20
63小学校 1年生、〈困った質問〉に向き合い続けて ――文学教育を拓く、今日の「国語科」の課題―― 法政大学文学部兼任講師 須貝 千里 問題提起として(始まりとしての「三日月」を めぐる〈困った質問〉) (1)「おうち」の孔、〈物語〉の無限明滅に晒されて 昭和 30 年代始めの東京には戦災による焼け跡が残 っていた。わたくしの家は板橋区熊野町の川越街道の 傍にあった。その大通りを渡ると、だるま市場があっ た(と思う)。小学校 12 年生の頃、よく卵( )を買 いに行かされた。市場に入ってすぐ左側の店、卵は藁 屑に包まれ、木箱の中にあった。箱の中身はそれぞれ 大、中、小の卵に分けられていた。母()には大き いのを選んでくるように言われた。母の密命は、小の 卵の箱から大の卵を選ぶこと、一個 10 円の卵の箱か ら大の卵を選んで来い、ということであった。一個 15 円の卵を 10 円で買って来い、というのである。藁屑を かき回していると、店の人には嫌な顔をされるし、「そ んなにかき回したら割れるじゃないか。」と言われる。 すごい緊張で、うまく選べず、適当に選んで買って帰 ると、「エランデカッテコナケリャダメジャナイ」と叱 られた。これは、6 つや 7 つの子には無理なこと、少 なくともわたくしには無理だった。 市場の肉屋に 5 円のコロッケもよく買いに行かされ たが、この時には母の密命に打ちのめされることはな かった。 10 円のメンチを買ってくるように言われた時 はうれしかった。ナイフとホークが家になかったのが 残念だった。ナイフとホークで食べるのが洋食だ。こ のことはラジオで聞いた古今亭今輔のおばあちゃん落 語で知った。憧れた。ケチャップは存在自体を知らな かった。チキンライスも存在自体を知らなかった。家 にソースはあったが、胡椒はなかった。まだコーラを 知らなかった。バナナは最高の憧れだった。ショート・ ケーキもだ、な。 我が家は杉板張りの総二階、戦前からの建物であっ た、とのこと。空襲で焼け残り、玄関は硝子の引き戸、 その左横に須貝建築・測量事務所という看板がペンキ で書かれてあり、そのペンキはところどころ剥げて薄 くなっていた。賃貸だったようであるから、もともと は何かの事務所か、お店か、だったのだろう。だから 玄関はかつての事務所スペースでコンクリート敷き、 入ると、場違いに広々としていた。右端に自転車とラ ビットが置いてあったが、寒々しかった。 父()は茨城県の潮来の人で、早稲田大学を卒業 すると同時に「特甲幹」として応召、海南島で終戦を 迎え、復員した、とのこと。わたくしが父から断片的 に聞いていたことによると、あちこち建築関係で働い ていたようであるが、建築・測量の個人会社を開業し たこともあったらしい。看板はその名残だったのだろ う。会社はわたくしが物心ついたころには廃業してい た。理由は聞いていないし、わたくしには事務所だっ た記憶はない。ということで、わたくしが小学生の時 には、父は 30 代になったばかり、丸の内の連合軍司令 部に勤めていた。あるいは、もう府中基地の第 5 空軍 司令部に移っていたのかも知れない。学校の個人調書 の職業欄には「一級建築士」と書いてあった。「イッキ ュウケンチクシ」は職業ではないのに? このことを問 い質したことはない。罪悪感があったのだが、言って はいけないこととして心得ていた。1年生なりに気を 遣っていた。 わたくしは、父、母、爺さん、妹と暮らしていた。 爺さん()は 50 代後半、年金暮らしの元巡査で、 父が大学生の頃には辞めているらしかった。茨城から 夫婦で、大学に入った息子とともに上京し、暮らすよ うになった。不祥事を起こして、酒をめぐるトラブル らしかったが、わたくしが爺さんを意識するようにな った時にはいつも家にいた。婆さん()はいなかっ た。わたくしの生まれる前に死んでいた。父の母とは、 爺さんが入り婿として結婚していた女性と別れ、結婚 したのである。先妻との間には女の子が一人いて、わ たくしは全く知らないことであったのだが、戦後、一 度だけ板橋の家に来たことがあるそうである。この話 を父から聞いた時、会ったことのない伯母さん(のことを思い浮かべようとしたが、カオナシだった。 どこかに親戚がいるのだろう。今、住んでいる町田の 家のすぐそばにもう一軒、須貝さんの家があるが、我 が家と全く関係はないらしい。いまでは本籍地は茨城 県から東京都に移してしまったので、こうしたもろも ろのことはどうでもいいことにされ、伝承されること はないだろう。父の母、爺さんの妻のことだが、昭和 24 年、近くの日大病院に歯の治療で通っていて、白血 病で死んだ。死因が納得できないだけでなく、霊安室 に遺体を安置することもなく送り出そうとする、病院 の死者に対する扱い方に不信感を抱いた夫、爺さんだ

文学教育を拓く、今日の「国語科」の課題―― 問題提起として( … · ら大の卵を選んで来い、ということであった。一個 15 円の卵を10

  • Upload
    others

  • View
    0

  • Download
    0

Embed Size (px)

Citation preview

Page 1: 文学教育を拓く、今日の「国語科」の課題―― 問題提起として( … · ら大の卵を選んで来い、ということであった。一個 15 円の卵を10

-62-

るグループワークを自分も教員になったらやってみた

いと思った。」(第 9 回)などの声があった。学生は、

それまでの学校生活の中で、ペア活動やグループ活動

で有意義な学び合いにはならなかったことを経験して

いる場合もある。話し合うことによって、自分にはな

い視点をもてるということ、対話をすることによって

新たな視点に気付かされたり、新たな考えが生み出さ

れたりすることがあることを、学生らが本授業の中で

経験できたことは意義がある。 本授業では十分には触れられなかったが、現場では

校内委員会なども含め、ケース会議(カンファレンス)

を行い、一人の子どもについて、さまざまな人たちが

集まって、目的に応じて話し合っていくことで、子ど

も理解を深め、指導・支援に関する検討をしている。

受講生には、一人で検討するのではなく、複数で話し

合い、理解を深めていくことのよさを、教職課程の中

で学び取り、学校現場で実際に生かしてほしいと考え

る。 第 3 に、学生は学びを通して生活を作り替える経験、

自分を作り替える経験をすることがあり、学生にとっ

てどのような学びの経験が大切となるのかを考え、意

識して、授業をつくることが必要となる点である。 授業では、「今までの自分の考えが変わることが多々

ありました。」(第 14 回)と記してくれた学生がいた。

また、「私は授業をきっかけに、生徒を受け持った時に

伝えたい絵本を探すようになりました。」(第 14 回)、

(パソコンのプレゼンテーションソフトなどで使用す

る)「フォントで、UD デジタル教科書体が見やすいと

いう話がされたときから、ゼミのレポートなどでもこ

のフォントを使って打ち込むようにしました。」(第 9回)などの声もあった。学びを通して、自分を作り替

える経験、生活を作り替える経験をしていることがう

かがえる。 また、「私はもし教師になったとしたら、一人ですべ

て解決するということは不可能だと思います。周りに

相談できて、みんなで解決していけるようなことを体

験したいと思いました。このことは仕事だけでなく、

普段の学校生活の中でもできると思うので、今後、何

かに悩んだりしたら、友だちや自分の知っている誰か

に相談してみたいし、逆に相談されたらいっしょに悩

んでいきたいです。」(第 14 回)との感想もあった。本

授業は教職課程に位置付けられているが、学んだこと

は実際の生活に生かされていくことにもなる。 学生にとって本授業で学ぶことがどのような経験と

なるのかを意識して、授業をつくっていくことが求め

られる。そして、そのためには、学生理解を深めるこ

とが授業者に必要となることにあらためて気付かされ

た。

註 ⅰ 東京都の公立小・中学校の特別支援教室とは、通常

の学級に在籍する発達障害又は情緒障害のある児

童・生徒を対象として、発達障害教育を担当する教

員(巡回指導教員と呼ぶ)が特別な指導を行う教室

のことである。都内の公立小学校では、2016(平成 28 年)度から設置を開始し、2018(平成 30 )年

度には都内の全ての公立小学校に設置された。制度

上は、国の通級による指導に位置付けられるもので

ある。それまでの情緒障害等通級指導学級の制度か

ら特別支援教室へと変更し、児童・生徒が特別な指

導を在籍校で受けられるようになった。 ⅱ 戸田竜也(2015)12 ページより引用。 ⅲ NHK 健康 ch「【特集】発達障害って何だろう」のサ

イト(https://www.nhk.or.jp/kenko/special/hattatsu/sp_1.html)より。2020 年 1 月 21 日掲載確認。

ⅳ NHK for School の「u&i」のサイト(https://www.nhk.or.jp/tokushi/ui/origin/schedule/)より。2020 年 1 月 21 日掲載確認。

引用文献

戸田竜也(2015)『学級担任・特別支援教育コーディネ

ーターのための「特別な教育的ニーズ」をもつ子ど

もの支援ガイド』明治図書 中川ひろたか作、長谷川義史絵(2008)『おこる』金の

星社

-63-

小学校 1 年生、〈困った質問〉に向き合い続けて

――文学教育を拓く、今日の「国語科」の課題――

法政大学文学部兼任講師 須貝 千里

問題提起として(始まりとしての「三日月」を

めぐる〈困った質問〉)

(1)「おうち」の孔、〈物語〉の無限明滅に晒されて

昭和 30 年代始めの東京には戦災による焼け跡が残

っていた。わたくしの家は板橋区熊野町の川越街道の

傍にあった。その大通りを渡ると、だるま市場があっ

た(と思う)。小学校 1、2 年生の頃、よく卵( )を買

いに行かされた。市場に入ってすぐ左側の店、卵は藁

屑に包まれ、木箱の中にあった。箱の中身はそれぞれ

大、中、小の卵に分けられていた。母(👤👤)には大き

いのを選んでくるように言われた。母の密命は、小の

卵の箱から大の卵を選ぶこと、一個 10 円の卵の箱か

ら大の卵を選んで来い、ということであった。一個 15円の卵を 10 円で買って来い、というのである。藁屑を

かき回していると、店の人には嫌な顔をされるし、「そ

んなにかき回したら割れるじゃないか。」と言われる。

すごい緊張で、うまく選べず、適当に選んで買って帰

ると、「エランデカッテコナケリャダメジャナイ」と叱

られた。これは、6 つや 7 つの子には無理なこと、少

なくともわたくしには無理だった。 市場の肉屋に 5 円のコロッケもよく買いに行かされ

たが、この時には母の密命に打ちのめされることはな

かった。10 円のメンチを買ってくるように言われた時

はうれしかった。ナイフとホークが家になかったのが

残念だった。ナイフとホークで食べるのが洋食だ。こ

のことはラジオで聞いた古今亭今輔のおばあちゃん落

語で知った。憧れた。ケチャップは存在自体を知らな

かった。チキンライスも存在自体を知らなかった。家

にソースはあったが、胡椒はなかった。まだコーラを

知らなかった。バナナは最高の憧れだった。ショート・

ケーキもだ、な。 我が家は杉板張りの総二階、戦前からの建物であっ

た、とのこと。空襲で焼け残り、玄関は硝子の引き戸、

その左横に須貝建築・測量事務所という看板がペンキ

で書かれてあり、そのペンキはところどころ剥げて薄

くなっていた。賃貸だったようであるから、もともと

は何かの事務所か、お店か、だったのだろう。だから

玄関はかつての事務所スペースでコンクリート敷き、

入ると、場違いに広々としていた。右端に自転車とラ

ビットが置いてあったが、寒々しかった。

父(👤👤)は茨城県の潮来の人で、早稲田大学を卒業

すると同時に「特甲幹」として応召、海南島で終戦を

迎え、復員した、とのこと。わたくしが父から断片的

に聞いていたことによると、あちこち建築関係で働い

ていたようであるが、建築・測量の個人会社を開業し

たこともあったらしい。看板はその名残だったのだろ

う。会社はわたくしが物心ついたころには廃業してい

た。理由は聞いていないし、わたくしには事務所だっ

た記憶はない。ということで、わたくしが小学生の時

には、父は 30 代になったばかり、丸の内の連合軍司令

部に勤めていた。あるいは、もう府中基地の第 5 空軍

司令部に移っていたのかも知れない。学校の個人調書

の職業欄には「一級建築士」と書いてあった。「イッキ

ュウケンチクシ」は職業ではないのに? このことを問

い質したことはない。罪悪感があったのだが、言って

はいけないこととして心得ていた。1年生なりに気を

遣っていた。 わたくしは、父、母、爺さん、妹と暮らしていた。 爺さん(👴👴)は 50 代後半、年金暮らしの元巡査で、

父が大学生の頃には辞めているらしかった。茨城から

夫婦で、大学に入った息子とともに上京し、暮らすよ

うになった。不祥事を起こして、酒をめぐるトラブル

らしかったが、わたくしが爺さんを意識するようにな

った時にはいつも家にいた。婆さん(👵👵)はいなかっ

た。わたくしの生まれる前に死んでいた。父の母とは、

爺さんが入り婿として結婚していた女性と別れ、結婚

したのである。先妻との間には女の子が一人いて、わ

たくしは全く知らないことであったのだが、戦後、一

度だけ板橋の家に来たことがあるそうである。この話

を父から聞いた時、会ったことのない伯母さん(👤👤)

のことを思い浮かべようとしたが、カオナシだった。

どこかに親戚がいるのだろう。今、住んでいる町田の

家のすぐそばにもう一軒、須貝さんの家があるが、我

が家と全く関係はないらしい。いまでは本籍地は茨城

県から東京都に移してしまったので、こうしたもろも

ろのことはどうでもいいことにされ、伝承されること

はないだろう。父の母、爺さんの妻のことだが、昭和

24 年、近くの日大病院に歯の治療で通っていて、白血

病で死んだ。死因が納得できないだけでなく、霊安室

に遺体を安置することもなく送り出そうとする、病院

の死者に対する扱い方に不信感を抱いた夫、爺さんだ

Page 2: 文学教育を拓く、今日の「国語科」の課題―― 問題提起として( … · ら大の卵を選んで来い、ということであった。一個 15 円の卵を10

-64-

が、死んだ妻を背負って病院を出て、自ら手配した三

輪車の荷台に一緒に乗って家に帰った。これら爺さん

をめぐるエピソードは父から聞いた。爺さんと二人に

なった父は、母の死の半年後、卵の仲買人のマノさん

の紹介で結婚し、すぐにわたくしが生まれ、その 2 年

後に妹が生まれた。見合いをし、その後会うことなく、

家が本当にあるかどうかを自分で確認に来て、家があ

ったので、結婚したそうだ。これは母から聞いた。父

は 30 歳、母は 26 歳だった。その母は埼玉の東松山、

下青鳥の人で、戦時中、川越の鉄道病院の看護婦だっ

た。白衣の写真を見たことがある。 爺さんは妻の遺骨を死ぬまで納骨せず、65 歳で死ん

だ。仏壇は不気味だった。真っ黒の孔、底が見えなか

った。60 歳の時に脳溢血で倒れた後は、爺さんから、

それまでの常に何かを撥ねつけているような威厳、樫

の木のような無骨さは失われていた。爺さんは倒れた

後、調布に引っ越して 3 年ほど生きていた。よく迷子

になっていた。亡くなる半年ぐらい前には山芋掘りに

熱中し、朝から晩まで家の周りを掘りまくり、ある朝、

布団の中で死んでいた。これは、庭の水道のところの

バケツの中に、父が前日、多摩川で釣ってきた鯰がお

り、手を突っ込んで鰓のところを抑えたわたくしがト

ゲに刺された朝のことだった。そのナマズがその後ど

うなったのかの記憶はない。一度、居間と玄関の間の

廊下で、わたくしは馬乗りになった爺さんからナグラ

レたことがある。母が止めに入ったのを覚えている。

なぜ、そうなったのかはわからない。母も大変だった

のかも。その母にお線香で灸を据えられたことがある。

そのころはどの家でもそんなもんだと思っていた。 母は、わたくしが幼稚園に一人で通うことが出来な

かったので、一年間、教室の後ろで付き添っていた。

妹を背負って、眉間に皺を寄せた息子を見守っていた。

どういうわけかその時の母の写真が残っている。半纏

みたいのを羽織っていた。幼稚園に行っている間にウ

チがなくなる。家族が消える。この時に抱いていた根

拠のない恐怖感は今でも消えずに残っているのだが、

亡くなった母は妻や子にその時のことを話すことがあ

った。「センチャンハネ……」には参った。わたくしは

黙り続ける。その時の私に対する妻の目と子供たちの

沈黙が忘れられない。わたくしは相当な〈ジコチュウ〉

なのだろう。それぐらいなことは自覚している。その

時にも感じていた。しかし、止められなかったのだ。 家の近くには同級生の京子ちゃん(👤👤)、高橋君(👤👤)

がいた。京子ちゃんのお父さんは社長さんのお抱え運

転手で、高橋君の家はお風呂を薪で沸かし、御飯も竈

で炊いていた。高橋君とは、1 年生の時、通っていた第

七小学校の正門前で着ているものを全部自分で脱いで

帰ってしまった京子ちゃんの衣服とランドセルを持っ

て、家に届けに行ったことがある。きっとボクらが悪

かったに違いない。しかし、お母さん(👤👤)は「キョ

ウコハキガツヨクテ、ゴメンネ」と言っていた。助か

った。うれしかった。京子ちゃんはお母さんの後ろに

いた。三人でウスカワマンジュウを食べて、庭で遊ん

で帰った。家に帰ってそのことは言わなかった、と思

う。わたくしは、小学校 3 年生の 5 月に引っ越して、

調布の方に行き、転校してしまったので、それきり二

人とは会っていない。二人のような友達はその後でき

なかった。京子ちゃんのことは好きだった。そうだ。

中村君(👤👤)とは引っ越しする前の日、ハナジマのグ

ランド横の坂道で石けりをしていて、ボクの石が線を

超えたか、越えなかったかで喧嘩をしてしまった。中

村君は怒って帰ってしまった。ボクが悪かった。謝り

たい。と言っても、中村君ともあれから会っていない。

中村君のお父さんは練馬区役所に勤めていて、「ゴジラ」

は自衛隊の宣伝映画だと言っていたようである。中村

君の受け売りで、家でそのことを言うと、父は怒った

ような、怯えたような、何とも言いようのない嫌な顔

をしていた。「「ゴジラ」ハジエイタイノセンデンエイ

ガダ」、これは言ってはいけないことだったらしい。 家の隣には齋藤という名前の少し年上のお兄ちゃん

(👤👤)がいた。父も母もどういうわけだか分らなかっ

たが、このお兄ちゃんのことをあまりよく言っていな

かった。お兄ちゃん一家が、スピッツを飼っていた親

戚の家の、離れに間借り生活をしていたからかもしれ

ない。いじめられていた。そんな記憶はないのだが、

親はそう思っていたようだ。このお兄ちゃんとも転校

後、一度も会っていない。妹の友達には近くに晴夫君

(👤👤)がいた。栃木屋という酒屋の隣に住んでいた。

転校後の妹の友達のことは誰も思い浮かばない。そも

そも転校前も転校後も家にはあまり人が訪ねて来なか

った。転校後は、学校まで 4 キロも離れていて、同級

生はほとんどいなかった。家も周りに 1 軒しかなかっ

た。目の前は谷と林で、清水が流れ小綬鶏がいた。家

はハケ地の行き詰まりに立っていた。崖の上だ。住所

は、調布市入間町、名前ばかりの「成城高級分譲地」

だが、自然が残っていた。野犬( )の群れもいた。 熊野町の家の玄関の隣の台所には、玄関側の際に氷

の冷蔵庫があり。その右がガス台、そして、流しだっ

た。冷蔵庫の対面に手動式布搾り器付き洗濯機も置い

てあった。台所には簀の子が敷いてあった。いま気が

付いたことではあるが、ここも元は玄関部分と一続き

で事務所部分であったのだろう。玄関とは同一平面で、

玄関と台所から 60 センチぐらいかな、一段上がった

ところが廊下だったからだ。1 階の居間はこの廊下に

接した 8 畳ぐらいかな、炭の炬燵があった。その奥の、

湿っぽい、澱んだ空気の爺さんの部屋の押し入れには

-65-

テレビ(📺📺)が仕舞ってあった。14 インチの、サンヨ

ーの白黒だ。時々近所の人が見に来ていた。その時は

押入れを開け、見ていた。置いてあるところが上段、

畳に座って見るにはかなり高めだった。 テレビと言えば、わたくしがフランキー堺主演の、

C 級戦犯の問題を取り上げた「私は貝になりたい」を

観ていると、いや、たまたまテレビをつけていたにす

ぎないのだが、部屋に入ってきた父が「ウソバカリイ

ッテイル」と激怒し、テレビを切ってしまったことが

ある。バチン。他に誰がいたのかの記憶はない。いま

調べてみると、これは昭和 33 年 10 月ごろのことだと

思われるのだが、その時、なぜ、と問い質すことはで

きなかった。取り付く島もなかった。父はすでに亡く

なっているのだが、このことも父に訊くことはなかっ

た。しなかった。訊いてはいけない。勝手にそう思い

込んでいた。ここにも孔が開いている。 家には扇風機も車もなかった。夏には蚊帳を吊って

寝ていた。トイレは汲み取り式の便所であった。目の

前に、新聞紙が切っておいてあった。それはいつしか

白い柔らかな塵紙になっていた。裏庭は狭かったが、

大きな柿の木があった。渋柿だった。隅にはドクダミ

が茂っていた。裏に行くといつもドクダミの臭いがし、

陰鬱な気分にさせられた。父、母、妹とわたくし(👤👤)

は二階で寝ていた。夜中に目が覚めた時、なぜ、僕は

ここにいるのだろう、と思うことがあった。ナカムラ

クンノイエノコダッタラ、ドウナルノカ。底のない孔

を落ちていく、とてつもなく不安な感じ。忘れるため

に寝ることに焦る。そして闇の深さと眠りが1つにな

っていった。川越街道には時々戦車の隊列が行き交っ

ていたが、そんな時には家ごと揺れた。窓ガラスが鳴

る。雨が降ると、家の傍の大きな下水路から水があふ

れ、よく床下浸水した。玄関のコンクリートダタミか

ら、居間に通じる廊下は何十センチか高かったので、

畳の上まで水が来ることはなかったが、玄関外のコン

クリートの防火桶は水没していた。家に入ることも、

家から出ることもできなくなった。水はすぐ退いたが、

「ウチニハイレナイ、デラレナイ」。何か象徴的だな。 おそらく分かる人には分かる、分からない人には分

からない。当たり前だ。昭和 30 年代前半の日本の都会

の、どこにでもあった家であり、闇の深さと眠りのか

けがえのなさは個人的なかけがえのなさではないので

あろう。このエピソードはその程度のことに過ぎない

のだが、ある種の共同性がある。これが大切なのかも

しれない。だからと言って、意味のあることとも言え

ない。しかし、わたくしが生まれ、育ってきたこと、

今でも生きていることは紛れもないことに他ならない。

意味のないこととされかねないことの意味は〈言語以

後〉ではなく、〈言語以前〉の領域に属している。掬い

取ろうとすると、決定的に変質してしまう。しかし、

小学校の 1、2 年生の頃のことを書き記してきて思う

ことは、豊かな、陰影のあるということだが、そうし

た精神生活を送ってきたな、ということに関わってい

るのだろう。

唐突かもしれないが、〈学習・発達論〉を考えていく

上で、このことは伝えたいておきたいことだ。しかし、

〈逃げ水〉を追っている感じ。〈客体〉は、言語化すれ

ばするほど、遠くなっていく。孔に吸い込まれていく

のだが、底にたどり着けないのだ。

(2)「三日月」の孔に吸い込まれて

昭和 32 年、わたくし(👤👤)が小学校 1 年生の秋のこ

とだった、と思う。そもそも本稿はここから書き出さ

れていた。担任の齋藤先生(👤👤)から、「三日月」の観

察の宿題が出されたことがある。その夜は晴れていた

ので、わたしは色鉛筆と先生から渡された画用紙を持

って外に出て、三日月を見上げることができた。家の

前は、道を隔てて、製材所、その右側に銭湯があった。

3 時ごろには行き、男湯にも女湯にも入っていた。脱

衣所には何人かの女性の使用人がいて着替えを手伝っ

てくれた。何湯だったかは覚えていない。銭湯の煙突

の向こうに三日月が出ていた。右だったか、左だった

か、これも覚えていない。 この後、訳の分からないことになった。 三日月はこちらから見て左(☽)が欠けていたのに、

迷った挙句、渡された画用紙には右(☾)が欠けている

絵を描いてしまったのだ。なぜか。「右」「左」が分か

らなかったわけではない。利き手が、私の場合、右手

であることももちろん知っていた。迷う余地がないは

ずなのに、訳が分からなくなってしまったのだ。天空

の月に背を向け、月の向こう側から月を見ている立場

で、その立場は月の立場に重なっていき、右が欠けて

いる絵(☾)を描いてみたり、月を見上げて左が欠けて

いる絵(☽)を描いてみたり、挙句の果てに右が欠けて

いる三日月(☾)になったり、左が欠けている三日月(☽)になったり、どっちなの?という自らの〈困った質問〉

に立ち往生し、月に背を向け、地上に正対する「月」

自体の立場で右手の側が欠けている絵(☾)を描いてし

まったのだ。地上から三日月を見上げる立場を「こち

ら」側にすると、左が欠けている月の絵(☽)になるの

だが、描いたのは右が欠けている月の絵(☾)だった。

あれ、おかしい!? 「右」なの?「左」なの?分から

なくなっちゃったのだ。右手はどっち!? 誰かに訊き

たかった。しかし、誰にも訊けなかった。訊いてはい

けないことのように思われた。家に問題があったのか。

わたくし自身に問題があったのか。このことはあれこ

Page 3: 文学教育を拓く、今日の「国語科」の課題―― 問題提起として( … · ら大の卵を選んで来い、ということであった。一個 15 円の卵を10

-64-

が、死んだ妻を背負って病院を出て、自ら手配した三

輪車の荷台に一緒に乗って家に帰った。これら爺さん

をめぐるエピソードは父から聞いた。爺さんと二人に

なった父は、母の死の半年後、卵の仲買人のマノさん

の紹介で結婚し、すぐにわたくしが生まれ、その 2 年

後に妹が生まれた。見合いをし、その後会うことなく、

家が本当にあるかどうかを自分で確認に来て、家があ

ったので、結婚したそうだ。これは母から聞いた。父

は 30 歳、母は 26 歳だった。その母は埼玉の東松山、

下青鳥の人で、戦時中、川越の鉄道病院の看護婦だっ

た。白衣の写真を見たことがある。 爺さんは妻の遺骨を死ぬまで納骨せず、65 歳で死ん

だ。仏壇は不気味だった。真っ黒の孔、底が見えなか

った。60 歳の時に脳溢血で倒れた後は、爺さんから、

それまでの常に何かを撥ねつけているような威厳、樫

の木のような無骨さは失われていた。爺さんは倒れた

後、調布に引っ越して 3 年ほど生きていた。よく迷子

になっていた。亡くなる半年ぐらい前には山芋掘りに

熱中し、朝から晩まで家の周りを掘りまくり、ある朝、

布団の中で死んでいた。これは、庭の水道のところの

バケツの中に、父が前日、多摩川で釣ってきた鯰がお

り、手を突っ込んで鰓のところを抑えたわたくしがト

ゲに刺された朝のことだった。そのナマズがその後ど

うなったのかの記憶はない。一度、居間と玄関の間の

廊下で、わたくしは馬乗りになった爺さんからナグラ

レたことがある。母が止めに入ったのを覚えている。

なぜ、そうなったのかはわからない。母も大変だった

のかも。その母にお線香で灸を据えられたことがある。

そのころはどの家でもそんなもんだと思っていた。 母は、わたくしが幼稚園に一人で通うことが出来な

かったので、一年間、教室の後ろで付き添っていた。

妹を背負って、眉間に皺を寄せた息子を見守っていた。

どういうわけかその時の母の写真が残っている。半纏

みたいのを羽織っていた。幼稚園に行っている間にウ

チがなくなる。家族が消える。この時に抱いていた根

拠のない恐怖感は今でも消えずに残っているのだが、

亡くなった母は妻や子にその時のことを話すことがあ

った。「センチャンハネ……」には参った。わたくしは

黙り続ける。その時の私に対する妻の目と子供たちの

沈黙が忘れられない。わたくしは相当な〈ジコチュウ〉

なのだろう。それぐらいなことは自覚している。その

時にも感じていた。しかし、止められなかったのだ。 家の近くには同級生の京子ちゃん(👤👤)、高橋君(👤👤)

