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Title スウェーデンにおける多文化理解のための教育 : ヨテボ リ市の若者のナラティブの分析から( fulltext ) Author(s) 塙,万里奈; 浅沼,茂 Citation 東京学芸大学紀要. 総合教育科学系, 67(1): 9-19 Issue Date 2016-02-29 URL http://hdl.handle.net/2309/144595 Publisher 東京学芸大学学術情報委員会 Rights

スウェーデンにおける多文化理解のための教育 : ヨテボ · スウェーデンにおける多文化理解のための教育: ヨテボリ市の若者のナラティブの分析から

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Title スウェーデンにおける多文化理解のための教育 : ヨテボリ市の若者のナラティブの分析から( fulltext )

Author(s) 塙,万里奈; 浅沼,茂

Citation 東京学芸大学紀要. 総合教育科学系, 67(1): 9-19

Issue Date 2016-02-29

URL http://hdl.handle.net/2309/144595

Publisher 東京学芸大学学術情報委員会

Rights

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*1 東京都葛飾区立上平井小学校(124-0025 東京都葛飾区西新小岩4-22-1)*2 東京学芸大学 教育学講座 学校教育学分野(184-8501 小金井市貫井北町 4-1-1)

スウェーデンにおける多文化理解のための教育:

ヨテボリ市の若者のナラティブの分析から

塙   万里奈*1・浅 沼   茂*2

学校教育学分野

(2015年 9 月19日受理)

1.背景

 国際的人口移動が活発化する中,社会において多様な価値観をもつ他者との共生が必要とされている。異なる他者を理解し,受け入れることは教育においても求められている。しかしながら,他者への受容や寛容を教育の目標として掲げ,方策を考える前に,他者を受け入れる営みの複雑さについて今一度立ち止まって熟考する必要があるのではないだろうか。 他国から人を受け入れ,国内の文化的多様性が増している状況は,スウェーデンにおいても例外ではない。スウェーデンでは,本人又は両親が外国を背景にもつ人口の合計が,1994年には12.9%であったのに対し,2013年では20.7%にまで増加している 1 。また,ヨーロッパ諸国における2013年度の国内総人口に占める外国を背景にもつ人口比率を比較すると,フィンランドは3.7%,デンマークは9.6%,フランスは12.6%,イギリスは12.9%,ドイツは16.4%であることに対し,スウェーデンは16.8%の割合を占めている 2 。そして国外から人を受け入れ続けながら多文化社会を急速に形成している状況は,教育のあり方にも反映されている。スウェーデンのナショナルカリキュラムを概観すると,「他者のもつ価値観や状況への理解」,「文化多様性の理解」また,「生活の状況,文化,言語,宗教,歴史についての共通性,相違性についての知識にもとづいて他者と関わることができる」ことについて言及されている 3 。より具体的に社会科のカリキュラムを見てみると,「人の移動や文化交流に関わること」「五大宗教の内容,宗教の役割,重要性に

関すること」「ジェンダーやマイノリティ等の人権をめぐる問題に関わること」を通して多文化理解を育むことが意図されている 4 。 教育において文化的多様性を尊重し,共生を志向する意図が見られるスウェーデンであるが,近年の政治的状況は揺れ動いている。それは多くの政党が多文化協調路線をとる中で,移民排斥を唱える政党が得票率を伸ばしている点である。スウェーデンには,移民の受け入れを文化,犯罪,高齢者福祉などさまざまな論点と結び付けて批判をしているスウェーデン民主党(Sverigedemokraterna)と呼ばれる政党がある 5 。2010年の国政選挙において得票率が5.7%であったスウェーデン民主党は,2014年の国政選挙ではさらに得票率を12.86%にまで伸ばしている 6 。既存の政党が多文化協調路線を掲げる中で,移民の受け入れを問題視し,自国の文化の保守を主張する政党が影響力を強めていることは,スウェーデン社会における大きな転機といえよう。このように移民の受け入れや共生と向き合うことに関して過渡期にあるスウェーデンにおいて,異なる他者への受容や寛容がなぜ困難であるか,検討することは非常に興味深いといえる。そこで本研究ではまず,「文化」を民族性,人種,階級,宗教,経済,ジェンダーを広く含むものと捉える。その上で,集団に限らず個人間における自分と異なる他者の理解,受容,寛容を目指す教育を「多文化理解のための教育」と定義し,その困難さについて焦点をあてることとする。 ここで本研究の目的をより具体化するため,多文化理解のための教育の理念について議論の整理を行う。

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東京学芸大学紀要 総合教育科学系Ⅰ 67: 9 - 19,2016.

