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ー1 11 5 - 人文研究 大阪市立大学文学部紀要 49 9 1997 35 ~53 ヴ ァ レ リー と そ の 「蘇生」 は じめに ヴァレ リー的厳密 さの観点 か らす るな ら、「蘇生」(r昌surrectlOn)の語 は、 きわめて不正確 な もので あろ う。 死者 は如何 とも しか た い し、生者 には この 語を適用できないと考えるならば、蘇生はありえない。死んだようにみえる ものが生 き返 ったよ うにみえ るとい う二重 の思 い こみ の うえ に、 「蘇 生 」 の 語 は成立 して いるO もっと も、生 死の境 は、脳死 の議論 か らあ さ らか であ る よ うに、実 際上 は不分明 であ る。 「蘇生 」 は このよ うに して 、 通 常 、 不 明瞭 な病状 についての不安 と耽れ\の表現 となるO彼 はたとえは、 ドカの家政嬬 ゾ 工が瀕死の状態か ら持ち直 したとき、 この語 を用 いて いる`1'。 伝記的闇点 か らすれば、幼いとき池に落ち、危 ういところで助 け出されたポール ・ヴァ レリー自身 もまた蘇生者 であ った といえ るだ ろ う. な るほど厳 しい伝記批判 を行 な って いる以上 (PLl,p428,PLl,pp.1230-1231.PL C,p886) ヴァレリー自身 はこの観点 を認 め ないか もしれ ない。 ただ、白鳥達 に囲 まれ、 自 らもにわか仕立 ての 白 鳥にな り、 やが て沈んで しま った とい うこの r白鳥 達 との子脚寺代』(PLl,p297)の エ ピソー ドで面 白 いの は、AlgI・lS S e指摘 しているように(2'、この子供の弓弓さの強調であるO「私はや っと歩ける くらいの子供であ った」「この子供 の更別ま大 きく、手足 は弱 か った. ど う し て水のなかに落 ちないということがあ っただろうか」 とヴァレリ-は暫 く. たが実際には、このときポールは、 二歳半と三歳のあいだの年齢 に適 して お り、走 ることもで きた はずであ る。 ポール ・ヴ ァレ リーは、 と う して も仮 死状態 におちい り、 こ う して 自分 を蘇生者 とみな した い とで もいったよ うに、 ポールの無力 さを強調 す る。 実際 に可能 であ るか と うか は別 と して も、 しか し、 決定 的 に死 んで しま っ (723)

ヴァレリーとその 「蘇生」dlisv03.media.osaka-cu.ac.jp/contents/osakacu/kiyo/DB...ヴァレリーとその「蘇生」-37- ことは、その編者JudlthROBINSON-VALERYの眼には「蘇生」のテー

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ー1115-

人文研究 大阪市立大学文学部紀要第49巻 第 9分冊 1997年35頁~53頁

ヴ ァレリーとその 「蘇生」

津 川 贋 行

はじめに

ヴァレリー的厳密さの観点からするなら、「蘇生」(r昌surrectlOn)の語は、

きわめて不正確なものであろう。死者は如何ともしかたいし、生者にはこの

語を適用できないと考えるならば、蘇生はありえない。死んだようにみえる

ものが生 き返ったようにみえるという二重の思いこみのうえに、「蘇生」の

語は成立 しているO もっとも、生死の境は、脳死の議論からあさらかである

ように、実際上は不分明である。「蘇生」はこのようにして、通常、不明瞭

な病状についての不安と耽れ\の表現となるO彼はたとえは、 ドカの家政嬬ゾ

工が瀕死の状態から持ち直 したとき、 この語を用いている 1̀'。伝記的闇点

からすれば、幼いとき池に落ち、危ういところで助け出されたポール ・ヴァ

レリー自身もまた蘇生者であったといえるだろう.なるほど厳 しい伝記批判

を行なっている以上 (PLl,p428,PLl,pp.1230-1231.PLC,p886)、

ヴァレリー自身はこの観点を認めないかもしれない。ただ、白鳥達に囲まれ、

自らもにわか仕立ての白鳥になり、やがて沈んでしまったというこの r白鳥

達との子脚 寺代』(PLl,p297)のエピソー ドで面白いのは、AlgI・lSSeも

指摘 しているように(2'、この子供の弓弓さの強調であるO「私はや っと歩ける

くらいの子供であった」「この子供の更別ま大きく、手足は弱か った. どうし

て水のなかに落ちないということがあっただろうか」 とヴァレリ-は暫 く.

たが実際には、このときポールは、 二歳半と三歳のあいだの年齢に適 して

おり、走ることもできたはずである。ポール ・ヴァレリーは、とうしても仮

死状態におちいり、こうして自分を蘇生者とみなしたいとでもいったように、

ポールの無力さを強調する。

実際に可能であるかとうかは別としても、 しかし、決定的に死んでしまっ

(723)

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-36-

た者が墓穴から起 きあがるというおどろおどろしい桃図を排除してしまえば、

「蘇生」の語の全的意味をとらえそこなうことになるのではないだろうか。

ql若きバルク」では、「墓穴」からこそ追憶は 「蘇る (高菜生する)」(ressuscl-

ter)。

(時)は、我が様々なる墓穴から、あえて

鳩の群の好む、とある夕怒れを蘇らせるだろうか

(PLl,plOl)

ヴ7レリーはまた、もし今Elの状況を見せたらとうなるだろうかという仮

定のもとに、今は亡き偉人を 「蘇生」させる (PLl,plO59)o また r我が

77ウス ト」のゲァレリ-は、魔術を前提としながらではあるが、「蘇生す

る」の規義語と思われる 「生き返る」(revIVre)を用いている (PL口.p312)。

もっとも、r魂と努邪恋」のヴァレリ-は、ソクラテスに、(再び元気になる)