がいた。京子ちゃんのお父さんは社長さんのお抱え運

転手で、高橋君の家はお風呂を薪で沸かし、御飯も竈

で炊いていた。高橋君とは、1 年生の時、通っていた第

七小学校の正門前で着ているものを全部自分で脱いで

帰ってしまった京子ちゃんの衣服とランドセルを持っ

て、家に届けに行ったことがある。きっとボクらが悪

かったに違いない。しかし、お母さん(👤👤)は「キョ

ウコハキガツヨクテ、ゴメンネ」と言っていた。助か

った。うれしかった。京子ちゃんはお母さんの後ろに

いた。三人でウスカワマンジュウを食べて、庭で遊ん

で帰った。家に帰ってそのことは言わなかった、と思

う。わたくしは、小学校 3 年生の 5 月に引っ越して、

調布の方に行き、転校してしまったので、それきり二

人とは会っていない。二人のような友達はその後でき

なかった。京子ちゃんのことは好きだった。そうだ。

中村君(👤👤)とは引っ越しする前の日、ハナジマのグ

ランド横の坂道で石けりをしていて、ボクの石が線を

超えたか、越えなかったかで喧嘩をしてしまった。中

村君は怒って帰ってしまった。ボクが悪かった。謝り

たい。と言っても、中村君ともあれから会っていない。

中村君のお父さんは練馬区役所に勤めていて、「ゴジラ」

は自衛隊の宣伝映画だと言っていたようである。中村

君の受け売りで、家でそのことを言うと、父は怒った

ような、怯えたような、何とも言いようのない嫌な顔

をしていた。「「ゴジラ」ハジエイタイノセンデンエイ

ガダ」、これは言ってはいけないことだったらしい。 家の隣には齋藤という名前の少し年上のお兄ちゃん

(👤👤)がいた。父も母もどういうわけだか分らなかっ

たが、このお兄ちゃんのことをあまりよく言っていな

かった。お兄ちゃん一家が、スピッツを飼っていた親

戚の家の、離れに間借り生活をしていたからかもしれ

ない。いじめられていた。そんな記憶はないのだが、

親はそう思っていたようだ。このお兄ちゃんとも転校

後、一度も会っていない。妹の友達には近くに晴夫君

(👤👤)がいた。栃木屋という酒屋の隣に住んでいた。

転校後の妹の友達のことは誰も思い浮かばない。そも

そも転校前も転校後も家にはあまり人が訪ねて来なか

った。転校後は、学校まで 4 キロも離れていて、同級

生はほとんどいなかった。家も周りに 1 軒しかなかっ

た。目の前は谷と林で、清水が流れ小綬鶏がいた。家

はハケ地の行き詰まりに立っていた。崖の上だ。住所

は、調布市入間町、名前ばかりの「成城高級分譲地」

だが、自然が残っていた。野犬( )の群れもいた。 熊野町の家の玄関の隣の台所には、玄関側の際に氷

の冷蔵庫があり。その右がガス台、そして、流しだっ

た。冷蔵庫の対面に手動式布搾り器付き洗濯機も置い

てあった。台所には簀の子が敷いてあった。いま気が

付いたことではあるが、ここも元は玄関部分と一続き

で事務所部分であったのだろう。玄関とは同一平面で、

玄関と台所から 60 センチぐらいかな、一段上がった

ところが廊下だったからだ。1 階の居間はこの廊下に

接した 8 畳ぐらいかな、炭の炬燵があった。その奥の、

湿っぽい、澱んだ空気の爺さんの部屋の押し入れには

-65-

テレビ(📺📺)が仕舞ってあった。14 インチの、サンヨ

ーの白黒だ。時々近所の人が見に来ていた。その時は

押入れを開け、見ていた。置いてあるところが上段、

畳に座って見るにはかなり高めだった。 テレビと言えば、わたくしがフランキー堺主演の、

C 級戦犯の問題を取り上げた「私は貝になりたい」を

観ていると、いや、たまたまテレビをつけていたにす

ぎないのだが、部屋に入ってきた父が「ウソバカリイ

ッテイル」と激怒し、テレビを切ってしまったことが

ある。バチン。他に誰がいたのかの記憶はない。いま

調べてみると、これは昭和 33 年 10 月ごろのことだと

思われるのだが、その時、なぜ、と問い質すことはで

きなかった。取り付く島もなかった。父はすでに亡く

なっているのだが、このことも父に訊くことはなかっ

た。しなかった。訊いてはいけない。勝手にそう思い

込んでいた。ここにも孔が開いている。 家には扇風機も車もなかった。夏には蚊帳を吊って

寝ていた。トイレは汲み取り式の便所であった。目の

前に、新聞紙が切っておいてあった。それはいつしか

白い柔らかな塵紙になっていた。裏庭は狭かったが、

大きな柿の木があった。渋柿だった。隅にはドクダミ

が茂っていた。裏に行くといつもドクダミの臭いがし、

陰鬱な気分にさせられた。父、母、妹とわたくし(👤👤)

は二階で寝ていた。夜中に目が覚めた時、なぜ、僕は

ここにいるのだろう、と思うことがあった。ナカムラ

クンノイエノコダッタラ、ドウナルノカ。底のない孔

を落ちていく、とてつもなく不安な感じ。忘れるため

に寝ることに焦る。そして闇の深さと眠りが1つにな

っていった。川越街道には時々戦車の隊列が行き交っ

ていたが、そんな時には家ごと揺れた。窓ガラスが鳴

る。雨が降ると、家の傍の大きな下水路から水があふ

れ、よく床下浸水した。玄関のコンクリートダタミか

ら、居間に通じる廊下は何十センチか高かったので、

畳の上まで水が来ることはなかったが、玄関外のコン

クリートの防火桶は水没していた。家に入ることも、

家から出ることもできなくなった。水はすぐ退いたが、

「ウチニハイレナイ、デラレナイ」。何か象徴的だな。 おそらく分かる人には分かる、分からない人には分

からない。当たり前だ。昭和 30 年代前半の日本の都会

の、どこにでもあった家であり、闇の深さと眠りのか

けがえのなさは個人的なかけがえのなさではないので

あろう。このエピソードはその程度のことに過ぎない

のだが、ある種の共同性がある。これが大切なのかも

しれない。だからと言って、意味のあることとも言え

ない。しかし、わたくしが生まれ、育ってきたこと、

今でも生きていることは紛れもないことに他ならない。

意味のないこととされかねないことの意味は〈言語以

後〉ではなく、〈言語以前〉の領域に属している。掬い

取ろうとすると、決定的に変質してしまう。しかし、

小学校の 1、2 年生の頃のことを書き記してきて思う

ことは、豊かな、陰影のあるということだが、そうし

た精神生活を送ってきたな、ということに関わってい

るのだろう。

唐突かもしれないが、〈学習・発達論〉を考えていく

上で、このことは伝えたいておきたいことだ。しかし、

〈逃げ水〉を追っている感じ。〈客体〉は、言語化すれ

ばするほど、遠くなっていく。孔に吸い込まれていく

のだが、底にたどり着けないのだ。

(2)「三日月」の孔に吸い込まれて

昭和 32 年、わたくし(👤👤)が小学校 1 年生の秋のこ

とだった、と思う。そもそも本稿はここから書き出さ

れていた。担任の齋藤先生(👤👤)から、「三日月」の観

察の宿題が出されたことがある。その夜は晴れていた

ので、わたしは色鉛筆と先生から渡された画用紙を持

って外に出て、三日月を見上げることができた。家の

前は、道を隔てて、製材所、その右側に銭湯があった。

3 時ごろには行き、男湯にも女湯にも入っていた。脱

衣所には何人かの女性の使用人がいて着替えを手伝っ

てくれた。何湯だったかは覚えていない。銭湯の煙突

の向こうに三日月が出ていた。右だったか、左だった

か、これも覚えていない。 この後、訳の分からないことになった。 三日月はこちらから見て左(☽)が欠けていたのに、

迷った挙句、渡された画用紙には右(☾)が欠けている

絵を描いてしまったのだ。なぜか。「右」「左」が分か

らなかったわけではない。利き手が、私の場合、右手

であることももちろん知っていた。迷う余地がないは

ずなのに、訳が分からなくなってしまったのだ。天空

の月に背を向け、月の向こう側から月を見ている立場

で、その立場は月の立場に重なっていき、右が欠けて

いる絵(☾)を描いてみたり、月を見上げて左が欠けて

いる絵(☽)を描いてみたり、挙句の果てに右が欠けて

いる三日月(☾)になったり、左が欠けている三日月(☽)になったり、どっちなの?という自らの〈困った質問〉

に立ち往生し、月に背を向け、地上に正対する「月」

自体の立場で右手の側が欠けている絵(☾)を描いてし

まったのだ。地上から三日月を見上げる立場を「こち

ら」側にすると、左が欠けている月の絵(☽)になるの

だが、描いたのは右が欠けている月の絵(☾)だった。

あれ、おかしい!? 「右」なの?「左」なの?分から

なくなっちゃったのだ。右手はどっち!? 誰かに訊き

たかった。しかし、誰にも訊けなかった。訊いてはい

けないことのように思われた。家に問題があったのか。

わたくし自身に問題があったのか。このことはあれこ

Page 4: 文学教育を拓く、今日の「国語科」の課題―― 問題提起として( … · ら大の卵を選んで来い、ということであった。一個 15 円の卵を10

-66-

れ書き連ねたが、分からない。 嫌な気分で、翌日、宿題(☾)を提出した。かなりヤ

バイことなのかもしれない。この予感が的中し、その

日の帰りの会で、先生から、月を見ないで絵を描いた

子として叱られてしまった。どこかに褒められるので

はないかという思いがなかったわけではない。すごく

大事なことに気が付いた子として、だ。馬鹿だな。「ス

ガイクンハツキヲミナイデシュクダイヲヤッタ。セン

セイハカナシイ」と言われてしまった。1年生は黙っ

て泣いていた。どういうことなの? しかし、この声に

ならない声は届かなかった(と思う)。訊いてはいけな

いことにこだわっていることが、恥ずかしかった。自

分を消したいような感じだ。ここにも孔が開いている。 これが「三日月」をめぐる〈困った質問〉問題であ

る。「消したい」と言えば、そのころ、母の背中に小便

を掛けたことがある。漏らしたのではない。このこと

の方が消したい思い出であることも間違いないことで

ある。しかし、「三日月」の「右」と「左」のことも忘

れられないのだ。何の脈絡もなく思い出す。60 年以上

も前のこと。朧な記憶であるが、鮮明な記憶である。

(資料 1) このことは「ウチニハイレナイ、デラレナ

イ」問題に関わっているのだろう。鯰の〈トゲ〉の痛

さにも、捕獲された〈野犬〉にも、あれもこれも象徴

的だ。人はどうでもいいこと、と言うかもしれないが、

いや、誰も覚えていないかもしれないかも。その後も、

今日に至るまで、似たような出来事の連続だった。い

くら因果を掘り起こそうと書き連ねても、事態は因果

の外部に現れ出てくる。〈言語以後〉を生きながら、〈言

語以前〉に逆襲されてしまう。そして、誰からも忘れ

られていくこと。推敲の際に、長々と〈ミカヅキ〉問

題とかかわりのないことを書き足さずにはいられなか

ったのも、そういうことに関わっているのだろう。書.

きたい...

というより、書かされて.....

いるということかな。 もう1つ書かされてみよう。これも過去が《他者》

であり、〈逃げ水〉であることに関わっている。 菜の花や月は東に日は西に(与謝蕪村) この「月」は「満月」(🌕🌕)なのだそうだが、蕪村の、

この句も〈ミカヅキ〉問題の中にある。「月」と「日」

が〈逃げ水〉であるということではない。このことは

〈言語以後〉の事態である。認識である。「菜の花」は

重層的な事態を生きている。その中で翻弄されている、

ということだ。「菜の花」から見た「東」と「西」は、

「月」から見た「東」と「西」は同じなのか。「日」か

ら見た「東」と「西」は同じなのか。ここにも〈ミカヅ

キ〉問題が隠れているのだ。「菜の花」は自らに問い続

けているに違いない。自らの〈命〉はこの事態を囲い

込んでいるのか、自らの〈命〉はこの事態に囲い込ま

れているのか、と。これは〈生〉と〈死〉をめぐる問題

であり、〈自力〉と〈他力〉をめぐる問題となっていく。

〈自力〉は〈言語以後〉、〈他力〉は〈言語以前〉の問

題となっていく。〈言語以前〉の把握は〈言語以後〉に

反転していく。その上で、〈言語以後〉を〈言語以前〉

によって囲い込むことはいかに可能なのか。これが闇

の深さと眠りのかけがえのなさをめぐる問題にもなっ

ていく。「問い直して」と「問い直して」を「問い直し

て」のめぐる問題になっていくのである。これは認識

の外部との闘いに関わっている。理不尽な事態に翻弄

されている。とりあえず、「菜の花」は「僕」、「月」や

「日」は「母」「父」「爺さん」「京子ちゃん」「高橋君」

「京子ちゃんのお母さん」「中村君」「齋藤のお兄ちゃ

ん」「中村君」「中村君のお父さん」……、そして、〈ミ

カヅキ〉問題の「僕」は「月」に翻弄され、「齋藤先生」

をも「月」とすることができるかどうかを問い続けて

いく。闇の深さと眠りのかけがえのなさの中で問い続

けていくのである。解決困難だと思われることに出会

って、眠ることを学んだ。しかし、だからと言って、

《他者》の了解不能性を消去することはできない。《他

者》はパラレル・ワールドという事態の現れとともに

問われていくのである。 このように〈逃げ水〉を追っていくと、始まりとし

.....

ての..

〈困った質問.....

〉問題が現れ出てくる。それでも闇

の深さと眠りのかけがえのなさに、こだわっていきた

い。あまりにありふれたことかもしれないが、そうで

あるならば、ありふれたことだからこそ、その事態の

中で〈困った質問〉によって自らを囲い込んでいこう。

訊いてはいけないことの囲い込みは自覚しにくい事態

なのだが、本稿は、「三日月」をめぐる〈困った質問〉

問題を問い続けていくことから、「文学教育を拓く、今

日の「国語科」の課題」を開いていくことを目指して

いくことになる。〈逃げ水〉とのデット・ヒートの中で、

だ。《他者》論の実践として、である。 1.文学教育を拓く、「ナンダ、コレ?!」の坩

堝の中で

〈言葉以前〉問題との出会いとしての、〈ミカヅキ〉

問題のいくつかをさらに記していこう。

(1)〈交流と断絶、衝突〉

昭和の終わり、40 歳の頃に「鏡のなかの世界」(朝

永振一郎『鏡のなかの世界』(みすず書房 1965 年 12月)収録)(資料2)と出会った。「鏡の外」と「鏡の

-67-

中」の右と左の逆転はなぜ、上下は、なぜ逆転しない

のか、こうした事態の不思議が朝永振一郎の提起であ

った。この提起に出会って、1 年生の時の狐憑きから

解き放たれたような気がしたのだが、しかし、ナンダ、

コレ?! 50 歳の頃に「ケロちゃん危機一髪」(佐藤雅

彦『プチ哲学』(マガジンハウス 2000 年 6 月)に収

録。)(資料3)と出会った。わたくしが編集に関わっ

ていた中学校の国語教科書の教材として、である。こ

の作品は教科書のおもて表紙の裏側、表 3 部分に収録

した。教科書にはその作品は全部で 6 作品を収録した。

表 3 と表 4 部分、一般にはグラビア欄にされている箇

所に、である。 右の絵の、「ケロちゃん」(🐸🐸)に対する「もう一匹

のカエル」(🐸🐸)?からの「いじめ」の危機か、左の絵

の、「ケロちゃん」(🐸🐸)の頭上に落下する「リンゴ」

(🍏🍏)の危機からの、「もう一匹のカエル」(🐸🐸)によ

る「救助」をめぐる危機か、こうした事態の逆転がど

のようなことに起因しているのか、「なぜ」をめぐる「危

機」が佐藤雅彦の提起であったのだが、しかし、ナン

ダ、コレ?!これらは世界観認識の問題か。いろいろ

あったな。〈ミカヅキ〉問題から開かれていくこと。 このことは、わたし

...とあなた

...の対話

..の機能不全を問

題化し続けていくことである、と言うことができる。

すると、そこに「生活上の分類」(真実に対する......

誤り)

から「世界観上の真偽の分類」(真実の中での....

「誤り」)

への転回が問題として浮かび上がってくる。「世界観上

の真偽の分類」(真実の中での....

「誤り」)という「問い

直して」の取り組みが「生活上の分類」(真実に対する......

誤り)という「問い直して」の取り組みを「問い直し

て」いくことになるというように、である。

Page 5: 文学教育を拓く、今日の「国語科」の課題―― 問題提起として( … · ら大の卵を選んで来い、ということであった。一個 15 円の卵を10

-66-

れ書き連ねたが、分からない。 嫌な気分で、翌日、宿題(☾)を提出した。かなりヤ

バイことなのかもしれない。この予感が的中し、その

日の帰りの会で、先生から、月を見ないで絵を描いた

子として叱られてしまった。どこかに褒められるので

はないかという思いがなかったわけではない。すごく

大事なことに気が付いた子として、だ。馬鹿だな。「ス

ガイクンハツキヲミナイデシュクダイヲヤッタ。セン

セイハカナシイ」と言われてしまった。1年生は黙っ

て泣いていた。どういうことなの? しかし、この声に

ならない声は届かなかった(と思う)。訊いてはいけな

いことにこだわっていることが、恥ずかしかった。自

分を消したいような感じだ。ここにも孔が開いている。 これが「三日月」をめぐる〈困った質問〉問題であ

る。「消したい」と言えば、そのころ、母の背中に小便

を掛けたことがある。漏らしたのではない。このこと

の方が消したい思い出であることも間違いないことで

ある。しかし、「三日月」の「右」と「左」のことも忘

れられないのだ。何の脈絡もなく思い出す。60 年以上

も前のこと。朧な記憶であるが、鮮明な記憶である。

(資料 1) このことは「ウチニハイレナイ、デラレナ

イ」問題に関わっているのだろう。鯰の〈トゲ〉の痛

さにも、捕獲された〈野犬〉にも、あれもこれも象徴

的だ。人はどうでもいいこと、と言うかもしれないが、

いや、誰も覚えていないかもしれないかも。その後も、

今日に至るまで、似たような出来事の連続だった。い

くら因果を掘り起こそうと書き連ねても、事態は因果

の外部に現れ出てくる。〈言語以後〉を生きながら、〈言

語以前〉に逆襲されてしまう。そして、誰からも忘れ

られていくこと。推敲の際に、長々と〈ミカヅキ〉問

題とかかわりのないことを書き足さずにはいられなか

ったのも、そういうことに関わっているのだろう。書.

きたい...

というより、書かされて.....

いるということかな。 もう1つ書かされてみよう。これも過去が《他者》

であり、〈逃げ水〉であることに関わっている。 菜の花や月は東に日は西に(与謝蕪村) この「月」は「満月」(🌕🌕)なのだそうだが、蕪村の、

この句も〈ミカヅキ〉問題の中にある。「月」と「日」

が〈逃げ水〉であるということではない。このことは

〈言語以後〉の事態である。認識である。「菜の花」は

重層的な事態を生きている。その中で翻弄されている、

ということだ。「菜の花」から見た「東」と「西」は、

「月」から見た「東」と「西」は同じなのか。「日」か

ら見た「東」と「西」は同じなのか。ここにも〈ミカヅ

キ〉問題が隠れているのだ。「菜の花」は自らに問い続

けているに違いない。自らの〈命〉はこの事態を囲い

込んでいるのか、自らの〈命〉はこの事態に囲い込ま

れているのか、と。これは〈生〉と〈死〉をめぐる問題

であり、〈自力〉と〈他力〉をめぐる問題となっていく。

〈自力〉は〈言語以後〉、〈他力〉は〈言語以前〉の問

題となっていく。〈言語以前〉の把握は〈言語以後〉に

反転していく。その上で、〈言語以後〉を〈言語以前〉

によって囲い込むことはいかに可能なのか。これが闇

の深さと眠りのかけがえのなさをめぐる問題にもなっ

ていく。「問い直して」と「問い直して」を「問い直し

て」のめぐる問題になっていくのである。これは認識

の外部との闘いに関わっている。理不尽な事態に翻弄

されている。とりあえず、「菜の花」は「僕」、「月」や

「日」は「母」「父」「爺さん」「京子ちゃん」「高橋君」

「京子ちゃんのお母さん」「中村君」「齋藤のお兄ちゃ

ん」「中村君」「中村君のお父さん」……、そして、〈ミ

カヅキ〉問題の「僕」は「月」に翻弄され、「齋藤先生」

をも「月」とすることができるかどうかを問い続けて

いく。闇の深さと眠りのかけがえのなさの中で問い続

けていくのである。解決困難だと思われることに出会

って、眠ることを学んだ。しかし、だからと言って、

《他者》の了解不能性を消去することはできない。《他

者》はパラレル・ワールドという事態の現れとともに

問われていくのである。 このように〈逃げ水〉を追っていくと、始まりとし

.....

ての..

〈困った質問.....

〉問題が現れ出てくる。それでも闇

の深さと眠りのかけがえのなさに、こだわっていきた

い。あまりにありふれたことかもしれないが、そうで

あるならば、ありふれたことだからこそ、その事態の

中で〈困った質問〉によって自らを囲い込んでいこう。

訊いてはいけないことの囲い込みは自覚しにくい事態

なのだが、本稿は、「三日月」をめぐる〈困った質問〉

問題を問い続けていくことから、「文学教育を拓く、今

日の「国語科」の課題」を開いていくことを目指して

いくことになる。〈逃げ水〉とのデット・ヒートの中で、

だ。《他者》論の実践として、である。 1.文学教育を拓く、「ナンダ、コレ?!」の坩

堝の中で

〈言葉以前〉問題との出会いとしての、〈ミカヅキ〉

問題のいくつかをさらに記していこう。

(1)〈交流と断絶、衝突〉

昭和の終わり、40 歳の頃に「鏡のなかの世界」(朝

永振一郎『鏡のなかの世界』(みすず書房 1965 年 12月)収録)(資料2)と出会った。「鏡の外」と「鏡の

-67-

中」の右と左の逆転はなぜ、上下は、なぜ逆転しない

のか、こうした事態の不思議が朝永振一郎の提起であ

った。この提起に出会って、1 年生の時の狐憑きから

解き放たれたような気がしたのだが、しかし、ナンダ、

コレ?! 50 歳の頃に「ケロちゃん危機一髪」(佐藤雅

彦『プチ哲学』(マガジンハウス 2000 年 6 月)に収

録。)(資料3)と出会った。わたくしが編集に関わっ

ていた中学校の国語教科書の教材として、である。こ

の作品は教科書のおもて表紙の裏側、表 3 部分に収録

した。教科書にはその作品は全部で 6 作品を収録した。

表 3 と表 4 部分、一般にはグラビア欄にされている箇

所に、である。 右の絵の、「ケロちゃん」(🐸🐸)に対する「もう一匹

のカエル」(🐸🐸)?からの「いじめ」の危機か、左の絵

の、「ケロちゃん」(🐸🐸)の頭上に落下する「リンゴ」

(🍏🍏)の危機からの、「もう一匹のカエル」(🐸🐸)によ

る「救助」をめぐる危機か、こうした事態の逆転がど

のようなことに起因しているのか、「なぜ」をめぐる「危

機」が佐藤雅彦の提起であったのだが、しかし、ナン

ダ、コレ?!これらは世界観認識の問題か。いろいろ

あったな。〈ミカヅキ〉問題から開かれていくこと。 このことは、わたし

...とあなた

...の対話

..の機能不全を問

題化し続けていくことである、と言うことができる。

すると、そこに「生活上の分類」(真実に対する......

誤り)

から「世界観上の真偽の分類」(真実の中での....

「誤り」)

への転回が問題として浮かび上がってくる。「世界観上

の真偽の分類」(真実の中での....

「誤り」)という「問い

直して」の取り組みが「生活上の分類」(真実に対する......

誤り)という「問い直して」の取り組みを「問い直し

て」いくことになるというように、である。

Page 6: 文学教育を拓く、今日の「国語科」の課題―― 問題提起として( … · ら大の卵を選んで来い、ということであった。一個 15 円の卵を10

-68-

かつてわたくしは『〈対話〉をひらく文学教育――境

界認識の成立――』(1989 年 12 月 有精堂)を出したこ

とがあるが、その〈対話〉をめぐる足踏みを問題化し

ていくことによって、「文学教育を拓く」という、本稿

の課題の方に焦点化されていくことになる。「生活上の

分類」(真実に対する......

誤り)から「世界観上の真偽の分

類」(真実の中での....

「誤り」)への転回が問題として浮

かび上がってくるのである。 (2)「生活上の分類」(真実に対する

......誤り)と「世界

観上の真偽の分類」(真実の中での....

「誤り」)

① 大森荘蔵「真実の百面相」の「一刻」/宮澤賢治「注

文の多い料理店」の「白熊のような犬」問題

「生活上の分類」(真実に対する......

誤り)と「世界観上

の真偽の分類」(真実の中での....

「誤り」)との違いとは、

大森荘蔵の「真実の百面相」(『流れとよどみ――哲学断

章』(産業図書 1981 年 5 月)に収録)の提起である。

道が続いていると思ったら、海だった。車(🚗🚗)は海

に突入してしまった。大森は、この事態を「生活上の

分類」(真実に対する......

