22
シャルル・ジィドと「政治経済学」の制度化 はじめに フランスにおける政治経済学 1)「楽観主義派」としての主流派経済学 2)「楽観主義派」の諸制度 政治経済学教育の「制度化」 1)法科ファキュルテと大学改革 2)法科での「政治経済学」と経済学者 a)「正統派」経済学者による介入 bC. ジィドと法科における「政治経済学」 経済学者と協同組合 1)「正統派」経済学者の協同組合観 2)「知識人と大学教員による協同組合宣言」 結語 経済学は,時代状況に応じて,その内部から,あるいはその外部からさまざまな批判 にさらされてきた。諸科学と同様に,先行学説に対する批判を通して,経済学が進歩を 遂げてきたのは明らかであるが,経済学の内部からだけでなく,「陰鬱なる科学」(カー ライル)や「血も涙もない学問」(フローベール)など,外部からの批判的な眼差しが 向けられてきたこともよく知られた事実である。ところで,2000 年のフランスにおい て,経済学に対して,教育を受ける学生の側から批判の声があがり,署名運動が展開さ れる中,文部大臣がそれを受け専門家に依頼して報告書を作成する事態に至ったこと は,一部を除いてはほとんど知られていないかもしれない。学生の側からする,既存の 学問に対する異議申し立ては歴史的な先行事例は存在するとはいえ,ことその批判の対 象が経済学に向けられたという点において特筆されるものがあると考えられる。そこで の批判の要旨は,①空想的な世界からの離脱,②数学の無制限な活用の禁止,③複数の 経済理論によるアプローチであり,現実離れした主流派経済学への批判が含意されてい 1 る。このような批判に対して,シンパシーを示す経済学者も現れる一方で,当然正統派 の経済学者からの反論も引き起こした。ここにおいて問題とされたのは,新古典派経済 学の方法論という次元にはとどまらず,社会の中における経済学の意義という点に関わ ──────────── フランスにおける高等教育における経済学批判の経過については井上(2006)を参照せよ。 460 754

シャルル・ジィドと「政治経済学」の制度化 · 経済学者によって,経済学が先行して存在する学問と関連付けられ,その優位性が主張

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Page 1: シャルル・ジィドと「政治経済学」の制度化 · 経済学者によって,経済学が先行して存在する学問と関連付けられ,その優位性が主張

シャルル・ジィドと「政治経済学」の制度化

稲 井 誠

はじめにⅠ フランスにおける政治経済学(1)「楽観主義派」としての主流派経済学(2)「楽観主義派」の諸制度Ⅱ 政治経済学教育の「制度化」(1)法科ファキュルテと大学改革(2)法科での「政治経済学」と経済学者(a)「正統派」経済学者による介入(b)C. ジィドと法科における「政治経済学」

Ⅲ 経済学者と協同組合(1)「正統派」経済学者の協同組合観(2)「知識人と大学教員による協同組合宣言」結語

は じ め に

経済学は,時代状況に応じて,その内部から,あるいはその外部からさまざまな批判

にさらされてきた。諸科学と同様に,先行学説に対する批判を通して,経済学が進歩を

遂げてきたのは明らかであるが,経済学の内部からだけでなく,「陰鬱なる科学」(カー

ライル)や「血も涙もない学問」(フローベール)など,外部からの批判的な眼差しが

向けられてきたこともよく知られた事実である。ところで,2000年のフランスにおい

て,経済学に対して,教育を受ける学生の側から批判の声があがり,署名運動が展開さ

れる中,文部大臣がそれを受け専門家に依頼して報告書を作成する事態に至ったこと

は,一部を除いてはほとんど知られていないかもしれない。学生の側からする,既存の

学問に対する異議申し立ては歴史的な先行事例は存在するとはいえ,ことその批判の対

象が経済学に向けられたという点において特筆されるものがあると考えられる。そこで

の批判の要旨は,①空想的な世界からの離脱,②数学の無制限な活用の禁止,③複数の

経済理論によるアプローチであり,現実離れした主流派経済学への批判が含意されてい1

る。このような批判に対して,シンパシーを示す経済学者も現れる一方で,当然正統派

の経済学者からの反論も引き起こした。ここにおいて問題とされたのは,新古典派経済

学の方法論という次元にはとどまらず,社会の中における経済学の意義という点に関わ────────────1 フランスにおける高等教育における経済学批判の経過については井上(2006)を参照せよ。

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Page 2: シャルル・ジィドと「政治経済学」の制度化 · 経済学者によって,経済学が先行して存在する学問と関連付けられ,その優位性が主張

るものと考えられる。このような社会と経済学の関係を理解するためには,単に理論が

彫琢され,形成された過程をたどるだけでは不十分であり,いかなる理念および有用性

の主張のもと経済学が社会の中で信任を取り付けて行くことで制度化されてきたのかを

振り返る必要があると考えられる。

経済学の「制度化」を巡っては,かつて佐和隆光は,科学史家である広重徹の「制度

化」の議論によりながら,米国と日本での経済学の「制度化」の概観を提示した。経済

学は,「社会的に容認された組織体であり,それを維持する物質的基礎が社会に備わっ

ており,それを専門的にになう職業集団が存在しているという意味で一つの制度」であ

り,経済学が制度化するのは,1950年代のアメリカであるとされ2

る。そこでは,職業

集団のエコノミストと同時に彼らの学会,学術誌,大学院システム,標準教科書などが

「制度化」との関連で論じられる。それ以前には,「制度」としての経済学は「かりそめ

にも存在しなかった」とされ3

る。

広重は,科学の制度化を 19世紀に見ているのだ4

が,このような科学の制度化と並行

して,経済学者も自らの科学を制度化しようとした試みは,19世紀のフランスに認め

ることはできる。それは,当然にも,1950年代の制度化されたアメリカの経済学と比

べれば,そこに投下された人的および物的資源の規模やそれによって生み出された成果

の観点から見れば大きな差があることは明らかであるが,彼らは,職業集団を組織し,

学会誌や一般向けの雑誌を創刊し,初等教育から高等教育に及ぶ教育改革に積極的にコ

ミットを通して,自らの学問の社会的上昇を図ろうとし5

た。このような過程において,

経済学者によって,経済学が先行して存在する学問と関連付けられ,その優位性が主張

されることになるが,そこにおいて経済学という科学の内容とともにその理念や有効性

が表出されることになる。本稿では,そのような経済学の「制度化」をめぐる場を 19

世紀後半から 20世紀初頭のフランスの大学とりわけ法学部に求め,その際,シャルル

・ジィド(1847−1932,以下 C. ジィド)に中心的な光を当てることにする。彼に関し

ては,近年協同組合運動,とりわけ消費者協同組合運動の主唱者として取り上げられる

ことはあるのだ6

が,彼の経済学者としての歩みにスポットライトがあてられることはあ

まりない。そのような事態は,現代の経済学に対する彼の理論的な貢献に求めることが

きるが,しかしかつて彼に対して,「1880年から 1930年の半世紀の間の全てのフラン

────────────2 佐和(1982),p 63.3 佐和(1983),p.67.4 広重(2002)第 2章「科学の制度化」を参照。5 わが国におけるフランス政治経済学の制度化に関するまとまった著作は存在しないが,包括的で,通史的な分析を提示したものとしては,L. L. Van-Lemesle(2004)を参照せよ。また 19世紀の自由主義的な政治経済学の制度化を,M. フーコーの議論に拠りながら論じたものとして E. M. Sage(2009)を参照。

