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深澤孝哉遺作展示 昨年の2019 (令和元)年10月9日に急逝された深澤孝哉先生の学生時代の作品から絶 筆までの10点の作品を第5室の一壁面に陳列し、長年に渡る画業の軌跡のごく一部 を紹介し顕彰いたしますと共に、長年に渡り当会に多大な貢献をし続けてきた故人 を追悼いたしたいと思います。また本展示にご協力頂きました深澤先生のご遺族と 日動画廊他、関係の方々にこの場を借りて謝意を表します。 白日会

深澤孝哉遺作展示深澤孝哉遺作展示 昨年の2019(令和元)年10月9日に急逝された深澤孝哉先生の学生時代の作品から絶 筆までの10点の作品を第5室の一壁面に陳列し、長年に渡る画業の軌跡のごく一部

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Page 1: 深澤孝哉遺作展示深澤孝哉遺作展示 昨年の2019(令和元)年10月9日に急逝された深澤孝哉先生の学生時代の作品から絶 筆までの10点の作品を第5室の一壁面に陳列し、長年に渡る画業の軌跡のごく一部

深澤孝哉遺作展示

昨年の2019(令和元)年10月9日に急逝された深澤孝哉先生の学生時代の作品から絶筆までの10点の作品を第5室の一壁面に陳列し、長年に渡る画業の軌跡のごく一部を紹介し顕彰いたしますと共に、長年に渡り当会に多大な貢献をし続けてきた故人を追悼いたしたいと思います。また本展示にご協力頂きました深澤先生のご遺族と日動画廊他、関係の方々にこの場を借りて謝意を表します。

白日会

Page 2: 深澤孝哉遺作展示深澤孝哉遺作展示 昨年の2019(令和元)年10月9日に急逝された深澤孝哉先生の学生時代の作品から絶 筆までの10点の作品を第5室の一壁面に陳列し、長年に渡る画業の軌跡のごく一部

 白日会第四十七回展の第一室の印象は、今だに鮮明な残像を脳裏に刻み込んでいる。滞佛生活を終えた深澤孝哉が、すでに白日会に所属していた野田弘志に推薦され、白日会では類例の無い鮮烈な色彩溢れる、三点の風景画を出品したからである。後に阿方稔、小島俊夫と続く日展不出品の一派を形成する契機となった。 従来、白日会は日展傘下団体として歴史を重ねて来た澱みに、この数名は新風を吹き込み、爾

来らい

白日会は二重構成の体制をとることになる。漸

ぜん

増ぞう

する不出品組は、若い世代の参加も併せて、旧態を大いに刺し

戟げき

し、共に今日では写実の王道を歩む研究団体として強力な位置を固めるに至った。 曾

かつ

て白日会に新たな視野を齎もたら

した野田も個の存在を目指してすでに袂を分かち、良識派の小島も宿しゅく

痾あ

の末に去り、中庸の深澤も突如殪

たお

れた。 深澤も日動画廊主催の第八回昭和会賞を受賞するなど華やかな存在であったが、会の事務所を担当したり、白日会史の編

へん

輯しゅう

の資料集めに奔走する中で、創作活動への時間配分を削がれたのは大きなジレンマになった事だろう。 白日会史Ⅰの上梓に参画した深澤の功績は大きい。剰

あまつさ

え、現在に至る迄の第二巻を九十五周年記念事業として上梓する旨の確約を果し得なかった無念さは察して余りあるが、釈明は一際無かった。当然現存作家も扱う第二巻となれば、外部のライターであれば未だしも、内部での執筆は誰しも躊

