26
- 西 % 西 ( ) ( ) > 調 . ( )

軍 専 印 に 生 所 経 た に 事 売 を つ 産 済 課 。 宋 …...ヨ た 可 能 性 を 指 摘 し た。程 民 生 氏 は 、 河 北 ・ 陝 西 の 生 産 力

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Page 1: 軍 専 印 に 生 所 経 た に 事 売 を つ 産 済 課 。 宋 …...ヨ た 可 能 性 を 指 摘 し た。程 民 生 氏 は 、 河 北 ・ 陝 西 の 生 産 力

宋代の物流と商人

-

軍糧納入

への関わりを中心として

西

 エ 

宋朝

の財政は、八〇%前後が軍事支出

であ

ったという事実が示すように、軍事と極めて密接

な関係にあ

った。特

に、西夏

・遼の脅威

に対抗するため辺境地帯に駐留させた軍隊に対する補給線の維持は財政上

の大きな課題であ

た。課

題克服のために宋朝が用いた手法は、「全国各地

における特産品生産の進展と全国的市場

の形成」という宋代

   

経済

の発展を背景としたものであ

った。日野開三郎氏は、「彼等

(京師の米客商)は京師付近

は無論

のこと、東南

 ヨ 

所産

の糧米をも集めてこれを北送し、駐辺軍の需要を充していた。〈(

)内は筆者

による>」

と述

べ、江南地方の

生産力と辺境

の軍糧納入を開封の商人によ

って結び

つけた。斯波義信氏は、穀物

の現地調達法

である坐倉

.寄糴等

ついて言及するも、華北を

「非自給地」とし、「宋代の補給体制と図」では江南から河北

への物資移動を示す矢

を描いてい麗。以上に対し、宮澤知之氏は、財政的物灘という概念を提示した。国家が物流

に介入

(財政手段、

専売制度、手形制度等)することによ

って商人を動かし、江南から北辺に大量の軍事物資が移動し、それに伴

って

軍事物資以外

の商品が流通したと述

べる。これまで、商業

の発展

・生産力の上昇という前提

のもとで議論されてき

宋代の物流と商人

Page 2: 軍 専 印 に 生 所 経 た に 事 売 を つ 産 済 課 。 宋 …...ヨ た 可 能 性 を 指 摘 し た。程 民 生 氏 は 、 河 北 ・ 陝 西 の 生 産 力

た辺餉問題について、財政的物流というあらたな視点

(分析ツール)を提供した。しかし、客商を利用し、江南の

物資を北辺

・西北辺

へ輸送

・納入させるという点は従来の説を踏襲するものである。以上の見解は、今日に至るま

で、辺餉問題を考える上の基本構造として定着してきたと言えよう。

   

開封

の米客商が軍糧納入の中心であるとする日野氏

の主張は、軍糧納入に携わる行商を開封

の米行商とする理解

による。氏は、『続資治通鑑長編』

(以下

『長編』と略記)巻六〇

景徳二年五月辛亥

の条の

其れ辺に粟を輸す者、尽くは行商に非ず、率ね其れ土人なり。既に交引を得て、特

に衝要

の州府に詣りて之を

鬻ぐ。市得する者京師に至ること寡なし。京師に座賈鋪を置き、名を権貨務に隷する有り、交引を懐にする者

之に湊まる。若し行商ならば則ち鋪賈為に保任し、京師摧貨

務に詣りて銭を給す。又た南州に移文して茶を給

す。若し行商に非ざれば則ち鋪賈自ら之を售

い、茶賈に転鬻す。

いう記事をあげて、「京師

の公認坐賈として行を結成していた交引鋪

の保任を受け得た交引

(約束手形)持参

行商はやはり京師の坐賈、さら

に絞

っていえば京師の米行商でなけれぼならぬ。かくて沿辺輸粟の中心をなしてい

 ヱ

た客商はその主力が京師の米行商

の客販活動にほかならぬものであ

ったということになる。」と述

べ、辺境の軍糧

入と京師

の行商との密接な関係を主張する。行商が開封の米行をさすという指摘は、加藤繁氏も前掲の

『長編』

   

の記述をあげ

「文中、行商とあるのは開封の米行人を指すのであろう」と日野氏と同様

の見解を示している。これ

す 

あ 

に対し、後藤久勝氏は、小野寺郁夫氏

・宮澤氏の所説を受け、行商とは、開封

の米行所属

の商人ではなく、

一路全

   

もしくはそれ以上にわたる地域を活動範囲とする客商

のことをさし、入中商人の多数を占め

るのは二

つの州

の間

 ね 

いったごく限られた地域を活動範囲とする地

つきの商人である土人とする。

筆者は、先

に東南諸路から西北辺境地域

への輸送行為

に注目し、開封から陝西各地

への輸送費を分析した。その

果、通常時

における遠距離の輸送をともなう商業行為が困難であるため、軍糧納入が現地

の商人を中心に行われ

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 ヨ

た可能性を指摘した。程民生氏は、河北

・陝西の生産力について分析を行い、軍事物資の大部

分は河北或

いは陝西

 ぜ

でまかなわれたと指摘する。また、江南から辺境

への軍糧納入の前提となる

「全国的市場」

について、後藤氏は

斯波氏が示す米穀

の遠距離流通の例は

「多くは

一路内の州軍

の問か、あるいは路境を挟んでは

いても比較的近接し

 ぽ 

た州軍の間における移動を示したも

の」であることを指摘した。氏は続いて、『宋会要輯稿』

(以下

『宋会要』と略

記)食貨

一五~

一六

商税雑録

煕寧

一〇年

(1O七七)

の商税統計

(以下

「商税統計」と略

記)を手がかりとし、

 あ 

宋代

の行塩地区分

(塩の販売指定区域)と重なる流通圏の存在を指摘する。以上の見解は、「開封

の客商」と

「辺

の軍糧納入」との密接な関係に対して疑問を提示するものではあるが、現在のところ、これらの研究成果が宋代

辺餉問題の解明に反映されているとは言い難

い。

軍糧納入に関わる物流は、江南から華北全域を覆うも

ので、宋代を代表する遠距離流通と考えられてきたも

ので

り、実情の解明は、物流の全体像を考える上でも非常

に重要である。本稿では、開封と河北

・陝西を結ぶ、軍糧

入に直接関わる物流に注目し、「客商を利用し、江南

の物資を北辺

・西北辺

へ輸送

・納入させる」という従来

を検証する。

しかしながら、商人に関する記述は断片的なものが多く、彼らがどのように行動し、どの程度の規模であ

ったの

かを詳しく知ることはできな

い。それでは、物流の状況を考察し、従来の説を検討するには、不充分である。そこ

で、本稿では、史料の不足を補うために

「商税統計」を用いる。商税統計は客商の扱う商品を主な課税対象とする

のであり、その額の多寡はある程度商品流通を反映しているも

のと思われる。加えて、「商税統計」を地図上に

とし、交通路を分析することによ

って、これまでより詳しく物流の方向と大きさを知ることが可能となる。先学

の業績をふまえ

つつ、商税統計を分析の対象に加えることで、軍糧納入に携わる商人の実情にせまり、物流

の全体

像を描く手がかりとしたい。

宋代の物流と商人

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なお、本稿では、路全体もしくはそれ以上にわたる地域を活動範囲とする商人を客商、二

