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特別寄稿 26 ていくおふ . Spring 2010 日本から発信する「ホスピタリティ」 ホスピタリティの位置付け ■はじめに 近年、「ホスピタリティ」という言葉をよく耳にする。 大学の講義の現場でも、「意味はよく分からないが 聞いたことがある」「アルバイト先のレストランでホスピ タリティ精神が必要だとよく言われる」等々、学生た ちの間でも普通に耳にする言葉になっているようだ。 マレーシア航空(MH)の機内では、MH という のはMalaysian Hospitality だと サービスの良さを強調する。タイでは 「ほほ笑みとホスピタリティの国」を掲 げて観光客の誘致を図る。日本でも「心からのおも てなし」とか「満足を超える感動」の世界をうたい、 観光業をはじめ、サービス産業での質の向上を進 めている。確かにレストランでも、ホテルでも、飛 行機でも、優しい微笑と、気の利いたサービスが あるのはありがたい。いい体験は、また利用しよう と回りの者にも口コミした くなるのも確かである。 一方、欧州での駐在業 務の折に触れ、フランス人 やドイツ人 に「 ホスピタリ ティをサービスの向上に活 用しているか」と尋ねてみ ても、こちらが期待する、 日本での熱した取り組み のような回答は返ってこ ない。もともと西洋生まれ の言葉だから、さらに洗練 された説明でも返ってくる かと期待するのである。 ハインリッヒ・クーデンホーフ・カレルギーと光子と子供たち。左から 4 番目がリヒャルト・クー デンホーフ・カレルギー。写真提供 株式会社ギャルリー江夏 ANA 総合研究所 主席研究員   山路 顕

日本から発信する「ホスピタリティ」aozorahisako.her.jp/hospitality/hospitalitypdf/hassinn.pdfホスピタリティ(Hospitality)とはもともと、ラテン 語の「(自分に危害を加えない)好ましいよそ者」の

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特別寄稿

26 ていくおふ . Spring 2010

日本から発信する「ホスピタリティ」

ホスピタリティの位置付け

■はじめに

近年、「ホスピタリティ」という言葉をよく耳にする。

大学の講義の現場でも、「意味はよく分からないが

聞いたことがある」「アルバイト先のレストランでホスピ

タリティ精神が必要だとよく言われる」等々、学生た

ちの間でも普通に耳にする言葉になっているようだ。

マレーシア航空(MH)の機内では、MH という

のは Malaysian Hospitality だと

サービスの良さを強調する。タイでは

「ほほ笑みとホスピタリティの国」を掲

げて観光客の誘致を図る。日本でも「心からのおも

てなし」とか「満足を超える感動」の世界をうたい、

観光業をはじめ、サービス産業での質の向上を進

めている。確かにレストランでも、ホテルでも、飛

行機でも、優しい微笑と、気の利いたサービスが

あるのはありがたい。いい体験は、また利用しよう

と回りの者にも口コミした

くなるのも確かである。

一方、欧州での駐在業

務の折に触れ、フランス人

やドイツ人 に「 ホスピタリ

ティをサービスの向上に活

用しているか」と尋ねてみ

ても、こちらが期待する、

日本での熱した取り組み

のような回答は返ってこ

ない。もともと西洋生まれ

の言葉だから、さらに洗練

された説明でも返ってくる

かと期待するのである。ハインリッヒ・クーデンホーフ・カレルギーと光子と子供たち。左から 4 番目がリヒャルト・クーデンホーフ・カレルギー。写真提供 株式会社ギャルリー江夏

