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2.はじまりは三本の苗木
今、皆さんが普段食べているりんごは
正式には「西洋りんご」と言います。
「西洋」とは外国という意味です。私たちが食べている
りんごのご先祖様は外国からやってきました。
西洋りんごのご先祖様が日本にやってきたのは、明治時代です。
江戸時代から明治時代に変わったとき、
日本の国を豊かにしようと、
国は外国から色んなものを取り入れました。
その中にはりんごをはじめとする果物の苗木もありました。
りんごの苗木は全国に配られ、
青森県にも明治8年3本の苗木が配られ、
青森県庁に植えられたのが始まりです。
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3.武士が作った青森りんご
ちょうどそのころ、
江戸時代に武士だった人たちが明治時代になり
仕事をなくしていました。
そこで、武士だった人たちに仕事を与えようということで、
その人たちを中心にりんご作りがはじまったのです。
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4.青森りんごの開祖
もちろん、全国各地でもりんご栽培は始まりました。
では、なぜ青森県がりんご産地として定着したのでしょう?
それには、「青森りんごの開祖」と言われる
一人の男の人の存在があります。
元武士で青森県庁の職員
菊池楯衛(きくちたてえ)さんです。
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「青森りんごの開祖」とは分かりやすく言うと
「青森りんごのお父さん」のような人です。
菊池さんは、青森県の気候が
りんごの栽培に適していることを確かめ、
りんごの栽培技術を広めました。
開祖かいそ
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5.病気や虫との闘い
そうした中、大問題が発生します。
人間も風邪をひいたり、病気になったりしますが、
そんな時は薬を飲んだりしてなおしますよね?
りんごも生き物ですから病気になったり
虫に葉っぱを食べられてしまったりします。
でも当時はりんご用の薬、農薬がありませんでした。
そのため、農家の人たちは虫を一匹一匹手でとったり、
枝を棒でたたいて虫を地面に落とし、
それを拾って処分してしたり、
りんごの木を一本一本洗ったりしていたんです。
それはもう気の遠くなるような作業ですから、
手間がかかるりんご栽培を他の県ではやめていきました。
でも、青森県ではりんごはやっぱり素晴らしい果物なんだ!
なんとかして作り続けたいと思っていました。
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6.青森りんごの神様
そんな青森りんごの大ピンチを救った人がいます。
のちに「青森りんごの神様」とも呼ばれた
外崎嘉七(とのさきかしち)さんです。
外崎さんはそれまでのりんご栽培になかった
新しいことにチャレンジしました。
外崎さんが広めたことは3つあります。
①虫からりんごの実を守るための袋かけ
袋かけは現在でもありますが、今は病害虫から実を守るほかに、
赤いキレイな色をつけるためや、長期保存ができる
りんごを作るために欠かせないものです。
②病気からりんごを守るための農薬の試験
この頃はまだ農家の人は農薬のことがよく分からず、
使おうとしませんでした。でも、そうしている間にも
りんごの木がどんどん弱っていきます。
そこで、外崎さんは自分の畑で実験しながら、
農薬が安全であること、病気や虫に効くことを確かめ、
農家の人に広めました。
③作業しやすい木の形
りんごの木は放っておくと
どれくらいの高さになると思いますか?
実は8メートルにもなります。
そこで、外崎さんは農家の人が作業しやすく、
またお日様が良くあたるように木の形を整える方法を
編み出しました。
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7.戦争からの復興
その後、明治
年から日本一のりんご生産県となった
青森県ですが、2回ほど日本一の座から落ちたことがあります。
それは、今から
年ほど前、第二次世界大戦という
大きな戦争があった後です。
戦争が終わった時、りんご畑は荒れ放題で、
戦争前のようにたくさんのりんごをとることが
できませんでした。
農家もりんごを作る意欲を失いかけていた時、
先頭になって立ち上がった人がいました。
澁川傅次郎(しぶかわでんじろう)さんです。
澁川さんは「青森県りんご協会」という
りんご農家の集団を作り、りんご栽培の学校や勉強会など、
りんごを作る「人づくり」に力を注ぎました。
そうした努力が実り、青森県のりんごは見事に復活。
昭和
年以降生産量日本一の座を守り続けています。
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8.山川市場(やまかわしじょう)
昭和に入ってからも青森りんごには数々の苦難がありました。
昭和
年、バナナなどの甘い果物の輸入が増えたり、
食べる人の好みが変わったりして、
当時青森県で多く作られていた「国光」「紅玉」という
りんごが売れなくなってしまったのです。
市場に出しても売れないりんごは行き場を失い、
泣く泣く農家の人たちは山や川にりんごを捨てました。
これが「山川市場」と後に呼ばれている出来事です。
でも、こんな悲しい出来事にも
青森県のりんご農家は負けませんでした。
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9.青森りんごのエース「ふじ」
青森県では、この辛い経験からより食べる人の好みに合った
りんごを作ることに一層の努力をし、
その結果皆さんも良く知っている「ふじ」が
多く作られるようになったのです。
ふじは、昭和
年青森県の藤崎町で誕生した品種です。
名前の由来は、藤崎町の「ふじ」からつけたとか、
富士山のように日本一の品種に成長してほしいと願ってつけた
とも言われています。
その願いのとおり甘くて、果汁が多く美味しい「ふじ」は、
今に至るまで青森りんごの不動のエースです。
現在、青森県で作られているりんごの半分以上が
「ふじ」なんですよ。
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10.台風
号
平成に入ってからの一番の危機は平成3年に
青森県を直撃した台風
号、別名「りんご台風」の被害です。
台風が来たのは9月
日。
月に収穫する「ふじ」をはじめ、
たくさんのりんごが木になったままでした。
猛烈な風はりんごの枝を激しくゆらし、
りんごは次々と地面に落とされました。
その量は三十八万八千トン。丸裸になった木の下に
赤いじゅうたんのように敷き詰められたりんごを見た時、
多くの農家は絶望しました。
でも、そんな青森りんごのピンチを救ってくれたのが
全国の青森りんごファンの方々からの励ましでした。
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11.青森りんごの次世代エース
全国の青森りんごファンに美味しいりんごを届けるため、
青森県では今も新しい品種が誕生しています。
その中でも、黄色いりんごの
次世代のエースと言われているのが「トキ」という品種です。
両親が「王林」と「ふじ」というりんご界のサラブレットです。
ここ数年生産量が増えていますので、
皆さんもスーパーなどで目にする機会もあるかと思います。
スーパーに並ぶ時期は
月~
月くらいです。
今までりんごと言えば赤というイメージが
強かったかもしれませんが、
今青森県ではこの「トキ」をはじめとする
黄色いりんごを大々的に売り出し中です。
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12.世界が認めた青森りんご
今から百四十年ほど前、たった3本の苗木からはじまった
青森りんごは今、台湾や香港など海外でも
売られるようになりました。
大きくて色や形もよく、美味しい青森りんごは海外でも大人気。
特に台湾では「青森りんご」という言葉が
一つのブランドになっているくらい品質の高さが
評価されています。
これからも、青森県では皆さんに安心して
美味しく食べてもらえるりんごを作るため、
一生懸命りんご作りに励みます。
たくさんの人の愛情がいっぱい詰まった青森りんご、
これからもたくさん食べてくださいね。
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1.青森りんごの歴史
青森県は日本一のりんご生産量をほこるりんご王国です。
しかし、ここまで至る道のりにはたくさんの困難がありました。
そのたびに、たくさんの人の努力で乗り越えてきたのです。
今日は、なぜ青森県が今のようなりんご王国になれたのか、
青森りんごの歴史を勉強してみましょう!