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1.「初めての逢瀬」 アンドレイ・タルコフスキー監督の映画 《鏡》には,まず吃音の青年が治療を受ける 模様がエピローグとして置かれ,それから題 名が映し出され本編が始まる。 語り手である「私」の母マリヤ・ニコラエ ヴナが庭の柵に腰掛け,自分と幼い子供二人 を残して出て行った夫を虚しく待っている と,通りすがりの医者に声をかけられる。彼 と素っ気ないマリヤとのやり取りのあと,彼 は草原の中の道を戻って行き,マリヤ自身も 歩き始めたとき,監督アンドレイの実父,ア ルセーニー・タルコフスキーによる自作の詩 「初めての逢瀬」の朗読が始まる。 逢瀬のひとときまたひとときを 神の顕現のように 僕らは祝ったものだった 世界には僕ら二人きりで 君は鳥の翼よりも大胆に そして軽やかに,幻惑されたように 階段を一段おきに駆け下り僕を導いた 鏡の向こうから ぬれそぼったライラックを通り抜け 君の世界へと 夜の帳がおり 僕には慈愛が与えられた 祭壇の扉が開かれ 闇の中で裸体が光を放ち ゆっくりと横たわった 僕は目を覚まし 「君に幸あれ!」と言ったが わかっていたのだ 僕の祝福の言葉などおこがましいと 君は眠っていた 宇宙さながらの青さで 君の瞼に触れようと テーブルのライラックが 君にしなだれかかっていた その青さに触れられた瞼は安らかで 手は暖かだった 水晶のなかで川は脈打ち 山は霞み 海はかすかに光っていた 君はその水晶の玉を掌にのせ 玉座に眠っていた そして正義の神よ 君は僕のものだった 君は目覚め変容せしめた 人の日々の言葉を 言葉は響き渡る力に満ち 【論 文】 映画《鏡》と詩「初めての逢瀬」:アンドレイ・タルコフスキーの母 美智代* 1.「初めての逢瀬」 2.「彼女」とは誰なのか? 3.「40年前のように」 4.《鏡》とアルセーニー・タルコフスキーの詩 5.マリヤ・イワノヴナ・ヴィシュニャコワ * 同志社大学グローバル地域文化学部ロシア語嘱託講師 61 Agora: Journal of International Center for Regional Studies, No.12, 2015

映画《鏡》と詩「初めての逢瀬」:アンドレイ ......1.「初めての逢瀬」 アンドレイ・タルコフスキー監督の映画 《鏡》には,まず吃音の青年が治療を受ける

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Page 1: 映画《鏡》と詩「初めての逢瀬」:アンドレイ ......1.「初めての逢瀬」 アンドレイ・タルコフスキー監督の映画 《鏡》には,まず吃音の青年が治療を受ける

1.「初めての逢瀬」

アンドレイ・タルコフスキー監督の映画《鏡》には,まず吃音の青年が治療を受ける模様がエピローグとして置かれ,それから題名が映し出され本編が始まる。

語り手である「私」の母マリヤ・ニコラエヴナが庭の柵に腰掛け,自分と幼い子供二人を残して出て行った夫を虚しく待っていると,通りすがりの医者に声をかけられる。彼と素っ気ないマリヤとのやり取りのあと,彼は草原の中の道を戻って行き,マリヤ自身も歩き始めたとき,監督アンドレイの実父,アルセーニー・タルコフスキーによる自作の詩「初めての逢瀬」の朗読が始まる。

逢瀬のひとときまたひとときを神の顕現のように

僕らは祝ったものだった世界には僕ら二人きりで君は鳥の翼よりも大胆に

そして軽やかに,幻惑されたように階段を一段おきに駆け下り僕を導いた鏡の向こうからぬれそぼったライラックを通り抜け

君の世界へと

夜の帳がおり僕には慈愛が与えられた

祭壇の扉が開かれ闇の中で裸体が光を放ち

ゆっくりと横たわった僕は目を覚まし

「君に幸あれ!」と言ったがわかっていたのだ

僕の祝福の言葉などおこがましいと君は眠っていた宇宙さながらの青さで

君の瞼に触れようとテーブルのライラックが

君にしなだれかかっていたその青さに触れられた瞼は安らかで

手は暖かだった

水晶のなかで川は脈打ち山は霞み

海はかすかに光っていた君はその水晶の玉を掌にのせ玉座に眠っていたそして正義の神よ

君は僕のものだった君は目覚め変容せしめた人の日々の言葉を言葉は響き渡る力に満ち

【論 文】

映画《鏡》と詩「初めての逢瀬」:アンドレイ・タルコフスキーの母

新 井 美智代*

1.「初めての逢瀬」2.「彼女」とは誰なのか?3.「40年前のように」4.《鏡》とアルセーニー・タルコフスキーの詩5.マリヤ・イワノヴナ・ヴィシュニャコワ

* 同志社大学グローバル地域文化学部ロシア語嘱託講師

61Agora: Journal of International Center for Regional Studies, No.12, 2015

Page 2: 映画《鏡》と詩「初めての逢瀬」:アンドレイ ......1.「初めての逢瀬」 アンドレイ・タルコフスキー監督の映画 《鏡》には,まず吃音の青年が治療を受ける

