2
三島通庸は明治2年34歳の若さで都城の地頭として赴任します が、都城島津家の元領主を地頭に推す勢力等の抵抗に遭い、庄 内の安永城仮屋を役館とし、都城を上荘内郷、下荘内郷、梶山郷 に分割します。明治3年からは通庸は上荘内郷と梶山郷の地頭 となり、新しい時代に備えた画期的なまちづくりに取り組みま す。庄内に60戸の商人と士族260戸を移住させ、家屋敷を造っ て与えました。他にも常備隊の編成、教育、産業の振興、道路の 造成、堤防の築造、母智丘神社をはじめとする神社の修築等を わずか2年で驚異的に達成しました。お軍神には「三島通庸遺徳 碑」が建てられています。 庄内小学校正門脇に2本のイチイガシの巨木と数基の石碑が 建っています。三島通庸はここにあった稲荷神社を三股に遷 し、その跡地に鹿島神社を勧請し金石大明神を合祀して庄内鹿 島神社を創建しました。鹿島神社の祭神はタケミカヅチの神と 言う武の神様、そして武勇を馳せた北郷相久(ほんごうすけひ さ)の霊を祀った神社でしたから庄内ではここを「お軍神様」と 言うようになりました。明治35年この神社は諏訪神社に合祀さ れました。その後ここには三島通庸遺徳の碑、征清記念碑、日露 戦役記念碑、日露戦役従軍者の刻名碑、三原叢五先生顕彰碑、庄 内空襲の碑が建てられています。 三島通庸公のまちづくり (みしまみちつねこうのまちづくり) お軍神 (おぐんじん) 庄内町 まちあるき MAP 庄内地区まちづくり協議会 〒885-0114 宮崎県都城市庄内町12692番地 (庄内地区公民館内) URL:http://www.bonchi.jp/shonai/ 宮崎県都城市 平成31年3月発行 TEL:(0986)37-3488 FAX:(0986)37-2728 願心寺 (がんしんじ) 清涼山願心寺は明治11年の仮説教所設置に始まり、明治17年 正式に創立され、現在の本堂は明治39年に建立されました。6 年の歳月をかけて完成したもので、門徒総出で霧島からケヤキ を運び出し、当時としては珍しい「総ケヤキ造り」の本堂を造り 上げました。また、周囲の窓は洋式のガラス窓で、上に押し上げ て開くようになっています。堂々たる山門は大正9年に落成し、 続いて大正13年に鐘楼が落成しました。平成16年には本堂と 山門が国の登録有形文化財として認定されました。このような 願心寺は、信仰の対象としても、文化財としても歴史が古く、私 達の心のよりどころとして大事な存在です。 八坂神社 (やさかじんじゃ) 南洲神社 (なんしゅうじんじゃ) 石垣群 (いしがきぐん) 10 11 12 願心寺山門の道路を挟んだ向かい側の小高い場所にあります。 願心寺の境内に昔から由緒不明の祠(ほこら)があり、これが山 門建設の邪魔になってここに遷されたものです。町区の有志が この祠を、商売繁盛の神様として町区の鎮守様にする事にし、 早速京都祇園の八坂神社の御霊(みたま)を勧請して社を新築 したのが大正8年の事です。その後町区では毎年の祭礼は京都 本社の伝統に倣って山車を繰り出し盛大なお祭りを行っていま す。願心寺山門の建築工事に来ていた京都の宮大工達が庄内 の若者達を指導して町を練り歩いたのがその起こりと言われて います。 昭和2年、それまで区の鎮守様がなかった西区では、西郷南洲 (さいごうなんしゅう、西郷隆盛の号)没後50周年を記念して南 洲翁の御霊と庄内出身の西南戦争戦没者56名の御霊を祀る 神社を創建することになりました。たまたま諏訪神社の旧社殿 が保存されていたのを譲り受け、区民総出で城山の一角に敷地 を造成して準備を整えました。鹿児島南洲神社から分霊を請願 しましたが、難航しようやく昭和4年に許可が下り区民歓喜の 中で遷座が行われました。その後社殿は昭和53年不慮の失火 で焼失しましたが55年再建されました。南洲神社は全国に4社 があります。 前田正名が用水路工事を進めていた明治32年頃、腕利きの石 工(いしく)徳永長太郎(鳥取県出身)が呼ばれました。石工とし て弟子を育てながら、用水路工事が終ると願心寺の山門、鐘 楼、本堂、周囲の石垣などを造り、さらに多くの民家の正門、石 垣、石塀、石蔵等を造っています。庄内には50ヵ所以上石塀・石 垣などが残っていて、100年以上たった今でも独特の景観を 保っています。写真の旧持永家石塀は徳永長太郎が手がけ、明 治45年2月竣工したものです。旧持永家住宅隠居棟と旧持永 家住宅門及び石塀は平成30年に国の登録有形文化財に指定 されました。 安永城跡・地頭仮屋跡 (やすながじょう、じとうかりやあと) 都城島津家第6代領主北郷敏久(ほんごうとしひさ)が築いたとい われる安永城跡です。