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Cities in Early Historic North India UESUGI Ak.inori Emergence of cities in has been vigorously discussed by several scholュ ars of archaeology in recent years. Cities in Early Historic times played an extremely important role in the development urbanised society development great Indian civilisation.The study of cities in North India has been tended to be confined to the historical analysis based on the Vedic and early Budュ dhist texts so far. However,archaeology has great potentiality to provide many eviュ dences field of study, with of the archaeological excavations at many cityュ sites in North India.The here to describe the basic character in North India and to speculate an archaeological viewpoint towards understanding of process of region concerned. of Early Historic South Asia [1995, Cambridge University 25

初期歴史時代/鉄器時代における北インドの都市 …southasia.world.coocan.jp/Uesugi_1998a.pdf初期歴史時代/鉄器時代における北インドの都市 Cities

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初期歴史時代/鉄器時代における北インドの都市Cities in Early Historic North India

上杉彰紀

UESUGI Ak.inori

Emergence of cities in Nor由 India has been vigorously discussed by several scholュ

ars of archaeology in recent years. Cities in Early Historic times played an extremely

important role in the development of 血e urbanised society of 由e period,ぉ well ぉ組曲e

development of 出egreat Indian civilisation. The study of e訂ly cities in North India has

been tended to be confined to the historical analysis based on the Vedic and early Budュ

dhist texts so far. However, archaeology has great potentiality to provide many eviュ

dences to 由is field of study, with increぉe of the archaeological excavations at many cityュ

sites in North India. The author 町ies here to describe the basic character of 世間 city-sites

in North India and to speculate an archaeological viewpoint towards understanding of

由e process of urbaniz刈on of 白e region concerned.

1. はじめに

本稿では、紀元前 1 千年紀以降北インドで展開した都市を取り上げ、考古学視点からそれら

を検討することを目的とする。この時期の都市については、かつてはA.Ghosh氏による先駆的

な研究[Ghosh 1973]にとどまっていたが、 1980年代以降、インド亜大陸における都市文化、

特にこれまで注目されることのなかった北インドの都市ーインダス都市文明に対して第 2 次都

市化(Second Urbanization)などと呼ばれるーの研究が次第に活発化しつつある。その 1 つの

現状での到達点もしくは出発点となる研究が、 F.R.AllchinによるArchaeologyof Early Historic

South Asia [1995, Cambridge University Press]である。インダス文明の崩壊に始まり、イン

ド・アーリヤ語族の移動、さらには都市化の進行過程の中で生み出された文字や貨幣、あるい

はその他の様々な考古学的事象について包括的な検討を展開しており、われわれがインド亜大

陸における都市を考える上での指針を提示している。

本稿では、北インドにおける主要な都市遺跡を取り上げ、その特徴を把握することを主目的

とし、さらに北インドにおける都市あるいは都市を舞台として展開した文化がどのように形成

されたのかについて、若手の考察を加えてみたい。

ところで、都市を取り上げる場合に避けることのできないのは、都市とは一体どのようなも

のであるのか、その定義である。この問題は、南アジアに限らず、世界規模で都市の在り方を

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図 1 インド亜大陸北半部における主要都市遺跡

表1 主要都市遺跡一覧表(番号は図1の遺跡番号に対応。また、表中のムは城壁の存在カ司之明な遺跡を示す)

番号 l 遺跡名< 地蟻 国家との関係 Ii面積Cha> I 械壁| 平面形ハスティナープラ ガンジス川|中上涜域 30 ム上壬明

2 アヒッチャトラー ガンジス川中上流域 |パンチャーラ 180 。 不整三角形

3 マトゥラー ガンジス川中上流域 マツヤ 295 。 l 不銭形

4 カウシャーンピー ガンジス川|中流減 ヴアツツア 160 。 不整長方形

5 ピータ ガンジス川中流減 14 。 方形

6 ラージガート ガンジス川中流減 カーシー 40 。 不明

7 ノそータリプトラ ガンヅス川中下流~ マガダ 1,200 。 長方形(ワ)

8 ヴァイシャーリー ガンジス川中下流域 ヴリジ 不明 l ム 不明

9-A 旧ラージギル ガンジス川中下流~ マガダ 200 。 不整形

9-B 新ラージギル ガンジス川中下流~ マガダ 64 。 方形

10 シュラーヴァスティー !ガーグフ一川流島幸 コーサフ 160, 0 |二日月形11 ティラウラーコート ガーグラーJil涜域 ;シャカ

-斗L 20 I C,. 長方形

12-A タキシラー(ピル・マウンド) 北西インド !マウリヤ朝 70 ム」不明12-B タキシラー(シルカップ) 北西インド インドギリシャサカパルテイア i 46 0 |不整形12-C タキシラー(シルスーフ) 北西インド クシャーン朝 137 。 長方形

13 チヤールサダ 北西インド インド・ギリシャ,サカ・パルテイア 6ワ ム 不明

14 シシュパールガル 東インド マウリヤ朝(?) 144 。 方形

15 ウッジャイン 中央インド アヴアンティ 190 0 |不整台形

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考えるさいに取り上げられるべき性格のものである。すでに多くの議論があり、考古学的に都

市を検討する場合についても、様々な考え方が提示されている。事実、都市には様々な側面が

あり、その定義は多様化すると考えられるが、筆者は都市を地域空間に立脚した社会構造の観

点から捉え、「社会空間の中において地域を統合し、他地域との結びつきを生み出す結節点」と

しての都市の性格を重視したい。地域統合の在り方は、都市が形成される社会的脈絡の中にお

いて、政治・経済・宗教といった様々な要因によって決定されるものと考えられるが、いずれ

にせよ、その地域統合の中心としての役割を考えておきたい。

この地域統合の中心としての都市をいかにして考古学的に認知するかという問題が別に生じ

てくるが、先述のように社会的脈絡によって様々な形態を取ると考えられる都市は、その規模

や構造においても多様な違いが地域もしくは文化・社会ごとに生じるものと考えられ、普遍的

な考古学的認定基準を設定することは、むしろその地域の特性の理解を歪めてしまう可能性が

ある。したがって、考古学的に都市というものを定義した上で、その考古学的に定義された都

市という存在の成立を明確に限定するという方法は、ここでは避けることにする。むしろ社会

的存在としての都市を大きな時間的枠組みの中にいかに位置づけ、かつ都市化という社会構造

の変容過程の中で、いかなる現象・変化が生起していったのかを捉えることによって、地域空

間内の社会構造における都市の成立という事象を明らかにするという視点と方法を採用するこ

とにしたい。

2. 北インドにおける都市遺跡

本章では、初期歴史時代の北インドにおける都市遺跡を取り上げ、まずはその立地および構

造について検討することにする(図 1 ~ 3 )。都市の構造についての検討項目は、その平面形、

規模、城壁構造の有無、内部構造の 4 点である。また、その遺跡に人の居住が開始された時期

についてもみてみることにしよう。なお、以下に挙げる都市の占有面積は、 G. Erdosy [1987]

によって試算された数値である。文中のアルファベット略語はいずれも特徴的な土器に与えら

れた名称の略で、以下のとおりである。 OCP= Ochre-Coloured Pottery (諸色土器)、 PGW=

Painted Grey Ware (彩文灰色土器)、 BRW=Black-and-Red Ware (黒縁赤色土器)、 BSW=

Black Slipped Ware (黒色スリップがけ土器)、 NBPW=Northern Black Polished Ware (北方

黒色磨研土器)。また、各土器を特徴とする文化時期の編年については、筆者の考え[上杉1994 ・

1997]に依拠している。

ハスティナープラ遺跡(分布図番号 1 )

ハスティナープラ遺跡はガンジス川中上流域の、ガンジス川とジ、ヤムナ一川によって挟まれ

る地域に所在している。 OCP期(遺跡編年 I 期)に居住が始まったようであるが、-_§.廃絶し

て PGW後期 (II期)に再び居住が開始されている[Lal 1954]。洪水による一時的廃絶を挟

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むものの、 NBPW後期(III期)、クシャーン朝併行期 (IV期)と継続的な居住が確認されてい

