2
日本出版学会 - 二つの「白髪鬼」―涙香と乱歩の翻案 啓子 (2008年11月 秋季研究発表会) 2010年 5月 16日(日曜日) 12:18 ■ 二つの「白髪鬼」――涙香と乱歩の翻案をめぐって (会報123号 2009年1月) 啓子 その翻訳「白髪鬼」の原作について,江戸川乱歩は後にこう述べている。 それにしても何というすばらしい題材であろう。百年に一度,イヤ千年に一度,やっと見つ かるか見つからぬ,世にも貴重な材料と云わねばならぬ。私は,このな材料を?み得た原作者 が羨ましくてならぬのだ。 (「『白髪鬼』の執筆について」『冨士』昭和六年三月) 「白髪鬼」とは,江戸川乱歩が昭和六年四月から,翌七年四月まで大日本雄弁会講談社の雑 誌『冨士』に連載した長編小説である。だが厳密に言えばこの作品は「翻訳」ではなく,乱歩 自身の言葉に従えば「翻案」,それも「再翻案」ということになる。原作は,Vendetta!; or, The Story of One Forgotten というもので,十九世紀末のイギリスの女流作家 Marie Corelliが,一八八六年に発表した作品である。劇的で奇抜なストーリー展開で人気を博した この作品を,明治時代にまず翻訳したのが黒岩涙香であった。涙香はこの邦題を「白髪鬼」と し,自身が主筆を担う『萬朝報』に明治二十六年に連載している。前作「鉄仮面」以上の話題 を呼んだ「白髪鬼」は,日本の読者にも喝采を以て受け容れられた。この涙香訳「白髪鬼」を 母親に読みきかせられ,幼心にも鮮烈な印象を覚えたのが,江戸川乱歩である。長じて再びこ の「白髪鬼」に邂逅し,原作Vendettaと共に通読した乱歩は,涙香訳から四十年近い時を経て ,新たにこの原作を日本語に直すべく試みたのである。 原題Vendettaは,もと,イタリア語の「復讐」の意味で,コルシカ地方などで,被殺害者の 一族から殺害者の一族に向けられた敵討ち,血で血をあらう争いを指している。英語に堪能で あった黒岩涙香は,このVendettaを日本語に置換するにあたって相当頭をひねったのであろう 。新たに独自の邦題として冠した「白髪鬼」は,よく内容に即したタイトルであり,従来から 「非常な復讐好き」を自負していた涙香自身の思い入れをも感じさせる。 乱歩が敢えて涙香と同じタイトル「白髪鬼」を擁したのは,何よりもまず,乱歩自身の翻案 が涙香の訳に準ずるものであることを謙虚に表明するためである。そして,原作にも,涙香の 名訳にも遠く及ばないとしながらも,より平易に,より当代風に,書き換えることを目し,自 らの翻案を発表したのである。それは,先に挙げたように乱歩をそれほど魅了した作品構想が ,一方で,彼の言葉を借りれば「筋の変化に乏しくて現代向きにできていない」ことを憂慮し たことも一因であろう。そのため乱歩は,原作にいくつかの大胆な加筆修正を施している。そ れは「トリックと意外性で驚かせ,猟奇性と残虐味で味つけ」ることで,「ナンセンスと猟奇 とエロとが三つ巴となって読物界を席巻していた時代」(中島河太郎『日本推理小説史』東京 創元社1996年)の求める展開に原作をより近づけるためであり,その試みは成功したといえよ う。 翻って涙香は彼の連載小説が「最良最廉」紙であることを標榜する『萬朝報』の看板である ことを自認するがゆえに,常に読者の顔色を窺いつつ連載を綴ることを余儀なくされていた。 実は涙香も,乱歩ほど大胆ではないまでも,原作をいくばくか改変している。それが,峻烈さ のなかにもどこか教訓的な内容へとテーマを収斂させていくかたちに収束したのは,発表媒体 を常に意識し続けていたがゆえであり,その表現に自ずと自制がかかった結果といえよう。 同一の英書が,数十年の時を隔てて異なる二人の手になり,日本語に直され,時代,発表媒 体,書き手の性別,延いては読者の嗜好など全く異なる背景に於いて,出現したことは極めて 意義深い。そこには原構想が一致しているがゆえの,各の翻訳・翻案者の独自性が浮かび上が 1 / 2

二つの「白髪鬼」――涙香と乱歩の翻案をめぐって (会 …Corelliが,一八八六年に発表した作品である。劇的で奇抜なストーリー展開で人気を博した

  • Upload
    others

  • View
    1

  • Download
    0

Embed Size (px)

Citation preview

Page 1: 二つの「白髪鬼」――涙香と乱歩の翻案をめぐって (会 …Corelliが,一八八六年に発表した作品である。劇的で奇抜なストーリー展開で人気を博した

日本出版学会 - 二つの「白髪鬼」―涙香と乱歩の翻案  堀 啓子 (2008年11月 秋季研究発表会)2010年 5月 16日(日曜日) 12:18

■ 二つの「白髪鬼」――涙香と乱歩の翻案をめぐって (会報123号 2009年1月)

   堀 啓子

 その翻訳「白髪鬼」の原作について,江戸川乱歩は後にこう述べている。

 それにしても何というすばらしい題材であろう。百年に一度,イヤ千年に一度,やっと見つかるか見つからぬ,世にも貴重な材料と云わねばならぬ。私は,このな材料を?み得た原作者が羨ましくてならぬのだ。(「『白髪鬼』の執筆について」『冨士』昭和六年三月)