6 また彼の協同組合論については,稲井(2001)重田(2010)を参照せよ。

シャルル・ジィドと「政治経済学」の制度化(稲井) ( 755 )461

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スの経済学者のうちで,C. ジィドは,最も広範囲に及ぶ名声を持ち,最も大きな影響

力を行使した経済学者であることは疑いない」とされ,「フランスの J. S. ミ7

ル」とまで

評されたことは留意されねばならない。彼の経済学者としての歩みを見るなら,彼はフ

ランスの経済学の制度化の流れの中で中心的な位置を占めていると考えることができ

る。彼の研究の歩みは,宗教結社の自由に関する法学の研究をもって開始されるが,研

究の対象を政治経済学に広げ,1874年にボルドー大学法学部で政治経済学を講じ始め,

1880年にはモンペリエ大学法学部の政治経済学の教授となり,1898年にはパリ大学に

移籍する。彼は,大学を離れても様々な機関で講義を行い,特に 1921年から 1930年に

わたってコレージュ・ド・フランスでは協同組合に関する講義を行った。このような教

育活動と並行して,1884年に経済学の教科書である『政治経済学原理』,1909年に経済

学説史の教科書である『経済学説史』を書き著し,両者は版を重ねるとともに,諸外国

語に翻訳された。このようなアカデミズムでの教育活動に加えて,様々な雑誌に定期的

に寄稿するとともに,自らが中心となり 1887年に『政治経済学雑誌(Revue d’Économie

Politique)』を刊行する。高等教育の整備と再編が問題となり,大学の法科の中に政治

経済学の講座が正式に設置されようとしたまさにその時に,ジィドは政治経済学者とし

ての歩みを進めていくのであり,協同組合の理論的指導者としてのみ彼を見ることは彼

の全体像を見失うことになるであろう。本論文では,政治治経済学者のジィドの活動を

中心に据え,フランスにおける政治経済学の制度化を考察することにする。

Ⅰ フランスにおける政治経済学

(1)「楽観主義学派」としての主流派経済学

フランスにおける,政治経済学の高等教育機関における制度化を見て行く前に,フラ

ンにおける政治経済学,及びその教育の現状を押さえておくことが必要である。そのた

めには,C. ジィドが英語圏の読者を想定して書いた「フランスにおける経済学派と政

治経済学教8

育」,「20世紀初頭における経済学9

派」という論文を参照することが,好都

合である。フランスの政治経済学の状況に通じていない英語圏の読者を対象にした双方

の論文を貫く基調は,欧米諸国に比してフランスで政治経済学が大きく立ち遅れている

という否定的な現状認識である。確かに,彼は,フランスの経済学は大革命以来,全く

進歩もしていない,あるいはフランスの経済学研究は衰退期にあるという多くの経済学

者が抱く意見に対しては全面的に同意を示さないが,フランスの経済学の地位低下を認

────────────7 Oualid(1933)8 Gide(1890)9 Gide(1907)

同志社商学 第64巻 第5号(2013年3月)462( 756 )

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めざるをえず,次のように述べる。

フランスが常に,そして現在も,傑出した経済学者を擁しているなら,なぜフラ

ンスは,現在の経済学の流れの中で,自らにふさわしい位置を占めないのか。「ド

イツ学派」「イギリス学派」「アメリカ学派」「オーストリー学派」を耳にするが,

「フランス学派」について言及されないのはなぜなの10

か。

このように広く認知された「フランス学派」の不在の理由,つまりフランス政治経済学

の発展を妨げた原因をできる限り公平に研究することが追求されることになる。このこ

とは,主流派のフランス政治経済学が持っている理論的,あるいは思想的な特徴から分

析されるだけでなく,これらの政治経済学の教育が行われ,理論的活動が行われる制度

のフランス的特殊性から解き明かされることになる。

C. ジィ11

ドによれば,主流派である自由主義的な政治経済学は,古典派の理論的方法

と枠組みを保持しつつも,賃金基金説やマルサスの法則を否定し,分配理論の再構成が

主張されることもある。このフランスの学派は,「リベラル派」というには,幅広い意

見を含み,反対意見に対する寛容というリベラルという語の原義に照らせば,あまりに

もセクト主義的であり,その名称は不適切である。また「演繹派」というには,その学

派の構成員は,経済学者というよりは統計学者であり,実務家であることを誇りにして

いる。彼らは,「現状は,すぐれて良い状態ではないにしても,ありうべき最善の状態

である」という共通の了解を持ち,「土地私有財産,産業の自由,競争,労賃システム」

などの「現存する経済組織を正当化するために断固とした決意を持ち」,「これらの制度

に重大な変更を加えようとする試みに全力で反対す12

る」。C. ジィドによれば,マルサス

理論や賃金基金説のような基本的な理論が否定されるのは,理論構成に対する批判とい

うよりも,これらの法則が悲観的な性格を持ち,現在の社会状態や将来の見通しを明る

い展望のもとに示さないことによる。このような性格を持つフランスの主流派経済は,

「リベラル派」というよりも「楽観主義派」という名称がよりふさわしいとされる。主

流派をこのように規定したうえで,彼が問題にするのは,まさに独占を批判するこの学

派によって,経済学が独占されているというフランスの現状である。ドイツで力を持つ

歴史学派のみならず,講壇社会主義,キリスト教社会主義,社会学派,数理派なども根

付くことがないということが問題視されるのは,様々な学派が競い合うことによって科────────────10 Gide(1890)11 C. ジィドの古典派経済学に対するスタンスは次のように述べる論者もいる。「イギリスには彼のような

経済学者は存在しない。つまりイギリスの経済学者で,彼ほど伝統的な経済学から袂を分かった経済学者は存在しない」(Walter 1933)。

12 Gide(1890)

シャルル・ジィドと「政治経済学」の制度化(稲井) ( 757 )463

Page 5: シャルル・ジィドと「政治経済学」の制度化 · 経済学者によって,経済学が先行して存在する学問と関連付けられ,その優位性が主張

学は発展するという彼の認識による。

(2)「楽観主義派」の諸制度

このような「楽観主義派」が政治経済学の市場において独占の地位を手にするととも

に,フランス独自の経済学派が形成されないのは,C. ジィドの認識によれば,経済理

論が生みだされ,流通するフランスの特殊な制度的な構造によるところが大きいもので

あるとされる。

フランスの大学において 19世紀の後半期まで,学部としての経済学部が存在しない

ばかりか,「独自の教授陣を擁し,高等教育のカリキュラムにおいて独自の地位を持つ

政治経済学の教育課13

程」でさえ存在しなかった。これまで,政治経済学の講義が行われ

てきたのは,「大学の外部にある,全くのお飾りに過ぎない,少数の講座」,すなわちコ

レージュ・ド・フラン14

スのような機関であった。コレージュ・ド・フランスは,J. B.

