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ろから生まれた翻訳文法である。「自」は、この場合、
ることがわかった。前稿を書いた時に、この例に気付か
であるが、これは、摸文の「自非ー」を直訳したとこ
—ズヨリハの例のあ
古いところで、確実な資料は、すべて、
と後にならたいと現はれたい。国語としては無理な構造
あって、
ーヌヨリハはなく、
ーザルヨリハは、ずっ
ーズヨリ^で
、^または、
—ザルヨリハと言ひさうなものであるが、
例がいくらも見つかる。しかし、限られた没料にしか求
勘詞ズに続く場合は、
ーズヨリ^でなく`
ーヌヨリ
ーズヨリ^の
用形+接続助詞テ等を受けるのが普通だから、否定の助
れてゐるが、今昔物語には、
ーズヨリハの形で出て来る。
のに近い。ヨリは、体言、活用語の連体形、活用語の連
して、
ー・スヨリハは、
わたしは、数年前、「助詞ョリのある場合」と題して
平安時代の訓点語を中心に、
ーーズヨリハの文法的構造
と意味について、述ぺたことかある(「国語学六六輯」)
ーズヨリ^は、言はば、・ス.^
の間にョリの入り込
んだ形で、.ーズ^と同様、否定の仮定を表はすか、
|
ズ^が、口語の
ーナイナラ(ナケ>パ)に当るのに対
ーナイカギリ、決ッテと言ふ
「自」は、
ズヨリハの形が成立したものと考へられる。
ーズヨリ^は、乎安中期の訓点資料に先づ現はれ、鎌
倉時代まで続くが、平安末期辺りから、訓点語の影響を
受
けたと見られる他の没料にも登場して来る.栄華物語や
法華百座法談閣書抄には、
ーズヨリホカの形で用ゐら
嫌倉時代になると、道元の正法眼蔵に、
められないのは、
ため、
やはり国語として無理な構造であった
一般化しにくかったのであら90
ところで、殺近になって、古典保存会複製本の「日本
紀党宴和歌」の草仮名文の左注に、
る用法が多いので、今も「自」をヨリと読んだため、1
モンと読んでよいところであるが、
ヨリに当
「若.荀」に通じて、
日本紀党宴和歌左注の
「ずよりは」
について
仮定の副詞として用ゐられてゐて、
大
坪
併
治
-1-
名で書かれたのが本来のもので、草仮名の方は、後から
書き変へられたものらしく、其仮名の「可和可之」
和歌は、「延喜四年開、六年宴」の一首で、
(不
A北野本
`に求めると、
次の如くである。
姫天皇」即ち、神功皇后を題によんだものである。真仮
のも少くないが、今の場合に相当する箇所を書紀の原文
「気長足
また、ちかひていはく、
がしのひのにしにいで、かはのいしののぼりて、あま
っ厄しにならずょりは、としごとのみつぎものをば
(句読点・澤点・括弧嫁者)
かかじ。」
可者留止毛
のくには
この天皇、新羅にむかひたまふときに、そのくにの
きみおぢわなたきて、みふねのまへにくだりていはく、
「いまよりのち、
あめっちとともに、‘みむまかひとな
らん。ふねかぢをかはかさず、むまのくし、むまのむ
ちをたてまつらん。」
といへり。
「ひむ
乾)を「かはかし」に誤ってゐる。左注ぱ、;.この和歌の
背景となった史実、即ち、神功皇后が新羅を討伐された
際尺皇軍の威咎の盛んなのに脅えて、新羅王が降伏し.
「あまつ保しにならずよりは」と、
られてゐるのである。括弧の中は「束から出る日が西に
出で、川の石か天に昇って墜にならない限り、毎年の貢
物を欠くやうなことは致しません。」
「天つ星にならずは」
この中に、
ど首はないで、「ならずよりは」と言ったところに、
2
「ならない限り、決して」と宮ふ強い語気が表現されて
ゐて、今の場合、
敗軍の将の誓ひの首葉として、いかに
も相応しいと思はれる。
日本紀党宴和歌に添へられた草仮名文の左注は、.一般
を訓読して、
に、その内容が楷紀の記述に忠実なばかりでなく、書紀
その用語をその士主利用したと見られるも
と言ふ意味である。
日月乃行久
波可和可之」
びつきのゆく
ほしのやどりは
かぢはかはかじ
かはるとも
しらぎ
—・・スヨりハが用ゐ
屋園波
新紐乃国波
加知
年ごとの朝貢を誓ったことを述べてゐるが、
0得気長足姫天呈
参議大蔵孵正四位下、平朝臣惟範
なかったのは、失態であった。
Y
D訂正増補国史大系本
ス非・・・・出
.