つの州

の間といったこ

 レ 

く限られた地域を活動範囲とする地

つきの商人或

いは現地

の住民を土人と表記し、商人とは両者を含んだ商人全般

を指す場合に使用するものとする。

宋代の商税制度

 あ 

商税

には過税と住税の二種類がある。課税の対象は、客商

の扱う商品であり、農民が販売する少数の商品に対し

 ゆ 

て商税はかからない。過税は通過税で、商人が貨物を持

って税務を通過するさ

い、

一州について

一度、原則として

州治でその価格の二%が徴収されるが、州内で生産された商品には課税されな

い。住税は入市

税の系列に入り、税

 ね 

は三%

である。

 れ 

課税対象は、布帛

・什器

・香薬

・宝貨

・羊豚

・荘田店宅

・馬牛驢騾

・茶塩等である。

一般の穀物については、災

 お 

害時などを除き、課税されたと思われるが、軍糧も同様に課税されていたかどうかは特定できない。天禧元年

(一

   

一七)に陝西縁辺にた

いして

「陝西

の縁辺穀を鬻ぐ者、算えること勿れ。」という詔が出

されているが、前月

   

(一一月)に陝西の災害を理由

に布畠による税の代納を認めている。地域も限定されており、軍糧に対する課税免

除と考えるより、

一般

の穀物に対する他の多くの例と同様、災害時の臨時的な措置と考えるのが妥当であろう。北

の市糴

(穀物の購入)に関する記述中には、「地理

の遠近を度り、其の虚估を増して券を給

し、茶を以

って之を

 お 

う。」或いは

「内地の諸州に三説法を行い、人を募りて入中せしめ、且

つ、東南

の塩を以

って京師

の実銭に代え

(26)

(27)

ん」等とあるように、支払いに関する記述は散見するが、商税免除に言及するものは管見の限

りでは見

いだせない。

   

また、漆侠氏は、延州を例にあげ

て、辺境に駐留する軍隊

への軍糧調達と商税との密接な関係

について指摘し、宮

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 お 

澤氏は

「いうまでもなく商税は軍糧には課せられるが」と軍糧

への課税について述

べている。

辺境での穀物の買い入れは、国家によ

って財政的

に誘導されたものではあるが、応じるか否

かは商人の自由意志

 れ 

   

であり、上供等の官が直接指導する輸送

の際に商税が免除される場合とは事情が異なる。商人

の自由意志

である入

に商税が課税されないとするのは不自然である。無論、臨時的に免除された可能性は否定できな

いが、税務全体

を見渡したとき、米穀に対して課税を行わなか

った税務を特定することは事実上不可能であるし、

一般的な傾向と

て、通常の穀物と同様、軍糧にも課税していたとすることが妥当であると思われる。本稿では軍糧に対しても課

税が行われていたとして、以下を叙述する。

一般的に商税額

の多寡は、商品流通を反映していると考えられるが、後藤氏は

『元豊九域志』の戸

口統計を分析

 お 

の対象

に加えることによ

って、より詳細に流通

の実態を示した。これは、単に商税額の多寡を比較する場合に比べ、

 お 

商税統計と物流

の関係を分析する上で、非常

に有効である。氏は、この手法を用い、全国規模

で流通圏の分析を行

 ぬ 

い、すでに河北や陝西が開封や江南地域とは異なる流通圏に属することを指摘している。しかし、後藤氏も指摘す

るように市場圏は商品

によ

って異なるものであり、江南から開封を経て河北

・陝西辺境

へと軍糧が移動した場合、

 あ 

販売

ルート上にあたる州軍は、行塩地区分

に関係なく商税額が大きくなることが予想される。軍量納入に関わる物

については、後藤氏とは別に、地域ごとに分析する必要があろう。

そこで、本稿では河北

・陝西に地域を限定した上で、後藤氏になら

って戸

口と商税額

の関係を示した図1と2を

   

成し、加えて物流

のルートと方向を考察するため、交通路を書き入れ、各州の商税額を地図

上に落とした図3と

 タ

4を作成した。図1と2にみえる直線

(回帰直線)は、戸数と商税額の標準的な関係を表したものである

(以下、

標準値と表記)。この直線より上にある州は戸数に対する商税額が平均より多く、下にある州

は平均より少ないこ

とになる。

つまり、直線より上にある州は下にある州に比

べ活発な商業活動を想定できる。また、地図

の州名の側

宋代の物流と商人

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k

0000

20

名大◆

口戸

図1河 北の戸口と商税額

槍 ◆

浜◆

圓㎜

㎜ 

 

 

 

 

i

OO

7厚

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0000

25

00002000015OO000 

戸 口

図2陝 西の戸口と商税額

00OO5

Y慳潟Q

㈹㎜

○O00 

 

 

 

 

 

 

78

ハ0

 

 

 

 

 

 

 

 

匚り

4

 

 

 

 

 

 

90

り白

O

oo

o

oo

 

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図3河 北の商税値

の数字

(以下

、商税値と表記)は、

標準値と実際

の商税額の値との関

係を標準値と実際の値が同

一の場

合を

一〇〇とし、地図上に示した

ものである

(商税値が

一〇〇を越

える府州、

つまり活発な商業活動

を想定することができる府州には

色を

つけた)。

図1~4を用

いることで、商業

活動の活発な州とそうでない州が

交通路に沿

ってどのように分布し

ているかを把握し、加えて交通の

要所にあたる州を詳細に分析する

ことで、物流

の方向と大きさを推

測することが

できる。以上の図

に、

記述史料を加えることで、より詳

細に河北

・陝西における物流の状

況を考察でき

ると考える。なお、

商税額の表示は、貫までとし、

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図4陝 西の商税値

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一〇

貫未満の数値は切り捨てとする。

河北

への物流

 お 

開封から河北辺境

への物流は、御河

・黄河による水運と陸運、或いは両者の組み合わせが考

えられる。煕寧

一〇

図5開 封周辺

(一〇七七)前後

の河北では、年間

二〇〇~三〇〇万貫

 み 

を軍糧

の市糴に用いていた。仮

に開封

から河北辺境

へと大

量の軍糧が移動した場合、

ルート上の諸州府の商税値は大

きくなるはずである。開封から河北

への運河上の要所

にあ

たる孟州河陰県、河北の中心地

である大名府周辺の状況に

ついて分析する。

 れ 

孟州河陰県は、沐河と黄河の結節点

にあたり、水運を利

用する場合に必ず通過する県である

(図5参照)。河陰県

の属する孟州の州治は黄河を遡

った西方に位置し、沐河か

ら黄河を経て河北

へと向かう場合、商税の徴収は河陰県で

行われたと考えられる。商税額は五七三九貫である。華北

における県城

レベルの平均商税額は約

二〇〇〇貫、多くの

商品が通過したと思われるが、黄河流

域から開封

への商品

流入も想定しなければならないため、

突出して多

いわけで

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(41)

(42)