ANA 総合研究所主席研究員  

山路 顕

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27ていくおふ . Spring 2010

■ホスピタリティのとらえ方

近年、日本では何をきっかけとし、どのような力が

このホスピタリティを突き動かしているのか。また、

その現代的な意味を、どうとらえるべきなのか。

ほほ笑みや期待を超える感動といった、サービス産

業でのとらえ方だけでいいのか。この言葉が生まれ

た古代ローマ帝国での意味や、担ってきた世界観的

な視点にも目を向けつつ、大きく3 つの場面を想定

しながら考察してみたい。 

第1は個人や社会でのとらえ方であり、第 2は企

業活動の面でどのような変革につながるものなのか、

そして第 3は国家レベルで見たときに、ホスピタリ

ティは何を投げ掛けているのかという視点である。

これらは相互に関連しながら、産業革命以来築き上

げてきた物質主義、効率・数字至上主義に代わる次

の時代を創るパラダイムの転換としてとらえられる

のではないかという考察である。

明治後期にオーストリア・ハンガリー帝国の代理

公使として日本に駐在したハインリッヒ・クーデン

ホーフ・カレルギーと青山光子との次男であるリヒャ

ルト・クーデンホーフ・カレルギーが、1923 年に

「パン・ヨーロッパ」という現 EU の基礎となる考え

を唱えた。それから4 分の3 世紀を経て、今、国を

超えた EUという一大経済圏が出現している。 

アジアにおいても、東アジア共同体構想が俎上に

上る。国際航空の前線で、国を超えた戦略提携と

いう分野に取り組んできた中で、国籍を超える人間

社会のまとまりを導く触媒的なものとして「ホスピ

タリティ」が絡んでいるのではないかという思いが、

いつしか大きな比重を占めてきた。この問題意識

リヒャルト・クーデンホーフ・カレルギーの油彩。孫のミヒャエル氏の作品等を管理する株式会社ギャルリー江夏提供

鳩山薫夫人(鳩山由紀夫総理のご祖母)とリヒャルト・クーデンホーフ・カレルギー氏。写真提供 日本友愛青年協会

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特別寄稿

1 ローマ帝国が伝説のロムルスによって建国されたとする前 753 年から、西ローマ帝国が滅んだ 476 年までを指す。2 弓削達「ローマはなぜ滅んだか」、1991。ローマ帝国の最大版図のときの面積は約 720 万平方キロであるのに対して、米国は約 936 万平方キロ。他方、ローマの 公道網は米国の全ハイウエイ網 88,000キロに匹敵し、支線道路も合わせると約 29 万キロになるとその巨大国家をとらえる。 3 島田裕巳、2009、P18-23。同書で 2008 年 5月に実施された読売新聞の調査が引用されている。4 磯前順一、2003、P33-36。