庄内小学校の西側丘一帯に広がる城は本 丸、二の丸、金石城、取添(とりぞえ)の4つの曲輪(くるわ)から 成っており、北郷家が自ら築造した領内最初の城でした。戦乱の 時代が過ぎ、徳川政権の一国一城令(いっこくいちじょうれい)で 城郭は取り壊されましたが、その後は領内五口六外城(いつくち むとじょう)の一つ安永郷(やすながごう)の要(かなめ)として地 頭仮屋が置かれその機能を果たしました。現在は本丸のみが市の 公園(庄内児童公園)となり、管理保存されています。 山久院跡 (さんきゅういんあと) 山久院は都城島津家初代領主北郷資忠(ほんごうすけただ)の菩 提寺(法要等を行う寺)でした。資忠は鹿児島島津家第4代藩主島 津忠宗(ただむね)の6男で、戦功により北郷300町(300ヘクター ル)を与えられ、1352年山田町古江に居宅を構え領地の治政にあ たりました。墓は山田町古江にあり、その後庄内町に移されたと 伝えられています。明治の初めに起きた廃仏毀釈(はいぶつき しゃく)により廃寺となり、現在では資忠夫妻の石塔のみが残さ れています。石塔は五輪塔(ごりんとう)と言われるもので、下か ら地輪、水輪、火輪、風輪、空輪と呼ばれています。 院跡 (ちょうこういんあと) 都城島津家第7代領主北郷数久(ほんごうかずひさ)の菩提寺跡 ですが 2代 北 郷 義久(よしひさ)の 供 養 塔、4代 北 郷知久(ともひ さ)、5代北郷持久(もちひさ)とその室、7代北郷数久(かずひさ) とその後室の墓、そして北郷相久(すけひさ)の墓が存在します。 相久は10代時久(ときひさ)の嫡男でしたが、父に嫌疑を掛けら れ、金石城で自刃します。相久自刃の場所に後年造られていた石囲 いも平成4年にこの墓地に移されています。山久院跡と釣璜院跡 は代々都城島津家が管理してこられましたが、現在は庄内地区ま ちづくり協議会が引継ぎ管理しています。 みんなでつくる 住みよいまち 庄内 諏訪神社 (すわじんじゃ) 諏訪神社は文和四年(1355年)、都城島津家初代領主北郷資忠 (ほんごうすけただ)により創建されました。資忠が鹿児島の諏 訪神社を参詣した際、社頭より鎌が飛んできて、着物の袖に 入ったので、それを持ち帰りご神体として、諏訪神社を創建し たと伝わっています。以来、諏訪神社は都城島津家により厚く 崇敬され、祭礼も盛大で格別なものでした。江戸時代までは「諏 訪祭礼」が行われていました。領主が神社に到着すると、社頭で 舞楽などが行われ、門農民による相撲、流鏑馬(やぶさめ)、あげ 馬などが行われていました。このように都城の鎮守(ちんじゅ) としての役割をもっていました。 都城島津家第7代領主北郷数久(ほんごうかずひさ)の時代、島 津家と伊東家は飫肥城(おびじょう)争奪戦に明け暮れていま した。業を煮やした島津宗家は伊東家と交渉し、飫肥城を島津 家が確保する代わり三股院千町を伊東家に譲る事で交渉が成 立しました。同時に都城領であった志和池城も伊東家に譲る事 になりました。数久は志和池城にあった応神天皇(おうじんて んのう)を祀る八幡神社を現在地近くの宮原に移したと言われ ています。明治3年三島通庸(みしまみちつね)はこの神社を現 在地に移し、都城島津家初代本郷資忠(ほんごうすけただ)の霊 と合祀し豊幡神社としました。 豊幡神社 (とよはたじんじゃ) 菅原神社 (すがわらじんじゃ) 地元では天神様とも呼ばれています。菅原道真公を文教の神と して祀る社は全国1万2千社を数えると言われ、平安時代中期か ら現在に至るまで広く信仰崇拝されています。ここの天神様は 説明板によれば、明治初期、三島通庸公が志和池天満宮を庄内 に遷し文教の守護神として祀ったとあります。ところがその後 志和池に種々の厄災が起こり、再び志和池に戻し、明治25年に 科長(しなが)神社に合祀するとともに、庄内の現在地にも天神 様を祀ったとあります。ここに鎮座するまでには色々経緯が あったようですが、現在では庄内の文教守護神として尊崇され ています。 漂泊の俳人種田山頭火は、昭和5年9月22日高崎新田駅前の宿 を徒歩で出発し、谷頭を経て庄内に来ています。「行乞記」には 自動車乗場の押揚ポンプの水がおいしかったことや、小さな女 の子に親切にしてもらったことなどが書いてあります。庄内地 区まちづくり協議会では「都城に山頭火の句碑を建立する会」 (会長:藤永伸都城高専教授)に協力し都城市消防団庄内分団 第28部詰所敷地内に句碑を建立し、平成29年5月7日除幕式を 行いました。インド産赤御影石の句碑には「あかつきの高千穂 は雲かげもなくて」を書家谷口昇子さんの揮毫により掘ってあ ります。 種田山頭火句碑 (たねださんとうかくひ) 13

