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H:《 第6回研究会 宗教と呪術 技術と呪術 <文責・基幹研究事務局菱沼一憲> <目次> ご紹介 (1) 岡田荘司「吉田家・吉田神道における呪術・<技術>の継承」 (2) 平雅行「中世仏教と呪術―呪術性と合理性―」 (3)宗教と呪術 全体討論 (4)永嶋正春「日本の漆文化 9000 年―その始まりと変遷―」 (5)報告 伊藤大輔「美術と呪術」 ご紹介 文 責:菱 沼 一 本基幹研究会では、 1 月7日(日)・8日(月)の日程で第 6 回研究会を行いま した。 7 日のテーマは [宗教と呪術]、 8 日は[技術と呪術]をテーマとし、計四人 の方々にご報告をいただきました。タイムテーブルは次の通りです。 7日(1)報告 岡田荘司「吉田家・吉田神道における呪術・<技術>の継承」 (2)報告 平雅行「中世仏教と呪術―呪術性と合理性―」 (3)総括討論 8 日(4)報告 永嶋正春「日本の漆文化 9000 年―その始まりと変遷―」 (5)報告 伊藤大輔「美術と呪術」 (6)総括討論 岡田報告では、神道史研究の立場から、神道における呪術的作法・技術の創設と伝 承に関して、吉田神道を例としてその検討がなされました。吉田神道を創設した吉田 家は、古代~中世前期までは、天皇の身体・健康の安全に不可欠な亀卜の技術を継承 する家として朝廷内に重きをなした。やがて室町中期に吉田兼倶が広く個人救済のた めの神道的呪術の方法を創出すると、それを求める在地側の要望と呼応しつつ全国の 神職を統括する家へと転じていったと整理された。 平報告では、 1960 年 代 以 降 、赤 松 俊 秀・黒 田 俊 雄・石 井 進 ら に よ っ て 構 築 さ れ た「 呪 術からの解放」の理論が再検討されました。中世では武士による軍事的暴力と僧侶に よる宗教的暴力の二つにより権力者を護持する体制がとられたが、近世では将軍の護 持僧制がないなど、宗教的暴力が縮小しているところから、近世での軍事部門におけ る呪術性の喪失を導きだした。ただしこうした脱呪術化は、一元的に進むのではなく、 分野によって大きく異なるのであり、合理性が直線的な発展をたどると想定する必要 はないとされた。 1

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Page 1: H:《 第6回研究会 宗教と呪術 技術と呪術...(1)吉田家・吉田神道における呪術・<技術>の継承 岡田荘司(國學院大學) 文責 菱沼一憲

H:《 第6回研究会 宗教と呪術 技術と呪術 》 <文責・基幹研究事務局菱沼一憲>

<目次>

ご紹介 (1) 岡田荘司「吉田家・吉田神道における呪術・<技術>の継承」 (2) 平雅行「中世仏教と呪術―呪術性と合理性―」 (3)宗教と呪術 全体討論 (4)永嶋正春「日本の漆文化 9000 年―その始まりと変遷―」 (5)報告 伊藤大輔「美術と呪術」

ご紹介 文責:菱沼一

憲 本基幹研究会では、1 月7日(日)・8日(月)の日程で第 6 回研究会を行いま

した。7 日のテーマは[宗教と呪術]、8 日は[技術と呪術]をテーマとし、計四人の方々にご報告をいただきました。タイムテーブルは次の通りです。

7日(1)報告 岡田荘司「吉田家・吉田神道における呪術・<技術>の継承」

(2)報告 平雅行「中世仏教と呪術―呪術性と合理性―」

(3)総括討論 8 日(4)報告 永嶋正春「日本の漆文化 9000 年―その始まりと変遷―」 (5)報告 伊藤大輔「美術と呪術」

(6)総括討論 岡田報告では、神道史研究の立場から、神道における呪術的作法・技術の創設と伝

承に関して、吉田神道を例としてその検討がなされました。吉田神道を創設した吉田

家は、古代~中世前期までは、天皇の身体・健康の安全に不可欠な亀卜の技術を継承

する家として朝廷内に重きをなした。やがて室町中期に吉田兼倶が広く個人救済のた

めの神道的呪術の方法を創出すると、それを求める在地側の要望と呼応しつつ全国の

神職を統括する家へと転じていったと整理された。 平報告では、1960 年代以降、赤松俊秀・黒田俊雄・石井進らによって構築された「呪

術からの解放」の理論が再検討されました。中世では武士による軍事的暴力と僧侶に

よる宗教的暴力の二つにより権力者を護持する体制がとられたが、近世では将軍の護

持僧制がないなど、宗教的暴力が縮小しているところから、近世での軍事部門におけ

る呪術性の喪失を導きだした。ただしこうした脱呪術化は、一元的に進むのではなく、

分野によって大きく異なるのであり、合理性が直線的な発展をたどると想定する必要

はないとされた。

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永嶋報告では、縄文・弥生・古墳・古代・中世・近世、各時代の漆技術の特性と、

その継承・断絶について検討がなされました。すでに縄文時代初期には、漆の多層塗

と朱漆の色調調節、「くろめる・なやす」ことにより塗料として良質化する技術が存在

するが、それが弥生・古墳に継承されない。また古代・中世初期の技術も大陸からの

導入・模倣で、中世中期以降、近世までは安価・大量に生産する部分の技術が進歩し

ていったことが説明されました。 伊藤報告では、鎌倉期の似絵の発展に、中世の脱呪術化観念を読み取る赤松俊秀の

議論への批判が試みられました。平安期では外形が客観的に似ているという肖似性は

重視されないので、簡略な人形であっても生身性は失われず、本人の代わりとして充

分機能した。そうしたものは平安期でも幾つか指摘でき、似絵の有無からでは脱呪術

化観念を読み取ることはできない。また似絵文化も中国から輸入されたものであり、

国内で発生した文化ではないので、脱呪術化により似絵が誕生したとはいえないとさ

れました。 各報告者方々には研究会のテーマに沿って発表いただき、また、これまでの研究成

果と極めて強くリンクするような方向性をしめしていただき感謝に堪えません。すな

わち技術においても、宗教においても、呪術性と合理性は、どちらか一方へという単

純な様相を示すことはなく、両者は複雑に絡み合いながら歴史的な変遷を経て現在に

至っていることが明確にされているものと思います。2 年間の研究活動により、そうした各分野での実態が明らかになりつつあり、やがてそれらをいかに整理し収斂させ

てゆくか、課題がみえてきたように思います。

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(1)吉田家・吉田神道における呪術・<技術>の継承 岡 田 荘 司 ( 國 學 院 大 學 )

文責 菱沼一憲 は じ め に 本研究会で私に与えられた課題は、神道と呪術という問題であろう。しかし、神道

の周辺にある習俗的な呪術については研究があるものの、神道と呪術の問題に正面か

ら取り組んだ研究はなく、未開拓の分野である。これからそうした問題に取り組む端

緒としては、吉田神道・卜部氏が最も適当な研究対象であろう。 1 . 神 祇 官 三 家 の 成 立 神祇三家とは次の三家になる。

*神祇伯雅兼(白川伯王家、近世白川神道)、 *祭主清忠(大中臣祭主家) 岩出・藤波家 *吉田神主兼富(卜部吉田家) →元本(元々本々)宗源神道

『師郷記』永享5年10月24日条では、後小松上皇崩御にともなう諒闇について、

結論が出せなかったために、白川伯王家・大中臣祭主家・卜部吉田家の三家に籤取り

をさせ、その結果、諒闇の執行を決定している。ここに象徴されるように、室町中頃

には神祇道の家としての神祇官三家が固まっていたことがうかがえる。 白川伯王家は近世には白川神道を成立させるが、それは吉田神道や国学の影響を受

けて構築されたのであって、一般貴族との違いといえば、『日本書紀』を学んでいた程

度で、中世段階から神祇官の家として呪術的なものを用いていたわけではない。祭主

家(伊勢神宮祭主家)は、大嘗祭天神寿詞を奏する家として重んじられていた。これ

に対し、吉田卜部家の場合には伝統的な祭祀作法を伝承してゆく家、日本書紀の家と

いうところに存在意義があった。その根源は亀卜の呪術的な作法、祓いの作法を伝承

する家であったところにある。 吉田神道が大成されるまでには、中世中期、吉田兼倶の時代が境となる。すなわち

古代から中世前半までと、中世後半から近世・明治までの二つの流れがあり、その間

には大きな断絶・溝がある。ただし、そこに技術・呪術の継承は存在するのであり、

始めに後半の方をみてゆきながら、その根源となるところを探ってみたい。 2 . 吉 田 神 道 ~ 兼 倶 に よ る 創 出 ~ 吉田神道そのものは現代に伝承されておらず、我々も吉田神道を研究していながら、

実はその儀式作法をみたことがない。また現在、神社で行われている作法は、宮中祭

祀を基準とした静かな作法であり、音を出すとしても祝詞を読むときに、小さな声を

出す程度である。吉田神道の儀式作法を継承している神職も存在していないし、伝え

られていない。 ただ唯一、福島県相馬の蛯老沢稲荷神社では、明治維新で一旦途絶えた吉田神道を、

再興する動きが明治 30年代にあり、同社の本殿横の祈祷殿に神道護摩行事壇・宗源

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行事壇・十八神道行事壇の三壇行事壇が再興され現存する。一般的には、明治期に宮