る。報告による限り、グプタ朝併行期の文化層は確認されていないようである。

現在の遺丘は800 × 400m ( = 32ha)を測るが、河川によって浸食されている可能性があり、

遺跡本来の規模は不明である。城壁もまた確認されていないが、当初より持たなかったのかど

うか不明である。したがって、平面形についても判然としない。

トレンチ調査が中心であるため、平面的な遺構の検出はなされていないが、遺跡編年III期

(=NBPW後期)には土製輪積井戸(terracotta ring well)や煉瓦積遺構などが部分的に検出さ

れ、 IV期(=クシャーン朝併行期)以降は煉瓦積遺構が多数検出されている。

アヒッチャトラー遺跡(分布図番号 2)

アヒッチャトラー遺跡はガンジス川とガーグラ一川によって挟まれる地域の中間地帯に所在

している。この遺跡でも OCP期(遺跡編年 I 期)に居住が開始されているが、続く PGW後期

(II期)との聞には断絶が想定される。 PGW後期以降は、 NBPW後期(III期)、クシャーン朝

併行期 (IV期)へと存続する[JAR 1963・64 ・ 1964・65]。

遺跡は不整形な三角形を呈しており、城壁によって固まれている。占有面積は 180ha を測

る。城壁は盛土中からPGW と NBPWの破片が出土していることから、 IV期に造営年代が求め

られているが、 III期にまでさかのぼる可能性がある。城壁は基本的に盛土によって構築されて

いるが、その後あらたに煉瓦積擁壁が構築されるなどの改修が確認されている。

遺構は平面的に確認されていないようであるが、 II期に日干煉瓦および焼成煉瓦の破片が確

認され、 III期には柱穴を伴う遺構面が検出され、焼成煉瓦片が出土している。 IV期には本格的

な煉瓦積建物の造営が始まっている。

マトゥラー遺跡(分布図番号 3)

マトゥラー遺跡はガンジス川中上流域で、ジャムナ一川沿いに位置している。マトゥラーは

特にクシャーン朝併行期に交通路の要衝として北西インドと北インドとを繋ぐ役割を担って発

展したが、おそらく前 1 千年紀においても、同様の役割を果たしていた可能性が高い。この遺

跡では、 PGW後期 (I 期)に居住が始まり、 NBPW期( II ·III期) 1)、クシャーン朝併行期

(IV期)、グプタ朝併行期(V期)、中世期(VI期)と以降している[JAR 1973・74 ・ 1974・75 ・ 1975・

76 ・ 1976-77]。

遺跡は現在の町の下にあるばかりか、その開発によって大きく破壊されており、遺跡往時の

状況は充分な理解が困難である。しかしながら、部分的に城壁と考えられる土塁が遺存してい

る。その土塁を基準にした場合、都市の占有面積は295ha と推算される。市内カトラー・ドゥ

ルコート地区において行われた城壁の調査では、城壁の造営が 2期に及んでいることが明らか

になっており、まずII期に地山層直上に盛土による城壁が造営され、 III期に一旦廃絶したのち、

IV期になって既存の城壁に増改修が行われている状況が確認されている。

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網掛けは城壁の造営時期。)11 I 12-A I 12・B I 14

紀元500~手皿期

西層紀元

前500年

E矧 l E期I 期

前1000年

I I 銅{ヲ]|

I 期|前1500年| I 期 n 城壁内の建物についてはあまり多くの調査例がないが、得られている資料からみると、 I .

II 期には柱穴列を伴う遺構面や粘土積遺構が検出されて、焼成煉瓦積建物はIII期に導入され、

IV期に本格化するようである。土製輪積井戸は II • III期に検出されている。

カウシャーンビー遺跡(分布図番号 4)

カウシャーンピー遺跡はガンジス川中流域で、ジャムナ一川に面して立地している。ガンジ

ス川とジャムナ一川の合流点に比較的近く、河川交通の要衝として機能していた可能性がある。

この遺跡における居住の開始年代については、発掘調査者によると、前 2千年紀末までさかの

ぼる可能性が指摘されている(遺跡編年 I 期) 2)。前 1 千年紀前葉に BRW期( II期)へと続

き、 NBPW期(III期)、クシヤーン朝併行期(IV期)にまで及ぶ[Sharma 1960 ・ 69]。城壁に

囲まれる遺跡面積は 160ha である。

遺跡はジャムナ一川に南面し、略方形を呈する。城壁は川に面する南側を除いて 3 面にめ

ぐっているが、南側の城壁が当初より造営されなかったのか、河川によって浸食・削平された

結果であるのか不明である。城壁の調査によって、煉瓦積を伴う盛土による城壁構造が明らか

にされた。発掘調査者は、最初の城壁の造営を前 2 千年紀末にまでさかのぼらせたが3)、この

年代観には異論が多く[Sinha 1973 ・ Dikshit 1982; Lal 1982; Erdosy 1987]、現在では前 6世

紀をさかのぼらないとする考え方が有力である。多量の焼成煉瓦の使用などの点からみると、

確かに前 2 千年紀末までさかのぼらせるには疑問点があり、後者の年代観がより妥当であろう。

しかしながら、前 6 世紀に存在したかどうか断定するには、これもまた問題があり、現在の土

器編年のあり方から考えると、前 6 ~ 2 世紀という年代幅を想定するのが限界であろう。

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が本格化するのは西暦紀元前後以降で SOOBC

ある。時期が下るにつれて細片化した I u百田W煉瓦の使用が顕著になっており、遺跡

の終末と考えられるクシャーン朝併行

期末には煉瓦積壁体の検出自体が少な

城内においても発掘調査が行われ

[Sharma 1960 ・ 1969]、住居に推定さ

れる煉瓦積建物を中心とした遺構が検

出されている。カウシャーンピー遺跡

における煉瓦の出現はNBPW期の日干

煉瓦積壁にさかのぼるが、焼成煉瓦は

III期以降であり、特に焼成煉瓦の使用

くなっているようである。

ラージガート遺跡(分布図番号 5)

表 3 紀元前 1 千年紀・北インド編年案

POST・GUPTA

SOOAD I I GUPTA PE則OD

KUSHAN PERIOD

aL’

附町側

M

d

E

-国

T

u

o

mAE

W剛

山町叫

n

向田町

問D

附d

pH D

A

-

D町line of fine black or grey wa同S

1000BC Emergence of iron

EARLYNBPW

BRW キBSW (IRON)

EARLY PGW

Development of fine black or grey 駒煩悶S BRW キ BSW

にHA氏:OLITHIC)

BREAK

LATE

I HARAPPAN I OCP 1500BC

N政>UTHIC

ラージガート遺跡は現在のヴァーラーナシー市内にあり、ガンジス川に面している。この遺

跡では、 BRW ・ BSW期 (I A期:前 1 千年紀前葉)に居住が始まっていることが確認されて

おり、前 1 ~後 1 千年紀を通して存続している[Narain & Roy 1976]。

遺跡の形態がどのようなものであったか不明であるが、調査区内では土塁の一部が検出され

ており、土塁によって固まれる構造であった可能性が高い。盛土中から BSWやBRWなど主

に I A期に中心を置く精製土器が出土しており、また NBPWを欠いていることから、その造

営は I B期(NBPW前期)以降に措定されている。しかし、土塁の内側はまもなくして土塁上

端面まで土層が堆積しており、少なくともこの発掘調査区域では土塁の供用期聞は短かったよ

うである。遺跡面積に関して、 G.Erdosy は 40ha と推算している。

また、調査区内では煉瓦積遺構が多数検出されているが、それらは II期以降のものである。

II期には完形煉瓦が中心的に使用され、 III期になると、破片煉瓦の使用が顕著になる傾向を示

している。

パータリプトラ遺跡(分布図番号 7)

パータリプトラ遺跡はガンジス川中下流域のガンジス川、ガンダク川、ガーグラ一川、ソー

ン川の各河川の合流点付近に位置しており、いうまでもなくマガダ園、特にマウリヤ朝の首都

として栄えた都市である。 G.Erdosy氏の推算によれば、その占有面積は 1200haにものぼるぺ

この推定値の当否は別にしても、北インドの都市の中でも傑出した存在であったことは明らか

である。

この傑出したパータリプトラの存在は、都市を全周していたと考えられる木柵の存在や、ク

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アヒッチャトラー遺跡(IAR 1964·65 より)

,,,. 守

、、

シュラーヴァスティー遺跡(Sinha 1967 より)