28 ていくおふ . Spring 2010

を入り口として、ホスピタリティはこれからの社会、

企業活動、国際社会への新たなパラダイムとなるの

ではないかと考えるのである。

ホスピタリティが意味していること

■ホスピタリティ

 ― ローマ帝国の繁栄を支えた精神

ホスピタリティ(Hospitality)とはもともと、ラテン

語の「(自分に危害を加えない)好ましいよそ者」の

hostis と歓待する者である hospes を語源に持つ

言葉とされている。危害を加える可能性のある者

に対する hostility(敵対)が同根であることも、

ホスピタリティの奥行きを厚くしている。古代

ローマでは、ギリシャ人ほか、戦闘で勝利した戦利

品である人質を領土内に住まわせ、ローマ人に等

しい市民権を与えることで彼らを好ましいよそ者と

して遇した。この異文化を積極的に受け入れる力が

巨大な多民族国家の礎になり1,000 年以上も続く帝

国を築き1、さらには後の欧州の礎になる。hostis、

hospes、hospitalis、hospitality とは、このよう

な時代の役割を担い、人間活動を支えてきた言葉で

ある。こう考えると、ホスピタリティという寛容かつ

戦略的な姿勢、精神には見過ごせない奥の深いも

のがある。

言葉というのは、それが生まれた時代背景の下で、

どのような役割を担い、人間活動を支え、社会と一

体になってきたのかという実体から離れて、今日の

使い方に目を奪われてしまうと、その言葉が本来投

げ掛けている声を聞き逃すことになる。古代ローマ

帝国で生まれた、このホスピタリティという言葉を今

に重ねたときに、なお、この言葉が本来担っている、

時代を支える寛容性、戦略性といったミッションが

生きているのではないかと考えてみる意義も看過で

きない。時代の風潮ともなっている「笑顔でお客様

を歓待する」というサービス産業だけの話にしてし

まうのは、あまりにももったいない先人からの伝言

だと思う。ローマが巨大多民族国家 2として長きに

わたって栄える源となったもの、これがまさに、よそ

者、異文化に寛容で、それを受け入れるホスピタリ

ティということであった。

■無宗教の日本人とホスピタリティについて

古代の日本社会では、漂着した異人を「まろうど」

「まれびと」として歓待、もてなすという習俗があっ

たことを、民俗学者は古事記や日本書紀の中に見

つけている。自然宗教といわれる古代の民間信仰、

民間伝承の中に、他国から漂着した「よそ者」を歓

待し、返しに祝福を得るという精神があったという

のである。調査によると日本人の73.1%が正月に初

詣に行き、78.3%の人が盆や彼岸などに墓参りに

行くという。しかし、「何か宗教を信じていますか」

という問いには、71.9%の日本人が「信じていない」

と回答する 3。ホスピタリティを日本の視点からとら

えるに当たって、日本人にとっての無宗教とはどうい

うことであるのか、ホスピタリティを日本の視点から

とらえるに当たり、そのかかわりも含め少し整理をし

ておきたい。

現在われわれが使う「宗教」という言葉は、明治

になって外国との修好通商条約の中に用いられた

Religion の翻訳語として生まれたとされている 4。

明治の維新政府は、天皇を中心にした新しい国の柱

に神道を考えたが、列強諸国との外交樹立を控え、

江戸幕府から引き継いできたキリシタン禁止政策等

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日本から発信する「ホスピタリティ」

5 阿満利磨、2003、P74-75。また、同氏は「無宗教を表明してはばからないと非難されるのも、その原因は、多くの日本人の宗教感覚にあるのではなく、自然宗教を排 除して怪しまない知識人たちの宗教感覚にあったというべきであろう」と指摘する。6 チップ・ウォルター、「この6つのおかげでヒトは進化した」、2007、P61 ~