中的な作法に切り換えられ、呪術的な施設は神社の外へ排除されたため現存していな

い。また吉田神道の作法記録も戦前の宮地直一氏の調査と、私が25年ほど前に調査

した記録ぐらいしかない。部分的に正月御祈祷行事の一部として神道の護摩行事が残

されているのは、山梨県などに若干の事例がある程度である。 その作法は、護摩に火をくべながら、仏教ではお経を唱えるように、三種太祓など

兼倶の創作になる言葉を呪文のように唱えながら神を勧請してゆく形である。高知県

物部村のいざなぎ流なども、恐らくはこれに類似したものであろう。そうした意味で

は、吉田神道の作法とは陰陽道での陰陽師の作法などと似たものと考えてよい。 吉田神道の作法とは、静かなものではなく、音を交えた動的な儀礼で、これに人々

は呪術性を感じたのであり、そうした作法は古代から存在したものではなく、兼倶に

よって創られたものである。伝えられている資料などは吉田兼見の代のものが多いが、

三壇作法などの基礎的な儀式作法の創作や、神職の組織化は兼倶の時に行われたと考

えられる。 文明三年(1471)段階で兼倶は「解除呪文」の伝授を行っており(天理本「相承秘

抄」)、この時期既に、祓の呪術的な言葉が創出・整備されていることがわかる。その

伝授の対象は将軍・貴族・僧侶たちであり、そうした幅広い人々へ兼倶による祓の作

法・呪術的文言や、それを記した儀式書が伝えられていった。 人々に向かって呪術的な儀式作法するというのが神職の重要な職務であり、そのた

め祭式作法を伝えて行くことが必要となる。そこで必要とされるのは儀式次第書であ

るが、儀式・祭式作法を自分で創るわけにはゆかないので、どうしても吉田に頼らざ

るを得ない。吉田によって神職が組織化されるが、その背景には、神職側、あるいは

在地側からの働きかけが存在している。民衆の側では個人救済のための呪術的な作法

を神職に求め、神職はそれを吉田家へ伝授を要請する。したがって吉田家側では、そ

うした伝授書を制作しておくことが肝要になる。 例えば、岡山県都窪郡早島町の鶴崎神社に伝来した「唯一神道行事」(現、國學院大

學所蔵図書館所蔵・『続日本古典全集 唯一神道行事次第』現代思潮社)には、身曽貴

(みそぎ)から始まって、地鎮祭・上棟大事など建築行事に関するもの、水田祭・水

神祭に関するもの、病者加持・安産加持に関するものなど50項目の伝授事項が記述

されている。 また神奈川県伊勢原市上粕屋子易の比比多神社の累代神主鵜川文書には、神職が吉

田家に入門して、祭式の基本である十八神道行事をはじめ、疫神斎・星祭・地祭次第・

屋堅行事といった神事に関する儀式次第伝授の要望を出している。こうした人々の生

業に密接に関わる儀式次第を吉田に伝授してもらうことを願い、吉田はこうした多様

な要望に対応していった。 また富山市熊野神社横越家所蔵「事相方内伝草案之巻」(『神道大系卜部神道(下)』)

は吉田関係の秘伝書を集めたもので、ここには180種類もの儀式次第項目が載せら

れている。神職が参詣する際、社参の準備から退下までの作法が記してあるが、そこ

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には三種類の祓がみえる。初めの六根清浄太祓(ろっこんしょうじょうおおばらい)

は吉田兼倶が考案したもの、次の中臣祓は古代からの中臣祓を簡略化したもの、そし

て最後に三種太祓(さんじゅおおばらい)である。 この三種太祓は殊に重要な祓えであり、神職の葬儀の際などにも用いられる。三種

太祓の呪文は、 ① 八字祓といわれる「トホカミエミタメ(遠つ神恵み賜え)」という呪文であり亀

卜などに使われるもので古代から伝承されているもの ② 『周易』八卦の字音に由来する「寒言神尊・利魂陀見」 ③ 「はらえたまえ、きよめたまいえ」という略祓(中臣祓)で、陰陽道に由来する などである。③は、陰陽道では「はらい申す、清め申す」と自力祓であったものを、

吉田神道ではこれを正して「はらえたまえ、きよめたまいえ」としたと説明している。 また中世では起請文が流行したが、これには人々の精神を規制してゆくという機能

があった。例えば夫婦離別や禁酒などの約束ごとを起請文で遵守の誓いをたてるとい

ったものである。これを反故にする場合には、それによる罰を受けないようにするた

めに、「起請返し」が行われたが、これは撫物などを使った吉田神道の作法であった。

これなどは吉田の呪術的な部分といえる。また兼倶は神道を仏教と区別しその影響を

排除しようとするが、方法・作法ではやはり影響を受けている。 3 . 吉 田 神 道 の 根 源 吉田兼倶につながる古代・中世での神道の根源的な部分を考えてみたい。神祇官の

卜部氏としては、10世紀以前まで、壱岐卜部(伊岐宿禰)・対馬卜部(直宿禰)が優

勢であったが、11世紀初頭に伊豆出身の卜部平麻呂の曾孫兼延が神祇官の次官(大

副)に昇り、宮主、つまり天皇お抱えの占い師となり地位を上昇させた。これを契機

として亀卜道家の地位を確立し、伊豆出身の卜部家が「亀卜の家」として固定される、

つまり「家業」の成立であり、「兼」の使用も兼延からとなる。 ついで兼延の孫兼親・兼国からは、平野卜部氏、吉田卜部氏の二流に分かれ、以後

はその子孫が卜部氏の氏長者をほぼ交互に継承する。兼延と同時期に安倍晴明が活躍

しており、ともに内膳司という天皇の食事を作る竈の管理者となっている。9・10

世紀に成立し、平安初期には存在が確認される軒廊の御卜は、神祇官は亀卜、陰陽寮

は陰陽道の占を用いて神祇官・陰陽寮の両方で行われる。これらを通じて神祇官と陰

陽師が占いを掌る役職として並存し、これを王権が直接管理する体制が成立した。 この体制では、天皇へ直接、奏聞するルートが設けられている。陰陽寮では、天文

の密奏という直接、天文の変異を天皇に奏上するルートがあり、また天皇の健康に関

わる占いである御体の御卜は、内侍を通じて直接奏上できた。こうした王権・天皇の

身体の安全に関わる占を行う制度が整えられ、吉田卜部家がその中枢を担った。 卜部が自身の伝承を記録として残すようになったのは、康安2年(1362)の『宮主

秘事口伝』(安江和宣編『神道祭祀論考』)が初めであり、それまでは口伝であって、

ここで初めて卜部家は、宮主である自分たちの足跡を記録として残して後世に伝えよ

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うとした。それまでは代々、亀卜の儀式作法は、口伝・秘伝で継承されており、平安