誤り)としてだけではなく、「世

界観上の真偽の分類」(真実の中での....

「誤り」)として

捉えることができる、と言う。とすると、「一刻」、「道」

は確かにあったのだ、と。 ナンダ、コレ?! これも世界観認識の問題か。 宮澤賢治の「注文の多い料理店」では死んだ「二疋」

の「白熊のような犬」( )が生き返えっている。

ナンダ,コレ?! 「紳士」は「山猫の子分」だった。

「二人の紳士」が「ふと後ろを見」ると現れた「山猫

軒」(🏠🏠)は「東京」だった。「山奥」は「東京」だった

のだ。しかし、〈視点人物〉の「二人の紳士」(👤👤👤👤)は

このことに気が付いていない。それゆえに、恐怖のあ

まり「一ぺん紙くずのようになった顔」は元に戻らな

かったのである。〈対象人物〉の二匹の「山猫の子分」

( )の側から〈視点人物〉の「二人の紳士」との

同一性を問題化していく〈機能としての語り手〉が、

こうした事態を〈聴き手〉に問う。読者に問う。この

作品では、「一刻」が「二人の紳士」にとって「一刻」

のことではなく、〈対象人物〉の「白熊のような犬」の

〈命〉が〈お金〉の価値でのみとらえられている限り、

自らの〈欲望〉を自明のものとし続ける限り、永続的

な事態であることが問われている。「言語以前・了解不

能 第三項の領域」によって、〈視点人物〉と〈対象人

物〉との間が遮られていることが事態の源泉であり、

両者の同一性が〈機能としての語り手〉によって問わ

れているのである。〈交流〉が〈断絶、衝突〉であった

ことが、だ。(「注文の多い料理店」では、「世界観上の

真偽の分類」(真実の中での....

「誤り」)としての「一刻」

の事態がこのように問題化されている。わたし...

とあな..

た.の対話

..の機能不全という事態が問題化されている。

世界観認識の問題が問われ続けていくのである。) ② 三島由紀夫「美神」の「3 センチ」の裏切りのこと

「美神」における〈視点人物〉の「R 博士」と〈対象

人物〉の「アフロディテ」の石像との「交流」と「衝

突」を思い起こしてみよう。「アフロディテ」の石像に

魅せられた「R」は 2.14 メートルの石像の高さを 2.17メートルと学界に発表した。「アフロディテ」を独り占

めしようとした。死の床で、優越感に浸りたいと思っ

た「R」は、親しい、この世で唯一信頼している医者の

「N 博士」に、この秘密を告白し、石像の高さを測ら

せる。すると、高さは 2.17 メートルであった。ナンダ、

コレ?!「R」は、自ら「アフロディテ」の秘密、学者

としての学界における信頼をなげうってまでの行為を

「N」に告白し、「アフロディテ」を裏切ってしまった

のである。しかし、「R」はそのことに気がつかない。

「R博士」は「アフロディテ」に、

「裏切りをつたな」

と言う。「R」は、「アフロディテ」が裏切った、と思

って死んでいった。このことが「アフロディテ」の石

像によって問われている。この三人称小説においては、

〈語り手〉によって、〈視点人物〉の「R 博士」が問わ

れている。〈対象人物〉の「アフロディテ」の側から〈視

点人物〉の「R博士」を問題化していく〈語り手〉が、

このことを〈聴き手〉に問う。読者に問う。「美神」で

も〈語り手〉が登場人物ではないので、〈機能としての

語り手〉によって、ということになる。この機能が、3センチのナゾを「R博士」の裏切りとして問題化して

いるのである。〈交流〉が〈断絶、衝突〉であったこと

が、だ。(「三日月」の話は、〈客体〉としての〈対象〉

に関わる問題であり、この小説に向き合っていく始ま

りに関わっている。「言語以前・了解不能 第三項の領

域」に配置されている〈主体〉と〈客体〉との間に抜

き差しならない事態が生起し、そのことを浮かび上が

らせる〈機能としての語り手〉を設定するならば、「一

刻」がこのように問題化されていくのである。) ③ 村上春樹「鏡」の「僕以外の僕」の憎しみのこと

「鏡」における〈視点人物〉の「鏡の外の僕」と〈対

象人物〉の「鏡の中の僕」との〈交流と断絶、衝突〉を

思い起こしてみよう。「体制打破」を標榜し、単純労働

をしながら、全国を放浪し、「僕」は中学校の夜警のア

ルバイトをしたこともある。ある晩、玄関にあった「鏡」

に「僕」が写っていた。「鏡の中の僕」が「僕以外の僕」

で、「鏡の外の僕」を憎んでいる。「僕」は「鏡」を「木

刀」で叩き割ったが、翌朝には「鏡」の破片すらそこ

にはなかった。昨日吸っていたたばこの吸い殻は落ち

-69-

ていたのだが。ナンダ、コレ?!「鏡の外の僕」はこ

の出来事を直視することを回避し、生き続けてきた。

そして、10 年後、今の「僕」の部屋には「鏡」はない。

〈対象人物〉の「鏡の中の僕」の側から〈視点人物〉

の「鏡の外の僕」を問題化していく〈機能としての語

り手〉が、このことを〈聴き手〉に問う。読者に問う。

このことは〈語り手〉の「僕」の現在に関わっていく。

「僕」の部屋には「鏡」がない。この事態を〈機能と

しての語り手〉が問題化していくのである。〈交流〉が

〈断絶、衝突〉であったことが、だ。(「鏡のなかの世

界」は、〈客体〉としての〈対象〉に関わる問題であり、

この〈小説〉に向き合っていく始まりに関わっている。

「言語以前・了解不能 第三項の領域」に配置されて

いる〈主体〉と〈客体〉との間に抜き差しならない事

態が生起し、そのことを浮かび上がらせる〈機能とし

ての語り手〉を設定するならば、「一刻」がこのように

問題化されていくのである。) ④ 森鷗外「舞姫」の「エリス」と「母」/夏目漱石「こ

ころ」の「余所余所しさ」と裏切りのこと

鷗外の「舞姫」の〈視点人物〉の「余」と〈対象人

物〉の「エリス」、識域下の〈対象人物〉の「母」の問

題、「余」は二人の女性によって問われている。このこ

とは「余」がなぜベルリンでの思い出を手記にまとめ

ようとしたのかのナゾに関わっていく。ナンダ、コ

レ?!〈交流と断絶、衝突〉、この事態のたどり着いた

地点に関わっていくのである。漱石の「こころ」の〈視

点人物〉の「先生」と〈対象人物〉の「K」、〈視点人物〉

の「先生」と〈対象人物〉の「奥さん」、〈視点人物〉の

「学生であった私」と〈対象人物〉の「先生」、「学生

であった私」の「両親」などの関係の中で重層的に浮

かび上がってくる「余所余所しさ」(「自由と独立と己

れ」に満ちた「明治の精神」の陥穽に気が付いた「先

生」の対処の仕方)の問題、〈交流と断絶、衝突〉が問

題となっていく。〈対象人物〉によって〈視点人物〉が

重層的に問われている。「先生」も、「学生であった私」

も、「先生」の「奥さん」も、〈視点人物〉と一体化し

ている、生身の〈語り手〉も、〈機能としての語り手〉

によって問われている。〈機能としての語り手〉が、こ

のことを〈聴き手〉に問う。読者に問う。このことは

「先生」の遺書を、「先生」の願いに反して、生身の〈語

り手〉の「私」が自らの手記の中に引用し公表したの

かというナゾに関わっていくのである。ナンダ、コ

レ?!(「ケロちゃん危機一髪」は、〈客体〉としての

〈対象〉に関わる問題であり、これらの〈小説〉に向

き合っていく始まりに関わっている。「言語以前・了解

不能 第三項の領域」に配置されている〈主体〉と〈客

体〉との間に抜き差しならない事態が生起し、そのこ

とを浮かび上がらせる〈機能としての語り手〉を設定

するならば、「一刻」がこのように問題化されていくの

である。) ⑤ 村上春樹「風の歌を聴け」の「仏文科の女の子」、

そして魯迅「故郷」の「希望」のこと

「風の歌を聴け」における〈視点人物〉の「21 歳の

僕」と〈対象人物〉の「仏文科の女の子」の〈交流と断

絶、衝突〉に関わるナゾを思い起こしてみよう。〈視点

人物〉の側に立つ〈語り手〉、「29 歳の僕」が問われて

いる。「完璧な文章などといったものは存在しない。完

璧な絶望が存在しないようにね。」としながらの、「29歳の僕」の「書くこと」は闘いの中にある。事態が〈機

能としての語り手〉によって問われている。〈対象人物〉

の「仏文科の女の子」の側から〈視点人物〉の「21 歳

の僕」を、事態を相対化しきれない〈語り手〉の「29歳の僕」を問題化していく〈機能としての語り手〉が、

このことを〈聴き手〉に問う。読者に問う。

「ねえ、私を愛してる?」(彼女) 「もちろん。」(僕) 「結婚したい?」(彼女) 「今、すぐに?」(僕) 「いつか……もっと先によ?」(彼女) 「もちろん結婚したい。」(僕) 「でも私が訊ねるまでそんなこと一言だって言わな

かったわ。」(彼女) 「言い忘れてたんだ。」(僕) 「……子供は何人ほしい?」(彼女) 「3 人。」(僕) 「男? 女?」(彼女) 「女が 1 人に男が 2 人。」(僕)

彼女はコーヒーで口の中のパンをかみ下してから じっと僕の顔を見た。 「嘘つき!」(彼女)

と彼女は言った。 しかし彼女は間違っている。僕はひとつしか嘘を

つかなかった。 ナンダ、コレ?!「21 歳の僕」と「仏文科の女の子」

の〈交流と断絶、衝突〉は二人の世界観の違いに関わ

っている。「ひとつ」の嘘の重さに関わっている。問題

は「愛」は「数値」で示せるのかどうかに関わってい

る。「ひとつ」の「嘘」とは「数値」で「愛」を語って

いることであり、29 歳の「僕」は書き記すことによっ

て、この問題を問い直し続けようとしている。「完璧な

文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存

在しないようにね」と言いながら、「完璧」に槌を打ち

込もうとしている。〈立場〉を超えようとしている。こ

Page 7: 文学教育を拓く、今日の「国語科」の課題―― 問題提起として( … · ら大の卵を選んで来い、ということであった。一個 15 円の卵を10

-68-

かつてわたくしは『〈対話〉をひらく文学教育――境

界認識の成立――』(1989 年 12 月 有精堂)を出したこ

とがあるが、その〈対話〉をめぐる足踏みを問題化し

ていくことによって、「文学教育を拓く」という、本稿

の課題の方に焦点化されていくことになる。「生活上の

分類」(真実に対する......

誤り)から「世界観上の真偽の分

類」(真実の中での....

「誤り」)への転回が問題として浮

かび上がってくるのである。 (2)「生活上の分類」(真実に対する

......誤り)と「世界

観上の真偽の分類」(真実の中での....

「誤り」)

① 大森荘蔵「真実の百面相」の「一刻」/宮澤賢治「注

文の多い料理店」の「白熊のような犬」問題

「生活上の分類」(真実に対する......

誤り)と「世界観上

の真偽の分類」(真実の中での....

「誤り」)との違いとは、

大森荘蔵の「真実の百面相」(『流れとよどみ――哲学断

章』(産業図書 1981 年 5 月)に収録)の提起である。

道が続いていると思ったら、海だった。車(🚗🚗)は海

に突入してしまった。大森は、この事態を「生活上の

分類」(真実に対する......

誤り)としてだけではなく、「世

界観上の真偽の分類」(真実の中での....

「誤り」)として

捉えることができる、と言う。とすると、「一刻」、「道」

は確かにあったのだ、と。 ナンダ、コレ?! これも世界観認識の問題か。 宮澤賢治の「注文の多い料理店」では死んだ「二疋」

の「白熊のような犬」( )が生き返えっている。

ナンダ,コレ?! 「紳士」は「山猫の子分」だった。

「二人の紳士」が「ふと後ろを見」ると現れた「山猫

軒」(🏠🏠)は「東京」だった。「山奥」は「東京」だった

のだ。しかし、〈視点人物〉の「二人の紳士」(👤👤👤👤)は

このことに気が付いていない。それゆえに、恐怖のあ

まり「一ぺん紙くずのようになった顔」は元に戻らな

かったのである。〈対象人物〉の二匹の「山猫の子分」

( )の側から〈視点人物〉の「二人の紳士」との

同一性を問題化していく〈機能としての語り手〉が、

こうした事態を〈聴き手〉に問う。読者に問う。この

作品では、「一刻」が「二人の紳士」にとって「一刻」

のことではなく、〈対象人物〉の「白熊のような犬」の

〈命〉が〈お金〉の価値でのみとらえられている限り、

自らの〈欲望〉を自明のものとし続ける限り、永続的

な事態であることが問われている。「言語以前・了解不

能 第三項の領域」によって、〈視点人物〉と〈対象人

物〉との間が遮られていることが事態の源泉であり、

両者の同一性が〈機能としての語り手〉によって問わ

れているのである。〈交流〉が〈断絶、衝突〉であった

ことが、だ。(「注文の多い料理店」では、「世界観上の

真偽の分類」(真実の中での....

「誤り」)としての「一刻」

の事態がこのように問題化されている。わたし...

とあな..

た.の対話

..の機能不全という事態が問題化されている。

世界観認識の問題が問われ続けていくのである。) ② 三島由紀夫「美神」の「3 センチ」の裏切りのこと

「美神」における〈視点人物〉の「R 博士」と〈対象

人物〉の「アフロディテ」の石像との「交流」と「衝

突」を思い起こしてみよう。「アフロディテ」の石像に

魅せられた「R」は 2.14 メートルの石像の高さを 2.17メートルと学界に発表した。「アフロディテ」を独り占

めしようとした。死の床で、優越感に浸りたいと思っ

た「R」は、親しい、この世で唯一信頼している医者の

「N 博士」に、この秘密を告白し、石像の高さを測ら

せる。すると、高さは 2.17 メートルであった。ナンダ、

コレ?!「R」は、自ら「アフロディテ」の秘密、学者

としての学界における信頼をなげうってまでの行為を

「N」に告白し、「アフロディテ」を裏切ってしまった

のである。しかし、「R」はそのことに気がつかない。

「R博士」は「アフロディテ」に、

「裏切りをつたな」

と言う。「R」は、「アフロディテ」が裏切った、と思

って死んでいった。このことが「アフロディテ」の石

像によって問われている。この三人称小説においては、

〈語り手〉によって、〈視点人物〉の「R 博士」が問わ

れている。〈対象人物〉の「アフロディテ」の側から〈視

点人物〉の「R博士」を問題化していく〈語り手〉が、

このことを〈聴き手〉に問う。読者に問う。「美神」で

も〈語り手〉が登場人物ではないので、〈機能としての

語り手〉によって、ということになる。この機能が、3センチのナゾを「R博士」の裏切りとして問題化して

いるのである。〈交流〉が〈断絶、衝突〉であったこと

が、だ。(「三日月」の話は、〈客体〉としての〈対象〉

に関わる問題であり、この小説に向き合っていく始ま

りに関わっている。「言語以前・了解不能 第三項の領

域」に配置されている〈主体〉と〈客体〉との間に抜

き差しならない事態が生起し、そのことを浮かび上が

らせる〈機能としての語り手〉を設定するならば、「一

刻」がこのように問題化されていくのである。) ③ 村上春樹「鏡」の「僕以外の僕」の憎しみのこと

「鏡」における〈視点人物〉の「鏡の外の僕」と〈対

象人物〉の「鏡の中の僕」との〈交流と断絶、衝突〉を

思い起こしてみよう。「体制打破」を標榜し、単純労働

をしながら、全国を放浪し、「僕」は中学校の夜警のア

ルバイトをしたこともある。ある晩、玄関にあった「鏡」

に「僕」が写っていた。「鏡の中の僕」が「僕以外の僕」

で、「鏡の外の僕」を憎んでいる。「僕」は「鏡」を「木

刀」で叩き割ったが、翌朝には「鏡」の破片すらそこ

にはなかった。昨日吸っていたたばこの吸い殻は落ち

-69-

ていたのだが。ナンダ、コレ?!「鏡の外の僕」はこ

の出来事を直視することを回避し、生き続けてきた。

そして、10 年後、今の「僕」の部屋には「鏡」はない。

〈対象人物〉の「鏡の中の僕」の側から〈視点人物〉

の「鏡の外の僕」を問題化していく〈機能としての語

り手〉が、このことを〈聴き手〉に問う。読者に問う。

このことは〈語り手〉の「僕」の現在に関わっていく。

「僕」の部屋には「鏡」がない。この事態を〈機能と

しての語り手〉が問題化していくのである。〈交流〉が

〈断絶、衝突〉であったことが、だ。(「鏡のなかの世

界」は、〈客体〉としての〈対象〉に関わる問題であり、

この〈小説〉に向き合っていく始まりに関わっている。

「言語以前・了解不能 第三項の領域」に配置されて

いる〈主体〉と〈客体〉との間に抜き差しならない事

態が生起し、そのことを浮かび上がらせる〈機能とし

ての語り手〉を設定するならば、「一刻」がこのように

問題化されていくのである。) ④ 森鷗外「舞姫」の「エリス」と「母」/夏目漱石「こ

ころ」の「余所余所しさ」と裏切りのこと

鷗外の「舞姫」の〈視点人物〉の「余」と〈対象人

物〉の「エリス」、識域下の〈対象人物〉の「母」の問

題、「余」は二人の女性によって問われている。このこ

とは「余」がなぜベルリンでの思い出を手記にまとめ

ようとしたのかのナゾに関わっていく。ナンダ、コ

レ?!〈交流と断絶、衝突〉、この事態のたどり着いた

地点に関わっていくのである。漱石の「こころ」の〈視

点人物〉の「先生」と〈対象人物〉の「K」、〈視点人物〉

の「先生」と〈対象人物〉の「奥さん」、〈視点人物〉の

「学生であった私」と〈対象人物〉の「先生」、「学生

であった私」の「両親」などの関係の中で重層的に浮

かび上がってくる「余所余所しさ」(「自由と独立と己

れ」に満ちた「明治の精神」の陥穽に気が付いた「先

生」の対処の仕方)の問題、〈交流と断絶、衝突〉が問

題となっていく。〈対象人物〉によって〈視点人物〉が

重層的に問われている。「先生」も、「学生であった私」

も、「先生」の「奥さん」も、〈視点人物〉と一体化し

ている、生身の〈語り手〉も、〈機能としての語り手〉

によって問われている。〈機能としての語り手〉が、こ

のことを〈聴き手〉に問う。読者に問う。このことは

「先生」の遺書を、「先生」の願いに反して、生身の〈語

り手〉の「私」が自らの手記の中に引用し公表したの

かというナゾに関わっていくのである。ナンダ、コ

レ?!(「ケロちゃん危機一髪」は、〈客体〉としての

〈対象〉に関わる問題であり、これらの〈小説〉に向

き合っていく始まりに関わっている。「言語以前・了解

不能 第三項の領域」に配置されている〈主体〉と〈客

体〉との間に抜き差しならない事態が生起し、そのこ

とを浮かび上がらせる〈機能としての語り手〉を設定

するならば、「一刻」がこのように問題化されていくの

である。) ⑤ 村上春樹「風の歌を聴け」の「仏文科の女の子」、

そして魯迅「故郷」の「希望」のこと

「風の歌を聴け」における〈視点人物〉の「21 歳の

僕」と〈対象人物〉の「仏文科の女の子」の〈交流と断

絶、衝突〉に関わるナゾを思い起こしてみよう。〈視点

人物〉の側に立つ〈語り手〉、「29 歳の僕」が問われて

いる。「完璧な文章などといったものは存在しない。完

璧な絶望が存在しないようにね。」としながらの、「29歳の僕」の「書くこと」は闘いの中にある。事態が〈機

能としての語り手〉によって問われている。〈対象人物〉

の「仏文科の女の子」の側から〈視点人物〉の「21 歳

の僕」を、事態を相対化しきれない〈語り手〉の「29歳の僕」を問題化していく〈機能としての語り手〉が、

このことを〈聴き手〉に問う。読者に問う。

「ねえ、私を愛してる?」(彼女) 「もちろん。」(僕) 「結婚したい?」(彼女) 「今、すぐに?」(僕) 「いつか……もっと先によ?」(彼女) 「もちろん結婚したい。」(僕) 「でも私が訊ねるまでそんなこと一言だって言わな

かったわ。」(彼女) 「言い忘れてたんだ。」(僕) 「……子供は何人ほしい?」(彼女) 「3 人。」(僕) 「男? 女?」(彼女) 「女が 1 人に男が 2 人。」(僕)

彼女はコーヒーで口の中のパンをかみ下してから じっと僕の顔を見た。 「嘘つき!」(彼女)

と彼女は言った。 しかし彼女は間違っている。僕はひとつしか嘘を

つかなかった。 ナンダ、コレ?!「21 歳の僕」と「仏文科の女の子」

の〈交流と断絶、衝突〉は二人の世界観の違いに関わ

っている。「ひとつ」の嘘の重さに関わっている。問題

は「愛」は「数値」で示せるのかどうかに関わってい

る。「ひとつ」の「嘘」とは「数値」で「愛」を語って

いることであり、29 歳の「僕」は書き記すことによっ

て、この問題を問い直し続けようとしている。「完璧な

文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存

在しないようにね」と言いながら、「完璧」に槌を打ち

込もうとしている。〈立場〉を超えようとしている。こ

Page 8: 文学教育を拓く、今日の「国語科」の課題―― 問題提起として( … · ら大の卵を選んで来い、ということであった。一個 15 円の卵を10

-70-

の事態を〈機能としての語り手〉が問題化し、〈聴き手〉

に問う。読者に問う。「僕」の文章には、魯迅の「鉄の

部屋」(『吶喊』自序)の、自己の「絶望」によって「希

望」の存在を否定できないという「希望」の論理、「歩

く人が多くなればそれが道になるのだ」(「故郷」)の論

理が沈んでいる、ということができるだろう。〈視点人

物〉の「私」にとっての〈対象人物〉の「楊おばさん」、

「閏土」の見えない世界は、〈語り手〉でもある「私」

にとっての了解不能の《他者》をめぐる問題であり、

「私」には世界観認識の転換が問われている。このこ

との困難さが現れ出てくることによって、「希望」が問

われている。それゆえに、「希望」は外部に属している、

となる。こうした事態が〈機能としての語り手〉によ

って照らし出され、「歩く人が多くなればそれが道にな

るのだ」という〈語り手〉の「私」の言葉が意味づけ

られ、〈聴き手〉に問う。読者に問う。「私」に「希望」

が思い浮かべられないことが「希望」に転回していく

のである。〈交流と断絶、衝突〉、世界観認識が問われ

ることによって、だ。(〈言葉以前〉によって〈言葉以

後〉が囲い込まれていく。これらの〈小説〉では、〈機

能としての語り手〉によって、「一刻」がこのように問

題化されているのである。) (3)〈困った質問〉に「言語以前・了解不能 第三項

の領域」という事態を見出し、〈対象人物〉から

の折り返し、〈機能としての語り手〉問題を問う

ていくと、〈近代の物語文学〉と〈近代小説〉の

違いという課題の現れ

「三日月」、「鏡のなかの世界」、「ケロちゃん危機一髪」

の事例で問われているのは、まずは〈主体〉の相対化

(ポストモダン)である。世界観認識の相対性が問わ

れている。さらに、これらの事例に 2 つの場面を問う

〈機能としての語り手〉を設定すると、〈視点人物〉(こ

ちら側、鏡の外、ケロちゃんの側)と〈対象人物〉(向

こう側、鏡の中、ゴリちゃんの側)の〈交流と断絶、

衝突〉という事態が問題化され、〈視点人物〉と〈視点

人物〉の立場に立つ〈語り手〉の〈主体〉の再構築(ポ

スト・ポストモダン)という課題が拓かれていく。〈立

場〉の問題化である。「三日月」の「右」「左」をめぐ

る〈困った質問〉は「ウチ」(👤👤)をめぐる問題である。

〈立場〉の無自覚に関わる問題である。現在において、

この事態は〈ナンデモアリと価値絶対主義の癒着〉と

なっていく。この事態を超えていくことが、本稿で問

題にする「問い直して」を「問い直して」という課題

となっていくのである。このことは「美神」、「鏡」、「舞

姫」、「こころ」、「風の歌を聴け」、「故郷」などの〈近

代小説〉の掘り起こしに向かっていく。了解不能の《他

者》という事態が問題化されていく。こうした探究が、

「今日の「国語科」の課題」をひらいていく〈開いて

いく/拓いていく〉のである。

(4)「問い直して」を、「問い直して」を「問い直し

て」というように掴み直して

〈困った質問〉をめぐる探究は、「次期学習指導要領」

(国語科)の「言葉による見方・考え方」の「対象と

言葉、言葉と言葉の関係」を「問い直して意味付ける

こと」という提起を「問い直して」を「問い直して」

に拓いていくことになる。〈視点人物〉による「問い直

して」では対応不能だから、認識の対象は認識者の立

場を超えて捉えることはできないからである。〈視点人

物〉(👤👤)にとって〈対象人物〉=〈相手〉(👤👤)とは了

解不能の《他者》である。ここに「問い直して」を「問

い直して」という課題が現れる。「問い直して」では、

〈相手〉の立場を自分なりに知ることを超えることは

できず、「問い直して」を「問い直して」では、〈相手〉

の立場を知ることに止まることなく、〈相手〉の立場を

自分なりに知ることを超えることはできないことが問

題化され、その困難さの中で、考え直し続け、〈立場〉

の問題が問題化され、〈主体〉の再構築が問われ続けて

いくのである。 こうした「問い直して」と「問い直して」を「問い

直して」へのこだわりが〈交流と断絶、衝突〉の教育

学の入り口となる。〈交流〉は分かったと思うことを前

提にし、〈断絶、衝突〉は分からないことを前提にする。

このことは、「主体的・対話的で深い学び」の「主体」

と「対話」の核心が〈相手〉の立場、了解不能の《他

者》からの振り返りにあることを示している。「教室」

が学びの場であることの根拠に関わっていくのである。 さらに、このことは、「予測困難な時代」(「中教審答

申」平成 28 年 12 月 21 日)という課題が「予測可能」

な事態に反転していくこと(「次期学習指導要領」の落

とし穴)に自覚的に向き合い、まさに「予測困難」な

事態を「予測困難」な事態として受け止め続けていく

ことになる。「予測困難な時代」について具体的に事態

を提起した瞬間に、そう認識しているわけだから、事

態は「予測可能な時代」となってしまう。それゆえに、

「予測困難な時代」という問題は認識の内部と外部の

問題として問われていくことが求められている。する

と、〈ポストモダン〉が問題の焦点として浮かび上がり、

〈ポスト・ポストモダン〉の時代を拓くという課題が

問われていく。「問い直して」に止まることなく、「問

い直して」を「問い直して」をめぐる課題が現れ出て

くる。こうした把握は、「中教審答申」、「次期学習指導

要領」のもやもやした事態に眠り込まされている可能

性の地平を拓いていく。この地平に〈近代小説〉の教

材価値と〈近代の物語文学〉の教材価値をめぐる課題

-71-

が現れ出てくるのである。 課題の焦点は、〈相手〉とは了解不能の《他者》であ

る、ということにある。〈言語以前〉という事態に関わ

っている。「ナンダ、コレ?!」の坩堝、世界観認識の

倒壊体験の中で、わたくしは、〈主体〉と〈客体〉の二

元論ではなく、田中実が提起する〈主体〉と〈主体が

捉えた客体〉、そして〈客体そのもの〉(第三項)の了

解不能性との向き合い方を問う、「第三項理論」に出会

っていった。文学作品の教材価値の掘り起こし、授業

構想の提案に取り組んでいくことになった。〈困った質

問〉がその扉を開いていくのである。 2.「予測困難な時代」/「言葉による見方・考

え方」の再定義が拓く、「今日の「国語科」

の課題」(「特別の教科 道徳」の課題も)

