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Title 屋根194794說(六)
Author(s) [藤]田 元春
Citation 地球 (1926) 6(4) 287-296
Issue Date 1926-10-01
URL httphdlhandlenet2433183169
Right
Type Departmental Bulletin Paper
Textversion publisher
Kyoto University
臨場
根
概
説
(莱
)
立
替
士
藤
田
元
春
l一板
葺
現在北陸の山手の町叉は押岸地方もし-は東関の彼方此方に右をのせた板屋が多-残ってゐる
これは茅茸と同帖に最初は我図の東
都にもあったもので帝明天皇の鳥居は欝にこの取蓋であった
から御所の御名を飛鳥枚菜宮だ申してある爵日本紀紳飽元年十
i月甲号
太政官秦に
有京師帝王虜居蒲団朋朝非是壮麗何以来徳其板屋草食中古遭制難密易軍
容弼民賊帯
ニ
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レ
レ
レ
ニ
ー
レ
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ご
Z
仰有司命
五位己
上
及庶人堪密着構立克倉塗虜赤白雰可之
ニ
l
二
レ
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一
二
l
レ
だめ-p東大寺正倉院文書にも瀕芳崖の勘注文がで~ゐるのでこの棟茸か奈良の都に多かったこだ
を葦し得らる~が奈良のみでな-勿翰田合にもこの根葺が相反葺または革藩
だ共に存したこE
は大日本古文番伊賀閣阿評郡拓桁郷禽宅塑型慧月歩にょJ-て明にすることを得る日-
小治田藤腰解中濃鼻買合宅弁盤田谷串
家
一使地武所在阿押郡拓殖郷
中
略
屋
捌
間
屋
根
概
祝
へ六)
発
七
六
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地
球
第六懇
弗四鯛
克
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遠
雷
出張
高
欄四雲
牌
高
野
張
腰
高
禦
宝
欄
高
禦
荒
畑
高鍋四誓
商
濫屋
下略
天中骨年十
一月十九日声蓬
小治田朝臣藤磨
これは常時奈良の左京三健凶坊に在任した小治四民が自己の所有せa伊袈阿神都拓殖
(今
阿山
郡毎楠)の墾E=を甥七拾箕で戻った券であって其墾田の中に屋八軒があったらしい八軒の-ち
相反でふいたのが
7軒草で葺
いたのが四斬p
l軒は板茸であ-二軒は破れてゐたらしい0両白
い
のはこ
S一中二軒には枚数だあるから家の中に棟数があったので多-の民家は草食で土間に蓮をし
いてゐたものらしいtだにか-この額面でみるビ
1軒の氏家は板屋であったq)には問蕗がない
其後年安剛にこなつても恐ら-同様で寝殿にさ
へ草茸があったものである堰罫もあつたであらう
大日本史料四鏑第二に文治三年の三管院の古文書がのこつてゐてp左の旬が見出された
ヽfFヽ
ヽPヽP
雄花院堂
叫宇棉鹿茸離合坂寄三間二面成鷹寺三間四面板葺
な(J~出てゐる0そこで附桐箱三十七
1通塾給固伊の撃だ耕せらるゝものを見ると其様子がわ
かるこれは建治七年閏年四月十六日上人四修京極滞迦堂に請るどいふ詞書のある部分であるこれ
を見るビ時代は鎌倉南紀千二till-七十年頃の京都のprime町屋が押棒の柾板を用ひた板屋であったこ亡が静
明されるず
つだ下って嬉野凶年で西紀
ハ七六)丙辰六月着
日砥聞及御旗師岡だいふ腐額が八阪脚
rケラ
赦にか~つてゐるのを見るビ常時四催池は多-は
柿
葺
の町屋どなってゐるが狩小石をのせた枚茸
の家が其関にあ
-紳軌の西門を出た北側抵園村だいった連はま
だ多-の草野農家が建
ってゐ
るして見るビ横罫が近位まで京や大阪の町家であった=空は疑ふべ--ない箪賓で地球五容四
妹に拙福涼都市内に現有せる古代の黍藩の中に群適したピタ訂ti1する要を欝めぬ蓋しの歩
茸は燭り葛大阪に限らず徳川初期の江戸-同標であった並世日本世相史の著者は
田 七 十 三 第
陳四騒京の閏年治紐帯伊別拾患者-
屋
根
概
況
武家草創の世慶長巾江戸城を
修めL
帖は城廓柵塀にこそ幾
分の朗忠一で以て建度したれ殿
中は極めて質紫を旨として大広
間よ-大奥まで貿孜ュr丑掻戊に
して殊に滋向は常椴呼椴叔な-
Lがその後光永の改造にて大柳
懸とある中略
町文革は柿にて多-は紹事tJて
板の厚を耶ねふけりJある
又同じ-天保頃のltである於同行
並
の接収Umi容五(nT家説棟桁茄)
l
)i柑
指はむかしは火なる板竺
よ
こさまにLbらべでかづらの様な
))八九
六三
地
球
第六各
界四親
元
a
るものにして持せ叉木なでしておさへた-また遼ならべたるもみ甲
うす板を釘して打っけたるはみねで
どぢぶ
きyJて長二尺ばか-厚五六分ばか-幅三寸斗の板
もてふ-こ
とはいつのよよか出水し知らす
AJ記してゐるこの文で舌代の板屋の有様も明にな-
l遍盈絢の給にある板毎の上に木や石ののせ
てある理由も諒解されるこの趣拾頃
の板屋が延聾には柿ぶきにかはるのであるが柿葺になるど
それは-す横を釘束
叉は竹)にて-ちつけたのである(後節塵照)o薯に江月も亦最初は破屋草食の
町であったので慶長見聞集には
鬼Lは昔江戸は簡単ぶきにで焼亡しけじ慶長六年の霜月二日の大火の後に本町二丁目の瀧
山野功兵衛なるものが術掲筋の片側の屋根に瓦を上げてそれで有名になって等充弼次兵衛ビて町
中に噴博されたこだが記してあ-零発将前には
家屋は城代の居館にもこけら茅のものな-日発そぎ甲州をぎを似てJ-ぶきにし墓所は畳
-茅茸な-家鹿の初めて入城せる亡きは幅の贋き放牧を二段に重ねて玄関の版数に代
へた-
なtFJゝあっていかにも初代質素の晋がしのばれる厳有院殿御質記には高給三年命だて
先に命せしめし如-茅藁の家はその便宜に従ひ城鱗の土を取って速にぬるべし遅綬するこどなか
れ芭ある位
だから二R塞保守的な家宅が早速に改まらないこだがよ-わかる皆時の江Laは草
芽のある外にこらに記されただ-ぶき叉は露茸の屋根がある同時に恐ら-破屋もあったであら-
細り畠
稿に
武士
のー轟は檎鹿茸一ぞつ-らすJP横尾也
とあ
るtgf倉年中行事にも蓮侍は線で椴屋也とあるこの板屋から穿化したものが江戸草創の世に
は鹿茸亡いふ屋根にな-それが又三菱して中古以卒は瓦葺となったのである守月浸稀に
満都の克葺どなたるは中古以裸のこミ
骨茸集を見るに京都の店は板大略長三尺肝塙五寸の
そぎ板を似て葺たるが屋上に石を音たるは鼻息の傭也
l
義 新 書 京 島 債 の 切 欠 JE
嵐
義
嶋
枕
ビあるこの文tJ後捻日記
の文亡を併せ考
へる時は昔
は青酸長い警
以て屋根に
したこてを知
やがては
板を類か-し縞を狭-Lt
舟を薄-したので鹿茸屋楓
といふものになったことが
わかる
守月のこの時代に求は長三
尺もあるからそぎ粧ミ
ズ
へども薄-もなかった責
にこれは鶏虫の横島から
鹿茸に移Aかは-の屋根で
六五
地
頭
節六各
界四戟
二九二
六六
ある覚文頃
(西紀
ハ六五)に櫓この種の板屋が素郡にもあったので藻雀の闇にはrふし見』のこ
の屋根かしろし大仰八まん町政にも同機の屋根がしるしてある種聾五年(南紀
ハ七五)菱川師
宣Sかいた江戸堀の水代島八幡宮の間にも学者の外に同様の屋根をみうける
西鶴織留伏見里貿商人の備にも
取罫屋根め輪のひ-きを作零して克ふきに白かべ京格子をつけゝればだある
的芽即屋根板を粛ね命せてふき横木をわたし釘のかはらに石にて印
へるために或は瓶を設け
るP輪だは竹で石のころばね用意であるが輪にしないで縦横に木叉は竹を遭-こどもあるこの
例は現在でも北越地方の民家町家に多-見らる~所であるO現今樽連で音
への板葺の名残だ見るべ
きは静岡潰於玄敢軸酢の屋根でそれはこの幅SLひろい樽板が並べふいてある但し石はのってゐな
い栃水腫背嚢郡電子町高館山西明寺の建物の中で赫姪の三重の塔は方二面
の大さで屋枚は
婁板葺であるこの両者の如きは着
い板屋の極上韓のものであら-或啓には日光そぎ甲州そぎな
fJJだいひ苧殻ふきだて木を苧殻のごJ-め
-さき結び兼ねて貰-也kJあれIもこれは疑ほしい
アサギ
苧鹿茸なるものは越前で雁
木
yJいって単著の屋根の棟に用ひてゐる草茸の
J椛であるから板屋で
ない板屋の方は昔は長さ
一間幅
1尺もあ-厚
二寸飴もある種板を用ひたらし
いのほtかの西行物
語糖鯨や
1遠敷給の東屋を見て了解し得らるゝがそれも時勢の下るにつれてこの樽枚の材は
長さも漸次短が-幅も厚さも-す-なって凍死故に守月慢稀には板の長三尺許隔五寸yJ記したけ
れども後捻=記の著者は長二尺ばか-桁三すぼか-厚五六卦だ記してゐる蓋し古の種板を短か
ーLI同時に柾目に従ってそいで絹-uarrるや-になった
ので近世には漸次
二
二分群の厚さにな
ら長も
】尺証寸幅五寸位からやがて戊
一尺二寸
1ヾ栃ま-捕-三寸にな
ってきたか~る潤い収
を
へぎ板ごいひこれを脚知かにふ-の牢
こけらぶき又はた
~きゃね三
芳
で竹の釘でぅちつけ
kf 九 十 三 第
紐卯亡茸 柿 軒 店 の 唄 文 克
るのであった附脚三十九
は京雀にのつてゐる京都教
十八開伏見の石をのせた板
屋放Jは趣がちがってゐて
家と家との冊に卯組があ-
(切要の発参照)枚は枚の雁
振-がのせてあって屋根は
こけらふきであるらしい
近世風俗志に
『たゝき屋根』とは長尺ば
か-なる杉のそぎ板の粕
なる窒
亮
共に屋根板といふ次茄にかさね木釘を以て打を
いふ些簡単によりでた~きゃね
だいふ予の少年の質は
へぎ坂詰ビいへえ
江戸にてはこけらふ
n)いへ-
旦
横
板
耽
ニ会
六
七
地
球
第六食
第四戟
党
内
六八
だあるのがこれである蓋しかゝる
1尺内外のへぎ枚を用ふ空
言
は現今瓦葺の下地に晋だ同
じ
クレブ車
ドmブや
く用ゐるので着い人はこの罫方を樺
茸
だいふが現在望見都では上に土を屠-から
土居
茸
ども叉
は
モクセヤネどもいふてゐる金-克下であるから飴程粗末ではあるがもし充をのせないで茶
室の庇などへぎ板のみで茅-際にはこれを柿葺だいって板も上等にする葺脚も絹-つめるので
ある併し克下のモクセヤネである壊食には上等で長さ九寸幅は三寸内外厚さは
】寸の厚奴の
枚を十三枚におろしたものを用ゐる維新以前は長さ
1尺二寸もあつたが今日は九寸が八寸にな
-それを
寸脚にかさねる安普請になるだ日本の杉板でな-ていやに御薗凝りやうに臭
い米杉
を用ゐしかも四五寸のふき脚にして骨釘を用ひないで織釘にする織だ三
二年目に腐
ってし
まふ竹ならば二十年間大女央
ださ-なが今日の借屋建はそれよ-もま
だ不親切で柾目の
へぎ板
の代-に丸太杉の例-板を用ひるこれをヅキ板だいふpどにか-督座
だけ持てばよいだいふ意妹
でもたせ屋根だいふらしい涜拳の世であるご恩ふTこれは京都の京や某氏の荘帯である
ヘギ
完をのせないで東夷な
片
木
枕の屋根は欝にこの古の摺茸よ-進歩したものであってそれは江戸
時代の中頃から都祁共に溌和し今日に及んでゐるっ
予の生れた丹波の山奥では紳敵J酒屋の屈服
がこの
へぎ板
ぶきである
『京都府愛宕郡大原村字魚山の三千院はこの入母屋鼠暦こけらぶきであ
って碑成算の代-をL+してゐるし二尚如曜長岡郡西豊永村鼻燕寺の璽師堂島根煤能義郡字数井村清
水寺本質鳥取螺西伯郡大山村大山寺阿弼陀堂涼都南紺寺の金地院常都府丹後久美観音神谷の
木戚桝苛本数て
南島疎石城郡内郷村山H水の阿締陀蛍なY時雄にしての柿茸は甚だ多い0枚に3枚屋な
るものは日本民家の育い形式であって英一分布は贋いからー北越地方触W有のm粥常横式であるかけざ考
へてほならぬたゞ其現存す
るこJによって基地の文化成は富の程度がまだ克茸になる鰹進
辞して
ゐないだいふことを知る
べ
