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小文間小学校140年の歴史。2012年12月12日、取手市議会で取手市立小文間小学校廃校合併が正式決定致しその歴史を閉じることになりました。地域との深い絆と共に歩んだ小文間小学校140年の歴史が忘れさられることのないよう、拙文を敢えて公表するものであります。我々は、3校合併創立される小学校が子どもたちや地域にとって、より良いものとなるために努力し続けなくてはなりませんが、この歴史絵本が、そのための、ささやかな心のよすがとなれば望外の喜びであります。
なお、 このファイルは小文間小学校140周年記念オータムフェスタで小学生向けスライド「小文間小学校140ねんのあゆみ」を上映するために、鈴木厚がに制作した原稿を、後日加筆・訂正したものでのて、責任は鈴木厚にあります、お問い合わせ、ご意見、ご質問等は下記メールより鈴木厚までお願いします。年代等は正確を期すよう推敲しましたが、間違いがありましたらば下記メールにて御指摘、是非お願いします。また、引用、リンクの際はご一報くだされば幸いに存じます。
1皆さんこれから小文間小学校の歴史についておはなしします。あそこに小文間小学校創立140周年記念オータムフェスタと書いてありますね。ということは、140年前に小文間小学校が生まれたということです。つまり、小文間小は人間に例えると今140才ということなんです。
さむらい 江戸時代(えどじだい)のくらし (小文間の写真ではありません)
2小文間小学校は明治6年(西暦1873年)という年にできました。明治6年というのは明治時代になって6年目、明治時代の前は江戸時代ですから、江戸時代が終わってたった6年しか経っていないと言うことです。
江戸時代というのは、お侍さんがいた時代です。みなさんも、テレビの時代劇でお侍さんをみたことがあるとおもいます。これは、江戸時代の終わり頃のお侍さんの写真です。お相撲さんのような髪の毛をしていますね。髷と言います。腰に長い刀をつけています。服は着物ですね。
江戸時代(えどじだい)のくらし
農村(のうそん)のこどもたち
(小文間のしゃしんではありません)3
これは、江戸時代の子守をする女の人、こっちはは江戸時代の農家の子供たち、小文間もこんな感じだったかな。 江戸時代は小学校は有りませんでしたが、寺子屋と言ってお寺で勉強を教えてもらいました。こういった感じの江戸時代が終わって、明治時代になるのですが、
めいじじだいの小学校のようす(小文間小ではありません)
4明治時代になると、だんだん、この絵のように男の人は、チョンマゲでなくて、今のみんなと同じように短い髪の毛、ズボンになりました。女の人や子どもも少しずつスカートなどの洋服を着るようになります。
小文間小学校が明治6年に出来たというのは、チョンマゲのお侍さんの江戸時代が終わって、たった6年しか経っていないと言うことなんです。そんなむかしから有ったんですね。
この絵は、小文間小学校のではありませんが、その頃の小学校のようすです。算数の授業かな。立っているのが先生、19たす10と数字が漢字で書いてあります。
さいしょの小文間小のようす(西光院校舎)西光院校舎の面影を残す集会所(昭和39年撮影)
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さて、140年前に始めて出来たころの小文間小学校はこんな感じだったらしいです。
これを見て、みなさんは、どんなことを感じますか。みんなの勉強している校舎に比べてどうですか。 小さいと思うんだ。みんなが今勉強している校舎は3階まであるけど、一階しかない。
どうしてこんなに小さいか分かりますか。それは、140年前は小学校へ行く児童がもの凄く少なかったんで、こんな、小さい校舎で大丈夫だっんですね。そのころは7年生まであったんだけれど、一年生から7年生まで合わせて20にんくらい。ある年の記録が残っているんですが、小学校へ行く年齢の子供は262人もいたのに生徒はたったの24人。つまり、授業料があったこともあるのですが、10人に一人ぐらいしか小学校へ行かなかったんです。
みなさんは、小学校へ行かないのは羨ましいと思うかもしれませんが、そのころは、お家の仕事が大変で、お父さんやお母さんだけでなくて皆さんのような子どもまで働かなくてはいけなかったんです。だから、小学校へ行く代わりに田んぼや畑の仕事を一日中てつだったり、お父さんやお母さんがたくさん働けるように小さい妹や弟の世話をしたりししました。