シシュパールガル遺跡(Lal 1948 より)

図 2 主要都市遺跡平面図(1:60,000)

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ムラハール地区における列柱を伴うホールなど、他に例をみない遺構によっても明示されてい

るといえる[Spooner 1916; Altekar & Misra 1959; Sinha & Narain 1970]。

ラージギル遺跡(分布図番号 9)

ラージギル遺跡はガンジス川中下流域に位置しているが、ガンジスJ,,から離れた位置に立地

している。しかも、他の都市遺跡とは異なって丘陵を利用した立地形態を示しており、丘陵の

尾根に城壁を築いている。この遺跡には新旧 2 つの都市が確認されており、それぞれ旧ラージ

ギル、新ラージギルと呼ばれ、旧ラージギルはブッダの時代のマガダ国王ビンピサーラの都で、

一方、新ラージギルはその息子アジャータシャトルが建設した都といわれている。おそらくは

時期上、新都パータリプトラと一部重複していたと考えられる。これまでの発掘調査による限

り、ともに NBPW前期にその居住が始まっているようである[Ghosh 1951; JAR 1961・62]。

旧ラージギルは占有面積200ha と推算されており、尾根状に石積の城壁を有するのを特徴と

している。残念ながら、石積壁の造営年代は知られていなし、九一方、新ラージギルは占有面

積 60ha で、平面は方形を呈している。一部石積壁が確認されているが、南壁西南隅付近で行

われた調査では、盛土による城壁構造が確認されている。その造営年代は盛土中からNBPW片

が出土したことから、前 6 世紀にまでさかのぼるという年代観が示されているが、 NBPWはそ

の量にもよるが必ずしも絶対的な編年基準とはなり得ず、この城壁の造営年代の上限年代を示

すものであっても、その年代を特定しているかどうか問題を残している。 NBPWの年代観から

する限り、前 6 ~ 2 世紀の年代幅を城壁造営年代とするのがより妥当であろう。

遺跡での発掘調査はこれまでほとんど行われておらず、都市内部の建物の配置や構造などは

明らかにならないが、一部検出された遺構では、城壁同様、石積壁によって建物を構成する状

況がみられ、西暦紀元前後以降、煉瓦を多用する他の北インドの遺跡とは異なった様相を示し

ている。これはこの丘陵地帯で石材が容易に調達できることに起因するものと考えられる。

ヴァイシャーリー遺跡(分布図番号 8)

ヴ、アイシャーリー遺跡はガンジス川下流域に位置しているが、 JI Iからはやや離れた地点に所

在している。しかしながら、パータリプトラからガンダク川沿いに北上してヒマーラヤ山脈南

麓を東西に伸びるウッタラーパタと呼ばれる交通路が存在した可能性を考えると、ヴ、アイ

シャーリーはその交通路沿いに立地した蓋然性が高い。この遺跡では、 BRW 期もしくは

NBPW前期に居住が開始されているようであり、そののち後 1 千年紀中葉にいたるまで存続し

ている。

この遺跡では、現在城壁の痕跡が確認できず、発掘調査でも未確認であり、当初より城壁が

造営されていなかった可能性が高い。また、都市の占有面積も城壁未確認のため推定できない

状況にある。都市内部の構造についても多くは明らかにされていないが、他の遺跡同様、西暦

紀元前後から焼成煉瓦が本格的に導入され、建物が造営されているようである[Sinha & Roy

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。一四戸叩..

.山町咽門岡山

カウシャーンピー遺跡(Sharma 1960 より)

ラージギル遺跡(IAR 1961-62 より)

シシュパールガル遺跡(Lal 1948 より)

。 20m

図 3 城壁の土層断面(1:600 ウッジャイン遺跡のみ縮尺不明)

1969; Krishna Deva & Mishra 1961]。時期とともに煉瓦が再利用され細片化する傾向もまた

同様に確認できる。

シュラーヴァスティー遺跡(分布図番号 10)

ガーグラ一川の支流ラープティー川に面して立地するシュラーヴァスティー(マヘート)

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は、河道に規制されたため、城壁が三日月形を呈している。まさに河川の形状を都市の平面形

の中に取り込んだ状況を呈している。城壁はその全長約 5 km に及び、占有面積は 160ha を測

る。これまでの発掘調査の成果から考えると、 BRW ・ BSW期 (I 期)すなわち前 1 千年紀前

葉に居住が開始され、その後 NBPW前期( II 期)、 NBPW後期(III期)を経て、継続的にク

シヤーン朝併行期 (IV期)にまで存続したが、グプタ朝併行期には衰退しているようである

[Sinha 1967;上杉 1996]。

城壁の造営には数次に及ぶ段階が認められるが、その最初の造営は前 1 千年紀後葉のNBPW

後期段階にある。同時期に数次に及んで増広され、クシヤーン朝併行期には煉瓦積の擁壁が加

えられている。都市の衰退とともに、グプタ朝併行期以降には、あらたな増改修は行われてい

ないようである。

城壁内部での調査では、焼成煉瓦による建物の導入は西暦紀元前後 (IV期)にあり、それ以

前は単体での焼成煉瓦の出土は確認されているものの、多量を建物に使用する状況は確認でき

ない。 I ~III期の遺構は土坑が中心であり、柱穴と考えられる遺構も検出されていることから、

木造建物が中心であったと考えられる。

都市遺跡であるシュラーヴ、アスティーに近接して所在するジェータヴ、アナ(サヘート)遺跡

では、西暦紀元前後以降ポスト・グプタ朝併行期にいたる煉瓦積建物群が検出されている[網

干・薗田編 1997]。 2 世紀頃までは、建物の造営にあたって新規に煉瓦を生産しているが、 3

世紀頃以降、すでに廃絶した建物から煉瓦を再利用する煉瓦の供用形態が顕著となり、時期が

下るにつれて再利用煉瓦は細片化する傾向を示している。

ティラウラーコート遺跡(分布図番号 11)

現在ネパール領内に所在するティラウラーコート遺跡はシャーキャ族の都カピラヴ、アストウ

に比定される遺跡で6)、平面は矩形で占有面積 20ha である。城壁の発掘調査が行われており

[IAR 1961-62]、城壁の造営が前 1 千年紀後葉以降であることが判明している。城内の構造に

ついては充分な調査が行われていない。

タキシラー遺跡(分布図番号 12)

タキシラー遺跡はいうまでもなく北西インドの代表的な都市遺跡で、 J. Marshallによる 1913

~ 34年の長期にわたる調査によって、ピル・マウンドとシルカップの 2 つの都市遺跡が明ら

かにされている[Marshall 1951]。それぞれの都市の年代観についてはMarshallの考え方が基

本的に認められているが、若干の修正が G. Erdosy によって行われている[Erdosy 1990]。お

おむね、ピル・マウンドを前 1 千年紀中葉から後葉にかかる時期、シルカップを前 1 千年紀後

葉から後 l 千年紀前葉の時期に措定して誤りはないであろう。他の 2 つの都城祉であるカッ

チャーコートとシルスーフは、残念ながら城壁の一部が露呈しているのみで城内の発掘調査が

行われていないことから、その構造は不明である。

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50m

N

手l

遺構平面図(1:1,000)

遺跡はハティヤール丘陵に固まれたところに立地しており、都市は丘陵の尾根の裾部に造営

されている。タキシラー遺跡ではピル・マウンドの造営以前より人の居住が開始されており 7)、

後 1 千年紀中葉まで継続的に都市が造営されていることから、立地上からも、長期間に及ぶ戦

略的拠点であったことが想定できる。

ピル・マウンドは一部が発掘されたのみで、全体の構造や城壁の有無は不明であるが、遺構

が検出された範囲からみると、石積の建物は南北に伸びる第 l 街路を中心として配置されてい

るものの、そのほかの街路・小路には対称・反復性は認められず、入り組んだ構造を呈してい

る(図 4 )。この点は明らかにシルカップの構造と異なっており、両者の聞に異なる都市概念

が存在していることはいうまでもない。不規則な街路と建物の配置という点では北インドの配

置と共通する部分がなくもないが、個々の建物の平面形という点からみると、遺構が最も平面

的に検出されている最上層(第IV層)ーしかもマウリヤ朝を介して北インドとの結びつきが最

も強くなっている時期ーにおいてさえ、一見する限り、北インドと共通する建物構造を採用し

ているとはいいにくい状況にある。今後の調査に侠たざるを得ない部分が大きい。

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。 200m

図 5 タキシラ一、シルカップ遺跡遺構平面図(発掘区のみ) (1:2,000)