きである即ちその古
い屋根が其地に永府してゐる頗因の中には或はlt
文的の事情もあ-或は歴史的の理由もあるであら-がまJして経済地馳上の理由によるこ空は疑
ひを要しないこEである偶令ば
末北秋田煉等に横座の多いのは苑にするビ普通の瓦は冬期凍て破れる或は雪が多
いから雪づ
れがする故に充が用ひられねなど
ゝの説明をき-那それよ-も土地に多い材木が贋-自ら材料
が避雷な竺
fiqふこJが最も有力な原因であら-0
l杉皮葺と竹屋根
何れにしてもE本の屋根のあらゆる押頬が近畿に殆んI網雁されてゐるのは注意す
べきことで
丹波の山奥で杉林の多い所ては杉皮茸だいふものが瓦音よりも多-用ひられる茸脚は二三寸
の短
かさにして非常に分厚にしたのがあるしかし其簡単なものは過去の板葺の枚を皮にか
へたに過
ぎ
ないのもあるこれなでも糧槽地理上の
7現象だ見るべきであら-枚屋に相似せるものだしてこ
ゝに附託する
つぎに板葺に類似したもので杉皮ぶきよ-も面白いのは竹の尾根である近畿では竹の名産地たる
葛野LJ訓遮り民家で其の小屋便所
UJ塀に竹棒銀があったがそれは過去のこ官で今日は殆んrw見
常ら伯それでも不思熊に京都市田中町それは最妃造田倉であって農科大串の裏手の田中紳政
見卜楓
柚
祝
二九品
六九
義
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嘉毒
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cent傍らに今も昔を位ぶ茅
葺の民寮が-兼嘗4-なしてゐ各席が1蔓
その]民婁
暮春離日貞縫
庄屋格で要人大和棟の茅屋を有Ltその
円がこの竹屋枚を有し
てね尋先日もこの宅
急
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竹屋枚の円は何時こしら
へたか亡珊-I圭ltが云ふに今年七
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PI 農 牧 町 中 田 市 徽 貫
はつであるしかもこの曲った杜は草
本が月ひであるこ
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しの鶏Aだビ集内して-れられたいかにも青い反義
であるがこの田中封最古亡も息はれる集
の円がkt簾
田十の如-竹を牝牡交互に重ねて長さ五凡ばか+鞠雷
凍れ轟-にしてある竹の含めは釘を用ゐてゐもが膏の
竹島枚は釘を用ひないで縄でしぼったものである
民家を各部竹でふ-のは今日では生せし
て九州竹林の
多き蝿にのみ舞ってゐる現象で瀬本棟阿蘇称宮地町粁
鑑では竹の些
一面
寸もあるのJI申分に掛って節をぬき
長
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一嶋に切込をり-つて充棟の未を鶏
すや-にしかける奥行四脚の家ならば前面二段攻撃
1度のしころぶきにし
て塵楓になる竹
は牝牡交互に仰伏せしめd農牧の東嶺には沖
へ繰Aつけて島根集からこれむし
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でも-O蜜寧Jの徽-少ぐなってAC=OE圭
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其後年安剛にこなつても恐ら-同様で寝殿にさ
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の町屋どなってゐるが狩小石をのせた枚茸
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妹に拙福涼都市内に現有せる古代の黍藩の中に群適したピタ訂ti1する要を欝めぬ蓋しの歩
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田 七 十 三 第
陳四騒京の閏年治紐帯伊別拾患者-
屋
根
概
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帖は城廓柵塀にこそ幾
分の朗忠一で以て建度したれ殿
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それは-す横を釘束
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町であったので慶長見聞集には
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山野功兵衛なるものが術掲筋の片側の屋根に瓦を上げてそれで有名になって等充弼次兵衛ビて町
中に噴博されたこだが記してあ-零発将前には
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のー轟は檎鹿茸一ぞつ-らすJP横尾也
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骨茸集を見るに京都の店は板大略長三尺肝塙五寸の
そぎ板を似て葺たるが屋上に石を音たるは鼻息の傭也
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ビあるこの文tJ後捻日記
の文亡を併せ考
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以て屋根に
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やがては
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といふものになったことが
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守月のこの時代に求は長三
尺もあるからそぎ粧ミ
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にこれは鶏虫の横島から
鹿茸に移Aかは-の屋根で
六五
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(西紀
ハ六五)に櫓この種の板屋が素郡にもあったので藻雀の闇にはrふし見』のこ
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的芽即屋根板を粛ね命せてふき横木をわたし釘のかはらに石にて印
へるために或は瓶を設け
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例は現在でも北越地方の民家町家に多-見らる~所であるO現今樽連で音
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きは静岡潰於玄敢軸酢の屋根でそれはこの幅SLひろい樽板が並べふいてある但し石はのってゐな
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1尺もあ-厚
二寸飴もある種板を用ひたらし
いのほtかの西行物
語糖鯨や
1遠敷給の東屋を見て了解し得らるゝがそれも時勢の下るにつれてこの樽枚の材は
長さも漸次短が-幅も厚さも-す-なって凍死故に守月慢稀には板の長三尺許隔五寸yJ記したけ
れども後捻=記の著者は長二尺ばか-桁三すぼか-厚五六卦だ記してゐる蓋し古の種板を短か
ーLI同時に柾目に従ってそいで絹-uarrるや-になった
ので近世には漸次
二
二分群の厚さにな
ら長も
】尺証寸幅五寸位からやがて戊
一尺二寸
1ヾ栃ま-捕-三寸にな
ってきたか~る潤い収
を
へぎ板ごいひこれを脚知かにふ-の牢
こけらぶき又はた
~きゃね三
芳
で竹の釘でぅちつけ
kf 九 十 三 第
紐卯亡茸 柿 軒 店 の 唄 文 克
るのであった附脚三十九
は京雀にのつてゐる京都教
十八開伏見の石をのせた板
屋放Jは趣がちがってゐて
家と家との冊に卯組があ-
(切要の発参照)枚は枚の雁
振-がのせてあって屋根は
こけらふきであるらしい
近世風俗志に
『たゝき屋根』とは長尺ば
か-なる杉のそぎ板の粕
なる窒
亮
共に屋根板といふ次茄にかさね木釘を以て打を
いふ些簡単によりでた~きゃね
だいふ予の少年の質は
へぎ坂詰ビいへえ
江戸にてはこけらふ
n)いへ-
旦
横
板
耽
ニ会
六
七
地
球
第六食
第四戟
党
内
六八
だあるのがこれである蓋しかゝる
1尺内外のへぎ枚を用ふ空
言
は現今瓦葺の下地に晋だ同
じ
クレブ車
ドmブや
く用ゐるので着い人はこの罫方を樺
茸
だいふが現在望見都では上に土を屠-から
土居
茸
ども叉
は
モクセヤネどもいふてゐる金-克下であるから飴程粗末ではあるがもし充をのせないで茶
室の庇などへぎ板のみで茅-際にはこれを柿葺だいって板も上等にする葺脚も絹-つめるので
ある併し克下のモクセヤネである壊食には上等で長さ九寸幅は三寸内外厚さは
】寸の厚奴の
枚を十三枚におろしたものを用ゐる維新以前は長さ
1尺二寸もあつたが今日は九寸が八寸にな
-それを
寸脚にかさねる安普請になるだ日本の杉板でな-ていやに御薗凝りやうに臭
い米杉
を用ゐしかも四五寸のふき脚にして骨釘を用ひないで織釘にする織だ三
二年目に腐
ってし
まふ竹ならば二十年間大女央
ださ-なが今日の借屋建はそれよ-もま
だ不親切で柾目の
へぎ板
の代-に丸太杉の例-板を用ひるこれをヅキ板だいふpどにか-督座
だけ持てばよいだいふ意妹
でもたせ屋根だいふらしい涜拳の世であるご恩ふTこれは京都の京や某氏の荘帯である
ヘギ
完をのせないで東夷な
片
木
枕の屋根は欝にこの古の摺茸よ-進歩したものであってそれは江戸
時代の中頃から都祁共に溌和し今日に及んでゐるっ
予の生れた丹波の山奥では紳敵J酒屋の屈服
がこの
へぎ板
ぶきである
『京都府愛宕郡大原村字魚山の三千院はこの入母屋鼠暦こけらぶきであ
って碑成算の代-をL+してゐるし二尚如曜長岡郡西豊永村鼻燕寺の璽師堂島根煤能義郡字数井村清
水寺本質鳥取螺西伯郡大山村大山寺阿弼陀堂涼都南紺寺の金地院常都府丹後久美観音神谷の
木戚桝苛本数て
南島疎石城郡内郷村山H水の阿締陀蛍なY時雄にしての柿茸は甚だ多い0枚に3枚屋な
るものは日本民家の育い形式であって英一分布は贋いからー北越地方触W有のm粥常横式であるかけざ考
へてほならぬたゞ其現存す
るこJによって基地の文化成は富の程度がまだ克茸になる鰹進
辞して
ゐないだいふことを知る
べ
きである即ちその古
い屋根が其地に永府してゐる頗因の中には或はlt
文的の事情もあ-或は歴史的の理由もあるであら-がまJして経済地馳上の理由によるこ空は疑
ひを要しないこEである偶令ば
末北秋田煉等に横座の多いのは苑にするビ普通の瓦は冬期凍て破れる或は雪が多
いから雪づ
れがする故に充が用ひられねなど
ゝの説明をき-那それよ-も土地に多い材木が贋-自ら材料
が避雷な竺
fiqふこJが最も有力な原因であら-0
l杉皮葺と竹屋根
何れにしてもE本の屋根のあらゆる押頬が近畿に殆んI網雁されてゐるのは注意す
べきことで
丹波の山奥で杉林の多い所ては杉皮茸だいふものが瓦音よりも多-用ひられる茸脚は二三寸
の短
かさにして非常に分厚にしたのがあるしかし其簡単なものは過去の板葺の枚を皮にか
へたに過
ぎ
ないのもあるこれなでも糧槽地理上の
7現象だ見るべきであら-枚屋に相似せるものだしてこ
ゝに附託する
つぎに板葺に類似したもので杉皮ぶきよ-も面白いのは竹の尾根である近畿では竹の名産地たる
葛野LJ訓遮り民家で其の小屋便所
UJ塀に竹棒銀があったがそれは過去のこ官で今日は殆んrw見
常ら伯それでも不思熊に京都市田中町それは最妃造田倉であって農科大串の裏手の田中紳政
見卜楓
柚
祝
二九品
六九
義
義
嘉毒
嘉呈
Jk
あ