セー,ロッシ,M. シュバリエ,P. L. ボーリューのような経済学者が講義を行ったが,

C. ジィドによれば,政治経済学を広く国民の間に普及させ,その科学としての地位を

強固なものにするためには,不十分なものであるとされる。同機関での講義は,一般に

公開されるもので,出席は強制されるものでもなく,試験もないので,毎回出席する聴

講生は少なく,そこでは後継者がつくられることはないとされる。それ以外の機関で政

治経済学が講ぜられたのは,鉱山学校(École des Mines),土木学校(École des Ponts et

Chauseés),技芸学校(École des Arts et des Métier),高等商業学校(École des Haute Études

Commerciale)といった機関であり,当然その内容は,理論的なものではなく実用的な

もので,試験で大きな位置を占めることはなく,受講者も少なかった。当然,高等教育

における政治経済学の状況がこのようなものなので,フランスの最も著名な経済学者は

大学の教授ではなく,政治家,金融家,ジャーナリスト,慈善家であるので,決して独

自の学派を形成することはできない。例外を除いては,大学の外部に存在する不安定な

立場にある経済学者は,C. ジィドによれば,自らの著作や論文を多くの人々に読んで

もらうために,世論におもねることになり,一般的に受け入れられている学説を採用す

ることを余儀なくされるのであり,おのずと彼らが採用するのは「楽観主義派」の理論

とであるとされる。

このように高等教育における政治経済学のポストが存在しないなかで,自由主義派が

その独占状態を保持できる原因は,フランス学士院(Institut de France)の存在に求め────────────13 Ibid., p.61514 コレージュ・ド・フランスは,1530年にフランソワ 1世によって創設される。ソルボンヌからは独立

し,自由で世俗的な教育を行う。①試験が存在せず,学位,資格を発行しない,出席は自由②教授の資格の条件は,学位の保持ではなく,人類の知識のある部門での卓越性である。③講座は永続的なものではなく,死亡,引退の際の変更④定年は存在しない(Gide 1926)。

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られる。その中でも特にフランス道徳・科学アカデミーが,政治経済学に対して大きな

影響力を行使するとされる。同アカデミーは,政治経済学の研究者の登竜門的な懸賞論

文を公募し,賞金を授与する。しかし受賞のためには,学士院のイデオロギーに合致す

ることが,つまり私有財産,資本,賃労働,産業の自由,自由貿易を受け入れ,擁護す

ることが要求された。このように政治経済学を志す者は,その入り口で独創性を発揮す

るよりも,伝統的な学説つまり「楽観主義派」の見解に合致するような議論を強いられ

ることになる。そして学士院を中心に,それによって支えられる政治経済学クラブ(la

société d’économie politique),『エコノミスト誌(Journal des Économiste)』,ギヨーマン

書店(Librairie Guillaumin)」が存在することになる。政治経済学クラブは,1842年に

設立されたもので,月に一度会合が開かれ,折々の経済問題が論じられるが,その模様

は『エコノミスト誌』で紹介されることになる。そのメンバーは 250人に及ぶが,少数

の例外を除いてほぼ全員が自由主義者である。ジィドは,そこでの議論は,どのテーマ

を論じても「度し難い一致により,議論が単調になる」と酷評する。また『エコノミス

ト誌』は,1841年に創刊された,世界中で発行されている政治経済学に関する雑誌で

最も古いものであり,フランスで最大の予約購読者を持つが,それは自由主義的伝統に

忠実であることにより,「まるで没落貴族のように,新たに胎動してきた学説に対して

は,軽蔑を示し,その存在を無視してきた」ので,この雑誌を丹念に読むと「50年間

世界では何事も変わらなかった」かの印象を抱く。さらにギヨーマン書店は,経済学書

を専門とする出版社であるが,もっぱら自由主義の教義に忠実な正統派の書籍を販売し

ているが,同社の建物に,『エコノミスト誌』の編集室があり,政治経済学クラブの秘

書室も存在し,これらの組織の要職を兼職する人物も存在することになる。このように

学士院を中心として,クラブ,雑誌,出版社を支配することで,自由主義派は,「名誉,

公職,人々の関心に通じる全ての道を押さえ」,自らこそが「真の科学」,「科学全体」,

「唯一つの科学」であり,その将来が政治経済学の未来と結び付いていると人々に信じ

させるのに成功してい15

る。

以上見たように,C. ジィドによれば,政治経済学のフランス的貧困の原因は,大学

以外での教育機関での講座,学士院とその周辺のクラブ,雑誌,出版社といった,政治

経済学をとりまく制度的な構造にこそ求められる。このようなフランス政治経済学の現

状認識は,自由主義派を批判し,それに変わる政治経済学を模索しようとしている C.

ジィドの立場からの評価である16

が,このような立場を離れて見れば,19世紀の前半,────────────15 Gide(1890)pp.622−62316 当然ジィドのこのような評価は,「正統派」の経済学者の側からの強い批判を招くことになる。M. ブロ

ックはこのジィドによるフランス経済学の紹介は「事実誤認に満ちた中傷」であり,学士院,政治経済学クラブ,『エコノミスト誌』は,異なる意見を持ったものに対しても門戸を開くリベラルな性格を持ったものであることが強調される(Block 1893)。

シャルル・ジィドと「政治経済学」の制度化(稲井) ( 759 )465

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とりわけ 7月王政期以降は,教育機関の講座だけではなく,活動領域を拡大することを

通じ,政治経済学の制度化が推し進められ,政治経済学にたいする人々の認知が拡大し

た時代であると見なすことができる。ギヨーマン書店や『エコノミスト誌』に対して

は,C. ジィドは極めて低い評価しか与えていないが,政治経済学を広く人々の間に普

及するのに尽力したと見なすことも可能である。ギヨーマン書店は,様々な政治経済学

の古典的な著作の出版を手掛けるとともに,多くの研究者や実務家を組織して,政治経

済に関する辞典を出版して,政治経済学の知識の啓蒙に大きな役割を果たし17

た。しか

し,このような活動は,純粋な知識の普及といった側面だけでなく,現実的な政治への

関与とも深く結びついている点を見逃してはならない。ギヨーマンを中心としたネット

ワークは,自由貿易を勧めるキャンペーンを積極的に推し進め,『エコノミスト誌』は,

自由貿易を支持する論文や記事でうめられた。さらには,このネットワークは,イギリ

スのコブデンとの密接な関係を持つことで国際的な次元にも広がりをもつことになっ

た。このような次元をも考慮するなら,フランスの自由主義的な経済学者は,単なる非

公式のネッワークから圧力団体へと変貌したということができ18

る。

Ⅱ 政治経済学教育の「制度化」

ジィドのフランス経済学に対する現状診断は,主流派経済学の不毛な状態を告発する

ものであったが,問題は,その理論内容にとどまらず,政治経済学の教育にあるとされ

た。彼によれば,「フランスは,政治経済学がその名を手にし,自立的な科学として明

確なものとなった最初の国であることは誇るべきことである」,しかし「それとは反対

に,フランスは政治経済学の教育を組織した最後の国であ19

る」。隣国のドイツでは,19

世紀の初頭から,大学の中で行われていたのに対して,フランスで,J. B. セーやロッ

シや M. シュヴァリエなどが教鞭を取ったのは,大学ではなく,制限されたサークルの

内部においてのみで,政府からは絶えず好ましからざるものとして見なされてきたこと

を嘆く。このように,高等教育における政治経済学の教育およびその教育を専門とする

ものの不在は,学派を越えて経済学に関わるものの共通認識を示しているように思われ

る。次のような言葉が,状況を端的に表している。

ある科学が準備されるのは,何人かの先駆者の独創的で,持続的な試みによって────────────17 同社は,1841年から主要経済学者コレクション(Collection des principaux Économistes)を発刊した。

そのコレクションには,ボーバン,ボワギュベール,ロー,ムロン,デュトなどともに,同時代のマルサス,C. コント,リカード,シスモンディ,ロッシの著作が含まれた(Van-Lemesle 2004, p 113)。

18 この点に関しては,Van-Lemesle(2004)第三章 最初の三つの講座とリベラルロビーの形成を参照。19 Gide(1931)

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である。あるいは,何人かの天才の努力によって,科学が生み出されることがあ