時代後半には、その口伝・秘伝を継承する者が居ないような状況が生じた。 おそらく亀卜のみならず、呪術的な部分から離れ、学問的研究に重点を置くように

なるのが鎌倉時代であり、やがて釈日本書紀の研究などから神道論が立ち上がってく

る。つまり鎌倉時代では学問の家として地位を築く一方、亀卜の儀式作法を伝える家

としての存在意義は失われていった。 それは亀卜の存在意義自体の低下によるものだが、それでも大嘗祭の時などには、

必ず行われている。古代では安房・紀伊などで捕獲した亀を用いていたが、兼倶の代

では薬屋で亀の甲羅を購入したり、現代では新たに捕獲するのは不可能なので剥製を

使って行うなど、様々な方法を駆使して入手し執行している。 鹿など動物の骨を使った占いの作法自体は、弥生時代からあるが亀の甲羅はほとん

ど使われていない。亀の甲羅を使うようになるのは、6世紀ぐらいで、壱岐・対馬と

関東地方の安房・船橋や三浦半島などで確認されている。関東での呪術は、伊豆の卜

部が中心的な存在であった可能性が高いだろう。これらは律令国家が成立する以前の

段階であり、律令国家とは別に独自にそうした占いが行われていたことがわかる。そ

れを大和朝廷・天皇がとりこんでゆき、そのため一般化せずに、朝廷・天皇家にのみ

亀卜の技術・技能が独占的に継承されることになった。 昨年、生物学・動物学の研究者を交えて亀卜の実験を行った。実際に行ってみるに、

割れやすいように刻みを入れ、炙り加減を工夫するなど、その作業は呪術というよう

りは技能・技術であると感じた。私は、最後の炙って焼く部分しか行わなかったが、

実際その準備作業などは大変で、亀卜を掌る人は亀卜の技能者・技術者であったとい

える(東アジア恠異学会編『亀卜』臨川書店、2006 年 参照)。 卜部と対応するのが、陰陽寮の陰陽博士などであり、そうした人々も同様に呪術者

というよりは天文などの技能者・技術者といってよい。もちろん平安の前半に、安倍

晴明などが出てくると、呪術的な傾向が出てきて宗教者として機能を果たすようにな

り、何々道といったものになってゆくが、当初の陰陽寮は技能・技術を以って朝廷に

仕えていたというのが現実である。 6月と12月の年2回、天皇の健康状態を把握するために「御体御卜」が行われる。

天皇自らが行う神事は新嘗祭と6・12月の神今食であり、この神今食を行うための

前段階として、1日から10日まで卜部が神祇官に参籠し、9日の最後の日に占いを

行う。そこで「土公祟」「水神祟」など10項目の祟りがあるかどうかを占う。ことに

神の祟りがあるかどうかが最も重要で、伊勢神宮・豊受宮・京中神・五畿内神のいず

れの祟りであるのかを順々に占ってゆく。さらにはそれが、近仕人なのか宮司なのか

など責任者の分別まで占う。亀卜を行って甲羅のひびが真っ直ぐであれば吉、曲がっ

て行けば凶というように判断してゆく。ここまでの過程は決められた作法をこなし、

判断基準も明確に定められているので、こうした点からすれば亀卜の執行とは技能・

技術であるといえる。この亀卜によって祟りが特定されると「祓使(はらえづかい)」

が派遣され、贖物が差し出される。この神道的な祓の作法を行うというところに宗教

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的な意味がある。亀卜の実施という技術・技能と、祓という宗教的行為との並立で卜

部の職務はなりたっているといえる。 前述したように室町期になって『宮主秘事口伝』が作成されるなど、確実に儀式作

法を記録して継承してゆくようになる。平安時代より、卜部は宮主として内膳司に関

わり天皇の竈の呪術的な管理を行うようになる。また天皇主催の祭りである賀茂臨時

祭・石清水臨時祭では、天皇の身体を清める作法を行い中臣祓を奉仕する。20人の

卜部のなかから、天皇の宮主、中宮の宮主、東宮の宮主、伊勢斎宮の宮主などが選ば

れる。こうした天皇家に関わる宗教的な部分を卜部が掌握するのであり、そこが卜部

の根源的な存在意義であり、そこから日本書紀を研究する学問の家、さらには兼倶の

代になって呪術的な作法を組み入れ、組織化した神職を通じて民衆の家内安全や加持

祈祷などの要求に応えてゆくべき神道の家が完成してゆく。 < 質 疑 討 論 > 10世紀頃より仏教では庶民の除災招福の願いに対応して呪術性が出てくる。神道

でも同じ時期に個人救済と呪術化が進むと考えてよいのか、という質問に対し報告者

から、平安後期以降、伊勢神宮といった最も国家的な神社でも私祈祷が行われるよう

になる、少なくとも鎌倉時代には一般庶民に対して説かれてゆくとの回答があった。 この他、御体御卜の結果、派遣される祓使は形式的には天皇の使者、つまり勅使な

のか、また天皇側で何らかの対応は行われるのかに対して、祓使は神祇官から派遣さ

れ、天皇側では特別な処置は行わないと回答があった。また亀卜での甲羅の割れ目・

割れ方とは神の意志と考えてよいのか、につき、亀卜は占いの庭に神を招いて行うの

で神の意志といえると回答があった。また神道の儀式作法を伝授・継承するための本

山的な機能を持った場所などはあるのか、に対し伝統のある大きな神社などでは、各々

独自に儀式作法を伝授する、吉田神道が入るのは個人の祈祷などに関わる地域の小さ

な神社などであるとの回答があった。

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(2)中世仏教と呪術―呪術性と合理性―

平 雅 行 ( 大 阪 大 学 )

文責 菱沼一憲

は じ め に

中世社会における呪術の位置づけは(a)呪術からの解放 という方向性と、(b)

呪術性の深化・拡充 という二つの方向性が考えられてきた。

(a)呪術からの解放

呪術からの解放については主に真宗史で議論されてきた。例えば、親鸞「三帖和讃」

では「かなしきかなや道俗の、良時吉日えらばしめ、天神地祇をあがめつゝ、卜占祭

祀つとめとす」とあり、天神地祇への信仰を親鸞が歎いている。また1290年に覚

如が東国に下向した際、相模で病になり、善鸞(父の叔父)が病に効くといって護符

を勧めている。ところが、覚如は飲む振りをしてその護符を捨てており(『慕帰絵詞』)、

彼は護符の有効性を全く信じていなかった。このように中世では、呪術からの解放を

思わせる事例が存在する。

真宗以外にもこうした事例は指摘できる。九条道家は1235年、石清水の強訴に

対応しているさなかに病気になった。そのとき『明月記』は「先々依急事御病等、被

立御願事約束等、其事適無為之後、一事不被果」と述べている。道家はこれまでも病

気になれば、立願して神仏に約束をしたが、病が回復するとその約束を反故にして果

たしたことがない、というのである。また、鎌倉末の『寝覚記』は「我信心の分限を

わきまへずして、みだりに仏神をうらみたてまつるべからず」と誡めており、願いが

成就しないと神仏を恨む人々が多かったことを示唆している。

この問題について、たいへん重要な仕事が赤松俊秀の似絵論である(「鎌倉文化」『岩

波講座日本歴史5 中世1』1962年)。赤松は次のように論じている。僧侶や中下

級官人は中世以前から肖像画を制作していたが、院政期になると似絵が盛行して上級

貴族も肖像画を制作するようになった。この似絵の流行は呪術からの解放を意味して

いる。なぜなら、これまでは呪詛に利用されるのを恐れて似絵を作成しなかったのに

対し、呪詛への恐怖感が薄れたために似絵を作成するようになった、という。さらに

赤松は慈円の歴史観にも呪術からの解放の要素が見えるとしている。これまで真宗史

で語られてきた呪術からの解放論を、似絵や慈円の歴史観にも広げたところに、赤松

の仕事の意義がある。ただし赤松はたいへん慎重であって、呪術からの解放は「わず

かに一歩」にとどまるとしている。

石井進はこの赤松説を支持して、院政時代は天皇が「神」から「人」に転化した時

代であり、タブーやマギーからの解放が進展した時代である、と述べた(「院政時代」

『講座日本史2』東京大学出版会、1970年)。石井には、赤松にみられた慎重さが

失われている。

赤松の似絵論に対し、美術史の側から批判したものが、伊藤大輔「似絵の描かれた

場」(『国華』1274、2001年)である。自分の似絵を描かれることに対し貴族

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たちが忌避感情をもっていた理由について、伊藤は、身体的個別性を醜さと捉える観

念が背景にあるのであって、呪咀されることへの忌避と捉える必要はない、と論じた。

さらに私の立場から赤松論文の問題を指摘すれば、そもそも赤松は肖像画に呪咀を

した例を提示できていない。赤松は「肖像画と呪咀との深い関係」を示す事例として、

次の二例をあげる。第一は、朝廷が藤原時平の没後に、菅原道真の怨霊を恐れて道真

の肖像を図画して供養したというものであり(『大法師浄蔵伝』)、第二は離縁された

本妻が自分の父親の肖像画に祈りを捧げて、夫と新妻に報復した事例である(『台記』)。

しかしこれらはいずれも、肖像画に呪咀したのではない。死者の画像に祈願した事例

であって、むしろこれは神像への祈願に類似したものと言うべきだろう。少なくとも

今までのところ、肖像画に呪咀した事例は日本史料では確認できていない(伊藤大輔は

前掲論文で中国宋代の事例を一件あげている)。中世では名字に対して呪咀するのが一

般的であって、わざわざ肖像画を使う必要はない。また僧侶や中下級官人の肖像画は

院政期以前から描かれている。似絵と呪詛とを関係付ける赤松説には大いに疑問があ

る。

(b)呪術性の深化・拡充

中世社会における呪術性の深化・拡充については、黒田俊雄「荘園制社会と仏教」

(『同著作集』2、初出 1967 年)が重要である。黒田は、中世の「生産活動においては呪術や多神観が技術に融着しまつわりついていた」ため、中世農民は「やはり呪術

や多神観から脱却できなかった」とする。しかも自立的小経営の展開は、「より広汎な

農民が積極的に」呪術を受容する基盤をつくった。そして中世仏教のうち、旧仏教系

がこうした呪術性に立脚したのに対し、鎌倉新仏教系は呪術性の克服の理論を基調と

していた、という。この論文は顕密体制論が提起される以前の仕事であるが、黒田の

新たな構想が完成しつつあることを示している。密教による仏教界の統合という顕密

体制論の指摘は、中世の仏教体制が呪術性を基調としていたことを再確認したもので

もある。

また近年、盛行した社会史研究では全体的に呪術性の一面的な強調がめだっている。

確かにかつての研究が、前近代社会が孕む呪術的な側面を軽視してきたことは否めな

い。しかし社会史研究もやや過剰ともいえる呪術性の強調に傾いている。社会史も今

や問題提起の域を脱する段階に入っているだけに、中世社会における呪術性と合理性

との関係について、バランスのよい冷静な議論をすべき時期に来たのではないか。

第 1 章 合 理 性 と 呪 術 性 の 共 在

鎌倉新仏教に呪術性からの脱却という傾向があることは、これまでも指摘されてき

た。では、顕密仏教(旧仏教)は単なる呪術なのであろうか。そこで、12世紀初めの

『東山往来』をとりあげたい。

これは、俗人の檀越と京都東山の僧侶との往復書簡である。この中では、怪異に対

処するには仁王経の転読がよいと言ったり、巫女・験者を批判して病には智行僧から

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の受戒が効くと述べるなど、呪術的な言説もめだつ。しかし他方では、五月生まれの