くらいの意味でこの語を使わせている。「悪夢にさいなまれたとき、 目覚め

と、鮒刑ldl光を求めないかね。われわれは、太陽のお出ましによって蘇生さ

せられ、確固たる物体の存在によって力づけられはしないかね」(PL皿.p

150)。また自らこの語を開いたのではないが、ヴァレリーは 「ステファヌ・

マラルメJについての試演で、師マラルメがオパネルに宛てた手紙か ら、

「私は死に、最後にもっていた精神の宝石小箱の鍵を手にしながら蘇生 した」

の素晴らしい一句を引網している (Pい ,p678)0

以上の例ですへてではないが、総 じてこの 「蘇生」ないし 「蘇生する」と

いう語そのものはさほど多 く用いられているとは言いがたい.とはいえ、グー/

レリーの著作のなかには、これにI英l連 した記述やイメーソが山とあるように

思われるoいまのバルクや7-/ウス トやソクラテスの場合からもいえるよう

に、「蘇生」のテーマが 「死」「生」「目覚め」なととも関連 している以上、

これについての言及が皆佃でないとしても不思議ではないo たとえば、Nト

coleCELEYRETTE-PIETRIの (M6tamol、PhosesdeNaltCISSe)では、

「ナルソス」の派生的問題として蘇生の問題が扱われてはいる(3)。 しか し、

ヴァレリー研究において、「蘇生」についての言及が僅かであるのは、それ

が、関連 している他のテーマに吸収されてしまっているからf:とおもわれる。

たとえば、プレイヤード版 rカイエJlの巻末には、詳細Jli(Indexanal)Itlque〉

(分析的索引)があるのに、残念ながら (I.6surrect10n)の項はない。 この

(724)

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ヴァレリーとその 「蘇生」 -37-

ことは、その編者 JudlthROBINSON-VALERY の眼には 「蘇生」 のテー

マが、す くなくとも潜在的なものとしてしか存在 しなかったことを意味する

であろう0本論文はこれを、顕在的テーマとして扱おうとするものである。

ヴ7レリ-は rテス ト氏の最期Jで蘇生者 「ラザロ」の名を出す。

「事物への没交渉の視線、 (見覚え)がないとでもいった者の、この世の外

にいる者のあの視線、存在と非存在のあいだの境界の眼は、 (思想家)のも

のである.それはまた、臨終の人の、見分けがつか7Li:くなった人の視線でも

ある。この点で、思想家とは臨終の人のことであるが、あるいは意のままに

ラサロになってもらってもよい。そんなに意のままにというわけにもいかな

いが」(PLn,p74)。事物と馴れ馴れしく交渉する視線に批評の力はない、とでもいったように、

く思想家)は、この世の事物にたいし、これは見見えがないとで もいった異

邦人の視線を故意に往く。 ヴァレリーが、生から死へと離れていく末期の人

のHRを、また、死から生へと離れていくラサロの眼を引き合いにたすのはこ

うしてである。

それにしてもなぜヴァレリーは、「臨終」と呼ばれる有 りうる現象のあと

に、「蘇生」という有 りえない現象を付け加えたのであろうかo ヴァレリー

というこの精神の人にしてなおかつ蘇生というこの不可ffEな概念のまわりを

うろつくのを嫌わIj:かったということ、このことが筆者の好奇心を刺激する。

たしかに蘇生とは宮え話にすぎないと割 り切ることもできるであろうか、蘇

生という虚構が、ヴァレリーにとって一つの固定観念であったのだとしたら、

暗く不明脈な 「蘇生」というこの一見 したところヴァレリー的でないテーマ

について論ずることによって、知的ヴァレリーの (非知性的)な感性に鰻分

なりとも光をあてることができるのではないかと思われる。

K E

朝と正午の詩人ヴ7レリーは、これに劣らずまた夕暮れを好む省でもあっ

た(一)。彼はまた、人の一生を、夜が明け日がi-iれるまでの一 日に、 あるい

はEITLめから耽滋までの一日にたとえている。一日における目3Li:めは、人生

(725)

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1 38 -

のはじまりを噸示 し、就斑は死を意味する.テスト氏は就役の際、死人の素

振りをする (ralrelemort)という (PLn.p24)O また、敷布のなかで

「それ [偶像、すなわち r若きバルクJl自身]は、すへすべとして、己れ自

身の死を真似る」(PLl.p.110)とされるO もっとも、「不死の者」である

rナルンスのカンタータJのニンフは、反対に、「私は光に勝 り、夕へになっ

ても死なないのです」と言 う (Pい ,p.409)。け ルシス語 る」では、「さ

ようなら、ナルシス、死になさい-もう夕暮れです」(PLI,p83) という

呼びかけがなされる。

もっと軌跡 こ、全生涯がまる一日にたとえられている例を以下に挙げようO

く弟子)(D】scIPle)の名でよばれる、教えを乞いに来た背年に、 ファウス ト

が言う.

「生きるということは、人が生まれた所と日から、人が死ぬ所 と日への、一

種の運動によって表わされるものであると仮定 してみたまえ。人生の太陽は

地平線のある一点に昇 り、蒜のなかから、幼少時のやんわりした形から浮か

び出る。感覚、欲望、知識、愛情そして思考の陽光がのはっていく-日差 し

は鮮明に、強烈になる。この力と碓信の天掛 ま、巡行の最高点に達 し、それ

から傾き、沈む・-o Lたがって、人間とは、自分の全生涯であるこの唯一鮒

二の一日をけっしてふたたび生きることがない一種のカゲロウのことだ0人

の存在という太I場は、誕生という珍事と死という珍事のあいだにあって、二

度とは輝 くことがないし、未曾有の情景 しか照 らしはしない」(PL口,pp

311-312)。-Elを人の一生になそらえること、とりわけ夕暮れを晩年と見なすことは、

文学的手法として独創的なものではないであろうo ゲ7レリ-の場合、注

目に値することがあるとすれば、 (朝-誕生)に始まり (帆-死)に終わる

(一日-一生)がサイクルをなすことである。ここで、そnそれの右側の項

(誕生、死、一生〉 もサイクルをなすかどうかは実際問題として異論のある

ところであろうが、いま比喉的な意味での蘇生か認められた以上、これに付

随する構図として、死から生への回帰によって完成されるサイクルをもまた

認めなければならないであろう0時がこのようなサイクルのなかでとらえら

れるのだとすれば、「糾」は、柑垂生」と同時に 「蘇生」でもありうる.r綻 ・

角距桝Ejのヴァレリ-は、「目覚めの際には、誕生のひと時がある.何かあ

ることが起こる前の、あらゆるものの誕生がある。再び衣服を身にまとうま

えの裸状態がある」(PLn,p659)というO人は 「E]'ilj:め」 によって 「誕

(726)

