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15 インターネットにおけるコミュニケーション考 ── SNS ミクシィにおける一事例を通して── 古畑和孝 Toward an integrated view on internet communication: Through a case in SNS mixi Kazutaka Furuhata Ⅰ.はじめに―コミュニケ―ションとは 1)社会的存在としての人間 人間とは、人と人との間にある存在である。一人で生きることは出来ない。この世に生を享 けた時、普通は家族に囲まれている。両親のみならず、あるいは祖父母、少子化が急激に進行 しつつあるとは言え、兄弟姉妹のいることも多い。家族の庇護、愛育の下、成長していく。母 子間の交信は新生児の時既にみられる。乳幼児ともなれば、しつけも多様化しだす。親子間の 交信だけではなく、一人子も多くなりつつあるとは言え、兄弟姉妹との交信も、兄弟げんかな どをも含め、次第に広がっていく。身体的に成長し、言語を習得していくにつれ、その内容は 多岐・多義に亘るようになっていく。 幼稚園ないし保育所(園)に入園(所)するにつれ、同年輩の幼児同士の交流も、保育者の 指導を媒介にするにせよ、急速に拡大していく。小学校に入学すれば、それは一段と飛躍的に 進む。それも、低・中・高学年に進むにつれ益々進む。もちろん時として、衝突し、葛藤に直 面し、けんかのみならず、いじめを経験したりするようにもなるであろう。友人関係、友情の人 間形成に対して持つ意味は、局面如何によっては、家族のそれを凌駕するようにすらなってくる。 さらに、中学校・高等学校・大学ないしは専門学校などに進むにつれ、その人間関係はいっ そう複雑となっていく。面白いほどだ。何時しか、異性間での交信・交流もその比重を増して くる。表面的接触から、次第に深みを増しても来る。 社会に出で立ち、就職すれば、上司ー部下、同輩同士の関係が否応なしに形成されてくる。 その間を媒介するのは、圧倒的に言葉、言語を通してであろう。恋愛し、結婚し、家庭を形成 すれば、ボディ・ランゲージなど、非言語的コミュニケーションの比率も大となってくるかも 帝京大学 心理学紀要 2008. No.12, 15-31

インターネットにおけるコミュニケーション考 SNSミクシィにお … · ②言語的-非言語的コミュニケーション 言葉を通してのコミュニケーションは圧倒的だ。

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インターネットにおけるコミュニケーション考── SNS ミクシィにおける一事例を通して──

古畑和孝

Toward an integrated view on internet communication: Through a case in SNS mixi

Kazutaka Furuhata

Ⅰ.はじめに―コミュニケ―ションとは

1)社会的存在としての人間

 人間とは、人と人との間にある存在である。一人で生きることは出来ない。この世に生を享

けた時、普通は家族に囲まれている。両親のみならず、あるいは祖父母、少子化が急激に進行

しつつあるとは言え、兄弟姉妹のいることも多い。家族の庇護、愛育の下、成長していく。母

子間の交信は新生児の時既にみられる。乳幼児ともなれば、しつけも多様化しだす。親子間の

交信だけではなく、一人子も多くなりつつあるとは言え、兄弟姉妹との交信も、兄弟げんかな

どをも含め、次第に広がっていく。身体的に成長し、言語を習得していくにつれ、その内容は

多岐・多義に亘るようになっていく。

 幼稚園ないし保育所(園)に入園(所)するにつれ、同年輩の幼児同士の交流も、保育者の

指導を媒介にするにせよ、急速に拡大していく。小学校に入学すれば、それは一段と飛躍的に

進む。それも、低・中・高学年に進むにつれ益々進む。もちろん時として、衝突し、葛藤に直

面し、けんかのみならず、いじめを経験したりするようにもなるであろう。友人関係、友情の人

間形成に対して持つ意味は、局面如何によっては、家族のそれを凌駕するようにすらなってくる。

 さらに、中学校・高等学校・大学ないしは専門学校などに進むにつれ、その人間関係はいっ

そう複雑となっていく。面白いほどだ。何時しか、異性間での交信・交流もその比重を増して

くる。表面的接触から、次第に深みを増しても来る。

 社会に出で立ち、就職すれば、上司ー部下、同輩同士の関係が否応なしに形成されてくる。

その間を媒介するのは、圧倒的に言葉、言語を通してであろう。恋愛し、結婚し、家庭を形成

すれば、ボディ・ランゲージなど、非言語的コミュニケーションの比率も大となってくるかも

帝京大学 心理学紀要2008. No.12, 15-31

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しれない。

 壮年となり、熟年に達し、老境を迎えてもなお、人間は、普通他の人々との交流なしには、

生きていくことが出来ない。それが出来ない時、孤独に陥る。社会生活を適応的に送れない場

合、ただ沈黙を守るだけか。そうではない。独り言をぶつぶつ言っている人を見かけることも

あるかもしれない。それは自らに語りかけ、自らそれに応答している姿なのでもある。

 このようにみてくるならば、凡そコミュニケーションなしには、人間の社会的行動、人間関

係を考えることは殆ど不可能と言ってよいであろう。コミュニケーションは、人間生活には、

まさに不可欠なのである。

 