子供は親に祟るのか、歯が生えた子供は不吉なのか、閏月の神事は忌むべきなのか、

といった質問に対しては、根拠のない俗説だから従うなと答えており、迷信・俗説を

否定する一定の合理性を読み取ることができる。また、僧侶はそれぞれの質問に対し

ては、必ず内外の書物を博捜して当否を判断しており、証拠主義・実証主義的な姿勢

をそこに認めることもできる。もちろん、依拠文献の合理性に限界があるため、呪術

性の融着は否定できないが、それでもやはり顕密仏教はただの呪術であったのではな

い。

こうした合理的精神の発達の背後には、顕教の世界における論義が大きな位置を占

めていたはずである。あるテーマについて関係経文を集め、討論によってその相互矛

盾を擦り合わせながら結論を導くという論義は、僧侶たちに実証的な姿勢を培う機能

を果たしたと言ってよい。

では、密教の場合はどうなのか。これについては、田中文英「中世顕密寺院におけ

る修法の一考察」(『中世寺院史の研究』上、法蔵館、1988 年)が決定的に重要である。田中は、①僧侶たちは病の原因を六つに分類しており、病因に応じて対処法を変えて

いた、②身体的不調が主因であれば漢方薬を与え養生の仕方を教えたし、宗教的要因

が主因であれば懺悔させて祈祷を行うなど、医療技術と祈祷を総合的に駆使しながら

治病に当たっていた、という。このように、当時の修法祈祷は医療技術を踏まえたそ

れなりの合理的を保持していたのであって、「単なる幻想的・観念的存在では」ない。

顕密仏教は顕教であれ、密教であれ、ただの呪術ではなく、一定の合理性を踏まえた

呪術と言わなければならない。

この合理性と呪術性との関係をよく指し示しているのが、中世の裁判である。鎌倉

幕府の追加法92は、裁判における事実認定の方法を定めている。それによれば、奉

行人は証文か証人にもとづいて事実審理を行うが、それでも解明できない場合に神判

にもちこまれる、という。つまり合理的な事実認定をできる限り追求するが、それが

不可能な場合にのみ神判に委ねられている。ただし神判にあっても、参籠中に鼻血が

出たなど「失」の客観的な判断基準が明示されている。裁判がはらむ呪術性・宗教性

は否定できないが、しかし合理的な精神が基調となっていることも事実である。

同様のことは、豊作祈願の祈りについてもいえる。中野豈任によれば、中世の吉書

は神事・勧農・乃貢の三ケ条吉書に収斂するという(『祝儀・吉書・呪符』吉川弘文館、

1988 年)。そこにうかがえるのは、人間的な努力(勧農)と、神仏への祈り(神事)があいまって豊作となり、年貢の納入にいたるという世界観である。中世の領主が望

んだ理想的なありようが表現されているが、ここでもすべてを神仏に頼るのではなく、

勧農という人間的な努力の必要性が重視されている。

ここで留意すべきなのは、神仏の力に限界があるとする言説である。「神力モ業力ニ

勝ズ」「仏ノ報力モ衆生ノ業力ヲバヲサヘ給ハヌ事也」(『沙石集』)のように、中世の

文献には神仏の力でも人間の宿業は変えられないという話が多くみえる。中世社会は

それなりに高度に発達した社会であって、神仏とて、一人の人間がまとっている社会

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的な諸関係を簡単に改変できるわけではない。人間的な諸力によって築きあげられた

高度な社会、これが神仏の力を限定的なものにし、その力の限界を強調させることに

なった。中世は人間の力が万能ではないが、神仏の力とて万能ではない。呪術性と合

理性の混在する要因がここにもある。

第 2 章 暴 力 と 宗 教

(1) 呪詛調伏の実態

前述のように赤松は、中世を呪詛への恐怖が薄れた時代と位置づけたが、それでよ

いのであろうか。そこで呪詛の具体的実態をみてみよう。

太元帥法は古代より約 1000 年間にわたって、毎年正月に天皇のために行われた修法である。この祈祷では、右手の「剣印」で左手の八箇所を打つ。この左手は世界を

表しており、その八箇所を右手の「剣印」で打つことにより、どこに敵がいてもそれ

を調伏するという意味を表している。この太元帥法では武器は使わないが、六字経法

では修法のなかで武器を使用する。まず人形に呪うべき人間の名前を記して、弓と矢

で射殺す仕草をする。ついでそれを切り裂いて火で燃やして灰にする。この祈祷を1

週間行って灰をため、それを水に溶かして依頼主に飲ませて呪詛を終える。

こうした呪詛は、政敵に対してだけではなく、民衆支配の場でも用いられていた。

金剛峰寺では 1348 年より四季祈祷をおこない、ここで荘園支配に敵対した農民らの「名字」を書き上げて神罰・仏罰が下るよう呪詛している。

こうした呪詛は近代的な暴力観からすれば、直接相手に危害を加えるものではない

ので暴力とは認められていない。誰かを呪い殺しても、殺人罪で処罰されることはな

い。しかし中世では、呪詛調伏の成功によって恩賞が与えられたり、あるいは敵方か

ら処罰されたりしていて、呪詛の有効性が信じられていた。たとえば鎌倉末の益信大

師号問題では、山門と東寺が争い、鎌倉幕府は東寺を支持して、延暦寺に強硬な姿勢

をとっていた。ところが、そのさなかに得宗北条貞時と執権が相次いで亡くなると、

呪詛を恐れて幕府の強硬論は腰砕けとなり、延暦寺に全面的に屈服している。こうの

ように中世において呪詛は、実社会に直接的な影響を及ぼす暴力として機能していた。

こうした宗教的暴力の有効性について、一つの指標となるのが「護持僧」である。

天皇の護持僧には正護持僧と副護持僧がいたが、正護持僧だけで 5000 石余の費用をつかって年 3000 回以上の修法を行っていた。また、副護持僧は除目の際に護持祈祷を行った。人事の折には人々の妬みや恨みが渦巻く。そうしたものから権力者を防御

するのが、除目御修法である。武家の世界にも護持僧制度が広がってゆき、鎌倉・室

町将軍ともに護持僧が置かれた。武士が見える世界の侍であるのに対し、護持僧は見

えない世界の侍であって、中世の権力者はこの両者から守護されていた。つまり中世

国家の暴力装置は、軍事的暴力と宗教的暴力の 2 つから成っていた。中世には呪詛への恐怖が薄れたとする赤松の議論には、呪詛の実態からしても従うことができない。

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(2)呪詛の思想的正当化

宗教的暴力は何も仏教の祈祷に限らない。しかし中世で仏教の呪詛が高度なものと

認識され、社会的な信頼を獲得できたのは、呪詛の正当化に秀でていた点に理由の一

端がある。密教では、呪詛調伏はただの暴力ではなく、慈悲による救済と理論付けら

れていた。すなわち敵の命を奪うことが目的なのではなく、悪事を焼き尽くすのが目

的であり、よって慈悲のない調伏は自身に跳ね返ることになる。呪詛によって敵は命

をおとすが、悪事が消滅したことにより来世では救われると説明される。つまりそれ

は救済の暴力なのであり、こうした理論の存在が、他の宗教の呪詛と仏教の呪詛との

違いになっている。

また三学と呪詛が密接な関連を有した。仏教での三学とは戒律・禅定・智慧の 3 つをいい、悟りを得るための手段であるが、呪詛においては「定の弓、慧の箭」という

ように冥界の戦闘での武器と意識された。中世には妻帯する僧侶が増えるが、密教系

の僧侶は比較的妻帯が少ない。それは戒律が祈祷力と関わっていたからである。武士

が日常的に戦闘の訓練をしたように、呪詛を行う僧は、戒律・禅定・智慧を磨くこと

によって自身の祈祷の力を日頃から鍛えていた。こうした理論性が、仏教の呪詛の社

会的信頼性を高めた要因であった。

もちろん呪詛の正当化に対しては、きびしい批判や疑問もあった。慈円は、たとえ

方便であるにしても、仏法の中に「殺害の義」があるのは納得できない、と自問して

いる。また夢窓疎石も、名利のための呪詛が横行している実態にきびしい批判を向け

ている。しかし他方では、こうしたあるべき呪詛への真摯な自問が、仏教呪詛への社

会的信頼性を担保していたとも言えるだろう。

おわりに

若尾正希『「太平記読み」の時代』(平凡社、1999 年)は、『太平記評判理尽鈔』の講釈が広く武士を対象にして行われていたことから、その思想分析によって近世武士

の一般的な意識形態を抽出しようとしている。そして若尾は、『理尽鈔』では宗教的暴

力の有効性が強く否定されている、と指摘する。一方、江戸時代には将軍護持僧がい

ない。これらのことは、近世では国家の暴力装置から宗教的暴力が除去されたことを

意味しているのではないか。中世の顕密仏教は、鎮護国家と五穀豊穣の二本柱であっ

た。このうちの鎮護国家の機能、暴力の宗教性が解体していったのが近世ではないか。

解脱貞慶は『観音講式』で「人力之所不及、皆祈仏神」と述べた。このように人間

的な力の限界で神仏は生きている。とすれば、合理性と呪術性の共存は、ある意味、

超歴史的に存在し続けると考えるべきであろう。人間が死ぬということを不条理だと

考える人間がいる限り、呪術性が消え去ることはない。ただし分野によっては、呪術

性が極小にまで低減してゆく領域もあるだろうし、呪術性が根強い生命力を保持し続

ける分野もあるはずだ。本研究会での藤井恵介報告によれば、呪術性からの脱却は一

律のものではなく、分野によって異なるとみるべきだいう。私もその意見に賛成であ

る。

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ただしある特定の分野をとってみたとき、その分野の合理性が直線的な発展をたど