シルカップ遺跡は不整形ながらも直線的に伸びる城壁構造を有しており、さらに城壁には稜

壁が設けられている(図 5 ) [Ghosh 1948]。占有面積は 46haで、必ずしも大きいとはいえな

いが、検出遺構の密度からみると城壁内には隙聞なく建物が配置されている可能性が強く、居

住区だけを特化させた都市形態であったと考えられる。

城壁の造営年代については Marshall とその他の学者の聞において意見の相違があり、

Marshallはインド・ギリシア王朝期にその造営を求めるのに対し、 AGhosh [1948]やErdosy

[1990]は城壁の造営がパルティア期にあるとしている。また、 Marshallが主張するインド・ギ

リシア王朝による格子状プランの導入も、 Ghoshの調査によると実際はパルティア期にかかる

可能性が強い。 Ghoshはインド・ギリシア王朝期の城壁としてカッチャーコートと呼ばれる土

塁をその可能性を持つものとして指摘しているが、 Ghosh自身の調査区ではパルティア期の下

層には遺構の存在がほとんど確認されておらず、インド・ギリシア王朝がどの程度シルカップ

の形成に関与していたのか充分に解明されているとはいえない段階にある。

さて、パルティア期に措定されるシルカップの平面形は南北の中央街路を基軸として、それ

に直交させて等間隔に小街路を通して、街区を区画する左右対称性の強い平面形を採用してい

る。その原理の起源が広義のヘレニズムにあることは明らかである。中央街路に面してス

トゥーパなどが建立されており、その都市計画の実際にあたっては、この地方における文化伝

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統が取り込まれていたことがわかる。

シシュパールガル遺跡(分布図番号 14)

シシュパールガル遺跡はオリッサ州の州都ブ、パネーシュワルの近郊に所在しており、マハー

ナディ一川の支涜バールガヴ、イ一川の付近に立地する。ベンガル湾に注ぐ河口も近いことから、

海上交通とも深く関わっていた可能性が強い。発掘調査の成果によると、前 3 世紀頃に居住が

開始され、後 4世紀中葉まで存続したとされている S) [Lal 1949]。

この遺跡は方形の平面形を呈しており、各面に 2箇所ずつ等間隔に城門が構築されている。

その平面形は極めて対称性の強いものとなっており、北インドでは例をみないものである。そ

の面積は 144ha を測る。城壁の発掘調査によると、城壁の造営年代は前 2 世紀に措定されてい

る。数次の増改修の過程が確認されており、当初は盛土による土塁で、 2度目の増広で煉瓦積

の擁壁が加えられている。城内で検出された遺構はラテライトの切石積みで、一部に煉瓦の使

用が認められている。

対称性の強い平面形や切石の使用といった点は北インドには例をみないものであり、この遺

跡特有の都市形態が存在している可能性が強い。 BRWやNBPW とみなしうる黒色土器、また

特異な回転文土器など、様々な地域・時代に系譜を持つ土器が、それぞれ主体とはならないも

のの出土しており、この遺跡の性格を示唆している。すなわち、先述のように、おそらく海洋

交通を主体とした広域交易活動にこの遺跡が関与していた可能性が想定され、この都市形態も

また、そうした交易活動の中で形成された可能性を示していると考えられる。

ウッジャイン遺跡(分布図番号 15)

ウッジャイン遺跡は中央インドに所在する遺跡で、シプラ一川に面して立地している。北イ

ンドから西インドへと抜ける交通路上に立地していたと考えられる。遺跡は前 1 千年紀初頭に

措定される I 期(BRW期)に居住が開始されており、 II期(NBPW 期)、 III期(シュンガ朝

~パラマーラ朝期)を経て中世期にまで存続している[IAR 1955・56 ・ 1956・57 ・ 1957・58]。

遺跡は不整形な台形を呈しており、各面を城壁によって固まれている。シプラー川は都市の

西側を流れているが、東側と南側には周濠を城壁に沿って掘削し、 Jrlから水を引き入れている。

城壁は盛土によって構築されているが、 1 度目の増広の段階で煉瓦積の擁壁が土塁上に構築さ

れ、さらに時期は明示されないものの、土塁外面裾部にも煉瓦積の擁壁が造られていたようで

ある。城壁の造営は I 期にさかのぼり、 IV期に廃絶しているとされる。

ウッジャイン遺跡で検出された建物遺構は、 I 期に焼成煉瓦・石、 II期以降に粘土・石・日

干煉瓦・焼成煉瓦を使用している。特に、 II期では石積の基礎の上に他の用材で建物を築くと

いう方法を採用している。漆喰の使用も確認されており、また屋根には瓦を葺いていたとされ

る。半地下式の貯水漕に推定される煉瓦積遺構が検出されているなど、本格的な煉瓦積建物が

この時期には存在していたようである。また、瓦葺の粘土積建物の遺構では、璃瑞を中心とし

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た玉や骨鎌製作の工房の存在が確認されている。ちなみに、 I 期の段階から鉄器製作場が存在

していたことが指摘されている。

3. 北インドにおける都市の特徴

以上検討してきた都市遺跡の事例についてまとめ、北インドの都市の特徴を抽出することに

したい。

立地

立地という点から考えた場合、いずれの遺跡も河川沿いに分布していることに注目できょ

う。河川の規模において、それぞれの遺跡が持つ立地条件は変化してくるものと考えられるが、

この河川沿いの立地は多かれ少なかれ、河川を媒介とした交通路と関わっている可能性が高い。

現在では北インドの沖積平野の多くは耕地化されているが、かつては森林に厚く覆われていた

可能性が強く、この点から考えても、河川は人の移動と住地開発の過程において大きな役割を

果たしたものと考えられる。したがって、河川沿いに都市が発達していくのも、河川が持つこ

の役割との関連性を推定することができょう 9)。

交通路としての河川の利用という点から考えれば、やはりガンジス・ジャムナ一両河川沿い

がその潜在性を最も大きく持つものと考えられる。カウシャーンピーやインド史を通じて連綿

と都市として発展したヴァーラナーシー(ラージガート)などはまさにこの潜在性のもとに発

展した都市と考えることができょう。また、ガンジス・ガーグラー・ガンダク・ソーン各河川

が合流する現ピハール州のこの地域は、河川が果たす交通路としての役割が最も発揮された地

域と推測でき、パータリプトラの発展はまさにこの点にあるのであろう。

立地という点では、ラージギル遺跡は稀な例である。丘陵を開発するかたちで発展したこの

都市は、河川沿い立地という点から外れており、若干その発展要因を異にしていると考えられ

る。現状では断定し得ないが、陸上交通路の発達をその背景に置いている可能性もあろう。カ

ピラヴァストゥもまた典型的な立地条件とは異なっているが、可能性としては現ネノtール地域

へと通じる交通路との関連性が推定される。

このように、都市遺跡の立地という点から考えると、都市は北インドの交通路をその発展の

基盤としている可能性が大であるといえよう。交通路の発展は物質・情報双方の流通という点

で交易活動と深く関わっていることはいうまでもないことであり、筆者が都市成立の要因に推

定する地域間交流を促進する要素であったと考えられる。すなわち、この立地という要素はま

さに北インドの都市の在り方を特徴づけるものと評価できょう。

城壁構造

都市遺跡の外観を特徴づけるのは、城壁構造である。城壁は防御上の役割を果たすととも

に、都市の範囲を区画し、村落も合めた社会空間構造の中で都市が隔絶した存在であることを

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顕示する機能を持つものと考えられる 10)。また、大規模な城壁の造営に伴う土木工事は膨大な