cent傍らに今も昔を位ぶ茅
葺の民寮が-兼嘗4-なしてゐ各席が1蔓
その]民婁
暮春離日貞縫
庄屋格で要人大和棟の茅屋を有Ltその
円がこの竹屋枚を有し
てね尋先日もこの宅
急
てこ
e
竹屋枚の円は何時こしら
へたか亡珊-I圭ltが云ふに今年七
十Jiした轟文盲
へ英
鶴蘭むしも
ぬ
僚空
白からのものである私の豪も古い寮で多-の桂が見らる~gbナtyノ
言
丁
でそれに枚
が
見 積 廿
PI 農 牧 町 中 田 市 徽 貫
はつであるしかもこの曲った杜は草
本が月ひであるこ
写
しの鶏Aだビ集内して-れられたいかにも青い反義
であるがこの田中封最古亡も息はれる集
の円がkt簾
田十の如-竹を牝牡交互に重ねて長さ五凡ばか+鞠雷
凍れ轟-にしてある竹の含めは釘を用ゐてゐもが膏の
竹島枚は釘を用ひないで縄でしぼったものである
民家を各部竹でふ-のは今日では生せし
て九州竹林の
多き蝿にのみ舞ってゐる現象で瀬本棟阿蘇称宮地町粁
鑑では竹の些
一面
寸もあるのJI申分に掛って節をぬき
長
さ1間稗にJrbる英
一嶋に切込をり-つて充棟の未を鶏
すや-にしかける奥行四脚の家ならば前面二段攻撃
1度のしころぶきにし
て塵楓になる竹
は牝牡交互に仰伏せしめd農牧の東嶺には沖
へ繰Aつけて島根集からこれむし
ばものである義
-鼻ればTよJlt事雷のや~な雷斬れ島根にな一O
でも-O蜜寧Jの徽-少ぐなってAC=OE圭
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地
球
第六懇
弗四鯛
克
八
六
二
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雷
出張
高
欄四雲
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高
野
張
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高
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宝
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高
禦
荒
畑
高鍋四誓
商
濫屋
下略
天中骨年十
一月十九日声蓬
小治田朝臣藤磨
これは常時奈良の左京三健凶坊に在任した小治四民が自己の所有せa伊袈阿神都拓殖
(今
阿山
郡毎楠)の墾E=を甥七拾箕で戻った券であって其墾田の中に屋八軒があったらしい八軒の-ち
相反でふいたのが
7軒草で葺
いたのが四斬p
l軒は板茸であ-二軒は破れてゐたらしい0両白
い
のはこ
S一中二軒には枚数だあるから家の中に棟数があったので多-の民家は草食で土間に蓮をし
いてゐたものらしいtだにか-この額面でみるビ
1軒の氏家は板屋であったq)には問蕗がない
其後年安剛にこなつても恐ら-同様で寝殿にさ
へ草茸があったものである堰罫もあつたであらう
大日本史料四鏑第二に文治三年の三管院の古文書がのこつてゐてp左の旬が見出された
ヽfFヽ
ヽPヽP
雄花院堂
叫宇棉鹿茸離合坂寄三間二面成鷹寺三間四面板葺
な(J~出てゐる0そこで附桐箱三十七
1通塾給固伊の撃だ耕せらるゝものを見ると其様子がわ
かるこれは建治七年閏年四月十六日上人四修京極滞迦堂に請るどいふ詞書のある部分であるこれ
を見るビ時代は鎌倉南紀千二till-七十年頃の京都のprime町屋が押棒の柾板を用ひた板屋であったこ亡が静
明されるず
つだ下って嬉野凶年で西紀
ハ七六)丙辰六月着
日砥聞及御旗師岡だいふ腐額が八阪脚
rケラ
赦にか~つてゐるのを見るビ常時四催池は多-は
柿
葺
の町屋どなってゐるが狩小石をのせた枚茸
の家が其関にあ
-紳軌の西門を出た北側抵園村だいった連はま
だ多-の草野農家が建
ってゐ
るして見るビ横罫が近位まで京や大阪の町家であった=空は疑ふべ--ない箪賓で地球五容四
妹に拙福涼都市内に現有せる古代の黍藩の中に群適したピタ訂ti1する要を欝めぬ蓋しの歩
茸は燭り葛大阪に限らず徳川初期の江戸-同標であった並世日本世相史の著者は
田 七 十 三 第
陳四騒京の閏年治紐帯伊別拾患者-
屋
根
概
況
武家草創の世慶長巾江戸城を
修めL
帖は城廓柵塀にこそ幾
分の朗忠一で以て建度したれ殿
中は極めて質紫を旨として大広
間よ-大奥まで貿孜ュr丑掻戊に
して殊に滋向は常椴呼椴叔な-
Lがその後光永の改造にて大柳
懸とある中略
町文革は柿にて多-は紹事tJて
板の厚を耶ねふけりJある
又同じ-天保頃のltである於同行
並
の接収Umi容五(nT家説棟桁茄)
l
)i柑
指はむかしは火なる板竺
よ
こさまにLbらべでかづらの様な
))八九
六三
地
球
第六各
界四親
元
a
るものにして持せ叉木なでしておさへた-また遼ならべたるもみ甲
うす板を釘して打っけたるはみねで
どぢぶ
きyJて長二尺ばか-厚五六分ばか-幅三寸斗の板
もてふ-こ
とはいつのよよか出水し知らす
AJ記してゐるこの文で舌代の板屋の有様も明にな-
l遍盈絢の給にある板毎の上に木や石ののせ
てある理由も諒解されるこの趣拾頃
の板屋が延聾には柿ぶきにかはるのであるが柿葺になるど
それは-す横を釘束
叉は竹)にて-ちつけたのである(後節塵照)o薯に江月も亦最初は破屋草食の
町であったので慶長見聞集には
鬼Lは昔江戸は簡単ぶきにで焼亡しけじ慶長六年の霜月二日の大火の後に本町二丁目の瀧
山野功兵衛なるものが術掲筋の片側の屋根に瓦を上げてそれで有名になって等充弼次兵衛ビて町
中に噴博されたこだが記してあ-零発将前には
家屋は城代の居館にもこけら茅のものな-日発そぎ甲州をぎを似てJ-ぶきにし墓所は畳
-茅茸な-家鹿の初めて入城せる亡きは幅の贋き放牧を二段に重ねて玄関の版数に代
へた-
なtFJゝあっていかにも初代質素の晋がしのばれる厳有院殿御質記には高給三年命だて
先に命せしめし如-茅藁の家はその便宜に従ひ城鱗の土を取って速にぬるべし遅綬するこどなか
れ芭ある位
だから二R塞保守的な家宅が早速に改まらないこだがよ-わかる皆時の江Laは草
芽のある外にこらに記されただ-ぶき叉は露茸の屋根がある同時に恐ら-破屋もあったであら-
細り畠
稿に
武士
のー轟は檎鹿茸一ぞつ-らすJP横尾也
とあ
るtgf倉年中行事にも蓮侍は線で椴屋也とあるこの板屋から穿化したものが江戸草創の世に
は鹿茸亡いふ屋根にな-それが又三菱して中古以卒は瓦葺となったのである守月浸稀に
満都の克葺どなたるは中古以裸のこミ
骨茸集を見るに京都の店は板大略長三尺肝塙五寸の
そぎ板を似て葺たるが屋上に石を音たるは鼻息の傭也
l
義 新 書 京 島 債 の 切 欠 JE
嵐
義
嶋
枕
ビあるこの文tJ後捻日記
の文亡を併せ考
へる時は昔
は青酸長い警
以て屋根に
したこてを知
やがては
板を類か-し縞を狭-Lt
舟を薄-したので鹿茸屋楓
といふものになったことが
わかる
守月のこの時代に求は長三
尺もあるからそぎ粧ミ
ズ
へども薄-もなかった責
にこれは鶏虫の横島から
鹿茸に移Aかは-の屋根で
六五
地
頭
節六各
界四戟
二九二
六六
ある覚文頃
(西紀
ハ六五)に櫓この種の板屋が素郡にもあったので藻雀の闇にはrふし見』のこ
の屋根かしろし大仰八まん町政にも同機の屋根がしるしてある種聾五年(南紀
ハ七五)菱川師
宣Sかいた江戸堀の水代島八幡宮の間にも学者の外に同様の屋根をみうける
西鶴織留伏見里貿商人の備にも
取罫屋根め輪のひ-きを作零して克ふきに白かべ京格子をつけゝればだある
的芽即屋根板を粛ね命せてふき横木をわたし釘のかはらに石にて印
へるために或は瓶を設け
るP輪だは竹で石のころばね用意であるが輪にしないで縦横に木叉は竹を遭-こどもあるこの
例は現在でも北越地方の民家町家に多-見らる~所であるO現今樽連で音
への板葺の名残だ見るべ
きは静岡潰於玄敢軸酢の屋根でそれはこの幅SLひろい樽板が並べふいてある但し石はのってゐな
い栃水腫背嚢郡電子町高館山西明寺の建物の中で赫姪の三重の塔は方二面
の大さで屋枚は
婁板葺であるこの両者の如きは着
い板屋の極上韓のものであら-或啓には日光そぎ甲州そぎな
fJJだいひ苧殻ふきだて木を苧殻のごJ-め
-さき結び兼ねて貰-也kJあれIもこれは疑ほしい
アサギ
苧鹿茸なるものは越前で雁
木
yJいって単著の屋根の棟に用ひてゐる草茸の
J椛であるから板屋で
ない板屋の方は昔は長さ
一間幅
1尺もあ-厚
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二
二分群の厚さにな
ら長も
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るのであった附脚三十九
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十八開伏見の石をのせた板
屋放Jは趣がちがってゐて
家と家との冊に卯組があ-
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だあるのがこれである蓋しかゝる
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】寸の厚奴の
枚を十三枚におろしたものを用ゐる維新以前は長さ
1尺二寸もあつたが今日は九寸が八寸にな
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を用ゐしかも四五寸のふき脚にして骨釘を用ひないで織釘にする織だ三
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まふ竹ならば二十年間大女央
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へぎ板
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木
枕の屋根は欝にこの古の摺茸よ-進歩したものであってそれは江戸
時代の中頃から都祁共に溌和し今日に及んでゐるっ
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へぎ板
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水寺本質鳥取螺西伯郡大山村大山寺阿弼陀堂涼都南紺寺の金地院常都府丹後久美観音神谷の
木戚桝苛本数て
南島疎石城郡内郷村山H水の阿締陀蛍なY時雄にしての柿茸は甚だ多い0枚に3枚屋な
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きである即ちその古
い屋根が其地に永府してゐる頗因の中には或はlt
文的の事情もあ-或は歴史的の理由もあるであら-がまJして経済地馳上の理由によるこ空は疑
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末北秋田煉等に横座の多いのは苑にするビ普通の瓦は冬期凍て破れる或は雪が多
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れがする故に充が用ひられねなど
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が避雷な竺
fiqふこJが最も有力な原因であら-0
l杉皮葺と竹屋根
何れにしてもE本の屋根のあらゆる押頬が近畿に殆んI網雁されてゐるのは注意す
べきことで
丹波の山奥で杉林の多い所ては杉皮茸だいふものが瓦音よりも多-用ひられる茸脚は二三寸
の短
かさにして非常に分厚にしたのがあるしかし其簡単なものは過去の板葺の枚を皮にか
へたに過
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7現象だ見るべきであら-枚屋に相似せるものだしてこ
