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1 アフリカの星 栄光の機体番号14 April 1, 2013 Hans Mitternyer 上空1500メートルから見下ろすエル・アラメイン(北アフリカ)の 砂漠は、ただ砂一色、虚無の海であった。ドイツが誇るメッサー・シュ ミット戦闘機 Bf109G G 型エンジンは、かなりのノイズをコックピッ トに送り込んでいるはずであったが、その音に慣れきっているヨアキ ム・マルセイユの耳は、その周波数にだけ無感覚になっており、騒音を 通してむしろ砂漠の静寂を聞き取っていた。 DB605 のエンジンが突然息 継ぎをした。 「おい、まただ。そっちはどうだ、大丈夫か」 右を飛んでいる僚機へ、ヨアキムからエンジン不調の無線が入った。ヨアキムはこの新型機をど うしても好きになれなかった。G 型エンジンは不調が多く、今日の偵察護衛飛行でも、往きは問 題なかったのに、帰りのエンジン音に突然バラツキが混じった。ヨアキムはこの新型機に搭乗す ることを渋ってきたが、ケッセルリンク元帥は、ゲッペルスへの追従であろうか、今やドイツの スターであるヨアキム・マルセイユがこの新型機に乗ることを主張した。つまり、ヨアキムが、 最新型の機体を操縦する姿を見せればドイツ国民、特に女性が騒ぐ、それがナチス・ドイツの宣 伝に役立つというわけであった。だが女には、この熟成の済んでいない戦闘機が、新しいだけの ガラクタであることなど到底理解できていなかった。6回も撃墜された人間の恐怖が分かるはず もない。ヨアキムは、自分が軍の英雄に祭り上げられていることにかなり前から抵抗を感じてい た。ヨアキムの個性から言えば、こういう見え透いた演出はまさに唾棄すべきものであった。メ ッサー・シュミットのエンジンは煙を吹き出し始めた。 1960年代、日本のラジオから『アフリカの星のボレロ』という曲がかなり頻繁に流れた。フ

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アフリカの星

栄光の機体番号14

April 1, 2013

Hans Mitternyer

上空1500メートルから見下ろすエル・アラメイン(北アフリカ)の

砂漠は、ただ砂一色、虚無の海であった。ドイツが誇るメッサー・シュ

ミット戦闘機 Bf109Gの G型エンジンは、かなりのノイズをコックピッ

トに送り込んでいるはずであったが、その音に慣れきっているヨアキ

ム・マルセイユの耳は、その周波数にだけ無感覚になっており、騒音を

通してむしろ砂漠の静寂を聞き取っていた。DB605のエンジンが突然息

継ぎをした。

「おい、まただ。そっちはどうだ、大丈夫か」

右を飛んでいる僚機へ、ヨアキムからエンジン不調の無線が入った。ヨアキムはこの新型機をど

うしても好きになれなかった。G型エンジンは不調が多く、今日の偵察護衛飛行でも、往きは問

題なかったのに、帰りのエンジン音に突然バラツキが混じった。ヨアキムはこの新型機に搭乗す

ることを渋ってきたが、ケッセルリンク元帥は、ゲッペルスへの追従であろうか、今やドイツの

スターであるヨアキム・マルセイユがこの新型機に乗ることを主張した。つまり、ヨアキムが、

最新型の機体を操縦する姿を見せればドイツ国民、特に女性が騒ぐ、それがナチス・ドイツの宣

伝に役立つというわけであった。だが女には、この熟成の済んでいない戦闘機が、新しいだけの

ガラクタであることなど到底理解できていなかった。6回も撃墜された人間の恐怖が分かるはず

もない。ヨアキムは、自分が軍の英雄に祭り上げられていることにかなり前から抵抗を感じてい

た。ヨアキムの個性から言えば、こういう見え透いた演出はまさに唾棄すべきものであった。メ

ッサー・シュミットのエンジンは煙を吹き出し始めた。

1960年代、日本のラジオから『アフリカの星のボレロ』という曲がかなり頻繁に流れた。フ

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ィルムシンフォニックオーケストラが演奏するこの曲は、どこか物悲しく、いかにも空をふわふ