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ヴァレリーとその 「蘇生」 一39一

生」するが、枕もとには昨日の衣服が脱ぎ捨てられてある以上、これはまた

「蘇生」でもある。

誕生が蘇生でもあるようにみえるのは、一日がサイクルをなすことによっ

てである。太陽は、落ちたあとも地底を通り翌朝また姿をあらわす。ちょう

とそのように、人生の太陽も地底を通り抜け、再び顔を現わすことがあるか

もしれない。すくなくとも、ファウス ト博士は、そのようなイメージを抱くO

彼は、次のように続ける。

「だが私はね、君、摩言可不思議な力のとりなしで、私の人生 という日が、宿

命の地平線の下へと続いていくのを見ることができた。自然の裏面と創造の

対折地が私に明かされるのをみたO本当の世界の、本当の世界一周をしたと

いうわけだ-それから、なおも運命に導かれて、私は時間のなかへと戻ったO

私は、ふたたび生きる (revIVre)ために戻ってきた。私は生き返った」。 こ

のような生命の回復は、おそらく く摩荊不思議な力のとりなし)によるしか

ないものであろう。他方、太陽の漸 子のほうは自然現象であるから、朝の到

来を予期 しないものはないO「この世の朝」でのこの目覚めをもって 「蘇生」

と呼ぶなら、人はたしかに蘇生する。

だが、rほら貝J第四号 (一八八一年六月-ET)に掲載された、ウァレリー

の若書きの詩では(5)、臨終の女性は、これを蘇生と呼ぶことができるとす

ればたが、「あの世の朝」にこそ蘇生することが予想されている。

甘美な臨終

君の目は、なぜそんなに見開かれているの、このタへにつ-

そして、太陽の、消えゆく炎のなかで

死なんとする君、君は何がみたいというのり

トう

君は、 く別なところ)で朝を迎えるんだね

私のいとしい臨終のひと、崇めたまえ

沈薬の、やさしく霧らうなか

遠くに響く黄金の、霊験あらたかなる声を

(727)

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-40一

あの世にも 「朔」があるというのはいかにも朝の詩人ヴァレリーにふさわ

しい着眼である。 ここで 「臨終」に 「甘美な」(suave)という形容詞を冠

する感性は奇異であるか、女性の美 しい死にたいするヴァレリーの好みは、

女性版ナルシスにおけるオフェーリア趣味としてもあらわれている。 ヴァレ

リ-のナルシスは草稿段階においては女性であったから(6)、水のfsかのナ

ルシスはオフェーリアであったといえる。

さて (誕生-蘇生)の図に段もふさわしいのは、むしろ臨終後に朝を迎え

るのだというこの女性の希有な体験の場合であろう。 (別なところ)でのET

覚めによっていわば死者が 「誕生」するのであり、彼女はいわば死者へと蘇

生する。『ェレーヌ」の冒頭部でのように光から陰が蘇ることもあるのだと

すれば、生者から死者が蘇生することも許されるであろう.

青空よ l 私だよ ・・私は死の洞窟からやって来た、

鳴り響 く階段に波が砕け散るのを聞くためにo

私は曙光のなかに再び見る、

ガレ-船が金のオールに沿って陰をば蘇 らせるのを。

(Pい ,p76)̀7)

臨終も、それに引きつづ く 「誕生」や 「蘇生」も、一回関りの出来事であ

るOところがこの世の朝では、一回関りの出来事であるはずの誕生と、出来

事の反復をもたらす蘇生との重ね合わせがなされている。ヴァレリーは一方

で、朝の目覚めにおける意識の自然さ、単純さ、純粋さについて強調 してい

る (PLⅡ.p808)。他方、朝の特異な価値を知 っているものは、昼 もタへ

も経験 したことがあるもの、すなわち蘇生者でなければならないOつまり、

誕生の体験をするには、蘇生によって生を反役Lfd:ければならないO

たしかに、オルフェウス神話にみられるような、サイクルをなさない蘇生

もあるO黄泉のBilからエウリュディケは救出されなかったが、この蘇生の試

み自体、一回たけ許されたものであるにすぎない.黄泉の国に行きそしてそ

こから戻った夫オルフェウス自身も蘇生者であったといえるが、この体験も

特例として許されたものである。オルフェウス熱は、90年代の詩人達にとっ

ての文学的流行であり(書)、ヴァレリー白身、ソネ rオルフェウス」(PL工,

pp76-77)を完成させ、グル ノクの rオルフェウスとェウリュディケい こ心

酔 した。ところが、この蘇生の神話からヴァレリーが引きだしたのはむしろ、

(728)