「君」という言葉は新たな意味を明かす「君」は「王」なのだと

この世の全てが形を変えたありふれた盥や水差しまでもがそのとき僕たちの間に

層をなす硬質の水が歩哨のように立っていた

僕たちはいずこへとも知らぬまま導かれていった

僕たちの目の前では蜃気楼のように奇蹟で作られた幾つもの町が

道を空けていった僕たちの足もとには薄荷の木が横たわり僕たちは鳥たちと同じ道を進み魚たちは川を遡り僕たちの目の前に空が広がった

そのとき運命が僕たちを追ってきていたカミソリを手にした狂人のように

(Тарковский 1991 : 217-218)

この詩が流れる間,マリヤは家に向かってゆっくり歩き,息子アリョーシャは遠くを見つめている。家の前で眠っていた彼の妹のマリーナを隣人の女性が抱き上げる。次のカットでは家の中でマリーナが牛乳をかけた木イチゴを食べ,こぼれた牛乳をなめる黒猫の頭にアリョーシャは砂糖をかけている。マリヤは暗い部屋の片隅で腕組みをして立っているが,やがて窓辺に歩いて行って腰を下ろす。アップになった窓外を見つめるその頬には涙が伝い,詩の最終連が読まれた後,その涙を拭う。

科白のない美しい映像に重ねられ,詩独特の抑揚で読まれた詩。この詩について宇佐美森吉は「長男アンドレイの誕生が32年,長女マリーナの生まれたのが34年,そしてアルセーニーが最終的に家族のもとを離れるの

はその2年後である。マリヤとの出会いはしかし,アルセーニーの詩のうちでも,もっとも美しい1篇と呼びうる詩をもたらしたと言ってもよいだろう」(宇佐美 1990 : 87-88)と述べている。《鏡》の上述のシーンで用いられているこの詩が,マリヤ・ニコラエヴナのモデルとなっているアンドレイの母マリヤ・イワノヴナとの思い出を詠んだものと考えるのは当然だろう。

しかしこの詩は,別の女性との思い出に捧げられたものであった。そしてその事実を探り当てたのは,アルセーニーとマリヤ・イワノヴナの娘,マリーナ・タルコフスカヤだった。

2.「彼女」とは誰なのか?

マリーナ・タルコフスカヤは,父の作品のなかに,特定の女性に捧げられたと思われる20余りの詩があるという。マリーナは初めこの「彼女」は母ではないかと考え,またそう期待した。なぜならその1編には「マリヤ」という名前が記されており,また後に触れる「40年前のように」という詩が書かれた1969年の40年前の前年にあたる1928年に,アルセーニーと母マリヤは結婚しているのだから。

しかし,丹念に詩を読んだマリーナは,「彼女」は母ではないという証拠を,詩のそこかしこに見出してしまう。

これらの詩が母さんと結びついていたならとどれほど願おうとも,それは虚しい。「近眼の眼差し」 ―― これは母さんのことではない。壁に絡まる「野ブドウ」も,母さんの周囲にはなかった。しかも,このマリヤは母さんよりずっとまえに亡くなっていることが詩から読み取れる。(Тарковская : 269)

62 アゴラ(天理大学地域文化研究センター紀要)

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父の詩に描かれた「マリヤ」が誰かを知るために,アルセーニーの故郷キロヴォグラード(当時のエリサヴェトグラード)を訪れたマリーナは,「彼女」がマリヤ・グスタヴォヴナ・ファリツという名であること,コロボフという士官の妻だったが,夫は第1次大戦と,それに続く国内戦の白軍側に加わったまま消息を絶っていること,父親が革命前にはファリツ・フェイン男爵の領地の支配人だったこと,ファリツは非常に魅力的な女性で,彼女の周りにはサロンのように若者が集まり,みな彼女に恋していたことなどを知る。また,キロヴォグラードには,マリヤ・ファリツが両親と住んでいた家が残されており,彼女が《幻惑されたように一段置きに駆け下りた》であろう,木製の階段が2階へと通じていた。

しかし詩の「彼女」が,マリヤ・イワノヴナではなく,マリヤ・ファリツである決定的な証拠となったのは,マリーナがアルセーニーの資料を整理しているとき見つけた「40年前のように(1940-1969)」と表紙に書かれている薄いノートだった。そこにはマリヤ・グスタヴォヴナの思い出に結びついた次の8編の詩が書き写されていた1)。

「僕のかつての年月はとうに過ぎ去った」(「歌」)「40年前のように」「僕は辛い日に夢に見る」「それぞれの瞬間の逢瀬」(「初めての逢瀬」)「40年前のように,僕は雨の中でずぶ濡れになった」「私の心は深夜に」(「風」)「人間の身体」(「エウリュディケ」)「瞳を誉めたたえよう」

(Тарковская : 272)

3.「40年前のように」

ところでこのなかの「40年前のように」,「40年前のように,僕は雨の中でずぶ濡れになった」に加え,「瞳を誉めたたえよう」も最終行は「40年前のように」となっており,これらは3巻選集ならびに『白い日』と題された1巻選集では連作として並べられ,すべて1969年の作となっている。するとひとつの疑問が浮かび上がってくる。

アルセーニーは1925年に故郷を離れ,モスクワの国立高等文学コースに入学し,同じ文学コースの予科に入ってきたマリヤ・イワノヴナと出会う。26年の12月,アルセーニーは冬休みにレニングラードを訪れ,再びマリヤ・グスタヴォヴナと会っている。だがこの時マリヤ・グスタヴォヴナは,彼に別れを切り出した。

