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第八章

ほふられた仔羊

」―

ヨハネ黙示録

の呪いー

1パトモス島にて

画像はパトモス島の聖ヨハネ修道院の洞窟壁画

この章では「

ヨハネ黙示録

を採り上げる。

キリスト教が陥っ

た新たな呪

い「

ヨハネ黙示録の呪い」

を明らかにしよう。

そこにもイエスが聖餐

された事の影を読み取ることができるからである。

イエスによっ

てせっ

かく「

トー

ラー

の呪い」

から解放された筈のキリスト教徒たちは、

今度

は『

バイブル』

の最終章に「ヨハネ黙示録

を置いて

それによっ

て 『

バイブル』を締めく

くっ

たために、

ヨハネ黙示録

」によっ

て呪わ

れることになっ

てしまっ

たのだ。

私に言わせれば、

ヨハネ黙示録

を 『バイブ

ル』

から削除しない限り、

キリスト教徒は決して神

から義とされ、

救われることはないのだ。

このことを私は既に「

ほふられた仔羊

オウム真理教

と 『

ヨハネ黙示録

』 ー

」(

月刊状況と主体

一九九六年三月号掲載

で訴えたが、

検討された節はな

い。「

ヨハネによる福音書

の場合もそうだが、

使徒ヨハネ自身がこの「

黙示録

を書いたという説はもう古いそうだ。

使徒ヨハネと長老ヨハネは別人で

しかも一世紀末にギリシアにヨハネ教団があっ

た。

ヨハネ教団の中で造ら

れた「

福音書

や「

黙示録

で、

使徒ヨハネが語っ

た体裁をとっ

ているという解釈

が有力である。

それはともかくイエス在世時代から生き残っ

たヨハネが一世紀末にもい

て、

彼の話を聞いてヨハネ教団が「

ヨハネによる福音書

を作成したという解釈

ではどうだろう。

私は四福音書がそれぞれの冠についている使徒の名前とは無関係に、

教団の利害だけで作成

されたという解釈にはついていけない。

聖餐や復活の体験者であり、

初期キ

リスト教団の確立の為に殉教を恐れずに、

信仰に身を捧げ尽くした使徒たちの権威は尊ばれ

た筈だと考えている。

使徒たちの名だけをタイトルに利用するのではなく、

使徒たちの体験報告

をべー

スにしたことは当然考えられる。

それに福音書の著者たちが、

リシアの文化や伝統に深い造詣があり、

ギリシア語が堪能であることなど

は、

彼らがユダヤ人の長老たちではない理由にはならないと思う。

彼ら

は異邦人に布教するためには、

その

言語と伝統をしっ

かり学び取ろうと必死で頑張っ

たと思われるからである。

日本にいるキリスト教会の伝道師の語学能力や日本文化に対す

る造詣の深さを考えると、

ダヤ人のギリシアへの融合は相当深かっ

たと思

われる。

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さて「

ヨハネ黙示録

はヨハネが、

ロー

帝国からの迫害によっ

パトモス島に逃れていた時に与えられた、

白昼夢による預言である。

黙示文学は『

旧約聖

』にもあり、

やはりトー

ラー

に従わなかっ

た人々に審判が下り、

沢山の人々

が殺されたりすることが書いてある。

しかしそのスケー

において「ヨハネ黙示録

は最も恐るべき預言である。

それはヨハネが厳しい迫害と戦っ

ていて、

その抑圧者に対する憎悪が積も

り積もっ

て激しい殺意にまで嵩じていたからだと考えられる。

そらくヨハネは自己催眠状態に自分を置いて、

書いたのである。

そうだと

するとヨハネの意識下にあっ

た様々なコンプレッ

クスに黙示録の内容は影響さ

れざるを得ないのである。

2「

ヨハネ黙示録

のイエス像

イエスは「

右の頬を打たれれば、

左の頬を出せ」

汝の敵を愛し、

汝を迫害す

る者の為に祈れ」

と言われた方である。

だから将来再臨された時、

審判に際して異教徒や無神論者

をどのように裁かれるのだろうか。

イエスはその際も異教徒に

も愛の精神で接し、

異教徒の信仰しでいる神は、

真の神のこういう面を捉えたもの

だが、

こういう面は正しく捉えられていないと言っ

て、

納得いく

まで説明されたりするだろう。

そしてもちろん「

ヨハネ黙示録

のような身の毛もよだつ

罰より

も恵みを与えることで、

喜んで信仰に入れるようにして下さる筈であ る。

何しろイエスは死に打ち勝ちさまざまな奇跡を起こすこともで

きるわけだから、

何も積年の不信仰への怨みを晴らすような大人げないこ

とはされる筈はない、

と愛の神イエスのイメー

ジを抱くのは幼稚だ

ろうか。

実は「

ヨハネ黙示録

ではそういう優しいイエスは登場しない。

裁き

を行うのは、

人類の為にいけにえになっ

たイエスこそが相応しい

というわけだ。

人類が罪のないイエスを神に捧げた。

イエスは罪人た

ちの罪をかわりに引き受けて、

自らの死と引き換えに人類全体の罪を神にチャラ

にしてもらっ

たのである。

ところが大部分の人々は、

そのこと

を理解しない。

イエスにすれば自らの全てを捧げ尽くして、

人類を救おう

としたのにである。

なんとも呆れたことに大部分の人類はこの犠牲の仔羊を無視している。

イエ

スの処刑に当たっ

ては、

民衆の多くはこれを歓呼して要求したのである。

そして三日目に復活しても、

弟子が遺体を盗んでイエスの復活を叫んでいる、

とし

か受け止めていない。

そして彼らはその後の初期キリスト教団の活動を厳し

く弾圧している。

これではもう情状酌量の余地がない。

ということで厳

しい

審判をくだすことになっ

ている。

見よ、

その方が雲に乗っ

て来られる。

すべての人の目が彼を仰ぎ見る。

ことに彼を突き刺した者どもは。

地上の諸民族は皆、

彼の為に嘆き苦しむ。

然り、

アーメン。

」ヨハネは七つの燭台

七つの教会を表す)

の中央に「

人の子

つまりメシ

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ア)」

を見る。

頭の毛は羊毛のようで、

雪のように真っ

白だ。

イエス自身は全

く罪がないのに人類の身代わりになっ

たその潔白を表現しているのだ。

もちろんファリサイ派の基準からはイエスは極悪人だが、

イエス自身

としては、

世を救い魂を救う為にメシアとしてしなければなら

ないことを、

恐れずにしただけなのだ。

目はまるで燃え盛る炎

である。

これは審判への激しい意志を表現してい

る。「

足は炉で精錬された真録のように輝き、

声は大水の轟きのようであっ

た。

の手に七つの星を持ち、

口からは鋭い両刃の剣が出て、

顔は強く照り輝く太陽のようで

あっ

た。

いかにも激烈な裁きが下され、

一挙に殲滅されそうな迫力である。

イエス

は倒れて死んだふりをして、

すぐに生き返る。

そしてこう言う。

恐れるな。

私は最初

アルファ)

にして最後の者

オメガ)

た生きている者である。

一度は死んだが、

見よ、

世々

限り無く生きて、

死と陰府の鍵

を持っ

ている。

この文章は、

ヨハネによる福音書

の冒頭の次の文章を受け

ている。

初めに言

ロゴス)

があっ

た。

言は神と共にあっ

た。

言は神であっ

た。

万物は言によっ

て成っ

た。

言によらずに成っ

たものは何一つな

かっ

た。

言の内に命があっ

た。

命は人間を照らす光であっ

た。

光は暗闇の中で輝い

ている。

暗闇は光を理解しなかっ

た。

それゆえイエスは、

万物の創造以前から存在する言

ロゴス)

