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九州大学学術情報リポジトリ Kyushu University Institutional Repository 清代前期の福建商人と長崎貿易 劉, 序楓 九州大学大学院文学研究科 Liu, Shiuh-feng Gradutate School of Letters, Kyushu University https://doi.org/10.15017/24599 出版情報:九州大学東洋史論集. 16, pp.133-161, 1988-01-25. 九州大学文学部東洋史研究会 バージョン: 権利関係:

清代前期の福建商人と長崎貿易 · 台 湾 か ら 長 崎 に 渡 航 し た 。 明 代 中 期 に 海 商 と し て 活 躍 し て い た 徽 州 商 人 (新

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九州大学学術情報リポジトリKyushu University Institutional Repository

清代前期の福建商人と長崎貿易

劉, 序楓九州大学大学院文学研究科

Liu, Shiuh-fengGradutate School of Letters, Kyushu University

https://doi.org/10.15017/24599

出版情報:九州大学東洋史論集. 16, pp.133-161, 1988-01-25. 九州大学文学部東洋史研究会バージョン:権利関係:

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清代前期の福建商人と長崎貿易

中国民衆

の海外発展は、明代中期以後に盛んにな

ったと言えよう。その通商

の範囲は、ほぼアジア全域

に及んでいる。

日本との貿

易に

ついては、明末

(日本の戦国期以降)清初より特に清朝が遷界令を撤回した後、飛躍的

に発展し、商船は

中国沿岸各地

や台湾から長崎に渡航した。明代中期に海商として活躍していた徽州商人

(新安商人)は、代表者としての王

  

 

直集団が滅

んでから、次第に勢力が衰微し、清朝に入ってその勢力は主に国内商業に注がれていたようである。代わりに福

建海商の勢

力が主流にな

った。ところが、中国国内

の政治および社会経済状況、さらに当時の東アジアの国際情勢の変動に

って、出航する貿易船に変化があらわれる。また、日本側

の受け入れ体制に変動があれば、清朝側もそ

れに応じて対策を

立てたこと

になる。十八世紀に入ると、長崎貿易において中国商船の出航地が次第に江蘇と浙江

に固定さ

れ、江蘇

.浙江の

 

 

商船と福建商船との間に顕著な勢力隆替があ

った。この点に関しては、すでに山脇悌二郎氏が指摘された

が、小稿で再度こ

の問題を論ずるのは、長崎貿易における福建商人の衰退の過程になお究明す

べき点が少なくな

いからであ

る。

そこで本稿では、長崎に渡航した唐船の分析を通じて、福建商人の実態およびその衰退の過程を検討してみた

い。

福建商人の海外発展

りう

福建商人

の海外貿易が古くから活発に行われていたことは、先学によって明らかにされている。本節では、従来の研究を

参照しながら福建商人の海外発展の背景をまとめてみたい。

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まずは自然条件である。福建地方は山地が多くて耕作地が少なく食糧の自給が不足がちであ

ったため、多数

の住民が商業

を以て生業としていたと

いわれる。特に福州

・興化

・泉州

・潭州四府は海に面し、しかも人口が多

いので、海上に生計を求

め、魚

・塩

の業に従事したり、或

いは沿海航路による生活物資の仲介交易に従事したり、海外貿易に従事したりする者が多

 る

った。明代の中期以後、南洋諸国に往来する商舶が圧倒的に福建の商舶であ

ったことは諸記録によ

って明らかである。

次に社会経済的面からみると、自然条件に制約され、福建の自給経済が不可能なので、他省からの商品に依存しなければ

ならなか

った。乾隆

『晋江県志』巻

一、輿地風俗の条に、

田畝不足於耕転、糸縷

・綿紫由来仰資呉

・断、稲米

・寂

・変今皆取給台湾。

とある。ま

た、『簿海図編』巻四、福建事宜に、

・興

・泉

・潭四郡皆浜於海、海船運米可以仰給、在南則資於広、而恵

・潮之米為多、在北則資於漸、而温州之米為多。

とあるよう

に、耕作地が少なく、日常生活

の必要な原料の生産が不足であ

ったため、福州

・興化

・泉州

・潭州諸府

の沿海地

方では、海

運によ

って大量な糸

・綿

・食糧品などが江蘇

・断江

・広東より移入し、清朝の台湾平定後は、食糧の供給をす

て台湾に依存したことが知られる。このように福建

の経済が主要食糧およびそのほかの物資を外地の輸

入をまたなければな

らなか

ったとすれば、その代価はどのように得られたか。明代以来、省内

の産業とくに商業的農業および農村手工業が発達

 ヨ

 

した結果として、物貨の流通が盛んにな

った。これによ

って窮乏する生計を補

ったのである。明の王世愁の

「閲部疏」に、

凡福之紬糸、潭之紗絹、泉之藍、福

・延

〔平〕之鉄、福

・潭之橘、福

・興之藷枝、泉

・潭之糖、順昌之紙、無日不走分

へ 

 

水嶺及浦城小関、下呉

・越如流水、其航大海而去者、尤不可計。(傍点は筆者による。以下同じ)

とあり、絹織物

・果物

・紙

・砂糖

・鉄などの土産品および手工業品が盛んに生産され、江蘇

・浙江方面

に輸出したり、また

海運で国外

へ輸出したりしていたのである。

 ア

 

以上の特産品のほか、造船に不可欠の材料

の杉、なお茶、煙草

・磁器など

の産出にも盛んであ

った。

このように農村にお

ける商品生産

の活発化に伴

い、商業資本にも次第に発達になる。清代の沿岸貿易とくに南北間の商品流通に福建商人が大き

  

 

な役割を果

たしていたことは、すでに指摘されている。商業資本は常に利益

のあるところに浸透していく

のであるから、沿

海貿易に依存する福建海商は海禁が解除された後、さらに最も利益のある海外貿易に進出するのは考えうることであろう。

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また、国家

の政策も重要な原因の

一つであろう。明代から海賊とくに倭冠

の防衛策、さらに清代初期に鄭氏の防衛策とし

て海禁政策

をと

っていた。これによ

って、沿海の住民の生活が

一層窮乏にな

った。利益を求めるため、地方の郷紳や官僚と

ハ 

 

結託し、海禁を犯して密貿易をする者、或

いは海賊に転化する者は多か

ったと指摘されている。

なお・福建地方は中央と陸上の交通が地理的条件によ

ってほとんど遮断され、政治的にも文化的にも中央の秩序と隔離し、

独特の強桿な気風がはぐくまれた。江蘇

・浙江の民衆より海外貿易に進出する者が多か

ったのもあり得る

ことであろう。

福建商人と長崎貿易

 り

 

中国商船

の長崎渡航はいつからであ

ったかは、諸記録によ

って多少相違があるが、寛永十二

(明崇禎八、

一六三五)年

幕府が中国商船

の日本渡航を長崎に限定する以前に、すでに中国船の長崎渡航が盛んであ

ったことは事実

である。中国商人

の増加にと

もない、慶長八

(一六〇三)年に長崎在住の唐人爲六が唐通事に任命され、その後の二百五十余年間の塘通事の

鼻祖とな

っ麺。その組織と人数は時代とともに次第に拡張され、世襲的に訳司とな

ったものには六十家以上に及んだ。これ

らの通事の出身については、表1に示すように初代の出身が判明できる三十家のうち、福建出身は二十三家を占め、江蘇

.

浙江

等地の出身者をはるかに上廻

っている。また、広東省の出身者が

一人も見えず、これは後述の長崎唐三

ヶ寺

の成立の時

に、広東邦巾が除外されたことに関わりがあると推測される。

日本渡航

の外国船が増加する

一方、日本側においてキリシタ

ン宗門禁圧

・貿易統制が強化され、寛永十二年にキリシタン宗

門取調べのため、外国貿易は長崎

一港に限定されるに至

った。

中国商人は、キリシタン宗門に属さな

いことを明らかにするた

めに、さらに明末清初の動乱期において国家から保護を受けら

れなかった事情から、貿易関係の安全を維持するため、各地方

の出身者が同郷団体を結成し、自発的に仏寺を建立した。まず、

元和九

(一六二三)年に江蘇

・断江

・江西等地出身のいわゆる

表1

長崎唐通事の出身地区別集計表

出身地

山西

四川

江蘇

浙江福州 福

泉州

潭州

延平 建

合 計

l

l

l

4

10

6

6

1

23

30

*宮田

『唐

通事

家系論孜』および同「補遺唐通事家系論放」・

「続補遺唐通事

家系論孜」

により作成

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三江邦巾の船

主たちにより興福寺

(俗称南京寺

)、

つづ

いて寛永五

(一六二八)年に泉州方面の船主たち

により福済寺

(俗称

泉州寺、後

に滝州寺)、翌寛永六年に福州地方の船主たちにより崇福寺

(俗称福州寺)を建立した。これらの唐三

ヶ寺がそ

れぞれ本国から招請した同郷僧侶によ

って経営され、またそれぞれの郷貫の人が檀越とな

ったことがあ

って、宗教施設たる

へけ

 

唐三ヶ寺と

て、

一般の同郷者によ

って建立した会館や公所と同じ性格を持

っていることが窺えよう。そ

のうちに福建に縁の

あるものが

二つを占めていたことは、当時の長崎における福建人の世俗的或

いは経済的勢力が圧倒的であ

ったことを示すも

のであろう。

江戸初期

の日本渡航唐船に関する記録とくに数量的な史料はきわめて少なく、しかも断片的なものに過ぎなか

ったため、

貿易の実態

に触れることが困難であ

った。日本側の史料によ

っては、慶長五

(一六〇〇)年に唐船が長崎に入港した後、正

 お

 

保四

(一六

四七)年までは、断片的に唐船の来航の数を知る程度である。岩生成

一氏がその論考

「近世

日支貿易に関する数

量的考察」

(『史学雑誌』六二編十

一号)にお

いて、欧文史料とくにオランダ商館の報告書によ

って、この間の来航唐船

の数

を整理した結果、慶長末年以来、毎年大抵三十隻以上の唐船が日本に来航し、寛永年間に至り鎖国令が発布されてから急激

に増加し始め、寛永十八

(一六四

一)年には九十七隻の最高記録を作

ったことが知られる。残念ながらそれぞれの船

の出航

 お

 

地は示され

ていないが、そのうちに福建商船の数は優位を占めていたようである。

この時期

に有名な福建商人としては、泉州人の李旦

(〉昌ら「①9圏)帥けけ一ω)、潭州人の欧華宇、同じ潭州人

の顔思斉

の如き、彼

らはもともと海賊であり、日本を根拠地として中国沿海

・台湾

(オランダ領)

