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(  ) 21 第80回 妙高市立 妙高高原中学校 西校 旗

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(  )21

第80回 妙高市立 妙高高原中学校

現在の概要 

日本百名山の一つ

である妙高山の裾野に位置し、約

二千坪の広大な校地を有していま

す。平成元年には三百名を超えて

いた生徒数も現在は、百三十二名

になってしまいました。生徒は、

素直で明るく生徒指導上の問題も

ほとんどなく、日々の教育活動に

熱心に取り組んでいます。

地域と学習 

本年度より学校支

援本部事業のコーディネーターが

毎週一回学校に勤務し、地域人材

の世話をしてもらっています。一

年生は、キャリア教育に力を入れ

ており、合併前の旧町長、県女将

の会の会長、農業や建設業に従事

している青年実業家、長年ボラン

ティアに従事している方などのミ

ニ講演を行って地域の人から生き

方を学んでいます。二年生は、地

域とともに子どもを育てる観点か

ら、職場体験などを行っています。

三年生は、観光地であるこの地域

の景観をどうすればよいかを地域

の方や行政を招いて協議・実践し

ています。スキーでにぎわった妙

高高原も観光客が減り、さらに今

年は震災の風評被害などもあり、

厳しい状況です。

園・小中の密接な連携 

学区に

あるしらかば保育園、わかば幼稚

園、妙高高原北小学校、妙高高原

南小学校と協議会を設置し連携を

深めています。(合併に伴い、小

中ともに名称が変わりました。妙

高↓妙高高原)

 

園小中で総会と月一回の園長・

小中校長会を開催しています。園

には保育実習、職場体験で協力を

いただくだけでなく、修了式や授

業参観にも出掛けています。小学

校との交流の機会は多く、中学校

の専門性を生かし金管指導などの

出張授業も行っています。スキー

練習も地域指導者を介し、合同練

習を行っています。今後も、十二

年間を見通した連携を大事にして

いきたいと考えています。

部活動について 

地域と学校の

協力で、全国中学校大会でのべ

五十四回優勝しています。前年度

の全国中学生スキー大会でもノル

ディックコンバインドの個人と県

選抜のリレーメンバーの一人とし

て二つの優勝を果たしています。

オリンピックや世界選手権に出場

した卒業生も二十人以上になりま

す。手本となる選手の指導や話を

励みに全国大会の上位入賞を目指

し部活動に励んでいます。吹奏楽

部もマーチングの県代表として西

関東大会に十四年連続で出場して

います。なお校地内にオールシー

ズンのジャンプ台があり、一年中

ジャンプ練習ができる環境もあり

ます。

終わりに 「地域と共に歩む学

校づくり」をテーマに地域の絶大

なる支援を大切にしながら子ども

の幸せを実現できるよう努力して

いきたいと考えています。

地域と共に歩む

  学校を目指して

妙高市立妙高高原中学校長

(第十五代) 流 

石 

光 

校 旗

第80回妙高高原中.indd 1 11/12/19 10:04

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(  )22

 

妙高市の合併に伴い、校名変更

したために、三番の終わりの歌詞

が、「我ら妙高中学の」が「妙高高

原中学の」に変更になっています。

 

上段の左から北村勝朗(第一回

全中)、後藤鹿子(ソルトレーク

オリンピック)、横山寿美子(リ

レハンメル、長野、ソルトレーク、

トリノオリンピック出場)、池田

和子(長野オリンピック)。

 

下段左から恩田祐一(トリノ、

バンクーバオリンピック)、清水

礼留飛(前年度インターハイ、国

体優勝)、飯塚優太(前年度全中)、

畔上和弥(前年度全中リレー)以

上です。

 

敬称を略させていただきまし

た。

 

日頃からあいさつ運動を実施し

ています。地域の方から「あいさ

つがよい」と褒められます。

 

今までも上位に入賞していたの

ですが、今年度初優勝を果たしま

した。

 

今年で十四

年連続、県代

表になってい

ます。西関東

マーチングコン

テストでは、

惜しくも銀賞

でした。

 

体育祭で披

露しました。

 

体育祭で

の一コマで

す。

伝統的な

棒倒しは今

でも続いて

います。

マーチング

棒倒し

校 

全国中学校大会優勝者抜粋

学校生活の様子

あいさつ運動地区駅伝初優勝

優勝者の額の抜粋

棒倒し

体育祭での演奏

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(  )23

 

私の中学校時代の想い出と言え

ば、やはり一番初めに「部活動」

の事が挙げられます。スキー部に

所属していた私は、その後もクロ

スカントリースキーを続けて、四

度のオリンピック出場を果たすこ

とができました。そのクロスカン

トリースキーの基盤を作ることが

できたのが中学時代であったと

言っても過言ではありません。

 