1928年,アルセーニーとマリヤ・イワノヴナは結婚するが,その夏アルセーニーは故郷の母親のところに行き,さらにマリヤ・グスタヴォヴナを訪ね,最近結婚したことを告げる。同年,マリヤ・グスタヴォヴナも再婚し,オデッサに去った。

連作「40年前のように」を文字通り受け止めたならば,アルセーニーとマリヤ・イワノヴナが結婚し,マリヤ・ファリツも再婚してオデッサに去ったあとの1929年もアルセーニーとマリヤ・ファリツは密かに会ったことになる。

40年前のように足音を聞いたときの胸の高鳴り庭に面した小窓のある家蝋燭と,何の保証も誓いも求めぬ近眼の眼差し町には鐘が鳴り響き,夜が明ける雨が降り,黒く濡れそぼった野ブドウが家なき者のように壁に身を寄せた

1)( )内は,詩集に発表されたときの題名。

63新井美智代:映画《鏡》と詩「初めての逢瀬」:アンドレイ・タルコフスキーの母

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40年前のように(Тарковский 1991 : 320)

だが詩に用いられた数字を厳密に考えることはないかもしれない。アルセーニーがファリツのいる故郷を去った1925年,つまり「44年前」をこれらの詩の「40年前」と置き換えたならば,アクセントの配列が変わり,韻律が崩れてしまうからだ。また数詞に厳密さを求めるべきでないことを示す例は他にもある。

テーブルには6人分の食器薔薇とクリスタルガラス僕が招いた人々のあいだにあるのは悲嘆と哀しみ

僕の隣には父僕の隣には兄時間はゆっくりと過ぎやがてドアにノックの音が

12年前のように冷たい手さらさらと音を立てる時代遅れの青い絹のドレス

暗闇からワインが響きグラスがうたう「どれほど僕らは君を愛していたかどれほどの歳月が流れたことか!」

父は僕に笑いかけ兄はワインを注ぐ指輪のない手を差し出して彼女は僕に言うだろう

私の靴のかかとは埃にまみれ

編んで垂らした髪も色あせたそれでも地の底からうたう私たちの声は

(Тарковский 1991 : 371-372)

「テーブルには6人分の食器」とあるが,テーブルに着いているのは「僕」と父と兄の3人,そして遅れてやってくる女性を加えて,4人分のはずだ。この女性はマリヤ・ファリツであり2),描かれているのはすでにこの世にいない愛おしい人々との晩餐なのである。詩人のマリーナ・ツヴェターエヴァは6人を「アルセーニー,兄弟2人,両親と妻」と考えたが,アルセーニーに兄はヴァレーリー1人しかいないし,母マリヤ・ダニーロヴナが亡くなるのは1944年だから,1940年に描かれたこの晩餐会には招くことはできない。

実際,詩集『地には地のものを』のタイプ原稿では,「6人分」が「4人分」に変えられたのだが,その後の版からは「6人分」に戻されている3)。やはり韻律面を重視してのことだと考えられる。

4.《鏡》とアルセーニー・タルコフスキーの詩

「初めての逢瀬」に描かれる女性は,アルセーニーにとっての永遠の女性マリヤ・ファリツであって,マリヤ・イワノヴナではない。去って行った夫を待つマリヤ・ニコラエヴナの映像にこの詩が,しかもアルセーニー自身の声で重ねられているシーンは,あるいは残酷にさえ映るかも知れない。アンドレイ・タルコフスキーはそのことを承知しながら《鏡》でこの詩を用い,父に朗読を依頼したのだろうか。

アンドレイの日記にも,《鏡》の作業ノートにもこのことに関する記述はなく,アンドレイがその事実を,あるいはそもそもファリ

2)A.タルコフスキー(坂庭淳史訳)『雪が降る前に』の38-39頁の注を参照。3)同書,38頁の注を参照。

64 アゴラ(天理大学地域文化研究センター紀要)

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ツという存在を知っていたかどうかも分からない。アンドレイは1986年に亡くなっているから,もちろんマリーナ・タルコフスカヤが1999年に発表した回想録『鏡のかけら(Осколки зеркала)』を読んではいない。ただし詩人としての父親をこよなく尊敬し,子供の頃からその詩を読んでいたアンドレイは4),そこに母親とはちがう女性の姿に気づいていたかもしれない。

もっともそれは大した問題ではないのだろう。「初めての逢瀬」が本来はマリヤ・ファリツに捧げられたものであっても,それ自体独立した作品であり,《鏡》で朗読され,映像と重なりあうことによって,独自の世界を創り出しているのだから。

リュドミーラ・ボヤジエヴァは,《鏡》について論じるなかで「初めての逢瀬」を引用し,次のように語る。

テレホワ演じる母親は,画面の中の雨のように降りそそぐ詩を絶え間なく浴びながら生きている。彼女はアルセーニーと過ごした日々の女性としてのたぐいまれな幸福に ―― 離別によって破壊されはしたが,人生のあらゆる瞬間に身体の隅々 で 今 も 鳴 り 響 い て い る 幸 福 に―― 充ち満ちている。マルガリータ・テレホワが演じているのは,悲劇と一体になった,この奇妙な幸福,秘められた幸福なのだ。(Бояджиева : 218)

ボヤジエヴァは『鏡のかけら』を読んでいると推察されるので,この詩がマリヤ・ファリツに捧げられているということは承知しているだろう。それでもなおこのような印象を受けるのだとすれば,《鏡》で朗読される「初めての逢瀬」は,もはやファリツを離