・東南アジアに及んで貿易に従事し、福建沿

 り

 

海の地方官

の間にも相当な勢力を張

っていたよう

である。また、李旦はイギリス人の中国通商、オランダ人の膨湖島

の撤退

 お

 

 ロ

 

および台湾占拠を斡旋した

のである。欧華宇と同じ潭州出身

の商人張吉泉については、彼らは慶長七

(一六〇二)年に長崎

へね

在留の唐人

の菩提寺を稲佐

の悟真寺と定め、長崎代官に墓地を願

い出

て幕府からの許可を得たと

いわれ

る。

なお、李旦

・顔思斉に代わ

って通商上に

一層華

々しき活動をした鄭芝竜は、泉州府南安県の人であ

った。鄭芝竜について

 ゆ

 

は、中国側

の文献ではその海賊としての事蹟が多く記され、彼の日本

・南海貿易に関しては、ほとんど具体的な材料を提供

 れ

 

していない。この訣を補うには、商敵であ

ったオランダ側の記録が非常に役に立つ。なお、鄭芝竜が崇禎元

(一六二八)年

らお

に明に帰順してから、依然として中国東南沿海および南洋

一帯の海上権を掌握していた。『明季北略』巻十

一、鄭芝竜撃敗

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劉香老の条

に、

芝竜幼習海、知海情。凡海盗皆故盟、或出門下。自就撫後、海船不得鄭氏令旗、不能往来。毎

一船例入三千金、歳入千

万計。芝竜以此富敵国。

とみえ、そ

の勢力と活躍ぶりがうかがわれる。順治三

(一六四六)年に鄭芝竜が清に降

った後、その勢力が分裂され、子の

成功

・弟鴻逡等は海上に去り抵抗し

つづけ、数十年にわたって日本や南海に活躍し、貿易

の利益によ

って軍備を補

った。江

日昇の

『台湾外記』巻十三、康煕五

(一六六七)年七月の条に、

〔洪〕旭又別遣商船前往各港、多価購船料、載到台湾、興造洋艘

・鳥船、装白糖

.鹿皮等物、上通日本、製造銅煩

.倭

・盗甲、並鋳永暦銭、下販逞羅

・交阯

・東京等各処、以富国。

とあり、鄭経

の部将の洪旭が洋船を造り、白糖

・鹿皮などをも

って日本

・南洋諸国と通商し、兵器

.銅銭

を鋳造して兵食に

 れ

 

資していた

のである。また、鄭氏が長崎通いの商人に資金を貸して貿易を行わせ、船が帰港したとき元利

を納めさせた。な

お、

一族の鄭泰が、長年にわたって長崎貿易に従事し、政治情況が不安定

のため、相当多額の貿易利銀を長崎の唐通事に預

けてお

いた

ことが知られ憂・鄭氏

一族の日本

.南洋貿易に関しては・すでに先学

の精緻な研究があり

、多

くの問題が解明さ

れたので、重複をさけた

い。

 り

 

順治十八

(一⊥ハ六

一)年、清朝は台湾および福建沿海による鄭氏を圧迫する最後

の手段として遷界令を発布した。これを

っかけとして、長崎渡航

の中国本土出航船がにわかに減少したのに対して、台湾

・南洋各地出航

の商船

の数は著しく増加

 お

 

した。黄叔

『台海使嵯録』巻四、偽鄭附略の条に、

我朝厳禁通洋、片板不得入海。而商賈壟断

、厚賂守口官兵、潜通鄭氏、以達慶門、然後通販各国。凡

中国各貨、海外皆

仰資鄭氏、於是通洋之利、唯鄭氏独操之、財用益饒。

とあるよう

に、形式上きわめて厳しい遷界令も、守口の官兵に賄賂を贈れば、東南沿海

・南洋

の海上貿易

権を掌握した鄭氏

に潜通でき

たのである。従

って遷界令下の長崎貿易は鄭氏の配下の福建商人による独占的貿易であ

ったと

いえるであろう。

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貿

退

康煕二十二

(一六八三)年に台湾による鄭氏の降伏により、清朝は翌年に遷界令を撤回し、貿易船の海外渡航が許可され

た。その効

果は著しいものであ

った。

一六八四年は二四艘であ

った長崎の入港船数は、

一六八五年に八五艘、

一六八六年に

一〇二艘

一六八七年には

=二六艘、

一六八八年には最高記録の

一九二艘と増加した

(来航

の船数は諸史料によ

って若干

の相違がある。後掲

「長崎渡航唐船出航地別船数表」、参照)。長年海禁に苦しめられた中国沿海の住民

の生計を求める意欲

が窺われる。注目されるのは、康煕二十三

(貞享元

・一六八四)年すなわち鄭氏が降伏した翌年に台湾

・福建より出航した

商船は

一隻

も見られなか

った代わりに、広東および南洋より出航の商船が急に増えたのである。清朝が台湾を完全に屈伏さ

せるまでは、唐船の大部分は主として鄭氏の息がかか

っていたので、清軍の台湾攻略により鄭氏所属

の福建

・台湾船が南洋

方面

へ移

転したと推測される。刊本

『華夷変態』巻九、貞享元年九番広東船之唐人共申口に、

私共

船之儀、去年者東寧船に而御座候処、従御当地、逞羅江罷渡り、逞羅6当夏広東江船をよせ、今度広東6罷渡り申

候。

とあり、

これはもと台湾船で、台湾より逞羅

へ渡航し、翌年に邊羅から広東経由で長崎に来航したものである。また、同十

一番広南

船之唐人共申口に、

私船

之儀、去年は東寧船に而御座候所に、去年東寧一

乱に付、御当地6広南江罷渡、今度従広南渡海仕候。

とあり、戦乱のため、台湾より広南

へ避難したことが知られる。要するに、長崎渡航の福建船は戦乱

のため、

一時激減した

にもかかわらず、福建商人が依然として相当な勢力を持

っていたと思われる。翌康煕二十四年に渡航した八十五隻の商船

うち、福建船が半分の四十三隻を占めたことは、前述の推測を裏付けるのであろう。

日本渡航の唐船の激増によ

って、金

・銀など

の流出が増えたので、幕府側は市場の混乱を予想し、貞享二

(一六八五)年

に貿易制限令

(いわゆる貞享令)を発布した。その主な内容は、唐船

の貿易高を

一ケ年銀六千貫に制限したことである。こ

   

の貿易高を超過した場合、後来の余船には貿易を許可せず積戻りを命じた。さらに元禄元

(康煕二七

・一六八八)年からは

船数を起帆地別に計七十隻に限定した。その七十隻の割当内訳は、次

の通りである。

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江蘇

十隻浙江

十五隻

福建

二五隻

広東

十隻

  

 

南洋

十隻江

・浙

船二五隻対福建船二五隻となり、制限前の状態を大体反映している。この年より元禄十

(康煕三六

.一六九七)年の

間までに長崎渡航

の江・浙

船と福建船の数はほぼ同様で、江

・断船の数がしだ

いに増加した傾向が窺える。

ところが

、元禄十

(康煕三七)年から福建船の数が急に減少したのに対して江

・断船の数が激増した

(附表、参照)。

その原因は不明であ

ったが、恐らく康煕三十八年に清朝が内務府商人?銅

制を発布し、洋銅

(日本銅)採買の中心地が日本

に対して距離的に最も近

い江蘇と断江に移転したによるものと推測される。近世の長崎貿易にお

いて中国側が最も必要なの

は銅であ

ったことは周知

のとおりである。清朝政府では、制銭鋳造用の洋銅を確保するには非常な苦心を払

い、その?銅

方法は数回も変更され垣。商人?銅

制とは、清朝皇室所属の内務府商人が国家から資金を受領し、北京の戸部

・工部鋳銭所

へ 

要の銅の採

買と解京の

一切とを請け負う制度であ

った。銅の輸送は大運河を利用した。それ故江蘇

.浙江は地の利を持

って

いる。しかも江

・断地方は流通の中心であり、南北の物産が集中し、資金

・物資の調達が容易であ

った

ので、福建商人が便

宜的に貿易

基地をここに移転し、或

いは寄港する例は少なくなか

った。『華夷変態』巻十

一、貞享三年十

八番福州船之唐人

共申口に、

福州

・慶門之儀、当年は来朝之船も、去年参減し可申と奉存候、其子細は、去年6南京6直に御当地

江参申候船共御座

候に付

、福州

・慶門之遠方迄参候客共も無御座候故、当年之儀は、去年御当地6帰帆仕候福州

.慶門之船共も、大方逞

・咬

瑠噌此外奥之国々江為商売参申筈に御座候。

といっている。開海禁後は江

・断よりの渡航船が増えると、福建船は積荷も客も不足に悩まされ、南洋貿易の方に移転する

ものは多か

ったのである。次に掲げる

「長崎来航福建船

の江

・断方面寄港および移転表」(表2)を参照すればわかるよう

に、福建船

が江・浙

に寄港して、または移転する比率は相当に高

い。これは僅か五年間の集計であり、も

一隻ごと長期間

に追跡すれば、その移転の数は表2の統計を上廻ることと推察される。

以上のことから、康煕三十八年以後に長崎に渡航する福建船が減少したのは、福建商人の勢力が衰退す

るとは言えず、彼

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表2長 崎来航福建船の江・浙方面寄港および移転表

繭年度より南洋移転

前年度より

江浙移転

長崎

直航江浙寄港福建船数

渡航船数年 次

1一ガ5

8

15

19

19一汚34

24

102

79

1686

1689

貞享3

元禄2

康煕25

〃28

54171532901690〃3〃29

395510711698〃11ク37

148412731699〃12〃38

*『 華夷変態』 により作成。

註:江・浙 と南洋に移転 した船は、当年度の福建船数に含 まれない。

表3正 徳五年正月 「唐船数井船別商売割合定例」に定められた唐船三〇隻の内訳:

計数別船地 域

7南京船7江 蘇

8寧波船5・ 普陀 山船1・ 舟山船1・ 温州船1

浙江

8慶門船2・ 福州船1・ 潭州船1・ 台湾船4福 建

2広東船2広 東

5東京船1・ 束捕塞船1・ 広南船1・ 遙羅船1・ 咬 ロ留肥船1南 洋

典拠:刊 本 『通航 一・覧』 四、360・400頁 。

表4正 徳五年三月実際の配分別

計船 別 数地 域

10南京 船10江 蘇

11寧波船11

浙江

4慶 門船2・ 台湾船2福 建

2広東船2広 東

3広南船1・ 邊羅船1・ 咬ロ留1巴船1南 洋

典拠:『 信 牌方 記録』。

らが貿易基地を江・浙

に移転し

て、後の記録には南京船

・寧波

の形をと

ったからであると考

えられる。

次に正徳

(康煕五四、

一七

一五)年に発布された正徳新例

の唐船に与えた影響を検討して

みたい。

正徳新例

による唐船

の信牌の

支給に関し

ては、中国では商人

の間で激し

い紛争が起こって重

大な問題ま

で発展したことは、

従来の研究

にはしばしば言及し

 お

ている。この制度の原則は、私

貿易の禁止、金銀銅流出の防止、

積載物

・取引き額の制限などの

日本側

の統制強化

の条件を承知

するも

ののみに貿易を許可し、

信牌を給付すると

いうことであ

った。正徳

新例に定められた唐船の数は三〇隻であり、その出航地の産物の日本における需要度の多少

、各船の積載量など

を考慮して信牌が発行された。その三〇隻

の内訳は表3の如くである。すなわち三〇隻のうちに江蘇七

・浙江八

・福建八

広東二

・南

洋五の割合である。

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ところが、正徳五年三月に実際に発行した三十枚の信牌

の内訳は表

4の如く、江蘇十

・断江十

一.福建

.広東二

.南洋

三である。新例における出航地別配分は、実際の配分にあた

って大幅な変更が行われ、予定された出航地

の船が多く除外さ

れた。また、地方別によ

って代表的な地方

や港に集中されることは注目される。すなわち江蘇省は南京

(上海)、断江省は

寧波、福建

省は慶門と台湾、広東省は広東

(広州)に集中することとな

った。なお、翌正徳六年分の配分別数も五年と同じ

であ

った。結局、福建船の数は予定の半分に減少した代りに、江・浙

の数は予定より大幅に増えたのである。その理由に

ついて、信牌の配分に際して、以上の船は

一隻も在留していなか

ったことが、除外される直接の原因とな

っていた、との菊

 れ

 

地義美氏の指摘がある。

そこで、従来長崎貿易に従事しでいながら、この年に長崎にいなか

った船頭たち

(信牌の授受から除外

された船頭)が寧

波府鄭県の知県に対し、

一部の船頭が日本の年号を記した信牌を受けたのは、外国の正朔を奉じ、朝廷に背き日本に随いて

商売を独占

しようとする行為であると訴えた。ところが、知県は事は重大であると札て自ら処置せず、

これを巡撫

.馨

上申したが、督撫と海関

(江海関と断海関)の論争にな

って遂に決着がつかなか

った。その後、江

.断

の総督

.巡撫より朝

廷に上奏す

ることになり、朝廷

での審議の末、康煕帝

の勅裁が下るに至

った。『康煕起居注』康煕五十五

(享保元、

一七

  

 

六)年九月初二日戊午

の条に、

上日、脱畝日赴織盗舟赴海観後貿易、其先貿易之銀甚多、後来漸少。倭子之票

〔筆者注、信牌

のこと

〕乃伊等彼枇斯囎瀧

号、即如椴布商人彼此所記認号

一般。各関給商人之票、専為過往所管汎地、以便清査、並非旨意与

部中印文。巡撫以此

為大事奏聞、誤突。

とみえ、また、同九月二十四日庚辰の条にも、

上日、必降臥楓ハ簿後必貿易込

↓認証恥、並非行与我国地方官之文書。(中略)倭子之牌票、即与我国商人記号

一般。再、

我国紗関官員、給与洋船牌票、亦只為査験之故、並非部中印文及旨意可比。如此以為大事可乎。此事巡撫未悉、部内亦

未悉。若如此行、商人如何貿易。

とあ

って、信牌は単なる商人の交易上の印判にすぎず、国家間の外交文書でもなく、清朝国内に通用す

る官方の文書でもな

い。要するに、少しも国典にかかわる大事ではな

いと康煕帝は考えている。このような考え

の背後をさぐるうえで、前掲史

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料に

「朕曽遣織造人過海観彼貿易」と

一句が重要なヒントになる。そのことはすなわち康煕四十

(元禄十四、

一七〇

一)

 れ

 

年に康煕帝が日本に関する情報を得ようとして、杭州織造

の烏林達莫爾森を派遣して日本

の事情を調べさせたのである。莫

爾森が康

煕帝に

一体ど

のような情報を伝えたのかは、明らかでな

いが、『宮中梢雍正朝奏摺』十

一輯、浙江

総督管巡撫事李

衛の雍正六年八月八日の日本に

ついての上奏に対する雍正帝

の殊批に、

当年聖祖亦曽風聞此事、特遣織造烏林大変而森假辮商人、往彼日本探聴。回総言些假捏虚奉之詞、極言其恭順儒弱。此

後随不介意、而開洋之挙、亦由此起。

とあり、日本は非常に儒弱で恭順であ

ったと康煕帝が聞

いたようである。

明代以来の倭冠

の掠奪で、清代初期にな

っても日本は最も警戒す

べき国とされていた。にもかかわらず、康煕二十三年に

海禁令を撤回した後、中国の商船が長崎に殺到したのは、利益を求めるほかに、日本銅は中国にと

って非常に必要なもので

ったからである。なお前述の烏林達莫爾森は恐らく鎖国下の日本の情況

(人民の海外渡航禁止、中国人の日本居留禁止な

ど)を康

煕帝に伝えたため、康煕帝は日本貿易に対して比較的寛容な態度をと

ったと思われる。故に日本貿易を継続するこ

とにな

った。

この中国でおこ

った

いわゆる

「信牌事件」は、康煕五十六

(享保二、

一七

一七)年に至

って遂に決着が

ついた。『康煕起

居注』康

煕五十六年三月二十六日辛巳の条に、

(前

略)原呈覧倭国票照、傍祈発臣転付商人、照常貿易。但有票者得以常往、無票者貨物塞滞。倶係納税之人、応令該

監督伝集衆商、将倭国票照互相通融之処、明白暁諭。毎船貨物均平装載、先後更換而往等因、相応行往該督

・撫

・海関

監督

、公同詳為定議。将原票給回商人、照常貿易。

とあり、信牌を商人に返し、商人は自他

の隔てなく申し合せて貿易に励むことにな

った。これに対して

『崎港商説』巻

一、

享保二

(康煕五六)年三番広東船之唐人共申口にも全く同じ内容の記事が見え、その

一節に、

胡雲客と云、荘運卿と云、共に以朝廷之国課を弁じ、財用を通る事に有之候得共、彼是之無差別、

一視同仁之恩化を施

さる

・事により、此旨を以浙江

之関部江明らかに示しめ、日本之票照を不残返し与

へ可申候。

らあ

とある。要するに、康煕帝は商人に対して差別なく公正な態度をと

っていたのである。

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ところが、この信牌紛争の結果、中国国内における福建系商人吻立場が全く窮地に追

いやられたという

ことに

っかては、

 ヨ

 

・断商人と官辺との因縁関係があ

ったものによると

いわれてきた。信牌は通事たちによ

って配分された

ものであり、唐通

事はほとんど福建の出身であ

ったことは、前述

のとおりである。康煕帝の信牌紛争の裁決からみても、唐

通事の出身からみ

ても、江・浙

商人が通事や官僚と共謀して日本貿易を独占する説は成立し難い。むしろ、江蘇と浙江

の官僚が貿易

の利益

(関税など

)を独占しようとするため、信牌を没収した、と

いうほうが適当

ではなかろうか。つまり、信牌の紛争は信牌が

得られなか

った船頭の不満を表わしたものと見なす

べきである。

次に正徳

新例実施後

の長崎渡航の中国商人の実態を検討してみよう。

 れ

 

まず正徳五年分

の信牌受領者の名をあげると、次の如くである。

南京船

一〇隻

費元齢

・黄哲卿

・騎九宜

・何定扶

・祝武珍

・魏岳臨

・何万蔵

・沈雲生

.翁聖初

.李大成

寧波船

一一隻

林達文

・醇允甫

・高隆侯

・鄭冤伯

・余

一観

・鄭大典

・謝子墓

・王在珍

.董宜日

.林安西

.林元禄

慶門船

二隻

陳憲

・周元信

広東船

二隻

李輪士

・呉喜観

ムロ湾船

一一佳又

黄福観

・呉有光

広南船

一隻

陳啓

逞羅船

一隻

顔諭臣

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咬瑠

咀船

一隻

呉送観

以上三〇隻

の船のうち、南京船と寧波船が一=

隻を占める。これら南京船

・寧波船信牌を所持する二十

一人

の船頭のうち

に福建出身とみられる者が多

い。史料で判明できる者を摘出すれば、次

の如くである。

(1)

黄哲卿

  

 

彼は元禄七

(康煕三三)年に初めて三十九番新造

の沙堤船

(福建省内)の客としてみえていみ。元禄

十年に七十番海南船

の脇船頭として日本に渡航したが、該船の船頭荘運卿は、正徳五年に寧波にお

いて信牌紛争を惹起した頭人の

一人で、福州

ヘハ

 

の出身と推測される。黄哲卿も福建商人とみてよ

いであろう。その後江

・断に移転し、寧波または南京

船の船頭としてしば

しば日本

に渡航した。

(2)

魏岳臨

彼はい

つ頃から日本貿易に従事したかは、明らかではないが、正徳四年三十七番寧波船の船頭として来航し、翌年三月に

 ゆ

信牌を受

領した。その後、信牌紛争が起り本国福州に戻

って、信牌を子の魏徳卿に譲

った。魏徳卿はその後の享保三

(康煕

五七)年

に十三番南京船頭として来航したが、実は福建商人であ

った。

(3)

万蔵

『宮中棺雍正朝奏摺』十

一輯、雍正六

(享保十四)年十

一月三日、断江総督李衛の奏摺に

「福建好商

魏徳卿所託彩計河万

へ蔵、聰請僧人私往東洋

一事、(中略)称、伊等委係由閲省由内地行走、於十月初九日来到寧波、改換姓

名、假称普陀進香、

初十日由

鎮海関出口」とみえ、何万蔵は前述の福建商人魏徳卿の仲間で、魏徳卿の依頼により福建

へ僧人を招請し、浙江

鎮海関から普陀山経由で日本に渡航するところを捕らえられたのである。何万蔵は享保三年よりしばしば南京船船頭として

来航した

(4)

高隆侯

彼は正徳五年に寧波船信牌を受領した後、信牌の紛争で出航できなくなり、享保二年十三番、同三年

三十番寧波船船頭と

らハ

 

して日本

に渡航した。享保四年に病気のため、本国の福州に戻り病死した。信牌を弟の高卿照に譲

った。彼が福建商人であ

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ったことは確実である。

(5)