(1)問題を「今日の「国語科」の課題」に、「特別の

教科 道徳」の「文学教育」?に引き付けて

「今日の「国語科」の課題」は、「次期学習指導要領」

の「言葉による見方・考え方」が提起する「対象と言

葉、言葉と言葉の関係」を「問い直して」に止まるこ

となく、「問い直して」を「問い直して」に進み出てい

くことにある。「対象と言葉、言葉と言葉の関係」を「外

部の客体とそれを捉えようとする主体の関係」のこと

とするならば、そこには了解不能性をめぐる事態が潜

在しているからである。このことに着目し、「次期学習

指導要領」の足踏みを問い、その克服のための視界を

拓いていくことが求められている。「予測困難な時代」

という課題が捉え直されていくことによって、である。 しかし、そうはなっていない。 「特別の教科 道徳」の場合、その課題は何か。それ

は、22 の「徳目」の指導と「考え、議論する道徳」の

授業の創造のネジレの克服ということ。だったらどう

するか、となっていくのだが、「特別の教科 道徳」に

おいても、そうはなっていない。「問い直して」自体が

機能していないのである。「道徳科における見方・考え

方」は「様々な事象を道徳的主価値を基に自己との関

わりで(広い視野から)多面的・多角的に捉え、自己

の(人間としての)生き方について考えること」(小学

校・中学校の「次期学習指導要領」(特別の教科 道徳) 引用文のカッコ内は中学校のみ)とされているが、「多

面的・多角的」な学習とは程遠い教材が提起され、学

習がその中に閉じ込められてしまっている。そのため

に、文学みたいな〈物語〉が教材とされている。この

事態は「国語科」において文学作品が「読むこと」の

対象から「教養」の対象にされ、結果として教材とし

て軽視されてしまっている事態とともに現れ出てきて

いる。この事態は、1980 年代以降の〈ポストモダン〉

の〈ナンデモアリ〉の世界観認識の台頭とその対極の

価値絶対主義の台頭という事態の癒着という事態に抱

え込まれてしまっている。これは「読むこと」の排除、

その準拠枠の喪失という事態の帰結である。この事態

が「問い直して」自体を抑え込み発動させないように

し、「問い直して」を「問い直して」への道を塞いでし

まっているのである。「国語科」の場合でも。 「かぼちゃのつる」(小 1、「特別の教科 道徳」)、「少

年の日の思い出」(中 1、「国語科」)、「ごんぎつね」(小

4、「国語科」)を例にして、具体的に見ていこう。 ➀「かぼちゃのつる」(大蔵宏之)

「特別の教科 道徳」の教材「かぼちゃのつる」の場

合、これが「蔓を切られた「かぼちゃ」がかわいそう?」

という発言を〈困った質問〉として排除する〈物語〉

になっていることが問われることのない授業がなされ

ている。これでは文部科学省の「考え、議論する道徳」

の提起に反しているにもかかわらず、である。〈物語〉

の質が問われているのだが、このことを問わない授業

がなされている。今日、このような「特別の教科 道

徳」における「文学教育の挑戦」といかに対峙するの

かが問われている。「問い直して」が「徳目」に収斂し

てしまう事態の克服が課題ということになる。

かぼちゃばたけの かぼちゃは、つるを はたけの

そとへ ぐんぐん のばしていきました。 ぼくは こっちへ のびよう。(かぼちゃ) かぼちゃさん、そっちへ のびては だめですよ。 (みつばち) そんな こと かまうもんか。(かぼちゃ) かぼちゃさん、ここは わたしの はたけだから、

はいって こないで ください。(となりのはたけのす

いか) なんだと、ちょっとくらい はいったって いいじ

ゃないか。(かぼちゃ) かぼちゃさん、ここは、みんなが とおる みちで

すよ。ここに のびては、こまりますよ。(こいぬ) またいで とおれば いいじゃ ないか。(かぼちゃ) こいぬは おこって、かぼちゃの つるを ふみつ

けました。 かぼちゃは つるを こいぬに ふまれても へ

いきなかおを して います。 ぶるるるるるる……。くるまが みちを とおって

いきました。 いたいよう、いたいよう。(かぼちゃ) かぼちゃは、 ぽろぽろ ぽろぽろ なみだを な

がして なきました。 (「特別の教科 道徳」は、平成 27 年 3 月に学習指導要領が

一部改正され、小学校では平成 30 年度より全面実施されて

Page 9: 文学教育を拓く、今日の「国語科」の課題―― 問題提起として( … · ら大の卵を選んで来い、ということであった。一個 15 円の卵を10

-70-

の事態を〈機能としての語り手〉が問題化し、〈聴き手〉

に問う。読者に問う。「僕」の文章には、魯迅の「鉄の

部屋」(『吶喊』自序)の、自己の「絶望」によって「希

望」の存在を否定できないという「希望」の論理、「歩

く人が多くなればそれが道になるのだ」(「故郷」)の論

理が沈んでいる、ということができるだろう。〈視点人

物〉の「私」にとっての〈対象人物〉の「楊おばさん」、

「閏土」の見えない世界は、〈語り手〉でもある「私」

にとっての了解不能の《他者》をめぐる問題であり、

「私」には世界観認識の転換が問われている。このこ

との困難さが現れ出てくることによって、「希望」が問

われている。それゆえに、「希望」は外部に属している、

となる。こうした事態が〈機能としての語り手〉によ

って照らし出され、「歩く人が多くなればそれが道にな

るのだ」という〈語り手〉の「私」の言葉が意味づけ

られ、〈聴き手〉に問う。読者に問う。「私」に「希望」

が思い浮かべられないことが「希望」に転回していく

のである。〈交流と断絶、衝突〉、世界観認識が問われ

ることによって、だ。(〈言葉以前〉によって〈言葉以

後〉が囲い込まれていく。これらの〈小説〉では、〈機

能としての語り手〉によって、「一刻」がこのように問

題化されているのである。) (3)〈困った質問〉に「言語以前・了解不能 第三項

の領域」という事態を見出し、〈対象人物〉から

の折り返し、〈機能としての語り手〉問題を問う

ていくと、〈近代の物語文学〉と〈近代小説〉の

違いという課題の現れ

「三日月」、「鏡のなかの世界」、「ケロちゃん危機一髪」

の事例で問われているのは、まずは〈主体〉の相対化

(ポストモダン)である。世界観認識の相対性が問わ

れている。さらに、これらの事例に 2 つの場面を問う

〈機能としての語り手〉を設定すると、〈視点人物〉(こ

ちら側、鏡の外、ケロちゃんの側)と〈対象人物〉(向

こう側、鏡の中、ゴリちゃんの側)の〈交流と断絶、

衝突〉という事態が問題化され、〈視点人物〉と〈視点

人物〉の立場に立つ〈語り手〉の〈主体〉の再構築(ポ

スト・ポストモダン)という課題が拓かれていく。〈立

場〉の問題化である。「三日月」の「右」「左」をめぐ

る〈困った質問〉は「ウチ」(👤👤)をめぐる問題である。

〈立場〉の無自覚に関わる問題である。現在において、

この事態は〈ナンデモアリと価値絶対主義の癒着〉と

なっていく。この事態を超えていくことが、本稿で問

題にする「問い直して」を「問い直して」という課題

となっていくのである。このことは「美神」、「鏡」、「舞

姫」、「こころ」、「風の歌を聴け」、「故郷」などの〈近

代小説〉の掘り起こしに向かっていく。了解不能の《他

者》という事態が問題化されていく。こうした探究が、

「今日の「国語科」の課題」をひらいていく〈開いて

いく/拓いていく〉のである。

(4)「問い直して」を、「問い直して」を「問い直し

て」というように掴み直して

〈困った質問〉をめぐる探究は、「次期学習指導要領」

(国語科)の「言葉による見方・考え方」の「対象と

言葉、言葉と言葉の関係」を「問い直して意味付ける

こと」という提起を「問い直して」を「問い直して」

に拓いていくことになる。〈視点人物〉による「問い直

して」では対応不能だから、認識の対象は認識者の立

場を超えて捉えることはできないからである。〈視点人

物〉(👤👤)にとって〈対象人物〉=〈相手〉(👤👤)とは了

解不能の《他者》である。ここに「問い直して」を「問

い直して」という課題が現れる。「問い直して」では、

〈相手〉の立場を自分なりに知ることを超えることは

できず、「問い直して」を「問い直して」では、〈相手〉

の立場を知ることに止まることなく、〈相手〉の立場を

自分なりに知ることを超えることはできないことが問

題化され、その困難さの中で、考え直し続け、〈立場〉

の問題が問題化され、〈主体〉の再構築が問われ続けて

いくのである。 こうした「問い直して」と「問い直して」を「問い

直して」へのこだわりが〈交流と断絶、衝突〉の教育

学の入り口となる。〈交流〉は分かったと思うことを前

提にし、〈断絶、衝突〉は分からないことを前提にする。

このことは、「主体的・対話的で深い学び」の「主体」

と「対話」の核心が〈相手〉の立場、了解不能の《他

者》からの振り返りにあることを示している。「教室」

が学びの場であることの根拠に関わっていくのである。 さらに、このことは、「予測困難な時代」(「中教審答

申」平成 28 年 12 月 21 日)という課題が「予測可能」

な事態に反転していくこと(「次期学習指導要領」の落

とし穴)に自覚的に向き合い、まさに「予測困難」な

事態を「予測困難」な事態として受け止め続けていく

ことになる。「予測困難な時代」について具体的に事態

を提起した瞬間に、そう認識しているわけだから、事

態は「予測可能な時代」となってしまう。それゆえに、

「予測困難な時代」という問題は認識の内部と外部の

問題として問われていくことが求められている。する

と、〈ポストモダン〉が問題の焦点として浮かび上がり、

〈ポスト・ポストモダン〉の時代を拓くという課題が

問われていく。「問い直して」に止まることなく、「問

い直して」を「問い直して」をめぐる課題が現れ出て

くる。こうした把握は、「中教審答申」、「次期学習指導

要領」のもやもやした事態に眠り込まされている可能

性の地平を拓いていく。この地平に〈近代小説〉の教

材価値と〈近代の物語文学〉の教材価値をめぐる課題

-71-

が現れ出てくるのである。 課題の焦点は、〈相手〉とは了解不能の《他者》であ

る、ということにある。〈言語以前〉という事態に関わ

っている。「ナンダ、コレ?!」の坩堝、世界観認識の

倒壊体験の中で、わたくしは、〈主体〉と〈客体〉の二

元論ではなく、田中実が提起する〈主体〉と〈主体が

捉えた客体〉、そして〈客体そのもの〉(第三項)の了

解不能性との向き合い方を問う、「第三項理論」に出会

っていった。文学作品の教材価値の掘り起こし、授業

構想の提案に取り組んでいくことになった。〈困った質

問〉がその扉を開いていくのである。 2.「予測困難な時代」/「言葉による見方・考

え方」の再定義が拓く、「今日の「国語科」

の課題」(「特別の教科 道徳」の課題も)

(1)問題を「今日の「国語科」の課題」に、「特別の

教科 道徳」の「文学教育」?に引き付けて

「今日の「国語科」の課題」は、「次期学習指導要領」

の「言葉による見方・考え方」が提起する「対象と言

葉、言葉と言葉の関係」を「問い直して」に止まるこ

となく、「問い直して」を「問い直して」に進み出てい

くことにある。「対象と言葉、言葉と言葉の関係」を「外

部の客体とそれを捉えようとする主体の関係」のこと

とするならば、そこには了解不能性をめぐる事態が潜

在しているからである。このことに着目し、「次期学習

指導要領」の足踏みを問い、その克服のための視界を

拓いていくことが求められている。「予測困難な時代」

という課題が捉え直されていくことによって、である。 しかし、そうはなっていない。 「特別の教科 道徳」の場合、その課題は何か。それ

は、22 の「徳目」の指導と「考え、議論する道徳」の

授業の創造のネジレの克服ということ。だったらどう

するか、となっていくのだが、「特別の教科 道徳」に

おいても、そうはなっていない。「問い直して」自体が

機能していないのである。「道徳科における見方・考え

方」は「様々な事象を道徳的主価値を基に自己との関

わりで(広い視野から)多面的・多角的に捉え、自己

の(人間としての)生き方について考えること」(小学

校・中学校の「次期学習指導要領」(特別の教科 道徳) 引用文のカッコ内は中学校のみ)とされているが、「多

面的・多角的」な学習とは程遠い教材が提起され、学

習がその中に閉じ込められてしまっている。そのため

に、文学みたいな〈物語〉が教材とされている。この

事態は「国語科」において文学作品が「読むこと」の

対象から「教養」の対象にされ、結果として教材とし

て軽視されてしまっている事態とともに現れ出てきて

いる。この事態は、1980 年代以降の〈ポストモダン〉

の〈ナンデモアリ〉の世界観認識の台頭とその対極の

価値絶対主義の台頭という事態の癒着という事態に抱

え込まれてしまっている。これは「読むこと」の排除、

その準拠枠の喪失という事態の帰結である。この事態

が「問い直して」自体を抑え込み発動させないように

し、「問い直して」を「問い直して」への道を塞いでし

まっているのである。「国語科」の場合でも。 「かぼちゃのつる」(小 1、「特別の教科 道徳」)、「少

年の日の思い出」(中 1、「国語科」)、「ごんぎつね」(小

4、「国語科」)を例にして、具体的に見ていこう。 ➀「かぼちゃのつる」(大蔵宏之)

「特別の教科 道徳」の教材「かぼちゃのつる」の場

合、これが「蔓を切られた「かぼちゃ」がかわいそう?」

という発言を〈困った質問〉として排除する〈物語〉

になっていることが問われることのない授業がなされ

ている。これでは文部科学省の「考え、議論する道徳」

の提起に反しているにもかかわらず、である。〈物語〉

の質が問われているのだが、このことを問わない授業

がなされている。今日、このような「特別の教科 道

徳」における「文学教育の挑戦」といかに対峙するの

かが問われている。「問い直して」が「徳目」に収斂し

てしまう事態の克服が課題ということになる。

かぼちゃばたけの かぼちゃは、つるを はたけの

そとへ ぐんぐん のばしていきました。 ぼくは こっちへ のびよう。(かぼちゃ) かぼちゃさん、そっちへ のびては だめですよ。 (みつばち) そんな こと かまうもんか。(かぼちゃ) かぼちゃさん、ここは わたしの はたけだから、

はいって こないで ください。(となりのはたけのす

いか) なんだと、ちょっとくらい はいったって いいじ

ゃないか。(かぼちゃ) かぼちゃさん、ここは、みんなが とおる みちで

すよ。ここに のびては、こまりますよ。(こいぬ) またいで とおれば いいじゃ ないか。(かぼちゃ) こいぬは おこって、かぼちゃの つるを ふみつ

けました。 かぼちゃは つるを こいぬに ふまれても へ

いきなかおを して います。 ぶるるるるるる……。くるまが みちを とおって

いきました。 いたいよう、いたいよう。(かぼちゃ) かぼちゃは、 ぽろぽろ ぽろぽろ なみだを な

がして なきました。 (「特別の教科 道徳」は、平成 27 年 3 月に学習指導要領が

一部改正され、小学校では平成 30 年度より全面実施されて

Page 10: 文学教育を拓く、今日の「国語科」の課題―― 問題提起として( … · ら大の卵を選んで来い、ということであった。一個 15 円の卵を10

-72-

いる。「かぼちゃのつる」は小学校の 1 年生の道徳教科書全社

(8 社)共通教材、これは、大蔵宏之作品で『母の友』(昭和

29 年 7 月号、8 月号)初出、『道徳の指導資料 第 3 集(第

1 学年)』(文部科学省)に掲載されていたものだが、ダイジ

ェスト版を教材にし、作者名を載せていない教科書もある。

引用は、K 社の教材文、ダイジェスト版である。)

「特別の教科 道徳」の教科書では、「かぼちゃのき

もち」、「かぼちゃさんに教えたいこと」を考えさせる

教材とされている。「道徳科」で目標にされている 22の「徳目」の 1 つ、「節度・節制」を教えるための教材

にされている。原作は「おひさまが、ぎんぎら ぎん

ぎら まぶしい あさです。」と始まり、〈命〉の誕生

という場が設定されており、〈対象人物〉の横暴な行為

が語られ、単純に「わがままなかぼちゃ」とはされて

いない。しかし、教科書では「わがまま」はいけない

という「徳目」が先行(ダイジェスト版ではなおさら

そうされている)し、こうした〈語り手〉のものの見

方・考え方が「徳目」として絶対化されている。〈視点

人物〉の「かぼちゃ」の認識は、〈対象人物〉の「みつ

ばち」、「すいか」、「こいぬ」、「くるま」の認識によっ

て、「わがまま」とさせられている。〈語り手〉は〈視

点人物〉を裏切り、〈対象人物〉の側に立つ。〈対象人

物〉の〈視点人物〉に対する包囲網の中で、〈語り手〉

は問われることなく、「徳目」の絶対化が図られている。

(「問い直して」NG) それだけでなく、読書行為とし

て「読むこと」を看過し、学習者を「かぼちゃさんは

わがまま」に誘導しようとし、「かぼちゃさんはかわい

そう!?」を「困った質問」とし、排除する教科書/

排除する授業となっているのである。(「問い直して」

NG) このような二重の排除。これでは「考え、議論する

道徳」(文部科学省のキャッチ・フレーズ)にはならな

い。このことは「特別の教科 道徳科」、「教科書」と

「授業」の問題点である。原作の「かぼちゃのつる」

の冒頭の「おひさまが、ぎんぎら ぎんぎら まぶし

い あさです。」から思い浮かべることのできる「かぼ

ちゃ」の「内心」はダイジェスト版では全く排除され

ている。原作においては、〈対象人物〉は絶対化されて

おらず、〈視点人物〉の成長への願いも思い浮かべるこ

とができるように語られ、〈語り手〉も〈視点人物〉を

裏切っていないのであるが、原作を教材としている教

科書と授業においても、こうしたことは看過されてい

るのである。 「問い直して」の教育が既有の「徳目」に回収されて

しまう。〈対象人物〉の認識は〈視点人物〉の認識を既

有の「徳目」に囲い込んでいく。こうした「特別の教

科 道徳」の問題点は、「国語科」の、文学教材を「言

語文化」として扱い、読書行為としての「読むこと」

の対象としないという問題点と連動している。読書行

為としての「読むこと」による「問い直して」は軽視

され、「問い直して」を「問い直して」という課題に展

開していくことはないからである。 この事態は後述するが、「国語科」の文学教材の扱い

方に止まらず、高等学校の「国語科」の科目編成に端

的にも現れている。文学作品の教材価値が公的に認定

されたものとして、学習者に提示される事態は、読書

行為としての「読むこと」を看過し、学習者の「内心

の自由」に対する抑圧となっていく。読書行為として

の「読むこと」の場の保障とともに教材が提示されて

いないからである。「次期学習指導要領」で、高等学校

の「国語科」において、必修の「現代の国語」から文

学教材が排除され、必修の「言語文化」では文学教材

は読書行為としての「読むこと」の対象とされず、選

択の「文学国語」も同様の事態に陥っている。こうし

た事態も「特別の教科 道徳」における排除の事態に

通じているのである。 ➁「かぼちゃのつる」の〈物語〉と「桃太郎」の〈物語〉

〈視点人物〉、〈語り手〉の世界観の切実さの有無が

問われている。確かに「桃太郎」の〈物語〉も「問い

直して」が排除されている。しかし、「桃太郎」の〈物

語〉における〈視点人物〉の「桃太郎」や〈語り手〉

の切実な〈立場〉(おじいさん・おばあさんに対する

思い、貧しさからの脱却の願いという「内心」)の現

れと「かぼちゃのつる」における〈視点人物〉のかぼ

ちゃの切実な〈立場〉(内心)の消去、これは〈語り

手〉による「かぼちゃ」の切実な〈立場〉(内心)の削

除に他ならないのだが、それゆえの「かぼちゃのつる」

における「徳目」の台頭というように両者の違いを捉

えることができる。「桃太郎」の〈物語〉では〈語り

手〉が〈視点人物〉を裏切っていないのに対して、「か

ぼちゃのつる」では〈語り手〉が〈視点人物〉の「か

ぼちゃ」を裏切っている。〈対象人物〉と〈語り手〉

が「徳目」の体現者にされている。すでに本稿で指摘

してきたことであるが、この事態は〈語り手〉の傲慢

さの現れである。〈価値絶対主義〉と〈ポストモダン〉

の〈ナンデモアリ〉とが癒着しているのである。これ

は「読むこと」の排除、その準拠枠の喪失という事態

の帰結である。 ただし、「桃太郎」の〈物語〉においても話型の自己

運動という事態が読者に開かれており、「米英鬼畜」の

〈物語〉までもが作り出されていったことがある。詳

細は滑川道夫の『桃太郎の変容』(東京書籍 1981 年

3 月)が明らかにしていることであるが、これは読者

の問題であると同時に〈物語〉自体の問題であること

を指摘しておこう。芥川龍之介の「桃太郎」は「桃太

-73-

郎」を侵略者として描いている。〈物語〉の作品価値/

教材価値はこうした事態を抜きに論ずることはできな

いのである。ここからは〈言葉以後〉が問われていく

ことになる。 ③「ごんぎつね」(新実南吉)

「国語科」の教材「ごんぎつね」の場合、「「ごんぎつ

ね」が日本語で話していて(考えていて)おかしい?」

という発言を「困った質問」にしてしまい、〈物語〉の

現れ、〈語り手〉による「問い直して」への着眼によっ

て〈困った質問〉に応えることができるにもかかわら

ず、こうした発言を排除する授業がなされている。こ

の事態が、克服の課題である。今日、「国語科」におけ

る「文学教育の排除」といかに対峙するのかが問われ

ている。これは、「ごんぎつね」の場合、「問い直して」

の課題ということになる。出来事→「兵十」によって

語られた出来事→……「茂平」によって語られた出来

事→「わたし」によって語られた出来事→〈聴き手〉、

読者。(「問い直して」OK)しかし、登場人物(〈視点

人物〉の「ごんぎつね」)の心情に焦点化して、〈困っ

た質問〉を排除する教科書/排除する授業となってい

る。(「問い直して」NG)

「ごんぎつね」における「兵十」の語りは、「兵十」

にとっての「問い直して」の〈物語〉である。このこ

とは、作品冒頭の「これは、わたしが小さい時に、村

の茂平というおじいさんから聞いたお話です。」によっ

て示されている。「兵十」の〈物語〉は、村人へ、「茂

平」へ、「わたし」へと伝承されていった。「そのばん、

ごんは、あなの中で考えました。「兵十のおっかあは、

とこについていたにちがいない。それで、兵十が、は

りきりあみを持ち出したんだ。ところが、わしがいた

ずらをして、うなぎを取ってきてしまった。だから、

兵十は、おっかあにうなぎを食べさせることができな

かった。そのまま、おっかあは死んじゃったにちがい

ない。うなぎが食べたい、うなぎが食べたいと思いな

がら、死んだんだろう。ちょっ、あんないたずらをし

なけりゃあよかった。」という〈視点人物〉の「ごんぎ

つね」の声は、「兵十」の声であったのだ。〈聴き手〉、

読者がそのように受け止めるかどうかが問われている。

「ごんぎつね」は〈語り手〉の「問い直して」の〈物

語〉であったというように受け止めるかどうかが、で

ある。「兵十」は「ふと顔を上げ」ると、「きつねがう

ちの中に入ったではありませんか。こないだ、うなぎ

をぬすみやがったごんぎつねめが、またいたずらをし

に来たな」と思い、「火なわじゅう」で撃ち殺してしま

う。その時に、「兵十」は「栗」や「松茸」を自分の所

に届けに来ていたのが「ごん」であることを知り、「兵

十」は「火なわじゅうをばたりと、とり落と」す。「青

いけむりが、まだ、つつ口から細く出てい」る。この

出来事の後に、「兵十」は「村人」に「ごんぎつね」の

ことを語る。したがって、「ごん」の思いは「兵十」の

思いである。「兵十」は、「ごん」が自分と同じように

「母」を失い、「一人ぼっち」であるのに、「草の深い

ところ」「お百しょうのうちのうら」「六地蔵さんのか

げ」「物置のうしろ」「うら口」「道のかた側」「いどの

そば」「かげぼうしをふみふみ」「うちのうら口」とい

うように、人間と接しないに気を付けていることも思

い起こしている。それでも「ごん」は「兵十」に償い

のために「栗」や「松茸」を届けにきた。このように

「兵十」は「ごん」のことを思い起こしている。「兵十」

の「問い直して」の〈物語〉の伝承、それを引き継ぐ

「わたし」の語りに「ごんぎつね」の作品価値/教材

価値は関わっているのである。 ➃「ごんぎつね」と「かぼちゃのつる」における〈物語〉、

「桃太郎」における〈物語〉、〈語り手〉に注目して

「ごんぎつね」の〈物語〉は、「かぼちゃのつる」の

〈物語〉とどう違うのか。〈語り手〉の世界観の切実さ

の有無がポイントである。「かぼちゃのつる」の〈語り

手〉には、「ごんぎつね」の〈語り手〉としての「兵十」

の切実さがない。「兵十」にとって語ることは鎮魂の行

為であった。対して、「徳目」を語る「かぼちゃのつる」

の〈語り手〉の揺らぎのなさ。「つる」を切られた「か

ぼちゃ」への〈語り手〉の鎮魂の思いは「かぼちゃの

つる」の〈物語〉には浮かび上がってこない。ここに

も、〈語り手〉の、〈視点人物〉としての「かぼちゃ」

に対する傲慢さ、裏切り問題を指摘することができよ

う。「かぼちゃのつる」の〈語り手〉は絶対者であり、

「言語以前・了解不能 第三項の領域」に属していな

い超越者である。このことを見逃すと、読者は裏切り

の共犯者に追い込まれていくのである。 「ごんぎつね」の〈物語〉は、「桃太郎」の〈物語〉と

どう違うのか。「ごんぎつね」においては、〈語り手〉

は〈生身の語り手〉であり、その人物の価値観の中に

読者が囲い込まれていく。読者の〈ナンデモアリ〉は

〈生身の語り手〉の価値観に規制されている。このレ

ベルで〈語り手〉の「問い直して」の質が「読むこと」

の対象にされていく。〈価値絶対主義〉は排されている

のである。「かぼちゃのつる」においては、〈語り手〉

は〈価値絶対主義〉の体現者であり、このことを前提

にして、読者による〈語り手〉の置き換えが自由であ

る。読者の〈ナンデモアリ〉が許される。〈ナンデモア

リと価値絶対主義の癒着〉という事態に囲い込まれて

いくのである。 ⑤「少年の日の思い出」(ヘルマン・ヘッセ)