29ていくおふ . Spring 2010

との調整に迫られる。維新政府は神道を国の中心に

とらえながらも、列強諸国や国内の仏教等にも配

慮し、神道は宗教ではないとの立場を取る5。神道は

国家的儀礼であり、公的な儀礼体系だとする神道無

宗教政策であるとする考えがある。

この結果、古くからそれぞれの地域で信仰されて

きた「自然宗教」というのも、習慣、風俗であって

宗教ではないという常識が形成されたのであろう。

ここに日本の「無宗教」という特異な意識形成が生ま

れたとする学者の説には説得性がある。この無宗教

という意識形成の中で、元来、自然宗教の中に根差

していたホスピタリティに匹敵する「異文化の人を受

け入れる、もてなす、歓待する」という精神のよりど

ころが見えなくなったと考えられる。そこで、無宗教

の埋め合わせをするものとして、一番落ち着きどこ

ろの良いものとして登場したのがサービス産業だっ

たのではないか。失ったよりどころを再び見つけて、

日本ではサービス産業の分野でホスピタリティの熱

い議論が展開されているのではないか。

これとは逆に、西欧では、古代ローマで生まれ

たホスピタリティという精神は、空気や水のごとく、

今なお社会基盤の骨格をなすものである。従って、

サービス産業でもことさらにホスピタリティを目新し

く商業のツールにすることにはならない。既述した

ホスピタリティの問いにも、こちらの期待する回答は

戻って来ないのである。日本では、もともとはホスピ

タリティという外来語に匹敵する概念、精神性を古

代社会の自然宗教の中に持ちながら、無宗教という

意識形成の中で、そのよりどころを失った。

翻っていえば、西欧社会では空気や水のごとく当

たり前のホスピタリティを、日本人の目で、改めて

新鮮にとらえ、当たり前を再度掘り起こし、ホスピタ

リティの中に埋もれている普遍的な意味や精神を

社会基盤に据え、企業活動や、さらには国の「もて

なしの地域圏」戦略として展開してゆく貴重な資源

にとらえることができるのではないかということである。

ここに日本から発するホスピタリティの意味がある。

■ホスピタリティの前提となる「人間らしさ」

ホスピタリティは、人間そのものを真正面でと

らえ、「人間らしさ」ということはどういうことなのか

を問うことでもある。工業化、技術革新を進める中で、

人間らしさは機械の歯車というコストに織り込まれた。

生身の人間を対象にするサービス産業においても、

人間らしさを考えるほど暇はない。人間らしさという

ことを「人に優しい」とか、「親切だ」とかといった

模範解答にして、ホスピタリティは、市場に氾濫する

「思いやりのある、心からのおもてなし」という歯の

浮いた標語で終わる。ともすると、お辞儀の仕方や

名刺の渡し方のような作法、How to の技術磨きに

位置付けられがちである。

人間らしさは人類の進化の中で、淘汰され残って

いる人間の形でもある。直立二足歩行を身に着けた

人類は、自由になった両手で道具を作り、近代社

会をつくった。また、直立二足歩行は、骨盤の形を

変え、出産にも変化をもたらす。つまり、出産しや

すく、小さく、未熟な状態で子供を産む 6。この結

果、他の哺乳動物とは違い、人間は誕生後も長く親

の保護を必要とし、外界からの影響を受け自分を形

成する。生まれ育った国の社会体制や政治、教育に

大きく影響を受けながら、国籍単位の人間形成が進

められてゆくのである。

人間だけに見られる「笑い」についてはどうか。

人間のほほ笑みや笑いは生後、目が見えるころから

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特別寄稿

7 チップ・ウォルター、2007、第 4 部「笑い」。ウォルター氏は「笑いには強力な治癒力があることが今年の研究から明らかになっている」ことを指摘し、「・・・ 私たちは 一緒に笑ってくれる人と親密な絆を結ぶ。そして、いちばん居心地のいい人と一緒にいるときに、いちばんよく笑う」(P260)と述べ、笑いが重要なコミュニケーショ ンのツールとして人間の進化に組み込まれている部分にも言及する。8 堺屋太一、1997、P62 - 63。