当時の私は、授業が終わるとす

み、長く競技生活を続けることが

できました。その長い競技生活の

中では、いろいろな国へ大会や合

宿で行きましたが、子供達がクロ

スカントリースキーをしていると

ころを見ると自分の中学時代を想

い出し、また当時の楽しむ気持ち

を想い出して頑張れたのだと思い

ます。

 

中学時代に学んだ事。それは私

の人生の大きな財産です。

 

越後の秀峰、妙高山の麓にあり、

創立六十四年目を迎えた妙高市立

妙高高原中学校は、かっては学校

名も妙高中学校であった。ところ

が、昭和四十八年隣の妙高村にも

学校の統合により同じ名前の中学

校が出来たため、区別のため町立

妙高中・村立妙高中と呼び合うよ

うになった。

 

平成十七年新井市・妙高高原

町・妙高村の合併により妙高市が

誕生、妙高市立妙高中学校が二校

存在することになるため教育委員

会の指示により妙高高原中学校と

ぐに部室に行きたいと思うほど、

部活動でのクロスカントリース

キーの練習が楽しくて仕方があり

ませんでした。もちろん練習はき

つい事もありました。しかし、そ

れよりも楽しいと思う気持ちが勝

るほど充実した時間を過ごしてい

たのだと思います。

 

当時のスキー部の部訓は「切磋

琢磨」。その部訓どおり部員全員が

向上心を持って練習や大会に挑ん

でいました。その中でも楽しいと

思う気持ちを持てる。その環境が

町立妙高中学校(現・妙高高原中

学校)のスキー部にはありました。

 

そして、私自身はその後も同じ

気持ちを持ち続けて国際大会に挑

改称されたのである。

 

合併当時は母校に、勤務してい

たが、校名変更で一番困ったのは

校歌であった。校歌の一節に「我

等、妙高中学の、名よとこしえに、

栄あれ!」とあり、このままでは

隣の中学の校歌になってしまう。

そこで、作詞された上越市の故高

野盛義先生のお宅を訪問、ご子息

に変更の許可を得た。その部分の

歌詞は「我等」を削除して「妙高

高原中学の、名よとこしえに、栄

あれ!」と変更したのである。

 

さて、日々の教科学習の充実は

もちろんだが、妙高高原はスキー

のメッカである。当然のことス

キー部を中心にして創立以来部活

動の盛んな中学校である。他にも

陸上、駅伝、野球、水泳、吹奏楽、

マーチングバンドなど県内はもと

より全国的規模で活躍している。

 

私の中学時代は、夏季鍛錬とし

てキャンプ・登山があり、当時は

笹ケ峰キャンプ場まで二十キロ近

い道のりを歩き、そして火打登山

をしていたがこの行事は臨海学校

や戸隠行軍などの変遷を経て、今

も火打山・妙高山登山行事として

受け継がれ、子供たちの心身鍛錬

の一助となっている。

長 

崎 

一 

 (十三代元同校校長

昭和三十八年卒)

文武両道の校風で

横 

山 

寿美子

(昭和六十四年卒)

妙高高原中学校と

海外遠征の想い出

町立妙高中62年クロスカントリースキー部

昭和63年3月ROSSIGNOLキャンプ 最後の日タイムレース

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(  )24

 

高原中の良いところ、それはあ

いさつが活発なところです。課外

活動も含め学校生活のあらゆる場

面で人と会ったらあいさつをする

という習慣が身に付いています。

みんな笑顔で元気よくあいさつを

しています。

 

そこで今、生徒会では「名前を

呼んであいさつをする」という活

動を実施しています。これをする

ことでぐっとお互いの距離が縮ま

り、生徒全体の仲がとてもよくな

りました。

 

あいさつで培われた仲のよさは

あらゆるところで発揮されます。

学校で動くときの団体行動ではど

この学校にも負けません。特に九

月に行われた体育祭では、練習で

の移動はすばやく、手の足りない

ところを積極的に手伝うなど準備

や片付けなどに協力して取り組

み、本番は最高の体育祭になりま

した。

 

このように高原中はとても仲が

よく、毎日をとても楽しく送って

います。僕はこの高原中が大好き

です。

「妙高高原中、最高!」

 

毎年夏の学校行事に笹ヶ峰キャ

ンプがありました一泊二日で、学

校とキャンプ場間は徒歩、毛布・

飯盒などの調理器具、米・野菜・

調味料などの食材持参です。

 

これらを詰め背負った後ろ姿は

まるでリックサックが歩いている

ようだと母は心配していました。

 