であっ

ことになる。

神と言葉は一体だが、

神から出た言はそれが表現している物に

なる。

神自身はその時、

物と自分とを区別しているから、

物は神ではありえな

い。

物と成っ

た言は物の中では命である。

物を物として活動させている力が物

のロゴスなので、

その意味でロゴス=

生命なのである。

人間におい

て生きる筋道を示す命となっ

たのが、

イエスの

言である。

イエス

言が暗闇を照らす光であっ

たのは、

その

言が最初の神の

言と一致していたか

らである。

イエスがオメガなのは、

彼が審判によっ

て終末をもたらすか

らである。

だからたとえイエスの

言葉が世の

暗闇の中で理解されなく

ても、

その言の真実は生きている。

終わりの時に真実が明かされ、

言を葬っ

た暗闇

は斬罪され、

その言を守ろうとした人々は祝福されるのである。

そしてロゴス=

生命の立場から、

イエスは永遠の命である。

それで各教会

に宛てた手紙には勝利を得る者に「

神の楽園にある命の木の実

を食べさせたり、

第二

の死から害を受けない」

ようにさせたり‘「

隠されていたマン

ナ」「

だれにも分からぬ新しい名の記された白い小石

」「

諸国の民の上に立っ

権威

を与えたり、

命の書から決して名前を消さなかっ

たりする。

あるい

は神の神殿の柱にすることを約束する。

これも不滅の意味であろう。

3屠られた仔羊

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さて審判では「

七つの封印

が解かれるのだが、

この封印を解くのに相応し

いのはやはりイエスである。

それは人類の罪を自らの肉と血で贖っ

たからである。

天上の礼拝で、

四つの不思議な生き物と二十四人の長老がこう歌っ

た。

あなたは、

巻物を受け取り、

その封印を開くのにふさわしい

方です

あなたは屠られて、

あらゆる種族と言葉の違う民、

あらゆる民族と国民の中から

ご自分の血で、

神のために人々を贖われ、

彼らをわたしたちの神に仕える王、

また祭司となさっ

たからです。

彼らは地上を統治します。

この「

屠られて ―

ご自分の血で、

神のために人々を贖われ、

彼らをわた

したちの神に仕える王、

また祭司となさっ

た」

という点が要注意である。

使徒

たちを王や祭司にする儀式が「

屠られて」

自分の血

を神に捧げ、

それを使徒た

ちに与えた聖餐の儀式なのである。

この聖餐は「

最後の晩餐

ではない。

なぜなら「

最後の晩餐

は「

パンと

ワイン」

であり、

その後二千年間の聖餐と同質である。

だからそれは使徒を王に

する契約の聖餐ではない。

 

イエスの体に合体する聖餐とは言えても、

それは広い

意味で永遠の命に連なる

ことである。

ここでは特別に支配者として王や祭司を選ぶために「屠られ

て」「

自分の血

を与える聖餐の儀式なのだ。

もし実際に「屠られて」

いなく

て、

墓に埋葬されたままなのなら、

贖罪の仔羊

とか「犠牲の仔羊

とかの表現

でもよかっ

たのだ。

ヨハネはわざわざ「

屠られた仔羊

」とい

う表現を使っ

て、

実際の聖餐があっ

たことを示唆したかっ

たのではない

か。

実はこれは「

ルカによる福音書

第二二章

28節からを受けている。

あなたがたは、

わたしが種々の試練に遭っ

たとき、

絶えずわた

しと一緒に踏みとどまっ

てくれた。

だからわたしの父がわた

しに支配権をゆだねてくださっ

たように、

わたしもあなた

がたにそれをゆだねる。

あなたがたは、

わたしの国でわ

たしの食事の

席に着いて飲み食いを共にし、

王座に座っ

てイスラエルの十二部族を治

めることになる。

この約束を果たすために聖餐が行われたと、

ヨハネは主張しているの

である。

だからここには明確に聖餐に加わっ

たヨハネの選民として

の誇りと自己主張がある。

それで万の数万倍の天使たちの賛同を付け加えているので

ある。

屠られた仔羊は、

力、

富、

知恵、

威力、

誉れ、

栄光、

そして賛美を受けるにふさわ

しい

方です。

このイエスを意味する「

屠られた仔羊

が審判を行ない、

その後の支配権を持つ

のである、

それはイエスの十字架が、

人類全体が神に捧げた人類全体の罪を贖うための犠牲奉献

だからである。

つまりイエスが人類全体の罪をチャラにしたの

で、

人類全体の命運はイエスに委ねられたのである。

それで裁きの権利や支配権が認

められたのである。

だからイエスに対して罪をなした者や、

不信仰

な者をどう処分するかは、

イエス自身に委ねられているのである。

画像は「神秘の仔羊

ヒュー

ベルトおよびヤン・ヴァン・エイクの作品一四三二年に完成

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ただし「

ヨハネ黙示録

はイエスの気持ち

をヨハネが推量している。

ヨハネは残忍

な弾圧にあっ

て怒りが頂点に達しているから

凄まじいホロコー

ストをイメー

ジし

てしまっ

たのである。

イエス一人が全人類

を裁くという図式は、

エリー

トー

大衆

図式の極端

な形である。

それがイエス一人が使徒たち

を王に付けるという図式になる。

イエス

の聖餐で肉と血に与れるのは十数人に限られるから

である。

そしてさらにパンとワインの聖餐

によっ

てその枠を拡大する。

しかしそ

れでもキリスト教徒は、

全人類の一部にすぎな

いのである。

こうしてエリー

トの

みが救済されるという論理は逆に審判において人類

の大部分のホロコー

ストの論理へ

と展開するの

である。

この論理が「

汝の敵を愛し、

汝を迫害する者の為に祈

れ」

というイエスの教えと矛盾するこ

とは明らかだ。

イエスは

自分を愛してく

れる者だけをを愛したとて、

そんな

ことが何になろう。

そんな事は取税人でも

しているではないか」

と説いた。

人間にだけ博愛を要求しておいて、

神は自分が選んだエリー

トだけ愛するとい

うのは、

あまりに身勝手なのである。

だが博愛精神と審判は違うのではないか。

審判はトー

ラー

を基準に決まっ

てい

るから、

罪に落ちて罰を受けるのは人間自身の選択の結果であり、

それを神の依怙贔屓

こひいき)

に責任転嫁するのは筋違いだと反論されそうである。

ところがそれはあくまでも表向きのことなのである。

トー

ラー

は相互に矛盾したり、

人倫にも背く場合もあり、

守り切れないことに

なっ

ており、

無理に守ろうとするとトー

ラー

遵守が自己目的化して、

最も

トー

ラー

を冒瀆することになっ

ているのだ。

だから人間は必然的に罪に落

ちる。そ

うすればだれが救われるかは、

神の選択だということにな

る。

そこでキリスト教の立場で言えば、

神が遣わしたメシアに帰依した者

のみが救われるということになる。

これが信仰義認論である。

しかし沢山の贋メシアの中からどうしてイエスが本物だと分かる

のか、

イエスの許に集まっ

た詳衆は、

延べにすれば数万、

数十万人に及んだかも

しれない。

ある者は病気がまた悪化して、

イエスが信じられなくな

り、

ある者はユダヤ解放のイエスの戦略が理解できなくて、

離反し、

また

ある者は悪霊追放劇の虚構性に気づいてイエスに幻滅した。

また究極の選択としてはメ

シアへの聖餐の誓いを要請されて、

生理的にも反発したわけである。

そういう人々にはそれぞれに躓く理由があっ

たわけだけれど、

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その理由だけでイエスが断罪するとしたら、

イエスは取税人と同じレ

べルになっ

てしまうのではないか。

キリスト教には博愛精神と矛盾する原理があるのだ。

これが反フェ

ティ

シズムの神中心主義である。

人間がありふれた事物を神に指定して、

それに願をか

け生贄を捧げる。

それが聞き入れられればよし、

願いが叶えられなけ

れば、

その神を審判する。

つまり破壊するなどして攻撃をかけるの

である。

 

これがド・ブロスの言うフェ

ティシズム信仰である。

これを神

への冒瀆だとして、

神と人間との関係を逆転させたのが、

超越神論である。

だから超越神は、

人間を創造し、

トー

ラーを与えてこれを守らせる。

守り

きれば栄光、

守れなかっ

たら審判で断罪する。

そしてだれが救済される

かはあくまで神の専決事項である。

 

審判も人間達に正しい道を示す為の神の愛だと受け取る人もいるかもしれない。

審判

を教師が生徒に、

父が息子に振るう愛の鞭に譬える人もいる。

しかし教師や父親の場合にはあ

くまでも限度を心得ている。

ところが超越神の場合は、

ほんの握りのエリー

トを除いて、

他の全ての人類を滅ぼす権利があるということを、

神のア

イデンティティとして主張しているのである。

そこには愛

の原理は見失われているのである。

 