わと彷徨っているような曲想で、曲の背景を知らない日本でもかなり流行った。これは、第2次

世界大戦中、連合軍の飛行機150機(一説には180機)を落としたといわれるドイツの撃墜

王『アフリカの星』ことハンス・ユアキム・マルセーユに関する映画の主題曲である。彼の前に

も、あとにも、これを上回る撃墜王は出ていない。

ハンス・ヨアキム・マルセイユ(Hans-Joachim Marseille)は、ドイツ・ベルリンで、陸軍少将

の息子として生まれた。名前にマルセイユというフランス語が混じるのは、先祖がフランスから

の亡命者であったためである。彼は19歳でドイツ空軍に士官候補生として入隊すると特異な能

力を発揮した。彼が操縦する戦闘機は通常では考えられない動きをするだけでなく、射撃の勘が

異常に鋭く、一見無駄に撃ったかのように見える射線に、相手の戦闘機が自分から当たりにくる

かのような偏差射撃(見込み射撃 deflection shooting)を度々見せた。彼は、戦闘中は冷静沈着、

かつ勇敢であったが。その分、集中による疲労も激しく、帰投後は自分で飛行機を降りられない

ことがたびたびあった。

イングランド航空戦 The Battle of Britain

1939年9月、ヒトラーのドイツはポーランドへ侵攻した。ポーランドの同盟国であったイギ

リスとフランスはドイツに宣戦布告を行い、第 2次世界大戦は、ここに世界大戦の容を呈して

きた。ドイツはその後たった1か月で西ヨーロッパ(フランス、オランダ、ベルギー)を席巻し、

10か月後には海を挟んだイギリスに襲い掛かった。ドイツは、英国は戦わずして降伏するだろ

うとタカをくくっていたが、誇り高い英国国民はいくら脅しをかけられてもドイツに頭を下げな

かった。イギリスは当時西側のリーダーであり、ドイツにつぐ有数の工業国であった。ドイツは

まず空襲により英国の工業地帯をたたき、最後は陸軍を上陸させ占拠する方針を取った。豊臣秀

吉ほどではないが、ずいぶん無茶なことを考えたものである。違うのは、ドイツは、その工業力

にものを言わせ、艦船、戦車、飛行機、銃など、イギリスを圧倒する量と質を備えていた。ドイ

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ツの潜水艦 Uボートが連合国に大きな損害を与えたことは、ヨーロッパでは誰でも知っている