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スウェーデンにおける議論ではこれまで,理念には「複雑性」や「矛盾」が含まれている点,「文脈の把握」が必要とされている点が指摘されてきた。 まず「複雑性」に関しては,多文化共生を目指した理念には,民族性,道徳性,アイデンティティといった多様な要素が影響しており 7 ,教室は,個人のもつ多様な背景に起因して生じる複雑な価値,権利,平等性についての事柄にあふれていることが指摘されている 8 。多文化共生を目指した教育を検討する上では,抽象的に語られた理念を単純化して捉えるのではなく,上述の「複雑性」を考慮することが重視されている 9 。 次に,多文化共生を目指す理念に「矛盾」が含まれることに関して,教育現場においては解決の難しい権利や価値の対立,矛盾があることが指摘されている10。この「矛盾」について,Orleniusは寛容という言葉を用いて次のように説明している。

   寛容,すなわち,多様性を認めることは,すべての人にとって平等で,唯一無二の価値という道徳的な原則を前提としている。しかしながら,寛容とは自分が賛成していない考えをも認めることであるため,この言葉には内的な矛盾が含まれることになる11。

 このような対立,矛盾する状況を,教育の現場でいかに扱っていくかは決して単純なことではないだろう。 上述の,多文化共生を目指した理念に含まれる「複雑性」や「矛盾」をふまえ,多文化理解を進める上での困難が指摘されている。具体的な課題としては,「どの程度の多様性なら受け入れることができるのか」12,「教師は,教室におけるジレンマや複雑性をいかに扱うべきなのか」13,「宗教的な生き方は,非宗教的な生き方から理解されうるのか」14 といった疑問が挙げられている。これらの課題に取り組んでいく上で,議論の中では「文脈の把握」への必要性が注目されている。 「文脈の把握」の必要性については,教育の場では,信念,利害,価値といったものが実際の環境やコミュニケーションの中に依存しており15,状況によって異なる配慮が必要とされていることを前提としている16。その上で,教師が教育の場の文脈においていかに考え,判断し,行動しているかに着目する必要性や17,学習者が異なる人を理解できるようにするためには,実際の文脈に即した道徳的,政治的問題に参加

し異なる信念の間で葛藤する必要があることが述べられている18。そして,文脈における個人の解釈や判断を把握するためには,個人の内面で生じている思考の流れを浮かび上がらせることが必要とされる。 先行研究においては,多文化理解の理念に内包される価値に関して,教師や学習者を対象とし「文脈」を把握することが試みられてきた。その中で,価値が個人のもつ背景や経験によって多様に形成されているという「複雑性」に関しても指摘されてきた。しかしながら,議論で指摘されていた「矛盾」については十分に提示されてきたとは言い難い。 そこで本研究では,スウェーデンのヨテボリ市における20代,30代の若者を対象とし,多文化理解に関していかなる困難さを経験しているか,そしてどのような矛盾が見いだせるかを,ナラティブ・アプローチによって明らかにすることを目的とする。

2.方法

 調査は,2014年 7 月から2014年10月にかけて行った。調査対象者は,ヨテボリ市在住の20代から30代にかけての若者21名であった(表 1)。その内,男性は14名,女性は 7名であった。20代から30代の若者を対象とした理由は,学校における自身の経験を客観的に振り返り,且つ学校における記憶をより鮮明にたどることが可能な年代層と判断したためである。 調査方法は,ナラティブ・アプローチを用いた。その理由は,ナラティブ・アプローチは個人が経験の中で出来事を解釈する様相を捉えることに強みをもつことから19,教育の意図や個人の内面における葛藤を明らかにする上で有効と判断したためである。インタビューの手順は以下の通りである。まず,インタビュー参加者に,研究主旨と質問内容の説明を行った。次に,調査内容に関する質疑応答を行い,用語の確認,不明瞭な点の確認を行った。そして,ICレコーダーによる録音の許可を得た後,インタビューを開始した。 インタビューでは,はじめに「学校での経験についてお尋ねします。多文化理解に関する学びと聞いて,一番はじめに思い浮かぶことは何ですか。」と尋ねた後,以下の項目を含むようにインタビューを進めた。なお,インタビューは,状況や話題に応じて補足的な質問を加えながら進行した。

―多文化理解に関する教科,教育的活動, トピック,クラスメイトについて

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―多文化理解に関する学びの経験から感じ たことについて―自分の見方が変わるきっかけとなった経 験について―他者のことを理解する難しさを感じた経 験について

 インタビューに要された時間は,1人当たり 1時間から 1時間半程度であった。なお,ナラティブデータの分析は以下の手順により行った。まず,インタビューの音声データより,原語(英語)によるトランスクリプトの作成を行った。次に,使用箇所のデータについて日本語訳を行った。そして,トランスクリプト及び日本語訳を基に,内容項目の整理を行い,多文化理解をめぐりいかなる価値が対立しているか,対立している価値の内実を明らかにするという視点で分析を行った。

3.多文化理解に関する困難さの経験

 それでは実際に,スウェーデンの若者は多文化理解に関してどのような困難を感じた経験があるのだろうか。ナラティブの分析からは,授業場面や人とのやりとりにおける困難さの経験が見出された。

3.1 「スカーフをつける理由を理解する」 多文化理解が困難である際,そこには各々が重視している異なる価値が存在している。その一例はEllen

のナラティブに見られる。Ellenが基礎学校20 にいた頃,はじめにできた友達は,フランス語の授業で出会ったイスラム教徒の女の子であった21。彼女はスカーフをまいており,Ellenはその行為を興味深く思っていた22。次第にEllenは彼女と互いの文化について話をするようになる。その中で二人は,宗教的な信条についての話に至った。

