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遇運と行為 フロネーシス千葉大学・教育学部 Luck and Action Phrone sisHideomi KAMO Faculty of Education Chiba University Japan 哲学の伝統において,古来より「幸福」という概念には少なくとも3つの意味が区別できる。y 快感を中心にす る心理的な幸福感。z 巡り合わせのよいこと,幸運という意味での幸福。{ 精一杯の行為を遂行するという行為 の幸福。 アリストテレスは,3種類のいずれを欠いても,「人間の幸福」の十分な理解に達することはないと考えた点にお いて,傑出した哲学者であると筆者は考えている。近代の幸福概念は,基本的にyの快感や満足を中心にする心理的 な幸福感に基づく。しかし,一般的な人々の通念では,幸福は,zの巡り合わせのよいこと,幸運の意味で考えるの が普通である。さらにギリシャ哲学の正統,ソクラテスやプラトンは,「よくおこなう(euprattein)」,「よく生きる (eu ze n)」という行為することの幸福を説いた。アリストテレスは,これらのいずれでもなく,{を基幹にしてy zも必要とする総合説を主張した。これで何が問題になったのかを,論究する。 キーワード:遇運(Luck) 行為(Action) フロネーシス(Phrone sis) アリストテレス(Aristotle) ギリシャ悲劇(Greek Tragedy) タレスは,三つのことを運命の女神(Tuche )に 感謝しているとよく語っていたという。第一は獣に ではなく人間に生まれたこと,次に女ではなく男に 生まれたということ,そして第三にバルバロイでは なくギリシャ人に生まれたこと。(ディオゲネス・ ラエルティオス:『ギリシア哲学者列伝』1巻1章 ―〈33〉) Ephaske gar, phasi, trito n touto n heneka charin echein te Tuche ・ pro ton men hoti anthro pos egenome n kai ou the rion, eita hoti ane r kai ou gune , triton hoti Helle n kai ou barbaros.(Diogenes Laertius: Lives Of Eminent Philosophers I33) A なぜ私たちではなくあなたが?(神谷美恵子「ら ! ! と私」)B 私が今彼らではないのは,たまたま偶然にそうな のにすぎないのではないか。(小田実「人間・ある 個人的考察」)C 第一章 3種の幸福概念とアリストテレス 哲学の伝統において,古来より「幸福」という概念に は少なくとも3つの意味が区別できる。 y 快感を中心にする心理的な幸福感。 z 巡り合わせのよいこと,幸運という意味での幸福。 { 精一杯の行為を遂行するという行為の幸福。 アリストテレスは,3種類のいずれを欠いても,「人 間の幸福」の十分な理解に達することはない,と考えた 点において,傑出した哲学者であると筆者は考えている。 yz{の幸福概念がどのようなものか,どのような問 題を抱えているのか,という点をそれぞれについて把握 した上で,z{の関係をめぐる論議を検討したい。 その論議を差しあたりに提示しておこう。幸福とは, 精一杯よく生きることなのか,それとも自分の行為とは 無関係で,これ全て運でしかないのか。ソクラテスは行 為の幸福が全てだといい,ソロンは幸運が全てだといっ た。アリストテレスは「幸福(eudaimonia)」とは「行 為の幸福」にくわえて「幸運」など「外的な善」をあわ せて必要とする(prosdeisthai)という立場をとった。 y 心理的な幸福 現在もっとも通俗的に使われている「幸福」という言 葉は,心理的幸福感を意味していると思って間違いない。 それは,「心が満ち足りていること」と一般に理解され ており,辞書もそのような説明をしている。「幸せ」と いう言葉も,普通この意味でもちいられ,「心地よいと か満足」の心理状態を,言いあらわしている。このよう な心理的快や満足を「幸福」と表現する日本語は,政治・ 経済・哲学・小説などの欧米の書物に頻出する,英語 “happiness”や“happy”に特に対応するために,明 治時代に立ち上げられたものに違いない。 連絡先著者: 千葉大学教育学部研究紀要 第55巻 233~253頁(2007) 233

遇運と行為 - opac.ll.chiba-u.jpopac.ll.chiba-u.jp/da/curator/900066828/13482084_55_233.pdf · ギリシャ悲劇(GreekTragedy) タレスは,三つのことを運命の女神(Tuche‾)に

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遇運と行為―フロネーシス―

加 茂 英 臣千葉大学・教育学部

Luck and Action―Phrone‾sis―

Hideomi KAMOFaculty of Education Chiba University Japan

哲学の伝統において,古来より「幸福」という概念には少なくとも3つの意味が区別できる。� 快感を中心にする心理的な幸福感。� 巡り合わせのよいこと,幸運という意味での幸福。� 精一杯の行為を遂行するという行為の幸福。アリストテレスは,3種類のいずれを欠いても,「人間の幸福」の十分な理解に達することはないと考えた点にお

いて,傑出した哲学者であると筆者は考えている。近代の幸福概念は,基本的に�の快感や満足を中心にする心理的な幸福感に基づく。しかし,一般的な人々の通念では,幸福は,�の巡り合わせのよいこと,幸運の意味で考えるのが普通である。さらにギリシャ哲学の正統,ソクラテスやプラトンは,「よくおこなう(eu prattein)」,「よく生きる(eu ze‾n)」という行為することの幸福を説いた。アリストテレスは,これらのいずれでもなく,�を基幹にして�も�も必要とする総合説を主張した。これで何が問題になったのかを,論究する。

キーワード:遇運(Luck) 行為(Action) フロネーシス(Phrone‾sis) アリストテレス(Aristotle)ギリシャ悲劇(Greek Tragedy)

タレスは,三つのことを運命の女神(Tuche‾)に感謝しているとよく語っていたという。第一は獣にではなく人間に生まれたこと,次に女ではなく男に生まれたということ,そして第三にバルバロイではなくギリシャ人に生まれたこと。(ディオゲネス・ラエルティオス:『ギリシア哲学者列伝』1巻1章―〈33〉)Ephaske gar, phasi, trito‾n touto‾n heneka charin

echein te‾ Tuche‾・ pro‾ton men hoti anthro‾posegenome‾n kai ou the‾rion, eita hoti ane‾r kai ougune‾, triton hoti Helle‾n kai ou barbaros.(DiogenesLaertius: Lives Of Eminent Philosophers I―33)�

なぜ私たちではなくあなたが?(神谷美恵子「ら�

い�

と私」)�

私が今彼らではないのは,たまたま偶然にそうなのにすぎないのではないか。(小田実「人間・ある個人的考察」)�

第一章 3種の幸福概念とアリストテレス

哲学の伝統において,古来より「幸福」という概念には少なくとも3つの意味が区別できる。� 快感を中心にする心理的な幸福感。

� 巡り合わせのよいこと,幸運という意味での幸福。� 精一杯の行為を遂行するという行為の幸福。アリストテレスは,3種類のいずれを欠いても,「人

間の幸福」の十分な理解に達することはない,と考えた点において,傑出した哲学者であると筆者は考えている。���の幸福概念がどのようなものか,どのような問

題を抱えているのか,という点をそれぞれについて把握した上で,�と�の関係をめぐる論議を検討したい。その論議を差しあたりに提示しておこう。幸福とは,

精一杯よく生きることなのか,それとも自分の行為とは無関係で,これ全て運でしかないのか。ソクラテスは行為の幸福が全てだといい,ソロンは幸運が全てだといった。アリストテレスは「幸福(eudaimonia)」とは「行為の幸福」にくわえて「幸運」など「外的な善」をあわせて必要とする(prosdeisthai)という立場をとった。

� 心理的な幸福現在もっとも通俗的に使われている「幸福」という言

葉は,心理的幸福感を意味していると思って間違いない。それは,「心が満ち足りていること」と一般に理解されており,辞書もそのような説明をしている。「幸せ」という言葉も,普通この意味でもちいられ,「心地よいとか満足」の心理状態を,言いあらわしている。このような心理的快や満足を「幸福」と表現する日本語は,政治・経済・哲学・小説などの欧米の書物に頻出する,英語“happiness”や“happy”に特に対応するために,明治時代に立ち上げられたものに違いない。連絡先著者:

千葉大学教育学部研究紀要 第55巻 233~253頁(2007)

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Page 2: 遇運と行為 - opac.ll.chiba-u.jpopac.ll.chiba-u.jp/da/curator/900066828/13482084_55_233.pdf · ギリシャ悲劇(GreekTragedy) タレスは,三つのことを運命の女神(Tuche‾)に

この英語は,心理的な快や満足を意味核とした快楽主義的,功利主義的な幸福概念として,ヨーロッパ近代社会において迫り出してきたものである。確かに,快や満足,幸福の心的現象に関しては,近代の分析など足元にも及ばない仕方で,古来より徹底した学的な分析的研究が存在した。快や苦の心理現象を対象化して論ずる,プラトンの『ゴルギアス』篇や『フィレボス』篇を参照してみればわかる。登場するソフィストとソクラテスとの快,苦,欲望,満足に関する検討の徹底性,緻密で執拗な吟味に驚かされる。しかしこの快や満足を機軸にする幸福概念は,このころには,経済的社会的条件によって,全面的に強いられることはなかった。快・苦,満足,その意味での幸福感に関してソクラテスやプラトンは,心理現象そのものとして探求テーマにしたのであって,自分がその内部に生きる市場,商業や経済に媒介されていたわけではない。彼らは,時代的にもまた身分からしても,これらの社会システムから距離をとることができたのである。この心理概念が近代において迫り出すのは,それが近

代人にとって生活するための条件として機能したからである。ひとを近代的な個人として登場させるためにも,そのような個人が依拠して生きる市場を可能にするためにも,「快,満足,幸福」という個人の心理の創出は必要不可欠なものであった。それは商品,貨幣,消費と生産,市場などの新しい経済システムに依拠することなくして,ひとは生きることはできないという峻厳とした現実である。国富=商品(commodities)の最大化のためには,個

人を分業と交換の主体として機能させる(市場)必要があり,共同消費を可能な限り個人消費へと外延を拡大していく必要がある。家電,腕時計,携帯電話などの生産と消費の生成の歴史を考えてみればよい。雑駁な表現をすれば,分業と交換を機能させるために,

生産と消費は快楽度と満足度を流通の尺度とする必要があった。この欲望や満足が度量として一元化されることが,商品が売買されること,生産と消費が循環すること,市場が機能することの条件であり,それぞれの商品に固有な使用価値の多様性が貨幣価値に一様に還元されるということの正体であった。便宜品やぜいたく品である商品は,消費の快と満足の係数となり,消費量は幸福度の係数となり,国民の幸福はGNP,GDPによってはかられ,そのような仕方で生活の欲求を満たす商品のやり取りが貨幣量の収支決算に回収されるということであった。必要や欲求の充足度や満足度(幸福度)とは貨幣所有

量(商品の処分量)のことだという社会機構の現実が,人びとの一般通念ともなり,たとえ拒否したくとも否定しがたい生活の前提として強迫観念となるのは必然であろう。ひとは,生活に役立つもの(使用価値)を使って生活

することは,便宜品・ぜいたく品という商品を消費することに等しいという通念に絡めとられているのであるし,そのような商品を媒介する貨幣経済に参加することによってのみ生活ができるのである。貨幣量の多寡が,便利で豊かそして自由な生活力の度を保証し,逆に不便で貧しく不自由な生活の度を決定し,ひとの殺生与奪権を

握ることを一般通念として受容している。この心理的な幸福概念の通念化,近代独特の心理的脅迫は,このような近代社会の機構自体が表出する表面効果であろう。とりわけ,先進経済諸国の国民生活はすっぽりと,この機構と心理に絡めとられている。ともかく近代生活が強いる「幸福・幸せ」は,このよ

うなしかたで〈快・苦〉の心理をベースにしており,〈快の最大と苦痛の最小〉という心理価値を人びとに脅迫する。以上,近代における「ひとの幸福」感が,快と苦,満足不満足へと全面的に心理化するのは,商品の消費という経済生活機構が無関係ではないことを指摘しておきたい。しかし,もちろん先にも言及したように,古代におい

ても心理的快や満足の魅力は強力に存在した。しかし主要な哲学者は,心を魅了する快や欲望をいかに統御するかという観点よりこれらを探求した。あるいは,ひとを劣悪へ導くことのない純粋な快をそれらの中から検討して探し出すという道をたどっている。アリストテレスは,このプラトンがかってたどった道

に従って,苦痛を混じえない純粋な悦び(chairein)を幸福の不可欠なる契機として数えいれようとする。しかし,それが幸福のすべてであることは,全面否定する。

� 幸運という幸福しかし,「仕合せ」という意味を核にする「幸福」概

念となると,これはもはや心理的なものではない。それは,巡り合わせのよいこと,「遇運」という出来事を意味の核にしているからである。この言葉は日本語に古くからあったものである。たとえば狂言でもよく用いられおり,『日葡辞書』にも採取されている。狂言「痩松」では,「仕合せ」とは,ひとがよいこと

すま い

や悪いことに出合わせることである。「丹波の國に住居いた こころ すぐ もの ご ざ やまだち こえ

致す。心の直にない者で御座る。」と山賊が登場し,「肥まつ やせまつ し あわ

松/痩松」という自分たちの合言葉を説明して「仕合せこえまつ まを また ふ し あわ やせまつ まを

のよいを肥松と申し。又不仕合せな時を痩松と申す。」とみずから定義してみせるところからこの狂言は始まる。� 『日葡辞書』は,「〈xiauaxe〉.シアワセ(為合せ)好機会,よい折。」として説明している。この「仕合せ」という意味での「幸福」は,心理的な

快・満足としての“happiness”ではなく「巡り合わせ,遇運」のよいこと,出来事のめぐりのよさを意味の核にしている点で�と異なる。ヨーロッパの言語ではこれは〈luck, fortune, fortuna(ラ), tuche‾(ギ)〉で表現される。「仕合せ」とは,自分の行為の功績・努力とは何の関係もない,外から訪れる思いもかけない贈り物,巡り合わせ〈tunchano‾・luck〉であり,神の贈り物(moira),風の落とし物(windfall)である。この遇運には,よいわるいの2様相がある。プラス価

値の幸運(eu―tuchia/good luck)に対して不運(dus―tu-chia/bad―luck)というマイナス価値の遇運があり,それに応じて,幸福(よい―運:eu―daimon)と不幸(悪い―運:dus―daimon)がある。よい遇運=幸福とは,いい恩師や連れ合いにめぐり合え,戦争のない時代に生まれ,いい子供にも恵まれ,「わたしは仕合せ者です」という言い方に顕著である。これは�の「幸せ」ではな

千葉大学教育学部研究紀要 第55巻 �:人文科学系

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い。“I’m happy”ではなく,“I’m lucky, fortunate”である。冒頭の3つの引用はすべてこの遇運の例としてあげて

ある。しかし,語り手の,それぞれの遇運・偶然に関するまなざしが異なっている,そして異なりうるということが遇運概念のもつ奥深さを明かしている。快にもとづく�の心理的幸福概念は,このような人の生の深みには届くことはないであろう。タレスは,獣・女・バルバロスに生まれることを不運