家から笹ヶ峰までは五時間ぐら

い掛かったと思います。途中何度

もダウンしそうになりましたが仲

間や上級生、仕事に向かう地元の

人達に助けられ何とかたどり着き

ました。

 

それからはルン・ルンでテント

を張り食事の支度、煙に目をしょ

ぼつかせながら慣れない手つきで

食事作りに奮闘?しました。高原

のさわやかな空気と空腹にはどん

な出来でも最高の味でした。日が

落ちてキャンプファイアーを囲

み、肩を組んで歌った歌は満点の

星空にぴったりでした。

 

その後担任の先生の忘れられな

い一言は「人口の多い時代に生き

る君達は常に競争が待っている、

受験に始まり就職、昇級等・・・

あの世に行くまで続く」と

 

後に団塊の世代と呼ばれる様に

なりました。社会の変化に良いに

つけ悪いにつけ話題となる年代で

す。

 

我がふるさとと聞かれると暫し

悩むが、わが母校といえば妙高高

原中学である。私の生まれは今は

地図にない国、満州国、撫順市で

生まれ、千九百四十六年に父の出

身地の妙高高原に引き上げてきま

した、小学校、中学校と妙高高原の

学校に通い、長野の高校を卒業十

八歳で上京、川崎の電機メーカー

に勤務、途中北九州に五年ほど転

勤、最後は横浜から川崎に通勤、

サラリーマン生活を終わりました。

 

妙高高原を出てからの長さは都

会生活のほうが長くなりますが

時々帰省し妙高高原の青い空に聳

え立つ妙高山を見ると、やはりこ

こが私の原点だなあとつくづく思

われます。幼い頃、雪の日の翌朝

の道付け、屋根の雪下ろし、田畑

の手伝い、中学校時代の筍狩り、

妙高登山、もみじの下のハイキン

グとその頃の思い出は走馬灯のご

とく私の頭の中を駆け巡っていま

す。我が家は既に両親が旅立ち、

空き家とお墓しかありませんが一

年に一度の帰省が楽しみで昨夏も

孫五人を引き連れてお盆に帰省し

田舎に住む叔父の歓待を受けまし

た。

 

私も近く古希を迎えます。もう

一度元気に雪の中を転がりたい

なーと思いますがそれは孫に譲

り、妙高の温泉に浸かり一杯やる

のが夢と思う頃になりました。

 

現在えちご妙高会で故郷との架

け橋となるべく活動中です。

取材後記

 

妙高高原中学校はスキーのメッ

カ妙高温泉にある。今回の市町村

合併前までは町立妙高中学として

中学スキー界の名門でこれまで数

多くのオリンピック選手を輩出し

ている。学校の敷地内にジャンプ

台を持っている学校は全国を見て

も当校だけではあるまいか。益々

の活躍を祈りたい。

(広報委員 

飯塚 

敏郎)

影 

山 

律 

(昭和三十八年卒)

苦しく、そして楽しい思い出と

先生の今も忘れられないことば

酒 

井 

浄 

(昭和三十四年卒)

我がふるさと

生徒会長

池 

田   

妙高高原中 

最高!

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(  )25

 

十月二十九日㈯は、この

秋一番の好天に恵まれ、芸

術の森、不忍池のほとりの

高台にあって折々に四季を

漂わせる上野精養軒、創立

以来毎年総会を開催し、会

員に馴染み深い桜の間で創

立十五周年の記念総会を開

催致しました。

 

会員・家族、ふるさとからの来賓

三十名、それに友好ふるさと会の皆

様をお迎えして総勢二〇〇名、盛大

に十五周年を祝うことが出来ました。

 

平成八年、当時の中川耕平村長の

発意と初代会長宮澤巳喜男氏の尽力

で創立。関東在住の牧村出身者及び

牧村に縁

(えにし)

を持つ方々

によって創

立され順調

に発展、宮

澤会長の在

任六年間で

お陰様で十五周年

東京牧村会記念総会開催

地歩を固

め、毎年の

会報発行、

総会の定時

開催を上野

精養軒と

し、秋に開

催することなど堅実に歩みを続け成

長してきました。

 

第二代の岡会長の就任以降は平成

の大合併が叫ばれ、ふるさとにもそ

の渦が広がって来た時代でした。

 

そんな経緯を経て、牧村は上越市

周辺の十四市町村との合併で上越市

の一員となり「上越市牧区」となっ

たのでありました。

 

おりしも牧村会が創立八周年を迎

えたことから、末広がりの願いを込

めてその年の総会を八周年記念とし

て田川寿美歌謡ショーを併催、その

後友好郷人会にならってふるさとと

の交流を加速致しました。

 

第十回は「水森かおり歌謡ショー」

を開催し、会員相互の親睦とふるさ

とからも大勢の方々のご列席を頂き

交流促進をはかりました。

 