そしてそこに人間の中に潜んでいる殺人衝動、

ホロコー

ストへの憧れが投影

されている。

神がホロコー

ストを欲しているかの表現を通して、

ヨハネ黙示録

の著者の激しい憎しみとホロコー

ストのユー

トピア

を待ち望む気持ちが表面に出ているのである。

この悪しき伝統がキリスト教

にも教義の矛盾をもたらしているのである。

つまり何度でも罪を許す愛

の神と人類の大部分をホロコー

ストする審きの神の矛盾である。

4七つの封印を解く

以下

ヨハネ黙示録

の概略を紹介しておく。

怪しげな解釈をする前に何が書いてあ

るか、

その内容を確認しておくことが最も重要だ。

第一の封印が解かれると白馬に弓を持つ

者が乗っ

て現れ、

戦いを始めた。

第二の封印が解かれ

ると赤馬に剣を持つ

者が現れ、

どんどん戦争をやらせた。

第三の封印が解かれると、

黒馬に乗っ

た者が秤を持っ

ていて、

小麦は一コイニクス

で一デナリオン、

大麦は三コイニクスで一デナリオン、

オリー

ブ油

とワインとを損なうなと言う。

要するに商業が盛んになるという

ことだろう。

これも様々な争いや不幸が商業によっ

て生じるという意味か

もしれない。

第四の封印が解かれて、

青白い馬に乗っ

た「

が「

陰府

を従えて現れる。

剣つま

り戦争と飢饉と死、

そして野獣で、

と「

陰府

が地上の四分の一を支配するのである

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画像は「

ヨハネ黙示録

を描いた劇画

隻手音声

 

日記

より

http://ncubic.blog57.fc2.com/blog-date-200904-0.htm

l

第五の封印が解かれると、

神の

言葉と自分たちが立てた証のために殺さ

れた人々の魂が叫んでいるのが見える。

「真実で聖なる主よ、

いつまで裁きを行わず、

地に住む者にわた

したちの血の復讐をなさらないのですか。

迫害で死んだ義人たちが、

現世で生きている者達に「

血の復讐

を願っ

てい

るというのである。

これは言い換えれば、

現世で義のた

めに命懸けで戦っ

ているヨハネのような使徒が、

キリス

トの一日でも早い再臨とその裁きを願っ

ているということで

もある。

またこれを現代に置き換えると「

ものみの塔

の敬虔

な信者たちが、

そのことを願っ

ているということで

もある。

ものみの塔

」は決して自分たちは審判行為はしないけ

れど、

ヨハネ黙示録

に預言されているような主の裁きは歓迎す

るという立場である。

その点オウム真理教のようにキリスト教でもないのに「ヨハネ黙示

を実現させようとして、

最終破壊兵器を入手しようとしていたのよりは

ましである。

でも我々にすれば、

ヨハネ黙示録

のような神の裁き

こそ、

現世の人類の大部分を抹殺する恐ろしい未曾有のホロコー

ストであり、

それ

を望むなど正気の沙汰とも思えないのだが。

第六の封印が解かれると、

大地震が起こる。

太陽は暗くなり、

月は全体が血のようにな

り、

星が地に落ちたとある。

天は消え去り、

山も島も場所を変えるとされる。

人間

たちは洞穴等に隠れたとされているが、

かなり死ぬだろう。

もし

ものみの塔

の人など「

ヨハネ黙示録

をそのまま信仰しているキ

リスト教徒達は、

その時、

自分たちの信者だけは被害が少なかっ

たら、

主の裁きを

ほめたたえるのだろうか。

次に天使が神の僕に刻印を押す。

それはイスラエルの全部族から合わせて十四万八千人だ。

その後イスラエル以外の白い

衣を着た大群衆が神と仔羊を讃える。

天の長老によると、

らは大きな苦難を通っ

てきた者で、

その

衣を仔羊の血で洗っ

て白くした」

うだ。

つまりユダヤ人以外のキリスト教徒である。

おそらく厳しい

帝国

の弾圧の中でも、

かなりの勢いでキリスト教会は信者を集めていたと考え

られる。

とはいえまだ大部分の人々はキリスト教徒だっ

たわけでは

ない。

5七人の天使のラッ

第七の封印が解かれ、

七人の天使がそれぞれラッ

パをもっ

て現れた。

第一の天使がラッ

バを吹くと地上に火が投げ入れられ地上の三分の一が焼けてしまう。

 

第二の天使がラッ

パを吹いた。

海に燃えている大きな山のようなもの

を投げ入れたので海の三分の一が血に変わっ

た。

第三の天使がラッ

パを吹いた。

すると燃えている苦蓬の星が落ちてきて河の三分

の」と水源の上に落ちた。

水が苦くなっ

て多くの人が死んだ。

 

第四の天使がラッ

パを吹いた。

すると太陽と月と星という星の三分の一が損なわれ

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た。

だから昼も夜も三分の一が暗くなっ

た。

第五のラッ

パで、

一つの星が落下して、

底知れぬ所の穴が開かれ、

そこから煙

が出て、

暗くなる。

その煙の中からいなごが出てきて、

額に神の印のな

い大達を襲い、

さそりにさされる時のような苦痛を五カ月間与え続けるのだ

人々は苦しみのあまり死を願うが、

死ねなかっ

たのである。

第六のラッ

パで、

四人の御使が解き放たれる。

彼らは二億人の騎兵隊を引き連れて、

その馬

の口から出る火と煙と硫黄で人間の三分の一が殺された。

画像はミケンランジェロ『

最後の審

の部分

システィナ礼拝堂

だが生き残っ

た人達は、

それ

でも偶像崇拝やその他の犯罪を止めよう

としなかっ

たのである

そりゃ

あそうだ。

こん

な残虐なホロコー

ストをす

る天使軍団にはとても素直に降伏できな

い。

ヨハネ黙示録

の著者の論理で

は、

どんなに残虐なジェ

サイドを行っ

ても、

神や天使達の正義

は揺るがず、

それに抵抗すれ

ばするほど人間達は悪に固執してい

ることになる。

つまり神に対しては過剰報復は悪だ

という自然法は適用できないし、

暴力

や武力で自らの意志や正義を押しつけて

くる者に対して、

抵抗しないことは屈辱的な行為で、

たとえ殺されてもあ

くまで抵抗するのが正義だという論理は通用しないのだ。

第七のラッ

パで、

大きな声が天に起こる。

この世の国は、

われらの主とそのキリストとの国になっ

た。

は世々限りなく支配なさるであろう。

」「

すべて御名を恐れる者たちに報いを与え‘

また地を滅ぼす者どもを滅ぼし

て下さる時がきました。

また太陽を着て、

足の下に月を踏み、

頭に十二の星の冠をかぶっ

た女と大きな赤い龍と戦

い、

天使ミカエルと龍の戦いがあり、

サタンである龍は地に投げ落とさ

れる。

また豹に似た獣が海から上がり、

龍から力と権威を与えられ、

全地の人々

この龍と獣に従うのだ。

彼らは聖徒に戦いを挑んで勝つことを許されていた。

ほふられた仔羊

の命の書に名を世の始めから記されていない者は、

皆この獣を拝む。

この箇所はルター

やカルヴィンの予定説に影響を与えている。

予定説だと神の予定

は変更不能だから、

機械論的必然論の色彩が強い。

神はごく僅かの祝福されたエリー

トだけを始

めから神の国の住人に選ばれており、

その他の人間達は一束にして火の池に投げ込ま

れるというのである。

しかしそのような人類の大部分を見捨ててしまわれるような神がは

たして愛の神と呼べるだろうか、

はなはだ疑問である。

また別の獣が現

Page 9: yutakayasui.html.xdomain.jpyutakayasui.html.xdomain.jp/shoin/ctoc8,e.docx · Web viewのである。ところが大部分の人々は、そのことを理解しない。イエスにすれば自らの全てを捧げ尽くして、人類を救おうとしたのにである。なんとも呆れたことに大部分の人類はこの犠牲の仔羊を無視している。イエスの処刑に当たっては、民衆の多くはこれを歓呼して要求したのである。

れて、

獣の像を作らせ、

それを拝まないものをみな殺させる。

た獣の名または数字の

刻印を額か右手に押させて、

刻印がなければ売買ができない

ようにしたのだ。6

七つの金の鉢の災い

やがて御使が神のさばきの時がきたと告げる。

そして七人の御使が、

最後の七

つの災害の入っ

た七つの金の鉢を携えて登場する。

第一の鉢が地に傾けられると、

獣の刻印を持っ

者と獣像を拝む者は悪性のでき物ができ

てしまう。

第二の鉢が海に傾けられると、

海は死人の血のようになり、

海の生物は全滅する。

第三の鉢が川と水源に傾けられると、

みな血になる。

人々

は血を飲まなけれ

ばならなくなっ

たのだ。

血を飲むのは絶対的なタブー

なのに。

 