れ,アンドレイの母とアルセーニーの幸せだった日々を想起させると言って差し支えないのではないか。

アルセーニーの詩を多数引用しながら,《鏡》を分析したレオニード・バトキンは,そこで用いられている詩や音楽と映像との相互関係と,それぞれの自立性との両方を指摘し,この映画に「鏡に似た性質」を認めている。

この映画における音楽と詩は,画面のなかで語られていること,明示されていることと,時に協和音を奏で,時に不協和音を奏でる。協和音の例としては詩「初めての逢瀬」,不協和音の例としては「命,命」が挙げられる。<…>だがどちらの場合にも関係は直接的ではなく,文字通りの不可分の繋がりはない。詩と音楽は,緊張し,高揚して,描かれているものと呼応し合うが,交差し合うことはなく,形作られるのはハーモニーを奏でる和音ではなく,ポリフォニックに織りなされる高音域の声である。他の芸術領域は,この映画の伴奏なのではなく,自立性を保っている。画面の意味を強調するのではなく,相異なる意味同士の対比を創り出している。二つの領域が互いを ―― 詩(音楽)が映画を,映画が詩(音楽)を ―― 熟視するための距離が保たれている。ここに《鏡》のもう一つの「鏡に似た性質」がある。

(Баткин : 136)

「初めての逢瀬」が朗読されているその時,マリヤ・ニコラエヴナがかつての幸せな逢瀬を思い出しているというわけではもちろんない。それではあまりに安易な演出になっ

4)アンドレイ・タルコフスキーは,若い頃はパステルナーク,エセーニン,セヴェリャーニンも好んだが,成長してからはもっぱらアルセーニー・タルコフスキーとアフマートワの詩を好んだという(Гордон

2007 : 219)。

65新井美智代:映画《鏡》と詩「初めての逢瀬」:アンドレイ・タルコフスキーの母

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てしまうだろう。バトキンが指摘するように,音楽と映像は直接的に結びついているのではなく,一定の距離を保っている。そしてインヴェンションの二つの声それぞれが旋律を奏でつつ呼応するように,美しい全体を形作っている。

5.マリヤ・イワノヴナ・ヴィシュニャコワ

《鏡》で用いられている「初めての逢瀬」は,誰に捧げられたものであれ,映像と組み合わされることによって,この作品を芸術としての更なる高みへと上昇させた。しかしそうだと承知しつつも,世界的に有名な映画監督の母であり,国民的な詩人の最初の妻であったマリヤ・イワノヴナの慎ましやかな生涯を知る人は,せめてこの詩が,できればファリツを思って書かれた他の詩も,マリヤ・イワノヴナに捧げられたものであってくれたならと,娘マリーナならずとも願うのではあるまいか。

実際,P.D.ヴォルコワは,連作「40年前のように」の第3作にあたる「瞳を讃えよう」についても,「誰に捧げられたものか明記されていないが,マルーシャに向けられたものであると信じたい」(Волкова 2002 : 169)と述べている5)。

瞳を讃えよう空の星々と地の山々の高さを測る瞳をその輝きと涙ゆえに!

仕事に疲れた両手を讃えよう君は翼のようなその両の手で涙を拭わなかったのだから!

のどと唇を讃えよう

歌うことは苦しい私の声は鈍く荒々しい井戸の奥底から白い鳩が飛び出し地を打ち破るその時に

白い鳩ではなくただ名前だけ生きている者の耳には

聞こえない旋律なのだ君の翼で奏でられるその響きは40年前のように

(Тарковский 1991 : 322)

第2連の「仕事に疲れた両手」という詩句などは,マリヤ・イワノヴナにこそふさわしいものに筆者には思えるのだが。ここで「翼のようなその両の手」を讃えてほしい女性の生涯を辿ってみたい。

マリヤ・イワノヴナ・ヴィシュニャコワは,1907年11月5日,モスクワに生まれた6)。父イワン・イワノヴィチ・ヴィシュニャコフは調停判事であり,母ヴェーラ・ニコラエヴナ(旧姓ドゥバソワ)はモスクワの古い貴族の家系の出だった。1909年,ヴィシュニャコフ夫妻は2歳の娘を連れて任地のマロヤロスラヴェツに移り住んだが,そこでのイワン・イワノヴィッチとヴェーラ・ニコラエヴナとの関係は良好とは言いかねた。イワンの厳格な性格にヴェーラは苦しんだということだが,これはイワンの方にも言い分があるかもしれない。いずれにせよヴェーラは医者のニコライ・マトヴェエヴィチ・ペトロフと恋愛関係になり,1916年,マリヤ9歳の年に彼と駆け落ちしてしまう。イワン・イワノヴィチはマリヤを手放さなかったため,彼女は父と乳母のアンヌシュカとしばらく暮らすこととなった。

5)「マルーシャ」は「マリヤ」の愛称形。6)マリヤ・イワノヴナの生涯のあらましは,基本的にマリーナ・タルコフスカヤの『鏡のかけら』に拠った。

ただし様々なエピソードが時系列に沿って並べらいるのではないので,煩雑さを避けるため,詳細な参照頁は示さない。

66 アゴラ(天理大学地域文化研究センター紀要)