2)コミュニケーションの種類

 ところが、一口にコミュニケーションと言っても、それは実に多様で、多義的な、豊富な内

容を含み、一概に概括することは至難である。

 それにしても、コミュニケーションについての、一応の概念規定をしておこう。コミュニケー

ションとは、言語または身振り、表情などを用いて、情報、知識、意見、感情、願望などを、

伝達し、または交換する社会的行為のことである。

 このような概念規定は、明らかに、主として対人的、ないしは対面的コミュニケーションに

焦点を合わせたものであろう。そして、それが、コミュニケーションの主流を成すのは、今更

言うまでもないであろう。

 だが、そればかりではない。ミクロなレベルでは、個人内のそれに始まり、もっとマクロな

レベルでは、集団内・組織内、文化間、国家間、さらには国際的レベルにまで及ぶ実にさまざ

まな水準でのコミュニケーションがある。

 対人的レベルでのコミュニケーションと言っても、主たる対象が、発達的にみれば、乳幼児・

児童・青年・成人・熟年で、もとよりそのそれぞれに特異的な面がある。社会的地位との関係

からすれば、相対的に対等な、友人・同輩との間でのもの、上下関係での、親-子、教師-児

童・生徒・学生、上司-部下、リーダー-フォロアー、医師-患者、カウンセラー-クライエ

ント等の間柄でのもの、さらには政治家-国民ないし選挙民の間でのものなど、限がない。

 これらは、それぞれ独自性はあるにしても、コミュニケーションの送り手も受け手も互いに、

それが誰であるかは同定(identify)出来るのが普通だ。

 対人的ではあっても、非対面的なコミュニケーションもある。手紙・はがきなど郵便を通して。

これは、時間的落差もあるし、必ずしも相互的とは限らない。だが、電話による会話、あるい

は、携帯電話での話し合い、さらにはメッセージの交換など、これらは同時的でもあり、普通

は基本的には相互的である。

 ところが、いわゆるマス・コミュニケーションになると、新聞・雑誌・テレビ・ラジオ、さ

らにはこれからみていくように、インターネットになると、送り手、情報源と、その受け手、読者、

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古畑:インターネットにおけるコミュニケーション考

聴き手、聴衆、観衆との間には、不可視性があることが多い。特定の情報源が、不特定多数の

受け手に向けての、主として一方向的なコミュニケーションである。もちろん、完全に一方的

とは限らない。新聞での読者の声の欄、テレビなどでの視聴者参加可能な番組などもあるから

だ。けれども圧倒的に一方向的なのが特徴的だ。

 では、コミュニケーションはどのように分類されるだろうか。

①道具的-自己完結的ないし要求充足的コミュニケーション コミュニケーションは本来、送

り手がメッセージを受け手に伝達し、受け手からある反応を引き出そうとしてなされるもの

であるから、そうしたある目的を達成する手段として用いられるのが道具的コミュニケー

ションである。これに対し、コミュニケーションを行うことそれ自体が目的となっているの

が、要求充足的コミュニケーションである。不安や怒りなどは、それを表現するだけで心理

的緊張が緩和されることがあるといった類である。

②言語的-非言語的コミュニケーション 言葉を通してのコミュニケーションは圧倒的だ。具

象的なことのみならず、抽象的・象徴的に精巧なメッセージを形作ることも出来る。もっと

も、言語にしても、音声の高低、遅速、饒舌‐寡黙、能弁‐訥弁など、それからまた文字に

しても、書体、大きさ、勢いなど、非言語的要素ももちろんある。身振り、手振り、ジェス

チャー、頷き、表情、「目は口ほどに物を言い」といった類の非言語的コミュニケーション

の果たす役割も大きい。身体言語(body language)などと言われることもあるように、そ

の区別は必ずしも截然としているわけでもないが。

③相互的・双方向的-一方向的コミュニケーション 対人的ないし対面的な場合には、相互応

酬的なのが基本であろう。けれども、送り手が一方的に情報を送りつけてくる場合ももちろ

んある。

④直接的-間接的コミュニケーション 対面的なコミュニケーションでは、直接的なのが基本

だが、メッセージを伝達するのに、特別な媒体を用いてなされる間接的コミュニケーション

とを区別することもある。

⑤パーソナル-マス・コミュニケーション 対面的に、直に行うコミュニケーションと対比し

て、テレビ・ラジオ・新聞・雑誌などの媒体を用いて、大量の情報を一方的にまた間接的に

行われるマス・コミュニケーションが、きわめて重要な役割を担っている。

⑥個人間-個人内コミュニケーション 対人的に相互的に行われている最も普通のコミュニ

ケーションに対して、送り手自身が受け手になる、自問自答、モノローグ、独り言は個人内

コミュニケーションと言われることもある。

 従来からの伝統的な分類の枠組みは、大凡上記のようなものであろう。そして、その左側に

記した道具的・言語的・相互的・直接的・パーソナル・個人間コミュニケーションが、コミュ

ニケーションの謂わば王道であろうか。

 だが、そのような枠組みに必ずしも馴染まない、情報化社会での新たなコミュニケーション

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の手段も、急激に発展し、驚異的勢いで普及しつつある。それらに徒に目を閉じているわけに

はいかないであろう。

 例えば、携帯電話や、電子メール、あるいはテレビ電話などはそうである。そして、これか

らみていくように、インターネットの、その中でも SNS (Social Networking Service)の一つ

としての、ミクシィなどは従来の型には嵌らないコミュニケーションの一つの典型と言うこと

が出来るであろう。

3)コミュニケーションの基本的構成要素

 普通挙げられるのは、次の 4 要素である。

 ①送り手(話し手・情報源・送信者)が、②メッセージ(伝達したい意味・内容)を符号化

(encoding)し、③コミュニケーション・チャンネル(通信路)を通じて、④受け手(聴き手・

読者・聴衆・観衆・受信者)に送り、受け手はそれを解読し解釈する(decoding)する過程を

含んでいる。次いで、受け手がそれを受けて、今度は送り手となる時、相互作用(interaction)