ことであるし、イギリスの大型砲艦フッドは、ドイツの大型戦艦(大和・武蔵よりはすこし小さ

い)ビスマルクの放ったたった一発の砲弾により北海に沈み、英国国民に大きな失望を与えた。

ビスマルクも最後は英国艦隊に追い掛け回され、偶然プロペラに損傷を受けたところを沈められ

たが、北大西洋を行くアメリカからイギリスへの補給船はドイツ潜水艦と戦艦により次々に沈め

られ、イギリスの食糧備蓄は1か月を切り、次第に飢えが忍び寄っていた。

ヨーロッパでは、日本のように玉砕とか神国などわけのわからないことは言わないが、一人だけ

もっとわけの分からないことを考えている男がいた。アドルフ・ヒットラーである。この男は、

自分自身ユダヤ人の血が混じっている(という説がある)くせに、ゲルマン純血、ユダヤ人殲滅

などというスローガンを掲げ、最後は女を巻き添えに自殺した情けない男である。こんな狂人で

も国家のヘッドとなると、国民は、時には熱狂して支持する場合がある。北朝鮮のキム・ジョン

ナントカ、スターリン、6000万人を殺した中国の毛沢東が現代の例である。日本でも民主党

の鳩山首相が誕生した時、多くのものは、この東大とハーバードを卒業し、落ち着いた物腰の政

治家に期待した。それがあのざまである。肩書と能力は何の関係もないことを証明した鳩山首相

は、国民を指導するどころか、自分のほうがいかれており、1年で追い落とされてしまった。鳩

山首相は退陣後も勝手に外国へ出かけ、言ってはならないことを喋り捲っている。後年評価が変

わるのであればその時に謝らなければならないが、今のところまさに国賊である。高校生でもわ

かることがわからない。そんな男でも一人前に「自分の信念」などと口にするから始末が悪い。

しかしヒットラーは違う。もっと遥かにいかれていた。

英国侵攻の手始めとして、ドイツは英国工業地帯の連続爆撃を計画したが、実はヒットラーは都

市部への爆撃を禁じていた。それをやるとドイツの都市へ報復爆撃を受け、泥沼の消耗戦になっ

てしまうからである。しかし、ある悪天候の日、ドイツの爆撃機が間違ってロンドンに爆弾を落

としてしまった。被害は少なかったがイギリスは激怒し、仕返しに爆撃機の編隊をドイツに飛ば

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すと都市部への報復爆撃を行った。するとヒットラーは、自分のやったことは棚に上げ、さらに

激怒し、英国爆撃を強化するとともに、英国航空戦力の撃滅を指示した。1940年7月から始

まり、100日以上続いた Battle of Britainは英独間の航空戦である。ヨアキムは1か月後の

8月から参戦した。戦力としては圧倒的にドイツが優っていたが、英国も国民が団結し応戦した。

英国はドイツより優秀なレーダー網を構築し、アメリカから資金・物資援助を受けた。ヨアヒム

たち戦闘機乗りは、ドイツ爆撃隊の援護を主務としていたが、イギリスにもスピットファイヤー

という優秀な戦闘機があり、両軍はドーバー海峡真上で激突した。これは九州と韓国が対馬上空

で戦うよりもっと近距離である。

フランス・シェルブールを飛び立ったドイツ DB109E 戦闘機の編隊は、お得意のロッテ戦法を

取りながら、イギリス南西部のブリストル市工業地帯を爆撃するHe-111ハインケル爆撃機の編

隊を護衛する任務を果たそうとしていた。だが、レーダー技術に優れるイギリスはとっくにその

動きをつかんでおり、英仏海峡上空にホーカー・ハリケーンとスピットファイヤーの混成編隊を

待機させていた。ロッテ戦法とは2機がチームになって攻撃する方法で、一機は相手を攻撃し、

もう一機は上空で援護を行うというものである。後年、アフリカ戦線で援護の役目を受け持つこ

とになる相棒のライナー・ペントゲンによると、パートナーであるヨアキム・マルセイユはむち

ゃくちゃな操縦をするパイロットで、ついていくのは容易でなかった。戦闘中に突然フルフラッ

プをかけ墜落寸前まで速度を落とし、その体勢で急旋回をしながら、しかも敵機に対し銃撃を行

うのである。機が失速する瞬間の直前にスロットルを開け、墜落を避ける独特の勘は、ほかのパ

イロットがいくら研究してもできないものであった。

「この男は死に対する恐怖というものがなく、実戦をゲームのように楽しみ、しかもどこかでヒ

ットラーの体制をせせら笑っている」

ドイツ軍が接収したフランスのクラブで、これ見よがしに敵性曲であるジャズピアノを弾いてい

るヨアキムに、同僚が慌てて「まずいんじゃないか」と言うと、ジャズはやっぱりアメリカさと

平然としていた。

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ドイツ編隊がドーバー海峡の半分も行かないうち、前方に沸くように英国製のホーカー・ハリケ