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マリヤがヴェーラ・ニコラエヴナとニコライ・マトヴェエヴィチのもとにいつ引き取られたかは定かではない。しかし1918年,すでに夫婦になっていたヴェーラ・ニコラエヴナとニコライ・マトヴェエヴィチがヴォルガ沿岸のキネシマに移り住んだ時,そこに乳母アンヌシュカがいることから,この頃までにはマリヤ・イワノヴナも母親と同居していたのだろう。

その後マリヤがどのような少女時代を過ごしたか,その詳細はわからない。ただ,両親の不仲や母親の家出,そして厳しい父親との生活のためだろうか,内気で自分に閉じこもりがちな性格になり,自分の母親にさえなかなか打ち解けなかったらしい。

1925年,マリヤ・イワノヴナはキネシマの中等学校を卒業し,モスクワの国立高等文学コースの予科に入学する。モスクワでは叔母と共にまずレニングラード大通りに住み,その後ゴロホフスキー小路に移り住んだ(Тарковский 2009 : 107)。同じ年,未来の夫となるアルセーニー・タルコフスキーも同コースに入学しており,ここで二人は出会うことになる。

当時のマリヤを,文学コースでの同級生ナタリヤ・バランスカヤは次のように記している。

マリヤ・ヴィシュニャコワは,派手ではないが,ロシア的な美しさに輝いていた。丸顔の柔和な顔立ち,編んで背に垂らした小麦色の髪,灰色の瞳…。控えめで静かな声。その密やかな美しさで彼女はアルセーニー・タルコフスキーを虜にした。(Тарковский 2009 : 107)

またアルセーニーの同級生で,彼の親しい友人でもあったマリヤ・ペトローヴィフも「その顔は太陽に照らし出されているかのようだった」と評している。ただその輝きは,

その後の苦労のためだろうか,「急激に消えてしまった」とマリーナは言う。

マリヤは実家からの仕送りで生活していたが,継父ニコライは医者としてそれなりの収入があったため,自分の部屋を持っていた。アルセーニーが文学コースの教師で詩人のゲオルギー・シェンゲリの部屋に住まわせてもらい,テーブルの下で就寝していたことを考えると,かなり恵まれていたと言えるだろう。

1927年,アルセーニーはマリヤの部屋に移り住み,翌28年,二人は正式に結婚する。熊の縫いぐるみを抱いてアルセーニーとともに写る当時のマリヤの写真を見ると,何とも可愛らしく,悪戯っぽくさえ見える微笑みを浮かべている。大好きな文学の勉強をしながら,愛する人と暮らしていたこの頃のマリヤは,本当に幸せだったのだろう。

1929年,二人が通っていた文学コースは閉鎖されることになり,学生たちにはモスクワ大学への編入試験を受ける機会が与えられた。しかしそのころすでに雑誌『グドーク(汽笛)』をシェンゲリから任されていたアルセーニーは,文学コースをやめてしまう。

一方,マリヤは勉強を続けたかった。それは実生活にも役に立つし,それ以上に彼女もまた詩人になりたかったのである。「Tはいつだったか違う人間になりたい,誰か偉大な人間の右手になりたいと言ったので,驚いてしまった。なぜなら私も創作者になりたかったからだ。<…> 他者の才能の寄食者であること!自己犠牲の才能を持たねばならない。だが人生や日常生活で,簡単に放棄できるものに対して全く無関心でいる才能はあるのだけれど,私は自分の内的な世界を渇望し,自分を聖なる人間にしたい!私はだれの乳母にもなりきれないし,だからこそ自分の人生をどうしても変えられないのだ」とマリヤは書き残している。いつ書かれたものかは定かではないが,内容からすると,すでに二

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人の子供を育てていた頃だろうか。彼女の後の人生を考えると,この言葉は痛ましい。

1930年夏,アルセーニーは保養のため,ザヴラージエの義母のもとに行く。一方マリヤは卒業資格試験を受けてからザヴラージエに行くつもりだった。道中アルセーニーはマリヤに,なるべく早く来て欲しいとの手紙を送り,さらに電報ですべてを投げだして,即刻来るよう懇願している。結局マリヤは卒業資格試験を諦め,ザヴラージエに向かった。そのため彼女は学歴が必要な編集者にはなれず,最後まで印刷所の校正係として働くことになった。

1932年,マリヤの母と継父の住むザヴラージエで長男アンドレイが生まれた。そのときのことをアルセーニーはアンドレイの11歳の誕生日に送った手紙に記している。

大切な愛おしいアンドリューシャ,誕生日おめでとう。<…>私は君が生まれた時のことをよく覚えている。私とママは列車でキネシマまで行き,そこからは馬車でザヴラージエに行った。ヴォルガの氷は今にも動き出しそうだった。私たちは宿に泊まったのだけれど,私はママのことがとても心配だった。

それから君が生まれ,私は君と出会い,それから外に出て一人になった。辺りには氷の割れる音が鳴り響いていた。ニョムダ川の氷が流れていたのだ。日が暮れてゆき,空は澄み切っていて,私は一番星を見た。遠くからアコーディオンの調べが聞こえていた。これは11年前のことだった…。(Тарковская : 49)

1934年には長女のマリーナが生まれ,マリヤは家事と子育てに追われた。一方,アルセーニーは子どもたちの泣き声がうるさい家を避け,友人たちと夜遅くまで外出するようになる。