が進行していくことになるのである。

 送り手は、受け手を意識して、受け手に理解可能で受容可能であるような仕方で、適切な正

確な、明晰判明な符号化に努めるべきは当然であろう。受け手のことを顧慮せずに、ただ一方

的な発言をすれば、それは自己本位な、自己中心的な、無責任な失言・放言・暴言となること

も起こりえる。しかも、送り手は、そのような場合、得てして受け手の側の誤解だと居直った

りすることすらある。

 送り手は、基本的に受け手の立場に立つこと、その役割取得の努力は肝要であろう。ラポー

ルや、フィードバックに努めて、その結果に基づいて、必要に応じ、適切な微調整を図ったり

することなども大切であろう。送り手が如何にして受け手を説得せしめるか、そのための技法

なども種々開発されてはいるけれども、そのようなことにより頼むこと以上に、知的誠実さを

もって、誠意を尽くし、確信をもって、明晰判明に符号化し、送信することこそが大切であろう。

ところが、実際には、欺瞞・虚偽・誇張・隠蔽・匿名性の悪用などが何と多いことであろうか。

 受け手もまた、曖昧な妥協的な符号解読に甘んじることなく、送り手に毅然と対する姿勢こ

そが求められるのである。

 どのようなコミュニケーションであれ、そういう基本的構えこそが、コミュニケーション力

を育むことに連なるのである。

Ⅱ.インターネットにおけるコミュニケーション

 今までみてきたところからも容易に察知されるように、コミュニケーションと言えば、圧倒

的に対人的、対面的コミュニケーションのことを指していたであろう。けれども、インターネッ

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古畑:インターネットにおけるコミュニケーション考

トの出現により、そうした伝統的見方だけでは、コミュニケーションは語り尽くせなくなって

きた。それどころか、それは従来の見方を一変させるに十分であった。

 私自身は、その間のことには、依然として疎いままである。だが、中にはこういう領域の先

進的研究者もおられる。さしずめ、山下清美・川浦康至・川上善郎・三浦麻子らによる労作『ウエッ

ブログの心理学』などは、その辺の事情をも見事に的確に解き明かしている。今はただ、その

労作などを参照しつつ、最小限の事を一瞥しておくに止めよう。

 インターネットが始めて姿を現してからは、既に四半世紀を閲しているようである。だが

WWW の登場はインターネットの利用者を爆発的に増大せしめるに至ったと言われる。無数

の情報源が、不特定多数の想定受信者に対して、膨大な情報を発信するようになった。その受

け手は、偶々、ないしは選択的に、その中のごくごく一部の情報に接する。大抵は受動的にで

あろう。そうして情報を受容し、学習していく。その内容は実に多岐に亘っている。企業の発

する情報に応えて、時には購買行動を起こしたりするにしても。概して、一方向的なコミュニ

ケーションであり、その大多数はインパーソナルなものであったろう。

 ところが、個人のウエッブページが増大するに伴い、ウエッブ日記を作成し、公開するイン

ターネットの利用者が増え始めてきたのだという。すると、日記作成者同士が繋がるコミュニ

ティが発生し始めることともなる。

 こうして、インターネットは急速に普及し、インターネットの利用は、さらに高度化し、多

様化していく。山下らによれば、ウエッブログと言う言葉が、わが国に本格的に登場したのは、

2002 年のことであったという。

 インターネットの普及はさらに広がり、ウエッブログの認知度はいっそう高まっていく。ウ

エッブログの持つ社会心理学的意味は誠に大きい。かつては、対人的、対面的に直接何らかの

仕方で既知の人々同士で、人間関係が形成されていたのに、いまや直接的には出会ったことも

なかった人々が、インターネット上で出会い、多様な仕方で活発に情報を交換しているのだ。

すると、従来では考えられなかったような仕方で、人々が交信し合い、交流していることにな

る。すると、インターネット上で、現実には出会わなくても、パーソナルなコミュニケーショ

ンが交わされているのではないか。コミュニケーションの概念に革新が齎されたわけである。

 そして、それに拍車をかけたのが、2004 年度以降一気に広まったウエッブログ連動型の

SNSなのである。(川上善郎氏はある時(2007年8月21日)の偶然のある会話の中で、SNSはウエッ

ブログの一つの進化した形だと言われた。)SNS は「参加者が互いに友人を紹介しあって、新

たな友人関係を広げることを目的に開設されたコミュニティ型のウエッブサイト」と、山下ら

は言う。「参加者からの招待がないと参加できない」と言うシステムになっているのも一つの

特徴である。そうした SNS の一つがミクシィ(mixi)なのである。

 私自身は、以上のような事実を、実は久しく知らないままであった。それが、あることを契

機に、現実にそれに参加することとなり、初めて学習するに至ったのである。したがって、半

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世紀を越す研究者ではあるけれども、このテーマに関する限りは、初歩の新人であるに過ぎな