MAP三島通庸は明治 2 年 34 歳の若さで都城の地頭として赴任します が、都城島津家の元領主を地頭に推す勢力等の抵抗に遭い、庄 内の安永城仮屋を役館とし、都城を上荘内郷、下荘内郷、梶山郷

  • Upload
    others

  • View
    1

  • Download
    0

Embed Size (px)

Citation preview

Page 1: MAP三島通庸は明治 2 年 34 歳の若さで都城の地頭として赴任します が、都城島津家の元領主を地頭に推す勢力等の抵抗に遭い、庄 内の安永城仮屋を役館とし、都城を上荘内郷、下荘内郷、梶山郷

三島通庸は明治2年34歳の若さで都城の地頭として赴任しますが、都城島津家の元領主を地頭に推す勢力等の抵抗に遭い、庄内の安永城仮屋を役館とし、都城を上荘内郷、下荘内郷、梶山郷に分割します。明治3年からは通庸は上荘内郷と梶山郷の地頭となり、新しい時代に備えた画期的なまちづくりに取り組みます。庄内に60戸の商人と士族260戸を移住させ、家屋敷を造って与えました。他にも常備隊の編成、教育、産業の振興、道路の造成、堤防の築造、母智丘神社をはじめとする神社の修築等をわずか2年で驚異的に達成しました。お軍神には「三島通庸遺徳碑」が建てられています。

庄内小学校正門脇に2本のイチイガシの巨木と数基の石碑が建っています。三島通庸はここにあった稲荷神社を三股に遷し、その跡地に鹿島神社を勧請し金石大明神を合祀して庄内鹿島神社を創建しました。鹿島神社の祭神はタケミカヅチの神と言う武の神様、そして武勇を馳せた北郷相久(ほんごうすけひさ)の霊を祀った神社でしたから庄内ではここを「お軍神様」と言うようになりました。明治35年この神社は諏訪神社に合祀されました。その後ここには三島通庸遺徳の碑、征清記念碑、日露戦役記念碑、日露戦役従軍者の刻名碑、三原叢五先生顕彰碑、庄内空襲の碑が建てられています。

三島通庸公のまちづくり (みしまみちつねこうのまちづくり)

