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マイクロ流体デバイスによる 培養細胞の局所的化学刺激 1. はじめに 細胞レベルの診断・治療や細胞を利 用した創薬において,多数の細胞集団 のふるまいやその平均値を扱う従来手 法ではなく,単一細胞レベルの挙動を 計測制御する技術の開発が必要になっ てきている.一般に,細胞への薬剤効 果を評価するには,薬剤が均一に溶解 した液中で多数の細胞に対して均等に 薬剤を作用させ,多数の細胞の応答の 平均値を求める方法が採られる.しか し,個々の細胞には性質や状態に違い があり,また単一細胞の構造や機能に は極性が存在し,さらにそれらの細胞 集団は複雑で不均質なネットワークを 形成しながらダイナミックにその形態 や結合を変化させる.したがって,薬 剤効果のより詳細な評価やそのメカニ ズムの解明のためには,多数の細胞を 均質な集団として扱うのではなく, 個々の細胞やネットワークの局所に注 視した解析が行えるように,細胞に対 して薬剤を局所的に投与し,細胞の応 答を局所的に計測することが可能な実 験手法とそのためのツールの構築が必 要である.ここでは,筆者らが開発し た局所的薬剤放出制御が可能なマイク ロ流体デバイス (1) を紹介する. 2. デバイスの構造と原理 デバイスは,細胞を培養するチャン バ,細胞に対して刺激薬剤を放出する ためのナノホール,薬剤を輸送するマ イクロ流路,薬剤の放出量を制御する マイクロバルブなどから構成される 図 1(a) ).培養チャンバとその下の マイクロ流路は内径約 0.5 μm の多数 のナノホールでつながっている.刺激 薬剤は,このナノホールを通じてマイ クロ流路から培養チャンバへ拡散によ り放出される(図 1(b) ).図2 に, シリコンの微細加工を利用して製作し たデバイスを,マイクロ流路側から撮 影した電子顕微鏡写真を示す. マイクロ流路の T 字型交差部に, 親水性表面と疎水性表面の表面張力の 違いを利用したマイクロバルブを構築 した(図1 (c) ).これらの流路内に 液体を注入すると,液体は疎水性表面 ではじかれて二つに分かれ,親水性表 面である薬剤導入流路の上流部と薬剤 放出流路内に貯留される.この状態が, バルブが閉まっている状態に相当す る.次に,薬剤導入流路の上流より液 体に圧力を印加すると,液体が疎水性 表面に乗り出し,薬剤放出流路内の液 体と結合する.この状態が,バルブが 開いた状態に相当する.あらかじめ薬 剤導入流路内の液体に刺激薬剤を混入 させておけば,バルブが開くとともに 薬剤が薬剤放出流路内に拡散し,最終 的にナノホールを通じて培養チャンバ へと放出される.また,薬剤導入流路 の上流部より陰圧を印加すれば,バル ブを再び閉じることができる.した がって,外部圧力を調節してマイクロ バルブの開閉を制御することにより, ナノホールから放出される薬剤の量を 制御することができる. 3. デバイスの評価実験 まず,蛍光色素を用いた実験により, 培養チャンバにおけるある地点の薬剤 濃度を一定に保つためには,まず薬剤 濃度が所望の値に達するまでバルブを 開き続けた後に,その濃度に応じて最 適の Duty 比(開閉周期に占める開時 間の割合)を選択し,バルブを 1 Hz 程度で連続開閉すればよいことがわ かった. 次に,製作したデバイスの培養チャ ンバ上に,神経細胞様に分化する PC12 細胞(ラット副腎髄質褐色細胞 種)を培養し,バルブ開閉制御により ナノホールからの神経成長因子の放出 量を変えながら,細胞分化を誘導する 実験を行った.図3 は,バルブの開 閉周波数を 1 Hz,開閉 Duty 比を 0.65 にした場合の実験結果である.神経成 長因子による刺激を開始した後に 2 個 の細胞が扁平化し分化を始め,4 時間 後にはいずれの細胞から伸びる軸索も ナノホール・アレイの方向へと伸長し た. 4. おわりに 本デバイスの大きな特徴は,培養 チャンバとナノホールとマイクロバル ブを極近傍にシステム化したことにあ り,これにより培養細胞への薬剤投与 の応答性,制御性,局所性が向上した. 筆者らは,本デバイスを神経幹細胞の 分化誘導の研究に応用し,疾病や外傷 などで損傷した中枢神経組織を修復・ 再生する医療に貢献したいと考えてい る. (原稿受付 2009 年 9 月 9 日) 〔安田 隆 九州工業大学〕 ●文 献 ( 1 )Nakashima, Y. and Yasuda, T., Cell Differ- entiation Guidance Using Chemical Stimu- lation Controlled by a Microfluidic Device, Sens. Actuators , A139 (2007), 252-258. 図1 デバイスの概要 (a) (b) (c) 培養チャンバ ナノホール ナノホール 細胞 エアベント PDMS プレート 細胞 マイクロ流路 マイクロバルブ 薬剤の導入 薬剤の放出 薬剤がナノ ホールから 放出される 薬剤 薬剤 バルブが閉じた状態 バルブが開いた状態 Si 薄膜 SiO2 薄膜 親水性流路 に液体 外部圧力 ナノホール ナノホール 疎水性流路 に空気 シリコン基板 マイクロバルブ 空気抜き 流路 薬剤放出 流路 薬剤導入流路 ナノホール 50 μm 2 μm 疎水性 SAM 図 2 デバイスの SEM 写真 ナノホール ・アレイ 0h 4h 細胞 軸索 50 μm 図 3 細胞の分化誘導実験 201 日本機械学会誌 2010. 3 Vol. 113 No. 1096 ─ 61 ─

