである。よく読めば「北北港天使保育学校臨臨時保育園」「無料料臨臨時コド

    モ相談所」「集会案内」の看板が掲げられている。  

     

    右の写真は「四貫島教会⽇日曜学校」と裏裏

    書されているが、この頃のもので  あろ

    うか。左端に⽴立立つひとは間所兼次のよう

    である。  

     

     

     

  •  

    前後するが、四貫島で開催された「第4回全関⻄西イエスの友夏期修養会」の写真がもう1枚残されていた

    ので、ここに挟んで置く。真ん中に写る⼈人は間所兼次のようである。(この写真は四貫島ではなく⻄西宮の賀

    川宅宅のようである。9⽉月13⽇日梅村先⽣生確認)  

     

     

     

    下の写真は、昭和7年年7⽉月22⽇日から26⽇日までの5⽇日間、御殿場町外⾼高根学園に於いて開催された「第

    10回イエスの友修養会」(24⽇日午後は「第8回イエスの友全国⼤大会」)のものである。「⽕火の柱」第53

    号(同年年8⽉月)にあるもので鮮明ではないが、吉⽥田源治郎郎も講師の⼀一⼈人として参加している。  

     

     

     

          「⼤大和農⺠民福⾳音学校」(昭和7年年8⽉月 16 ⽇日〜~18 ⽇日)(「⽕火の柱」第 55 号掲載)              

  •    

    下の写真は、四貫島SS(⽇日曜学校)教師会のメンバーを吉⽥田源治郎郎宅宅(⻄西宮市今津⾼高潮町)に招き「お

    正⽉月のスキヤキ会」が開かれるのが恒例例となっていたらしく、これは昭和7年年の正⽉月の写真。  

    源治郎郎の左が妻・幸、右端は間所、前列列右から3⼈人⽬目⻑⾧長⼥女女敬⼦子・吉⽥田ゆき・3男摂・間所基の順である。  

     

       

    「堀江貞⼀一アルバム」に残されていた3枚の写真がある。「堀江貞⼀一」もここに写っている筈であるが私に

    は特定できない。写真は「昭和5年年1⽉月19⽇日」の⽇日付がある。そして左下には「云いたいこと⾃自由に云

    っていた時代   平・村松・⼟土居の諸君   堀江」と書かれている。⼊入り⼝口に⽴立立つのは吉⽥田源治郎郎。よく⾒見見れ

    ば、正⾯面⽞玄関のまるい電灯には源治郎郎考案のセツルメントのロゴが刻まれている。  

  •  

     

     

     

     

     

     

    下の写真には「1932,12,11」と書かれ、「セツルメン

    ト前   松本キヨノ   ⾺馬⾒見見の兄   野村   姉」とメモがある。後列列

    左2⼈人⽬目が吉⽥田、右端が間所である。  

     

       

    上の写真には「昭和8年年2⽉月末、村⽥田薫さんを送別して」と堀江が書いている。  

    なお、松沢資料料館発⾏行行『雲の柱』3号(1985年年春)に堀江貞⼀一夫妻の参加した座談会「四貫島に集ま

    った⼈人々」がある。  

    昭和60年年2⽉月26⽇日、四貫島教会で語り合われたもので、望⽉月武雄が司会をし、吉⽥田幸なども出席した

    貴重な記録となっている。また、この号のグラビアには、四貫島関係の写真が収められている。いずれも

    撮影年年⽉月⽇日は記されていないが、説明⽂文字も含めてここに⼊入れさせて頂く。  

       

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  •      

    今回、「吉⽥田源治郎郎の病気・⼊入院」の事に触れたが、改めて今「⽕火の柱」の「個⼈人消息」の欄を⾒見見ていたら、

    次のことが報じられていたので、ここに挙げて置く。  

     

      昭和7年年3⽉月号  

      「蜂⾼高識識炎にて⼤大阪住友病院にてご⼊入院中、⼿手術を8回受けられたが経過良良好とのこと、⼀一⽇日も早くご

    退院の上⻄西⼤大阪のため御活躍されんことを祈る。」  

     

      昭和7年年4⽉月号  

      「住友病院に御⼊入院中なりしも御全快の上御退院の由」  

     

                (2010年年9⽉月6⽇日記す。⿃鳥飼慶陽)(2014年年8⽉月8⽇日補正)  

     

  • KAGAWA  GALAXY  吉⽥田源治郎郎・幸の世界(61)  

     

     

      第 61 回   四貫島セツルメントと吉⽥田源治郎郎(19)  上の写真は、「購買組合共益社四貫島⽀支部」。「消費組合協会」の看板も⾒見見える。本連載第11回から第17

    回まで、共益社創⽴立立の前から参画してきた吉⽥田幸の弟「間所兼次」について取り上げ、彼は吉⽥田源治郎郎が

    ⽶米国留留学を終え「四貫島セツルメント」の創⽴立立以後も緊密な関係を持ち続けたことは既述の通りである。  

     

       

    上の写真は、四貫島セツルメントを会場に開催した共益社主催の「家庭経済展覧会」と講演会である。も

    との写真が薄く、下⼿手なスキャンで⼀一層ぼやけているが、参考までにこのまま収めて置く。  

     

    ところで、1933(昭和8)年年も下記のような⼆二つの集会―正⽉月5⽇日間の「関⻄西冬季福⾳音学校」と「⽇日

    本農⺠民福⾳音学校」(1⽉月11⽇日〜~2⽉月10⽇日)―でスタートしている。いずれも会場は「⼀一⻨麦寮寮」である。

    (『雲の柱』昭和7年年12⽉月号掲載の予告より)  