はない。また、沐河は黄河の水量

の関係から、

一〇月から三月初めは航行不能となる。年間を通しての輸送には不

きであり、大量の軍糧を沐河を利用して河北

へと持ち込んだとは想定しにくい。

大名府は、河北における政治

・経済の中心地であり、府内には黄河と御河の水運に加えて北部

への陸路が通じて

いる

(図3参照)。商税値も高く

(一九三)、活発な商業活動を想定することができるが、大名府の北

に位置する諸

の商税値はいずれも標準値を下回り、御河や陸路に沿

って北方辺境方面に大量の商品が移動した形跡はな

い。そ

れでは、北部辺境地帯における軍糧

の獲得は、どのよう

に行われたのか。

『欧陽文忠公文集』巻

一一七

「乞置御河催綱」には、

臣伏して沿辺の鎮

・定等十六州軍を見るに、毎年斛斗を入中せしめ、並びに在京

一色

の見銭を支す。自来止

全て沿辺入中に仰ぐのみならず、又近裏州軍に於

いて斛斗を計置し、御河

の漕運に従

い辺

に輸すは、軍儲不闕

の所以なり。

とある。欧陽脩が河北転運按察使

に就任した慶暦四年

(一〇四四)には廃止されていたが、沿辺入中と同時に近裏

州軍

(大名府周辺)での穀物調達と御河による沿辺

への漕運が行われていたことがわかる。包拯は豊作の際に近便

 ぬ 

の州

(運河周辺P)で穀物の買い入れを行

い、御河を利用して沿辺

に漕運するよう主張し、薛向

は漉

・魏

(大名

 む 

)の粟を市糴し、黄河と御河を利用して辺に給するよう主張する。また、欧陽脩は、河北辺境で消費される物資

ついて述

べた中で、浜

・搶

・徳

・博の四州をあげて、

 あ 

辺上

の州軍少闕に遇う毎に、即ち本司この四州より支撥せしめ、虚月有ること無し。

と述べている。黄河の下流域が辺境の補給政策にとって重要な役割をはたしていたことがわかる。同地域の物資は、

『范文正公文集』巻

=二

「范公墓誌銘」に、

公徳博

の聞の地を視るに、惟だ沃饒にして菽粟歛め易きのみならず、又河渠は塞下

に通ず。大

いに之を致すべ

宋代の物流と商人

Page 12: 軍 専 印 に 生 所 経 た に 事 売 を つ 産 済 課 。 宋 …...ヨ た 可 能 性 を 指 摘 し た。程 民 生 氏 は 、 河 北 ・ 陝 西 の 生 産 力

一二

し。乃ち諸州の緡銭を輦ぎ、就くに平糴を以

ってし、方舟順流して、辺廩に集めしむ。

とあるように、黄河

の下流域で購入し、御河を用いて辺境の城塞

へと送られたと思われる。

 タ

以上のように、河北

の補給政策

に関する言及の中には、大名府周辺や黄河下流域等の生産力

の高

い地域で行う市

糴と御河の漕運との連携

について述べるも

のが多く、開封や江南方面からの軍糧運搬についての言及はな

い。また、

上記の記述から、必ずしも河北南部

・黄河下流域の物資を客商が直接辺境

へと持ち込んでいた

わけではなく、比較

生産力の高

い地域で調達された物資が漕運によ

って辺境

へと送られたことがわかる。実際、

元豊七年

(一〇八

 り 

四)の河北

の穀物備蓄量は、人糧

・馬料を合わせて総額が

=

七六万石であ

ったが、元豊

二年

(一〇七九)の時点

ま 

で漕州

・大名府に六七〇万石の備蓄があ

った。若干時間

のずれがあるものの、六〇%の穀物が南部

の二府州に備蓄

されていたこととなり、軍糧納入に関わる客商

の移動のすべてが北方辺境を終着点とするものでなか

ったことは明

 ゆ 

かであろう。また、このことは、軍糧の半数が辺境以外の地で消費されていたという実状にも合致する。

史料中に現れる河北

の物資集積地は、大名府

(一九三)・滬州

(一四

一)・瀛州

(一四六)・定

(一ニ

1)・真定

   

(一四九)の五州府

である。

いずれの州も商税額

は標準値を上回り、加えて、「大名府

と漕

州」、「瀛州」、「定州 み

 

と真定府」

の三

つの地域を中心として周辺を標準値以下の州が取り囲む形でブ

ロックを形成し

ているように見える。

これは、黄河の下流域を除くと、河北に置かれた安撫使管轄下の四つの軍事路の内、大名府路

(大名府、漕

・懐

・徳

・博

・浜

・棣州)、高陽関路

(瀛

・莫

・雄

・霸

・恩

・冀

・滄州、永静

・保定

・乾寧

・信安

軍)、定州路

(定

 の 

・深

・祁州、広信

・安粛

・順安

・永寧軍)、真定府路

(真定府、磁

・相

・邪

・趙

・洛州)に重な

る部分が多い。

無論、宋朝中央からの資金

(布帛や専売品を含む)援助や御河による大名府あるいは黄河下流域からのサポート

ヨ 

を必要としたことは、疑

いようはな

いが、河北には大名府

と漉州

(河北南部)、瀛州

(河北東

部)、定州と真定府

 ロ 

(河北西北部)を中心とする三つの物資集積地が存在し、それぞれがその周辺地域から軍糧を調達していたのでは

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いだ

か。三

陝西

への物流

 あ 

陝西において軍糧の代金として使用された解塩の年額は、煕寧

一〇年

(1O七七)には二一二〇万貫であ

ったから、

その額

に相当する軍事物資が陝西に持ち込まれたことになる。開封方面から軍糧を持ち込む場合、河南府から陝州

を経由し、坊州

・邪州を通

って西北辺境

へといたるルートが中心となる。交通の要所にあたる陝州と坊州

・邪州を

通過する物流について順に検討する。

陝州は、陸運だけでなく、黄河の水運を利用する場合でも、開封方面からの物資流入のほぼ唯

一のルートである。

4をみると陝州の商税値

(ニ

10)は大きく、活発な商業活動を想定

できるが、陝州を経

て陝西各地

へと商品を

運搬する際に通過する華州

の商税額は陝州よりも少ない

(陝州四二五〇九貫

華州二九四四九貫)。加えて、華州

の商税値は標準値より少なく

(九五)、大きな商品の移動は想定

できない。開封方面からの商品

流入が陝州

の商税

増加

の主要因とするには無理がある。当時、陝西から搬出される商品

の中で商税に大きな影響

を与えたのは、解州

   

の解

・安邑の両県を産地とする解塩である。ここから搬出される塩の多くが黄河を渡り、陝州を通過し、行塩地各

 ヨ

へと持ち出された。開封

・河南方面から陝西

への物流は、陝州の商税額に大きな影響を与える量ではなく大量

軍糧が陝西

へと流入した可能性は低

い。

筆者は、以前

『長編』巻三四四

元豊七年三月癸丑の

又竊

に見るに関陝以西より沿辺諸路に至るまで、頗る東南

の商賈有りて、内永興軍

・鳳翔府数処の如きは尤も

多し。宋

代の物流と商人

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いう記事をあげて、陝西にや

ってきた南商は、主に永興軍路

・秦鳳路南部の比較的人口の多

い地域

で活動し、辺

 お 

境部にまで出向くことは少なか

ったことを指摘した。陝西の中央に位置する坊州

・邪州は、そ

れぞれ前線の延州

保安軍、環

・慶州、湮州

・鎮戎軍

への輸送

ルート上にあたる

(図

4参照)。陝西辺境

へ軍糧を運搬するためには必

通過しなけれぼならない州であり、南から北

へと大量の軍糧が供給された場合、坊州と邪州

の商税額は増加する

ことが予想される。しかし、両州の商税値は低く

(坊州四九

邪州七

一)、先ほどの

『長編』

の記述を裏付けるも

ので、大量の軍糧が通過したとは考えにくい。

西夏と境界を接する辺境州軍

の商税値は、異民族との交易が盛んな秦州を除くと、大量の軍糧が納入された地域

であるにもかかわらず、延州

・慶州

・渭州等の辺境の要地が標準値をやや上回る程度で、周辺を標準値以下の州に

り囲まれている

(図4参照)。これは、河北同様、陝西に置かれた安撫使管轄下の四つの軍事路の内、邸延路

 お 

(延

・邸

・丹

・坊州、保安軍)・環慶路

(慶

・環

・邪

・寧州)・湮原路

(渭

・湮

・原州、鎮戎

・徳

順軍)に相当する。

全体的

に辺境州軍

の商税額が少なく、周囲を標準値以下の州が囲んでいる状況は、延州

・慶州

・渭州を中心とし

て、軍糧

の調達が行われていたことを示しているのではないだろうか。関中だけでなく、湮原

一帯

・煕河等

の地は、

   

