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〔論文〕 弘前大学経済研究第 7 October1984 経済学と会計学 一交差領域をめぐる諸問題ー 石井 I 経済学と会計学の交流 n 経済利益と会計利益 I l 「経済と会計」の関連領域 N 経済/経済学と会計/会計学 付論利益記号論 現代会計学が直面している重要な課題は, 1. 会計学の辺境領域を開拓し, 2. 会計学内部の 高度に専門化された部門〈財務会計,管理会計, 監査等)の相互関連を把えると共に, 3. 会計学 と隣接科学の交差領域に立ち入り,両者の相互 浸透をはかることであるように思われる。筆者 はこのような問題意識のもとで,政府会計ー監 査,政府予算,財務会計・管理会計・経営管理 の交差領域,財政改革と都市会計ー監査制度, 行政改革と自治体会計一監査制度,非営利団体 の会計といった一連の研究プロセスをたどって きた。本稿もこの流れのなかで,経済学と会計 学の交差領域を取り上げ,両学問分野間の相互 浸透をはかるための基礎的な作業を試みる。 ここで次のような問題に触れておきたいo Whittington(1977 )は「専門化のこのプロセ スは,現実に,会計学と経済学のような関連分 野とのコミュエケーショシに役立つであろう。 しかし,それはまた,会計人内部でのコミュユ ケーショ γを減じるという困難を付随する。た とえば企業財務の専門家は,行動会計の専門家 よりもエコノミストとより容易にコミュニケー トすることがわかるようであろう( p. 207 )」と 述べ,会計学の専門化は会計学と外部とのコミ ュニケーションを促進するとみている。これに 対して筆者は,会計学の専門化は,内部のコミ ュニケーションを困難にするだけでなく,外部 とのコミュニケーションをも困難にすると指摘 したことがある 1 )。会計学内部の相互関連が把 えられると共に,会計学と隣接科学の交差領域 に対して両分野に読解可能な,脱専門的な(あ えていえば, ‘兼門’的な〉研究が行われなけ れば,会計の専門化は外部との有効なコミュニ ケーションを促進するとは思われない。単に専 門化された会計学の一角とのコミュニケーショ ンは,会計の全体像を見誤らせる危険なコミュ ニケージョンといえるであろう。学問分野それ ぞれの専門化でなく,両学問分野の交差領域に おける脱専門化もしくは‘兼門化’こそ,相互 浸透に役立つのではあるまいか。本稿はこのた めの第一歩であることを意図している。 1 )「筆者の問題意識;主,昨今もてはやされている,いわ ゆる隣接諸科学の導入とは異質であることをあえて記し ておきたい.逆説的ではあるが単なる隣接諸科学の成果 の導入は,かえって諸学の専門化を助長しかねない。往 々にして屋上屋を重ねる結果をもたらし,過度の専門化 のため,他の隣接諸科学の研究者にとっては読解不能な 閉鎖的な学問領域を形成していく傾向がみられる。これ は隣接諸科学の研究のプロダクトにのみ目を奪われ,そ れぞれの研究プ恒セスとか,研究対象そのものを直視し ていないことに起因する.……それぞれの研究分野の溝 を埋めるという作業法,ともすれば平易な叙途という印 象を双方の研究分野に与えるかもしれないが,理論の深 化の時代は過ぎ,現代は理論の相互浸透の時代にさしか かっていると.思われる。会計学のみならず,広く諸学 は,時代の要請として新たな知の枠組に向けて始動すベ きではなかろうか。(石井〔1982.52-54 頁]) J -22.

経済学と会計学 - 弘前大学human.cc.hirosaki-u.ac.jp/economics/pdf/treatise/7/treatise_07_02.pdf · 経済学と会計学 経済学と会計学の交流 〔1〕 先ず複式簿記と資本主義の発達との関わりか

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〔論文〕 弘前大学経済研究第7号 October 1984

経済学と会 計 学

一交差領域をめぐる諸問題ー

石井 薫

I 経済学と会計学の交流

n 経済利益と会計利益

Ill 「経済と会計」の関連領域

N 経済/経済学と会計/会計学

付論利益記号論

現代会計学が直面している重要な課題は,

1.会計学の辺境領域を開拓し, 2.会計学内部の

高度に専門化された部門〈財務会計,管理会計,

監査等)の相互関連を把えると共に, 3.会計学

と隣接科学の交差領域に立ち入り,両者の相互

浸透をはかることであるように思われる。筆者

はこのような問題意識のもとで,政府会計ー監

査,政府予算,財務会計・管理会計・経営管理

の交差領域,財政改革と都市会計ー監査制度,

行政改革と自治体会計一監査制度,非営利団体

の会計といった一連の研究プロセスをたどって

きた。本稿もこの流れのなかで,経済学と会計

学の交差領域を取り上げ,両学問分野間の相互

浸透をはかるための基礎的な作業を試みる。

ここで次のような問題に触れておきたいo

Whittington (1977)は「専門化のこのプロセ

スは,現実に,会計学と経済学のような関連分

野とのコミュエケーショシに役立つであろう。

しかし,それはまた,会計人内部でのコミュユ

ケーショ γを減じるという困難を付随する。た

とえば企業財務の専門家は,行動会計の専門家

よりもエコノミストとより容易にコミュニケー

トすることがわかるようであろう(p. 207)」と

述べ,会計学の専門化は会計学と外部とのコミ

ュニケーションを促進するとみている。これに

対して筆者は,会計学の専門化は,内部のコミ

ュニケーションを困難にするだけでなく,外部

とのコミュニケーションをも困難にすると指摘

したことがある1)。会計学内部の相互関連が把

えられると共に,会計学と隣接科学の交差領域

に対して両分野に読解可能な,脱専門的な(あ

えていえば, ‘兼門’的な〉研究が行われなけ

れば,会計の専門化は外部との有効なコミュニ

ケーションを促進するとは思われない。単に専

門化された会計学の一角とのコミュニケーショ

ンは,会計の全体像を見誤らせる危険なコミュ

ニケージョンといえるであろう。学問分野それ

ぞれの専門化でなく,両学問分野の交差領域に

おける脱専門化もしくは‘兼門化’こそ,相互

浸透に役立つのではあるまいか。本稿はこのた

めの第一歩であることを意図している。

1)「筆者の問題意識;主,昨今もてはやされている,いわ

ゆる隣接諸科学の導入とは異質であることをあえて記し

ておきたい.逆説的ではあるが単なる隣接諸科学の成果

の導入は,かえって諸学の専門化を助長しかねない。往

々にして屋上屋を重ねる結果をもたらし,過度の専門化

のため,他の隣接諸科学の研究者にとっては読解不能な

閉鎖的な学問領域を形成していく傾向がみられる。これ

は隣接諸科学の研究のプロダクトにのみ目を奪われ,そ

れぞれの研究プ恒セスとか,研究対象そのものを直視し

ていないことに起因する.……それぞれの研究分野の溝

を埋めるという作業法,ともすれば平易な叙途という印

象を双方の研究分野に与えるかもしれないが,理論の深

化の時代は過ぎ,現代は理論の相互浸透の時代にさしか

かっていると.思われる。会計学のみならず,広く諸学

は,時代の要請として新たな知の枠組に向けて始動すベ

きではなかろうか。(石井〔1982.52-54頁])J

- 22.ー

経済学と会計学

経済学と会計学の交流

〔1〕

先ず複式簿記と資本主義の発達との関わりか

らみてみよう。チャツトフィールド(Chatfield,

1974)は, 「会計は産業革命にいかなる影響を

及ぼしたのであろうか。社会学者のウェーパー

(Max Weber),歴史学者のゾンバルト(We-

mer Sombart),それに経済学者のシュンベー

ター (JosephSchumpeter)等は,複式簿記を

彼等の資本主義発展理論の中心に位置づけてい

る(原書 P.105)」として,とくにゾンバルト

をとりあげ,次のように述べている。

rsombartは,彼の著書 DerModerne Ka -

pitalism us (現代資本主義〕において,「科学的」

(Scientific)簿記の重要性について 3つの論拠を

提出した。その第 1は,産業合理化である。複式

簿記に固有の均衡性の特徴と数学的論理性は,産

業資本主義とあいまって企業業務の量を定め,体

系化し,管理する助けとなり,資源配分に新たな

合理性を与えた。第2は,抽象化(abstraction)

である。資産と持分を数値的抽象にまとめ,営業

活動の総成果を利益及び損失として表示すること

により,複式簿記は,企業の目的を「無限の利潤

に対する合理的な追求」(rationalistic pursuit

of unlimited profit)として明確化したのであ

る。第3には,非擬人化である。個人による所有

の概念を抽象的な資本の概念で置き換えることに

より,複式簿記は,企業とその所有主の分離を助

長し,それによって大規模な企業の成長を促進し

た。このように, Sombartにとって会計(学〉は

遠大な経済学的意味を有していたのである。会計

(学〉は,企業家の目標を明確にし,彼の諸活動を

合理化し,彼の経営活動の成果を判断するために

要約したのである」(Chatfield〔1974,訳書 135

頁,原書pp.105 106〕)2〕。

2)なおこのゾンパルトの見解を,青柳(1979)は, 「ヨノ、ネ福音書の“はじめに言葉ありき”にちなんで,“はじめに勘定ありき”と唱えたかれは,勘定が混沌の中に思考の秩序を打ち建て,他の計算がそれによりかかる軸とみた」として,次のように要約されている。 「要旨を記すと.複式簿記の本質的特徴は企業資本の循環過程を

- 23ー

そしてゾンバルトのこのような論証は,もつ

ばら会計「効果」(effects)にもとづくもので,

会計「実践」(practices)をほとんど無視して

レることに欠点があるとされる。すなわち,ヤ

ーメイ(Basil Y amey ),ポラード(Sidney

Pollard),プリーフ(RichardBrief)の「三人

の会計史家による複式簿記法の諸研究は,複式

簿記に結合された工業会計技術は特に効率的で

もなく,また合理性の追求というよりは便宜性

や私利私欲の産物であるとし、う対立命題を提示

している(原書 P.106)」として,彼等の諸説

を紹介した後,チャットフィールドは,次のよ

うに結論づけている。

「Sombartは, 簿記技術の発展を考慮するこ

となしに結果から帰納したため,工業会計実践の

本質よりも外観を記述する傾向があったのであ

る。彼の理論は,本質的にはノレネッサンス期の簿

記方法を継続して使用している「合理的な」(ra-

tional〕工業企業のパラドッグスを無視していた。

しかし資本主義が出現したところには必ず,すぐ

その後により正確な会計実務が続いている。科学

的簿記の真の長所は企業家への直接的な便益と言

うより,その発明者が考察していた環境と全く異

なる企業環境にも適用できるその能力によって立

証されたのである。」(訳書137-138頁,原書P.

107)

ヤーメイは, 1950年の論文で,ゾンバルトの

追跡して数量的に把握し記帳することにあるが,この特質lま勘定の体系が完成されるまで発現しなかった。そして,この複式簿記という営業の新しい秩序が資本主義企業の生成と発展に根本的な意義をもった。その秩序は経済感覚を強め,資本主義経済制度に内在する営利精神と経済合理主義の精神を十全;こ発揚した。複式簿記なしに資本主義:土考えられない。資本;土複式簿記が把揮する営業財産として定義されるので,複式簿記以前に資本というカテゴリーもなかった。そして,複式簿記は経済の合理性を通じて経済活動の合目的性と計画性に奉仕した。一方,複式簿記;主営業の独立性にも貢献した。複式簿記によって企業家と企業が分隊し,企業が計算単位として出現する。複式簿記はすでに前期資本主義の時代に発達したが.18世紀に設立された株式会社はますます資本主義的企業の性格をおびて,正規に記帳された資本をもち,正規の損益を算定し,正規の計算を実施して,決算と貸借対照表;ニもとづいて配当を確定するようになった(W. Sombart, Per modeme Kapitalismus, Zweiter Band, Duncker & Humblot, 1924, S. 112ー 125,162).

(1979. 22頁)」

複式簿記に対するテーゼは,ルカ・パチョーリ

の初版本がでた1494年から 300余年間に出版さ

れた会計文献で説明され議論されたところから

みて,複式簿記システムの初期の実践とは一致

しえないことを明らかにしようと試みた。ヤー

メイは,この論文の主張が,会計史の現代の指

導的な研究者であるメリス(Melis〕の支持を

うけているとして(Yamey〔1964, p. 118〕〉,

再度このテーマに取り組み,次のように結論づ

けている。

「複式簿記であると否とにかかわらず,会計

の記録は,経済や建全な財務管理に強く働きか

けることはできないということを付言する必要

はほとんどなかろう。……会計記録や会計シス

テムはささいであるが,人目をひく貢献をする

にすぎない。……ゾンバルトは,複式簿記の中に

余りにも多くの経済的意義を読みとろうとした

点で誤りをおかしたのである。」(Yamey〔1964,

p .136〕)3〕

モスト(Most,1972)は,ゾγバルトの命題

とそれに対するヤーメイの批判を概述し,ゾン

バルトとヤーメイが挙げる証拠の解釈で,両者

と異なる立場をとっているcp. 722)。いわゆる

3)ゾンバルトに対するヤーメイの批判は.青柳(1979)

により,次のように要約されている。 「ゾンバルトの誇

張された外からの見方は,会計史家ヤメイによって内か

ら批判された。第ーに,資本と利益の会計計算は,企業

の清算や売却のような特別の場合を除いて,企業家が資

源を利用する個々の意思決定には役立たない。しかも,

資本は複式簿記によらなくても各種の資産と負債の棚卸

を行って総額と残高を計算し,利益はそのようにして計

算された資本の期首と期末の在高を比較すれば導き出せ

る。第二に,複式簿記はすべての資産とすペての負債の

棚卸に必要な資料を含んでいないし,資産の取得原価を

提供するだけで資本計算を行う時点の時価を提供しな

い。このような資料にもとづく意思決定は,業務の状態

や資源に関する詳細な知識を欠いて,極度に単純化され

歪曲された勘定のスクリーンを介して現実の複雑さと細

部に対処しなければならない。第三に,複式簿記が企業

家と企業を分離したとみることも妥当な見方ではない。

複式記録が行われる以前にも組合企業は存在していた

し,オランダ東インド会社のような資本主義的企業も長

らく複式簿記なしに運営されていた。総じて,発展期の

資本主義企業が新しい利益機会を求めて未知の分野に立

ち入るとき,過去の出来事や経験に関する会計記録は役

に立たない。営利精神の高揚と利潤追求は,素朴な記録

でも果たせるので,複式簿記は資本主義の開花に必要な

条件であるとみることはできない. (22-23頁)」

‘ゾンパルトの命題’は,最近会計文献でかな

り注目されてきているが,ヤーメイは二つの論

文で (1950, 1964),その命題を批判的に検討

した。一方ウィンジャム(Winjum,J. 0.)は

ゾンバルトの命題にかなりのアカデミックな支

持を認めてレる。その命題は資本主義の発展に

関する会計の役割に関連するが, 「簡潔に言う

と,ゾンバルトは,複式簿記の発明を資本の概

念に目的を与える工夫とみなした」と指摘して

いる(Most〔1976,p. 1〕〉。ゾンパルトとヤー

メイの対立は,会計観の相違に帰着すると思わ

れるがめ, ここでtまそれに立ち入らないで先に

進もう。

〔2〕

ゾンパルト等は複式簿記に関心があったので

あり,会計そのものに関心をもったエコノミス

トは,フィッシャー(Fisher,I. )がはじめてと

いわれる。フィッシャーは,「Natureof Capi-

tal and Income」(1906年〉の序文で,“経済会

計学の一種の学理”を形成することをうたい,

その経済会計学は, “実践的な企業取ヲ!と抽象

的な経済の理論の基礎となる理念 (ideas)と慣

習(usages)との聞に長らく欠けていた橋を提

供するであろう”と期待されている(Solomons

〔1955, p. 106〕〉。ソロモンズによると,フィ

4)青柳(1979)は「会許の発達が近代企業の成長に決定

的な要素であったと主張すペきである。会計技術の発達

がなければ,営利企業は現在のような規模にはならなか

ったであろう(Scott, DR., Theory of Accounts, Holt, 1925, Reprint Edition 1976 by Arno Pr. pp.