い。そこで、以下にその間の経緯を述べることにしよう。

Ⅲ.SNSのミクシィでの諸経験― 一事例から

1)入会の契機

 その存在すら漠然としか知らなかった私がミクシィに入会したのは 2005 年 12 月 2 日のこ

とだった。それは卒業論文研究で苦闘していた一学生が、SNS からデータを取ってよいかと、

その応諾を求めてきたことに端を発する。その当時では、恐らく大抵の先生なら、そんな不確

実なソースから、データを取るなど適当でないと許可されなかったかもしれない。調べようと

するテーマに関して、どういう母集団(population)を想定しているのか、その中から、どう

いう標本(sample)にどのようにしてアクセスし、どのような仕方でデータを取ろうとする

のかはっきりしないといけない。インターネット上で、不確実な不特定多数から、データを得

ようとしても、果たしてどれだけ信頼性のある回答を期待できるのか。確かな応答の保証はど

うしてあるのか。協力しくれる人がいると言っても、そういうのは極めて偏ったサンプルでは

ないか等々、慎重を期される指導者側からの懸念の声が聞こえてくるようである。

 しかしながら、私はそうではなかった。たとえ教師といえども、よくその対象の属性を知ら

ずして、安易にいいとか悪いとか言うことが出来ない。それを適切に判断するためには、教師

としていろいろ忙しいとしても、その SNS を知らずにはなるまい。そう判断した。ところが、

その学生が言うではないか。入会には紹介者を必要とする。自分がその紹介者になると。私は

直ちにそれを了承した。こうして入会したのであった。

 その学生は、卒論の進行が遅くなりながらも、それから必死にデータを取ることに懸命になっ

た。苦心して作成した、SNS 上で得られるであろう質問紙の様式を整備し、協力者を募った。

意外なほどの好意的協力者が誠実に回答してくれた。こうして、期日までの日数は最早乏しく

なってはいたけれども、無事卒論の提出に漕ぎ着けることができたのであった。

 その間、私はひたすら、その学生をはじめとする、その年度には十数名の卒論指導学生の進

捗を願い、ミクシィの日記の上でも、たまにごく短く、それを鼓舞する短文を載せるのが精一

杯であった。

2)入会後の経緯

①探索期

 ミクシィがどういう成り立ちなのか。どのような活動がなされているのか。

 どういう人物が入会しているのか、どんなコミュニティがあるのか、などなどを意識して、

いわば探索していたのだった。私自身の ID 番号が 215 万台であるところからも、容易にその

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古畑:インターネットにおけるコミュニケーション考

恐るべき発展振りは窺われた。 

 最初の 12 月に私の記した日記の総数は僅かに 6 回。それも、いずれも数行以内の短文に過

ぎなかった。その間に得られたコメントの総数は 2 つ。3 回に 1 つのコメントしかなかった。

こうして最初の一月は経過した。

 そうこうするうち、全く未知の方からのアクセスもあるようになってきた。 後刻その方に

伺ったところ、その方もほぼ同年輩の方だった。その方は、同年輩の人を求めて検索し、私が

それに該当したからというのであった。

 それとともに、何らかの契機で、私がミクシィに入会したことをご存じになった既知の方の

何人かが、マイミクシィになって下さるようになってもきた。一ヶ月の間に、ミクシィについ

て、少しは見当もつくようになってきた。その時点で、既に非常に好意的・肯定的に捉えるよ

うになってきていた。

②成長期

 年が改まり、ミクシィの何たるかが少しは分かってくるにつれ、私も日記を少しずつ書きだ

すようになってきた。1 月中に書いた日記の回数は 17 回、コメント数は 99 に達した。平均 5.

82になる。2月には22回、コメント数も飛躍的に増加した。1回あたりの平均は11.32になった。

 アクセス数が 1000 に達したのは 2 月 10 日。入会以来 71 日を要した。それまでの平均アク

セス数は、1 日あたり 14.1 となった。

 こうして、少しずつミクシィにも慣れ、何時しか日記を進んで書く場合も生じるようになっ

てきていた。その分量も増加し、内容的にも、ごく表面的なことから、もっと内面的なことに

踏み込む場合も出てくるようになっていた。

 それに伴って、アクセス数も、少しずつ増えだした。アクセス数が 2000 に達したのは、3

月 8 日。1000 のキリ番からは 26 日だった。平均アクセス数は 20.6 にまでなった。

③充実期

 何時しか、私がミクシィに加入していることが漏れ出したのか、マイミクシィにと申し出て

くださる方も少しずつ増えてきた。

 私自身、ミクシィに慣れるにつれ、日記もある程度より積極的に記すようになってきた。1

回あたりの日記の分量も増えてきているようである。3 月になると、日記を書いた回数が 30

回(30 日ではないが)に達したことからも知られよう。ほぼ毎日日記を記すようになって来

ていたのである。アクセス数が 3000 になったのは、3 月 27 日。2000 からは 19 日後だった。

入会後 116 日だった。

 その月のコメント数は 489。1 回あたりの平均コメント数は、16.30 になっている。

 こうして、私はミクシィ加入の 4 ~ 5 ヶ月後には、それ以前には経験したことのない世界に

ある程度は慣れてしまった。当初、到底予測し得なかった状態が現出したのだった。

 アクセス数が 5000 に達したのは、入会後 141 日目であった。

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④安定期

 私は、その間もただミクシィの日記にだけ浸っていたわけではない。現役のフルタイムの教

員として、かつて国立大学に勤務していた頃よりは、授業の持ちコマも遥かに多く、乏しいな

がらも研究活動も停止していたわけではなかった。だから、自ずとミクシィに投入できる時間

は限られている。それでも、凡そ人様に自分の日記を曝すなどとはといった躊躇の念はもはや

失せていた。書くという行為は、自分の中ではある位置を占めるに至っていた。

 しかしながら、その後も、アクセス数は漸増してはいるものの、平均アクセス数は、45 な

いし 50 くらいでプラトーに達し、そこで留まっている。コメント数に至っては、2006 年 10

月までは、一日あたり 10 台ではあったものの、その後はむしろ減少する傾向にすらあり、月

平均でみると、一日あたり 10 台を切る場合も多くなってきている。

 因みに、アクセス数が 10000 に達したのは、2006 年 7 月 13 日、224 日目。20000 の大台に乗っ

たのは、2007 年に入ってからだった。1 月 7 日、402 日目のことである。序でに言うならば、

30000 に達したのは、7 月 5 日、581 日目であった。

 そして、そうした傾向は今に至るも続いていると言ってよいであろう。

 以上、私はミクシィ入会後、自らが日記を記す回数、アクセス数、コメント数といった、表

面的な数値を一つの手がかりとして、極めて暫定的に、自分自身のミクシィでの姿勢を、①模

索期、②成長期、③充実期、④安定期に分けてみたのである。

3)日記へのアクセス・コメントなどの推移

 そこで、ここに、私の日記へのアクセス数の推移、コメント数の推移を 2007 年 6 月までに

関して表記してみよう。以下の通りである。(なおミクシィでの私のニックネームはワコウとした。)

ワコウの日記アクセス数の推移

年月日 キリ番 所要日数 平均アクセス数05.12.02 006.02.10 1000 71 14.106.03.08 2000 97 20.606.03.27 3000 116 25.906.04.21 5000 141 35.506.05.21 6666 171 39.006.05.25 7000 175 40.006.06.08 7777 189 41.106.06.26 8888 207 42.906.07.13 10000 224 44.606.07.28 11000 235 46.806.08.18 12345 260 47.506.09.16 13579 289 47.006.09.23 14000 296 47.306.10.11 15000 314 47.8