ふるさと訪問バスツアーの毎年実

施、棚田オーナーへの参加、田植え・

稲刈りの参加も実施してきました。

 

ふるさと、友好団体のご支援・ご

協力のお陰で本年創立十五周年を迎

えました。総会は、議事に先立ち会

長が東日本大震災へのお見舞いを含

む挨拶、牧総合事務所長渡辺章一様

より上越市長代理として挨拶を頂

き、所定の議事を終了。

 

次いで第二部として、今年は「山

川豊歌謡ショー」を開催し、歌唱力

とサービスに会場は大変な盛り上が

りで拍手喝采の連続でありました。

 

来賓代表、高橋松之山会会長に県

人会長代理として、また、NPO法

人牧振興会武田理事長に祝辞、中川

初代名誉会長の乾杯発声で待ち兼ね

た懇親会開催、ふるさとの銘酒、ど

ぶろくと雪中梅・ふるさとで作って

頂いたちまきに舌鼓を打ちながら歓

談の時を楽しみました。

 

懇親会たけなわの中、当会岡会長

発案の「ふるさと小学校の校歌」を

歌うステージを開催。(北原白秋・

相馬御風・小山直嗣・関根ふみと氏

等の作詞による=

牧/高尾/宇津

/沖見/川上/原・以上六校の校歌、

明治/大正/昭和の三時代)

 

壇上に上がり切れない大勢の会員

で懐かしい校歌を熱唱する盛り上が

りを見せて定刻に散会致しました。

(広報部長 

渡辺 

貞善)

地区県人会・   郷人会だより

◎ 岡 一二

会長

県人会長代理挨拶 高橋様

山川豊さんと岡会長

懐かしい小学校校歌合唱(有志)

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(  )26

 

十一月六日、ホテル聚楽で、第

三十回東京弥彦村人会総会・懇親会

を開催し、来賓、会員八十名が一同

に会し、健勝をたたえ合いました。

大谷村長はご挨拶の中で、

観光弥彦の秋の素晴らし

さ、菊花展、紅葉谷を紹介

し、今年と来年二年連続し

て競輪事業の最大のイベン

ト『寛仁親王牌競輪』の開

催が、今年度を上回る成果

を上げたいとの抱負が述べ

られました。また県内にお

いて人口減少が進む中、新

潟市と弥彦村のみ増加中で

あること。観光弥彦をPR

する以前に、自然災害の少

ない、行政、教育の充実し

た弥彦に永住されるよう呼

びかけられました。

 

服部弥彦中学校校長が後

輩達のこの一年の成果を紹

介した中で、弥彦小と弥彦

中が氏子青年会と取り組ん

頑張ろう弥彦! 

第三十回東京弥彦村人会総会開催

だ活動が博報賞の“日本文化理解教

育部門”で最優秀となり、文部科学

大臣賞を受賞した事を紹介して頂き

ました。この成果は、弥彦が村をあ

げて、弥彦小・中生の挨拶日本一運

動や年一回の心の教育事業、燈篭神

事への参加、修学旅行時木遣り演奏

等による活動を通し、故郷を愛する

人間になるよう育成していることの

現れでもあります。

 

当会も、村長様はじめ村民のご指

導ご支援をうけ、三十周年を迎える

ことができ喜んでいます。これを機

に、さらに多くの方に村人会活動に

参加して頂くために、ふる里との交

流、後輩達への経験談紹介等地道な

努力を継続してゆくつもりです。

 

さて懇親会は、三十周年を記念し、

弥彦村技芸協会理事長千草さん、理

事万季さん、同亜矢さんによる三味

線、唄、手踊り(弥彦小唄等)が紹

介され、二胡奏者張艶さんの演奏、

ビクター所属ふじかわ健さんのパ

フォーマンスショウ、歌手秦さんの

新曲紹介と続き、会場はいやがうえ

にも盛り上がりました。会食、歓談

もそこそこにクイズ大会、福引き大

会、カラオケと続いた会も、あっと

いう間に中締めの時間を迎えていま

した。

 

〆は弥彦中学校同窓会会長鈴木孝

さんの万歳三唱と、ふるさとの合唱

で、再会を約した次第です。会を盛

り上げていただいた高橋県人会副会

長様始め近郊郷人会の皆様のご協力

を感謝し、記念総会の紹介といたし

ます。

(堀 

優 

記)

◎ 堀 優

会長

二胡奏者の張艶さん

弥彦村技芸協会の千草さん、万季さん、亜矢さんによる弥彦小唄

当日参加された皆さん

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(  )27

 