   私たちは,宗教について何を信じているかということを話しました。私は神様を信じていなくて,彼女はそのことをとてもショックがっていました。なぜかというと,彼女にとって私がキリスト教徒であった方がよりよいだろうと考えていたからです。私が何も信じていないことを,彼女は理解しがたいようでした。彼女はイスラム教徒でしたが,それでも私がキリスト教にせよ何にせよ信じる方がいいと考えていたのです。何かを信じることは,何も信じないことよりもいいという見方は面白いと思いまし

た。彼女はこんな風に言ったんです。「あなたは何も信じていないの?何も?」そして私はたしかこう答えたと思います。「私は,自分のことや人のことを信じることがとても辛い時期があったの。」彼女とはこのような興味深い会話が沢山ありました23。

 イスラム教徒である彼女は,Ellenの見方を尊重した上で,Ellenの考えを変えようと何度も試みを行ったという24。宗教を信じているEllenの友達にとって,何も信じていないEllenは理解し難い存在であることがうかがえる。そしてEllenの友達は,何か宗教を信じることが,自分にとってよい,正しいと思っている信条であるが故に人にも勧めたい思いがある。しかし,Ellenにも宗教を信じないことには理由があった。Ellenは自身の過去の経験で人を信じることが辛い時期があったのである。Ellenと友達は,各々の個人的信条に触れるような深いやりとりを重ねている。 自身の宗教的信条について尋ねられたEllenは逆に,彼女がスカーフをつけている理由を尋ねた25。それは当時彼女は,学校でスカーフをつけている唯一の人物であったためである26。彼女の妹も同じ学校に通っていたが,妹はスカーフをつけていなかった27。彼女の答えを聞くと,彼女は親に言われたわけではなく自分の意思でスカーフをつけることを選んでいた28。Ellen

にとって,彼女がなぜスカーフをつけているかについて話すのはとても面白いことであった29。彼女は,スカーフをつけることはパーソナリティの一部であり,そうすることが彼女にとって正しいことだと考えていたのだ30。Ellenは彼女との出会いを通して,自分の変化の見方を感じている。

   以前の私はイスラム教徒の人と話し,イスラム教について,どうしてスカーフをするかについて話す機会が全くありませんでした。そのため,彼女に出会う前の私は,視野がとても狭かったと思います。私は,イスラム教徒の人は皆,強要されてスカーフをつけているのだと思っていました。私はなぜ彼女がそうする(スカーフをつける)ことを選んだのか理解できませんでした。私は未だに,なぜ彼女がそうすることを選んだのか理解できません…彼女にその気持ちを変えてほしいとは思わなかったのですけれど31。

 Ellenは彼女と出会い会話をすることによって,イスラム教徒の女性がスカーフをかぶる理由について広い視野で捉えられるようになったという。以前の

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塙・浅沼 : スウェーデンにおける多文化理解のための教育

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Ellenは,イスラム教徒の女性は強要されてスカーフをつけていると考えていた。しかし実際には,スカーフをつけることに理由があり,個人の選択の基にその行為がなされていたのである。しかしEllenはスカーフをつける理由そのものについては理解ができなかったと語っている。

   私にとって,なぜ女性がスカーフをしなければならないのか理解するのは難しいです。未だにそのことがよくわかりません。…私はそのことを尊重していますが,よくわかりません。それは女性が男性がしなくてよいことをする,女性が何か特別な事を表現しなければいけないという価値なのだと思います。それがジェンダーに基づいているので私は理解できません32。

 Ellenが,スカーフをつける理由を理解できない訳は,スカーフをつけるという行為がジェンダーに基づくという点にあった。Ellenの重視している「男女平等」という価値は,女性である故にスカーフをつける行為と衝突し合うことが読みとれる。ここでは,相手の価値を「尊重」することには,必ずしも「理解」が伴うものではないことがわかる。互いに話を聞き合っても,価値そのものが相容れない場合には理解が難しいのである。 各々が重視する価値を有していることは,生徒同士だけでなく,教師もまた同様であろう。教師のもつ価値が授業場面に現れている例としては,Mikeのナラティブが挙げられる。

3.2 「キリスト教徒の先生の授業への思い入れ」 教師のもつ価値が授業場面に影響を与えていた例として,Mikeはキリスト教を信じる教師に宗教を習った経験を語ってる。 Mikeはまず語りの中で,これまでに宗教を教わった教師たちのことを思い浮かべ,教師が個人的に宗教を信じていたかどうかで比較をしている。Mikeが小学校の前半に宗教を教わっていた教師はキリスト教徒であり,小学校後半,中学校の宗教の教師は無神論者であった。

   俺はスウェーデン人しか住んでいなかった地域の小学校に通っていたから,特に(小学校の)前半は先生がキリスト教徒になってたの。俺はそうじゃないけど。だから,宗教の授業が…何回もあったんだよね。(中略)だから 1年から 3年は宗教の授業が

すごく多くて,逆に後半に入ると,たぶん 5年生のときに少しやったって感じ。すごい少なかったんだよね。ほとんどゼロに近い。中学に入ると,1年間だけは集中してやったって感じ。外国の宗教を。なんでかというと,キリスト教徒でなくても,結構キリスト教についての知識がある人がいるから,別に知っていることを勉強しなくてもいいじゃんって思っている先生が多いと思うんだよね33。