下ルニ..... 而
中
:為
B究文板本
•• ・・・・
出 デ....
且
ズヒrィ^ 1
ナルニ.... 而
――
・・為
C日本書紀通釈....
且.'
た箇所だけを掲げる 。
他の本を見ると 、読み方には 、かなり異同がある 。必要
力令ハルアモ4ャャ9
峨
春秋之朝 、
――
―
2ノカ‘‘トモニッ``+ヘタズ
地祇
共討焉 。
訓もある 。)
zz^ハ
羞>ニイツルヒ4う二4プー
マタ亥ソ
乍、東
日
更
出
西 、且
除
.
J
v
―――
カヘ
サヵ苓ニナ召ヲヨヒカハノイツ
ノかプ
土フム2ム�ヅヽ`
う屯Y'
逆
流 、及
河石
昇
為一一星
辰一‘
テ返以
(「除」には 、
アリ
阿利
ステテ 、
ヲ>
ャメハ
クレム
チノぷるみ
忍
廃
椀鞭之貢 、
――
―
スツの
アメノ3‘、天神
f而殊
>
マチニ
・・・・流・・・・
及・・
汐
'
一――
・・・・
防....
`
-.
,`
象
ャ入ハ
Ji. , ... 舜
:;
上ー
ニ
ルg
ヒ
・・・・流・・・・
及
:
一
・・・・除――
キ
ャメハ.
.... 姦.....
――
.... 賊二
ナ>カハ
那礼河
ずして
いづるはしtらく
おく
れ
乍・・・・出・・・・
且 ‘・・・・
除・・・・
流
ぅ――-なるに
・・為1-.... 而
上 、瑛文風に改めたC)
G岩波・日本古典文学大系本
昇氾..
巧:.
雙.
;打:
峙
ゃらば
たるに
かき
・・為―-....
而....
堡
.... 墨
.... (
F岩波文庫・訓読本
為ナニニル二.
:.
nn. .
II 、一
いたるを
.....及-_-..
かき
ゃめば
幽―-.... 9 •••• (比
較の便宜
及 び
カキ
ャ人ハ
;
臭....
廃―――
ズパ
デ
ヒ‘・・・・出
サ――
•9
.,且・・・・
除
>
ピ
・・・流・・・・
及
E朝日・増補六国史本
「為」の左「ナラムヲ(北)」の訓もある 。)
.... 戸
..
非〗・・・出一>.... 江
.... 畠....
況
ぶ丑・・・・而・・・・
表・・見_
.... (「除」の左
「スツ(北)」
、「及」の左「オヨヒ(北)」
、
-3-
除ク意味 。「且」は 、AとBとを緊ぐ接続詞で 、マクの
二つが纏って「除」に係る 。
天神地蕨共討焉
「除」は 、サウイフ拐合ヲ
らうか 。
「及」は 、甘とげとを繋ぐ接続詞で 、ォョビの意 。この
D
前者を思ひ切って簡約したものであることが知られる 。
笥約の過程を 、作者に代って辿ってみると 、次の如くな
先 .っ 、前件の甘
とdとを省略する 。
みると 、両者の間には 、かたり繁簡の差があり 、
後者は
c
I I gI C
忍 殊廃 叫 而
ニ衣=キ
椀 春親 秋之 之貢ヲ 朝
一 ー ヽ ヲ
二WI B'
リテ
ナ告
ト
河石昇
為
星辰
――
―
I
B
及
l-
>
阿利那礼河返以逆流、
他は、
1'A
且
ズ
ーーデ.
