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Program Notes -‐‑‒ JWEM 1/7
日本ウインドアンサンブル《桃太郎バンド》アニュアルコンサート2021
Alfred Reed’s 100th Birthday
Program Notes on Alfred Reed 小林恵子(当団首席指揮者)
リード先生、100歳のお誕生日おめでとうございます! 私、コバケイが、今回のコンサートの曲目の紹介もしながら、 リード先生の100年の軌跡をたどりたいと思います。
100年前の今日(1921年1月25日)アルフレッド・リード先生(Dr. Alfred Reed)は、ニューヨーク市マンハッタンに生まれました。ウィーンからニューヨークに移住し音楽愛好家であった両親のもとで育ち、音楽そのものが日常生活の一部となっていったのは当然のこと、小学生のとき、既に、スタンダードな交響曲とオペラは熟知していたというほど!そして、10歳のときに(1931年)始めたコルネットはめきめきと上達していき、中高校生時には、トランペットを吹いてギャラを貰っていたほどの腕前に。15歳で(1936年)音楽理論も学び始め、作曲家を志す道は当然だったのかもしれません。
高校卒業後、NYA(国立青少年庁)ラジオワークショップに所属し、放送番組の制作に従事、L.ストコフスキーなど著名な音楽家のアシスタントを務める機会を得ます。のちに師匠となるV.ジャンニーニとの出会いも、このNYAでした。(この話は、英史代表に託します!)
20歳で(1941年)マージョリー夫人とご結婚され、音楽家としてのキャリアを順調に積み…というとき、アメリカも第二次世界大戦に参戦する形となり、リード先生も、1942年にアメリカ第529陸軍航空隊に配属され副指揮者を務め、100曲以上の作曲・編曲に携わりましたが、この軍楽隊での活動により、吹奏楽に深く興味を持つこととなりました。ちなみに、1944年12月、急遽作曲を頼まれ11日間で完成させた曲が、いわゆるデビュー作と言われている『ロシアのクリスマス音楽』です。
終戦後、ニューヨークに戻ったリード先生は、ジャンニーニに師事するために、1946年、ジュリアード音楽院に入学します。(この話も、後ほど、英史代表から!)1948年には、NBC(ナショナル放送会社)の作曲家兼アレンジャーとなり、のちにABC(アメリカ放送会社)でも、レコーディングや映画音楽に従事するようになります。
Program Notes -‐‑‒ JWEM 2/7
そんな大活躍の中、1952年2月に待ち望んでようやく誕生した男児が、生後3ヶ月で天国に逝ってしまいます。悲嘆に暮れている時期、1952年の夏に完成した作品が『金管楽器と打楽器のための交響曲』(Symphony for Brass Percussion)です。大作としては『ロシアのクリスマス音楽』に次ぐ、2つ目の作品で、3つの楽章から成り立つこの曲は、4度音程の動機を一貫して用いている第1楽章や、第2楽章中間部分の6声フガートなど、古典的なスタイルをとりつつ、第1楽章主部が4分の3拍子でのマーチであったり、第3楽章はラテンアメリカのリズムを取り入れたり、と斬新的な要素も大いに含まれており、金管楽器と打楽器のアンサンブルにおける可能性に挑んだ作品で、31歳のリード先生のエネルギーが全体に漲っています。 尚、1967年に改訂されていますが、(今回はこの1967年改訂版での演奏)初演から15年を経て、リード先生自らの15年間の経験を活かし改訂しており、編成自体も、初版(Hr.4/Tp.4/Tb.4/Bar.2/Tu.1/Per.5)に、Cornet2本とTuba2ndを追加しています。
1953年、テキサス州・ベイラー大学シンフォニーオーケストラの指揮者となりますが、実は、NBCでの仕事のためジュリアード音楽院を退学していたリード先生は、ベイラー大学で指導しながら、1955年に学士号を取得。1956年には『ヴィオラと管弦楽のためのラプソディ』で修士号も授与し、この作品で、1959年、ルリア賞に輝きます。このベイラー大学での2年間で、音楽教育上の問題、特に、吹奏楽・管弦楽・合奏のレパートリーの発展に興味を持ち、これがライフワークとなっていくのです。
1955年、ニューヨークに戻り、以前から携わっていたハンセン出版社の編集責任者のポストに就任し、作曲・編曲に従事していきます。『音楽祭のプレリュード』(A Festival Prelude)は、ハンセン出版社に勤務し始めた翌年(1956年)の作品。オクラホマ州のトライステート音楽祭25周年、フィリップス大学に初演されたこの曲は、オープニングピースとして考案され作曲されました。初演後すぐに人気を博し、管弦楽に編曲もされ、当然ながら出版のオファーもあった中、高校生には技術的に難しいという意見があり、出版まで4年も躊躇った、というのがリード先生の後日談。ちなみに日本では、1970年度全日本吹奏楽コンクール課題曲(中学の部以外)となり、この曲からリード先生の人気が一気に広がっていきます。
