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Agora: Joumal of International Center for Regional Studies, No.9, 2012 159
[研究ノー卜]
ヴェーラ・工ルモラー工ワ一半世紀の眠りから醒めたロシア・アヴ、ァンギャルド女性画家ー
川島 静*
1.再発見されたロシア・アヴァンギャルドと女性芸術家たち
2. iマレーヴィチの女弟f-J
3. エ1レモラーエワの牛涯と作品か 誕牛(1893) 修業時代(1916)
ムエルモラーエワの生誕と作品乏, 草命(1917) ヴイテブスク芸術宇佼(1922)
5. エルモラーエワの生涯と作品e3;<凶立芸術文化耐究所:>(1922) 流刑と死(1937)
6.後[吐の言、|イ耐とその問題点
1.再発見されたロシア・アヴァンギャルド
と女性芸術家たち
アヴァンギャル]ごという語はもとより「前
衛」を意味するフランスぷの半隊川両で、ある
が、 201止紀初IJpJ!のヨーロ ッパで繰り広げられ
た革命的な芸術運動を指すE葉として定者し
ているc この巡動は、既存の秩序のラデイカ
ルな解体と、新しい自由な芸術と社会の創造
をめざした d ロシアでは、第ー次世界大戦お
よび、l{t一命を背景にして、 1910年代から 1920年
代にかけてアヴァンギャルド運動が花開い
たν そこでは「アカデミックな伝統が行定さ
れ、リアリズムや占典主義の枠を超え、現実
の模倣ではなく、ドミ闘で主体的に表現するこ
とが目楳とされた})。 しかし、まもなくス
ターリン体制下でロシア・アヴァンギヘ'ルド
は抑圧され、「社会主義リ アリズム」追求の
方針が公式に固められた1934年以降、歴史の
表舞台から姿を消すことになるとJ
その再評価は、 1970年代に西側諸凶で始
まったのそして1980午ごろまでに、アヴァン
キ天埋)("(.m邸前中
1)桑野 1996.p. 3
ギヤル Fの芸術家たちとその活動を軸とした
ロシア主術史の↓4構築の作業が、欧米やU本
では一通り完了するのである つ 198:~年に Tユ
リイカ』誌卜.のロシア・アヴァンギャルド特
集2)が、日木での受符状況を集約的に去すも
のと言えよう 。さらに1990年前後、ペレスト
ロイカに伴う情報公聞の流れの 111で、ロシア
国内でもアヴァンギャルドの再評価がようや
く可能になるの事ITたにロシアから提示された
資料を受けて、欧米や日本の刷究もまた活性
化した31。
1999午から 2001イIてにかけて、ロシアのア
ヴァンギャルドの久性画家6人を特集した展
覧会「アヴァンギャルドのアマゾネス民」が
世界を巡同した。ベルリンを出発点に、ロン
ドン、ヴェネツイア、ニューヨーク、そして
最後にモスクワのトレチャコフ美術館で開催
されたこの展覧会は、アヴァンギャルド運動
における女性史に光を当てた点で、研究にま
た新たなー時代を拓いたと言えるかもしれな
い。表題の「アマゾネス」の品+は、未来派の
詩人ベネジクト・リフシツカ人アヴァンギャ
2) rユリイプ'lJ 1983-1 15(1)即 46-191rロシア・アヴァンギヤルド-21冊子d芸術の誕生」3)桑野 (1996)および亀山 (1996)が、その円本における代夫例であるーそれ以降の研究は枚本に日肢が
ないため、ここではす↑略する。
160 アゴラ(天理大守地域文化研究センタ一紀'Z.:')
ルド女性Illij家たちのことを、ギリシャ神話に
登場する勇猛巣敢な久戦寸?になそ、らえて呼ん
だことに山来する4)。この民覧会で取り上げ
られた芸術家のうち、二人(ナターリヤ・ゴ
ンチャロワ5)、アレクサンドラ・エクステル)
は亡命し、 J人(オリガ・ローザノワ、リュ
ボーフ ィ・ポポーワ)は革命直後に天折し、
て人 (ナジュージダ・ウダリツォーワ、ワル
ワーラ・ステパーノワ)はソ迫に留まった。
生涯も信念も多様な6人だが、いずれも激動
の時代を牛会き抜いた、たくましい女性芸術家
であることが共通しているc 「ここにあげた
久性たちはいずれも、内11))の功で場'1主ノtー卜
ナーに尽くした 『良妻」でもなければ、一時
代前のシンボリスト世代に見られたように
T永遠ーの女性」として崇められつつ神秘の領
域に追いやられてしま ったミューズでもな
かったc あくまでも生身の人間として社会と
IWJき合い、その傑川した才能によって場性と
ならびたち、衝撃的な作品と忘れ難い止の軌
跡を後世にのこした「アマゾネス」たちであ
る})。
ロシア・アヴァンギャルド運動における女
性去術家の存在は、 191U:紀の末から民岡した
ロシアにおけるフェミニズムの)反果であるこ
とは冨うまでもない。19世紀後半までのロシ
アれ会では、 5iIl阿な家父長調の伝統のもと
で、女性たちはほとんどの権利を奪われ、芸
術活動の主体となることができる例は稀で
あったれだが1920{f-代には、革命後の社会秩
序の再編成により、女性の地位が向上してい
たのそのことを背景に、それまで去術活動か
ら排除されていた、または傍流に慣かれてい
4)沼野 2003.p.214
た女性たちが、芸術活動の主体としてイf会在j惑
を発揮し始めるのである7)。
本稿では、そうした女性芸術家の一人で