と理解し,人間・男・ギリシャ人に偶々生まれたことを「運(tuche‾)」に感謝しているといったという。長島愛生園に通い続けた神谷美恵子は,「らいの人」

を目の前にして,「なぜ私たちではなく,あなたが?」と驚きとともに,ら

い�

のひとの遇運を偶運としてみつめ,自分のほうがら

い�

であることから偶々外れていることを不正義感覚のもとに問うている。こうしてこのひとは,タレスとは反対に,「心のどこかが切なさと申し訳なさで一杯になる」のである。この経験を,このひとは,医師として人間としての「原体験のようなもの」だと吐露している。3番目の小田実の引用は,ソクラテスのアテナイ市民

による死刑判決(B.C.399),アテナイ勢によるメロス島の虐殺(B.C.416),1945年年6月15日の白昼に経験した大阪空襲にかかわる加害と被害の主体に関するものである。そのまなざしは神谷と同質のものであるが,戦争の加害者であることと被害者であることの偶然性にまで及んでいる。当時自分はこの〈街焼き尽くし〉のただ中でひたすら

被害を被るだけの13歳の少年であった。しかしそれは偶然というものではないか。偶々その立場から外れて被害者の側にいたのだが,もしかして自分も,上空で爆撃を行っていたアメリカ兵であったかもしれないではないか,そしてソクラテスを死に追いやったアテナイの市民,メロス虐殺を行った側のアテナイ兵士であったかもしれないではないかと問うのである。�「私が彼らではないのは,たまたま偶然に過ぎないのではないか」と。これも,遇運・偶然ということについての反省的な考察であって,遇運の無反省な享受(タレス)とは経験の次元が異なっている。ともあれ,まずはタレスの例のように,よき巡り合わ

せを,仕合せという意味での「幸福」として自然に受け止めるのが人びとの自然主義的な反応であり,これが一般通念(endoxa)であることに異論はないであろう。アリストテレスは,幸福概念を検討するに当たって,

まずこの「仕合せ」という人びとの一般通念の検討に手をつける。その例として,ヘロドトス(B.C.484頃―430頃)の『歴史』の第一巻30―33.の,サルディス王クロイソスとソロン(B.C.640頃―559頃)の幸福談義をとりあげる。サルディスの王クロイソスが,アテネからの訪問者と

しての賢者ソロンを,家来に命じて自分の宝物蔵を案内させた上で,世界で一番幸福な(olbio‾tatos)人間は誰かとソロンに尋ねるという話である。自分を挙げることを期待していたクロイソスに対し,ソロンは何の変哲もない人生をおくり了えた庶民の二人の名を挙げるだけ

だったという。何万日にも亘るという人生の日々は,一日としておなじことが起こることはなく「クロイソス王よ,このように人間の生涯はすべて偶然・巡り合わせ(sym―fore‾)なのです」というのがその理由であった。「体に欠陥もなく,病も知らず,不幸な目にも遭わず,良い子に恵まれ,容姿も美しい…その上更に良い往生が遂げられたならば,その者こそあなたの求めておいでになる人物,幸福な人間と呼ぶに値する人物でございます」。王が現在莫大な富を持ち王の地位にいるとしても,全

生涯をとおしてどんな遇運に襲われるかまだわからない。だから「人間死ぬまでは,幸運なひととは呼んでも幸福な人とは呼べない(prin d’an teleute‾se‾, epischein me‾dekaleein ko‾ olbion, all’eutuchea)」�というのであった。だから,ソロンは,取り立ててどうということもない

が,安定した人生をおくり,そしてよい往生を遂げ了えた平凡な庶民の名を挙げたのであった。幸福とは,日々に起こる幸運やある時期までの幸運な

生活のことではなく,そのような幸運や仕合せの,生涯にわたる総体と完結によって自足していなくてはならないというのである。王は,さしあたり幸運であるといえるけれど,幸福(完結した幸運)とはいえないのである。しかし,ソロンの幸福概念は,そのつどの「幸運」を超えてはいるが,その連続した加算と完結ということなのであるから,「仕合せ」の域を超えてはいない。幸福とは,ひたすら外部からやってくるのである。ところで,この幸福概念は,ヘロドトスとも親交が

あったといわれている同世代ソフォクレス(B.C.497―406)の『オイディプス王』終幕(1528―30)でコロスが締め括って詩う警句に,そっくり反復されている。この想念は,常套句として反復されるまでに当時の人

びとの一般通念(endoxa)として広まっていたことは多くの論者が指摘している。「されば死すべき人の身は(ho‾ste thne‾ton ont’)はるかにかの最期の日の見きわめを待て(ekeine‾n te‾n teleu-taian edei hemeran episkopounta)。何らの苦しみにもあわずして この世のきわに至るまでは(prin an termatou biou perase‾ me‾den algeinon patho‾n),何びとをも幸福とは呼ぶなかれ(me‾den’olbizein)。」このように,ヘロドトスが伝えるソロンの幸福に関す

る考え方は,B.C.5世紀半ばには「死ぬまではだれも幸福と呼んではならない」という,月並みな文句(a com-monplace)として,一般通念になっていたのだと,例えばギリシャ哲学の研究者T. Irwinは指摘する。�遇運の贈り物は,アリストテレスの議論に従えば,行

為主体の活動する魂への外部からの与件であるという理由によって,「外的な善(external goods: ta ektosagatha)」という位置づけをえる。また,これは活動する魂が,よく生きるために使用する外部与件・環境でもあるから「外的資源(external resourses: ektos chore‾-gia)」とも呼ばれることもある。�そのような外的な善は,富,政治的立場,友人,生ま

れのよさ,健康,外見,不運としては友人のいないことと少ないこと,身体の弱さや障害,病気,飢餓,等々,『ニコマコス倫理学』『政治学』『弁論術』『詩学』にお

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いて,論述の状況に応じてさまざまな例とそれに当てはまる事項を思いつくままに挙げられている。私の功績でも責任でもなく,また責任にも功績にもな

らない,外からの贈り物としての幸運たちと不運たちである。

� 行為の幸福行為の主体に外から偶々与えられる善に対して,内的

で本質的(intrinsic)な善というものがある。直截にいえば,私の意図にもとづいて「よく生きる(eu ze‾n)」,「よく行う(eu prattein)」という行為することの「幸福」がある。心理的快の享受(happiness)や幸運に恵まれる(fortune)受容の幸福とは反対に,行うことで自己実現する能動の幸福である。節制(so‾phrosune‾)や正義の性向(dikaiosune‾),思

慮(phrone‾sis)や勇気(andreia)などを古代の哲学者は,身につけるべき徳として説いたことはよく知られている。これらのよき働きや感情を自分の性向,心構えにすることによって精一杯「よく行い」「善く生きる」,このような倫理的幸福というものがある。その典型的生き方としては,正しいこと本当のことを主張し続けてそのため死刑判決を受けることになるにもかかわらず,よき生を生ききり,幸福な生を成就したソクラテスの生,非所有の清廉の生をつらぬき樽のなかで寝泊りしたというキュニコス派のディオゲネスなどの「幸福な生」などがあがる。ソクラテスもディオゲネスも,�と�の幸福概念から

すると不幸であるに違いない。しかしそんなことには無関心に,持ち前の節制や正義の徳によって,彼らは高貴に生き・よく生きることを意志し,そのとおりによく(幸福に)生きたのである。後世の例でいえば,ストア派の厳格なよき生,それの

影響をうけたカントの「定言命法」に従う「善き意志」の生を掲げてもよいであろう。彼らも,�も�も排除して,ひたすら理性に従う卓越した生,ストア的で高貴な生の価値を称揚した。これは,一般の多くの人が真似のできない,哲学的なエリートの立場である。アリストテレスという哲学者は,行為の幸福概念�を

中核に置いて,�の心理的幸福も�の幸運も不可欠な契機として取り込んだ幸福概念,欲張りともいえるがしかしそのいずれにも偏向しない総合的な幸福(eudaimo-nia)概念について,倫理学の講義をいくつか行っている。『ニコマコス倫理学(Ethica Nicomachea)』という講義がそのもっとも重要なものとされている。そのなかでの議論は,「行為の幸福」が幸福の基幹条

件とされることにともなって,とりわけ行為の幸福のなりたちの分析に集中することになる。アリストテレスは,こうして行為の構造を分析することになる。この構造は本当は分割のできないひとつの全体なのであるが,分析のために2つの重要な部分にわけて論述されている。理性の企画に逆らって快楽に向かう心の性状と,快楽に逆らって理性に呼応する心の性状,悪い人柄(性格)とよい人柄(性格),そして快楽に向かうそのような欲望の教育可能性に関する論述が先におかれ,次いで行為を企画する理性の働き自体に関する論述がなされるという順

序でこの行為論講義はすすめられる。欲望の教育論(徳論=欲望の教育可能性)と理性・ロゴスの機能論という順序である。それぞれの部分について,研究者の間で解釈はわかれ,

テキストの読み方も大きく違う箇所なので,異論を招くところも多分に生ずるのであるが,とにかく筆者が理解できるかぎりで,必要とされるかぎりの骨子を描いておきたい。「よく生きる,よく行う」という行為は,ひとの心・魂の2つの部分が協和することによって成就するという。しかし,この魂の部分の仕組みは,単純な2分法に従ってないので,そこから説明する。魂あるいは心は,�ロゴス(理性・言葉)を持つ(lo-

gon echon)部分と�持たない(a―logon)部分に大別される。後者のロゴスを持たない部分は,さらに2つの部分か

らなっているという。ひとつは,(2―a)logos(理性の言葉・指令)にまったく関与しない部分のことで,栄養機能など睡眠中にも働く不随意な働きをつかさどる部分(植物的部分)のことをいう。別の部分(2―b)とは,自分ではlogosを持たないが,logosの指令に従いうる部分のことだという。この部分は「欲望(epithumia)」「欲求(orexis)的部分」とされる。(NE1102b30) 植物部分(2―a)は,行為に関係しないので,考察外におかれる(NE1102b11)。行為論は,こうして結局,�ロゴス・理性(logos)

の機能論と,(2―b)logosに逆らい/応ずる可能性を持つ欲求部分の教育論にしぼられるので,後者を(2―b)ではなく単に�と表記する。よい行いの構造は,�と�の関係によって明らかになるのである。まずは講義の論述に従って,�の興味深い性向

(hexis)の理論から説明する(『ニコマコス倫理学』の第二巻第一章―第五章NE1103a14―1106a13の筆者の解説・解釈である)。欲望・欲求(epithumia=orexis)は,快を求め苦を

避けるのが常態である。だから欲望は理性・logosに逆らう自然傾向性を持つ。それでも逆に快苦にあえて逆らって,logosの指令する「善きこと(ta agatha, thegoods)」に従うこともできる部分でもあるといわれる。だから,よき行いを常時行うためには,この欲望的部

分が,logosの語るよいことを常時欲望するような形を身につけるべく教育・訓練されなくてはならない。教育は行うことによる教育であって,教示によるものではない。理知・logosが備わってくる前段階である子供の時期に,快苦に抗してよいことのほうを欲求する行為の実施訓練をつうじて,しかもこの行いを繰り返し反復して習熟(ethizein)することをつうじて,この行為パターンが心構えとして当人に定着してしまうことをもって,この教育は完成するのである。「実際によいおこないができるようになり」,しかもいちいち決意し努力するのではなく「よい行為をおこなう」のがあたりまえの「常態」になるまで,訓練は完成しないのである。この常態・心構えが「エートス(e‾thos)」である。このエートスの獲得をもってはじめて,子供は「わかった」ことになる。(これはプラトンの『国家』篇の教育論を受け継

千葉大学教育学部研究紀要 第55巻 �:人文科学系

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いだものである。)この習慣化・習熟(ethizein/ethismos)のもつ意味は,

極端にいえば,快と苦の抵抗を痕跡さえ残さない仕方で消し去ってしまうことにある。快と苦の牽引力をコントロールすることは,快と苦の感情をそのつど抑圧することを意味している。自分のなかでlogosの助言と欲求感情が,対立して分裂しているからである。このような自己制御は,理性の暴力であり,協和と安定性を欠く自己分裂であり一種の自己欺瞞である。感情の抑圧,「べき,義務,命令」など,カント好み

の自己コントロールという義務論的処方に,アリストテレスは限界を感じている。それにかわる処方が,習熟によるよき心構え・性向,よき人柄の形成という徳論的な処方である。アリストテレスが語る,習熟によって身につく「よき性格・人柄の徳(arete‾: virtue)」とは,快や苦の牽引に免疫力(immune)を身につけた欲望が,教育されて逆にlogosを欲求することを習い性(エートス)としてしまった心の形のことである。快苦をそのつど抑圧することによって行っていたよき

行為が,くり返しによる習熟によって,快苦の牽引を完璧に消去してしまうという考えに,われわれは驚くことはない。自分の生活を支えている無数の行為パターン(精神的・身体的)がこのようにして身につけたものではないか。それを大きな見地より語りなおせば,個人の習熟は全体としては習俗,ヘーゲルの構想する「人倫(Sittlichkeit)」という考えにつうじ,同時にそしてカントの義務論的な「べき」のモラル(Moralitat)や自然法の拒否につうじている。よき行為への心構え・徳を身につけてしまったひとは,

野生の快や苦に順ずることのほうが,今度は努力の必要な,厭な行為になってしまっているのである。欲求部分がlogosにしたがうことを悦ぶ(chairein)教養,卓越性を身につけたからである。そういう人柄(エートス)が活動の故郷となってしまったのである。アリストテレスの徳の倫理(virtue ethics)である徳論とは,快苦感情の抑圧ではなく,感情や欲望を陶冶し新たな感情・欲求に変成させるというモラルの心理学を重要な支柱としている。ひとたびこのような徳・卓越性の観念が成立してしま

うと,欲望のもともとの自然傾向に身を委ねつづけることは,logosのよき指令に逆らうことに習熟した欲望という意味で,劣悪(kakia)・邪悪という悪徳となってしまうのである。そのような人は,邪悪な心構え・人柄に定着したひとであり,いわば異郷に住み着いたひとである。以上が�の欲望の教育論としての徳性論の部分である。行為とはひとつの企画であるかぎり,目的を設定し手

段について熟慮を重ねることなくして,行われることはない。このような立案―勘案の営みが行為の本質をなすかぎりで,この働きは,行為を主宰するロゴス(logos)の働き(logismos)であろう。この意味での理性・logosを行為のロゴスと呼ぶことにする。この行為のlogosは,理論のlogosである「知識(theory

=episthe‾me‾)」(数学や天文学等の理論知)と対比されており,行為を導く知として「思慮・賢慮(フロネーシ

ス:phrone‾sis, practical reason)」という名を与えられている。しかし,これはアリストテレスの倫理学の固有な術語というわけではない。昔からギリシャ悲劇などで普通に使われてきた行為にかかわる知性のあり方をいう言葉であった。アリストテレスは,この伝統的に使われていた言葉を