3-4) (21頁)」というスコットの見解をとりあげられる

と共に,ウェーパーの会計観として「かれは経済の形式

的合理性と実質的合理性を対比させた。前者は資本計算

のもつ合理性であれ利益や損失の機会を完全に計算す

る合理性である。それはゾンパノレトのいう経済合理主義

にほかならない。後者は主として所得分配を最善に実現

する合理性である。そして,現代の経済生活は一面にお

いて形式的合理性を高度に実現しながら,他方におい

て,社会主義者が非難するように,実質的に非合理とな

っている。 (マックス・ウェーパー,黒正巌,青山秀夫

訳「一般社会経済史要論J上巻,岩波書店,昭和29年,

18. 55-6頁)Jと指摘されている(23頁)。そして,ス

コット,ゾンパルト,ウヱーパーの見方の近接性とともに,言語観と会計観の照応性に注目され,能動的言語観

と能動的会計観に言及されている(21-24頁).

- 24ー

経済学と会計学

ヲシャーの著作が発行された1906年頃は,アメ

リカの会計学研究がかなり発達した時代であり,

アメリカの大学で会計学がカリキュラムに取り

入れられた頃といわれる。これらの発展が経済

学と会計学の関係を緊密にしたことは疑いえな

い。しかし,フィッシャーの弟子であるキャニ

ング(Canning, 1929)の書物が発行された

1929年迄,他家受精のプロセスはそれほど進展

してし、ない。これは, 1936年にメイが“会計分

野は経済学的思考によってそれほど意識的に影

響されたとはいえない(May〔1936,p. 305〕〉”

と述べているところからも窺えよう(Solomons

〔1955,p, 106〕〉。マテシ yチも「フィ y シャ

ー,シュンベーター,グラークは,会計学と経

済学との境界領域の開拓者として挙げられねば

ならない。しかしこの境界領域の問題を明確か

っ要約する試みは,(フィッシャーによって着

手されたのは明らかであるが〉キャニングの

「TheEconomics of Accountancy」がはじめ

てであった(Mattessich〔1956,p. 551〕)」と指

摘されている。

しかしながらその後, Andrews,サミュエル

ソン,ポールディング等によってかなりの進展

がみられる(Solomons〔1955,pp. 106-107〕〉。

1936年12月に,エコノミストと会計専門家の共

同会議で,資本や利益等の基本的な概念及び理

論に関して論議がなされた(Howard〔1937,p.

1〕5)。 それ以来,多くの経済学者が会計の問題

を取り扱ったが,(たとえば利益測定に関して

フィッシャー,ヒックス,アレキサンダー,原

5)その会議の成果として,異なる見解を表明する公式の論説を作成するためにフ ::<.7ター(Fetter,F. A.),リトルトン,パウアー(Bauer,J.)が選ばれ,彼等の論文はアカウンテイング・レグュー誌の1937年3月号に掲載された。そこで,たとえばフ ::<.7ターは「会計人の一般的な態度は,経済的な概念は,会計分野に妥当するかもしれないが,会許目的には採用することも適用することもできないということであるように思われる.それに反して筆者は,経済学と会言博との概念や用語の聞には何ら必然的な対立はないと主張する(Fetter〔1937,p. 3〕)」と述べている。なおリトルトンとバウアーの論文は次のものである0 Littleton, A. C.“Concepts of Income Underlying Accounting”,pp. 13-22. Bauer, J.,“The Concepts of Capital and Income in the Regulation of Public Utilities”. pp. 22-29.

価計算に関してグラーク,より一般的にはキャ

ニング,また最近ではサミュエルソンが挙げら

れるが〉,会計専門家では,メイを除いて,経済

学の分野に踏みこむことはまれであったといわ

れる(Solomons〔1964,p. 533〕〉。そのメイは,

キ十ニングの著書に対する書評で,次のように

批判している。「会計学と経済学との関係が,

まさにキャニングによって示唆されるものであ

るかどうかが疑問となるであろう。たとえばキ

ャニングが“経済学者は,会計人の資産の概念

が法的というよりも経済的であるということに

注目するであろう”と述べる場合である。会計

実践はそれほど経済学的思考によって意識的に

影響されることはなかったというのは明らかで

ある。会計は事業の道具であり,会計の発達は,

会社法の発達に似て,企業人の実践によって支

配されてきたというのが純然たる事実である。

(May (1936, p. 406〕〉」

会計職業が経済学と会計学の共有領域に本格

的に取り組んだのは, 1950年に入ってからと思

われる。所得概念の究明を試みた AIA(AICPA

の前身〉の企業所得委員会は, 1952年に報告書

を公表し,

「最も単純な形の所得:ま別として,所得を例え

ば一年というような期間に割当てるのは所詮は慣

習以外の何ものでもない。慣習の形態は,多分に,

所得が決定される目的(又は諸目的〉によって,

またその時代の,すなわち,慣習を形成していく

人々の考え方によって決定されることとなる道理

である。」(AIA1952,訳書11頁,原書pp.6-η〉

と,所得はコンペンションであるとし、う見方を

提示し,次のような提案を行った。

「本報告書の提案とは,現在考えられているよ

うな企業所得は二つの構成要素《等しい購売カの

単位で測定された営業活動の成果,および貨幣単

位の価値変動の結果》からなっており,これらは

分離することができるものであって,かつ異なる

意味をもっているものであると理解されなければ

ならないということ,および,これら二つの要素

を分離するよう努力すべきであって,その分離は,

まず補足的資料において,究極的には恐らく,企

業の本来的計算書において行われるべきものであ

- 25ー

るということである。(AIA〔1952,訳書221頁,

原書P.139〕〉」

しかしながら, AICPA とロ y グフエラー財団

の共同作業の成果であるこの報告書は,企業利

益に関して一般に認められる概念を得ることが

できなかった。また同じ頃イギリス勅許会計士

協会と全英経済社会調査局(NationalInstitute

of Economic and Social Research)によって

着手された(AIAと類似した〉調査プロジェグ

トは, 6年の努力をついやして1951年に46頁の

資料を発行することで終止した(Murphy〔1966,

P.485〕〉。

〔3〕

経済学と会計学との共同作業が確固とした成

果をあげているとは思われないけれども,両分

野の交流をめざしてエコノミストと会計専門家

による数多くの議論がみられるへたとえばわ

が国で紹介されているものとして, AAA国民

所得委員会, プレイ, マーフィー (1957),フ

ランダース (1959, 1961),マテシ yチ (1956),

ユー (1966), ボールディング (1977)等々が

挙げられる7)0 その他にも「経済と会計」のテ

6)その背景として次のような点も考慮する必要があろうJ会計学と経済学との顕著な接近は1940年代から1950年代初頭のインフレーション期にもたらされた。それは言うまでもなくインフレーション期に必然的に企業の資本維持の問題が登場することと関係している。イギリスのAccountingfor Inflationに掲げられた調査およびアメリカのジョーンズの調査は,いずれもこの現象を警告する目的でなされたものである。インフレーション期に実物資本維持が伝統的企業会計に対する批判の具としてとり上げられ,資本維持と会計的所得計算の関係が集中的に検討せられたのは,意外ではない. (合崎=能勢(1971. 4頁〕)J

7) Flanders (1959)は“会計学と経済学は代用可能というよりも補完的な知識の体系である(p.73)”と述ペ.Murphy (1957)に対してコメントしているが,これについては合崎(1961)によって,フランダースのマーフィー批判として紹介されている.さらに Flanders(1961) に関しては合崎(1967)により, AAA国民所得委員会,プレイ,ユー' '7テシァチ等に関しては合崎(1966,1971)によって紹介されている.合崎堅二「経済学と会計学付同」『曾計』, 1961年, 2

月号, 3月号。 『社会科学としての会計学』中央大学出版部, 19侃年. 『会計学と経済学の関J『舎計』, 1967年7月号.

ーマを取り扱ったものは数多くみられるがへ

これらの議論の中で,筆者には,ポールディン

グのいわゆる会計儀式説が会計観としてはもっ

とも卓越したものと思われる。それ故以下では

ボールディングをとりあげ,その注目すべき見

解をみてみようへ

ボールディング(Boulding,1977)は次のよ

うに述べている。

「エコノミストは,会計人を不可能な仕事を遂

行しなければならない人とみなす。会計人は,先

ず,基本的に,多次元の現実を 1次元の数字に還

元しなければならない。そして次に,彼はおそら

く知りえない将来についての知識にもとづいて,

これをなしとげねばならない。これらの状況の下

で,エコノミストが多くの会計手続きを儀式の性

格をもつものとみなしても驚くべきことではな

い。これらの手続きを儀式と呼ぶことは,それら

手続きの妥当性を決定して否定したり非難したり

するものではない。儀式は人がその解答を現実に

知りえないような質問に答えなければならない場

合に,常に適切な応答(response)である。これ

らの状況の下で,儀式は2つの機能をもっ。それ

は慰めとなる。(そして将来の大きな不確実性に

直面すると,慰めは軽蔑されるべきではない。〉

そして行為にとって十分な解答でもある。正しい

解答というのでなく,十分な解答こそを会計人は

現実にもとめているのである(Boulding,p. 93)。」

さらに,

「会計人が我々に諮るものが真実ではないかも

8)たとえば会計と経済を統計の観点から位置づけたPerry (1955),管理会計との調達でBewitt(1974),利益の魔術というタイトルは面白いが,証券アナリストの見方で株価をの関係が中心となっている Black〔1980),会計利益ではなく経済利益の報告を主張する Arthur(1981!等の他,次の文献が挙げられる。• Heirlman, E. A.,“Accounting and Economi国”,The Accounting Review, June, 1935, pp. 149-155.

・Norris,H.,“Profit : Accounting Theory and Ee. onomi回”, Economica,August, 1945, pp. 125-133.

• Bowers,R,“Econmic and Accounting Concepts”, The Accounting Review, October 1945,pp. 420 31.

・Murphy,M. E., Accounting- A Social Force in the Community, 1956 (Chapter III, The Corre. lation of Accounting and Economics, pp. 64-88). ・Ross,S. A, "Acco国 1tingand Economics”, The Accounting Review, April 1983, pp. 375-80.

9)ポールディング(1977)に関しては,合崎(1960)による紹介がある.

-26ー

経済学と会吉博

しれないが,もしわれわれが,彼が何をしている

かを知れば,それが意味するものに対して公正な

見解を持つことができる。このため,筆者は,会

計を一層’正確’にさせる方向で改革しようとす

る現在の多くの努力に幾分疑問を持つ。特iこ物価

が変動するという事実の明確な認識を確立するこ

とにより,会計を改善する試みに疑問を抱いてい

る。実際,貨幣単位は購買力に関して絶えず変動

しているにもかかわらず,貨幣価値一定を仮定し

ているという理由で会計実践を批判するのはたや

すい。そしてこれはエコノミストがしばしば行う

批判である(Boulding,p. 94)。」

と,経済学者の多くが,インフレ会計を指向す

るのに対して,取得原価会計を擁護している点

も注目される。ポールディングはさらに次のよ

うにも述べている。

「会計実践における素朴さや単純さの根拠とな

る何かがある。もし会計人が,筆者が主張するよ

うに,いずれにしても不真実であらざるを得ない

ならば,複雑な不真実に対して単純な不真実を支

持する理由が存する。というのは,もし不真実が

単純であれば我々はそれがどんな種類の不真実で

あるかを知る公正な機会をもっと恩われるからで

ある。

周知の不真実は,艦よりもずっと良い。そして

会計の儀式がよく知られ,十分理解されていれ

ば,会計は不真実であるかもしれないが,嘘とは

ならない。すなわち,我々は,会計が真実を諮ら

ないと知っているために会計は欺くことはない。

そして我々は会計人の成果を決定的な情報という

のではなく証拠として用いながら,それぞれ個荷

のケースに応じて,自ら修正することができる。

(Boulding, pp. 94-95)」

このようなポールディングの主張に対して,

会計を低くみているようにも,会計を弁護して

いるようにもみられるところから,会計専門家

の受けとめ方は,多種多様に分かれると思われ

る10)。ポールディングに対する私見の提示は後

10)合崎(1930)もポールディングの会計儀式説に対する評価;こ関して,即断を避けておられる。筆者は基本的にはポールディングの見解き支持するものであるが.ただ,会計は真実でないとすれ:i.何が真実なのかという問題が生ずるように恩われる.インフレ会汁,リース会計,外貨換算会計等の最近の動向をみると, (おそらくポールディングが念頭にあると恩われる)経済的現実という

節にゆずり,以下では経済と会計の交流をめぐ

る議論の現状をみてみよう。

〔4〕

経済学と会計学の交流がはかばかしい成果を

あげていないと述べたが,エコノミストによる

会計批判がこのような状況の大きな原因になっ

ていることは否めない。たとえば「エコノミス

トが会計の欠点とみなすものは, 1.一般的な観

点, 2.利益の概念, 3.コストの内容, 4.コスト

の分析, 5.利潤の極大化という項目で取り扱わ

れている。……エコノミストがみるところによ

ると,会計人の最大の欠陥は,企業利益の決定

に際して将来をみることができないということ

である。(Dohr〔1953,pp. 169-170〕〉」という

指摘にみられるように,エコノミストによる会

計批判に関しては,財務会計も将来をみる必要

があるという主張が目立つ。それは「財務会計

担当者が管理会計担当者と同様に,会計は単に

過去の財務的歴史を記録するだけの問題ではな

いということを十分認識するとき,革命は完了

するであろう(Corbin〔1962,p. 626〕〉」とい

う指摘にもみられる。しかしながら,このよう

な批判の裏にエコノミストによる会計学そのも

のに対する批判が根深いことにも留意しなけれ

ばならない。マテシッチは, 「会計学の後進性

は11),関連する学問領域から痛烈に批判されて

いる」として,従来の伝統的な会計に対する主

要な批判点を次のように要約している。

「1.従来の〈会計実践〉では,意思決定ないし

意味論的な真実自体が極めて危ういものであること.そして,会汁表現が虚構であるとしても.ひとたびそのような虚構がつくられると,それが現実には‘真実’になるという側面もあることを見落としてはならない.すなわち会計表現以前には,何も真実はないということである。会許表現による虚構がでできてはじめて,それに対して真実という問題が立ち現われるという関係を認識することが肝要と思われる。

11)筆者には,会計学が経済学に対して劣位にあるのは,本来の学問の性質というよりも.その学聞を担っている研究者の総体的な知的レベルを反映しているのではないかと思われる。会計学は経済学に比して,はるかに知の多面角に位置すると思われるからである。会計学研究者が,会計の政治的・経済的・文化的・社会的側面を認識すれば,会計学が経済学に対して劣位であるという通念を払拭するのは決して困難なことではないと息われる。