あった、 [1111:家ヴェーラ・エルモラーエワ
(13epa MI:Ixa主.TIOsuaEp:"IO.1aeBa, 1893
1937) に焦点を当て、その生誕と作品につい
て、ロシア・アヴァンギャルドにおける久性
芸術家の地いという観点から見ていきたいハ
2. rマレーヴィチの女弟子」
先に述べたように、ロシアではペレストロ
イカ期の情報公|射にともなってアヴァンギャ
ルド関係の論文や書籍の川版ラッシュが起
こったが、その中でも最も早い時期jに出版さ
れたのが、 1989年の画集 「中断されたアヴア
ンギヤルド』H)であるのこの両集は、 1920{f-
代から 1930年代のアヴァンギャルド運動を、
現在消滅の危機にあるアラル海になぞ、らえて
紹介したものであるc 村者15から遥か離れた巾
央アジアの地では、第二派アヴァンギャルド
の画家たちが抑J玉を逃れて芸術活動を民間し
たが、彼らの遺した作品は、イーゴリ・サ
ヴイツキーによって収集され、現{fウズベキ
スタン内の向治共和同カラカルパクスタンの
rr都であるヌクスの美術館に収められた。そ
の貴重な収蔵品の数々が、この画集では紺介
されている。
この画集の中で、久性画家エルモラーエワ
にはじめて本格的にYGが当てられた。この画
集の出版に尽)Jしエルモラーエワについての
記事を担当した美術史家エヴゲーニー-コフ
トゥーンは、すでに1972午にレニングラード
で美術関係者のみを対象にした小凱絞な展覧
:i)若桑 (1985)は広く世界の美術史から選りすぐった12人の女件芸術家について、「なぜ女には仰k.な主術家がいないのか」 という同いに、!,ct生IJ.!.の観点から答えようと Lた,そのうちのひとりにゴンチャロワがi笠fi'utこの
6)沼野恭fは、ゴンチャロワが、ロシアの氏米本版|血i(ルポーク)や坐像(イコン)の素朴な表現の中に、凶洋絵画の限界を打破するものを見mしたことと、女は兇よ り劣っているとする批成の仙怖飢を自らの作品で逆私させたことを「逆説の美学」と|呼ぴ、高く評価している。沼野 2003,p.226. pp.232-233
7lコト ヴィチ 2008.p. 15.
K) KOHtyH 1989. (阿省には負数の記載がないため、引用頁数の表記は'{i略するJ
川局静:ヴi ーラ・エルモラーエワ 161
会を開催するなど、この女件ー11111家の紹介に努
めてきた。 r中断されたアヴァンギャルド』
での絹介が一つのきっかけとなり、彼女の知
名度は上昇していく 13)c
なおエルモラーエワの名前は、当初はもっ
ぱら、抽象阿の先駆者として知られるカジ
ミール・マレーヴィチ ( Ka:3TTh市PCCRCpUHORWI
MaJleBlI'-I, 1878-1935) の名とともに百台られ
ていた〉すなわち、「マレーヴィチの女弟了'J
という位情づけであるぱそしてそれ以降もマ
レーヴイチからエルモラーエワが受けた影響
については多く論じられてきたが、エルモ
ラーエワがマレーヴイチに与えた影響につい
て論じられることはほとんどなかったc しか
し、労働者階級から身をおこした rllpき上げ」
の画家マレ←ヴィチが、「リシツキーらとの
知的交通の巾で思考が整却され深化した」 10)
と言われる時、後に見るように進歩的インテ
リゲンツィヤの家庭で父や兄から思想的な葉
|均を受けて育ち、高い教義を身に付けたエル
モラーエワもまた、その一翼を折ったに違い
ない。
'1[1附されたアヴァンギャルド』の刊行後、
失われたと思われていたエルモラーエワの絵
11111作品や丈需が絡密巣に保有されていたこと
が分かり、独自の存本意義をもっ画家として
の;;'l'fllliが高まっているつ2008年にはペテルブ
ルグのロシア美術館で、 1")じくマレーヴィチ
の必子であったスエチン反と同時開催という
治で、彼女の展覧会が開催されたの2009{fーに
はそスクワのガレエフ・ギャラリーで、モス
クワでは初めての個以が開催された。
以下では、絵本作家や「マレーヴイチの女
弟チ」としての地位にとどまらない、独自の
才能をもった1111じ家としてのエルモラーエワ像
を描き出すための前提を提示するべく、 f皮k
の牛ー涯を年代JURにたどり、かつ個々の作品の
特徴を概観していく 。
3. エルモラーエワの生涯と作品①
誕生(1893)ー修業時代(1916)
エルモラーエワは189:~年サラトフ県ペトロ
フスク郡クリュチ村で生まれた。母は男前家
の令媛、父は世襲貴族で、いわゆる進歩的イ
ンテリゲンツイヤであった11)c同組は1870
年代の住まいが近かったことが縁で革命家
フイグネル姉妹と親交があり、それがひとつ
の原岡となって、秘密苦察の駄視下に置かれ
ていたむ1902年から司翌年にかけて 家は国外
退去命令を受け、パリ、ロンドン、ロ←ザ、ン
ヌなどを転々としたわエルモラーエワはパリ
とロンドンの小学校に通い、ローザンヌでは
女子ギムナジウムにも通っているc 一家は
1904年に帰困を果たすが、 1905年に領地が大
火に見舞われたためベテルプルグに移り1i:む
ことになったの彼女はベテルブルグで私,'iの女 fギムナジウムに通い (1906-1911)、係史
の教員資絡を取得したの
その後、エルモラーエワは Ililj家の道を志
す。彼会:はまず、ペテルブルグでドイツ系の