ものであり、まさに労働力の集約化にその存在基盤を置いているといえ、非日常的な大量の労

働力の投入という点においても、都市の隔絶性を生み出していると考えられる。しかしながら

注意すべきは、城壁の有無が都市の定義の絶対条件になり得るかという点であろう。現在、城

壁が確認されている遺跡が同時に大規模な面積を持つことから、城壁を持つ遺跡が遺跡規模に

おいても隔絶した存在であることが理解できるが、ヴ、アイシャーリー遺跡のように城壁が確認

されていない遺跡においても、可能性としては必ずしもそれが都市的存在ではないと断定する

ことは難しい。

さて、このような城壁構造の造営は前 6 ~ 2 世紀頃にその中心を置いている事例が多い。す

なわち、この時期に城壁造営を可能とする契機が存在したことが理解できょう。城壁構造の時

期をより明確にして、前 6 世紀頃に造営される一群と前 3 ~ 2 世紀頃に造営される一群とに分

けようとする考えがあり、それは城壁の盛土中から出土する土器に編年の基準を置いている。

しかしながら、当該時期の土器編年と絶対年代の対応関係についてはいまだ断定し得る根拠が

なく、しかも土器編年が必ずしもかつて考えられていたような単純なものではなく、地域的に

も異なる様相が現出している可能性を考慮するとき、盛土中から出土した土器片に年代決定の

根拠を置くことはその妥当性を失う場合がある。したがって、ここではおおむねその年代枠が

決定し得る前 6 ~ 2 世紀という範囲内に、城壁造営の中心年代を考えておきたい。

この時期に城壁が各地の都市で造営されるようになったことに対してその評価は様々であろ

うが、都市の発展過程という視点からみた場合、都市の隔絶性を顕在化させたという点で、都

市構造そのものの整備・確立を背景にした現象として捉えることが可能であろう。すなわち、

その特定は今後の課題であるものの、都市を取り巻く社会構造の充実・発展があったと推定す

ることができょう。

また、都市の規模については、城壁の造営が進行する前 1 千年紀後葉よりも以前の段階にお

いては情報がほとんど欠落しているが、少なくとも城壁が造営された段階においては、おおむ

ね 150 ~ 200ha 前後が都市の規模の標準となっていたようである。マトゥラーは 300ha、パー

タリプトラは 1200ha と標準を大きく凌駕しているが、それはこれらの都市がその発展過程に

置かれた歴史的脈絡にその要因を求めることができょう。

都市内部の構造

都市内部の構造については、いまだ充分な遺構の検出例が少なく、しかも前 1 千年紀後葉に

措定し得る、煉瓦積建物出現以前における建物構造についてはほとんど不明であるといわざる

を得ない状況にある 11)。ただし、煉瓦積建物以前の遺構検出例が少ないことや、実際に柱穴列

が検出された事例が存在することは、パータリプトラにおいて木材を多分に使用した構造物が

検出されていることをも勘案すると、木造建物が主流であった可能性を強く示唆している。こ

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れは石窟寺院の構造や石彫浮彫において木造建物の存在が間接的に観察されることからも、そ

の妥当性を傍証しているといえよう。石彫浮彫に窺われる建物の構造から判断すると、煉瓦積

建物以前の段階において、すでにかなり大規模かっ定型化した建物構造が北インドに成立して

いた可能性が高い。

前 1 千年紀後葉あるいはこの時期も遅くなって(前 2 ~ 1 世紀頃)焼成煉瓦が導入されて以

降は、建物の構造とその平面配置が判明する事例が、少ないながらも知られている。建物は中

庭空間と房室列との組み合わせによって構成されるのが一般的であり、房室内に井戸や浴室、

厨房空間といった生活に関連する諸施設を設けるという傾向がみられる。中庭空間と房室列と

の組み合わせは、その後の寺院建築や一般住居にも継承されており、その基本形が少なくとも

前 2 ~ 1 世紀ごろまでに成立していたことが判明する[上杉 1998]。

焼成棟瓦の使用は少なくとも都市遺跡においては、西暦 1 千年紀を通じて建築用材の主流と

して用いられるようになった。しかしながら、その使用形態には時期的な推移がみられ、西暦

2 世紀頃までは建物の造営にあたって新規に煉瓦を生産していたようであるが、 3 世紀以降、

すでに廃絶した先行する建物から煉瓦を抜き取って再利用するという傾向が北インドを通じて

顕在化し、さらに時間の経過とともに再利用煉瓦が細片化する現象が生起している[上杉

1998]。筆者は焼成煉瓦の導入が都市の発展を基盤として生み出されたものと推測するが、煉

瓦再利用の導入は煉瓦生産体制の解体も合めて、都市構造の変化が大きく影響を及ぼしている

可能性を想定する。いまだ初期歴史時代においても考古資料に基づいた相対編年の確立と絶対

年代との対応関係の設定が充分なところにまで到達しておらず、文献その他資料によって得ら

れる歴史事象と考古学的現象の対応関係を明確にすることは困難といわざるを得ないが、西暦

3 世紀頃を境にして、多方面において物質文化の様相が変化している可能性があり、煉瓦の使

用形態の変化もまた、この時期における一連の変化の一部を担っている可能性を想定すること

ができる。西暦前後の時期において繁栄をみた経済的状況の変化がこの物質文化における変化

と関与しているのかもしれない。

以上、北インドにおける都市の基本要素を取り上げ、その検討を通して都市構造の把握を試

みた。現状において断定することは困難であり、当然今後は都市の地域性を考えていくことが

重要課題となってくるが、基本的に、北インドにおける都市の基本形態は一貫して共通してい

るようであり、北インド、全体を覆って共有される社会的背景のもとに都市の成立が生起したと

評価することができょう。

この点で、北インドとも文化・社会的関連性が強い北西インドの状況は興味深い。北西イン

ドにおける都市の成立は、タキシラーのピソレ・マウンドがその最古相に位置づけられようが、

北インドの都市とは異なる様相を示している。立地という点では、北西インドは北インドの沖

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積平野とはその自然環境を異にしており、したがってその立地的特徴も異なっている。ただし、

さらに西の北西インドの中枢部と北インドを繋ぐ回廊上に位置していることから考えると、ま

さに交通路上の立地という点では北インドの状況と通有であるといえよう。ビル・マウンドで

は城壁の有無は判然とせず、北インドと同じ都市発展の形態を示すものかどうか不明である。

内部における建物の平面配置という点では不規則な街路に区画される構造を示しており、この

点では北インドとの共通性を示しているといえよう。建築用材は北西インドに通有の石材利用

を基本としており、焼成煉瓦を導入するには至らなかったようであるが、石材利用はすでにガ

ンダーラ墓葬文化の時期にさかのぼる伝統であり、この地域では一貫して石材利用の伝統が継

承されている状況をみることが可能である ω。

ピル・マウンドにおいては、その最下層から北インド系の遺物が出土しており、伝承におけ

るマウリヤ朝支配の確立とも関連して、前 3 世紀頃までに北インドの文化的影響が強く及んで

いたことは明らかである。しかしながら、この地域における都市の出現が、どの程度まで北イ

ンドの影響を受けているのか、その評価は難しい問題であり、特に北西インドにおけるガン

ダーラ墓葬文化の様相が次第に明らかになりつつある現状では、この文化の都市成立への関与

も含めて、一概に北インドと同じ脈絡の中で捉え得るのかどうか、さらなる検討が必要であろ

ワ。

前 2 世紀におけるインド・ギリシア系王朝の支配はこの地域の都市形態を北インドのそれか

ら大きく誰離させる結果をもたらした。タキシラーのシルカップやチヤールサダのシェイハー

ン・デーリは碁盤目格子状の平面形を持つものであり、まさにインド・ギリシア系王朝の都市

原理がもたらされた状況がみられる。しかし、果たしてこの地域におけるインド・ギリシア系

の都市形態の導入が北インドにどの程度の影響を及ぼしているのかは不明である 13)。

北西インドでは周辺地域からの集団の移動が北インドに比して著しく、都市発展形態におい

ても北インドとは異なる様相を示している可能性が高い。ただし、この地域においても都市の

存立基盤は、北インドも含めた経済的繁栄にあると考えられ、その発展過程における歴史的脈

絡は共通するものであったと評価できょう。

4. 北インド・都市化の社会背景一地域間交流と都市一

北インドにおける都市がいかなる背景のもとに形成されたのかを考えることは、北インドの

都市の性格を考える上において重要な意義を持つであろう。仏典等の文献記録と考古資料の双

方から考えて、遅くとも前 6 ~ 5 世紀頃までには北インドに都市が成立していた可能性が高く、

都市成立の萌芽の時期を想定するならば、前 7 世紀頃までには都市的存在の出現があったこと

が推定できる。したがって、前 7世紀以前の段階において当時の社会でどのような動きがあっ

たのかを明らかにすることが、当面の課題となろう。官頭で述ベたように、都市が周辺地域を

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包摂し、広域な地域空間の構造化のもとに成立するという視点から見た場合、やはり社会全体