30 ていくおふ . Spring 2010

現れる。これは元来、親の保護を確保するための種

の保存と生き残りを懸けた人間らしさの戦いである。

笑いは対人関係をつくる洗練された非言語コミュニ

ケーションとして、人間の進化の中に盛り込まれて

いるのである 7。

進化を通して見える人間の姿は、国や国籍に縛ら

れない人間である。この進化を包み込んだ存在とし

ての人間を、人間らしさとしてとらえたいのである。

そうすると、愛想のいいほほ笑みや相手への気遣い

という部分を表面に見せながら、その奥にある進化

の結果としての人間らしさをとらえる目を持つことが

できる。効率至上主義の中で便利さと引き換えに、

人間味のない社会のこれからのあり方を、見直す

きっかけを与えようとしているのが、ホスピタリティ

の問題ではないかと思うのである。

ビジネスの世界におけるホスピタリティ

■ビジネスにおけるホスピタリティの背景

産業革命を最初に興した英国では、さまざまな

技術や製品が生み出され、今までの事例や基準

では、物の良し悪しを判断することのできない混沌

とした状態に直面したであろう。この混沌とした状

態を整理する考え方として、英国では、あらゆる人

が供給者になれるチャンスである「機会の平等」を

つくり(新規参入の自由)、物事の良し悪しは消費者

自身が決める(消費者主権)という構造をつくり出

した 8。ドイツは、先進工業国の英国に追い付く方法

として、英国での自由競争による淘汰の結果を、優秀

な官僚を動員して取り入れるやり方を採用した。

官僚主導型の啓蒙主義である。そして、日本の明治

維新政府はこのドイツのやり方を取り入れた。

官僚主導型で供給者を育成し、産業保護をする

ことで日本は近代化を急ピッチで推し進めることが

できた。この供給者保護政策では、官僚が、いわば

親の立場となって産業界を育てることだから、産業

保護の名で規制はどんどん上積みされる。産業の

側も規制の中で成長が遂げられる。お上が世界のい

いものを検証し導入するのだから、消費者側に文句

のあるはずはない。こうして、消費者側に立った真

の保護ということが長く置き忘れられることになる。

米国の規制緩和の波を受けた日本で唱えられた

規制緩和では、行政指導など、お上の役割には手が

付かないまま、すなわち、消費者主権が確立しない

まま、産業側での企業間競争ばかりが進められた。

消費者主権の視点に立った消費者保護というメカニ

ズムが機能しないままに、市場での自由競争が展開

されたのである。この日本の規制緩和では、一気に

人間サイドにしわ寄せが行く。人件費を最大の目玉

とするコスト削減と、偽装も辞さない、消費者をも

犠牲にする熾烈な競争を生んでしまった。  

機械化が進めば進むほど、逆に人間としての価値、

人間らしさとは何かが問われてくる。無機質な人間

関係の出現が、逆に人間本来のあり方の再認識、

人と人のかかわりの重要性を炙り出し、人間相互の

かかわりによるシナジー効果によって生まれる新た

な付加価値が、企業の経営でも重要になってくる。

これらの状況が折り重なって、ホスピタリティを突き

動かす社会の声になっていることに、日本の企業は

いち早く気付き始めている。行き過ぎた効率至上

主義にブレーキを掛け、進化に裏打ちされた「人間

らしさ」の磁石で、企業活動のあるべき方向転換を

促すホスピタリティを、企業経営の柱としてとらえ

始めているのである。

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日本から発信する「ホスピタリティ」

9 生産性出版、「お客様と共に最高の歓びを創る、ANAが目指すCS」、2008、P45。2005 年の国際線部門の総合1位(日経ビジネス)に触れ、「飛行機に搭乗してか ら後期するまで一人の乗客を同じ客室乗務員が担当する『パーソナルサービス』が評価されたもの」と言及される。

大黒屋 第16代代表 室井俊二氏ご夫妻と筆者(右)

31ていくおふ . Spring 2010

■行動経済学という分野とホスピタリティ

経済学の分野でも新たな動きが進んでいる。元来、

経済学は合理的な経済人を前提として、合理的な計

算や推論によって経済活動をとらえる学問である。

2002 年10月にプリンストン大学のダニエル・カー

ネマン教授らがノーベル経済学賞を受賞した。経済

学と心理学とを合体させた行動経済学の基礎を固め

た功績である。 

必ずしも合理的な基準に基づいて行動するわけ

ではない実際の人間に焦点を当て、認知心理学

や脳科学なども動員して経済活動を究明していこう

とするカーネマンの行動経済学は、人間らしさや

「個」を中心に据えた社会を見直そうとする時代の

声を反映しているともいえる。不特定多数の人に

マニュアルに基づいて、均一、公平に効率よく提供

するというサービスから脱却し、個が得る満足がリ

ピーターの輪を拡大してゆくことに、日本のサービ

ス産業は目を向けている 9。個の満足や、意思決定

に作用している感情の働きなども経営に取り込もう

とする「ホスピタリティ経営」の取り組みには、行動

経済学の知見は、ますます重要になってくるだろう。

■アートスタイル経営というホスピタリティ

那須塩原の板室温泉にある大黒屋旅館は、バブ

ル崩壊後も黒字経営を続ける奇跡の旅館といわ

れた。室町時代から450 年続く老舗の旅館である。

年間の宿泊者数が約12,000 人、内リピーター客が

73%を超える。その16 代目の代表である室井俊二

社長が現代アートを旅館経営に採用しているので

ある。総敷地面積 3,0 0 0 坪の中庭や敷地全体が

現代アートの舞台のようである。

現代アートは、見ただけでは何のことか分からな

いし、頭でいくら考えても分からない。しばらくぼん

やりと見つめていると自分なりのイメージが、アート

との対話を通してひとりでに生まれてくる。見る人

それぞれで全く違うものかもしれない。旅館とは

大黒屋の庭と現代アート

大黒屋の廊下に掲げられた看板

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特別寄稿

10 山下柚実、「客はアートでやって来る」、2008、P160。「大黒屋では『働く』ではなく『傍 ( はた ) を楽にする」仕事を従業員に言っています。『傍ら』にいるお客様が、  あるいは同僚が、『楽に』『楽しく』なるような仕事の仕方を、自分で考えて実行してほしいのです」と室井氏からの取材に言及する。11 山本哲士、「iichiko 特集ホスピタリティ世界の文化学」No.100、2008 の中で、福原義春氏は「物と貨幣の交換を基本原理とした産業主義型経済は、18、19、  20 世紀に存在したと思いますが、21 世紀には通用しない。〈ホスピタリティ〉は経済原理から脱して、『人間対人間』を基本原理とすることになるのではないか。  経済は〈サービス経済〉から〈ホスピタリティ経済〉にシフトしなければならない時代」と次の時代を分析する。