お軍神(おぐんじん)

庄内町まちあるきMAPマ プッ

お問い合わせ

庄内地区まちづくり協議会〒885-0114 宮崎県都城市庄内町12692番地

(庄内地区公民館内)URL:http://www.bonchi.jp/shonai/

宮崎県都城市

平成31年3月発行

TEL:(0986)37-3488 FAX:(0986)37-2728

願心寺(がんしんじ)

6清涼山願心寺は明治11年の仮説教所設置に始まり、明治17年正式に創立され、現在の本堂は明治39年に建立されました。6年の歳月をかけて完成したもので、門徒総出で霧島からケヤキを運び出し、当時としては珍しい「総ケヤキ造り」の本堂を造り上げました。また、周囲の窓は洋式のガラス窓で、上に押し上げて開くようになっています。堂々たる山門は大正9年に落成し、続いて大正13年に鐘楼が落成しました。平成16年には本堂と山門が国の登録有形文化財として認定されました。このような願心寺は、信仰の対象としても、文化財としても歴史が古く、私達の心のよりどころとして大事な存在です。

八坂神社 (やさかじんじゃ)

南洲神社(なんしゅうじんじゃ)

石垣群(いしがきぐん)

10

11

12

願心寺山門の道路を挟んだ向かい側の小高い場所にあります。願心寺の境内に昔から由緒不明の祠(ほこら)があり、これが山門建設の邪魔になってここに遷されたものです。町区の有志がこの祠を、商売繁盛の神様として町区の鎮守様にする事にし、早速京都祇園の八坂神社の御霊(みたま)を勧請して社を新築したのが大正8年の事です。その後町区では毎年の祭礼は京都本社の伝統に倣って山車を繰り出し盛大なお祭りを行っています。願心寺山門の建築工事に来ていた京都の宮大工達が庄内の若者達を指導して町を練り歩いたのがその起こりと言われています。

昭和2年、それまで区の鎮守様がなかった西区では、西郷南洲(さいごうなんしゅう、西郷隆盛の号)没後50周年を記念して南洲翁の御霊と庄内出身の西南戦争戦没者56名の御霊を祀る神社を創建することになりました。たまたま諏訪神社の旧社殿が保存されていたのを譲り受け、区民総出で城山の一角に敷地を造成して準備を整えました。鹿児島南洲神社から分霊を請願しましたが、難航しようやく昭和4年に許可が下り区民歓喜の中で遷座が行われました。その後社殿は昭和53年不慮の失火で焼失しましたが55年再建されました。南洲神社は全国に4社があります。

前田正名が用水路工事を進めていた明治32年頃、腕利きの石工(いしく)徳永長太郎(鳥取県出身)が呼ばれました。石工として弟子を育てながら、用水路工事が終ると願心寺の山門、鐘楼、本堂、周囲の石垣などを造り、さらに多くの民家の正門、石垣、石塀、石蔵等を造っています。庄内には50ヵ所以上石塀・石垣などが残っていて、100年以上たった今でも独特の景観を保っています。写真の旧持永家石塀は徳永長太郎が手がけ、明治45年2月竣工したものです。旧持永家住宅隠居棟と旧持永家住宅門及び石塀は平成30年に国の登録有形文化財に指定されました。

安永城跡・地頭仮屋跡 (やすながじょう、じとうかりやあと)

1都城島津家第6代領主北郷敏久(ほんごうとしひさ)が築いたといわれる安永城跡です。庄内小学校の西側丘一帯に広がる城は本丸、二の丸、金石城、取添(とりぞえ)の4つの曲輪(くるわ)から成っており、北郷家が自ら築造した領内最初の城でした。戦乱の時代が過ぎ、徳川政権の一国一城令(いっこくいちじょうれい)で城郭は取り壊されましたが、その後は領内五口六外城(いつくちむとじょう)の一つ安永郷(やすながごう)の要(かなめ)として地頭仮屋が置かれその機能を果たしました。現在は本丸のみが市の公園(庄内児童公園)となり、管理保存されています。

山久院跡(さんきゅういんあと)