ゝに附託する
つぎに板葺に類似したもので杉皮ぶきよ-も面白いのは竹の尾根である近畿では竹の名産地たる
葛野LJ訓遮り民家で其の小屋便所
UJ塀に竹棒銀があったがそれは過去のこ官で今日は殆んrw見
常ら伯それでも不思熊に京都市田中町それは最妃造田倉であって農科大串の裏手の田中紳政
見卜楓
柚
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二九品
六九
義
義
嘉毒
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葺の民寮が-兼嘗4-なしてゐ各席が1蔓
その]民婁
暮春離日貞縫
庄屋格で要人大和棟の茅屋を有Ltその
円がこの竹屋枚を有し
てね尋先日もこの宅
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竹屋枚の円は何時こしら
へたか亡珊-I圭ltが云ふに今年七
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へ英
鶴蘭むしも
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僚空
白からのものである私の豪も古い寮で多-の桂が見らる~gbナtyノ
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はつであるしかもこの曲った杜は草
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しの鶏Aだビ集内して-れられたいかにも青い反義
であるがこの田中封最古亡も息はれる集
の円がkt簾
田十の如-竹を牝牡交互に重ねて長さ五凡ばか+鞠雷
凍れ轟-にしてある竹の含めは釘を用ゐてゐもが膏の
竹島枚は釘を用ひないで縄でしぼったものである
民家を各部竹でふ-のは今日では生せし
て九州竹林の
多き蝿にのみ舞ってゐる現象で瀬本棟阿蘇称宮地町粁
鑑では竹の些
一面
寸もあるのJI申分に掛って節をぬき
長
さ1間稗にJrbる英
一嶋に切込をり-つて充棟の未を鶏
すや-にしかける奥行四脚の家ならば前面二段攻撃
1度のしころぶきにし
て塵楓になる竹
は牝牡交互に仰伏せしめd農牧の東嶺には沖
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茸は燭り葛大阪に限らず徳川初期の江戸-同標であった並世日本世相史の著者は
田 七 十 三 第
陳四騒京の閏年治紐帯伊別拾患者-
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武家草創の世慶長巾江戸城を
修めL
帖は城廓柵塀にこそ幾
分の朗忠一で以て建度したれ殿
中は極めて質紫を旨として大広
間よ-大奥まで貿孜ュr丑掻戊に
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Lがその後光永の改造にて大柳
懸とある中略
町文革は柿にて多-は紹事tJて
板の厚を耶ねふけりJある
又同じ-天保頃のltである於同行
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うす板を釘して打っけたるはみねで
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きyJて長二尺ばか-厚五六分ばか-幅三寸斗の板
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l遍盈絢の給にある板毎の上に木や石ののせ
てある理由も諒解されるこの趣拾頃
の板屋が延聾には柿ぶきにかはるのであるが柿葺になるど
それは-す横を釘束
叉は竹)にて-ちつけたのである(後節塵照)o薯に江月も亦最初は破屋草食の
町であったので慶長見聞集には
鬼Lは昔江戸は簡単ぶきにで焼亡しけじ慶長六年の霜月二日の大火の後に本町二丁目の瀧
山野功兵衛なるものが術掲筋の片側の屋根に瓦を上げてそれで有名になって等充弼次兵衛ビて町
中に噴博されたこだが記してあ-零発将前には
家屋は城代の居館にもこけら茅のものな-日発そぎ甲州をぎを似てJ-ぶきにし墓所は畳
-茅茸な-家鹿の初めて入城せる亡きは幅の贋き放牧を二段に重ねて玄関の版数に代
へた-
なtFJゝあっていかにも初代質素の晋がしのばれる厳有院殿御質記には高給三年命だて
先に命せしめし如-茅藁の家はその便宜に従ひ城鱗の土を取って速にぬるべし遅綬するこどなか
れ芭ある位
だから二R塞保守的な家宅が早速に改まらないこだがよ-わかる皆時の江Laは草
芽のある外にこらに記されただ-ぶき叉は露茸の屋根がある同時に恐ら-破屋もあったであら-
細り畠
稿に
武士
のー轟は檎鹿茸一ぞつ-らすJP横尾也
とあ
るtgf倉年中行事にも蓮侍は線で椴屋也とあるこの板屋から穿化したものが江戸草創の世に
は鹿茸亡いふ屋根にな-それが又三菱して中古以卒は瓦葺となったのである守月浸稀に
満都の克葺どなたるは中古以裸のこミ
骨茸集を見るに京都の店は板大略長三尺肝塙五寸の
そぎ板を似て葺たるが屋上に石を音たるは鼻息の傭也
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義 新 書 京 島 債 の 切 欠 JE
嵐
義
嶋
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ビあるこの文tJ後捻日記
の文亡を併せ考
へる時は昔
は青酸長い警
以て屋根に
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やがては
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舟を薄-したので鹿茸屋楓
といふものになったことが
わかる
守月のこの時代に求は長三
尺もあるからそぎ粧ミ
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へども薄-もなかった責
にこれは鶏虫の横島から
鹿茸に移Aかは-の屋根で
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頭
節六各
界四戟
二九二
六六
ある覚文頃
(西紀
ハ六五)に櫓この種の板屋が素郡にもあったので藻雀の闇にはrふし見』のこ
の屋根かしろし大仰八まん町政にも同機の屋根がしるしてある種聾五年(南紀
ハ七五)菱川師
宣Sかいた江戸堀の水代島八幡宮の間にも学者の外に同様の屋根をみうける
西鶴織留伏見里貿商人の備にも
取罫屋根め輪のひ-きを作零して克ふきに白かべ京格子をつけゝればだある
的芽即屋根板を粛ね命せてふき横木をわたし釘のかはらに石にて印
へるために或は瓶を設け
るP輪だは竹で石のころばね用意であるが輪にしないで縦横に木叉は竹を遭-こどもあるこの
例は現在でも北越地方の民家町家に多-見らる~所であるO現今樽連で音
への板葺の名残だ見るべ
きは静岡潰於玄敢軸酢の屋根でそれはこの幅SLひろい樽板が並べふいてある但し石はのってゐな
い栃水腫背嚢郡電子町高館山西明寺の建物の中で赫姪の三重の塔は方二面
の大さで屋枚は
婁板葺であるこの両者の如きは着
い板屋の極上韓のものであら-或啓には日光そぎ甲州そぎな
fJJだいひ苧殻ふきだて木を苧殻のごJ-め
-さき結び兼ねて貰-也kJあれIもこれは疑ほしい
アサギ
苧鹿茸なるものは越前で雁
木
yJいって単著の屋根の棟に用ひてゐる草茸の
J椛であるから板屋で
ない板屋の方は昔は長さ
一間幅
1尺もあ-厚
二寸飴もある種板を用ひたらし
いのほtかの西行物
語糖鯨や
1遠敷給の東屋を見て了解し得らるゝがそれも時勢の下るにつれてこの樽枚の材は
長さも漸次短が-幅も厚さも-す-なって凍死故に守月慢稀には板の長三尺許隔五寸yJ記したけ
れども後捻=記の著者は長二尺ばか-桁三すぼか-厚五六卦だ記してゐる蓋し古の種板を短か
ーLI同時に柾目に従ってそいで絹-uarrるや-になった
ので近世には漸次
二
二分群の厚さにな
ら長も
】尺証寸幅五寸位からやがて戊
一尺二寸
1ヾ栃ま-捕-三寸にな
ってきたか~る潤い収
を
へぎ板ごいひこれを脚知かにふ-の牢
こけらぶき又はた
~きゃね三
芳
で竹の釘でぅちつけ
kf 九 十 三 第
紐卯亡茸 柿 軒 店 の 唄 文 克
るのであった附脚三十九
は京雀にのつてゐる京都教
十八開伏見の石をのせた板
屋放Jは趣がちがってゐて
家と家との冊に卯組があ-
(切要の発参照)枚は枚の雁
振-がのせてあって屋根は
こけらふきであるらしい
近世風俗志に
『たゝき屋根』とは長尺ば
か-なる杉のそぎ板の粕
なる窒
亮
共に屋根板といふ次茄にかさね木釘を以て打を
いふ些簡単によりでた~きゃね
だいふ予の少年の質は
へぎ坂詰ビいへえ
江戸にてはこけらふ
n)いへ-
旦
横
板
耽
ニ会
六
七
地
球
第六食
第四戟
党
内
六八
だあるのがこれである蓋しかゝる
1尺内外のへぎ枚を用ふ空
言
は現今瓦葺の下地に晋だ同
じ
クレブ車
ドmブや
く用ゐるので着い人はこの罫方を樺
茸
だいふが現在望見都では上に土を屠-から
土居
茸
ども叉
は
モクセヤネどもいふてゐる金-克下であるから飴程粗末ではあるがもし充をのせないで茶
室の庇などへぎ板のみで茅-際にはこれを柿葺だいって板も上等にする葺脚も絹-つめるので
ある併し克下のモクセヤネである壊食には上等で長さ九寸幅は三寸内外厚さは
】寸の厚奴の
枚を十三枚におろしたものを用ゐる維新以前は長さ
1尺二寸もあつたが今日は九寸が八寸にな
-それを
寸脚にかさねる安普請になるだ日本の杉板でな-ていやに御薗凝りやうに臭
い米杉
を用ゐしかも四五寸のふき脚にして骨釘を用ひないで織釘にする織だ三
二年目に腐
ってし
まふ竹ならば二十年間大女央
ださ-なが今日の借屋建はそれよ-もま
だ不親切で柾目の
へぎ板
の代-に丸太杉の例-板を用ひるこれをヅキ板だいふpどにか-督座
だけ持てばよいだいふ意妹
でもたせ屋根だいふらしい涜拳の世であるご恩ふTこれは京都の京や某氏の荘帯である
ヘギ
完をのせないで東夷な
片
木
枕の屋根は欝にこの古の摺茸よ-進歩したものであってそれは江戸
時代の中頃から都祁共に溌和し今日に及んでゐるっ
予の生れた丹波の山奥では紳敵J酒屋の屈服
がこの
へぎ板
ぶきである
『京都府愛宕郡大原村字魚山の三千院はこの入母屋鼠暦こけらぶきであ
って碑成算の代-をL+してゐるし二尚如曜長岡郡西豊永村鼻燕寺の璽師堂島根煤能義郡字数井村清
水寺本質鳥取螺西伯郡大山村大山寺阿弼陀堂涼都南紺寺の金地院常都府丹後久美観音神谷の
木戚桝苛本数て
南島疎石城郡内郷村山H水の阿締陀蛍なY時雄にしての柿茸は甚だ多い0枚に3枚屋な
るものは日本民家の育い形式であって英一分布は贋いからー北越地方触W有のm粥常横式であるかけざ考
へてほならぬたゞ其現存す
るこJによって基地の文化成は富の程度がまだ克茸になる鰹進
辞して
ゐないだいふことを知る
べ
きである即ちその古
い屋根が其地に永府してゐる頗因の中には或はlt
文的の事情もあ-或は歴史的の理由もあるであら-がまJして経済地馳上の理由によるこ空は疑
ひを要しないこEである偶令ば
末北秋田煉等に横座の多いのは苑にするビ普通の瓦は冬期凍て破れる或は雪が多
いから雪づ
れがする故に充が用ひられねなど
ゝの説明をき-那それよ-も土地に多い材木が贋-自ら材料
が避雷な竺
fiqふこJが最も有力な原因であら-0
l杉皮葺と竹屋根
何れにしてもE本の屋根のあらゆる押頬が近畿に殆んI網雁されてゐるのは注意す
べきことで
丹波の山奥で杉林の多い所ては杉皮茸だいふものが瓦音よりも多-用ひられる茸脚は二三寸
の短
かさにして非常に分厚にしたのがあるしかし其簡単なものは過去の板葺の枚を皮にか
へたに過
ぎ
ないのもあるこれなでも糧槽地理上の