る。科学が存続し,普及し,(地位が)向上するのは,専門家(hommes profession-

nel)の執拗で,協同した労働によってのみ可能である。わがフィジオクラートに

より創設され,チュルゴーとスミスにより拡大され,セー,S. ミル,彼らの後継

者によって学問として確立された政治経済学が未だに待ち望んでいるのは,専門

家,つまり彼らの肩書きでいうなら,教授であ20

る。

ここにおいて,フランスの政治経済学の問題点が,高等教育における教育の組織化とそ

れを担う専門家の創出に求められている。教育の組織化に関して,初等,中等教育にお

いても経済学教育を拡大することも問題になったが,とりわけ問題となったのは大学に

おける経済学教育であった。フランスにおいては,グランゼコールなどの専門学校が力

を持もつのとは対照的に,大学は 19世紀を通して,沈滞が続く場であった。このよう

な大学を再編し,近代化してゆくことが,とりわけ第三共和政期に問題となり,現状を

憂慮する学者や政治家が大学の改革に着手することにな21

る。

(1)法科ファキュルテと大学改革

経済学者たちは,独立した経済学部を創設することを目指すのではなく,既存の高等

教育機関の講義カリキュラムを改編したり,その中に講座を設置したりすることで,政

治経済学の制度化を図ろうとした。とりわけその中でも,法科ファキュルテでの政治経

済学講座の創設を目指して,様々な取り組みが図られることになる。その取り組みにつ

いて見て行く前に,フランスの法学の高等教育がどのような特質を持っているかを確認

しておくことが必要である。その確認のために,まずフランスの高等教育機関の配置と

歴史を概観することにす22

る。

まず,政治経済学の講座が設置される 19世紀の後半のフランスの高等教育機関は,

以下の 3つに分けられる。つまり①神学,法学,文学,科学,医学などのファキュルテ

(Faculté)②コレ‐ジュド・フランスやパリ天文台や自然史博物館のような特殊部門に

特化した研究機関③古文書学校や東洋語学校のような特殊学校の 3つに大別される。政

治経済学の教育との関連で特に問題となるのは,ファキュルテである。これは,学部と

考えるよりも単科大学と考えたほうが実体に則しているのだが,このようなあり方は,────────────20 Beret(1892)先にあげた M. ブロックもまたフランスにおける政治経済学の進歩が緩慢なのは,教授の

数が少ないことに求めている。21 パストゥールなどの自然科学者やラヴィッスなどの歴史学者は,高等教育問題検討協会に結集し,大学

の改革を構想した。また首相のジュール・フェリーは,公教育高等審議会を組織し,大学の刷新をはかった(福井 1995 pp.195−196)。

22 フランスのファキュルテ,とりわけ法科ファキュルテについては,Rowe(1892),渡辺(1991)に主に依拠した。

シャルル・ジィドと「政治経済学」の制度化(稲井) ( 761 )467

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フランスの大学(université)の歴史と密接に関係している。中世に起源を持つフランス

の大学は,フランス革命期に解体されるが,革命期には高等教育の完全な再編には至ら

ず,高等師範学校と高等理科学校からなる高等専門学校が創設されるのにとどまった。

革命の後を受け,ナポレオンによって「帝国大学」が創設され,フランスの近代的な高

等教育の基礎がつくられた。この制度のもと,15の大学区がつくられ,神・法・医・

文・理のファキュルテが設置され,これらは政府機関であるとされた。このようなファ

キュルテの設置により,ファキュルテと高等専門学校の二重構造という 19世紀のフラ

ンスの高等教育を貫く基本構造が作られることになる。

以上のような経緯を経て設立された「帝国大」の法科ファキュルテで行われる,法学

の教育は特殊な性格を帯びることになる。ファキュルテは,法令により,教育の基礎

は,カトリックの教えと皇帝への忠誠に置くこと,教育の目的は,宗教,主権,祖国,

家族に愛着を持つ市民を生み出すこととされた。この法令のもとで,自由な教育が妨げ

られるのみならず,法科ファキュルテの教育では,コメントと注釈という定められた道

からの一切の逸脱が認められなかった。このような状況は次のように述べられる。

このようにして,狭隘で,非科学的な法学教育が生まれる。書かれたありのまま

の法を手元に置き,それに対して注釈を加えるのだが,その根本にある原理を指摘

することはなく,その注釈からは歴史的な発展という考えは全く放擲され,理論的

な見解は実用的な見解のために犠牲となり,法の経済的,道徳的価値や哲学的な重

要性についての批判は異端と見なされ23

た。

つまりフランスの法科ファキュルテで行われる教育は,「科学を排した,法のアート」

となり,ファキュルテは,職業訓練センターの様相を呈することになる。このような基

本的性格は,19世紀を通して変わることなく,政治経済学のカリキュラムの導入に際

して,このような教育の特質が問題視され,一部の経済学者から強く改革を求められる

ことになる。

科学的な研究の軽視と職業教育への傾斜は,神学ファキュルテや医科ファキュルテに

もその傾向は認められるものであり,ファキュルテを特徴づけるのは,「研究すること

ではなく,法科や医科のように職業資格証明書を与えることか,文科や理科のように学

位を授与する」ことになる。旧制度の大学を解体して創設されたファキュルテは,教育

内容のこのような傾向に加え,組織上の問題点も有していた。それぞれのファキュルテ

は,独立したものであり,知的な面においても,物質的な面においても相互の交流を欠

き,ファキュルテ間の協力関係は構築されていなかった。このようなファキュルテの改────────────23 Rowe(1892)p.69

同志社商学 第64巻 第5号(2013年3月)468( 762 )

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革を行い,語の真の意味での大学を創設することが第三共和政期の課題であったといえ

る。

(2)法科での「政治経済学」と経済学者

このような改革の中で,法科ファキュルテの改革で目指されたのはとりわけカリキュ

ラムの改変であ24

る。フランスの法科の修了者の大半は,法曹界にすすむのではなく,公

務員職につくのであるが,このような学生に法廷での弁護に必要な学科だけを教育する

のでは不十分であるということが認識されるようになる。法曹家になるための徒弟修業

を施すのではなく,科学的訓練を行い,テキストの上に自らを置き,純粋な解釈以外の

観点から法の重要性や有効性を判断できる人材を養成することが教育の目標とされる。

従来のたんに実用的な教育を施す法科から脱して,このような目的を達するために,法

の歴史,政治経済学,国際法という新たな科目が導入されることになる。この政治経済

学の導入を巡り,経済学者が,様々な形で介入を行うことになる。

(a)「正統派」経済学者による介入

このように教育システムの改革が行われる中,様々な立場の経済学者が発言すること

になる。ジィドは,「当初から学士院に所属する経済学者と法科に属する経済学者に属

する経済学者の間には,敵対関係が存在しつづけ25

た」と述べているが,自由主義的な経

済学者は,法科に政治経済学の教育に対して消極的であったわけではない。この問題に

自由主義的な経済学者が意見を表明する舞台は,先にも見た『エコノミスト誌』である

が,同誌で最も精力的に法科での政治経済学の講座の設置に向けた論陣を張った者の一

人に,J. G. クルセル・スヌイユ(Jean-Gustave Courcelle-Sneuille)がいる。彼は,経済

理論に関する論文のみならず,社会科学論や政治経済教育に関する多くの論説を同誌に

表した。ここでは,政治経済学の教育改革に関して彼が同誌で発表した論説,「法科で

の政治経済学教育の必要性に関し26

て」,「政治経済学の対象,性格,有用27

性」,「法科での

政治経済学教28

育」,「政治経済学の科学,応用,教29

育」を中心に彼の立場を見ていくこと

にする。

彼は,一貫して科学としての政治経済学を法科で教育をすること主張する。彼は,な

ぜフランスに起源を持つ科学が教育制度の中で不十分な地位しか獲得できていないかを

問い,その原因を,教育課程を作成し,編成する人々の政治経済学に対する無知に求────────────24 そして実際に,1878年にフランスの 13の法学部において正式のカリキュラムに,組み込まれることに