阿家ベルンシュテイン (MlIXaIUI,iJ,an回 OIlli'1
BCPHWTe誼H 1875-1960) の川i執に通った
(1911-1913)cベルンシュテインはミュンヘ
ンとパリで絵を学び、さらにペテルブルグの
美術アカデミーで、〈移動展〉派の巨匠レー
ピンに教えを受けた人物であるハベルンシュ
テインは良き教育者でもあり、彼のIIIII棋はウ
ラジーミル・タトリンやウラジーミル・レー
9)ちなみに亀111郁夫は著書中でこの1由[集に触れ、アヴァンギャルド運動の終末と悲劇の象徴としてエルモラーエワを紹介している、そこで危山は、彼女の生源と絵本作家としての業績について言及しているが、後述のく絵|由l的造形的リアリズム〉を追求した本終的な|由l家としての側山には触れていない,危山 1996,pp,209-21'
10)大fl' 2003,]l, 64-65. 11)彼は一時、政府公認 (f;i去)のマルクス主義系のMt誌 flj.:_j舌1(1必'T3JlH,1899-190nを発lりしてい
たこともあるれ
162 アゴラ(天理大守地域文化研究センタ一紀'Z.:')
ベジェフなど、歴史に名を刻んだ才能ある 11111
家を多く輩出したむ、Ii時このような画塾は他
にも数多く存在し、帝政末期に.I'_流であった
く移動展〉派ゃく芸術の世界〉首長の芸術を、
来たるべき時代のアヴアンギャルドに橋渡し
する役割を*たした。これらの阿塾のもうひ
とつの特徴は女件ーにも開放されていたこと
で、画家をめざす久子学斗今にとって貴重な学
びの場となっていた。 20世紀になっても革命
崎には、ペテルブルグの美術アカデミーやモ
スクワ絵画彫刻建築学校は王式には女性に門
戸を聞いておらず、後に「アマゾネス」と呼
ばれた久性画家たちの多くは、こうした画塾
で修業し、腕を磨いていたのである!のc エ
ルモラーエワは、そうした女性|川家の卵たち
の一人であったc なお、 1912年には、メンシェ
ヴイキに入党していた兄が逮捕され、イル
クーツク近知のエルマク鉱山へ流刑となっ
た。1911年に父を亡くしていたエルモラーエ
ワは、この時期の多くをシベリヤの兄の fで
過ごしたコこの兄から少なからず思想的影響
を受けたことは想像に難くないの
ベルンシュテインの凹塾を出たエルモラー
エワは、さらなる美総iの修練を積むべくパリ
に留学したが、第今次世界太戦が勃発したた
め、目的を達成できないまま帰凶を余儀なく
されたの1915年7月には、占代ロシア美体iに
文すするi采い闘心から、サンクトーベテルブル
グ考(1学大学13)に聴講生として入学し、芸
術!と、考古学、古代キリスト教学を受講するの
この時期はまた、エルモラーエワがキュピ
ズムや未来派に興味を持ち始めた時期でもあ
る。彼女は19151f1月、ベルンシユテインの
11111棋の同窓生ミハイル・レ=ダンチュのため
に、彼の生涯で最初jで最後となる桐民に、自
宅を提供したc フランス系の画家レ竺ダン
チュは、ミハイル・ラリオーノフとともにく
光線主義)> (1912-1914) を提唱した人物で
ある u 彼は未来派グループ〈無1官l殺人〉
(ECCKpORHOC Y6H註CT130)14)の創始者であり、
エルモラーエワと阿塾の恩師ベルンシュテイ
ンもそれに1111わった ν いかにも未米派らしい
この奇妙なグループ名は、手当時裁判が進行中
であったスキャンダラスな殺人事件から採ら
れたものであるc 彼らはグループと I"J名の雑
誌「無市1殺人」を1915年から翌年にかけて10
サ発行したが、この雑誌は初期アヴァンギヤ
ルド特右の「無秩序と美的反乱」を特鍛と
し1:'))、19201f代に開花した不条理主義路線
のさきがけになったJ この雑誌はこんにゃく
版で印刷され、進歩的な活者層に普及したっ
毎号、メンバーのうちー人の特集が組まれ、
誌上で紹介された16)つそうすることによっ
て、それまで無名であった画家を rl止に知ら
れたJ IIIII家にすることが使命であると、彼ら
は考えていた。1916年3月に発行された号で
エルモラーエワの特集が組まれ、「アッシリ
ア・パビロン」号と名づけられた。そこには
す体未来派のスタイルで描かれた彼氏;の自画
像が掲載された。このような活動をとおし
て、エルモラーエワはレ=ダンチュから大き
な影響を受けた17)0 1917年5月、彼女は考ー,11
学大学を半楽し、同校の研究員の資格を取持
したc
12)沼野孫子が前掲舎で弓及している久性自家の大半は、ミljr時大抵の男性凶家が苧んだ同¥r.の美術アカデミーではなく、私立の阿塾山身有で、あった〈沼野 2003,pp.213-251
13) 1914年に、リj名がペテルブルグからペトログラードに生更されたため、同校も改称されて、'1'業時にはベドログラード考古''J:':人:-'?となっていた仁
14)グループく無血殺人〉のメンバーは、エルモラーエワの他に、ニコライ・ラーブシン、オリガ・レシコワ、ニコライ・ヤンキン、イリヤ・ズダネヴ ィチ、エカチェリ←ナ・ツローワ、
15)コト ヴイチ 2008.p.451 16) 6りではレ=ダンチュが特集された、17)レーダンチュは第 ー次世界j、戦末期の1917{ド日月に、 26歳左いう若さで戦死したの