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古畑:インターネットにおけるコミュニケーション考

06.10.25 16000 328 48.806.11.07 17000 341 49.906.11.23 18000 357 50.407.01.07 20000 402 49.807.02.12 22000 438 50.207.03.03 23000 457 50.307.03.12 23456 466 50.307.03.25 24000 479 50.1 07.04.12 25000 497 50.307.05.01 26000 516 50.407.05.19 27000 534 50.607.06.03 28000 549 51.007.06.07 28282 553 49.907.06.21 29292 567 51.707.07.05 30000 581 51.6

ワコウの日記コメント数の推移

月 日記数 コメント数 平均数2005 年 12 月 6 2 0.332006 年 1 月 17 99 5.82

2 月 22 249 11.323 月 30 489 16.304 月 25 318 12.725 月 26 378 14.546 月 25 428 17.127 月 26 369 14.198 月 22 428 19.459 月 15 241 16.07

10 月 30 441 14.7011 月 30 299 9.9712 月 23 225 9.78

2006 年小計 323 3966 12.282007 年 1 月 30 256 8.53

2 月 27 298 11.033 月 29 248 8.554 月 30 272 9.075 月 30 341 11.376 月 28 434 15.50

2007 年小計 174 1845 10.60総計 507 5811 11.46

 なお、私は日記へのコメントに対しては、ミクシィに慣れてからは、可能な限りレスポ

ンス(response)をしてきた。それは、コメントを下さった方に対するレスポンシビリティ(responsibility)と信じるからである。普通、レスポンシビリティに対する訳語は「責任(性)」とされているが、私はそれを「応答性」とも称することがある。レスポンスとは、日記へのコ

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メントに対する「応答」だからである。それを蔑ろにしてはならないのである。

4)コメント数の多かった日記の特徴 では、次にコメント数の多かった日記のタイトルを、上位 30 位くらいまでを目処に記してみよう。一体どのような日記が、コメントの書き込みを導き出しやすいのかを考察する一助となるかもしれないからである。

コメント数の多かったワコウの日記

1) 06/09/06 「足あと 7777 人目はこの方です!」 562) 06/09/07 誕生日―誕生祝のサプライズ 533) 06/03/07 「交流オフ会」感謝・感激の一日 524) 10/24/06 コメントを下さった方へ 485) 07/24/06 来場所(9 月場所)私製予想番付 396) 03/08/06 生年をキリ番にするとは―おこがましい 38

7 ⑴) 03/08/06 2000 番の不思議と Responsibility(応答性) 357 ⑵) 08/16/06 「8 月 15 日と南原繁を語る会」を聴く 357 ⑶) 03/29/06 番付編成会議と大相撲ファンのキリ番 3510) 02/28/07 マイミクシィの方々へ 34

11 ⑴) 02/19/06 日本人期待の星:写真アップ 3311 ⑵) 03/05/06 視ることと聴くこと:音楽の場合 3311 ⑶) 03/29/07 土のないところから花が―日陰から『交流』が 33

14) 06/11/06 大相撲最強戦 3115 ⑴) 02/21/06 オルゴールと撫子の会 3015 ⑵) 06/03/06 LUNA さん待望のコンサート 3015 ⑶) 08/21/06 早実の全国制覇 3018 ⑴) 03/04/06 モーツァルトとキリ番 2918 ⑵) 05/17/07 人の情けを知る―『交流』から 2918 ⑶) 08/29/06 大相撲 9 月場所好取組 2921 ⑴) 07/13/06 足あと 10000 人目はこの方です 2821 ⑵) 10/25/06 ひっそりと咲く花―肖像権はないと言わない 28

23) 11/08/06 大相撲 11 月場所好取組 15 番勝負予想 2724 ⑴) 03/10/06 生きがいについて 2624 ⑵) 06/19/06 父の日に―横浜と鎌倉へ 2624 ⑶) 08/02/06 在宅していると・・・3 つのことども 26 24 ⑷) 08/06/06 平和の祈り 2624 ⑸) 08/16/06 死闘―逆転に次ぐ大逆転 2624 ⑹) 10/20/06 プロフィールの写真の差し替え 2624 ⑺) 01/22/07 3 月場所(春場所)予想番付;(付)八百長疑惑報道 2631 ⑴) 05/19/06 改名届け:加賀錦桜丘 2531 ⑵) 09/14/06 旅行中からの一言 2531 ⑶) 05/10/07 瓢箪から駒 ―『交流』から「交流オフ会」へ 25