7現象だ見るべきであら-枚屋に相似せるものだしてこ
ゝに附託する
つぎに板葺に類似したもので杉皮ぶきよ-も面白いのは竹の尾根である近畿では竹の名産地たる
葛野LJ訓遮り民家で其の小屋便所
UJ塀に竹棒銀があったがそれは過去のこ官で今日は殆んrw見
常ら伯それでも不思熊に京都市田中町それは最妃造田倉であって農科大串の裏手の田中紳政
見卜楓
柚
祝
二九品
六九
義
義
嘉毒
嘉呈
Jk
あ
cent傍らに今も昔を位ぶ茅
葺の民寮が-兼嘗4-なしてゐ各席が1蔓
その]民婁
暮春離日貞縫
庄屋格で要人大和棟の茅屋を有Ltその
円がこの竹屋枚を有し
てね尋先日もこの宅
急
てこ
e
竹屋枚の円は何時こしら
へたか亡珊-I圭ltが云ふに今年七
十Jiした轟文盲
へ英
鶴蘭むしも
ぬ
僚空
白からのものである私の豪も古い寮で多-の桂が見らる~gbナtyノ
言
丁
でそれに枚
が
見 積 廿
PI 農 牧 町 中 田 市 徽 貫
はつであるしかもこの曲った杜は草
本が月ひであるこ
写
しの鶏Aだビ集内して-れられたいかにも青い反義
であるがこの田中封最古亡も息はれる集
の円がkt簾
田十の如-竹を牝牡交互に重ねて長さ五凡ばか+鞠雷
凍れ轟-にしてある竹の含めは釘を用ゐてゐもが膏の
竹島枚は釘を用ひないで縄でしぼったものである
民家を各部竹でふ-のは今日では生せし
て九州竹林の
多き蝿にのみ舞ってゐる現象で瀬本棟阿蘇称宮地町粁
鑑では竹の些
一面
寸もあるのJI申分に掛って節をぬき
長
さ1間稗にJrbる英
一嶋に切込をり-つて充棟の未を鶏
すや-にしかける奥行四脚の家ならば前面二段攻撃
1度のしころぶきにし
て塵楓になる竹
は牝牡交互に仰伏せしめd農牧の東嶺には沖
へ繰Aつけて島根集からこれむし
ばものである義
-鼻ればTよJlt事雷のや~な雷斬れ島根にな一O
でも-O蜜寧Jの徽-少ぐなってAC=OE圭
)
地
球
第六各
界四親
元
a
るものにして持せ叉木なでしておさへた-また遼ならべたるもみ甲
うす板を釘して打っけたるはみねで
どぢぶ
きyJて長二尺ばか-厚五六分ばか-幅三寸斗の板
もてふ-こ
とはいつのよよか出水し知らす
AJ記してゐるこの文で舌代の板屋の有様も明にな-
l遍盈絢の給にある板毎の上に木や石ののせ
てある理由も諒解されるこの趣拾頃
の板屋が延聾には柿ぶきにかはるのであるが柿葺になるど
それは-す横を釘束
叉は竹)にて-ちつけたのである(後節塵照)o薯に江月も亦最初は破屋草食の
町であったので慶長見聞集には
鬼Lは昔江戸は簡単ぶきにで焼亡しけじ慶長六年の霜月二日の大火の後に本町二丁目の瀧
山野功兵衛なるものが術掲筋の片側の屋根に瓦を上げてそれで有名になって等充弼次兵衛ビて町
中に噴博されたこだが記してあ-零発将前には
家屋は城代の居館にもこけら茅のものな-日発そぎ甲州をぎを似てJ-ぶきにし墓所は畳
-茅茸な-家鹿の初めて入城せる亡きは幅の贋き放牧を二段に重ねて玄関の版数に代
へた-
なtFJゝあっていかにも初代質素の晋がしのばれる厳有院殿御質記には高給三年命だて
先に命せしめし如-茅藁の家はその便宜に従ひ城鱗の土を取って速にぬるべし遅綬するこどなか
れ芭ある位
だから二R塞保守的な家宅が早速に改まらないこだがよ-わかる皆時の江Laは草
芽のある外にこらに記されただ-ぶき叉は露茸の屋根がある同時に恐ら-破屋もあったであら-
細り畠
稿に
武士
のー轟は檎鹿茸一ぞつ-らすJP横尾也
とあ
るtgf倉年中行事にも蓮侍は線で椴屋也とあるこの板屋から穿化したものが江戸草創の世に
は鹿茸亡いふ屋根にな-それが又三菱して中古以卒は瓦葺となったのである守月浸稀に
満都の克葺どなたるは中古以裸のこミ
骨茸集を見るに京都の店は板大略長三尺肝塙五寸の
そぎ板を似て葺たるが屋上に石を音たるは鼻息の傭也
l
義 新 書 京 島 債 の 切 欠 JE
嵐
義
嶋
枕
ビあるこの文tJ後捻日記
の文亡を併せ考
へる時は昔
は青酸長い警
以て屋根に
したこてを知
やがては
板を類か-し縞を狭-Lt
舟を薄-したので鹿茸屋楓
といふものになったことが
わかる
守月のこの時代に求は長三
尺もあるからそぎ粧ミ
ズ
へども薄-もなかった責
にこれは鶏虫の横島から
鹿茸に移Aかは-の屋根で
六五
地
頭
節六各
界四戟
二九二
六六
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(西紀
ハ六五)に櫓この種の板屋が素郡にもあったので藻雀の闇にはrふし見』のこ
の屋根かしろし大仰八まん町政にも同機の屋根がしるしてある種聾五年(南紀
ハ七五)菱川師
宣Sかいた江戸堀の水代島八幡宮の間にも学者の外に同様の屋根をみうける
西鶴織留伏見里貿商人の備にも
取罫屋根め輪のひ-きを作零して克ふきに白かべ京格子をつけゝればだある
的芽即屋根板を粛ね命せてふき横木をわたし釘のかはらに石にて印
へるために或は瓶を設け
るP輪だは竹で石のころばね用意であるが輪にしないで縦横に木叉は竹を遭-こどもあるこの
例は現在でも北越地方の民家町家に多-見らる~所であるO現今樽連で音
への板葺の名残だ見るべ
きは静岡潰於玄敢軸酢の屋根でそれはこの幅SLひろい樽板が並べふいてある但し石はのってゐな
い栃水腫背嚢郡電子町高館山西明寺の建物の中で赫姪の三重の塔は方二面
の大さで屋枚は
婁板葺であるこの両者の如きは着
い板屋の極上韓のものであら-或啓には日光そぎ甲州そぎな
fJJだいひ苧殻ふきだて木を苧殻のごJ-め
-さき結び兼ねて貰-也kJあれIもこれは疑ほしい
アサギ
苧鹿茸なるものは越前で雁
木
yJいって単著の屋根の棟に用ひてゐる草茸の
J椛であるから板屋で
ない板屋の方は昔は長さ
一間幅
1尺もあ-厚
二寸飴もある種板を用ひたらし
いのほtかの西行物
語糖鯨や
1遠敷給の東屋を見て了解し得らるゝがそれも時勢の下るにつれてこの樽枚の材は
長さも漸次短が-幅も厚さも-す-なって凍死故に守月慢稀には板の長三尺許隔五寸yJ記したけ
れども後捻=記の著者は長二尺ばか-桁三すぼか-厚五六卦だ記してゐる蓋し古の種板を短か
ーLI同時に柾目に従ってそいで絹-uarrるや-になった
ので近世には漸次
二
二分群の厚さにな
ら長も
】尺証寸幅五寸位からやがて戊
一尺二寸
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こけらぶき又はた
~きゃね三
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紐卯亡茸 柿 軒 店 の 唄 文 克
るのであった附脚三十九
は京雀にのつてゐる京都教
十八開伏見の石をのせた板
屋放Jは趣がちがってゐて
家と家との冊に卯組があ-
(切要の発参照)枚は枚の雁
振-がのせてあって屋根は
こけらふきであるらしい
近世風俗志に
『たゝき屋根』とは長尺ば
か-なる杉のそぎ板の粕
なる窒
亮
共に屋根板といふ次茄にかさね木釘を以て打を
いふ些簡単によりでた~きゃね
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へぎ坂詰ビいへえ
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旦
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ニ会
六
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球
第六食
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党
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六八
だあるのがこれである蓋しかゝる
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言
は現今瓦葺の下地に晋だ同
じ
クレブ車
ドmブや
く用ゐるので着い人はこの罫方を樺
茸
だいふが現在望見都では上に土を屠-から
土居
茸
ども叉
は
モクセヤネどもいふてゐる金-克下であるから飴程粗末ではあるがもし充をのせないで茶
室の庇などへぎ板のみで茅-際にはこれを柿葺だいって板も上等にする葺脚も絹-つめるので
ある併し克下のモクセヤネである壊食には上等で長さ九寸幅は三寸内外厚さは
】寸の厚奴の
枚を十三枚におろしたものを用ゐる維新以前は長さ
1尺二寸もあつたが今日は九寸が八寸にな
-それを
寸脚にかさねる安普請になるだ日本の杉板でな-ていやに御薗凝りやうに臭
い米杉
を用ゐしかも四五寸のふき脚にして骨釘を用ひないで織釘にする織だ三
二年目に腐
ってし
まふ竹ならば二十年間大女央
ださ-なが今日の借屋建はそれよ-もま
だ不親切で柾目の
へぎ板
の代-に丸太杉の例-板を用ひるこれをヅキ板だいふpどにか-督座
だけ持てばよいだいふ意妹
でもたせ屋根だいふらしい涜拳の世であるご恩ふTこれは京都の京や某氏の荘帯である
ヘギ
完をのせないで東夷な
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木
枕の屋根は欝にこの古の摺茸よ-進歩したものであってそれは江戸
時代の中頃から都祁共に溌和し今日に及んでゐるっ
予の生れた丹波の山奥では紳敵J酒屋の屈服
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へぎ板
ぶきである
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水寺本質鳥取螺西伯郡大山村大山寺阿弼陀堂涼都南紺寺の金地院常都府丹後久美観音神谷の
木戚桝苛本数て
南島疎石城郡内郷村山H水の阿締陀蛍なY時雄にしての柿茸は甚だ多い0枚に3枚屋な
るものは日本民家の育い形式であって英一分布は贋いからー北越地方触W有のm粥常横式であるかけざ考
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るこJによって基地の文化成は富の程度がまだ克茸になる鰹進
辞して
ゐないだいふことを知る
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きである即ちその古
い屋根が其地に永府してゐる頗因の中には或はlt
文的の事情もあ-或は歴史的の理由もあるであら-がまJして経済地馳上の理由によるこ空は疑
ひを要しないこEである偶令ば
末北秋田煉等に横座の多いのは苑にするビ普通の瓦は冬期凍て破れる或は雪が多
いから雪づ
れがする故に充が用ひられねなど
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何れにしてもE本の屋根のあらゆる押頬が近畿に殆んI網雁されてゐるのは注意す
べきことで
丹波の山奥で杉林の多い所ては杉皮茸だいふものが瓦音よりも多-用ひられる茸脚は二三寸
の短
かさにして非常に分厚にしたのがあるしかし其簡単なものは過去の板葺の枚を皮にか
へたに過
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ないのもあるこれなでも糧槽地理上の
7現象だ見るべきであら-枚屋に相似せるものだしてこ
ゝに附託する
つぎに板葺に類似したもので杉皮ぶきよ-も面白いのは竹の尾根である近畿では竹の名産地たる
葛野LJ訓遮り民家で其の小屋便所
UJ塀に竹棒銀があったがそれは過去のこ官で今日は殆んrw見
常ら伯それでも不思熊に京都市田中町それは最妃造田倉であって農科大串の裏手の田中紳政
見卜楓
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祝
二九品
六九
義
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嘉毒