マイクロ流体デバイスによる 培養細胞の局所的化学 …マイクロ流体デバイスによる 培養細胞の局所的化学刺激 1.はじめに 細胞レベルの診断・治療や細胞を利

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Page 1: マイクロ流体デバイスによる 培養細胞の局所的化学 …マイクロ流体デバイスによる 培養細胞の局所的化学刺激 1.はじめに 細胞レベルの診断・治療や細胞を利

マイクロ流体デバイスによる培養細胞の局所的化学刺激

1.はじめに 細胞レベルの診断・治療や細胞を利用した創薬において,多数の細胞集団のふるまいやその平均値を扱う従来手法ではなく,単一細胞レベルの挙動を計測制御する技術の開発が必要になってきている.一般に,細胞への薬剤効果を評価するには,薬剤が均一に溶解した液中で多数の細胞に対して均等に薬剤を作用させ,多数の細胞の応答の平均値を求める方法が採られる.しかし,個々の細胞には性質や状態に違いがあり,また単一細胞の構造や機能には極性が存在し,さらにそれらの細胞集団は複雑で不均質なネットワークを形成しながらダイナミックにその形態や結合を変化させる.したがって,薬剤効果のより詳細な評価やそのメカニズムの解明のためには,多数の細胞を均質な集団として扱うのではなく,個々の細胞やネットワークの局所に注視した解析が行えるように,細胞に対して薬剤を局所的に投与し,細胞の応答を局所的に計測することが可能な実験手法とそのためのツールの構築が必要である.ここでは,筆者らが開発した局所的薬剤放出制御が可能なマイクロ流体デバイス(1)を紹介する.2. デバイスの構造と原理 デバイスは,細胞を培養するチャンバ,細胞に対して刺激薬剤を放出するためのナノホール,薬剤を輸送するマイクロ流路,薬剤の放出量を制御するマイクロバルブなどから構成される