鄭大典

享保年間

に日本渡航の船頭の中に、鄭大威

・鄭大武

・鄭大堀

・鄭大萱

・鄭大諸

・鄭孔典

・鄭孔秀

.鄭孔青

.鄭孔碗等は、

皆彼

一族

とみられ勘。彼は宝永五

(康煕四七

・一七〇八)年に四十八番寧波船脇船頭として初めて渡航し、以後屡々寧波

の船頭として渡航した。その出身

については、史料上では確かめられないが、

一族の咬瑠唱船頭の鄭孔典は

「船頭儀は、

ヘリ

 

本福建之内

潭州之者に而、載拾年以来咬瑠咀江住居仕候」とあるように、もと福建潭州府の人で、二十年前から咬瑠唱に移

転し、咬瑠咀船船頭として日本に渡航した。彼を福建の出身とみてよ

いであろう。

(6)

董宜

 ゆ

この人は信牌紛争

の当時、信牌を得なか

った荘運卿等の訴えに対して反訴をした者である。従来彼のことを江

.断系

の船

 ゼ

頭とみているが、「崎港商説」巻三、享保六年三番広南船之唐人共申口の

一節に、

船頭董宜叶義は、去々年試拾五番船6客仕参申候、其節之船頭董宜日弟に而御座候、然ば董宜日義

は就用事、去冬本国

福州江罷帰申候に付、則董宜日江御与

へ被成候信牌譲を受け、此度持渡り申候。

とあり、董宜日の出身は福州であ

ったことがわかる。日本渡航をやめた時、所持の寧波船の信牌を弟の董宜叶に譲り、董宜

叶はその後広南船船頭として渡航した。

以上は正徳五年分の南京船

・寧波船の信牌を受領した船頭の中に、明らかに福建出身であ

った者だけをあげた。ほかにも

数人いると

推測されるが、残念ながら史料上には判明できな

い。なお、ほかの広東船

・南洋船の船頭のうちにも福建出身の

へり

 

者が多く占

めるようである。例えば、広東船頭の李翰士はもと福建潭州府の人であ

った。以上の者を計

算に入れると、正徳

五年分の信牌を受領した三〇隻

の船の中に、福建と関係のあるのはなお半分近くを占めている。こう

いう点から、信牌紛争

は、信牌が得られなくなり、利益を失

った商人の不満を表わしたものと見なす

べき

であり、同郷団体

の邦巾の問の抗争とは言

えな

いと思う。

こうして元禄元

(康煕二七)年と正徳五年に日本側が発布した唐船

の出航地別の制限および中国側が康煕三十九

(元禄十

三)年から実施された商人?銅

制により、長崎渡航の中国商人に大きな影響を与えた。彼らは或

いは?銅

の資金を求めるた

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表5正 徳 新例 実施後、福建船の航路表(1718・1722・1723年)

路航番 立 名福建船渡航船数年 次

慶門一福州 一寧波 一長崎6番 慶門船

台湾一厘門 一長崎22番 台湾船

不明25番 厘門船

上海一1夏門 一上海 一長崎29番 慶門船

h海 一長崎34番 台湾船

上海一長山奇35番 慶門船

641

康煕57

享保3

1718

上海一長崎8番 慶門船

台湾一上海 一長崎10番 台湾船

慶門一寧波 一普陀111一長崎24番 慶門船

台湾一寧波 一普陀lll-ft崎25番 台湾船

433

康煕61

享保7

1722

上海一長崎5番 慶門船

台湾一 上海 一長崎8番 台湾船

上海一 長崎23番 畦乏P『舟合

寧波一台湾 一浮陀 山一長崎24番 台湾船

434

雍 正元

享保8

1723

*刊 本 『華夷変態』下冊所収 「崎港商説」 ・松平家本 「華夷変態」により作成。

めに、或いは日本向けの産物を調達するため、江・浙

へ寄港し、または移

転する傾向が目立つ。正徳新例が実施された後

の福建船

の航路を表にすれ

ば、表

5の如くである。

表5によ

ってわかるように、慶門船

・台湾船と称し

ても、その多くは上

海か寧波より出航したものである。その理由は、前述したように、江・浙

地方が日本貿易において最も近

い位置にあ

って、しかも運河や河川などの

交通ルートが便利であり、さらに地方産業

の発達にともな

い、各地の商人

が集ま

ってきたのであろう。刊本

『華夷変態』巻三十七、享保八

(雍正

元)年五番慶門船之唐人共申

口に、

私共船

の儀は、南京之内上海におひて、慶門出産之荷物積添、唐人数

五十人乗組候而、当六月朔上海致出帆渡海仕候。

とあり、上海において慶門の産物を調達して日本に渡航したのである。沿

岸貿易

の活発化に伴い、南北間の物貨が上海に集中し、福建の特産品も福

建商人によ

って江

・浙に輸送された結果であろう。

雍正

(享保)年間には、日本渡航

の中国船

の出航地

が次第に上海と寧波

に固定した傾向が見える。ここに集まる商人の中でも、福建商人が相当な

勢力を持

っているようである。『宮中棺雍正朝奏摺』

二十四輯、雍正十三

(享保二十)年閏四月二十日、福建巡撫盧悼が?銅

の弊

害についての上奏に、

今日之辮員皆道府大吏、不肖侵漁者甚少。各省辮官皆至蘇

・杭発価、以流寓之官、安能知商之股実。商為閾

・噂之人居

多、亦流寓干此、即江

・断之官騨難測其浅深。

とあり、福建

・広東

の商人が?銅

の資本

(官費)を得るため、江

・浙に転じた者が多か

ったのである。ところが、これらの

商人たち

は日本から信牌を入手しようとして、清朝

の国禁を犯して人間

(僧侶

・医者など)を渡航させたり、物資を密輸し

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たりしたので、これが対策として、雍正六年に浙江

総督李衛の上奏によ

って、対日本貿易船の出航地であ

った江蘇

(上海)

ハに

 

と断江

(寧波)に総商八人を四人ず

つ置

いて商人を管理監督させた。以後、対日本貿易は、この総商の監

督のもとに行われ

ることにな

ったのである。

乾隆年間

に入ると、従来これら官の資本を前借して日本銅を採買する商人の中に、資金の流用をおこな

ったり倒産するも

のが多く出

たので、清朝は、?銅

資金の前貸する制度を廃止し、改めて

一般の商民を招募し、個人の資本

で洋銅を採買させ

へお

 

ることにな

った。なお、乾隆九年

(一七四四)にこれら個人資本

で洋銅の採買をおこな

った民商

(額商

)から収買する洋銅

に不足が生

じたから、別に

「官商」に洋銅

の採買をさせることにな

った。これらの官商

・民商はほとんど長萱か両淮

の塩商

 ぬ

 

であり、福

建商人は財力にお

いても立ちおくれざるを得なか

ったのであろう。また、財力のある塩商に洋銅を採買させるの

は、清朝が制銭鋳造用の銅材を確保するためでもあり、商人に対して統制を強化するためでもあ

ったと思われる。

 ガ

 

乾隆二十

(一七五五)年に、清朝は官商と民商

の商額を定め、福建

・広東商人の官銅採買を禁止し、同二十二

(一七五

らめ

七)年に西洋船の貿易口岸を広東

一港に限定した。即ち清朝の外国貿易統制方針が次第に具体化を見て、外国貿易に関して

は、広州

・慶門

・寧波

(または上海)に集中することとなり、広東の十三行は来舶

の西洋貿易、慶門の洋行は南洋貿易、寧

ハレ

 

(乍浦)と上海の官商

・額商団体は対日本の?銅貿易を専辮することにな

った。この時期に長崎貿易に従事し、名が知ら

れる福建商

人としては、僅か信公興

一人であ

った。彼は泉州府

の出身で、後に寧波に移した。南海貿易に従事しながら長崎

貿易

(咬瑠

唱船信牌で)にも従事した。乾隆十六

(宝暦元)年

・十九

(宝暦四)年に二度日本人の漂流民

の世話をした商人

への

 

であ

った。乾隆二十年以後、前述のように、福建

・広東商人による日本銅の採買は禁止されたので、福建商人

(荷主または

へお

 

船頭として)の長崎渡航は、成豊十

(文久元

・一八六

一)年までに管見の限りに僅か三隻しかみられな

い。

次に乾隆

二十年以後、長崎に渡航した中国船の出航地を表にすると、表6の如くである。乾隆中期頃から、唐船の出航地

が漸海関

(寧波)管轄下の乍浦に限られてしま

ったことは注目される。明和年間

へ乾隆二九~三六)に成立した

『長崎実録

大成』巻十、海路更数並古今唐国渡リ湊之説に、

当代

ハ上海、乍浦二処便用宜シキ所ナリトテ、諸唐船往来共

二此処

二集テ互二交易ヲ成ナリ。但此二処

ハ諸方出産ノ織

物、薬種、粗貨、諸器物何品

二限ラス、数百ノ行家

二運ヒ来レリ。則江南、浙江

、福建等

ノ商民原価銀ヲ携

へ来テ諸貨

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長崎渡航 中国船 の出航地(1755~1784)表6

無、

1夏

寧.

h

港名

年代12921511755宝暦5乾隆20

73121756621

12102171757722

14

18

64111758823

14136221759924

1228123311817601025

121024311761ll26

15

13

14

127

12

14

14

12

4

517621227

162117631328

141764明和129

3721765230

121311111766331

1341211767432

9

13

12

18

1021768533

2161769634

131321101770735

1313581771836

13

13

11381772安永137

13131773238

13121021774339

1313671775440

13

13

6

13

13

61776541

13

4

6

91777642

71778743

1313581779844

1311111780945

13

13

13

13

13

131781天明146

i3

131782247

131783348

14132ll1784449

*荒 屑英次 『近世海産物貿易史の研究』145頁 、第27表による。

註:備 考の欄の数字は日本側の記録 『長崎実録大成』によるもの。

ヲ買調

へ、此二

ヨリ船

ヲ仕出セ

リ。尤寧波、舟山、

普陀山、福州、厘

門、広東

ヨリ渡来

ル船モ有之ト云

トモ、専ラ上海、

乍浦

ヨリ仕出

ノ船

多シ。

とあり、乾隆期に入る

と、唐船の出航地が上

海と乍浦に集中された

ことは明らかである。

正徳新例の信牌制によ

って、唐船を出航地別

に南京

・寧波

・慶門

広東

・台湾

・広南

・逞

に分けられたが、来

航船数が減少するに伴

 ぴ

い、乾隆

中期以後、信牌

の地割は南京

・寧波

・厘門の三地に限られた。その実際の出航地は表

6に示されているように、漸

江省の乍浦であ

った。乍浦のほかに南京

・寧波

・厘門

・広東

・南洋等地より出航した記録が見えるが、これは恐らく信牌に

所載される地方の特産物を調達するために各地に寄港して長崎に直航した結果であろう。その中の南京

は海港ではな

いが、

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信牌は船籍

の所在を示すものであ

ったので、恐らく船は上海より出航したものと推測される。

この表はオ

ランダ側の文献に

基づ

いて作成

したものであるが、永積洋子編

『唐船輸出入品数量

一覧

(=ハ三七~

一八==二年)』

(創文社、

一九八七年

)とは

異なり、また

日本側

の記録とも異なるので、必ずしも正確とは言えないが、乾隆年間に日本に渡航した中国船

の概況が示さ

れる。

如上、乾隆

年間に入って、清朝は対外貿易に関しては地方分離主義をと

っていた。江・浙

には、?銅

貿

易を独占する官商

と民商団体

が成立し、福建商人が長崎貿易より排除された。ところが、南洋貿易及び広東十三行の来舶貿

易において福建商

人がなお活

躍していたようである。梁嘉彬氏は、道光年間終末当時の広東十三行の行商の籍貫に

ついては、十三人のうちに

ロむ

 