「国語科」の教材「少年の日の思い出」の場合、「な

ぜ、前書きがあるの?」という発言を〈困った質問〉

にしてしまい、〈小説〉の現れ、〈語り手〉による「問

Page 11: 文学教育を拓く、今日の「国語科」の課題―― 問題提起として( … · ら大の卵を選んで来い、ということであった。一個 15 円の卵を10

-72-

いる。「かぼちゃのつる」は小学校の 1 年生の道徳教科書全社

(8 社)共通教材、これは、大蔵宏之作品で『母の友』(昭和

29 年 7 月号、8 月号)初出、『道徳の指導資料 第 3 集(第

1 学年)』(文部科学省)に掲載されていたものだが、ダイジ

ェスト版を教材にし、作者名を載せていない教科書もある。

引用は、K 社の教材文、ダイジェスト版である。)

「特別の教科 道徳」の教科書では、「かぼちゃのき

もち」、「かぼちゃさんに教えたいこと」を考えさせる

教材とされている。「道徳科」で目標にされている 22の「徳目」の 1 つ、「節度・節制」を教えるための教材

にされている。原作は「おひさまが、ぎんぎら ぎん

ぎら まぶしい あさです。」と始まり、〈命〉の誕生

という場が設定されており、〈対象人物〉の横暴な行為

が語られ、単純に「わがままなかぼちゃ」とはされて

いない。しかし、教科書では「わがまま」はいけない

という「徳目」が先行(ダイジェスト版ではなおさら

そうされている)し、こうした〈語り手〉のものの見

方・考え方が「徳目」として絶対化されている。〈視点

人物〉の「かぼちゃ」の認識は、〈対象人物〉の「みつ

ばち」、「すいか」、「こいぬ」、「くるま」の認識によっ

て、「わがまま」とさせられている。〈語り手〉は〈視

点人物〉を裏切り、〈対象人物〉の側に立つ。〈対象人

物〉の〈視点人物〉に対する包囲網の中で、〈語り手〉

は問われることなく、「徳目」の絶対化が図られている。

(「問い直して」NG) それだけでなく、読書行為とし

て「読むこと」を看過し、学習者を「かぼちゃさんは

わがまま」に誘導しようとし、「かぼちゃさんはかわい

そう!?」を「困った質問」とし、排除する教科書/

排除する授業となっているのである。(「問い直して」

NG) このような二重の排除。これでは「考え、議論する

道徳」(文部科学省のキャッチ・フレーズ)にはならな

い。このことは「特別の教科 道徳科」、「教科書」と

「授業」の問題点である。原作の「かぼちゃのつる」

の冒頭の「おひさまが、ぎんぎら ぎんぎら まぶし

い あさです。」から思い浮かべることのできる「かぼ

ちゃ」の「内心」はダイジェスト版では全く排除され

ている。原作においては、〈対象人物〉は絶対化されて

おらず、〈視点人物〉の成長への願いも思い浮かべるこ

とができるように語られ、〈語り手〉も〈視点人物〉を

裏切っていないのであるが、原作を教材としている教

科書と授業においても、こうしたことは看過されてい

るのである。 「問い直して」の教育が既有の「徳目」に回収されて

しまう。〈対象人物〉の認識は〈視点人物〉の認識を既

有の「徳目」に囲い込んでいく。こうした「特別の教

科 道徳」の問題点は、「国語科」の、文学教材を「言

語文化」として扱い、読書行為としての「読むこと」

の対象としないという問題点と連動している。読書行

為としての「読むこと」による「問い直して」は軽視

され、「問い直して」を「問い直して」という課題に展

開していくことはないからである。 この事態は後述するが、「国語科」の文学教材の扱い

方に止まらず、高等学校の「国語科」の科目編成に端

的にも現れている。文学作品の教材価値が公的に認定

されたものとして、学習者に提示される事態は、読書

行為としての「読むこと」を看過し、学習者の「内心

の自由」に対する抑圧となっていく。読書行為として

の「読むこと」の場の保障とともに教材が提示されて

いないからである。「次期学習指導要領」で、高等学校

の「国語科」において、必修の「現代の国語」から文

学教材が排除され、必修の「言語文化」では文学教材

は読書行為としての「読むこと」の対象とされず、選

択の「文学国語」も同様の事態に陥っている。こうし

た事態も「特別の教科 道徳」における排除の事態に

通じているのである。 ➁「かぼちゃのつる」の〈物語〉と「桃太郎」の〈物語〉

〈視点人物〉、〈語り手〉の世界観の切実さの有無が

問われている。確かに「桃太郎」の〈物語〉も「問い

直して」が排除されている。しかし、「桃太郎」の〈物

語〉における〈視点人物〉の「桃太郎」や〈語り手〉

の切実な〈立場〉(おじいさん・おばあさんに対する

思い、貧しさからの脱却の願いという「内心」)の現

れと「かぼちゃのつる」における〈視点人物〉のかぼ

ちゃの切実な〈立場〉(内心)の消去、これは〈語り

手〉による「かぼちゃ」の切実な〈立場〉(内心)の削

除に他ならないのだが、それゆえの「かぼちゃのつる」

における「徳目」の台頭というように両者の違いを捉

えることができる。「桃太郎」の〈物語〉では〈語り

手〉が〈視点人物〉を裏切っていないのに対して、「か

ぼちゃのつる」では〈語り手〉が〈視点人物〉の「か

ぼちゃ」を裏切っている。〈対象人物〉と〈語り手〉

が「徳目」の体現者にされている。すでに本稿で指摘

してきたことであるが、この事態は〈語り手〉の傲慢

さの現れである。〈価値絶対主義〉と〈ポストモダン〉

の〈ナンデモアリ〉とが癒着しているのである。これ

は「読むこと」の排除、その準拠枠の喪失という事態

の帰結である。 ただし、「桃太郎」の〈物語〉においても話型の自己

運動という事態が読者に開かれており、「米英鬼畜」の

〈物語〉までもが作り出されていったことがある。詳

細は滑川道夫の『桃太郎の変容』(東京書籍 1981 年

3 月)が明らかにしていることであるが、これは読者

の問題であると同時に〈物語〉自体の問題であること

を指摘しておこう。芥川龍之介の「桃太郎」は「桃太

-73-

郎」を侵略者として描いている。〈物語〉の作品価値/

教材価値はこうした事態を抜きに論ずることはできな

いのである。ここからは〈言葉以後〉が問われていく

ことになる。 ③「ごんぎつね」(新実南吉)

「国語科」の教材「ごんぎつね」の場合、「「ごんぎつ

ね」が日本語で話していて(考えていて)おかしい?」

という発言を「困った質問」にしてしまい、〈物語〉の

現れ、〈語り手〉による「問い直して」への着眼によっ

て〈困った質問〉に応えることができるにもかかわら

ず、こうした発言を排除する授業がなされている。こ

の事態が、克服の課題である。今日、「国語科」におけ

る「文学教育の排除」といかに対峙するのかが問われ

ている。これは、「ごんぎつね」の場合、「問い直して」

の課題ということになる。出来事→「兵十」によって

語られた出来事→……「茂平」によって語られた出来

事→「わたし」によって語られた出来事→〈聴き手〉、

読者。(「問い直して」OK)しかし、登場人物(〈視点

人物〉の「ごんぎつね」)の心情に焦点化して、〈困っ

た質問〉を排除する教科書/排除する授業となってい

る。(「問い直して」NG)

「ごんぎつね」における「兵十」の語りは、「兵十」

にとっての「問い直して」の〈物語〉である。このこ

とは、作品冒頭の「これは、わたしが小さい時に、村

の茂平というおじいさんから聞いたお話です。」によっ

て示されている。「兵十」の〈物語〉は、村人へ、「茂

平」へ、「わたし」へと伝承されていった。「そのばん、

ごんは、あなの中で考えました。「兵十のおっかあは、

とこについていたにちがいない。それで、兵十が、は

りきりあみを持ち出したんだ。ところが、わしがいた

ずらをして、うなぎを取ってきてしまった。だから、

兵十は、おっかあにうなぎを食べさせることができな

かった。そのまま、おっかあは死んじゃったにちがい

ない。うなぎが食べたい、うなぎが食べたいと思いな

がら、死んだんだろう。ちょっ、あんないたずらをし

なけりゃあよかった。」という〈視点人物〉の「ごんぎ

つね」の声は、「兵十」の声であったのだ。〈聴き手〉、

読者がそのように受け止めるかどうかが問われている。

「ごんぎつね」は〈語り手〉の「問い直して」の〈物

語〉であったというように受け止めるかどうかが、で

ある。「兵十」は「ふと顔を上げ」ると、「きつねがう

ちの中に入ったではありませんか。こないだ、うなぎ

をぬすみやがったごんぎつねめが、またいたずらをし

に来たな」と思い、「火なわじゅう」で撃ち殺してしま

う。その時に、「兵十」は「栗」や「松茸」を自分の所

に届けに来ていたのが「ごん」であることを知り、「兵

十」は「火なわじゅうをばたりと、とり落と」す。「青

いけむりが、まだ、つつ口から細く出てい」る。この

出来事の後に、「兵十」は「村人」に「ごんぎつね」の

ことを語る。したがって、「ごん」の思いは「兵十」の

思いである。「兵十」は、「ごん」が自分と同じように

「母」を失い、「一人ぼっち」であるのに、「草の深い

ところ」「お百しょうのうちのうら」「六地蔵さんのか

げ」「物置のうしろ」「うら口」「道のかた側」「いどの

そば」「かげぼうしをふみふみ」「うちのうら口」とい

うように、人間と接しないに気を付けていることも思

い起こしている。それでも「ごん」は「兵十」に償い

のために「栗」や「松茸」を届けにきた。このように

「兵十」は「ごん」のことを思い起こしている。「兵十」

の「問い直して」の〈物語〉の伝承、それを引き継ぐ

「わたし」の語りに「ごんぎつね」の作品価値/教材

価値は関わっているのである。 ➃「ごんぎつね」と「かぼちゃのつる」における〈物語〉、

「桃太郎」における〈物語〉、〈語り手〉に注目して

「ごんぎつね」の〈物語〉は、「かぼちゃのつる」の

〈物語〉とどう違うのか。〈語り手〉の世界観の切実さ

の有無がポイントである。「かぼちゃのつる」の〈語り

手〉には、「ごんぎつね」の〈語り手〉としての「兵十」

の切実さがない。「兵十」にとって語ることは鎮魂の行

為であった。対して、「徳目」を語る「かぼちゃのつる」

の〈語り手〉の揺らぎのなさ。「つる」を切られた「か

ぼちゃ」への〈語り手〉の鎮魂の思いは「かぼちゃの

つる」の〈物語〉には浮かび上がってこない。ここに

も、〈語り手〉の、〈視点人物〉としての「かぼちゃ」

に対する傲慢さ、裏切り問題を指摘することができよ

う。「かぼちゃのつる」の〈語り手〉は絶対者であり、

「言語以前・了解不能 第三項の領域」に属していな

い超越者である。このことを見逃すと、読者は裏切り

の共犯者に追い込まれていくのである。 「ごんぎつね」の〈物語〉は、「桃太郎」の〈物語〉と

どう違うのか。「ごんぎつね」においては、〈語り手〉

は〈生身の語り手〉であり、その人物の価値観の中に

読者が囲い込まれていく。読者の〈ナンデモアリ〉は

〈生身の語り手〉の価値観に規制されている。このレ

ベルで〈語り手〉の「問い直して」の質が「読むこと」

の対象にされていく。〈価値絶対主義〉は排されている

のである。「かぼちゃのつる」においては、〈語り手〉

は〈価値絶対主義〉の体現者であり、このことを前提

にして、読者による〈語り手〉の置き換えが自由であ

る。読者の〈ナンデモアリ〉が許される。〈ナンデモア

リと価値絶対主義の癒着〉という事態に囲い込まれて

いくのである。 ⑤「少年の日の思い出」(ヘルマン・ヘッセ)

「国語科」の教材「少年の日の思い出」の場合、「な

ぜ、前書きがあるの?」という発言を〈困った質問〉

にしてしまい、〈小説〉の現れ、〈語り手〉による「問

Page 12: 文学教育を拓く、今日の「国語科」の課題―― 問題提起として( … · ら大の卵を選んで来い、ということであった。一個 15 円の卵を10

-74-

い直して」を「問い直して」への着眼によって〈困っ

た質問〉に応えることができるのにもかかわらず、こ

うした発言を排除する授業がなされている。作品は〈困

った質問〉に応えているのだが、授業は「僕」を「闇」

の中に閉じ込め続け、〈近代小説〉を排除する。この事

態が、克服の課題である。今日、「国語科」における「文

学教育の排除」といかに対峙するのかが問われている

が、このことは、「少年の日の思い出」の場合、「問い

直して」を「問い直して」という課題になっていく。

出来事→大人になった「僕」(客)によって語られた出

来事→〈聴き手〉の「私」(僕が訪ねて行った先の人)

によって語り直された出来事→「私」の話を聴く「僕」

=〈聴き手〉(読者)。(「問い直して」と「問い直して」

を「問い直して」OK) しかし、〈視点人物〉(少年の

「僕」)と〈語り手〉(大人になった「僕」)の心情を焦

点化して、〈困った質問〉を排除する教科書/排除する

授業が一般的である。(「問い直して」を「問い 直して」

NG) こうした教科書/排除する授業では、〈語り手〉

の「私」の語りが〈対象人物〉の「僕」(友人・客)の

「問い直して」の語りを「問い直して」いること、「対

象人物」として「エーミール」の声を了解不能の《他

者》の声として、〈聴き手〉の「僕」の「闇」を拓いて

いくことが看過されるのである。 「私」の「子どもができてから、自分の幼年時代のい

ろいろの習慣や楽しみごとがまたよみがえってきたよ。

それどころか、一年前から、私はまた、チョウチョ集

めをやっているよ。お目にかけようか。」という問い掛

けに対して、客の「僕」は「きみの収集をよく見なか

ったけど、僕も子どもの時、むろん、収集していたの

だが、残念ながら、自分でその思い出を汚してしまっ

た。実際話すのも恥ずかしいことだが、ひとつ聞いて

もらおう。」と応じて、話し出す。「僕」の語りの動機

には、分ってほしい/分かってもらえるかもという願

いが潜在している。この行為は「僕」の「問い直して」

の〈物語〉である。「僕」の話は「友人はその間に次の

ように語った。」というように、「私」の「問い直して」

の〈物語〉として語られている。ということで、この

作品は、〈語り手〉の「友人」(僕)の語り(「問い直し

て」)の、〈聴き手〉、〈語り手〉の「私」による語り直

し(「問い直して」)、〈聴き手〉の「僕」の「問い直し

て」のレベルで、三重に読むことが要請されている。

「僕」の語り(「問い直して」)は依然として「闇」の

中でなされているのに対して、「聴き手」の「私」の語

り直し(「問い直して」)は「明」の中でなされている。

〈聴き手〉の「僕」が直面しているのは、こうした事

態である。「僕」にとっての「蝶」が「宝物」であるの

に対して、「エーミール」の「蝶」は「宝石」である。

こうしたことに〈聴き手〉の「僕」は直面させられる

であろう。〈語り手〉の「僕」の「盗み」よりも「蝶そ

のもの美しさの破壊」という認識と「エーミール」の

「盗み」に入られ「丹精込めた蝶の標本を壊された」

という認識の違いにも〈聴き手〉の「僕」は直面させ

られるであろう。このように〈聴き手〉の「僕」は「明」

の世界に引き出されている。読者も、である。このこ

とに作品価値/教材価値が関わっていくのである。 ⑥「少年の日の思い出」における〈小説〉の現れと「ご

んぎつね」における〈物語〉の現れ

「少年の日の思い出」の〈語り手〉の「僕」は心の中

で出来事を「問い直して」いるが、〈聴き手〉の「私」

は〈語り手〉の「僕」の「問い直して」を「問い直し

て」いる。〈聴き手〉としての「僕」、読者はその声に

向き合っていくのである。ここに〈近代小説〉が現れ

る。対して、「ごんぎつね」の〈語り手〉の「兵十」は

「ごんぎつね」を火縄銃で撃った後、「ごんぎつね」の

ことを心の中で「問い直して」語っている。〈聴き手〉、

読者はその声に向き合っていくのである。ここに〈近

代の物語文学〉が現れる。 (2)「第三項理論」と今日の「国語科」の課題

「第三項理論」は〈物語〉と〈小説〉の質を問い、〈近

代の物語文学〉と〈近代小説〉の違いを授業の課題と

して照らし出していく。「困った質問」に「言語以前・

了解不能 第三項の領域」という事態を見出し、〈対象

人物〉から折り返し、〈視点人物〉、〈語り手〉の虚偽を

問うていくと、〈物語〉と〈小説〉の教材価値の違いが

現れてくる。〈視点人物〉と〈対象人物〉が「言語以前・

了解不能 第三項の領域」(田中実「近代小説の神髄は、

不条理、概念としての〈第三項〉がこれを拓く――鷗外

初期三部作を例にして――」(『日本文学』2018 年 8 月号)

で提起されている「パラレルワールド」図を参照のこ

と(資料4))の中に浮遊していることが〈語り手〉に

よって問題化されることによって、である。

この理論は「読むこと」の課題に応える提起であり、

〈わたしのなかの他者〉と了解不能の《他者》をめぐ

-75-

る問題、〈言語以後〉と〈言語以前〉をめぐる問題の提

起である。こうした問題に応えることは、「予測困難な

時代」という提起に対して、「問い直して」を「問い直

して」というように応えていくになっていくのである。

このことが今日の「国語科」の課題に応えていくため

に求められている。「特別の教科 道徳」の課題に応え

ていくためにも、である。 〈困った質問〉は「第三項」問題への入り口である。

〈言語以後〉ではなく、〈言語以前〉の事態に向き合っ

ていこう。しかし、そうはなっていない。このことの

方が「ナンダ、コレ?!」であるにもかかわらず、「読

むこと」の準拠枠を問うことを不問に付すことによっ

て、課題が看過されてしまっている。〈ナンデモアリ〉

に彷徨い続けるのではなく、この課題に応えることが、

〈ナンデモアリと価値絶対主義の癒着〉という、今日

の「国語科」の足踏みを踏み越えていく第一歩となっ

ていく。この第一歩は「文学教育を拓く」ことによっ

て記されていくのである。 3.「次期学習指導要領」の足踏みとその克服

のために

「次期学習指導要領」の方に焦点化し、その文言の彼

方にどのような事態が蠢いているのかを掘り起こして

みよう。「次期学習指導要領」に〈困った質問〉を掘り

起こし、その文言の側から事態を照らし出していくと、

どのような事態が浮かび上がってくるのか。 この試みも「三日月」をめぐる〈困った質問〉によ

る問題提起に他ならない。 (1)「次期学習指導要領」告示

小学校 (国語科) 2017 年 3 月 31 日告示、2020年 4 月から実施。

中学校 (国語科) 2017 年 3 月 31 日告示、2021年 4 月から実施。

高等学校(国語科) 2018 年 3 月 31 日告示、2022年 4 月から実施。

(2)「次期学習指導要領」の足踏みとは、「予測困難

な時代」の「予測可能な時代」への反転

「次期学習指導要領」は「予測困難な時代」に対する

処方箋として提起されている。この提起に対して、本

稿は「予測困難な時代」という提起の混迷と向き合い、

世界観認識をめぐる課題の地平を切り拓くことを目指

しているのである。 「予測困難な時代」を「予測可能な時代」にすり替え

て論じてはならない。「予測困難な時代」にいかに対処

するかを提案することが、「予測困難な時代」を「予測

可能な時代」にすり替えることになってしまっている。

このことを看過してはならない。そのためには、「予測

困難な時代」を、「言語以前・了解不能 第三項の領域」

に妨げられ、〈主体〉と〈主体〉の〈交流〉が〈断絶〉

し、〈衝突〉してしまっている事態として受け止め直す

ことが求められている。このことは、〈ポストモダン〉

の時代の〈ナンデモアリ〉にいかに向き合うのかをめ

ぐる問題であり、〈価値絶対主義〉に足をすくわれ、そ

の事態に居直ってしまうことなく、〈ポスト・ポストモ

ダン〉の時代の地平をいかに拓いていくのか、という

問題になっていく。「問い直して」を「問い直して」い

くことによって、である。「言葉による見方・考え方」

の「問い直して」は、このように課題をつかみ直して

いくことが求められているのである。 (3)「次期学習指導要領」(総論)の提起

➀「予測困難な時代」という提起に向き合って

「予測困難な時代」とは、「2030 年には、少子高齢化

が更に進行し、65 歳以上の割合は総人口の 3 割に達す

る一方、生産年齢人口は総人口の約 58%にまで減少す

ると見込まれている。同年には、世界の GDP に占める

日本の割合は、現在の 5.8%から 3.4%にまで低下する

との予測もあり、日本の国際的な存在感の低下も懸念

されている。また、グローバル化や情報化が進展する

社会の中では、多様な主体が速いスピードで相互に影

響し合い、一つの出来事が広範囲かつ複雑に伝播し、

先を見通すことがますます難しくなってきている。子

供たちが将来就くことになる職業の在り方についても、

技術革新等の影響により大きく変化することになると

予測されている。子供たちの 65%は将来、今は存在し

ていない職業に就くとの予測や、今後 10 年~20 年程

度で、半数近くの仕事が自動化される可能性が高いな

どの予測がある。また、2045 年には人工知能が人類を

越える「シンギュラリティ」に到達するという指摘も

ある。このような中で、グローバル化、情報化、技術

革新等といった変化は、どのようなキャリアを選択す

るかにかかわらず、全ての子供たちの生き方に影響す

るものであるという認識に立った検討が必要である。」

(「中教審答申」平成 28 年 12 月 21 日)というように

提起されており、「次期学習指導要領」はこうした事態

に応えようとしている。この「予測困難な時代」の説

明の仕方は、「予測困難な時代」を「予測可能な時代」

にすり替えていくことになってしまう。〈言語以後〉の

因果律として提起されているからである。この事態に

対して、「予測困難な時代」は〈言語以前〉という事態

との対応の課題としてつかみ直していくことが求めら

れているのである。〈ポストモダン〉の時代と向き合い、

いかに〈ポスト・ポストモダン〉の時代を拓いていく

Page 13: 文学教育を拓く、今日の「国語科」の課題―― 問題提起として( … · ら大の卵を選んで来い、ということであった。一個 15 円の卵を10

-74-

い直して」を「問い直して」への着眼によって〈困っ

た質問〉に応えることができるのにもかかわらず、こ

うした発言を排除する授業がなされている。作品は〈困

った質問〉に応えているのだが、授業は「僕」を「闇」

の中に閉じ込め続け、〈近代小説〉を排除する。この事

態が、克服の課題である。今日、「国語科」における「文

学教育の排除」といかに対峙するのかが問われている

が、このことは、「少年の日の思い出」の場合、「問い

直して」を「問い直して」という課題になっていく。

出来事→大人になった「僕」(客)によって語られた出

来事→〈聴き手〉の「私」(僕が訪ねて行った先の人)

によって語り直された出来事→「私」の話を聴く「僕」

=〈聴き手〉(読者)。(「問い直して」と「問い直して」

を「問い直して」OK) しかし、〈視点人物〉(少年の

「僕」)と〈語り手〉(大人になった「僕」)の心情を焦

点化して、〈困った質問〉を排除する教科書/排除する

授業が一般的である。(「問い直して」を「問い 直して」

NG) こうした教科書/排除する授業では、〈語り手〉

の「私」の語りが〈対象人物〉の「僕」(友人・客)の

「問い直して」の語りを「問い直して」いること、「対

象人物」として「エーミール」の声を了解不能の《他

者》の声として、〈聴き手〉の「僕」の「闇」を拓いて

いくことが看過されるのである。 「私」の「子どもができてから、自分の幼年時代のい

ろいろの習慣や楽しみごとがまたよみがえってきたよ。

それどころか、一年前から、私はまた、チョウチョ集

めをやっているよ。お目にかけようか。」という問い掛

けに対して、客の「僕」は「きみの収集をよく見なか

ったけど、僕も子どもの時、むろん、収集していたの

だが、残念ながら、自分でその思い出を汚してしまっ

た。実際話すのも恥ずかしいことだが、ひとつ聞いて

もらおう。」と応じて、話し出す。「僕」の語りの動機

には、分ってほしい/分かってもらえるかもという願

いが潜在している。この行為は「僕」の「問い直して」

の〈物語〉である。「僕」の話は「友人はその間に次の

ように語った。」というように、「私」の「問い直して」

の〈物語〉として語られている。ということで、この

作品は、〈語り手〉の「友人」(僕)の語り(「問い直し

て」)の、〈聴き手〉、〈語り手〉の「私」による語り直

し(「問い直して」)、〈聴き手〉の「僕」の「問い直し

て」のレベルで、三重に読むことが要請されている。

「僕」の語り(「問い直して」)は依然として「闇」の

中でなされているのに対して、「聴き手」の「私」の語

り直し(「問い直して」)は「明」の中でなされている。

〈聴き手〉の「僕」が直面しているのは、こうした事

態である。「僕」にとっての「蝶」が「宝物」であるの

に対して、「エーミール」の「蝶」は「宝石」である。

こうしたことに〈聴き手〉の「僕」は直面させられる

であろう。〈語り手〉の「僕」の「盗み」よりも「蝶そ

のもの美しさの破壊」という認識と「エーミール」の

「盗み」に入られ「丹精込めた蝶の標本を壊された」

という認識の違いにも〈聴き手〉の「僕」は直面させ

られるであろう。このように〈聴き手〉の「僕」は「明」

の世界に引き出されている。読者も、である。このこ

とに作品価値/教材価値が関わっていくのである。 ⑥「少年の日の思い出」における〈小説〉の現れと「ご

んぎつね」における〈物語〉の現れ

「少年の日の思い出」の〈語り手〉の「僕」は心の中

で出来事を「問い直して」いるが、〈聴き手〉の「私」

は〈語り手〉の「僕」の「問い直して」を「問い直し

て」いる。〈聴き手〉としての「僕」、読者はその声に

向き合っていくのである。ここに〈近代小説〉が現れ

る。対して、「ごんぎつね」の〈語り手〉の「兵十」は

「ごんぎつね」を火縄銃で撃った後、「ごんぎつね」の

ことを心の中で「問い直して」語っている。〈聴き手〉、

読者はその声に向き合っていくのである。ここに〈近

代の物語文学〉が現れる。 (2)「第三項理論」と今日の「国語科」の課題

「第三項理論」は〈物語〉と〈小説〉の質を問い、〈近

代の物語文学〉と〈近代小説〉の違いを授業の課題と

して照らし出していく。「困った質問」に「言語以前・

了解不能 第三項の領域」という事態を見出し、〈対象

人物〉から折り返し、〈視点人物〉、〈語り手〉の虚偽を

問うていくと、〈物語〉と〈小説〉の教材価値の違いが

現れてくる。〈視点人物〉と〈対象人物〉が「言語以前・

了解不能 第三項の領域」(田中実「近代小説の神髄は、

不条理、概念としての〈第三項〉がこれを拓く――鷗外

初期三部作を例にして――」(『日本文学』2018 年 8 月号)