肥沃な土地が広がり生産力も高

い。河北のように漕運

の便があるわけではないが、辺境

の諸州

は、周辺諸州から布

 ほ 

帛等の軽貨を中心とする税物や軍事物資の運搬によるサポートをうけていた。また、西北辺境

一帯

には、蕃部と通

称された党項や吐蕃

の小部族が散在していた。宋朝は彼らに対して、内属するものを熟戸、他を生戸と呼び、部族

 お 

を単位として堡寨に付属させ、堡寨を通じて彼らの部族を把握

・支配していた。程氏によると、煕寧年間

(一〇六

八~

一〇七七)に収復した煕河地域

(陝西西部の煕州

・河州を中心とする地域)を加えた蕃部

の総人口は二五〇万

 お 

に達するという。『元豊九域志』巻三によると、陝西の戸数は

=二五万五八四四戸

である。

一戸を五口で計算す

ると口数は六七七万九〇〇〇

口、蕃部は陝西の総人ロの二七%を占めていたことになる。彼らの中には宋朝から給

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ホ 

あ 

田を受ける者や田土を所有する者がおり、辺境での和糴や博糴等

(穀物

の買

い入れ)の対象

にもな

った。彼らが軍

の調達に果たした役割も軽視す

べきではな

いだろう。

大規模な戦闘が行われるような事態

にならない限りは、河北と同様に延州

・慶州

・渭州等を中心として数州単位

の物資調達圏が存在した可能性が高

い。

河北

・陝西

の物流と商人

・交引

の関係

『宋史』巻

一七五

和糴

の条

に、

河北又商人を募りて芻粟を辺に輸せしめ、要券を以

って塩及び緡銭

・香薬

・宝貨を京師或

いは東南州軍に取ら

しむ。陜西は則ち塩を両池に受く。之を入中と謂う。

と記されているように、軍糧の獲得

に商人を利用したという点は疑

いようのな

い事実である。しかし、客商を利用

し、江南の物資を北辺

・西北辺

へと輸送

・納入させるという基本構造が成立する可能性の低

いことは、

これまでの

考察から明らかであろう。それでは、客商はどのように軍糧納入とかかわりあ

ったのだろうか。

まず、商税統計の分析から得られた物流の状況

の整理と、そこから想定できる商人像について考えてみよう。商

税統計

の分析からは、開封

からダイレクトに北辺

・西北辺とを結ぶような物流は想定できず、商税値が多い州を中

として、ほぼ軍事路に相当する数州単位の物資調達圏を構成していたことを確認した。以上

の特徴から、軍糧を

入する商人の活動範囲は比較的限定され、後藤氏が主張するように土人との関係が強

いことがわかる。少なくと

も、大量の軍糧を所持しつつ、路をまたいで辺境

へと移動する客商が数多く存在したとは想定

できない。

ただ、この事

によ

って開封等の他地域の客商が辺境での軍糧納入にかかわらなか

ったと主張しているわけではな

宋代の物流と商人

一五

Page 16: 軍 専 印 に 生 所 経 た に 事 売 を つ 産 済 課 。 宋 …...ヨ た 可 能 性 を 指 摘 し た。程 民 生 氏 は 、 河 北 ・ 陝 西 の 生 産 力

一六

い。「其輸辺粟者、非尽行商、率其土人。既得交引、特詣衝要州府鬻之、市得者寡至京師。」とあるよう

に、軍糧納

の中心とな

った土人の多くは、地方都市で交引

の類を売却している。

一方で

「以要券取塩及緡銭

・香薬

・宝貨於

京師或東南州軍、陜西則受塩於両池」とあるよう

に、開封や解州に軍糧納入の代価として支払

われた交引や塩鈔

(塩の引換券)を持参する客商がいたのも事実である。問題は、土人と客商が

いかに関わりあ

い、穀物や交引がど

のよう

に動いたのかという点

にある。本章では、

・三章での考察をうけ、当時

の客商

・土人

の関係及びその実状

について、考察する。

辺境地域で商売を行う客商

について、『長編』巻二

=二

煕寧三年七月壬辰の条に、

縁辺に商販するも、迴貨無きを以

って、故に糧草を入中し、礬

・塩を算請す。

 お 

とある。回貨

(持ち帰る商品)のな

い客商は、商品販売によ

って得た利益で糧草を入中し、礬

・塩を請求している。

『宋会要』食貨三六⊥

摧易

天聖四年三月六日の条、知渭州康継英

の言の

一節

には、

川中客旅は羅

・帛

・錦

・綺を将到して秦州に赴き貨売す。其れ秦州は惟に商税を増添する

のみならず、更に兼

ねて入中して糧草を致す。

   

とある。四川の客商は、羅

・帛

・錦

・綺を売却した後、その代金で糧草を入中した。回貨として塩鈔あるいは交子

を入手することが目的であ

ったと思われる。また、

一般の客商

についても、当時は都市からの銅銭の持ち出しが禁

 が 

じられていたために、『宋史』巻

一八〇

銭幣

の条に、

旧小平銭は出門の禁有り。故に四方客旅の貨は、交易して銭を得ぼ、必ず太半は入れて末

塩鈔に中て、告牒を

収買す。而して余銭又た流布して市井に在り。此れ上下内外交りて相

い養うなり。

とあるように、自らの商品を販売して銭を手に入れると、大半は入中して末塩鈔

(東南地方産

の塩の引き換え券)

   

を手に入れるか、告牒を買

っていた。

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以上のように、客商と軍糧納入という行為は、必ずしも客商自身が遠距離を輸送し、辺境