をそのまま取り入れて議論をすすめるのである。�と表記した,行為のlogosの構造は,おおよそつぎ

のような働きとしてまとめられる。なにかの行為をおこなうにあたって,ひとは行為の状

況に適切な自分の目的(hou heneka, telos: ends)を設定し,その目的のためのさまざまなやり方・手段(prosti: means)に関して熟慮・思案(bouleusis, deliberation)を重ね,最良のものを選び出し,選択・決断(prohaire-sis: choice)する。このような行為の手続きをとおして,ひとは,目的に適うしかたで選択すべきものを選択し,行為すべきことを行為する。以上の,状況把握―目的―手段―熟慮―選択の企図思考の働きのことが「行為のlo-gos」一語に組み込まれているのである。このlogosの働き(logismos)の構造の優れた形をしたものが,思慮・賢慮(フロネーシス〈phrone‾sis〉)とよばれる。そのような能力を身につけているひとは,思慮深い人(phroni-mos)である。以上の思慮の規定は,数学や科学の理論理性(episte‾-

me‾)に固有な対象と手続きとの異なりを念頭においてなされている。この理論(theory: theo‾ria)のlogosに秀でた人は,俗に言えば頭のよい人であり,幾何学や天文学において秀でたひとは,学知のある人〈sophos〉とよばれるであろう。理論的logosは必然的なことを対象にしているが,行

為のlogosは必然的なことも偶然的なことも対象にすることができない。必ずそうである・必ずそうなること(数学の対象や天文の運行)は,思案の余地などありえないし,どうなるかまったくわからないこと(まったくの偶然)にかんしても,賭けはすることができても思案することなどできないからである。いずれもわたしの行為の向こう側で決まってしまっている,決まってしまう事柄・できごとなのである。行為のlogosは,自分のできる範囲のことで,そうであることも・そうでないこともありうることについて思案し計画を立て選択をするのである。人間の行為あるいは〈フロネーシス〉は,「いつも,

必然にあること(to aei kai ex ananke‾s)」と「たまたま付随してあること,遇運によってあること(to sumbe-be‾kos, to apo tuche‾s)」との間,必然と偶然の狭間でのみ生起するきわめて人間的な営みなのである。その狭間とは,実際どうなるかは不明であるが「たいていそうであること(to ho‾s epi to polu)」の領域のことである。そのような事柄について,ひとは証明でもなく賭けでもなく,思慮をはたらかせ(phronein),熟慮や思案(bou-leusis)をめぐらすことができるのである。さて,このような構造をもつ行為のロゴス・logosが

行った審議(bouleusis: deliberation)の結果である助言・提案(boule‾, consilium, cousel)�に,先に分析したlogosを傾聴することのできる欲求部分�が従うとき,よき行

遇運と行為

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為が行われるということになるのである。そのとき,ひとは「よく行い(eu―prattein)」「よく生き(eu ze‾n)」,行為の幸福を実現している(eudaimonein)のである。以上が,アリストテレスにしたがった�+�としての

「行為の幸福」の基本構造の説明である。以下は,この基本構造に関するパラフレーズである。しかし,ソクラテスもディオゲネスも,自分自身の行

為にたいしてこのような倫理学的説明を与えてはいない。自分の行いがこのような倫理学的な構図によって基礎付けられる(概念説明される)のを聴いて,両人とも納得するか,それとも驚き,憤慨するのか,こんな説明は必要ないといって拒絶するのかはわからないが,これが彼らの「よく生きている」ことの一般的構造なのだと,アリストテレスは提示しているのである。そしてこのような,学,一般理論がよく生きることに資すると考えていたのである。少なくとも,この講義に出席している,�の徳論教育を了えている人たち(何歳までとははっきりしないが若者〈neos〉は感情に流されやすいという理由で除外されている)が「よく行為する」ことに役立つと考えているのである。(NE1095a)�アリストテレスは本来分割できない「よき行為」を,

logosと欲求に分析上分けて説明したのであるが。その一体性をアリストテレスは,同講義のなかでしきりに強調している。よい「人柄(エートス)」/反対の悪い「人柄(エート

ス)」がいろいろに分類される。たとえば,節制という徳性/ふしだらという悪徳。正義の性向/不正の性向等々。それとlogosは次のような仕方で常に連動しているというのである。たとえば,節制(so‾phrosune‾)とは,快に関して教

育された欲望のことをいう。快を追求することにおいて度を知らぬ野生の欲望能力(epithumia)は,logosの指令をよく傾聴する(eupeithe‾s)教養を身につけ,「従順で矯正された欲望能力」へ育つことができる。「ちょうど,子供が指導教師の言いつけにしたがって生きなくてはならないのと同じように,魂における欲求部分(toepithume‾tikon)も分別・logosにしたがって生きなくては(kata ton logon ze‾n)ならないのである」といわれる。こうして「節制あるひとは,欲望すべきものを,欲望すべき仕方にしたがって,欲望すべき時に欲望するのであるが,分別(logos)自身もまたそのように命ずるからである」と語られるのである(NE1119b10―18)。そのように快を制御できない無教養な欲望の持ち主が,ふしだらな人(akolastos)である。徳とlogosは常に協業・連動していることがここでも強調されている。正義も事柄としてではなくひとの性向,人が持つべき

心構え,エートスとしてかんがえられている。「ひとが人間としてあるかぎり,常に何らか他人との関係に置かれることなしには存在しえないとすれば」�,正義を欲求するという質ちの人の性向は最高の徳性であり,その逆である不正義を欲望する質ちのひとの性向は,ひとの最大の悪徳,邪悪であろう。正しい人とは,他人にたいする関係において,常に法

に適うしかたで行為する人,常に公正・平等に行為する心構えのひとであり,その逆のことを行う性向のひとが

「不正なひと」である。正しい人とは,法の違反が恐ろしいから正しいことをするのではなく,みずからすすんで公正を意向するよいエートスの内にあるひとのことをいう。ピエール・オーバンク(Pierre Aubenque)というフ

ランスのアリストテレス研究者は,『アリストテレスにおける思慮(La prudence chez Aristote)』という主著のなかで,「思慮〈phrone‾-sis〉」の動詞形,「思慮する〈phronein〉」に関して,次のような強い指示をだしている。アリストテレスの『弁論術』にエピカルモスの言葉と

される有名な句がある。「死すべきもの(ton thnaton)は死すべきこと(thnata)を思いめぐらす(phronein)べきで,不死なる(athanata)ことを考える(phronein)べきではない」(thnata chre‾ ton thnaton, ouk athanata ton thnatonphronein)(ギリシャ語の全文) この岩波版の日本語訳は,〈phronein〉という動詞を

前の方で「思いめぐらす」と後の方で「考える」に訳し変えているが,見られるとおり共に〈phronein〉の訳である。これについてAubenqueは,〈死すべきこと(thnata)〉

は〈思いめぐらす(phronein)〉に従う中性対格になっているから,死すべきことを対象として考えることだと理解しがちであるが,そうしてはいけないというのである。(逆の不死なることについても同趣旨)。〈phronein〉に中性の対格の名詞がついた場合,この対格が表示する〈何か〉を〈phronein:考える〉という意味にはならないのだというのである。ここの中性対格の目的語〈死すべきこと(thnata)〉は,動詞〈考える・思いめぐらす(phronein)〉の思いめぐらす仕方,性向,心構えをいわば副詞のように表現しているのだ。だからこれは,「死すべきものに相応しいしかたで思いをめぐらす」べきという意味なのだというのである。�〈phila phronein〉は「大切なこと,愛するものたち」のことを考える」ということではなく,人にかんして常に「親愛なしかたで思いめぐらす気構え」とともに行為をおこなうことである。�Aubenqueの い う と お り だ と す れ ば,〈dikaia

phronein〉(文法上字義通りの訳:正しいことを思慮する)とは,ひととの関係において,常に正しく,公正・平等に思いをめぐらしてふるまう優れた営みの性向を意味していることになる。〈dikaia phronein〉が,常に正しく思いをめぐらしてふるまう性向を意味するとすれば,このような思いめぐらし・logosは,よき欲求の性向を欠いて思いめぐらすということなどありえないことを意味している。これは,�のlogos側から�の欲求の徳を表現したものである。正義を思案する〈dikaia phronein〉というかぎりで,正義にしたがってふるまうよき性向を表現しているのだから。この事態を�の徳論のほうから表現すると,よき行為

のしかたを思いめぐらすことと切り離された心の持ち方は存在しないというヴェクトルで表現されるはずである。その徳論での表現が「正義の性向(ディカイオシュ

ネー)」〈dikaiosune‾〉という語句になるのである。ギリ

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シャ語は,「正義:dikaia」の「性向:hexis〉」と表現していない点が重要である。そして正義〈dikaia〉に〈su-ne‾〉を補完して,「ディカイオ+シュネー」〈dikaio―sune‾〉一言で,行為するときには,まずは正義に従い思いをめぐらし(目的を立案し手段を勘案して),公正にふるまう心構えを全体として表現しているのである。正義はこうして徳性へと主体化されるのである。節制という徳「ソーフロシュネー」も同じつくり(so‾phro―sune‾)になっていることを指摘しておく。〈dikaia phronein〉と〈dikaiosune‾〉,いいかえれば「正義を思案する」ことと「正義の性向」は,�と�に分割することの不可能なことを,ともに明かしているのである。他人との関係において常に発揮されなくてはならない

正義の徳は,徳の中でも最高の徳である。その他の性向も「フロネーシス」を欠いて発揮されることはない,「勇気〈andreia〉」の徳の発揮も,〈andreia phronein〉なのであり,全ての徳・器量の発現は,Aubenqueの言う意味で〈X phronein〉なのである。その総体性が,「〈eudai-monia phronein〉幸福を願う心の構えで思いをめぐらしてよく生きること」として,「よくおこなう(eu prattein),よく生きる(eu ze‾n),幸福に活動すること(eudaimo-nia)」なのである。そのような行いの人が,幸福な人である。以上が,�行為の幸福の説明である。この「行為の幸福」にのみ徹する立場は,よき行為の

幸福はそれだけで自足したもので,心理的快も幸運もまったく無関係とする立場になる。どんなに不条理な不運(死刑)に見舞われようとも,どんなに苦痛で不便な環境に(無所有)あろうとも,影響されることなく精一杯行為をやり通すこと,これが幸福であり,よく生きることだというのである(ソクラテス・ディオゲネス・ストア派,幸福という言葉はつかわないけれどカントも)。しかし,アリストテレスは,それだけでひとを幸福と

呼ぶのは不十分と考えたのである。

第二章 幸福と遇運(eudaimonia and tuche‾)

§1.傷つく幸福(the vulnerable eudaimonia)アリストテレス自身は,幸福を���のいずれかに特

定しようとはしないが,ロゴス・logosに応ずる魂の卓越性に支えられた「よき行い」の幸福�を中核にすえる。その上で,心理的快も幸運も取り込んで幸福の総合をめざす。幸運・外的善は「あわせて必要なもの」として,心理的快は,外的な善とは別なしかたで,幸福を完成する重要な要素として。本論文は,�の「運(tuche‾)」の幸福と�の「行為の

幸福」との連関を問題にする。�快に関する興味ある問題は別の機会に論じたい。この連関がどんな意味で問題になるのかを説明する。前章で論じたように,習熟した卓越性を発揮して何か

を企図し生きることが行為の幸福ということの意味であった。たとえば他者との関係において,正しく公正なしかたで,企図し思案をめぐらして(logismos)生きるひとは正しいひとであり,幸福な生をおくるひとであっ

た。このような意味でよく生きることの目的は,そのようなよき行為をすることなのであるから,この行為の主宰者は,当の行為を達成目標あるいは達成結果から評価しようとしているのではないことは判然としている。目的の達成という観点から行為のよいわるいを決定する評価方法は,功利主義的判定であり,帰結主義といわれる。そうではなく,行為の幸福の価値は,行為の持つそれ

自体としての価値なのである(kat’auto: for the sake ofits own)。行為の目的は,行為をよくすることに尽くされており,行為の課題としての達成目標にあるのではない。よき行為の目的は,よく行うことにおいて消尽されており行為自体と別の何か(pros ti)にあるわけではない。このような,行為の目的は行為の達成ではなく行為すること自体である,という行為の営みの特別なあり方を,アリストテレスは活動(energeia)とよぶ。行為(praxis)は,活動であって,製作や政策などの実用的達成作業ではない。これは,楽器を弾いているときにその行為自身を楽し

むこと自体を目的に弾くのと,合格する目的のための練習として弾くことの違いに重ねあわすことができる。前者の目的は弾くこと自体の幸福であるとすれば,後者の幸福は行為の終局である合格を目的とする達成作業である。後者は弾くこと自身を目的にしていないから,その行為自体を楽しむことがない。だから合格しても合格できなくても,「行為の幸福」という観点よりすれば,これが合格のためには役に立つ行為だとしても,役に立つための行為であるというまさにその点において,それ自体としては不幸な行為であることに変わりはないのである。自分自身に意味がないからである。差しあたって行為は,たとえば契約の成立を個別目的

とする行為である。契約を成立させるかさせないかが,この行為の功績(よいわるい)をきめる。しかし,この行為は,その交渉行為において正しく公正にふるまっているかどうかによって,同時に倫理上のよさわるさを背負い込んでしまうことも事実である。ひとの行為は,まずは何か個別目的の実現(成果)を

目差す行為であることは間違いない。しかしこの行為が,交渉相手を不正に取り扱うことを通じて,利益を達成するのであれば,この行為は利益を選択することをとおして,不正な生,劣悪で不幸な生をいきることを同時に選択している。このような選択によって,自分を不正な行いをする不幸なひととして描き出すことになるのである。同じ行為について,「あのひとできるな」という達成

作業の記述をとおしてみることもできれば,同時に「よくやるよな」「わかってないよな」という活動行為の記述をとおしてみることもできる。アリストテレスは,個別行為をするときには個別目的

の選択と同時に,そのひとの生の形の全体を描き出してしまうような,超越的なよさわるさの選択が常に行われてしまうという事態を指摘しているのである。�フロネーシスという知性に課される選択が問題である

のは,それが実は個別価値と幸福という超越価値の二重選択であること,その二重の価値の狭間でどのように選ぶかという状況に晒されていることにある。フロネーシスは二重選択のこの状況に晒されて,自分自身というも

遇運と行為

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のに正面から向かいあい,責任というものを知るのである。しかしわれわれの行為は,いくらよく生きようと思っ

ても,自分はそうしたくないのに〈いやいやながら(malgre moi)〉,わるく生きることをどうしようもなく強いられてしまうということがある。ジャン・ヴァルジャンは,自分の劣悪からではなく,

生きるためのパンを得ることに成功することによって,盗みという倫理的傷痕と世界への呪詛感情を刻みつけられる。かれは,非難されるべきなのか,状況に強いられ不本意にそのようなことを強いられたひととして同情されてもよいひとなのだろうか。オイディプスは,正当防衛のために老人を偶々殺すこ

とを強いられたが,この行為はさらに先王殺しであり同時に父を殺す尊属殺人でもあった。かれはそのことを,運悪く知る由もなかったのである。オイディプスは劣悪な犯罪者なのであろうか。同情されてしかるべきひとなのであろうか。オイディプスは,ひと柄のよい優れたひとであることは間違いない,しかし幸福な生を送ったひととはいえない。モリエールの主人公のひとりスガナレルは,女房の策

略で,暴力によって「いやいやながら医者にされて(LeMedecin malgre lui)」,不本意に奇妙な医者を演じることになる。かれは医者を演じているのであろうか演じさせられているのであろうか。こうして偽医者としてひとをだますことはスガナレルの責任なのであろうか。徴兵制度のもとで兵士として戦場に送られ,ひとに銃