 このことから、何が看て取れるであろうか。

 先ず、私自身の日記の傾向であろう。他の多くの方々と同様、私もまた、このミクシィ上で

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古畑:インターネットにおけるコミュニケーション考

日記を公開するということは、先ず自分自身が、自らの経験なり、乏しくとも思索の結果など

を、顕わにすることを意味するであろう。ということは、その日記の読者を、少なくともある

程度は予期しているのでもあろう。もちろん、こんな年齢の老人だ。今更、他者を意識しての

発言だったり、綺麗ごとを並べ立てたり、誇張したり、言いつくろったりすることなどはして

いないつもりだ。感じたこと、思ったこと、行ったことなどを、ある程度選択的に記している

に過ぎない。読まれようと、読まれまいと、書きたいこと、言いたいこと、主張すべきと思う

ことなどを、日記に記しているつもりだ。その意味では、自己表現、自己開示でもあるだろう。

 とは言え、他者を全く意識していないかと問われれば、それを否定することも出来ないであ

ろう。他者に阿るようなことはしていないつもりではあるけれども、だからと言って、読者を

全く想定していないわけでもない。マイミクシィの方々を初めとして、それ以外の振りの方々

をも含めて、漠然とではあっても、読者を想定しているのかもしれない。その意味では、他者

への情報の伝達でもあり、情報や知識の共有を求めている部分もあるのかもしれない。

 そういうことを前提として、この 33 ばかりの日記のタイトルを見てみると、大きく、大ま

かに分けて、7 種類くらいに分けることが出来るかもしれない。

 必ずしも截然と分けられるわけではないが、便宜的に原則として、そのいずれかに入れた。

ただし日記に 2 つ以上のテーマを記している場合もあるのだが。

a. ミクシィ上でのマイミクシィへの報告

  1,2,6,7 ⑴,18 ⑴,21 ⑴,24 ⑹,31 ⑴など

b. 後述するように、『交流』関連のもの

  3,4,10,11 ⑶,18 ⑵,21 ⑵,31 ⑶など

c. 趣味として掲げた大相撲関係のもの

  5,7 ⑶,11 ⑴,14,18 ⑶,23,24 ⑺など

d. 趣味として掲げた音楽関係のもの

  11 ⑵,15 ⑵,18 ⑴など

e. テレビなどを賑わせた話題についての所感

  15 ⑶,24 ⑸など

f.生き方などに関する所感など

  7 ⑵,24 ⑴,24 ⑷など

g. 日常雑記の中から

  15 ⑴,24 ⑵,24 ⑶,31 ⑵など

(なお 18 ⑴は 2 箇所でカウントした。)

 それを、今度はコメントしてくださった方の立場から、一瞥してみよう。

 一般に、日記の読者は、アクセスはしても、したがって一応読みはしても、コメントを書き

込むまでには至らないことが多い。それは時間もかかるし、多少なりともエネルギーを費やす

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行為でもあるからだ。敢えて書き込むのには、多少なりとも決断が要る。しかも、余りにも急

速なミクシィの発展だ。当然それぞれの方に、マイミクシィが増えてきているであろう。いち

いち他人の日記などを読む暇もない方がむしろ自然だ。

 それでもなお書き込むのは、関心のあるテーマ、タイトル、トピックスだからであろう。関

心があるのは、どうしても共通の関心事だ。およそ経験したことのないことについては、滅多

に書き込んだりはしない。例えば、私自身にとっては、学会のこと、あるいは勤務先での教育

のことなどは、大いなる関心事だ。しかしながら、そうしたことの多くは、読者にとっては、

余り直接的には経験したことのない、したがってまた、どうでもよいような類の話題だ。それ

故、そういうテーマに記した場合には、当然のこと、コメントも少ない、ないしはゼロに近い。

コメント数上位には出てくるはずもないのだ。

 そうしてみると、敢えて、コメントを書くという積極的、能動的行為は、読者にとっても関

心のある、共通の関心事であり、その中で、興味・関心を抱いたものと言うことになるであろ

う。タイトルの題目ないし内容だけではなく、その日記の書き手への、何らかの関心もあるの

かもしれない。直接経験しないことには、実感が湧かなくて当然であろう。

5)マイミクシィの大凡の属性

 それでは、一体どのような人がマイミクシィになっているのであろうか。ミクシィは招待制

であることは既に述べた。ということは何れかが,申し出、他方がそれを承諾し、受け容れる

形式になっている。私自身は、2, 3 の方の紹介者になったことはあるけれども、年長者でもあ

るので、自分から申し出ることは先ずなかった。その代わり、そのプロフィールをみて、全く

合いそうにないと思う方以外は、原則として、受け容れるようにしてきた。1,2 ミクシィを

退会された方および、申し込みの意図が不明の方以外は、マイミクシィであり続けてはいる。

 そこで、Ⅰ.入会後約半年余(06 年 5 月 28 日)と、Ⅱ.入会後 1 年半余(07 年 7 月 1 日)

の時点での簡単な比較を試みた。

 それが、次の表に示すとおりである。

ワコウのマイミクシィの大まかな属性

Ⅰ(06.5.28) Ⅱ(07.7.1)

*マイミクシィの人数 36 77(内訳)・男 16(44.44%) 36(46.75%)

・女 20(55.56%) 41(53.25%)*知己の程度 Ⅰ Ⅱ

・以前からの知己 3( 8.33%) 13(16.89%)・ある程度の知己 6(16.67%) 22(28.57%)・1, 2 度の面識 9(25.00%) 16(20.78%)・未面識 18(50.00%) 26(33.77%)

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古畑:インターネットにおけるコミュニケーション考

*知己の領域 Ⅰ Ⅱ

・専門・仕事上 8(22.22%) 13(16.89%)・学生・院生・卒業生 8(22.22%) 22(28.58%)・趣味の大相撲関連 7(19.44%) 13(16.89%)・趣味の音楽関連 5(13.89%) 9(11.69%)・友人・知己 2( 5.56%) 8(10.39%)・親戚 0(―――) 3( 3.90%)・その他 6(16.67%) 9(11.69%)*年齢層(含む推定) Ⅰ Ⅱ

・70 歳代以上 4(11.11%) 6( 7.79%)・60 歳代 5(13.89%) 8(10.39%)・50 歳代 3( 8.33%) 16(20.78%)・40 歳代 8(22.22%) 15(19.48%)・30 歳代 8(22.22%) 9(11.69%)・20 歳代 8(22.22%) 20(25.97%)・10 歳代 0(―――) 3( 3.90%)

*コメントされる程度 Ⅰ Ⅱ・よく 6(16.67%) 5( 6.49%)・ときどき 12(33.33%) 15(19.48%)・たまに 6(16.67%) 40(51.49%)・なし 12(33.33%) 17(22.08%)

 マイミクシィの人数は、Ⅰ.36 人、Ⅱ.77 人であるから、2 倍強になっている。その男女比は、

幾分か女性の方が多いが、その比率は同様のままだ。

 次に、知己の程度に関しては、Ⅰ.では全く未面識の人が半数を占めていたのに、その後、

私が入会していることが判明してきて、それにつれて既知の方が半数近くに達するようになっ

た。

 では、マイミクシィはどういう領域の方が多いのか。入会当初、自らの趣味を大相撲とクラ

シック音楽と、プロフィールでも揚言し、そういう日記も書いてきていたこともあったので、Ⅰ.