第四の鉢が太陽に傾けられると、

人々は激しい炎熱で焼かれる。

しかし彼らは悔い改

めず、

神を罵っ

たのである。

つまり罰を下す神のさばきにあっ

て、

自分達の罪を反省することができないわけだから、

ヨハネに

すれば、

救う値打ちがないということだ。

だがこんなひどい目

に遭わせる神を恨みこそすれ、

帰依する気持ちになれないのは当然なの

だ。

第五の鉢は支配獣の座に傾けられ、

人々は苦痛とでき物ゆえに天の神を呪う。

第六の鉢がユー

フラテス川に傾けられると、

龍と獣とにせ預言者の口から三つ

の悪霊が出て、

全世界の王達をハルマゲドンという所に招集した。

ハルマゲ

ドン」

という言葉はこれ一回だけの使用である。

これは大殺戮ほどの意味で、

最終戦争

の意味で後世に使われるようになっ

たのである。

第七の鉢を空中に傾けると、

稲妻と雷鳴と激しい地震がおこり、

町は倒れ、

島や山は見えな

くなっ

た。

そして雷の災害が襲う。

やはり人々は災難をもたらした神を呪

うのだ。

画像はハルマゲドンの場所といわれているハル・メギド(

メギドの丘

つまり神のさばきでヤハウェ

の神が絶対的で強力だっ

たと分かり、

の神だと思い知らされた筈だから、

ヨハネにすれば懺悔して当然なの

である。

それが出来ないというイメー

ジをヨハネが描いたの

は何故か、

われわれにすればこれだけ残虐なことをされれば、

かえっ

て反抗して当然なのだが、

ヨハネは真の神と分かれば従うのが正義

だと思い込んでいる。

だがそのヨハネにして、

人間は空しい反抗をし偶像崇拝

に固執したりするものだと思っ

いるのだ。

それは人間は本質的に不信仰だとヨハネが見

なしていたからなのだ。

まりヨハネ自身が、

神を信仰すること

ができない不信仰を抱えていたので

ある。

もしヨハネが神を素直に信仰し

Page 10: yutakayasui.html.xdomain.jpyutakayasui.html.xdomain.jp/shoin/ctoc8,e.docx · Web viewのである。ところが大部分の人々は、そのことを理解しない。イエスにすれば自らの全てを捧げ尽くして、人類を救おうとしたのにである。なんとも呆れたことに大部分の人類はこの犠牲の仔羊を無視している。イエスの処刑に当たっては、民衆の多くはこれを歓呼して要求したのである。

ていたら、

神をこんなに残虐に描ける筈がない。

もちろん神は人間に試練

を与え、

人間の罪を罰して下さる。

しかしそれなしには人間たちが愛に生

きることができないからである。

だから過度に残虐、

無慈悲と思われる仕方

で人間を裁かれるという考え自身が、

愛の神に対するとんでもない冒瀆なの

である。

神が異教徒をホロコーストするという恐怖イメー

ジで自己をマインド・

コントロー

ルすることなしに神を信仰することができな

かっ

たのは、

ヨハネが本質的に不信仰を隠し持っ

ていたせいなのであ

る。

7欲望の都バビロンの崩壊

次に大いなる欲望の都バビロンが審判に遭

う。

バビロンは世界中の国々の王を意味する

つの頭と十の角を持つ

赤い

獣に乗っ

た大淫婦のイ

メー

ジなのである。

画像

http://wave.ap.teacup.com/

renaissancejapan/451.htm

l)

バビロンは悪魔の棲む所、

あらゆ

る汚れた霊と鳥の

巣窟であり、

地の王たち

は彼女と姦淫し、

商人たちは巨大な奢侈によっ

て富

を得ていたから裁かれるのであ

る。一日のうちに死と悲しみと飢饉が彼女を襲い、

彼女は火で焼かれてしまうのだ。

世界中

の王や商人たちは嘆くが、

天の大群衆はこの神のさばきを賛美するのだ。

東京、

ニュー

ヨー

ク、

ロンドン、

上海などが大炎上するイメー

ジで

ある。

これを神の正しいさばきだと歓声をあげる者達の存在をイメー

してみて欲しい。

その仲間には入りたくない、

むしろ焼かれる側

に回っ

た方がましだと思う人も多いことだろう。

ところでこの欲望の都バビロンの崩壊は、

近代文明の末路を暗示しているように

も受け取れる。

欲望を数量化して、

それを無限大に肥大させた近代資本主義文明は、

自然の均衡を崩壊させるこ

とによっ

て、

自然からの報復でカタストロフィ(

大崩壊

を遂げる危険性が大き

いのである。

まっ

たく神のさばきと捉えられてもおかし

くはないのだ。

そして天が開かれ、

白い馬に乗っ

た「

王の王、

主の主

という名のイエス

とおぼしき男が登場し、

獣と地の王の軍勢と戦い、

勝利した。

そしてイエスは

義の為に犠牲になっ

た人々、

偶像崇拝を拒否して殺された人々を復活させ、

千年王国を築くのである。

千年が過ぎると、

サタンが解放されて、

周縁部の国々ゴグ、

マゴクの海の砂ほ

ど多くの人々を惑わして、

エルサレムを包囲させる。

すると天から火が

降っ

てきてサタンの軍勢を焼き尽くすのである。

サタンは、

獣や

にせ預言者のいる火と硫黄の池に投げ込まれ、

世々限りなく、

日夜苦しめられるのであ

る。

Page 11: yutakayasui.html.xdomain.jpyutakayasui.html.xdomain.jp/shoin/ctoc8,e.docx · Web viewのである。ところが大部分の人々は、そのことを理解しない。イエスにすれば自らの全てを捧げ尽くして、人類を救おうとしたのにである。なんとも呆れたことに大部分の人類はこの犠牲の仔羊を無視している。イエスの処刑に当たっては、民衆の多くはこれを歓呼して要求したのである。