広東籍が三人、安徽籍が

一人に対して、福建籍が九人を占めていた、と考証している。福建商人は古くから海外貿易に進出

し、造船、航海、貿易などに長ずる。また、同郷集居の風習があり、同郷の者が邦巾を結成し、このような団体組織によ

って

自分の利益を守る。長崎での唐寺の建立、さらに広東

・度門貿易にお

いては、江・浙

商人の活動がほとんど見えなか

ったこ

とは、この推測を裏付けるのであろう。また、海外貿易を支配する海関監督等の官僚または官商たちは、十分な財力があ

ても海外貿易に経験が不足であ

ったため、十分の能力と経験を持

っていた民間の福建商人に頼らなければならないと思われ

る。その事実は、次の長崎渡航唐船

の乗組員の構成および出身別表を参考にすればわかるのであろう。

次にあげる表7

・表8

・表9

・表10は乾隆中期以後、長崎に渡航した唐船の乗組員の構成である。まずは安永九

(乾隆四

五、

一七八〇)年に安房に漂着した南京船元順号である。乗組員七十八名

の籍貫が明らかにされ、船頭沈敬瞭は蘇州の者、

 ゼ

脇船頭方西園は徽州府の者、財副顧寧遠は上海の者で、

いずれも江・浙

系の商人であ

ったが、彩長

・総管以下の下級船員に

は福建人が大多数を占めていた。次は寛政十二

(嘉慶五

・一八〇〇)年に遠州漂着の寧波船であ

ったが、船頭劉然乙と脇船

頭の注晴川は杭州の出身で、財副にな

ったのは福州出身の陳国振であ

った。『竣浦雑綴』巻中に

「唐船

の船主は多く南京人

へれ

 

にて、財副

は福州人多し、故に福州の語は南京人通ぜざ

る事多し。」と

いう文化二

(一八〇五)年唐通事

周文次右衛門の話

が記され、航海貿易に通ずる福建人の力を借りるために、彼らを雇

ったものであろう。そして下級船員も前述の元順号と同

じょうにほとんどが福建人であ

った。また次

の表9の文化四

(嘉慶十二、

一八〇七)年

の寧波船と表10の文政九

(道光六、

一八二六)年

の寧波船得泰号の場合にも前掲表

7

・表8とほぼ同じ人的構成が見られる。注目されるのは、表10得泰船の乗

Page 19: 清代前期の福建商人と長崎貿易 · 台 湾 か ら 長 崎 に 渡 航 し た 。 明 代 中 期 に 海 商 と し て 活 躍 し て い た 徽 州 商 人 (新

 が

組員の中の

「附搭」

である。「附搭」とは、『得泰船筆語』

によれば、「別商人在本船、附往長崎之人也」

とあり、本船に所

属されない商人が船に便乗して、個人資本で長崎貿易を従事した者である。これらの商人は、

いずれも福建人であ

った。長

崎貿易が官商と額商団体に独占された後、福建商人は、或は江

・断商人の海商企業に雇われ、或はそれ

に付随して、微弱な

資本で個人貿易に従事したと思われる。

長崎渡航唐船

の様式を大別すると、沙船と鳥船との二様式があ

ったことが知られる。特に乾隆中期以降

、大型鳥船が長崎

  

 

渡航船の主

流とな

ったことは明らかにされている。沙船は吃水四

・五尺の平底船で、本来江水を航行す

るように造られ、沙

 お

洲の多い海

面の航行にも適した。外洋貿易の場合、福建

・広東地方で造

った尖底の鳥船に頼らなければ

ならな

い。このため、

 れ

 

鳥船の操縦

に慣れな

い江・浙

の人は海外貿易に従事する場合、航海に長ずる福建人を多く雇

ったのであ

る。江戸時代

の日本

表7安 永九年(乾 隆45・1780)安 房 漂着南京船の

乗組員の構成お よび 出身地 区別 表

随目

管長

胎王

構成

出身

8611江 蘇

211

浙江

11安 徽

6763211福 建

78764211111合 計

*船 主:沈 敬購(蘇 州)副 船主:方 西園(新 安)

財副:顧 寧遠(上 海)彩 長:蘇 孟堪(慶 門)

総管:林 天従(福 州)(下 略)

典拠:①FiJ本 『通航 ・覧』六、巻二三二。

② 「漂客紀事』(県立長崎図書館所蔵)。

表8寛 政十二(嘉 慶5・1800)年 遠州漂着寧 波船

の乗組 員の構 成および出身地区別表

1斯

管長

齢王

構成

出身

431江 蘇

33131811

浙江

502412221福 建

871860222111合 計

副船主:注 晴川(杭 州)

彩長:林 徳海(福 州)

楊振元(福 州)

(下略)

*船 主:劉 然乙(杭 州)

財副:陳 国振(福 州)

総管:黄 公隆(同 安)

陳諸和(福 州)

典拠:内 閣文庫所蔵 『視聴草』四集十(汲 古書院影印本)

表9文 化 四(嘉 慶12・1807)年 下総銚子浦漂

着寧波船 の乗組員の構成お よび 出身地 区

別表

船王

構成

出身

7511江 蘇

20191

浙江

6056211福 建

8780211111合 計

*船 主:王 永安(蘇 州)副 船主:楊 玉亭(蘇 州)

財副:孫 均南(江 寧)彩 長:李 華使(同 安)

総管:呉 得勝(福 清)(下 略)

典拠:刊 本 『通航 一覧』 六、巻二二六。

Page 20: 清代前期の福建商人と長崎貿易 · 台 湾 か ら 長 崎 に 渡 航 し た 。 明 代 中 期 に 海 商 と し て 活 躍 し て い た 徽 州 商 人 (新

表10文 政九(道 光6・1826)年 遠州漂着寧波船の乗組 員の

構 成および出身地区別表

使

管長

選}王

構成

出身

1091江 蘇

21449211游 江

85675211福 建

1161136485211211合 計

*船 主:劉 景笥(杭 州)副 船 主:楊 啓堂(平 湖)

財副:朱 柳橋(平 湖)霧 長:洪 廷械(侯 官)

劉聖孚(杭 州)(下 略)

総管:鄭 資淳(長 楽)

典拠;① 刊本 『通航… 覧続 輯』 二、巻三三~三九。

② 『文政九年遠州漂 着得 泰船 資料』

表11長 崎悟真寺唐人墓地の 出身地 区別集 計表(1786~

1844)

[出身地i江 蘇 【浙江1安徽1福 建[広 東1不 明1合 計

11535i人 数115134111981・

*悟 真寺所蔵過去帳「神霊記」・「推広仁術」に より作成。

表12長 崎崇福寺唐人墓地の 出身地 区別集 計表(1656~

1861)

[出身地i江 蘇1浙江[安 徽1福 建1広 東1不 明1合 計

133[205Il65i1231人 数ll

*宮 田 安 「崇福寺の唐 人墓地」(『長崎 華商泰益号関係

資料』2、1986)に より作成。

表13長 崎興福寺麿人墓地の 出身地 区別集 計表 く1757~

1861)

1出身地1江 蘇1浙江1安 徽1福 建 【広東i不 明1合 計oi25112211入 数144!4913

*宮 田 安 「興福寺の唐 人墓地」(「長崎 華僑史稿(史 ・

資料編)』3、1987)に よる。

人漂流民の記録であ

った

『東航紀聞』に、対日本貿易の基地の乍浦について、次

のように述べている。

乍浦の海岸に、長崎通舶

の舟子等は家数多あり。潭州人は舩稼ぎに工みなりとて、商人方より傭ひて乍浦に来住せしめ、

  

 

年々長崎

へ来る者多しと

いふ。

長崎貿易のために、江

・断商人に雇われた福建人は、乍浦に多く在住していたことが知られる。道光

『慶

門志』巻十五、俗

尚の条に、

服賢者、以販海為利薮、視圧洋巨浸如妊席、北至寧波

・上海

・天津

・錦州、南至興東、対渡台湾、

一歳往来数次、外至

Page 21: 清代前期の福建商人と長崎貿易 · 台 湾 か ら 長 崎 に 渡 航 し た 。 明 代 中 期 に 海 商 と し て 活 躍 し て い た 徽 州 商 人 (新

呂宋

・蘇禄

・実力

・噛嘲唱、冬去夏回、

一年

一次。初則獲利数倍至数十倍不等、故有傾産造船者。然騨富騒貧、容易起

落、舵水人等籍以為活者以万計。

とあり、福建商人の海洋貿易に対する依存及び彼らの冒険的な性格を語

っている。

最後に長崎悟真寺の唐人墓地に葬られた病死者の出身地を集計すると、表11の如くである。そ

のうち

に、福建人が大多数

を占めることは、前掲唐船

の乗組員

の集計と

一致している。彼らはほとんど無名の下級船員であり、この点から、悟真寺

唐人墓地は、福建邦巾の菩提寺たる崇福寺

・福済寺、三江邦巾の菩提寺たる興福寺

の墓地と違う性格を持

っていたことがいえる

であろう。

(表12

・表

13、参照)