 Mikeの経験では,教師が何らかの宗教を信じているかどうかで,宗教の授業の扱われ方が様々であった様子がうかがえる。また,キリスト教の扱いについては,キリスト教はスウェーデンの国教となっている宗教のため,あえてその他の宗教について学ばせようと考える教師が一定数いることがわかる。一方で,1年生から 3年生の頃のキリスト教徒の教師については,授業の内容は次のようであったという。

   聖書。なんだろう,聖書をやりながら倫理についての授業とか。(中略)倫理,聖書,あと賛美歌。音楽という名前の授業で,キリスト教の曲を歌うパターンが多かったかな34。

 キリスト教徒の教師による授業は,キリスト教に関わる内容が多く含まれていた。このMikeの経験から,教師自身が信じている宗教的価値が授業内容に影響を与えていたことが推察される。キリスト教を信じる教師にとっては,自身の根幹をなし,重きを置いているキリスト教にまつわる要素を,授業に取り入れたい志向があったのであろう。そしてMikeは,その教師による宗教の授業において,キリスト教を勧める素振りがあったかどうかを次のように振り返る。

   なんだろう。直接入信してくださいってわけでもなかったんだけど。そういう言葉にすると,単刀直入に,先生からそういう言葉づかいがあったら間違いなく問題になるから,たぶん(先生は)それを言いたかったのに言えなかったのね。できるだけ言葉を使わないまま,宗教とかを教えていたかと思うんだよね35。

 キリスト教徒であった教師の授業には,授業内容においてキリスト教への偏りが見られたことから,教師の宗教的価値が影響していたと捉えられる。一方で,教師は直接的に自分の信条を生徒に勧めていなかったことから,教師が授業における公平性を意識していた

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ことがわかる。Mikeの認識としては,キリスト教徒の教師による授業はキリスト教に偏るものであったと捉えられている。しかしながら,教師は自身の宗教的な価値を伝達したい思いと,教師として必要とされている公平性への意識の間で葛藤しながら努力していたことがうかがえる。

3.3 「宗教のディスカッションをめぐる緊張感」 特定の宗教を信じる教師がいる一方で,宗教への信仰心が強くない教師の場合は,授業においていかなる様相が見られるのであろうか。Mikeは,宗教への信仰心が強くない教師の授業において,次のような緊張場面の経験があるという。Mikeの高校の授業ではディスカッションを行う機会が多かった。Mikeはその中でのあるディスカッションの風景を次のように振り返る。

   エピソードでいうと,宗教の先生が一回,「このクラスにはキリスト教徒がいますか?」って聞いたの。(中略)学生がびっくりしすぎて,最初はだれも回答しなかったの。「え,一人もいないの?」と先生が聞いて,勇気をだして,2人が手をあげたのね。30人のクラスに 2人しかいなかったのね36。

 Mikeの教師は宗教に関する個人的信条について,直接的な問いかけを行った。それに対して生徒たちは驚いていたと,Mikeの認識では捉えられている。Mikeは生徒どうしのディスカッションの展開についてこう続ける。

   すごいなんか,無神論者から「え,どうして神様信じてるの?」とリアクションがあったのね。宗教が理屈に基づいているわけではないというのがほとんどかと思うから,簡単に回答できないし…(中略)すごいなんか社会人でも解決できない問題だね。先生もさ,学生のリアクションについてびっくりしたかと思うんだよね。(中略)先生はどっちかというと,キリスト教徒でありながら,神様も信じていないし,教会にいかない人の一員だから,簡単だと思っていたかもしれないんだよね37。

 Mikeの経験したディスカッションは,信仰心が強くない教師,多数の無神論者の生徒,数人のキリスト教徒の生徒という構成の中で行われた。そして,ディスカッションは個人の宗教に関する信条を明らかにした上で行われた。無神論者にとっては,神様を信じて

いることは理解の難しい価値であることが予想される。ここでは,神様を信じないという価値と信仰をもつという価値が衝突し合っていることが読みとれる。ディスカッションにおいて個人の宗教に関する信条が明らかにされたことについては,教師自身がどの程度の宗教的信仰をもっていたかが影響しているのではないかとMikeは考えている。実際にそのディスカッションでは,生徒から教師に対して,教師自身の宗教的信条を尋ねた場面があったとMikeは振り返る。

   (生徒の誰かが)先生について質問を返したの。先生はどうですかって。先生が「え・・・・」すごいなんか,なんていうの,ためらったんだよね。(中略)「え,考えさせて下さい」っていって,顔を見ると,人生で今まであったエピソードをなんか,何回も考えているんだろうなって顔してたんだろうなぁと思って,最終的な信じてないなぁということになったんだよね38。

 教師ははじめ,生徒に宗教的信条について尋ねたが,自身の宗教的信条について尋ねられた際にとまどいをみせている。その後のディスカッションの展開では,数人の無神論者の生徒は強く意見を主張していたがその他の大半は静かであったとMikeは振り返る。その理由については次のように述べている。