において、都市成立に向けた社会変革が生起すると考えられるからである。

既往の研究における北インドの都市の出現の要因については、 G. Erdosyが近年の都市形成

に関する一般的研究に言及しつつ、北インドの場合について考察を行っている。氏は自身の遺

跡分布調査[Erdosy 1985b]の成果をもとに、都市を頂点とした集落聞の階層関係および中心

的集落の等距離分布を重視し、都市を含む地域空間が構造化されていた状況を推定する

[Erdosy 1987] 14>。この地域空間の構造化に対して、氏は文献記録にみられる国家聞の緊張関

係をその要因に想定し、さらにその初現を一地域内における階層化社会の出現に伴う階層閣の

緊張関係に結び付ける。この地域内における階層化社会の出現はインド・アーリヤ語族の移住

に伴うものであるとし、支配・非支配の関係の中にその緊張関係の萌芽があるとする。このよ

うな経緯のもとでの地域間の緊張関係は、地域内における資源の生産力・管理力の向上を引き

起こし、結果的にそれらを管理する中心地の出現あるいは増大をもたらすにいたった。氏はか

かる中心地の最初の機能としてこうした資源の管理という政治性を重視しており、次第に生産

力が向上し、交易活動が活発になるにつれて経済的機能が付与されるにいたり、ここにおいて

都市は飛躍的に発展したと考えている。氏によれば、地域の構造化は前 1 千年紀初頭には生起

しているとされ、都市が飛躍的に発展する時期を前 6 ~ 3 世紀に措定し、都市を国家の形成・

発展過程とを結び付ける形でその論を展開している。

このErdosyによる論は氏自身が認めるように仮説の域に留まるものであり、今後の調査に

よって検証されるべきものであることはいうまでもないが、氏の考察から得られる要点は、都

市の形成が地域統合にあるということである。これは本稿の官頭において都市の定義として述

べたところと一致するものであり、この地域統合の過程を検討することによって、北インドに

おける都市の成立過程の一端を明らかにすることができるものと考える。

氏は遺跡分布の調査にその力点を置いているが、筆者は物質文化の変化においてこの地域統

合の過程を検証することに重点を置いている。その物質文化の変化を追う 1 つの資料として土

器資料を取り上げるが、先学の研究においては、都市の発生に付随する物質文化の変化として

貨幣や文字の使用がその考察対象とされる傾向がある。現在得られている資料でみる限り、こ

れらの資料は都市出現以降のある時期に突如として出現する様相を呈しており、都市出現以前

からの長期にわたる変化を跡付けることのできるような性格のものではない。それゆえ、都市

が形成される時期にどのような変化が起こりつつあったのかについて、これらの資料を検討の

対象とすることは困難である。そこで、ここでは都市形成以前からその変遷過程を追うことの

できる土器資料を取り上げ、冒頭において設定した地域統合の結果としての都市の出現という

観点から、土器変遷の様相を考えてみたい。

前 7~ 6 世紀という時期は、北インドに精製土器が出現して以来、すでにその盛期にかかろ

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うとする時期であった。すなわち北インドの西半部においては彩文灰色土器(Painted Grey

Ware= PGW)が広く分布し、東半部では黒縁赤色土器(Black-and-RedWare= BRW)・黒

色スリップがけ土器(Black Slipped Ware= BSW)から北方黒色磨研土器(Northern Black

Polished Ware = NBPW)の創出をみようとしていた。これらの精製土器の初現は前 2 千年紀

の中葉もしくは後葉の時期にあるが、皿・鉢を主体とする精製土器は、それ以前の時期に明確

な系譜を持たない、この時期に新たに出現した土器であった。

現在得られている資料からみると、 PGWはガンジス川上流域(パンジャープ地方)におい

てハラッパ一文化の系譜をひく土器と一部時期的に重複して出現した可能性があるが、その器

種構成や文様構成などにおいて既存の土器様式の系譜をひくものではなく、前 2 千年紀後半の

時期において突如として出現した様相を示している。灰色を呈するという特徴は北西インドの

同時期の土器様式にみられ、その関連性をうかがわせるものの、器種構成という点では西方と

のつながりは考えることができず、むしろ東方すなわちガンジス川中流域以東との関連性を示

している。

このガンジス川中流域以東の地域においては、前 2千年紀中葉頃にガンジス川中下流域を中

心として出現したBRW·BSWが拡散する状況を現出していたと考えられる。詳しくは前稿[上

杉 1997]に譲るが、これらの土器はガンジス川中下流域から中上流域へと、その器種構成を

皿・鉢に単純化させながら広がっていった可能性がある。前出のPGW と BRW ・ BSWは器形

の変化こそみせるものの、皿・鉢という器種構成に共通しており、さらに両者とも丁寧な製作

工程を含んでいるという点で共通しており、すでに前 2 千年紀後半の段階において、 PGWが

分布するガンジス川上流域からBRW·BSWが分布するガンジス川中下流域にいたるまでの広

範な地域が、土器上において影響を相互に及ぼし得る 1 つの地域空間を形成していた状況を示

唆しているω。筆者は、この点において、すでに北インド全域が 1 つの文化統合に向かう社会

集団の動向が喚起されていたものと考える。

前 1 千年紀前葉になると、PGWがガンジス川中上涜域にまでその分布域を広げるとともに、

BRW·BSW との相互影響がさらに強くなっており、集団の移動・相互交渉はより活発化して

いたものと考えられる。前 1 千年紀前葉から中葉の変換点すなわち前 6 世紀頃になると、先行

時期に BRW ・ BSWが分布していた地域に NBPWが創出され、前二者の土器が使用されてい

た地域全体に比較的短期間の聞に導入されるという状況がみられるω。この短期間における新

たな土器の拡散は、この地域内における集団の強い結びつきを示しており、すなわち地域内に

おける文化統合が進んでいた可能性を示唆している。

都市が形成されたのは、まさにこうした精製土器が地域の結びつきを軸にして変遷・展開し

ていた時期であり、その時期的併行関係に、両現象の何らかの関連性を想定することが可能で

ある。精製土器はそれぞれが特有の外観を持ち、地域を明確に分けた分布域を示していること、

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さらには精製土器以外の器種(赤色系軟質土器の査・蜜)においては、器形・製作技法ともに

共通する形式が北インドに広く分布していることなどの諸点から、精製土器の地域差がそれを

使用する集団の意図的選択・保持に起因する可能性を考えることができる。このことはすなわ

ち精製土器の選択が、地域内あるいは地域聞において集団の内部もしくは集団聞で共有・拒絶

される志向性に基づくものであったことを示唆している。つまり、精製土器の地域性は集団の

意志に基づく地域統合の一端を反映している可能性があり、この土器にみられる地域統合は、

より高次の社会的地域統合のー表現形態であると評価できる。

前 3 世紀頃になると、上述のように明確な地域性を示しつつ展開した精製土器は北インドの

ほぼ全域を通じて衰退・消滅の途をたどることになり、かわって赤色系軟質土器主体の土器組

成が確立される。ここに土器における地域統合は新たな局面を迎えて、より広範な地域にその

力を及ぼしていく状況が見られるが、土器様式の変質とその広範な拡散は、社会変革の一端を

描出している可能性が高い。

この土器にみられる地域統合の度合いは、続く後 1 千年紀前葉にいたっても顕著である。特

にこの時期には、仏教と結びつく形で前代から部分的に残った黒・灰色精製系の半球形鉢が北

西インドや南インドの仏教寺院17)にもみられ、さらに宗教的な機能・用途が想定される散水

器形土器(スプリンクラー)が北インドから西インド、南インド、東インドと複数地域の土器

組成の中に採用されるのである。ただし、この時期はいくつかの特定形式においてのみ共通性

がみられることから、地域統合というよりも地域間交流というレベルで各地域が結びついてい

るようである。いずれにせよ、この時期には前代よりも広範な地域が相互に結び付けられてい

る状況を土器にみることができる。

以上のような土器の変遷を地域間交流・地域統合という視点から解釈するとき、異なる精製

土器が北インドに出現し分布圏を変移させていくこの過程は、異なる精製土器への志向性を持

つ地域集団単位の形成とみることができる。それらの地域集団は孤立した状態で存在するので

はなく、 Eいに接触・交渉を繰り返している状況が土器資料に窺える。すなわち、精製土器を

使用するという 1 つの文化的脈絡の中における複数の地域集団の成立が、この時期に顕著に進

行していることが理解できょう。また、精製土器が衰退し新たな土器様式に取って替わられて

いく状況は、前代までの社会が土器に表現していた志向性が解体することを示しており、新た

な社会的志向性の形成を推察することが可能である。また、そのような事由のもとに形成され

た新たな土器様式が前代にもまして広範に広がっていく状況は、より広範な地域間交流・地域

統合を示すものと考えられ、より規模の大きな地域単位が形成されていく様子を窺うことがで

きょう。

都市が成立するのは、精製土器に衰微される地域集団の形成の時期に併行しており、地域集

団を統合する中心点もしくは結節点として都市が成立した可能性を導き出すことができる。こ

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の地域統合へといたる地域間交流がどのような社会行為によって北インドに現出したものであ