小文間小学校ができたころのこくごのきょうかしょいろはにほへとちりぬ (明治初期)
6小学校へ行かないと、字が読めるようになりません。そうすると、大人になっても、一人では汽車に乗れなかったりしました。どしてかっていうと、駅の名前が駅に書いてありますけど、その字が読めない。だから、取手駅で汽車に乗って東京の方に向かって乗っていても、いま自分がいるのが、我孫子のあたりか柏か松戸かわからなくて怖くてたまらなかったんです。それで、字が読めないおじいちゃんは、字を読める若い人を一緒に連れて汽車に乗ったそうです。
これがその頃の国語の教科書です。 これで小学生はひらがなの勉強をしました。今の皆さんの使っているカラフルな教科書とは随分違いますね。
いろはにほへとちりぬと書いてあります。いろはにほへとは今のあいうえおかきくけこ50音みたいなものです。
小文間小学校がさいしょにあったところ( 西光院校舎跡地 戸田井の白山神社坂下)
7ここで、一つ覚えていて欲しいのは、さっきみた古い写真の140年前の校舎はいまみんなが勉強しているここでなくて、違う場所にあったんですね。あれは小学校のために作った建物でなくて、西光院というお寺の建物を借りて小学校にしていたんです。
これがその西光院の今の様子です。 さっき古い写真で見た建物はいまはありません。戸田井の白山神社のしたのところ。今度お父さんお母さんたちと行ってみてください。
こもりをする子ども明治13年 =1880年
(小文間のしゃしんではありません)
8これはこの頃の子供の様子。さっきお話ししたように、小学校へ行く代わりに、自分も子どもなのに、小さい子どもの世話をしなくてはなりませんでした。顔の大きさが同じくらいだから、背中の子どもが、重くて大変だったと思います。おもちゃを持っていますね。
ここに小文間小学校がうつってきたころのじゅぎょう明治40年代前半
9それから、 小文間小学校は東谷寺さん、福永寺さん、大日塚さんと、その頃は小文間村と言ったのですが、この小文間の中を30年間もあっちに行ったり、こっちに行ったりしたんです。今から思うと、小学校があちこち移動するって信じられないけど、児童は少ないし、今みたいに、パソコンや図書館の本がたくさんあったりするわけではないから、お引っ越しも簡単だったのだと思います。しかし、それでも、108年前=ちょうど小文間小出来てて31年目の時に、今のここにうつってきて、それからはずーっとここにあります。明治37年(1904年)のことです。その時の名前は小文間村立尋常小学校と言いました。これが、そのちょっとあとの写真です。
後ろにいるのが児童たちです。随分、たくさんいますね。さっき、最初に小文間小学校が出来たころは、子供が小学校へ行く歳なっても、10人に一人しか小学校へ行かなくて小学校全体で20人くらいしか生徒がいなかったという話をしました。でも、この頃になると、ほとんどみんな小学校へ行くようになったのです。それで、最初にみたような、お寺のお堂をかりた小さい校舎じゃ、狭くなってしまったのです。それで、ちゃんとした小学校を作ろうと言うことになったのです。後ろに大きな校舎が二つ立っています。140年前の校舎に比べれば大分小学校らしくなりましたね。
真ん中にいるのが、校長先生。立派な髭はやしていますね。前の方では、野外授業で畑で野菜を作る勉強をしています。
中村熊次郎顕彰碑
なかむらくまじろうけんしょうひ
10それで、 なんで、この場所に小文間小学校を建てたかわかりますか。一番の理由は、ここが小文間村のちょうど真ん中にある土地だからなんです。例えば戸田井に小学校があると、戸田井の子供はすぐ近くだけど、西方からだと、小学校へ行くのに30分もかかっちゃうのです。そういうことがないように小文間村の真ん中に作ろうということにになったんですね。この場所は中村熊次郎さんという人の畑だったんですが、クマジロウさんは立派な人で 小学校を作って下さいと、畑を寄付してくれました。
そうするとまわりに土地を持っていた他の人も私もと寄付したり、小文間村がお金を出して買ったりもしたのですが、小学校を作れるような、広い場所になったんですね。熊次郎さんは小文間村の村長さんになったり、いろいろ良いことしました。それで、熊次郎さんがしたよいことを、ずーっと忘れないように大きな石に書いておこう、ということになりました。中村クマジロウ顕彰碑というのですが、校門の横に立っている大きな石です。全部読むと呪われて死ぬって言う噂は嘘だって分かったでしょ。