ーン戦闘機を中心とする英国空軍の混成編隊が現れた。すると、またやるんじゃないかとパート

ナー機が思う間もなく、ヨアキムのメッサー・シュミットは突然単機で高度を取り始めた。僚機

も慌てて後追った。半ば命令無視で、いきなり行動を開始するのがヨアキムの常であった。ヨア

キムの DB109Eはあっという間に高度を取り、鋭く反転すると英編隊に向けいきなり発砲した。

いつものやり方であった。狙いをつけているわけではなく、ただ相手に向けて銃弾をばらまくの

である。すると相手は一挙に編隊を崩しバラバラに回避行動をとる。するとヨアキムはその中か

ら独特の勘で1機を選び出し攻撃を仕掛けた。基本的性能はドイツ機に優れるスピットファイヤ

ーも、ヨアキムの破天荒な操縦の前に敗れるのである。まして性能の劣るハリケーンでは全く勝

負にならなかった。一方、ヨアキムは自分の防御はかなりいい加減で、追撃に夢中になるあまり

独り敵陣に入りこんでしまい、まともに銃弾を浴びることがあった。この日もヨヒアムは1機を

落としていた。

南イングランド・ウエィマスに住むトレーシー・マクレガーは、孫のザックを連れてポートラン

ドの丘を登っていた。この丘はウェイマスの先端からドーバー海峡に突き出た小高い丘で、フラ

ンス・シェルブールは目と鼻の先である。トレーシーは歴代地元の漁師で、この日暑さにうんざ

りして、孫を連れて涼しい風の吹くこの丘へ向かった。9歳のザックはトレーシーをしり目にさ

っさと丘を登り切り、67歳のトレーシーは息を切らせ、汗だくになりながら後を追った。今は

汗だくでも、頂上に登ればドーバー海峡が広がり、涼しい風が吹き付ける。舗装のないつづら折

りの道は、石を置いた階段が上へと続いており、頂上はすぐそこであった。先に行ったザックの

姿を探すためにトレーシーが頂上を見上げたその時、ブ~ンと言う重いエンジン音が聞こえはじ

めた。何とはない不安を感じたトレーシーが、立ち止まり空を見回し時、突然、低周波だった音

はゴーという衝撃音に変わり、次の瞬間、目の前の丘をかすめるように飛行機が飛び出してきた。

イギリス空軍のマークを両翼につけたホーカー・ハリケーンが、トレーシーのすぐ頭上をものす

ごいスピードで飛び去って行った。あっけに取られたトレーシーが、飛び去った戦闘機を目で追

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うと、またもやものすごい音がして別の戦闘機が丘を飛び越えてきた。だがその戦闘機はドイツ

空軍のルフトバッフェマーク(十字マーク)をつけていた。「ザック、こっちへきなさい!」ト

レーシーは孫の名前を叫びながら走り出した。ハリケーンを追いかけまわしていたのは、ドイツ

の不良軍人ヨアキム・マルセイユであった。トレーシーが呆然と見つめる中、友軍のハリケーン

はウェイマスの上空で左へ機体をひねりながら上昇していき、その後をドイツの戦闘機がぴった

りついていた。ドイツ戦闘機からパッパッパと発射された機銃弾がハリケーンに当たると、突然

その英軍機は煙を吹き出し、見る見る落ちていった。

ヨアキム・マルセイユの発言が残っている。

「自分は今日イギリス機を撃ち落としたが、気分は最悪だ。まだ若い息子の死を知らされた時、

あのイギリス兵の母親は何と思うだろうか。自分が殺した。戦勝を祝う気にはなれない。ただ悲

しいだけだ」

この厭戦的な発言はドイツ軍人としては言ってはならないことであったが、ヨアキムは、自分の

言動が軍の規則やドイツ軍人の常識とはかけ離れていることなど重々承知していた。ある時、編

隊飛行中にヨアキムがふと上空を見ると、編隊長機に右後方から敵機が迫っていた。飛行中編隊

を崩さないよう厳しく要求する編隊長であったが、撃墜されればドイツ軍の損失である。ヨアキ

ムは命令を破り、とっさに単機急上昇するとその英国機に攻撃を仕掛け、これを撃ち落とした。

ヨアキムは何の恩賞も期待しておらず、ただ編隊長からよくやったとひとこと言ってもらえれば

済むことであったが、編隊長はヨアキムを命令無視で 3日間拘留した。

「ただ編隊を守って隊長が撃ち落されるのを見ていろというのか。敵機の接近に気付かない編隊

長が迂闊というだけのことじゃないか」

拘留が解かれた次の日、ヨアキムはさらに 1機を撃墜し、その後 5日間でさらに 4機を撃墜し

た。だが、その戦果についてヨアキムは苦い思いをすることになる。9月 24日、ヨアキムの隊

は爆撃機援護の任務を終了し、基地へ帰還しつつあった。彼の機体は敵機の銃撃のため穴だらけ

で、エンジン出力が次第に落ちてゆき、編隊からも離れ、高度の維持が難しくなっていった。つ

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いにヨアキムは無線で機体を捨てることを基地に連絡しメッサーから脱出した。彼は 9月の英