で提起されている「パラレルワールド」図を参照のこ

と(資料4))の中に浮遊していることが〈語り手〉に

よって問題化されることによって、である。

この理論は「読むこと」の課題に応える提起であり、

〈わたしのなかの他者〉と了解不能の《他者》をめぐ

-75-

る問題、〈言語以後〉と〈言語以前〉をめぐる問題の提

起である。こうした問題に応えることは、「予測困難な

時代」という提起に対して、「問い直して」を「問い直

して」というように応えていくになっていくのである。

このことが今日の「国語科」の課題に応えていくため

に求められている。「特別の教科 道徳」の課題に応え

ていくためにも、である。 〈困った質問〉は「第三項」問題への入り口である。

〈言語以後〉ではなく、〈言語以前〉の事態に向き合っ

ていこう。しかし、そうはなっていない。このことの

方が「ナンダ、コレ?!」であるにもかかわらず、「読

むこと」の準拠枠を問うことを不問に付すことによっ

て、課題が看過されてしまっている。〈ナンデモアリ〉

に彷徨い続けるのではなく、この課題に応えることが、

〈ナンデモアリと価値絶対主義の癒着〉という、今日

の「国語科」の足踏みを踏み越えていく第一歩となっ

ていく。この第一歩は「文学教育を拓く」ことによっ

て記されていくのである。 3.「次期学習指導要領」の足踏みとその克服

のために

「次期学習指導要領」の方に焦点化し、その文言の彼

方にどのような事態が蠢いているのかを掘り起こして

みよう。「次期学習指導要領」に〈困った質問〉を掘り

起こし、その文言の側から事態を照らし出していくと、

どのような事態が浮かび上がってくるのか。 この試みも「三日月」をめぐる〈困った質問〉によ

る問題提起に他ならない。 (1)「次期学習指導要領」告示

小学校 (国語科) 2017 年 3 月 31 日告示、2020年 4 月から実施。

中学校 (国語科) 2017 年 3 月 31 日告示、2021年 4 月から実施。

高等学校(国語科) 2018 年 3 月 31 日告示、2022年 4 月から実施。

(2)「次期学習指導要領」の足踏みとは、「予測困難

な時代」の「予測可能な時代」への反転

「次期学習指導要領」は「予測困難な時代」に対する

処方箋として提起されている。この提起に対して、本

稿は「予測困難な時代」という提起の混迷と向き合い、

世界観認識をめぐる課題の地平を切り拓くことを目指

しているのである。 「予測困難な時代」を「予測可能な時代」にすり替え

て論じてはならない。「予測困難な時代」にいかに対処

するかを提案することが、「予測困難な時代」を「予測

可能な時代」にすり替えることになってしまっている。

このことを看過してはならない。そのためには、「予測

困難な時代」を、「言語以前・了解不能 第三項の領域」

に妨げられ、〈主体〉と〈主体〉の〈交流〉が〈断絶〉

し、〈衝突〉してしまっている事態として受け止め直す

ことが求められている。このことは、〈ポストモダン〉

の時代の〈ナンデモアリ〉にいかに向き合うのかをめ

ぐる問題であり、〈価値絶対主義〉に足をすくわれ、そ

の事態に居直ってしまうことなく、〈ポスト・ポストモ

ダン〉の時代の地平をいかに拓いていくのか、という

問題になっていく。「問い直して」を「問い直して」い

くことによって、である。「言葉による見方・考え方」

の「問い直して」は、このように課題をつかみ直して

いくことが求められているのである。 (3)「次期学習指導要領」(総論)の提起

➀「予測困難な時代」という提起に向き合って

「予測困難な時代」とは、「2030 年には、少子高齢化

が更に進行し、65 歳以上の割合は総人口の 3 割に達す

る一方、生産年齢人口は総人口の約 58%にまで減少す

ると見込まれている。同年には、世界の GDP に占める

日本の割合は、現在の 5.8%から 3.4%にまで低下する

との予測もあり、日本の国際的な存在感の低下も懸念

されている。また、グローバル化や情報化が進展する

社会の中では、多様な主体が速いスピードで相互に影

響し合い、一つの出来事が広範囲かつ複雑に伝播し、

先を見通すことがますます難しくなってきている。子

供たちが将来就くことになる職業の在り方についても、

技術革新等の影響により大きく変化することになると

予測されている。子供たちの 65%は将来、今は存在し

ていない職業に就くとの予測や、今後 10 年~20 年程

度で、半数近くの仕事が自動化される可能性が高いな

どの予測がある。また、2045 年には人工知能が人類を

越える「シンギュラリティ」に到達するという指摘も

ある。このような中で、グローバル化、情報化、技術

革新等といった変化は、どのようなキャリアを選択す

るかにかかわらず、全ての子供たちの生き方に影響す

るものであるという認識に立った検討が必要である。」

(「中教審答申」平成 28 年 12 月 21 日)というように

提起されており、「次期学習指導要領」はこうした事態

に応えようとしている。この「予測困難な時代」の説

明の仕方は、「予測困難な時代」を「予測可能な時代」

にすり替えていくことになってしまう。〈言語以後〉の

因果律として提起されているからである。この事態に

対して、「予測困難な時代」は〈言語以前〉という事態

との対応の課題としてつかみ直していくことが求めら

れているのである。〈ポストモダン〉の時代と向き合い、

いかに〈ポスト・ポストモダン〉の時代を拓いていく

Page 14: 文学教育を拓く、今日の「国語科」の課題―― 問題提起として( … · ら大の卵を選んで来い、ということであった。一個 15 円の卵を10

-76-

ことができるのかというように、である。 ②〈言語以後〉の因果律の中で

3 つの「資質・能力」とは、「知識及び技能」、「思考

力・判断力・表現力等」、「学びに向かう力・人間性等」

(学校教育法では「主体的に学習に取り組む態度」)の

ことである。「次期学習指導要領」における「予測困難

な時代」に対する対処の仕方として、「見方・考え方」

の「問い直して」、3 つの「資質・能力」、「主体的・対

話的で深い学び」、「言語活動」、「カリュキュラム・マ

ネージメント」が提起されている。これらの提起も〈言

語以後〉の因果律の中で提起されているのである。 (4)「予測困難な時代」と3つの「資質・能力」をめ

ぐる課題

「次期学習指導要領」において、「予測困難な時代」

は主体の内部(認識のレベル)での、「問い直して」の

課題として問われているが、世界観認識(ポストモダ

ン、相対主義)の問題としては把握されていない。そ

れゆえに、「予測困難」としながら、そのように事態を

提起することによって、「予測可能」なこととして問わ

れていく。「予測困難」は了解不能の《他者》ではなく、

〈わたしのなかの他者〉として問われている。 「予測困難な時代」という事態を〈主体〉とその外部

との抗争の時代というように把握すると、「予測困難」

な事態は「予測可能」なことにはならない。ここに「問

い直して」を「問い直して」という課題が現れるので

ある。この課題は「言語以前・了解不能 第三項の領

域」という事態の中で問われていく。しかし、3 つの

「資質・能力」の「思考力・判断力・表現力等」の「技

能」をめぐる混乱(位置づけの曖昧さ)が「問い直し

て」を「問い直して」という課題の現れを妨げてしま

っている。「予測困難」な事態を「予測可能」な事態と

することによって、である。この事態は、読書行為と

しての「読むこと」が軽視されていることとともに進

行していく。これでは、「予測困難な時代」はその表層

においてしか問題にされないことになる。「予測困難な

時代」が「予測可能な時代」に反転していく事態が看

過されていく。そこに〈ナンデモアリと価値絶対主義

の癒着〉という事態が現れ出てくる。 これが「言葉による見方・考え方」の提起が足踏み

している地点である。この事態に対して、「問い直して」

を「問い直して」の提起が対置されているのである。 (5)「次期学習指導要領」(国語科)に関わる提起

①「言葉による見方・考え方」の「問い直して」

「言葉による見方・考え方」とは、「自分の思いや考

えを深めるため、対象と言葉、言葉と言葉の関係を、

言葉の意味、働き使い方等に着目して捉え、その関係

性を問い直して意味付けること」である。(次期「学習

指導要領」(国語科)) この提起は「言葉」(主体)と

「対象」(客体)という二項論である。両者の接続を「問

い直して」というように問題化している。こうした二

項論に対して、〈主体〉(言葉)と〈主体が捉えた対象〉

(主体が捉えた客体)と〈対象そのもの〉(客体そのも

の、了解不能、到達不可能な《他者》)という三項論の

提起が求められている。「問い直して」を「問い直して」

というように問題化していくことが、である。こうし

た世界観認識は、すでに田中実の「第三項理論」によ

って提起されている。 ➁ 3つの「資質・能力」と「言語活動」

「国語科」における「思考力・判断力・表現力等」と

は、〔創造的・論理的思考の側面〕、〔感性・情緒の側面〕、

〔他者とのコミュニケ―ションの側面〕と、それぞれ

における《考えの形成・深化》のことである。「中教審

答申」(平成 28 年 12 月 21 日)によると、それらは次

のように提起されている。

・〔創造的・論理的思考の側面〕は「説明的文章」の

「読むこと」の「技能」が対応。 ・〔感性・情緒の側面〕は「文学的文章」の「読むこ

と」の「技能」が対応。 ・〔他者とのコミュニケ―ションの側面〕は「話すこ

と・聞くこと」「書くこと」の「技能」が対応。 ・《考えの形成・深化》は 3 つの領域の「技能」の習

得を前提にしての「思考力・判断力・表現力等」

という位置づけ。

こうした「技能」の位置づけは、「思考力・判断力・

表現力等」という括り方の中に「読むこと」「話すこと・

聞くこと」「書くこと」の「技能」を埋没させ、「知識・

技能」の「技能」において「読むこと」「話すこと・聞

くこと」「書くこと」の「技能」が排除されている事態

を問うことなく、「学びに向かう力・人間性等」が問題

にされていく事態を招来していく。この事態は「言語

活動」の自己目的化の温床となる。このことの看過は

「言葉による見方・考え方」の「問い直して」の提起

の空洞化となる。これでは「問い直して」を「問い直

して」という課題は封殺されてしまう。 ③ 高等学校の「科目編成」

高等学校の「国語科」では、必修は「現代の国語」

と「言語文化」、選択は「論理国語」、「文学国語」、「古

典探究」、「国語表現」とされている。高等学校の「次

期学習導要領」(国語科)の、新たな「科目編成」には、

小学校・中学校の「次期学習指導要領」(国語科)の改

訂の核心が現れている。このことが「読むこと」「話す

こと・聞くこと」「書くこと」の「技能」を排除し、と

りわけ「読むこと」を課題としない「国語科」の現れ

-77-

となっていく。繰り返すが、これでは「問い直して」

を「問い直して」という課題は封殺されてしまうので

ある。 「問い直して」が迷走してしまっている事例として、

わたくしは、すでに「世界観認識として、「予測困難

な時代」を問い質して―――「資質・能力」としての〈第

三項〉論と「故郷」(魯迅)の「学習課題」の転換―――」

(『日本文学』2017 年8月号)で、大滝一登と幸田國

広の問題について考察している。氏らの、汎用的な「資

質・能力」から各教科の「資質・能力」を問題にして

いく提起は、「大学入試共通テスト」に関するテスト

推進の立場から逆算されている。この事態は、言語表

現としての教材価値の軽視とそれを「大学入試共通テ

スト」によって正当化していく提起の問題に止まらな

い。研究と行政の関係がどうあるべきかの倫理的な問

いにもなっていく。研究の独立の問題が問われる。

(6)「問い直して」の質と文学作品の教材価値

「国語科」の「知識及び技能」「思考力・判断力・表

現力等」「学びに向かう力・人間性等」における「技能」

の彷徨。「思考力・判断力・表現力等」に配置されてい

る「技能」の領域が分かり難い。このことは「問い直

して」の質に関わる事態である。これでは、「言葉によ

る見方・考え方」の提起を踏まえている、と言うこと

はできない。「問い直して」の提起の可能性が受け止め

られていないからである。「問い直して」を「問い直し

て」は課題として把握されていないのである。「言葉に

よる見方・考え方」の「問い直して」の問題提起に対

して、指導事項の提起は 2 周遅れとなっている。 高等学校の「国語科」では必修の「現代の国語」か

らは文学教材が排除され、必修の「言語文化」に文学

教材が位置付けられている。「文学国語」は選択である。

これらは、領域としての「読むこと」の教材を、読書

行為としての「読むこと」の対象としない態度の現れ

である。こうした文学教材の位置づけは、小学校・中

学校でも同様である。文学作品を読むこと/教材価値

が軽視されているのである。このことは、「思考力・判

断力・表現力等」における「技能」をめぐる混乱の源

泉であり、「「特別の教科」としての道徳科」の物語教

材/授業の質の問題と源泉を同じくしている。こうし

たことも「問い直して」の質に関わる事態である。 「次期学習指導要領」(国語科)の課題は、「問い直し

て」いくことにふさわしい指導事項に捉え直していく

ことと、その上で、さらに「問い直して」を「問い直

して」に開いていく指導事項をいかに提起していくの

か、にある。このことは、「国語科」が「予測困難な時

代」という課題の提起にどのように向き合うのか、と

いう課題に関わっていくのである。

4.文学教育を拓く、〈困った質問〉を起点にし、

問われ続けていく授業のために

(1)文学作品の教材価値、〈近代の物語文学〉と〈近

代小説〉の違いをめぐって

「問い直して」を「問い直して」という課題の現れは、

文学作品の教材価値を論ずる際には〈視点人物〉と〈対

象人物〉の関係として問題化されていく。〈視点人物〉

の立場からの「問い直して」(交流)と〈対象人物〉の

側からの、〈視点人物〉の立場からの「問い直して」を

「問い直して」(断絶、衝突)が問題の焦点にされる。

前者においては、〈語り手〉の立場が問われることなく、

〈近代の物語文学〉ということになり、後者において

は、〈語り手〉の立場が〈機能としての語り手〉によっ

て問われることになり、〈近代小説〉が問題にされてい

くことになる。 このことは、「ごんぎつね」で言えば、「兵十」と「ご

ん」の関係をめぐる問題であり、〈物語〉の教材価値と

して論じられる。〈対象人物〉の「ごんぎつね」の側か

らの「問い直して」は、〈視点人物〉であり、〈語り手〉

である「兵十」の内部の現れだからである。「少年の日

の思い出」で言えば、「僕」と「エーミール」の関係を

めぐる問題であり、〈小説〉の教材価値として論じられ

る。〈対象人物〉の「エーミール」の側からの「問い直

して」は、〈視点人物〉であり〈語り手〉である「僕」

の内部には現れることなく、「僕」の話を語り直す(問

い直す)〈聴き手〉・〈語り手〉の「私」の〈物語〉によ

って現れ、その話を聴く「僕」に現れてくるからであ

る。 「国語科」においては、「問い直して」を「問い直し

て」によって、〈近代の物語文学〉と〈近代小説〉の違

いを問うこと、違いを生かすことという課題がひらか

れ(開かれ/拓かれ)る。このことは、複数の人(〈相

手〉の坩堝)で学ぶという教室の価値を考えていく実

践的な課題ともなっていく。〈会話〉と〈対話〉をめぐ

って、教育が問われていくことになる。〈会話〉(交流

の成立)においては〈相手〉が消え、〈視点人物〉と〈語

り手〉の〈物語〉が現れる。〈対話〉(断絶、衝突に直

面)においては〈相手〉、了解不能の《他者》が問題化

し、〈視点人物〉と〈語り手〉の〈物語〉が問題化して

いく。こうした〈言語以後〉と〈言語以前〉をめぐる

事態が教師や学習者の〈場〉においても問われている

からである。 以下、2 編の教材の「学習課題」と「学習目標」を提

起することによって、〈困った質問〉から展開する授業

の実際を具体的に提示しよう。この授業は、ナゾとし

ての〈困った質問〉に答えが与えられていくのではな

Page 15: 文学教育を拓く、今日の「国語科」の課題―― 問題提起として( … · ら大の卵を選んで来い、ということであった。一個 15 円の卵を10

-76-

ことができるのかというように、である。 ②〈言語以後〉の因果律の中で

3 つの「資質・能力」とは、「知識及び技能」、「思考

力・判断力・表現力等」、「学びに向かう力・人間性等」

(学校教育法では「主体的に学習に取り組む態度」)の

ことである。「次期学習指導要領」における「予測困難

な時代」に対する対処の仕方として、「見方・考え方」

の「問い直して」、3 つの「資質・能力」、「主体的・対

話的で深い学び」、「言語活動」、「カリュキュラム・マ

ネージメント」が提起されている。これらの提起も〈言

語以後〉の因果律の中で提起されているのである。 (4)「予測困難な時代」と3つの「資質・能力」をめ

ぐる課題

「次期学習指導要領」において、「予測困難な時代」

は主体の内部(認識のレベル)での、「問い直して」の

課題として問われているが、世界観認識(ポストモダ

ン、相対主義)の問題としては把握されていない。そ

れゆえに、「予測困難」としながら、そのように事態を

提起することによって、「予測可能」なこととして問わ

れていく。「予測困難」は了解不能の《他者》ではなく、

〈わたしのなかの他者〉として問われている。 「予測困難な時代」という事態を〈主体〉とその外部

との抗争の時代というように把握すると、「予測困難」

な事態は「予測可能」なことにはならない。ここに「問

い直して」を「問い直して」という課題が現れるので

ある。この課題は「言語以前・了解不能 第三項の領

域」という事態の中で問われていく。しかし、3 つの

「資質・能力」の「思考力・判断力・表現力等」の「技

能」をめぐる混乱(位置づけの曖昧さ)が「問い直し

て」を「問い直して」という課題の現れを妨げてしま

っている。「予測困難」な事態を「予測可能」な事態と

することによって、である。この事態は、読書行為と

しての「読むこと」が軽視されていることとともに進

行していく。これでは、「予測困難な時代」はその表層

においてしか問題にされないことになる。「予測困難な

時代」が「予測可能な時代」に反転していく事態が看

過されていく。そこに〈ナンデモアリと価値絶対主義

の癒着〉という事態が現れ出てくる。 これが「言葉による見方・考え方」の提起が足踏み

している地点である。この事態に対して、「問い直して」

を「問い直して」の提起が対置されているのである。 (5)「次期学習指導要領」(国語科)に関わる提起

①「言葉による見方・考え方」の「問い直して」

「言葉による見方・考え方」とは、「自分の思いや考

えを深めるため、対象と言葉、言葉と言葉の関係を、

言葉の意味、働き使い方等に着目して捉え、その関係

性を問い直して意味付けること」である。(次期「学習

指導要領」(国語科)) この提起は「言葉」(主体)と

「対象」(客体)という二項論である。両者の接続を「問

い直して」というように問題化している。こうした二

項論に対して、〈主体〉(言葉)と〈主体が捉えた対象〉

(主体が捉えた客体)と〈対象そのもの〉(客体そのも

の、了解不能、到達不可能な《他者》)という三項論の

提起が求められている。「問い直して」を「問い直して」

というように問題化していくことが、である。こうし

た世界観認識は、すでに田中実の「第三項理論」によ

って提起されている。 ➁ 3つの「資質・能力」と「言語活動」

「国語科」における「思考力・判断力・表現力等」と

は、〔創造的・論理的思考の側面〕、〔感性・情緒の側面〕、

〔他者とのコミュニケ―ションの側面〕と、それぞれ

における《考えの形成・深化》のことである。「中教審

答申」(平成 28 年 12 月 21 日)によると、それらは次

のように提起されている。

・〔創造的・論理的思考の側面〕は「説明的文章」の

「読むこと」の「技能」が対応。 ・〔感性・情緒の側面〕は「文学的文章」の「読むこ

と」の「技能」が対応。 ・〔他者とのコミュニケ―ションの側面〕は「話すこ

と・聞くこと」「書くこと」の「技能」が対応。 ・《考えの形成・深化》は 3 つの領域の「技能」の習

得を前提にしての「思考力・判断力・表現力等」

という位置づけ。

こうした「技能」の位置づけは、「思考力・判断力・

表現力等」という括り方の中に「読むこと」「話すこと・

聞くこと」「書くこと」の「技能」を埋没させ、「知識・

技能」の「技能」において「読むこと」「話すこと・聞

くこと」「書くこと」の「技能」が排除されている事態

を問うことなく、「学びに向かう力・人間性等」が問題

にされていく事態を招来していく。この事態は「言語

活動」の自己目的化の温床となる。このことの看過は

「言葉による見方・考え方」の「問い直して」の提起

の空洞化となる。これでは「問い直して」を「問い直

して」という課題は封殺されてしまう。 ③ 高等学校の「科目編成」

高等学校の「国語科」では、必修は「現代の国語」

と「言語文化」、選択は「論理国語」、「文学国語」、「古

典探究」、「国語表現」とされている。高等学校の「次

期学習導要領」(国語科)の、新たな「科目編成」には、

小学校・中学校の「次期学習指導要領」(国語科)の改

訂の核心が現れている。このことが「読むこと」「話す

こと・聞くこと」「書くこと」の「技能」を排除し、と

りわけ「読むこと」を課題としない「国語科」の現れ

-77-

となっていく。繰り返すが、これでは「問い直して」

を「問い直して」という課題は封殺されてしまうので

ある。 「問い直して」が迷走してしまっている事例として、

わたくしは、すでに「世界観認識として、「予測困難

な時代」を問い質して―――「資質・能力」としての〈第

三項〉論と「故郷」(魯迅)の「学習課題」の転換―――」

(『日本文学』2017 年8月号)で、大滝一登と幸田國

広の問題について考察している。氏らの、汎用的な「資

質・能力」から各教科の「資質・能力」を問題にして

いく提起は、「大学入試共通テスト」に関するテスト

推進の立場から逆算されている。この事態は、言語表

現としての教材価値の軽視とそれを「大学入試共通テ

スト」によって正当化していく提起の問題に止まらな

い。研究と行政の関係がどうあるべきかの倫理的な問

いにもなっていく。研究の独立の問題が問われる。

(6)「問い直して」の質と文学作品の教材価値

「国語科」の「知識及び技能」「思考力・判断力・表

現力等」「学びに向かう力・人間性等」における「技能」

の彷徨。「思考力・判断力・表現力等」に配置されてい

る「技能」の領域が分かり難い。このことは「問い直

して」の質に関わる事態である。これでは、「言葉によ

る見方・考え方」の提起を踏まえている、と言うこと

はできない。「問い直して」の提起の可能性が受け止め

られていないからである。「問い直して」を「問い直し

て」は課題として把握されていないのである。「言葉に

よる見方・考え方」の「問い直して」の問題提起に対

して、指導事項の提起は 2 周遅れとなっている。 高等学校の「国語科」では必修の「現代の国語」か

らは文学教材が排除され、必修の「言語文化」に文学

教材が位置付けられている。「文学国語」は選択である。

これらは、領域としての「読むこと」の教材を、読書

行為としての「読むこと」の対象としない態度の現れ

である。こうした文学教材の位置づけは、小学校・中

学校でも同様である。文学作品を読むこと/教材価値

が軽視されているのである。このことは、「思考力・判

断力・表現力等」における「技能」をめぐる混乱の源

泉であり、「「特別の教科」としての道徳科」の物語教

材/授業の質の問題と源泉を同じくしている。こうし

たことも「問い直して」の質に関わる事態である。 「次期学習指導要領」(国語科)の課題は、「問い直し

て」いくことにふさわしい指導事項に捉え直していく

ことと、その上で、さらに「問い直して」を「問い直

して」に開いていく指導事項をいかに提起していくの

か、にある。このことは、「国語科」が「予測困難な時

代」という課題の提起にどのように向き合うのか、と

いう課題に関わっていくのである。

4.文学教育を拓く、〈困った質問〉を起点にし、

問われ続けていく授業のために

(1)文学作品の教材価値、〈近代の物語文学〉と〈近

代小説〉の違いをめぐって

「問い直して」を「問い直して」という課題の現れは、

文学作品の教材価値を論ずる際には〈視点人物〉と〈対

象人物〉の関係として問題化されていく。〈視点人物〉

の立場からの「問い直して」(交流)と〈対象人物〉の

側からの、〈視点人物〉の立場からの「問い直して」を

「問い直して」(断絶、衝突)が問題の焦点にされる。

前者においては、〈語り手〉の立場が問われることなく、

〈近代の物語文学〉ということになり、後者において

は、〈語り手〉の立場が〈機能としての語り手〉によっ

て問われることになり、〈近代小説〉が問題にされてい

くことになる。 このことは、「ごんぎつね」で言えば、「兵十」と「ご

ん」の関係をめぐる問題であり、〈物語〉の教材価値と

して論じられる。〈対象人物〉の「ごんぎつね」の側か

らの「問い直して」は、〈視点人物〉であり、〈語り手〉

である「兵十」の内部の現れだからである。「少年の日

の思い出」で言えば、「僕」と「エーミール」の関係を

めぐる問題であり、〈小説〉の教材価値として論じられ

る。〈対象人物〉の「エーミール」の側からの「問い直

して」は、〈視点人物〉であり〈語り手〉である「僕」

の内部には現れることなく、「僕」の話を語り直す(問

い直す)〈聴き手〉・〈語り手〉の「私」の〈物語〉によ

って現れ、その話を聴く「僕」に現れてくるからであ

る。 「国語科」においては、「問い直して」を「問い直し

て」によって、〈近代の物語文学〉と〈近代小説〉の違

いを問うこと、違いを生かすことという課題がひらか

れ(開かれ/拓かれ)る。このことは、複数の人(〈相

手〉の坩堝)で学ぶという教室の価値を考えていく実

践的な課題ともなっていく。〈会話〉と〈対話〉をめぐ

って、教育が問われていくことになる。〈会話〉(交流

の成立)においては〈相手〉が消え、〈視点人物〉と〈語

り手〉の〈物語〉が現れる。〈対話〉(断絶、衝突に直

面)においては〈相手〉、了解不能の《他者》が問題化

し、〈視点人物〉と〈語り手〉の〈物語〉が問題化して

いく。こうした〈言語以後〉と〈言語以前〉をめぐる

事態が教師や学習者の〈場〉においても問われている

からである。 以下、2 編の教材の「学習課題」と「学習目標」を提

起することによって、〈困った質問〉から展開する授業

の実際を具体的に提示しよう。この授業は、ナゾとし

ての〈困った質問〉に答えが与えられていくのではな

Page 16: 文学教育を拓く、今日の「国語科」の課題―― 問題提起として( … · ら大の卵を選んで来い、ということであった。一個 15 円の卵を10

-78-

く、〈困った質問〉に問われ続けていく事態を創り出し

ていくことになる。 (2)「ごんぎつね」の「学習課題」、「問い直して」の

実際

① 音読、語句の学習と学習者の感想・疑問の発表、「あ らすじ」(構成、出来事、〈語り手〉と登場人物・〈視

点人物〉と〈対象人物〉)を把握する。教師が感想・

疑問を整理し、〈困った質問〉を学習で取り上げる

ナゾとして提起する。(仮に、「「ごん」が日本語で

話していて(考えていて)おかしい?」を取り上げ

るとすると、「学習課題」は次のようになる。何を

ナゾとするかが、授業計画を左右する。) ② 作品冒頭の「これは、わたしが小さい時に、村の茂

平というおじいさんから聞いたお話です。」から分

かることを考える。(〈語り手〉の「兵十」→「わた

し」の「問い直して」、「兵十」、「茂平」、「わたし」

の関係の検討。) ③〈視点人物〉の「ごん」と〈対象人物〉の「兵十」の

共通点について考える。(〈視点人物〉の「ごん」と

〈対象人物〉の「兵十」の関係、「一人ぼっち」、「母」

の喪失の検討。) ➃〈視点人物〉の「ごん」の居場所を表す語句を抜き

出し、どのようなことが分かるか、考えをまとめる (〈視点人物〉の「ごん」、「草の深いところ」「お百

しょうのうちのうら」「六地蔵さんのかげ」「物置の

うしろ」「うら口」「道のかた側」「いどのそば」「か

げぼうしをふみふみ」「うちのうら口」にいる〈視

点人物〉の「ごん」に注目し、検討。) ⑤「そのばん、ごんは、あなの中で考えました。「兵十 のおっかあは、とこについていたにちがいない。そ

れで、兵十が、はりきりあみを持ち出したんだ。と

ころが、わしがいたずらをして、うなぎを取ってき

てしまった。だから、兵十は、おっかあにうなぎを

食べさせることができなかった。そのまま、おっか

あは死んじゃったにちがいない。うなぎが食べたい、

うなぎが食べたいと思いながら、死んだんだろう。

ちょっ、あんないたずらをしなけりゃあよかった。」

に注目して、この後、〈視点人物〉の「ごん」が〈対

象人物〉の「兵十」に対してどのようなことをした

のか、それはなぜか、まとめる。(〈視点人物〉の「ご

ん」がその後、〈対象人物〉の「兵十」にしたこと

の検討。) ⑥「「ごん」が日本語で話していて(考えていて)おか しい?」という〈困った質問〉に対してどう答える

のか、自分の考えをまとめる。(〈語り手〉の「兵十」

→「わたし」の「問い直して」、日本語で話して(考

えて)いる〈視点人物〉の「ごん」(=〈語り手「兵

十」→「わたし」の〈主体〉の構築)の検討。) (3)「ごんぎつね」の「学習目標」、「問い直して」の

実際

■「知識及び技能」(「言葉の特徴と使い方」、「情報の扱い

方」、「わが国の言語文化」から 1 つ。) 〈視点人物〉の「ごん」の居場所を表す語句を抜

き出し、どのようなことが分かるか、考えをまとめ

る。(「〈視点人物〉の「ごん」の検討/〈語り手〉の 「兵十」→「わたし」の「問い直して」の検討。この

目標にはこうした2層の目標が内在している。1 層

目の〈視点人物〉の「ごん」の検討に焦点化。ただ

し、2層目の目標に学習が及んでいくことがある。) (学習課題④)