2山久院は都城島津家初代領主北郷資忠(ほんごうすけただ)の菩提寺(法要等を行う寺)でした。資忠は鹿児島島津家第4代藩主島津忠宗(ただむね)の6男で、戦功により北郷300町(300ヘクタール)を与えられ、1352年山田町古江に居宅を構え領地の治政にあたりました。墓は山田町古江にあり、その後庄内町に移されたと伝えられています。明治の初めに起きた廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)により廃寺となり、現在では資忠夫妻の石塔のみが残されています。石塔は五輪塔(ごりんとう)と言われるもので、下から地輪、水輪、火輪、風輪、空輪と呼ばれています。

釣璜院跡(ちょうこういんあと)

3都城島津家第7代領主北郷数久(ほんごうかずひさ)の菩提寺跡ですが2代北郷義久(よしひさ)の供養塔、4代北郷知久(ともひさ)、5代北郷持久(もちひさ)とその室、7代北郷数久(かずひさ)とその後室の墓、そして北郷相久(すけひさ)の墓が存在します。相久は10代時久(ときひさ)の嫡男でしたが、父に嫌疑を掛けられ、金石城で自刃します。相久自刃の場所に後年造られていた石囲いも平成4年にこの墓地に移されています。山久院跡と釣璜院跡は代々都城島津家が管理してこられましたが、現在は庄内地区まちづくり協議会が引継ぎ管理しています。

みんなでつくる住みよいまち 庄内

諏訪神社 (すわじんじゃ)

7諏訪神社は文和四年(1355年)、都城島津家初代領主北郷資忠(ほんごうすけただ)により創建されました。資忠が鹿児島の諏訪神社を参詣した際、社頭より鎌が飛んできて、着物の袖に入ったので、それを持ち帰りご神体として、諏訪神社を創建したと伝わっています。以来、諏訪神社は都城島津家により厚く崇敬され、祭礼も盛大で格別なものでした。江戸時代までは「諏訪祭礼」が行われていました。領主が神社に到着すると、社頭で舞楽などが行われ、門農民による相撲、流鏑馬(やぶさめ)、あげ馬などが行われていました。このように都城の鎮守(ちんじゅ)としての役割をもっていました。

8都城島津家第7代領主北郷数久(ほんごうかずひさ)の時代、島津家と伊東家は飫肥城(おびじょう)争奪戦に明け暮れていました。業を煮やした島津宗家は伊東家と交渉し、飫肥城を島津家が確保する代わり三股院千町を伊東家に譲る事で交渉が成立しました。同時に都城領であった志和池城も伊東家に譲る事になりました。数久は志和池城にあった応神天皇(おうじんてんのう)を祀る八幡神社を現在地近くの宮原に移したと言われています。明治3年三島通庸(みしまみちつね)はこの神社を現在地に移し、都城島津家初代本郷資忠(ほんごうすけただ)の霊と合祀し豊幡神社としました。

豊幡神社(とよはたじんじゃ)

菅原神社(すがわらじんじゃ)

9地元では天神様とも呼ばれています。菅原道真公を文教の神として祀る社は全国1万2千社を数えると言われ、平安時代中期から現在に至るまで広く信仰崇拝されています。ここの天神様は説明板によれば、明治初期、三島通庸公が志和池天満宮を庄内に遷し文教の守護神として祀ったとあります。ところがその後志和池に種々の厄災が起こり、再び志和池に戻し、明治25年に科長(しなが)神社に合祀するとともに、庄内の現在地にも天神様を祀ったとあります。ここに鎮座するまでには色々経緯があったようですが、現在では庄内の文教守護神として尊崇されています。

漂泊の俳人種田山頭火は、昭和5年9月22日高崎新田駅前の宿を徒歩で出発し、谷頭を経て庄内に来ています。「行乞記」には自動車乗場の押揚ポンプの水がおいしかったことや、小さな女の子に親切にしてもらったことなどが書いてあります。庄内地区まちづくり協議会では「都城に山頭火の句碑を建立する会」(会長:藤永伸都城高専教授)に協力し都城市消防団庄内分団第28部詰所敷地内に句碑を建立し、平成29年5月7日除幕式を行いました。インド産赤御影石の句碑には「あかつきの高千穂は雲かげもなくて」を書家谷口昇子さんの揮毫により掘ってあります。