るのか、現状では考古学的に明確にすることは困難であるが、人の活発な移動や交渉・接触が

その背景にあったことは明らかである。したがって、そうした活発な人の移動を生起させ促進

させた要因を解明していくことが、考古学研究において可能な課題であると考えられる。

また、精製土器の消滅は、一面では社会がより広範な地域統合をめざした結果と推定でき、

この時期におけるマウリヤ朝の成立という現象と関連していると考えられる。このことは、土

器様式の変遷と国家の直接関与を指摘するものではない。むしろ、国家の成立もまた広範な地

域統合という社会現象のー表現形態を表わすものとして捉えるとき、当該期の北インド社会が

持つ広域地域統合という社会的志向性が、この時期の土器様式成立の背景となっていると論じ

ることが可能であるω。このことは北インド社会における都市化が発展・成熟し、その社会的

原動力を周辺地域に敷延しようとした結果であるといえよう。

想像の域を出ないが、こうした地域間交流・地域統合のもとで人々の移動・接触・交渉が活

発化され、物質・情報双方の流通が強化されることによって、そうした流通の組織的管理が促

され、都市の前段階における中心地の形成が促進されることになったのであろう。中心地の形

成は地域空間内部での不等質性の増大、すなわち空間の階層化・序列化を進行させ、 G.Erdosy

らが強調する集落規模の階層化や機能の分化を引き起こすことになつたものと考えられる19)

流通の組織化という社会行為が強化されることは、都市が政治・経済・宗教の各側面での地域

空聞における中心地としての機能を充実させていくことにつながることを予測させる。

ところで、地域間交流もしくは地域の構造化という点に関して文献史料の研究によって示唆

されるのは、インド・アーリヤ語族の移住にはじまる社会階層・階級の複雑化や異集団聞の戦

争などであり、また都市成立以降の時期においては商人層の活発な活動が知られている[山崎

1987]。これらの事象は地域間交流が様々な形態を呈していたことを示しているが、現状では

考古資料とこうした文献史料を直接対比することは困難である制。しかし、地域間交流・地域

統合という視点でみた場合、両者の資料が示唆する当該時期の北インド社会の方向性は、おお

むね一致していると考えられる。したがって、それぞれの資料の特性を充分に考慮し、検討を

重ねていくことがそれぞれに課せられた課題であろう。

現状において論理の飛躍があることは認めざるを得ないが、土器の変遷に認められるこうし

た地域統合の過程を都市成立の基盤となる社会的地域統合の一端として捉え、北インドにおけ

る都市成立に関わる仮説としたい。上述のように文献史料によって示される社会の階層・階級

化や戦争、あるいは交易の発展といった事象は、考古資料においても検証可能な分野であり、

今後体系的に資料の集成・分析を推し進めていく必要があろう。

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5. おわりに

以上、都市遺跡にみられるいくつかの属性を取り上げて北インドの初期歴史時代の都市遺跡

の特徴を概観するとともに、土器を具体的資料として、都市形成の背景について若干の考察を

行ってきた。最後にまとめとして、上記検討した資料をもとに、北インドの都市の発展過程に

ついて、いくつかの段階を仮説的に設定し、北インドにおける都市化を歴史的視点から検討し

ていく上での基礎としたい。

都市の発展の諸段階として、①萌芽・形成期、②発展期、③最盛期、④停滞・衰退期、の

4段階に分類する。北インドにおける場合を考えると、まず精製土器が出現する時期を最終的

に都市形成が生起するにいたる地域統合の初現として、萌芽・形成期の始まりとする。すなわ

ち、前 2千年紀後半の時期がこれにあたる。次に、発展期として、文献史料の面からほぼ確実

に都市が成立していたと考えられる前 6世紀をその始まりと考えると、精製土器の盛期と評価

しうるPGW·NBPW併行段階の開始および大規模城壁の造営の開始がほぼこれに併行してお

り、その妥当性を加えることが可能である。この発展期の終わりをいずれの時期に設定するか

は難しいが、おおむね、北インドの多くの都市において城壁造営が完了する前 1 千年紀末を考

えておきたい。

その聞にはマウリヤ朝の成立という最大規模の社会変化を含んでおり、この発展期をさらに

2 時期に分ける可能性を残すが、都市遺跡そのものに明確な時期設定を行いうる根拠がないこ

とから、ここでは一応「発展期」として一括しておき、今後の調査・研究の課題としておきた

い。後 1 千年紀前葉( 1 ~ 3 世紀)はクシャーン朝の成立や対地中海交易の発展などの要因が

北インドにおける経済発展に大きな影響を及ぼしていることが推定でき、煉瓦積建物の本格的

導入など、北インド都市自体も成熟していると考えられる。この時期を最盛期として捉えてお

きたい。グプタ朝期には、ヒマーラヤ山脈南麓の都市が衰退すること 21)や、依然繁栄してい

るはずの都市においても焼成煉瓦の新規生産が停止しているなど、都市社会停滞の様相を呈し

ていると考えられる。これは対地中海交易が次第に凋落していくことと、続くポスト・グプタ

朝期以降に都市主導型の地域構造から村落主導型の地域構造へと変化していくことを勘案しで

も、この時期における都市の衰退の契機を考えることが妥当であろう。

以上の検討の結果、北インドの都市は前2千年紀後半にその萌芽を見、前 1 千年紀、後 1 千

年紀前葉を通して地域空間の中心点・結節点として発展し、経済的活況の中で広域的都市空間

を現出させる。しかしながら、経済主導型の都市構造は経済の停滞とともに衰退の途をたどり、

再び社会構造の変革を要請することになったと理解できょう。

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謝辞

本稿は 1997年度インド考古研究会サマーセミナー「南アジアの都市と機能」における口頭

発表の内容を骨子としたものであり、小西正捷・近藤英夫両先生をはじめとして出席者の方々

から有益な御意見・御指摘をいただきました。小西先生には原稿の校閲をお願いし、お手を煩

わせました。また、関西大学網干善教先生には日頃よりご指導いただいているほか、関西大学

考古学研究室の米田文孝・深野信之・太田宏明の各氏からも、本稿作成段階において貴重な御

指摘と御批判を頂戴しました。末筆ながら記して深謝申し上げます。

1) 概報によると、 II期は前 4 ~ 3 世紀、 III期は前 2 ~ 1 世紀頃に措定されている [IAR 1973・74 ・ 1974・

75 ・ 1975-76 ・ 1976-77]。

2) 発掘調査・報告者の G.R. Sharma は、 I 期にハラッパ一文化の系譜をひく土器に類似する資料が存

在することを指摘している[Sharma 1960: 18]。しかし、 K.K. Sinha は Sharmaが指摘する類似性を

偶然のものとして、両者の系譜上のつながりを否定している[Si叶ia 1973]。また、 K.N. Dikshit も

同じく Sharma の見解に否定的である[Dikshit 1982]。

3) G.R. Sharma は貨幣・印章・土偶・鉄鉱の年代観を論拠として、 Rampart 3 ・ 4 ・ 5 の年代を確定し、

それぞれの城壁間の期間を等分して氏が設定する各遺構面の年代を算出し、さらにこれら城壁のうちで最も早くに措定される Rampart3 (前 2 世紀前半)以前の時期に関しでも、等分して算出された