ると想定する必要は全くないだろう。文化体系が変われば知識・技術の断絶・退行は

当然ありうるし、安定した社会よりも移行期・変革期のほうが社会的なストレスが大

きく、呪術性や宗教性への依存が深まるはずだ。不安と緊張、これが呪術性の母胎で

ある。かつてにおいても、また現代においても、それは同様である。

< 質 疑 討 論 > 近世史の側から、中世での将軍護持僧制度が徳川幕府には引き継がれないといった

国家機能としての宗教的暴力の後退がみられるのは確かだが、一方では後退しながら

も幕末まで朝廷の国家鎮護機能が残存するのもの事実で、一概に中世から近世にかけ

て軍事部門の脱呪術化が進むとはいいがたいのではないか。今後、近世における朝廷・

天皇の機能自体も史料整理の進展によって明らかになるであろうから、そうすれば近

世での宗教的暴力の後退という評価も変化する可能性はある。また古代・中世側の研

究者が余りに近世を近代的世界・合理的世界と認識しすぎるのではないかとの指摘が

あった。 また公的世界と私的な世界とでは、合理性・呪術性の問題は異なって表出するので

はないか、という質問に対し、もちろん私的な世界では呪術性が維持される、今回問

題にしたのは、公的な部分、国家機能としての部分についてであると回答があった。 寺社の荘園支配に関係して、年貢未納の百姓を呪詛するといった例があげられてい

たが、それは恒常的に行われていたのか、という質問に対し、そうした事例が多いわ

けでなく、採りあげた事例も南北朝期の戦乱を背景としているのであって、年貢がス

ムースに納入さているような場合にはないだろうとの回答があった。また、この問題

に関して、興福寺では、寺領支配と法会の執行とが関連づけられており、年貢未納が

法会の執行を妨げ、それが豊作を妨げるというという論理で農民支配に利用されてい

たことが指摘された。 また今回の脱呪術化の議論は、パラダイムの転換、あるいは戦後歴史学との対峙と

とらえてよいのかという質問に対し、あくまで赤松・黒田議論の継承を試みたもので

あり、ことに合理性と呪術性のバランスをとりながら、あるいは分野ごとの相違を意

識しながら議論を進めるべきではないかと考えているとの回答があった。

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( 3 )宗 教 と呪 術 ・総 合 討 論 平報告では、内外の書物を博捜して検証し合理的な判断を求めようとする証拠主義

が生まれる一方で、呪術性も失われることなく再生されるとされた。この点、本研究

会での横田冬彦氏の医療における医書と呪術との関係でも同様であった。こうした事

例からすれば、中世・近世ともに呪術性と合理性が共存するという点での共通性・普

遍性が指摘できる。これまでの歴史学では、合理性が呪術性を克服してゆくという方

向で考えてきたが、呪術性と合理性が共存するという認識はパラダイムの転換につな

がってくるのかもしれない、という提起がなされた。 また呪術性と合理性が共存するという問題は、呪術と宗教の問題を考える上で重要

であって、これまで宗教と呪術、宗教性と呪術性との区別・線引きは未解決の問題で

あったが、そのヒントとなり得るのではないかといった議論がなされた。 呪術が宗教にとりいれられるときに、ある一定の合理性が備わって、それにより民

衆は少なからず呪術性から解放されるという現象があるのだろう。そうした現象は中

世でも近世でも起こっていて、殊に近世から近代にかけてそれが急激に進んだ、それ

によって民衆知も飛躍的に成長したという関係にあるのではないかといった議論がな

された。

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(4)日本の漆文化 9 0 0 0 年―その始まりと変遷― 永 嶋 正 春 ( 国立歴史民俗博

物館) 文責 菱沼一憲

は じ め に 漆関係資料をとおして、縄文・弥生時代の文化的諸状況を考察し、それが歴史時代

へいかに継承され、あるいは断絶し、大陸文化を導入しつつ現在へ至っているのかに

ついて考えてみたい。 A. 漆 資 料 の 有 用 性 a)漆の個性 漆は縄文時代前期より出土している。漆技術・製品を美術史的・工芸品的な観点で

検討するという方向性は見出されていたが、人間の生活史といった意味での歴史学の

素材としてはあまり利用されてこなかった。しかし漆の個性や、そこから規定される

事象を推定してゆくと、歴史的な情報に還元できると考えている。 漆技術は、東南アジア・日本・中国大陸など限定された地域に分布する技術である。

また植物学的に中国・朝鮮半島・日本では同じ漆を使い、東南アジアはそれらの漆と

種別が異なる漆を使用する。また漆の利用には季節性が重要で、樹液の採集に適する

のは、活動が活性化する高温多湿の夏に限られる。漆が固まるのも高温多湿の環境が

良いため夏が利用の適性期となる。漆の樹液分泌量はわずかなもので、そのため、少

ない量を如何に活用するか、必要量を確保するかという問題が存在する。時期的、分

量的に限定されているということが漆利用の規定要素にあげられる。 漆は万能樹脂で多様な機能を備えており、塗料の他に接着剤・塑形材などにも使用

され、紫外線には弱いものの耐久性・耐薬品性・耐熱性を備えた優れた樹脂である。

漆は他の木材・土器・繊維などの素材に“塗る”などにより一体化して何らかの製品

となる。そのため使用技術は、他の素材の加工技術と密接に関係せざるを得ない。つ

まり木材・土器・繊維などの加工技術が低くければ、当然、漆の機能は落ちて良い製

品とはならない。土器の場合でいえば、漆塗装を前提として表面を精緻に仕上げた土

器を作る技術が重要である。他の素材についても同様で、そうした技術が漆技術と並

行して発達する必要があり、漆製品に関連した周辺技術の発達段階の評価ができるで

あろう。 縄文では赤い漆が好まれるが、優良な赤色顔料を使用しないと美しい赤色は発色し

ない。よって良質なベンガラ(赤色酸化鉄)を作り出す技術や入手の手段が問題とな

る。縄文後期では、朱(硫化水銀)も使用されるが、そうした素材を如何にして入手

するかという流通の問題でもある。美しい赤の発色をめぐって、その背景となる技術・

流通の存在が見えてくる。 また漆加工の道具類も、漆の樹液を採取するために幹を掻く道具から始まって、漆

をクロメル、ナヤスなど加工調整し、塗料として良質化する作業のための容器なども

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必要となる。きれいな漆塗りをするためには、布を使って漆の中のゴミを濾さなけれ