―
非――
東日更出_レ
西
ぃ .つれも 、書紀の本文を正しく理解してゐるとは
思はれない .私見によれば 、
きものである 。
ここは次のやうに理解すぺ
右の内 、Gが比較的筋の通った読み方をしてゐるだけで
(サウイフ場合ハ別デアルガ 、ソウデナク
「而」は 、A.Bを編めてC妬繋ぐ接続詞で 、
の意 。「AJ.Bのや9な状態の下で 、しかも 、.Cと言ふ
ことがあれば」といふことで 、とこまでが仮定を表はナ
前件 。Dは .これ
を受け工虎誨を述ぺる後件である 。口語訳を
すれば 、次のやうにならう 。
A束カラ出夕日ガマク .西カラ出ルヤウナ .nト
ガナク 、
甘アリナ>川ガ逆サマニ流レクリ 、
汐川ノ石ガ天二昇ッ
テ星ニナックリスルヤウナ場合ヲ
テ)
G春秋ノ朝ヲ欠イタリ 、
ーg浣瑕ノ貢ヲ廃メクリックオフパ ‘••
D天神地祗ヨ 、私ヲコラシメテ下サイ 。
ただし 、これと 、日本紀党宴和歌の左注とを比較して
意。除イテ 、
ンカモ
-4-
次に、
後件
のDを除き 、その代り
に、前件
のGを否定
に改めて後件とし 、結論とする 。
っ左て注 I I
左、庄炉 遭天注正 閑 ・・ ←』—--、
のに.=ヵ河 東作こ春石 日者の秋昇,且更は 簡 之 プ 出
:::
二
‘約朝 , レプ書さ 一 ヲ勾 西紀れ ゜ 星 、=のた 辰文形
ー、ト章をを和正文確にに改理め解たしもたの上でであ
巧妙
に省略し 、見亭
に編め上げてゐるの
である 。もっと
も、本妙寺本
では 、真仮名
の和歌
の下に 、次
のやうな漢
1 I
:二閑宍 尋
地春祇秋共之討朝焉→·-ヲ
而
東日見出
[
.
且
[河石
孔;→ -星辰
7
ぃ .つれ
にしても 、簡約化されて 、
天皇討――服新殺一
之時
之朝貢
。」一
これについて 、蒲富破摩雄は 、
(「国学院雑誌」
)の中
で、
昭和五年二月号し
十一月号
漢詩
の注
に倣って 、自ら
加へたも
ので
あらうと言ってゐ
るが 、もしさぅだとすれば 、
を簡約ナる
に当って 、
「日本紀意宴歌
の研究」
作者
の平惟範が
左注の作者は 、書紀
の文章
この
割注を参考
にしたことも考へ
られる 。括弧内の文章は 、「不ノ乾1
1
船柑_」
を除けば
私か作者に代って楕約した文章と全く同じだから
である 。
「非―――東日更出
レ西
河石
昇為1
1
星辰
.... 」となったため 、初めて 、「非」
の`
ーアラズ .ハ 、
またはー
アラズヨリ .^と読まれる
桟会が生じた
ので
あっ
て 、雀紀
の文章
のさま
では 、
.「非」
は単にー・ス
と院まれる他たかったはずである 。
ところ
で、肴紀
の訓には 、たまたさ 、当面
の箇所
にー
ズヨリ^が用ゐられてゐないだけ
ではなく 、
書紀全体
に
故云、
(句読点・反点・括弧筆者)
西 、
河石
昇為1ー屋辰ー不
>乾_一船樟 ‘―不
レ悩1一
春秋
西二
文 、の割注がある 。
新羅重誓日 、「非――東日出
レ-5-
たものか、
古典保存会複製本に収められた熊本の本妙寺
本がいつ書写されたものかわからないことである。
蒲宮
残念なことは、
日本紀党宴和歌の左注が、いつ成立し
漢文に親しむことの多かった人たちには、
意外に身近か
c
登音便
c
促音便
般には用ゐられることの少かった
ー・スヨリ^も、
平素
^は、
漠文を読むための理解語槃から、
進んで、
草仮名
ゐたと言ふことになる。
左注の作者にとって
ー'ズヨリ
この語を
用ゐたのは、
雲紀を読んで、無意識の内に七の
訓の影響を受けたとか、
意識的に模倣しようとしたとか
いふのではなく、
かねて、
省紀以外の漢籟や仏典を統ん
で身に付けてゐたものを、
自己の自由た選択において用
文を書くための表現語奨にたってゐたものと見える。
た言葉だったのであらう。
Aイ音便(キ↓イ)おいて(置)、
ひ、
お厄いなる(大)、
Bウ音使・
して、
さいはら(先払)
拿↓イ)ばいで(剥)、
(ク↓ウ)たうして(無)、
9るわしう
(ヒ↓ウ)おとうと、
さらうど、
とふたま
., ..