なり,テスト科目となった。25 Gide(1907)26 Courccell-Seneuille(1863)27 Courcelle-Seneuille(1865)28 Courcelle-Seneuille(1877)29 Courcelle-Seneuille(1888)

シャルル・ジィドと「政治経済学」の制度化(稲井) ( 763 )469

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め,合理的なプランに従っていたならば,政治経済学を知らずに済ますことはできない

と考え,急いで法科に導入しただろうとする。さらには,「法学と政治経済学は密接に

関連し,今日では政治経済学を真剣に研究せずして,価値ある法律家にはなれな30

い」と

まで述べる。しかし,他の教育機関を差し置いて,なぜ法科で政治経済学の教育が施さ

れるのかということが問題となる。世間一般の見方では,政治経済学は,徳と無私を旨

とする気高い自由業に関わる法科ではなく,産業や金儲けとにもっぱら関係する商業学

校,農業学校,技術学校で教えられるべきだとされる。このことは法科の存在理由,つ

まり法科は,将来弁護士や行政官になる人材を養成する職業学校であるべきか否かとい

う点に関わる。この点に関して彼によれば,職業あるいは実務という観点から見るなら

ば,ローマ法などを扱う法科で現在行われている教育は,役に立たず,有害でさえあ

り,そのような教育を受けるよりも,弁護士のもとで見習いをしたり,裁判所で傍聴官

などの現場での実務的な仕事に就いたりする方がずっと立派な職業訓練になるとされ

る。しかし歴史を振り返ると,法律家や行政官は単なる実務家ではなく,つまり既存の

法を解釈するだけでなく,その空白を埋める法を作り出し,世論を教育し,導き,社会

の階層が何であるか,社会秩序のメカニズムとは何か,諸個人の権利,義務,地位を教

える存在であった。このような役割を担う者を養成することを目的に現在の教育は施さ

れていないが,このような高い使命を持った人材を養成するのに,役に立つものが,政

治経済学の教育であると強調される。

単なる実務家を越えた人材を養成する上で,いかなる点において政治経済学の教育が

資するのか,またその場合教育される政治経済学がどのような内容を有しているのかが

問題となる。政治経済学に対しては,さまざまな方面から,形而上学のような不毛の議

論に没頭して,科学ではなく文学に過ぎない,あるいはただたんに自由貿易を主張する

政論に過ぎないといったような批判が向けられる。彼によれば,このような批判を生む

原因は,批判者の政治経済学に対する無知にのみ帰することはできず,政治経済学の側

にも問題があるとされる。それは,政治経済学における,科学とアートの問題に関わ

る。自然科学を考えた場合,科学とは,それぞれの領域で,自然法則と呼ばれるものの

存在を明らかにする一方で,アートとは,科学が明らかにした知識を人間の欲求の充足

に用いることである。天文学,物理学,化学,自然史,生理学が前者に相当し,これら

の科学から借用した知識を組み合わせる工学(テクノロジー)や治癒学などが後者に相

当する。自然科学におけるこのような峻別が,社会科学である経済学においてはなされ

てこなかったのである。

経済学者の間の対立は,科学とアートの対立区別をしていたならば,目立たない────────────30 Courcelle-Seneuille(1863)

同志社商学 第64巻 第5号(2013年3月)470( 764 )

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ものだっただろう。科学は永続的で,一定しているものに関わり,アートは現在存

在するものに,そしてそれを改良する方法に関わる。科学は,富が増減する一般的

な原因と条件を探求し,アートは現代社会における富の増大の最良の方法を探求す31

る。

彼が法科において推奨するのは,純粋科学の教育であり,アートは教授されるべきでな

いとされる。アート,つまり科学の応用に関しては多数の事柄からなる状況に依存し,

一般性を欠き,学生の年齢や経験を考慮すると,このような応用の解答を絶対的な真理

と誤解する危険が絶えず付きまとう。状況に左右される,フランスや外国の産業や商業

に関わる立法についての議論を教えるのではなく,純粋科学の原理を教えることが必要

であると主張される。彼の考える経済学教育の対象と目的は,「富の生産,消費,領有

に向けられる人間活動の研究」であり,これらの活動の機構と法則,つまり「最小の努

力で,最大の生産物を得ることである」を明らかにすることであ32

る。加えて重視される

のは私有財産や利子の存在理由,現代社会において契約が占める位置などの明確で,確

固とした概念が教示されることである。このよう政治経済学を習得することの有用性

は,物理学と同様に,物質世界に作用する一般法則の知識を獲得でき,生産力の増大に

寄与できるとともに,若者を支配的な世間の先入見から守るということである。そして

このような知識が行き渡れば,幾何学の原理に異議を唱えるものが存在しないように,

社会の根本原理である私有財産に対して異議を唱え,私有財産を労働の組織化や協同作

業場といった人為的な取り決めに置き換えることを主張するものは存在しなくなるだろ

うとされる。そしてこのような政治経済学の教育は誰によって担われるかに関して問題

になるのだが,少数の原理からなる政治経済学の科学に関しては,法学部の教授が,学

習しながら,教授することも十分可能であるとされる。

このようにクルセル・スヌイユは,法学部での政治経済学の意義を説き,制度化を促

進する論陣をはることになる。彼が,経済学教育において,科学とアートの峻別を強調

し,経済政策に関わる議論のみならず,歴史的あるいは個別的な対象を排除することの

背景には,従来の自由主義的な経済学者とは立場を異にする経済学者が法学部の中で一

定の力を持ちつつあり,それとの対抗ということがはっきりと読み取れるのであるが,

そのような正統派と異なる経済学者の一人として,シャルル・ジィドは存在した。

(b)C. ジィドと法科における「政治経済学」

C. ジィドは,「今私の考えでは,どのような科学でも,それが発展するのに必要な条────────────31 Courcelle-Seneuille(1865)彼は,別の個所では,富の科学を ploutologie,労働の配置のアートを ergono-

mie として名付け峻別する(Courcelle-Seneuille 1865)。32 Courcelle-Seneuille(1878)この論文の最後に彼の経済教育のシラバスに相当するものが提示されてい

る。

シャルル・ジィドと「政治経済学」の制度化(稲井) ( 765 )471

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件は,その教育が大学で行われ,とりわけその学問を専門にしている教授団によって,