ばなない。つまり“布”の存在が必然であり、漆の出土状況からして縄文時代前期に

は布を作る文化が成立していると考えられる。また塗られた漆の状態からして、箆(へ

ら)・刷毛・筆の存在も想定しなければならない。漆との関連からその周辺技術の発達

段階を導きだすことが可能となる。 また漆文化から縄文時代の生活環境全体について様々な規定を与えることが可能

である。素材の土器・木材や顔料を手に入れ、それらを保存管理する体制も存在しな

ければならない。また漆は埃を嫌うので、一般生活の場とは異なる清浄な環境を保つ

専用の作業場、いわゆる工房などが設けられているかといったことも問題となる。ま

た漆を使うとかぶれるので、漆にかぶれない人が扱ったのであろうから、そこに漆を

扱える人と、扱えない人の区別が生まれたことが想定される。さらには、そうした扱

える人々による専門集団が出来ていたという可能性もあるだろう。このように漆製品

の生産環境から、当時の人々の生活・社会についての様々な規定要因が導き出される。 縄文では漆が長期にわたって継続的に利用され、技術が継承されていると想定され

るが、そのためには漆の栽培管理が不可欠である。漆は採取後、程なく固まってしま

うので、朝、採りに出かけロス分を見込んだ必要分量を集め、その日の内に処理加工

し使い終わらなければならない。一本の木から採れる漆液の量も限られている。また

漆は陽樹で日照に恵まれた環境を好むので、日本の樹木の鬱蒼とした自然植生の中に

は馴染まない。こうした条件からすれば、縄文人は一定量の漆の木を、集落の近辺で

栽培・管理していたはずである。また漆文化・技術がかなり長期にわたって伝承され

ていることからして、管理栽培も長期にわたって行われていたであろう。漆の特性か

らして、それは十年前後の予定的計画性が必要であり、とすれば縄文人の高い定住性

も想定されなければならない。また栗などの食料確保のための栽培が漆栽培より重要

であることはもちろんで、そうした優先品目の栽培の余地に漆が栽培されていたこと

になる。つまり高い定住性と緻密な生活サイクル計画の上で、漆を栽培管理していた

と考えなければ漆文化・技術の長期的継続性というものは説明できない。

B . い つ か ら 使 い 始 め た の か 日本の場合、古くは 9000 年前の北海道函館市(旧南茅部町)垣ノ島遺跡Bの土壙

墓で漆製品がみつかっている。この出土品は 9000 年前にもかかわらず、何層もベンガラ漆が塗り重ねられた多層構造である。このベンガラ漆にはパイプ状ベンガラとい

う良質で特殊なベンガラが使用されている。北海道内での漆栽培は縄文後期段階には

確認できるので、縄文時代早期であっても、漆の管理栽培が始まっていた可能性はあ

るだろう。また北海道は漆文化の中心ではなくむしろ北端地であるので、中心地では

それ以前に高度な漆文化が誕生していたと考えられる。北海道垣ノ島B遺跡での漆製

品の発見は、その古さとともに中心地ではない場所で発掘されたという点でも重要な

のである。9000 年前段階で高度な漆技術が成立していることかすれば、製品は出土していないものの 10000年を越えた古い時代から漆の使用が開始されていたと考えても

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矛盾はなかろう。 中国で最も古い漆製品は 6000~7000 年ほど前のものとされている。すると日本の

漆が中国の漆より 2000~3000 年くらい古いことになる。今後、中国でさらに古いものが発掘される可能性はあるが、その前後関係が逆転するということは今の段階では

考えにくい。 島根県松江市夫手遺跡出土の漆液容器は、6800 年前の製品であることが歴博の炭素

年代測定によって明らかになっている。この製品の場合、漆の水分調整をするための

クロメルという作業が施されている。漆を加工調整して良い品質にするということが

約 7000 年前には存在していたことになる。またパイプ状のベンガラ顔料も確認できる。出土した漆関係資料はこの一点のみであるが、すでにこうした高度な技術が存在

していることからすれば、松江市周辺では、優良な赤色漆を使用した漆製品が作られ

ていたと考えてよいだろう。 また長野県川原田遺跡では、かつて赤色漆が付着残存する縄文時代前期初頭の土器

片が出土していた。これらの諸例から、漆文化が確実に 7000 年前・9000 年前から広く存在していたという議論ができるようになった。

C . 漆 の 個 性 を 熟 知 し た 使 い 方 縄文時代では漆の個性を熟知し、壊れた土器を修復する接着剤として、また竹を編

んだ籠や木器・土器などに塗るなど多様な用途に利用されている。 東京都中野区北江古田遺跡で出土した木胎漆器片は、恐らくは鉢であろう木胎に木

炭粉末と漆を合わせたものを下地として塗り、その上にクロメ漆を塗り、赤色漆を三

層に塗っている。三層のうち、見えない最下層にパイプ状ベンガラ漆を塗り、上二層

の黒子的役割を担わせている。中間層の朱漆の朱粒は大粒のものが使用され、上層の

朱漆には朱粒の細かいものを使用するというように、粒度分別が行われている。同一

素材の朱でも粒子の大きさにより色調が変化し、粒径が大きいければやや鮮やかな朱

色に、小さければ柔和な朱色になる。もし好みで塗り分けているならば、当時の人々

はおだやかな朱色を好んだといえよう。また、粒が均等に分散していることから、ゆ

っくり回転させるなど動かしながら乾燥させていたことが想定される。こうした工程

は現在でも行なわれており、もし動かさずに乾燥させると、朱粒がどちらかに偏って

しまい綺麗な発色にならない。 また漆を塗る対象によって、比較的入手が容易なベンガラと貴重な朱のいずれかを

選択し、また朱粒についても色調を意識して使い分けている。例えば北海道恵庭市の

カリンバ3遺跡では縄文時代後期を中心とした櫛などの装身具類が大量に出土してい

る。それらは副葬品として墓内に配置されており、これらの漆製品には多様に色調を

変化させた朱が使用されていて、当時の人々の色彩意識が読み取れる。千葉県の内野

第1遺跡では、何層かの朱漆を塗った編組製品が縄文時代後期の埋葬幼児骨の上で見

つかっている。これをどうみるかは様々であろうが、縄文人の埋葬意識を漆の使用か

ら探ることができよう。

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D . 弥 生 時 代 の 漆

縄文時代には全国的に在地性の高いかたちで漆がたくさん出土するのに対し、弥生

の漆は非常に少ない。また縄文時代には、土器に赤い漆を塗ることは珍しいことでは

ないが、弥生ではまずみられない。かろうじて黒色系の漆が塗られた弥生時代中期の

土器が松江付近で集中して出土しているが、他の地域では確認されていない。松江の

対岸の韓国茶戸里(タホリ)では、ほぼ同時期の漆製品が出土している。刷毛の軸・

剣の鞘・タカツキなどの木製品に漆を塗ったものがあるが、赤い漆はほとんどない。

この遺跡からは漆を塗った土器も出土している。 弥生時代には、また漆をクロメルとかナヤスといったように加工調整して良質な漆

にするという発想もみられない。島根県・鳥取県などで朱漆塗りの櫛などが出ている

が、縄文時代のような強固な製品ではない。 このように、かろうじて出てくる弥生時代の漆ではあるが、縄文に比較して漆技術

としての質は高くない。高知県の居徳遺跡からは、外面に朱漆によって文様(漆絵)

を描いた大型の木胎漆器が出土している。それは縄文的な製品ではなく、また時期が

弥生時代の始まるころであることからすれば、中国大陸から渡来した人が直接持ち込

んだと考えたほうが理解しやすい。 E . 古 墳 時 代 弥生時代では漆が多用されることはなく、そのまま古墳時代となる。古墳に埋納さ

れている武器類・武具類などに漆が塗られた例がみられる。ただし焼き付け漆により

黒光りするほどに塗り上げられた鉄製の甲冑は例外であって、大方はそこまで丁寧に

仕上げられたものではない。なお焼き付け技術そのものは縄文時代にすでに確立して

いる技術である。古墳時代の漆利用は弥生時代の延長と考えた方がわかりやすい。 ただし、古墳時代の地方の住居跡から漆が固まったものがでてくるといった事例が

ある。また土師器のなかには、黒色光沢で仕上げられている製品があって、その中に

は確実に焼き付け漆によるものが含まれていると考えられる。めだたないながら、地

方でも漆が使用されていたことになる。 古墳時代後期には、古墳の副葬品として大量の漆を使用した大型の漆製品がみられ

る。こうした背景として大量の漆を徴収する制度や、徴収の対象となるような階層が

成立していたことが考えられる。 F . 古 代 ~ 中 世 の 漆 奈良時代では正倉院の宝物で典型的に示されるように、大陸的な漆塗りの影響を強

く受けたもの、あるいはその模倣的な製品が作られた。それが徐々に和風化してゆき、

正倉院の宝物のなかにも蒔絵的な品がみられるようになる。平安にいたって日本独特

の漆技術が芽生え、中国の技術を基礎にしながらも、中国にない技術を見出して行く。 古代末から中世では、ごく限られた上流階級のみの高級品であったものが、使用者

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の範囲が徐々に広がっていった。それは技術的には柿渋利用がその背景にあるらしい。