-27-

業績評価を行なうために必要な客観的な価値資料

の提供がなされていなL、。

2. <会計理論〉は,科学的ないし仮説的という

よりは,独断的な性格をもった知識体系として発

展し,満足には法律的観点に対してしか答えられ

ないものになっている。加えてそれは,利益測定

の微視的側面と巨視的側面の統合に失敗している

といわざるをえなし、。

3.またアカデミッグな会計学の教育的側面にお

いては,技術教育を強調しすぎている感があり,

また最近の科学的進歩の成果を会計の知識体系に

反映させる努力に欠けていると恩われる。それは,

会計理論を近代論理学,認識学,定量分析などの

手法で表現する段になると,まったくお手あげの

状態である。会計を EDP化するのに必要な,柔

軟な思考方法についても,それは十分な知識を与

えているとはいいがたい。(Mattessich〔1964,

訳書7頁,原書P.4〕〉」

エコノミストが会計を軽視しているところか

ら,エコノミストは一般に会計及び会計学に無

関心のようである。たとえば「一般に会計学

は,特にミクロ会計は,経済理論と一層統合さ

れるべきである。 H ・H ・ミクロ会計が経済プロセ

スをより深く洞察するための基礎として,エコ

ノミストによってほとんど利用されてこなかっ

たということは幾分奇異な感がする。(Correa

〔1977,p.216〕〉」と指摘されている12)。しかし

ながら,経済学と会計学との交流が停滞してい

る原因として,「会計人はエコノミストの意見

に抵抗する傾向があったし,エコノミストは会

計人の実践的な知識や経験を無視する傾向があ

った(Whittington, p. 207)」といわれるよう

に,会計人の側にも問題があることは言う造も

ない。このように経済学と会計学とは緊密にみ

える外見とはうらはらに,現状は隔絶した学問

分野という印象が強い。しかしながら両分野の

交流が不可能というわけではない。 Whitting-

12)これに対して企業のエコノミストは,財務担当者と有効に協働するに足るほどの会計の知識を習得しているという調査報告もみられる.これは NABE(National Association of Business Economis飽)の500名のメンバーをランダムに抽出し, 219名の利用可能な回答にもとづいて調査した結果である(Bedingfield=Holmberg, (1977, pp.~47)).

ton (1977)は,「経済学の会計学への貢献」と

「会計学の経済学への貢献」と題して次のよう

に論じている。

先ず経済学の会計学への貢献として,第 1に

「意思決定のためのコスト」として管理会計へ

の貢献がある。管理のある重要な機能は,企業

の資源配分について,日常的に意思決定するこ

とであるので,かかる意思決定がL、かになされ

るべきか,またそのプロセスでいかなる会計情

報が必要とされるかに関して,経済理論が何ら

かの発言をすべきことはすくべきことではない。

しかしながら実際に経済理論は1950年代から

1960年代迄,原価計算に関して,ほとんど影響

を及ぼしていないということは驚くべきことで

ある(p.197)。第2に「利益測定」として財務

会計への貢献がある。会計人は利潤を測定する

のに伝統的に歴史的な評価基準に固執している。

彼は過去の取引で,実現した利潤だけを報告し,

‘保有利得’(holdinggains)すなわち企業に

よって所有されているが未だ売却されていない

資産の評価における増加額を無視することを選

好した。このシステムを実施するために,会計

人は,実現主義,対応原則,それに保守主義と

いった一連のルールを作りだしてきたのである

(p. 200)。 その他「投資評価」への貢献も挙げ

られる。

次に会計学の経済学への貢献は,主として理

論的な知識ではなくデータを提供することにあ

った。これは目立たないが極めて重要な機能で

あり,それはまた非常に浸透しているのでここ

で表面的なサーベイを行うことさえ不可能であ

る(p.204)。国民所得計算書の作成に際して用

いられるデータのかなりの割合が,会社の公表

財務報告書に拠っていること,さらに個々の企

業に関するぼう大な数の経済的・統計的研究

(それらは会計データに基礎をおいているのだ

が〉があるということを指摘すれば足りるであ

ろう。経済学者による会計データの利用をみる

と,往々にして,会計データのもつ限界に無知

であったり,軽視したりしていることが確認さ

れなければならない。そして,これは,よりー

- 28ー

経済学と会計学

層インターディシプリナリィな研究がなされう

る,またなされねばならなかった領域である。

しかしながら,会計人の経済学への貢献は,デ

ータの提供に限定されない。彼はまた前述した

帰納のプロセスで重要な役割を果たす立場にい

る。すなわち経済の世界(またそれがいかに活

動するか〉についての会計人の経験が,モデル

・ピJレディングの適切な仮定の選択に際して,

エコノミストを助けうるであろう(p.205)。そ

の他,パクスターの論文「会計が景気循環に貢

献する」(Baxter, 1969)は,伝統的な財務報

告書の歴史的原価データに含められるミスリー

ディングな情報が,投資のレベルに関して,サ

イクルを過大にみせかけるのにいかに役立ちう

るかということを論証している(p.206)。

そして Whittington(1977)は,「会計学と

経済学は多くの領域で収飲している。それ故何

が経済学で何が会計学かということはできない。

企業財務は,明らかにこれが現実となっている

1つの領域である。もう 1つの領域としては,

会計データの効用の経験的な調査研究がある。

……エコノミストは近年,かれらのテーマのミ

クロ経済的な基礎に一層関心を持ちはじめてき

ており,不確実性や市場行動に情報が及ぼす影

響といった類の問題に関心を払っているので,

この分野において,経済学と会計学との聞に実

りある相互作用が現実に可能となるであろう

(p. 206)」と結論づけている。

その他「会計職業の社会的有用性は,経済を

管理する際に利用するために,投下資本,賃金,

コスト,利子,地代に関する全般的なデータを要

約する企業の事業計算書(businessenterprise

accounts)の作成,そしてそれが広く採用され

ることによって高められよう。この目的の達成

は,エコノミストと会計分野の緊密な協働すな

わちエコノミストによる会計の理解を改善し,

会計人が社会会計に一層の訓練をうけることを

必要とするであろう(Murphy〔1966,p.486〕〉」

という指摘にもみられるように,会計学と経済

学が多くの領域で交差しているので,両分野の

交流が今後一層望まれている状況にあることは

確かである。その際, 「現在のエコノミストの

問題は,主として,資本,労働,消費者聞の相

互関係が中心となっている。そしてこれらの諸

問題を解決する際に会計データを利用しなけれ

ばならないので,エコノミストは会計に大きく

依存していることは明白と思われる。……これ

らの諸問題のすべては,経済学と会計学との密

接な相互関係を示唆する。そして,その相互関

係は,日々ますます緊密かつ多大になっている

(Perry〔1958,p.453〕〉。」という指摘にエコノ

ミストの側でも耳を傾ける必要があろう。サミ

ュエルソン(Samuelson,1970)は,「この“勘

定の時代”(ageof accounts)には,会計学を

多少は知っていることが必要条件となっている

(訳書 166頁,原書 P.96)」と述べ,「会計上の

濫用」と題して,コングロマリットによる濫用

の例を若干挙げた後〈訳書 180-181頁,原書

pp.103 104参照〉,結論として,「経済学と会

計学との聞の関係で興味あるものをいくつか,

簡単に述べておく」13)として,会計が経済学の

基礎になっていることを了解していることは,

経済研究分野においても注目に値しよう。

以上,経済学と会計学との交流を概観してき

た。両分野の今後の一層の交流をはかるために

は,従来のように単に経済学と会計学との関係

のみを取り扱うのではなく,視点を大きく転換

して,経済学と言語論との関係も射程に入れ,

そこにおいて経済学と言語論を媒介するものと

しての会計の役割を認識することが,ひいては

経済学と会計学との緊密な関係を理解するうえ

で役立つと思われる。その問題は今後の課題と

13)それは次の3点で述べられている。「(1)すべての貸借対

照表は資産の評価に依存するのであって,この評価の問

題こそ,第4部で取扱う資本および利子理論の基礎的課

題のひとつをなしている。(母国民開尋統計は,第10章で示すとおり,売上高,費用等々の会計学的数字をもとにしている。(3)のちに,企業がどのようにして価格を決め

るかを論ずるさい明らかになるとおわ会計学上の費用

の数字は価格決定にさいして重要な役割を果たす。計理

士は貨幣表現の数値を取扱うが,経済学者はもっと深く

突っこんで,その基礎にある実質的な数値を探究しよう

とする。ことに激しいインフレーションやデフレーショ

ンの時期には,計理士は彼の通常の方法が奇妙な結果をもたらしうることに気づくのである. (訳書, 181-182頁,原書 p.104)J

- 29ー

して,次節では経済学と会計学との交差領域に

関する個別的問題として最も重要と思われる経

済的利益と会計的利益の問題を取り上げる。

Il 経済利益と会計利益

〔1〕

先ず利益の経済学的な概念からみてみよう。

Chang (1962)は,企業利益の経済学的概念の

発展は, 1.重商主義, 2.重農主義, 3.アダム・

スミス, 4.マーシャル, 5.フィッシャー, 6.へ

イグ, 7.ピグー, 8.ハイエグ, 9.パイシュ

(Paish, F. W. ), 10.ヒy グスの流れで要約さ

れるとして,それらの利益概念を簡潔に説述し

ている(pp.638-639参照)14)。そして前述した

AIAの企業所得研究会の報告書(AIA,1952)

では,広汎なる所得概念と題して,重商主義者,

重農主義者, アダム・スミス, シャンツ(G.

Schanz),へイグ(R.M. Haig),フィッジャー,

ヒy クス,プレーン(C.C. Plehm), アレキサ

ンダ一等の所得概念を列挙しているが(AIA

〔1952,訳書11-16頁,原書 pp.6-10参照〉,

これらのなかで,特にヒッグスの見方にならっ

て,次のように述べている。

「企業所得の概念を打立てるとし、う仕事は,

14)参考迄に,それぞれの著作の利益概念(もしくは所得概念)に関する該当個所を次に記しておく。・Smith, A., The Wealth of Nations, Chapter II, 1937' p. 251.

•Marshall, A., Prin口pies of Economics: An Introducto,ッ Volume(8th ed.), 1952, p. 72. ・Fisher,I., The Nature of Caρital and Income, 1927' p. 234. ・Haig,R.M.,'‘The Concept of Income : Economic and Legal Aspects”, The Federal Income Tax, ed. by R. M. Haig, 1921, p. 7.

• Pigou, A. C., The Economics of Welfare, (4th ed.), 1950, pp. 43-49. ・Hayek,F. A., The Pure Theory of Capital, 1950, p. 298.

• Paish, F. W.,“Capital Value and Income”, Eco-nomica, VII (November, 1940), pp. 416-418.

•Hicks, Value and Caがtal:An Inquiring into Some Fundamental Princiρ/es of Economic Theory (2nd ed.), 1950, p.172.

本来,会計の仕事であると考えてよいが,この

場合,所得およびこれに関連ある種々の概念は

いささかも論理的な概念ではない。これらはた

だ,実務家が彼の当面する事態のめまぐるしい

変化に対処するために用いる大雑把な近似概念

であるということを絶えず銘記しておかなけれ

ばならない(AIA〔1952,訳書32頁, 原書 p.

17〕)。」

ヒックスによって定義された経済的利益〔“或

人の所得とは彼が一週間のうちに消費しなお

週の終わりにおいてその週の始めにおけると同

一の富裕度にあることを期待し得るような最高

額”(Hicks, J. R., Value and Ca戸ta!,(se-

cond ed.), 1946, p.172)〕が,特にアレキサン

ダー(Alexander,S.)以来,会計文献で(たと

えば Hansen〔1966〕, Solomons〔1961,p. 375〕

等〉広範な支持を得ているといわれる(Shway-

der〔1967,p. 23〕〉。チャットフィールド(Chat-

field, 1974)も次のように述べている。

「過去200年の間,企業利益に関する会計学的

概念と経済学的概念は全く相反する方向に発展し

てきている。会計上の利益は,当初においては貸

借対照表上の資産評価の結果であったが,現在で

はほとんどの場合,生産に要した費用に対する実

現販売収益の超過額として損益計算書上において

測定されている。 18世紀の経済学者達は,固定資

本と流動資本を完全に維持するために必要な総収

益と総費用の差額として企業利益を理解してお

り,さらに財貨は「所有者が変更される」(change

masters)までは利益を生じないとする Adam

Smithの教義が今日の会計上の実現の定義とされ

ている。しかし,現代の経済学者達のほとんどは,

利益を資産の現在価値の増加として定義している

のである。 SidneyAlexanderが述べている如く

「年間利益とは個人もしくは法人が年聞を通じて

処分でき,さらに当該年度の期首から期末まで残

存することが可能である富の総額である(訳書336

頁,原書P.26)。」

利益概念に関してヒックスに依拠するアレキ

サンダーは,フィッシャーの見解と対立するよ

うに15),「資本と利益をめぐる観点は経済学で

も混乱に近い状態であり,いずれか一つの見方

- 30ー

経済学と会計学

を真とする結論はつけがたい〈青柳,〔1968,

296頁〕〉」といわれることも肯首できょう 16)。

しかしながら,企業利益に関する支配的なもの

が,ヒ y クスの見解であり,それが会計文献に

多大な影響を及ぼしているとみる向きも多い。

企業利益の経済学的概念が会計利益に適用され

るべきか否かについては,後で経済利益と会計

利益との関係を取り扱う際に論じるとして,次

,に企業利益の会計学的概念に関する諸説をみて

みよう。

〔2〕

May (1943)によると,初期の段階における

アメリカの会計は,純財産の増加としての所得

の概念にもとづいていたようであるが(訳書35

頁,原書 P.28)17),以下では,特に重要な位置

15) Lee (197 4)は次のように述ペている。「エコノミストの利潤の本質についての見解はいく分異なっているが,主要な差異は実体の測定値としての概念ではなく,個人の測定値としての概念である。事実,エコノミストの一人であるフィッシャーは,実体l主人間でないので利潤をうることができない,と述ペた。しかしながら,フィツシャーの見解とは対照的に,幾人かのエコノミスト(アレキサンダ一等)は,企業実体にエコノミストの個人所

得の概念を適用している.(訳書8頁)」16)青柳(1968)は,フィッシャー,ヒックス,ナイト.ゴードン,ランパートン等の諸説を吟味された後,このように結論され,そして次のように続けられている.「しかし会計学においては,幸か不幸か,貨幣資本を出

発点として考察を進める以外に道はない。したがって,利益も貨幣所得として認識される。そのさい貨幣資本が資本財と労働に転化して,どちらか一方あるいは双方が利益の源泉となるか,さらに,不確実性とか情報が発生原因となるかは,あらかたの会計論議では無関係にすませる。J(296頁)

17) May (1943)によると,この純財産の鴻加としての所

得概念ば「資本的利得を所得とみなす最高裁判所の概念よりも範囲が広い。なぜならIi,それは資本の泊加を未実現のときでも所得として取扱うからである。しかしこの二つの概念泣いっしょに考察されうるのであわーっの説明で両者の相異が示されるであろう」として,次のように例示されている。会計利益を考察するうえで,基本的な問題であるので,参考迄に引用しておく。 「かりにある年度の初めに,ある械式が, 10パーセントの利益をあげかっ配当を支払い,その市場価格が「利益の十倍」という基礎の上に額面額100ドルに一致するとしよう.その年度の聞に変化した諸条件が11バ一セントの利益をあげかっ配当を支払うことを可能にし,この潟大は持続する見通しのものであるとする。もし,株式がその年度の終りにおいても,その年度の初めと同様な利廻りの基礎による市場価格であるとすれば,この妹式は,年度末にはたぶん 110f Iレで取引されるであろう.しかし.-

を占める会計学的見解として,ベドフォード

(1965),プリンス(1963),チェンパース(1973)