種田山頭火句碑 (たねださんとうかくひ)

13

Page 2: MAP三島通庸は明治 2 年 34 歳の若さで都城の地頭として赴任します が、都城島津家の元領主を地頭に推す勢力等の抵抗に遭い、庄 内の安永城仮屋を役館とし、都城を上荘内郷、下荘内郷、梶山郷

みしま  みちつね い とく ひ

ぐんじん

ちょうこういん

がん しん じ

すが わら

とよ はた

さんきゅういん

● ●

● ●

●●

かわくぼ商店 大橋クリニック

山元精肉店

城村菓子店

宮崎銀行

ガソリンスタンドJA

●くろき葬祭

喜久寿し 都ラーメン

広域農道

←至関之尾滝

河の駅

太田菓子店

急坂・車可

体育館

運動場

地区体育館

●●

JA 庄内支所末原歯科

●庄内地区市民センター

庄内地区公民館

…トイレ

…バリアフリートイレ

● ……菓子店

……お食事処

●…商店

★…コンビニ

…駐車場

①地頭仮屋跡

●●

石造り倉庫

③釣璜院跡

⑪南洲神社

④三島通庸遺徳碑

⑤お軍神

森永牛乳

町区自治公民館ガソリンスタンドENEOS

●ルンビニ保育園

⑥願心寺

鐘楼

みぞのくち精肉店

②山久院跡⑧豊幡神社

⑦諏訪神社

⑨菅原神社

郵便局●

やまもと菓子店

庄内中学校

運動場

↑至西岳・霧島

琴吹寿司

…まちあるきコースⒶ…石垣群 …まちあるきコースⒷ

SG

…各コース・スタートS S…各コース・ゴールG G …ウォーキングコース看板

●パシオ庄内店

南崎茶業

山元商店

至都城市街地↓

●鵜島商店

池田いちご園(ソフトクリーム)

庄内医院

白寿園

山門

もちなが邸

GS

交番●

庄内小学校

まちあるきコースA 約4.5km/所要時間:約2時間史跡や石垣群、5社1寺を巡ります(健脚向き、神社階段あり)庄内市民広場駐車場スタート>もちなが邸石垣>釣璜院跡>お軍神>南洲神社>安永城跡>地頭仮屋跡>石垣群>山久院跡>豊幡神社>諏訪神社>菅原神社>願心寺>鐘楼・山門・石垣>八坂神社>ゴール

まちあるきコースB 約2.5km/所要時間:約1時間 いくつかの史跡や石垣を見ながら散策します。(軽いまちあるき)もちなが邸前スタート>石造り倉庫>お軍神>地頭仮屋跡>石垣群>山久院跡>豊幡神社>石垣群>願心寺>もちなが邸石垣>ゴール

庄内市民広場

や さか

⑩八坂神社

庄内町まちあるきMAP

①庄内児童公園(安永城跡)

馬場

かこい 

ばば

北郷馬場

ほんごう 

ばば

やすなが 

ばば

天神馬場

車椅子ごと入れる

セブンイレブン

てんじん 

ばば

トイレ男性用…3女性用…1(車椅子兼用)

トイレ男性用…6女性用…3車椅子…1

駐車場…20台

トイレ男性用…4/女性用…2(土日・祝日休館)

駐車場…10台

駐車場…10台

駐車場…50台

トイレ男性用…5女性用…3

駐車場…10台(檀家様優先)

トイレ男性用…1女性用…1

▶もちなが邸石垣

▶南崎茶業石蔵

◀願心寺石垣

庄内市民広場駐車場スタート

もちなが邸前スタート

三島通りみし

A

B

階段84段

階段92段

町屋カフェもちなが邸

お8つ屋 安永馬場

清涼交流館

清涼幼稚園

みや じ  ばば

宮路馬場

きりしま屋

このような看板が立っています。

熊襲踊(くまそおどり)は毎年11月に諏訪神社に奉納されます

⑬種田山頭火句碑たねださんとうかくひ

ぐん じん  ばば

軍神馬場もと まち  ばば

元町馬場