遅くとも古代末・中世初頭からは柿渋使用が始まっており、木胎に直接漆を塗るので

はなく炭粉渋下地を塗ることにより、高価である漆の使用量を抑え安価な普及品を大

量に生産することが可能になる。また使用量の抑制のため、油で薄めた漆が使用され

ており、広島県の草戸千軒で出土した漆は、本来ガラスのように強固であるはずの漆

が、ラップフィルムのように薄く水にただようような製品となっている。漆製品が一

般に広がっていった背景には、こうして量産ができ安価になったという製造技術の変

化がある。 大量生産品も初期はべた塗りの単色と考えられるが、やがて朱漆、ベンガラ漆で華

飾するようになる。安価に仕上げることを前提しているので、人工的に大量生産され

た朱が使用されているが、延ばし易い朱漆となる性質を利用し、繊細な線を描くなど

の工夫が凝らされるようになった。 H . 近 世 の 漆 中世に成立した安価で大量生産しながらも華飾が施された製品技術は、近世の会津

漆器などに継承される。会津漆器では、安価・大量生産系の技術である渋下地を用い

ながらも、丁寧に作って高級なものに仕上げるという方向が選択されている。一方、

江戸に始まる輪島漆器は、消費地から離れた遠隔地なので、たとえ高価になっても丁

寧で堅牢な漆器を作り、長く使えるように修理・アフターケアも行うというような、

会津とは全く違う方向で製品化している。

< 質 疑 討 論 > 会津藩で漆器生産が成功した理由・要因は何かという質問につき、会津藩では藩が

漆栽培から製品生産、販売までを一貫主導して成功に導いている。そうした藩として

の政策が成功したのだといえ、例えば米沢藩などでは漆の実から蝋を作る試みがなさ

れたが失敗しており、藩の政策の問題が大きいと回答があった。またこれに関連して、

信濃国の国衙課税として漆があり、室町期では税物として蝋がみられる、この蝋が漆

の実かあるいは他の素材かは特定できないが、漆を栽培してそれを多用に利用してい

たということも考えられるのではないかとの指摘があった。これにつき報告者から、

縄文人は高度な木の利用知識を持っており、当然、漆の実も利用したであろうが、今

のところ蝋を作ったかどうかは実証することはできないとの回答があった。 ついで縄文時代に成立する高度な漆加工技術につき、そういった技術が発生した、

あるいは創り出さなければならなかった理由についての説明が求められた。これにつ

き報告者から、漆製品が日常品であったのか、あるいは非日常品であったのか、その

判断は難しい。ただ、漆の管理栽培から製品が出来上がるまでの手間と製品の美しさ

を考えると、ある種の象徴性を持った製品と考えるべきであり、縄文時代の人々はそ

れを追い求めたものと理解したいとの回答があった。

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(5)美 術 と 呪 術 伊藤 大輔(岡山大学、2007.4 より名古屋大学)

文責 菱沼一憲 は じ め に 本研究会のテーマである技術と呪術という問題について、鎌倉時代の肖像画の枠組

みという視点から検討を加えてみたい。 1 . 平 安 ・ 鎌 倉 時 代 肖 像 画 史 の 枠 組 み ~ 赤 松 俊 秀 の 呪 詛 論 美術史では肖像画に関する個別の作品研究はあるが体系的な理念を与えるような研

究はあまりなく、基本的には赤松俊秀「鎌倉文化」(『岩波講座日本歴史 5 中世1』岩波書店、一九六二年)の構築した枠組みを現在でも継承している。 その要点は、 1) 鎌倉時代に似絵を筆頭に肖像画が発達したのは、呪術的精神から解放され、

真実を追求する姿勢が生まれた為である。真実の追求、それは鎌倉文化の特色

をなすものである。 2) こうした脱魔術化モデルを裏返すことで、平安時代には、呪詛へ悪用される

のを恐れたため、特に上位貴族は生前肖像画を作るのに消極的であった。 というものである。

日本の美術史は西洋美術史の枠組みを応用・転換して研究されてきた。その西洋美術史では、ルネッサンスが近代精神へのつながりという点で重視されている。そこ

での脱魔術化論・ルネサンスモデルと赤松氏の脱呪詛論とが良く対応していたため、

ながらく赤松論の枠組みが生き残ってきたといえる。しかし赤松氏の議論は、鎌倉期

における脱魔術化という結論への誘導を目的としてなされており、美術史の側からも

赤松氏の構成した枠組みを再検討する必要が議論されつつある。 鎌倉時代=脱呪術化の時代とすれば、その論理的帰結として平安時代は魔術の時代

だったということになる。そこから平安時代の貴族は、呪詛に悪用されるのを恐れた

ために、上位貴族は肖像画を描かれることを忌避したという平安時代の肖像観が引き

出された。結論から逆に考えて行くと、こうした論理展開になる。こうした脱魔術化

論や赤松呪詛論の根底には、マックスウエーバーが唱えた近代論がある。おそらく、

この「呪詛」が未だに魅力的な話題になっているのは、不合理なものに関心を持つポ

ストモダン的な状況に対応した議論が続けられているため、赤松呪詛論も引き続き継

承されているのだろう。 昨年の藤井恵介報告では、現代建築における再魔術化といった問題が採り上げられ

た。こうした脱魔術化・再魔術化という部分に現代社会の関心が向けられている。赤

松論には、そうした議論に答える魅力があることも確かだ。そこで赤松呪術論への再

検討をおこないつつ、美術史の立場として現代的な再魔術化論と議論をかみ合わせて

行きたい。ことに赤松呪詛論では、魔術と脱魔術を考える上での象徴的な題材として

肖像画がとりあげられており、鎌倉時代の肖像画と魔術性をめぐる問題からアプロー

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チを試みる。 赤松鎌倉文化論の根拠となっているのは、①『玉葉』の九条兼実の発言から読み取

れる平安貴族の肖像画の忌避意識、②平安時代には文献・作品双方において、天皇・

摂関などの上位貴族の肖像画が存在しないという2点である。①は、後白河院が作ら

せた最勝光院の御堂の障子絵に関する『玉葉』承安三年(一一七三)九月九日・十二

月七日条が問題となる。この障子絵には、院に供奉して寺院に参詣した公卿の達の面

(おもて)が写してあり、これを目にした九条兼実は自身が描かれなかったことにつ

き「冥加」と感想を述べている。赤松氏は、ここで兼実が冥加と感じた理由は、その

肖像画を以って呪詛されることを恐れたからだとし、ここから当時の上位貴族の肖像

画忌避意識を読み取った。兼実が顔を描かれることを忌避したのは事実であろうが、

その抵抗感が、赤松氏のいうように呪詛を恐れる故であるのかどうかは議論が分かれ

る。 2 . 平 安 時 代 の 肖 像 観 はじめに①の史料解釈の議論ではなく、②の問題からアプローチを試みる。つまり

「平安時代には天皇、摂関などの上位貴族の肖像画が存在した痕跡が見られない」と

いう点につき検討してみたい。肖像画の検討材料は少ないが、美術以外の造形世界で

ある人形史の分野では、人形・天児(あまがつ)というのがある。 天皇や摂関などが死去したとき、近親者が自身の人形や天児を御棺の中に入れる習

俗がある。『長秋記』一一二九年(大治四)七月八日条では、白河上皇の葬儀にあたり、

「(鳥羽上皇の)御形代(かたしろ)を儲け、御棺に入るる事、その沙汰無し」という

ことが問題とされている。記主源師時は、この件に関して鳥羽上皇に上申したところ

上皇は全くそのことを知らなかったので、師時自身が差配して急遽「黄檗五寸人形」

を作成して奉行人に付している。上皇が葬儀の責任者である治部卿源能俊を召して形

代の件を尋ねたところ、能俊は、形代は白河上皇の子供許が入れるもので、孫にあた

る鳥羽上皇は必ずしも入れる必要がないこと、また人形を入れることは、古昔、死者

とともに肉親が墓に入って死んだ風習に由来する「非吉」なることなので勧めなかっ

たのだと説明している。対して師時は、能俊の説を「甘心」せずとし、自身に替えて

人形を入れるのは「解除の心」からであり、殉死するという意味ではないとする。つ

まり、解除(=はらえ)とは人形を用意し、それに穢れをうつし、それを入棺してこ

の世から送り出すということであるらしい。ここで使用されている形代は、字のごと

く肖像として使用されている。 また『左経記』所収『類聚雑例』の一〇三六年(長元九)四月二十二日条の例では、

後一条天皇崩御にあたり、天皇の兄弟は先例により「阿末加津(あまかつ・天児)」を

入れたが、新帝(後朱雀天皇)は憚って入れなかったとある。この他、同様の事例は

八件ほど所見した。 こうした例は美術史的な事例ではないが、肖像と呪術という関係から考えた場合、

そこに呪術的な要素は少なく、あくまで「身体の代理」として機能していたと理解さ

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れる。つまり、身体の代理として機能する肖像は平安期より存在していたことになろ

う。 『栄花物語』(巻四十、紫野)には、菩提院の御堂の後一条院像は「似させたまは

ねど、思慕のよすがとなった」と書かれている。つまりたとえ似ていなくても、肖像

としての代理機能を果たすことが可能であることを示している。つまり平安貴族の肖

像観は、似ていることが重要ではなく、個人的な想いを託す対象として機能すればよ

いのであり、なんらかの身体の代理性を持っていれば十分であって、美術性を追求す

るようなものでもなかった。むしろ「形見の品」に近いもので、その人を偲べるもの

であればよいのだろう。 こうした事例からして、平安期には魔術観念から肖像画・肖像が存在しないという

②の前提は妥当ではないと理解される。 なお、この葬送にあたっての形代・天児について、民俗学では、死者によって冥界

に引き込まれるのを避けるため、代理として人形を入れるのだと説明されている。 3 . 肖 像 画 の 基 礎 概 念 ~ 生 身 性 と 肖 似 性 1) 外形よりも機能の優先