の利益概念をとりあげよう。それらは相互に密

接に関連し,また対立点を浮き彫りにするのに

好個の素材を提供すると思われるからである。

ベッドフォード(Bedford,1965)は, 利益

の本質に関して, 1.心理的利益(人聞の欲望の

充足を指す) 2.実質的利益(経済的な富の増加

を指す) 3.貨幣的利益(諸資源の貨幣的評価額

の増加を指す〕の三つの基本的な概念があると

する。そして

「もし心理的利益というものが,人間の欲望の

変化によって変化するならば,実質的利益の心理

的価値というものも同様に変化するであろう。こ

のような変化の結果として,財およびサーヴィス

の同一量の流入に対しても時代の違いや,文化の

違いによって異なった心理的価値をもつことにな

る。このことは実質的利益というものが,経済的

な価値として考えられようと,あるいはまた物的

な財およびサーヴィスとして考えられようと,真

実である。重要なことは,経済的な財およびサー

ヴィスというものは,人間のもつ数々の欲望のた

だ一つを表わすにすぎないものであり,もし仮に

経済的な価値よりも他の価値のほうがより一層重

要なものになりうるとするならば,どのように定

義しても,実質的利益の変化というものは,心理

的利益の変化を表わすものではない,ということ

である。心理的利益という観点から述べると,心

理的欲望の変化は実質的利益および経済的目標の

相対的な価値を変えうると考えられる。

さらに重要なことは,心理的欲望というものが

人によって異なるということを実質的利益という

考え方は無視していることであるつ(訳書28-29

頁, 原書P.21)…・・

貨幣的利益は財およびサーヴィスを獲得するー

般的な条件が「利益の11倍」という基礎による市場価格となるようにこの株式の利廻りを下げたと仮定すればーーそのときは,いま例にとっている株式は 121ドルで売買されることが期待されるであろう。ところで.もし「所得」が純財産における綱加として定義されるならぽ,1株についての株主の所得は, 32f Iレとなるであろう.その32ドルのうち.11ドルは当期の利得を示し, 10"'レは収益力の楢太による資本価値の増加分を示し,そして11 ドルは株式利廻り率の低落による資本価値の僧加分を示すのである.(訳書35-36頁,原書pp.28-29)J

-31 =

つの手段を表わしている。貨幣的利益は「実質的」

利益よりもより一層心理的利益から離れているの

で経済活動を動機づけるところの基本的利益概念

の近似値になりえない。貨幣的利益が「実質的」

利益の合理的な近似値とはなりえないほど物価が

激しく変動しているときは,「貨幣的」利益と「心

理的」利益の訴離が非常に大きくなり,「貨幣的」

利益は活動を動機づける力であるとし、う仮説は正

しくなくなる(訳書29頁,原書p.22)。」

と述べている。そしてフィッシャーの見解を引

用して「研究水準のいかんによっては,利益と

いうものは,心理的,実質的,あるいは貨幣的

利得および損失という三つの概念をすべて含む

(訳書30頁,原書 p.22)18)」とL、う見解を提示

している。ベッドフォードが,会計利益に先立

つ議論であっても,利益概念のなかに心理的利

益を含めていることは注目される。これは心理

的利益を含める次のプリンスの利益概念同様,

重要視されるべき利益概念と思われる。

プリンス(Prince,1963)は,利益概念は経

済的利益から社会的利益,心理的利益まで広範

に及ぶ〈訳書73-75頁参照〉と論述した後,

「要約すれば,利益概念と企業利益の理論的概

念とには相当な差異がある。利益は関連する三

つのレベル一一経済学,心理学,および社会学

一ーを包摂するのに対し,企業利益の理論的概

念は,ただひとつの関連レベル一一経済学的レ

ベルーーを念頭においているものである。測定

および伝達の諸方法の発展上の制限は,企業利

益の操作概念をして企業利益の理論的概念のな

かで考えられているすべてのものを完全に含め

18)ベドフォードは続けて次のように述べている。フィッシャーは,心理的利益,実質的利益,貨幣的利益という三つの概念が,次のような言い方で相互に調和するものとみている. 「これら三つの利益を使って計算された個人の利益は,理論的にまたときには実際的にもかなり異なったものになるかもしれないが,通常はきわめて似たものとなるであろう。われわれが多くの種類の利益を理解し.それら相互の関係を理解するかぎり,状況に応じて随意にそれらのどれか一つを利益と考えることができる。しかし.残りの二つのものがどのようなものであるかを少しも知らずにわれわれはそれらのどれか一つを理解することはできない。(Fisher,I. The Nature of Caρital and Income, 1906, pp.177-178)J(訳書30頁,

原書 p.22)

ることを許さないのである。(訳書82頁〉」と,

利益概念と企業利益の理論的概念との差異を指

摘している。

そしてこれらの問題との関連で,数多くの経

済学の文献を引照して,いわゆる利益最大化の

仮定に疑義を提起している。たとえば「企業は

最大可能な利益よりも‘健全な’ないしは‘適

正’あるいは‘控え目’な利益を望んでいる

(Abbott, L., Economics and Modern World,

1960, p. 137)」というアボットの指摘や,「利

益最大化という明白で単純な概念に内在する困

難のうちのいくつかは,理解できょう。主たる

困難さは,最大化されると仮定する量が実際に

は存在しないことなのである/ それを会計人

の想像の所産であると呼ぶのは冷酷であるが,

それは,確かに会計人の慣例のー産物である

(Boulding, K., The Skills of the Economist,

1958, p. 56)」というボールディングの見解を

引照している。さらにプリンスは,企業理論で

は企業家が自己の利益を最大にするように努力

するとし、う仮定に最近向けられているもっとも

重要な攻撃に関して,サイモンが 5つの点に要

約したものをとりあげているが,そのなかで次

の点は重要と思われる。

「企業家は貨幣的報酬とはかなり離れたあらゆ

る種類の’心理的利益’を企業から獲得できょう。

企業家は自己の効用を最大にしようとするなら,

ときには心理的利益の増加と利益の喪失とで平衡

を保たせるであろう。もし‘心理的利益’を容認

するならば利益最大化の基準は一切の明確性を失

う。(訳書130頁〉」19)

19)なおその他に,次の4点が挙げられている。①この理論は最大化されるものが,短期利益か長期利

益のいずれであれ暖昧のままである。@企業家は最大化には関心がないかもしれないが,満

足と見なしている収入を得たいとは単純に望むかもしれない。心理的利益概念の設弁ならびに上手な用い方によっては,満足できる収入を求める概念を効用の最大化と言い換えることもできょうが.操作的方法によっては言い換えることはできない。 「満足しうる利益」は熱望レベルの心理的観念に関しては最大化よりも深い意味をもっ概念であることがすぐにでもわかるであろう。③現代の諸条件のもとでは,企業の持分所有者と企業

の経営管理者とは分離しており,異なる人間集団であるために,経営管理者は利益最大化に動機づけられないか

-32ー

経済学と会計学

利益最大化の仮定は,ポールディング,サミ

ュエルソン等多くの経済学者によって疑問視さ

れているが,スティグラーは利益最大化を最も

重視しているといわれる問。そして次にみるチ

ェンパースは,このスティグラーの影響を強く

うけているところから,チェソパースの利益概

念は,ベドフォードやプリンスの利益概念と大

きく相違している。

チェンパース(Chambers,1973)は,富の概

念に関して, ミル,フィ yシャー,シャツクル

の定義を参照し,また利益の概念に関して,サ

イモンズ,ヒ y クス, リプセイ=スタイナーの

定義を参照したうえで(訳書193-194頁参照),

「これらの経済学者が,市場価格(現在の保有

者にとっての売却価格〉に照らしての富の発見,

および二つの時点、において,上述のようにして

測定された富に照らしての利益の発見を考えて

いることは明らかである(訳書194頁〉」として

いる。そして“財の現在原価放棄された代替

案 が意思決定のために現在時点において適合

性をもっ原価であることを明らかにした”とい

われるスティグラーに依拠して,次のように結

論づけている。「L、ずれかの資産を保有するこ

とによって放棄された代替案は,もちろんその

資産の現在の市場価格である。それゆえ事業上

の意思決定から,財務分析および財務上の意思

もしれないことはしばしば見られることである。④企業聞が不完全競争であるなら,どのような行動が

ひとつの企業にとって最適であるかは,その他の企業の行動いかんにかかっているので,最大化は暖昧なひとつの目標である.(訳書130-131頁)J

20)プリンスはこれについて次のように述ベている。 「ノ、ーリング,スミス両教授の結論が利益最大化の仮定と一致することは驚くに値しない。なぜならば,両教授の意思決定モデルは「効用が利益の噌加線型函数である」ことを要するからである。一方では,スティグラー教授は企業家の多目標を認める。だが同教授は「利益最大化が企業行動を統治するカのなかで,最も強く.最も普遍的で,最も不鏡不屈のものであるJと述べている。本節にいたるまでに提示した引用からすれば経済学の文献に見られる次の著者逮はスティグラー教授の結論に異議があるように見える。つまり,アボyト,アクレイ.ボー7

1レ,ポールディング,ディーン,ェドワーズ.サイモン,サミュウェルソン教授逮である。次に提示する実証的研究にはスティグラー教授の説に異議を唱えるであろう}Jljの論者の諸説をも含む.(訳書137ー138頁)」

決定に至るまでのあらゆる状況において,選択

と行動にとって市場価格が適切である。」(訳書,

195頁〉チェ γパースにとって,利益は市場価

格にもとづいて導き出されるものであり,心理

的利益は無視されることになる。

以上,利益の会計学的概念を心理的利益との

関連でみてきた。利益の経済学的概念が多種多

様であると前述したが,利益の会計学的概念も

種々様々である。たとえば青柳 (1974)は,利

益の会計学的概念を利益原因説(メイ,ベドフ

ォード〉と利益結果説(ギルマン, リトノレト

ン)21〕,それに利益代理説(ディパイン)22)の三

つに類型化されている。これは多分に会計の情

報提供機能と所得分配機能と関連する分類法と

思われる。それと共に前述した心理的利益によ

る類型化も考えられよう。すなわち,会計利益

に所得分配機能を含めるか否か,会計利益に心

理的利益を含めるか否か,そしてそれらの関係

を究明することにより会計利益の全体像が浮か

んでくるように思われる。これは経済利益と会

21)「利益原因説が目標利益を前提として公準を設定するのに対し,利益結果説はいかなる論拠にもとづいて公準を設定するのであろうか。ギルマンの場合,それは実践に深く恨づいたコンペンションであるからとしている。つまり,取得原価主義の会計笑践をそのまま承認し,これを正当化する理論の体裁となっている。リトルトンにしても,そうした理論の体質は変わらない。したがって,利益結果説l土原価主義会計が導く利益の性絡を立ち入って検対することはしない。それは費用と収益の対応によって結果した利益とみるだけである。利益原因説は利益を始発概念とするので,利益結果説にくらべれば.前提した概念をみつめる。しかし経済学ほどに立ち入った考察はない。(青柳(1974.182頁〕)J

22)青柳(1974)は, 「会計が貸借対照表や損益計算書に利益として計上するものは,企業が主たる目標とする利潤追求の成果を表示したものであろうか。それとも企業が多目標をなんらか妥協的に追求した結果を表現したものであろうか。後者とみるのが利益代理説である.それは会計上の利益を多目標の追求の包括的表現とみる.あたかも心理学が,さまざまの要因によって構成される人聞の心をバーソナリティーとして一括とらえる方式に似ている。バーソナリティーが人間の内面的実態に代わるサロゲートであるように,会計上の利益は企業の多目標追求の成果に代わるサロゲートである。(183頁)」と述べられた後,利益代理説によれば,利益結果説でなく利益原因説がさらに掘り下げられる必要があること,利益原因説が前提する利益のサロゲート的性格を究明すること等,会計理論が前提とする利益概念の再検討をうながしている。(185頁)

- 33ー

計利益との関連と絡んで根源的な問題である。

経済利益も会計利益も共に多種多様であるので,

利益の経済学的概念が会計利益に適用されるべ

きとL、う主張の意味あいは,極めて不明確と思

われる。それ故“はたして会計上の利益は経済

学が究明する利益と同じ概念でなければならな

いのか”と問われることになる。次節では経済

利益が会計利益に適用されるべきか否かという

問題をみてみよう。

〔3〕

経済利益と会計利益の関係をめぐる議論にお

いて,二つの利益がインフレ等の事情により現

実に軍離していることはよく知られている。そ

の場合,たとえば「利益算定に対する会計学的

アプローチと経済学的アプローチ聞の最大の相

違点は,インフレーション,保有利得,営業権

の価額増加, “発生する”その他の価値変動等

の影響を認識する経済学者の態度である。経涜

学者は,自己の資産を売却した時点で、はなく,

資産価値が増加した時点に人聞は“富裕とな

る”(betteroff)のであると主張している。か

かる意味での実現は,利益認識のテストという

より源泉による利益の分類を意味するのである。

利益に関する経済学的概念と会計学的概念との

比較は,主に会計学的概念の欠点と会計理論家

達が最近追求しようとしている発展の主要過程

を示唆するのに役立つのである。」(Chatfield,

〔1974,訳書336頁,原書P.262〕〉という指摘

にみられるように,経済利益から会計利益が事

離していることが問題視され,会計利益は経済

利益に合致するようにしなければならないとい

う主張が,会計分野の文献においても根強く受

け入れられているように思われる。たとえば会

計利益と経済利益に関して“不確実性が会計利

益と経済利益を調和させなくする(AICPA

〔1973,1974,訳書25-26頁〕〉”といわれる時

も確実であれば会計上の利益と経済上の利益

が一致するとみられている。このような見方は,

経済学的な影響を強くうけて,経済利益に会計

利益を一致させるべきことを当然視している。

これに対して,経済的利益と会計的利益とは本

質的に異なるのであり,両者の一致を試みるこ

とは不可能であるという見方がある。このよう

な見方は,利益の経済学的概念が,会計利益に

適用されることを拒絶する。

Shwayder (1967)は,「ヒックスによって与

えられた所得の定義は……ヒ?クス自身がその

実行不可能性を指摘しているにもかかわらず,

会計及び経済の文献で,暗黙かっ明示的に,そ

して,それほど疑問視されることなく,広く採

用されてきた(Goldberg,L., An Inquiry into

the Nature of Accounting, AAA, 1965, p.

247)」というゴールドバーグの見解に注目して

ヒックスの所得概念に疑問を提する( p. 23)。

そして,「経済利益は会計利益の測定プロセス

に関する有用なモデルで、はないというのが本稿

の仮説である。……エコノミストの方法と知見

に頼るアカウンタントは,経済学と会計学との

聞の徴妙な差異が両分野聞の表面的な類似性に

よっておおし、隠されることのないようにしなけ

ればならない。( p. 35)」と,経済利益と会計

利益の本質的差異を強調している。

Chang (1962)は,会計利益と経済利益との

数多くの差異は,(1)企業の予測の変化のために,

利益認識の規準としての発生対実現の問題,(2)

期待の変化のために,期待されない利得の包含

もしくは排除の問題,(3)物価水準の変化のため

に,実物利益対貨幣利益の問題,という 3つの

基本的論点、に狭められるとしたうえで,次のよ

うに述べている。

「経済利益は評価によって測定される。すなわ

ち正味財産の価値の増加があれば,ただちに認識

されよう。すなわちそれは富の発生にもとづく。

それは期待や判断に大きく依存する。かくして期

待における変化によってひきおこされた予期され

ない利得は利益として含められるべきかどうかと

いう問題が生じる。それは効用としての利益の基

本的な考えから導き出される。従ってたいてい実

物タームで考察される。

会計的利益は対応によって測定される。それは

客観性を強調し,期待に依存しない。かくして予

期されない利得は利益として含められるべきでは

← 34ー

経済学と会計学

ないかどうかという問題は存在しえない。それは

実物タームではなく基本的に貨幣タームで考察さ

れる。

企業の見込みが正常である世界では,期待は変

化せず,物価水準は一定で,会計利益は経済利益

と合致する傾向があろう。時の経過につれてすべ

てが変化し,何ものも不変ではない世界ではこれ

ら3つの基本的な問題が我々を悩ましつづけるで

あろう。従って会計利益と経済利益は決して一致

することはないであろう。(Chang〔1962, p.