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ケ7レリーとその 「蘇生」 -41-

超自然的な力をもつ く詩人)のテーマであった。 ヴァレリーは、アンプィオ

ンをオルフェウスとほとんど同一視 しているが、このソネの rオルフェウスJl

も、アポロンの庇社をうけているメロドラマの rアンフィオン.Bも竪琴をか

なでる詩人である。竪琴の調へでもって岩をも動かすことができる彼等には、

幾分なりとも神の力が分けあたえられているといってよいであろう.オルフェ

ウス神話における、ヴァレリーが関心を示さなかったこの蘇生のテーマが

(一回限り)のものであるということ、これは、彼のI美化、がむ しろ、 (反復

される)日常的蘇生に向けられていたことを間接的に証明するものであるよ

うに思われる。なるほど 「甘美な臨終J)の女性の体験は、やはり一回限りの

ものである。 しかし、彼女の死がさほと悲壮でないのは、やがて迎える朝の

El常性によってであることを思えば、この詩 もまた反7よ性によって支えられ

ているということができるであろう。

以上のようなサイクルによって、ヴァレリーの場合、朝の人は 「二重の人

間」 となる。朝には、思考の断絶 と連続があると言 って もよい。Claude

LAUNAYは次のように暫 く。

「ヴァレリーにとって精神の第-の行為は、おそらくその自由に身をまかせ

ることである。対象がない.始まりの魅力。生は、それたけが発することが

できる産物、つまり思考をひとりでに分泌する。そしてこの思考は生に反省

と不連続とを導 き入れるoかくして、初めに二重の人間がある」̀9). く始ま

り)とは希有な出来事であるが、 (反省)(r;flexion)とは岨咽であ り、反

復的ないし連続的行為である。対象がない始まりの反省、これこそが思考す

ることなのであるとすれば、思考は、蘇生 しなから誕生する軸のラサロと同

種の不可能性をはらんでいると言わなければならない。

ゲァレリ-はまた、宇宙の く始まり)についての考祭であるコスモコ二-

にも、同様のアポリアを見出している。「どんなコスモゴニー ( ) も、人

間を排除する光宗の証人として人間を仮定するものである」(PLIl,p499)0

ところで、朝 ・昼 ・晩のサイクルと、誕生 ・生成 ・死の (蘇生によって仮

定された)サイクルのあいだには、およそ一万倍のスケールの迷いがある。

ゲ7レリーは、この桁の迷いをまったく問題にしていない。彼には、意識の

レヘルにおいての、もっと短い周期のサイクルも、というより不規則な交替

の様もみえていたはずである。 ヴァレリーはファウス トに、「各瞬間のため

に各瞬間から生まれる」(PLll,p322) ことを願わせている。 このように

刻々と生まれ出る忠誠はまた、刻々と消え去る志識でもあるだろう。 とすれ

(729)

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-42-

は、ヴァレリーのなかには、半ばの死者と半ばの生者が交錯 していたことに

なる。この点について、節を改めて検討したい。

(2)

目覚めと眠りが蘇生によって反復されるのだとすれば、そのリズムを繰り

返す者は、いわば、半ば死者であり半ば生者であるということになる。半ば

死者でなく、半ば生者でないと言ってもよい。r魂と舛踏」の、気絶から回

復した踊り子 Athlkt昌は、「私は死んでいません。でも生きてはいません」

(PLⅢ,p176)と言う。r雑感」のヴァレリーは、「半分、陰のなかに身を

置かなければならない-」(PLI,p331)とするor海辺の基地」では、次

のようにうたわれる.

夏至の炎火に魂をは曝 しながら

お前を受けとめてやる

容赦なき武器持ちし素晴らしさ光の正義を I

光をば初めの至純に返 してやる

光よ汝自身を見つめよ-だがお前を返せば

陰という陰気な半身

(PLl.p.148)

最初の純粋さに返った状態では、光は陰と背中合わせに、一体となってい

る。r海辺の墓地」で生者である (礼)は、墓地の死者達の家に寄り添いた

がっているようにみえる。

死者達の家の上を私の影がよぎる

影がそのひょろめく動きに私をなじませる

(PLl,p.148)

段々になったセートの墓地を歩くとき、影は角に出合って折れ曲がる。複

雑fj:動きを見せながらも、影は、墓の 「死者達の家」から離れようとしない.

ヴァレリーにおいては、生のイマージュと死のイマ-ジュは表IB一体をなす。

r梅辺の墓地Jでは、それらは交錯しながら揺らいでいるようにみえる.

(730)

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ヴァレリーとその 「蘇生」 -43-

AlgrlSSeは、「ヴァレリーが彼自身のなかで、詩人の徳目に批評家の理屈

の才能をまさしく結びあわせようと努めたことは周知のとおりである。 しか

し、その動機が、間近い死への恐れによって引き起こされた切迫感ではなかっ

たかと気づくものはさほと多くない」(LO)と書くが、以上のような揺らぎは、

ヴァレリーのこの (理屈の才能)のうちにもみられる。以下で例証するよう

に、ヴァレリーの (知性)によって、死の概念は一方では弱体化され解体さ

れてしまうかのようにみえるが、その力強い (知性)は他方、死の共犯者で

あるようにみえる。

さて、ヴァレリーにとって く知) (savolr)が く力) (pouvolr) と密接

な関係を有しているものであることは言 うまでもないorレオナル ドと哲学

者達」のヴァレリーは言 う。「いかなる実効的 (力)も呼応しない (知)は、

慣習的ないし窓意的な重要性 しかもたない」(PLI,p.1240)。 リュス ト嬢

は泰斗ファウストに、「死と対立するあらゆる力 (pulSSanCeS)」(PLn,p.

319)を認めているが、ヴァレリーの (力)はこのように、生を志向するも

のであるだろう。力のあくなき追究をするものであるときヴァレリーの知性

は、死を計上 しない点で、 (知)香 (刀)に従属させるという科学に (PL

n,p1253)似るO したがって、死について考察するとき、ヴァレリーの知

性は奇妙な屈折を示すことになるo

ヴァレリ-は、 レオナル ド・タ ・ヴィンチに託 しなが ら、(当意即妙の

才)(pr昌senced'esprlt)(PLI,p1217)にとっては、生も死も、従属的な

(外見)でしかなく、「すへては、あの純粋な普遍性、意識が自認 していると

ころのあの打破 Lがたい普遍性に道を譲る」(PLI,p1218)のたとする。

7 7ウスト博士に託 しIj:がら、ヴァレリーはまた 「死」の意味を解休 しさえ

したようにもみえる.「個人というものは、死に甜しているO個人は、数量

の梅で溺れかかっている.悪徳も美徳もわずかな違いしかなく、その速いは、

(人間材料)と呼ばれる塊のなかで溶け合っているO死は、 もはやこのおぞ

ましい生ける物質の統計学的性質でしかないO死はここでは、その尊厳と意

味とを失なってしまっている-そう、古典的意味をね」(PLⅡ,p302)0

しかし、生を志向する知性も、生命そのものと対立することがあるoジェー

ムズ・フレーザーの r死者への恐怖JIのフランス語訳に付 した序文で、ヴァ

レリーは、死の観念にたいする、人間の場合の過剰反応についてのべている。

「死の観念を反窮しない」動物の場合は 「怖れることを強いられたときにの

み怖れる」のにたいし、人間の場合、「必要以上の記憶力と、注意力と、組

(731)