ふ(間給)
(へ↓ウ)つかうまつりて
・(ヒ↓フ)いふしく(甘).
(ミ↓ム)•おほむとき、
ぉ既むため、
おほむぞ、
をんなご、
むころに
(ル↓ン)なた.9
2語頭のウ(またはム)の脱落
1音便
らうか。)
さうすると、
日本紀究宴和歌の左注の作者が
紀の訓には相応しくないものとして忌避されたためであ
ヨリいが、
平安時代に成立した翻訳文法であるため、
書
(
ーズ
この訓が見えないのである。
「自非
ー,」の襟文そのも
のがない上に、
「非.l
も、
ーアラズ^、
アラザレバ等
と読まれ、
ーズヨリ^とは読まれてゐない。
(モ↓ム)ね
おほんかみ、
-6-
破摩雄は、
前記論文の中で、
党宴歌を集めて、
左注を加
へたものは、
藤原顕輔であら9とし、
本妙寺本の鐘者に,
ついては、
祓嵯峨天皇の皇子、
宗尊親王とナる寺伝を、
そのまt認めた。
西宮一民氏も、
最近この問題に触れら
「日本上代
の文章と
れ、
禰宮の顕舗説に焚意を表してゐられる(
表記」昭和四十五年J°
風間誉房fl
今、
固語学の立場から、
時代を推定する手懸りとなる
ものを求めると、
次のやうなものがある。
は、早くから用ゐられて、一般化してゐたが、へから転
内)
4動詞の活用..
・(上二段↓四段)よるこばず
5助動詞の活用
(使役ッf↓サッム)い(射)さしめたまふ
6助動詞の変化,
(推盈ム↓モ)むまも(生さむ)
7接続助詞の炭ひのあるガ。
ふりけるが
く匂A
8誼点記号
む3A
①キ・ギから転ずるイ音便、ク・ヒから転ずるウ音便
も砂ヽ
お◎A
↓フ)とふたまふ(間給)(フ↓ウ)かうち(河
ヒ)もちひがたし、(ヒ↓ヰ)さかゐ(境)(ヒ
て(据)きのすへ(末)そへに(接続詞)(ヰ↓
かはかじ(不乾)(エ↓へ)ゆへに(故)、
ウバフ↓.^ブ.合奪)
3仮名遣ひの混乱
(^↓ワ)うるわしう、さわ(沢)、
すへ
(ワ↓ハ)
エム
畜
一
尼の転ず
「イフッルガ(言)」P‘
ずるウ音便は、余り古いところには例がない。ッカヘマ
そのムがウとなったも
ツル↓ッカムマヅルと撥音化し、
ので、東大寺図吝舘蔵大般涅
槃経平安末期点に、
等の例がある^
(得ム、ムは推量助動詞)
ロ(苦)をネウコロニ、
をエフ、ナムヂ(郷)をナウチとした例がある。�
次に、ヒの促音化は、私見によれば、平安初期の末に
始まるやうであるが、これをフと記した確かな例は、白
ィウ/ク
氏文集天永四年点に「君」.竜光院蔵大砒
膚蓮那経供養
次第法琉康乎二年点に「ィブッ(言)」、竜光院蔵大批
械遮那成仏神変加持経天喜六年点に、
また、摂音使の内、ミ・モの転ずるm音と、
る.n音とを、ムと零表記とで区別してゐるのは、平安初
期以来の表記法に従ったものである。
ウバフ
②諾頭のウ(またはム)が脱落して、
ムバフ)がバフとなる例には、西大寺蔵不空緑索神呪心
経寛徳二年点に「吸奪スヒ.ハAレ」がある。
③仮名逍の混乱の内、ハ↓ワは初期から、
↓へ、フ↓ウは中期から始ま?たが、
ワ↓ハ、
ヒ↓ギは、
ネムゴ
(または工
石山寺
ヽ
がある 。また 、法華百座法談聞書抄に「地獄ーーヰテ
本生心地観経古点(中田博士によれば 、院政期の加点)
ムを用ゐるのは 、院政期に入ってからのことらしく 、今
昔物語に「万
斎ヲ