おわりに

以上は、近世の長崎貿易における福建商人

の活躍およびその衰退の過程を検討したものである。

福建商人を主軸とする民間商船

の海外貿易

の発展は海禁下の明代中期からであ

った。その背景とし

ては、地理的

・政治

・経済的等

の理由があげられる。彼らは強惇な気風で海洋貿易に進出し、造船

・航海

・貿易など

の優れた技術によって明

清時代の海外貿易を独占した。長崎貿易においては、明末から清代

の康煕二十二年まで、台湾を根拠地とした鄭氏配下の福

建商人によ

って行われていた。鄭氏

一族が降伏した翌年に、清朝は展海令を発布し、広東

・福建

・浙江

・江蘇四省に海関が

設置され、海洋貿易を管理したのである。展海令が発布されたに伴

い、長崎渡航の中国船が激増した。

日本側は金

・銀

・銅

など

の流出を防ぐため、次第に貿易制限令を発布した結果、中国船

の日本渡航も次第に減少した。

一方、清朝側にお

いては、

鋳銭用の日本銅を確保するため、また、海外貿易の利益を独占するため、さらに国家の安全を確保するために商人に対する

統制を強化

した。康煕五十六

(一七

一七)年に海外貿易に出た民衆が数多く南洋に滞留し、米穀

・船隻などが国外

へ流出す

への

 

る恐れがあ

ったので、清朝は日本の?銅

貿易および外国船

の市舶貿易以外の南洋方面

への渡航を禁止した。その背景として

は、正徳五

(康煕五十四)年に発布された正徳新例との関連があ

ったと推測される。すなわち、信牌が得られない商人が大

量に南洋に移転することを予測し、清朝は防範

の意図のもとに再海禁をしたのであろう。ついで、海外貿易の独占機構が整

  ね

 で

備され始め、康煕五十九年に広東十三行の公行制度が成立し、康煕六十

一年に?銅

貿易を江

・断二省に採辮させた。雍正五

Page 22: 清代前期の福建商人と長崎貿易 · 台 湾 か ら 長 崎 に 渡 航 し た 。 明 代 中 期 に 海 商 と し て 活 躍 し て い た 徽 州 商 人 (新

 だ

に、

の上

って南

の海

いた

貿

る慶

に乾

、?銅

の官

・額

・広

の日

貿

の強

貿

にお

の勢

って大

て後

退

いわ

いる

のず

って、

日本

の制

ので

いと

の中

お数

いる

こと

貿

にお

の後

退

の?銅

であ

貿

る地

った

の後

・貿

の経

って江・浙

の海

の微

で長

貿

・慶

・江浙

貿

の意

いた

設機

であ

った

貿

に関

があ

って

った

であ

の海

お多

った

稿

貿

の衰

退

の過

の海

の実

の海

貿

いて

べき

い。

いて

い。

註(1)

徽州商人

の商業活動

に関しては、従来各分野からさまざま

に研究され、詳しくは藤

井宏

「新安商人の研究」

一~四

(『東洋学報』

三六巻

-四号、

一九

五三年

・一九五四年)、傅衣凌

「明代徽州商人」(『明清時代商人及商業資本』

(一九五六年)所収

)、葉恩顕

「試論徽州商人資本

的形成与発展」(『中国史研究』

三、

一九八〇年)、松浦章

「清代徽州商人と海上貿易」

(『史泉』

六〇号、

一九八四年

)など、参照。

(2)

山脇悌二郎

「近世日支貿易

における福州商人の没落」(『東方学』十二号、

一九

五六年

)、同氏

「近世日中貿

易におけ

る福建商人と

.浙商

人」(『近世

日中貿易史

の研究』所収、吉川弘文館、

一九六〇年)。

(3)

の代表的なものとしては、『泉州海外交通史料匪編』

(中国海外交通史研究会等編、

一九八三年)、李東華

『泉州与我国中古的海上交通』

(台湾学生書局

一九八六年

)、傅衣凌

「明代福建海商」

(『明清時代商人及商業資本』所収、

一九五六年

)、小葉田淳

「明代滝泉人

の海外

通商

発展ー特

に海澄

の餉税制と

日明貿易に就

いてー」へ『東亜論叢』

四輯、

一九

一年、同

『史説

日本と南支那』所収、

一九四二年

)、松浦章

「清

代福建的海外貿易」(『中国社会経済史研究』

一九

八六年

一期)、同氏

「清代

の海外貿易

について」(関西大学

『文学論集』創立百周年記念号、

Page 23: 清代前期の福建商人と長崎貿易 · 台 湾 か ら 長 崎 に 渡 航 し た 。 明 代 中 期 に 海 商 と し て 活 躍 し て い た 徽 州 商 人 (新

一九八六年

)等がある。

(4)

例えば、明代

の張愛の

『東西洋考』

である。

(5)

明清時代

における福建農村

の商品生産に

ついては、前田勝太郎

「明清

の福建

における農家副業」(『鈴木俊教授還暦記念

東洋史論叢』所収、

 九六四年

)、三木聡

「抗租と阻米

ー明末清初期

の福建を中心としてI」(『東洋史研究』

四五巻四号、

一九八七年

)等、参照。

(6)

分水嶺は今

の福建省崇安県にあり、福建と江西と

の省境

に当る。浦城は今の福建省浦城県

の地で浙江

への内路通路

の要衝に当る。以上の両

には税関が置かれていた。

(7)

前掲註(5)前田氏論文、参照。なお、西川如見

『華夷通商考』巻

二、福建省土産

の条に、

日本に輸

入する産物

が詳細に掲げられ

ている。

(8)

香坂昌紀

「清代前期

の沿岸貿易

に関する

一考察-特に雍正年間

・福建-天津間に行われていたものに

ついてー」(『文化』

三五巻

一・二号、

一九七

一年

)、郭松義

「清代国内的海運貿易」(『清

史論叢』

四輯、

一九八二年

)、松浦章

「清代における沿岸貿

易に

ついて1帆船と商品流通

I」(冊明清時代

の政治と社会』所収、

一九八三年)、参照。

(9)

佐久間重男

「明代海外私貿易

の歴史的背

景-福建省

を中心としてl」

(『史学雑誌』

六二編

一号、

一九

五三年

)、同氏

「明朝

の海禁政策」

(『東方学』

六輯、

一九五三年

)、片山誠二郎

「明代海上密貿

易と沿海郷紳層」

(『歴史学研究』

一六四号、

一九五三年

)、福田節生

「清代海上

密貿易の発展に

ついて」(『史学研究』

五八号、

一九五五年

)、林仁川

『明末清初私人海上貿易』

(華東師範大学出版社、

一九

八七年)等、参照。

(10)

例えば、西川如見

『長崎夜話草』(二、唐船始入津之事

)では、永禄五

(嘉靖

一、

一五六

二)年

であるとし、

田辺茂啓の

『長崎実録大成』

(巻十、唐船長崎湊来着之事

)では、永禄

・元亀

(明嘉靖

・隆慶

)の頃としている。『実録大成』

の自叙によると、彼は広く求

め遍く問

いた

衆説を考合

し、特に官庫

の秘籍と社寺の秘記とを披閲することを許され

て更に集大成した、とは

いえ、「永禄

・元亀

の頃」と曖昧な表現を取

らざるを得なか

った

のは、確か

に資料を鉄

いだからであろう。なお、『通航

一覧』

(巻

一九八、唐国総括部

一、渡来扱方)では、慶長

(万暦

二八、

一六〇〇)年

の記事が見えるが、これは徳

川政権

下での初来

の意味であろう。要す

るに、長崎

へ中国船が渡航し始

めたのは、元亀

(一五七

一)年に長崎の開港前後であ

ったと

は言えよう。これに関しては、矢野仁

「徳川時代

に於ける長崎の支那貿易」、同氏

「永禄寛永

時代の長崎

の支

那貿易」(共

『長崎市史

通交貿易編東洋諸

国部』

所収、

一九三八年

)、李献璋

「長崎

へ唐人

の来始めた初期

のこと」

(『華僑

生活』

二巻四号、

一九六三年

)、中村質

「近世の日本華僑」(『外来文化と九州』所収、平凡社、

一九七三年

)等、参

照。

(11)

頴川君平編

『訳司統譜』

(『長崎県史

史料編四』所収)、参

照。

(12)

宮田安

『唐通事家系論孜』(長崎文献社、

一九七九年)、同氏

「補遺唐通事家系論孜」

(『長崎市立博物館館報』二五号、

一九八五年

)

「続

補遺唐通事家系論孜」(同前、二六号、

一九八六年

)、参照。なお、中村質氏

の集計

によると、草創から慶応

(一八六七

)年三月の解散まで

に、そ

の人員はのべ

一六四四人

(実員八二六名

)、計四五姓が数えられた

のである

(前掲註(10)、中村氏論文、参照)。

Page 24: 清代前期の福建商人と長崎貿易 · 台 湾 か ら 長 崎 に 渡 航 し た 。 明 代 中 期 に 海 商 と し て 活 躍 し て い た 徽 州 商 人 (新

(13)

『長崎市史

地誌編仏寺部下』第七章、黄漿宗。

内田直作

『日本華僑社会

の研究』

(同文館、

一九四九年)前編、江戸時代の華僑団体。な

お、中村氏前掲論文、参照。

(14)

同前。

(15)

『通航

一覧』巻

一九

八、唐国総括部

「、入津船数、慶安元

(一六四八)年条

の按文に

「按ずるに、寛永十三

(一六三六)年入津を長崎

一方

に定められ、其後正保四

(一六四七

)年まで毎年何艘入津と

いふ事詳ならず。」とある。

(16)

『明実録』

(中央研究院歴史語言研究所影印本

)万暦四十

(一六

一二)年八月丁卯条、兵部

の言に

「至通倭、則南直隷縣

〔11由〕太倉等処、

以貨相貿易、取道漸路而去。而

通倭之人皆閲人也。合福

・興

・泉

・潭共数万計、無論不能禁。」とあり、明末より江

.漸地方で日本向

けの貨

(糸

・絹など

)を仕入れてから日本

へ渡航した福建人が多

いようであ

る。

(17)

岩生成

「明末日本僑寓支那人甲必

丹李旦考」

(『東洋学報』二三巻

三号、

一九三六年

)参

照。

(18)

同前。

(19)

従来、欧華宇

のことを

「欧陽華宇」と

みる学者は少なくな

い。

この点

については、李献璋

氏が

「平戸

における唐人とそ

の遺跡」

(『華僑生

活』

二巻

四号、

「九六三年

)および

「慶寛時代

の長崎唐人をめぐる諸問題」

(上

)(『中国学誌』

第二本、

一九六五年)にお

いて考証した。な

お、李氏は李旦の耳。9①「の

「はう」(華宇)のことを欧華宇と比定し、..σ「。9嘆..とは実兄弟

の意味でなく、義兄弟のことと推定される。岩生

氏と異なる見方をして

いる。張吉泉

の事蹟に

ついては、従来知られて

いな

い。前掲李献璋氏

「慶寛時代の長崎唐人を

めぐる諸問題」及び

「長

崎唐

人研究餓篇」

(『長崎談叢』七三輯、

一九八七年

)を参

照された

い。

(20)