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あ
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庄屋格で要人大和棟の茅屋を有Ltその
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白からのものである私の豪も古い寮で多-の桂が見らる~gbナtyノ
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はつであるしかもこの曲った杜は草
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写
しの鶏Aだビ集内して-れられたいかにも青い反義
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の円がkt簾
田十の如-竹を牝牡交互に重ねて長さ五凡ばか+鞠雷
凍れ轟-にしてある竹の含めは釘を用ゐてゐもが膏の
竹島枚は釘を用ひないで縄でしぼったものである
民家を各部竹でふ-のは今日では生せし
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多き蝿にのみ舞ってゐる現象で瀬本棟阿蘇称宮地町粁
鑑では竹の些
一面
寸もあるのJI申分に掛って節をぬき
長
さ1間稗にJrbる英
一嶋に切込をり-つて充棟の未を鶏
すや-にしかける奥行四脚の家ならば前面二段攻撃
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は牝牡交互に仰伏せしめd農牧の東嶺には沖
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ばものである義
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武士
のー轟は檎鹿茸一ぞつ-らすJP横尾也
とあ
るtgf倉年中行事にも蓮侍は線で椴屋也とあるこの板屋から穿化したものが江戸草創の世に
は鹿茸亡いふ屋根にな-それが又三菱して中古以卒は瓦葺となったのである守月浸稀に
満都の克葺どなたるは中古以裸のこミ
骨茸集を見るに京都の店は板大略長三尺肝塙五寸の
そぎ板を似て葺たるが屋上に石を音たるは鼻息の傭也
l
義 新 書 京 島 債 の 切 欠 JE
嵐
義
嶋
枕
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の文亡を併せ考
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尺もあるからそぎ粧ミ
ズ
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六五
地
頭
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界四戟
二九二
六六
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(西紀
ハ六五)に櫓この種の板屋が素郡にもあったので藻雀の闇にはrふし見』のこ
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ハ七五)菱川師
宣Sかいた江戸堀の水代島八幡宮の間にも学者の外に同様の屋根をみうける
西鶴織留伏見里貿商人の備にも
取罫屋根め輪のひ-きを作零して克ふきに白かべ京格子をつけゝればだある
的芽即屋根板を粛ね命せてふき横木をわたし釘のかはらに石にて印
へるために或は瓶を設け
るP輪だは竹で石のころばね用意であるが輪にしないで縦横に木叉は竹を遭-こどもあるこの
例は現在でも北越地方の民家町家に多-見らる~所であるO現今樽連で音
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きは静岡潰於玄敢軸酢の屋根でそれはこの幅SLひろい樽板が並べふいてある但し石はのってゐな
い栃水腫背嚢郡電子町高館山西明寺の建物の中で赫姪の三重の塔は方二面
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婁板葺であるこの両者の如きは着
い板屋の極上韓のものであら-或啓には日光そぎ甲州そぎな
fJJだいひ苧殻ふきだて木を苧殻のごJ-め
-さき結び兼ねて貰-也kJあれIもこれは疑ほしい
アサギ
苧鹿茸なるものは越前で雁
木
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J椛であるから板屋で
ない板屋の方は昔は長さ
一間幅
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二寸飴もある種板を用ひたらし
いのほtかの西行物
語糖鯨や
1遠敷給の東屋を見て了解し得らるゝがそれも時勢の下るにつれてこの樽枚の材は
長さも漸次短が-幅も厚さも-す-なって凍死故に守月慢稀には板の長三尺許隔五寸yJ記したけ
れども後捻=記の著者は長二尺ばか-桁三すぼか-厚五六卦だ記してゐる蓋し古の種板を短か
ーLI同時に柾目に従ってそいで絹-uarrるや-になった
ので近世には漸次
二
二分群の厚さにな
ら長も
】尺証寸幅五寸位からやがて戊
一尺二寸
1ヾ栃ま-捕-三寸にな
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を
へぎ板ごいひこれを脚知かにふ-の牢
こけらぶき又はた
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紐卯亡茸 柿 軒 店 の 唄 文 克
るのであった附脚三十九
は京雀にのつてゐる京都教
十八開伏見の石をのせた板
屋放Jは趣がちがってゐて
家と家との冊に卯組があ-
(切要の発参照)枚は枚の雁
振-がのせてあって屋根は
こけらふきであるらしい
近世風俗志に
『たゝき屋根』とは長尺ば
か-なる杉のそぎ板の粕
なる窒
亮
共に屋根板といふ次茄にかさね木釘を以て打を
いふ些簡単によりでた~きゃね
だいふ予の少年の質は
へぎ坂詰ビいへえ
江戸にてはこけらふ
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旦
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六
七
地
球
第六食
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六八
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言
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じ
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く用ゐるので着い人はこの罫方を樺
茸
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土居
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は
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室の庇などへぎ板のみで茅-際にはこれを柿葺だいって板も上等にする葺脚も絹-つめるので
ある併し克下のモクセヤネである壊食には上等で長さ九寸幅は三寸内外厚さは
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1尺二寸もあつたが今日は九寸が八寸にな
-それを
寸脚にかさねる安普請になるだ日本の杉板でな-ていやに御薗凝りやうに臭
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二年目に腐
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まふ竹ならば二十年間大女央
ださ-なが今日の借屋建はそれよ-もま
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へぎ板
の代-に丸太杉の例-板を用ひるこれをヅキ板だいふpどにか-督座
だけ持てばよいだいふ意妹
でもたせ屋根だいふらしい涜拳の世であるご恩ふTこれは京都の京や某氏の荘帯である
ヘギ
完をのせないで東夷な
片
木
枕の屋根は欝にこの古の摺茸よ-進歩したものであってそれは江戸
時代の中頃から都祁共に溌和し今日に及んでゐるっ
予の生れた丹波の山奥では紳敵J酒屋の屈服
がこの
へぎ板
ぶきである
『京都府愛宕郡大原村字魚山の三千院はこの入母屋鼠暦こけらぶきであ
って碑成算の代-をL+してゐるし二尚如曜長岡郡西豊永村鼻燕寺の璽師堂島根煤能義郡字数井村清
水寺本質鳥取螺西伯郡大山村大山寺阿弼陀堂涼都南紺寺の金地院常都府丹後久美観音神谷の
木戚桝苛本数て
南島疎石城郡内郷村山H水の阿締陀蛍なY時雄にしての柿茸は甚だ多い0枚に3枚屋な
るものは日本民家の育い形式であって英一分布は贋いからー北越地方触W有のm粥常横式であるかけざ考
へてほならぬたゞ其現存す
るこJによって基地の文化成は富の程度がまだ克茸になる鰹進
辞して
ゐないだいふことを知る
べ
きである即ちその古
い屋根が其地に永府してゐる頗因の中には或はlt
文的の事情もあ-或は歴史的の理由もあるであら-がまJして経済地馳上の理由によるこ空は疑
ひを要しないこEである偶令ば
末北秋田煉等に横座の多いのは苑にするビ普通の瓦は冬期凍て破れる或は雪が多
いから雪づ
れがする故に充が用ひられねなど
ゝの説明をき-那それよ-も土地に多い材木が贋-自ら材料
が避雷な竺
fiqふこJが最も有力な原因であら-0
l杉皮葺と竹屋根
何れにしてもE本の屋根のあらゆる押頬が近畿に殆んI網雁されてゐるのは注意す
べきことで
丹波の山奥で杉林の多い所ては杉皮茸だいふものが瓦音よりも多-用ひられる茸脚は二三寸
の短
かさにして非常に分厚にしたのがあるしかし其簡単なものは過去の板葺の枚を皮にか
へたに過
ぎ
ないのもあるこれなでも糧槽地理上の
7現象だ見るべきであら-枚屋に相似せるものだしてこ
ゝに附託する
つぎに板葺に類似したもので杉皮ぶきよ-も面白いのは竹の尾根である近畿では竹の名産地たる
葛野LJ訓遮り民家で其の小屋便所
UJ塀に竹棒銀があったがそれは過去のこ官で今日は殆んrw見
常ら伯それでも不思熊に京都市田中町それは最妃造田倉であって農科大串の裏手の田中紳政
見卜楓
柚
祝
二九品
六九
義
義
嘉毒
嘉呈
Jk
あ
cent傍らに今も昔を位ぶ茅
葺の民寮が-兼嘗4-なしてゐ各席が1蔓
その]民婁
暮春離日貞縫
庄屋格で要人大和棟の茅屋を有Ltその
円がこの竹屋枚を有し
てね尋先日もこの宅
急
てこ
e
竹屋枚の円は何時こしら
へたか亡珊-I圭ltが云ふに今年七
十Jiした轟文盲
へ英
鶴蘭むしも
ぬ
僚空
白からのものである私の豪も古い寮で多-の桂が見らる~gbナtyノ
言
丁
でそれに枚
が
見 積 廿
PI 農 牧 町 中 田 市 徽 貫
はつであるしかもこの曲った杜は草
本が月ひであるこ
写
しの鶏Aだビ集内して-れられたいかにも青い反義
であるがこの田中封最古亡も息はれる集
の円がkt簾
田十の如-竹を牝牡交互に重ねて長さ五凡ばか+鞠雷
凍れ轟-にしてある竹の含めは釘を用ゐてゐもが膏の
竹島枚は釘を用ひないで縄でしぼったものである
民家を各部竹でふ-のは今日では生せし
て九州竹林の
多き蝿にのみ舞ってゐる現象で瀬本棟阿蘇称宮地町粁
鑑では竹の些
一面
寸もあるのJI申分に掛って節をぬき
長
さ1間稗にJrbる英