仏海峡でラフトにつかまり、それでも 3時間漂った挙句、ドイツの救援機に救助された。水の

冷たさで死ぬことはなかったが、低体温症でガタガタと震えながら基地へ戻った。その数日後ヨ

アキムは昇進したが、彼の撃墜戦果は編隊長のものとなった。

バトル・オブ・ブリテンはこのようにして3か月あまり続くことになるが、航続距離が短いメッ

サーシュミット B109はドイツ爆撃隊の援護を十分に行うことができず、途中で引き返さざるを

得ず、爆撃機が英国に到着するときには丸裸状態で、当然ながら多くが英国により撃墜された。

業を煮やしたドイツは、昼間の爆撃をやめてしまうが、夜間の爆撃はそれなりに効率が悪く、や

がてそれもやめてしまい、その矛先をソ連に向けるようになった。この後、ドイツはロシアへ侵

入し、レニングラード攻防戦では冬の寒さと補給困難により退却を余儀なくされ、それがナチ

ス・ドイツの崩壊へとつながっていく。対ソ戦では、ヨアキムより多くの敵機を撃墜したパイロ

ットがいるが(300機)、この当時のソ連機は造りがお粗末で、メッサーシュミットの相手に

はならなかった。この機体は、本格的な燃料噴射装置を備え、当時としては一頭他を抜く性能を

備えていたが、ドイツ人らしい造り込みが過ぎた結果構造が複雑になり、翼が小さいためエンジ

ンの出力を上げると機体が回転しそうになる、着陸時に前が見にくい、航続距離が短いなどの弱

点を抱えていた。一方連合国側の戦闘機は、燃料気化器方式であったので、戦闘行動中に転回 G

により燃料供給が一瞬途切れ、突然行動がのろくなるという欠点があった。

ハンス・ヨアキム・マルセイユは、1919年12月13日ドイツのベルリンで生まれている。

少年期のマルセイユは、母シャーロッテとその再婚相手の義父カール・ロイターとともにベルリ

ンに住んでいた。やがて戦死する父親ジーグフリードは陸軍少将まで上り詰めた人物であるが、

ヨアキムが幼いころ妻と離婚し、ヨアキムは姉のインゲボルグを母親代わりとして成長した。姉

のインゲボルグ・インゲベルグは大変な美人であった。ヨアヒムの一種のシスターコンプレック

スは成人してからも続いたようで、戦地から多くの手紙を姉あてに出している。美貌の彼女は多

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くのドイツ兵の目に留まり、いろいろ理由をつけて彼女に接近するものが後を絶たなかった。そ

ういう中、ナチスの上級将校のクレフトという男が、彼女を半分無理やりウィーンへのドライブ

へ誘い出した。だがクレフトは酒気を帯びており、二人が乗ったメルセデスは高速道路で大クラ

ッシュしインゲボルグは死亡した。1941年11月、ヨアキムがアフリカで軍務についている

時のことであった。この時すでにインゲボルグは結婚していたという記事もあるが、その相手が

このクレフトなのか、あるいは別の誰かなのかがわからない。別にいたとすれば、その人物はさ

ぞいい迷惑であっただろうが、戦時中であることと、姉の年齢(22~23歳)から言って、お

そらく独身ではなかっただろうか。クレフトは、車を運転していたのはインゲ(インゲボルグ)