川局静:ヴi ーラ・エルモラーエワ 163
4. 工Jレモラーエワの生涯と作品③
革命(1917)ーヴィテフ。スク芸術学校(1922)
1917作の革命後、エルモラーエワは本格的
に職業的な長術家としての生活をスタートさ
せるのそこで彼女は、ベルンシュテインの阿
斡時代から培った人脈を生かしつつ、多向的
な才能を発帰していくのである丹
エルモラーエワは1918午夏から秋にかけ
て、画家、作家による協同組今形式の出版組
織〈今円::>(臼rOIlH5I)の創設に参加した。
メンバーには、ナタン・アリトマン、ユー
リ・アンネンコフ、ニコライ・ラープシン等
が名を辿ねている円ここでは、ロシア向Wi'と上はじめて、 Y~m者が市門に扱われた18)J
ここから 11¥版される絵本は、ロシア未来派の
実験と直接関わっていた。エルモラーエワ自
身もナタン・ヴェングロフの詩 『ねずみ』
(JV!U!ll3 r3 )と「雄鶏J (llerxx)に挿絵を
捕き、ウォルト・ホイットマンの詩 「開拓者
たち~ (JiIIOHepU) の公丁に関わった。こ
れらの作品はリノリウム版pllIで印刷された
が、ときには画家口らが絵筆をとって着色す
るとともあったの
J&.古学大学卒業後のエルモラーエワは、ペ
トログラード博物館が中心となって行った看
板収集事業に携わるn 当時各」に出荷していた
給与行収は、識字率の上昇などにともなって価
値を失いつつあったが、文盲の民衆にとって
は民衆木版IIIII(ルポーク)やF!?像(イコン)
に並ぶ大切なコミュニケーション手段として
の役割を長い歴!との巾で担ってきたことが、
ダヴィド・プルリユクやラリオーノフ等に
よって再発見され、市がf~~存と収集に来 V) m したのだった。エルモラーエワはその事莱の
リーダーとなって、街中の干Hkの現物を収集
し、収集不可能な場合はスケッチや写真に収
めたυ 雑誌 『コミューンの芸術J (1919) に
18)シャツキフ 2004.p.130 19) )(u 200:). p.269
彼女のすぐれた論考「ペテルブルグの看板」
が残されている19jc
そして彼女は 1919年4月、af.~命政府のく教
育人民愛員会〉内に設立されたく美術局〉
(H30) の指令を受けて、ベラルーシの都
diヴイテプスクの芸術学佼へ派遣されたu
ヴィテプスク芸術学校は、 1919年1月にマ
ルク・シャガールを校長に戴いて嗣校したば
かりであった。シャガールは急進的なIllrj家グ
ループ〈ダイヤのジャック〉の展覧会 (1916)
に111品するなど、~.命時には注目を集める画
家となっていた。革命政権はそんな彼に白羽
の矢をクーて、国家の文化政策の中枢に(ウラ
ジーミル・マヤコフスキー、フセヴォロド・
メイエルホリドと校んで)抜擢しようとし
たのしかしf皮はそれを固辞して故郷のヴィテ
プスクに戻り、そこに芸術子t校を開設したの
だったc この学校はく教育人民委員会〉から
同11.の芸休学校として認nJされた。
1919年4月にヴイテプスクに派遣されたエ
ルモラーエワは、同年10月にここへ赴任して
きた新進気鋭の岡家マレーヴィチと同会うこ
とになる。マレーヴィチは第ー同〈ダイヤの
ジャック〉民(1910)に参加してアヴァン
ギャルドIllrj家への前ー歩を踏み出すと、さら
に急進的なくロパの尻尾〉民(1912)への出
品や、未来主義オペラ「太陽の征服l (1913)
の上演参)111を経て、アヴァンギャルド運動の
中心的人物となり、 『黒い1f方形』を出品し
た<0.10一最後の未来派〉展 (1915)で「ス
プレマテイズムJ (絶対主義)に到達した0
~:命後はく教育人民委員会〉のく美術同〉創
設に関わっていた〉そんな彼を、芸術学校で
教職に就いていた画家で建築家のエル・ 1)シ
ツキーとエルモラーエワが招聴したのだっ
た。マレーヴィチはヴィテプスクに赴任する
とたちまち強力なカリスマ性を発蝉して芸術
学校の巾心となり、 1920午にはエルモラーエ
164 アゴラ(天理大守地域文化研究センタ一紀'Z.:')
ワやリシツキ一、さらに、子t生のスエチンや
ユージン等まで巻き込んでグループ〈新芸術
の砕すー者:> (YHOBI1C) を結成したのここ
でいう新芸術とは、キュピズム、未米主義、
スプレマテイズムのことであるコしかし、こ
のマレーヴイチの路線はシャガールとの対ιを招き、シャガールは1920年5月にモスクワ
へ去り、その後パリド亡命した、
エルモラーエワは、シャガールの後任とし
て芸術学校の校長職に抜僻され、マレーヴイ
チとの良好な協力関係の下に職務を遂1/して
いったしグループ〈新芸術の佐立者〉が発行
した文集の第一号には、論文「キュピズム研
究について」を発表したが、その論文では印
象主義、セザンヌ主義、キュピズム、:t:米主
義を分析の対象として、新たな芸術の発以に
はキュピズム的段階が必要であることを説い
ているつまたキュピズムにおいてフォルムを
解体するための原理と、立体とヤーEを構成す
るための手i去を定式化したυ ,~時の彼女の作
品には、マレーヴイチの影響が強く反映され
ていたc 習作 「ヴィテプスクのメーデー祝祭
の装飾。スプレマテイズム的構成J t:JCKH3
llp3.1瓦HH可Horo0φOPM.'7e1iH坦 BHTe6CIia.