一嶋に切込をり-つて充棟の未を鶏
すや-にしかける奥行四脚の家ならば前面二段攻撃
1度のしころぶきにし
て塵楓になる竹
は牝牡交互に仰伏せしめd農牧の東嶺には沖
へ繰Aつけて島根集からこれむし
ばものである義
-鼻ればTよJlt事雷のや~な雷斬れ島根にな一O
でも-O蜜寧Jの徽-少ぐなってAC=OE圭
)
地
頭
節六各
界四戟
二九二
六六
ある覚文頃
(西紀
ハ六五)に櫓この種の板屋が素郡にもあったので藻雀の闇にはrふし見』のこ
の屋根かしろし大仰八まん町政にも同機の屋根がしるしてある種聾五年(南紀
ハ七五)菱川師
宣Sかいた江戸堀の水代島八幡宮の間にも学者の外に同様の屋根をみうける
西鶴織留伏見里貿商人の備にも
取罫屋根め輪のひ-きを作零して克ふきに白かべ京格子をつけゝればだある
的芽即屋根板を粛ね命せてふき横木をわたし釘のかはらに石にて印
へるために或は瓶を設け
るP輪だは竹で石のころばね用意であるが輪にしないで縦横に木叉は竹を遭-こどもあるこの
例は現在でも北越地方の民家町家に多-見らる~所であるO現今樽連で音
への板葺の名残だ見るべ
きは静岡潰於玄敢軸酢の屋根でそれはこの幅SLひろい樽板が並べふいてある但し石はのってゐな
い栃水腫背嚢郡電子町高館山西明寺の建物の中で赫姪の三重の塔は方二面
の大さで屋枚は
婁板葺であるこの両者の如きは着
い板屋の極上韓のものであら-或啓には日光そぎ甲州そぎな
fJJだいひ苧殻ふきだて木を苧殻のごJ-め
-さき結び兼ねて貰-也kJあれIもこれは疑ほしい
アサギ
苧鹿茸なるものは越前で雁
木
yJいって単著の屋根の棟に用ひてゐる草茸の
J椛であるから板屋で
ない板屋の方は昔は長さ
一間幅
1尺もあ-厚
二寸飴もある種板を用ひたらし
いのほtかの西行物
語糖鯨や
1遠敷給の東屋を見て了解し得らるゝがそれも時勢の下るにつれてこの樽枚の材は
長さも漸次短が-幅も厚さも-す-なって凍死故に守月慢稀には板の長三尺許隔五寸yJ記したけ
れども後捻=記の著者は長二尺ばか-桁三すぼか-厚五六卦だ記してゐる蓋し古の種板を短か
ーLI同時に柾目に従ってそいで絹-uarrるや-になった
ので近世には漸次
二
二分群の厚さにな
ら長も
】尺証寸幅五寸位からやがて戊
一尺二寸
1ヾ栃ま-捕-三寸にな
ってきたか~る潤い収
を
へぎ板ごいひこれを脚知かにふ-の牢
こけらぶき又はた
~きゃね三
芳
で竹の釘でぅちつけ
kf 九 十 三 第
紐卯亡茸 柿 軒 店 の 唄 文 克
るのであった附脚三十九
は京雀にのつてゐる京都教
十八開伏見の石をのせた板
屋放Jは趣がちがってゐて
家と家との冊に卯組があ-
(切要の発参照)枚は枚の雁
振-がのせてあって屋根は
こけらふきであるらしい
近世風俗志に
『たゝき屋根』とは長尺ば
か-なる杉のそぎ板の粕
なる窒
亮
共に屋根板といふ次茄にかさね木釘を以て打を
いふ些簡単によりでた~きゃね
だいふ予の少年の質は
へぎ坂詰ビいへえ
江戸にてはこけらふ
n)いへ-
旦
横
板
耽
ニ会
六
七
地
球
第六食
第四戟
党
内
六八
だあるのがこれである蓋しかゝる
1尺内外のへぎ枚を用ふ空
言
は現今瓦葺の下地に晋だ同
じ
クレブ車
ドmブや
く用ゐるので着い人はこの罫方を樺
茸
だいふが現在望見都では上に土を屠-から
土居
茸
ども叉
は
モクセヤネどもいふてゐる金-克下であるから飴程粗末ではあるがもし充をのせないで茶
室の庇などへぎ板のみで茅-際にはこれを柿葺だいって板も上等にする葺脚も絹-つめるので
ある併し克下のモクセヤネである壊食には上等で長さ九寸幅は三寸内外厚さは
】寸の厚奴の
枚を十三枚におろしたものを用ゐる維新以前は長さ
1尺二寸もあつたが今日は九寸が八寸にな
-それを
寸脚にかさねる安普請になるだ日本の杉板でな-ていやに御薗凝りやうに臭
い米杉
を用ゐしかも四五寸のふき脚にして骨釘を用ひないで織釘にする織だ三
二年目に腐
ってし
まふ竹ならば二十年間大女央
ださ-なが今日の借屋建はそれよ-もま
だ不親切で柾目の
へぎ板
の代-に丸太杉の例-板を用ひるこれをヅキ板だいふpどにか-督座
だけ持てばよいだいふ意妹
でもたせ屋根だいふらしい涜拳の世であるご恩ふTこれは京都の京や某氏の荘帯である
ヘギ
完をのせないで東夷な
片
木
枕の屋根は欝にこの古の摺茸よ-進歩したものであってそれは江戸
時代の中頃から都祁共に溌和し今日に及んでゐるっ
予の生れた丹波の山奥では紳敵J酒屋の屈服
がこの
へぎ板
ぶきである
『京都府愛宕郡大原村字魚山の三千院はこの入母屋鼠暦こけらぶきであ
って碑成算の代-をL+してゐるし二尚如曜長岡郡西豊永村鼻燕寺の璽師堂島根煤能義郡字数井村清
水寺本質鳥取螺西伯郡大山村大山寺阿弼陀堂涼都南紺寺の金地院常都府丹後久美観音神谷の
木戚桝苛本数て
南島疎石城郡内郷村山H水の阿締陀蛍なY時雄にしての柿茸は甚だ多い0枚に3枚屋な
るものは日本民家の育い形式であって英一分布は贋いからー北越地方触W有のm粥常横式であるかけざ考
へてほならぬたゞ其現存す
るこJによって基地の文化成は富の程度がまだ克茸になる鰹進
辞して
ゐないだいふことを知る
べ
きである即ちその古
い屋根が其地に永府してゐる頗因の中には或はlt
文的の事情もあ-或は歴史的の理由もあるであら-がまJして経済地馳上の理由によるこ空は疑
ひを要しないこEである偶令ば
末北秋田煉等に横座の多いのは苑にするビ普通の瓦は冬期凍て破れる或は雪が多
いから雪づ
れがする故に充が用ひられねなど
ゝの説明をき-那それよ-も土地に多い材木が贋-自ら材料
が避雷な竺
fiqふこJが最も有力な原因であら-0
l杉皮葺と竹屋根
何れにしてもE本の屋根のあらゆる押頬が近畿に殆んI網雁されてゐるのは注意す
べきことで
丹波の山奥で杉林の多い所ては杉皮茸だいふものが瓦音よりも多-用ひられる茸脚は二三寸
の短
かさにして非常に分厚にしたのがあるしかし其簡単なものは過去の板葺の枚を皮にか
へたに過
ぎ
ないのもあるこれなでも糧槽地理上の
7現象だ見るべきであら-枚屋に相似せるものだしてこ
ゝに附託する
つぎに板葺に類似したもので杉皮ぶきよ-も面白いのは竹の尾根である近畿では竹の名産地たる
葛野LJ訓遮り民家で其の小屋便所
UJ塀に竹棒銀があったがそれは過去のこ官で今日は殆んrw見
常ら伯それでも不思熊に京都市田中町それは最妃造田倉であって農科大串の裏手の田中紳政
見卜楓
柚
祝
二九品
六九
義
義
嘉毒
嘉呈
Jk
あ
cent傍らに今も昔を位ぶ茅
葺の民寮が-兼嘗4-なしてゐ各席が1蔓
その]民婁
暮春離日貞縫
庄屋格で要人大和棟の茅屋を有Ltその
円がこの竹屋枚を有し
てね尋先日もこの宅
急
てこ
e
竹屋枚の円は何時こしら
へたか亡珊-I圭ltが云ふに今年七
十Jiした轟文盲
へ英
鶴蘭むしも
ぬ
僚空
白からのものである私の豪も古い寮で多-の桂が見らる~gbナtyノ
言
丁
でそれに枚
が
見 積 廿
PI 農 牧 町 中 田 市 徽 貫
はつであるしかもこの曲った杜は草
本が月ひであるこ
写
しの鶏Aだビ集内して-れられたいかにも青い反義
であるがこの田中封最古亡も息はれる集
の円がkt簾
田十の如-竹を牝牡交互に重ねて長さ五凡ばか+鞠雷
凍れ轟-にしてある竹の含めは釘を用ゐてゐもが膏の
竹島枚は釘を用ひないで縄でしぼったものである
民家を各部竹でふ-のは今日では生せし
て九州竹林の
多き蝿にのみ舞ってゐる現象で瀬本棟阿蘇称宮地町粁
鑑では竹の些
一面
寸もあるのJI申分に掛って節をぬき
長
さ1間稗にJrbる英
一嶋に切込をり-つて充棟の未を鶏
すや-にしかける奥行四脚の家ならば前面二段攻撃
1度のしころぶきにし
て塵楓になる竹
は牝牡交互に仰伏せしめd農牧の東嶺には沖
へ繰Aつけて島根集からこれむし
ばものである義
-鼻ればTよJlt事雷のや~な雷斬れ島根にな一O
でも-O蜜寧Jの徽-少ぐなってAC=OE圭
)
ーLI同時に柾目に従ってそいで絹-uarrるや-になった
ので近世には漸次
二
二分群の厚さにな
ら長も
】尺証寸幅五寸位からやがて戊
一尺二寸
1ヾ栃ま-捕-三寸にな
ってきたか~る潤い収
を
へぎ板ごいひこれを脚知かにふ-の牢
こけらぶき又はた
~きゃね三
芳
で竹の釘でぅちつけ
kf 九 十 三 第
紐卯亡茸 柿 軒 店 の 唄 文 克
るのであった附脚三十九
は京雀にのつてゐる京都教
十八開伏見の石をのせた板
屋放Jは趣がちがってゐて
家と家との冊に卯組があ-
(切要の発参照)枚は枚の雁
振-がのせてあって屋根は
こけらふきであるらしい
近世風俗志に
『たゝき屋根』とは長尺ば
か-なる杉のそぎ板の粕
なる窒
亮
共に屋根板といふ次茄にかさね木釘を以て打を
いふ些簡単によりでた~きゃね
だいふ予の少年の質は
へぎ坂詰ビいへえ
江戸にてはこけらふ
n)いへ-
旦
横
板
耽
ニ会
六
七
地
球
第六食
第四戟
党
内
六八
だあるのがこれである蓋しかゝる
1尺内外のへぎ枚を用ふ空
言
は現今瓦葺の下地に晋だ同
じ
クレブ車
ドmブや
く用ゐるので着い人はこの罫方を樺
茸
だいふが現在望見都では上に土を屠-から
土居
茸
ども叉
は
モクセヤネどもいふてゐる金-克下であるから飴程粗末ではあるがもし充をのせないで茶
室の庇などへぎ板のみで茅-際にはこれを柿葺だいって板も上等にする葺脚も絹-つめるので
ある併し克下のモクセヤネである壊食には上等で長さ九寸幅は三寸内外厚さは
】寸の厚奴の
枚を十三枚におろしたものを用ゐる維新以前は長さ
1尺二寸もあつたが今日は九寸が八寸にな
-それを
寸脚にかさねる安普請になるだ日本の杉板でな-ていやに御薗凝りやうに臭
い米杉
を用ゐしかも四五寸のふき脚にして骨釘を用ひないで織釘にする織だ三
二年目に腐
ってし
まふ竹ならば二十年間大女央
ださ-なが今日の借屋建はそれよ-もま
だ不親切で柾目の
へぎ板
の代-に丸太杉の例-板を用ひるこれをヅキ板だいふpどにか-督座
だけ持てばよいだいふ意妹
でもたせ屋根だいふらしい涜拳の世であるご恩ふTこれは京都の京や某氏の荘帯である
ヘギ
完をのせないで東夷な
片
木
枕の屋根は欝にこの古の摺茸よ-進歩したものであってそれは江戸
時代の中頃から都祁共に溌和し今日に及んでゐるっ
予の生れた丹波の山奥では紳敵J酒屋の屈服
がこの
へぎ板
ぶきである
『京都府愛宕郡大原村字魚山の三千院はこの入母屋鼠暦こけらぶきであ
って碑成算の代-をL+してゐるし二尚如曜長岡郡西豊永村鼻燕寺の璽師堂島根煤能義郡字数井村清
水寺本質鳥取螺西伯郡大山村大山寺阿弼陀堂涼都南紺寺の金地院常都府丹後久美観音神谷の
木戚桝苛本数て
南島疎石城郡内郷村山H水の阿締陀蛍なY時雄にしての柿茸は甚だ多い0枚に3枚屋な
るものは日本民家の育い形式であって英一分布は贋いからー北越地方触W有のm粥常横式であるかけざ考
へてほならぬたゞ其現存す
るこJによって基地の文化成は富の程度がまだ克茸になる鰹進
辞して
ゐないだいふことを知る
べ
きである即ちその古
い屋根が其地に永府してゐる頗因の中には或はlt
文的の事情もあ-或は歴史的の理由もあるであら-がまJして経済地馳上の理由によるこ空は疑
ひを要しないこEである偶令ば
末北秋田煉等に横座の多いのは苑にするビ普通の瓦は冬期凍て破れる或は雪が多
いから雪づ
れがする故に充が用ひられねなど
ゝの説明をき-那それよ-も土地に多い材木が贋-自ら材料
が避雷な竺
fiqふこJが最も有力な原因であら-0
l杉皮葺と竹屋根
何れにしてもE本の屋根のあらゆる押頬が近畿に殆んI網雁されてゐるのは注意す
べきことで
丹波の山奥で杉林の多い所ては杉皮茸だいふものが瓦音よりも多-用ひられる茸脚は二三寸
の短
かさにして非常に分厚にしたのがあるしかし其簡単なものは過去の板葺の枚を皮にか
へたに過
ぎ
ないのもあるこれなでも糧槽地理上の
7現象だ見るべきであら-枚屋に相似せるものだしてこ
ゝに附託する
つぎに板葺に類似したもので杉皮ぶきよ-も面白いのは竹の尾根である近畿では竹の名産地たる