臼4〕〉。」

この結論は重要と思われる。会計利益は経済

利益とは決して一致することはないのであるか

ら,短絡に会計利益を経済利益に一致させるべ

きとしろ主張は批判されて然るべきと思われる。

そこで種々の試みがみられるが23〕,基本的な問

題は,次のように識別される。すなわち,経済

利益と会計利益とは決して一致することはない

としても,両者の軍離を狭めるよう調整すべき

と考えるか,それとも経済利益と会計利益とは

本来的に異なるのであるから,調整する必要は

無いと考えるか,大きく二つの立場に分岐する。

前者の代表例がェドワーズ=ベルの見解であり,

後者の代表例が前述のポールディングの見解で

あると思われる。そして,微妙なニュアンスで

あるが,この両極の中間地帯に入る種々の見解

があるように思われる。ボールディングの会計

儀式説については前述したので,ここではエド

ワーズ=ベルの主張をみてみよう。

23)たとえば(S岨 pens,1978)は economicprofit とeconomic incomeの相違を示して,前者の概念を会計の議論に導入することを試みている.すなわち彼は「利益に関する会計と経済の相互関係は,とりわけRevsine(1970), Sywayder (1967), Solomons (1961)によって研究されてきた。 H ・H ・本稿では会計学の議論の中で,明らかに無視されてきた経済的概念すなわちミクロ経済理論で伝統的に用いられてきたような利潤の概念を考察する。その意味での利潤(profit)は,ある特殊な場合を除けば,経済上の利益(income)と同じではない。経済利潤は,すべてのレリバントなコストが,それらのシャドウ・プライス(或いはオポチュニティーコスト)によって測定される各期の生産活動のコストに対する便益の超過額として定義される。(p.必8)」とし.「本稿の目的は経済利潤の概念を導入して会計の議論において果たしうる役割を探ることであった0 (p. 462)J と述べている.

ーエドワーズ=ベノレ(Edwards=Bell,1961)の

問題意識は次にみられる。

「利益測定の問題を特に錯綜させてきた原因の

一つは,次のようなものである。すなわち,経済

学者は,未来の諸事象に関する期待値から導かれ

るまったく主観的な概念をもちこむのに対し,会

計学者の方は,客観性を主張し,実際の〈不幸な

ことに,しばしば,歴史的な〉事象の測定を主張

してきた。両者の観点の聞にこのように明瞭な障

壁があるため,多くの人は,両者の調整は不可能

だとあきらめてきたし,それがまた二つの学問の

聞のギャップを大きなものにしてきたのである。

けれども,両者は,その視界が,一方は未来を向

き,他方は過去を向いているという違いがあるの

を徐けば,あい関連する問題を取り扱い,また,

同種の資料に依存することが多い。両者の観点

は,それぞれ固有の問題に役立つことが立証され

てきたのだから,両者を調整することが,同時に,

経済学者の主観的な行き方と,会計学者の客観的

事象の重視との,どちらかを破棄するようなもの

であってはならない。われわれは,主としてこの

ような目標に向って,理論を築こうと努めてい

る。(訳書E頁,原書 Prefaceviii)」

そしてエドワーズ=ベルは,経済利益と会計利

益との調整を行うにあたって,現行の会計実務

を次のように批判する。

「要するに,現行の会計実務は,生産要素と生

産物のいずれについても,その価格,数量および

品質が長期にわたって不変な場合にのみ,換言す

れば,一般物価水準が安定し(第一の仮定〉,個々

の価絡が安定し(第二の仮定),未来のことが確実

にわかる〈第三の仮定〉場合にのみ,完全に信湿

性のあるものになるわけである。しかしながら,

それは明らかに定常状態を仮定するのと同じであ

る。定常状態のもとでは,定義により,不確実さ

に耐える報酬としての利潤の存在そのものがなく

なってしまう。会計が暗黙のうちに設けている仮

定は,みずから測定しようとしたもの(利潤〉が

存在しないと仮定することになってしまうのであ

る。(訳書7頁,原書P.9)J

このような会計批判は,ジョーンズによる物

価水準の変動による誤差の調査研究の結果,過

去の企業経営において「配当が純利益を超過し

- 35ー

ていたことが明らかになったJことを引照して

(訳書10-11頁参照〉, 「これらの食い違いが重

大なものであることは誰も否定しないであろう。

経営者が実際に意思決定をする場合に,十分に

報告資料の欠点を認識していたかどうかは,議

論の余地があるが,上の研究の対象会社の経営

者たちが,それと知りながら実質資本の食いつ

ぶしをやっていたとは考えられない。まして,

企業の外部者,投資家,労働組合,その他の者

が,物価水準の変動の影響を十分に認識してい

たとL、うことは,もっとありえないことである。

〈訳書11頁,原書 p.13)」と述べる時,一層強

力なものとなってくる。経済利益と会計利益と

の軍離が,実質的に純利益を超える配当を行う

等,経営者の意思決定に重大な影響を及ぼして

いることを知ると,(そしてそれがひいては国

家的なレベルで、の資源配分に影響を及ぼすこと

も考えると〉,経済利益と会計利益を調整すべ

きとし、う主張はかなりの説得力を帯びてくるよ

うにも思われる。やはり経済利益と会計利益は

調整すべきなのか,それともボールディングの

ように調整すべきでないとみるべきなのだろう

か。そこで次に会計利益と心理的利益の関連と

からめてこの根源的な問題に近づいてみたし、。

〔4〕

経済利益と会計利益は本来的に相違すること

をみてきた。会計利益は経済利益よりも法的な

利益概念と近接するように思われる。たとえば

AIA (1952)の企業所得委員会の報告書は次の

ように述べている。

「法律と会計とにおいては,企業所得は一般に

実現利得すなわち実現収益から得られた利得であ

るということに意見の一致をみている。何が実現

であり,また一般理念に対していかなる例外〈あ

りとすれば〉が認められるべきであるかというこ

とは達成の問題として考えることができる。経済

学者は会計的な見解に同意しないかもしれない。

会計人は,価値の添加にしたがって収益が漸次発

生するものとみることの方が理論的には優れてい

るとする経済学者の見解には同意しても,それが

実践上殆んど達成することができないものである

ことから,かかる見解を排斥するであろう。(訳

書170頁,原書 pp.103 104)」

法学の分野でフリードマン(Friedman,1977)

は, “利益のカタログ”という見出しの下で,

直接的利益,間接的利益等について説述した後,

「‘利益’は認知である。利益は意見や推測であ

って,現実の客観的な状態ではない(訳書140

頁)」と指摘している24)。会計利益はまさにこ

のような利益と思われる。青柳 (1962)も「利

益はいつ,どのようにして発生するかの知覚は

ひとえに経済学的認識の問題である。しかし利

益の発生をいつ,どのような段階でシンボライ

ズするかは法的裁定にまかされてきた問題であ

る。税法や慣習がその裁定を与えてきたのであ

る。(68頁)」とみている。

経済利益と会計利益のこのような相違は経済

学と会計学の次のような相違につながる。「経

済学は,利益の発生源泉と関連して,利益は生

産要素のどれに帰属するかとし、う利益の帰属関

係を究明する。会計学は,利益の理論的な帰属

関係よりも制度的な帰属関係に主眼をおし、て,

配当可能利益とか諜税所得といった企業がそれ

に報告の責任を負っている人や機関に対する利

24)利益の認知に関するフリードマンの以下の叙述は,会計原則制定活動でも一脈通じるところであろう。 「利益の認知;土,もちろんたえず変化する。改良家たちは触媒にすぎない。彼らは,伝導し説教し訓戒する。法または準則がいったん効力を持つとなると,新しい状況が生ずるのである。実際の効果は,人々 が考えるよりも良いこともあり悪いこともある。都市の再開発を支持する商人たちは,物価の上昇や商売の落ち込みに出会い,彼らはその恐ろしさから,自分たちの家庭や仕事が,ブルドーザーがならす道にのせられていることを知る。彼らは,こんどはにわかに,計画の痛烈な反対者になる。反対の経過をとることもあり得る。計画が自分たちに不快感や危害をもたらすと考えて,その計画に反対し,手段をつくして戦う集団がある。彼らがたとえ負けたとしても.空が落ちてくるようなことはない。スエーデンは車の運転を左側通行から右側通行に変えた。国民投票において投票者の80パーセント以上が変更に反対した。変更が実行されるや,人々 はそれに順応し,反対は消えてしまった。合衆国では,車出哉された医師たちによって,老人に医療を提供する計画であるメディケア(medicare)に対するはげしい抵抗があった。メディケアが法律になったとき,医者たちは,その保険に順応する術一一それから富を得ることさえを学び彼らの態度は和らげられたのである。(訳書142頁)」なお石井(1984)では,病院会計に関してメディケアに言及している。

← 36ー

経済学と会計学

益の測定方法を研究する。 (青柳〔1974,173

頁〕〉」この指摘は重要と思われる。すなわち経

済学は生産要素への観念的な分配を行うのに対

して,会計学は生産要素を所有する人(或いは

人々〉に対する現実的な分配を行う点で決定的

に相違することを示唆するからである。経済学

における利益では人間の利害の相克を汲みとれ

ないが,会計学の対象となる利益は政治的判断

の所産であり,それ故,経済学よりも政治学,

心理学と密接に関連する25)。要するに会計利益

の本質について,次のことを理解することが基

本的な出発点となる。

「利益にせよ,資産Iこせよ,それが経済学でな

く会計学の概念である限りは,ある対象を会計と

いう言語によって認識する面と,それを政治的に

表現する面との複合が概念を形成する。会計言語

によって表現されなければ,つまり,損益計算書

や貸借対照表に表示されなければ,たとえ認識さ

れていても,会計上の利益や資産とはならない。

静態論者がみるように,資産なるがゆえに貸借対

照表に計上されるのでなく,動態論者がみるよう

に,費用なるがゆえに損益計算書に計上されるの

でなく,所得分配の結果,損益計算書に計上され

たがゆえに費用とみられ,収入分配の結果,貸借

対照表に計上されたがゆえに資産とみられる。こ

の事理をわきまえなければ,刺益の本質,資産の

本質はとらえられない。 (青柳 (1968,343-344

頁〕)」

このように「会計上の利益は会計の言語機能

によって利益とされる」とみれば,「利益は物

理的概念というより心理的概念といわざるを得

ない」とし、う見方に行きつく 26)。これはベドフ

25)ちなみに青柳(1968)は次のように述ベられている。「会計上の利益がかかる政治的判断の所産であるならば,利益情報がその本来の機能である経営成績の伝達機能を果たせなくなるのは当然である.それゆえ,バyターのような利益無用論が出現するのも意外ではない.だが所得理論l土,いぜん利益を重視する.それは,従来のように利益の単一数値を重視するのでなく.他の分配項目との関連において,いいかえれば,利益を所得分配の一項目,しかも残余項目として,その経済的意義よりも,政治的,心理的意義を重視する.伝来の会許学は,経済学.法律学.統計学の隣接領域に注目したが,会計言語説は,言語の機能的制空よりして,むしろ,政治学,心理学の隣接関係をおもんずる.(343頁)J

ォードやプリンスの利益概念をとりあげた際に

提起した問題一会計利益の概念に心理的利益を

含むとみるべきか否かとL、う問題ーに密接に係

わる。そして前述したように利益最大化の基準

が疑問視されていることと,心理的利益を含む

こととは相互に関連するように思われる。利益

の社会心理的な意味を強調される青柳町は,や

はり利潤最大化の原理に疑問を投げかけられて

いる28)。心理的利益と利潤追求並びに利益最大

化の関連も今後間われるべき重要な問題となろ

う29)。

26)「結論をいえば,会計上の利益は会計の言語機能によって利益とされるものである.したがって,本質は利益の客体よりも主体の側にある。会計言語の機能も語用論が基礎となるからである。つまり,人間的次元が先行する。利益は物理的悦念というより心理的紙念といわざるをえない。それだけに理解が容易でない。“要するに.利益に関する会計情報は不完全な人間によって支えられ

た不完全な測定体系の結果を表わしている。それは価値ある情報であるけれども,誤用されやすい.それを最も誤用しがちな人といえば,不完全な情報しか持ち合わせない経済学や金融論の学者や実務家である。”会計学者や会計実務家といえども,正しい理解と正しい利用にいたるには,いまいちど,会計上の利益の本体をみつめる必要がある。会計言語説にもとづく所得理論;ま,そのさいの一つの見方を提供している。(青柳(1968,345頁])」

27)「おなじことは会計という言語についてもいえる。今期の利益いくらという損益計算書における言語表現には,利益という経済的な指示対象のほかに,利益平準化

政策によって外部戸l害の心理操誕をはかろうとする社会心理均な意味がある。日本の“ネコ”が英米の“白t”と指示対象はおなじでもモーレスの語意にはニュアンスの相違があると同様.他国にくらべて平準化政策をとくに強力に推し進める日本の会社の利益は,たんに経済的な視野だけで研究されうるものではない.(青柳〔1962,

33頁})」28)「利潤最大化が現実の企業行動をそのままに説明できる原理であるためには,少なくとも,利益の限界効率は一定でなければならない。いいかえれIf',利益が土問大するにつれて,より多くの利益を獲得しようとする意欲が

減退してはならない。これは,はたして現実の姿であろうか。利益がかなりの水準で達成されるとき,利潤追求欲は減退して,他の目標を追求することになりはしないか。現に,手lj潤追求欲はなくならなくとも,その最大化をめざすかわりに他の目標を追求する姿はいくたの事例において見い出すことができる.利潤追求と利i間最大化とは, )JI)の次元の目標ではなくとも.いちおう区別して考える必要がある。(青柳 (1966.68頁〕)」

29)企業利益に心理的利益を含めることは.利益最大化のみならず,利益管理を基軸とする従来の管理会計の限界を示唆するであろう。また筆者{主,企業の利潤追求と心理的利益との間には,次のような関係があるのではないかと考えている。すなわち,縦軸に経済均利益を機軸に

-37ー

これ迄利益の経済学的見解,利益の会計学的

見解,経済学的な利益概念の会計利益への適用

の是非,経済利益と会計利益との関連,会計利

益と心理的利益,さらに心理的利益と利潤追求,

利益最大化の原理との関連等の諸問題をみてき

た。本稿では会計利益と経済利益をめぐる様々

の議論を取り上げることにより,問題点を浮彫

りにすることを意図している。後節ではこれら

の諸問題がどのような相互関係にあるのかその

整理の糸口をみつけることを試みたい。それに

先立つて,経済利益と会計利益以外の「経済と

会計」をめぐる関連領域についてみておこう。

Ill 「経済と会計」の関連領域

「経済と会計」は会計学において基礎的な問

題領域であり,以下に述べる種々の問題並びに

それらの複合的な問題に関連する。換言すれば,

以下に述べる諸問題を論じる際には, 「経済と

会計」の根源的な問題に立ち返る必要があると

いうことである。「経済と会計」の中心的な議

論は,前節でみた経済利益と会計利益である。

本節ではそれ以外の諸問題を列挙して,「経済

と会計」をめぐる問題の拡がりをみてみよう。

第1に経済利益と会計利益の対立と直接関連

するものとして,次のような問題が挙げられる。

まず利益概念と密接に係わるものとして,たと

えば「経済学者は社会の観点から,会計人は個

々の企業の観点から富を考察する。そこで富は

①経済的な意味と②会計的な意味で解釈される

といえよう(Salliers,〔1941,p. 296〕〉。」とい

われるように,富,所得等の概念と関連する。

次に利益概念と利益認識のレベルで,実現基準

や貨幣価値一定公準等の問題と関連する。たと

えば,アレキサンダーは「当惑させる程の利益

概念が考えだされているが,それらの基本的な

差異は,①実物利益対貨幣利益の測定,②資本

利得を含むか排除するか,③損益認識のタイミ

ングとしての発生主義対実現主義の3つの主要

な論点に狭められうる(Alexander,p. 84)」と

述べており,チャ y トフィールドは実現法則の

問題点に関して,種々の見解をとりあげると共

に,ソロモンズに拠って実現と利益測定を取り

あげている。その他,「会計における貨幣の本

質と機能はなにか。それが会計学における最初

にして最後の課題ではなかろうか町」という計

算貨幣対会計貨幣の問題にも関連しよう。

第2に,経済学と会計学の交差領域として,

社会会計もしくはマクロ会計の問題に関連する。

これに関して,プレイ,ユー,マテシ yチの所

論が,わが国でも紹介されていることは前述し

た31)。 Correa(1977)のように,「会計学,特に

ミクロ会計学は,経済理論と一層統合されるべ

きである(p. 216)」という主張もみられる32)。

社会的・心理的利益をとる,利益の座標軸において,個

々の企業毎にある満足する一定レベルの利潤を得る迄は

経済的利益を追求して高い勾配を描くが.その満足する

利益に達すると.今度l土社会的・心理的利益を重視し

て,低い勾配を描く,いわば屈折利益曲線が考えられる

のではないかということである。

30)それに関して青柳(1976)は次のように述べている.