8「

ヨハネ黙示録

の呪い

そして残りのすべての死者が、

その仕業に応じて、

命の書に従っ

てさば

きを受ける。

そして死も黄泉も火の池に投げ込まれるのである。

命の書に名前が記されていない者は(

もちろんその方が圧倒的に多い。

日本人のほ

とんどがそうである。

みんな火の池に投げ込まれるのだ。

の命の書に名前が記されているというのが予定説の根拠になっ

ている。

の予定説は裁きは全て神の権限であり、

人間にはどうすることもできない

ことを意味している。

この予定説に立つことで、

絶対帰依という考えが徹底するのかもしれない

が、

その結果として、

敬虔なキリスト者以外は皆火と硫黄の池で当然という発想になる。

そしてこれは神が与えた黙示だからヨハネ自身の願いではないと開

き直るかもしれないが、

それを信じるということ自体に、

の内容に対する願望があるというのが、

精神分析学からの診断なのである。

なぜ

なら愛の神のイメー

ジを強く持っ

ている使徒が黙示を受けたならば、

エスは再臨して世界に愛による平和をもたらす道を説き、

異教徒との相互理解を深めて、

異教徒が正

しい生命と愛の神への信仰に進めるように導くこともイメー

ジできた筈

だからである。

いやそれは事実的にできなかっ

たのだから仕方がないとあく

まで固執するのなら、

それは神の能力を否定する議論と言わざるをえない。

を信仰しているのなら、

神が語っ

たことを、

当時のキリスト教徒が一面的に

しか受け止められなかっ

たと認め、

それを無批判に継承してきたキリ

スト教会の歴史を反省すべきなのである。

黙示録の要約に戻ろう。

――

こうして新しい天と新しい地が仕上がり、

聖なる都エ

ルサレムは完成する。

神が人と共に住み、

人は神の民となる。

もう死もなく

悲しみも、

叫びも、

痛みもないのだ。

他方これまでの人類の大部分は、

その時ヨハネに言わせれば当然の報いかも

しれないが、

火と硫黄の池で絶え間無い責苦に苦しんでいるのである。

神の民

に成っ

た選民たちは、

自分たちだけ幸福に成っ

て、

胸は痛まないのか。

それ

が本当の幸福なのか。

もし人格的な存在として神がおられるのなら、

その神は人類の大部分が火と硫黄の池

で絶え間無い責苦に苦しんでいるのに、

自分だけ神の民になっ

て幸福だと感じる

ような人間を、

決して神の民にはしないだろう。

それこそ火の池に投

げ込まれるに決まっ

ている。

だから「

ヨハネ黙示録

によっ

て、

神に対する恐怖イメー

ジを抱き、

いつしかマインド・コントロー

ルされて、

そこから信仰に

入っ

たら、

それこそ地獄行きなのだ。

これをしたら天国行き、

これを

したら地獄行きという言葉ほど躓きやすいのだ。

つい恐ろしさのあ

まり、

わが身の幸福だけ考えて行動してしまい、

原点である神への愛と隣人へ

の愛の意味を忘れてしまうからである。

Page 12: yutakayasui.html.xdomain.jpyutakayasui.html.xdomain.jp/shoin/ctoc8,e.docx · Web viewのである。ところが大部分の人々は、そのことを理解しない。イエスにすれば自らの全てを捧げ尽くして、人類を救おうとしたのにである。なんとも呆れたことに大部分の人類はこの犠牲の仔羊を無視している。イエスの処刑に当たっては、民衆の多くはこれを歓呼して要求したのである。

それこそ「

トー

ラー

の呪い」

と同じなのだ。

これまでキ

リスト教徒は『

バイブル』

の言葉は神の言葉として、

その言葉に主体的な責任を負おう

とはしなかっ

た。

たとえそこに神を冒 瀆し、

人の道に外れた暴虐無残な行為を賛美

するような事が書かれていても、

それ

は過去の信仰の記録として自分の信仰の中身ではないとし

て無視すればよいと考えてきた。

実際、

ヨハネ黙示録

を敬遠するキリスト教信者が多

い。

その人達はあんな恐ろしい黙示の内容が愛の神イ

エス・キリストの

意志であると見なすの

は荒唐無稽だと認めている。

しかし 『バイ

ブル』

のトリを飾る重要な「

黙示録

」がキリス

ト教徒の信仰内容でないというのでは、

キリス

ト教徒自体の信用が成り立たない。

現にキリスト教原理主義者たち

は、

ヨハネ黙示録

をかなり重要な信仰の要に置いていると言われるわれ

る。オウム真理教が「

ヨハネ黙示録

を悪用して、

いわゆる「

ハルマゲド

ン」

を演出しようとした際、

キリスト教徒の大部分は、

間違っ

た解釈で「

ヨハネ黙示

を歪めキリスト教のイメー

ジを損なわせたとして、

オウム真理教

に反発したのだ。

その際、

ではそのキリスト教徒は「

ヨハネ黙示録

を真剣

に読み返しただろうか。

そしてその結果

ヨハネ黙示録

」を『

バイブ

ル』

に収録したままでよいとの結論に達したのだろうか。

もしそういう作業をしていないのなら、

その人は自分の信仰に対し

て極めていい加減で、

無責任ではないだろうか。

今からでも遅くない

から、

ヨハネ黙示録

を読み返して、

それがキリスト教信仰にとっ

て有意義

なのか、

それとも私がいうように躓きの石であり、

まさし

く「

ヨハネ黙示録の呪い」

なのかを再検討して欲しい。

うでない限り、

キリスト教徒にとっ

ては「

オウ

ム真理教事件

は、

完全には終わっ

ていないのである。

画像はオウム真理教教祖麻原彰晃

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エピロー

グ「

永遠の命

とは何か?

キリスト教の普遍性

1ヨハネの怒り

ヨハネ黙示録

」で『

バイブル』

が完結してしまっ

たことは、

きな不幸であっ

た。

ヨハネ黙示録

にみられるキリスト教の独善性が、

十分

に反省されないまま、

その後の歴史の中に暗い影を落とすことになっ

しまっ

たからである。

聖地奪還の十字軍、

異端審問、

魔女裁判、

世界布教における独善性・植民地支配との結合などを振り返っ

てみればそれは明ら

かだろう。

そしてそれは聖霊を宿しているキリスト教徒である西欧人の世界支配の正当性の意識や

聖霊を宿していない非キリスト教徒であるアジア・アフリカ人に対する西欧人

の優越感を潜在意識の上で生み出す根拠になっ

たのではないかと推測されている。

もちろんこうしたことは合理的科学的には根拠がない優越感だから、

あく

まで潜在意識の上での影響である。

自覚的に意識していることでないだけに、

これから逃れるのは難しいのだ。

私が「

ヨハネ黙示録の呪い」

と「呪

い」

の表現を使うのはそのためである。

だから西欧人は、

その意味で非常に悲劇的である。

彼らは 『

バイブル』

を信仰し

ているからこそ「

ヨハネ黙示録

に呪われて、

彼ら自身が信仰しているイ

エス・キリストによっ

て、

神と神の子を冒瀆するものとされてい

るのだから。

私の仮説では、

ヨハネはイエスの血を飲み、

肉を食べた。

そういう仕方

でイエスを荘厳し、

自ら聖霊を宿す者となっ

たつもりでいたのであ

る。

そしてイエスの復活を体験したのである。

それでは彼はそのことによっ

てイエスの如く、

神への愛と隣人

への愛

に生きる人になっ

たのか。

残念ながら「

ヨハネ黙示録

を読む限り

彼は激しい弾圧にあっ

て精神を歪められ、

復讐への怒りに目がメラメラと燃え

ている。

その怒りを贖うには、

それこそ人類の大部分が地獄の苦しみを味わ

い、

ホロコー

ストされるのでなければ済まないぐらいに

なっ

ているのだ。

もちろん「

ヨハネ黙示録

を『

バイブル』

の締めくくりに採用し

ている限り、

イエスの肉と血の上に建てられた筈のキリスト教会も、

エスの愛の精神、

愛の解放戦略

を継承し、

愛に生きるという点では十分ではない。

2悪霊芝居の歴史的意義

イエスの愛の精神を継承するといっ

ても、

悪霊芝居やカニバリズムを継承す

ることではない。

イエスのパフォー

マンスは、

イエス自身

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の独特の聖霊信仰と主体的なギリギリの決断によっ

てなされたものである。

それはトー

ラー

にも背いていたし、

倫理観からみても当時において

も現在においても受け入れがたいものを含んでいた。

画像は悪霊追放画

しかし悪霊追放劇を仕組まないで、

はたして民衆を「

トーラーの呪い」

から解放し、

愛の解放戦略を実行に移してユ

ダヤひい

ては全人類を解放するためのきっ

かけを生み出すことが

できたのか、

というのがイエス達の言い分だ。

あるいは他のもっ

と正しいやり方もあっ

たかも

しれない。

われわれは歴史をやり直すわけにはい

かないのだから、

イエス達の決断と行動には驚異と畏敬の念を抱く

しかない。

その中に罪な部分があるとしても十分報いは受け

ているのだから、

それを覚悟でやっ

たことに敬意を払

うのみだ。

わたしは「

悪霊芝居

を仕組んだという仮説を提示しているのだが、

それ

は決して悪意で誹誇するためではない、

悪霊芝居

を仕組むということは凄い

ことなのだ。

そんなことできっ

こないのだ。

現代なら名う

ての役者や名詐欺師達がうじゃ

うじゃいて、

少々のトリツクを要する子供騙しの芝居

などへっ

ちゃらの連中が結構いるかもしれないが、

魚を騙す位しか騙

すことを知らない純朴な漁師に、

人前で悪霊役をやらせるなど人間業ではないの

だ。だからそういうアイデアを思いつき、

見事成功させたイエスの行動 は、

まさしく聖霊が乗り移っ

ていると思われるぐらい驚異なのであ

る。

死海文書

なるものが発見され、

どうもイエスもエッセネ派の修行者

ではなかっ

たかという説が有力になっ

ているが、

もしそう

だとしてカムランの洞窟で修行している時の彼は、

他の黙示録的な幻想に耽る連中とは

違っ

て、

どうすれば民衆の魂を捉え、

解放できるか、

現実的なその方法を模索してい

たのである。

イエスは、

初めはなかなか名案が浮かばなかっ

た。

どうして

も様々な現世的な欲望が払拭しきれず、

雑念や妄執に惑わされたと思われる。

それは悪霊の誘惑

だとイエスには思われた。

悪霊を追っ

払うのは大変だっ

た。

それでイエスは聖霊の力を借りようと

したのである。

そしてひたすら聖霊の降臨を祈っ

たのである。

イエスは自分を惑わしている悪霊は、

民衆を惑わし、

民衆に疫病や罪をもたらして

いる悪霊と同じだと直観した。

なぜならイエス自身がアム・ハー

レツ(

の群れ)