当団コンサートマスター奥山芳弘が奏でる『ソロクラリネットとバンドのためのセレナーデ』(SERENADE for Solo B-flat Clarinet and Band)も、ハンセン出版社時代の功績のひとつ。
Program Notes -‐‑‒ JWEM 3/7
G.ルブラン株式会社(楽器メーカー)の委嘱により作られた、管楽器ソロとバンドのための3曲の協奏作品集のうちの1曲で、クラリネットとピアノのために1957年に出版、クラリネットとバンドとのバージョンは1958年に初演されています。(3曲の協奏作品集のあとの2つは、ソロアルトサクソフォンのための『バラード』と、ソロトランペットのための『オード』が、どちらも1956年に作曲されています。)叙情的な牧歌が自由に展開され、ソロクラリネットの魅力を十分に引き出す作品ですが、この3曲の協奏作品集は、吹奏楽の協奏曲として大切なレパートリーであり、後に、リード先生は数々の協奏曲を生み出していくこととなります。
1966年、ハンセン出版社を退職しニューヨークを離れ、フロリダ州・マイアミ大学音楽学部に携わり始めます。先述した『金管楽器と打楽器のための交響曲』の改訂もこのタイミング。リード先生の中で独自サウンドが確立された時期なのではないでしょうか、この時期から多くの代表作品が誕生していきます。
大作だけではなく、さまざまな音楽のアイディアが作品に反映していきますが、そんなアイディア満載な2曲を!1973年に初演された『パンチネロ~ロマンティック・コメディのための序曲』(PUNCHINELLO Overture to a Romantic Comedy)は、シンフォニックなスタイルとオーケストラピットでの劇伴音楽の要素を組み合わせた序曲。いくつかの主要動機が曲中で幾度と変奏して登場しますが、まさに、道化師・人形劇の主人公という意のパンチネロ。(イタリア語でいう「プルチネルラ」と言った方がイメージできるかもしれませんが)ロマンスとコメディの両面性を表し、最後は舞台でのステップを彷彿とさせるユニークな作品です。
同年(1973年)に作曲され、翌1974年に初演された『ダブル・ウインド・クインテット』(DOUBLE WIND QUINTET)は、いわゆる「木管五重奏」と「金管五重奏」を合わせた、10人編成。3楽章形式で、音楽の規模としては交響曲や組曲と同様の作品。Ⅰ. INTRADA - Fanfares Entrances and Marches(イントラーダ~エントランスファンファーレと行進)Ⅱ. PAVANE - Elegy(パヴァーヌ~エレジー)Ⅲ. TOCCATA - Rock(トッカータ~ロック)時には木管五重奏、時には金管五重奏、時には10人編成の吹奏楽、時には2~9人のアンサンブル、とあらゆる組み合わせの可能性を活用し、様々な色合いを演出されていて、各楽章のタイトルが表しているよう、楽章ごとに全く異なる音楽が展開されるのも、特徴的です。
Program Notes -‐‑‒ JWEM 4/7
さて、1980年には、F.フェネル氏の後継者として、マイアミ大学シンフォニックウインドオーケストラ指揮者に就任します。その年(1980年)に作曲・初演された曲が『春の猟犬~吹奏楽のための演奏会序曲』(THE HOUNDS OF SPRING A Concert Overture For Winds)です。(何でここに書いたんだ?!笑)
もとい、リード先生の作曲活動は、さらに精力的になっていきます。例えば、1983年のETW(イースタン・トロンボーン・ワークショップ)で初演された、『4本のトロンボーンのための2つのバガテル』(Two Bagatelles for Four Trombones Cantando - Scherzando)は、1995年には金管楽器と打楽器のアンサンブル編成でのバージョン、1997年には吹奏楽編成でのバージョンが出版されたように、作品も更に幅広く、更に多彩になっていきました。
また、マイアミ大学シンフォニックウインドオーケストラとの演奏旅行をはじめ、リード先生ご自身も、更に世界各地に出向く機会が増えていきます。日本にも、1981年、東京佼成ウインドオーケストラとのレコーディング及び客演指揮のため、初来訪されます。以後、日本に毎年何度も足を運んで下さり、日本の吹奏楽界に御尽力下さいました。(私自身も、1989年に初めてリード先生が指揮する演奏会を拝聴、翌年にはリード先生の指揮で初めて吹く機会に恵まれました!)