「ケインズ理論は,コンペンジョンの理論といわれるほ

ど,貨幣の保有動機にもとづ〈流樹生選好をはじめとし

て,消費性向,貯蓄性向,利子率など,コンベンショナ

ルな経済要因が果たす役割を追究する。それにつけて.

さきほどは計算貨幣が会計貨幣になると即断したが,流

通経済における計算貨幣のコンペンショナルな性格と会

計コンベシションによって規律される会計貨幣のコンペ

ンショナルな性格とはおなじでない。したがって,会計

貨幣のマネー・イリュージョンも同日に論ずることはで

きない.会許処理と報告のありかたが所得の生産と分配

にどのような影響をおよlますか,すでに研究の萌芽はあ

るが,これから本格的に究明されなければならない。そ

のさい,貨幣理論は会許理論と直結しないまでも,背後

では会計貨幣の理論を支えるはずである。(93-94頁)J31)たとえば能勢は,社会会計と企業会計の交渉を次のよ

うに整理している.「(1)会計的所得概念と経済学的所得概念との比較対照

を行う試み。(2)社会会計の取引評価原則を企業会許に導

入し.また社会会計と同型的な勘定システムを作成する

プレイの提唱。(3)会計公理論を究明しかっ企業会計にお

いて行列簿記を用いまた目的に応じた会計モデルの設計等を実施することを提唱するマテシッチの試み。(4)投入

産出モデルを企業の計画モデルにとり入れるリチャーズの試論0 (5)会計教育の一貫としての社会会計の利用の提

言.(合崎=能勢(1971.2-3頁〕)」32)本書(Co汀 ea,1977)に関しては, Enthovenによる

書評がみられる。 「経済学者であり数学者でもある著者の手になる本書の目的は,斉合的な統合された単位とし

て,ミクロ会計とマクロ会計を提示することである.

Coロeaは,マクロ会計もしくは経済会計の論理的に首

尾一貫した基礎を得るためには,マクロの計算書(ace-

aunts)が経済におけるミクロの計算書を集計し結合することによって作成される必要があるとみている. (Ent-

-38ー

経済学と会計学

ヒッグスは経済解剖学と経済生理学の対比で,

社会会計学を前者,価値理論を後者と考えてい

る。

「経済体系についてひとびとが問おうとする最

も重要な疑問は,一一ーもし,かくかくのことがな

されるとしたならば,その起こりうる帰結はどん

なものであろうかーーというような型の疑問が多

い。さて,このような疑問はいずれも,社会会計

学の知識のみからは正しく答えられないのであ

る。人体の解剖知識のみから,手術を行なう効果

を予測しえないと同様に,経済体系がし、かに動く

かという知識をもたないでは経済的改革のもたら

す効果を予見することはできなし、。したがって,

研究者が社会会計学の基礎理論を完全に把握した

ならば,彼は,その核心が価値の理論である経済

学の「生理学的」側面に進まなければならない。

経済体系が動くところの機構は価格体系である。

価格の根本原理は価値理論の研究対象である。

(Hicks〔訳書293頁,原書 p.226〕〕」

ここでヒ y クスは簿記技術を会計と考えてお

り,それを適用するヒックスのいう社会会計学

は,会計学ではなくて経済学と思われる33)。

会計学としての社会会計に関しては,特に次

のリノウズ(Linowes, 1968)の見解が注目さ

れる。「企業の分野を超える会計の領域は,時

には“社会会計(socialaccounting)'’と言及

されてきた。それは“国民所得会計(national

income accounting)'’“政府会計( governmen-

ta! acconuting)'’そして“マクロ会計( macro-

accounting)'’とし、う用語によって意味される

hoven (1978, p. 553〕)J

33) rそこで,経済学の発達史にてらしての筆者の見方によれば,ヒックスの命名になる社会会計は.国民経済現象の整理と把握に企業の世界でそだった会計という言語形式を援用したものとみている。いぜん学Ii~の対象は古

典派時代とおなじ経済現象であって会計現象ではない。ただ,経済現象を捕捉整理する形式が日常言語や数学言語でなく,新たに会計言誇をくわえたというにすぎない.……さきほど筆者が会計経済学とよんだわけは,従来の経済学が認識手段のほうを頭につけて数理経済学あるいは計量経済学とよんだのにならい,おなじく認識手段の一つである会計という言語形式を頭に形容詞として冠したにすぎない。これで社会会計は会百十学でなく経済学であることが判然とし,ここにいう“会計”は学問の対象でなく手段であることが容易に理解されるはずである.いうまでもなく, “会言十”が学問の対象となったとき,会計学は成立する。(青柳〔1962.31ー32頁})」

活動を包含する。筆者は本稿で議論される会計

機能を指示するために“社会一経済会計(socio-

economic accounting)'’という用語を用いる。

社会ー経済会計は,ここでは,社会学,政治学,

経済学等の社会科学の領域に会計を適用するこ

とを意味すべく意図されている。(p.37)」この

ようにリノウズの社会ー経済会計の概念のなか

には,企業を超えたもの,すなわち政府会計等

が含まれているところがユニークである。これ

に類似した見方として,モプレイ(Mobley,

1970)は,このリノウズの社会一経済会計の定

義を引用した後,次のように述べている。「社

会経済会計という用語は,本稿では最広義で用

レられる。それは政府や企業家の行動の社会的

・経済的影響を順序づけ,測定し,分析するこ

とに言及する。そのように定義されると,社会

経済会計は現在の会計を包含し,拡大するもの

とみられる。伝統的会計は,その関心を一一財

務的・管理的・国家的のいずれであれ,利益の

領域で一一特定の経済的影響に限定してきた。

社会経済会計は,これらの領域のそれぞれを,

経済的効果だけでなく,現在考慮、されていない

社会的影響を含むよう拡大する。(p.762)」さ

らにユー(Yu, 1978)は,これらリノウズとモ

プレイを引用して,社会経済学としての会計は

新しい観点であり,最も広い会計の定義である

と指摘している34)。 Costouros=Seventer(1979)

は「社会一経済会計」と題する章の中で,「社

会一経済会計の将来は,急速に変化している社

34)すなわちユー(Yu,1978)は,“社会経済学としての会計”という見出しの下で,次のように述ベている.「社会経済学としての会計一これは新しい観点である.

事実,社会経済会汁は非常に新しいものであるから,その性質および範囲に関してどのようなものであるのか,まったくわかっていない。 DavidLinowesは,社会経

済会計を“社会科学の分野における会計の応用である。それには社会学,政治学,および経済学が含まれる”と規定している。 SybilC. Mobley の主張によれば,社会経済会計は“官庁および企業の行動の社会的および経済的結果を整理,測定.分析することに関連している・…。経済的結果に限定した尺度では全体システムの因果関係の評価として不適切である。なぜなら,それは社会的影響を無視しているからである。”これらの引用から.社会経済会計の展望はすでにわれわれが知っている会計のどの定義よりもはるかに広いことがわかる. (訳書38-39頁,原書 pp.54-55)」

-39ー

会状況に反応する会計人の能力にもっぱら依存

する(p.189)」として,今日の会計問題は社会

的コンテクストを含むべきというセイドラーの

見解が,それを最もうまく言いあてていると指

摘している均。このように社会経済会計は「経

済と会計」の隣接領域に対する有効なアプロー

チとして,政治的・経済的・社会的なコシテグ

ストを含む観点、で担えることが必要と思われる。

このようなアプローチは,次にみる経済的影響

の問題にも密接に関連すると思われる。

第3に「会計と経済」の関連領域として会計

及び会計原則の経済的影響さらに国家の経済政

策や経済発展と会計との関連等の諸問題がある。

経済的影響の問題は,経済的現実の問題とも絡

んで,インフレ会計,外貨換算会計, リース会

計等の諸問題とも密接に関連するが故に重要な

問題領域である。これは周知のように今日,ア

メリカにおいて活発に議論されている問題であ

り,このテーマに関する文献は枚挙にいとまが

ない問。ここではなかでも異色なものをてみて

35)セイドラーは次のように述べている. 「今日の会計問

題は,会計だけを含んでいるのではない。それは問題へ

の‘解決’が会計の考察からのみ引き出されるべきでは

ないことにつながる。分別のある会計理論もしくは批判

へのロジカルな反応と思われるものが,会計人のコント

ロールをはるかに超える次元と意味あいを持つ,急速に

変化する社会的状況のより広範なコンテクストの中で検

討されねばならない。我々の職業の地位を保持し改善す

るために,我々は,目下進展しつつある社会的な変革

(revolution)に関連して,自らの位置を理解し適切に対

処することに努めなければならない.それは容易なことではないであろう。(Seidler(1973, p. 43))」

36)たとえば経済的影響及び経済的現実に関するものとし

て,次の文献が挙げられよう.• Burton, J. C.,“Paper Schuffling and Economic

Reality”, The journal of Accountancy, January 1973, pp. 20--26, 28.

• Swieringa, R. J.,“Consequences of Financial Accounting Standards", The Accounting Forum, May 1976, pp. 25-39.

• Brooks, Jr., L. J.,“Accounting Policies Should Reflect Economic RealityヘCAMagazine, No・vember 1976, pp. 39-43.

・Wyatt, A.,“The Economic Impact of Financial Aα:ounting Standardsヘ(Statementsin Quotes), The Journal of Accountancy, October 1977, pp. 92-9.

・Zeff; S. A., •・'Intermediate' and ・Advanced'Ace-ounting: The Role of 'Economic Consequences’ヘ(Editorial), The Accounting Review, October

みよう。たとえば, Selto=Newmann(1981).は,

「これ迄の“経済的影響”の文献のほとんどは

証券市場価格の影響に焦点をあてていた。これ

らの影響は重要ではあるが,経済的影響を構成

する一部分にすぎない(P. 317)」として,“会

計情報の経済的影響の交差分類表”により経済

的影響の広範なレベルを提示している(P. 32

参照〉。また経済的影響と企業会計とマグロ会

計との関係を取り扱った Friedlob(1983)の視

点も異色であることを付言しておく。「1980年

代に会計の文献はますます政治的趣きを帯びる

だろう(Williams=Findlay ID〔1980,p.133〕〉」

といわれるように,ここで経済的影響の問題を

取り扱う際には,前述したように,政治的・社

会的文脈にも視野を拡げる必要があることを再

度強調しておきたい。

このような経済的影響の問題は,その視野を

拡げることにより,前述したようにパグスター

(Baxter, 1969)の論文“会計が景気循環ヘ貢

献する”に関連する。すなわち,それは,伝統

的な財務報告書の歴史的原価データに含められ

るミスリーディングな情報が,投資レベルに関

して景気循環を過大にみせかけるのにいかに役

立ちうるかということを論証したのである。国

家の経済政策と会計に関しては, ミューラー

(Muller, 1967),並ぴにミューラ一等を取りあ

げて別の角度から国家の経済政策と会計の協調

を考察したBenedick(1978)がみられる。さら

に経済発展と会計に関するエンソーベン(En-

thoven, A. J. H., Accountancy and Economic

Develoρment, 1973)も関連しよう。本書の目

的は,「経済発展のプロセスにおいて,会計の

意義,機能は何か,会計はいかにして経済成長,

経済発展をより効果的に高められるか,我々は,

会計が重要な力であり,より有効な会計システ

ム・方法・実践が社会ー経済的プログラムを刺

激することを実証せんと試みる」という諸問題

1980, pp. 658--63. • Holthausen, R. W. and R. W. Leftwich,“The Economic Consequences of Accounting Choice, “journal of Accounting and Economics, 5, 1983, pp. 77-117.

-40ー

経済学と会計学

に答えることであると紹介されている(Barrett

〔1974,p. 885〕〉。ローズ等(Roseet al, 1982)

は, “現在の実践に欠けている重要な要素はマ

クロ経済的変動の影響であろう(p.20)'’とみ

て,「これ迄の多くの研究は,企業の失敗は,

管理者の能力といった個々の企業に特有の要因

に関連づけられていることを示唆した。本研究

は,経済的諸条件が企業の失敗に影響を及ぼし,

(失敗のプロセスに非常に重要な役割を果たす

という〉ジョンソン (Johnson, 1970)の主張

を支持する証拠を提供する(p.31)」 ことを試

みている。これは経営管理と会計と経済との交

差領域に関する極めてユニークな研究として注

目される。今後,経営管理及び管理会計も射程

に入れて「経済と会計」の関連に取り組まねば

なるまい。

第4に,「経済と会計」の問題は管理会計と

関連することをみてみよう。「経済と会計」は,

財務会計,管理会計を間わず会計学の基礎的考

察に不可欠のテーマであり,それ故いずれの分

野の問題にも密接に係わる。管理会計と経済学

に関しては,たとえば「管理会計は経済学の概

念,とくに微視的経済学からかなりの恩恵を受

けている。費用と収益に関する理論,限界分析,

予測,能率概念および図表による表示などは経

済学から発展した概念のほんの一例にすぎない。

それがさらに発展する可能性は非常に大きい。

(Pattillo〔1965, 訳書 19頁〕〉」等としばしば

指摘されている。そして,利益決定と管理会計

や経営管理の関連もよく取り上げられる問題領

域である37)。しかしながら,前述したように,

37)たとえばベドフォード(Bedford,1965)は次のように

述べている。 「われわれは,経営の効率をいろいろなや

P方で測定する。経営のよしあしを測定する一つの方法

は.将来の利益と過去の利益との関の関係を明らかにす

るものであるが,「事前に」決定された利益と「事後に」

決定された利益とを比較することである。両者の差異は.