(図 1(a)).培養チャンバとその下のマイクロ流路は内径約 0.5 μm の多数のナノホールでつながっている.刺激薬剤は,このナノホールを通じてマイクロ流路から培養チャンバへ拡散により放出される(図 1(b)).図 2 に,シリコンの微細加工を利用して製作したデバイスを,マイクロ流路側から撮影した電子顕微鏡写真を示す. マイクロ流路の T 字型交差部に,親水性表面と疎水性表面の表面張力の違いを利用したマイクロバルブを構築した(図 1 (c)).これらの流路内に液体を注入すると,液体は疎水性表面ではじかれて二つに分かれ,親水性表

面である薬剤導入流路の上流部と薬剤放出流路内に貯留される.この状態が,バルブが閉まっている状態に相当する.次に,薬剤導入流路の上流より液体に圧力を印加すると,液体が疎水性表面に乗り出し,薬剤放出流路内の液体と結合する.この状態が,バルブが開いた状態に相当する.あらかじめ薬剤導入流路内の液体に刺激薬剤を混入させておけば,バルブが開くとともに薬剤が薬剤放出流路内に拡散し,最終的にナノホールを通じて培養チャンバへと放出される.また,薬剤導入流路の上流部より陰圧を印加すれば,バルブを再び閉じることができる.したがって,外部圧力を調節してマイクロバルブの開閉を制御することにより,ナノホールから放出される薬剤の量を制御することができる.3. デバイスの評価実験 まず,蛍光色素を用いた実験により,培養チャンバにおけるある地点の薬剤濃度を一定に保つためには,まず薬剤濃度が所望の値に達するまでバルブを開き続けた後に,その濃度に応じて最適の Duty 比(開閉周期に占める開時間の割合)を選択し,バルブを 1 Hz程度で連続開閉すればよいことがわかった. 次に,製作したデバイスの培養チャンバ上に,神経細胞様に分化するPC12 細胞(ラット副腎髄質褐色細胞種)を培養し,バルブ開閉制御によりナノホールからの神経成長因子の放出量を変えながら,細胞分化を誘導する実験を行った.図 3 は,バルブの開閉周波数を 1 Hz,開閉 Duty 比を 0.65にした場合の実験結果である.神経成長因子による刺激を開始した後に 2 個の細胞が扁平化し分化を始め,4 時間後にはいずれの細胞から伸びる軸索もナノホール・アレイの方向へと伸長した.4. おわりに 本デバイスの大きな特徴は,培養チャンバとナノホールとマイクロバルブを極近傍にシステム化したことにあり,これにより培養細胞への薬剤投与の応答性,制御性,局所性が向上した.

筆者らは,本デバイスを神経幹細胞の分化誘導の研究に応用し,疾病や外傷などで損傷した中枢神経組織を修復・再生する医療に貢献したいと考えている.

(原稿受付 2009 年 9 月 9 日)〔安田 隆 九州工業大学〕

●文 献( 1 )Nakashima, Y. and Yasuda, T., Cell Differ-

entiation Guidance Using Chemical Stimu-lation Controlled by a Microfluidic Device, Sens. Actuators, A139 (2007), 252-258.

図1 デバイスの概要

(a)

(b)

(c)

培養チャンバ

ナノホールナノホール 細胞

エアベント

PDMSプレート

細胞

マイクロ流路マイクロバルブ

薬剤の導入

薬剤の放出

薬剤がナノホールから放出される

薬剤

薬剤

バルブが閉じた状態 バルブが開いた状態

Si 薄膜SiO2 薄膜

親水性流路に液体

外部圧力

ナノホール

ナノホール疎水性流路に空気

シリコン基板

マイクロバルブ

空気抜き流路薬剤放出流路

薬剤導入流路

ナノホール

50μm 2μm

疎水性SAM

図 2 デバイスの SEM 写真

ナノホール・アレイ

0 h 4 h

細胞

軸索

50μm

図 3 細胞の分化誘導実験

201日本機械学会誌 2010. 3 Vol. 113 No.1096

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