であると言い張り責任を逃れたが、こういう男の常として後年ロシア戦線から敵前逃亡し、処刑

されている。とまれ、最愛の姉インゲボルグの突然の死はヨアキムを打ちのめした。彼はますま

す虚無的、自己破滅的になっていく。

北アフリカ戦線

エジプトからモロッコに至る地中海の南海岸、つまり北アフリカ海岸一帯で行われた連合国と枢

軸国との戦いを総称して北アフリカ戦線と呼ぶ。

ヨアキムは1938年にドイツ空軍に19歳で入隊し、2年後に発生したイングランド航空戦で

は7機を撃墜しているが、その防御を行わない戦闘方法から自身も6回撃墜されている。撃墜回

数より、6回も撃墜されて生き延びているという事実がすごい。操縦席そのものを自動的に空中

に打ち出す現代のジェット戦闘機と異なり、この当時はパイロットが自力でコックピットを這い

出し、空中に身を投げる方式であった。翌年には第27戦闘航空団(JG27)に転属し、イン

グランド航空戦後間もない1941年2月、ロンメルのドイツ・アフリカ軍団がリビヤのトリポ

リに上陸すると、同年 3月、戦線の拡大とともに北アフリカ戦線に転属され、そこで天性のパ

イロットとしての適性を発揮する。だが、この転属は必ずしも名誉なことではなく、ドイツ空軍

がこの素行不良のパイロットに手を焼いた結果でもあった。それは、ジャズ狂い、髪を長くした

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まま切らない、女遊び、上官の言うことを聞かないなど編隊の責任者になるには不向きであるば

かりでなく、軍幹部との食事会をすっぽかすなどが重なった結果でもあった。どこの軍隊にいっ

てもダメであっただろう。ヨアキムは別に狂人ではなく、にもかかわらず彼をここまでヨアキム

を追い込んだことについて、ナチス・ドイツのユダヤ人迫害を知ったからだと言われているが、

それはもう少し後のことであるはずだ。アフリカに転属させた将軍ヨハン・シュタインホフは後

年次のように述べている。

「マルセイユというのはとてもハンサムな奴だったし、パイロットとしての能力も抜群だった。

だが困った奴だったというのも事実だ。彼の周りにはたくさんの女がおり、それがために彼は疲

れ果て、予定より早めに着陸するなどということがあった。私が彼をアフリカに転属させたのは

そういう理由もあった。しかし彼には一種独特の魅力があったな」

ヨアキムの戦時中の映像が残っている。確かに長髪である。

また、新たな指揮官になったエドアルド・ノイマンは次のように言っている。

「あの男は軍紀違反の長髪で、手で持てないほどの不服従記録を抱えていた。英仏海峡で 7機

を撃墜したと申告しているが、そのうち 4機は確認が取れていない。おまけにあいつはベルリ

ンっ子だ。あいつがベッドに連れ込んだ女たちの中には有名な女優も交じっていた。あいつは気

分屋で扱いにくい奴だった。これから 30年後、あいつの評価はおそらくプレイボーイだろうよ。

彼は次の二つのどちらかにしかなれない、問題だらけの男か、超絶技術を持った戦闘機乗りだ」

36機を撃墜したあるドイツ人パイロットはこういっている。

「旋回しながら銃撃を行うのはとてつもなく難しい。相手の編隊はラズベリーサイクルという飛

び方をしており、これ自体既に編隊全部が防衛のため旋回しているようなものだ。その中に突っ

込んでいくわけだが、そこで相手より半径を小さくして右サークルをしようとすると、自分の翼

に相手が隠れてしまう。そんな状態であいつは敵機を撃墜するんだぜ」

北アフリカ戦線でも、敵の編隊に頭から突っ込むヨアキムの無謀ともいえる独特の戦い方は続い

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た。通常、敵の戦闘機の後ろを追尾し、機銃攻撃により相手を落とすのであるが、ヨアキムはも