た め ら

躇う仕事の筈である。当然第二巻の案件は頓挫してしまった。 深澤斃

たお

れるの一報は唐突であった。折しも静岡支部展の懇親会の席上、祝辞の最中とのことであった。一週間後、八十二年の生涯を閉じた。それにしても、平生から話術の巧みな深澤はユーモア交じりの長広舌が得意であったから、失礼ながら彼に相応しい終焉であったとも言えよう。常任委員会の席上でも、常にユーモラスな論客振りを発揮し、場の雰囲気を柔げて呉れる人柄は人々の敬愛を集めた。堂々たる体躯を誇り、髭と蝶ネクタイ、特製のステッキ姿を、ケンタッキーフライドチキンのシンボル像に擬

なぞら

えて己の表現材料に托した。 会としても、私個人としても、惜しみて余りある逸材であり、喪失感は日を追って深まる反面、最後に立会えなかった私としては、現実の把握からも遠いまゝで居る始末である。

追悼 深澤孝哉中 山 忠 彦

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深澤孝哉(ふかざわ たかや) 略歴

1937(昭和12)年 神奈川県横須賀市に生まれる。1956(昭和31)年 神奈川県私立栄光学園高等学校を卒業。1961(昭和36)年 東京藝術大学油絵科を卒業(林武に師事)。1963(昭和38)年 東京藝術大学専攻科を修了。1965(昭和40)年 フランス国立パリ高等美術学校に留学、モーリス・ブリ

アンションに師事。1967(昭和42)年 国立パリ近代美術館コンクールにて第2席を受賞。1971(昭和46)年 帰国(1968年)後、第47回白日会展に初出品、会員に推挙。1973(昭和48)年 第8回昭和会展(日動画廊)に出品、昭和会賞を受賞。 日動画廊にて個展(銀座・名古屋)。その後、名古屋、大

阪、福岡の日動画廊での個展多数。 銀座三越にて個展。 第16回安井賞展(池袋・西武百貨店)に出品。1975(昭和50)年 白日会26人展(第1回三越選抜展、以後毎年)。1976(昭和51)年 スペイン、カナダ、インド、ネパール(エベレスト)、タ

イ、ビルマ(ミャンマー)他東南アジアへ取材旅行。※後年、ソビエト(ロシア)、スペイン、オランダ、メキシコ、シルクロード、イギリス、北アフリカ、ネパール他、世界各地を取材旅行。

1978(昭和53)年 第54回白日会展に「バラナシの水浴」(800号)にて、白日会第1回内閣総理大臣賞を受賞。

1979(昭和54)年 白日会第五十五回記念展に「ダンテの主題による神曲習作」(1500号)を出品。

『白日会史Ⅰ』を上梓。1985(昭和60)年 白日会常任委員に就任。1990(平成2)年 ゴッホ没後100年記念講演の為渡欧。1993(平成5)年 『ゴッホから学ぶ絵画テクニック』(※以降、モネ・セザ

ンヌ・ゴーギャン・ルノアール)上梓。1994(平成6)年 白日会第七十回記念展に「サラゴーサの風」で中沢賞受賞1997(平成9)年 日本橋三越本店にて個展(ʼ04)。 音楽活動開始。コンサートにて「アイネ・クライネ・ナ

ハトムジーク」指揮。1998(平成10)年 白日会特陳依頼(オッド・ネルドルム氏作品拝借交渉)の

為ノルウェー出張。2003(平成15)年 白日会副会長就任。2004(平成16)年 第1回「桃花の会」(ʼ09まで毎年、中山忠彦他)髙島屋(東

京・大阪・京都・名古屋)。2019(平成31)年 白日会第九十五回記念展に「城跡の見える丘(トルコ)」

で、第九十五回記念展賞受賞。  (令和元)年 白日会最高顧問に就任。

10月2日静岡支部展の懇親会挨拶中にて昏倒、10月9日脳出血にて静岡市の病院にて逝去。享年82歳。

主な作品収蔵先最高裁判所 横須賀市文化会館 横須賀市はまゆう会館 横須賀市総合福祉会館 笠間日動美術館 佐久市立近代美術館 竹井美術館 栄光学園 パームビーチホテル青島 伊東市 他 ※収蔵時の名称で統一