   無神論者の中ではけっこう意見が強かった人は,何人もいたんだけど,でもほとんどの人がやっぱりさぁ,ディスカッションではなくてさぁ,いじめやけんかに近いことになるから,何も言わなかったよね。だからどっちかというと,何も言わないことが無難かなぁと思う学生が多かったかと思うんだよね。(中略)かわいそうだったし。むこうに賛成できなくともフェアなディスカッションにはならなかったね。何も言わなかったんだよね39。

 Mikeの経験したディスカッションの様子は公平に進行しているものではなく,キリスト教徒の生徒にとって不利な展開であったという。そのためMikeは意見を言わないことが無難であると判断した。自分の立場や意見をもち,ディスカッションに参加していくことは,相互理解のためにナショナル・カリキュラムでも求められていることである。しかしながら,生徒どうしの個人的信条が衝突する場合には,ディスカッションの過程で議論が攻撃的になる可能性もある。果たして,学校教育の文脈においてどこまで個人的信条

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塙・浅沼 : スウェーデンにおける多文化理解のための教育

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を明らかにすべきなのかは検討の必要があるといえよう。 前述のナラティブでは,宗教に関する価値をめぐる困難さを取り上げたが,個人の中で価値を形成する要素として,そこには個別具体的な経験がある。

3.4 「イスラム教徒の人への偏見」 多文化理解という概念の中には,文化や宗教のカテゴリーによって偏見をもたないことも含意されているであろう。しかし個人の経験によって,人には一定の見方や偏見が形成されてしまうことが起こりうる。Tinaは文化や宗教によって偏見をもつべきではないという考え方と,経験によって偏見が形成されてしまうことの間における葛藤を経験している。Tinaは過去の経験から,ある宗教的背景をもつ人に偏見を抱いてしまうという葛藤をもつに至った。それはTinaが海外に留学していた時期の出来事がきっかけであった。そのことについてTinaは次のように語る。

   私が海外に留学していたとき,私はセクハラにあいました。それはイスラム教徒の人から受けたものです。そのことによって私は…そのような人たちにあったときに身構えるようになったのです。それは必ずしも,イスラム教徒の人にあったときに「私から離れて!」といった風になるわけではありません。それはどちらかというと,もしかしたら同じようなことが起こりうるかもしれないという印象を私に与えるといった風なのです。この出来事は,不運なことに私の見方を悪い方向に変えるきっかけとなりました。これは,私のたった一つの経験に基づくものです。私は,たった一人の人との出来事が原因ですべての人を同じ側に寄せることが間違っているというのはわかっています40。

 Tinaは一人の人物,一つの経験から,あるカテゴリーに属する人たちに一定の見方をもつべきでないことを自覚している。その上でなお,「イスラム教徒の人たちは再び私にそのようなことをするかもしれない」という認識が反射的に生じてしまうことを客観的に振り返り,葛藤を感じている。 Tinaがイスラム教徒の男性に会ったのは,ある国に留学している頃であった41。はじめTinaと男性は友達であったが,男性はTinaに性的な冗談を言い続け,そのことをTinaは不愉快に感じていた42。Tinaがそれをやめるようにいうと,男性は攻撃的な態度をとるようになったという43。Tinaはスウェーデンであれば,

類似した出来事が起こった際に,自分が「どこかにいって!」といえば人は自分から離れてくれると語る44。しかし,その男性の場合はTinaから離れることがなかった45。その経験が,ある一定の文化や人たちに対するTinaの見方を変えるきっかけになったという46。Tinaは自分の見方の変化について,あくまでそれは自分の経験に基づくものだと振り返っている。

   彼の行動は私をイライラとさせました。この出来事によって私は変わりましたが,あくまでそれは個人的な経験を理由とするものです。誰かがそう言ったから変わったわけではありません。なぜかというと多くの人は,他の人の話や意見に基づいて,文化に関する自分の価値観や考えを変えています。しかし私は違います。自分自身で経験するまではそのような戯言は信じません47。

 Tinaは,文化や他者についての価値観を振り返る際は自分自身の経験に基づいて判断すべきであると考えている。Tinaは人から伝え聞いた話で偏見をもってしまうことと,経験に基づいて偏見を形成することの違いを明確に意識している。Tinaは反射的に生じてしまう偏見に対して葛藤を感じながらも,イスラム教を背景にもつ人に対しての現在の自分の見方,関わり方について次のように語る。

   私は,その人と同じ国や文化からきている人たちと会ったときに,はじめはその人たちを多少疑いの目で見てしまいます。「うーん。この人はどんな人となりなのだろう。」といったように。もし,相手がよい人だとわかったら何の問題もありません。しかし,相手のことをよく知るまでは身構えてしまいます48。

 Tinaは自身の経験によって形成された偏見を自覚しながらも,あくまでその偏見を第一印象の範囲にとどめようとしている。Tina自身が受けた不愉快な経験を鑑みると,Tinaがイスラム教を背景にもつ人たちに会ったとき身構えてしまうことは理解に難くない。しかしTinaは,イスラム教徒の人に対してある一定の印象をもってしまう一方で,人は個人によって異なることを意識し,相手のことをより知ろうと努力していることがうかがえる。Tinaは,人の偏見が形成されることについて次のように続けている。