■「思考力・判断力・表現力等」①(領域「読むこと」の

技能から 1 つ。) 〈視点人物〉の「ごん」と〈対象人物〉の「兵十」

をめぐる出来事を時間の展開に即して整理し、「ご

ん」の「兵十」のすれ違いについて考える。(〈視点

人物〉と〈対象人物〉の関係の検討/〈語り手〉の 「兵十」→「わたし」の「問い直して」の検討。この 目標にはこうした 2 層の目標が内在している。1 層

目の〈視点人物〉と〈対象人物〉の関係の検討に焦

点化。ただし、2 層目の目標に学習が及んでいくこ

とがある。)(学習課題①②③) ■「思考力・判断力・表現力等」②(領域「読むこと」の

「考えの形成・深化(共有)」から 1 つ。) 〈視点人物〉の「ごん」が〈対象人物〉の「兵十」

に対してどのようなことをしたのか、それはなぜか、

まとめる。(「〈視点人物〉の「ごん」の検討/〈語

り手〉の「兵十」→「わたし」の「問い直して」の

検討。この目標にはこうした2層の目標が内在して

いる。1 層目の〈視点人物〉の「ごん」の検討に焦

点化。ただし、2層目の目標に学習が及んでいくこ

とがある。)(学習課題⑤) ■「学びに向かう力・人間性等」(メインの「言語活動」

に即して、1 つ。ただし、「学習評価」は「主体的に 学

習に取り組む態度」とする。) 「「ごん」が日本語で話していて(考えていて)お

かしい?」という〈困った質問〉に対してどう答え

るのか、自分の考えをまとめる。(「〈視点人物〉の 「ごん」の検討/〈語り手〉の「兵十」→「わたし」

の「問い直して」の検討。この目標にはこうした2

層の目標が内在している。2 層目の〈語り手〉の「兵

十」→「わたし」の「問い直して」の検討に焦点化。) (学習課題⑥(①から⑥への過程を踏まえて))

-79-

(4)「少年の日の思い出」の「学習課題」、「問い直し

て」を「問い直して」の実際

① 音読、語句の学習と学習者の感想・疑問の発表、「あ らすじ」(構成、出来事、〈語り手〉と登場人物・〈視

点人物〉と〈対象人物〉)を把握する。教師が感想・

疑問を整理し、〈困った質問〉を学習で取り上げる

ナゾとして提起する。(仮に、「なぜ、「まえがき」

みたいのがあるの?」を取り上げるとすると、「学

習課題」は次のようになる。何をナゾとするかが授

業計画を左右する。) ②■〈視点人物〉の「僕」の「蝶」を表す語句と〈対象

人物〉の「エーミール」の「蝶」を表す語句を抜

き出し、比較し、どのようなことが分かるか、考

えをまとめる。(「宝物」(僕)と「宝石」(エーミ

ール)の違い、〈語り手〉の「僕」の「問い直し

て」の検討。) ■〈視点人物〉の「僕」の「エーミール」観が分かる

表現を抜き出して、それらから分かることは何か、

まとめる。(〈視点人物〉の「僕」の「エーミール」

観、〈語り手〉の「僕」の「問い直して」の検討。) ③「クジャクヤママユ」をめぐる事件に対する〈視点

人物〉の「僕」と〈対象人物〉の「エーミール」の

受け止め方の違いを捉える。(「盗み」よりも「蝶そ

のもの美しさの破壊」という認識(僕)と「盗み」

に入られ「丹精込めた蝶の標本を壊された」(エー

ミール)との認識のズレ、〈語り手〉の「僕」の「問

い直して」の検討。) ④〈視点人物〉の「僕」が謝ったのに〈対象人物〉の

「エーミール」が許さなかったのはなぜか、考える。 (「盗み」よりも「蝶そのもの美しさの破壊」という

認識(僕)と「盗み」に入られ「丹精込めた蝶の標

本を壊された」(エーミール)との認識のズレ、〈語

り手〉の「僕」の「問い直して」の検討。) ⑤「僕」(客)は「私」(主人)に、なぜ少年時代の「蝶」

に関わる出来事を話したのか、考える。(分ってほ

しい/分かってもらえるかも、〈語り手〉の「僕」

の「問い直して」の検討。) ⑥「私」(主人)は、なぜ「僕」(客)の話を語り直した のか、考える。(〈語り手〉の「僕」の「問い直して」

に対する、〈聴き手〉・〈語り手〉の「私」の「問い直

して」の検討。) ⑦「僕」(客)は、「私」(主人)の語り直しを聴いたら、

どのようなことに気がつくのか、自分の文章にまと

める。(〈語り手〉の「僕」の「問い直して」に対す

る、〈聴き手〉・〈語り手〉の「私」が「問い直して」、

それを聴く「僕」の「問い直して」、〈聴き手〉の「僕」

の〈主体〉の再構築の検討。)

(5)「少年の日の思い出」の「学習目標」、「問い直し

て」を「問い直して」の実際

■「知識及び技能」(「言葉の特徴と使い方」、「情報の扱い

方」「わが国の言語文化」から 1 つ。) 〈視点人物〉の「僕」にとっての「蝶」と〈対象人

物〉の「エーミール」にとっての「蝶」を表す語句

の違いに注目して、違いを考える。(〈語り手〉の「僕」

の「問い直して」/「僕」の「問 い直して」を、〈聴

き手〉・〈語り手〉の「私」が「問い直して」/「僕」

の「問い直して」を、〈聴き手〉・〈語り手〉の「私」

が「問い直して」、それを聴く「僕」の「問い直して」

の「問い直して」。この目標にはこうした 3 層の目標

が内在している。1 層目の〈語り手〉の「僕」の「問

い直して」の検討に焦点化。ただし、2 層目、3 層目

の目標に学習が及んでいくことがある。)(学習課題②) ■「思考力・判断力・表現力等」①(領域「読むこと」の

技能から 1 つ。) 少年時代の「僕」の出来事を時間の展開に即して

整理し、〈視点人物〉の「僕」の「エーミール」観を

考える。(〈語り手〉の「僕」の「問い直して」の検

討/「僕」の「問い直して」を、〈聴き手〉・〈語り

手〉の「私」が「問い直して」の検討/「僕」の「問

い直して」を、〈聴き手〉・〈語り手〉の「私」が「問

い直して」、それを聴く「僕」の「問い直して」の

検討。1層目の〈語り手〉の「僕」の「問い直して」

の検討に焦点化。ただし、2層目、3層目の目標に

学習が及んでいくことがある。)(学習課題①③④⑤) ■「思考力・判断力・表現力等」②(領域「読むこと」の

「考えの形成・深化(共有)」から 1 つ。) 〈語り手〉の「僕」の話したことを〈聴き手〉の

「私」が語り直したことの意味について考える。(2

層目の〈語り手〉の「僕」の「問い直して」を、〈聴

き手〉・〈語り手〉の「私」が「問い直して」の検討

に焦点化。ただし、3層目の目標に学習が及んでい

くことがある。)(学習課題⑥) ■「学びに向かう力・人間性等」(メインの「言語活動」

に即して、1 つ。ただし、「学習評価」は「主体的に学習

に取り組む態度」とする。) 〈語り手〉の「僕」(客)が「私」(主人)の語り直

しを聞いたら、どのようなことに気がつくのか、自

分の文章にまとめる。(3層目の「僕」の「問い直

して」を、〈聴き手〉・〈語り手〉の「私」が「問い直

して」、それを聴く「僕」の「問い直して」の検討

に焦点化。)(学習課題⑦(①から⑦への過程を踏まえて)) (6)「ごんぎつね」の「学習課題」「学習目標」の足

踏み、〈学習・発達論〉の足踏み

本稿では〈困った質問〉を起点にし、問われ続けて

Page 17: 文学教育を拓く、今日の「国語科」の課題―― 問題提起として( … · ら大の卵を選んで来い、ということであった。一個 15 円の卵を10

-78-

く、〈困った質問〉に問われ続けていく事態を創り出し

ていくことになる。 (2)「ごんぎつね」の「学習課題」、「問い直して」の

実際

① 音読、語句の学習と学習者の感想・疑問の発表、「あ らすじ」(構成、出来事、〈語り手〉と登場人物・〈視

点人物〉と〈対象人物〉)を把握する。教師が感想・

疑問を整理し、〈困った質問〉を学習で取り上げる

ナゾとして提起する。(仮に、「「ごん」が日本語で

話していて(考えていて)おかしい?」を取り上げ

るとすると、「学習課題」は次のようになる。何を

ナゾとするかが、授業計画を左右する。) ② 作品冒頭の「これは、わたしが小さい時に、村の茂

平というおじいさんから聞いたお話です。」から分

かることを考える。(〈語り手〉の「兵十」→「わた

し」の「問い直して」、「兵十」、「茂平」、「わたし」

の関係の検討。) ③〈視点人物〉の「ごん」と〈対象人物〉の「兵十」の

共通点について考える。(〈視点人物〉の「ごん」と

〈対象人物〉の「兵十」の関係、「一人ぼっち」、「母」

の喪失の検討。) ➃〈視点人物〉の「ごん」の居場所を表す語句を抜き

出し、どのようなことが分かるか、考えをまとめる (〈視点人物〉の「ごん」、「草の深いところ」「お百

しょうのうちのうら」「六地蔵さんのかげ」「物置の

うしろ」「うら口」「道のかた側」「いどのそば」「か

げぼうしをふみふみ」「うちのうら口」にいる〈視

点人物〉の「ごん」に注目し、検討。) ⑤「そのばん、ごんは、あなの中で考えました。「兵十 のおっかあは、とこについていたにちがいない。そ

れで、兵十が、はりきりあみを持ち出したんだ。と

ころが、わしがいたずらをして、うなぎを取ってき

てしまった。だから、兵十は、おっかあにうなぎを

食べさせることができなかった。そのまま、おっか

あは死んじゃったにちがいない。うなぎが食べたい、

うなぎが食べたいと思いながら、死んだんだろう。

ちょっ、あんないたずらをしなけりゃあよかった。」

に注目して、この後、〈視点人物〉の「ごん」が〈対

象人物〉の「兵十」に対してどのようなことをした

のか、それはなぜか、まとめる。(〈視点人物〉の「ご

ん」がその後、〈対象人物〉の「兵十」にしたこと

の検討。) ⑥「「ごん」が日本語で話していて(考えていて)おか しい?」という〈困った質問〉に対してどう答える

のか、自分の考えをまとめる。(〈語り手〉の「兵十」

→「わたし」の「問い直して」、日本語で話して(考

えて)いる〈視点人物〉の「ごん」(=〈語り手「兵

十」→「わたし」の〈主体〉の構築)の検討。) (3)「ごんぎつね」の「学習目標」、「問い直して」の

実際

■「知識及び技能」(「言葉の特徴と使い方」、「情報の扱い

方」、「わが国の言語文化」から 1 つ。) 〈視点人物〉の「ごん」の居場所を表す語句を抜

き出し、どのようなことが分かるか、考えをまとめ

る。(「〈視点人物〉の「ごん」の検討/〈語り手〉の 「兵十」→「わたし」の「問い直して」の検討。この

目標にはこうした2層の目標が内在している。1 層

目の〈視点人物〉の「ごん」の検討に焦点化。ただ

し、2層目の目標に学習が及んでいくことがある。) (学習課題④)

■「思考力・判断力・表現力等」①(領域「読むこと」の

技能から 1 つ。) 〈視点人物〉の「ごん」と〈対象人物〉の「兵十」

をめぐる出来事を時間の展開に即して整理し、「ご

ん」の「兵十」のすれ違いについて考える。(〈視点

人物〉と〈対象人物〉の関係の検討/〈語り手〉の 「兵十」→「わたし」の「問い直して」の検討。この 目標にはこうした 2 層の目標が内在している。1 層

目の〈視点人物〉と〈対象人物〉の関係の検討に焦

点化。ただし、2 層目の目標に学習が及んでいくこ

とがある。)(学習課題①②③) ■「思考力・判断力・表現力等」②(領域「読むこと」の

「考えの形成・深化(共有)」から 1 つ。) 〈視点人物〉の「ごん」が〈対象人物〉の「兵十」

に対してどのようなことをしたのか、それはなぜか、

まとめる。(「〈視点人物〉の「ごん」の検討/〈語

り手〉の「兵十」→「わたし」の「問い直して」の

検討。この目標にはこうした2層の目標が内在して

いる。1 層目の〈視点人物〉の「ごん」の検討に焦

点化。ただし、2層目の目標に学習が及んでいくこ

とがある。)(学習課題⑤) ■「学びに向かう力・人間性等」(メインの「言語活動」

に即して、1 つ。ただし、「学習評価」は「主体的に 学

習に取り組む態度」とする。) 「「ごん」が日本語で話していて(考えていて)お

かしい?」という〈困った質問〉に対してどう答え

るのか、自分の考えをまとめる。(「〈視点人物〉の 「ごん」の検討/〈語り手〉の「兵十」→「わたし」

の「問い直して」の検討。この目標にはこうした2

層の目標が内在している。2 層目の〈語り手〉の「兵

十」→「わたし」の「問い直して」の検討に焦点化。) (学習課題⑥(①から⑥への過程を踏まえて))

-79-

(4)「少年の日の思い出」の「学習課題」、「問い直し

て」を「問い直して」の実際

① 音読、語句の学習と学習者の感想・疑問の発表、「あ らすじ」(構成、出来事、〈語り手〉と登場人物・〈視

点人物〉と〈対象人物〉)を把握する。教師が感想・

疑問を整理し、〈困った質問〉を学習で取り上げる

ナゾとして提起する。(仮に、「なぜ、「まえがき」

みたいのがあるの?」を取り上げるとすると、「学

習課題」は次のようになる。何をナゾとするかが授

業計画を左右する。) ②■〈視点人物〉の「僕」の「蝶」を表す語句と〈対象

人物〉の「エーミール」の「蝶」を表す語句を抜

き出し、比較し、どのようなことが分かるか、考

えをまとめる。(「宝物」(僕)と「宝石」(エーミ

ール)の違い、〈語り手〉の「僕」の「問い直し

て」の検討。) ■〈視点人物〉の「僕」の「エーミール」観が分かる

表現を抜き出して、それらから分かることは何か、

まとめる。(〈視点人物〉の「僕」の「エーミール」

観、〈語り手〉の「僕」の「問い直して」の検討。) ③「クジャクヤママユ」をめぐる事件に対する〈視点

人物〉の「僕」と〈対象人物〉の「エーミール」の

受け止め方の違いを捉える。(「盗み」よりも「蝶そ

のもの美しさの破壊」という認識(僕)と「盗み」

に入られ「丹精込めた蝶の標本を壊された」(エー

ミール)との認識のズレ、〈語り手〉の「僕」の「問

い直して」の検討。) ④〈視点人物〉の「僕」が謝ったのに〈対象人物〉の

「エーミール」が許さなかったのはなぜか、考える。 (「盗み」よりも「蝶そのもの美しさの破壊」という

認識(僕)と「盗み」に入られ「丹精込めた蝶の標

本を壊された」(エーミール)との認識のズレ、〈語

り手〉の「僕」の「問い直して」の検討。) ⑤「僕」(客)は「私」(主人)に、なぜ少年時代の「蝶」

に関わる出来事を話したのか、考える。(分ってほ

しい/分かってもらえるかも、〈語り手〉の「僕」

の「問い直して」の検討。) ⑥「私」(主人)は、なぜ「僕」(客)の話を語り直した のか、考える。(〈語り手〉の「僕」の「問い直して」

に対する、〈聴き手〉・〈語り手〉の「私」の「問い直

して」の検討。) ⑦「僕」(客)は、「私」(主人)の語り直しを聴いたら、

どのようなことに気がつくのか、自分の文章にまと

める。(〈語り手〉の「僕」の「問い直して」に対す

る、〈聴き手〉・〈語り手〉の「私」が「問い直して」、

それを聴く「僕」の「問い直して」、〈聴き手〉の「僕」

の〈主体〉の再構築の検討。)

(5)「少年の日の思い出」の「学習目標」、「問い直し

て」を「問い直して」の実際

■「知識及び技能」(「言葉の特徴と使い方」、「情報の扱い

方」「わが国の言語文化」から 1 つ。) 〈視点人物〉の「僕」にとっての「蝶」と〈対象人

物〉の「エーミール」にとっての「蝶」を表す語句

の違いに注目して、違いを考える。(〈語り手〉の「僕」

の「問い直して」/「僕」の「問 い直して」を、〈聴

き手〉・〈語り手〉の「私」が「問い直して」/「僕」

の「問い直して」を、〈聴き手〉・〈語り手〉の「私」

が「問い直して」、それを聴く「僕」の「問い直して」

の「問い直して」。この目標にはこうした 3 層の目標

が内在している。1 層目の〈語り手〉の「僕」の「問

い直して」の検討に焦点化。ただし、2 層目、3 層目

の目標に学習が及んでいくことがある。)(学習課題②) ■「思考力・判断力・表現力等」①(領域「読むこと」の

技能から 1 つ。) 少年時代の「僕」の出来事を時間の展開に即して

整理し、〈視点人物〉の「僕」の「エーミール」観を

考える。(〈語り手〉の「僕」の「問い直して」の検

討/「僕」の「問い直して」を、〈聴き手〉・〈語り

手〉の「私」が「問い直して」の検討/「僕」の「問

い直して」を、〈聴き手〉・〈語り手〉の「私」が「問

い直して」、それを聴く「僕」の「問い直して」の

検討。1層目の〈語り手〉の「僕」の「問い直して」

の検討に焦点化。ただし、2層目、3層目の目標に

学習が及んでいくことがある。)(学習課題①③④⑤) ■「思考力・判断力・表現力等」②(領域「読むこと」の

「考えの形成・深化(共有)」から 1 つ。) 〈語り手〉の「僕」の話したことを〈聴き手〉の

「私」が語り直したことの意味について考える。(2

層目の〈語り手〉の「僕」の「問い直して」を、〈聴

き手〉・〈語り手〉の「私」が「問い直して」の検討

に焦点化。ただし、3層目の目標に学習が及んでい

くことがある。)(学習課題⑥) ■「学びに向かう力・人間性等」(メインの「言語活動」

に即して、1 つ。ただし、「学習評価」は「主体的に学習

に取り組む態度」とする。) 〈語り手〉の「僕」(客)が「私」(主人)の語り直

しを聞いたら、どのようなことに気がつくのか、自

分の文章にまとめる。(3層目の「僕」の「問い直

して」を、〈聴き手〉・〈語り手〉の「私」が「問い直

して」、それを聴く「僕」の「問い直して」の検討

に焦点化。)(学習課題⑦(①から⑦への過程を踏まえて)) (6)「ごんぎつね」の「学習課題」「学習目標」の足

踏み、〈学習・発達論〉の足踏み

本稿では〈困った質問〉を起点にし、問われ続けて

Page 18: 文学教育を拓く、今日の「国語科」の課題―― 問題提起として( … · ら大の卵を選んで来い、ということであった。一個 15 円の卵を10

-80-

いく「ごんぎつね」の授業のための「学習課題」と「学

習目標」の提案において〈語り手〉に着目しているの

だが、このことは小学校 4 年生には難しいとの意見が

出されるではないだろうか。すでに述べているように、

現行(2019 年時点)の小学校の国語教科書の「ごんぎ

つね」の「学習の手引き」で、〈語り手〉問題を取り上

げているものはない。難波博孝も 2018 年 2 月に刊行

した『ナンバ先生のやさしくわかる論理の本――国語科

で論理力を育てる――』で、「ごんぎつね」を取り上げ(112頁~126 頁)、「次期学習指導要領」に即して、次のよ

うな提案をしている。 「学習目標」を、 態度目標…本単元や教材、授業に興味・関心を持つ。 技能目標 1 …ごんや兵十の行動や気持ちについて、

叙述を基に捉える。 (学習指導要領 読むことイに拠る)

技能目標 2…ごんや兵十の気持ちの変化について、

場面の移り変わりと結び付けて具体的

に想像する。 (学習指導要領 読むことエに拠る)

価値目標…「ごんぎつね」を読んだ感想をまとめた 意見や感想を共有し、一人一人の感じ方 に違いがあることに気付く。

(学習指導要領 読むことオカに拠る) とし、「単元計画案」を提起し、「小学校高学年以降で

は、ここで示した単元にあるような「読者⇒登場人物」

に加えて、「登場人物―登場人物」や「読者⇒[登場人

物―登場人物]」が出てきます」、「さらに中学高校以上

では、「読者⇒[語り手⇒登場人物]」「読者⇒[語り手

⇒[登場人物―登場人物]]」といったように、「語り手」

を介在させて考えていくことが必要な文学教材が多く

なってきます。この場合は、「現実世界」と「登場人物

の世界」に加えて「語り手の世界」を想定し、それぞ

れ推論していくことになります」と述べている。 こうした提案は「ごんぎつね」をめぐる国語教科書

の現状とも軌を一にし、教室での実践の現状とも軌を

一にしているが、本稿は、こうした現状、〈学習・発達

論〉の常識を検討の課題にすることを提起している。

〈困った質問〉が教室で発せられる事態に基づいて、

である。〈困った質問〉は、教師によって提起される、

学習者にとってのする..

課題の提起ではなく、学習者に

よって喚起される、教師にとってのさせられる.....

課題の

提起である。これが机上の空論であるかどうかは、実

践によって問われていくことになるが、「「ごん」が日

本語で話していて(考えていて)おかしい?」に、あ

の「三日月」をめぐる事態に対する齋藤先生の立場で

向き合うことになってしまっていないか。 こう問いたい。 〈第三項授業論〉によって、事態が問われている、と。

〈対象人物〉から考え直すことは、〈相手〉から考え直

しことである、と。〈主体〉と〈客体〉は、相互に「言

語以前・了解不能 第三項の領域」に遮られている。

〈機能としての語り手〉を設定するならば、〈主体〉と

〈客体〉の間の抜き差しならない関係が浮かび上がっ

てくる。このことを〈単元〉の始まりとは何かに関わ

る〈学習・発達論〉の前提とするかどうかが問われて

いるのである。この件については、すでに、3 編の拙

稿、「〈困った質問〉に向き合って――文学作品の「教

材研究」の課題と前提――」(『第三項理論が拓く文学研

究/文学教育』明治図書 2018 年 10 月)、「「この話、

おもしろいところあるでしょ」と訊かれた時に――「心

意伝承の国語教育」の〈死〉と〈蘇り〉」――」(『国語教育思

想研究』NO.15 号 2017 年 10 月)、「〈交通〉と〈衝

突〉の「基層教育学」――プレモダンは内部(言語以後)の

現れ、Ⅹは外部(言語以前)からの働きかけ――」(『国語教育

思想研究』NO.18 号 2019 年 5 月)で探究を始めて

いる。庄司たづ子の

・「ごん」の死後語られた話が、「ごん」の立場で村

の人々によって語り継がれ、それを「わたし」が

語るという作品の構造をとらえる。 ・「兵十」が現実にとらえた「ごん」像と、語りの中

で作られた「ごん」像を読み、違いとらえる。 ・村の人々によってこの話が語り伝えられているわ

けを考え、交流する。

を「学習目標」とした「ごんぎつね」の授業の実際(「村

人が伝える「ごん」の話――第 4 学年「ごんぎつね」の授業

――」(『語り合う文学教育』第 17 号 2019 年 3 月))

と合わせて、検討の対象にしていただければ、と願う。 なお、「少年の日の思い出」における〈語り手〉問題

も実践の課題にされているとは言い難い。〈学習・発達

論〉は検討し直されなければならない。このことは「今

日の「国語科」の課題」を開いていくための核心に関

わっている。 再び、問題提起として(〈言語以前〉によって

〈言語以後〉を囲い込み、〈言語以後〉を世界の

複数性によって問い直し続けると、拓かれてい

くこと)

本稿は、子どもの「豊かな」「陰影のある精神生活」

について書き記すことから始められた。それが〈困っ

た質問〉にされてしまうことを問題にしてきたのであ

る。これは、わたくしの自己肯定の作業であるとされ

-81-

てしまうかもしれない。弁明はしない。これを受け入

れよう。その上で、「ナンダ、コレ?!」の坩堝の中に

身を晒そう。こう提起して、喘ぎ喘ぎ 2 つのことを、

このことを「教師にとってさせられる.....