『長崎市史

地誌編仏寺部上』悟真寺

の項、参照。

(21)

明末清初

の筆・記小説例えば、『明季北略』

『小膜紀年』

『小膜紀伝』

『台湾外

記』

『南彊繹史』

『靖海紀略』など、なお、官方

記録

『明実録』

や地方志

(例えば、同治

『福建通志』巻

二六七、明外紀)など

では、鄭芝竜

の中国沿海を掠奪した記事が多く見られる。

(22)

日本

での刊本と

しては、村上直次郎訳

『バタヴィア城日誌』

一~三

(平凡社東洋文庫本

)、同訳

『長崎

オランダ商館

日記』

一~四輯

(岩波

書店

)、永積

洋子訳

『平戸オランダ商館日記』

}⊥

二輯

(岩波書店

)などがあげられる。鄭芝竜の貿易活動

については研究

が少なく、石原道

博氏

の労作

「鄭芝竜の日本南海貿易」(『明末清初

日本乞

師の研究』所収、

一九四五年

)があ

る程度であ

る。

(23)

前嶋信次

「鄭芝竜

の招安

の事情に

ついて」(『中国学誌』第

一本、

一九六

四年)、参照。

(24)

刊本

『華夷変態』上冊

(東洋文庫、

一九五八年初版、東方書店、

一九

一年再版)二二七頁。

(25)

詳しくは浦廉

…氏未刊の論文

「鄭泰の長崎預銀に関する研究」、李孝本訳

「延平王戸官鄭泰長崎存銀之研究」

(『台湾風物』

=

巻三期、

九六

一年

)、参照。

Page 25: 清代前期の福建商人と長崎貿易 · 台 湾 か ら 長 崎 に 渡 航 し た 。 明 代 中 期 に 海 商 と し て 活 躍 し て い た 徽 州 商 人 (新

(26)

浦廉

一氏

.石原道博氏前掲論文

のほか、韓振華

「一六五〇~

]六六二年鄭成功時代的海外貿易和海外貿易商的性質」

(『慶門大学学報』社会

科学版、

一九六二年

一期)、頼永祥

「台湾鄭氏与英

国的通商関係」(『台湾文献』

十六巻

二号、

一九六五年)、南棲

「台湾鄭氏五商之

研究」(『台

湾経済史』十集、

一九六六年

)、楊彦木…「一六五〇~

=

ハ六二年鄭成功海外貿易的貿易額和利潤額佑算」(『福建論壇』、

一九八二年

四期

)、林

仁川

「試論著名海商鄭氏的興衰」

(『鄭成功研究論文選

続編』所収、

一九八四年

)、朱徳蘭

「清初遷界令時明鄭商船之研究」

(『史聯雑誌』

期、

一九八五年)、鄭瑞明

「台湾明鄭与東南亜之貿易初探」

(「台湾師範大学歴史学報』十四期、

一九八六年

)、中村質

「初期

の未刊唐蘭風説書

と関連史料」(田中健夫編

『日本前近代

の国家と対外関係』所収、吉川弘文館、

一九

八七年

)等、参照。

(27)

清初

の遷界令に

ついては、浦廉

「清初

の遷界令

の研究」

(『広島大学文学部紀要』

五号、

一九

五四年)に詳し

い。

(28)

生成

「近世日支貿易

に関する数量的考察」(『史学雑誌』六二編十

一号、

一九五三年

)所掲

「長崎来航支那船出帆地別船数表」(=

四七~

一七〇〇)参照。

(29)

中村質氏前掲註

(10)論文、第三章

「鎖国後の貿易と長崎」、参照。

(30)

刊本

「通航

一覧』巻

一五九、長崎港異国通商総括部二二、商法。

(31)

清朝

の?銅

制に

ついて、拙稿

「清

日貿易

の洋銅商に

ついて1乾隆~咸豊

の官商

・民商を中心にl」

(九州大学

『東洋史論集』十五号、

九八六年

)、参照。

(32)

香坂昌紀

「清代前期の関差弁銅制及び商人弁銅制

について」(『東北学院大学論集歴史学地理学』十

一号、

一九八

一年

)、参照。

(33)

正徳新例

の信牌制度に関する主要な論考

には、矢野仁

「正徳新

例前

の長崎

の支那貿易と正徳新例事

情」

「支那

の記録から見た長崎貿

易」

(共に

『長崎市史

通交貿易編東洋諸国部』所収)、山脇悌二郎氏前掲論文のほか、『長崎の唐人貿易』

(吉川弘文館、

一九六四年

)

=二九

一六五頁、佐伯富

「康煕雍正時代における日清貿易」

(『東洋史研究』十六巻四号、

一九

五八年、同

『中国史研究』第

二、所収)、菊

地義美

「正徳新例における信牌制度

の実態」

(『日本歴史』

一八五号、

一九

六三年

)、大庭脩

「享保時代

の来航唐人

の研究」

(『江

戸時代における中国

文化受容

の研究』所収、同朋舎、

一九八四年

)等がある。

(34)

菊地義美

氏前掲論文、参照。

(35)

この事件

ついては、刊本

『華夷変態』

下冊、

二六九二~二七二二頁および同書所収

『崎港商説』

一、なお、刊本

『通航

一覧』巻

一六七等

に収録されている諸船主

の口書によ

って詳細の顛末を知ることができ

る。なお、長崎市立博物館聖堂文庫に、当時

の船頭たちが寧波府鄭県

知県

に護訴した訴状

の写し

(「唐船主交易

の事を述ぶ」と題す)および鄭県

の知県が督撫に上申した

「県詳」

の写し

(「唐船

通商

の書」と題

す)が所蔵

される。

(36)

刊本

『康煕起居注』

(中華書局、

一九八四年

)第三冊、二三〇三頁。

Page 26: 清代前期の福建商人と長崎貿易 · 台 湾 か ら 長 崎 に 渡 航 し た 。 明 代 中 期 に 海 商 と し て 活 躍 し て い た 徽 州 商 人 (新

(73)

・蘇州織造李胸…奏摺L

(・文献叢編』

下冊所収

)康煕四+年三月、同六月、同+月

の上奏。なお

.康煕朝漢文縫

奏饗

編、

(北京、

一九八

四年)篁

冊にも収録される・

これに関しては、松浦章

.杭州織造鳥林達莫爾森の長崎来航とその職名に

ついて・(.東方学、五五輯、

一九七

)、参

(83)

刊本

・華夷変態』下冊・二七=一八⊥

四二頁。なお、この暑

は康煕辛

六年

四月付

.准海商領倭票照・(後掲

.信牌方記録』所収

)

の内容とほぼ

一致であ

った

ので、この中国官府より申渡

した諭文の和訳と言えよう。

(93)

山脇氏前掲註

(2)論文・なお内田直作氏前掲註

(B善

=

九頁にも、

この信牌

の押収事件

で乾隆年

間の?銅

官商と当時江警

憲と

の間に

血縁的関係の存在したことが推測されう

ると

いわれる。山脇氏は、官辺と

の因縁に関し

ては、信牌が押収された当時の漸閲讐

が萢時崇であ

り・浙江

巡撫が王氏

(筆者註

-王度昭)であり、

、乾隆年間

に呆

銅採辮

の官商制が成立した際

の初代

の官商が范氏

(筆者註..萢籍

)

であり・それを継

いだ

のが王氏であり、また後

の額商とみられる鄭氏

(筆者註

-鄭朗伯

)の名も見、えているが、信牌が押収された当時

の寧波

府鄭県の知県が鄭氏であ

ったことなどから、江浙

商人と官辺との因縁関係を推測した。まず、范氏

ついては、す

でに前掲註

(13)拙稿

にお

て究明した・奉天藩陽出身

の萢時崇と山西介休出身

の萢籍

の間には、史料的

に見る限り血縁的関係が確められない。また、断江巡撫の王

度昭と後

の?銅

官商の王世栄

階等と

の関係に

ついては、王度昭は山東諸城

の出身

(.乾隆勅修断江通志・巻ナ

、職官

)であり、王世

栄は髭

の塩商

で・王履階は浙江

仁和

の出身

(⊥剛掲拙稿、参照

)である。三人の間に血縁関係があるとは田心わな

い。さらに額商の鄭朗伯と鄭

県知県

の鄭氏に

ついては・山脇氏

の典拠は刊本

・通航

一覧』

六、九頁所収、明和七

(一七七〇)年密.波船主鄭朗伯名義

の信牌であ

った。とこ

ろが・同書

五頁に・文化四

(天

〇七

)年

下総国に漂着

した喜

日桂所属

の寧波船主王委

の・書が見え、その時

の王氏所持

の信牌

の名義

人も鄭朗伯であ

ったから・鄭朗伯

は額商

でなか

った

ことがわかる。すなわち信牌

の名義人には、荷主

.船主

.ム・股

の出資者、またはそ

の親

●友人等

さまざま

いる

(市立長崎博物館所蔵寛延藁

久年間

四八∴

八六三)の

.販銀額配銅之数・および

.割筥

田帳・など参

照)。

鄭朗伯

の日本渡航に

ついては、管見の限りに見あたらな

い。清代には、官吏を任命する場△。、本籍地を回避する制度

があり、数+年も離れ、

しかも史料上では確認できず・さらに官銅

の採買

にお

いて、必ずしも利益があるとは限らな

いので、ただ同じ姓だと

い・つだけで血縁関係

の存

在を想定することには無理があ

ろう。

(40)

刊本

『華夷変態』

下冊、二七〇二頁。

(14)

県立長崎図書館占賀文庫所蔵

・信牌方記録』。なお刊本としては大庭脩響

.享保時代の日中関係資料

一・(関西大学出版部、

八⊥ハ年

)

に収

(42

)

『華

夷変

』、

.六

四六

、九

一六

。以

下、

され

いも

のは

べて

『華

変態

によ

(43

)

山脇

掲論

Page 27: 清代前期の福建商人と長崎貿易 · 台 湾 か ら 長 崎 に 渡 航 し た 。 明 代 中 期 に 海 商 と し て 活 躍 し て い た 徽 州 商 人 (新

(44)

刊本

『華夷変態』、二七九

五頁。

(45)

同書、二八七七頁。

(46

)

同書および前掲

『信牌方記録』

など、参照。なお、長崎県立図書館渡

辺文庫に、午

五番咬瑠

噌船主鄭孔典

が海難で信牌を失

った甥

の鄭大山

(仲間

の高令聞名義の信牌

)のため、信牌

の再発行を申請した上書が見え、彼らは

一族であ

ったことは間違

いであろう

(渡辺文庫

17157)。

(47)

同書、二八三三頁Q

(48)

同書、二六九五~二六九七頁。

(49)