十月二十三日㈰正午より上野精養

軒にて、ご来賓を含め大勢のご参加

を頂き総会、懇親会を開催。佐藤会

長の挨拶のあと、東京新潟県人会副

会長金子重雄、廣川高志両氏の祝辞

を頂戴。

 

今年は東日本大震災を含め豪雨、

台風による各地の被害は近年には稀

な災害が続いた。福島から下越地方

に流れる阿賀野川もその一つに数え

られる。出席された方々も一時、暗

い出来事を忘れ楽しく語り合ってい

た。♪「民謡は心の故郷、私達の遠

第十一回「新潟下越連合」総会懇親会開催

い祖先から受け継れた民謡の数々。

県人会女性委員の方々に新潟の名曲

『相川音頭』『佐渡おけさ』二曲を踊っ

て頂きます。」♪のナレーションに

合わせ一段と踊りも熱気が入る。カ

ラオケ大会には歌手の舞さくらさん

が審査、各々が自慢の十オ

八ハ

番コ

を熱唱。

歌手が顔負けする程上手な人ばか

り。ある出席者から「下越連合」っ

て寄り合い世帯なのに活気溢れて、

本当に楽しい会ですね」という声も

聞かれ、全員が満足そうに美酒を味

わっていた。

(古川 

義範 

記)

◎ 佐藤 知晴

会長

佐藤知晴会長あいさつ

県人会女性委員の方々

 

平成二十三年十月二十三日上野公

園のグリーンパークにて首都圏ふる

さとわしま会の総会が開催された。

前日まで悪天候で心配していたが、

当日は上野公園の桜の枯葉が秋のそ

よ風に吹かれて落ちる、のどかな天

候に恵まれ、会場が故郷に帰ったよ

うな雰囲気であった。

 

当日は会員六十一名の参加と、故

郷から和島支所並びに和島の名士十

二名、東京新潟県人会より二名のご

臨席を得て和やかに行われた。

 

一部の式典は久住氏の司会に始ま

り羽入会長の挨拶で東日本の震災で

尊い命が

失われた

ことに深

く哀悼の

意を述べ

られ、わ

しま会よ

り義援金

十万円を

贈呈した

第三十一回首都圏ふるさとわしま会総会

報告があった。次に来賓紹介、茂岱

栄の会計報告、北谷栄の監査報告に

続き中越大震災七年の復興式典開催

と重なり、ご臨席を賜れなかった長

岡森市長様の親書を和島支所長、小

黒宏聡様に拝読願い、東京新潟県人

会より矢部正二会長代理様の挨拶に

続き、乾杯の音頭を、この会の創設

者でもある名誉顧問の清野清合様の

九十三歳を想わせぬ元気な乾杯の音

頭で一部を終了した。

 

二部のアトラクションは久住氏の

名調子の司会で始まり、日頃から磨

いている自慢の美声で大いに盛り上

がり、各々のテーブルでは故郷の地

酒に酔いしれて話がはずみ意気投合

している姿が見られた。

 

余興も最高潮となったところで

中〆に、和島観光協会会長藤田正義

様の元気な万歳三唱に続き早川幹

事長の閉会の辞で終了、来年の再会

を誓い田舎土産を手に提げ帰路に

ついた。

(わしま会 

事務局長 

中島 

記)

羽入 二郎

会長

来賓者と記念撮影

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(  )28

 

十一月六日㈰、上野精養軒におい

て第十九回総会・懇親会を開催。

 

今年も郷里より、赤川西川出張所

長・海藤西川コミュニテイ協議会会

長・水沢新潟市議会議員、そして東

京新潟県人会より廣川副会長・新潟

市より石塚東京事務所長・首都圏え

ちご蒲原会より池田会長をお迎え

し、恒例の「物産販売コーナー」も

開設し賑やかに開催された。

 

総会は、織田島事務局長の司会で

開始、小川会長の挨拶に続いて山崎

理事を議長に選任し議事に入り、会

務・会計・会計監査とそれぞれの担

当より報告があり、全員の拍手で承

認され、次いで役員の改選に入り、

中原副会長が満場一致で第四代会長

に選任され、他の役員は会則により

新会長が指名し、新旧会長の挨拶で

議事を終了。

 

続いてご来賓の皆

様よりご丁重なるご

挨拶をいただいた。

殊に、赤川出張所長

東京新潟西川会第十九回総会・懇親会

より、八月五・六日

に新潟市で開催され

た「傘ぼこサミット」

でふるさとが誇る

「西川傘ぼこ」が県

内外より集まった「傘ぼこ」と一緒

に市内柾谷小路を練り歩く様が報告

され、会場は大いに沸いた。

 