2018年 誕生会にて

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 中学生であった深澤孝哉は懇意にしていた先輩の自宅に招かれた際、壁に掛けられたモーリス・ド・ブラマンクの油絵と偶然出会った。強い衝撃を受けた。深澤孝哉は画家になると決意した。 「青い服の女」は、学生時代の作品で、若々しい深澤の詩情を宿した、手元に残る数少ない青年時代の作品の一つである。 深澤は東京藝術大学に入学、林武に師事し級友と多くの親交を交わした。同専攻科を修了後、パリ国立高等美術学校(アカデミー・デ・ボザール)のモーリス・ブリアンション教室に入学、フランスアカデミズムの色彩造形を積極的に学んだ(参考図①)。なおブリアンション教室からは、フランス画壇と日本洋画壇に著名な作家が多数輩出されてい

 帰国後3年を経て34歳となった深澤は白日会第47回展に初出品した。野田弘志の紹介と聞き伝わっている。伊藤清永と小堀進に将来を大きく期待され、初出品にて会員推挙となったという逸話がある。翌年には日動画廊で昭和会賞

深澤孝哉遺作展示 解説

る。深澤はサロン・ドートンヌを始めとするパリの美術展に精力的に出品、パリ近代美術館コンクールでは第2席を受賞した。 「セーヌ河 ポンヌフ」は留学時代に現場で描かれた作品であろう。また「リュクサンブール公園(パリ)」は、帰国後に取材を元にした制作であると思われるが、留学修業の成果を反映した佳作となっている。「教会のある風景Ⅱ(スペイン)」は、それらに繋がる大作であるが、本作はちょうど白日会に出品する頃の作品である。当時の深澤は同傾向の色彩構成的な作品を多作しており、白日会出品前に伊藤清永の元に多量の作品を持ち込んで観てもらったとのことであるが、これらはその時の作品群を想像できるものではないだろうか。

を受賞。さらに白日会第54回展にて第1回内閣総理大臣賞を受賞。第五十五回記念展では1500号の巨大大作「ダンテの主題による神曲習作」(参考図②)を出品し、『白日会史Ⅰ』(参考図③)を上梓した。この間、世界各地に取材旅行をし、

前期

中期

「青い服の女」 「セーヌ河ポンヌフ」 「リュクサンブール公園(パリ)」 「教会のある風景Ⅱ(スペイン)」

「ある女の肖像」 「ある画家の肖像(エドワルド・ナランホ)」

「マリアンヌ」

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 第七十回記念展を過ぎるあたりから今まで培ってきた色彩造形と写実表現を融合した山岳風景を主題に据えてきている。また小品では、風景、花や静物、人物、恩師の肖像など、多彩なジャンルを展開し腕を振るっており「薔薇譜」ではそうした力量が窺える。 白日会展の出品作では、「朝光(ヒマール サライⅧ)」を典型とする主にエベレスト風景をモチーフとした連作の発表を続けた。西東洋の分水嶺的なインドのヒマラヤ山脈に仮託して、西洋的な造形効果と東洋的の空気感ある表現が相まみえるかのごとき世界の表出に向かおうとしたのではないかと推測する。 会運営では、第七十五回記念展の特別陳列であった、伊

藤清永前会長の肝いりの「オッドネルドム展」開催に向けて、一昨年(平成30年)に逝去した平澤篤と共にノルウェーに飛んだ。前会長伊藤清永没後、中山忠彦現会長の体制移行期に、定款の制定等の新体制作りに尽力し、副会長として会の内外共に大きな役割を担った。後年は持病で2度ほど死地をさまよったがその度に復活し強靭な生命力を示した。 作家深澤孝哉としては、大主題大課題に取り組みながら老年に向けてさらに画境が進み深まり行く過程にあったが、大変残念ながら昨年10月に急逝した。享年82歳。白日会第九十五回記念展にて第九十五回記念展賞を受賞した「城跡の見える丘(トルコ)」が絶筆となった。