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-44-

み合せおよび先取りの能力」(Pい ,p958)に恵まれているために死の観

念は大きな役割を果たすことになるO必要以上の力をあたえられた精神は、

死を先取 りするものでもあるだろう。これへの恐怖感が、法律、宗教、政治

を成立させる原動力となっていることを認めながらも、 (紙益な) く不釣り

合いな)という語をもちい、同時代人アランの rプロポ」を劣fjたさせるべく、

く想像上の価値)という表現をもちいながら、ヴァレリーは人間の場合の死

の観念への過敏さを指摘 しているor精神の政治学Jのヴァレリーは、「精神

は ( )生命機械の振卵いと対立する」(PLl,plO27)としているor我

がファウスト」の (孤独者) (Solltalle)は、「考える、考えるだって- l

思考は喜びをためにし、苦痛を募らせる ( )愛撫と御馳走の悦楽は観念に

よって台撫 Lにされる (・・)」(PLn,p386)とさえ述へる。

この点、ヴァレリーの主張は一貫 しているとは思われないが、死をねじふ

せる前者のヴァレリーと、精神の過敏で奇妙な振拭いに気ついている後者の

ヴ7レリーとを組み合せれば、ウロボロス的サイクルが出来上がるように思

われる。いわば 「死の死」を精神は宣告するが、死の宣告を下された死こそ

が精神を男区り立てているといったふうに。

サイクルの例をもう-つあげようorスタンダール論JIのヴァレリーは、

独自でありたい気持ちのうちに、他人は死ぬがユニークである自分だけは死

なないという、 (死への恐怖)にもとついた論理をみる (PLl,p563)O

もっともヴァレリー自身は、「独自性よりも出塁なものがある、それは (普

遍性)である」(PL口.p630)としている。すでに引用 したように 「すへ

ては (-)普遍性に道を譲る」かのようにみえる。ところが、「人間の不幸

は、必要とされるよりも少 しはかり多く、- 思 うよりもはるかに少なく普

遍的であることに存する」(PLn.p892)のであるとすれば、 ここにも畏

があると言わなければならない。「思想とフランス芸術JIのヴァレリーは、

まさしくフランス1-F-1'神がそうであるように、「普遍の感fiをもって得If.=(わさ

とすることのパラドンクス」(PLⅢ.plO58)についてのへている。 このパ

ラドノクスを認めるとしたら、やはりウロボロスのサイクルが描かれること

になるであろうO

死と生のディスクールをめくる以上のような意味の揺らきが、意識上の瞬

時の蘇生と瞬時の死を可能にするo以上のような揺 らさが股 もよく表われて

いるのは、次の文であろう。

(732)

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ヴァレリーとその 「蘇生」 -45-

生まれることに劣 らず (死ぬ)ことも

思考の喝外に押 しやられる。(・)

食へることは精神を驚かせ、眠ることは精神に恥ずかしい思いをさせる

私の顔は、私にとってgTEモ緑であり、

自分の手を眺めていると、疑問が浮かんでくる (・)

いかなる人も、思考によっては、

自分の手足の数、自分の体の形を言いあてることができないだろう。

(PLI,p201)

死を思考のそとに追いやるのたと言い張りながらも、飲みもしない食いも

しないこの精神は、むしろ死者のように青ざめてはいないだろうか。 自分の

肉体をば、よそよそしい視線で眺めやる招刺としたこの 「精神」こそは、ヴ7

レリーのうちに存する 「生者」の部分であり、また 「死者」の部分であった

と言うことができる。

(3)

栄光のアカデ ミー ・フランセーズ会員は、 くlmmortel) (不死の人) と

呼ばれるOその会員に選ばれる以前から、またそれ以後 も、ヴァレリ-の思

考は 「不死」の観念と切 り離されない関係にあったように思われる。 r若 き

バルク」は、「私は半ば死んでいた、そしておそらく、半ば不死であった」

と語る (PLI,plOl)0

たしかに、「死すへき者」(mortel)と呼ばれる生きている人間に、「不死

の者」である神ないし女神を対立させるというのは、フランス語としては、

特別な使い方ではfj:いたろうo死の年にいたるまで散文詩 r天使Jlを練り続

けたことからもわかるように、問題はむ しろヴ7レリ-が股後までこの 「不

死」の観念と如緑でありえなかったところにあるたろう.

フランス語の 「死すへき者」(mortel)と 「生者」(vlVant) は、多少の

ニュアンスの速いは別として規義語であるということかできる。残 りの項で

ある 「不死の老」と 「死者」は、この世に属さない者という共通点をらつで

あろうが、その相迎としては、「死者」には、詔垂生 も、 また比職的な志味で

蘇生も許されているが、「不死の者」には、誕生 も蘇生 も、 もちろん死 も禁

じられているということが考えられる。 したがって、「生者」「死す- き者」

(733)

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-46-

また 「死者」は変化する者であり、「不死の者」とは変化 しない者のことで

ある。

さてヴァレリーにおけるナルシスのテーマは、この変化する存在と、変化

しえない存在の対立を提起する。ヴ7レリー的ナルシスは、鏡によって 「死

すべき者」と 「不死の者」に二分される。このとき、不死の者が死すへき者

を見る場合と、死すへきものが不死の者を見る場合とが可能となる。この最

後の結論を、節者は、NICOleCELEYRETTE-PIETRIに負 っている。 その

論文 (M昌LamorphosesdeNarcISSe)では、最初の場合の例として、次の

文が引用されている(■。。なお、rカイエJI(C,X,848)のこの文は、改行の

ない形でではあるが、r雑感J(PLl.p.332)にも収録されているO

鏡で自分を見るということは、

死を思うことではないか ?

そこに、滅びる自分を兄はしないか?