CyllpeM3 TII'IeCKOe llOCT poeHHe. 1920れでは、
黒、赤、 占色の正方形、二ミ角形、円などの凶
形が組み合わされている♂これは、 ip.命3同
年記念事業のー環としてヴィテプスクが町を
挙げて取り井11んだ祝祭袈飾のひとつであっ
たのそのときのfあの様子を伝えるエピソード
を、亦軍兵寸?として軍務執行中に祝祭に遭遇
した映画監督のセルゲイ・エイゼンシュタイ
ンが書き残しているの「日抜き通りでは亦保
正Lが白く塗られている υ その上に緑の円、オ
レンジの正方形、青い云角形が拡がる。これ
は1920年のヴィテプスク υ 煉土Lの壁をマレー
ヴイチの筆が走ったのだっ 『広場こそ僕等の
20)大行 2003. ]l.532 21 )コトヴイチ 2008.pφ107.
パレット」 という声が畦から聞こえるcJ20)
ヴイテプスクではi直劇も盛んで、 1920年2
月にはオペラ「太陽の征服」が上演され、 1921
作9月にはマヤコフスキーの 『戦争と世界』
が上演された。エルモラ}エワは演劇集同の
リーダーとして、舞台装飾や火装を担当し
た。
5 .エルモラーエワの生涯と作品③ く国立
芸術文化研究所>(1922)一流刑と死(1937)
1922年、ヴイテプスク長約J学校では、ニコ
ライ・スエチンやレフ・ユージン等今月i生が
無事卒業式を迎えた。しかし、このころから
革命政権はアヴァンギャルドの否定と、リア
リズム京税の点向へ舵を伐り始めたυ 社会主
義リアリズム集問〈ロシア革命的芸術家協会
:> (AXPP) が優遇されるようになり、ヴイ
テプスクでは財政が逼迫したため、マレー
ヴィチをはじめ教員や学牛ーたちはベトログ
ラードへ引き上げることになったυ エルモ
ラーエワはベトログラードの文化学術地|又で
あるヴァシリ一局ト条通りに居を構え、住居
を失った生徒たちにそれを閣放して共IロEJ..:.i;!;'
を始めたコそこでは i-11iくからの{ぷ寸先どおり
に、話熱した芸術家たちと修業中の乍生たち
が対等に議命する集会、いわゆる「創造の火
曜日」が催され、民覧会や作品について討論
が行われた J オペラ T太陽の祉Blilの音楽を
和子~したミハイル・マチューシンと未来派の
阿家パーヴェル・フイローノフや、 1910年代
にはく芸術の世界〉派であった閣家ペトロ
フ・ヴォトキンの綿子たちもやって来た」
2ljo エルモラーエワという人物の求心)Jが
よく表れている A挿品である。
ヴイテプスクからベトログラードに活動の
場を移したマレーヴィチは、 1923年から1926
年までく国烹芸術文化研究所:>( nlHXyK) 22)
22) 芸術の I~J也を研究するために1919{ドにペトログラードに創設されたわ前身は芸術文化防物館合
川局静:ヴi ーラ・エルモラーエワ
の所長の!生に就いたのこの時局1、彼は建築の
分野の研究に没頭し、「アルヒテクトン」と
自ら名付けた建造物の模型の制作に熱中し
たO この頃にはエルモラーエワもまた同じ研
究所に勤務し、色彩実験室のリーダーを務め
たの印象派、セザンヌ主義、キュピズム、未
米主義、スプレマテイズム等を刷究対象と
し、それぞれについて絵画、色彩、色訓、明
度の観点から検討したc 研究成果は論演
「キュピズムJ ,-モネJ ,-絵画における宝閥」
「フランス・キュピス、ムの造形的継永」に以
映されたコ
当時エルモラーエワからラリオーノフに宛
てた予紙が残されているのこれはラリオーノ
フ治、らのf衣車副こj必えて、被:とゴンチャロワの
絵画を撮った写真をパリへ送った際に、その
発j去を報せるために害かれた f-紙2~1 (1926
年7月17U) であるつその中で彼久は、絵画
の本~について「絵画文化は政治や宗教など
何ものにも従属することはなく、J!!f,対象、 J!!f,
意味、無思想でなければならない」とマレー
ヴィチの考え方をくり返し、「究板まで到達
した松山は、セザンヌやコローへ後退せざる
をえず、色彩研究を筏すのみである。一方、
造形芸術は建築へ向かうだろう」とこれから
の探題に百反している υ また、研究所の活動
報告のための民覧会24) (5月30日一7月15日)
に作品を出品しなかった期尚は、「質の高く
ない作品を出品するより、現代主神Jの進展に
役、',:っ現念を広める活動の方が重要であると
判断したからだ」と述べているコ彼女たちの
「跡、U
PU
-
グループを「国費でまかなわれる修道院」と
呼んで激しい攻撃をしかけてくるリアリスP ム
画家集同に対しては、いかなる創造的方訟を
も持たない「現代版移動展派」であると批判
しているコ
この予紙でも危慎されたように、本命政権
は}j引を転換し、 1926年12月にマレーヴィチ
をく同す芸術文化研究所〉所長の座から僻仔
するc 革命政権の巾相互にあって国家の丈化、
教育政策を左イiしてきた彼も、遂に実権を失
うことになった251G
マレーヴイチの解住と同時にやはり研究所
から解任されたJじ同僚たちは、別々の追を歩
むことになったれエルモラーエワはマレー
ヴィチに従ってく造形芸術部門〉のく明代制
覚芸術研究会jT2li)に入り、スエチンはイリ
ヤ・チャシユニックとともにく現代芸術」二業
俳究会〉に入ったむエルモラーエワの自宅で