32 ていくおふ . Spring 2010

いかにも不釣合いな現代アートが不思議と空気

をつくり、宿泊客は目に見えないその空気を鋭く

体感する。おそらくその空気は、働く者にもそれぞ

れ違った何かを与えている。こうしてみると、大黒

屋の現代アートは、お客(ゲスト)一人ひとりと

対話し、その対話を通してお客自らが喜びや共感

を導き出し、一方ではそこで働く従業員(ホスト)に

「傍はた

を楽にする(働く)」ことへの意欲をかき揚げる10。

まさに、ホスピタリティを生み出している。 

大黒屋ではその施設を開放して音楽や、彫刻、

絵画などの発表の会を開く。これから世に出るアー

ティストに発表の場をつくり、また、その情熱を宿

泊客に提供する。この大きな循環の場を通して、湯治

の時間に付加価値を付けているとも考えられる。

目に見えないが、人間がもともと持っていて、効率・

数字至上主義の経済社会で忘れてきた、人間本来

の感性という能力に目を向けて成功している経営で

ある。日本が発信するホスピタリティ経営の宿とし

て参考に掲げた。

■日本から発信するホスピタリティ経営

企業の視点からは、個に気付き、目に見えないモ

ノをも価値としてとらえることのできる日本企業のホ

スピタリティ経営を、アジアという舞台をホームグラ

ウンドにしながら、新たな時代のビジネスを牽引し

てゆくパラダイムとして広く世界に発信してゆく意味

は大きい。ホスピタリティがビジネスでの競争優位

を持ちうるものであれば、その普及は実利を伴って

広がり、さらには、金融資本主義に並ぶ新たな分野

をも創り出してゆくだろう11。ここに、日本企業のイ

ニシアティブがあるし、時代が求めている新たな

価値創造の分野でもある。

東アジア地域圏とホスピタリティ

東アジア共同体の議論は近年熱心になされている。

欧州に比べ、共通の思想母体がないことや、政治

体制等の違いなどから、難しいとする議論が多い。

日本においては方向違いの規制緩和に懲りてか、規

制緩和がすっかり悪者になった。東アジア共同体で

あれ、共通経済市場であれ、その基礎をなすのは規

制緩和であり、共通のルールや制度の導入である。

 さらに言えば、これらの地域でどのような共通の

利益を見出すかの問題であると思う。この共通の利

益を見出し協同してゆくためには、後天的に人間の

心にできた規制の壁が障害である。進化を遂げた人

間の人間らしさという共通項で、それぞれが異なる

ことを認め、受け入れ、歓待してゆく精神、すなわ

ちホスピタリティが、欧州のように共通の宗教や文

岡倉天心。曽孫である岡倉登志氏提供

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日本から発信する「ホスピタリティ」

12 岡倉天心、1986、P20。また「アジア文化の歴史的な富を、その秘蔵の標本によって、一貫して研究できるのは、ひとり日本においてのみである」とも述べ、  万世一系の天皇制、征服されたことのない民族だということ、および島国だということをその理由として指摘している。

P R O F I L E

山路 顕(やまじ・あきら)1950 年大阪府生まれ。74 年同志社大学法学部卒業。同年 ANA 入社。12年間の法務部勤務の間に米国留学。81年米 Embry Riddle Graduate School 航空経営管理学修士(MBA)。86 年国際部主席部員。91年ロンドン主席駐在、94 年パリ支店総務マネージャーを経て 98 年国際マーケティング部部長。2003 年アライアンス室長を経て、06 年より ANA 総合研究所主席研究員(現職)。青山学院大学、玉川大学ほか非常勤講師。