出身なのだから。

だから己の悪霊を追い払うのは、

民衆の悪霊を追い払うこ

とでもあるのだ。

聖霊によっ

て民衆の悪霊を追い払えば、

民衆の魂を捉えることができるので

はないかとイエスは考えた。

そして民衆を救うのは実行不可能なトー

ラー

字句通りの

実践ではなくて、

聖霊に帰依し、

そのもとで愛に生きることで

はないかと悟っ

たのである。

しかし民衆は悪霊を見ることはできないから、

たとえ聖霊がそれ

を追放しても、

人々はその事を信用せず、

むしろ霊媒として告発されるおそれ

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があっ

た。「

レビ記

第一九章

31節に

霊媒を訪れたり、

口寄せを尋ねたりして、

汚れを受け

てはならない」

と記されているからだ。

この「

霊媒

は出エジ

プト記第二二章17節でいう「

女呪術師

のことかもしれない。

女呪術師は生かしてお

いてはならない」

とされていた。

つまりユ

ダヤ教では

シャー

マニ

ズムは徹底的に排斥されており、

下手に悪霊払いをすると身の危険が

あっ

たのである。

だがイエスは「

霊媒

や「

女呪術師

はチャチだから排斥されるのだ

と思っ

た。

本物の悪霊払いだと悪霊を追い払う場面を民衆に堂々と見せる筈だと思っ

た。

しか

しどうも悪霊というのは目に見えるものではないらしい。

こで考えに考えた結果、

悪霊追放劇を見せておいて、

その後に悪霊追放を行えば信仰されるの

ではないかと思いついたのである。

そしてではどのように悪霊追放劇ができるのかと、

思いを巡らし

た。

そして本書で採り上げたような形を構想したのである。

このよ

うな構想を思いめぐらしていると、

次々とだれも考え付かなかっ

ような、

トー

ラー

主義の限界を突き破っ

た発想が湧いてくる。

それでイエ

スは自分には既に聖霊が備わっ

ていると確信したのだ。

つまり自分の力では到底思いつきそうにない発想に、

突然襲われるのであ

る。

そしてそれは民衆の魂を救い、

世を救うような発想なのである。

何か

そこには大いなる者の意志が働いている。

ただ自分が考えているので

はなくて、

聖霊が考えているという形でイエスは、

理解するしか

なかっ

たのである。

これは一般化すれば個人的な身体において、

個人としての自己が考えていること

は、

実はその個人が属している集団や社会が考えていることでもあるこ

とを意味している。

だがイエスの場合にメシアの自覚まで高まっ

のは、

ユダヤの重い歴史を背負い、

アム・ハー

レツの苦悩を背負っ

て、

懸命に救い

の道を求めていたイエスという身体で、

まさしく人類の歴史全体が、

巨大な渦を巻い

て彼の思索を形成し、

その突破口を開いたからなのである。

たかが悪霊追放劇と、

その子供騙しみたいな性格に苦笑するかもしれない。

かし現代においても恐慌や地球環境危機、

資源問題などの人類的危機を突破するきっ

かけは、

ほん

の子供騙しみたいな思いつきの中に潜んでいるのかもしれない。

そしてそれぞれの個人が身を捧げ尽くす決意と囚われなき思想さえあれば、

人類的危機を救うような働きをするかもしれないのである。

3聖餐による復活の意義

またイエスの聖餐の発想も凄まじい発想である。

人食いがタブー

の社会では到底受

け入れられない筈の発想なのだ。

いくら聖霊信仰を強く持っ

ていても、

死体を前

にその肉を食べ、

血を飲む行為は体が強烈な拒否反応を起こすだろう。

こればっ

りはいかにイエスの指令でも、

簡単には実行できない筈である。

しかし聖霊を復活させる方法としては、

これしか考えられなかっ

た。

もし露見すれば、

皆殺しに遭っ

ていてもおかしくないやり方

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なのだ。

イエスは身を捧げ尽くすことによっ

て、

単に聖霊として復活

しただけでなく、

身体としても復活したと思い

込まれたのである

そしてそれは聖餐体験者にとっ

ては、

紛れもない歴史的事実として受け止められ

たのだ。

この奇跡体験によっ

て、

死を克服したイエスに倣っ

て、

使徒たちは殉教も恐れず布教

してキリスト教団を確立したのである。

イエスはシャー

マニズムの葬送儀礼で、

シャー

マンの能力を継承する

ためにカニバリズムを行うという風習を恐らく知っ

ていたのだ

ろう。

たぶん荒れ野の修行中にアジア人の隊商と出会い、

その中のシャー

マン

に出会っ

て話を聞いたと推測される。

たとえ聞いてなくっ

ても、

つきもの信仰である聖霊信仰からの当然の帰結

だから、

自分でそういう信念に到達したかもしれない。

イエスとしては捕まれば処刑される可能性は強いと思っ

ていたが、

イスカリオテのユ

ダはイエスが処刑までされるとは思っ

いなかっ

たので、

割に軽い気持ちで裏切っ

たのである。

ところが

イエスは処刑されることになる。

元々トー

ラー

中心の秩序に挑戦している、

聖霊

による救済信仰は、

数々の実際のトー

ラー

への軽視や公然たる蹂躙を含み、

カニバリズ

ム的教義まで露見していたので、

ユダヤ教からは当然の処刑対象であり、

民衆の支持が引く

のをまっ

て処刑されたと考えられる。

だからイエスは民衆の支持が急減したのが決定的な誤算だっ

たのだ。

それ

は彼自身が自らに宿っ

ていると思い込んでいる聖霊の能力に対する過信が原因だっ

たの

だ。しかしこの支持の急減にもかかわらず、

彼の自分の聖霊への信仰は強まる一方で

あっ

た。

そこで追い

詰められたために自分の身体から聖霊を移転させるた

めの聖餐を指令したのである。

身を捧げ尽くす聖餐によっ

て、

イエスの命は使徒たちの肉となり血と

なっ

た。

それだけでもある意味で復活である。

というのは

いっ

たん死んだ命が使徒の命に合体して生きているからである。

もちろんこれは食べること一般に成り立つことだ。

だから「

ただきます」

は本当は「

命をいただきます」

という意味なのであ

る。

命をいただいて、

自分の命の中で食べられたものの命を生き返らせて

いるのだ。

とはいえ個体的には食べられた個体の命は生き返らない。

自分を餌食とする動物の個体

の生命に吸収されてしまう。

ただし類の命とすれば、

食物連鎖を通して、

類の命は個体数

を維持することで生き続けるのである。

だからイエスへの聖餐は明らかに聖霊自体の復活はもたらすかもしれ

ないが、

イエス個人の再生はもたらさない筈であっ

た。

ところ

がイエスの個性は強烈だっ

たので、

心理的にイエスを食べた人達には、

精神の一時的

な異常を来すことになっ

た。

Page 17: yutakayasui.html.xdomain.jpyutakayasui.html.xdomain.jp/shoin/ctoc8,e.docx · Web viewのである。ところが大部分の人々は、そのことを理解しない。イエスにすれば自らの全てを捧げ尽くして、人類を救おうとしたのにである。なんとも呆れたことに大部分の人類はこの犠牲の仔羊を無視している。イエスの処刑に当たっては、民衆の多くはこれを歓呼して要求したのである。