 「白髪鬼」とは,江戸川乱歩が昭和六年四月から,翌七年四月まで大日本雄弁会講談社の雑誌『冨士』に連載した長編小説である。だが厳密に言えばこの作品は「翻訳」ではなく,乱歩自身の言葉に従えば「翻案」,それも「再翻案」ということになる。原作は,Vendetta!; or,The Story of One Forgotten というもので,十九世紀末のイギリスの女流作家 MarieCorelliが,一八八六年に発表した作品である。劇的で奇抜なストーリー展開で人気を博したこの作品を,明治時代にまず翻訳したのが黒岩涙香であった。涙香はこの邦題を「白髪鬼」とし,自身が主筆を担う『萬朝報』に明治二十六年に連載している。前作「鉄仮面」以上の話題を呼んだ「白髪鬼」は,日本の読者にも喝采を以て受け容れられた。この涙香訳「白髪鬼」を母親に読みきかせられ,幼心にも鮮烈な印象を覚えたのが,江戸川乱歩である。長じて再びこの「白髪鬼」に邂逅し,原作Vendettaと共に通読した乱歩は,涙香訳から四十年近い時を経て,新たにこの原作を日本語に直すべく試みたのである。 原題Vendettaは,もと,イタリア語の「復讐」の意味で,コルシカ地方などで,被殺害者の一族から殺害者の一族に向けられた敵討ち,血で血をあらう争いを指している。英語に堪能であった黒岩涙香は,このVendettaを日本語に置換するにあたって相当頭をひねったのであろう。新たに独自の邦題として冠した「白髪鬼」は,よく内容に即したタイトルであり,従来から「非常な復讐好き」を自負していた涙香自身の思い入れをも感じさせる。 乱歩が敢えて涙香と同じタイトル「白髪鬼」を擁したのは,何よりもまず,乱歩自身の翻案が涙香の訳に準ずるものであることを謙虚に表明するためである。そして,原作にも,涙香の名訳にも遠く及ばないとしながらも,より平易に,より当代風に,書き換えることを目し,自らの翻案を発表したのである。それは,先に挙げたように乱歩をそれほど魅了した作品構想が,一方で,彼の言葉を借りれば「筋の変化に乏しくて現代向きにできていない」ことを憂慮したことも一因であろう。そのため乱歩は,原作にいくつかの大胆な加筆修正を施している。それは「トリックと意外性で驚かせ,猟奇性と残虐味で味つけ」ることで,「ナンセンスと猟奇とエロとが三つ巴となって読物界を席巻していた時代」(中島河太郎『日本推理小説史』東京創元社1996年)の求める展開に原作をより近づけるためであり,その試みは成功したといえよう。 翻って涙香は彼の連載小説が「最良最廉」紙であることを標榜する『萬朝報』の看板であることを自認するがゆえに,常に読者の顔色を窺いつつ連載を綴ることを余儀なくされていた。実は涙香も,乱歩ほど大胆ではないまでも,原作をいくばくか改変している。それが,峻烈さのなかにもどこか教訓的な内容へとテーマを収斂させていくかたちに収束したのは,発表媒体を常に意識し続けていたがゆえであり,その表現に自ずと自制がかかった結果といえよう。 同一の英書が,数十年の時を隔てて異なる二人の手になり,日本語に直され,時代,発表媒体,書き手の性別,延いては読者の嗜好など全く異なる背景に於いて,出現したことは極めて意義深い。そこには原構想が一致しているがゆえの,各の翻訳・翻案者の独自性が浮かび上が

1 / 2

Page 2: 二つの「白髪鬼」――涙香と乱歩の翻案をめぐって (会 …Corelliが,一八八六年に発表した作品である。劇的で奇抜なストーリー展開で人気を博した

日本出版学会 - 二つの「白髪鬼」―涙香と乱歩の翻案  堀 啓子 (2008年11月 秋季研究発表会)2010年 5月 16日(日曜日) 12:18

るのであり,それぞれに強いられた制約と限界,同時代の文壇事情も浮き彫りになる。それは同時に,魅惑的なストーリーテリングが,国境や時代さえ超えて,いかに読者をいかに誘引し,その背景の中で転生し続けるものであるのかという事実をも,厳然と突きつけてくるのである。

[参考文献]伊藤秀雄「黒岩涙香」三一書房 1988年「乱歩の時代-昭和エロ・グロ・ナンセンス」2008年度秋季研究発表会 フォトルポ平凡社 1995年「作家の自伝 江戸川乱歩」日本図書センター 1999年佐藤卓己「『キング』の時代」岩波書店 2002年江戸川乱歩「幻影城」『江戸川乱歩全集』第二十六巻 光文社 2003年J. Randolph Cox. The Dime NovelCompanion. Westport: Greenwood 2000Pamela Regis. A Natural History of the Romance Novel. University of PennsylvaniaPress 2003

◆本研究は文部科学省・科学研究費補助金(若手研究(B))[課題番号:18720048]による研究成果の一部である。

(初出誌:『出版学会・会報123号』2009年1月)

なお, 「秋季研究発表会詳細報告」 (pdf)がご覧になれます。

[ このページの先頭へ ]

2 / 2