清;Vム
」(一一
[/)があり 、小林芳
規博士によれば 、猿投神社蔵古文孝経建久六年点に「射
イサ>ム」、
猿投神社蔵文選正安四年校本に「壺
ックナ‘v
⑧重点の誓き方は 、元永本古今和歌集や書陵部蔵大乗
とも見られるやうである 。
ば 、なづくといへり 。」
のtfは 、格助詞とも 、接続助詞
うぶや妬うのは
をふけりけるが 、ふきあはせられざりけれ
⑥イツムをイサッムと言ふやうに 、シムの代bにサン
や大鏡に 、その例が指摘されてゐるが 、左注の「これ
Wョロコプは 、古くは上二段活用であったが 、平安中
期から四段に活用ナるものが現はれ 、この方が次第に一賞
m
般化した 。興聖寺蔵大唐西城記乎安中期点に「所
レ
ルnプ
」、
石山寺蔵守護国界主陀羅尼経平安中期点に
3ロコプ
整」、
醍醐寺蔵金剛頂珠伽修習砒廣遮那三
「喜
摩地法寛弘九年点に「
娯ョロコハしめょ
」、
立本寺蔵妙
メた士
」「令レ
るを
ョロコハ
法蓮牽経寛治移点忙「不
レ
喜
ヘ喜m;^
」
等の例がある 。
見るのは 、院政期に入っからのことA
言はれ 、今昔物語
m格助詞のガから接続助詞のガが派生し 、確実な例を
では、中期の初めに 、ム・
モを相ひ通じて用ゐることが
「も」に改めたのかも知れない 。訓点語 モ
蔵成唯識給寛仁四年点に「須
モチヒル
」が 、石山寺蔵大
」があり 、
(くら)ヒ
般涅槃経治安四年点に「位
は 、仁和寺瓶金剛頂珠伽護摩儀軌正暦二年点(康和五年
移点)に「額
ヒクヰ」、
光明院菜緊悉地紐羅経承保元年
点に「費
ツキャし」
がある 。
たものとすれば 、.使役と受身の相違はあるが 、無意味な
サの入り
込んでゐるところが 、今と同じである .
し 、草仮名では 、同じ「ん」を 、ムにもモにも用ゐてゐ
るので 、原本ではムであった「ん」を 、転写の際に 、
と読み誤って 、
あったが 、今は時代が隔ってゐるので 、
と見ることはでさないであらう 。
それと同じ現象.8
奈良時代に例があるが 、平安時代以後なくたっ
た 。ただ
⑥ムマモのや9に 、推量の助動詞ムをモと言ふことは 、
ヒ↓ヰ
イカサレテ」とあるのが 、イカ>1アをイカサレテと言っ
作者を蕨原顕輔に擬したのと、
時代的には一致するので
すなはち、
院政初期までと見られよう。
彊富破摩雄が、
のそれと大体同じである。
以上の諸点を考へ合せると、
本妙寺本は、
院政期の書
て、
日本紀党宴和歌の成立も、
それ以前と言ふことにな
るが、
問隅は「いさしめたまふ」である»
今のところ、
ら、
これが原本通りだとすれば、
日本紀克宴和歌の左注
の成立は、
本妙寺本の書写を遡ること速からぬ時代、
す
同様な例は、
今昔物語以前に求められないやうであるか
時代士で引き下げる必要はあるまいと考へられる。
従っ
写と見てよく下
寺伝の如く宗尊親王の箪蹟として、
鎌倉
な例として、
注目すべきものと考へられる。
院政期前半の草仮名文に用ゐられた
ーズヨリハの確実
ある。つまり、
日本紀党宴和歌左注の「ずよりは」は、
(本稿は、
昭和四十六年五月二十一日、
天理大学で
開かれた訓点語学会の研究発表会で口述した原稿
に、
若千加砥したものであるC
)
ー岡山大学法文学部教授ー
-9-