で納入するという形で

直接結び

つくものではなく、間に彼ら自身が持ち込んだ商品の売却という行動が存在する。こ

こでは商売で得た利

 れ 

で糧草を入中し交引を入手するという客商像が浮かび上がる。この場合、商売するのは軍糧

納入地以外の客商、

入中するのは現地

の穀物であ

ったと思われ、客商が他地域から穀物を持ち込んだわけではない。

 む

煕河地域で軍糧を納入した客商の中

に開封支払

いの塩鈔を請求するものがいたことが指摘されているが、商品

売却後

に回貨としての交引を入手することが目的

であり、開封から軍糧を持ち込んだことを示すものではないだろ

う。当時四川と陝西の問を往復する客商の中には、陝西の塩を四川

へと持ち込み四川の茶を陝

西

へと持ち帰り販売

 れ 

る者が多く

いた。彼ら客商はいかにして陝西の塩を入手し得たのか。茶の販売で得た利益を利用して、地方都市

で土人によ

って売りに出された塩鈔を買うか、自ら入中して塩鈔を入手するしかない。河北で商売を行う客商も、

回貨としての商品が手に入らない場合、自ら入中するか、土人が売りに出したものを買い取るかして交引を手に入

 わ 

たのではな

いか。開封での現銭支払

いを基本とする便糴糧草交引は、開封で南貨

(南方の産物)を仕入れて、河

・河東各地で販売するような客商にと

って、格好

の回貨たりえたと思われる。「河北又募商

人輸芻粟於辺、以要

券取塩及緡銭

・香薬

・宝貨於京師或東南州軍、陜西則受塩於両池、謂之入中。」とは、「穀物

の納入」から

「交引の

け取り」と

いう、

一連の過程の最初と最後を述

べたもので、中間部分が省略されたものであ

ったと言える。

軍糧は主として土人によ

って納入された。彼らが手に入れた交引

・塩鈔は客商に売却される。客商は、自らの商

品を売却した後、回貨としての交引等を入手するために現地

の穀物を入中する。交引と客商が常

に辺境と開封

・解

州を直接結ぶと考える必要もない。河北との取引によ

って京東

へと入った交引が、開封との取引

によ

って開封

へと

 れ 

ち込まれることや、四川

・陝西問の取引の中で循環することも考えられる。交引

・塩鈔は何度

かの売買の後、開

・解州

へと持ち込まれる。このような状況下では、手形を媒介として軍糧納入という目的は達成されるものの、

宋代の物流と商人

一七

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一八

々な地域を巡る

「客商の移動」と軍糧納入地を中心とする

「穀物

の移動」と開封と辺境との問を基本とする

「塩

・交引

の移動」は直接対応しない場合が多くなる。それが、商税統計の分析と史料上の記述

とのギャップとして

 あ

れたのではないだろうか。

国家による軍糧の調達という行為の中で、「手形」が土人と客商を

つなぐ重要な役割を果たしたことを確認した。

最後に、財政的

・社会的な側面を考慮しつつ、軍糧調達

における

「手形」の位置づけについて私見を述

べたい。

宋朝の財政収入は、増減はあるものの、両税穀物収入の総額が田土面積と戸口の増加

にもかかわらず、長期にわ

   

って増加しなかった。加えて、程氏が、国家が把握する田土面積が全体の半数に過ぎなかったことを指摘してい

 で

ことからも明らかなように、宋朝には、両税では捉えきれない穀物が大量

に存在した。

安史の乱

(天宝

一四年

[七五五]~広徳元年

[七六三])以降の中国の社会的流動性の高ま

りは、以前

のように

国家が農民を充分に把握し、現物を無媒介で徴収することを困難

にした。そのため、国家は社会との間にさまざま

「中間項」ないし

「媒介項」

(貨幣や折納

・専売

・和糴

・和買

・地主

・大商人)を差し挟む

ことによ

って物資を

 が 

調達する手法を採用した。租税として捉えきれな

い部分が大量に存在することを前提とすれぼ、軍糧獲得にと

って

一番の課題は、どこから軍糧を持

ってくるかではなく、とらえきれない穀物をどのようにし

て出させるか、

つま

りどのような

「媒介項」(財政手段)を挟むかである。

穀物と個々の客商

・土人と交引

の移動は重層的な構造を持ち、それぞれが独自

の動きをする。「穀物納入に応じ

る者」「交引

・塩鈔を受け取る者」「交引

・塩鈔を購入する者」「交引

・塩鈔を開封などに持参

する者」がす

べて同

 ゆ 

一人物である必然性はない。銅銭

の持ち出しが禁止されている状況下では、軍糧納入に大量の銅銭を支払手段とし

て用

いても、土人の場合はともかく、他地域から来た客商の場合、辺境では有効に利用する手立てがな

い。仮に持

ち出したとしても長距離の運搬

には不便で、有効には機能しなか

っただろう。「穀物」と

「個々の客商

・土人」、そ

Page 19: 軍 専 印 に 生 所 経 た に 事 売 を つ 産 済 課 。 宋 …...ヨ た 可 能 性 を 指 摘 し た。程 民 生 氏 は 、 河 北 ・ 陝 西 の 生 産 力

それの独自の動きに対して、軍糧納入という

一定

の方向性

(多くの人々の関係を円滑にし、

軍糧納入をスムーズ

に実行できるよう

にする潤滑油のようなもの)を与える媒介項が交引

・塩鈔であ

ったのではな

いだろうか。無論、

れらが有効に機能するには、宋代における商業の発達と

いう背景が存在したことは言うまでもない。

宋代の物流と商人との関係を軍糧納入

への関わりを中心に

「商税統計」を利用して分析した。結果、客商が他地

から辺境各地

へと軍糧を輸送し納入したとは考えにくく、軍事路

に相当する数州単位

の物資調達圏の存在を確認

した。軍糧納入は、土人を中心として行われ、客商は自らの商品を売却した後、回貨あるいは持ち出し禁止の銅銭

の代わりとして交引

・塩鈔を利用するために現地の穀物を入中するか、土人が売りに出したそ

れらを購入した。

の過程

(軍糧の購入、納入から交引

・塩鈔

の受け取り

・販売まで)は、塩鈔や交引を中心として、多くの商人が

わることによ

ってはじめて機能するものであ

った。宋朝が農民から現物を徴収しようとする時、何らかの

「媒介

項」が必要であ

った。時として有効

に機能しない不完全なものではあ

ったが、交引や塩鈔は、多く

の商人の関係を

スムーズにする潤滑油としての役割をはたしたと考えられる。

   

ただ、河北と陝西がすべて同様であ

ったわけではない。河北と陝西では面積が異なり、前線

の長さが河北に比

陝西

の方が長く、兵力が分散して配置されている上、地形的に分断されている。物資調達圏

の面積は陝西の方が広

くなるのは必然であろう。また、周知

のとおり両地域では軍糧納入に利用された専売品

・手形が異なる。宋代の物

   

流を全国を覆う大きなシステムとして捉えた場合、河北

・陝西との関係

のみで完結するものではな

い。今後、諸政

策がどのように機能し、客商

・土人がどのような関係にあ

ったのかについて、開封との関係、

江南から開封

への物

宋代の物流と商人

一九

Page 20: 軍 専 印 に 生 所 経 た に 事 売 を つ 産 済 課 。 宋 …...ヨ た 可 能 性 を 指 摘 し た。程 民 生 氏 は 、 河 北 ・ 陝 西 の 生 産 力

二〇

の動きや商人の動きも考慮し

つつ、議論を進める必要があろう。

〔付記〕本稿は、二〇〇四年八月五日~七日の第三〇回宋代

史研究会夏期合宿において報告した内容を加筆

・修正し

たものである。宋代史研究会では、司会を務めていただ

いた青木敦先生をはじめ、諸先生方から、懇切なご指

・コメントを頂いた。ここに記してお礼申し上げます。

註(1)

『両宋

政史

(中

一九

)七

一頁

を参

照。

(2)

『宋

(風

一九

八)・

『宋

代江

南経

済史

の研

究』

(汲古

書院

一九

八八)・

「北

の社

経済

(世界

『中

国史

山川

一九

七)

を参照

(3)

日野開

三郎

「宋

の便糴

に就

いて」(『東洋

学報

』二一一了

一九三

五)。

後、

『日

野開

三郎東

洋史

学論

集』

(一一二

童旦房

一九

八)

所収

の三七

一頁

を参照

(4)