「事前」利益決定(予算.予測,収益性の研究)の不正

確さ,非効率的な経営,あるいは「事後の」利益決定

(損益計算書)の不正確さ,のいずれかを示すものであ

る。経営管理のプロセスを評定するための手段としての

企業利益の役割;主,軽視されるべきではない。計画に従

って労働者が作業を行うよう監督することとともに,不

確実性と危険とに立向かっていくことは,経営者の重要

会計利益に心理的利益を含むと考えると,利益

最大化の原則が後退し,従来の管理会計におけ

る利益管理のアプローチは,重大な岐路に立つ

ことになる。すなわち,現在の管理会計論にお

いては,①従来の利益管理のアプローチでは心

理的利益をコントロールできないので,それを

管理会計の限界として認め,心理的利益の問題

に立ち入ることを差し控えるか,それとも,②

現在の管理会計における諸問題には,この心理

的利益の問題が強く投影しており,これら諸問

題を解決するためには心理的利益の問題を射程

に入れることは不可避とみて,従来の管理会計

そのものの変革を推し進めるか,いずれの道を

とるか選択を迫られていると思われる。筆者に

は管理会計が有効であるためには後者の道をと

らざるをえないと思われるが,それは種々の困

難な問題を抱えていることも確かである。たと

えば心理的利益を含めることにより企業利益と

いう抽象的な利益から,誰にとっての利益かと

いう問題,すなわち所有者にとっての利益か管

理者にとっての利益か,債権者もしくは金融機

関にとっての利益か,それともそれらによって

形成される経営主体の利益か等,各企業それぞ

れの状況によって異なるであろうが,現実には

少なくとも経営支配者にとっての利益という視

点、から分析する必要があろう。心理的利益は人

の観念の所産であるので,企業そのものは利益

をもたない。企業にとっての利益ではなく,経

営支配者にとっての利益であることを立論の基

礎にすえなければ,企業利益の中立性を追認す

る理論を構築することになる。企業利益という

概念を放棄して,経営支配者利益という概念で

分析する方が,より現実を直視する理論を展開

できると思われてならない。それはともかく会

計利益に心理的利益を含めることは,従来の管

理会計を根底から揺さぶるような諸問題を提起

するといえよう。なお管理会計と係わるものと

な責任である。こういった問題の解決の成否は,稼得さ

れた利益額または利益率に反映される。それゆえ.利益

決定のきわめて重要な役割は,経営の全般的な効率ある

~いは非効率を明らかにすることにある. (訳書22頁, DJ(書pp.16-17)L

- 41ー

して他に前述したジョーンズ (Jones,1949)の

調査研究にみられるように,伝統的な会計数値

がインフレのため経営者の意思決定を誤導する

という問題(Edwards=Bell〔1961,訳書10-11

頁,原書 pp.12-13参照〉,人的資源会計の問

題(Boulding〔1955,pp. 274-275参照〕〉等々

があることを指摘しておこう。

以上,「経済と会計」の関連領域として,実

現基準や貨幣価値一定の公準,社会会計もしく

は,社会ー経済会計,経済的影響及び経済発展,

心理的利益と管理会計の限界等の諸問題をみて

きた。これらの他にも「経済と会計」の問題は,

会計教育38),情報の経済学均等,数多くの問題

と関連する40)。これらの諸問題ならびにそれら

の複合領域を考察するためには,「経済と会計」

そして「経済学と会計学」,さらには「会計と

会計学」の関係を明確に認識しておかねばなら

ない。次節ではそれを明らかにすることを試み

る。

lV 経済/経済学と会計/会計学

〔1〕

38)たとえば Powelson(1955)が「社会会計の教育を提

供する会計部門は,経済学や教養科目のなかで会計学の理解を促すためになすべき多くのことがある(p.659)」と述A,マテシッチが「Smith(1952), Devine (1952),

Solomons (1955)等は, 大学の低学年の課程で会計学

と経済学の専攻を統合せよという興味ある主張をしている(Mattessich[1956, p. 563)) Jと指摘している問題等

が関連してこよう。39)たとえば情報の経済学に関するものとして Grandall

(1969)等があるが, AAAのステートメントは“情報

の経済学”について,次のように指摘している.「‘情報経済学’(informationeconomics)として知られる研究

領減では.情報を慣習的な経済財として扱い,その取得は経済的な選択の問題となる.すなわち,情報という生

産物は.こうした問題の公式化の過程のなかに内在化される.これまでの経済理論の適用は,情報以外の財貨の

原価及び価格と関係があったE同じようにこの接近法は情報の原価及び価格と関係する0 (AAA (1977,訳書49

頁,原書 p.21))」

40)その他.たとえば取替原価による利益と経済利益との対応に関する Revsine(1970),.古典派と新古典派の経済

理論と会計の関連をと Pあげた Tinker(19鈎).それに

エコノミストと監査人に関する興味深いものとして,

Welsch (1978)等が挙げられよう.

経済利益と会計利益等, 「経済と会計」をめ

ぐる種々の問題が存在することを明らかにした。

そこでの議論は,対象としての「経済と会計」

と学問分野としての「経済学と会計学」を峻別

していないことが主たる原因となって混乱に陥

っているように見受けられる。これに関して青

柳 (1962)は,「会計学の対象は何か。きわめ

て簡単な理窟であって,会計学の対象は“会計”

である。さらにいえば,会計という言語現象で

ある。こんなことをいまさらいうのもどうかと

おもうが,いわなければならないのが学問の現

状である。会計学の対象は会計という一種の言

語,それは言語学の対象が言語であるのと同様

の関係である(32頁〉」と指摘されている。経

済学と会計学の対象は同じとして,会計と会計

学を混同している議論が数多い。たとえばマテ

シッチは「会計学と経済学は同じ認識対象を持

っている。両分野とも国家経済全体だけでなく

個々の経済部門を研究する。これらの研究の中

心は稀少資源の管理と所得高及び生産高の決定

である(Mattessich〔1956,p.551〕〕。」と述べ,

バッティロ(Pattillo,1965)はこのマテシyチ

の見解を引用して,「マテシ yチは会計学およ

び経済学が同ーの知識の対象をもち,両者は個

々の単位および一国の経済全体を検討するもの

であることを指摘した。さらに両者は稀少な資

源の管理と利益の決定とを研究している。要す

るに,富すなわちその存在と変化とが会計学と

経済学の学聞の焦点である(訳書 16頁)」と述

べている。その他, “会計学と経済学”という

小見出しの下で「実際,経済学と会計学の双方

の研究の主題は,人聞の経済活動という同じも

のである。前者はそれらを抽象的に研究し,後

者はそれらを記録して,その後それを処理し報

告することに還元する(p.32)」と述べる Kul-

shrestha (1973)の見解等が挙げられよう。こ

のような学問と学問の対象との混同は会計研究

分野に限ったことではない。すなわち経済研究

分野においても同様の事態に陥っていることは

次の指摘から窺える。

「そこで以上述べたことをより明確に表示する

-42-

経済学と会計学

E: Economy (経済的行為および経済体系〕S : Society (社会的行為および社会体系)

図 1・1 対象としての経済と社会

E : Economics(経済学的な認識原理と整序原理〉S:おciology(社会学的な認識原理と整序原理)

図 1・2 ディシプリンとしての経済学と社会学

ために,図 1・1および図 1・2を用意してみた。こ

こでの経済社会学の定義の核心は, 〈対象世界〉

と〈ディシプリン〉とを明確に区別するというこ

とからはじまる。この区別が不明確であったとい

うただそのことのために,これまで経済学と社会

学との関係の問題についてどれほど多くの無意味

な議論の交錯が重ねられてきたかを考えるなら

ば,この区別の重要性は強調されてしかるべきで

ある。経済学の研究対象は経済〈経済的行為およ

び経済体系〉であり,これにたいして社会学の研

究対象は社会(社会的行為および社会体系〉であ

る。社会は,行為としてもシステムとしても経済

の上位概念であって,社会は経済を包撰するく図

I・1).しかしこのことは,ディシプリンとしての

社会学がディシプリンとしての経済学の上位概念

であるということを,いささかも意味しない。社

会学には社会学に固有の概念用具および理論枠組

があり,経済学には経済学に固有の概念用具およ

び理論枠組がある。つまり認識原理および整序原

理として両者は独立なのである。ただこの両者は

後述するように,ディシプリンとして相似的な面

と非相似的な面をともにもっていると考えられる

ので,相互にまったく独立な二つの円としてより

も部分的に重なる二つの円として表示するのが適

当であろう(図 1・2) (福永=富永〔1974,8 9

頁〕〕。」

経済/経済学と社会/社会学の関係において,

経済学の対象は経済的行為もしくは経済システ

ムであり,社会学の対象は社会的行為もしくは

社会システムであること,そして対象としての

「経済と社会」と学問分野としての「経済学と

社会学」のそれぞれの関係(図1•l, 図1 ・ 2)を

理解することが,「経済と社会」並びに「経済学

と社会学」を考察するに際して基本的な了解事

項でなければならないということである。同様

に,経済/経済学と会計/会計学の関係におい

て,経済学の対象は経済的行為もしくは経済シ

ステムであり,会計学の対象は会計的行為もし

くは会計システムであること,そして対象とし

ての「経済と会計」と学問分野としての「経済

学と会計学」を峻別しなければならないと論じ

られる。そして「経済と会計」の関係,「経済

学と会計学」の関係,さらに「経済と会計」と

「経済学と会計学」との関係が明らかにされね

ばならない。経済と社会に関しては図 1・1,経

済学と社会学に関しては図 1・2で表示されてい

るが,経済と会計,経済学と会計学はこれらと

どのように関連するのかも含めて問題としよう。

会計学の対象は会計的行為もしくは会計シス

テムであるところから会計学と経済学の関係は

経済学と社会学の関係に似て,第1図で表示さ

れよう。しかしながら,経済と会計の関係は経

済と社会の関係と相違する。すなわち,会計学

の対象としての会計は一種の言語行為であり,

会計自体が対象を表現する行為と言え,その会

計の対象は経済活動であるところから,経済と

会計は第2図で表示される。経済と社会は図1・1で2次元で表示されているが,会計の対象は経

済であるところから,会計と経済との関係だけ

で2次元を有し,会計は社会的行為でもあると

ころから,会計と経済と社会の関係を表示する

ためには少なくとも 3次元空間で考えねばなら

ないといえる。

次に「経済と経済学」と「会計と会計学」と

の関係をみてみよう。先の第 1図と第2図を重

ねて第3図を導出する。第3図は,経済を対象

として会計が存立し,会計を対象として会計学

-43ー

第1図ディシプリンとしての経済学と会計学

第2図対象としての経済と会計と社会の関係

社会

会計

経済

第3国経済/経済学と会計/会計学の関係

社会(対象)

会 計

(対象)

経済

が存立すると共に,経済を対象として経済学が

存立するという関係を実線の矢印で示している。

これは極めて単斑な図式化であることを断って

おかねばならない。会計を単に経済的現実を反

映する表現行為とみれば,実線の矢印だけで表

示されるが,オースティンに依拠して会計を発

語内行為とみれば,言語行為としての会計行為

はまた同時に経済行為でもあるという認識に導

かれる。これは破線の矢印で示した関係である。

すなわち実線の矢印は会計の受動的側面を,破

線の矢印は,会計の能動的側面を表示しているc

発語内行為としての会計は所得分配に係わる経

済行為でもあるという会計の能動的側面をも規

野に入れれば,会計と経済との緊密な関係を理

解することが容易になる。すなわち,会計は経

済的現実を対象として表現行為を行なうが,そ

の表現行為自体が経済行為として経済の中に溶

け込むことになる。そしてその会計の溶け込ん

だ経済を,経済学は学問の対象にするので,経

済学分野は会計に対する認識が必須となる。こ

こでは,このような問題が存在することを指

摘するにとどめ,これ以上立ち入ることは差し

控える。本節の目的は,経済を対象とする経済

学と会計を対象とする会計学という,学問の対

象の相違を認識することに主隈があるからであ

る。

(2〕

経済学と会計学との学問の対象が相違するこ

とを知れば,会計学は経済学の一分野であると

いう見方は排斥されるべきと思われる。この問

題に関して,たとえばユー(Yu,1978)は‘経済

学の一分野としての会計’という見出しの下で,

「広い意味において,会計は,長年にわたって

一部の会計人から経済学の一分野,あるいはむし

ろ応用経済学の一分野と見なされてきた。この考

えに基づいて,会計は経済学をその上位の研究分

野と見なさなければならないといわれてきた。も

ちろん,これが妥当な観点かどうかは検討の余地

があるけれども,会計と経済学とが密接な関係に

あることはおそらく否定できない。第 1に,多数

の基本的会計概念は経済学の概念に由来してい

る。第2に,企業の理論と会計的企業モテツレ〈お

おざっぱにいえば,会計実体〉との関係,またミ

クロ会計とマクロ会計との関係は,多くの関連文

献によって明らかなように,会計人および経済人

の双方によって繰り返し説明されてきた。しか

し,密接な関係にあるとしても,会計は経済学の

一分野と見なされるのだろうか,という問題がま

だ残っている。(訳書35頁,原書 pp.48-49)」

-44ー

経済学と会計学

と述べ,会計学を経済学の一分野とみることに

疑問の余地を残している。会計学を経済学の一

分野とみることにキャニングもメイも批判的で

あることを,ギノレマンは次のように指摘してい

る。会計学は経済学から派生したとし、うのが普

通の考えであるが,キャニング(Canning,

1929〕はそれらが独自の起源を有しているとし

て次のように述べている。「その学問上の起源

が異なるのみでなく,最初から両者は重要な差

異がある利害問題を持っていたのである。常に

一方の学問領域が他方の学問領域を包含してい

るとみなすことはできないし,また一方が他方

の派生物だともいえない。」この見解に呼応し

て,メイは,「一般的に言えば,会計学的思考

と経済学的思考がパラレルな関係にある場合に

は,両者が企業実践にパラレルな関係にあるが

故にそうなるのである(May,〔1936,p. 406〕)」

と述べている(Gilman〔1939, 訳書 23-24頁

参照〕〉。

マテシッチは(Mattessich,1956)は,「会計

学も経済学も共により包括的な‘経済科学’の

一分野として考察されねばならない(p.552)。

……会計学を現実の土壌に根づく母なる木とし,

経済学を数学と哲学に向かつて育つ父なる木と

して,相互に歩み寄ることにより,両分野は基

本的に改善されうる(p.553)」と述べ,会計学

と経済学を‘経済科学’で統合しうるという見

解を提示している。一方,ボールディングは,

「私見では,意思決定プロセスの観点から,情

報収集,処理の適切な理論を未だだれも展開し

ていないようである。この理論が展開されれば,

我々は会計学と経済学の双方が,より大きな科

学,より大きなプロセスの中に吸収されて,共

に消滅するかもしれない(Boulding〔1977,p.