そんな日本でも活躍し始めた頃の作品のひとつ、アメリカ第581空軍バンド(AFRES)が委嘱、1985年に完成・初演された『エル・カミーノ・レアル~ラテンファンタジー』(EL CAMINO REAL A Latin Fantasy)は、日本でもすぐに出版され、またたく間に人気曲となりましたが、今なお、世界中で演奏されている作品です。人気の理由のひとつは、世界中を魅了している(とリード先生が仰っている)スペイン音楽を吹奏楽曲に融合させたこと。実際に、スパニッシュ音階の音・コードが用いられて、「ホタ」と「ファンタンゴ」の舞踏様式も取り入れられています。D音を中心としたドミナントが持続される緊張感と、G dur(ト長調)に解決された開放感が生理的にもたまらない魅了でしょう。
日本での活動が増え、日本の民謡や文化を素材として用いられた作品や、国内での委嘱作品も数多く誕生しましたが、サクソフォン・アンサンブル「なめら~か」が委嘱し、2001年に初演された『サクソフォン四重奏のための5つのカメオ』(Five Cameos for Saxophone Quartet)も、日本で生まれた大切な作品です。
Program Notes -‐‑‒ JWEM 5/7
Ⅰ. Preludium(プレリューディアム)Ⅱ. Serenade at Twilight(たそがれのセレナード)Ⅲ. Jota Espagnole(スペインのホタ)Ⅳ. Aria(アリア)Ⅴ. Carolina Cakewalk(カロライナ・ケークウォーク)様々なニュアンスの5つの楽章からなる作品で、リード先生も『2つのバガテル』同様に、吹奏楽に編曲するプランもお持ちでしたが…
2005年9月17日、リード先生は84歳で永眠されました。お亡くなりになる1ヶ月前も、来日して下さっておりました。
リード先生がお亡くなりになり15年余が経ちましたが、 作品が褪せることは決してなく、 吹奏楽文化の重要な作品として担っていき、ますます愛好され続けると確信しています。
改めて、リード先生、Happy Birthday! 2021年1月25日 小林恵子(首席指揮者)
第3回音の輪コンサート終了後の一枚(高校2年生)
Program Notes -‐‑‒ JWEM 6/7
Program Notes on Vittorio Giannini 鈴木英史(当団代表)
リードの作曲の師は、ヴィットリオ・ジャンニーニ(1903-1966)が広く知られています。しかし彼の「先生事情」は上記の小林の解説で触れられていたように、家庭環境や時代環境も影響して、かなり独特なのです。その当たりを書いていきましょう。
15歳のときに父の紹介で音楽理論を学んだ先生は、ジョン・P・サッコーという方。その2年後17歳に、今度はアルバイト先の上司に紹介され作曲の師匠に出会います。ウイーンとパリで学んだハンガリー人作曲家ポール・ヤーティン。サン=サーンスの弟子という彼の指導は、厳格で伝統的な書法にこだわり、また美しく楽譜を書くことにも気を遣われたようです。綺麗な楽譜を書くことは作家にとって大変重要な教えです。(リード氏の自筆譜を見たことがある方はその美しさに驚くはず!)。因みにヤーティンは吹奏楽を「オーケストラの亜流」としてその演奏を聴くことすら禁じていたそうです。それは管楽器に親しんでいたリード少年にクラシック音楽に目を開かせることに繋がり、後年の作品に大きな影響を及ぼしたことでしょう。災い転じて福と為す的な教えでした。 その後、ラジオ局に勤めていた時、同じ局内でジャンニーニが働いていることを知り、早速作曲を習いたいと申し出ます。しかし時は第二次大戦中。リードは従軍の義務があるため、終戦後に師事することを約束してもらい従軍します。終戦し除隊したリードは、早速ジュリアード音楽院で教鞭を執っていたジャンニーニに教えを乞うべく試験を受け無事合格します。ジャンニーニからは主にオーケストレーションを学びましたが、中でも「イタリア的な旋律とドイツ的な管弦楽法がこれからも続いて行くだろう」という師の言葉は、リード作品そのものを言い表しているくらい、ジャンニーニには強い影響を受けたのでした。 この様にリードは、クラシック音楽の伝統を引き継ぐ流れを、人生の節目のタイミングで存分に浴び、自身の経験を含め、書法を確固たるものにしていったのです。 このようにリードに大きな影響を与えたジャンニーニですが、しばしば演奏される吹奏楽作品は、リード作品にあるポピュラリティーさはありません。しかし独特な和声感と構成感が魅力で、日本でももっと演奏の機会が増えるべき作曲家でしょう。彼の作品の多くはフランコ・コロンボ社から出版されていましたが、会社が倒産したため入手が困難な時期が続きました。近年、少しづつアルフレッド出版から再販されつつあります。
『バンドのためのファンタジア』(Fantasia for Band)は1963年にノーザンウエストチェスターとプトナム郡の各音楽指導者協会の委嘱で作曲された7分弱の作品。 アダージョの冒頭、コルネット(またはトランペット)に現れる倚音を含む旋律動機と、それを包む変ロ短調の主和音が、行方を探すようにして進んでゆきます。アレグロに移っても旋律動機とそこから導かれたリズム動機が絡み合い展開してゆきます。リード作品と比べ
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ると各パートを単独で扱うことが多いのも特徴です。クライマックスで主要動機がコルネットに戻ってくると全体は静まり、木管楽器主体に主要動機が歌いつがれていきます。コルネットとトロンボーンに主要動機が2回現れますが木管の歌に取り込まれ、3回目で音楽に明るさが加わり、変ロ長調の主和音が高らかに響くクライマックスを迎えます。再び陰影を感じさせつつ、付加音を含む変ロ長調で高らかに終わります。長くはない時間のなかで、限られた動機と非和声音をたっぷり含んだ音のドラマをお聴きください。
鈴木英史(当団代表)
(左から)鈴木、伊藤透氏、F.ベンクリシュートー氏、A.リード氏(1996年11月)