を向けることは,当人に責任はないことなのだろうか,それとも何らかの責任を問われる行為なのだろうか。たとえ「幸福に生きる」意志をもつ「よきひと」であっ

ても,ひとは外部要因に迫られて,強制されて,あるいは無知のために,めぐり合わせの悪さのため,不幸な生をおくるということがあるのかないのか。そしてそのような行為に,当人はまったく責任を持たないでいられるのであろうか。行為の幸福は,遇運によるものや外的善をも「あわせ

必要とする(prosdeisthai)」という立場をとったことによって,このようなひとの行為の脆さへの問いかけを惹起することになったのである。行為の幸福が遇運をもあわせ必要とすることによって,

ソクラテスの不撓不屈な(invulnerable)自己,およそ過つということのない「必然の自己性」とソロンのいう偶運に晒されるだけの,およそ過つという概念さえ知らぬ「無自己性」との間に,「過ちうる自己」というものが登場することができるのである。不本意な行為,無知ゆえの行為,当人の責任ではない偶然が引き起こすさまざまな行為の過ち,その責任と免責,非難と許容をめぐるさまざまな問題群とは,過たないこともできるがしかし過つ可能性をもつ私の行為に関係している。偶然に晒されることによって,〈phronein〉の働きも

過つ可能性に晒され,よき性格もゆがむ可能性に晒される。これが問題なのである。

§2.傷の質『ニコマコス倫理学』にある,ソクラテスやキュニコ

ス派を揶揄したアリストテレスの言葉をひこう。

なぜなら,器量(徳)をもちあわせていても,…かれがこの上ない不幸な目に遇ったり,不運に陥ったりすることもありうると考えられるからである。だが,理屈に合わない説に固執するのではないかぎり,このような生を送るひとを幸福なひととみなすものは誰もいないだろう。�

そういうわけで,幸福なひとは肉体における善や,外的な善,すなわち,運命〔に依存するもの〕をも,これらのために活動が妨げられないように(me‾empodize‾tai)と,あわせ要する(prosdeitai)。車責めにかけられ,大きな不運の数々に落ちこんでいるひとであっても,そのひとが善いひとでありさえすれば,幸福であると言うひとびとは,それが本意からであるにせよ,不本意であるにせよ,譫

たわ

言を言っている。ところが,或るひとびとは,幸福が運命〔に依存するもの〕をもあわせ要する(prosde-isthai)という理由によって,幸運を幸福と同じものと考えている。だが,そうではない。�

この箇所の,強調部分「理屈に合わない説」「幸福であるというひとびと」はともに,ソクラテスとキュニコス派の哲学者の説を指しているとされる。� 特には,『弁明』(プラトン)でのソクラテスの言葉,「善きひとには,生きているときも,死んでからも,悪しきことはひとつもない(ouk estin andri agatho‾ kakon oudenoute zo‾nti oute teleute‾santi. Apologia 41d1―2)」を直截に指すとされるものである。�どんな不運にあっても(車責めにかけられ,大きな不

運の数々に落ちこんでいても),「よきひとは害されることはない(a good man cannot be harmed)」。幸福であるためには徳だけで事足り,ほかのことは何の関係もないというソクラテスの幸福概念�を,皮肉な表現で揶揄している。同時に,後半の引用の最終文で,ソロンに代表される当時の一般通念�を切り捨てることも忘れていない。アリストテレスは,このソクラテスのストイックな主

張にたいして,ひとの生の幸福は,幸運(外的善や遇運によるよきもの)を「あわせ―要する(pros―deitai)」(NE1099a31, 1100b9)ものだ,という言い方で対抗しようとする。この一語で,ソクラテスのいうとにかく善く生ききればそれが幸福という自足的幸福とソロン流の常識(幸福=幸運)を両方とも崩しにかかるのである。ソクラテス型はソロン型の補完が必要,後者は補完するべき前者がなければ無意味だという具合に。真の幸福とは,よく行為することと単なる遇運との間にあるといいたいのである。車攻めに遭っても自分の志操を平然と貫きとおす人を

見て,われわれはそのひとを幸福と呼ぶだろうか。呼ばない。よく生きているけれども幸福ではないというであろう。逆に不遇であるけれどよく生きているとはいえる。崇高な威厳のある生き方にわれわれは畏敬するけどその生を幸福だとはおもわない。真の幸福は,よく生きるこ

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とに幸運を加えたものであるというきわめて説得的な提案を,アリストテレスはしているのである。見通しも立てず行きあたりばったり,成り行き任せの

生活も,いくらめぐり合わせがよくても幸福とはいえない。自分の力の発揮が伴なっていないからである。だから,よく生きることも,度重なる不運や逆境に見舞われると,傷つくというのである。ソクラテスは,傷つかないという。そんなことは関係なく志操をまげずによく生きてさえいれば,それが幸福だという立場をとるのである。アリストテレスによれば幸福は,よく生きることと遇運の間にあることになる。傷つけば,幸福でなくなることも,生活が,よく生きることと遇運の狭間で営まれるからである。受傷性(vulnerability)とは,必然と偶然との間に成

立する。不撓不屈は傷つく感受性がないことを意味しているが,他方偶然事象も,めぐりあたる行為者がいなければ,自ら幸運・不運という贈り物として感受されようがないからである。アリストテレスの語る人間は,感情豊かな人間である。受傷しうるから感情は生まれるのである。偶然と必然が交差するところに感情が灯るのである。アリストテレスはこうして,遇運�が行為の幸福�を

幸運というしかたで補完し,不運というしかたで崩してしまうことを認めた。ひとは,幸運にめぐまれて「行為の幸福」を謳歌するひとの福音に共感するよりは,なぜか不遇により崩れていく善きひとの悲劇に共感する。自分が受傷しうるものであることをよく心得ているからである。なぜアリストテレスは,悲劇作家や詩人嫌いの師プラトンに抗してまで,悲劇や詩に興味を持ったのだろう。プラトンの構想した都市では,悲劇は禁止され,そこの市民は上のような感受性に胸をわるくしたことだろう。そのような感受性をもてたのは,アリストテレスがマ

ケドニア出身でアテナイでは,メトイコイ(外国人)という身分であったことと無関係ではないだろう。そのためナショナリズムの排斥感情の対象にされたこともある,実際に危機感にせまられて,アテナイを脱出する経験もしている。アリストテレス,そして近代ではアダム・スミスが,悲しみや辛さ,そして同感(eleos: grief, sun-gno‾me‾: sympathy),言い換えれば自分が当事者を演じてみること「ミメーシス(mime‾sis: go along with)」に興味を示した。他者を直接真似(ミメーシス)することはもちろん,

二人称でも三人称でもなく一人称で,彼や彼女,そしてあなたを演ずることもミメーシスの圏域である。演劇やドラマそして詩や小説そして歌も自分が直接他者になってしまうすばらしい形式であり,恐ろしい形式である。純粋音楽でさえ,人の感情の直接なミメーシスだとプラトンやアリストテレスは考えているのだ。三人称も二人称も一人称で語ってしまうこと,このような「ミメーシス:他者になってみること:模倣」にプラトンやストア派そして純粋な経済エゴイストは,自己喪失の危惧と恐怖をいだく。受傷性への共感がないからである。あるいは受傷した経験がないからであろう。この「運の傷」がどこまで及ぶのかということをめぐっ

て,論者のあいだではげしい応酬が行われている。この応酬を簡単に紹介して,「受傷性」のもつ意味の

輪郭を,固めていきたい。英語の〈happiness〉が,基本的に�の心理的幸福を

意味してしまうので,アリストテレスの使う「幸福〈eu-daimonia〉」に〈flourishing:日本語で「全盛化」とでも訳すのであろうか〉という訳語を当てたことで知られる,J.M. クーパー(John M. Cooper)というアリストテレス学者がいる。かれは,上記の引用�の「車責めにかけられ,大きな不運の数々に落ちこんでいるひとであっても,そのひとが善いひとでありさえすれば,幸福であると言うひとびとは,それが本意からであるにせよ,不本意であるにせよ,譫

たわ

言を言っている。」というアリストテレス自身の「この知見(this insight)」をそのまま受け取ることに疑義を感じる。かれが確信するアリストテレス自身の〈eudaimonia〉論は,�の行為幸福論であって,遇運の力を無化しようとするものである。�アリストテレスをソクラテスにひきつけたいのである。ジュリア・アナス(Julia Annas)はこの,クーパー

の見方を「〈原―ストア的〉見解」(“proto―Stoic”view)」と呼ぶ。それに対して,クーパーの確信が誤解であることを説明して,アリストテレスの主張「あわせ要する」論をそのまま肯定するアーウィン(T.H. Irwin)とヌスバウム(M.C. Nussbaum)の見方を,「ペリパトス的解釈(peripatic interpretation)」として同類に分類してしまう。�ジュリア・アナスのこのくくり方は,外観だけからは

そのとおりなのであるが実質からは間違いであり,ことがらの実態を外したものである。アーウィンとヌスバウムは,不運や外的環境がどこま

でまたどのような意味でひとを「不幸」へと崩すのかという論点をめぐって,激しく争っている。アーウィンはこの受傷性に関してヌスバウムより圧倒的に消極的,保守的であり,クーパーはその上をいき受傷性ということを認めようとしないのであるから,むしろクーパーとアーウィン対ヌスバウムという対立構図のほうが事柄の実態に対応していることになる。その事柄とは,善きひとでも,なんらかの傷を受けるのであるが,どこまでどのような意味で傷つきうるのかという問題である。この点でヌスバウムとアーウィンは決定的に違っているのである。善きひとが受傷することをどんな意味でも認めない

クーパーが,ヌスバウムを批判した言葉を借りてこの争点を確認することから議論をすすめる。

マーサ・ヌスバウムは,『善き生の崩れやすさ(The Fragility of Goodness )』�の中で,このことについて見解を示している。その見解は,遇運が果たしうる役割に対して非常に許容度が高いものである。とくに,人間の生活を侵食し,人の生活の倫理的支柱を圧し折ってしまうまでに許容度が高い。しかし私は,アリストテレスが倫理学のなかで実際におこなっている処置をヌスバウムは誤解し,ひどく偽り伝えていると信じている。そして,正しく理解すれば,アリストテレスがよく生きられる生の構

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造において遇運に実際に割り当てている役割は,かの女自身が望んでいるよりもはるかに弱いものでしかない。

要するに,ヌスバウムは遇運の加傷力を過分に見積もり過ぎていて,アリストテレスをひどく誤解しているというのである。このような読み方が広まることへの懸念を示してさえいる。かなりの酷評である。しかし,この争点には,アリストテレス解釈の正しさ

と,その問題へのアリストテレスの対処が自分でも背負うに値するものかどうかという解釈者の哲学的期待とが微妙に関係している。そのような期待があればぎりぎりの解釈の可能性を追うことも哲学をするものがやってきたことのひとつである。その点からすると,ヌスバウムの解釈は,ラディカルではあるが「誤り伝える(misrep-resent)」というほど偏向しているわけではなく,むしろ「切り開いている」という営みとして十分許容可能なものである。アーウィンは「とくに,人間の生活を侵食し,人の生

活の倫理的支柱を圧し折ってしまう」遇運をアリストテレスに読みとろうとするヌスバウムに解釈上の苛立ちを感じているという点で,クーパーと同属である。辛口の評ということなら,クーパーに劣らない攻撃的な評を,『善き生の崩れやすさ(The Fragility of Goodness )』のブックレヴューで行っている。大まかに言えば上のとおりであるが,アリストテレス

が許容するとアーウィンが考える遇運は悲劇経由ではなくプラトン経由であるとするところに特徴がある。悲劇経由とするヌスバウムとここに争いが生じるのであるが,受容経由を争うだけにその争点の内容が少々手の込んだものになっている。悲劇に傾倒するヌスバウムの思考の中心をつかむためにも,アーウィンの説明を避けて通るわけにはいかない。アリストテレスが遇運を幸福の契機として受容したのは,けして悲劇作家の幸福概念ではなくプラトンの『国家』篇経由だというのである。アーウィンは『国家』篇のなかで,プラトンは「幸福

であるためには,徳だけで十分である(virtue is suffi-cient for happiness)」というソクラテスの要求を支持していないという。さらに続けて,『国家』篇のなかで「不運であり正しい人は外的善を失い,それによって深刻な害悪に苦しむ。正しい人の正義はかれが幸福であることをたしかに保証しはしない,ただかれがどの不正な人よりも,より幸福である(happier)ことを保証するのだ」(強調は筆者)といわれていると主張する。�正義の人は幸福の国から追放されることはないというのである。不正なひとは不幸であるが,その不正な人より絶対的により幸福であり,まかりまちがっても不幸(=劣悪な人のありかた)であることなど絶対にないという趣旨である。たしかに,ソクラテスの議論よりは遇運の影響を認め

てはいるが,どこか詭弁のような響きがすることは否めない。とにかくアリストテレスは,遇運と善きひとの関係をこのプラトンの議論から引き継いだので,悲劇作家の見解に学んだのではないとする。経由もさることながら,その経由の違いで受傷の質がどうなるのかが大いに

問題である。結論から言うとこういうことになる。悲劇経由説のヌ

スバウムは,境遇によっては善きひとでも(例えば正しいひと)でも悪徳のひと(不正なひと)に退行しうることにアリストテレスは関心を示していることになる。それに対し,アーウィンが構想するアリストテレスの受傷性は,善きひとは「幸福ではない(苦しみを経験する)」という受傷を経験するが,不幸(劣悪)というような重傷は絶対に受けることはない。善きひとの負う傷は,外傷でしかないのだからいくら重傷でも,悪徳という心の重傷と比ぶべきもない,絶対的な軽傷でしかないということになる。アーウィンの,この議論を支える理論的内容にもう少

し立ち入ってみておく。プラトン説とアーウィンが称する,幸福概念は,〈従

属的な外的善(subordinate goods)〉という要素と,〈主導的な構成要素(the dominant components of hapi-ness)〉から成り立つ。外的な善は善きひとの行為によって意味づけられなくては,幸福の構成要素にはならないという。だから厳密には,幸福の可能的要素でしかないのである。何が言いたいのかというと,例えばお金,これを悪徳の人がたとえば人身売買に用いるならば不幸の要素になる,善きひとが災害の被害者の救済に用いれば,これは善きひとの幸福を完成する構成要素になるというのである。外的善はそれ自体としてよくもわるくもない価値の中性態でしかないというのである。�主導的要素である徳自体は確固としたもので(stable)

われわれが統御できる部分である。外的境遇によって徳のある善きひとは苦境に苦しむことは当然ありうる。「だから,幸福のための適切な外的善を失えば,善きひとは完全に幸福であることはやめることにはなる。しかし,彼は〈不幸(unhappy)〉になるのではない」とアーウィンは論じる。 この〈不幸(unhappy)〉には,註がつく。

註17〈不幸(unhappy)〉はathlios の訳である。これは幸福(eudaimo‾n)の反対概念であってたんなる否定ではない。Cf. Plato, Meno78a1―9....