聖霊が食べた人の体内で人格的にもイエスのままで住みつくと思い

込まれる

のである。

そうすると自己とイエスの区別がつかなくなる。

だから逆に食べた使徒の命がイエスの命に取り込まれるという意識状態になっ

てしまう。

これが個体的にもイエスの復活が信仰される基礎になっ

たの

だ。使徒たちはイエスを食べることによっ

て、

自身がイエスの再生と

なり、

イエスが永遠の命であることを証したのである。

またそ

のことによっ

て、

自ら永遠の命に連なるものになっ

たわけであ

る。イエスは自らを捧げ尽くすことによっ

て、

普遍的な命に高まっ

た。

して普遍的な命として個別的な命を祝福して、

個別的な命を普遍的な命に高めたのである。

人類の

ため、

共同体のために個人が自らを捧げ尽くして貢献しようとするとき、

の英雄的な行動によっ

て、

人類や共同体が危機を克服することがある。

もちろん母が子

の為に自らの全てを投げうっ

て献身する場合もそうである。

そういう場合に、

自己犠牲的な献身者の命は、

自己の個別性を燃やし尽くすことで普遍的な命として

他の個別的な命を支える。

そうすることで個別的な命は普遍的な命を自己の命の

普遍的な姿として憧

れ、

自らも献身的な命であろうとするのだ。

こうして全体が普遍的な一つの命

として感得されるのである。

4「

大いなる命

の思想

もちろんイエスのようなアニミズム的な聖霊信仰だからこそ

の聖餐である。

ただし、

この聖餐が一つの命であることを証するため

の唯一の正しい

方法であると考えるのは、

とんでもない誤解である。

だからキリスト教会がそれをパンとワインの聖餐によっ

て記念

するのは意義があることだが、

このパンとワインをシン

ボリッ

クな意味以上に解釈して、

イエスの肉と血がそこに臨在しているか

のように神秘的に解釈するのは、

ブライズムが最も幼稚で野蛮の信仰だとし

て排除しているフェ

ティシズムの典型に他ならない。

人類社会の中で自らの身を捧げ尽くして生きるというのは、

それぞれの個性

ある諸個人が、

自らの個性と能力を出し尽くして、

その時代、

その社会が抱えている根源的な問題

に取り組んで、

自分を生かしきることに他ならない。

だから現代の根源的な課題を明瞭に把握し、

それをどう表現し、

その課題とどのよう

に取り組むべきかを知らなければならないのだ。

イエスはそれを全く思いも寄らない形でつかみ、

その取り組み

の運動を見事に組織して歴史の道を照らした。

そしてその運動が破綻しても、

自らの肉

と血で聖餐による復活をなし遂げ、

キリスト教会の基礎を築いたのである。

イエスは自らを「

命のパン」

と位置づけているが、

それはイ

エスの教えによっ

て真に生きることができるからだとして

いる。

だからこのパンを食べることは、

イエスの教えを信じ

て生きることに他ならない。

つまりイエスの

言葉を自らの血と肉と

Page 18: yutakayasui.html.xdomain.jpyutakayasui.html.xdomain.jp/shoin/ctoc8,e.docx · Web viewのである。ところが大部分の人々は、そのことを理解しない。イエスにすれば自らの全てを捧げ尽くして、人類を救おうとしたのにである。なんとも呆れたことに大部分の人類はこの犠牲の仔羊を無視している。イエスの処刑に当たっては、民衆の多くはこれを歓呼して要求したのである。

して生きなさいということである。

このようにパン・ワイン・肉・血を通して、

イエスが語ろうとして

いるのは「

大いなる命

の思想ではないかと思われる。

イエスは「人はパンのみにて生きるのではない」

と説いた

が、

同時に自分自身を「命のパン」

と表現している。

私はイエスの思想にも全体を一つ

の「

大いなる命

」として捉えるような生命哲学があるのだと思う。

ブライズムをへレニズムとの対極という観点からだけ捉え、

を自然全体から超越させ、

自然を単なる神の被造物という観点からしか捉えることがで

きないと、

そのことは見えてこない。

たしかにフェ

ティシズムやアニミズムとの対抗関係から、

神の超越的側面

が強調されているのだが、

ブライズムも宗教思想である以上、

生命のつな

がり、

生命の根源、

生命の全体についての思想を持っ

ているのだ。

イエスはこ

う考えたのではないか。

人間は、

そしてもっ

と広い意味では命は、

共に生き、

共に苦しんでいる

時代により社会により抱え込んでいる問題は異なる。

しかし共に生きている

のだ。

共に苦しみ、

共に喜ぼう。

一つ一つの命、

一人一人の人生がばらばらだと思う

から救われないんだ。

みんなの命は「

大いなる命

に抱かれてい

て、

そこから生まれ、

そこに帰っ

ている。

天のお父が慈悲の雨を降らし

て下されば、

萎びていた草は背筋を伸ばして、

色とりどりの花を咲かせる

じゃないか。

そうしたら羊たちも元気になり、

美味しい乳をたっ

ぷり出す。

みんな元気になっ

ていく。

反対に日照りの時には大地が痛そうに

ひび割れ、

草木も枯れ果て、

羊たちもやせ衰える。

こうして大いなる命は

一つの命として繋がっ

ているんだ。

みんな精一杯、

命の花を咲かせ、

惜しげ

もなく命を捧げ尽くして「

大いなる命

に帰っ

ていく、

そしたらま

た新しい命になっ

て蘇っ

てくるんだ。

地の群れ(

アム・ハー

レツ)

よ、

お前たちは野のユリだ。

ガリ

ラヤの野は痩せていて生き苦しいかもしれない。

もっ

と水を、

もっ

と肥やしを、

そしたらもっ

と大きく育ち、

もっ

と大きく

て美しい花を咲かせるかもしれない。

だが嘆くことはない、

のユリよ、

荒れ野にあっ

て咲く花は、

たとえ小さくても旅人の

心を癒す

ことでは、

温室の花よりずっ

とずっ

と優っ

ているんだ。

自分らし

く生き、

自分らしい花を咲かせ、

自分の生きていることを誇りにし、

自分を惜し

げなく捧げ尽くして生きなさい。

イエスの生涯で福音の生活は三年ばかりだっ

たという。

その間に彼は、

自分の可能性

をギリギリまで追求し、

人々の魂を大きく揺り動かした。

人々はトー

ラー

に呪

われて、

トー

ラー

の為に生きる生活から解放され、

大いなる命への愛と隣人へ

の愛に生きることを学んだ。

ここで「

大いなる命

とは神のことで

ある。

人々はトー

ラー

によっ

て救われるのではなく、

大いな

る命の愛の力

で救われることをイエスから学んだのである。

そう「

大いなる命の愛の力

とはイエスに宿る「

聖霊

のことなの

である。

この「

聖霊

を信じ、

聖霊

によっ

て隣人愛に生きるならば、

大いなる命

に包まれて生きることの喜びを感じることができる

Page 19: yutakayasui.html.xdomain.jpyutakayasui.html.xdomain.jp/shoin/ctoc8,e.docx · Web viewのである。ところが大部分の人々は、そのことを理解しない。イエスにすれば自らの全てを捧げ尽くして、人類を救おうとしたのにである。なんとも呆れたことに大部分の人類はこの犠牲の仔羊を無視している。イエスの処刑に当たっては、民衆の多くはこれを歓呼して要求したのである。

のである。

5聖霊の復活の意義

イエスの肉を食べ、

血を飲んだところでイエスは個体的に復活するわけ

ではない。

イエスとその弟子たちの聖霊信仰の中で、

彼らの個体的な区別が見失われ

るという事態が起こっ

て、

それでイエスの身体的な復活の体験が生じただけ

である。

 