の時点では、その関連の方の比率が相対的には高かった。けれども、例えば大相撲関連でマイ

ミクシィになられた方の多くは、私の日記の内容が必ずしも大相撲のことにだけ限定されてい

るのではないことが分かって、次第に離れていかれた方も多いようだ。

 Ⅱ.の時点になると、それよりは、かねてからの友人・知己や、少数にせよ親戚などもマイ

ミクシィに加わるようになった。学生からの申し出もやや増加している。

 年齢別に見ると、元々 70 歳代から 20 歳代まで、相対的に幅広い年齢層の方がおられたが、Ⅱ.

の時点では、学生の中にマイミクシィを希望する者が出てきたこともあり、最年少は 19 歳に

まで下がり、20 歳代の比率もやや高まった。反面 60 歳代以上の方の比率はやや減少している。

社会で働き盛りの50歳代の方が、マイミクシィになられるケースもやや増えているようである。

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 最後に、マイミクシィの中のどの程度の方がコメントされるかをみておこう。

Ⅰ.の時点では、ある程度以上コメントされる方の比率は、約半数を占めていたのに、Ⅱ.の

時点になると、そういう方は約 4 分の 1 に減少している。アクセスはされても、コメントにま

では至らぬ人の比重が高くなっているようである。それは、猛烈な勢いでミクシィ加入者が増

大し、2007 年 3 月には、何と 1000 万人の大台を突破したとのことであるから、いちいち個別

の日記に向けられるエネルギーは減って、むしろ当然でもあろう。その間、しかし、ずっとア

クセスされ、よくコメントをし続けてくださるごく少数の方がある。その存在には感謝の念を

抱いている。(2007 年末までには、会員数は 1240 万人を越えている由である。)