ここに参照として挙げてある『メノン』篇の該当箇所とは,「悪を望むものは誰もいない(oudeis bouletai takaka)」(Meno78b1)ということをめぐる対話として有名なところである。ここで「不幸」は「幸福ではない」という意味でなく,「幸福(eu―daimonia)」の反対概念「悪しきひとの禍福(kako―daimonia)」を意味していることがわかる。「不快」が普通「快でも苦痛でもない」ではなく「苦痛」を意味するように,ここの〈不幸(un-happy=athlios〉)は,「悪徳のひとの境遇を」意味しているのである。この意味で幸福の反対概念として〈ath-lios〉は使われているのだとこの註17は説明しているのである。アーウィンはこの不幸の積極的概念をどんなことがあってもなぜか手放さない。善きひとは,幸福の主導要素をどんなことがあっても

維持するのだからその限りで永遠に幸福であり,不幸に

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なることはありえない。ただ苦しみという外傷をうけて不完全に幸福でありうるだけなのだ。だから不幸な人(悪徳の人)よりどんなことがあっても絶対により幸福な人なのである。このプラトン説をアリストテレスは受け入れているのであって,不幸になる可能性を主張する悲劇作家の遇運観を受け継いだのではない,という。そのようにアーウィンはいう。アーウィンは,オイディプス王を悪徳の人と解釈し,この意味で不幸なひとと解釈せざるを得なくなることを,おそらく分かった上で選択していると思うのだが…。上に引用したアーウィンの論文「永遠なる幸福:アリ

ストテレスとソロン」は1985年に書かれたものである。アーウィンによる『善き生の崩れやすさ(The Fragilityof Goodness )』のブックレヴューは,その3年後の1988年にThe Journal of Philosophyに寄稿されたものであるが,このブックレヴューも1985年の論文の分析に依拠して書かれている。このブックレヴューでも,アリストテレス自身が「幸福なひとは決して卑劣漢(wretched=athlios)なることなどありない,なぜならかれはいかなる場合にも厭うべきこと,劣悪なことをしないだろうからである(NE1100b34―5)。そして〈常に(aei,1101a2)〉その境遇の中で最善のことを行なうことを望むからである」という同趣旨の主張を貫いていると主張する。� このブックレヴューは,ギリシャ悲劇の扱い,細かいテキストの読みその他に亘って,ヌスバウムの主著を評するものであるが,その委曲を紹介する余裕はない。アーウィンの詳細で緻密な道筋のつけ方は,どこか歪

である。なんでそんなにしてまでという観がする。事柄に定位するよりはプラトン―アリストテレスの正統な哲学理論の一貫性を維持するほうを選んでいるのであろう。バーナード・ウィリアムスの「善き性格のひと(well

―disposed people)にとって世界を安泰にしておくこと,これが道徳哲学の倦むことのない(tireless)目的である」というため息まじりの言葉が浮かんでくる。� M.ヌスバウムは,ひとは極限的境遇にあれば,悪を志向することになりうる論拠を,アリストテレスの遇運をめぐる思考の周縁から回収しようとしてテキストを読む。悪を望むひとはいないのではなく,ひとはある種の境

遇に置かれれば,その境遇に迫られて,いやいやながら(ako‾n)でも,悪を選択することがありうる。ヌスバウムが,この事態を好んでいるわけではないが,実際われわれの周辺で日常茶飯事としても政治的出来事としてもこのようなことは起こっている。もしこのような悲劇が起こりうるなら,一人でこの悲

劇的境遇を生き,耐え忍ぶよりも,ヌスバウムは,その生じる条件である境遇を少しでも防ぐあるいは整備する努力もしたほうがよい,という行為のロゴス・logosを選択してソクラテス・プラトン・クーパー・アーウィンの善きひとの自己完結性を拒否しているのだと考えられる。この人たちの説く,善きひとの不傷性は信じがたいのである。

第三章 遇運と悪徳(tuche‾ and kakia)

フロネーシスがあり善き性格のひとでも,不運・

不遇に遇えば不幸に生きることになるかもしれない。また善き性格を崩し,フロネーシスを失ってしまうこともあれば,もしかして悪を意志する邪悪な人に転ずるかもしれない。しかしまたこの不遇にもかかわらず善き性格とフロネーシスを維持して不幸の中にも輝くひととなるかもしれない。�

前の論文「フロネーシスとプルーデンスの間」でこのように書いた。なかでも〈(善き性格のひとでも不運・不遇に遇えば)善き性格を崩し,フロネーシスを失ってしまうこともあれば,もしかして悪を意志する邪悪な人に転ずるかもしれない〉ことを,アリストテレスは認めるであろうか。アーウィンやクーパーは,この可能性をアリストテレスに捜そうとするからこそ,あのように激しくヌスバウムを非難していたのである。「善き人は害されることはありえない」というソクラテスのテーゼに対し,悲劇は「善きひとが,遇運によって不幸になる」というテーマを演出する。その悲劇に,アリストテレスは,『詩学』においても『倫理学』においてもなぜあれほどの興味を示しているのであろうか。ヌスバウムは,論文「悲劇と自足性:プラトンとアリ

ストテレス―恐れと憐れみ」(1992)で,ギリシャ悲劇の主人公たちが遇運に強いられて不幸に陥る形を,四つにまとめている。�1.『トロイアの女たち』(エウリピデス)は「妨げられた行為の悲劇(tragedy of impeded action)」である。アリストテレスにとって,幸福とは,善き行為+幸運として,外的善やいろいろな資源,とりわけ友人などに支えられて初めて全開状態に入る行為の活動のことであった。したがって,いろいろな不運によってこのような活動を妨げられるとひとは,何もできないという不幸に陥るのである。それがトロイアの王プリアモスの后ヘカベが辿った不幸の形だというのである。彼女は確かに,自分の夫,子供たちを失ったあと,ギリシャ人たちに孫アステュアナクスを殺され,トロイア再建の望みも失って,焼かれた祖国ともどもに自殺することさえ妨げられてしまう。彼女はあらゆる選択を取り上げられて何も行為ができない不幸に落ちたのだ。これは,戦争終結後,奴隷にされる女性の悲劇の典型である。

2.『オイディプス王』(ソフォクレス)は「不本意な行為の悲劇(tragedy of involuntary action)である。偶々彼のおかれた境遇が彼に強いた無知によって,恐ろしい行為を行うことになる。その無知に関しては彼の責任はまったくない。精一杯のよい選択を行いよく生きることを目差した,それにもかかわらず彼は幸福にはなれない。

3.『アガメムノン』(アイスキュロス)は「倫理的ディレンマの悲劇(tragedy of ethical dilemma)」と呼ばれるタイプの悲劇である。神の命に従って,むすめイフィゲネイアを犠牲に供して海を静め自分の兵をすくうか,子殺しをさけて神の命令に背き自分の兵を見殺しにするかという選択をせまられ,娘を殺すほうを選んでしまう悲劇。無知によるのではなくあれかこれかをはっきりとみすえて選択し,行為をせまられるとい

遇運と行為

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うディレンマの悲劇。4.『ヘカベ』(エウリピデス)は,「侵害された性格の悲劇(tragedy of eroded character)」と呼ばれている。この第二ヘカベは,不運な境遇が行為を妨げるというに留まらず,一番信頼していた友人に裏切られ彼女の持ち前であった秀でた徳性を崩し,ヘカベは悪をなすことを選ぶという悲劇である。いずれも自分の責任で招きよせた不幸ではない。この

うちどれをアリストテレスの『詩学』と『ニコマコス倫理学』は認めうるかと,ヌスバウムは問う。『詩学』の観点については,ここでは特別には関心を払わないことにする。1.の「妨げられた行為の悲劇」のタイプは,『ニコマコス倫理学』が典型的な悲劇の例として承認しているプリアモスが辿った不幸の例。トロイア崩落後,いろいろなものを奪われ何かを選択して行為することを全面的に妨げられてしまうプリアモス。オイディプスとアガメムノンもプリアモスとは別のしかたで行為を妨げられていると考えることもできるという。

2.の「不本意な行為の悲劇」のタイプは,「度重なる大きな不運を無感覚なゆえにではなく,高貴な,高邁な心の持ち主であるゆえに,心おだやかに堪えしのぶ時には,このような不運のうちにあっても,美しさが輝き出る。」(NE.1100b30―33)という『ニコマコス倫理学』の特に有名な美しい悲劇的行為にピッタリ当てはまる。まるでこの悲劇を念頭において考えられた規定のようである。

3.の「倫理的ディレンマの悲劇」タイプも,当然倫理学でも偶運に強いられた不幸の例になろう。状況によって恥辱的行為を選ぶ。さもないとさらに倫理的に劣悪な行為を選択することを無知ではなく先鋭に自覚しながら状況によって強いられるからである。これはとりわけ,同情(sungno‾me‾)を誘うタイプとして『詩学』にぴったりとも言っている。さて問題が,4.の「侵害された性格の悲劇」の第二

ヘカベの場合である。このタイプを,アリストテレス倫理学は認めているであろうか,また原理的に承認しうるものであるか。この『ヘカベ』については,ヌスバウムのアリストテ

レス解釈と自分の哲学との全てがかかっているので,とりわけ見事な分析を『善き生の崩れやすさ』の中で行っている。この章はこの本の最終章13章として,「裏切られた約束:エウリピデスのヘカベを読む(The betrayalof convention: a reading Euripides’Hecuba .)」という個別の題をつけられている。� しかし,この第13章は「エピローグ:悲劇(Epilogue: Tragedy)」の特別の大見出しを持っている。この善さの受傷性の研究の終幕を悲劇で飾るという意識的な仕立てが,全てを物語っている。トロイア王プリアモスの后であったヘカベ,この上な

く善き性格のひとであったヘカベ,トロイア陥落後,彼女はその高貴な人柄を崩すことなく奴隷として数々の不遇に耐え抜いてきた。その上娘のポリュクセネが人身御供に供されても自己を崩さず立派に耐え抜きとおす。まさに高貴さが輝くばかりである。

トロイア王プリアモスは,トラキア王ポリュメストルに自分の跡継ぎの息子ポリュドロスを財産とともに預けておいた。それがトロイア陥落するやポリュメストルは,財産欲しさにポリュドロスを殺し海に投棄した。事実を知りとりわけポリュメストルの心根を確かめたとたん,徳に優れるヘカベはそのときから突然に徹底した邪悪なひとに豹変してしまうのである。そして仕組んで,ポリュメストルを盲にしてその子供を殺しにかかる。このドラマの前半部で徹底して優れた善きひととして描かれていたヘカベが,何故一挙に悪しき人へと心を落したのか。そのヌスバウムの説明には説得力がある。プリアモスとヘカベにとって,ポリュメストルは,

〈クセノス:xenos(guest―friend)〉であった,伝統的慣行(convention:ヌスバウムはこの意味を表題〔約束〕に引っ掛けている)に定められた「外国人の友人」であったというのである。この関係は,劇の中で15回も繰り返して言及されるという。さらにポリュメストルは,ただ公的ゲストフレンドであるばかりではなく,とりわけもっとも信頼を託した〈友人philos〉でもあった。アリストテレスも特別な章をもうけてまで論じているあの〈友人:philos〉の関係にあったのである。友人・友愛とは,幸福であるための特別な不可欠条件(資源とは区別される本質的な外的善)であり,出遇いの恵みの極みである。� それであるからこそ大事な息子を預けたのである。長くなるから説明をなるべく最小限にとどめるように

する。ここからヌスバウムは,当時の慣習法が〈クセノス:

xenos〉と〈友人:philos〉に,いかに重要な意味を与えていたかを社会的に説明する。そのような信頼にかかわる慣習法,幸福のために不可欠な公私の生きるための大切な条件,のもとで自己提示したポリュメストル,そのクセノスであり友人である彼が,財産目的で,子供を殺してそのまま海に投棄したのである。この行為は犯罪であると同時にクセノスの受け手とりわけ友人であるヘカベの心の抹殺である。�このような人の心の支柱を圧し折るまでの裏切りはヘ

カベにとって何を意味したのだろう。絶対にありえないだましと裏切りを全幅の信頼をおいた友人に「贈られる」ヘカベの心は腐食する。この処遇にヘカベの善き心は豹変して邪悪になる。logosも徳ももたない獣(犬)への変心/変身(metamorpho‾sis: morphe‾s te‾s eme‾s metas-tasis, Hecuba1266)を予言されてこの悲劇は幕を閉じる。伝えによると,自分の息子の屍をみた時のあまりの悲しみにlogosを失い気が触れて,彼女は犬のように吠えたという。logosも徳も持ち得ない獣(犬)になってフロネーシスを捨てたのである(ek―phro‾n)。�いろいろな不遇があるが,友人の裏切りや戦争におけ

る残虐とレイプなどを行う行為者の悪意は,事柄の残虐をこえて,相手の心を抉ると同時に心の色を塗り替えてしまう。その悪意への反動として心を邪悪にすることは十分ありうることである。それがヘカベのように身につけたエートスが高貴であればあるほど,その屈折と反動は強いはずなのである。だから,徳を保持するのにヘカベが示す力量が並外れたものであればあったほど,堰が

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切れるようにその徳の力量はマイナス度の徳,邪悪へと怒涛のように流れ込むのである。ニーチェは復讐を卑しいこころの劣悪な人間のするこ

と,ルサンティマンだという。しかし高貴な人間であるがゆえに行う復讐というものがあることを彼は知らないとヌスバウムは語る。ヘカベの場合は,劣悪なものではなく高貴なものの方こそ,この逆行行為に開かれていることを示している。信頼と他者の配慮に心身を献ずる力量,彼女の持つ伝統の慣習の徳こそ,この逆行を行わせたものである。友愛と誠実と公正と。友人の行為の意味に目覚め,彼女は個人的セクト的な復讐をしたのではない。信頼という構えをヘカベの心に描き出した枠組みそのもの,法・nomos自体に,すなわちクセノスという制度,xeniaに対して復讐したのだという。ヌスバウムは,ヘカベの復讐のこのような真実を,饒舌に明かすのである。� このあたりで解説はやめておく。以上の分析をうけて,エピローグでもあるこの13章の

�節が,4.の「侵害された性格の悲劇」とアリストテレス倫理学との関係を明かす。2つの問とそれに対する回答を通して結論される。

問1)アリストテレスの倫理観は,不遇が善きひとを,積極

的な不幸である悪へと性格を変えることを認めるのか。許容する。アリストテレスは以下のことを認めている。

人間の卓越性の社会的性質:全ての卓越性が他者連関的であること:友愛と政治的結合が,人間の善き生活の不可欠な要素であること:政治的結合の有効性は信頼を必要とすること。この条件の侵害をうければ,ひとはヘカベのようにモラル的な逆行を行いうる。問2)この可能性についてアリストテレスははっきり語って

いるのか。そのものとしては語っていない。しかしそれを示唆す

る言動がいくつもある。青年と老人の年齢の性格について,年齢や遇運の経験

によって性格の直曲が変わることを,はっきり語っている。とりわけ『弁論術(第二巻第十二―十四章)』でまた『倫理学1121b13&1124a20ff.』で語っている。�なかでも,『弁論術』第二巻の第十二章(青年)と第

十三章(老年)の人間観察は興味深いものである。若者は,多くの卑劣(pone‾ria)をまだ見ていないの

で性格が悪い(kako―e‾theis)よりはむしろよい(eu―e‾theis)。欠乏の経験がないぶんけちでない。裏切られた経験がないので人を信じることができる。希望が持てるから勇気がある。生活で卑屈になっていないから心が大きい(高邁:megalo―psuchia)。老人より,友を愛し,仲間を愛する。そのぶん,欲望にはしり易いし飽き易い,短気でだまされやすい,などなど。老人はその反対。ひがみっぽいし,裏切られた経験か