   私が思うに,すべての人には異なる文化に対して

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このようなステレオタイプがあると思います。それは「あなたはこうすると思っていたけどそうではないのね,なるほど。」といった感じです。すべての人は,いつも耳にしている文化に関する愚かなステレオタイプのために,はじめはアレルギー的な部分があると思います。(中略)人がある人たちのことを,その文化について知っている考えを基に判断しているのはある意味面白いことです。私はいつも実際にその人と話すことによって,そのステップを踏み出さなければいけないと考えています49。

 Tina曰く,人には誰にでも情報や経験による偏見があるという。Tinaは人が偏見をもっていることを前提としながら,偏見を自覚した上で相手を理解するためにコミュニケーションを取り続けることが大事だと考えている。

3.5 「スウェーデン文化に誇りをもちたい」 Tinaの意識にも見られたように,偏見によってのみ相手を判断しないようにすること,個の多様性を認めることは多文化理解にまつわる重要な価値である。しかしながら,多様性の受容を考える際に困難なこととして,自文化への愛着の表現がある。本研究のナラティブでは,スウェーデンにおいて多文化共生が唄われる中,ナショナリストと認識されることを恐れるが故に,自文化を誇りにもつことが良しとされない風潮が言及されている。その風潮については,Andyも疑問を感じている。Andyには,ナショナリズムについて考えるきっかけとなった学校でのある出来事がある。それは担任教師の教室での発言であった。

   私の先生の一人が,7年生か 8年生のときの先生だったと思うんですが,国歌についての話をしました。彼は,「家で 1人で国歌を歌うことは,オーケーではない。なぜなら,それはとてもナショナリスティックであなたたちはナショナリスティックになるべきではないからだ。国際的なサッカートーナメントのときなどは,関わることもあるだろうが,家で 1人のときにそれをするべきではない」といったのです50。

 Andyの担任教師の話からは,教師が「ナショナリスティックであるべきではない」という価値をもっており,具体的には「家で一人で国歌を歌うこと」はナショナリスティックな行為に該当するとの認識をもっていることがわかる。Andyはこの出来事をきっかけ

に「愛国主義」51 について沢山考えるようになったと語る52。その際にAndyは自分の趣味であるオペラに見られる伝統的な要素と結び付けながらナショナリズムについて考えている53。

   私はオペラが大好きです。そしてスウェーデンのオペラは,スウェーデンの伝統的な音楽のもとで歌われます。そのため音楽の大部分はスウェーデンに関することであり,国への愛が歌われています。そのことを理由に近年では,それらの歌を歌うことはあまりよくないと捉えられるようになりました。それはナショナリズムであり,よくないものと認識されるのです。なぜよくないかというと,ナショナリズムとレイシズムは結び付き合うものだからです54。

 Andy曰く,スウェーデンのオペラで歌われる曲はスウェーデンに関することや国を愛する内容を含むものであるという。それ故にオペラで歌われる歌の歌詞が,近年ではナショナリズム,そしてレイシズムとつながりうる存在になっていることがうかがえる。そしてAndy自身は,ナショナリズムへの恐れ故にスウェーデン文化について沈黙する風潮について反対の意を示している。

   もし私がスウェーデンについて語るとするならば,スウェーデンが多文化社会である事実を誇りに思います。そして,スウェーデンは自然が素晴らしいことを誇りに思います。私にとって多文化というのはスウェーデンの一部なのです。そのため,スウェーデンを愛するというのは,スウェーデンについて好きでいることでもあるのです。私の見解ではそれはレイシストではないのです。しかし,これは多くの人と同じ見方ではないことは理解しています55。

 Andyは,社会の文化的多様性もスウェーデンの一部であると捉えている。そのためAndyの認識では,スウェーデンを誇りに思うことと,多文化社会であることを誇りに思うことは同等なのである。それ故に,スウェーデンを誇りに思う行為はレイシストと結び付くものではなく,多様な背景をもつ他者に対して攻撃的になるわけではないと考えている。本事例からは,多様性を尊重することと自文化を誇りに思うことの間の葛藤を解決するためには,自国や自文化を誇り思うことの内実を明らかにしていく必要性が示唆されてい

東 京 学 芸 大 学 紀 要 総合教育科学系Ⅰ 第67集(2016)

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塙・浅沼 : スウェーデンにおける多文化理解のための教育