95〕〉」と述べ,会計学と経済学の情報システム

論的統合の可能性を示唆している。筆者は会計

学は経済学よりも言語学に近接し,会計学と経

済学は異系の学問分野に位置づけられるとみる

ので,マテシッチやボールディングのように会

計学と経済学の統合が(‘経済科学’であれ,情

報システム論的統合であれ〉果して可能か極め

て疑問に思われる。会計学と経済学の統合の問

題はさておき,ここでボールディングとマテシ

ッチの会計観に触れておこう。

ボールディング(1977)とマテシ vチ (1956,

1964)は,ある意味で‘相容れない’(unconge-

nial)会計観を持っているように思われるつマ

テシッチがアカウンティングを犠式か学聞かと

述べる時には,会計と会計学を峻別していない。

一方ボールディングがアカウンティングを儀式

とみなす時には,会計のレベルを指している。

そして会計学のレベルで、は経済学を含めて情報

システム論的統合の可能性を示唆しているとこ

ろから,ボールディングは会計と会計学を暗黙

にではあるが区別してレるようにもみられる。

会計と会計学を峻別していないのは,マテシッ

チに限らず多くの会計文献にみられる。たとえ

ば,井尻(1984)が「科学の一分野としての会

計と,政治のー用具としての会計との区別を強

調することが大事と思われる(p.109)」と述べ

る時も,前者は会計学を,後者は会計を指して

し、る。会計と会計学の両概念を区別して使用し

ないと無用な対立を持ち込み,いたずらに議論

を混乱させることになる。そしてそれが斯学の

実状と思われる。このような観点からみれば,

多くの経済学者の中で卓越した会計観を持つボ

ールディングの会計儀式説は,マテシッチより

も会計の本質を突いていると思われる。マテシ

yチは会計学をみて,会計を視ていないのでは

ないか。会計を対象とする議論が会計学であり,

会計学を対象とする議論はメタ会計学すなわち

会計学方法論(さらに科学論〉である。マテシ

ッチの主たる関心は会計を視る会計学にあらず,

会計学をみるメタ会計学にあるように思われる。

(マテシッチはこのレベルの議論ではたとえば

会計学の後進性を指摘して隣接科学から会計学

への援護を強調したり41),科学論に関して注目

45ー

41)マテ、ンッチ(Mattessich,1964)は,「会計の現状は,いってみれば,その実務・理論・教育のすべての分野に

おいて,不満足なものである。少なくとも多くの専門家

はそのようにみている。会計学の後進性は,関連する学

問領域から,痛烈に批判されているところであり,読者

諸氏も現在の経済学や経営科学(managementscience)

すべき指摘をしている42)。〉マテシッチは会計

学を凝視するあまり(そこからあるべき会計に

ついての見解を持つかもしれないが〉,現実の

会計を直視していない。もし彼が会計と会計学

を般別して,現実の会計を直視していれば,ア

カウンティングは‘儀式か科学か’という問題

の立て方はできないはずである。重要なことは

会計を犠式とみても,その儀式を科学的に説明

することができるのであり,二つの次元を混同

してはならないということである。現実の会計

は確かに儀式的色彩が濃い。しかしそういう会

計を科学的に説明するのが学としての会計学の

課題であるはずである。会計が儀式であること

と会計学が最式であることとは別次元の問題で

ある。現実の会計は儀式であらざるを得ないと

思われるが,学としての会計学が儀式であるべ

き理由は何もない。学問の対象が犠式であって

も学聞が儀式であってはならないのは学理で

ある。これは会計を政治的とみても,その政治

的な会計を科学的に説明するのが学としての会

の文献を一読されれば,これらの非難のいくつかが,単

なる学問相互聞のあつれきを超えた,重要性をもってい

ることに気付かれることであろう。(訳書7頁,原書 p.

4)」と指摘したうえで, 「これらの課題は,本質的には

経済学,経営科学といった関連学問領域からする,理論

的な援護射撃がなければ達成不可能であろう。とにかく,

このように視野を拡大することこそが.記号論理学や経

営科学あるいは EDPなどが示しえた,過去10年間の飛

躍的展開にかんがみて,焦眉の急と思われるのである。(訳書7-8頁,原書 p.5)」と述べている。

42)たとえばマテシッチ(Mattess ich, 1956)の次の指摘

は,筆者のいう‘知の枠組’や学問の‘相互浸透’と関

連するように思われる。 「我々は,我々自身の論理と必

要に応じて,人間の知識を区分けすることができる。し

かしながらある場合に,この知識は何十年いや何百年も

前に作られた“箱” (boxes)のなかにしまわれたまま

でいる。そして今,これらの箱が陳腐化していたれ狭

すぎたれもしくは区分けの仕方が望ましくないとわか

れば,我々は勇気を持ってそれらを投げ捨て,新しいcorn par伽 ientを創り出さねばならない。かくして我々

は,知識の構成を基本的に改善することができる。 (p.

563)J「我々はパイオニア的な仕事を必要としている。と

いうのは,経済科学に関して,我々は反対の側からやっ

てきた2つの道が,その間に横たわる深い1峡谷(gorge)

のためにf;・き止まりになっている地点に到達しているか

らである。我々が,一方の道の行き止まりから他方の道に橋をかけることができなければ,学問の探究者(wan-derer)だけでなく実務家も,かれらの目標に到達するの

に遠くて困難なまわP道をしなければならないであろう.(p. 564) J

計学であるとL、う見方と同根である43)。要する

に会計学とし、う学聞の対象としての会計が儀式

的もしくは政治的であらざるを得ないとしても,

学としての会計学は,儀式的もしくは政治的で

あることなく科学的でなければならないという

ことを再度強調しておきたい。

会計と会計学を区別すること,そして現実の

会計は儀式的もしくは政治的であらざるを得な

いことをみてきた。これは会計学にとって結論

ではなく出発点にすぎない。ボールディングの

ように会計を儀式とみたて,会計とはそういう

もので事足れりとするのであれば,現状の追認

に終わり,変革への芽は生じない。学としての

会計学は,儀式的もしくは政治的な性格を持つ

現実の会計を直視して,それを始発点としてこ

そ,あるべき会計をめざすことができる。

筆者がポールディングの会計観を支持する理

由は会計の犠式的性格を指摘したことだけでは

ない。ポールディングは“会計人が現実に求め

ているのは正しい答えではなく十分な答えであ

る”と述べてレるが,これはオースティンに依

拠する発語内行為としての会計観とも脈通する。

すなわち,会計の表現は“真実か否かではなく

て適切か否か”と展開して読み換えることがで

きるからである。ボールディングがどこ迄意図

していたかわからないが,いずれにしても,現

実の会計を直視していることは確かである。我

々は現実の会計の容認にとどまることなく,あ

るべき会計への架橋として現実の会計を絶えず

問題視する必要がある。この問題に立入るため

にも,そしてこれ迄述べてきた「経済と会計」

をめぐる種々の議論を整理するためにも,次に

43)筆者(石井, 1977)は,“会計理論にも政治的側面を取

り入れねばならない。……経験科学としての会計学は,

現実の会計実践の説明を主眼とするという認識に立てば

緩めて当然の事である(30頁)”と述ペ,~のように指摘した。「このことはく純粋に論理的または経験的な認識

と,評価する他i値判断とを,異質的な問題領域として,原理上,分離すること(マックス・ウェーバー,木本訳

『社会学・経済学の価値自由の意味』日本評論社, 1972

年' 41頁)〉というマックス・ウェーパーの有名な定式とは対立しない。経験的な事象そのものが政治的なので

あって,その経験的事象を認識する際に価値判断を加味

するのではないからである。(37頁)」

- 46ー

経済学と会計学

付論をおき,会計利益を記号とみる利益記号論

の視座で,錯綜した議論を整理するための糸口

を探るべく試みよう。

付論利益記号論

ここでは付論としてこれ迄の議論を踏まえて,

利益記号論の射程を素描してみよう。ポーネマ

ン44〕は, “制度は一群の社会的な用法を記述す

る言葉のシンボルである”というハミルトンの

見解を引証して,「この意味で,利潤システム

は制度と考えられる。……‘会計’という用語

の下に包摂される知識の体系は利潤を計算する

慣習的な行動と総括される(Bornemann〔1943,

P. 321〕)」と述べ,ハミルトンに拠って制度を

シンボルとみると共に利潤を制度とみることか

ら(pp,321-323参照〉, 会計利潤をシンボル

と考えているようにもみられる。そして,青柳

(1966)は,はじめて利益記号論と題して「会

計上の利益は数値として記号化された利益であ

る。したがって経済学は利益の実体を対象とす

るのに対して,会計学は利益の記号を直接の対

象としなければならない。記号を介して実体に

迫るのが,われわれの職分である(72頁〉」と

指摘すると共に,「要は利益の本質究明にあた

って,利益をまず記号とみることから立論すべ

きことを説いたまでである。そして記号はつね

に目標によって左右されることを忘れてはなら

ないのであるく73頁〉」と論じている。青柳

(1968)は,「当面,会計言語説にもとづいて,

会計上の利益を構文論,意味論,語用論の三つ

の次元に分解して,しかるのち語用論を中心に

利益の理論を展開してみよう(298頁)」として,

利益記号論の展開を試みられている(青柳〔1968,

297-312頁参照〕)45)。そして測定原理との関連

44)ポーネマン(Bomem世田, 1943)に関しては,合崎

(1957)による紹介がある.第6章「制度としての会計

利益-A.ポーネマンの所説を中心としてーJ(10与一111頁)がそれであるが,本書(合崎.1957)は,経済学と

会計学との交差領域に関するわが国における先駆的な著作であり,ポーネマンの他にもグェプレン,ベロクピ,

プレイ等の諸説を紹介されている。

45)そこでは語用論を重視する次のような指摘がみられ

に論及され,客観性あるいは取得原価主義は語

用論の視軸,時価主義は意味論の視軸と論じら

れる46)。さらに「利益の測定原理は,それが財

務会計目的の測定である限り,利益の分配可能

性を慮外におくことはできない。この問題には

二つの面が関係している。一つは分配可能利益

の資金的うらづけ,他は資本維持との関連であ

る。利益の測定原理は,この両側面をなんらか

考慮しなくてはならない。(青柳〔1968.322-

323頁〕〉」と指摘されている。会計は所得分配

に関する経済的な行為とし、う認識に立てば,こ

のように語用論を重視することになり,それは

取得原価主義の根拠でもあろう。以下ではこの

ような利益記号論を基礎にして,会計利益に関

する諸説の相互関連を探ってみよう。

利益を記号とみる利益記号論において,まず

利益の 3つの次元を識別することが基礎となる。

すなわち「記号としての利益」と人〈送り手と

受け手〉の関係での語用論的利益,「記号とし

ての利益」とその指示対象との関係での意味論

的利益,「記号としての利益」と他の記号(資

産・負債・収益・費用等〉との関係での構文論

的利益の 3つのレベルの利益が理念的に存在す

る。ここで注意しなければならないのは,意味

る。 「利益数値に限らず,一般に会計数値は認知的象徴

作用と表現的象徴作用の分極傾向を示す。前者は“物”

への配慮,後者は“人”への配慮に立つ象徴作用であ

り.概して,管理会計は前者.財務会計は後者の作用が

濃厚である。管理会許においても,モチベーションのた

めの会計情報は表現的象徴作用をいとなみ,しかも事物

の認識に立脚する各種の計画数値も,やがて動機づけの

統制数値へと転化していくので,表現的象徴作用は認知

的象徴作用を遡及的に規律する関係がみてとれる。言葉

をかえれば,諮用論が意味論を規制して,資料の利用が

資料の作成を律するのである。(青柳〔1968. 309-310

頁〕)」

46)「ひとくちにいって,客観性あるいは客観的証拠能力

が原価主義のレゾン・デートルである。客観性とは,パ

yターのいう“社会的同意の意味での客観性”であり,マテシッチが“法律的意味での客観的”とよぶ資質であ

る.つまり,それは会計数値をめぐる人びとの利害の裁

定基準であれ語用論の視軸である.時価主義が経済の

理に徹しようとする意味論を基礎とするのに対して,原

価主義は対人関係の語用論を基礎にするといって差し支

えなかろう。そして実践は語用論が意味論を超克する形勢において発達した。今後,時価主義が実践に浸透する

ためには,意味論的長所だけでなく語用論的長所をも証明していかなければならない.(青柳(1968.322頁〕)」

-47ー

論的利益を厳密に「記号としての利益」とその

指示観念との関係(以下「観念としての利益」

と呼ぶ〉と「記号としての利益」とその指示対

象との関係(以下「対象としての利益」と呼ぶ〉

の二つに区分して考察することが極めて重要な

意味を持つということである。すなわち「経済

利益と会計利益」に関する諸説を踏まえれば,

経済的利益概念は,ここでいう「観念としての

利益」を主として考察しており,会計的利益概

念は「記号としての利益」を考察しているから

である。経済的利益概念では,利益が観念であ

るとか人間に帰属するとか,論理的なものでな

く心理的なものである等と論じられたことを想

起されたい。経済的な利益概念は,各自の抱く

利益の観念を意味するのであり,それ故経済的

な利益概念は,人によって心理的なものを含め

たり含めなかったり多様にわかれることになり,

「観念としての利益」は特定できない。しかし

ながらそれは利益記号論における意味論的利益

のレベルに位置づけられる。経済的利益が「観

念としての利益」であるのに対して,会計的利

益は「記号としての利益」の位置を占める。会

計的利益概念に関して種々の見解がみられたが,

これらは利益記号論において,語用論的利益,

意味論的利益,構文論的利益の 3つの利益のレ

ベルのうち,いずれかに位置づけられる。会計

的利益概念は経済的利益概念に比して多様に分

岐する理由がここに存する。ここで諸々の会計

的利益概念をテンタティプに3つの利益の次元

に位置づけてみよう。ポールディングの会計儀

式説にみられる会計利益は,語用論的利益の典

型であろう。意味論的利益に関しては前述した

ように「観念としての利益」と「対象としての

利益」に分類して考察する必要がある。「観念

としての利益」は主として経済学的利益概念に

係わるが,この中でも心理的利益を含めるか否

か等で異なる立場がみられる。心理的利益を含

むプリンスは語用論的利益の色も滞びてくるの

に対し,専ら経済利益のみに関心を持つチェン

パースは意味論的利益が色濃く投影される。

「対象としての利益」は,経済的現実を会計は

反映すべしとする FASBの基本的な見方, ま

た経済的現実と会計との調整を試みるエドワー

ズ=ベル等もここに位置づけられよう。構文論

的利益に関しては, リトルトン,ギルマン等の

他,バッター,ソロモンズも位置づけられよう。

このような位置づけは粗雑であるとのそしりは

免れないし,また3つの利益の次元のそれぞれ

において,相対立する見解が位置づけられてい

ることは奇異な感を与えるかも知れない。しか

しこの位置づけは,利益の意味に関して,主と

してどのレベルで・議論してし、るかを提示してい

るのであって,それぞれのレベルで、見解が異な

るのは至極当然といわねばならない。無論筆者

はこのような位置づけに固執するものではなく,

議論のたたき台として提示したまでである。

利益記号論的アプローチは,いずれの利益概

念であるべきかとし、う議論を提出するものでは

ない。現実の会計利益を直視することから始発

して,種々の利益概念が現実の会計利益のいず

れの側面に関するものであるのか,また諸々の

利益概念の相互関係を明らかにすることを基本

的な課題とする。たとえば構文論的利益のレベ

ルだけの議論は,利益の語用論的意味を考慮し

ない,もしくは所得分配に踏みこめない,一面

的な利益観といわなばならない。また意味論的

利益のレベルでの多くの議論は,語用論的利益

を射程に入れなければ,現実を説明しえない単

なる規範理論に陥いる危険が潜む。ボールディ

ングの会計儀式説のように,語用論的利益のレ

ベルだけの議論で、は,現状肯定を余儀なくされ,

変革の芽は期待できない。要するに,現実の会

計利益は語用論的利益,意味論的利益,構文論

的利益の 3つのレベルがあわさって形づくられ

ているので,これらのレベルのいずれかだけで

なく, 3つのレベルを射程に入れて議論しなけ

ればならないということである。その際,現実

の利益決定では,構文論的利益よりも意味論的

刺益が,意味論的利益よりも語用論的利益が重

視されていることを認識しなければならない。

それ故,何よりもまず語用論的利益の立ち入っ

た分析が試みられなければなるまい47)。そして

-48ー

経済学と会計学

語用論的利益に左右される現実の利益決定が,

L、かなる所得分配をもたらしているのか,その

現実を直視することが,学としての会計学の基

本的な課題であると思われる。

(付記〉

本稿は「経済と言語の媒介としての会計Jと

いう研究テーマの前編に相当する。後編では,

新しい経済学の視点,記号論と言語論,会計と

言語,経済と言語等の諸問題を取り扱うが,こ

れに関しては別稿を予定している。当初「利益

記号論」は後編で取り扱う予定であったが,分

割するに際して本稿の付論とした。会計学と隣

接科学に関して,本稿では伝統的なアプローチ

をとったが,別稿では‘会計学から隣接科学へ’

というチャレンジングなアプローチを試みるこ

とを付言しておく。

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益法経営支配者にとっての利益と恩われる。筆者には,

企業flj益という概念!土,利益の仮装と思われる.企業利

益の実体;土“経営支配者利益”とでも命名すべきもので

ある。話用論的利益を問題にするにあたっては,利害を

持つ個々人を背後においやる企業利益という枇念ではな

く, “経営支配を利益”のような概念にもとづいて立論

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