『宋代

江南

経済

史』

二三九頁

を参

照。

(5)

発的

商業流

に対

る概

とし

て用

いら

る言葉

であ

る。詳

しく

は、宮

澤知

『宋代

の国家

と経

済』

(創

文社

一九

八)第

一部

一章

を参照

(6)

宋代

の行

ついては、宮

『国家

と経済

』第

一部

を参

照。

(7)

日野

三郎

「北宋

時代

の塩

いて

・交引

鋪」

『日

野開

郎東

学論

集』

六巻

(一一=

一九

)

1四七頁

(8)

藤繁

「唐

宋時

の商人

組合

『行

を論

て清

の会

に及

ぶ」

(『史学

一四⊥

一九

三五

)後

『支

那経

史考

證』

上巻

(東

洋文

一九

二)所収

の四

一頁。

(9)

藤久

「北宋

時代

河北

草交引

の流

と京師

交引

の保任

いて」

(九州

『東

洋史

二六

一九

八)

を参

照。

(10)

宮澤

『国家

と経

一四

四~

四五頁

、小

野寺郁

「宋

におけ

る都市

の商

人組織

『行』

ついて」

(『金沢

大学

文学

部論

集哲

学史

学編

=二

一九

六六

)。

(11)

商人

に軍

糧を納

せ、割

り増

て買

い上げ

、開

封な

で現

金或

いは茶塩

等を

支給

るこ

とを言

う。

(12)

『長編

』巻

一〇〇

聖元年

月壬午

の条

にも

自西

北宿

兵既

多、饋

不足

、因

募商

入中芻

粟、

地里

遠近

、増

其虚

估給

券、

以茶

償之

…中略

…。

而入中

者、

非尽

行商

、多

其土

人。

とあ

る。西

北、

つまり陝

西

でも

入中

る者

の多

が土

であ

った

こと

が記

され

いる。

(13)

拙稿

「北

の西北

おける軍

糧輸

と客商

(『鷹陵

二七

二〇

一)を参

照。

の困難

によ

って、

河北

への漕運

一時

を除

て行

れな

ったこ

と、陝

西

へのそ

はほ

とんど行

Page 21: 軍 専 印 に 生 所 経 た に 事 売 を つ 産 済 課 。 宋 …...ヨ た 可 能 性 を 指 摘 し た。程 民 生 氏 は 、 河 北 ・ 陝 西 の 生 産 力

った

こと

は、青

山氏

が指

ているが

、指

は漕運

(官

によ

る輸送

)

に対

てであ

り、商

の輸

に対

い言及

はな

い。

青山

定雄

『唐

宋時

の交

と地

誌地

の研究

(吉川

弘文

一九

三)三

二九~

四三頁

を参

 �o

(14)

は、

程民

『宋

代地

済』

(河

学出

一九九

二)・「論宋

陝西路

経済

(『中

国歴史

理論叢

一九九

四-一)を

参照

(15)

藤久

「北宋

におけ

る京師

と江淮地

の問

の商

ついて」

(九州

『東

史論

二〇

〇)

一~

六三頁

を参

照。

(16)

「北

る商

の地

(『史

淵』

一三九

二〇

二)

(17)

の納

入を行

は商

に限

った

のでは

い。

農層

でなく

一般農

も積極

に軍糧

に参

いた。拙

稿

「軍糧

輸送

と客

商」

二頁

を参照

(18)

稿

では、

商税

統計

を過

・住税

の煕

一〇年

(1O

七七

)

おける徴

税額

を示

たも

のと

する。

商税

統計

性質

、頭

子銭

・包

角銭

・力

勝銭

・契

と商税

統計

の関

つい

ては、後

「商業

流通

の地

域構

造」

一~

七七

頁を

参照

ただ

し、米

への課

つい

て後

藤氏

は、

則的

に免

され

たと

し、本

稿

の見解

は異な

る。

(19)

『宋

会要

』食

一七-=二

税雑

淳化

五年

五月

(20)

つい

ては、加

藤繁

「宋

代商

税考

(『史林

一九

-四

一九三

四)後

『支那

経済

史考

證』

下巻

(東

洋文庫

一九

三)所

収、

梅原

「宋代

商税

制度

補説

(『東洋

研究

一八

-四

一九

〇)、

「北

の過

(『史

淵』

八三

一九六

〇)

を参

照。

(21)

『文

献通

考』

一四

征摧

商。

(22)

一般

の穀

ついては、見

が分

れて

いる。加

は、

災害時

ど非常

に臨時

に免

れたと

し、梅

原郁

、宋代

通じ

て法令

上免

であ

った

とす

る。

かし

なが

ら、梅

原氏

「結果

に米穀

からも商

を徴収

こと

にな

って

いた

ではな

かろう

か」

と述

べ、

米穀

に対

する課

が行

われ

いた

ことを認

いる。斯

波氏

も、

「す

に旧慣

って収

いる税

では適

に被

災地

にお

いて特典

に施行

される

に止

った

であ

る。」

と述

べて

いる。加藤

「宋代

商税

考」、

梅原

「宋

税制

補説

」、

斯波

『宋

究』

一二~

四頁

を参照

(23)

『長編

』巻

天禧

元年

一二月辛

卯。

(24)

『長編

』巻

天禧

元年

=

月乙

卯。

(25)

『長編

』巻

一〇〇

聖元年

月壬午

(26)

『長編

』巻

一二九

康定

元年

一二月

是歳

の条。

(27)

えば

『宋会

要』

食貨

六⊥

一五

聖七

二月

の条

には、

又八月

勅。

陝西

沿辺

州軍

道路

窄狭

峻悪

、即

不同

河北

軍水

路地

平易

為般輦

。令

定逐

入便糧

草添

饒銭

。…

中略

…。

環州

一処毎

千支

二千

六百。慶

一処

十千支

二千

二百

。延

・渭

・保安

・鎮

戎軍

四処

十千

支十

二千

。躑

原儀

三処毎

十千

支十

一千

百。

湮邪

二処毎十

支十

一千

宋代の物流と商人

Page 22: 軍 専 印 に 生 所 経 た に 事 売 を つ 産 済 課 。 宋 …...ヨ た 可 能 性 を 指 摘 し た。程 民 生 氏 は 、 河 北 ・ 陝 西 の 生 産 力

二二

とあ

る。

ここ

でも、道

の状況

には言及

るも

の、

の中

心は、

支払

いに関

てであ

る。商

に関

する言

い。

(28)

『宋

(下

冊)』

(上

一九

八)

四五~

六頁

を参照

(29)

『国家

と経

済』

一頁

を参照

(30)

の値段

が変

ること

によ

って、

商人

の入中

が滞

った

いう事

(『長

編』巻

一〇

元年

『長

』巻

一七

三年正

月己

の条

を参照

)、

入中

が官

によ

る強

では

なく、

商人

の自

由意

であ

とを表

いる。

た、

の場

も問題

なる

のは交

の値

であ

って、

商税

が問

とさ

れる

こと

はな

い。

(31)

に携

る人

々の私物

に対

る商税

が免

され

とに

ついては、青

『唐宋

時代

の交

通』

三九

五~

八頁

を参

照。

(32)

藤氏

、戸

口統計

の性

(脱漏

・詭

名挟

戸等

)