不死なる者が、そこに、死すへき自分を見ている。

また、後半の場合の例として、rナル ゾス断琵」の次の文が引用されてい

る。

おお同好は r とは言え私自身よりも完全にして

我がLUlの前にかくも澄みたる、はかなさ不死の宥よ

(PLl,p125)

いずれにしても、ヴァレリー的ナルシスの対話は、「不死の者」 と 「死す

べき老」のあいf=でかわされるO自分の巡命にたいする死すへき者の嘆きは

言うまでもないが、ヴァレリーの場合、一見 したところ奇妙なことに、不死

の名も自らの不死を嘆き悲 しむ。rナルシスのカンタータJのニンフが言 う。

ナルンスよ、ああ、生まれながらの披造物よ、あなたは知らないのです

死に恵まれない絶望の、何であるかを

(PLI,p418)

不死の者の苦 しみは止むことがない。だが、ヴァレリーの迫智ともいうへ

(734)

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ヴァレリーとその 「蘇生」 -47-

き r天使Jで く無限の悲 しみ)にさいなまれるのは、天使というより、天使

のような人間、人間ようlAl天使である.

天使のようなものが泉の緑に腰かけていた。彼はそこに自分を映 し、

(人間)の姿をしている自分を見たOそして、涙を流 し、被 うものとて

ない水のなかで、自分が撫限の悲 しみの餌食になっているのを見て、と

てつもIj:く驚いた。 (PLl,p205)

なぜ 「天使のようなもの」なのか、なぜその映像が (人間)の姿を してい

るのか、 しかもなぜその悲 しみが無限であるのかは、ここに、生 きた知性で

ある (不死の者)、すなわちアカデミ- ・フランセース会員ポール ・ヴァレ

リーの告白が隠されていると考えfi:ければ理解できち:いであろうOちなみに

数行下では、完全な知性の当惑、知性の統一の破綻への言及がなされている.

ヴァレリーは、rレオナル ト・ダ ・ヴィンチの方法への序説」 に付 した

T注と余話Jlで、 レオナル ド・ダ .ヴィンチから、肉体の死に涙する魂につ

いての文、「そして私は、その涙と苦痛には理由がないわけではないと思 っ

ている」を引用 している (PLI,p1213)。 そのあと、 ヴァレリーは、「肉

体の再生をは、理性は要求 し、教義は強制する」(PLI,p1214) と古 く。

CELEYRETTEIPIETRlはこの文をもって、 (蘇生への信仰) と呼ぶ (12)o

もっとも、r注と余話」のコンテクス トからすれば、肉体の再生を要求 し強

制するのは歴史のなかの入校であるから、この く蘇生への信仰)を直接ヴ7

レリー自身のものとすることはできないorロビンソン」を参照すれば、ヴァ

レリーがここで考えていたのは、次のような歴史であったと思われる。

「[ロビンソン]は、エジプト人達や若干の他の人連が、死者達を腐敗から免

れさせるのだと言い張るまでに、滅ぶへきもの (p昌rlSSable)の保存の本能

をおしすすめたことを思い浮かへた。

これと同じ人達、また、さらに多くの人々が、 く魂) もまた不滅であるこ

とを願った。彼等はしか し、不朽が、不死が、時間から (すなわち状況から)

独立 した存在が、鰯意味、細感動、完全なる孤立- すなわち柵存在を意味

するということを見なかった」(PLⅡ,p413)0

蘇生も誕生も死も禁 じられている 「不死の者」は、結局、その (無変化)

によって不活性化 しているo生を成立させる条件は反対に (変イO であるが、

しかしまた自己修復をしない生 も、生として存続 しえないor雑感」 のヴァ

(735)

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-48-

レリーは言 うO「(生者の変化)がなけれは生はない。 しかし、 (自らの変

化にたいする生者の努力)がなければ、惰性がなければ、-というよりむし

ら (ェゴチスム)がなければ、生はない」(PLI.p342)0

ホメオスタシスを思わせるこの (坐)の定義が窯場 らしいのは、これが、

く死)の概念に依存するものではないからである。この定義が明瞭であるの

は、生と死のディスクールをめく、る意味の揺 らぎかないからであろう。ヴァ

レリーは、ただ一つ、 (ェゴチスム)という不明腺な不気味な語をつけくわ

えておくことを忘れなかった。この語が、すでにの-た 「普遍の感覚をもっ

て得意わざとすることのパラドノクス」ないしは、今の場合に即していえば、

エゴチスムを峨うエゴチスムのパラドソクスを再開させる。

(4)

本節では、ヴァレリーの股高傑作であると思われる r海辺の墓地Jについ

て、「蘇生」の観点から考案する。

ヴァレリーは、冗談めか してではあるが、 自分が く亡霊) (Ombre)に

なってしまったような気がすると述へたことがある。ギュスクープ・コーエ

ンによって、ソルポンヌで r海辺の墓地Jをテキス トとした授業がなされた

ときのことであるが、その教室に、ひとり学生 らしからぬ人物が座っていた。

なんとそれは、ヴァレリー自身であったO彼は、自分の著作が批評されるの

には慣れていたというが、「大学で、黒板の前で、まるで今は亡 き著者のよ

うに」注釈されたことに戸惑いを覚えたという。

「私は自分が、私の (亡霊).になったように感 じていた。私は、ある亡霊

が私のなかで囚われになっているのを感 じていた。それでも、時として私は

自分のことを、フォローしノー トをとっている学生i垂の一人と同一視 してい

た。教師が詩節ことに朗読 し解説 している詩の作者であるこの亡霊に、微笑

みながら時おり視線を投げかける学生連の一人と」(PLl,p1498).