ら猜疑心が強い,けち,臆病,自己中心的,愚痴を言う,希望を持たない恥じらいがない。もちろん,控えめなどの面があるが,やはり心が狭い(mikro―psuchia)。このように年齢による生活の境遇が,性格を歪め獲得

した徳を維持することさえできなくなることをアリストテレスは認めているのである。

老年の性格の歪みは,信頼と希望に満ちた若者がいまだ持たない経験から結果したものである。そして,とりわけ危機に晒されるのが,世界と人への信頼であり,希望や期待,愛,友情などである。すべて自分を世界と他者に向けて開き預けてしまうからである。また,特にヌスバウムが気にかけているプリアモスに

関する記述が重要な手がかりになる。そこは,『ニコマコス倫理学』第一巻第十章終わりにあるパラグラフ,1100b33から1101a13にかけての文章である。事実ここは,解釈を揺らす,微妙な言動がなされている問題箇所である。「…活動が生を決定するとすれば,幸いなひと(to‾nmakario‾n)は誰ひとり不幸(athlios)にはなりえないだろう。なぜなら,かれはいかなる場合にも厭うべきこと,劣悪なこと(ta mise‾ta kai ta phaula)をしないだろうからである。…もしも,そうであるとすれば,幸福な人(ho eudaimo‾n)が不幸(athlios)になることは,けっして,ないであろう。」ときて,すぐに続けて譲歩がなされる。「もっとも,もしも,かれ(ho eudaimo‾n)がプリアモスのような運命におちいるならば,幸いな人(ここは,makariosの訳。markariosとeudaimoniaとが同義であることは訳者の加藤氏もヌスバウムも認めている)とは言えないが。」(括弧の中は筆者のコメントである)と。同じく続けて「したがって,幸福なものはうつろいや

すいもの,転変しやすいものではない。かれが幸福な境涯から動かされるようなことは,ありきたりの不運な目に遇ったとしても,容易には起こらないからである。」ときてすぐまた譲歩が入る。「ただ,大きな不運が度重なる時にはそのようなことが起こる。このような不運から立ち直って,彼がふたたび幸福なものになるのは短い月日をもってしてはできないであろう。できるとすれば,それは或る長い充全な期間が満たされて,かれが大いなる功しをみずからのうちに勝ちうるに至ったときであろう。」と。(以上文字強調は筆者による)「幸福な人,善きひとは絶対に不幸になりえない」と言うテーゼにかぶせるようにして,遇運の質によっては「不幸になる」というテーゼが繰り返し重ねられている。アリストテレスは何を言っているのだろうかと考え込む箇所である。最初の箇所では,「不幸(athlios)」が,アーウィンの

主張するソクラテス的意味「悪徳」「悪しき人柄」の地平で規定されていること,マイナス度の不幸であることが分かる。この意味を保持するならば,プリアモスのおちいった不幸とは,たんに活動が妨げられる不幸ではなく邪悪の不幸になる。しかしわれわれの知るプリアモスは,不活動の不幸に陥っているとしても決して邪悪に陥ったとは考えていない。ここで〈不幸(athlios)〉の意味が大きく揺れる。ここでヌスバウムが注目するのは,一度そのような不

幸から幸福を回復するには,多くの時間を要するといわれていることである。外的善や境遇のことならこのような内的な記述にはならない。ここは明らかに,心の深い傷の回復について語っていることは明らかである。大き

遇運と行為

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な不運が度重なって堕ち込んだ不幸とは,邪悪にまでは行かないにしても心の持ち方・性向への侵害である。善きひとが人間不信におちいったり,僻みっぽくなったりするということである。場合によっては邪悪になりうるということを示唆しているではないか。アーウィンが「不幸(athlios)」概念に関して引かな

い理由もここが典拠である。ただし彼がおかしいのは,ここの文章を全体の通しで読み悩んでいないということに問題があるとおもう。ヌスバウムが,ここを4.のヘカベの「侵害された性格の悲劇」のアリストテレスの承認,偶運が善きひとを劣悪な人にする可能性の承認の典拠として問題を提起してくるのは,何の不思議もない,理に適ったことである。しかし問題の箇所であることは間違いない。以上が,善きひとでも大きな不運が度重なる時には,

筆者の文で言わせてもらえば,「また善き性格を崩し,フロネーシスを失ってしまうこともあれば,もしかして悪を意志する邪悪な人に転ずるかもしれない」という主張の弁明であり,ヌスバウムのアリストテレス解釈に向けられる疑念に対する彼女自身の弁明である。どうであろうか。

結 語

ヘカベは邪悪に陥ったのだが,どういう邪悪なのであろうか。もとからの邪悪という悪徳が存在するのかということについての考えを突きつめてみたい。ヘカベは邪悪に陥ったのであって,もともとの邪悪と

いう悪徳の人ではない。『ヘカベ』を読めば,彼女はなるべくして邪悪になったのだとほとんどの人が考えるであろうし,エウリピデスもそのような筋立てを意図して書いていることは間違いない。何が言いたいかというと,アリストテレスの徳論は,

善きひと/悪しき人,抑制のある人/ふしだらな人に分断して,「なりうる」ということを考えない強い傾向がある。よい教育を受けてよい行いに習熟した人は,悪徳に染まることはありえないしまた,無抑制な行為をするわけがないという風に。しかし事情によっては,なるのではないか,事実なっているではないか,という疑念が残る。モーツアルトの『魔笛』の,ザラストロと夜の女王と

の対立のように悪と善が互いに外在しているような構図は,オペラを見る場合は,その二元的な構図自体が効果があって,見る側は面白いのだが,それがひとの実際の行為の話となると,バーナード・ウィリアムスでなくとも窮屈を感じるであろう。ヌスバウムがしたことは,このお互いにあっちとこっちの関係に風穴を開ける可能性をアリストテレスに見抜き,徹底してその可能性を追うという作業である。善きひとであること,これがひとの本質的な価値であ

ることを否定することはだれもできない。どこかでヌスバウムがいっていたが,ひとの受傷性(vulnerability)ということにロマン主義的な感傷趣味を求めているわけではない。しかしながら残念なことに,さまざまな外的条件,環境,遇運によって優れて善きひとでもその性格

を崩しうるのであるし,ある状況や境遇によっては,そうとは知らずに企画を立てて考えをめぐらし善き選択をしたときにも,そのフロネーシスの営み自体が誤っている,狂っているということがある。実際ロマン主義自身が,ロマン的な心性の持ち主たちが想い抱いた構想というよりは,やりようのない時代の境遇に受傷することが原因で,ひとびとが想い描いた構想であることのほうがはるかに本当らしい。ヘカベは,確かに邪悪な行為を行ったことには間違い

がないし,邪悪ではある。しかし「ヘカベの行為は,情状酌量抜きに境遇によってある意味で正当化されるものとみることが重要である」。「彼女の行為は,与件としての邪悪な性格を表現しているわけではない」のだから。�

ヘーゲルは,面白いことを難しい言葉で語る哲学者である。たとえば『法の哲学』§.139の追加で「ただ人間だけが,しかも彼がまた悪でもありうるかぎりにおいて,善なのである」といい,「悪の根源に関する問いは,…どのようにして,肯定的なもののなかへ否定的なものが入ってくるのかという意味をもっている」という。たしかにそうである。上に見たように,われわれ人間は自然に考えると,まず幸福のほうから考えてそれから次に不幸のことを二項対立的に考えだす。しかし,平板な二元的思考(ヘーゲルは,これを〈概

念的思考〉に対して〈単なる表象〉という言い方をする。極端に言うと,自然な想いつき程度の意味)においては,たとえば「神話的,宗教的な表象においては悪の根源は概念において把握されるのではなく,すなわち,一方のものが他方のもののうちに認識されるのではなくて,ただ,時間的前後と空間的外在という表象(eine Vorstel-lung vom einem Nacheinander und Nebeneinander)が存在するだけであり,したがって否定的なものは肯定的なものに外から加わってくる。これは,しかし,思想を満足させることはできない。」という�この,善と悪との「前後と外在の関係の表象」は,ザ

ラストロと夜の女王の関係,一緒にしてはモーツアルトにはちょっと悪いが,水戸黄門と悪者の関係である。しかしアリストテレスには,善きひとが悪を行うこと

を概念的に説明する可能性があったのである。彼がひとの行為を,必然と偶然の間,あるいは善と悪の間で考えたからである。そしてヌスバウムがアリストテレスのこの可能性を徹底的に追求し,考え尽してみようとしているのである。ヘーゲルは次の§140.で,宗教上の偽善(モリエー

ルのタルチュフのような)と悪の最後の段階の独善について議論している。偽善とは,いまだ自分の疾しさを意識した行為である。自分の利害を他の人の善として提示するのであるから,自分の悪を認識しているというのである。そこで,「はたして,ある行為はただそれがやましい

こころをもって…行われた限りにおいてのみ悪であるのかどうかということは,或る時代に,はなはだ重要となったことのある問題である。」といって,最高悪の問題にヘーゲルは入る。この偽善という形式のみが悪なのかを肯定するとどう

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いう結論になるか,自分の行いの疾しさを知っておこなう行為で悪ということは尽きてしまうのかと問うているのである。ヘーゲルは,この問を肯定するとどういう事態を招くかに関してパスカルの『プロヴァンシャル。第四の手紙』の議論を紹介する。ヘーゲルはその議論にいたく感心している。

「徳にたいしていくらかの愛をもっているような半罪人たちはみんな地獄におとされるでしょう。ところが,あのあけすけの罪人たち,こり固まった罪人たち,まじりけなく充実した申し分ない罪人ときたら,地獄も手に負えないのです。彼らは悪魔に身をゆだねることによって悪魔をだましたのです�」

偽善者の上を行く,最高の悪行というものがあるというのである。そしてヘーゲルは,ここに注�をつけて,パスカルの

議論を要約している。そこでパスカルがもち出してくるのが,ルカによる福音書第23章34節のキリストの言葉,「父よ,かれらを赦したまえ。その為すところを知らざればなり〈Vater vergib ihnen, denn sie wissen nicht,was sie tun.(Pater dimitte illis non enim sciunt quidfaciunt.)」なのである。ここで,キリストは,自分を十字架に架けたものたち

について,彼らが自分の行っている行為の意味について全く知らないことを,神に許しを乞うている。知らないのだから,彼らの悪ではないと考えるかもしれない。しかし,それなら,キリストがわざわざ神に許しを乞うことは余計なことのはずであると,パスカルは言っている。そして最後に,パスカルが持ち出してくるのが『ニコ

マコス倫理学』第三巻第一章1110b24―1111a2の,「無知であって行為すること(to agnoo‾n prattein)」と「無知のゆえに行為すること(to di’agnoian prattein)」の違いなのである。個別的な状況の諸々のこと,外的事情について知らないで(無知であって)誤って行為する場合は,不本意(eko‾n)な行為であり過失はあるにせよある意味でしかたがない。人々は哀れみや同情をよせるだろう。しかし,善悪の選択に関する無知となると事情はまったく異なる。註�における,パスカルが引くアリストテレスからの

引用を載せてみる。もちろんヘーゲルがドイツ語訳しているのである。

「全ての悪しきひとは,何を為すべきであり,何を為すべきでないかを知らないひとなのであって,このような過ち(hamartia)のゆえに,人びとは不正なひととなったり,総じて悪しきひととなるのである。善悪の選択の無知は,行為の〈不本意:un-freiwillig〉(責めが帰されるわけにはいかない)の原因ではなく,行為の邪悪の原因なのである」(文字の強調は筆者による)�

ここの「このような過ち(hamartia)のゆえに」行為することが,上記「無知のゆえに〈di’agnoian〉」行

為することを意味している。以上の議論は,個別行為をしている時,われわれは同

時に,それとは別次元のよいわるいの選択に晒されているという事態を問題にしているのである。個別行為が何かに有効であっても,それが悪行であることがありうる。この事情を,そのような行為をしているとは知らずにそのような行為をすることは,この知らないということを原因としてそのような行為をしていることだというのである。当人がそのような行為の意味を知らないで夢中にやっているとき,それをわかってないないという場合があることをわれわれはよく知っているはずである。ヘカベの場合は,意図して悪を選択したのである。ヘ

カベの出遇った不遇とは,実はポリュメストルの不正義であった。彼女の邪悪は,それに対する反動でしかなかった。後者の不正義を受傷することがなければ,ヘカベは決して,犬になることはなかった。冒頭で引用した,タレスの素朴な眼でなく,神谷や小

田の反省的眼差しにおいて,遇運から悲劇が誕生するのである。

第一章�註

1.日本語は,岩波文庫版(1984),加来彰俊訳参照。�上36―37頁。引用の訳はそのままではない。ギリシャ語は,Loeb Classical Libraryのテキストから引用。Vol,1. Harvard University Press.1972

2.神谷美恵子著作集2『人間を見つめて』132―135頁参照,みすず書房,1980年。この言葉は,彼女のプラトンやストア哲学の教養と経験の両方から語りだされる,厚みのある強い行為の言葉であって,安易な一般論の吐露ではない。

3.『人間・ある個人的考察』191頁,1968年,筑摩書房4.『狂言選』春陽堂,昭和十年,533―538頁。版によって,科白やその順序も少しずつ異なっている。岩波版『能狂言』中,昭和四十八年,375頁参照。

5.ロンギノスの『崇高論』の訳を出し,古典ギリシャ文学を専攻した小田はその視点も遥かなものとなっている。有名なアテナイによるメロス島侵略の歴史を自分の可能性としてみる。「私がかってメロスの大虐殺に心を痛めたのは,それは,ひとえに,中立を主張し,それゆえにアテナイの侵略を受け,男の住民のすべてを虐殺されたというメロス人に自分の姿を読みとっていたからだろう。それから年うつって,今日,私は,むしろ,その侵略,虐殺に参加している,いや,参加させられてしまっているアテナイ市民に自分をなぞらえているのだ。」同書185―186頁。トゥキュディデース『戦史』をとりわけ「不朽なら

しめる」とまで言われるいわゆる「メーロス島対談」(第5巻85―116)の結末のことが問題とされている。(岩波文庫版(中),久保正彰訳の352頁―参照。)メロス側は,モラルとしての正義に訴えたが,アテ

ナイ側は,正義が成り立つのは同等な力を持つもの同士の間でしかないとして,メロスを無条件降伏させた。5巻89「…また諸君も,ラケダイモーンの植民地で

あるからわれらの陣営には加わらなかったとか,ア

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テーナイに対しては何ら危害を加えなかったとか,そう言ってわれらを説得できるなどと考えないで貰いたい。われら双方は各々の胸にある現実的なわきまえをもとに,可能な解決策をとるよう努力すべきだ。諸君も承知,われらも知っているように,この世で通ずる理屈によれば正義か否かは彼我の勢力伯仲(dikaiamen en to‾ anthro‾peio‾ logo‾ apo te‾s ise‾s ananche‾skrinetai )のとき定めがつくもの。強者と弱者の間では,強きがいかに大をなし得,弱きがいかに小なる譲歩をもって脱しうるか,その可能性しか問題となり得ないのだ」。以上がその趣旨である。こうして「アテーナイ人は