後期

日動画廊や三越を中心に発表した。 第60回展から第61回展にかけて、伊藤清永は白日会の大幅な機構改革を行い、深澤は新設の役職である常任委員となり事務所も兼任した。深澤は当時課題が満載していた会運営の立て直しを中心的に務め、その後も会運営と指導に尽力し、また側近として伊藤清永を補佐した。 白日会に出品し始めた深澤の作品は、パリ時代の表現を

脱皮し、西洋的なアレゴリー(寓意)も含み合わせた人物群像画に取り組みながら写実的傾向を強めていく。第59回展「ある女の肖像」、第62回展「ある画家の肖像(エドワルド・ナランホ)」、第67回展「マリアンヌ」の各出品画は、一種独特なそして極めて個性的な存在感を示しているように感じられる。作家活動と会運営と共に、深澤孝哉の旺盛な活動時期であった。

「薔薇譜」 「朝光(ヒマールサライⅧ)」 「城跡の見える丘(トルコ)」

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参考図②「ダンテの主題による神曲習作」1500号(150号縦4枚組) 佐久市立近代美術館蔵

白日会第五十五回記念展に出品した巨大大作であり、代表作の一つ。1960年代に席巻したカラーフィールドペインティングを彷彿とさせる大画面に、イタリア古典文学のダンテの『神曲』の地獄編、煉獄編、天国編の3部作それぞれの場面を一幅の絵巻物のように描いたかのようだ。こうした巨大構想画は西洋絵画の伝統的表現であるが、42歳の深澤はそれに挑んだのであった。当時、白日会の出品者は少なく、深澤がこの作品を出品して壁面を埋めたという逸話が伝わっている。

 深澤孝哉先生は、ほぼ半世紀に渡り会の指導と運営を中心的に荷なわれてきた。先生の後半生の在住地であり関係の深かった静岡支部の支部展懇親会の挨拶中に倒れられ帰らぬ人となった。深澤先生の半世は白日会と共にあった。深澤先生の代表作や優品は多くの方の手に渡りあるいは寄贈されているが、この度娘さんの山本世花さんのご好意により、残された作品から10点を白日会第96回展にて紹介できることになった。これら遺作展示作品を元に、深澤先生

の作家としての軌跡のごく一部を簡略ながら解読解説し、当会と深澤先生の関わりの一端をご紹介できればと思い本拙文を起草した。なお失礼ながら本文個人名の敬称は略させて頂いた。 本遺作展示が、作家深澤孝哉と白日会の深澤先生としての追悼となり、ささやかなる記録となれば幸いである。

会員・常任委員寺久保文宣

補記

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参考図①「女性像(仮題)」ブリアンション教室での制作とみられる60号の作品。ほぼ抽象画と見える作品だが女性像であり、ブリアンション教室の造形感覚が窺われる。モーリス・ブリアンション(1899~1979)は、19世紀フランスアカデミズムの伝統を継承しつつマチスとボナールに私淑した画家であり教育者であった。ブリアンション教室から、フランスではポール・ギヤマン、ベルナール・カトラン、アンドレ・ブラジリエ等、日本では笠井誠一、進藤蕃、入江観等を輩出している。

参考図③『白日会史Ⅰ』深澤に一任されて制作されたと伝わる。白日会創立の経緯から第30回展までの各年度が資料に加え時代状況や美術状況も織りなしながら先達の発言や行動が小説のごとく書かれた貴重な歴史的資料である。著述者は無記名。本文後に当会の会章である「八咫烏」という一文が深澤自身の記名によりある。ちなみに現在使われている八咫烏の会章はこの『白日会史Ⅰ』の巻箱の印である。深澤には続編の『白日会史Ⅱ』の執筆が期待されていたが残念ながら未完となった。

 

折5

NC

会日白