ここにうつってきたころ小文間小学校のこどもたち( 明治39年=1906入学 大正3年=1914高等科卒業の卒業写真)
11小文間小がここに移ってきたころに入学した子どもたちの卒業写真です。この頃の5,6年生は汽車に乗って東京に遠足に行ったときもありました。小文間は田舎ですから上野で始めて観工場という今のスーパーマーケットみたいなお店をみてビックリしたらしいです。
たいしょうじだいの小文間小の子どもたち(大正4年度入学)12
それから、この小文間小学校にもいろんな事がありましたが、しばらくは、平和で楽しい時代がつづきました。時代で言うと大正時代から昭和時代の初めぐらい。子供たちは、川で泳いだり、川で魚を捕って、晩ご飯のおかずにしたり、兎を育てて売ってお小遣いにしたりしました。 今は、兎はペットだけれどその頃は兵隊さんが寒い国に出かけていくときの、服の襟などの、毛皮にしたんです。 神社のお祭りの、屋台のお店や紙芝居などをみるのも楽しみでした。
でも楽しいときは長くは続かず、、戦争にドンドンと近づいていきます。
せんそうでもえたまち 両国(東京大空襲昭和20年1945.3.10 小文間のしゃしんではありません)
13そしてついに中国との戦争が始まり、そのあとすぐに太平洋戦争と言ってアメリカとの戦争も始まります。昭和16年 1941年、のことです。小 文間小ができて68年目、いまから71年前のことです。詳しいことは中学に入ってから勉強しますが、この写真だけ見てください。
これは、小文間ではなくて東京を飛行機で空から獲ったものですが、家がほとんど見えなくて広場みたいですね。東京大空襲というのですが、アメリカのB29という飛行機が東京の町にたくさん爆弾を落として、家が火事でほとんど燃えて無くなってしまいました。一日で10万人近い人が亡くなりました。10万人というと今の取手市全部の人の数と大体同じですね。この頃世界中で戦争があって第2次世界大戦というのですが、世界で何千万人もの人が亡くなりました。
せんそうのじだいのこどもたち
昭和14年度入学 の男子 昭和14年度入学の児童昭和17年撮影
14これはもう、アメリカとの戦争が始まった頃の小文間小学校の児童の写真です。戦争中は小文間国民学校と呼ばれていました。ここ小文間からも、招集といって、お国からの命令があると、若い人たちは戦争に行かなくてはなりませんでした。戦争に行く人たちを、小文間小学校の子供たちは、馬坂のバス停のそばにある、面足神社の所まで見送りに行くのです。。なんで、面足神社までかと言いますと、その頃、小文間は小文間村と言ったのですが、隣の井野村との境が面足神社のあたりだったんですね。そして、戦争をしている遠い、海やジャングルなどで小文間村の人たちが鉄砲で撃たれたりして亡くなると、小学校の校庭でお葬式をしたりしました。時々、ここ小文間村にもアメリカの爆弾を積んだ飛行機が飛んできました。すると、授業中でも、山の中に逃げ込まなくてはいけません。でも、 小文間には実際には爆弾は落ちてこなかったようですので、 男の子の中には、教室での勉強より山の中の方が楽しかった子どももいたみたいですね。どんな暗い時代でも遊びを見つけるのが子どもの素晴らしいところですね。
せんそうがおわってしばらくしたころの運動会15
。そして戦争に負け、今と大体同じような世の中になりました。昭和20年=西暦1945年のことです。小文間小学校が出来て72年目 今から67年前、のことです。
戦争で、お父さんもお母さんも亡くなってしまった、子どもたくさんいたし、 しばらくは、 食べ物もなくて大変でしたが、平和で自由な新しい日本になったのです。
この写真は戦争がおわってしばらくのころの小文間小学校の運動会の様子。女子の膨らんだ短パンがおもしろいですね。提灯ブルマーっていうんです。
きゅうこうしゃかんせい昭和39年(1964年)現旧校舎竣工 長倉康彦設計
16そして、小文間小学校が出来て91年目いまから48年前 、 今の旧校舎が出来ました。 昭和39年1964年、戦後19年めの年です。
私はその時、千葉県にいて5歳だったんですが、小林会長はまだ生まれていませんでしたね。校長先生や教頭先生は8歳くらいかな。その時は、取手町立小文間小学校という名前でした。そのちょっと前昭和30年に小文間村は取手町に合併していたんですね。これは入り口の所、今この前に渡り廊下あって、右の車が止まっているあたりは、1、2年生の教室ですね。この頃は、体育館も、プールもみんなが勉強している3階建ての校舎もなくて広々していますね。
きゅうこうしゃなかにわ旧校舎中庭
きゅうこうしゃりかしつ?旧校舎理科室?