催される集会27)には、ユージン等常連と、
まれにスエチンやアンナ・レポルスカヤ等が
やって来たっ彼ら「マレ}ヴイチの後継者」
たちは、 1927午に、エルモラーエワを巾心に
グループ〈絵削的造形的リアリズム〉を組織
したc 彼らは「無対象画の要素を溶かしこん
だ具象11川iJ(コフトゥーン)とも表現される
ポストスブレマテイズムを出発点として、彼
ら阿有の↑jアリズムの創造をめざしたお)c
この頃ーからエルモラーエワはwぴ絵本の仕
事に凶帰する。キャンパスに描くいわゆるタ
プロ一両が否定され、実用的な「生雌芸術」
が勧められた1921年のく芸術文化仰|究所〉
23) KOBTyH 19i19
24)マレーヴイチはこの民覧会に多数のアルヒテクトンを出品したe
25)その後、彼はく大ベルリン美術展> (1927)への参加を円実に仲l阿し、同外に持ち附した作品やメモなどの全ては、信頼できる知人にj;{:きれたにl それらは第二次世界大戦にも消失を免れ、 1956{ドにアムステルダム Ili立近代美術館によって発見され、ヨーロッパにおけるマレーヴィチ研究の民主な資料となった〈
26)それ以外に、マチコーシン、ユージン、ポリス・エンデルが加わったn
27)それ以ヲいこ、コンスタンチン・ロジ、ヱストヴェンスキ←、ウラジミ←ル・スチルリゴフ、レフ・ハルペリン、マリヤ・カザンスカヤ、アレクサンドル・バツリンがa品J虫であったの
28) 3a珂Ilq官 onCKa貝 2008a.c.92.
PU
PU
- アゴラ(天理大守地域文化研究センタ一紀'Z.:')
(I1IIXYK)の宣言を受けて、 llllj家の多くは
舞台美術や日)IJ,日lのデザインに向かったが、
幾人かは絵本に山ったへエルモラーエワもそ
のひとりであったc 彼女が絵本に向かった開
山として考えられるのは、半くから画家、作
家による協同組合形式のfH以組織〈今日〉を
創設し、そこで絵本を出版した経験があった
ことと、ベルンシュテインの画塾時代仁知り
あった未米派詩人たちとの刻交が続いてお
り、彼らの詩に挿絵をつけるという形がUJ能
であったことなどである。当時絵本や児童文
ザ'の領域は検聞が比較的緩やかだったため、
児童書を専門とするく国立児主文学出版所〉
(且ET口I3)は木派の両家たちの避難所の
ようになっていたc エルモラーエワは、 1925
年にこの11¥版所と一作ごとに契約が完結する
)院の契約を結び、 1931{fにそれを解消するま
での閣に、ほぽ50冊の絵本の挿絵や装Jに関
わった。彼女が折絵を担当したのは、未来派
の詩人ニコライ・アセーエフの Tオイチニイ
オイチニイJ (TOIrTOIrTOII, 1925)、ダニー
ル・ハルムスの 『イワン・イワーヌイチ・サ
モワール1 (!4lla JJ Jflla llbl'f C L7 MO B a fJ,
1928)、アレクサンドル・ヴヴェジェンスキ
ーの Tたくさんの動物1 (1l-1IIoro 3sepeif,
1928) と 「漁n市.l (Pu6aKII, 1929) などで
あるの また、ユージンとの共若 『紙と鉄』
(E.YMe/ ra Jf HOJf(HHL(hT. 1931) や、彼
交が単独で創作した絵本「とんでもない御者F
(He.vila 'I.J1I:IsbIii K_V'Iep, 1929) とへ、ぬ1 (Co6a 'IKII町 1928) には、絵木史上例
を見ない独創的な発想が盛り込まれたのそれ
らの絵本の巾には、高く評f而されて児景文学
の占典となっているものも少なくない29)。
それ以外の作品を一瞥しょうの〈同校芸術
文化州究所〉を去った後、グループく絵|町的
造形的リアリズム〉を組織したエルモラーエ
ワは、 .(uf枚かの]'jf象阿を描いているのそれら
の作品では、人物の定員は多くの場合内や黒で
塗りつぶされており、マレーヴイチの影響の
跡を伺めているが、全体的には薄紫などの落
ち沿いた美しい色が位われた。そのうちのー
枚である 了二二人像J (TfJIIφIIlr_VfJbI, 1928)
は、ローマ風の火装を身に付けた威風'1佐々 と
した人物が、両手を兵検に説、げてj;_イ」ーの二人
をかばうようにして吹っている内十'i<形の構
図を持つこの絵は、別名の 『ゴルゴダ」で呼
ばれることもあるc
その後むわれた白海への旅から、全く新し
い境地が切り拓かれ、風長lll1jの連作 「白海』
が牛まれた。TULr ([opa, 1930)は、明る
い青色の空と鮮やかな緑の山、深い青色の海
が、あたかも躍動しているように捕カ通れてい
るの『橋のある風景J (ileJI3H)J{ C MOCTOM,
113 CCpHH Eθ/lOMOpb e, 1930) では、 111
が太く黒い線でいくつにも区切られ、今にも
朗らかに踊りださんとしているかのようだ。
晩年には静物l向iも千掛けているu Tてぶく
ろJ (J!CP'IaTIfII, 1932) は、ふんわりした
レモン色の原子の手袋が、梶子しているよう
に、 L ドに重ねて情かれている心了魚のある
静物J(HaTIOpMopT C pbI6aMI:I, 1932)は、
薄茶色の背景に世かれた青い魚が、ヌルリと
肺いているυ 画題が身近な U1t生活から選ば