っぱら真横から敵機の進路を読む見込み射撃を行った。ヨアキムは敵のフォーメーションの真ん

中に突然突っ込むため、当然四方八方から敵の砲火を浴びることになり、戦いが始まる前にあっ

けなく墜落する場合もあった。ヨアキムの機体は穴だらけで、着陸はできても修理不能である場

合が多く、機体の損耗率が次第に高くなっていった。上官のエドアルド・ノイマンは、戦法を考

えるようヨアキムに強く命令したが、この年の 6月から 8月、ヨアキムの戦果はゼロとなる一

方、4機のメッサーシュミットが失われた。ヨアキムの立場は悪化していった。上官のノイマン

は戦法を変更するよう命令したが、ヨアキムは自分の方法にこだわり、次第に独自の戦法に磨き

をかけていった。かれのエルベ 14号機は高く上がり急反転すると、転回しながら敵の鼻先の少

し前を狙い射撃をおこなった。

ヨアキムの撃墜数は日を追って増えていき、ある時など1日で8機を撃墜するという戦果を挙げ

た。ドイツのプレスは写真入りで毎日これを報道し、ヨアキムはフランスやイタリアに度々呼ば

れ晩さん会への招待、国のトップとの会食などが続いた。この時にはフィアンセも同行しており、

このころがヨアキムの軍人としての絶頂期だったのかもしれない。だが連合軍は、ドイツ軍の3

倍に上る航空機を保持しており、ドイツ空軍は、ヨアキムのように一人で多数の敵機を撃墜する

ことをパイロットたちに期待する以外なくなりつつあった。ヨアキムの操縦技術には磨きがかか

り、1942年6月3日、彼は16機の英国編隊に一人で突っ込み、5機を撃墜する戦果を挙げ

た。彼は着陸するときのようにフラップをいっぱいに拡げ、限界まで速度を落とすと、鋭く旋回

しながらそのまま機関砲を発射した。銃弾は敵機の前方へ正確に飛び、そこに敵機が頭を突っ込

んできた。旋回しながら正確な射撃を行うという神業は誰にもできなかった。だがヨアキムは、

その戦法から、被弾することもたびたびあった。

英国空軍第 73分隊のジェームス・デニス中尉は、自由フランス軍に所属するパイロットで、連

日ドイツ軍との戦闘に明け暮れていた。彼は次のように言っている。

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「あれは4月23日だったかな、ドイツ空軍が現れたという報告を受けて我々が現場へ急行した