ヴ7レリ-は、果てしない労力とr!良りない時間を注いだこの r油辺の墓地」

という作品が、コ-エンの注釈と分析によって、有限の固定 した容貌をもつ

にいたったことに戦く (Pい ,p1499)。fi:るほと、ひとたび読者の手に委

ねられてしまった作品の解釈にたいしては、作者といえとも谷唆できないと

いう読者観を、ヴァレリ-はもつ (PLrr.pp407-408,PLⅡ,p626)o彼の

7ll書きは、生きながらにして今は亡きがごとき古LJM'F家として扱われ、自分の

(736)

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ヴァレリーとその 「蘇生」 -49-

死体に防腐処置がほどこされたというところにあるだろう。「化学剤 に浸す

ことでネカが定着するように、死が人物を定看させる」(PL[.p838)0

ヴァレリーはこの (亡霊)という語をイタリックにしているが、このイタ

リックは、詩のなかの (あの亡霊)という意味であろう。r海辺の韮地」 で

は (ombre(S))の語が都合四回、用いられている。使用頻度の高いこの語

を解説するために、誹演者コーエンのロからおそらく何度 も発せ られた (オ

ンプル)の鎧母音が、木魂となって教室に響いたはずであるO ヴァレリーが

自分を 「亡霊」であると思ったのも、解説されている詩の く亡霊)に触発さ

れてのことであろう。

授集のテキストがコーエンによって照 らしたされるとき、その明るさに耐

え切れないとでもいったように、生徒ヴァレリーは地下にもぐる。r海辺の

墓地」の (礼)は地上からこそ梅を眺めていたのたが、教室に座っているヴァ

レリ-は今あらめて地下の 「亡霊適」の側に立っ。明るく托いた墓地 らしか

らぬ墓地であるとはいえ、この死者達の領域に避難場所をみいだした く私)

は、もっとも、最初から彼等の仲間であったはずであるが。

この詩の最後のス トローフの、「風が起こる、生きようと努めなければな

らぬ」(風立ちぬ、いざ生 きめやも)(PLI,p151)の箇所は、多 く、思索

ないし詩作にふけっている省が行為の世界、現象の世界へと弛みたすという

ふうな解釈がなされる。たとえば、MarcelRAYMOND は、「彼の生命の

力は、外部の、海の、風の、梅の上の数多くの太陽の像の呼びかけに応じて

活気ついた」(13)と暫 く。LANTIERIはヴァレリーを、 ニーチェとともに

「人類の未来への幻想を眺める」悲観主義者としながらも、r海辺の基地Jlの

末尾に、非知的 レヘルでの (生物学的楽天主義)を認める(L4)。

これが知的悲観主我と絡み合っているだけに LANTIERIの解釈はニュア

ンスに富んだものといえるが、これとは別に EmllleNOULET は、 (生へ

の愛)といった (楽天主義的)解釈を許 してきた r海辺の墓地」の終結部は、

詩を終わらせんがための仮の結論でしかないのたと釘 をさしている(15).育

限の長さしか持ちえないから、文字による作品は、とこかで終わりを迎えな

ければならない。末尾に位-LB'.することで結論にみえたものも、 もし作品が響

きつつけられたとしたら、新たな末尾によって祝されていたかもしれない。

ところが、NOULET に反論 しなが ら、MaurlCedeGANDILLAC は

くtenter)の語に注目するO「私はこれが、たんに海水浴へ行 く誘いのような

ものだとは理解 しません .・。 (IlTauttenterdevIVre)は、 (IlTaut

(737)

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ー50-

vlVre)を意味するのではありません。それ以上ではないのですoつまり、

詩と手を切るということなのです。この言い回しは、先立っ隈想との関係に

おいてのみその全的意味を帯びるのです」(16)0 (vIVre)には、「梅」や 「風」

や 「太陽」に誘われて海水浴に出かけるときのように 「人生を楽しむ」の意

味があることを考えれば、くIlTautvIVre)は 「人生ってのは楽しまなくちゃ

いけないものだ」の意となるであろう。 しかし、 (tentel・)の語があるr唄り

そうは読めないとしながら、ここに詩的畷想の放棄という-結論を見出すこ

とができるとする GANDILLACの主張 はまた、真の結論 はないとす る

NOULETへの反論ともなっている。

ところで、「蘇生」についての考察を枕けてきたわれわれの観点か らすれ

ば、次のように言わなければならない。つまり、「生きようと努めなければ

ならぬ」という発話は、理屈からいっても、死者のものでなければならない、

とOもっともこの死者とは、墓地に亡霊連とともにいながら、自らをその仲

間の一人と感じている語り手の陰の部分であり、この死者こそが蘇生を願っ

ているのである。 この く私)は、同じく蘇生の機会をうかがっている地下の

亡霊達の息つかいをも感 じとっている。

隠された死者達がこの土のなかにいる

土は彼等を温め直 し、彼等の神秘を干からびさせる

(PH ,p149)

いや、やはり彼等をそっとさせておいた方がよい。「もし死者達が目覚め

るとしたら、彼らは瀕死の状態でEl'ilめるであろう./死に続けたまえ」

(PL口,p809)。亡霊連は結局、風が 「立っ」(selever)ようには 「起 きあ

がる」(selever)ことができないのであり、蘇生を試みるのは、 (礼)一

人だけである。

ファウストの (弟子)も、同様の状況に置かれることになる。メフィスト

フェレスが (弟子)に言う。「ここにいるのは、虚 しい亡霊の群れぽっかり

だOあなただけが生きている ・。あなたは瞬間そのものだ。両足でしっかり

と立ち上がりなさい」Oだが (弟子)の歯切れは悪い。「あなたは ・僕を、そ

の気にさせる (tenter)・-感 じです」(PLⅢ,p369)。

滋終行の (この静かな屋根)は冒頭部の に のIr称かな屋根)への回帰を誘っ

ているが、このようにして、r海辺の墓地..は円現川道をなす.私は生 きよ

(738)

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ヴァレリーとその 「蘇生」 51-

うと試みるが、この試みもまた円環構造にしたがって反役されるといえる.