課題」としての

授業の創造の入り口として、投げ出すだけだ。わたく

しの提起が外側から囲い込まれることを願って、であ

る。これが〈言語以前〉と〈言語以後〉をめぐる問題

を開いていくからだ。 (1)〈学習・発達論〉は、世界観認識としての、了解

不能の《他者》が課題の焦点

課題としての〈学習・発達論〉を、世界観認識とし

ての、了解不能の《他者》問題として受け止め直すこ

とが求められている。そのことによって、「学習課題」

と「学習目標」が「言語以前・了解不能 第三項の領

域」という事態に向けて開かれ、「今日」が問題化され

ていく。〈言語以後〉としての「今日」を〈言語以前〉

によって囲い込んでいくことになる。こうしたことが、

「問い直して」の〈物語〉の授業、「問い直して」を「問

い直して」の〈小説〉の授業のみならず、〈学習・発達

論〉自体を正解到達主義から、いや、正解到達主義批

判が正解到達主義に逆行してしまう事態、〈ナンデモア

リと価値絶対主義の癒着〉という事態から解き放って

いくのである。〈共同と価値相対主義の共存〉から〈学

習・発達論〉は論じられていくのだが、このことに止

まてしまうと、〈ナンデモアリと価値絶対主義の癒着〉

という事態に囲い込まれていく。両者は流動可能な、

〈言語以後〉の世界観認識の中にあるからだ。〈共同と

価値相対主義の共存〉は常に〈ナンデモアリと価値絶

対主義の癒着〉に反転していく可能性の中にある。両

者の世界観認識の倒壊が課題の核心である。課題が「世

界観認識としての、了解不能の《他者》問題として受

け止め直すこと」に焦点化されること、〈言語以前〉の

世界観認識に焦点化されることが求められている。流

動可能性を絶つことに向かって、〈学習・発達論〉の探

究がなされていく。〈共同と価値相対主義の共存〉に止

まる問題把握が問われていく。授業を、〈困った質問〉

を無視したり、排除したりして進めていくのではなく、

〈困った質問〉を起点にして進めていくことが求めら

れているのである。 〈困った質問〉に向き合っての「教材研究」が不可欠

である。「教材研究」は「学習課題」を掘り起こし、「学

習目標」として焦点化されていく。「学習目標」を立て、

「学習課題」として具体化していくというように考え

ると、外部としての〈困った質問〉は消されてしまう。

正解到達主義になる。これが汎用的な「資質・能力」

論の決定的な問題点である。この事態を超えていく〈学

習・発達論〉が田中の「パラレルワールド図」(「〈近代

小説〉の神髄」の提起)と向き合うことによって拓か

れていく。「対象人物」から「視点人物」を囲い込んで

いくことは〈困った質問〉によって「教材研究」を囲

い込んでいくことに展開し、〈語り手〉問題が〈学習・

発達論〉の課題として探究されていくことになる。こ

のことが、〈学習者〉と〈教師〉にとって、同時に課題

にされていくことになる。ただし、〈教師〉が〈語り手〉

の役割を果たすのではない。それでは正解到達主義に

戻ってしまう。〈ナンデモアリと価値絶対主義の癒着〉

という事態に囲い込まれてしまうからである。

(2)「予測困難な時代」も《他者》が課題の焦点

それだけでなく、こうした〈学習・発達論〉におい

ては、課題としての「予測困難な時代」を、世界観認

識としての、了解不能の《他者》問題として受け止め

直すことが求められている。そのことによって、「言葉

による見方・考え方」が「言語以前・了解不能 第三

項の領域」という事態に向けて開かれ、「今日」が問題

化されていく。〈言語以後〉としての「今日」を〈言語

以前〉によって囲い込んでいくことが求められている。

こうしたことが、「言葉による見方・考え方」の「問い

直して」の提起を「問い直して」を「問い直して」と

いうように受け止め直していくことであり、「特別の教

科 道徳」における「文学教育の挑戦」と高等学校の

教科編成、必修科目「現代の国語」と「言語文化」か

らの「文学教育の排除」という事態を問題化していく。

〈近代の物語文学〉と〈近代小説〉の違いが問われて

いない事態を乗り越えていくことが、である。 しかし、こうしたことは高等学校の新設選択科目「文

学国語」でも問われていない。小学校、中学校の「国

語科」でも問われていない。これは大学入試共通テス

ト、「国語科」の「記述式」出題の問題点、「読むこと」

をめぐる問題の核心ともなっていく。わたくしは、現

状における、こうしたことが看過されている「凡庸」

な「今日の「国語科」の課題」の把握の仕方、「文学教

育の課題」の取り上げ方に決定的な違和感がある。〈言

語以後〉の因果性で論じられている限り、事態は〈共

同と価値相対主義の共存〉と〈ナンデモアリと価値絶

対主義の癒着〉の、どちらにも流動可能なのである。

採点の平等性が問題にされているが、問題はそのこと

に止まらない。文学作品がないがしろにされて実用的

な文章が教材として取り上げられていることに止まら

ない。必修「現代の国語」から文学作品が排除され、

必修「言語文化」において文学作品が「教養」として

取り上げられ、「読むこと」が抜け落ちていることに止

まらない。選択における「論理国語」と「文学国語」

というように分断されていることに止まらないのだ。

問題の焦点は、「読むこと」の「問い直して」の足踏み

Page 19: 文学教育を拓く、今日の「国語科」の課題―― 問題提起として( … · ら大の卵を選んで来い、ということであった。一個 15 円の卵を10

-80-

いく「ごんぎつね」の授業のための「学習課題」と「学

習目標」の提案において〈語り手〉に着目しているの

だが、このことは小学校 4 年生には難しいとの意見が

出されるではないだろうか。すでに述べているように、

現行(2019 年時点)の小学校の国語教科書の「ごんぎ

つね」の「学習の手引き」で、〈語り手〉問題を取り上

げているものはない。難波博孝も 2018 年 2 月に刊行

した『ナンバ先生のやさしくわかる論理の本――国語科

で論理力を育てる――』で、「ごんぎつね」を取り上げ(112頁~126 頁)、「次期学習指導要領」に即して、次のよ

うな提案をしている。 「学習目標」を、 態度目標…本単元や教材、授業に興味・関心を持つ。 技能目標 1 …ごんや兵十の行動や気持ちについて、

叙述を基に捉える。 (学習指導要領 読むことイに拠る)

技能目標 2…ごんや兵十の気持ちの変化について、

場面の移り変わりと結び付けて具体的

に想像する。 (学習指導要領 読むことエに拠る)

価値目標…「ごんぎつね」を読んだ感想をまとめた 意見や感想を共有し、一人一人の感じ方 に違いがあることに気付く。

(学習指導要領 読むことオカに拠る) とし、「単元計画案」を提起し、「小学校高学年以降で

は、ここで示した単元にあるような「読者⇒登場人物」

に加えて、「登場人物―登場人物」や「読者⇒[登場人

物―登場人物]」が出てきます」、「さらに中学高校以上

では、「読者⇒[語り手⇒登場人物]」「読者⇒[語り手

⇒[登場人物―登場人物]]」といったように、「語り手」

を介在させて考えていくことが必要な文学教材が多く

なってきます。この場合は、「現実世界」と「登場人物

の世界」に加えて「語り手の世界」を想定し、それぞ

れ推論していくことになります」と述べている。 こうした提案は「ごんぎつね」をめぐる国語教科書

の現状とも軌を一にし、教室での実践の現状とも軌を

一にしているが、本稿は、こうした現状、〈学習・発達

論〉の常識を検討の課題にすることを提起している。

〈困った質問〉が教室で発せられる事態に基づいて、

である。〈困った質問〉は、教師によって提起される、

学習者にとってのする..

課題の提起ではなく、学習者に

よって喚起される、教師にとってのさせられる.....

課題の

提起である。これが机上の空論であるかどうかは、実

践によって問われていくことになるが、「「ごん」が日

本語で話していて(考えていて)おかしい?」に、あ

の「三日月」をめぐる事態に対する齋藤先生の立場で

向き合うことになってしまっていないか。 こう問いたい。 〈第三項授業論〉によって、事態が問われている、と。

〈対象人物〉から考え直すことは、〈相手〉から考え直

しことである、と。〈主体〉と〈客体〉は、相互に「言

語以前・了解不能 第三項の領域」に遮られている。

〈機能としての語り手〉を設定するならば、〈主体〉と

〈客体〉の間の抜き差しならない関係が浮かび上がっ

てくる。このことを〈単元〉の始まりとは何かに関わ

る〈学習・発達論〉の前提とするかどうかが問われて

いるのである。この件については、すでに、3 編の拙

稿、「〈困った質問〉に向き合って――文学作品の「教

材研究」の課題と前提――」(『第三項理論が拓く文学研

究/文学教育』明治図書 2018 年 10 月)、「「この話、

おもしろいところあるでしょ」と訊かれた時に――「心

意伝承の国語教育」の〈死〉と〈蘇り〉」――」(『国語教育思

想研究』NO.15 号 2017 年 10 月)、「〈交通〉と〈衝

突〉の「基層教育学」――プレモダンは内部(言語以後)の

現れ、Ⅹは外部(言語以前)からの働きかけ――」(『国語教育

思想研究』NO.18 号 2019 年 5 月)で探究を始めて

いる。庄司たづ子の

・「ごん」の死後語られた話が、「ごん」の立場で村

の人々によって語り継がれ、それを「わたし」が

語るという作品の構造をとらえる。 ・「兵十」が現実にとらえた「ごん」像と、語りの中

で作られた「ごん」像を読み、違いとらえる。 ・村の人々によってこの話が語り伝えられているわ

けを考え、交流する。

を「学習目標」とした「ごんぎつね」の授業の実際(「村

人が伝える「ごん」の話――第 4 学年「ごんぎつね」の授業

――」(『語り合う文学教育』第 17 号 2019 年 3 月))

と合わせて、検討の対象にしていただければ、と願う。 なお、「少年の日の思い出」における〈語り手〉問題

も実践の課題にされているとは言い難い。〈学習・発達

論〉は検討し直されなければならない。このことは「今

日の「国語科」の課題」を開いていくための核心に関

わっている。 再び、問題提起として(〈言語以前〉によって

〈言語以後〉を囲い込み、〈言語以後〉を世界の

複数性によって問い直し続けると、拓かれてい

くこと)

本稿は、子どもの「豊かな」「陰影のある精神生活」

について書き記すことから始められた。それが〈困っ

た質問〉にされてしまうことを問題にしてきたのであ

る。これは、わたくしの自己肯定の作業であるとされ

-81-

てしまうかもしれない。弁明はしない。これを受け入

れよう。その上で、「ナンダ、コレ?!」の坩堝の中に

身を晒そう。こう提起して、喘ぎ喘ぎ 2 つのことを、

このことを「教師にとってさせられる.....

課題」としての

授業の創造の入り口として、投げ出すだけだ。わたく

しの提起が外側から囲い込まれることを願って、であ

る。これが〈言語以前〉と〈言語以後〉をめぐる問題

を開いていくからだ。 (1)〈学習・発達論〉は、世界観認識としての、了解

不能の《他者》が課題の焦点

課題としての〈学習・発達論〉を、世界観認識とし

ての、了解不能の《他者》問題として受け止め直すこ

とが求められている。そのことによって、「学習課題」

と「学習目標」が「言語以前・了解不能 第三項の領

域」という事態に向けて開かれ、「今日」が問題化され

ていく。〈言語以後〉としての「今日」を〈言語以前〉

によって囲い込んでいくことになる。こうしたことが、

「問い直して」の〈物語〉の授業、「問い直して」を「問

い直して」の〈小説〉の授業のみならず、〈学習・発達

論〉自体を正解到達主義から、いや、正解到達主義批

判が正解到達主義に逆行してしまう事態、〈ナンデモア

リと価値絶対主義の癒着〉という事態から解き放って

いくのである。〈共同と価値相対主義の共存〉から〈学

習・発達論〉は論じられていくのだが、このことに止

まてしまうと、〈ナンデモアリと価値絶対主義の癒着〉

という事態に囲い込まれていく。両者は流動可能な、

〈言語以後〉の世界観認識の中にあるからだ。〈共同と

価値相対主義の共存〉は常に〈ナンデモアリと価値絶

対主義の癒着〉に反転していく可能性の中にある。両

者の世界観認識の倒壊が課題の核心である。課題が「世

界観認識としての、了解不能の《他者》問題として受

け止め直すこと」に焦点化されること、〈言語以前〉の

世界観認識に焦点化されることが求められている。流

動可能性を絶つことに向かって、〈学習・発達論〉の探

究がなされていく。〈共同と価値相対主義の共存〉に止

まる問題把握が問われていく。授業を、〈困った質問〉

を無視したり、排除したりして進めていくのではなく、

〈困った質問〉を起点にして進めていくことが求めら

れているのである。 〈困った質問〉に向き合っての「教材研究」が不可欠

である。「教材研究」は「学習課題」を掘り起こし、「学

習目標」として焦点化されていく。「学習目標」を立て、

「学習課題」として具体化していくというように考え

ると、外部としての〈困った質問〉は消されてしまう。

正解到達主義になる。これが汎用的な「資質・能力」

論の決定的な問題点である。この事態を超えていく〈学

習・発達論〉が田中の「パラレルワールド図」(「〈近代

小説〉の神髄」の提起)と向き合うことによって拓か

れていく。「対象人物」から「視点人物」を囲い込んで

いくことは〈困った質問〉によって「教材研究」を囲

い込んでいくことに展開し、〈語り手〉問題が〈学習・

発達論〉の課題として探究されていくことになる。こ

のことが、〈学習者〉と〈教師〉にとって、同時に課題

にされていくことになる。ただし、〈教師〉が〈語り手〉

の役割を果たすのではない。それでは正解到達主義に

戻ってしまう。〈ナンデモアリと価値絶対主義の癒着〉

という事態に囲い込まれてしまうからである。

(2)「予測困難な時代」も《他者》が課題の焦点

それだけでなく、こうした〈学習・発達論〉におい

ては、課題としての「予測困難な時代」を、世界観認

識としての、了解不能の《他者》問題として受け止め

直すことが求められている。そのことによって、「言葉

による見方・考え方」が「言語以前・了解不能 第三

項の領域」という事態に向けて開かれ、「今日」が問題

化されていく。〈言語以後〉としての「今日」を〈言語

以前〉によって囲い込んでいくことが求められている。

こうしたことが、「言葉による見方・考え方」の「問い

直して」の提起を「問い直して」を「問い直して」と

いうように受け止め直していくことであり、「特別の教

科 道徳」における「文学教育の挑戦」と高等学校の

教科編成、必修科目「現代の国語」と「言語文化」か

らの「文学教育の排除」という事態を問題化していく。

〈近代の物語文学〉と〈近代小説〉の違いが問われて

いない事態を乗り越えていくことが、である。 しかし、こうしたことは高等学校の新設選択科目「文

学国語」でも問われていない。小学校、中学校の「国

語科」でも問われていない。これは大学入試共通テス

ト、「国語科」の「記述式」出題の問題点、「読むこと」

をめぐる問題の核心ともなっていく。わたくしは、現

状における、こうしたことが看過されている「凡庸」

な「今日の「国語科」の課題」の把握の仕方、「文学教

育の課題」の取り上げ方に決定的な違和感がある。〈言

語以後〉の因果性で論じられている限り、事態は〈共

同と価値相対主義の共存〉と〈ナンデモアリと価値絶

対主義の癒着〉の、どちらにも流動可能なのである。

採点の平等性が問題にされているが、問題はそのこと

に止まらない。文学作品がないがしろにされて実用的

な文章が教材として取り上げられていることに止まら

ない。必修「現代の国語」から文学作品が排除され、

必修「言語文化」において文学作品が「教養」として

取り上げられ、「読むこと」が抜け落ちていることに止

まらない。選択における「論理国語」と「文学国語」

というように分断されていることに止まらないのだ。

問題の焦点は、「読むこと」の「問い直して」の足踏み

Page 20: 文学教育を拓く、今日の「国語科」の課題―― 問題提起として( … · ら大の卵を選んで来い、ということであった。一個 15 円の卵を10

-82-

とそれゆえに「問い直して」を「問い直して」の扉が

閉ざされていることにある。そうでないと、〈ナンデモ

アリと価値絶対主義の癒着〉という事態に囲い込まれ、

〈言語以前〉と〈言語以後〉の問題に向き合うことが

できないにもかかわらず、である。それゆえに、「読む

こと」の「準拠枠」の喪失という事態を課題として把

握し、この事態を超えていくことが求められている。 こうした課題を看過してしまっている、「予測困難な

時代」という課題に対する「凡庸」な対応として、わ

たくしが、まず想起するのは紅野謙介の対応である。

「凡庸」という言葉に依拠しての、益田勝実と田中実

の主張に対する批判が、紅野の 1995 年度の日本文学協

会大会(文学研究の部)報告「教材の多様化と文学主

義の解体」(『日本文学』1996 年4月号)という提起

であった。「教材の多様化」と「文学主義の解体」を

肯定的に論じた氏が、近年、「大学入試共通テスト」、

「国語科」の「記述式」のあり方の不平等性の批判と

文学教材の排除という国語教育の動向に対する批判

(同氏著『国語教育 混迷する改革』(筑摩書房 2020

年1月)他)を展開している。この不可解な軌跡は、

氏の世界観認識の流動可能性を浮かび上がらせており、

それが、現状においては〈共同と価値相対主義の共存〉

に依拠し、その地点に止まった「凡庸」な論の展開に

なっている。この「凡庸」に囲いこまれた逆ベクトル

の無自覚は〈共同と価値相対主義の共存〉と〈ナンデ

モアリと価値絶対主義の癒着〉との流動可能性に対し

て、「凡庸」なまなざしで彷徨い続けている。「国語

教育 混迷する改革」は、この・ ・

提起・ ・

の・

混迷・ ・

と・

とも・ ・

に・

論じ

られなければならない。氏は、〈言葉以前〉という事

態と向き合っていこうとしないがゆえに、〈言葉以後〉

という事態に囲い込まれ、足を掬われてしまう。自ら

の〈ジコチュウ〉に対する免疫がない。「ウチ」(👤👤)

の人は〈困った質問〉に晒されることが求められてい

る。「生活上の分類」(真実・ ・

に・

対する・ ・ ・

誤り)から「世界

観上の真偽の分類」(真実の・

中・

で・

の・

「誤り」)へと、開

かれていくことが求められている。了解不能の《他者》

に翻弄される地点に、批評の足場が据えられることが

求められているのである。紅野については未発表であ

るが、拙稿「わたくし・〈転向〉の瀬戸際で、大童。益

田勝実の地平から―――「戦後」・「国語科」・「教育」

と「問い直して」を問い直して・ ・ ・ ・ ・

―――」(仮題)で取り上

げている。別に発表予定である。

「読むこと」の「準拠枠」の喪失という事態とその克

服に関する提起は、すでに田中実の「第三項理論」が

提起し、周非も「「鉄の部屋を壊す」ために―――失われ

た「読むこと」の準拠枠、『美神』論を通して―――」(『日本文

学』2020 年 1 月号)で提起している。〈ミカヅキ〉問

題から開かれる考察の始まり...

はこれらの提起とともに

ある。「ナンダ、コレ?!」の問題化が、〈ポスト・ポ

ストモダン〉の時代を拓いていく。「問い直して」に止

まることなく、「問い直して」を「問い直して」の探究

によって、である。 付記 わたくしは、田中実が提起する「第三項理論」に依拠し、

文学作品の教材価値の研究を続けている。教材研究と授業づ

くりに取り組んでいる。田中実・須貝千里・難波博孝編著『第

三項理論が拓く文学研究/文学教育』(明治図書 2018.10)がある。本稿で取り上げた宮澤賢治「注文の多い料理店」、三

島由紀夫「美神」、村上春樹「鏡」、森鴎外「舞姫」、夏目漱石

「こころ」、村上春樹「風の歌を聴け」、魯迅「故郷」、新実南

吉「ごんぎつね」、ヘルマン・ヘッセ「少年の日の思い出」の

「教材研究」に関して、本文中に明記しているものの他、以

下の文献を前提にして考察している。 ・ 三島由紀夫「美神」:田中実「現実は言葉で出来ている―

―『金閣寺』と『美神』の深層批評――」(『都留文科大学

大学院紀要』19 号 2015 年 3 月)、周非「「鉄の部屋を壊

す」ために―――失われた「読むこと」の準拠枠、『美神』

論を通して―――」(『日本文学』2020 年 1 月号) ・ 村上春樹「鏡」:相澤毅彦「村上春樹「鏡」における自己

と恐怖――その克服への希望と危険性――」(『第三項理論

が拓く文学研究/文学教育』明治図書 2018 年 10 月) ・ 森鴎外「舞姫」:田中実「『舞姫』の〈語り手〉「余」を相

対化する〈機能としての語り手〉」(『第三項理論が拓く文

学研究/文学教育』明治図書 2018 年 10 月) ・ 夏目漱石「こころ」:田中実「『こゝろ』の架け橋/〈読み〉

の革命――新しい作品論のために――」(『第三項理論が拓

く文学研究/文学教育』明治図書 2018 年 10 月) ・ 村上春樹「風の歌を聴け」:田中実「数値の中のアイデン

ティティ――『風の歌を聴け』――」(『日本の文学』第 7集 有精堂 1990 年 6 月)

・ 魯迅「故郷」:田中実「続〈主体〉の構築 : 魯迅の『故郷』

再々論」(『国語教育思想研究』8 号 2014 年 5 月号)、須

貝千里「世界観認識として、「予測困難な時代」を問い質

して――「資質・能力」としての〈第三項〉論と「故郷」

(魯迅)の「学習課題」の転換――」(『日本文学』2017 年

8 月号 ・ 新実南吉「ごんぎつね」:田中実「物語童話「ごんぎつね」

の〈読み方〉」(『語り合う文学教育の会』10 号 2012 年)、

須貝千里「狐語人語――「権狐」問答――」(2006 年 未

刊行) ・ ヘルマン・ヘッセ「少年の日の思い出」:須貝千里「「語り

手」という「学習用語」の登場――定番教材『少年の日の

思い出』(ヘルマン・ヘッセ)にて――」(『日本文学』2012年 8 月号)

-83-

「総合的な学習の時間」と時事問題(現代的課題・地球的課題)

を結びつける

・・・・ SDGs と「総合的な学習の時間」・・・・

法政大学キャリアデザイン学部兼任講師 本山 明

1 研究目的と研究課題

地球温暖の進行、続く戦争とテロ、経済格差の拡大

などの現代的課題・地球的課題はその解決を私たちに

迫ってきている。特に日本においてこれらの課題に応

える教育は十分とはいえない。いかにしたら学校のな

かで自立した市民として育ち、主体として育つ機会が

あるのか。その切り口として、日々、報道されるニュ

ース(時事問題)を教室に引き入れ、子どもたち・学

生が考え合い、交流、刺激し合い、一市民として育つ

授業の研究をしていきたい。時事問題を考えることが、

授業、「総合的な学習の時間」において、子ども、生徒、

学生にどのような教育的意味を持つのかを研究する。 2 戦中の時事問題

(1)「時事問題と教育」 清水幾太郎 より

「昭和 17 年の初め・・・小学校に通っている子ども

の教科書がいわゆる戦時色に彩られることを知ってび

っくりしたことがあります。いつの間にか沢山の時事

問題が教科書に盛り込まれ、あの大東亜共栄圏に関す

るさまざまの事実と理想とが学校教育の内容になって

いるではありませんか。教科書が戦局に合わせて作ら

れていると私は感じました。今、私はびっくりしたと

書きました。しかし実を言うと戦慄した、と申すべき

でありましょう。(中略)子どもは黙って勉強していれ

ば良かったのであります」「こう考えて来れば日本の教

育は、というより日本の社会は、子どもが時事問題に

触れぬことで持ってきたと言えるのではないでしょう

か。子どもを時事問題から遮断する事、万一これに触

れた時は、これに頭からおっかぶせるだけの大義を予

め持たせておくこと、これが眼目であったとみられま

す。しかし、それだけでは追いつかぬという焦りが、

戦争中のあの教科書を生み出したと考えるほかはあり

ません。そして、その時、日本の教育は、教育よりも、

むしろ宣伝の方向へ決定的な一歩を踏み出したと言わ

ねばなりますまい。」(1)

(2)初等科国語三 教科書(2)より

四 君が代少年

昭和十年四月二十一日の朝、台湾で大きな地震があ

りました。 公学校の三年生であった徳坤(とくこん)といふ少

年は、けさも目がさめると、顔を洗てから、うやうや

しく神だなに向かって、拝礼をしました。神だなには、

皇大神宮の大麻がおまつりしてあるのです。それから、

まもなく朝の御飯になるので、少年は、その時外へ出

てゐた父を呼びに行きました。家を出て少し行った時、

「ゴー。」と恐しい音がして、地面も、まはりの家も、

ぐらぐらと動きました。「地震だ。」と少年は思ひまし

た。そのとたん、少年のからだの上へ、そばの建物の

土角(どかく)がづれて来ました。(中略)少年は、あ

くる日の昼ごろ、父と、母と、受持の先生にまもられ

て、遠くの町にある医院へ送られて行きました。「おと

うさん、先生はいらっしゃらないの。もう一度、先生

におあひしたいなあ。」といひました。これっきり、自

分は、遠いところへ行くのだと感じたのかも知れませ

ん。それからしばらくして、少年はいひました。「おと

うさん、ぼく、君が代を歌ひます」少年は、ちょっと

目をつぶって、何か考へてゐるやうでしたが、やがて

息を深く吸って、静かに歌ひだしました。 きみがよはちよにやちよに 徳坤が心をこめて歌ふ声は、同じ病室にゐる人たち

の心に、しみこむやうに聞えました。 さざれいしの 小さいながら、はっきりと歌はつづいていきます。

あちこちに、すすり泣きの声が起りました。いはほと

なりてこけのむすまで 終りに近くなると、声は、だんだん細くなりました。

でも、最後までりっぱに歌ひ通しました。君が代を歌

ひ終った徳坤は、その朝、父と母と、人々の涙にみま

もられながら、やすらかに長い眠りにつきました。 昭和十七年二月十六日発行(3) 教師用 初等科国語三 文部省 文章 「このつらい手当の最中にも、少年は、決して台湾

語を口に出しませんでした。」 苦痛を訴へるほとんど無意識的な語も台湾語ではな