技術的あるいは職業的な目的を排して教授されることである」と述べ,大学における正

規の政治経済学の講座の設置することで,自由主義的な「楽観主義派」が主流となって

いる状況が改善されると考えるのである。法学の研究から学問の研究を開始した C. ジ

ィドは,折にふれて,法学と政治経済学の関係に言及している。例えば大学での政治経

済学教育に関しては,次のように述べる。

分配の理論は,法学の系統に属している。財産に関わる範囲において,民法,商

法,刑法は,分配の原理の応用にすぎない。実際,分配の理論が,法学部で講義さ

れる教育に直接関連する政治経済学の唯一つの部門であ33

る。

このように分配の理論を法学部で,そして富と価値の理論は文学部で,富の生産と消

費に関する講義は理学部(Faculté de science)で講じるというように政治経済学を 3分

割してカリキュラムの中に組み込む考えを示した。

しかし実際,法学部で教育が行われるとなると,問題になるのは一体誰が教育を行う

かという問題である。経済学者がその任務を担うべきであるが,当然そのような経済学

者の数は限られたものであり,まずなにより法学部で教鞭を取るには,法学の教授資格

か,法学博士の資格が必要であるので,担当者は必然的に若い法律家になった。このよ

うな法律家によってなされる政治経済学の教育に対しては,担当者の若い教授たちは,

時に行き当たりばったりのやり方で教えたりすることに対して,自らの義務を全うして

いないという批判がなされる。しかし法学部での政治経済学の教育の支持者は,経済学

者という肩書が,知識を保証するものではないし,さらに教育についての適正を保証す

るものでないとし,法学の教授資格は,選抜試験に政治経済学が含まれなくても,学習

能力と教育能力を示すもので,政治経済学を学びながら教育することが可能であるとす

る。さらには,批判は,法学者と経済学者に要求される資質の違いといった次元にも及

ぶ。

彼ら(=法学者)は,この(=政治経済学の)研究と教育の中に,以前の研究で

身につけた考え方の習慣を持ちこむことを禁じられてはいない。彼らは,しばしば

事物に対して目配りを欠き,言葉に拘泥し,片言隻句を弄び,そのことで自らの研

究はおしゃべりに堕してしまう。彼らの手にかかれば,政治経済学は,観察の学と

して取り扱われるのではなく,論争に委ねられるテキストになってしまう。その結

────────────33 Gide(1921)

同志社商学 第64巻 第5号(2013年3月)472( 766 )

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果,彼らは,政治経済学の公然たる敵対者よりも,その普及を損なってい34

る。

「観察の学」である政治経済学とテキスト解釈の学である法学を対立させる見解に対し

ては,法学者による政治経済学教育を擁護する立場からは異論が唱えられる。よく行わ

れるこのような対立は全く根拠がないものであり,法学をテキスト解釈のみに結び付け

て理解するのは,全くの誤りである。法学部で教育されるのは,「法の科学(la science

du droit)」であるが,単に字句解釈にのみ専念するのではなく,そのテキストの背後に

法の歴史,法の哲学を読み解くものである。法とは,「社会に生きる人間の諸関係を明

確にし,規定し,規制するのだが,社会環境の知識,そこでぶつかり合う情念と利害の

知識を前提するものである」。このように法を扱う法学者は,決して政治経済学を教育

する資質に欠けるものでないことが強調される。

C. ジィドによれば,法学部で政治経済学を講じる法律家は,どの学派にも属さず,

先入観から自由な状態で講義を開始したが,ドイツの法律学の歴史学派といった自らの

学問的バックグランドから古典派の著作に飽き足らず,ドイツの経済学説を参照し,そ

の歴史学派の方法を採用するようになる。彼らの思考様式に,レッセ・フェールは馴染

むことなく,立法者や経済法が関心の中心になり,自由より正義,富の生産よりも富の

分配が主たる研究の対象となった。諸個人の間に若干の見解の相違は含みつつも,おお

むね彼らの立場は,自由貿易と競争体制を批判し,中には賃労働の永続性に対して疑義

を挟むもののも存在し35

た。このような立場こそが,同じく法科に政治経済学の制度化を

図ろうとするクルセル・スヌイユのような「正統派」の経済学者と激しく対立するもの

であっ36

た。

大学での正規の講座に加えて,政治経済学の制度化を図るために,着手されたのは雑

誌の発行である。『政治経済学雑誌(Revue d’Économie Politique)』が C. ジィドが中心

に発行されることになった。同誌の創刊の言葉では,政治経済学の正式な教育が法学部

において開始されて 10年の月日が過ぎ,様々な批判が寄せられ,そのような批判に答

える最も効率的で,ふさわしい方法として雑誌を発刊したことが述べられる。この雑誌

は,「中立性」あるいは「絶対定期な不偏不党の精神」を旨として,「全ての学説に対し

て自由に門戸が開かれ,また科学的精神によってのみ研究が突き動かされているという

条件において,社会科学に関するあらゆる研究を区別なしに向かい入れる」。そして────────────34 Gide(1931)35 Gide(1931)ジィドは,このような法学部の経済学者として M. コーウェス(M. Cauwes)を挙げてい

る。自らが保護主義者であると宣言した『政治経済学精講(Precis du Cours d’ Économie Politique)』を発行した時,経済者の間で騒動が起った。

36 M. ブロックによれば,正統派の経済学者はドイツの歴史学派の動向は注意深く観察していたが,それらは純粋理論に関わるものでないので,その批判によって自らの理論を修正する必要は全く感じなかった(Block)。

シャルル・ジィドと「政治経済学」の制度化(稲井) ( 767 )473

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「一個人,一学派の機関紙」ではなく,さらには政治経済学に特化したものではなく,

法学や社会学を含む「社会科学」全般を対象としたものであることが謳われる。明らか

にこの「中立性」や「不偏不党」には,正統派の『エコノミスト誌』の党派的な編集方

針との差別化を図るとともに,「非同調派に対する言論の場」そして「自由主義派が黙

らそうとしている告発者に演壇を提供す37

る」ことで,あらゆる非正統派を結集させると

いう意図を読み取ることができる。この雑誌の全体的な思想的な傾向は,C. ジィドが

述べる正統派に批判的な「新学派」に合致するものであり,「帰納的で,歴史的な方

法」,「社会問題に向けられたプラグマティズム」,「容認された行動手段としての国家の

介入」にまとめられ38

る。掲載された論文の中心を占めるのは,労働問39

題を主題とするも

のであり,このことは『エコノミスト誌』との大きな対照をなす。これらの論文は,理

論的なものであるよりも,事実の分析,比較にもとづく視点,外国の事例の紹介と検討

に重点が置かれ,時として社会立法に関する具体的な分析,評価が行われた。この雑誌

を貫く基調的な思想は,自由なアソシアシオンの結成によるよりむしろ,国家や立法者

の介入によって労働関係の問題をはかろうとするものである。このような立場の雑誌に

おいて中心的な位置を占めたのは,法学部で教鞭をとる経済学者であった。しかし「社

会科学」を標榜する同誌の執筆者は,経済学者にとどまらず,L. デギューのような法

学者,E. デュルケームや G. タルドといった社会学者に及んだ。さらに同誌は,ブレン

ターノ,シュモラーなどのドイツの歴史学派の論文を精力的に紹介するだけにととどま

らず,これらの経済学者と積極的に交流し,国際的なネットワークを形成しようとし

た。

Ⅲ 経済学者と協同組合

このように,19世紀末から 20世紀初頭にかけて,法学部は大学における経済学教育

をほぼ手中にすることになるが,大学の外部の講座は,学士院の経済学者の手にあると

いう状況が出現することになる。19世紀の半ばに,自由主義者が自由貿易をめぐる政

治に積極的にコミットすることでその地歩を固めようとしたのと同様に,法学部に所属

する経済学者は,さまざまな社会立法に関与するとともに,協同組合運動に参画するこ

とで,自らの理念を実現するとともに,その影響力の拡大を図ろうとした。このような

アカデミズムの外部における実践は,ジィドもその創設と運営にコミットしたミュゼ・

ソーシャル(Musée Social)や『協同組合研究雑誌(Revue des Etudes Coopérative)』誌────────────37 Gide(1887)38 Pénin(1996)39 C. ジィドは,「フランス人の教授は,社会問題,労働問題に没頭して,政治経済学の他の部門を,とり