     

  •    

     

     

    昭和8年年1⽉月、「⽇日本農村ミッション理理事:賀川・杉⼭山・吉⽥田」3⼈人連名の訴え「農漁村伝道を⽀支持せよ!」

    が『雲の柱』3⽉月号に掲載されている。  

     

  •    

    上記の訴えの後「⽕火の柱」第59号(2⽉月号)に次の写真「新築の会館と愛の園園児」が掲載されている。  

     

     

  • 「第 11 回イエスの友夏期修養会並びに全国⼤大会」(昭和8年年7⽉月22⽇日〜~25⽇日:御殿場・⾼高根学園)  

       

    下は7⽉月23⽇日の「記念念撮影」。会の詳しい記録は「⽕火の柱」第65号(8⽉月号)にある。  

     

     

     

     

     

          吉⽥田源治郎郎の論論⽂文の中から(昭和8年年発表分)  

      『雲の柱』では前年年(昭和7年年)12⽉月号から4回連載の「キリストと社会」、8⽉月号「アルベルト・シ

    ュワイチェル素描」(これは本連載で掲載済み)があるが、ここには6⽉月号の「それは建物ではない―隣隣保

    事業と教会運動への⼀一考察」を収める。「四貫島」での働きの興味深い省省察である。  

  •  

     

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  •       『四貫島セツルメント創⽴立立五⼗十年年記念念   五⼗十年年のあゆみ』より  

    既に標記の『五⼗十年年の歩み』の中から「戦前篇」の「(⼀一)四貫島セツルメントの創設期」並びに「(⼆二)

    昭和初期より終戦まで」の「(1)教会活動と⽇日曜学校」の短い記述を紹介した。ここにはその続きの「(2)

    北北港児童会館、(3)労働学校の開設、(4)室⼾戸台⾵風」の箇所を取り出して置く。  

     

     

     

     

    ここまでは凡そ昭和8年年までの歩みを、概略略追ってきているので、昭和9年年に襲来した上記の室⼾戸台⾵風の

    ことなどは、次回以降降に触れることになる。  

     

    しかし上に挙げられている「労働学校の開設」に関しては、これまで1度度も触れて来ていない。この⽅方⾯面

    の先⾏行行研究は多いと思われるが、⼿手元にひとつ井上和⼦子の論論⽂文「賀川豊彦とセツルメント運動―⼤大阪にお

    ける働きを中⼼心として」(松沢資料料館発⾏行行『雲の柱』7号:1988夏号所収)がある。  

  •  

    本連載で折々参照している岡本栄⼀一・尾⻄西康充両⽒氏と同じく、井上の論論⽂文も、直接「四貫島セツルメント」

    を取り上げたものである。お会いして話を伺う積もりで本年年(2010年年)4⽉月、⼤大学へ電話を⼊入れたと

    ころ、「先⽣生は退職後お亡くなりになった」とのご返事で、残念念なことにその希望は適わなかった。  

     

    この井上論論⽂文によれば、労働者の街に設⽴立立された四貫島セツルメントには、設⽴立立当初より「宗教部」「教育

    部」「診療療部」「少年年少⼥女女部」「出版部」「社会教化部」の他に「ホーム部」があり、労働⻘青年年寄宿舎(聖マ

    タイホーム)と職業婦⼈人寄宿舎(聖マリアホーム)が設けられていたことが記されている。  

     

    そして「労働学校」に関連して、次のような⽂文章が残されている。  

     

    「⻘青年年労働者達の集会は特に熱気を帯び、1931(昭和6)年年には「庶⺠民総合⼤大学」を企画している。

    (中略略)⼀一⽅方、労働組合の拠点としても同館は⼤大きく活⽤用されることになった。賀川はまず「労働学校」

    開設を提唱、此花の住⺠民であった⻄西尾末広、⼤大⽮矢省省三ら労働運動家が労働問題討論論会に同館を利利⽤用するこ

    とを奨励した。(中略略)1931(昭和6)年年に始まった住友製鋼の労働争議の折には、同館に拠点を置い

    て戦ったこともあった。」(133〜~134⾴頁)  

     

    ところで、下の写真は、写真説明にもあるように「住友争議解決記念念」の時のものである。  

     

       

    尾⻄西康充⽒氏が『⼤大阪社会労働運動史(第2巻)戦前篇・下』(⼤大阪社会運動協会、1989年年)1474⾴頁

    に収められていたものを⾒見見つけ、吉⽥田摂⽒氏へ送られていたものである。この写真は「東   久太郎郎提供」と

    ある。  

     

  • なお『賀川豊彦写真集』には、⼤大阪労働学校に関連する2枚の写真が⼊入

    っている。  

    ⼀一枚は、次の昭和9年年に建設された⼤大阪労働学校の「⼤大阪労働教育会館」。    

    写真には「改築記念念」と書かれている。改築前の会館と、改築後の歩み

    など学んでおく必要がある。  

     

                                           

    下の写真は「⼤大正11年年   ⼤大阪労働学校の講師陣」と説明書きがある。  

     

     

    今回はここで⼀一区切切り。  

     

              (2010年年9⽉月7⽇日記す。⿃鳥飼慶陽)(2014年年8⽉月9⽇日補正)