何度も禁煙をすること自体が、その成功と同時に失敗をも意味するように、

サイクルのなかに位置するこの試みは、成功 したのでも失敗したのでもない。

蘇生の試みそのものが、このサイクルのなかで蘇生するのである。

\51

ヴァレリーは、科学技術の時代における変化の速さについて低所で強調 し

ている。新 しいのものと古いものとの激 しい交替のさまを、彼は (死ぬこと

を知らない事物)と (生 きることができない事物)の出口のない闘争である

と表現する (PLI,pp1431-1432)。ヴァレリーの人生 は、進歩と伝統とい

う二つの流れのうえにまたがっていた。

進歩 してやまない物理学に多大な関心をよせながらも、ヴァレリ-の思想

の営みはまた、気に入りの 「マリー ・モニ工の刺繍」(PLn,pp1244-1245)

のような、熟練と忍耐と時間を要する職人の仕事のようIj:ものでもあった。

進歩について考察する彼のうちには、牛のようにしか歩まない (芸術) も見

えていた.進むものと停描するもののスピー ドの差がヴァレリーを引き裂く。

「しばしば、私はこんなことを想像して楽 しむのです。つまり、かつての傑

人達の誰かを蘇生させたらとうだろうかという夢想にふけってみるのです」

(PLI,plO59)。蘇生 したデカル トやナポレオンに、現代の システムをと

のように説明したらいいだろうか。またしてもデカル トであるが、『デカル

トについての-見解Jのヴァレリーは、「もし、デカル トが現代に生 まれた

としたらとうなるか」(PLI,p841)と自問する. また r知性の総決算J

のヴァレリーは、もし発電機を地獄に下ろしてアルキメデスやニュー トンや

ガリレイやデカル トの亡霊に見せたとしたら、電流というものを知 らない彼

らは何というだろうか、と苫 く (PLI,pIO61)Cなお彼はこの発電機の話

を、新 しい時代を担う人達である、母校のセー トの生徒の前でも行なってい

る (PLI,p1432)0進歩の流れがこれはと速いものであるなら、ヴァレリー自身がいうように、

未来について予言することは不可能であるかもしnない.「我々が知 ってい

ることから、もはや我々は、少 しでも信をおくことができる未来図を引き出

すことができなくなっている」(PLl.plO58)o もっとも、 ヴァレリーの

発言、たとえは組織だった討許された ドイツの匡l力 ・軍fJj:力に注Elしている

(739)

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-52-

r方法的征服JI(一八九七年)は、第二次世界大領強までをも見とおすもののよ

うにみえるO

他方またヴァレリーには、ある種のアナクロニスムがみ られる。Shuhsl

KAO は、ヴァレリーの作品の (精神分裂病的〉性格について語っている。

つまり、一方では 「あまりに優美な、あまりに出来上がった、要するにアナ

クロ二ノクな、新古典主義的に見える詩」があり、他方では 「非順応主義と、

周辺性と、断片性、要するに現代性によって評価を高めた散文の著作」があ

るというのである(L7).ヴァレリーの正統的なアナクロニズムも、 また偶像

破機的であるがために未来を志向するものでもあるといえるこの現代性も、

結局、彼が流行というものを軽蔑 した原理の人であったところから生 じてい

るといってよいたろう。「ネルヴァルの思い出Jのヴァレリーは次のように

書 く。「ある一時代というものは、結局、脱することたけが肝心なのだから、

重要ではない Oペンや鉛筆を握る行為は、今あるものに刃向かい、はるか未

来の時代へと播けられるのでなければ意味がなく、深い価値をもたないのだ

から」(Pい .p597)。ヴァレリーは、新 しい人として時代に先んじて (誕生)すると同時に、古

い人として時代のなかに く蘇生)する。このようにして時差を利用するとき、

ヴァレリーの批評はとりわけ精彩を放っように思われる。彼の最大の試みが、

「神聖不可侵の (思想)を、数学または物理の用語で考察する」(")ことであ

りえたのも、このようにしてである。

(漢)

(1) VALERY (Paul),((方LLUreS n),BlbllOth占qucdelaPl昌lade,Gallト

mard,1975,pl176 以下、同fLTからの引戸削ま割注とし、(PLn,pl176)のよ

うに示す。なお、 (0=LLUleS1),BlbllOth占quedelaPl昌lade,Galllmard,

1957からの引用も同様の扱いをするものとし、(PLl.p428)のように示す。

(2) AIGRISSE(Gllberte),PsychanaLysedePaLLLVaL占ry.EdlいonsUnl-

versltalreS,1964,p53

(3) CELEYRETTE-PIETRl(NICOle),(M占tamOrPhosesdeNarcユSSe),

lnPaLLLVaL占F、y7.lecturede (Charmes).LeLLresModernesMlnard,

1974,pp22・23

(4) GUITTON (Jean).(PaulVal占ryherm占neuteduG占nle),lnEnLre-

LLenSSurPaulVal占ry.textesrecuellllSParDanlelMoutote,Presses

unlVerSILalreSdeFrance,1972,p24

(740)

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ヴTレリーとその 「麻生」 -53-

(5) rほら貝J第四号 (PXXIX)に掲載されたこの詩は、プレイヤー ド版 ヴTレ

リー作品集の (Notes)に再掲されている (PLl.p.1585)。

(6) CELEYRETTE-PJETRI(NICOle),op CLL.p12

(7) この詩節にみられる語 (ressusclter)には、自動詞に解釈 しうる余地 もある。

(8) LAURENTl(Huguette), (Orphもeetwagner),lnEnLreLLenSSuT・

PaulValbry,textesrecuellllSparDanlelMoutote,PressesunlVerSltal-

resdeFrance.1972,p79

(9) LAUNAY (Claude),PaulValさr)′,LaManufacture.1990,p14

(10) A】GRISSE(Gllberte),op cLt,P37

(ll) CELEYRETTEIP]ETRl(NICOle).op cLt,P12

(12) JbLd.p23

(13) RAYMOND (Marcel),PaLLIValさT・yeLlateTILaLLOndeL'esprLt,Neu-

chatel,Baconnl占re.1946,p50

(14) LANTIERl (SlmOn),(Volont占depuISSanCeetPUISSanCedel'es-

prlt).1mPaLLIVaLきり・4, (1epouvolrdel'esprlt),LettresModernes

Mlnard.1983.pp54-55

(15) NOULET-CARNER (Emllle)(sousladlreCtlOnde).EnLretLenSSLLr

PaulVal占ry.Mouton&Co.1968,p一o

(16) IbLd,p41

(17) KAO(Shuhsl).lireVaL占ry.JosるCortl,1985,p10(18) CELEYRETTEIPIETRl(NICOle).(Pr6face) dosCahLeTIS1894-1914

J.Galllmard,1987.p17

(741)