しかし身を捧げ尽くすという自己犠牲的献身が大きな感動を生んで、

人々の

心にその姿が刻

み込まれ、

第二、

第三の英雄を生み出すことはある。

イエスは復活のキリストとして使徒をロー

マ世界に送り出した。

使徒たち

は殉教を恐れずに布教し、

そのわが身を捧げ尽くす信仰に打たれて、

多くのキリ

スト教信者が生まれた。

パウロもその一人である。

そしてまた、

彼らの自己献身的な布教でキリス

ト教信者はロー

帝国に溢れるようになり、

ついには口

帝国はキリス

ト教を国教化したのである。

実際は、

そんなきれいごとだけではなく、

キリスト教自体が反体制的な性格

を失っ

て護教的になり、

ロー

帝国がキリスト教を国教として採用すること

で、

支配秩序の安定化を図っ

た面もあっ

ただろう。

それはともかくとして、

自己犠牲的な献身によっ

てその精神を引き継ぐ人を生 み

出し、

その継承者の中に「

大いなる命の愛の力

である聖霊が復活するというこ

とはある。

この聖霊をなにか物体のように考えなくてもいいの

だ。

だから何も肉や血の聖餐をしなくてもよいのである。

イエスの時代は、

トー

ラー

の遵守によっ

てユ

ダヤ社会の安定を図ろうと

する富裕階級のファリサイ派と、

トー

ラー

の遵守は不可能で、

トー

ラー

秩序から

の脱却に活路を見いだす以外救われる道を持たなかっ

たアム・ハー

レツの利害は深刻

に対立していた。

その意味でトー

ラー

主義批判、

幸いの説教によるイエスの登場は

時代の閉塞を打破するものであっ

た。

だからそれはユダヤ社会全般や状況の全体を宗教的に「

大いなる命

と呼ぶならば

大いなる命

が呻吟しながら愛の力を振り絞っ

て出した叫びであっ

た。

からそれは聖霊であり、

イエスに聖霊が宿っ

ているという意味はそ

ういう意味に他ならない。

だとすれば今日、

イエスの時代から二千年後の今日においても、

人類社会は呻吟してい

るのではないか、

大いなる命

は身を捩じらせて苦しんでい

るのではないか、

それならば「

大いなる命の愛の力

である聖霊の言葉

は、

今日も生み出されているのだろうか。

イエスは、

モー

セ五書を読み、

それをどう応用すべきかを教える律法学者

のようにではなく、

権威あるものの如く語っ

たという。

つま

り『

バイブル』

を読み聞かせて、

それで説教しているようじゃ

駄目

だということだ。

まるで神が語るごとく直接に語れということ

だ。

イエスは自分の力は天から来ているという、

自分は天のお父から遣わ

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されたという、

天のお父がこう言うんだ、

これは天のお父の意志だか

らという、

そういう場合に天のお父というのは、

宇宙の外にあっ

り、

われわれの生活世界から超絶した神という意味ではあるまい。

全くそれ

はさかさまで、

この生活世界がそこから生み出されているような、

そこに根拠づけられていなければ、

何も生み出せないようなそ

ういう意味の全体概念のことである。

だから適当な言葉がないので天と言っ

ているが、

大いなる命

と言っ

てもいい。

大いなる命

が悶え苦しむ声を聞いて、

その苦しみを共に

する事の中から、

出てくるギリギリの言葉が「

聖霊

の言葉なのである。

私は何も現在のキリスト教会の牧師の説教を批判して言っ

ているのではない。

我々

が日々発している」

言葉のことだ。

我々はイエスの発したような緊迫感で、

言葉を発

しているだろうか。

イエスの

言葉は、

はっ

きり言っ

てそれ

を言っ

ちゃお終いというようなことを、

言っ

てしまう。

安息日は人間

の為のものだ」

とか「

人の子の肉を食べ、

血を飲まなければ永遠の命は得られ

ない」

とか「

富んでいる者が天国に入るよりも、

ラクダが針の穴を通る方

がもっ

とたやすい」

とか、

どの言葉も、

その為に躓きかねない

つまり殺されかねないリスキー

な言葉だ。

だからその

言葉を吐く時

には、

相当の覚悟を決めて極めて主体的に語っ

ている。

とはいえ彼の言葉は「

聖霊

の言葉でもあるのだから、

別にその発言をし

なくてもすんだというようなものでもない。

イエス

は「

大いなる命

になり切ることによっ

て、

突き上げてくるよう

な「

聖霊

の声を発したのである。

6宗教的対話の可能性

オウム真理教事件が起こっ

た時、

無差別大量殺人を合理化する麻原彰晃の教義に関してそれがチべッ

ト密教

や『

バイブル』

の「

ヨハネ黙示録

を悪用したものであることが問題

になっ

た。

しかしどの報道番組も、

チべッ

ト密教の教典を詳しく解説するこ

とで、

その元の教義の危険性を追求することはしなかっ

た。

バイブ

ル』

の「

ヨハネ黙示録

に関しても、

その内容を具体的に説明して、

ヨハネ黙示

自体の危険性に警鐘を鳴らすことはほとんどなかっ

たように思われる

おそらく特定の既成教団に不利益になる報道内容になることを避けていたのでは

ないだろうか。

オウム真理教事件は完全に終わっ

たのではない。

宗教的対立や宗教的憎悪が生

み出す紛争が今後もどんな恐ろしい地獄をこの世に引き寄せることにならな

いとも限らないし、

宗教を利用した権力欲の追求は、

善悪の彼岸で行われるためにいか

なる災難をもたらすかも知れないのである。

そのような事態を引き起こさないためには、

宗教間の対話を押し進めて、

相互理解を深

めることが大切である。

もちろん宗教的対話はただ相手の教義のいいとこだ

け学び合えばいいのではなくて、

相互に疑問を出し合い、

限界を指摘しあうこ

とも必要である。

そしていたずらに対立を煽っ

たり、

非人道的、

差別的な教義に関してはその内容の変更や削除

を求め合うことも大切である。

つまり褒めあいばかりでは駄目なの

である。

それに褒めあいばかりでは、

互いにとっ

てあま

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り意味がない。

宗教は宗派的な真理にこだわるので、

独善的になり、

閉鎖的になり、

すます殻に閉じこもることにもなりがちである。

他宗派や他の宗教から、

自分たちの宗派の教義や活動がどのように見えているのかを知

ることは大変重要である。

自分の姿は自分ではよく見えていない場合が多いので

客観的な厳しい批評から、

反省と発展のきっ

かけが掴める筈である。

それに同じ宗教内の異宗派間の論争では、

共通の教典等が判断基準になりがちだが、

異宗教間だと『

イブル』

や経典に書いてあることが正しさの基準には成りえない。

そうすると互いに理性によっ

て論争しあうことで、

結果的に普遍妥当的な真理を共同して追求

することになる。

そこから自分の宗教の教義が見直せるのである。

ただし、

元来が相互理解を深め、

仲良くするために始めた対話であっ

ても、

れぞれが育んできた価値観や倫理観が違うし、

また自己の宗派に対しては元々絶対視し、

神聖視する傾向

があるので、

遠慮会釈のない批判は神聖なものに対する激しい冒瀆のように感じ

られ、

批判者に対する憎悪の念を募らせるかもしれない。

でもそれを遠慮し

てしまえば、

本音を隠しての表面的な褒めあいに終わっ

てしまうので

ある。

それでは得るところはほとんどないのだ。

本書の仮説の内容もキリスト教徒の逆鱗に触れるかもしれない。

しかしそ

れはイエスや弟子たちの

宗教意識の中を分析していけば、

あの時代のあの場所で

は、

大変神聖でしかも勇気のある行為であっ

たのだ。

そして私が伝えたい

のはむしろ敢えてタブー

に挑戦してまで、

命がけで聖霊を守っ

た尊い行為

だっ

たということだ。

その熱い思いが二千年間ずっ

と秘められて来た。

それはユダヤ社会や西欧社会がカ

ニバリズムを最も破廉恥なこととして最大のタブー

にしてきたか

らである。

もしキリスト教成立の原点にそういう「

野蛮

と非難される行為が

あっ

たとしたら、

キリスト教自体が破廉恥な存在のように思い

込まれかね

なかっ

たからである。

しかし他方でキリスト教自体が礼拝の中心的な儀礼の中に、

まさしくそこに臨在す

るキリストの肉を食べ、

血を飲む儀礼を二千年にわたっ

て守り続けてきたと

いうことは、

とりもなおさず、

その原行為を賛美し続けてきた厳然た

る事実である。

その原行為は無条件に肯定すべきものでもないし、

再現すべきものでは断

じてない。

しかしその行為に含まれていたイエスの愛の精神こそ継承

されるべきなのである。

まさしく聖餐の「

命のパン」

の思想こそ

大いなる命

」「

永遠なる命

として神を捉え、

そこから生じ、

そこに

帰っ

ていくものとして生きとし生ける者を見つめなおす思想である

そして自らを「

命のパン」

として捧げ尽くすことによっ

て、

永遠なる命

に連なることができるということに「

復活

の意味を見い

だしているのだ。

この「

聖餐による復活

の思想には、

既成の超越神論的キリスト教理解

の限界を打破し、

仏教や汎神論的な宗教そして無神論とも十分共有できる思想の可能性が孕まれている。

だか

らこの素材をもっ

ともっ

と掘り下げていくべきである。

もち

ろん猟奇的な好奇心の餌食にするべきではない。

命のパン」

をめぐる宗教的対話は

無限の可能性を持つものだと、

私は確信している。

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画像は十字架を背負うイエス・キリスト

一九九八年三月一三日稿了