を理

した

で、

「『九域

志』

から得

れた各

の戸数

は、

の実

数を

示し

いる

とは考

えら

れな

いが、

の相

対的

を知

ろう

の指

は可

であ

る」と述

べる。

また

、戸数

と商

の関係

ついては

の農

にと

って生

産物

の販売

や生

必需品

の購

は、

べから

る行

であ

った

とし、

統計

の戸数

の大半

を占

める小

農民

の存

は、商

品流

の多

にと

って意

を有

いた

とす

る。後

「商業

流通

の地域

造」

七七

頁参

照。

(33)

えば、

登州

の商

税値

(登

五三)

は、

活発

な商

業活

『経

略』巻

「乞罷

登莢権

塩状

にも

「地瘠

貧商

賈不

至」

とあ

る。

た、

秦州

ついては、

『宋会

要』

食貨

七⊥

市易

五年

二六日

の条

「王韶

言、

沿辺

州郡

、惟

秦鳳

一路与

西蕃

諸国連

、蕃中

貨、

四流

而帰

於我者

歳不

百千

万、

而商

之利

間。」

り、鄲

・青

いて

は、

『忠

』巻

「謝

州到

「東

大国

、莫

如鄲青

とあ

る。

いず

の州も

商税額

の値

準値

を大

きく

上回

(秦

四二

青州

一九

鄲州

一九

六)。戸

口統

と商税

統計

によ

って示

され

た数値

が、

から大

きく

乖離

いるこ

とは

なか

った

ではな

ろう

か。

(34)

後藤

「商

業流

の地域

構造

」図

4を

参照

(35)

長江

の下

流域

から

河北

・陝

西

の辺境

へと物資

を輸

る場合

、両

浙塩

・淮

南塩

・解

塩東

の行塩

地を

けて、

・陝西

へと至

るこ

ととな

る。

(36)

1

・2

の作

にあ

っては、

後藤

「商

業流

の地域

造」

七七

一頁

の手

になら

った。

なお、

対象

地域

の商税

の詳細

ついては、

清木

場東

『北

の商業

動』

(中

国書

二〇

〇五

)を参

照。

(37)

3~

5

の作

にあ

っては

以下

の文献

を参

した。

其驤

主編

『中

国歴

史地

図集

』宋

・遼

・金

時期

(地

図出

一九

二)

・厳耕

([六]

のみ厳

・李

文整

理)

『唐

代交

通図

考』

[=

[四]

[五]

[六]

(中央

歴史

語言

一九

・八六

・二〇

三)・

正泰

『明代

駅站考

(上海

古籍

出版

一九

四)・陝

Page 23: 軍 専 印 に 生 所 経 た に 事 売 を つ 産 済 課 。 宋 …...ヨ た 可 能 性 を 指 摘 し た。程 民 生 氏 は 、 河 北 ・ 陝 西 の 生 産 力

西

省交

通史

編写

会編

『陝

西古

通史

(人

交通

版社

一九

九)・楊

『山東

史』

(人

民交

出版

一九

八九

)・青

『唐宋

の交

』第

宋代

の陸路

及び

北宋

時代

主要交

通路

図。

(38)

御河

は、衛

共城

から通利

・乾寧

に至

って界

れ込

む運

で、辺

への軍

糧運

に利

れた。

(39)

「宋

の便糴

三七

六~

八二頁

を参

照。

(40)

洛陽

の西

、河

陰県

から黄河

の水

を取

り入

れ、

開封

ら亳州

・宿

(河南

省東

北部

、安

徽省

北部

)

を抜

けて、

泗州

で淮水

に合

る運

河。

(41)

とは、

河北

・河東

・陝

西

・京東

・京

西

の五路

を指

す。

南方

の県

の平

は約

七〇

〇貫

、両折

は平均

で五

〇〇

貫を越

る。

しく

は、斯

波義

「宋代

の都市

考え

る」

(『東

方学

一〇

二〇〇

一)

を参

照。

(42)

山定

「北宋

の漕

運法

に就

いて」

(『市村

博士古

念東

洋史

論叢

』冨

山房

一九

三三)

を参

照。

(43)

『包

粛奏議

』巻

一〇

「請

添河

北入

中糧

草」。

(44)

『長編

』巻

一八

至和

二年

一一月丁

巳。

(45)

『欧陽

公文

集』

一七

「再乞

両地

」。

(46)

黄河

下流

域だ

でなく

、河

北西

の邪州

・潴

州、南

の懐州

・衛

には肥

な土地

が広

り生産

力も

い。程

『宋代

地域

経済

二〇~

二二

・二四

四~

二四

六頁参

照。

(47)

『長

編』

三四三

元豊

七年

二月庚午

(48)

『長

編』

二九六

二年正

月癸

酉。

(49)

慶暦

(一〇四

一~

八)

の河北糧

の総消

量推定

値は四五〇万四四〇〇石。時期は多少ずれるが嘉祐元年

(一〇五六)の辺境

=

州軍の糧料消費量は

一七三万石

である。辺境での消費量は全体の四割に満たない。詳し

くは、拙稿

「北宋辺境の軍糧支出」(『鷹陵史学』二八

二〇〇二)七六~八三頁を参照。

(50)

『長編』巻

=二五

慶暦二年二月乙未、『長編』巻二六

煕寧八年二月己卯、『長編』巻

二七〇

煕寧八年

一月庚午、『長編』巻二九六

元豊二年正月癸酉、『長

編』巻三

=

元豊四年三月戊戍

の註、『長編』巻三四

元豊七年二月庚午の各条を参照。

(51)

瀛州周辺諸州のうち、浜州

・瀛州は、産塩地を含むた

(塩山県

三七四三八貫

・無棣県

一七二八〇貫等)、

商税値の大きさを単純に商業活動の活発さを示すものと

断定することはできない。また、棣州との境に近い滔州

鄒平県趙厳口鎮

(二八三八九貫)、徳州との境の斉州臨

邑県

(六二五

一貫)等は、京東と河北を結ぶ交通路上に

あたり、両地域の活発な交流を反映していると思われる。

これらの地域から河北北辺への輸送には、御河を用いた

と考えられるが、御河流域

(乾寧軍虧○○爵貫

。南皮県置誤

貫)の商税額が少なく、両地域を直接結ぶ商品の移動は

想定しにくい。各州の商税の詳細

については、清木場

『北宋の商業活動』を参照。

(52)

宋代の安撫使と安撫使管轄下の路については、李昌憲

『宋代安撫使考』(斉魯書社

一九九七)巻

大名府

・高陽関路

・定州路

・真定府路の各項、渡辺久

「北宋

の経略安撫使」(『東洋史研究』五七-四

一九九九)を

宋代の物流と商人

二三

Page 24: 軍 専 印 に 生 所 経 た に 事 売 を つ 産 済 課 。 宋 …...ヨ た 可 能 性 を 指 摘 し た。程 民 生 氏 は 、 河 北 ・ 陝 西 の 生 産 力

二四

参照。

(53)

『長編』巻二六三

煕寧八年閏四月庚戌。

(54)

定州周辺の諸州軍は、人口希薄な辺境地域ではない。

他の辺境の諸州軍の戸数が

一万戸に満たない場合が多い

のに比して、定州周辺の諸州の戸数は、定州五万九二六

〇戸

・真定府八万二六〇七戸

・祁州二万

一四九二戸

・永

寧軍二万二六三九戸

・保州二万四八七三戸である

(『元

豊九域志』巻二)。

(55)

『宋会要』食貨二四⊥

煕寧

一〇年四月二三日

(56)