E.H.ゴンブリッチ「棒馬 あるいは芸術形式の根源についての考察」では、原始の時代には外形よりも機能が優先し、その形態は二次的なものとする。その典型例とし

て挙げられているのが棒馬(ぼううま、子供の遊具)であり、ただの棒がなぜ馬の代

わりになれるのか、そうした疑問を提起し、本来は機能が優先・形態は二次的である

との理論を展開している。 その結論部分は

「ただの棒が馬と言われたのはそれに乗ることが出来たからだった。比較項は形よ

りも機能の方だった。」 「象徴と象徴されたものとの間の共通項は『外形』ではなくて機能である。」 「対象指示の問題は示差の程度とは全く別問題である。」

というものである。棒馬の他に、猫が鼠の代わりに追いかけるボール、赤ん坊が乳首

の代わりに吸う親指といったものが例示され、これらのケースは、物の外形の描写で

はなく、擬似的な機能性に重点が置かれた例であり、こうした傾向は本源的に存在す

るのだという。 2) 外形描写の契機 では外形描写、客観的な形の描写は如何にして誕生するのであろう。その移行の契

機につきゴンブリッチは「代替物の創造というよりはむしろ視覚的経験の記録であっ

ても良いなどといったことが一般に理解されるようになったときには、原始美術の基

本原則は難なく踏み越えられてしまう」と説明する。つまり近代精神の自然な発露が、

機能重視から外形描写、客観的な形の描写重視へ移行する契機なのだとする。しかし、

客観的な外形描写が行われるようになる理由は、「一般に理解されるようになった」=

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自然に理解されるようになるとしか説明がない。ゴンブリッチにとって、何故、そう

理解されるようになるかは説明不要の現象なのであろう。この点、赤松論においても

同様であり、脱魔術化論の展開にあたって、脱魔術化する理由の説明はない。 ただしゴンブリッチの理論を詳しくみてみると、棒馬発明者の行動に仮託しながら

それに言及している部分がある。すなわち、個人の閉じた関係においては、外見描写

は必要とされないが、他者の目を意識しコミュニケーションを求める時、外形描写が

要請されるとする。簡単にいうと肖像画の社会化という現象が起こってくるというこ

とだろう。 そうした視点にたってみると、人形とか天児といったものは基本的にはプライベー

トな私的な関係で使われているため、細かい外形描写は必要ではなかったと理解でき

る。より複雑な外形描写が行われるようになるのは、社会的な広い関係のなかで使わ

れるようになるという肖像画の社会的問題であり、呪術的な観念の変化といった問題

ではないのだろう。 4 . 赤 松 呪 詛 論 の 再 検 討 外形描写を「肖似性」といい、代理の機能を「生身性」という。赤松氏は伝統的な

美術観に沿って肖似性のみしか見ていなかったが、実際のところ平安時代には肖似性

はなく生身性のみなので、肖似性からの観点からでは平安時代の肖像の状況は捉えら

れない。 赤松呪詛論を支える二つの根拠の内、②の根拠=平安肖像の状況認識に関しては事

実誤認、過剰解釈で、全体として誤りである。赤松論で示された肖像画を通じて描か

れている世界観というものは違っているものと思う。 また、平安時代は肖像が生身の代わりとして機能していたという点では、やはり魔

術的な時代であったといえ、赤松氏の結論部分は妥当である。①の根拠=兼実の発言

の解釈については、平安時代に肖像が作られ、それが魔術的な代理性の視点から使わ

れている以上、兼実が魔術的な使用を恐れて発言した可能性はありうる。 こうした点からして、赤松呪詛論は半分正しく半分間違いの複雑な議論であり、そ

れ故に把握しにくかったのである。 5. 似 絵 の 登 場 は 脱 魔 術 化 の 指 標 か ? たとえ赤松呪詛論における平安肖像の状況認識が過っていても、機能に着目してい

た生身性の時代から、外形描写に着目している肖似性への変化が、脱魔術化の過程を

示しているという解釈も可能である。そこで生身性→肖似性という変化の構造自体を

問題にする必要がある。 まず原理面での検討を試みる。そこでの最も基本的な問題は、生身性→肖似性とい

う変化が、肖似性の登場により生身性が排除されたのか、あるいは相互排除的交代現

象であるのかという点である。1960年代のモダリズムの時代には、発展史観から

生身性が消滅して近代的なものへ変化する、肖似性を獲得してゆく、という方向性で

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とらえられていた。しかし、現在では両者は二重化し相互補完的な緊張関係にあると

考えられてきている。 例えば、ドイツのクリス/クルツは、生身性が減少して近代化し始めると、それを

肖似性で補おうとしはじめる、つまり外形描写により逆に魔術世界に引き戻すような

生身性・肖似性の相乗効果的側面を説いた(エルンスト・クリス、オットー・クルツ

著(大西広・越川倫明・児島薫・村上博哉訳『芸術家伝説』(ぺりかん社、一九八九年

六月)。この理論は直接、日本の肖像画にあてはまる可能性もあり、理論的には有意義

なものであろう。 似たような議論を探してみたところ、中国伝神論の『図画見聞誌』(巻五、周昉伝)

では、肖似性・生身性の二重化を意識すべきだという教えが説かれている。すなわち、

物体としての外見=肖似性と、描かれた人物の内面性、人間性=生身性が兼ね備わっ

ているのが優れた絵なのだとする思想である。また元の時代以降、中国の肖像画の教

科書的な書物となる王繹『写像秘訣』でも同様で、人相をよく観察して正しく写し、

かつその性格や情を読み取って描写する必要があると肖似性・生身性の二重性に言及

している。 6 . 似 絵 の 理 念 原理面で肖似性・生身性の二重性が想定しえるが、では実際、歴史面での妥当性は

どうであろうか。ことに赤松論で変化の最初の指標とされた似絵の本質について検討

してみたい。美術史における似絵の理念については、古川躬行のパラダイムが支持さ

れてきた。すなわち、「尊崇するかたは肖像といひ、游戯のかたをば、にせ絵とよびわ

けし」(黒川真頼編『訂正増補 考古画譜』一九一〇年四月)というもので、尊崇すべ

きものを肖像、游戯的なものを似絵と区別する。似絵は簡単なスケッチ風の白描画で

あるので、古川躬行は、厳密な資料的検討を経ず、実物を見て直感的に似絵と肖像を

分類したのであろう。 似絵は、簡単なスケッチ風の白描画で、小さくて媒体も紙が主流で保存性も悪い。

それゆえ当時の貴族にとってどれほど重要なものであるのか、貴族たちの観念の変化

の指標となり得るのかという疑問もある。 そこで当時の貴族が似絵を如何にとらえていたのかということを、儒学の権威であ

った菅原為長が関わって一二三三年頃、後堀河院の時代に作成されたとされる『似絵

詞』の解釈から検討してみたい。同書の「似絵」の項はほとんど中国画論を引用して

作成されているが、為長のオリジナルであろう部分では「昔者自写真之者、華陽隠居・

香山居士是也」とあり、似絵の起源として香山居士=白楽天をあげている。白楽天は、

自分の年齢の老いを見つめるため、34歳の時・50歳の時などにそれぞれ肖像画を

描き詩を読む「写真詩」を行っている。また、白楽天は文人達の肖像である文人画会

図を描いていることが有名である。似絵が中殿御会図や、先にあげた最勝光院御堂の

障子絵などのように集団肖像画・行事絵の枠組みで出てくるのと、鎌倉の儒学者が似

絵の起源として香山居士をあげていることを付き合わせて考えれば、似絵の起源とし

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てこの文人画会図が意識されていたことを物語るのではないか。つまり日本の似絵と

は、日本人をスケッチして対象描写しているというよりは、中国的な型に日本の貴族

をあてはめる活動だったように読める。とすれば日本に写実精神が発生したというよ

うに解釈するのは正しくないだろう。 前掲『似絵詞』は文人の嗜みである八つの芸能について、それぞれの名人を肖像画

に描いて詞書きを付けて顕彰するという中国的な文脈で作成されている。この八芸は

似絵・詩・書・音楽・和歌・神楽・競馬などであるが、これを和漢に分類し、似絵・

詩・書は中国起源、和歌・神楽などは日本起源とする。この点からも似絵の起源を中

国とする認識の妥当性が感じられる。そうすると何かのイメージに自身をあてはめて

自己の不全感をなぐさめるという、一種のおまじない的な発想が存在しているのでは

なかろうか。つまり生身性→肖似性という変化においても、魔術的な要素はのこされ

るのだという近年の全体的な方向性と合致し、整合的に理解できるであろう。 < 質 疑 討 論 > 天児に関し、それが葬送儀礼なのか、あるいは殉死的な行為なのか、という点につ

き質問があり、それを何れかに収斂しようとするよりも、両義性でとらえるべきであ

ろうという議論に及んだ。 また、機能か形態かというゴンブリッジの二者択一的な問題設定は、日本の場合は

適当ではなく、機能論と形態とを切り離して議論することは不可能であろうとの批判

があり、機能と形態というように分けて考えるわけではなく、機能が先か、形態が先

かという議論に注目しているのであり、どちらか一方という議論ではないとの回答が

あった。 名前を書いて対象を特定すれば生身性の問題はクリアーされるが、名前を記すこと

と肖似性の問題はどうかかわってくるのかという質問に対し、人形などに名前を書い

て肖似性が失われる傾向はあるが、全く形を失って概念化するわけでなく、肖像のリ

アリティーは失われても、手足は残されるなど概念の世界に戻って行くのが肖像画の

世界なのではないかと考えていると回答があった。

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