17旧校舎は今は保健室や図書室、音楽室、放送室などですが、昔は1年生から6年生までの教室があったんです。今の大空クラブさんの部屋が一年生、会議室が2年生、生活科室が5年生だったそうです。どうですか、ああいう、教室で勉強するのは。今みんなが勉強している校舎みたいに四角でなくて、迷路みたいですね。珍しい、面白い小学校が出来たって言うことで、遠くから見に来る人がいっぱいいたと言うことです。
中庭には今と違って池がないですね。
てつわんあとむ18
この頃テレビではやっていたのが、鉄腕アトム。その頃はテレビに色がついていなくて白黒だったのです。
いまのおもんましょう 現鉄筋校舎昭和55年(1980年)竣工19
そして、そのあと、子供の数がドンドン増え出しました。一番多かったときは小文間小全体でなんと372名いたときがあったんです。でも、旧校舎は大体200人くらいしかはいらないのです。それで、新しく大きい校舎、今のみんなが勉強している校舎を作ったのです。昭和55年1980年小文間小が出来て107年目、今から32年前のことです。その頃が、小文間小が生まれてから今までで一番児童の数が多かったときです。
小文間シャトーズと大利根(おおとね)グランド20
その一番児童の数が多かったころには、小文間シャトーズという少年野球チームもありました。 小文間小の子供のお父さんたちが大利根グラウンドという運動場を作ったりもしました。このチームにいた子供の一人は大きくなると取手2校の野球部に入ってキャプテンになり甲子園で番長清原のpl学園に勝って優勝しました。そしてプロ野球の選手になりました。
いまのきゅうこうしゃなかにわ現在の旧校舎中庭
21でも、そう言う賑やかで盛り上がった時代も長くはつづかず、ここ小文間の子供の数がドンドン減り始めたのです。今では小文間小学校の子どもの人数は84人になってしまいました。
最初にお話ししたように、ちょうど140年前に小文間小が戸田井のお寺で始まった頃は20人ほどだったのが、107年たって372人になって、それからまた32年経って今の84人になったということです。これからもドンドン減りそうと言うことで、小文間小学校を廃校つまり終わりにして、お隣の吉田小学校、井野小学校と一緒になって新しい小学校をつくろうという話が出て進みつつあります。
これで、このお話は終わりですが、最後に皆さんにお願いがあります。。この小文間小学校は、140年もの長い間、ここ小文間の人たちが、子どもたちのために、大切に守ってきた小学校です。この小学校の児童であったことを誇りに、これからも頑張って下さい。
おわり
参考文献・小文間小学校百二十年の歩み
小文間小学校創立百二十周年記念事業実行委員会記念誌委員会編集・小文間物語饗場芳隆著
文責鈴木厚
22参考文献・小文間小学校百二十年の歩み小文間小学校創立百二十周年記念事業実行委員会記念誌委員会編集・小文間物語饗場芳隆著
文責鈴木厚