現在の山西省西南、解州地方の塩を解塩という。当時

の解塩の行塩地は、陝西の全域、京西南北全域、開封府、

・袁

・鄲州を除く京東西路全域、河東路の晋

・絳

.隰四州、河北の懐

・漉州に及ぶ。詳しくは、戴裔喧

『宋代鈔塩制度研究』(中華書局

一九八

一)七五~七六

頁を参照。

(57)

三門に至るまでのルートは、『長編』巻七四

大中祥

符三年八月乙亥に開封から河中府

へのルートを述べて、

自京師往河中府有二路。

一由陝州浮梁歴白徑嶺、

由三停渡渡河。

とある。陝州で黄河を渡り、白徑嶺

(山西省解県の東南

一五里)を超え、解州を経て河中府

へと向うルートを示

している。このルートを逆に通って三門鎮に塩を運び、

開封方面

へと船運したと考えられる。清代河東の塩政の

記録である

『勅修河東塩法志』巻四

運程の条には、解

塩の行塩地各地への行程が記されている。それによると、

宋代の京西南路にあたる南陽までのルートは、解州を出

て、

茅津

(陝

の東

)

で黄

を渡

り、陝

、河南

を経

て南

へと至

る。

河南

より南

の地

は、

この

ルート

をと

った。

陝州

の州

より東

に商

税務

存在

せず

、塩

の運

に関

する商

の徴収

は陝

州州

にお

いて行

われた

と考

る。

(58)

拙稿

「軍糧輸

と客商

一頁

照。

(59)

『宋代

安撫

使考

』巻

延路

・環慶

・湮原

を参照

(60)

「宋代

西

」・

『宋

代地

二三~

二五

を参

ptt`o

(61)

は支移

いう形

で辺

境地

へと運

び込

れた。

た、

四川

から陝

西

へは、

元豊

四年

(一〇

一)

から

五年

(一

二)

にかけ

て、

金銀物

一六万

一七

八〇

匹両

・銭

六万

二〇

〇余

が輸

(『長

』巻

一三

元豊

五年

一二月

戊辰

)。詳

しく

は、

『唐宋

の交

通』

二九~

四三頁

参照

(62)

の蕃部

ついては、

金成

『宋代

の西

北問

と異

民族

政策

(汲

古書

二〇〇

)第

五章

を参照

(63)

「論

宋代陝

西

路経済

一三四~

三五

頁を参

(64)

『宋代

の西北

問題』

一六

八~

五頁

を参

照。

(65)

『長

編』巻

二五七

寧七

一〇月

丑、

『宋

会要

』職

四三-五

挙茶

元豊

四年

七月

の各

を参照

(66)

『龍

川略

志』

議罷

西鋳

以内

等折

にも、

此陝

西幣

軽物

重、

商販

沿辺

者回

、無

以為

貨、

非換

Page 25: 軍 専 印 に 生 所 経 た に 事 売 を つ 産 済 課 。 宋 …...ヨ た 可 能 性 を 指 摘 し た。程 民 生 氏 は 、 河 北 ・ 陝 西 の 生 産 力

塩鈔

、則

負銅

銭以

出。

あり、

基本

には、

回貨

て塩

を用

いて

いた

よう

であ

る。

(67)

稿

「軍糧

と客

四三頁

を参

照。

(68)

の禁

ては、

『国

』七

八頁

照。

(69)

官告

度牒

のこと。

官告

は官

の告身

(官

の辞令

書)、

は僧免

許書

、空

命度

で、共

一種

の有価

証券

であ

る。

(70)

塩鈔

の交引

の類

に対

て商税

課税

した

かは定

かで

はな

いが、

江南

・四川等

から

の軍糧

の搬

はあり

えな

とし

ても

、交引

は陝西

・河

北内

を移

した

はず

であ

る。

であ

れば

、交

引を

所持

し通

する開

封周

の諸州

、塩

を所

した商

人が

解州

へと向

かう途

で通過

る河中

は、

税額

が大

る。

かし、

・曹州

・漉

州等

の商

税値

は、

標準

を大

く上

るも

ではな

い。塩

鈔等

の交

の類

は、

商税

かけ

られ

った

のでは

いだ

ろう

か。

(71)

『長編

』巻

二四八

煕寧

六年

一二月

癸未。

(72)

『浄徳

』巻

「奏

為緻

先知

日三

奏椌

不便

述今

来利

状」、

『宋

会要

』食

三〇

法雑

煕寧

九年

二二日

の条

を参照

(73)

便糴

草交引

ついて

は、

「宋

の便糴

を参照

(74)

の市

に代

て使

れた

紬絹

いて

「今

、勘

会す

に紬

・絹

は、本

り河北

・京東

の須

る所

に非ず

(『長

』巻

三〇

元豊

三年

六月

癸卯

)」

という国家財政を司る三司の言及は、河北の入中に京東

商人が関わっていたことを示している。

(75)

市場の重層性、及び上層市場と下層市場の非対称性に

関する議論は、黒田明伸

『貨幣システムの世界史』(岩

波書店二〇〇三)を参照。黒田氏

の考察は、貨幣を中心

としたものであるが、さまざまな分析概念は、中国の市

場を考察する上で非常に有用であると考える。

(76)

これを明清と同じく

「原額主義」とするかについては、

上供米には付加税部分が組み込まれていること、県ンベ

ルでは秋苗額の固定化が見られな

いことが指摘されてお

り、議論が分かれている。詳しい議論については、宮澤

知之

「中国専制国家財政の展開」

(岩波講座

『世界歴史』

岩波書店

一九九九)・長井千秋

「中華帝国の財政」

(松田孝

一編

『東アジア経済史の諸問題』阿吽社二〇〇

〇)を参照。本稿では、議論の是非は置き、両税法下の

秋苗の実徴額が

一八〇〇万~二〇〇〇万石で長期にわた

って停滞していたという事実のみを指摘しておく。実徴

額については、袁

一堂

「唐宋時期和糴制度興起的背景及

原因研究」(『人文雑誌』

一九九四-一)参照。

(77)

「論宋代陝西路経済」

=二七~三八頁を参照。

(78)

詳しい議論は、丸橋充拓

「「唐宋変革」史の近況からL

(『中国史学』

一一

二〇〇

一)を参照。

(79)

明代の糧草の納入に関わった商人は、糧草を納入して

倉鈔を受け取る

「辺商

(土着の商人)」、辺商のもたらす

塩引を買い受けて塩を受領する

「内商」、内商から塩を

購入して行塩地に販売する

「水商」の三種類に分類され

宋代の物流と商人

二五

Page 26: 軍 専 印 に 生 所 経 た に 事 売 を つ 産 済 課 。 宋 …...ヨ た 可 能 性 を 指 摘 し た。程 民 生 氏 は 、 河 北 ・ 陝 西 の 生 産 力

二六

た。寺田隆信

『山西商人の研究』(京都大学文学部内東

洋史研究会

一九七二)二〇二頁参照。

(80)

河北の面積は

一一万九九四九㎞、陝西は二五万七五七

七歴である。斯波

『宋代江南経済史の研究』

一五

一頁を

参照。

(81)

物流の全体像構築を目指す上で、宮澤氏の示した財政

的物流という視点は、それまで個別事例として扱われて

きた研究成果を取り込み、個々の政策

(財政手段、専売

制度、手形制度等)を包括し考察する上で、

一定の方向

性を与える非常に有効な視点であると考える。