第二部の懇親会は、下村理事の軽

妙な司会進行で、海藤西川コミュニ

ティ協議会会長の乾杯のご発声で幕

を開けた。いつもの「雪の幻」を酌

み交わしながら、「傘ぼこ」の話しな

ど、昔懐かしい話に花を咲かせなが

ら、楽しいビンゴゲームの時間へと。

 

今回は防災グッズを中心に賞品を

選んだとの説明があり、昨年同様会

員より賞品の提供があり、会も大い

に盛り上がり終宴へと。恒例となっ

た西川地区三小学校の校歌を歌い、

最後は、唱歌「ふるさと」を声高ら

かに合唱し、来年の二十回総会での

再会を約して散会した。

(中原 

記)

◎ 小川 文夫

会長

新旧会長の挨拶

ご来賓と役員

 

平成二十三年十一月十四日㈪銀

座「蔵の桜」店で、第一回「海の柏

崎会」を開催しました。柏崎市を愛

し、懐かしむ柏崎っ子二十二名の参

加でした。

 

始めに矢代隆義会長の御挨拶。待

望の会の発足した経緯、そして会則

や年会費等の無い、気楽な会にした

いとの説明がありました。

海の柏崎会誕生

 

続いて北原保雄先生の乾杯の音頭

で、幕があきました。美味しいお料

理に舌鼓をうちながら、お一人ずつ

の自己紹介です。昔話に花が咲き、

昔踊った盆踊り「三階節」の輪が大

きくなりました。歌い手は次から次

へと替わり、「�米山さんから雲が

出た、今に夕立がくるやらピンカラ、

チヤッカラ、ドンガラリンと音がす

る」と芸人揃いで賑やかな楽しい会

でした。

 

締めは、舞さくらさんが「海の柏

崎」を熱唱。

 

終わりに橋本誠行事務局長よりお

話があり、来年七月二十六日、柏崎

花火大会の見学に行きたいという案

が出てお別れとなりました。

(村山 

セツ 

記録)

矢代 隆義

会長

橋本誠行事務局長(左端)を囲んで

北原保雄先生(前列右端と)

矢代会長(前列右から2人目)を囲んで

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(  )29

昭和26年(卯)1951年生 私です。10円玉も同年生です。世界人口25億人でした。

昭和62年(卯)1987年三人の子宝に恵まれました。世界人口50億人でした。

平成23年(卯)2011年10月31日生長女が初孫を産んでくれました。国連人口基金世界人口70億人認定

(広報委員 田中 実)

 

東京魚沼郷人連合会(高橋進会長)

の総会・懇親会が十月三十日上野精

養軒で開催されました。

 

傘下の東京堀之内会から十人、東

京小出会九人東京湯之谷会十三人、

東京広神会七人、持ち回り当番幹事

の当会(東京守門会)から十五人と、

各会の役員、会員が出席し、故郷魚

沼市からは大平市長並びに志田市長

公室次長のご出席を頂き、総勢五十

六人の参加を得て盛大に開催されま

した。

 

第一部総会では来賓の大平市長よ

り「今年は豪雪、津波、豪雨と水に

かかわる災害の多い年となり、魚沼

市も洪水の被害の爪痕はまだ残って

いるが、全市をあげて復旧に取り組

んでおり、早期に元の故郷の姿を皆

様に見て頂けるよう頑張りたい」と

の心強い言葉があり、高橋会長より

は「今回で持ち回り幹事が一巡した

が、同じ魚沼市を故郷に持つ仲間の

親睦の場として今後とも継続発展

させて行きたい」との挨拶があり、

故郷支援

の為のプ

レミアム

付き商品

券の販売

代金二百

万円相当

分の目録

が大平市

長に手渡

されまし

た。年内

に希望を

募って一

泊の故郷

訪問旅行

の計画が発表されて終了。休憩を挟

んで中庭で記念撮影。

 

第二部懇親会では各会代表の演

芸披露の後飛び入り出演が続き賑

やかな宴席となり、会員の絆を強め

楽しい一時を過ごすことが出来ま

した。

(東京守門会事務局 

姉崎 

敏雄 記)

東京魚沼郷人連合会総会・

懇親会に参加

トピックス

当日参加された皆さん

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(  )30

趣味

 

趣味は写真撮影で、県人会写真ク

ラブに所属、青木義信氏、平山修氏、

米山鉄郎氏等とよく新潟県下の撮

影に車を走らせました。佐渡の夕

日、分水のおいらん、親不知子不知、

笹川流れの夕日、等多くの名所、中

でも震災前

の旧山古志

村の棚田風

景などの写

真を、東京

新潟県人会

カレンダー

を製作した

頃が、良き

思い出に残っています。

 

今も地元・浦安で同好会の皆さ

んと写真談義に花を咲かせており

ます。

ふるさとの紹介

 