れ、おだやかな雰同気が漂よっているとこれ
らの静物|耐iは、時の経過とともに、 JI~が_qJ純
化され、色遣いまでも単色化し、孟ιしい雰
開気に変わってし、くっ
革命後の社会では、健全な心と体を作る
ためにスポーツが:Jfi':!;!され、画家の多くがス
ポーツのテーマに取り組んだのマレーヴイチ
の代去作にも 『スポーツマンたち.l (CIIOfJT
CMellbI, 1928-1932) がある。エルモラー
エワもまた、連作 「スポーツマンi を制作し
た。長い首や楕円形の顔、体型にマレーヴイ
チの彬響を感じさせるが、幾何学的で無機質
29)これらの絵本は、インターネットのサイト 『ロシア絵本を探して from Sappo[O Iで綿介されているe
http://viww.sam.hi七0.11巴Jl】lxipo-k/s日pporo.htm
川島静:ヴェーラ・エルモラーエワ 167
なマレーヴイ チ作品とは対照的に人間臭を諜
わせている。 r赤いランニングシャツを着た
スポーツマンJ (CnOpTCMeH B KρaCHoii
.l.mif庁0,1933-1931)では、 背の異様に長い、
がっしりした体絡の婦が、背筋をや11ばして
陣今っているつ これから始まる競技を符ってい
るのか、ムー干を左腕にー前ねて置き、速くを見
つめているつ顔は白く塗りつぶされている
が、何枚かのバリアントには、 日が骸骨のく
ぼみのように描かれたものや、日の代わりに
灰色の線が黒い筆跡を残して引かれたものな
どがある。どれも 「スポーツマン」という語
から連想されるはずの 「動き」が感じられず、
「背景の 卜にマネキン人形が世かれたよう
に}O)見える。
連作 『少年』は、多くが散逸した彼女の作
品の巾では例外的に、最も完全に残イがしてい
る。それより5年前の作品 Tアコーデイオン
弾きJ (F<lPMOIIIIC T, 1928) では、 眼}じが
鋭くアコーデイオンを持つ腕の」、い少年が捕
かれているが、今凶の連作では、繊細でどこ
か寂しげな少年に置き答えられているc rバ
イオリンを持つ少年! (/'v[;]Jlb '1IIK CO CHpII
nlfOFI. 1932-1933) では、 119?がぼんやり
描かれ、 見方によっては、 思索している よう
にも、微笑んでいるようにも見える。「主主を
持つ少年J (M♂.I7h'IIIIi c KOP3HHOH,
19:~2-HJ:s) では、後から白色を塗りつけた
ような断の後ろに、もうひとつ元の制がある
ように見える。あるいは、少年が白いお1Mを
被っている ようにも見えるハJ乙の顔はまっす
ぐ前を兄ているが、向い富良は能の巾に悦線を
落としている。
マレーヴイチが晩午に農村のテーマに回帰
したこ とはよくま日られているが、 エルモラー
エワもまた農村のテーマに取り創lんだ。連作
T村.の主役は、亦い服を稿たたくましい農
婦である。rチイ共を連れた良婦J (F;a6;] C
30) 3aHIf'l!rOnCKa目 2009. c. 50.
pe6e11HOM. 1933)でも T鋤をかついだ了ー
供述れの良婦! (万iJ6c7c rpc76_'lJlMII 11
pe6e1lKOM, 1933)でも、やはり頗は円で
漁りつぶされているが、 I I ~ を黒線で表した
バリアントも存作ーする。農婦に寄りそう よう
に描かれた子供は、 1'1i立の細い棒として表現
され、どことな く不育なイ メージを添えてい
る。
I'j像 IIIII r仙'了-の女性J (}K e 11 m H 11 <7 JJ
UJ.I/fwe 1933-1934) では、とぴぬけて大き
な耐子を冠った都会風の女性が肖をかしげて
いる。色遣いは単調な白黒の濃淡である。こ
の時期の風景画もまた色遣いは単調で、
Tヨットクラブ.(JlXl'--H,;lY6. 1934) は市:
の濃淡だけで描かれている。そのせいか、海
は夜明け前のような静識な雰開気を醸し出し
ているc
最晩年の1934年には、 111版千lからの・注文が
ないまま、向主的に古典丈宇作品のいくつか
に挿絵を付けた。 しかし、これまでの幼し、チ
供を対象とした絵本の挿絵とは趣を具にして
いる d セルパンテス 「ド ン・キホーテ』
(j.(OH lIIlxoTe. 1934/19:B)、ルクレティ
ウス 「ものの本質についてJ (() nρlIPOsθ
Bemeii, 1934)、ゲーテ 「ライネケぎつね』
(PeHHCKC-.lIIICc7, 1934)などに付けた挿
絵からは、彼女の哲学的思索の跡が感じられ
る。
19:34年12月25H、エルモラーエワは国家保
安委員会に逮捕された。このとき、グループ
〈絵画的造形的リアリズム〉のメンバーも|ロl
時に逮捕された。一説には 1-ライネケぎつね」
の挿・絵における動物の扱いに問題があったと
されるc 審理が行われ、エルモラーエワに対
しては 「以ソ活動を行った牡会的危険分子J
として3年間の)flJが言い渡されたむ3年|削の流
刑というのは、 当時としては無罪に準じる軽
い刑で、あったという。巾央ア ジア ・カザフス
168 アゴラ(天理大守地域文化研究センタ一紀'Z.:')
タンの州者liカラガンダの強制収容所に送られ