わけ純粋経済を疎かにしている」と述べている(Gide 1907 p.202)

同志社商学 第64巻 第5号(2013年3月)474( 768 )

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に見出すことができる。前者は,さまざまな展示や常設の図書館を通して,労働者階級

の道徳的,物質的状態の改善を掲げている制度や組織に関する情報,モデル,計画を,

無料で人々に利用できるようにすることを目的とするものであり,後者は,研究者のみ

ならず実践家による雑誌であり,学者と実践家のネットワークを形成するとともに,協

同組合に関する理論や運動の実態を広い読者に提供しようとするものであ40

る。

このように G. ジィドを中心にした中心にした知識人の協同組合運動に対する取り組

みは,「知識人と大学教員による協同組合宣言」という文書に結実し,そこでは,彼ら

の間における協同組合に関する共通の理念が表明され,協同組合に関する思想の一つの

到達点を認めることができ41

る。そこにおいて表明されている社会観及び将来社会像を,

正確に把握し,歴史的に位置付けるためにも,自由主義者によって表明された協同組合

論と対質させることが必要であると思われる。この宣言の分析の前に,自由主義者の協

同組合観を彼らの内部での議論を手懸りに,その位相を確定することからはじめていく

ことにする。

(1)「正統派」経済学者の協同組合観

自由主義的経済学者の協同組合観を明らかにするには,彼らの主要な活動場所である

政治経済学クラブでの協同組合を主題とした議論を見るのが好適である。このような経

済学者の会合での議論は,『エコノミスト誌』によって紹介されることで,閉じたサー

クルを越えて人々の協同組合観を形成することに寄与することになる。そこでは,協同

組合の役割と国家及び慈善との関係,さらには望ましい協同組合の形態が主題として議

論は進められた。

自立した個人を強調する正統派の経済学は,労働問題や社会問題に無関心で,協同組

合を頭ごなしに否定したわけではなく,「最初に協同組合の実験を行い」,「互助会,年

金基金,貯蓄銀行を支持し」,「雇用主による労働者の援助を推奨し」,「富者の義務さえ

もつよく主張した」のであ42

る。しかし問題とされるべきは,これらの経済学者によって

どの様な形態の協同組合が推奨され,そしてどのような役割が期待されたかということ

である。

議論に登場する正統派の経済学者であるジョゼフ・ガルニエは,協同組合が協同して

信用を組織したり,食料品の共同購入を行ったりすることに意義を認め,また同様の立

場に立つ経済学者のレオン・セーも貯蓄銀行の役割を果たすことを認める。しかし容認────────────40 本稿では,協同組合運動を分析の対象とする。ミュゼ・ソーシャルは,福祉国家の形成にとって重要な

意味を持つが,その分析は今後の課題とする。ミュゼ・ソーシャルの位置づけに関してはとりあえず田中(2006)第四章「連帯主義-『連帯』」を参照せよ。

41 この文書は,『協同組合研究雑誌(Revue des Études Coopérative)』の創刊号に発表された。42 Block(1893)

シャルル・ジィドと「政治経済学」の制度化(稲井) ( 769 )475

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されるのはこのような限定された役割だけであり,それを越えた意義を協同組合に見出

そうとするものは厳しく批判される。例えば前者は,労働者がアソシアシオンを組織し

て,賃労働の廃止を目指し,社会変革の道具として協同組合の役割を考えるものだけで

なく,立法者に対して,「自由放任」以上のことを要求し,協同組合に対して様々な便

宜を求めるものをも強く批判する。協同組合を労働者の自立を促すべき手段としてのみ

位置付ける立場からすれば,労働者アソシアシオンは,慈善的であり,詩的であり,感

傷的である,有害な幻想をまき散らすものにすぎない。

一方で議論に参加したものが全く同一意見であったわけではなく,別の経済学者は,

異なるスタンスから協同組合を論じ,自由主義的な立場に固執する経済学者と対立する

ことになる。特に対立が見られたのは,経済学者と協同組合の関係である。距離を置く

べきであるとするガルニエとは違い,J. デュバルは,経済学者が正面から扱う主題とし

て受け止めるべきだとして,次のように述べる。

労働者アソシアシオン,あるいは協同組合の思想は,経済思想の大きなグループ

に再び入ってきた。経済学者がなすべき唯一つのことは,理性と科学の進歩とし

て,それを進んで受け入れることである。というのは,アソシアシオンが今後,ス

トや協定,暴力革命にかわって,労働と貯蓄によって労働者階級のエリートを平和

的に,勤勉なやり方で財産と福祉を高めるからである。この運動を指導すると主張

するのではなく,経済科学は,この運動を自らの光で照らすことで,有用な貢献を

なすであろ43

う。

この点に関して,別の論者は,ガルニエは経済学者が運動をそそのかしたと批判する

が,経済学者と協同組合運動の関係は決して,指導‐被指導の関係ではなく,経済学者

は助言を行うだけで,運動が軌道に乗ると退くとして批判している。

次いで問題となるのが,国家と協同組合の間の関係であるが,これは,補助金あるい

は貸し付金の条件が議論に上がる。例えば,オルンによれば,協同組合は,慈善団体で

はなく経済組織であり,その真髄は自助であり,あらゆる庇護をうけることなく,労働

者を物質的に,道徳的に高めるように努力することである。このような経済組織として

の協同組合に対する資金の貸付けの条件は,恩恵的な扱いをするのではなく,本質にお

いてその他の社会階層に利用される資金と同じ条件を課すべきであるとされる。さら

に,国家の補助金に対しては次のように述べられる。

補助金を受け取ると,自助をよりどころとする運動は,その存在理由を裏切るこ────────────43 Société d’Économie politique-Réunion du 5 novembre 1866

同志社商学 第64巻 第5号(2013年3月)476( 770 )

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とになるだけでなく,そのことは,他のどの社会階級よりもとりわけ労働者階級に

とって危険であるからだ。われわれが弱小で,貧困である時,援助は容易に施し

に,奉仕は慈善に,承認は依存に変わりはてる。これは,協同組合がいかなる犠牲

を払っても回避する危険であ44

る。

このような国家から自立し,自らの理念として自助を掲げる協同組合は,ガルニエが批

判するように個人の自発性を削ぐものではなく,そこでの労働者は,知的,道徳的に優

れた仕事を行うことが強調される。

以上が,政治経済学クラブでの議論の概要であるが,確認されるべき点は,それぞれ

の間で見解の幅が見られるにしても,自由主義的な経済学者は,協同組合を全面的に否

定するものではないが,国家に全く依存せず,自立した経済組織として,個人の自立を

促進するという限定的な役割を認めるのみであって,現存社会の改変を企てようとする

労働者アソシアシオンは全面的に否定される。

(2)「知識人と大学教員による協同組合宣言」

ジィドは,アカデミズムの外部でも,雑誌『解放(L’emancipation)』を発行し,『社

会キリスト教雑誌(Revue du christianisme sociale)』に積極的に寄稿することで,協同

組合運動に深くコミットしていた。そして彼は,協同組合運動の活動家のみなならず,

様々な分野の学者に呼び掛け『協同組合研究誌(Revue des etude coopératives)』を発刊

するに至る。この雑誌の根本的な思想は,協同組合問題と社会問題は切り離すことはで

きず,協同組合の原理の適用により大部分の社会問題は解決できるというものである。

そして協同組合に関する社会的,経済的問題を検討の対象とし,広く学説や批評の研究

を行うとともに,協同組合の活動に関する技術的な側面を扱うことが目指された。また

現在において社会問題は一国的な観点からでは十分分析ができないので,国際的な視野

のもと研究を進めることが強調される。18世紀のフィロゾフの「アプリオリな理想主

義」に陥ることなく,事実の日々の観察によって訂正される「啓かれた理想主義(ideal-

ism éclairé)」の立場にたち,科学の成果に基づき社会改革を推し進めることが主張され45

る。

そしてこのような立場からの社会改革の方向性を提示したのが,「知識人と大学教員

による協同組合宣46

言」である。宣言は,今までしかるべき評価を受けてこなかった協同────────────44 Société d’Économie politique-Réunion du 5 novembre 186645 Lettre à nos Lecteurs46 主に法科および文学部の大学の教員 248名がこの宣言に署名した。しかしジィドはこの宣言の署名者の