1936年,アルセーニーはウラジーミル・トレーニンとその妻アントニーナと知り合い,その住居に足繁く通い始める。幼い子供二人と共に放っておかれたかっこうのマリヤとアルセーニーとの間にしばしば口論が起きた。しかしアントニーナに恋する夫を繋ぎ止めておこうとするにはマリヤは誇り高く,家庭を捨ててトレーニン夫妻の別荘に赴くアルセーニーのために,自ら荷物をトランクに詰めたのだった。

1937年の秋,アルセーニーとアントニーナはモスクワで共に暮らし始める。しかしマリヤ・イワノヴナは,アルセーニーとの関係を断つことはなかった。彼女は子どもたちのことでしばしばアルセーニーに手紙を出したし(その多くは「愛おしいアルスーシャ」などで始まっていた),アルセーニーもそれに応えていた(やはり「愛おしいマルーシャと子猫ちゃんたち」などの表現を使って)。

アルセーニー・アレクサンドロヴィチはずっと以前に家族のもとを去った。しかしそれでも彼は,マリヤ・イワノヴナのお陰で,三人にとってかけがえのない,愛する人でありつづけた。色々なことがあったが,子どもたちが父親と連絡をとり,繋がりを失わないために,マリヤ・イワノヴナはできる限りのことをした。驚いたことに,マリヤ・イワノヴナは,アルセーニー・アレクサンドロヴィチの二人目の妻である美しく善良なアントニーナ・アレクサンドロヴナとも,まったく良好な,親しいとさえいえる関係にあった。(Гордон 2007 : 156)

第2次世界大戦が始まった。アルセーニーは従軍記者として戦地に赴いたが,休暇を使って子どもたちに会いにペレジェルキノを訪ねる様子は《鏡》にも印象的なシーンと描かれている。だがマリーナは母の表情からそ

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の気持ちを推し量る。「アルセーニーが来てくれて,子どもたちが喜んでいるのは嬉しい。彼は子どもたちの父親なのだから。そう,この子たちの父親だけれども,私の夫ではない」と。

戦時中,食糧事情が悪化し,マリヤ・イワノヴナと子どもたちは絶えず飢えに苦しめられた。マリヤがトルコ石のイヤリングを売りに行くシーンも《鏡》に登場するが,実際には周囲の人々も装飾品どころではなく,遠い町中まででかけ,バケツ一杯のジャガイモと交換してきたのだった。

戦争はアルセーニーにも癒えることのない傷をもたらした。戦地での負傷で左脚を切断したのである。野戦病院の劣悪な環境と不適切な処置のために壊疽が進行し,命さえも危ぶまれた。妻のアントニーナの奔走でモスクワの病院に移され,著名な外科医の手術を受けられ,一命は取り留めるが,片足を失ったアルセーニーは深刻な鬱状態に陥る。懸命に世話をするアントニーナとの関係もうまくいかなくなったその頃,彼はやがて3人目の妻となるタチアーナ・オゼルスカヤと出会う。1946年,アルセーニーはアントニーナのもとを去り,1950年に正式に離婚する。

1951年,アントニーナは肺癌と診断される。アルセーニーがアントニーナと別れてから,マリヤ・イワノヴナはアントニーナと親しい友人になっていたが,アントニーナが病床に就いてからは頻繁に彼女のもとを訪ね,親身に世話をした。しかし同年3月,アントニーナは亡くなる。

アルセーニーの3人目の妻となるタチアーナ・アレクセエヴナ・オゼルスカヤは,ミッチェルの『風と共に去りぬ』なども訳した英米文学の翻訳家だった。彼女がどのような人物だったか,彼女に好感情を抱いていなかったマリーナ・タルコフスカヤの文章をそのまま参照するのは公平さを欠き,躊躇される。ただオゼルスカヤとのエピソードで,マリ

ヤ・イワノヴナの人となりが感じられる場面を,マリーナの夫アレクサンドル・ゴルドンが書き残しているので,それを紹介しよう。

時折アルセーニー・アレクサンドロヴィチは妻タチアーナ・アレクセエヴナ・オゼルスカヤを伴ってやって来た。彼女が車を運転して来た。彼女の外見全体が,マリヤ・イワノヴナの家族の禁欲的な貧しさと,そしておそらくはこの家族の精神そのものと奇妙な不協和音を奏でていた。<…>ある時のタルコフスキー夫妻の訪問を覚えている。タチアーナ・アレクセエヴナはマリーナの父親の隣に座ってテーブルについていたが,その晩ずっと彼の腕をつかんでいたので,私はとても当惑した。ずっと腕をつかんだまま放さないのだ。アルセーニー・アレクサンドロヴィチは,足を縛られ,羽毛を逆立てたタカのように見える。なぜこんなことをするのだろう?