魚沼市(旧湯之谷村)は、平成十

六年に町村合併をしました。子供の

 

会報のシリーズ『会長さん今日は』

今回は新潟県内では、特に雪深い魚

沼市ご出身の「東京湯之谷会・田中

由三会長」に登場願いました。

先ず生い立ち

 

朝起きると家の前から、魚沼三山

の駒ヶ岳が四季折々の顔を見せてく

れる、素晴らしいところです。昭和

十四年四月に折立小学校に入学、昭

和十六年十二月八日、小学校三年生

の時に太平洋戦争が勃発、昭和二十

年八月に終戦となった時は高等小学

校一年生でした。この時代は、全国

的に食糧難で飢えに苦しんだ時で、

母の苦労が偲ばれました。

 

昭和二十六年十一月東京にいる姉

を頼って上京、昼間は会社勤め、四

年間の苦しい夜学を卒業しました。

 

昭和三十一年浦安に縁あって田中

家に婿養子に、家業として工業薬品

販売業を営む傍ら不動産管理業を経

営して現在に至っております。

ころは大湯・栃尾又両温泉だけでし

たが、昭和三十年ごろから温泉ボー

リングの技術の発達により、各集落

に温泉が湧沸して共同浴場が、今も

情報の根源となっているようです。

 

また奥只見湖は四季折々の彩り、

遊覧船からの眺めは紅葉百選にも

なっています。

ぜひ一度お出か

けください。

会の活動状況

 

創立は昭和四

十七年、当時の

会員数は百二十

名ほどでした。

今年四十周年記

念総会を上野・精養軒で行いました。

総会には東京新潟県人会・平辰会長

から身に余る感謝状を頂きました。

この間、歴代会長を始め会員の仲間

意識で、今日まで継続されたものと

思いを新たにしています。ご多分に

もれず高齢化が進む昨今、新規会員

獲得は難しく悩んでいるところで

す。何か良い知恵をお授け下さい。

総会は毎年六月第二日曜日に、上野・

精養軒で開催しております。今年は、

会員五十五名とふるさとからは大平

悦子市長始め三十五名のご来賓、そ

して物産店に地元の大沢加工とゆの

たに物産の二社が賛助。何と、今年

初めての抽選会は大変な盛り上がり

となり、再会を約してお開きとなり

ました。

(取材 

広報委員 

矢久保 

篤司)

東京湯之谷会会長 田中 由三さん

会会会長長ささんん、、今今日日はは73737373会長さん、今日は73

楽しいふるさとの盆踊りでフィナーレ

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(  )40

大河津分水 

新時代へ

 

大河津分水(燕市五千石)新可動

堰の通水式が十一月二十三日㈷、現

地で行われ、その後一般見学者にも

開放公開された。

 

これまでの施設は、昭和六年

(一九三一)の完工以来八十年を経

て老朽化、機能低下が進み、平成

十五年から可動堰の改築工事(総工

費約四百十億円)が進められて来た。

 

新潟県出身の皆さんならば、多く

の方がこの大河津分水の存在とこれ

まで果たして来た偉大な役割をご存

知と思うが、越後平野の豊かな恵み、

日本一の米どころの根幹は泥田、水

害の苦しみから救ってくれたこの分

水の存在なくしては語れない。

 

かつての越後平野は「地図にない

湖」と言われていた土地で、一面の

湿地、ぬかるみの泥田。農民は腰ま

で水に浸かりながらの農作業を強い

られ、田植えは竿の上に乗りながら

の「竿植え」、稲刈りは舟に乗りな

がらの「乗り刈り」が珍しくなかっ

たと言われている。

 

このあまりにも凄絶な姿を目の辺

りにしていた良寛は、

遠おち

方かた

ゆ 

しきりに貝の音すなり

  

今宵の雨に 

堰崩く

えなむか

という歌を残しているが、堤防切れ

を知らせる法螺貝の音に農民ととも

におののくその姿と当時の有様がま

ざまざと思い浮かぶ。

 

その後も苦難の歴史は続いてお

り、明治以降の大きな水害だけでも、

明治元年(一八六八)戊辰戦争さな

かの大洪水、明治四年(一八八一)

の五反田切れ、そして未曾有の大水

害と伝えられる明治二十九年

(一八九六)の横田切れがある。こ

の横田切れが、越後平野の治水対策

をその根本から考えさせるきっかけ

となったのだ。

 

今回八十年ぶりに完工の新可動堰

は、堰柱七本の間に幅約四十メート

ルのゲート六門を備え、川底からの

高さが十三メートル。これまでのよ

うに水門を上下させて開閉するので

はなく、アーチ型のゲートを回す方

式で水量を調節する。事業のすべて

の完了は明年(二〇一三)これまで

の可動堰の撤去を待ってということ

になるが、水の処理能力も一割ほど

アップして新時代に入る。

拠点港に新潟港と直江津港

 