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るといえよう。

4.考察

 以上のナラティブの分析から,多様性を理解し,受け入れるといった多文化理解の概念に対して,各々のナラティブから矛盾が指摘できる。 一つ目のEllenのナラティブからは,互いの価値が衝突する際に,二つの価値を両立することが困難であることが指摘できる。「私はそのことを尊重していますが,よくわかりません。」といったEllenの言葉にみられるように,相手の価値を尊重することができたとしても,それを理解し受け入れることは困難な場合もある。 二つ目と三つ目のMikeのナラティブからは,多様性の尊重を教育の場で育もうとした際に,一つ一つの多様な価値を公平に扱うことは困難であることが指摘できる。教育に携わる教師自身にも個人の価値観があり,無意識の内に影響し,偏りとなることは避けられないであろう。 四つ目のTinaのナラティブからは,個人の経験により,ある一定の文化的背景に対する偏見,抵抗が生じることは自然であることが指摘できる。 五つ目のAndyのナラティブからは,多様性への尊重を掲げた際に,自文化への愛着の表現が阻まれる可能性が指摘できる。異なる価値の総体を多様性と呼ぶならば,自文化への愛着も,本来多様性の一部のはずである。しかしながら,ナラティブからは,自文化への愛着がレイシズム的思想を結びつき,誤認されることを恐れて,自身の価値を表出できていないことがうかがえた。 以上挙げたように,異なる他者の理解,受容,尊重をめぐる矛盾は複雑である。多文化理解のための教育を検討するならば,まずは多文化理解を取り巻く矛盾を捉え,正対する必要があるだろう。多文化理解に関する理念の限界性や矛盾を前提とした上で,なお相互理解に近づきうる可能性として,本研究から次の点を指摘したい。それは,出会う相手のもつ背景やこれまでの経験を捉えることである。Ellenのナラティブには,スカーフをかぶる行為をめぐって理解が難しいものの,信仰をもつことへの背景にある考えについて議論があった。またTinaのナラティブには,イスラム教の人への抵抗感があるものの,偏見を超えてコミュニケーションをとり続ける姿勢があった。同時にそこには,理解や受容を困難にする「感情」が垣間見える。今後は,多文化理解にまつわる感情という課題に

ついても,取り組む必要があるだろう。

1 Statistics Sweden (2014) Summary of Population Statistics

1960-2013.

2 OECD (2013) “Immigrant and foreign population,” OECD

Factbook 2013: Economic, Environment and Social Statistic.

3 同上書 , pp. 9-15.

4 Skolverket (2011) Curriculum for the compulsory school,

preschool class and the recreation centre Lgr11, Pp. 150-202.

5 渡辺博明(2013)「スウェーデンにおける選挙政治の変容

と新右翼政党の議会進出」『龍谷大学法学会』第46号(2),

p. 401.: Mulinari, Dina. & Neergaard, Anders. (2014) “We are

Sweden Democrats because we care for others: Exploring

racisms in the Swedish extreme right,” European Journal of

Women’s Studies, Vol. 21, No. 1, p. 45.

6 Valmyndigheten (Swedish Election Authority)

http://www.val.se/val/val2014/slutresultat/R/rike/index.html,

2014年11月24日閲覧

7 Boman, Ylva. (2006) “The struggle between conflicting belief:

on the promise of education,” J. Curriculum studies, Vol. 38,

No. 5, p. 545.

8 Todd, Sharon. (2007) “Teachers judging without scripts, or

thinking cosmopolitan,” Ethics and Education, Vol. 2, No. 1, p.

36.

9 Boman, Ylva., op. cit., p.564: Todd, Sharon., op. cit., p. 36. :

Orlenius, Kennert. (2008) “Tolerance of intolerance: values and

virtues at stake in education,” Journal of Moral Education, Vol.

37, No.4., p. 477. : Roth, Klas.(2006) “Deliberation in national

and post-national education,” J. Curriculum studies, Vol. 38,

No. 5, p. 587.

10 Boman, Ylva., op. cit., p. 545. : Orlenius, Kennert., op. cit., p.

469. : Schierup, Carl-Ulrik.& lund, Aleksandra.(2011) “From

paradoxes of multiculturalism to paradoxes of liberalism.

Sweden and the European neo-liberal hegemony,” Journal for

Critical Education Policy Studies, Vol. 9, No. 2, p. 127.

11 Orlenius, Kennert., op. cit., p. 469.

12 Ibid, p. 470.

13 Ibid, p. 477.

14 Bergdahl, Lovisa.(2009) “Lost in translation: On the untranslatable

and its ethical implications for religious pluralism,” Journal of

Philosophy of Education, Vol. 43, No. 1, p. 33.

15 Roth, Klas., op. cit., p. 570.

16 Orlenius, Kennert., op. cit., p. 477.

17 Todd, Sharon., op. cit., p. 36.

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東 京 学 芸 大 学 紀 要 総合教育科学系Ⅰ 第67集(2016) 塙・浅沼 : スウェーデンにおける多文化理解のための教育

Page 10: スウェーデンにおける多文化理解のための教育 : ヨテボ · スウェーデンにおける多文化理解のための教育: ヨテボリ市の若者のナラティブの分析から

18 Boman, Ylva., op. cit., p. 564.

19 柴山真琴『子どもエスノグラフィー入門 技法の基礎か

ら活用まで』新曜社,2006年,p. 102.