うち経済学者は 10名に過ぎず,経済学者は,協同組合を望んでも,社会変革の綱領の意味での協同組合主義(coopératisme)を望まないとする(Gide 1921)。

シャルル・ジィドと「政治経済学」の制度化(稲井) ( 771 )477

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組合が現在の状況の中で注目されるようになっているという確認からはじめられる。現

在まで協同組合は,世論や経済学者によって,「利点と欠点を持った商業組織の一種」

にすぎず,社会の再生の全般的な綱領を提供するものとは考えられなかったが,食料品

の不足,物価の高騰,商人の搾取が蔓延るなかで,消費者はそこに避難所を見出し,

「社会実験のための実験室」となった。このように確認した上で,経済学が取り扱う利

潤,競争,資本に対して協同組合の原理が対置される。この宣言において利潤と競争に

関する協同組合の立場は次のように述べられる。

協同組合がわれわれに最初に教えることは,企業は,政治経済学が避けることが

困難であると考える諸条件の外部で,つまり利潤の誘因と競争の圧力のない状況

で,存在でき,繁栄できるということである。実際,協同組合企業は,利潤の刺激

なしに運営されているのであるが,利潤を奪われたものに,利潤を返還することを

規則としているからだ。そして競争に関して,可能な限り,協同組合は,競争を連

合と合併に置き換えるように努める。利潤自体が消滅した時には,利潤のための競

争は目的をもはや失うので,残こるのは,ライバル意識(emulation)の形での競争

のみであ47

る。

ここに彼らの協同組合運動の中心思想である「利潤のための競争」の否定を確認できる。

一方資本に関しては,その成果を手にすることが事業の成功にとって不可欠なものでは

ないとされ,さらにはその命令権を拒否することが表明されるが,資本を排除すること

は目指されず,協同組合が自己資本を形成することは容認される。協同組合は,「資本

の独裁」を「労働の独裁」に置き換えようとするものではないことが強調される。それ

は,職業的な利害関心にからめとられた労働者(生産者)は公共の利益を代表するもの

ではなく,組織された消費者こそが公共の利益を代表するという宣言の認識に基づく。

さらに,この宣言が着目されねばならないのは,一国的な次元だけでなく,国際的な

次元に対して方針が出されていることである。つまり,

協同組合は,(中略),保護主義の形を取った経済ナショナリズムと帝国主義の一

形態にすぎない,資本主義による自称国際主義と闘う。30年前に,国際協同組合

連盟を創設することで,協同組合は,国際連合を凌駕し,利潤を巡る闘争である現

行の国際商業を自らの資源を,全員の最大の利益のために利用することを決心した

諸民族の協同である真の形態に高めることを目的とす48

る。────────────47 Le Manifeste coopératif(1921)48 Le Manifeste coopératif(1921)

同志社商学 第64巻 第5号(2013年3月)478( 772 )

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ここで述べられるのは,保護主義と「自称国際主義」すなわち自由貿易の双方を批判

し,国家間の関係において協同組合の原理を適応するということである。この宣言は,

「われわれが広めようと欲するのはまさに,経済的であるとともに道徳的である教育で

ある」という言葉で結ばれる。

この宣言の基底にある思想は,利潤の獲得を巡る競争の否定,消費者の立場の強調と

いったものを読み取れるが,宣言であるという制約もあり,十分に理論的に展開されて

いるわけでない。このような宣言の根本思想は,明らかに C. ジィドの立場が大きく反

映されていると考えられる。とりわけ,消費者の立場の強調は彼が,他の場で繰り返し

述べてきたことと一致する。彼の労働者アソシアシオンに対する態度と併せて確認され

る必要がある。彼は,ある講演において,フランスの経験に照らすなら,労働者による

生産アソシアシオンは,「現在の事物のあり方に対して,著しい修正をもたらすうえで

は無力である」と断定する。多くの試みは失敗し,成功したものも,労働者階級の漸進

的な解放という目的を犠牲にし,賃労働者を働かせる小さな雇用主に変質してしまった

とする。職業に基づく生産協同組合は,どのようなものであれ,同業組合的なエゴイズ

ムから自由でなく,一般的な利害よりも個別利害を優先する。それに対してアソシアシ

オンに結び付けられた消費者は,お互いに敵対する利害を持つことはありえず,出来る

限りの廉価で最大限の財を獲得するという全員に共通のただ一つの利害を持つのみであ

り,総体として考えられた社会と全人類の一般的で,永続的な利害と一致する。それ

故,生産アソシアシオンと消費者は常に戦争状態におかれるのである。このような労働

者アソシアシオンに対する批判を表面的に見るなら先に見た正統派の経済学者との類似

性を認められるかもしれない。しかし彼の構想する協同組合は,消費を組織するのみで

満足するものではないのは,「私が確信しているのは,消費者協同組合の最終目的は,

生産協同組合の設立ではないが,生産である」ということからも明らかである。推奨さ

れるのは,消費者アソシアシオンに従属した,生産アソシアシオンの創設であり,協同

組合の真の目的は,現行の経済体制を平和的にではあるが,ラディカルに改編すること

であり,生産手段の所有及び経済主権を,現在の生産者から消費者の手に移すこととな

る。このような消費者協同組合は,「経済生活のあらゆる現象を包摂し,われわれが所

有する強力な生産力を最大限利用できる方法と眼前で驚くべきものを示している文明の

物質的そして精神的な恩恵に最大多数の人間を参加させる方法を与えるに違いない,社

会組織の新たな様49

式であり,ジィドが「協同組合共和国」(République Coopérative)と

呼ぶものの土台となる。彼は,大学やその他の教育機関で政治経済学を講じるととも

に,雑誌を発行し,自由主義に批判的な経済学者のネットワークを形成し,そのような

ネットワークを駆使しつつ,「協同組合共和国」の実現を目指す運動に深くコミットす────────────49 Gide(1889)

シャルル・ジィドと「政治経済学」の制度化(稲井) ( 773 )479

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ることになる。

結 語

本稿は,フランスの政治経済学が制度化されている中で,政治経済学者としての C.

ジィドの歩みを明らかにしてきた。わが国のフランス政治経済学研究,とりわけ 19世

紀後半以降の研究が,主に,ワルラスなどの理論史的研究が中心に進められ,フランス

経済学が制度化されるプロセスが十分に明らかにされてきたとは言い難いが,C. ジィ

ドを中心に携えその一端を明らかにした。制度化は,その学問のテキストブック化と密

接な関係があるが,本稿では,ジィドが著した政治経済学のテキストの検討,さらには

同時代の政治経済学のテキストとの比較検討することができなかったが,政治経済学の

制度化を明にするためには欠くことのできない作業のように考えられるが,今後の課題

としたい。

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