逮捕されたメーロス人成年男子全員を死刑に処し,婦女子供らを奴隷にした」(同書5巻116岩波文庫版,364頁)。B.C.416年に起きたこの出来事に関して,この虐殺に加担したアテーナイ人であることは自分の可能性でもなかったのか?という偶然性への問いを,小田は問うているのである。久保訳は,日本語としては非常な名訳で読み応えが

あるのであるが,原義の概念的理解にとっては少々苦しくなるようである。イタリックのところの,原義に近い訳をT. Irwinの英訳から引用すると「What is justin human way of thinking is judged from equal com-pulsion, but the stronger do what they can and theweaker submit to it」(Terence Irwin: ClassicalThought. p. 54. Oxford. 1989.)であり,さらにこれの川田親之訳の日本語では「人間的なものの考え方での正しいこととは,平等な強制から判断されるのだが,ただ強者は自分のできることをなし,弱者はそれに従うしかないのだ」となっている。テレンス・アーウィン『西洋古典思想』74頁,東海大学出版会 2000年)。注意しておきたいのは,Irwin/川田訳:正義につ

いては「平等な強制から判断される(from equal com-pulsion)」と久保訳:「彼我の勢力伯仲のとき定めがつくもの」という訳に関してである。それぞれの訳「平等な強制から」「彼我の勢力伯仲のとき」はともに〈apote‾s ise‾s ananche‾s〉の訳である。「アナンケー(anan-che‾)」は,普通〈necessity必然〉と訳されるから,ここは〈等しい必然〉「から・によって(apo)」というのが字義どおりである。ある著名なトゥキュディデース研究者Paul Woodruffによれば,この語「アナンケー」はトゥキュディデースにおいては,歴史的事件の客観的な「必然性」を意味しないという。そうではなく,これは行為の主体にかかわるものであって,たとえば野望や利害そして特に恐怖などが,行為者を脅迫・強制するという「主観的な必然性〈subjectivenecessity〉」を意味しているという。たとえば,「恐怖にかられて何々せざるを得ない」というような強迫,主観的な強制のことをいうのであろう。だからこの点が何らかのしかたで気になっていて,久保訳も〈apote‾s ise‾s ananche‾s〉を「彼我の勢力伯仲のとき(=伯仲状態より)定めがつく」と訳しIrwinでは〈judgedfrom equal compulsion〉と訳しているのだと考えられる。だから,この文の全体の意味は,利害関係や野心や恐怖などの相互の均衡した,主観的強制

(ananchaion)より正義契約を結ぶにいたるのだという内容になるというのだ。(Paul Woodruff. Thucy-dides On Justice Power And Human Nature . p. xxx―xxxii &164. Hackett1993)アテナイ側が提起する,正義とは同等の力を有する

ものの間にこそ成立する利害の交換にほかならないとする,この契約論的正義の考え方は,既にソフィスト達を通じて当時一般的な通念になっていたものでもある。プラトンの『国家』篇358e―359に登場するソフィス

ト,トラシュマコスも同趣旨の正義論を展開しているのは有名である。その趣旨を,グラウコンは要約して以下のように言う。「自然本来のあり方からいえば,人に不正を加えることは善(利),自分が不正を受けることは悪(害)であるが,ただどちらかといえば,自分が不正を受けることによってこうむる悪(害)の方が,人に不正を加えることによって得る善(利)よりも大きい。そこで,人間たちがお互いに不正を加えたり受けたりし合って,その両方を経験してみると,一方を避け他方を得るだけの力のない連中は,不正を加えることも受けることもないように互いに契約を結んでおくのが,得策であると考えるようになる。このことからして,人々は法律を制定し,お互いの間の契約を結ぶということを始めた。そして法の命ずる事柄を『合法的』であり『正しいこと』であると呼ぶようになった。」(藤沢令夫訳,岩波文庫版 上,106―107頁)この書をいち早く英語に訳したホッブズとの連関に

関してはディルタイ等をはじめとして昔から,多くの論者が指摘するところであるし,前掲のIrwinもこの点を指摘している(Ibid. p53.同訳書73頁)。

6.ヘロドトス『歴史』�―33 岩波文庫(上)32頁,Herodothi: Historiae I―33. Oxford.1947.この箇所の議論には,幸福に当たるギリシャ語はほとんどの場合〈olbios〉が使われ〈eudaimo‾n〉の使用は2箇所のみ,〈makairos〉は使われていない。

7.T.H. Irwin, Permanent Happiness: Aristotle andSolon. p. 91. Oxford Studies in Ancient PhilosophyVol.3. p.89―124.1985加藤信朗訳『ニコマコス倫理学』(岩波書店,1971)

は1巻第10章の註�で「ヘロドトス『歴史』�―32参照。ただし,ソロンに代表されるこの言葉は古い諺である。アイスキュロス『アガメムノン』928―929,ソポクレス『トラキスの女たち』1―3,『オイディプス王』1528―1529,エウリピデス『ヘラクレスの子供たち』865―866,『アンドロマケ』100―102,『アウリスのイピゲネイア』161―162等参照。」とすでに指摘している。Ir-winも同引用箇所につけた註3で,エウリピデスの『トロヤの女』505―10をつけ加えて,同作品同箇所を掲げている。

8.アリストテレス,『ニコマコス倫理学』(Ni-comachean Ethics )1098b12―14,以後は文中,註を問わずNEと表記する。この箇所で,アリストテレスは,「魂にかかわる善」と「肉体にかかわる善」をある意味で本質的,内的と考えて,そうでないものを

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「外的な善」としている。しかし,一般的に語るときには,このような細い区別ではなく,「外的な善」の「外」は,魂にとって外的であるもの全てを意味しているようである。(John M. Cooper: Aristotle on theGoods of Fortune: Reason and Emotion. p.295,1999.Princeton参照)また,同じ意味合いで「外的資源(ektos chore‾gia)」

を扱っていることに関してはCooper の同書,Ibid.註�を参照。〈chore‾gia〉はもともとコロスにかかるコストや資産・資源のことであり,その動詞もたとえば戦争のための資源を豊富に提供することというのであるから,何かの行為のための手段として〈ektos chore‾gia〉は「外的な善」と同義なのであろう。ちなみに,岩波版加藤信朗訳は,これ1178a24を「外的な善」と訳している。

9.欲望(epithumia),欲求(orexis)に関しては,この箇所をベースにするか,いわゆるアクラシア論の箇所をベースにするか,そして端緒や始まり・原理にかかわる「願望(boule‾sis)」の箇所をベースにするかによって,議論の組み立てがまったく異なってしまう。この論文の趣旨に副うこの箇所をベースにして欲望・欲求を説明しておく。ここでは,logosに従う欲求(orexis)は,快苦に従う欲望(epithumia)の教化されたものということになる。同一のもの(epithu-mia)が教育されて変成ということである。

10.NE.1194b21.『ニコマコス倫理学』(加藤信朗訳)第一巻,第三章,註�参照

11.T. Irwinは,「若者というのは子供より年上で,講義に参加できる資格という観点からしていつから若者でなくなるのかという点,アリストテレスは語っていない。たぶん18歳以下の人を念頭においている。」と自分の『ニコマコス倫理学』英訳につけた用語解説(glossary)で述べている。cf. Terence Irwin: Ni-comachean Ethics, p.354. Hackett,1999

12.的確な表現なので,文脈が少々違うけれど,『ニコマコス倫理学』(加藤信朗訳)第五巻第一章の註�から拝借した。訳自体も大変な労作であるが,註のコメントの内容は,たびたび事柄の核心を射抜く。

13.Pierre Aubenque: La prudence chez Aristote, p.167. PUF.1963. Ars Rhetorica 1394b26(OxfordClassical Text)1959.『弁論術』,日本語訳,254頁,岩波文庫版,戸塚七郎訳,1992年

14.Pierre Aubenque, Ibid. p. 168.〈Phronein signifie:e^ tre dispose par la pensee, d’une certain fa�on, etl’accusatif neutre qui le suit specifie la fa�on dontla pensee est disposee(4); ainsi, phila phronein nesignifie evidemment pas:《penser des choses affec-tueuses》, mais《e^tre dans des dispositions bienveil-lantes》. De me^me, anthro‾pina phronein ne signifiepas:《penser des choses qui concernent l’homme》,mais《penser humainement 》, d’une fa�on appropri-ee a` l’homme. L’opposition entre thne‾ta ou antho‾-pina phronein et athanata phronein ne recouvredonc pas l’opposition de deux domaines de la con-

naisance, qui seraient les choses humaines et les cho-ses divines; car on peut penser les choses divines hu-mainement, c’est―a`―dire dans la reserve et le sen-timent de la distance(5), et l’on peut penser surhu-mainement, c’est―a`―dire inhumainement, aussi bienl’homme que le monde ou les dieux, ce qui est la de-finition me^me de l’hubris.〉註�は「既にホメロスにその用法があるように」と

して〈kaka, agatha, kruptadia phronein〉を挙げている。『ニコマコス倫理学1177b32―33』からも,以下の同趣旨の言葉を引用してp.167で論じている。「〈人間であるかぎり,人間のことを,死すべきものであるかぎり,死すべきもののことを想え〉と勧めるひとびとの言葉に随ってはならない。」これが何を意味するかは興味深い問題であるが,本論の趣旨からは外れるので論ずることはしない。また,対訳という形ではないが,本文で必要なことの最低限は訳出してあるから,フランス語全文を訳すことはしない。

15.P. Aubenque, Ibid p.168

第二章�註

1.この幸福という究極目的(to hou heneka)は,行為の端初・原理(arche‾)といわれるものであり,この原理をひとがいかに把握できるのかという論点が非常に大きな分かれ目になる。幸福という超越的目的の選択という問題に関しては。アリストテレスの複数の記述のしかたによって問題になるところであるし,それに応じて解釈もいくつかに分かれてしまう。この論文では,テーマにしないが,この点に関して最小限のコメントを述べておきたい。『ニコマコス倫理学』第一巻第七章(NE1098b3―4)で,アリストテレスは「事物の端初のうち(to‾n arch-o‾n),あるものは帰納によって観られ,或るものは感覚によって観られ,或るものは習熟によって観られ(di’ethismo‾ tini theo‾rountai),それぞれの種類の端初はそれぞれ別のしかたで観られる」(加藤信朗訳,ギリシャ語の補完は筆者によるもの)と語っている。端初を,行為の幸福という究極目的だとすれば,上に述べてきた徳の習熟によって当人はこの行為の端初を,観知っていることになる。また第七巻八章の「器量が行為の始まりについて正

しく判断することを教えうるのである」(1151a15―19)の箇所も同趣旨のものとも考えられるが,前引用と比較して考えると,行為の端初・原理について〈正しく判断すること〉を教えるのが習熟された徳によると語っているのである。前引用では,よき行為を実際自分で行うことの習熟において端初が「観られる(theo‾-resthai)」といっているが,後者はよき行為に習熟していることである器量・徳は,この端初について「正しく判断することを教える(orthodoxein peri te‾narche‾n)」といっているのである。原理の与件ということと原理について判断することは次元が違うけれど,その両方をよき行為の習熟としての徳が行うというの

遇運と行為

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であろうか。行為の習熟が究極目的を観るというのは,わかる話である。しかし。判断することはロゴス・lo-gosの機能ではないのか。加藤氏は,この箇所について,「この意味での原理,

端初はそのもの自体としては把握されず,個別の行為を通じて,個別の行為においてのみ,〈習熟によって(ethismo‾)〉観られるものであることが理解される」とし,「個別の特定な行為を正しい行為として知る人にとって,何らかの意味で,終極目的の何たるかは与えられているのである」(『ニコマコス倫理学』第一巻第七章註�371―372頁,参照)と,個別行為をつうじてのみ,原理が観られるという興味深い議論をされている。習熟においてlogosではなく,なにが観ているのだ

ろうか。いわゆる体が習熟して覚えているように,よいとされる行為を繰り返して習熟することによって,善さについての判断はとりあえずできないけれども,よいと教えられる行為を習い性的に行うということになるのか。ということは,向きを変えた欲望が習い性で目差すということを,「観る」といっていることになるのか。そのよさとしてのよさは,習熟過程においては教えるほうが握っている。教えるほうが善さの全権を握っている。このよさの確実な保証はどうなるのだろうか。興味深いところである。この議論箇所で指摘された「観える」こと自体は,

すでになんらかの選択なのだろうか否かという点も気になる。まず観られたというのは,よき行為の習熟によって選択されたと考えてはいけないのか,邪悪な人は原理を破壊するというが,これは邪悪な人はよい教育を受けないことによって,原理をみることができなかったという選択をしたことになるのか。アリストテレスを読んでいるとどこかこのように考えているように思えるところがある。加藤氏は,たぶんこのように観られて既に与えられ

ている「幸福」「生活全体の目的」を,あらためてlo-gosの〈広義の選択(prohairesis)〉の対象とし(狭義のそれは,手段の選択のことを言う),〈目的の設定にかかわってくる〉というふうに考えていると思える。(同書第三巻,第一章註�385頁,第二章注�と387―388頁参照)。習熟において「観られた原理」と「生活全体の目的にかかわる選択」「目的の設定」の関係についての積極的発言はないが,そのようにいっているのだと思う。この点に関して知りたいと思えてくるのは,観られ

るのは「究極目的」といわれているが,「生活全体の目的にかかわる選択」「目的の設定」の目的は,究極目的を意味しているのか,諸目的なのかがわからない。しかし「設定」というからには,もろもろのintrinsicな自体的目的の設定を意味しているように思える。選択は設定することを含むのだろうか。そのためには諸目的に関して熟慮する,ということを認めたほうがいいではないか。しかしアリストテレスは目的について熟慮は働かないと多くのところで考えていて,加藤氏は,ここは外さないでいる。細部についてはどうかわからないが,加藤氏はM.F.