時だった。こっちはハリケーン(英戦闘機)だったんだけど、見るとウィングマンのポンペイが

早くもメッサー(独戦闘機)にあとを取られていた。ポンペイは優秀なパイロットだったけど実

戦経験が足りなくてね。自分は、無線がないんで、ポンペイがメッサーにやられているのを見て

いるしかなかったんだけど、メッサーがポンペイに発砲した後こっちに向かってきた。14番の

番号を付けた黄色い Bf109(戦闘機)だったよ。ミラーで見ていると、そいつは私の後につけた

んだが、こっちはそのまま気づかないふりをしていた。そしてそいつが射撃位置に着いた瞬間、

飛行機を強引に左へ滑らせた。スピードが出ていたんで舵が強烈に利いたよ。その瞬間こっちの

右手を銃弾の帯が通り過ぎて行った。そしてそのメッサー109は勢い余ってこっちを通り越し、

自分の真ん前に来てしまった。で、我々はドッグファイトを始めたんだが、そうなると我々のハ

リケーン V7859はドイツ機に負けないからね、相手後を追って上昇中、相手は太陽に逃げ込も

うとした。しかしこっちからは丸見えでね、発砲すると相手の胴体部分に弾が吸い込まれ、相手

は落ちていったよ。あれは 14番機マルセイユだった。私は前にもあいつを落としている。これ

で2回目だ」

1942年9月30日、ヨアキムを含む11機の DB609の編隊は、ドイツ空軍の急降下爆撃機

ストゥーカのエスコートミッションのためトブルク方面への飛行を行った。ミッションは敵機に

遭遇することもなく無事終了し、編隊は基地への帰投のため東へ針路を取った。エジプト・アレ

クサンドリアの西方約100Km、エル・アラメイン上空は、いつもながらの快晴で、右手には

アフリカ内部へ続く茫漠たる砂の波、左手には地中海が青く見えていた。ドイツ軍が目安にして

いるシディ・アブデル・ラーマンの白いモスクが眼下に過ぎ、間もなくドイツ軍の制空圏に入る

ころになると、編隊にも何となくほっとした雰囲気が広がっていた。その時、ヨアキムのエンジ

ンがブルンと妙な振動を起こし、排気管が見る目に黒い煙を吐き出しはじめた。ヨアキムは瞬時

に深刻なエンジン故障を確信した。編隊もヨアキム機の異常に気付き、スペースを開け始めた。

ヨアキムに操縦の自由を与えるためである。僚機は盛んにベイル・アウト(脱出)しろといって

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くるが、編隊はまだ敵の制空域にあり、ここで不時着するわけにはいかない。ヨアキムは窒息し

そうな黒煙に耐えながら、ドイツ軍の制空圏に達するまであと10分頑張ってみると伝えた。ヨ

アキムは黒煙を避けるため、機を左右に動かしたが、煙はますます濃くなり、エンジンはまとも

な回転さえ出来なくなっていった。

「これはもう駄目だ、脱出する」

ヨアキムは安全ベルトを外し、キャノピーを開けると機体を上下さかさまに持っていった。こう

すれば容易に脱出ができるからで、常套手段である。だが機体は突然頭を下にして、ほぼ90度

の降下をはじめ、速度も400キロに達した。ヨアキムは仲間の話しや、自身6回も撃墜された

経験から、脱出するときは思い切って空中に飛び出さないと体が飛行機に張り付いてしまうこと

を知っていた。だが、自分のメッサーがその命脈を絶たれるとき、不思議な死への誘惑が自分の

内部に起きることを何回か経験していた。死は恐怖ではあったが、ヨアキムには煩わしい人生か

らの脱却でもあった。ヨアキムはゆっくり足をけった。だがコックピットから投げ出されたヨア

キムの体は、いわゆるスリップ・ストリームに入り、機から離れることなく後ろへ吹き飛ばされ、

そのまま垂直尾翼にたたきつけられた。ヨアキムは左胸部をつぶされ、瞬時に意識を失くした。

彼の体はパラシュートを開くことなく、そのままものすごい速度で地面に激突した。

ヨアキム・マルセイユの遺体は、両腕が体の下に来るような形のうつむきで地面に横たわってお

り、頭がい骨から脳漿がはみ出し、あたりは血の海であった。彼の遺体は戦時病院に搬送され、

正式に死亡と診断された。戦友たちの弔問の列は一日中途切れることがなかった。ヨヒアム・マ

ルセイユの死はドイツ軍に深刻なモラルの低下をもたらした。しかし、同僚たちは、ヨアキムが

機外脱出の名人であることからあれは必ずしも事故ではないと噂し合った。それは一つには自殺

であり、一つには軍に対する反抗心が判断を狂わせたとするものであった。つまり、十分に脱出

する時間と余裕があったにもかかわらずそれを行わなかったのは、ある部分「生」を放棄してい

たからであり、その裏にはナチス・ドイツに対する厭世的嫌悪があった。さらに、戦果よりも規

律重視のアフリカ派遣軍から、機体喪失について劣勢のドイツ軍部から批判がましい処分を受け

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ることを嫌っていたからであるというものである。真相はわからない。

「撃墜王アフリカの星」という1957年に作られたドイツ映画を見た。DVDを借りるのに1

か月もかかった。当時の映画としてはよくできていると思ったが、直後に作られた映画にしては

考証が少しおかしいんじゃないかという感想を持った。資料としては見るべきところはあまりな

かったが、本物のメッサー・シュミットがふんだんに出てくる。ヨアキム・マルセイユの生涯撃

墜数158機のうち、150機以上が北アフリカにおけるものである。ドイツ軍、連合軍の両方

に畏怖された天才パイロット、ハンス・ヨアキム・マルセイユは北アフリカの空に23歳の命を

散らせた。

END