山脇氏前掲論文。

(50)

刊本

『華夷変態』、二九〇〇頁。

(51)

同書、二七三九頁、二九〇六頁。

(52)

『宮中檎雍正朝奏

摺』十

一輯、六七

四~六七六頁。同書、十二輯、五六~五八頁。

(53)

『皇朝文献通考』巻十六、銭幣考、乾隆元年

の条。

(54)

官商と民商

による日本銅

の採買

ついては、前掲註(31)拙稿、参

照。

(55)

『皇朝文献通考』

巻十七、乾隆二十年

の条。

(56)

『清実録』乾隆二十二年十

一月戊戌

の条。

(57)

内田直作

「清代

の貿易独占機構」

へ『東洋経済史研究1』

(千倉書房

一九七〇年

)所収)参照。

(58)

刊本

『通航

一覧』

五、

四六八~四八三頁。同書、五九五頁。

(59)

乾隆二十年

に官商と額商

の商額が定められた後、長崎に渡航した唐船はほとんど官商と十二家民商

に独占され、これ以外の商人より発せら

れた船は僅か三艘

が知られるだけであ

る。「明安調方記」(『長崎県史

史料編四』所収

)によれば、そ

れは、明和六

(乾隆三四

)年の丑十番

広東船、同七年の寅十

一番安南船と寅十二番厘門船

の三隻

であ

った。そ

の中に丑十番広東船

の荷主は福建商人の游中

一で、寅十

一番安南船

荷主林承和も福建商人

であ

った。なお、寅十二番厘門船

の荷主は不明

であ

ったが、福建商

人に違

いなか

ったであろう。

この三隻

の船の長崎入

港に対して、范氏

十二家

の荷主が清朝官府

に訴え、結局、清朝では官商と額商が採辮した洋銅は官民の用に供され

ている理由

で、福建商人

洋銅採買

ついては、重ねて停止

の令を出

した。乾隆

三十六

(明和

八)年以後、福建商

人の長崎渡航が見られなくなる

のは、この方針

が続

ていたからである。

この件に

ついては、松浦章

「長崎貿易

における江浙

商と閾商」(『史泉』四二号、

一九七

一年

)、参照。

(60)

『割符留帳』

(大庭脩編著

『関西大学東西学術研究所資料集刊九』所収、

一九七四年)、参照。

(61)

『広東十三行考』

(商務印書館、

一九三七年

)、三頁。

Page 28: 清代前期の福建商人と長崎貿易 · 台 湾 か ら 長 崎 に 渡 航 し た 。 明 代 中 期 に 海 商 と し て 活 躍 し て い た 徽 州 商 人 (新

(62)

唐船の乗組員

の業務

については、簡単に

いえば、財副は船主に次ぐ地位にあ

って、荷物の管理、帳面等会計を掌

った。彩長は航海

のことを

掌り、水手を指揮する役であ

った。総管は船

中の諸事を処理し、下級船員

のとりまとめ役であ

った。舵工はかじとり役

であ

った。

目侶は水手

の総称であ

った。なお、随使

(随厩

)は従僕

であ

った。詳し

いことは松浦章

「長崎来航唐船

の経営構造に

ついてー特

に乾隆

・嘉慶

・道光期を

中心にl」

(『史泉』

四五号、

一九七

二年

)、参照。

(63)

『新百家説林

蜀山人全集』

(吉

川弘文館、

一九〇八年

)巻三、五九

八頁。

(64)

松浦章

・田中謙二編

『文政九年遠州漂着得泰船資料』

(関西大学出版部、

一九八六年

)所収。

(65)

松浦章

「日清貿易における長崎来航唐船に

ついて1清代鳥船を中心にー」(『史泉』

四七

・四八

・四九号、

一九七三

・一九七四年

)、参照。

(66)

沙船

については、周世徳

「中国沙船考略」(『科学史集刊』五期、

一九六

三年

)、上野康貴

「清代江蘇の沙船

ついて」(『鈴木俊教授還暦紀

念東洋史論叢』所収、

一九六

四年)、参照。

(67)

安永九

(一七八〇)年房州漂着元順船

の筆談集であ

った

『漂客紀事』に、船主沈敬賭が編者児玉稼

への秘密の書簡

一節に、

舷啓者、本船水主等、皆是閾省辺土頑民、隻身遊蕩、目無法紀、不識分量、焉知礼義。而我用之者、江・浙

二省無民習船者、筍欲騒風千

里、勢不得弗取彼、我非得已而不已也。

とある。

(68)

『日本庶民生活史料集成』

(ご二

書房、

一九六八年

)第

五巻、漂流、三五八頁。

(69)

『清実録』康煕五十

五年十月壬子、康煕五十六年正月庚辰

の条。

(70)

梁嘉彬氏前掲註(61)書、七七ー八二頁。

(71)

前掲註

(31)拙稿、参照。

(72)

傅衣凌

「清代前期厘門洋行」(「明清時代商人及商業資本』所収)、参照。

Page 29: 清代前期の福建商人と長崎貿易 · 台 湾 か ら 長 崎 に 渡 航 し た 。 明 代 中 期 に 海 商 と し て 活 躍 し て い た 徽 州 商 人 (新

附表:長 崎渡航唐船 出航地 別船数表(1661~1740)

年代/出 航地

日 本

寛文元

2

3

4

5

6

7

8

9

10

11

12

延 宝 元

2

3

4

5

6

7

8.天和 元

2

3

貞 享 元

2

3

4

元 禄 元

2

3

4

5

6

7

8

9

10

11

12

13

14

15

16

清 朝

川9(ifi18

康 煕 元

2

3

4

5

6

7

8

9

10

11

12

13

14

15

16

17

18

19

20

21

22

23

24

25

26

27

28

29

30

31

32

33

34

35

36

37

38

39

40

41

42

西' 洋

1661

1662

1663

1664

1665

1666

1667

1668

1669

1670

1671

1672

1673

1674

1675

1676

1677

1678

1679

1680

1681

1682

1683

1684

1685

1686

1687

1688

1689

1690

1691

1692

1693

1694

1695

1696

1697

1698

1699

170'0

1701

1702

1703

江蘇

1折ill

1

1

3

2

2

3

5

5

1

l

l

2

4

3

4

2

l

l

1

26

50

55

58

33

32

48

31

29

26

25

20

35

43

49

40

50

25

17

福建

台湾

22

18

16

9

9

14

13

18

11

13

20

16

1

8

13

12

13

11

14

8

5

lO

l3

43

34

51

87

24

32

24

25

28

2】

18

16

31

10

12

9

8

11

17

広東

5

18

3

2

1

2

3

4

4

1

3

3

2

3

1

6

3

3

8

28

10

11

6

8

8

8

5

7

12

3

3

2

3

1

2

南洋

7

9

10

9

17

17

14

13

13

13

11

26

13

9

11

10

9

9

11

18

4

12

12

15

8

15

5

14

12

15

12

9

16

15

10

14

18

13

9

2

3

8

5

160

不明

4

17

1

5

3

12

11

9

1

1

3

1

3

1

2

5

17

5

3

3

24

6

2

2

45

39

合計

39

45

29

39

36

33

30

43

38

40

38

46

20

22

29

26

29

26

33

30

9

26

27

24

85

102

136

192

79

90

90

73

81

73

61

81

102

71

73

53

66

90

80

備 註

7rlf、 」豊¥rし!:}lll「す『

萸ll1戊∫カ、fN育Ili宣 良

参到3),k」力夕女ニーす『

一{藩の 乱

{藩の 乱'ド定鄭経残 す

剣~⊥丸ド条fメこ

h号、h唾2fサ〈}tliす

監量{弓三:イ}

J,ll:fif}数70隻1堤 定

1,ll二人 塩圭磨文つ層己,理~~

わ号、lt'fi人 勃辛金同M-11

Page 30: 清代前期の福建商人と長崎貿易 · 台 湾 か ら 長 崎 に 渡 航 し た 。 明 代 中 期 に 海 商 と し て 活 躍 し て い た 徽 州 商 人 (新

年代/出 航地

日 本

i・.水兀

2

3

4

5

6

7

正徳 元

2

3

4

5

享保 元

2

3

4

5

6

7

8

9

10

11

12

13

14

15

16

17

18

19

20

元 文元

2

3

4

5

清 朝

康煕43

44

45

46

47

48

49

50

51

52

53

54

55

56

57

58

59

60

61

雍 且E元

2

3

4

5

6

7

8

9

10

11

12

13

乾隆元

2

3

4

5

西 洋

1704

1705

1706

1707

1708

1709

1710

1711

1712

1713

1714

1715

1716

1717

1718

1719

1720

1721

1722

1723

1724

1725

1726

1727

1728

1729

1730

1731

1732

1733

1734

1735

1736

1737

1738

1739

1740

江蘇

浙江

35

13

9

14

68

28

28

15

1

1

18

35

27

27

26

20

24

22

10

16

24

22

13

15

26

22

20

19

14

11

6

1

3

福建

台湾

23

2

12

4

13

4

2

7

11

4

6

6

4

4

5

4

4

2

2

6

5

2

4

4

4

4

3

4

2

広東

2

1

2

4

3

3

4

2

6

7

4

4

4

2

3

6

4

6

2

4

2

3

4

1

1

3

1

南洋

3

3

2

3

5

2

5

6

4

2

3

4

5

3

4

3

5

1

7

8

9

5

8

6

9

8

5

5

7

3

1

不明

21

70

69

61

14

23

14

26

61

49

51

1

1

7

6

7

4

1

20

25

合計

84

88

93

84

104

57

52

57

62

49

51

20

26

50

41

40

37

33

33

34

13

31

43

43

22

31

38

38

36

28

31

29

17

5

5

20

25

備 註

正徳新例

清、八省?銅 制

清、南洋海 禁,,4手舟合数40隻1製定

唐船数30隻 限定

江浙二省?銅 制

清、総商制成立

唐 船数29隻 限定

江浙海関?銅

清、洋銅採買一年停IL

麿 船数20隻 限定

註:渡 航船 数に積戻 船 を含 む。 なお、諸 史料 に よって船数 は若 干の相違が ある。

典拠:寛 文~元禄年間:岩 生成… 「近世 日支貿 易に関する数量的考察」・荒居英次 『近

世海産物貿易 史の研 究』 表1。

元禄 ~正徳 年間:刊 本 『華夷変態』 巻15-35。

正徳 ~亨保 年間:同 ヒ所収 「崎港商説 」 ・松平家本 「華夷変態」、『唐船 進港回

樟録』、『信牌方記録』。

享保 ~元 文三年:『 長崎渡来唐 人事蹟及び唐船 主摘録』(県、ン1長崎図書館蔵)