Burnyeatと非常に近い考えをしているのだと思う(習熟論)。この論は,興味深く惹かれるけれども,なにかおかしい。この考えは,〈徳と実践知を完全に培った人〉〈そのようなひとにはもはや無抑制になる理由がない〉という結論につながっている。このようなアクラシアという行為を抽象的にあらかじめ設定して,人のある種の行いをこのカテゴリーに押し込めてしまうのでなければ,アクラシア現象といわれているものはアクラシアというカテゴリーで捕らえなくてもすむからである。何らかの不遇が原因で,トラウマを抱えれば,善き

ひとでもわけの分からない反復強迫,反動形成,屈折した感情や行為をせざるを得なくなる。アリストテレスが子供や若者にlogosを拒み,習熟

とlogosを二元的に裁断するのは理解できないことだ。それで無理が出るのだと思う。この時代は子供は非常に粗末に扱われたことと無関係でないのだろう。ウィギンズ(D. Wiggins)は1975年に“Deliberation

and Practical Reason”という論文(Essays on Aris-totle. ed. by A.O. Rorty, University of CaliforniaPress. 1980所収)を書き,〈to pros ta telos〉が「目的のための手段」ではなく,「目的の構成要素」を意味しうるとしてこの箇所から,諸目的に関する「選択と熟慮」が可能となる解釈を切り開いた。ヌスバウム(Nussbaum)もそれにしたがっている。ヌスバウムは自らこう語っている。「ひとの生の究極的なさまざまな目的(複数)について理性が熟慮することを拒んでおいて,熟慮が,複数で共約不可能なさまざまな善についての理解と処置をすると考えるかも知れない。実際,あるアリストテレス解釈者たちはこの考えを支持している。かれらはeudaimoniaの構成要素(複数)たる究極諸目的(複数)は非合理な直観�,権威あるいは伝統によって把握されると思っているのである。WigginsとRichard-sonは私にとって満足なことに,アリストテレスがこの考えを支持していないと考えている。実に,『ニコマコス倫理学』の全体が,究極諸目的の合理的熟慮の例そのものなのである。」(Martha. C. Nussbaum, Vir-tue Ethics: A Misleading Category? p. 184. TheJournal of Ethics1999)註�には,例えばとして,クーパーの名前がでてい

て,その著書John Cooper’s Reason and Human Goodin Aristotle (Cambridge, MA: Harvard UniversityPress, 1971)があがっている。後者の権威や伝統によって握握するという側には,マッキンタイヤー(A.MacIntyre)やウィリアムズ(B. Williams)が考えられていることが,続きを読むとわかる。このヌスバウムの「徳の倫理学:ミスリーディングなカテゴリー?」は面白いと同時に論争状況を知るのに大変役立つ論文である。彼女の立場と,対立したり同類ではあるが微妙に異なる立場との位置づけがわかり易く説明してある。彼女はこんなユーモラスな話を紹介する。1999年時

点での話であるが,アメリカの医療倫理のクラスで若い医者たちは倫理上の問題を解決するのに3つのアプ

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ローチがあることを学ぶという。もちろんカントアプローチ,功利主義的アプローチそしてわが〈徳倫理学(virtue ethics)〉アプローチである。もっとハイレヴェルなアカデミックな倫理の本もこの三分法に支配されつつあるそうである。かくして,古代ギリシャの倫理理論を研究している人は,徳の倫理学(virtueethics)のエキスパートとして,(ゲストとして講義をするか,病院にアドヴァイスするか,ラジオでおしゃべりするかの)レギュラーとしてお呼びがかかることになるのだそうである。この論文の趣旨は,〈virtue ethics〉というくくり

方は,意味を成さないカテゴリーミステイクであるから,呼ぶなら新アリストテレス主義〈neo Aristote-lian〉のほうがいいという趣旨説明である。また1970年後半のハーバードの女性グループ(Sherman, JeanHampton, Louise Antony, Koorsgaadの全てが大学院の学生で,HermanとAnnasが大学院を卒業したてで他大学で教師の職を得て,Susan Wolfと私が助教授だった頃)「モラルフィロソフィーに貢献するためには女としては何をしたらいいか」と皆自問していたことを思い出すなどと,当時の自分たちの動向の紹介があったりして興味深く読める希少な類の論文である。最期に,究極目的へのもうひとつの迫り方として,

「願望」をてがかりにする立場がある。究極目的は,熟慮や選択の対象ではなく,まずは,「理性的願望(boule‾sis)」の対象であると言われている(第三巻第二章1111b20―30)。アーウィンは,この理性的願望を経由して諸目的の

選択と熟慮を導くという道を辿る。Cf. T.H. Irwin:Aristotle on Reason, Desire, and Virtue. The Journalof Philosophy, October2,1975. & First Principles inAristotl’s Ethics. Midwest Studies in Philosophy, III(1978)。アーウィンの論文,特に二つのうち前者は,行為を主導するのは欲望か理性かという問いに答えるという形をとっている。アリストテレスは,理性ではなく欲望が行為を主導するとするヒューム主義者かいなか,当時のデイヴィッドソンの問題意識の上での議論である。答えは,『ニコマコス倫理学』の習熟論をとると主宰者は欲望(epithumia)になるからアリストテレスはヒューム主義者だ,ということになる。しかし第三巻第二章の願望論によれば,理性的欲求(boule‾sis)が目的の主宰者となるから,アリストテレスはヒューム主義者でない。アリストテレスの真意は後者にある。よってアリストテレスはヒューム主義者ではないことになる。ここから,アーウィンは立場をかためたようである。

第二の論文で,理性的願望を,始まり(arche‾),の問題と絡ませることで,〈boule‾sis〉と第一原理,前提(hypothesis)との関係を解き明かす試みをしている。究極目的の把握可能性,それに関する選択や熟慮,

のかかわりという根本的なテーマに関して解釈が大きくあるいは微妙に分かれているのである。それぞれが,アリストテレスの議論の理解可能性を求めて行為の幸福・究極目的・諸目的に関していろいろな切り口で道を開こうとしていることが分かる。筆者は,ヌスバウ

ムやウィギンズそしてリチャードソンなどの道に傾いている。

2.NE1095b32―1096a2:加藤信朗訳による。(徳)の補完と文字強調は筆者による。

3.NE1153b17―23:加藤信朗訳による。4.cf. T.H. Irwin: Permanent Happiness: Aristotle andSolon. in Aristolte’s Ethics. p.5. ed. by Nancy Sher-man. Rowman & Littlefield, 1998.初出はOxfordStudies in Ancient Philosophy, vol 3, ed, Julia An-nas.1985年p. 89―124。西洋古典叢書『ニコマコス倫理学』朴 一功訳,第一巻第五章,註�,15頁参照。第七巻第十三章,註�,347頁参照。京都大学学術出版(2002年)

5.註4にあげた,朴 一功訳『ニコマコス倫理学』同註を参照。

6.J.M. Cooper: Reason and Human Good on Aris-totle. p.126―7. Cambidge.1986.また,〈happiness〉という「主観的心理状態」を意味する英語の訳語としての不都合の指摘,子供には不可能な人間の最盛期における,持てる能力の全開発揮を意味しうる〈flou-rishing〉が最適な英訳候補であることに関しては,同書p.89―90.のnote1に詳しい。

7.Julia Annas: Aristotle on Virtue and Happiness, InAristolte’s Ethics. p. 43―46. ed. by Nancy Sherman,Rowman & Littlefield, 1998. Irwinの,解釈とCooper批判は以下の論文を参照。T.H. Irwin: PermanentHappiness: Aristotle and Solon, in Aristolte’s Ethics.Ibid. p.5―7and notes9. p.29. & note12. p.30

8.Martha C. Nussbaum: The Fragility of Goodness,Cambridge,1986高橋久一郎訳でこの本の一部分が「幸福な生活の傷つきやすさ」として訳出されている。(『現代思想』8. vol.27―29,1999年)9.John. M. Cooper: Aristotle on the Authority of“Appearances.” In Reason and Emotion. p 281.Princeton.1999

10.T.H. Irwin: Book Reviews Martha Nussbaum: TheFragility of Goodness. The Journal of Philosophy,No.7, p.376―383.1988

11.T.H. Irwin: Permanent Happiness: Aristotle andSolon. Ibid. p.14

12.Ibid. p.1113.Ibid. p.914.T.H. Irwin: Book Reviews Martha Nussbaum: TheFragility of Goodness. p.381. The Journal of Philoso-phy, No7,1988

15.「プルーデンスとフロネーシスの間」195頁。千葉大学教育学部研究紀要,54巻,2006年

第三章�註

1.「プルーデンスとフロネーシスの間」196頁。千葉大学教育学部研究紀要,第54巻,2006年

2.Tragedy and Self―Sufficiency: Plato and Aristotleon Fear and Pity. P.108―109. & p.154―155. Oxford

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Studies in Ancient Phlilosophy.1992. p.107―159. A.O.Rortyの 編 に な るEssays on Arstotle’s Poetics,Princeton.1992.がこの論文を再録している。p.261―2903.Martha C. Nussbaum: Fragility of Goodness. Thebetrayal of convention: a reading of Euripides’Hecuba. p.397―421

4.『ニコマコス倫理学』第九巻,特に9―12章5.桜井万里子「古典期アテナイにおけるアテネ市民にとっての他者―その他者認識の変容とトラシュブロスの第1決議」,『歴史学研究』46―63頁。歴史学研究会編集 1986.6.No. 594.青木書店。この論文に,バルバロイ,クセノス,メトイコイ等の他者がアテナイ市民にとってどういう意味をもっていたかという観点から,社会的歴史的に詳しく論じられている。とくにその�節「クセノイとの友好関係の形成と公的制度への包摂」が,ヌスバウムが論ずるヘカベとポリュメストルの関係をよく説明してくれて興味深い。

「非ギリシャ人を指す語がバルバロイであるならば,アテナイ以外のギリシャ人一般はクセノイ(外人)と呼ばれた。彼らは,アテナイ内に居住した時には,後述のようなメトイコイ身分に所属したが,アテナイの外に留まる限り,クセノイであり,アテナイを訪れても,短期間の滞在者であれば,依然としてクセノイでしかなかった。クセノイの意味に,「見知らぬ外人」と「客人

―相互歓待関係にある外人」との2種があることは,一般に指摘されている。しかし,クセノイに含まれていたこれらの両義は,その時々に応じて適当に使い分けられたのではなく,〈客人〉の意は,ホメロスの時代以来の社会慣行(クセニア)の中で使用されていたことを,最近へルマンが明らかにした。ヘルマンはこの慣行を儀礼的友好関係(ritual-

ized friendship)という語で呼ぶ。儀礼的友好関係は,ヘルマンに従えば,相異なる社会あるいは共同体の出身である二者の間の連帯の絆であって,具体的には,財と奉仕の互酬として現れる。この関係には親族関係に類似した特徴があり,親族間と同様な情愛の存在が想定され,いずれか一方が困難に遭遇した時には,他方が保護を提供した。」同論文,49―50頁。「自己の共同体に所属しない部外者が,〈見知らぬ外人(クセノイ〉から〈客人(クセノイ)〉に変貌するのであれば,この変化はどのようにして生じたのであろうか。まず,「見知らぬ外人」同士の敵意を解消するための儀礼,すなわち,誓約(pistis)の交換や握手(dexia),あるいは相互の力関係によっては恩恵(euergesia)や嘆願(iketeia)の提供が行われる。これらの授受は多くの場合,神々への誓いや灌奠の儀礼をともなう。次いで,贈物の交換が相互に行われるが,この贈物は,価値はそれ程ないが象徴的な意味を有する物,たとえば,槍や割符や書簡のような物である場合も,多額の金銭や土地である場合もあった。

その後に共同の食事,宴会が続くが,これは必ずしも不可欠ではなかった。儀礼的友好関係,クセニアの関係はこのようにして成立した。」同論文,50頁。この論文は,ヘロドトスやアイスキュロスの時代に

は外人蔑視的な眼で他者,外人を見ることがなかったのに(『歴史』や『ペルシャ人』を参照),前490年にはじまるペルシャ戦争以後,ギリシャ人対バルバロイという対概念が政治的意味合いを持ち始め,「前451年にいわゆるペリクレスの市民権法が成立し,この時に,アテナイは市民共同体ポリスの閉鎖性を高度なまでに完成させた。」(同論文,46頁。)という観点より論述されている。『ヘカベ』は,トロイア戦争にまつわるエウリピデスの手になる悲劇で,トロイアとトラキアにかかわる話だが,クセノイ(客人)の意は「ホメロスの時代以来の社会慣行(クセニア)の中で使用されていた」とあり,またエウリピデスによる現行慣習の投影という部分もあるかもしれないが,この説明はヘカベの善き性格が悪しき性格へと変成する遇運の力を積極的に説明して余りある。ここは邪悪であり,幸福の多寡でもゼロ度でもない。

魂が人間から獣になった,善きひとが邪悪に変心したのであり,善きひとが犬に変身したといっているのである。

6.ヌスバウムは,ヘカベの物語りを採録するオヴィディウスの『変身物語』(第十三巻)が,ビザンティン期には学校のテキストとして使われ,また遇運による性格の退廃の典型として,ダンテの『神曲』(地獄篇第三十歌)などを通じて,『ヘカベ』は高く評価されていたのに,18世紀に入って,悲劇の中でも最もつまらないものとして扱われたという。カントのことをいっているのである。善き意志の不朽不滅と道徳的人格から偶然を消去する道徳哲学の支配をいっているのである。同書399頁参照。(伊) Ecuba trista, misera et cattiva,

poscia che vide Polissena morta,e del suo Polidoro in su la rivadel mar si fu la dolorosa accorta,forsennata latro s�` come cane;tanto il dolor le fe mente torta.

(Inferno. XXX.16―18)(英) then Hecuba was wretched, sad, a captive;

and after she had seen Polyxenadead and, in misery, had recognizedher Polydorus lying on the shore,she barked, out of her senses, like a dog―her agaony had so deformed her mind.

ヌスバウムが註で引いている,『神曲』の該当部分のイタリア語を見てみたら,当たり前のことかもしれないが,日本語訳に比して,空間配置を含めて,あまりに語の並びが簡素で美しいので原文を載せてみた。ヌスバウムは,最後の行を正しく訳している唯一の伊英対訳として,Allen Mandelbaum版を推挙している(Inferno Dante, University of California Press

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1982)。「ポリュクセナが死んでいるのを見た後,波打ち際にポリュドロスを絶望とともに認めたあと,心を狂わせ,犬のように吠えた」と流れてきて,それを受けて「〈tanto そんなにも〉その悲しみ(il dolor)は,彼女の心を〈torta :歪に〉した」に終結するのである。この最期のヌスバウムにとって一番重要な遇運による心の変貌(捻じ曲げられること)を示す“le fe mentetorta.”(〈le ...mente:彼女の心を〉〈fe ...torta:歪にした〉)という箇所を,たんに〈wrung:悲しませた/圧搾した〉という風に上記Mandelbaum版以外は訳しているからであるという。

7.Nussbaum. Ibid. p. 417―418.の対応した箇所である。

8.Ibid. p.4189.Ibid. p.41910.『ニコマコス倫理学』加藤信朗訳。第一巻第十章訳者註参照。Nussbaum. Ibid. p. 329.彼女によれば,eudaimonia と makariote‾sを区別するようになったのは,当時〈カントの影響を受けた(Kant―influ-

enced) Sir David RossとH.H. Joachimの注釈者による〉という。またこれに対しては,アーウィンが,ブックレヴューで反論している。Irwin. Ibid. p. 383.note10

11.Nussbaum. Ibid. p.418―41912.G.W.F. Hegel: Grundlinien der Philosophie desRechts. §139. Zusaz. S. 264. Werke 7. Suhrkamp.1996. ヘーゲル:『法の哲学』§139:追加(悪の根源),347頁,藤野 渉/赤澤正敏訳 世界の名著,35.昭和42年,中央公論社。日本語訳は趣旨の合うように筆者が変えているところがあることを断っておく。

13.Ibid. S. 266.日本語訳。同書350頁。日本語版では,註は�で表記されているが,Suhrkampのドイツ語版は,(*)で表記している。cf. Pascal: Les Provinciales,quatrieme lettre. p.60. Classiques Garnier

14.Hegel. Ibid. S. 266―267.日本語訳,同書 351頁。訳はアリストテレスの『ニコマコス倫理学』(加藤信朗訳)を参考にして,変更した箇所がある。アリストテレスが,正確に捉えられているのに驚く。

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