年代幅(75 年間)を機械的に各遺構面に割り振ることによって、遺跡の年代を確定しようとしてい

る[Sharma 1960]。いうまでもなく、この方法には恋意的な性格が強く、認めがたいものとなって

いる。 ErdosyはSharmaによる遺構面の設定に疑問を呈示し、新たに遺構面を設定することによって

妥当な年代観を導き出そうとしている[Erdosy 1987: 4・5 ]。

4) G. Erdosyはプランディーパーグ、ローハニープルで検出された木造遺構の位置を根拠としてその面

積を推定している。ただし、メガステネースの記録から推定される面積(4500ha)を考えると、氏

の推定値でもまだ小さいかもしれないと述ベている[Erdosy 1987: 18]。

5) G. Erdosyは新ラージギルの城壁中から得られたC14年代が 195・200 B.C. を示すことから、新ラージ

ギルの城壁をこの時期に措定し、この年代を基準として旧ラージギルの石積城壁を若干さかのぼら

せて前 4 ~ 3 世紀以前に位置づけようとしている[Erdosy 1987: 6]。ラージギル遺跡の年代はここ

に都を置いたピンビサーラ王がブッダと同時代であることを根拠にしている部分が大きく、ブッダ

の生存年代の論争如何によっては、その年代措定の根拠を失う可能性が高い。6) カピラヴァストゥの比定については、ネパール領内のティラウラーコート遺跡をその候補に挙げる

説と、インド領内のピプラフワー・ガーンワリア遺跡を挙げる説の 2つがあって、いまだ確定していない。ガーンワリア遺跡の僧院遺構からはカピラヴァストゥの銘を持つシーリングが出土してお

り、ピプラフワー・ガーンワリア説をとる学者にとっては重視されるべき証拠となっている[Srivastava 1986]。しかしながら、ピプラフワー・ガーンワリア遺跡周辺には都市の存在を示すよ

うな大型の遺丘は確認できず、この遺跡のみでカピラヴァストゥの存在を確証させる根拠は乏しい。むしろ、ティラウラーコートからピプラフワー・ガーンワリアを含む地域一帯をカピラヴァストゥとして考える方が妥当であろう。

7) ハティヤール丘陵の尾根の先端において、いわゆるガンダーラ墓葬文化に関わる集落遺跡が確認さ

れており[Allchin 1982]、前 2 千年紀中葉以降、北西インドにおいて形成されてきた文化伝統がタ

キシラーにまで及んでいたことが理解できる。現在の知見では断定し得ないが、ガンダーラ墓葬文化に属する人々が、北西インドの二大都市であるタキシラーとチヤールサダ[Wheeler 1962]の最

下層に居住していたことを考えると、彼らが北西インドの都市の形成に関与していた可能性は充分に推測できょう。今後検討を推進すべき課題である。

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8) G. Erdosyはシシュパールガルがマウリヤ朝によって建設された都市であるとの考えを示唆しているが[Erdosy 1987: 13]、少なくともその最盛期はマウリヤ朝崩壊後のカリンガ朝期、すなわち前2 ~

後 1 世紀と考えるべきである。

9) 河川を利用した交通・交易が都市形成の主要因であるとする考えは、概説的ではあるが応地利明氏

によっても指摘されている[応地 1995]。

10)城壁の機能については、軍事的防御上の機能のほかに、河川氾濫の被害を防ぐためのものであると

する考えがある。 Mate (1970]やRoy (1983]はこの考えを推し進め、前 1 千年紀中葉までに築かれた城壁は主として洪水対策、前 1 千年紀後葉に構築されたものは軍事上の機能を担うものであっ

たとしている。 Roy はとりわけ村落遺跡に推定されるジャーケラー遺跡において周堤状の遺構が検

出されていることに言及し、こうした洪水対策用の施設が都市に限らず、当時の集落一般の特徴で

あったとしている。また、城壁の持つ象徴的機能を考える見解もあるが[Mumford 1961; Wheatley

1971; Erdosy 1987]、これは本稿において示したところと一致するものである。11)ただし、文献史料によると、都市の建物には煉瓦のほかに草・葉・棒・材木・泥・粘土・漆喰・石

などの使用が挙げられており[山崎1987]、煉瓦の出現以前の段階においてこれらの建築用材が主たる材料として使用されていた可能性が裏付けられる。

12)ガンダーラ墓葬文化はG.Stacul によるスワート編年V期(前 14世紀以降)に始まるが、その主要文化要素の 1 つである墓葬の埋葬施設には、 ill石が利用されている[Silvi Antonini & Stacul 1972]。また、その集落遺跡であるアリーグラーマでは、石積の住居祉が検出されており、以後一貫して北

西インドでは石積による建築技法が採用されている[Stacul & Tusa 1975 ・ 77]。これはこの地域に

おいて、石材が豊富に得られるという事由に起因するものである。

13) Erdosyは格子状プランが北インドの都市にも採用されている可能性を示唆しているが、そのインド・ギリシア系文化の影響については懐疑的である。

14) Erdosy はアッラーハーバード県において分布調査を行っており、前 l 千年紀初頭以降、同地域にお

いてカウシャーンピー遺跡が規模において傑出して増大していく状況を指摘している。ただし、遺

跡規模の推定は、遺物の分布範囲の確認に依拠しており、発掘調査によるものではない。

15) Allchin夫妻はこれらの器種構成が共通する食膳具形態の出現を 1 つの文化的脈絡の出現と捉えてお

り[Allchin 1968]、筆者の考えに共通する。

16)前 1 千年紀以降の精製土器の変遷については、現在関西大学が実施しているマヘート(シュラーヴァスティー)遺跡の発掘調査において良好な資料が得られており、報告書の刊行を侠ってその分析を

もとにした別稿を準備する予定である。

17)北西インドでは、例えばラーニーガート遺跡[京都大学学術調査隊 1986 ・ 1988]やサイドゥ・シャリーフ遺跡[Callieri 1989]に半球形鉢の類例が報告され、南インドではシャーリフンダム遺跡

[Subrahmanyam 1964]において出土している。この段階においては、退化形態としての精製土器が、

仏僧たちの使用する布施鉢のような特化した機能に転化していたことがわかる。なお西暦紀元前後

以降の土器様式の変遷については、別稿において詳しく論じる予定である。18) F.R.Allchinは初期歴史時代における北インド社会の特質として、「攻撃的J と表現し得る社会の拡大

志向を指摘している[Allchin 1995]。

19)事実、文献史料においては、 nagara • nigama • gama という 3 つの規模の異なる都市・村落形態の存在が知られており、 nagaraは都市、 gamaは村落、凶gamaは都市と村落の聞の中間的存在としての町

邑と考えられている[山崎1987]。このことは前 1 千年紀中葉頃までに集落規模の階層化および機能

の分化が進行していたことを示しており、 Erdosyの踏査の成果を裏付けている。今後の発掘調査の進展に伴って、実際の遺構や遺物において集落規模・機能の差異が見出されることが期待される。

20)初期歴史時代の北インドにおける都市に関して、文献史学と考古学の共同の必要性は、 Romila

η1apar ら文献史学の方面から提唱されており、我が国ではすでに山崎元一氏[山崎 1980ほか]が両

者の成果を総合する試みを行っている。また、 F.R. Allchin らの考古学者も、まず考古資料に関連す

る分野から文献史料を積極的に取り入れる必要性を主張しており[Allchin 1989 ・ 95]、今後それぞれ

の分野で明らかにできることと両者の接点を模索し明確にしていくことが必要である。

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21)西暦 5 世紀初頭に北インドを訪れた中国求法僧法顕は、ヒマーラヤ山脈南麓を巡行する中で、この

地域の都市が著しく衰退する様相を伝えている。すなわち、シュラーヴァスティー(舎衛城)、カピラヴァストゥ(迦維羅衛城)、クシーナガラ(拘夷那掲城)などの地における人口の寡少性と玉城の

荒廃した様子をみている。また、本文中において指摘したように、マヘート遺跡ではグプタ朝期の

遺構・遺物が稀薄であり、この時期に都市における活動が衰退していた可能性を強く示している。

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