 なお、念のためⅠとⅡの 2 つの時期とコメントの程度との関係につき x² 検定を試みた結果

は次の通りである。x² = 13.29、3df、p<.004、ごく大雑把には、Ⅰの時期よりもⅡの時期で、

コメントする程度が減少していると言えよう。

 以上、数字の上でみることが出来るような比較的表層的な属性について、鳥瞰してみた。実

は、もっと内面的な分析が必要なのではあろうけれども、それについては他日を期したい。

Ⅳ.『交流:既知と未知を超えて』の誕生

1)『交流』への道程

 こうして、私はインターネットを使用するようになったのも遅いのだが、ましてその中の

SNS のミクシィの存在についてすら知ったのもきわめて遅かった。そうであるにも拘わらず、

ミクシィを通して、インターネット上で、ある程度の人数の方と交信するようになってきたの

だった。もっとも、無数に存在するコミュニティには、その2,3にごく形式的に参加しただけで、

実質的には、そこでは何一つ活動しているわけではない。専ら、ミクシィでの日記を記し、そ

れにコメントしてくださる方には、原則としてレスポンスをするようにしている、そういう形

でのコミュニケーションであるに過ぎない。

 そうこうするうち、2, 3 のマイミクシィの方から、この日記を印刷に付してみてはどうか、

そうして欲しいとの希望ないし要請を受けるに至った。日常身辺雑記のような日記として公開

してはいるにしても、果たして、印刷に付す意義はあるのだろうか。また、印刷に付するとし

ても、一体読者はいるのだろうか。またその準備にどれくらいの時間やエネルギーを注入しな

くてはならないのか。全く見当のつかないことばかりである。それに、日記だけではなく、そ

れに付随して、貴重なコメントや、それに対する私のレスポンスもある。日記には、私の著作

権はあるだろうけれども、マイミクシィなどによるコメントについてはどうか。

 それらを考慮して、マイミクシィの方々の意向を聴取したのは、2006 年 10 月下旬のことだっ

た。比較的少数の積極的賛成、大多数のやや消極的賛成が得られた。その中で、一人だけでは

あったけれども、異議を差し挟まないという形での異議もあった。たとえ一人でも反対の方が

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古畑:インターネットにおけるコミュニケーション考

おられるなら、それを敢えて実行に移すこともないかとも思った。

 だが、ある意味では、これは、インターネットを通してのコミュニケーションについての、

一つの具体的事例ではないか。もとより、一特異的事例から、一般化することなど到底不可能

ではあるにしても。こうして、結局、印刷に踏み切ったのであった。今までなら、書物ないし

論文を執筆する際、その内容にこそ責任は持っても、その編集・印刷・造本・刊行・送付のす

べてをただ一人でするのは、それこそ全く初めての試みだった。

 こうして、2006 年 12 月末までの日記を、『交流:既知と未知を超えて』として刊行したのは、

2007 年 3 月末のことであった。B5 版 860 ページにも及ぶ大部のものであった。しかも、日記

本文は9ポ、コメントとレスポンスは8ポと言う、ぎっしりと詰まったものにせざるを得なかった。

 コメントをされた方の中で、希望するすべての方に差し上げることにした。また旧来からの

知己・友人には、近況報告にでもなればとて、贈呈したのだった。

2)「交流オフ会」の実現

 すると思わぬ反響もあった。この『交流』を媒介として、ミクシィ上での交信だけではなく、

有志で現実に、実際の交流の集いをしたい、との声もあがった。そのためだけの、コミュニティ

までも立ち上げてくださった。それに集った方は総勢、私自身をも含めて15名だった。私自身、

そこで初めてお目にかかったのが 3 人。一、二度しかお会いしたことがなかった方も 2,3 お

られた。

 また、私中心に集まったので、お互い同士それまで、ミクシィ上のニックネームでしかご存

じない方々が大多数だったであろう。それが、お会いすると、いずれも恰も旧知のように和気

藹々と談笑できた。到底、大多数が初めての顔合わせとは思われないようであった。不思議と

もいえる経験だった。

 ミクシィの日記上では、私は既知と未知如何に関わらず、交流してきていたつもりではあっ

た。だが、こういうオフ会が実現してみると、未知が既知へと一変した。未知というよりは、

未面識というべきであったかもしれないが。

 そうしてみると、既知とか未知とか、既成概念だけで人を識別していたのでは、このインター

ネットの時代、時代遅れになる怖れもあるのではないか。もっと積極的に、こういう交流にも、

その意義を感じてもよいのではないか。

 私の日記の中でも、先述のコメント数の多かった日記には、その『交流』の計画段階から、

準備段階、その刊行、その「交流オフ会」に関わる日記が、相対的に多く含まれている。 

 この交流オフ会には賛同されながら、当日予定が既に組まれていたために、参加できない方

もおられた。未だに、その方とは未面識である。けれども、昔からの友人・知己と以上に、イ

ンターネット上では出会っている。お互い同士、現実にはお会いしていなくても、ある程度理

解可能にはなっている。そういう付き合いもあるのだ。

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3)他のオフ会の例

 このインターネット上での出会いから、いわゆるオフ会へと発展するケースはいくらでもあ

るらしい。私自身は、平素忙しくしているから、そのような時間的ゆとり、余裕はない。

 それでもなお、次のような経験をしたことがある。それは、どういうルートからだったか、

ドイツに留学中の声楽家の方と、その夫人のチェリストの方がマイミクシィになられた。その

お二人が昨年 6 月、一時帰国されることになった。何人かのマイミクシィの方の中の積極的な

方々が幹事役を引き受けてくださり、その小さな演奏会が実現に至った。もちろんのこと、私

自身はそのお二人に現実にお会いするのは初めてだった。けれども、その場合にも、まるで旧

知であるかのように、暖かい雰囲気の中で、演奏会も、二次会も持たれた。

 しかも、その場限りのことに留まらなかった。その東京芸大ご出身の音楽家は、5 年間に亘

るドイツ留学を終えられて、去る 8 月帰朝された。すると、今度は、そのオフ会のときのメン

バーのお一人が、ご自分の主催なさる音楽教室にそのお二人を招待され、9 月早々には、コン

サートが実現した。 私もそれに馳せ参じた。こうして、交流の場は、ネット上から、現実の

場へと広がっていく場合もあるのだ。

Ⅴ.終わりに― 21世紀におけるコミュニケーションのあり方についての示唆 

 以上、我々はインターネット上でのコミュニケーションを、より具体的には、SNS の一つ

ミクシィにおける交流を通して見てきた。21 世紀は誠に目まぐるしい。進歩・変転が実に急

速だ、劇的だ。

 恐るべき無数の情報が飛び交い、情報の洪水の真只中で生きている。ともすれば、インパー

ソナルになりやすい。自分が生きていくので精一杯だ。他者の事を顧みる心理的余裕も乏しく

なりつつある。

 けれども、インターネットを介して、人と人との新たなつながりも構築されつつある。無数

の情報源が、自らの利益を上げることのみを目指して、不特定多数の受信者に、情報を発信し

ているだけではない。もちろんそれもあるだろう。だが、受信者とて、その情報を選択的にキャッ

チして、それから多くの利便を蒙ってもいるのでもあろう。

 そういったこととは別の次元で、実はパーソナルなコミュニケーションも、インターネット

上で展開しつつある。かつてであれば、対人的・対面的コミュニケーションが、コミュニケー

ションの主流だった。現在とてそうではあろう。

 けれども、現実には対面していなくても、コミュニケ-ションが可能であることを、私自身

をまな板の上に乗せて、見てきた。もとより、それは飽くまでも特異的な一事例でしかないの

は、先刻見たとおりである。

 だが、従来であれば、直に対面できぬ場合には、時間をかけて、郵送の手段で、交信がやっ

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古畑:インターネットにおけるコミュニケーション考

と可能であったのに、今や電子メールを通して、世界中何処とでも、瞬時に交信が出来るよう

になっている。従来であれば、生涯出会うことのなかったであろうような人たちとも、インター

ネットを通して、殊に SNS のミクシィなどを通して、容易に交信できている。しかも、決し

てインパーソナルにとは限らない。

 パーソナルなコミュニケーションがインターネットによっても可能な時代がまさに既に到来

しているのである。

 それをミクシィにおける日記と、それに対するコメント、さらにはそれへのレスポンスを通

してみてきたのである。

 だが、無際限に、その効用ばかりを称えてはなるまい。

 先ず、自分自身が自己開示をする際、虚偽があったり、欺瞞があったり、隠蔽したり、誇張

したりしてはなるまい。あくまでも誠実であることが求められる。それは、本来絶えざる精進

の道であるはずだ。

 また、相手の立場に立つ努力は必須である。相手を信頼し、尊重し、敬愛して対する基本的

姿勢がどうしても必要であろう。相手を、自分の利益を得るための手段としてのみ見做すよう

なことがあれば、平素は顔を見合わせることがないだけに、相手の損失においてのみ、自己の

利益を図るということにもなりかねないであろう。

 相互信頼を基調にした、知・情・意に跨る基盤構築の努力は、如何に強調しても、強調しす

ぎることはないのである。

 私は、自らの経験を通して、限られた一事例を述べたにすぎないけれども、実は 21 世紀に

おけるインターネットを通しての社会心理学的研究へのテーマが幾つも示唆されてもいるので

ある。若い力が台頭して、それを組織的・体系的に推進していかれることを切に願って、この

小さなエッセーの筆を措く。

*参考文献

・古畑和孝(2003)コミュニケーションにおける基本的視点.「教育と医学」(慶應義塾大学

  出版会)51 巻,9 号,pp. 2-3.

・古畑和孝(2007)『交流:既知と未知を超えて―ワコウの日記から―』(860 pp.)

・ジョインソン,A.N.(三浦麻子・畦地真太郎・田中敦・訳)(2004)『インターネットに

  おける行動と心理』北大路書房.

・三上俊治・橋元良明・遠藤薫・石井健一・金相美・小笠原盛浩・北村智(2005)『インターネット

  の利用動向に関する実態調査・報告書』独立法人 情報通信研究機構.

・山下清美・川浦康至・川上善郎・三浦麻子(2005)『ウエッブログの心理学』NTT 出版.