33ていくおふ . Spring 2010

化を持たないからこそ、アジアにおいては重要な牽

引役となる。 

日本においては、古代社会から「まろうど」「まれ

びと」と呼んで、よそ者を畏敬の念を持ちつつ歓

待し、併せて祝福を得るという文化を持っている。

日本人は世界でもまれに見るおもてなしの精神を持

つ国民である。この優れて貴重な「もてなしの心」

「ホスピタリティ」の精神をアジア共通の土台にでき

ないか。文化も、政治も風習も異なる国々をカバー

するホスピタリティに、進化を遂げてきた人間の人

間らしさという共通性を求めた理由でもある。アジ

ア地域に足を入れると、アジアに共通な、おもてな

しの空気を感じるというような地域圏である。

岡倉天心は「東洋の理想」の中で「アジアは一つ

である(Asia is One)」と唱えた。個別、多様性あ

るアジアが、動的な形で融合してゆくことが、大切

だと考えたのである。さらに、「日本はアジア文明の

博物館、いやそれ以上のものである」という12。イン

ドや中国等の古い文化が他民族の統治の中で交互に

破壊される中、古いものを失うことなく新しいものを

受け入れる優れた天性を持つ日本の中に、個々のア

ジアが生き続けているということを再認識する意味

は大きい。覇権主義という、今や成り立ち難いトラ

ウマから脱し、このアジアの融合という命題を、勇気

を持って考える時であると思う。ホスピタリティの精

神を共有する地域圏、ここに東アジア共同体の足元

が見出されるのではないだろうか。以上の視点、

国家戦略に立つとき、大学教育、留学生等の教育に

おけるホスピタリティの学びは大きい、ということを

最後に付け加えたい。

注:本稿は2010年の玉川大学文学部紀要「論叢」第50号に  掲載した拙稿の一部を要約、再編したものである。

■参考文献

• 服部勝人「ホスピタリティ・マネジメント学原論」、2006、丸善• 福永昭、鈴木豊「ホスピタリティ産業論」、1996、中央経済社• 中村清、山口祐司「ホスピタリティ・マネジメント」、2002、生産性出版• 松坂健「ホスピタリティ進化論」、2006、柴田書店• 加藤鉱、山本哲士「ホスピタリティの正体」、2009、ビジネス社• 山口祐司「新しい学域『ホスピタリティ・マネジメント』と大学教育」、

2006、桜美林大学経営政策論集• 社会経済生産性本部「お客様と共に最高の歓びを創る」、2008、生産性出版• 逸身喜一郎「ラテン語の話」、2000、大修館書店• 遠山一郎、高田大介訳「ラテン語の歴史」、2001、白水社• 塩野七生「ローマ人の物語」、2007、新潮社• 塩野七生「ローマ人の物語I」、1993、新潮社• 弓削達「ローマはなぜ滅んだか」、1989、講談社現代新書• 森本哲郎「ある通商国家の興亡」、1990、PHP研究所• 篠原勝訳、カレル・ヴァン・ウォルフレン著「人間を幸福にしない日本と

いうシステム」、1994、毎日新聞社• 堺屋太一「日本を創った12 人」後編、1997、PHP研究所• 友野典男「行動経済学 経済は『感情』で動いている」、2006、光文社新書• 天下伺朗、瀬名秀明「心と脳の正体に迫る」、2005、PHP研究所• 梶山あゆみ訳、チップ・ウォルター著「この6つのおかげでヒトは進化

した」、2007、早川書房• 春山茂雄「脳内革命」、1996、サンマーク出版• 阿満利麿「日本人はなぜ無宗教なのか」、2003、ちくま新書• 島田裕巳「無宗教こそ日本人の宗教である」、2009、角川書店• 磯前順一「近代日本の宗教言説とその系譜」、2003、岩波書店• 石丸正訳、マジョリー・F・ヴォーガス著「非言語コミュニケーション」、

2006、新潮選書• 山本哲士「iichiko 特集 ホスピタリティ・ビジネス」No.84、2004、新曜社• 山本哲士「iichiko 特集 ホスピタリティ世界の文化学」No.100、2008、

新曜社• 山下柚実「客はアートでやって来る」、2008、東洋経済• 鳩山一郎、鹿島守之助、深津栄一訳「クーデンホーフ・カレルギー全集」、

1970、鹿島研究所出版会• 岡倉天心「東洋の理想」、1986、講談社