20 基礎学校」は 7歳から16歳を対象とした義務教育を行う

学校の名称である。基礎学校は,大きく 7歳から 9歳(1

年生から 3年生),10歳から13歳(4年生から 6年生),

14歳から16歳(7年生から 9年生)のくくりに分けられ

る。各学校によって,1年生から 6年生のみを対象とした

ものもある。

21 No. 9 Ellen/女性/ 25歳/インタビュー日:9月13日

22 同上

23 同上

24 同上

25 同上

26 同上

27 同上

28 同上

29 同上

30 同上

31 同上

32 同上

33 No.13 Mike/男性/ 26歳/インタビュー日:9月17日

34 同上

35 同上

36 同上

37 同上

38 同上

39 同上

40 No.11 Tina/女性/ 24歳/インタビュー日:9月15日

41 同上

42 同上

43 同上

44 同上

45 同上

46 同上

47 同上

48 同上

49 同上

50 No. 7 Andy/男性/ 25歳/インタビュー:9月12日

51 この文脈における「愛国主義」は,スウェーデン語で

national romanticismを表すものである。

52 No. 7 Andy/男性/ 25歳/インタビュー:9月12日

53 同上

54 同上

55 同上

注記

 本論文は,第 2著者の指導のもと第1著者が作成した修士論文の一部を加筆,修正したものである。本研究に取り組む上で調査にご協力をいただいたスウェーデンの皆様に感謝申し上げる。

東 京 学 芸 大 学 紀 要 総合教育科学系Ⅰ 第67集(2016)

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塙・浅沼 : スウェーデンにおける多文化理解のための教育

Page 11: スウェーデンにおける多文化理解のための教育 : ヨテボ · スウェーデンにおける多文化理解のための教育: ヨテボリ市の若者のナラティブの分析から

*1 Kamihirai Elementary School (4-22-1 Nishi-Shinkoiwa, Katsushika-ku, Tokyo, 124-0025, Japan)*2 Tokyo Gakugei University (4-1-1 Nukuikita-machi, Koganei-shi, Tokyo, 184-8501, Japan)

スウェーデンにおける多文化理解のための教育:

ヨテボリ市の若者のナラティブの分析から

Education for Multicultural Understanding in Sweden:

Narrative Inquiry for Young Adults in Gothenburg

塙   万里奈*1・浅 沼   茂*2

Marina HANAWA and Shigeru ASANUMA

学校教育学分野

Abstract

The purpose of this study is to explore the meaning of the contradiction of multicultural understanding in Sweden.

Because Sweden is one of the European countries which have accepted a number of immigrants from other nations in the

world, it is important to investigate on how the professional educators cope with the culturally different people. In particular,

it is significantly important to know how they solve the problem of their internal conflicts when they confront with the

“Otherness” in their life world.

In this exploration, I interviewed twenty one educators aged about twenty and thirty years old in Gothenburg about their

psychological difficulties with various situations in facing the people from other countries. I focused on the conflict in their

in-depth mind at the time finding his/her-self facing otherness. It is not easy for them to encounter the otherness though it is

easy to present the formally accepted statements. So it is unavoidable to further explore what they really understand their

own difficulties for multicultural understandings. Thus narrative inquiry contributes to illuminate the internality of

individual emotion and conflict cases of the otherness demonstrates beyond the surface.

I posited four dimensions of the difficulty they face as follows: The first, the difficulty of accommodating two

incompatible conflicting values; the second, the difficulty of being in keeping fairness of various values; the third, the

difficulty of abandoning their own prejudice of the otherness because of their rooted own ethnical background; fourth, the

difficulty and frustration for raising their own ethnic identity in the legitimated I context of multicultural understanding.

I would rather pursue the strategies to solve the problems, overcoming those difficulties. In particular, it should be

appreciated and made clear how deep their emotional conflict is. It should be noted that it ought to be more mutual rather

than merely emphasizing the dominant ideological social justice for one side.

Keywords: multicultural understanding, contradiction, narrative

Department of School Education, Tokyo Gakugei University, 4-1-1 Nukuikita-machi, Koganei-shi, Tokyo 184-8501, Japan

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塙・浅沼 : スウェーデンにおける多文化理解のための教育

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要旨: グローバル化の進展により,異なる他者を理解し,受け入れることが教育においても求められている。しかし,他者への受容や寛容といった営みは決して単純なものではないだろう。 そこで本研究では,スウェーデンに注目し,多文化理解に関していかなる困難さを経験しているか,そして多文化理解にまるわるどのような矛盾が見いだせるかを,ナラティブ・アプローチによって明らかにすることを目的とした。調査ではヨテボリ市の若者21名を対象とし,多文化理解にまるわる困難な経験についてインタビューを行った。 ナラティブの分析により,多文化理解の概念に対して以下の矛盾が浮かび上がった。一つ目は,互いの価値が衝突する際に,二つの価値を両立することが困難な点。二つ目は,多様性の尊重を教育の場で育もうとした際に,一つ一つの多様な価値を公平に扱うことが困難な点。三つ目は,個人の経験により,ある一定の文化的背景に対する偏見,抵抗が生じることは自然である点。四つ目は,多様性への尊重を掲げた際に,自文化への愛着の表現が阻まれる可能性である。 本研究より多文化理解にまつわる矛盾が具体的に指摘できたとともに,今後の研究課題として,多文化理解にまつわる感情という課題についても向き合う必要性が挙げられた。

キーワード: 多文化理解,矛盾,ナラティブ

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塙・浅沼 : スウェーデンにおける多文化理解のための教育