国土交通省は、十一月十一日、中国、

韓国、ロシアなど北東アジアとの貿

易の核となる「日本海側拠点港」に、

新潟市と聖籠町にまたがる新潟港

(新潟西港・新潟東港)と、上越市

の直江津港を決定したと発表した。

 

七月末の立候補時点では、新潟東

港と直江津港の連名で申請、液化天

然ガス(L

NG)の受

け入れ拠点

などの共通

点を強調し

エネルギー

港湾として

の重要性を

アピール。

片方が被災

しても機能

を確保でき

"市町村だより〟あれこれ

新潟県下の市町村広報その他から◯110

新可動堰

直江津港 新潟東港(写真提供:新潟日報)

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(  )41

るとして連携効果を前面に押し出し

た。

 

結果としては、新潟港が「国際海

上コンテナ」と「液化天然ガス(L

NG)」の二部門で選定され、直江

津港は「LNG」部門での選定となっ

た。そして新潟港は、拠点港の中で

も中心となる「総合的拠点港」五港

(ほかに伏木富山、下関、北九州、

博多の各港)に位置づけられた。

 

もともとは、日本海側港湾の国際

競争力を高め、北東アジアの経済成

長を日本の成長に結びつけたい狙い

から、前原誠司元国交相が打ち出し

た「選択と集中」の方針に従って行

われた選定作業だったわけだが、ま

だ具体的なバックアップが明示され

たわけではない。

 

例えば新潟港の場合、輸出量が輸

入量の半分以下である状況を打破す

るには、集荷策をいかに実行するか

という課題があるわけで、陸路の物

流ネットワークを大量集荷に結びつ

ける方策など、官民挙げての取り組

みが望まれるところだ。

 

発展性の大きい海の新時代が来て

いることは確かだが、それはまた競

争新時代の到来ということになる。

柏崎にキーン記念館

 

さきに新潟市が「安吾賞」を贈っ

たことでも知られる日本文学研究家

ドナルド・キーンさん

(89)が、東日本

大震災後、敢えて日本国籍を取得し

て永住を決意されたというニュース

は感動的な驚きであったが、今度は

新潟県との関わりの中で、キーンさ

んの記念館が明年(二〇一三)秋まで

に柏崎市に設けられることになった。

 

これは、二〇〇七年に柏崎を舞台

にした古浄瑠璃を三百年ぶりに復活

させ、その公演を実現させたキーンさ

んに対して、地元企業のお菓子のブル

ボンが同社の研修センターを改装して

提供、キーンさんの所蔵品の数々(書

籍約一、七〇〇点、レコード・CDな

ど約三〇〇点、家具・調度品約一〇〇

点)を展示しようというものだ。

 

これが実現された時には、これま

でニューヨークが日本文化を世界に

発信する拠点となっていたものが、

キーンさんの日本定住とともに本家

に戻る?ような形になるわけで、研

究者はもとより日本文化に関心を寄

せる多くの人達にとっても素晴らし

い朗報と言っていい。

 

現在すでに東京の北区に居を構え

ているキーンさんだが、この記念館

が出来上った後は度々足を運びたい

と話されているというから、新潟県

とキーンさんの結びつきは一層強まる

と同時に、柏崎市の文化的ステータ

スもぐんと高まるというものである。

「幸せ度」第十位…

 

その新潟県の「幸せ度」はどうか。

先頃、若き国王夫妻が日本を訪れて

あらためて注目を集めたヒマラヤの

ブータン王国が掲げる「国民総幸福

(GNH)」は、文明のもたらす利便

性のみが過度に進み、人間らしい素

朴な幸せを失っているのではないか

と、思わず我が身や日本を振り返っ

て見る機会につながった。

 

そして、そこに着目して進められ

た法政大学大学院の調査が注目を集

めている。

この調査で

は、四十七

都道府県ご

とに四十に

及ぶ社会経

済統計指標

からその「幸せ度」を調べており、

結果として新潟県は総合十位にラン

クされた。

 

一位は福井県、二位富山県、三位

が石川県で、最下位は大阪であった。

 

新潟県の場合は、正社員比率が二

位、持ち家率や休養時間の長さ、出

火件数の少なさで五位、女性の平均

寿命の長さで八位、交通事故の少な

さで九位などとなっているが、障害

者雇用率は四十六位、自殺死者数で

四十二位、医師数で四十一位と下位

であった。総評としては「住みやす

く豊か」とされたこともお伝えして

おこう。

(広報 

池田 

孝一郎)

ドナルド・キーン氏(写真提供:㈱ブルボン)