た。流刑地では画家としてポスター作製の作
業に従事したが、繰り返し)え吊命グル←プと
の関係が追及された。 1937{f9月20日に死刑
を官合され、 9月26H銃殺刑が執行された31)c
6.後世の評価とその問題点
その死からちょうど52年後の1989年9月20
日、ソ迫最高会議によってエルモラーエワの
名誉同組がなされた。その後、徐々に|財らか
になってきたのは、彼女の活動の多面性であ
る。前述のように、 1918年にはペトログラー
ド博物館主導の看板収集事業のリーダーに指
名され、ヴイテプスク芸術学校では佼長に抜
擢され、〈新芸術の佐立者〉ゃく国立主術文
化研究所〉でも喜記を務め、その色彩実験室
を任されている。また、「キュビズム研究に
ついてJ (1920) をはじめ多数の諭文を発去
した。キャンパスにだけ|白jかつて画業に専念
する|町家というよりは、洲一論家でありリー
ダー的存作でもあったのだc
もとよりロシアで展開したアヴァンギヤル
ド運動の特殊性は、「芸術の革命」の範凶に
伺まらず、主付J家たちが.'p.命政府の中枢に
入って、国政を}r.むしたことである。エルモ
ラーエワもまた、革命政権発足時には文化、
教育政民を担う者のひとりとして、析しい同
家創造の仕づ1-に携わったυ しかし、主術の)J
が民衆を動かし革命の原動力になりうること
を円の当たりにした政権は、やがてアヴァン
ギャルドをその革命性ゆえに危険制するよう
になったのエルモラーエワの銃殺は、芸術家
として、また指導者としての彼女の)J量を政
権が看過できなかったことを示唆している。
彼女の逮捕夜前の経歴:~2) は、「レニングラー
ドのロシア美術館で開催された展覧会〈社会
主義の創建における女性.> (lKeHl.QIIHa B
COUHanHCTII可CCKOMCTpOHTcnhCTRC
1933-1934)に参加lした」件で終わっている。
もし彼女の午諸にその後さらにいくばくかの
行を追加することが可能であったならば、彼
氏ーこそソヴイエトの「干上会 j:.義の創建仁おけ
る女性」の代表:宥のひとりとなっていたに違
いないc
最後に、研究状削について一員触れてお
く。 1989年までの先行研究については、 jLに
述べた画集 T中断されたアヴァンギャルドj
のコフトゥーンの論考を参照されたいmv
その後、ザインチコフスカヤをはじめ多数の
研究者のエルモラーエワ研究や、 1~)20-1 ~J:~O
作代のアヴァンギャルド研究そのものの進捗
によって、エルモラーエワの活動の多検な側
面が明らかにされた《これまでエルモラーエ
ワに捧げられた州究は、概説的あるいは断片
的特徴を伝えはするが、時にイ'1王確な表現や
誤りを含んでおり、作品分析と分類、歴史的
評価などが断片的にしか遊行されていない d
また、近年嗣催された彼女の民覧会において
は、特定の時期の作品あるいは絵本・イラス
トがもっぱら取り上げられるため、複雑で多
方面にわたる彼女の剖作の歩みを以映しきれ
ていないコその意味でも、今後はエルモラー
エワの全体像を明らかにする本格的なモノグ
ラフや、他分野において発見された情報との
つながりを与察する作業が待たれるところで
あるど
31) ;hHll可KonCKa珂 2009, c. 5印0,従来、 f彼皮!I:正の化の経中料tnはまば危山郁夫は、 rìflJ 真n~I:~了後も釈放されず、他の囚人たちとだるま船に来せられ、アラルMのある砂
漠の島で下船させられたまま消息を純った」と述べている,亀1111996, p.210. 1由l集「中断されたアヴァンギャルド‘の111版後、エルモラ←エワの「最晩イ!の足跡」を知るための手がかりとなる裁判J関係の資料が発見されたの
32) 3aHllq官 onCKa貝 2009, C守274φ33) KOBTYH 19i19
川局静:ヴi ーラ・エルモラーエワ 169
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aBaHraPJJ. B町 Tc6cK:10 (pell.: KOTOsII可. TaTh胃Ha),c .89-98. MIIJlCK:
3KOHOMnpecc
3aHWIKOBCKaH, AHToHHHa. 2008b. <<Xy貝O)f{HHK-HC myTo可HOC 3RaHHC...."
B: Bepa EpMOJJi/CRi/ (PYCCIICKIIH MY3eVr). C.5-25. C[16.: Palace Editions-Graficart.
3aIIH可KOBCKa5I. AHToHHHa. 2009. <<13epa B EpMOJIaeBY,片 B: B C pil E pMO.!!iIθEH
1ぷ'93-1938(Tel{CT 11 KOM.¥1eIlTap1111 /¥.II'1'oll11l1a :3aIIII'IKOllcKa}j). C .5-71. M.:
iaJleeB iaJlepe鼠
K 0 R T Y H , E lll' e 11 11I主 φe江OPOllll'![et al.J. 1989. Asil11I'ilPJJ. OCTcillos3e1111blif 11a
6θry. JI.: ABpopa.