お客たちが帰ったあと私はこらえきれず,マリヤ・イワノヴナに,あのご婦人のことをどう思っているか尋ねた。「ねえ,サーシュカ,私にはタチアーナがどんな人かよく分かっているし,彼女について沢山のことを知っているわ。でもあなたにひとつ助言するわね。他人についての判断は自分でしなさい。誰かの意見に頼るものではないわ」(Гордон 2007 :155)

息子アンドレイについてはすでに多くのことが紹介されているので,彼の少年時代についてあらためて繰り返すことはしない。しかし,せっかく入学できた東洋学大学を2年足らずでやめてしまったときにはマリヤは業を煮やし,シベリア地質調査隊に加わるよう自ら算段したのだという。

1年間の地質調査を終え,モスクワに戻っ

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たアンドレイは,1954年に全ソ国立映画大学に入学し,映画監督になるための勉強を始める。1957年,映画大学での同級生のイルマ・ラウシュと結婚した。イルマはマリヤ・イワノヴナとアルセ―ニー・タルコフスキーについて次のように書いている。

マリヤ・イワノヴナは灰色の瞳で,豊かな髪はうなじのところで無造作に纏められていた。初めて会ったとき,彼女は注意深く,警戒するような眼差しで私を見つめた。<…>私の自信がカムフラージュに過ぎないことを,彼女はすぐに見抜いた。そして最初のうち私が彼女の前に出るとひどくおどおどしていたことに,彼女はいたく心を動かされたようだった。私は誰よりも,彼女といるときがいちばん率直になれた。<…>あるとき冗談まじりに,的を射たことを言った。「タルコフスキー家の男たちを愛さないのは難しいけれど,嫁ぐのは危険よ」と。私はアルセーニー・アレクサンドロヴィチも,マリヤ・イワノヴナも大好きだった。アンドレイの父親と知り合いになったことで,アンドレイ自身のことも以前より理解できるようになった。マリヤ・イワノヴナは,その人生に対する穏やかでいながら,大胆な姿勢によって私に自信を与えてくれた。(Волкова

2004 : 262)

1958年には娘のマリーナが,映画大学でのアンドレイの同級生だったアレクサンドル・ゴルドンと結婚する。ゴルドンはマリヤ・イワノヴナと同居し,晩年には身の回りの世話をして,最期を看取ることになるのだが,彼女との関係について,次のように回想している。

この人は私の心に深い痕跡を残した。

かつての夫について彼女とは一度ならず話をした。だが私は彼女の至聖所にすぐに入れてもらえたわけではなかった。そして今でも,自分が義母に信頼されていたとは言えない。ただごく稀に,そういう気分になったのか,私とマリーナの息子のために一夏借りた別荘の百姓小屋で濃い紅茶を飲みながら,あるいは森の倒れた木に座っているとき,マリヤ・イワノヴナは私が彼女の心に近寄ることを許し,何かの想い出や考えていることなどを打ち明けてくれたのだった。(Гордон

1999 : 56)

1962年に発表された《僕の村は戦場だった》は,同年のヴェネツィア映画祭でグランプリを受賞し,アルセーニーの処女詩集『雪が降るまえに』も出版されるが,マリヤ・イワノヴナは相変わらず慎ましい生活を続けていた。

《アンドレイ・ルブリョフ》撮影時,アンドレイは助手を務めていたラリーサ・キジロワと親しくなり,1970年にイルマと正式に離婚する。この出来事はマリヤ・イワノヴナをひどく悲しませた。アルセーニーが自分と子どもたちに与えた苦しみを,今度はアンドレイが自分の妻と息子に味わわせることになった。そのため両親との関係が気まずいものとなり,仕事の忙しさも相まって,アンドレイは二人と疎遠になった。その状態は結局マリヤ・イワノヴナの晩年まで続いた。

最後の数年間,彼[アンドレイ・タルコフスキー]は滅多にうちに来なくなった。マリヤ・イワノヴナは,息子との疎遠な仲を気丈に耐え,たまさかの短い出会いを喜んでいた。(Гордон 2007 : 268)

1973年,《鏡》の撮影が始まる。内気なマリヤ・イワノヴナは映画に出演することに気

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が進まなかったが,ただ息子のためだけに承諾した。だがその夏は雨がちで寒かった。映画撮影スタッフと交際することも,カメラの前に立つことも彼女には辛かった。撮影が済んで家に戻ったマリヤ・イワノヴナは,「毎日胸が痛かった」と娘にこぼしたらしい。(Гордон 2007 : 217)

他方,アルセーニーによる詩の朗読の録音も容易ではなかった。アンドレイにとって理想的な抑揚が得られるまで,「初めての逢瀬」は11回も読まされる羽目になった。アルセーニーは映像を見てはいなかったのだが,それが自身の生涯とかかわっていることを感じ取り,動揺した。

彼の妻は憤慨した。「よくもまああんな風に父親を苦しめられるわね」。だがアルセーニー・アレクサンドロヴィチは,言い繕うのではないが,まごついたかのように早口で答えた。「芸術に妥協があってはいけないのだよ…」(Гордон

2007 : 220)

ところで主演女優のマルガリータ・テレホワとマリヤ・イワノヴナが撮影現場で談笑している写真が残されているのだが,マルガリータは,マリヤとアルセーニーにこんな質問をしていた。

「マリヤ・イワノヴナさん,アルセーニー・アレクサンドロヴィチは,あなたたちのもとへ帰りたかったのだ,と言っていますが…」(この会話をしたのは1974年で,父親が彼らのもとを去ったのは1937年のことだ)。マリヤ・イワノヴナは痩せた肩をすくめて「初めて聞くわ」。

今度はアルセーニー・アレクサンドロヴィチに聞くと,彼は「ああ,あの人はあんな性格だから!」(Терехова : 137)7)

「あんな性格」とは,戦時中お腹を空かせたアンドレイとマリーナが,どこの畑からかキュウリをとってきてしまったときに,それを捨てて,他人のものを盗ってはならないと言い聞かせるような,頑固なまでに筋を通す性格であるらしい。