葛野LJ訓遮り民家で其の小屋便所
UJ塀に竹棒銀があったがそれは過去のこ官で今日は殆んrw見
常ら伯それでも不思熊に京都市田中町それは最妃造田倉であって農科大串の裏手の田中紳政
見卜楓
柚
祝
二九品
六九
義
義
嘉毒
嘉呈
Jk
あ
cent傍らに今も昔を位ぶ茅
葺の民寮が-兼嘗4-なしてゐ各席が1蔓
その]民婁
暮春離日貞縫
庄屋格で要人大和棟の茅屋を有Ltその
円がこの竹屋枚を有し
てね尋先日もこの宅
急
てこ
e
竹屋枚の円は何時こしら
へたか亡珊-I圭ltが云ふに今年七
十Jiした轟文盲
へ英
鶴蘭むしも
ぬ
僚空
白からのものである私の豪も古い寮で多-の桂が見らる~gbナtyノ
言
丁
でそれに枚
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見 積 廿
PI 農 牧 町 中 田 市 徽 貫
はつであるしかもこの曲った杜は草
本が月ひであるこ
写
しの鶏Aだビ集内して-れられたいかにも青い反義
であるがこの田中封最古亡も息はれる集
の円がkt簾
田十の如-竹を牝牡交互に重ねて長さ五凡ばか+鞠雷
凍れ轟-にしてある竹の含めは釘を用ゐてゐもが膏の
竹島枚は釘を用ひないで縄でしぼったものである
民家を各部竹でふ-のは今日では生せし
て九州竹林の
多き蝿にのみ舞ってゐる現象で瀬本棟阿蘇称宮地町粁
鑑では竹の些
一面
寸もあるのJI申分に掛って節をぬき
長
さ1間稗にJrbる英
一嶋に切込をり-つて充棟の未を鶏
すや-にしかける奥行四脚の家ならば前面二段攻撃
1度のしころぶきにし
て塵楓になる竹
は牝牡交互に仰伏せしめd農牧の東嶺には沖
へ繰Aつけて島根集からこれむし
ばものである義
-鼻ればTよJlt事雷のや~な雷斬れ島根にな一O
でも-O蜜寧Jの徽-少ぐなってAC=OE圭
)
地
球
第六食
第四戟
党
内
六八
だあるのがこれである蓋しかゝる
1尺内外のへぎ枚を用ふ空
言
は現今瓦葺の下地に晋だ同
じ
クレブ車
ドmブや
く用ゐるので着い人はこの罫方を樺
茸
だいふが現在望見都では上に土を屠-から
土居
茸
ども叉
は
モクセヤネどもいふてゐる金-克下であるから飴程粗末ではあるがもし充をのせないで茶
室の庇などへぎ板のみで茅-際にはこれを柿葺だいって板も上等にする葺脚も絹-つめるので
ある併し克下のモクセヤネである壊食には上等で長さ九寸幅は三寸内外厚さは
】寸の厚奴の
枚を十三枚におろしたものを用ゐる維新以前は長さ
1尺二寸もあつたが今日は九寸が八寸にな
-それを
寸脚にかさねる安普請になるだ日本の杉板でな-ていやに御薗凝りやうに臭
い米杉
を用ゐしかも四五寸のふき脚にして骨釘を用ひないで織釘にする織だ三
二年目に腐
ってし
まふ竹ならば二十年間大女央
ださ-なが今日の借屋建はそれよ-もま
だ不親切で柾目の
へぎ板
の代-に丸太杉の例-板を用ひるこれをヅキ板だいふpどにか-督座
だけ持てばよいだいふ意妹
でもたせ屋根だいふらしい涜拳の世であるご恩ふTこれは京都の京や某氏の荘帯である
ヘギ
完をのせないで東夷な
片
木
枕の屋根は欝にこの古の摺茸よ-進歩したものであってそれは江戸
時代の中頃から都祁共に溌和し今日に及んでゐるっ
予の生れた丹波の山奥では紳敵J酒屋の屈服
がこの
へぎ板
ぶきである
『京都府愛宕郡大原村字魚山の三千院はこの入母屋鼠暦こけらぶきであ
って碑成算の代-をL+してゐるし二尚如曜長岡郡西豊永村鼻燕寺の璽師堂島根煤能義郡字数井村清
水寺本質鳥取螺西伯郡大山村大山寺阿弼陀堂涼都南紺寺の金地院常都府丹後久美観音神谷の
木戚桝苛本数て
南島疎石城郡内郷村山H水の阿締陀蛍なY時雄にしての柿茸は甚だ多い0枚に3枚屋な
るものは日本民家の育い形式であって英一分布は贋いからー北越地方触W有のm粥常横式であるかけざ考
へてほならぬたゞ其現存す
るこJによって基地の文化成は富の程度がまだ克茸になる鰹進
辞して
ゐないだいふことを知る
べ
きである即ちその古
い屋根が其地に永府してゐる頗因の中には或はlt
文的の事情もあ-或は歴史的の理由もあるであら-がまJして経済地馳上の理由によるこ空は疑
ひを要しないこEである偶令ば
末北秋田煉等に横座の多いのは苑にするビ普通の瓦は冬期凍て破れる或は雪が多
いから雪づ
れがする故に充が用ひられねなど
ゝの説明をき-那それよ-も土地に多い材木が贋-自ら材料
が避雷な竺
fiqふこJが最も有力な原因であら-0
l杉皮葺と竹屋根
何れにしてもE本の屋根のあらゆる押頬が近畿に殆んI網雁されてゐるのは注意す
べきことで
丹波の山奥で杉林の多い所ては杉皮茸だいふものが瓦音よりも多-用ひられる茸脚は二三寸
の短
かさにして非常に分厚にしたのがあるしかし其簡単なものは過去の板葺の枚を皮にか
へたに過
ぎ
ないのもあるこれなでも糧槽地理上の
7現象だ見るべきであら-枚屋に相似せるものだしてこ
ゝに附託する
つぎに板葺に類似したもので杉皮ぶきよ-も面白いのは竹の尾根である近畿では竹の名産地たる
葛野LJ訓遮り民家で其の小屋便所
UJ塀に竹棒銀があったがそれは過去のこ官で今日は殆んrw見
常ら伯それでも不思熊に京都市田中町それは最妃造田倉であって農科大串の裏手の田中紳政
見卜楓
柚
祝
二九品
六九
義
義
嘉毒
嘉呈
Jk
あ
cent傍らに今も昔を位ぶ茅
葺の民寮が-兼嘗4-なしてゐ各席が1蔓
その]民婁
暮春離日貞縫
庄屋格で要人大和棟の茅屋を有Ltその
円がこの竹屋枚を有し
てね尋先日もこの宅
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てこ
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竹屋枚の円は何時こしら
へたか亡珊-I圭ltが云ふに今年七
十Jiした轟文盲
へ英
鶴蘭むしも
ぬ
僚空
白からのものである私の豪も古い寮で多-の桂が見らる~gbナtyノ
言
丁
でそれに枚
が
見 積 廿
PI 農 牧 町 中 田 市 徽 貫
はつであるしかもこの曲った杜は草
本が月ひであるこ
写
しの鶏Aだビ集内して-れられたいかにも青い反義
であるがこの田中封最古亡も息はれる集
の円がkt簾
田十の如-竹を牝牡交互に重ねて長さ五凡ばか+鞠雷
凍れ轟-にしてある竹の含めは釘を用ゐてゐもが膏の
竹島枚は釘を用ひないで縄でしぼったものである
民家を各部竹でふ-のは今日では生せし
て九州竹林の
多き蝿にのみ舞ってゐる現象で瀬本棟阿蘇称宮地町粁
鑑では竹の些
一面
寸もあるのJI申分に掛って節をぬき
長
さ1間稗にJrbる英
一嶋に切込をり-つて充棟の未を鶏
すや-にしかける奥行四脚の家ならば前面二段攻撃
1度のしころぶきにし
て塵楓になる竹
は牝牡交互に仰伏せしめd農牧の東嶺には沖
へ繰Aつけて島根集からこれむし
ばものである義
-鼻ればTよJlt事雷のや~な雷斬れ島根にな一O
でも-O蜜寧Jの徽-少ぐなってAC=OE圭
)
るものは日本民家の育い形式であって英一分布は贋いからー北越地方触W有のm粥常横式であるかけざ考
へてほならぬたゞ其現存す
るこJによって基地の文化成は富の程度がまだ克茸になる鰹進
辞して
ゐないだいふことを知る
べ
きである即ちその古
い屋根が其地に永府してゐる頗因の中には或はlt
文的の事情もあ-或は歴史的の理由もあるであら-がまJして経済地馳上の理由によるこ空は疑
ひを要しないこEである偶令ば
末北秋田煉等に横座の多いのは苑にするビ普通の瓦は冬期凍て破れる或は雪が多
いから雪づ
れがする故に充が用ひられねなど
ゝの説明をき-那それよ-も土地に多い材木が贋-自ら材料
が避雷な竺
fiqふこJが最も有力な原因であら-0
l杉皮葺と竹屋根
何れにしてもE本の屋根のあらゆる押頬が近畿に殆んI網雁されてゐるのは注意す
べきことで
丹波の山奥で杉林の多い所ては杉皮茸だいふものが瓦音よりも多-用ひられる茸脚は二三寸
の短
かさにして非常に分厚にしたのがあるしかし其簡単なものは過去の板葺の枚を皮にか
へたに過
ぎ
ないのもあるこれなでも糧槽地理上の
7現象だ見るべきであら-枚屋に相似せるものだしてこ
ゝに附託する
つぎに板葺に類似したもので杉皮ぶきよ-も面白いのは竹の尾根である近畿では竹の名産地たる
葛野LJ訓遮り民家で其の小屋便所
UJ塀に竹棒銀があったがそれは過去のこ官で今日は殆んrw見
常ら伯それでも不思熊に京都市田中町それは最妃造田倉であって農科大串の裏手の田中紳政
見卜楓
柚
祝
二九品
六九
義
義
嘉毒
嘉呈
Jk
あ
cent傍らに今も昔を位ぶ茅
葺の民寮が-兼嘗4-なしてゐ各席が1蔓
その]民婁
暮春離日貞縫
庄屋格で要人大和棟の茅屋を有Ltその
円がこの竹屋枚を有し
てね尋先日もこの宅
急
てこ
e
竹屋枚の円は何時こしら
へたか亡珊-I圭ltが云ふに今年七
十Jiした轟文盲
へ英
鶴蘭むしも
ぬ
僚空
白からのものである私の豪も古い寮で多-の桂が見らる~gbナtyノ
言
丁
でそれに枚
が
見 積 廿
PI 農 牧 町 中 田 市 徽 貫
はつであるしかもこの曲った杜は草
本が月ひであるこ
写
しの鶏Aだビ集内して-れられたいかにも青い反義
であるがこの田中封最古亡も息はれる集
の円がkt簾
田十の如-竹を牝牡交互に重ねて長さ五凡ばか+鞠雷
凍れ轟-にしてある竹の含めは釘を用ゐてゐもが膏の
竹島枚は釘を用ひないで縄でしぼったものである
民家を各部竹でふ-のは今日では生せし
て九州竹林の
多き蝿にのみ舞ってゐる現象で瀬本棟阿蘇称宮地町粁
鑑では竹の些
一面
寸もあるのJI申分に掛って節をぬき
長
さ1間稗にJrbる英
一嶋に切込をり-つて充棟の未を鶏
すや-にしかける奥行四脚の家ならば前面二段攻撃
1度のしころぶきにし
て塵楓になる竹
は牝牡交互に仰伏せしめd農牧の東嶺には沖
へ繰Aつけて島根集からこれむし
ばものである義
-鼻ればTよJlt事雷のや~な雷斬れ島根にな一O
でも-O蜜寧Jの徽-少ぐなってAC=OE圭
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葺の民寮が-兼嘗4-なしてゐ各席が1蔓
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暮春離日貞縫
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円がこの竹屋枚を有し
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はつであるしかもこの曲った杜は草
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であるがこの田中封最古亡も息はれる集
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田十の如-竹を牝牡交互に重ねて長さ五凡ばか+鞠雷
凍れ轟-にしてある竹の含めは釘を用ゐてゐもが膏の
竹島枚は釘を用ひないで縄でしぼったものである
民家を各部竹でふ-のは今日では生せし
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多き蝿にのみ舞ってゐる現象で瀬本棟阿蘇称宮地町粁
鑑では竹の些
一面
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一嶋に切込をり-つて充棟の未を鶏
すや-にしかける奥行四脚の家ならば前面二段攻撃
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は牝牡交互に仰伏せしめd農牧の東嶺には沖
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でも-O蜜寧Jの徽-少ぐなってAC=OE圭
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