そんなマリヤ・イワノヴナではあったが,《鏡》の上映は楽しんだようだ。その時の微笑ましいエピソードを紹介しよう。

映画会館には観客が押し寄せていて,マリヤは入り口に近づくことさえできなかった。毛皮のコートを着ているでもなく,高級車で乗り付けたでもないマリヤに誰も注意を向けようとしなかった。そのとき彼女に気づいた《鏡》の撮影スタッフたちが彼女を抱き上げ,群衆をかき分け,上映ホールへと連れて行ったのだ。

凍えて帰ってきた彼女に私とマリーナは熱い紅茶を淹れた。<…>私たちの質問にマリヤ・イワノヴナは短く,言葉を濁すように,自分たちでご覧なさい,そうしたら話すわ,と答えた。だがそのとき突然笑いだし,見る間に若やいだ。自分が抱き上げられ,暴徒と化した群衆をかき分けて映画会館に運び込まれたことを語ったのだ。私たちも一緒に笑いながら彼女に紅茶を注ぎ足し,彼女がさらに何か話してくれるのを待った。「アルセーニーが映画の中で詩を朗読しているわ。上手に読んでいる。今アンドレイが上司から叱られていなければ良いのだけれど」と彼女は言葉をついだ。

7)ボヤジエヴァの著作では,テレホワがアルセーニーに「あなたはマリヤ・イワノヴナのところへ帰ろうとしたことがあったと聞きましたが」と言うと,彼は「たぶん,そもそも家を出るべきではなかったのだろう。でもあの人はあんな性格だから」と答えた,となっている。(Бояджиева : 213)

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(Гордон 2007 : 230)8)

1976年,マリヤ・イワノヴナは脳卒中を起こす。1年後に再び倒れ,その後容態は回復しなかった。1979年夏,自宅から病院に移されるが,末期の肺癌を患っていることが分かり,自宅に戻る。母親の死期が迫っていることを悟ったマリーナは,彼女に誰か会いたい人はいないかと尋ねたが,「いないわ,あなたがいてくれれば」と気丈に答えたという。

10月2日,マリヤ・イワノヴナは昏睡状態に陥るが,2日後の朝,奇跡的に意識を取り戻す。マリーナは母親の顔や手を洗い,着替えさせ,シーツ類を取り替えた。そのときのマリヤは「この世の物とは思えないほどの美しい目をしていた」とマリーナは書いている。だが,5時近く再び昏睡状態となり,翌朝マリーナはアンドレイに電話をする。そして10月5日午後1時頃,マリヤ・イワノヴナは子どもたちに見守られながら息を引き取った。

マリヤ・イワノヴナの死をアルセーニーがどのように受け止めたのか,その心情は推し量るしかない。ただ友人のエヴドキヤ・オリシャンスカヤが記しているヴォストリャコフスコエ墓地でのアルセーニーの姿を,拙文の結びに代えたい。

道中私たちは墓地に立ち寄った。そこにはタチアーナ・アレクセエヴナの息子のアリョーシャ,マリヤ・イワノヴナ,つまりアンドレイ・タルコフスキーとマリーナ・タルコフスカヤの母,そしてアルセーニー・アレクサンドロヴィチの教え子マルク・リフテルマンが葬られていた。私たちは一緒にアリョーシャとマルクのところに行ったが,マリヤ・イワノヴナのところにはアルセーニー・アレンサンドロヴィチが一人で行った。片手は苦しそうに杖にもたれかかり,もう片方の手には花束を持って…。(Ольшанская :126)

8)《鏡》を見たアルセーニーは,マリヤ・イワノヴナに「ねえ,あの子が僕たちを懲らしめたね」と言ったという。(Туровская : 116)

引用文献

Баткин, Леонид 1991, Не боясь своего голоса // Сандлер, А. М. (сост.) Мир и фильмы Андрея

Тарковского. Москва.Бояджиева, Людмила 2012, Андрей Тарковский : Жизнь на кресте. Москва.

Волкова, Паола Д. 2002, Арсений Тарковский : Жизнь семьи и история рода. Москва.

――. 2004, Арсений и Андрей Тарковские. Москва.

Гордон, Александр, 1999, «Я по крови домашний сверчок...» // Тарковская М.(сост.)

«Я жил и пел когда-то...» : Воспоминания о Арсении Тарковском. Томск.

――. 2007, Не утоливший жажды : об Андрее Тарковском. Москва.

Ольшанская, Евдокия 1999, «...Я бьɪл, и есмь, и буду...» // Тарковская М.(сост.)

«Я жил и пел когда-то...» : Воспоминания о Арсении Тарковском. Томск.

Тарковская, Марина А. 2006, Осколки зеркала. Москва.

Тарковский, Арсений А. 1991, Собрание сочинений в 3 томаx. Т.1. Москва.

――. 2009, Судьба моя сгорела между строк. Москва.

Терехова, Маргарита 2002, С Андреем Тарковским // Тарковская М. (сост.) О Тарковском :

воспоминания в двух книгах. Москва.

72 アゴラ(天理大学地域文化研究センター紀要)

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Туровская, Майя И. 1991, Семь с половиной, или фильмы Андрея Тарковского. Москва.

日本語文献

宇佐美森吉 1990 「アルセーニー・タルコフスキー その家族の肖像」『WAVE』 第26号。タルコフスキー,アルセーニー 2007 『雪が降るまえに』(坂庭淳史訳)。

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